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京都向井家墓碑考-文人向井元升の家系-

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(1)

京都向井家墓碑考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

‑ 若 木 太 一

O n   t h e   T o m b s t o n e s   o f   t h e   M u k a i   F a m i l y   ( ) i n   S i n n y o d o ,   K y o t o   ( , )

‑Genealogy of a Literary Man, Mukai Gensho (向井元升)‑

T a

i i

c h

i  

W A

K A

K I

一 は じ め に

儒医向井元升は肥前国神崎郡酒(崎)村(現佐賀県神崎都千代

田町)に生れ︑長崎で育ち︑五十歳の年に京都へ出て︑やがて後

永尾院の典薬として知られることになった人物である︒

長崎においては聖堂創建にかかわり︑長崎の儒学の振興に大き

‑寄与した︒息子の元成をはじめとして︑その子孫である向井家

の人々は代々祭酒を勤め︑学問・思想の中心にあって幕末に至る

まで多‑の人材を育成した︒また︑鎖国時代の窓口として︑輸入

書籍を吟味する書物改めにもかかわり︑長崎学芸史といわず︑徳

川時代の思想と文化の形成にも少なからぬ影響を及ぼした一家で

ある︒元升以来︑輸入書籍のリストを幕府へ届け︑春徳寺の僧と

ともに海外思想のフィルターとしての役割を果したといえよう︒

上 京

後 の

元 升

に つ

い て

い え

ば ︑

﹃ 孝

経 辞

典 ﹄

( 寛

文 十

二 年

刊 )

︑ ﹃

生 善

道 ﹄

( 延

宝 四

年 刊

) ︑

﹃ 庖

厨 備

用 倭

名 本

草 ﹄

( 貞

享 元

年 刊

) 等

著作でも明らかように実生活における養生の道を説‑啓蒙派の儒

医として知られることになった︒これは長崎時代の彼が行なった

﹃ 紅

毛 流

外 科

秘 要

﹄ (

承 応

三 年

序 )

の 訳

述 ︑

﹃ 知

恥 篇

﹄ (

明 暦

元 年

序 )

におけるキリスト教及び新渡の黄葉宗批判︑﹃乾坤弁説﹄(明暦二

年成)におけるヨーロッパ自然科学︑天文学の受容・理解と陰陽

五行説との対比・批判等に見られる思想的活動に比べれば︑より

温和で実務的になったかに見える︒しかし︑京都の文化的中心に

あった堂上家との接触やそれによる知名度によって︑向井家の影

響力は高まったといえよう︒

畿内に祖先をもつ向井家は懐艮親王の西征に従って九州へ下向

した︒肥後︑肥前を転々としたあと︑元升の代になって再び都へ

長崎大学教養部紀要(人文科学篇)第3 3巻第2号1‑1六(1九九三年1月)

(2)

若 木 太 一

と帰ることになった︒中世の動乱期を経て︑徳川時代を迎え︑向

井家は新たな展開をとげるわけである︒

海外から流入する新しい情報・文化に対応する長崎聖堂の向井

家と︑連綿と絶えない伝統文化と接触した都の向井家との二つの

流れが形成された︒近世啓蒙期の︑いうならば実学派文人が生み

出したこの家の系譜と活動を追跡したいと思う︒

向井家に関する研究は︑これまで元升の二男元淵が芭蕉の弟子

として著名であることで渡辺庫輔氏の﹁去来とその一族﹂(﹃向井

去来﹄去来顕彰会編所収︑昭和二十九年刊)や中西啓氏の﹁去来

句文註解﹂と﹁続﹂(俳誌﹃太白﹄掲載中)及び元升や元成に関す

る研究︑さらには﹃去来先生全集﹄(落柿舎保存会︑昭和五十七年

刊)︑大内初夫・若木太一共著﹃俳譜の奉行向井去来﹄(新興社︑

昭和六十一年刊)などがある︒

本稿では︑右の研究をふまえながら︑前記のような視点で向井

家の文化史的活動を支えた人々を明らかにするため︑まず京都真

如堂の墓碑調査を報告する︒ 二

区浄土寺真如町)という天台宗山門派に属する寺である︒秋里離

島の﹃都名所図会﹄(竹原春朝画︑安永九年刊)巻三にその伽藍の

鳥轍図が描かれており︑現在の境内の様子と対比して見ることが

できる︒(図1)︒

向井家と真如堂

洛東吉田山裏の岡崎通りを東南へ行ったところに向井家が菩提

寺とする真如堂がある︒正し‑は鈴登山真正極楽寺(京都市左京

(図1 )真如堂(『都名所図会』巻三)

(3)

