はじめに
一.近代日台女性の社会上での「定位」
1. 「良妻賢母」から「新しい女」へ 2.台湾総督府の女子教育と「新女性」
二.戦中・戦後の日台女性
1.台湾での「斉家興国」から「斉家報国」へ 2.日本での「専業主婦」の登場
三.
70年代以後の日台女性
おわりに
はじめに
女性の社会進出に関する指標として,国連が作成したジェンダー・エンパワーメント(GEM)指数 というものがある。これはその国の国会議員,管理職,専門職などに占める女性の比率,および女性 一人当たりの
GDP
の対男性比などから算出したものである。2002年度の総合指数で,台湾は世界第20位であるのに対し,日本は第39位であった
1)。台湾では2000年3月の政権交代時に女性の副総統が誕生し,女性の地位が一気に高まった。さらに2012年の台湾総統選挙に出馬予定の野党民進党の党首 も女性であり2),台湾初の女性総統の誕生も夢ではなくなっている。補1)
しかし,もともと1895年に日本が台湾を領有した当時,ごく一部を除いて台湾女性の中で教育を受 けた者はほとんどいなかった3)。良家の女性は纏足をし,歩くことさえ困難なありさまであった。「近 代文明」「女性教育」を台湾にもたらしたのは,まぎれもなく日本の植民地政府だったのである。それ が1945年の敗戦で日本が台湾を放棄した後,日台両地の女性はそれぞれ別個の道を歩むことになり,
今や
GEM
指数の上では逆転した状態にある。かつて台湾女性の手本とされた日本女性が,台湾女性 に追い越されたのはなぜなのか。両地の女性運動を歴史的にたどりつつ,その問題を考察してみたい。比較文化の視点から見た近現代の日台女性
王 霜 媚
神戸女子大学文学部紀要 45巻 79-98 2012
一.近代日台女性の社会上での「定位」
1. 「良妻賢母」から「新しい女」へ
日本の近代化の過程中,女性はいったいどのような社会的位置に置かれていたのか。小山静子氏の 研究によれば,明治初期の近代文明の黎明期にあっては,女性の家庭での教育機能が真っ先に重視さ れ,子供への教育が「母」の重要な役割の一つと見なされたという4)。母親が賢明でなければ,この 役割は当然務まらない。そこからまず,母親を「賢母」に教育する必要性が出てくる。しかし「賢母」
の恩恵はせいぜい一家の範囲内に留まるため,女子教育も小学校程度の知識を与えれば,それで充分 だと考えられていた。
やがて日清戦争後には国家主義が高揚し,「母」だけではなく,女性としての「妻」の役割も重要視 され始めた。このため,女性に対してより高いレベルの教育を提供することが必要となり,「高等女学 校令」が1899年(明治32年)に公布された。つまり女性を「良妻賢母」に仕立てることが,女子教育 の理念となったのである。女性に舅と姑への親孝行だけを求めて,「嫁」としての立場を重視した江戸 時代と比べれば,「妻」と「母」の責任を課す明治時代の「良妻賢母」思想は,確かに近代文明の産物 だと考えることができよう。
しかしまた「良妻賢母」という教育理念から見れば,近代国家の女性に対する位置付けは,彼女た ちを「間接的」な国民としてしかとらえていなかったことをも示している。女性に期待するのは彼女 たちが直接的に国家・社会に貢献するのではなく,夫に対する奉仕と子供の教育を通して,間接的に 貢献することにある5)。なるほど女性からすれば,「良妻賢母」思想によってより高い教育を受ける機 会は得られたかもしれないが,男女の性別によって社会的役割を決められることに対し,不満と疑問 を感じる者が現れても決して不思議ではない。
1911年(明治44年),女性解放運動家の平塚らいてうは青鞜社を立ち上げ,雑誌『青鞜』の創刊の辞 で「元始,女性は実に太陽であった」と宣言し,女性の権利を主張して家制度を批判した6)。2年後 の1913年(大正2年)には,らいてうのような反「良妻賢母」の言論は取り締まられるようになるが
7),それでも女性たちの主張は結果として社会に反省を促す契機となった。1922年には,女性教育の 専門家下田次郎の訂正再版『女子新修身書』の中で,家政に影響しない限り家庭と職業は決して両立 できないことではないとし,女性が職業を持つことに対し初めて肯定的な見方が示された8)。 女性の主張が,一部であっても日本社会に認められたのは,当時の国内外の情勢とも関係していた。
「民主」と「自由」を求める世界の潮流の影響を受けて,大正デモクラシーの風潮が高まるなか,第一 次世界大戦中の欧米女性の活動ぶりや,戦後の女性参政権獲得運動の様子がその都度日本に伝えられ た。これらの情報は日本の軍部や文部省の注意を惹き,社会にも多大な影響を与えたことは知られて いる通りである。日本での「良妻賢母」教育の下で育った日本女性は,西洋女性のような積極性と活 動能力が欠如していることを自覚し,女子教育も変わらねばならないと広く認識するようになる。
それまで職業に就く女性は「職業婦人」と呼ばれ,その言葉には幾分蔑視的な意味合いが含まれて いた。しかし大正時代になると,「職業婦人」に対する見方は変わってくる。依然として「良妻賢母」
の原則は堅持されていたものの,結婚前に働いたり,あるいは結婚後に「内職」をすることが奨励さ
れるようになる。結婚前の就業は女性の新しいライフ・スタイルと見なされ,職業婦人の数と女性の 職種も格段に増加した9)。この時代になると,国家は女性を「間接的」な国民として捉えるのではな く,社会で仕事をし,直接的に社会に貢献できる国民として認めるようになった。
大正時代,平塚らいてう等の「新しい女」10)の活動は,「良妻賢母」教育に反対するだけに止まら ず,結社・請願などを通して,社会上・政治上での男性と平等な地位を求める運動も展開した。1919 年に設立した「新婦人協会」は,貴族院・衆議院両院に迫って「治安警察法五条修正案」を採択させ,
女性が自由に集会を行なう権利を獲得した。またそれ以外に,女性参政権を求めて次々と女性団体も 結成され,やがてそれらが大同団結して,1924年には「婦人参政権獲得期成同盟会」11)が組織され,
女性の政治的社会的地位は以前に比べて着実に向上した。
2.台湾総督府の女子教育と「新女性」
日本の女性解放運動がめまぐるしい展開を見せる中,植民地台湾での女性の地位はどのようなもの であったのだろうか。
日本が台湾を領有する1895年より以前,台湾の中・上流階級家庭の女性の間には,一般に纏足をす る習慣があった。「女子無才便是徳(女性は才がないのが徳である)」12)という考えの下で,台湾女性 はほとんど学問と無縁であった。植民地政府である台湾総督府の最初の政策方針は,後藤新平の主張 するいわゆる「生物学の原則」が採用された。それは「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」
という後藤の言葉に象徴されるように,台湾の旧慣に対して急速な変更を行わないというものであっ た13)。
また,台湾在住の日本人と台湾人に対しては分離政策をとり,教育面もこの原則に沿って行なわれ た。台湾総督府は統治の当初,台湾人に日本語を覚えさせる必要があるため,1896年(明治29年)に 台湾各地に14カ所の「国語伝習所」を設立し,そこで台湾の人々に日本語を教えることにした。やが て1898年(明治31年)に総督府は「台湾公学校令」を公布し,「国語伝習所」を台湾人の初等教育機関 である公学校に転用した。その一方で,日本人学童に対しては「台湾総督府小学校官制
