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1 ﹃弁 証 法 的 理 性 批 判 ﹄ の 行 為 論 的 再 構 成 1 1 と 丁 為 里 論 の 意 義 と 課 題
大梶俊夫
サ ル トル 行 為理 論 の意義 と課 題
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はじめに
r現代社会は︑ますますその抑圧的性格を強めており︑そ
こからの主体的個人の解放こそ︑現代における根本的かつ
最重要な課題であるといえよう︒
現代社会学がこうした現実の課題を充分に担っていると
はいいがたいが︑今日では︑人間を操作と管理対象として
しか把握しない︑構造機能主義的な社会学からの転回が徐
々に行なわれようとしている︒﹁ラディカル・ソシオロジ︑
1﹂や﹁クリティカル・ソシオロジi﹂といった︑アメリ転力を中心とした新しい社会学理論の展開は︑多様な要素を
含みながらも︑T・パーソンズ的な﹁社会体系﹂論に対す
る批判という点では共通している︒また現象学的社会学の 興隆にも︑同じような批判的意味が込められているであろ
うし︑いわゆるG・H・ミードの復活もこうした背景なし
には考えられまい︒つまり︑抑圧的な﹁管理社会﹂化傾向
のなかで︑主体としての人間についての危機感から︑単に
人間を﹁社会体系﹂の機能要件としてしかみない社会理論
に対する批判である︒
こうした新たな﹁社会批判﹂の方向を︑宮島喬は﹁社会
的統合への機能性や効率性という価値前提からみずからを
解放し︑生きた具体的人間の欲望や行為の意味と論理のト
ータルな把握にもとついて︑社会理論のなかでの人間主体
ユ の復権をめざす方向﹂と規定しているが︑適切な指摘であ
るといえよう︒われわれがめざすのも︑こうした︑既成の
社会理論に対する﹁人間主体の復権をめざす方向﹂での徹
〆
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底した批判であるとともに︑より積極的には︑主体として
の人間が社会形成していく側面︑さらに社会変革していく
過程の理論化にほかならない︒個々の主体の行為・実践が
いかにして︑事実としての一つひとつの客観的制度なり組
織を形成していくのか︑その過程こそ理論化されねぽなら
ない︒しかも︑これは︑当然のことながら︑人間主体が社.
会の中で形成されざるをえないという側面ともトータルに
リソクしていなければならない︒そのためには︑この両側
面を統一的に捉える弁証法的視座に立つことが必要になろ
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故に︑われわれが志向するような︑社会過程における人
間主体の能動性の理論化は︑弁証法的視座での﹁行為的ア
プローチ﹂において可能になるといえよう︒いわゆる﹁行
為的アプローチ﹂こそ︑行為理論を基礎にしつつ︑人間の
主体性︑能動性を重視し︑社会を動的な過程として把握し・
ようとする方法にほかならないからである︒われわれが当
面めざすべき理論を﹁弁証法的行為理論﹂と呼ぶ理由はこ
こにあるのである︒・
本論は︑以上のような問題意識のもとで︑J・P・サル
トルの﹃弁証法的理性批判﹄(以下﹃批判﹄と省略する)
を行為論的に再構成し︑そこに﹁弁証法的行為理論﹂の可
能性を探ろうとするものである︒しかし︑本来の課題に入 るまえに︑﹃批判﹄でのサルトル自身の問題意識と意図を
明確にし︑なぜ﹃批判﹄を行為理論として︑読み込むこと
が可能なのかを示しておきたいと思う︒それによって︑わ
れわれがサルトルの行為理論と呼ぶものの概容が理解され
るであろう︒
周知のとおり︑︑・﹃批判﹄でのサルトルは︑マルグス主義
を﹁のりこえ不可能な﹂哲学として捉えている︒それに比
べれば実存主義は︑﹁マルクス主義自体の内部に在る︑い
わば一種の飛び地﹂であり﹁知の余白に生れた寄生的な体
ヨ 系﹂であるにすぎない︒しかし︑史的唯物論が唯一の価値
ある歴史解釈であるにもかかわらず︑現実のマルクス主義
はその内部から人間を排除してしまったが故に︑﹁生きた
発見学﹂であることをやめてしまっている︒その端的な例
がエソゲルスの﹁自然弁証法﹂である︒サルトルはこうし
た︑ア・プリオリな自然法則としてしか提示されない弁証
法を﹁独断的弁証法﹂と呼び︑それは一切の主観性を否定
し︑客観性のみしか認めないが故に︑ひとつの観念論であ
るとしている︒‑
故に﹃批判﹄でのサルトルの課題は︑エソゲルスの﹃自
然弁証法﹂に代表されるような︑独断的な﹁外からの弁証
法的唯物証﹂を批判し︑マルクス主義を人間学的に基礎づ
けることにほかならない︒そのためにサルトルは︑弁証法
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塾順
サ ル トル行 為 理 論 の意 義 と課題
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の源泉を人間の実践の構造の中に求め︑歴史的な弁証法も
諸個人の行為によって織りなされることを示そうとしてい
る︒
こうした︑﹃批判﹄でのサルトルの理論作業は︑1・ク
ライブもいうように︑単にマルクス主義の哲学的基礎づけ
であるばかりでなく︑社会科学の基礎理論でもあることは
(4)明らかである︒しかもサルトルがあくまでも︑現実の諸個
人の行為の中に︑弁証法の可知性を基礎づけようとしてい