それによれば︑真如堂の開基は戒山上人で︑本尊は慈覚大師の

作と伝えられる阿弥陀仏︒元来は比叡山の常行堂に安置されてい

たものだという︒その本尊は永観二年(九八四)春に雲母坂の地

蔵堂に移された︒その後︑一条天皇の正暦三年(九九二)秋に宣

下があって︑東三条院藤原詮子の離宮跡に伽藍が創建されたのが

その開創である︒それは現在の真如堂の北に位置するところに

(注

1)

あった︒小林月史氏によれば︑昔は元真如堂村と称し︑そこには

念仏堂(現在は換骨堂という尼寺)や真如堂の鎮守山王社(日吉

(注2)

神社)がある場所だという︒宗派は天台宗であるが︑念仏堂があ

るように十夜念仏の本山として知られ︑浄土教の本流を伝えてい

る︒﹃拾遺都名所図会﹄(天明七年刊)巻二に描かれている藁葺屋

根の﹁元真如堂﹂はその名跡だと思われる︒ところがこの真如堂

は応仁の乱を始めとして何度も戦火に焼かれ︑その場所を変えた︒

洛中の一条新町︑西洞院土御門︑寺町今出川などがそれで︑また

洛中の大火にもあって現在の地に遷されたのは元禄五年(一六九

三)の冬のことであった︒

ところで向井家がいつから真如堂を菩提寺としたかについては

不明であるが︑少な‑ともそれは家長元升が長崎から上洛した万

治元年(一六五八)冬以降のことである︒また︑後述するように

元升が没したのが延宝五年(一六七七)十一月一日のことであり︑

(注

3)

この時はまだ真如堂は寺町今出川口にあった︒従ってこの時向井

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

家がすでに真如堂に属していたとすれば︑元升はそこに葬られて

(ママ)

いたと考えられる︒﹃益軒雑記﹄には﹁向井元升︑延宝七年十一月

朔日卒︑葬千本真如堂﹂と記されており︑あるいは本真如堂の墓

地であったのであろうか︒後考にまちたい︒そして元禄五年冬に

現在の地に堂宇伽藍が建立されて移転が成った後に︑元升らの墓

も改葬されたものと見てよいだろう︒

現在︑寺内の覚囲院に﹃日並之記﹄や﹃過去簿﹄等が伝えられ

ており︑向井元升ら代々の命日や葬儀・法要等の営みもそれに記

録 さ

れ て

い る

なだらかな上りの参道を進むと正面に本堂︑左側に﹁涼しさの

野山に満つる念仏かな﹂の去来句碑があり︑千体地蔵堂や元三大

師堂︑庫裡︑開山堂等があり︑右手には三重塔や鐘楼︑鎌倉地蔵

堂等があって︑その南側が墓地である︒﹃都名所図会﹄巻三の絵の

右端に﹁去来墓﹂と記されているあたりが向井家の墓地である︒

三向井家墓碑と人物

この向井家墓地には︑﹁向井以順甫之墓﹂をはじめとして︑現在

墓碑十六基が次の図のように東西に向い合って二列に並んでいる

( 図 2 )

(4)

若 木 太 1

( 図 2 ) 向 井 家 墓 碑

向井炊順南と墓

真 I n l . 蝣 一

益専惟譜印元耗墓

( 西

向 き

側 )

① 向 井 以 順 甫 之 墓 ( 高 さ 1

‑ 3 セ ン チ )

②向井定之丞之墓(62センチ)

③ 元

淵 (

約 8

  0

セ ン

チ )

④ 益 寺 院 法 印 元 桂 墓 ( 約 1

‑ 4 セ ン チ )

宣帝院法眼元棟之墓(約57センチ)

( 東

向 き

側 )

⑥ 益 寿 院 法 印 向 井 元 端 墓 (

= = セ ン チ )

⑦ 震 軒 之 妻 片 桐 氏 墓 (

〟 )

⑧ 文 室 向 井 氏 墓 (

〟 )

⑨久米英彦之墓(79センチ)

⑩ 久 米 英 俊 之 墓 (

〟 )

⑪ 向 井 伯 彦 之 墓

⑳向井元雄之墓(〟

⑬純良貞俊之墓(〟

音マ中米Y音草叫

⑭向井元進之墓(〟)

⑮晋軒向井元隆之墓(〟)

⑯ 向 井 以 順 甫 妻 久 米 氏 之 墓 / C O セ ン チ )

※ ( ) 内 は 台 座 を 含 ま な い 墓 石 の 高 さ ︒

図2の配置でも明らかなように︑この墓地

は何度か改葬もし‑は墓碑の並べ替えが行な

われていて︑元の形はすでに失なわれている︒

( 注 4 ) ( 注 5 )

その配置の変遷については新村出︑寺田貞次︑

(注6)