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を公表し,小学校で学習させることとした14)。日台学童の教育は,異なる教育体系のもとで行われたのである。
公学校は原則として女子の入学も許可されていた。だが纏足をしている台湾の女子は,歩くことさ えままならないのに,学校へ行くなど全く論外のことであった。それゆえ総督府の女子教育の最初の 仕事は,「纏足を解く」ことから始めねばならなかった。ここに台湾各地の士紳(Chinese gentry)階 級の協力を得て,台湾人自ら「纏足を解く」運動が1900年(明治33年)から開始される。彼らは纏足 の様々な弊害を訴え,最終的には1915年(大正4年)に行政の末端にある保甲制の連座法を利用して,
纏足の習慣を根絶することに成功した15)。宗主国の日本では「新しい女」が「性・恋・参政」を激し く論議している中,1910年代の台湾女性は,いまだ「纏足を解く」段階に止まっていたというのが実 状であった。
本来植民地の経営は,投入する「コスト」に見合うだけの効果を求めるものである。それゆえ台湾 人に対する教育は初等教育を重視し,それ以上の教育にはほとんど投資することがなかった16)。台湾
の初等教育機構である公学校では,実学と道徳教育の教授以外,国語教育を通した「日本精神」の涵 養が,積極的に推進された17)。実学の教授は労働力の素質を高めるため,道徳教育は社会秩序の維持,
「日本精神」の涵養は植民地を維持する上で欠かせないものである。
だが,そのような効果を期待できる公学校の費用ですら,その多くは地方経費で賄われていた18)。 中等以上の教育は総督府にとってはコストが高いだけで,必要な緊急的な業務ではなかった。公学校 を卒業した後,留学以外に教育を受ける機会がない台湾の子弟のため,1915年に台湾の士紳林献堂
(1881~1956)らが台中中学校を設立したのもそのためである。男子教育でもこのありさまだったのだ から,女子教育の情況は推して知るべしであろう。
植民地教育に転機が訪れたのは,1918年(大正8年)に平民宰相原敬が登場した時であった。1919 年には「台湾教育令」19)が公布され,台湾の教育体系が明文化された。また,その年の三月一日に朝 鮮半島で起こった「三・一運動」は,日本政府に「武断政治」による植民地経営が限界に来たことを 感じさせるに十分な事件であった。台湾では陸軍軍人の明石元二郎総督の退任を機に,初めて文官総 督が派遣されることになった裏には,以上のような政治的・社会的状況の変化があった。
1919年に台湾に赴任した文官総督田健治郎(1919~1923在職)は軍人総督と違い,任期中に極力同 化政策を推進した20)。台湾での施政方針は「一視同仁」「内地延長主義」であり21),1922年に公布され た「第二次台湾教育令」は,いままでの日台分離の教育体系を廃止し,内外同一の制度に変更するも のであった。この教育令の公布後,日本の国内制度(初等教育は除外)に倣って22),台湾各地に次々 と中学校,高等女学校,職業学校,七年制高等学校,医学専門学校などが設立された23)。これは教育 面での「一視同仁」政策の具体的措置と言うことができる。それ以外に地方制度の改革を行なって,
州,市,街,庄の官選協議会を創設し,総督府にも評議会を設置した他,日本本土の法律を台湾に適 用して「治安警察法」を実施し,「台湾人官吏特別任用令」を公布したことなどは「内地延長主義」の 方針とも見て取れる24)。
同化政策を実施して以後,「第二次台湾教育令」に基づき,1928年には台湾最初の大学「台北帝国大 学」が設立され,台湾の人々にも高等教育を受ける機会がもたらされた。支配者側と支配される側の 台湾民衆との緊張関係は,これらの「同化政策」によって幾分緩和されたことは間違いない。民衆の 武力抵抗運動は1915年の「西来庵事件」を最後として,それ以後ほとんど発生していない25)。それに 代わって「近代文明教育」を受けた有識者らによる「台湾議会設置請願運動」が1920年から始まった。
それは文官総督の統治下ならば,武力ではなく政治運動によって台湾の情況を改善できるのではない かとする,台湾有識者の判断に基づく行動の変更ではなかったかと推察される。
1920年代に入ったこの時期は,ちょうど纏足を解いた世代が成年を迎え,台湾社会でもようやく女 性解放運動が現実味を帯びだした時期に当たっていた。纏足を解いた世代の中で「近代文明」の教育 を受けた女性は,日本の「新しい女」に倣って当時「新女性」と呼ばれ,家庭の外に出て社会活動を 行なうこともできた26)。ただし,日台両地の女性の社会活動の内容は,決して同じとはいえなかった。
日本の「新しい女」と比べれば,台湾の「新女性」の教育水準は高いとは言えず,また絶対数も少な かったからである。
なるほど纏足を解いた台湾女性は,第二次台湾教育令が公布された後,中等教育を受ける機会は獲 得することができた。だが学校に入ると少なからぬ費用がかかるため,入学可能な女子は経済的に豊 かで,思想的にも開明的な家庭に限られている。さらに,たとえ就学しても様々な原因により,中途 で退学を余儀なくされる女性も当然存在する。いわゆる「新女性」と呼ばれる女性は,当時の台湾女 性の中では微々たる数でしかなかったのである。
それでも新女性を生んだ背景には,植民地統治者側の打算と台湾人の家族戦略があったと考えられ る。台湾民衆の中に支持基盤を持たない植民地統治者にとり,統治を維持するには台湾で影響力を持 つ在地の士紳階級を取り込む必要がある27)。また台湾人の方でも,頻繁に入れ替わる統治者の支配下 にあって,一族の生存と繁栄を保障するためには,統治者側と一定の関係を築くことが重要であった。
統治者側の言葉と文化を学ぶことは,お互いの意思疎通の上でも必須であり,さらに子女に日本教育 を受けさせることは,一族の滅亡というリスクを避けるための戦略でもあった。
加えて,そこには台湾伝統の婚姻の習慣も関係していた。士紳階級の婚姻は,「門当戸対(家柄がつ り合っていること)」が重んじられた28)。「近代文明」の教育を受けた台湾男性は,その配偶者を選ぶ 時,「近代文明」を受けているかどうかを基準とすることが多い29)。女子の「学歴」は縁組みの力強い 条件となったのである。同時に一般の家庭でも近代文明による各種の知識(衛生・栄養などに関する 知識)・技能(家計管理の能力)は家庭生活を改善する上で大いに役立つものと理解された30)。 1919年に始まる同化政策以後,1922年には第二次台湾教育令が施行され,台湾女性は「日台共学」
の下で内地と同じような教育を受けることになった。植民地政府も台湾女性に対し,内地と同様の良 妻賢母教育を施した。その目的は,当時盛んに唱えられた「斉家興国(家を斉え国を興すこと)」にあ る。もちろん,ここでいう「興国」の「国」は日本国を意味する。だが植民地の台湾人にとり,「国」
に対する認知は非常にあいまいなものであった。つまり台湾人にとっての「国」とは宗主国の「日本」
なのか,それとも祖国の「中国」なのか,あるいは等身大の「台湾」を指すのか,必ずしも一定して いなかったからである。
台湾の輿論も女子教育を論じる際に「国」の観念を曖昧にしたまま,女性が「近代文明の教育」を 受けることで家庭に利益をもたらすことを強調しただけであった。つまり植民地政府は「斉家興国」