ることは︑社会の全体認識を行為によって基礎づけようと
する﹁行為的アプローチ﹂に立ち︑社会科学基礎理論とし
て︑行為理論を打立てようとしていることにほ︑かならな
い︒つまり︑﹃批判﹄はサルトル自身の意図とは別に︑ひ
とつの社会学理論︑就中︑行為理論の展開になっているの
である︒
こうした基本的視点に立って︑﹃批判﹄でのサルトルの
方法論︑行為概念︑相互行為論等を析出し︑これを﹁サル
トル行為理論﹂として再編成しようとしたのが本論の意図
である︒
以上のように︑﹃批判﹄を社会科学基礎理論としての行
為理論の展開として把握するならば︑そこには当然のこと
ながら︑M・ウェーバーとの比較が検討されねばならな
魅︒さらにいえば︑﹁サルトルにおける﹃マルクス/ウェ
ー パ ー 問 題 ﹄ ﹂ と い っ た こ と が ひ と つ の 論 点 に な り う る だ ろ
う ︒ 事 実 ︑ た と え ば 前 出 の ー ・ ク ラ イ ブ は ︑ サ ル ト ル を 現
存 の 社 会 学 的 ア プ ロ ー チ の ひ と つ に あ て は め る こ と は で き
な い と し な が ら も ︑ ﹁ あ り の ま ま の ︑ 予 備 的 な ﹃ 位 置 づ
け ﹄ と し て は ︑ 非 常 に 複 雑 な ウ ェ ー バ ー 的 立 場 を 展 開 し て
い る ﹂ と し て サ ル ト ル を 把 握 し て い る ︒ し か も ク ラ イ ブ
は ︑ そ の ﹁ ウ ェ ー バ ー 的 立 場 ﹂ に ﹁ マ ル ク ス 主 義 的 な 構 造
分 析 の た め の 支 柱 と し て 使 わ れ う る よ う な ﹂ と い う 説 明 を
加えている︒
サルトルとウェーバーとの問には︑弁証法に対する評価・
など︑多くの異なる点もあるので︑一概に︑両者を等しい
立場であると考えることはもちろんできないにしても︑
﹃批判﹄での問題意識と方法に即して捉える限り︑そこに
は︑共通のものもあるといえよう︒故に本論でも可能な限
り︑両者の比較を行うことにする︒さらに︑現代社会学に
は︑ウェーバーの行為理論を基礎に︑種々︑批判する点は
あるにしても︑それを﹁社会体系﹂の全体認識へと接合し
た︑T・パーソソズの業績が存在することを忘れることは
できない︒吃故にパーソソズ的な﹁社会学的機能主義﹂とサルトルの理論との比較も︑重要な課題のひとつである︒
注(1)宮島喬﹁現代社会と人間主体の構造﹂﹃思想﹄岩波書店 ,
〆
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一九七四︑第一〇号︑一四六頁︒
( 2 ) ω ︒ 葺 ︒ し ・ 頴 巳 讐 〇 二 梓 蒼 ㊦ 血 巴 蝉 暴 博 の 8 u 芭 Φ ︒ け 蒼 p サ
HρO巴一一日母鼻男母一9H⑩αo(以下O.即U●と略記)(平井啓
之訳﹃方法の問題﹄︑六頁︑人文書院︑一九六二)
(3)ρ幻.U・サH︒︒﹃方法の問題﹄一七頁四
( 4 ) 9 き " 討 p 穿 聾 ︒ 鉱 ・ 嵩 ω ヨ 四 巳 ω 8 § £ ざ b ω ε 身 ︒ h
匂①m昌唱〇三ω鎚霞ρb.Q︒噂〇四ヨ耳置αqo口巳く葭︒︒一蔓勺村o︒︒︒・矯署o奢
瑠霞Fδ蕊.︑(5)憲鼻bレド
二行為的アプローチの方法
﹁われわれの基本的視座が確認しえたので︑まず︑サルトルの﹁行為的アプローチ﹂の方法的特徴について把握して
いきたい︒具体的な視点としては︑方法論的個人主義との
関連︑全体性と全体化との相違︑の二つの視点から検討す
ることによって︑サルトルの﹁行為的アプローチ﹂の方法
的独自性と意義が明確になるであろう︒
社会学における方法的立場として︑方法論的個人主義と
方法論的社会主義(方法論的全体論)の二つがあり︑現在
においてもなお厳しく対立していることは周知のとおりで
ある︒しかも︑この対立は社会学だけの問題ではなく︑歴
史的には中世の唯名論と実在論との哲学論争に淵源をもつ
ものであることも︑広く知られているとおりである︒社会
学においては︑この論争は﹁社会唯名論﹂と﹁社会実在 論﹂との対立となって︑ウェーバLとデュルケームとをそ
れぞれ軸として展開されてきている︒この問題の解決の困
難さは︑両者ともに︑人間と社会との関係の一側面を正当
に捉えていることによるのであって︑両者を止揚しうる包
括的な視点の提出のみが︑問題の解決になるであろう︒
さて︑サルトルの方法的立場に関しては︑一方で方法論
(1)的個人主義との把握がある反面︑他方では︑彼の中に両者
(2)の対立を越えた︑より包括的な視点をみる見解もある︒
こうした異なった評価は︑ひとつは当然サルトルをめぐ
る解釈の問題であるが︑もうひとつには︑方法論的個人主
義についての把握の違いにも因っていると思われる︒故に
方法論的個人主義の意味内容を確定した上で︑サルトル自
身の位置づけを考えたいと思う︒
ヨ 佐藤勉によれば︑方法論的個人主義とは︑﹁社会を構成
しているのは個人の行為である﹂という命題につきるもの
ではない︒彼はこの命題を﹁存在論的個人主義﹂と呼び︑
これは方法論的個人主義の基本的前提ではあるが︑これだ
けでは︑方法論的個人主義の方法的性格は内容的に特定化
されない︑としている︒佐藤は︑方法論的個人主義の内容
を特定化するのは︑一切の社会現象は個人の行為によって
説明できるしハまたしなければならないとする﹁行動的還
元主義﹂だという︒・
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