難波恒雄民らの調査報告があって参考になる︒

なかでも難波氏の報告は昭和五十三年になさ

れた調査にもとずくもので︑現在もほぼ同じ

状態にあることがわかる︒

いま向井家墓地に現存する右の十六基の墓

碑を覚園院の﹃過去簿﹄﹃日並之記﹄及びその

他の資料に照合して簡略に図示すれば次のよ

う に

な る

( 図

2 )

①﹁向井以順甫之墓﹂は元升の墓碑で最も

大き‑︑⑯がその﹁妻久米氏﹂のもので同じ

大きさ︒現在は対角線上の位置に離れている

が︑もとは並んでいたと思われる︒

元升の嫡男⑥﹁益毒院法印向井元端墓﹂と

その妻⑦﹁雲軒之妻片桐氏墓﹂とは並んでお

り︑元升ら父母の墓より一回り小さい中型の

墓碑(図‑)である︒元端は襲囲院﹃過去簿﹄

の正徳二年(一七l二)の陳に﹁益寺院法期T

(5)

(図4 )向かって左から「向井元端墓」,その妻「片桐氏墓」及びそ の娘「文室向井氏墓」 (元桂妻)

向井元端十二月廿日元升嫡男向井震軒事﹂と出ており︑享年は六

十四歳であった︒妻片桐氏については︑右﹃過去簿≡享保二十年

(一七三五)の保に﹁心光院三誉廉月貞信大姉二月廿三日向

井元端妻﹂と出ている︒﹁向井氏系譜﹂には︑元端の妻は﹁室片桐

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

市正孫女︑名多賀︑享保二十乙卯年十月廿日病卒︑法名心光院︑墓

在 真

如 堂

﹂ と

記 す

その右隣りの⑧﹁文室向井氏墓﹂(図4)は元端夫妻の娘で︑覚

囲院﹃過去簿﹄元文元年(一七三六)の候に﹁智照院貞節大姉九

(6)

若 木 太 一

月 十

日 文

室 向

井 氏

ト 云

向 井

元 桂

妻 ﹂

と記されている

人である︒その

斜め前の大形の

墓碑④﹁益毒院

法 印

元 桂

墓 ﹂

( 図

‑)はこの﹁文

室向井氏﹂の夫

の も

の で

あ る

元桂は実は盛方

院法橋吉田快毒

の五男元智のこ

とで︑元禄十二

午 (

一 六

九 九

)

二十七歳の時に元端の女婿として迎えられた(﹁寛保二壬成年正月

向井元桂書上書覚書﹂)︒貞享二年版の﹃京羽二重﹄巻六﹁諸氏諸

芸﹂(醤師)の項に﹁烏丸上立売下町典薬頭盛方院﹂と出てい

る の

が 元

桂 の

実 家

で あ

る ︒

向 井

家 は

ま だ

出 て

い な

い o

宝 永

末 年

( l

七二)頃版の﹃都すゞめ案内者﹄上﹁醤者衆名井所付﹂の入営

師)の項には﹁下長者町油小路西へ入丁向井玄旦﹂と出ている︒ 六

﹃国花万葉記﹄(元禄十年版)にはまだ向井家の名はみえない︒元

升の代は宮中など奥向きの医師としての活動が多かったらし‑︑

ようや‑元端の代になって一般に知られるようになったようであ

る︒洛中において由緒ある盛方院吉田家とのこの縁組みは︑向井

家にとっていっそう繁栄をもたらしたと思われる︒

⑫﹁向井元雄之墓﹂(図‑)は裏面に﹁幼名菊千代﹂とある︒こ

の人は﹃過去簿﹄の元禄三年(一六九〇)の候に出る﹁向井元雄

三月十六日向井伯英子﹂のことで︑おそら‑は元端の息子であ

(注

7)

ろう︒文室向井氏の兄か弟であるが︑早世したものと思われる︒

それによって吉田家から元桂を養子に迎えたものと考えられる︒

元桂と文室の間には五男一女の子供がいた︒まず長男が⑪﹁向

井 伯

彦 之

墓 ﹂

( 図

‑ )

の 主

で あ

る ︒

墓 碑

裏 面

に ﹁

元 禄

十 四

辛 己

歳 十

月廿日昌千代﹂とある︒﹃過去簿﹄には元禄十年の候に出るが︑

墓碑の記事が正しい︒﹃過去簿﹄によれば﹁向井淑英子﹂という︒

二歳で早世した︒⑮﹁晋軒向井元隆之墓﹂(図‑)が二男のもので

ある︒﹃過去簿﹄の寛保元年(一七四一)の候に﹁晋軒向井杢欽十

月十九日向井元隆事﹂と出る︒﹁向井氏系譜﹂に﹁敬止︑幼名久

之助︑後改元隆又信軒︑元文年中被任法橋︑寛保元辛酉年十月十九

日病卒︑行年四十五歳﹂という︒

この元隆の妹に﹁峰野(茂重子)﹂という女性がいた︒﹁向井氏

系譜﹂に﹁女子︑名茂登子︑後改峰野︑享保年中仕新内侍︑後嫁

(7)