のために「良妻賢母」を育成しようとしたが,植民地の台湾でクローズ・アップされたのは「斉家」
だけであり,「興国」の方は後景に退けられたというのが実状に近かった31)。
日本の「新しい女」と台湾の「新女性」を比較すれば,「新しい女」は国家の政策あるいは女子教育 の中で,性別によって女性の役割を決めることに反対するものであった。つまり「母」と「妻」の役 割によって,女性の生き方を決めることに反対したのである。それはまた,「自我の自由」という女性 の権利を主張する女権運動だと言い換えてもよい。
一方,植民地台湾の「新女性」は,日本の「新しい女」ほどには自由に活動することが許されなかっ た。先述したように,もともと彼女たちが「近代文明」の教育を受けられたのは,植民地統治者が彼 女たちを「興国」の手段と考え投資したことと,一族が彼女たちの「斉家」の能力に期待したためで あった。つまり彼女たちには「斉家興国」の期待が背負わされていたのである。それゆえ,彼女たち
が種々の社会の不合理な現象や矛盾を見て改革しようとしても,なかなか自由な活動を行うことがで きなかったのも当然である。植民地台湾の宿命と家庭での儒家倫理は,最初から彼女たちの行動を制 限していたといえる。
植民地政府は台湾女性が政府側に近い女性団体「愛国婦人会」(台湾支部),「処女会」(後の「女子 青年団」),「主婦会」のような女性団体への参加は奨励するが,女性が自発的に組織した「彰化婦女共 励会」「諸羅婦女協進会」のような組織に対しては厳しく管理統制した32)。統治者側が女性の就学・社 会活動を奨励するのは植民地政策の一環としてであり,女性に期待するのは,いつでも動員できる労 働資源としてのそれであった。逆に体制を揺るがし,あるいは混乱させるような女性の自覚,平等を 求める運動などは当然歓迎されなかったのである。
台湾の「新女性」は家では「娘」「妻」「奥さん」という身分を持っていた。学校で学んだ近代文明 の知識を家政の運営に活用すること,「愛国婦人会」に参加してそこから何らかの利益を家族にもたら したり,また夫君を助けて「夫人外交」を展開したりすることは,家族に最も喜ばれることであった。
だが,社会で様々な活動を行ない,過度にその姿を露出することは,一族全体の利益に合わないとし て,最初から制限されていた。
二.戦中・戦後の日台女性
1.台湾での「斉家興国」から「斉家報国」へ
上述したような同化政策の下で,台湾女性も教育を受ける機会ができたが,中等教育を受けた女性,
いわゆる新女性はわずか一部だけであった。加えて,彼女たちの活動の範囲と方向も社会では植民地 政府に規制され,家では伝統的な儒家倫理に縛られて,自由に行動することはなかなか困難であった。
一方,新女性以外の一般家庭の台湾女性が,「近代文明」の教育に接するようになるのは新女性のそ れより少し遅れて,日中関係が悪化し出す30年代になってからである。1937年の盧溝橋事件で日中両 国が全面戦争に突入すると,台湾植民地政府は台湾人に反日感情を持たせないように,統治方針を根 本から見直し一つの政策を実施する。それは台湾人を中国人ではなく,皇国の民である皇民にするた めに,徹底的に日本人として鍛え直すことであった。中国本土での戦争の進展と戦域の拡大に比例す るかのように,台湾での皇民化政策も急ピッチで推進された。
1937年には公学校規則が改正され,公学校の漢文科や新聞の漢文欄も廃止された。新聞・雑誌・公 共の場などのメディアから,漢文の姿が一斉に消え去った。それだけではない。母語である台湾語の 公の場での使用も禁止され,それ以外にも次々と「国語(日本語)家庭」「改姓名」「日台通婚」など の政策が打ち出され,その実施が奨励された33)。
これらの皇民化政策は日本側にとり,期待するほどの成果は収められなかったようである34)。ただ し,皇民化運動の一環としての教育改革は,1941年(昭和16年)に小学校と公学校の区別をなくして すべてを国民学校とし35),1943(昭和18年)に初等教育を義務化したことで,台湾の女子教育を大い に発展させることになった。もともと男子よりもかなり低かった女子入学率が,就学学齢女子児童の
6割までに上昇したのもそのためである
36)。1945年に日本が敗戦した当時,台湾での日本語会話可能人口は総人口の7割を占めるまでに至っていた37)。
この間,戦争中の1938(昭和13年)の「国家総動員法」の下で,台湾の女性も「国民」として動員 された。また日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大していく中で,台湾の男性も軍属・軍人として 徴召され,多くの者が戦争の犠牲となった。その数は20万人以上,戦死者はその約15%に相当すると いわれる38)。これらの男性に代わって女性も家庭から駆り出され,労働力として台湾社会を支えるよ うになった。植民地統治の50年間,台湾女性は植民地政策の被害者であったが,他方で「纏足を解く」
ことができ,「近代文明」と接触し,家庭から社会への道が開かれたという側面の存在したことも見逃 してはならない。
以上のような台湾女性の置かれた境遇の変化と新女性の登場が,戦後の女性運動の下地となったと ひとまず言えるだろう。1945年8月15日,日本は敗戦を迎え,台湾を放棄するが,やがて国民政府が
1949年12月に台湾に遷移する前の1946年5月16日,台湾の新女性たちは謝娥
39)をリーダーとして「省婦女会」を組織した。「省婦女会」は個人を会員とし,郷・鎮に基盤を置く台湾全省にまたがる女性組 織である。初期の活動は「廃除公娼和争取参政権(公娼の廃止と参政権の獲得)」を中心としていた が,当時の中国大陸はちょうど国民党政権が孫中山の三民主義に基づく「憲政」の開始をめざしてい る折でもあり,憲法制定のための国会を召集したり,地方自治を推し進めようとしている最中であっ た。
1946年11月,省婦女会理事長の謝娥は憲法制定のための国民代表に選ばれ40),また1948年には林慎 とともに第一期の台湾地区の立法委員にも当選した41)。植民地時代に育った多くの新女性たちが,地 方あるいは省レベルでの選挙に次々と当選した。例えば,楊金宝・李緞は省参議会の第一期参議員 に42),許士賢は省臨時議会議員・省議会議員に当選した43)。時あたかも,1947年に中国本土で中華民 国の憲法が公布され,その第七条に「中華民国の国民は,男性,女性,宗教,人種,階級,党派を問 わず,法律上,一律に平等である(中華民国国民,無分男女,宗教,人種,階級,党派,在法律上一 律平等)」とあるように,法律上で男女の平等な地位がようやく認められるに至った。
だが国共内戦後,敗北した蒋介石の国民政府が台湾に移った1949年12月以降,台湾の婦人解放運動 は微妙に変化しだす。ファースト・レディの宋美齢を中心として,1950年には「中華婦女反攻聯合会
(婦聯会)」が設立された。そのため省婦女会は婦聯会の傘下に置かれ,理事長は婦聯会の職務を兼ね なければならなくなった。
台湾移転後の中華民国の最大の国是は,言うまでもなく「大陸反攻」である。当時,婦聯会は軍人 と軍人の家族ために奉仕する存在のようなものであり,主な仕事は軍服を縫ったり,軍隊を慰問した り,負傷兵の世話をしたりすることであった。このため,省婦女会も本来の宗旨とは異なるこれらの 仕事に従事せざるを得なくなった。これでは,せっかく植民地政府から国民政府へと政権が代わって も,女性団体に求められる職務は全く変わっていない。つまり,日本の植民地政府が女性団体に求め たのが「斉家興国」であるならば,国民政府が彼女たちに求めたものは「斉家報国(家を斉え国に報 いる)」と言ってよいものであった。
やがて1953年に国民党の直轄する「中央婦女工作会(婦工会)」が正式に成立し,各種の女性団体を
指揮する立場に立った。婦工会の主な仕事は,選挙期間中に票を集めることである44)。このため,国 民党のための集票作業も「省婦女会」の仕事になった。当初理想に燃えた婦女解放組織も,1949年以 後は半ば国家の御用組織のようになり,その運動も着実に衰退していった。
とはいえ,この運動が何の成果も残さなかったかといえば,必ずしもそうではない。先述したよう に,「省婦女会」の初期の目標は「廃除公娼(公娼の廃止)」と「争取参政権(参政権の獲得)」であっ たが,この二つの面で一定の成果を挙げたことは紛れもない事実だからである。
例えば戦後,謝娥・許士賢などの多くの新女性は国民党に入党し,国民党政府に働きかけて,台湾 接収二年目の1946年には「正俗(風俗を正す)工作」を進め,公娼を取り締まろうとした。これを受 けて,1949年に中華民国は国連の「禁販売婦孺及売淫公約(女性や子どもの人身売買及び売春を禁止 する公約)」に署名し,正式に娼妓を禁ずる国家地区となり,公娼廃止に着手した。だが長年の積習の ために,公娼を完全に取り締まることはできなかった。やむなく国民政府は1956年に「台湾省管理妓 女弁法(台湾省売春婦管理法)」を制定し,公娼はライセンスの申請,健康診断,親の同意が必要だと 規定した。行政管理下で公娼制度を改善させ,最終的に公娼を転業させることを図ったのである。新 女性たちからすれば,当初の目標である公娼制度の廃止には至らなかったが,国と社会に公娼問題に 関心を持たせ,公娼の置かれている環境の改善には繋がったわけで,それはそれで一つの成果とはい えるものであった45)。
もう一つの目標である「争取参政権(参政権の獲得)」も,一定の成果を収めたようである。1947年 に制定した中華民国憲法では,女性の選挙権・被選挙権の資格を定めただけに止まらず,更に第134条 で「各種選挙応規定婦女当選名額,其辦法以法律定之(各種の選挙は女性の当選定員を規定すべきで ある。その方法は法律で定める)」とはっきり規定されたことである。この条文はどこの国にもない
「女性当選定員」を保障する条文であり46),
1949年に中華民国が台湾に移転した後も,
「女性当選定員」制度は台湾の各種の選挙で忠実に実行されている。台湾女性は選挙権があるだけではなく,当選席さ え保証されたわけである。
「省婦女会」が初期に挙げた目標の一つ「廃除公娼」は成功に至らなかったが,娼妓と深い関わり のある「養女」47)問題の解決については,女性らの参政によって大きな成果をあげた。参議員楊金宝 が1951年の参議会第一期の第十一大会で,政府に台湾省の養女問題を解決するように促したことに始 まり,同年に「保護養女運動委員会」が創立された。「省婦女会」「婦聯会」の幹部である呂錦花48)は 官民両方に太いパイプを持ち,「保護養女運動委員会」の主任委員に就任し,運動を加速させた。省議 会から何度も議員を「保護養女運動委員会」の会議に参加させ,許士賢も1955年に游蘇鴦と臨時省議 会の代表としてその会議に出席した。新女性たちの努力の結果,1956年に臨時省議会で「台湾省現行 養女習俗改善弁法(台湾省現行養女習俗の改善方法)」が可決された。行政の力を借りて養女制度を根 本から改善したのである。
しかし,この輝かしい「台湾省現行養女習俗改善弁法」の制定にこぎつけたあと,台湾では大きな 女性運動は見当たらない。国民政府は台湾に遷った1949年以来,国民党の一党独裁の下,台湾全土に 戒厳令をしき,不法な結社や集会などを禁止したが,一般の政治的な結社・集会が取り締まりの対象
とされたのはもちろん,女性団体の活動も国民党中央の指導を受けざるを得なかった。50年代以降,
女性運動が段々下火になったのには,戒厳令が少なからず影響していたことは間違いない。その運動 が再燃するのは,それから約20年後の70年代まで待たなければならなかったのである。
2.日本での「専業主婦」の登場
戦後間もない時期の盛んな台湾女性運動に比べ,当時の日本の女性運動はどのようなものであった か。
前述したように,「婦選獲得同盟」が提出した女性参政権要求の法案は1931年(昭和6年)に貴族院 に反対され,棄却された。敗戦後,「ポツダム宣言」を受諾した日本は「民主主義と基本的人権の確 立」に向け,1945年に衆議院議員の選挙法を公布し,ついに日本女性も参政権を獲得した。やがて1946 年4月には新選挙法の下,39名の女性代議士が誕生するに至る。これらの代議士を含む国会は新憲法 を審査,可決した結果49),新憲法は同年に公布され,翌1947年に実施に付された。奇しくも中華民国 憲法も同じ年の1947年に実施され,日台両地の女性は同時に男性と平等な社会地位と参政権を獲得す るようになった。そうであるならば,かつて台湾女性運動の「手本」であった日本女性が,なぜ後に は社会的地位,経済収入,参政機会などの面で台湾女性より劣る立場に至ったのか。その原因は戦後 日本政府が行なった女性に対する政策を見れば,ある程度の手がかりが得られるように思われる。
周知の通り,日本国憲法の草案は戦後になって
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の手によって作られた。だがこの憲法は男女 平等を定めてはいたが,必ずしも厳密なものとは言えなかった。神崎智子氏が指摘するように,政治・社会面においては性別による差別の禁止を明文規定したが,経済面に関しては,ただ「賃金・就業時 間・休息その他の勤労条件に関する基準は,法律でこれを定める」と記しただけだったからである。
もし法律を作らなければ,女性差別を行なっても違法にならないという欠陥を残していたといえる。
もともと日本の内務省は,戦前に「女子労働者の結婚退職はやむを得ざる退職」という見解を示し たこともあり50),こうした過去の経緯もあって,多くの日本企業は戦後になっても,この慣習の下で 女性労働者に「寿(ことぶき)退職」を求めるのが一般的であった。加えて女性の賃金も,男性に比 べれば相変わらず低く抑えられたままであった。
こうした企業の慣習を禁止する法律が,すばやく作られなかったのにはもちろん理由がある。戦後,
日本政府は女性に参政権を与え,多くの女性代議士も誕生したが,日本政府が本気で女性を政治に登 用するつもりであったかといえば,かなり疑わしい。民主政治には女性は大きな票田であることに違 いないが,女性政治家は必ずしも必要なものではなかったからである。
1945年の衆議院の選挙は大選挙区連記制のため,多くの女性代議士が誕生したが,一年も経たない 内に内務省は選挙法を改正し,中選挙区単記制に変更したことからも,その事実がうかがえる。その 後,女性議員の数は半分に減少せざるを得なかった51)。さらに女性の参政に理解を示した社会党も55 年体制以後は万年野党に転じ,女性が立法によって経済面での不平等を是正する道はますます遠のい た。1989年に社会党が参議院での議席を倍増させた時,当時の社会党委員長土井たか子は与謝野晶子 が『青鞜』創刊時に寄せた「山の動く日来る」との名句を引用したが,日本の「山」はそんなに簡単