勢 州

師 職

久 米

式 部

後下向長州松平大

膳大夫殿姫君為師

範︑姫君後入興子

鷹司家︑此時随姫

往 京

︑ 安

永 二

発 巳

十月五日病卒︑行

年六十九歳︑稀智

法印﹂とあるよう

に︑宮中へ出仕し

ていたが伊勢の師

職 久

米 式

部 に

嫁 し

後に長州松平家の

姫 君

の 師

範 を

勤 め

安 永

二 年

十 月

五 日

六 十

九 歳

で 没

し た

(図6 )左から「久米英彦之墓」,その弟「久米英俊之墓」,「向 井伯彦之墓」, 「向井元雄之墓」, 「純良貞俊之墓」, 「向 井元進之墓」及び「晋軒向井元隆之墓」

だから墓はない︒

⑭﹁向井元進之墓﹂(図‑)は元桂の三男元之進のもの︒﹃過去

簿﹄元文三年(一七三八)の候に﹁向井直恭八月十日向井元

之進事﹂と出る︒﹁向井氏系譜﹂には﹁源之︑幼名熊之助︑後改左

近又元真︑享保年中仕一候右大臣殿︑錐欲任諸大夫固辞蹄家︑撃

撃︑受父業︑元文二丁巳年八月十日病卒︑行年三十八歳︑墓所在真

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

如 堂

﹂ と

記 す

次は元桂の四男元仲(兼般また斎宮とも称した)であるが︑こ

の人は長崎聖堂四代祭酒向井文平の養子に迎えられて来崎し︑五

代祭酒となった︒元仲は寛政元年(一七八九)七月十二日没で享

年七十七歳︒はじめ春徳寺に埋葬されていたが︑のちに禅林寺に

改葬され︑妻山本氏節と同じ墓に眠っている︒﹁顕考向井元仲公

墓/顕批山本節女君之墓﹂と並記し︑左側面に﹁姓藤原︑氏向井︑

諒兼般︑字存省︑競銭塘︑誼安芳子忠粛﹂︑右側面に﹁正徳二年壬

辰十月二十六日生於洛陽︑寛政元年己酉七月十有二日卒︑葬干樫

馬場春徳寺後山︑享年七十七歳︑男良翰奉把﹂とある︒裏面には

妻の記事を記す︒﹁姓平氏山本︑諒節︑通議大夫丹波守娘︑正徳四

甲午歳八月二十九日生於洛陽︑天明六丙午歳三月二十七日逝︑享

年七十三歳︑認芳貞院︑男良翰敬立﹂と︒この元仲夫妻はともに

京都の人であったが︑長崎において生涯を過すことになったので

あ る

元桂の五男は元通である︒﹃過去簿﹄の天明八年(一七八八)の ︒

候に﹁英徳元雄居士十月朔日向井平治郎事﹂と出る人物であ

る︒これは渡辺庫輔氏が紹介する﹁真如堂覚囲院墳墓向井氏祖先

(注

8)

之法名書﹂に次のようにあるという︒すなわち﹁英徳元雄居士︑

天明八戊申年十月朔日︑碑未建︑俗柄向井平四郎︑右ハ元通事也︑

藤堂家御家来二成ル﹂と︒この人の墓碑はついに建てられなかっ

(8)