に動かせるものではなかった。
確かに戦後の日本の復興は奇跡的に早かった。そこには朝鮮戦争での軍需や,日本企業の経営のあ り方等,さまざま要因が絡まっていたことは間違いない。敗戦後,「皇国」の姿は消え,臣民の君父で あった天皇は国民の象徴となり,価値観も軍国の世とは180度転換した。代わって企業があたかも「家 族」の形態を取り,多くの社員を取り込んだ結果,社員も自ら企業に一体化・同一化したことはよく 知られている52)。さまざまな職種で「○○一家」という言葉が用いられたことが,その事実を端的に 物語る53)。その特徴は雇用・賃金の面に示されており,「終身雇用」「世帯賃金」が大きな意味を持っ た。企業は入社した社員の世帯の面倒を見,「世帯賃金」でその生計を支えるように調整したのであ る。
ただし,この時に「世帯賃金」の基準とされたのは,あくまでも男性社員の賃金であり,女性のそ れではない54)。しかも日本の「賃金」制度は,日本社会の在り方に強く影響を与えることになった。
税金制度も世帯を単位とし,社会の運営も個人よりは「世帯」に中心が置かれたからである。日本社 会では戸籍はあっても,国から発行された個人の身分証明書はない55)。戦後「家制度」はなくなった ものの,代わりに登場したのは,この「世帯」であった。しかも「世帯主」は女性がなることはあっ ても極めて稀で,ほとんどの場合は男性であり,核家族ならば決まって「夫」であった。
この「世帯」制度の中で,日本の女性はどのように位置づけられたのだろうか。戦後,女性は男性 と同じ教育機会を得られたことで,高等教育を受けることも可能となった。しかし,瀬地山角氏の研 究によれば,戦後高度成長期においては都市の高学歴女性は専業主婦になる比率が高く,学歴が下が れば逆に女性の就職率が高くなるという。日本企業は男性のサラリーマンと高卒の女性の労働力で支 えられていたことを,氏は明らかにしたのである56)。
高学歴の女性はなぜ「主婦」の座に甘んじるのか。また,社会はなぜそれを認めるのか。確かに女 性も仕事を持つべきだと考える女性がいなかったわけではない。最初このような考えを世間にはっき り示したのは,石垣綾子氏である。1955年2月号の『婦人公論』誌上に掲載された氏の「主婦という 第二職論」という文章が,それである。氏はそこで仕事と主婦業の両立を説く兼業主婦論を主張した が,多くの批判を招くとともに,その後三回にわたる「主婦論争」を惹起することになる。このとき 論争に参入したのは女性だけではなく,男性の有識者も存在した。
論争の結果は,母性重視の観点から主婦は専業化すべきだという見方が強まった。また,企業・国 家の立場からも主婦の専業化が強く求められた。なるほど,企業にとって社員をフルに使うには,「男 は仕事,女は家庭」という男女の役割分担こそもっとも都合が良い。そのため社員の賃金には,扶養 家族など種々の手当てが惜しみなく加算された。また国家にとっては,戦後の経済復興のため夫が家 を顧みず働く現状の下,家庭と地域を守るのには女性に頼らざるを得ない面もある。この結果,国家 の側では「世帯」を単位とし,「主婦」を優遇する政策を次々打ち出していく。こうして企業・国家の 期待を一身に背負う主婦は,それなりの社会身分を得ることになる。日本社会に独特な「専業主婦」
という言葉は,こうした時代背景のもとで生まれたのである57)。
1972年の統計によれば,専業主婦は既婚女性の7割を超え,また「性別役割分担」に賛成する者は,
男女双方ともに半数を上回っている58)。この時期には女性運動が行なわれなかったわけではないが,
女性全体の関心を引くことはできなかった。60年代の学生運動の中で目覚めた女性は,その後「ウー マン・リブ」59)や「中ピ連」60)などの女性運動に参加する者もいたが少数者に止まり,むしろ「生協 運動」に参加する女性の方が多かった。「生協運動」はまさに「食卓の安全」を確保するための活動で あり,「母性」重視の一端でもある。戦後高等教育を受けた多くの日本女性は,結婚あるいは第一子の 誕生を契機に,次々と社会から撤退して家庭に入って行った。大卒あるいはそれ以上の実力や学歴を 持ちながら,専業主婦に甘んじている女性の多いことが,70年代の日本社会の特徴といえるだろう。
三.70年代以後の日台女性
「性別役割」の分業状況の下で,やがて世界第二位の経済大国となった日本は,欧米諸国から「Japan
as number one」と称賛されるようになる。多くの日本人が「一億総中流」の春を謳歌し,経済成長
に酔いしれる中で,台湾の女性はどのような状態に置かれ,どのような活動をしていたか。1971年,国連総会で「中国代表権」に関する第2758号決議案(アルバニア決議)が採択された。中 華人民共和国は中国代表権を獲得し,台湾の中華民国は国連を脱退せざるを得なくなった。台湾が主 張する「中国」という名分は,国際社会の認知を完全に失ってしまったのである。台湾が朝野を挙げ て不安の坩堝に陥ったことは言うまでもない。後の2000年に副大統領になる呂秀蓮は,まさにこの年 に留学先のアメリカから台湾に帰国した。
呂秀蓮は1944年生。いわゆる戦後に「吃国民党奶水长大(国民党のミルクで育った)」世代である。
この世代は国民党こそ中国の正統政権であり,中華文化復興の旗手であると徹底的に教育された世代 である。呂秀蓮は大学卒業後にアメリカに留学し,後にはヨーロッパにも遊学しており,この欧米で の2年間の生活で女性解放運動や台湾問題に触れ,人間的にも鍛えられたようである。台湾に帰国す ると早速女性運動に従事して「新女性主義」を鼓吹し,1974年には『新女性主義』と『尋找另一扇窓
(別の一枚の窓を探す)』という二冊の本を出版した。
当時は戒厳令が敷かれていたため,結社・集会は違法となる可能性があり,女性団体の組織化は困 難であった。そこで呂秀蓮は紙媒体を通して女性の自覚を喚起しょうと考え,「拓荒者出版社」を設立 して,彼女の「新女性主義」運動を開始した。「新女性主義」の中心思想は簡単に言えば,「先做人,
再做男人或女人,然後成就自我(まず人になり,それから男か女になり,最後に自我を完成する)」と いうものである。だが,「拓荒者出版社」は最初から台湾当局に監視され,経済面もきわめて窮迫し,
3年で終わりを告げることになった。
紙媒体を通して宣伝する以外,呂秀蓮は実際の行動にも出た。弱い立場にいる女性を保護するため,
彼女は台北・高雄の両地で「保護你(あなたを保護する)」の電話専用線を設立し,暴力を受けた女 性,あるいは配偶者に遺棄された女性に,法律・医療サービスの情報を提供する活動を始めたのであ る。この方式の女性運動は,後の女性団体にも受け継がれていくことになる。
1979年に呂秀蓮は高雄の美麗島事件に巻き込まれ61),
12年の刑を下された。
(実際は5年間の入獄)。 かつて呂秀連の「新女性運動」に参加した李元貞は,1982年に「婦女新知」という雑誌社を創設して,1987年には「婦女新知基金会」と名称を変更した。時あたかもこの年の7月に「戒厳令」が解除され,
結社・集会が自由になったため,様々な女性団体が前後して成立する。以下「婦女新知基金会」を中 心に,台湾の女性運動の一端を紹介することにしたい。まず「婦女新知基金会」の宗旨を挙げれば,
下記の通りである62)。
一.関心婦女問題,表達婦女意見,争取婦女権益,支援受迫害婦女。(女性問題に関心を持ち,女 性の意見を代弁し,女性の権益を追求し,迫害される女性を支援する)
二.鼓励女性自我覚醒及追求自我成長。(女性を励まして自ら目覚め,自ら成長するようにする)
三.希望達成平等・公正・和諧的兩性社会。(平等・公正で調和がとれた両性の社会が達成できる ように)
「婦女新知基金会」が挙げたこの三つ宗旨(目標)に関し,どの程度達成されたかを以下で検証し てみよう。
第一の目標に関しては,1987年の戒厳令解除の前に他の団体と協力し,台北市の私娼が集中する華 西街でデモを行なったことが挙げられる。このとき警察側に私娼の取り締まりを要求するとともに,
雛妓(未成年の娼妓)を救援する「正風専案(正風プロジェクト)」を立ち上げさせることにも成功し た。だが,事態は一向に好転しなかったため,1988年に再び彩虹専案63)などの婦女団体と「華西街デ モ」を行ない64),あらためて社会の注意を喚起した。その後,各種の婦女団体も次々と「雛妓救援」
の活動に参加し,1995年には台湾政府に「児童及少年性交易防制條例(児童及び少年との性の取り引 きを防止する条例)」を作らせた65)。これは「婦女新知基金会」が「迫害される女性を支援」した一つ の実例と見なすことができよう。
第二の目標である「女性を励まして自ら目覚め,自ら成長するようにする」に関しては,まず社内 で実行し,それから大学キャンパス内で展開させた。「婦女新知基金会」の社内には「女性意識自覚団 体(女性意識を自覚させる会)」があり,会の目的は女性に自ら成長するように促し,毎回約8~10人 はこの会の会議に参加し,母娘(親子)・女性・家庭などのテーマを議論する66)。また李元貞の尽力で 台湾大学の「人口与性別的研究中心(人口と性別の研究センター)」の下部組織として,「婦女与性別 研究組(女性と性別の研究グループ)」を設立した。「女性研究室」はその略称である。
「女性研究室」は1990年にアジア初の性別研究学術誌『婦女与両性学刊』を出版し,対外的に女性 に関連する各種の情報を発信するようになった。さらに1997年には「婦女与性別研究学程(女性と性 別の研究コース)」を設置し,学部,修士・博士課程の選択科目として学生に提供され67),大学キャン パスでの女性研究の先駆けとなった。後に台湾の各大学もこれを見習い,性別の問題を取り上げるよ うになる。婦女問題は特殊なものではなく,キャンパス内での日常のテーマとなったのである。婦女 問題に関心を持つ大学生は,自然にキャンパスを出て女性運動に参加したが,そのきっかけを作った のが,「婦女新知基金会」であったといえる。
第三に挙げた「平等・公正で調和がとれた両性の社会が達成できるように」という目標については,
民法の「親属編」に係る条文改正68)と「消除対婦女一切形式歧視公約施行法(女性に対するあらゆる 形態の差別の撤廃に関する条約施行法)」69)を成立させることで,ある程度達成した。
「民法親属編」の条文改正に関しては,「婦女新知基金会」と「晩晴協会」70)を中心に1979年10月20 日に「民間団体民法編修正委員会」を組織し,「台北律師公会婦女研究委員会」の協力の下で法案を提 出した。最初は放置されたが,何度も努力し,ついに2007年に立法院は「民法親属編」の一部の条文 を修正した。この「民法親属編」の修正は大きな意義を持つ。修正内容は民間団体が提出したもので あり,かつて1985年に政府主導で行なった民法の修正とは完全に異なるからである71)。特に委員会に 参加した「晩晴協会」は,もっぱら離婚訴訟の相談を受理する女性団体であり,こうした民間団体の 性格は修正内容にも大きく影響した。
「婦女新知基金会」と「晩晴協会」が1990年から起草した「民法親属編」の修正内容は,各国の立 法の例を参考にし,台湾の家庭と社会の実情にも配慮した上,離婚訴訟を起こした女性の体験と訴え を聴聞して作成したものであった。1993年に第一次公聴会と翌1994年の第二次の公聴会で各方面から 意見を徴収し,それらを整理して結論を出し,1995年に正式にこの「新晴版の修正案(新は婦女新知 基金会,晴は晩晴協会)」を立法院に提出した。
その後,「婆婆媽媽(お婆さんたち・おばさんたち=女たち)遊説団」を組織し,法修正の施行を監 督する措置を取った。その効果もあってか,立法院は次々と「民法親族編」を修正した。2007年の修 正で注意すべきところは,先述したように父系社会の象徴である「民法親属編」1059条「子女従父姓
(子女は父の姓に従う)」の改正である72)。子の氏名は夫婦での協議によって決定するように変更が加 えられた。また,女性にとって不利な1068条の「不貞条項」は削除された73)。前者は伝統社会の「父 権独大」を否定し,後者は封建道徳の「貞徳」の価値観を否定するものであった。その他,「消除対婦 女一切形式歧視公約施行法」に関しては,台湾の女性団体の努力で2011年に立法院で三読(最終審議)
をして,ついに法案を通過させた。これは2012年に国内法の形式で実施する予定である74)。
台湾の女性運動が以上のような一定の成果を収め得た原因の一つとして,女性が政治に対して積極 的に参加したことが挙げられよう。政治に参加することにより,女性も社会意思を決定する機会を獲 得したことである。もともと憲法上で女性当選定員が保障され,女性にも選挙で勝算がある情況下で,
政党は女性候補者を立てるようになった。しかし,各政党の指名する立候補者はやはり圧倒的に男性 が多く,女性の立候補者は依然として少数であった。90年代の女性運動の目標は,如何にして女性が
「四分の一」の立候補者指名を確保するかであり,野党の民進党がまずこの「四分の一」の提案を採択 し,その他の政党もそれに続いた75)。その結果,女性議員の割合は2002年には22.2%76),2008年には
30.4%
77)となり,21世紀に入ると女性参政者の数値は90年代の女性が掲げた立候補者の数値を大きく超えるようになった。補2)
台湾女性の政治上での地位が躍進する中,日本女性のそれは依然として停滞したままであった。前 述したように2002年の日本の
GEM
はが国際上で39位であったが,この地位はその後,年々低下し,やがて2009年に57位まで下がることになる78)。2010年以後は,女性の社会的地位を測る方法として,
GEM
に代わってGII(ジエンダーの不平等指数)が主流となり,その数値で男女の不平等性が測定さ
れるようになった。台湾の2010年でのGII
数値は0.223であり,130ヵ国中で第4番目である79)。台湾 社会の男女の不平等数値が,きわめて低いことが分かる。2012年の台湾の総統選挙の有力候補者の一- - 92
人が女性であるのもうなずけよう。ではなぜ,70年代以後,台湾女性の社会的地位がこれほど向上したのか。様々な要因が考えられよ うが,その一つとして台湾人の国民性・民族性を挙げることができるのではなかろうか。すでに繰り 返し述べたように,台湾女性の政治に対する意欲は相当なものであり,それは単なる個人的動機だけ ではすまされないように思われるからである。よく知られるように,儒教の教えの中に「学而優則仕