若 木 太 一

た の

で は

な か

ろ う

か ︒

この元通の息子の碑が②﹁向井定之丞之墓﹂(図‑)である︒墓

碑の右側面に﹁宝暦丙子歳五月廿六日﹂とある︒﹃過去簿﹄に照合す

ると︑宝暦六年(一七五六)の候に﹁蓮室貞教信士五月廿六日

向井元通子﹂と記載されている︒定之丞は若‑して亡‑なったも

の と

思 わ

れ る

なお︑⑬﹁純良貞俊之墓﹂(図‑)は﹃過去簿﹄の享保三年(一

七一八)の候に﹁純良貞俊大姉十月廿六日向井氏﹂と出るのみ

で素姓を明らかにできない︒おそら‑は⑮晋軒元隆の妻ではない

かと思われるが︑後考にまちたい︒

さて︑系譜にしたがって見てい‑と︑元端の妹﹁春﹂は慶安三

午(一六五〇)に長崎で生れたが︑慶安五年九月二十八日に早世︒

暗台寺に葬られた︒同寺﹃過去帳﹄に﹁後興善町向井玄松娘影

雨童女﹂と記されている︒

次の③﹁元淵﹂(図5)とは︑いうまでもな‑去来の墓である︒

しかし一見して他の墓碑と異質である︒というのは元の墓碑はす

でに失なわれて︑その代りに五輪のこの墓碑を設けたものである︒

去来の一周忌の宝永二年(一七〇五)に追悼集﹃誰身の秋﹄(久米

元察・吾中共編)が出版されたが︑馬才人書の﹁落柿先生墓誌﹂

には形は馬鷲封で︑碑石には﹁向井元淵之墓﹂と彫り込んである

と記している︒天保頃の様子を記した三浦若海の﹃蕉門二哲考﹄

Iノ

には﹁右墓碑十七基存在﹂と記しており︑その時代の数に‑らべ

てもすでに失なわれたものがいくつかあると思われる︒

元淵の妹佐世は︑宇野久兵衛に嫁いだ(﹁落柿舎去来先生

(注

9)

事実﹂)︒三男の元成は長崎に下り︑南部軍寿の後を承けて長崎聖

堂の三代目祭酒︑及び書物改役をも兼ねた人物︒享保十二年(1

七二七)二月九日没︒七十一歳︒生涯独身で︑内山弥右衛門の息

子で文平(元欽)を養子とした.しかし文平は享保十一年の冬に

大病を煩い︑急ぎ京都向井家の元桂の四男元仲(兼般)を養子に

迎えたことは前述した︒文平は享保十二年一月一日に没し︑春徳

寺後山に葬られた︒享年十八歳であった︒

四男の利文は︑母の弟で叔父久米七郎左衛門利延の養子となり

長崎浜町に住んだ︒字を道敬︑号を智鳶子といい︑後に高木氏を

名 乗

る (

﹁ 落

柿 舎

去 来

先 生

事 実

﹂ )

︒ 利

文 は

兄 元

成 と

同 じ

‑ 享

保 十

午(一七二七)十月四日没︒享年七十歳︒﹁本蓮寺過去帳﹂の同年

の候に﹁十月四日/智鳶子暁義道敬居士伊勢町道敬七拾才寺内

へ 土

葬 ﹂

と 記

さ れ

て い

る ︒

この利文は︑息子英彦と英俊兄弟の実父である︒

⑨﹁久米英彦之墓﹂(図‑)には︑裏面に﹁秀蘭子︑姓藤原︑氏

久米︑名八之丞︑字英彦︑久米利文之長子也︑延賛巳未七月十有

三日生干肥前州長崎邑︑享年六歳︑貞享甲子五月二十有八日病卒︑

洛陽旅館越明日葬洛東鈴聾山﹂とある︒覚園院﹃過去簿﹄の貞享

(9)

元年(l六八四)の候に﹁秀蘭子英彦五月廿八日向井八之丞

事﹂と記されており︑おそら‑京都向井家で預って育てていた折

に 病

死 し

た も

の で

あ ろ

う ︒

⑩﹁久米英俊之墓﹂(図‑)は右の英彦の弟守寿のものである︒

墓碑の裏面に﹁希賢子姓藤原︑氏久米︑名守毒︑字英俊︑競式

右衛門︑久米英彦之弟也︑天和三年糞亥正月二十日生子肥陽長崎︑

享年十有六歳︑元禄十一年戊寅二月初七日病卒干洛越初九日洛東

鈴登山﹂と記す︒﹃過去簿﹄の元禄十1年(l六九八)の候に﹁希

賢子英俊二月七日向井氏﹂と出ている︒伯父である元淵すな

わち去来が︑元禄十一年七月十一日︑英俊の遺髪もし‑は遺骨を

(図7 ) 「久米英俊之墓」裏面

故郷長崎の父母のも

とへ届けている︒去

来のこの時の旅につ

い て

は ﹃

渡 鳥

集 ﹄

( 那

七・去来編︑宝永元

年刊)に記録されて

いる︒この英俊の墓

碑は長崎田上の千歳

事にも建てられた︒

千歳亭は祖母田上尼

( 利

文 の

養 母

で ︑

米七郎左衛門利延の

妻 ︒

蓑 田

氏 勝

と い

う )

(図8 )田上の千歳序跡(徳寺寺境内)に建てられた「希 賢子英俊居士」の墓碑。その右は去来句碑(平成

2年建立) 京

都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

の別業で︑田上の徳三寺(長崎市田上町一五五)がその古跡とし

て 知

ら れ

て い

る ︒

英俊の墓碑は七十センチほどの正方形のもので︑同年十一月七

日に建立された︒もとは徳三寺後山にあったが︑現在は下の境内

に移されている︒写真(図‑)のように︑小さな地蔵が上に重ね

られているのがそれで︑碑には次のように刻まれている︒

﹁元禄十一戊寅年/喪為/希賢子英俊居士/建之/十一月初七

日﹂

(10)

若 木 太 一

この英彦︑英俊の兄弟は向井家で養育されていたわけだが︑お

そら‑嫡男をもたなかった元端が跡継ぎの養子として育てていた

のではなかろうかと思われる︒京都の気候があわなかったのか病

弱であったのか︑若‑して亡‑なり︑それぞれの希望は果されな

いままに終った︒前述したように︑元禄十二年に元端が娘﹁文室

向井氏﹂に女婿として元桂を迎えることになったのは︑この英俊

が亡くなったからだと思われる︒

‑去来はこの旅中︑田上尼の求めに応じて﹁千歳亭記﹂を書き残

し て

い る

(前略)彼につけ是にめで〜こそ住家の名も付られ侍るべき ︒

を︑たゞ千歳の事といへる事は︑ちよもといのるその子のた

めに︑人はか‑は呼なるべし︒ぬしの尼のもとめなれば︑見

る事き‑事書つらねて︑暫‑此に旅寝し侍るも︑猶千歳の秋

やちぎり置けんと︑後にはおもひ出らるゝ物ならんかし︒

内畑や千年の秋のたねなすび

嵯峨旅人去来記 o

(注

10

)

は別稿に詳細は記しているので省略する︒

⑤﹁保毒院法眼元棟﹂(図‑)の墓は︑難波氏によれば元端・元

(注

11

)

淵らの末弟兼之のものだと推定されているが︑発園院﹃過去簿﹄

では天和二年の項に﹁向井順節七月廿日元升四男ナリ向井信篤子﹂と

記されており︑少な‑とも利文や千代(利文は兼之の兄で長崎の

久米家へ養子に入った︒千代は兼之の姉で俳号千子︒清水氏に嫁

し︑元禄元年五月十五日没)の弟であるから没年時には二十歳前

後とすれば︑長兄元端も健在で霊元院から典薬として益毒院と法

印号を勅許されたのが元禄十四年のことであり︑この時に法眼に

叙せられていたとするのは無理がある︒この﹁元棟之墓﹂は兼之

のものではないと思われるが︑いまこの人物についての詳細は不

明なので後考にまちたい︒

四向井元升の墓碑銘

この文章にはひとり去来の感傷というだけではな‑︑実父利文

と祖母田上尼ら長崎の久米家の人々の深い悲しみと︑元端ら京都

向井家の残念な思いがこめられているように思う︒これについて この向井家墓地の祖考ともいうべき元升の墓碑について記して お

き た

い ︒

第二節で述べたように︑真如堂が寺町今出川から現在の地に遷

されたのは元禄五年冬から翌六年にかけてのことである︒その際

に元升の墓は改葬された︒嫡男元端は長崎の向井家とも相談を重

ね︑その墓碑建立に際し碑文の撰述を最初は柳川藩の儒者安東省

(11)

庵(一六二二‑一七〇一)に依頼した︒それは元禄三年(一六九

〇)冬のことで︑省庵はこの時六十九歳︒省庵は二十代半の正保

年間からたびたび長崎を訪れている︒また︑元升が京都へ出た後

も上京しては元升を尋ねている︒そうした間柄を知ってのことで

あったと思われる︒省庵はいったん引き受けたもののなかなか書

けず︑ついにこれを断った︒その時の詑び状が﹃省庵先生遺集﹄

(元禄十六年刊︑十一巻)巻五に収録されている︒

﹁与コ向井元成ごによれば︑元成は冬の寒さの中を省庵のもと

へ訪れ︑碑文の撰述を依頼した︒﹁京都において相知り︑往復談

論︑心に逆ふこと美し︒故に辞す事を獲ず思を構ずること数日︑

弧を操りて紙を展れば句を成さず章を成さず︑命に方ふの罪伏し

て乞ふ﹂(原漢文)と記している︒また︑﹁答二向井元端二にも

同趣旨の詑びを記している︒それは︑翌年春頃のことらしく︑令

弟(元成)がわざわざ寒中に訪れたので引き受けたが︑文章が成

らずに申し訳ないという丁寧な手紙である︒

そこで次に黒田藩儒者貝原益軒(l六三〇‑一七一四)に碑文

を依頼した︒益軒は若い頃からたびたび長崎を訪れ︑また元升上

京後はいっそう親交が深まった︒また︑元端・元成ら息子たちと

の交流も知られる︒益軒の撰文が成ったのは元禄七年(一六九四)

夏のことであった︒﹁向井氏霊蘭先生碑銘井序﹂は千二百字ほどの

長文で︑元升の事跡及び家系を伝えて余すところがない︒益軒の

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系 I

﹃自娯集﹄(正徳四年刊)巻七にも所収されている︒また︑長崎聖

(注

12

)