(学問をして優れている者は国家に仕える)」80)という言葉があり,中国社会では学問を修めた人の最 終目標は「出仕(政治を担当すること)」にあった。伝統的知識人である士大夫たちは,幼少より儒教 を学び,やがて科挙試験に合格して官僚になると,「先憂後楽」の意識で社会に対して責任を負うべき ものとされた81)。
70年代以後の留学帰りの高学歴の台湾女性は,男性と同じ儒教倫理の下で育てられた知識人である ため,男性と同様の「学而優則仕」の観念を持ったとしても何ら不思議ではない。政治運動や社会活 動に参加し,世の中の不合理を正すことを自らの責務だと捉え,積極的に自己主張したのも自然の成 り行きではなかったかと思われる。また,それを可能にするような台湾の社会構造がもともと存在し,
さらに当時の政治的動向も有利に作用したものと解される。
日本の「たて社会82)」と違い台湾社会(中国社会)の人間関係は,あたかも蜘蛛の巣のように中心 から外に向かって無限に伸びていく点に特徴がある。その蜘蛛の巣の動きは高名な社会学者費孝通の 言葉を借りれば,石を池に投じた時に中心から拡散していく水輪のように連続的であり,波状的なも のでもある83)。例えば当初呂秀蓮の拓荒者出版社に参加した女性たちは,出版社が閉鎖されたあと,
各自が様々な女性団体を作って活動を継続した。代表的な人物に李元貞がおり,下図に示すように彼 女と彼女が立ちあげた「婦女新知基金会」の周りには,種々の人間関係と組織が形成された。その一 人である尤美女を例とすれば,彼女自身は律師(弁護士)であるため,彼女を通して彼女の所属する 律師公会(弁護士会)が女性運動に関わるようになった。また「台大女性研究室」を通して,多くの
台湾女性運動の展開図
19
時に中心から拡散していく水輪のように連続的であり、波状的なものでもある83。例え ば当初呂秀蓮の拓荒出版社に参加した女性たちは、出版社が閉鎖されたあと、各自が 様々な女性団体を作って活動を継続した。代表的な人物に李元貞がおり、下図に示す ように彼女と彼女が立ちあげた「婦女新知基金会」の周りには、種々の人間関係と組 織が形成された。その一人である尤美女を例とすれば、彼女自身は律師(弁護士)で あるため、彼女を通して彼女の所属する律師公会(弁護士会)が女性運動に関わるよ うになった。また「台大女性研究室」を通して、多くの大学生(女性とは限らない)
が運動に参加している点も見逃せない。
これは李元貞だけとは限らない。別の人物を中心にして考えれば、同じような情況 を見て取ることも決して困難ではない。つまり、台湾社会は一人の個人あるいは組織 を通して、多くの人あるいは組織と関連していくようなネットワーク社会であり、中 国社会に特徴的な伝統的な人間関係が、台湾社会にも脈々と受け継がれていることに 気づくのである。台湾の女性団体は民間団体であり、決して大きな組織ではないが、
女性運動はこのようなネットワークを通じて、「星火獠原(小さな火花も広野を焼き尽く すことができる)」の勢いで広がっていった点に、台湾の女性運動の特徴があるといえる だろう。
さらに時代の流れもまた女性運動に加担している点に、注意する必要がある。70 年 代以後、国民党の一党独裁政治は次第に効き目がなくなり、1979 年の美麗島事件は強
83 王霜媚「日本社会における「間」の論理―分割思想と日本人(その1)-」『神戸女子 大学文学部紀要』第30巻、
1997
、P
.135
。拓荒者出版社
大学生(女性とは限らない)が運動に参加している点も見逃せない。
これは李元貞だけとは限らない。別の人物を中心にして考えれば,同じような情況を見て取ること も決して困難ではない。つまり,台湾社会は一人の個人あるいは組織を通して,多くの人あるいは組 織と関連していくようなネットワーク社会であり,中国社会に特徴的な伝統的な人間関係が,台湾社 会にも脈々と受け継がれていることに気づくのである。台湾の女性団体は民間団体であり,決して大 きな組織ではないが,女性運動はこのようなネットワークを通じて,「星火獠原(小さな火花も広野を 焼き尽くすことができる)」の勢いで広がっていった点に,台湾の女性運動の特徴があるといえるだろ う。
さらに時代の流れもまた女性運動に加担している点に,注意する必要がある。70年代以後,国民党 の一党独裁政治は次第に効き目がなくなり,1979年の美麗島事件は強引に力で抑えたものの,その強 権ぶりに対する反発は民主と自由を求める国民の勢いに拍車をかけた。1986年に戒厳令・党禁84)を無 視して民進党が結党を強行したにもかかわらず,国民党政府が強硬な手段を取らずに黙認したのも,
当時の社会的趨勢に抗えなかったからである。これは女性運動にも刺激と勇気を与え,台湾の民主化 にともない女性運動はさらに加速した。
国民党の蒋経国総統が1988年に死去したあと,国民党主席・台湾総統の任に就いたのは李登輝であっ た。彼は台湾の出身で,1971年に初めて国民党に入党した。在任中の12年間(1988~2000),民主化の 推進とともに国民党の本土化(台湾化)に力を入れ,大陸から来台した国民党の旧勢力は非主流に追 われた。2000年には国民党から民進党へと政権交代が起こり,民進党が結党以来初めて執政党となっ た。前述した「民法親属編」の条文改正は,民進党陳水扁政権の第二期在任中の2007年に実現された ものである。
2008年に政権は再び民進党から国民党の手に移ったが,このとき台湾総統に選出された馬英九は台 湾に渡った国民党の第二世代であり,前述した女性運動者と同世代に属す。同じ教育制度・社会環境 で育ったため,思想的に近いだけではなく,個人的な繋がりもある。例えば婦女新知の顧問の一人で ある顧燕翎85)は,馬英九が台北市市長在任中(1998~2006)に台北市社会局局長に就任したことがあ る。政権が変わっても台湾の女性運動には影響がないようである。懸案の「消除對婦女一切形式歧視 公約施行法」が成立したのも,馬英九が在任中の2011年のことであった。
おわりに
日本の植民地時代の50年間とその後の国民政府の戒厳令の下で,台湾の人々にとって民主と自由と は縁の薄いものであった。幸いにも教育方面では,日本時代に国民学校の初等教育が義務化され,国 民政府の時代になっても教育面に限っては男女平等政策が採用された。だが,中華文化の旗手を自任 した国民政府は,儒教の倫理と父系社会の伝統を,そのまま台湾社会に押し付けたのも事実である。
女性は平等な教育を受けることができたが,社会では「父権独大」のあおりを食って,常に劣勢の位 置に置かれ続けた。70年代以後に誕生する多くの高学歴の女性は,皮肉にも男性と同じように儒教の
「学而優則仕」の思想の持ち主であり,政治と運動を通して社会を改善しょうと試みる。その結果が,
台湾女性の地位の向上につながったことは間違いない。
日本では前述したように,70年代に大半の女性が専業主婦の身分に満足するようになったことで,
民間の女性運動を大きく後退させてしまった。戦後,日本女性の地位と権利が高められたのは,憲法 によって「参政,教育,経済」の平等が付与された以外,外圧によるものが多い。国連は1975年を国 際婦人年とし,その翌年から「国連婦人の10年」を指定し,婦人問題への喚起を促した。それに連動 する形で,日本の総理府は「婦人問題担当室」「婦人問題企画推進本部」「婦人問題企画推進会議」な どを設けざるを得なくなった。
さらに1980年には「女子差別撤廃条約」に署名したことで,1985年に「女子差別撤廃条約」「男女雇 用機会均等法(均等法)」を採決し,1986年には「均等法」を実施,1997年にはその改定を行ない,