堂の元成のもとにもその撰文が送られて来ている(図‑)︒

次に﹁向井以順甫之墓﹂(図川・‖)の墓碑銘(右側面から裏

面︑左側面へと刻まれている)を記して本稿をひとまず終えたい︒

向井氏憂蘭先生碑銘井序

先生姓藤原︑氏向井︑名元升︑字以順︑慶長十四年二月二

日︑生干肥前州神崎郡酒村︑其先伊濠守京幾人也︑後醍醐帝

(ママ)

時︑従子征西将軍良懐王往肥後︑其子孫留居干菊池郡︑至今

其邑稲向井︑其喬孫某︑至菊池氏之亡時︑遷居於肥前州神崎

郡︑領数邑而為城主︑為郡中之豪士︑是為先生之高祖︑其子

(図9 ) 「霊蘭先生碑銘」(長崎市立博物館蔵)

(12)

(図11) 「向井以順甫之墓」(裏面)

左近︑後競高囲︑為龍造寺氏陥城︑流落居干神崎郡酒村︑其

家富姫︑奴稗百徐口︑高園子日四郎兵衛︑後視髪稗費保︑覚

保之子又競左近︑名兼義︑衰年競高南︑是先生之考也︑高甫

聖三根郡千粟八幡嗣宮中左馬之女︑是為先生之批︑生三男一

一二

女 ︑

長 子

嘉 兵

衛 ︑

次 先

生 ︑

次 日

久 次

郎 ︑

次 女

子 ︑

高 甫

有 病

避 酒

村 ︑

障 子

高 来

郡 長

崎 ︑

先 生

二 十

二 歳

︑ 始

謹 書

︑ 昨

夕 不

健 ︑

遂為馨︑従俗尚薙髪︑種名玄松︑字素相︑此時長崎︑無師友

之 可

従 ︑

猫 撃

刻 苦

︑ 日

夜 精

研 ︑

故 某

所 進

日 超

詣 ︑

闇 郷

撃 者

皆師事先生︑聞講者常盈堂︑用心於方技深臭︑故其術漸行子

世︑錐僻在西南︑隣国諸侯︑遣使招稗者不絶︑肥州平戸牧君

松浦氏鎮信︑信其術︑招先生︑欲輿釆地三百石︑箭以多病而

不就︑筑前園君黒田忠之︑招治其病有効︑囲君大悦︑欲以七

百 石

地 為

先 生

之 釆

邑 ︑

且 奏

朝 廷

昇 進

干 爵

位 ︑

先 生

以 親

老 不

鷹 ︑

四十六歳︑失其情情︑哀悼切︑至高治元年先生五十歳︑携妻 子入京師︑而家居鳶︑直詣伊勢大神宮︑於廟前束髪︑依有夙

志也︑以俗服不衷︑依苦式︑自製親羽徳衣︑以為稽服︑其制

典雅︑而可謂構其身也︑在京師日久而後︑其術益盛行︑八傑

金 剛

毒 院

宮 病

篤 ︑

衆 響

術 窮

︑ 依

後 水

尾 大

上 皇

之 詔

︑ 献

薬 有

験 ︑

太上皇大感︑寵錫以御憲二握︑如意l乗︑産杖l塁︑大成以

為柴︑皇子後宮及公卿大夫有病︑奉勅而為治甚多夫︑四方諸

侯招稗求治者︑亦不抄臭︑名聾籍甚︑震耀干都邸︑学賢者以

景慕鳶︑稀嘗世之良馨︑必以先生為巨撃︑六十歳︑治賀州宰

臣 前

田 氏

之 病

︑ 翌

歳 ︑

奥 村

氏 亦

嬰 病

︑ 又

請 而

治 之

︑ 皆

有 効

賀州牧君悦之︑将月給以百人之食俸︑且特賜以兼金千両︑而

為建撃之資︑先生以年老箭而不受︑延賓五年十l月朔︑以病

(13)