1999年には「男女共同参画社会基本法」も可決された。確かに日本女性の社会的地位は,次第に男性
と平等な方向へと進んでいった。ただ,その過程を見ると,それを実現したのは民間の力ではなく,国連による女性の地位を高めようという流れの中に,行政が導いたものだと言えなくもない。台湾の ように血と汗の混じった努力によって勝ち取った成果ではない。
2011年9月に誕生した野田内閣の厚生労働大臣小宮山洋子氏は,報道各社のインタビューに答えて,
年金制度の「第3号被保険者」と主婦を優遇する税金制度を改善するとの意欲を表明し86),また税収 の単位を世帯から個人へとシフトすべきだという考えも示した。この小宮山氏の考えに関しては,日 本人の思考方式や日本社会の構造などの視点から検討すると,興味深い事実も指摘できるがここでは 紙幅の関係で割愛する87)。本稿では日台の比較といいながらも,主に台湾女性に焦点を当てて検討し た。また通史的叙述を心がけたため,細かい分析を捨象している点については,ご了解願いたい。
注
1)瀬地山角「台湾の少子化・女性労働・高齢者労働-日韓との比較を通じて-」佐藤幸人編『台湾総合研究Ⅲ
社会の求心力と遠心力』調査研究報告書 アジア研究所2010,第5章 P.70。2)2012年総統選挙の民進党の候補者は党首蔡英文である。
3)日本の植民地となる以前,台湾女性が受けられる教育は極めて限定されていた。家あるいは私塾で『女論語』
『女孝経』などを読むか,それとも数少ないミッション系の学校(台北の淡水女学校,台南の紅楼女学校等)に 通うだけであった。台湾女性史入門編纂委員会編『台湾女性史入門』人文書院2008,P.40参照。
4)小山静子『良妻賢母という規範』勁草書房,1991,第二章,P.65。
5)小山前掲書 第一章 良妻賢母思想の成立。
6)小林登美枝『平塚らいてう』清水書院,1983,P.6。
7)
『青鞜』3巻2号は福田英子の「婦人問題の解決」で発禁となり,同3巻4号はらいてうの「世の婦人たちに」で警視庁から注意を受け,1913年5月に評論集『円窓より』が発禁となる。小林前掲書 P.126,128,217。
8)小山前掲書 P.218,下田次郎の言葉。
「固より女子の理想は,どこまでも家庭の人として,幸福な生活を送る ことであるが,それにしても,是と彼(職業)とは,必ずしも両立しないものではない。」9)小山前掲書,第3章,P.100「教育を終了してから結婚するまでの間,事務員・店員・タイピスト・電話交換
手・教員・看護婦などの職につくことは,女の新しい生き方として,社会的に認められた。」10)坪内逍遥が明治43年7月に大阪市教育会で「新しい女」という講演を行い,その後,流行語となった。小林前
掲書,P.116参照。11)1925年に「婦選獲得同盟」に改名。独立行政法人 国立女性教育館デジタルアーカイブシステム。
http://w-archive.nwec.jp/chrono.html 1924年12月13日条。
12)陳東原『中国婦女生活史』商務印書局,1937,P.188-202。
13)
『後藤新平伝』台湾統治篇,太平洋協会出版部,1943.5.28,P.27。14)台湾教育会編『台湾教育沿革誌』青史社,東京,1982,P.168,23,424。
15)呉文星著,所澤潤監訳『台湾の社会的リーダー階層と日本統治』財団法人 交流協会,東京,2010。第五章
「社会的リーダー階層と社会文化的変遷」P.331-420 参照。
16)後藤新平は,基本的には台湾人が高等教育を受けることに反対した。黄国彦訳『王育徳全集1―台湾・苦悶的
歴史―』前衛出版社,1999,台湾,P.127。17)台湾総督府令第七十八号 台湾公学校規則 明治31年8月16日。
18)
「台湾公学校令」明治31年勅令第百七十八号第一条 7月28日の公布,10月1日より実施。19)
「台湾教育令」大正8年勅令第1号。20)田健次郎が赴任する前,大正3年(1914)に明治維新の元老板垣退助は台湾の士紳たちとともに「台湾同化
会」を組織したが,一カ月経たずに総督府によって解散させられた。許雪姫『台湾歴史辞典』遠流出版公司,2004,P.1091。
21)春山明哲『近代日本と台湾―霧社事件・植民地政策の研究』藤原書店,2008,P.236-239を参照。
22)初等教育に関しては,台湾人の多くは依然として公学校で勉強するが,一部の「国語常習者」は審査を通じて
小学校に入学することができた。日本人の中でも小学校が遠ければ,同じく近くの公学校に入学できた。許雪姫 前掲書,P.161,「内台共学」条を参照。23)
「第二次台湾教育令」大正11年勅令第20号2月6日公布,4月1日より実施。これにともない最初の「台湾教 育令」は廃止された。24)横澤泰夫編訳『台湾史小事典』中国書店,2007,P.17「内地延長主義」条を参照。
25)西来庵事件とは,1915年(大正4年)に台南庁噍吧哖(タパニー)で発生した武装蜂起。地名から「タパニー
事件」,あるいは首謀者余清芳の名を取って「余清芳事件」ともいう。台湾での漢民族による最後の武装蜂起事 件である。なお,台湾原住民による反乱としては,1930年の「霧社事件」が挙げられる。26)洪郁如『近代台湾女性史-日本の植民地統治と「新女性」の誕生-』勁草書房,2001,P.151参照。狭義の「新
女性」は「高等女学校」に在学中か,あるいは卒業した女性を指す。P.386。日本語の「新しい女」は,中国語 の文章では「新婦人」「新女性」あるいは「新女」という言葉が使われた。27)台湾人民に対する紳章を授与する目的は,士紳を政権に取り込むためである。明治29年台湾総督府令第40号。
許雪姫前掲書「台湾紳章規則(条例)」P.1144。
28)
「門当」「戸対」は結婚する男女双方の社会地位・経済状況がつりあっていることを指す。仁井田陞『中国法制 史』増訂版,岩波書店,東京,1963,P.234,251,257,407。29)例えば李登輝は台北高等学校(台高)
,京大,台湾大学という高学歴の持ち主であるが,その見合いの相手は「第三高女」の曾文恵であった。「第三高女」は台湾女性が憧れる「近代文明」を受けられる女学校である。後に 述べる女性運動家の謝娥もこの高女の卒業生の一人である。
30)洪郁如前掲書,P.310,360を参照。
31)洪郁如前掲書,P.142。
32)国立台湾歴史博物館「台湾女人」婦女団体,彰化婦女共励会「警察採取緊迫盯人的策略,如各種講習会現場,
派駐巡警監看,取締並中止会議,甚至解散・・・或予以工作調職的施圧(警察はメンバーを尾行し,各種の講習 会会場に警官を派遣して,会議を取り締まったり,中止・解散させたりした。あるいはメンバーに対して,その 仕事を異動させるなどの圧力をかけたこともあった)」。
http://women.nmth.gov.tw/zh-tw/Content/Content.aspx?para=297&Class=84&page=0&type=Content.
33)許時嘉「国語としての日本語から言語としての日本語へー戦前から戦後に至るまでの台湾人の日本語観に関す
る一考察(1895-1946)-」『言葉と文化』9,2008,名古屋大学,P.105~126。http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/9/9-07.pdf.