卒干家︑享年六十有九︑間者無不歎情︑越十有一日葬子洛東

鈴馨山︑元禄六年︑有故改葬干真南︑先生票気純厚︑其接人

也︑忠信而不欺︑温恭而不侮︑慈祥而愛人︑言行進止︑必以

嘩課︑其持己也︑謙約有節︑廉公有威︑故衆威愛重之︑某日

奉 也

︑ 倹

素 常

甘 潅

泊 ︑

不 好

華 飾

︑ 其

清 修

苦 節

︑ 妨

柿 平

古 人

在京師日︑聞其為大老︑慕輿之交︑其事親至孝︑定省不怠乎

農 夕

︑ 郷

里 稲

其 孝

︑ 素

崇 儒

術 ︑

篤 信

聖 人

︑ 其

治 緯

籍 看

醤 書

皆為工夫精密︑最深究於易及運気︑不好淀親雑書︑平生所著

之書︑凡十有七部︑其徐所作詩文亦移臭︑先生晩年更名元升︑

字以順︑日柄親水子︑其堂号室蘭堂︑故門人尊之︑構霧蘭先

生︑行年三十七歳︑要久米氏︑生五男四女︑長子元端︑継其

業︑其術精良不預家名︑鳴呼叙先生之行宴止乎此︑是其大略

也 ︑

其 詳

載 在

行 状

︑ 庶

幾 子

子 孫

孫 継

先 生

之 志

︑ 常

保 守

不 失

︑ 則以博慶於無窮︑銘目 名 歴 久 顕 徳 歴 久 馨 形 蹄 竜 夢 高 世 永 寧

元禄七年歳次甲成季夏日

筑州後学貝原篤信撰

孝 子

元 端

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

(1)小林月史﹃玄翁禅師伝現出と真如堂信仰﹄(真如堂研究会︑昭和五十

三年刊)によれば︑大永元年(一五二1)に応仁乱等で荒廃した寺合

は足利義政の祈願があって︑洛中1条に再建された︒その三年後の大

永四年に︑現在国宝に指定されている﹃真如堂縁起絵巻﹄が作られた

という︒しかし︑その本堂も戦乱で焼失した︒

(2)小林月史﹃真如堂開山忌物語﹄(真如堂本山真正極楽寺開創一千年奉

讃 会 事 務 局 ︑ 昭 和 四 十 九 年 刊 ) 0

(3)﹁延宝五丁巳天極月吉日/御絵図所林氏吉永﹂の刊記をもつ﹃内裏之

図﹄によれば︑次のように今出川口の通りをはさんで立本寺と向いあ

う 場 所 に あ っ た ︒

瀬図は一部分を掲出した.

(14)

若 木 太 一 ( 4

) ﹁ 去 来 1 家 の 事

﹂ (

﹃ 南 蛮 更 紗 ﹄ 大 正 二 年 九 月 刊 所 収 ) o

( 5 ) ﹁ 去 来 墓 の 所 在 地 に 就 て ﹂ ( ﹃ 史 林 ﹄ 十 六 巻 二 号 ︑ 昭 和 七 年 ) 及 び ﹃ 京

都名家墳墓録﹄大正十1年初刊︑昭和五十1年覆刻刊)等に詳しいO

(6)﹁向井元升とその家族たち﹂(昭和五十三年刊)には次のように寺田

貞次氏の二次にわたる調査及び︑昭和五十二年十月の調査時の墓碑図

を掲げている︒次には難波氏の論文の図を転載する︒

図1.大正13年頃まで鼻如堂向井家墓域図(移挿前)

〔寺田氏論文から〕

北< i墨谷墓地二通ズル道路‑

勧 修

四 国

顔 允

卿 墓

守 衣

塞 餐

団 ト 守 門 冒 匝 回

国 ∞ 向 井 家 墓 埜

1 0

呂 品 国 昌

/lI川l"II‖II.I !!lい!!I'/1'//川、

地 鼻如堂墓

m向井元升妻墓 ( 向 井 以 順 甫 妻 久 米 氏 之 墓 )

偽向井以順甫之蓋

㈲純良貞俊之墓

㈲向井元雄之墓

㈲久米英彦之墓

㈲向井元進之墓

間葉軒之妻片桐氏墓

㈱益毒院法印向井元端墓

㈱久米英俊之墓

㈹文室向井氏墓

は 山 晋 軒 向 井 元 隆 之 墓

㈹向井伯彦之墓

㈹向井定之丞之墓

図2.大正15年12月現在鼻如堂向井家墓域図(現在)

〔寺田氏論文から〕

北< i墨谷墓地こ通ズル道路‑

1 1 I I I I 1 1

1 1 1 / 1 1 1 1 ¥ ∴ n i ¥ u 1 i 1 n 1 1 ; i ' m1 " i n 1 1 i 1 i 1 / 1 n 1 i 1 n 1 吉 t ′ ∴ I t ∴ 1 I ∴ ′ I I 1 MI 1 r I m^ I I I I i l r l r I I , I I I I I I i I ¥ ) 1 1 ∴ 1 1 I 1 1 I I I I 昔 ∴ ■ ∴"i t i n , 一 ロ 悪 十

五 尺

I 暮 夏 帥 □ □ □ 加

八 I 尺 l I DC 3 蝣 ‑ 五 ̲y 尺 八 . . サ 寸 ー ' 松 ‑ ‑‑ T □ ロ 回 目

. 申 賢 覧 雪 習 □ 口 ロ

I + i R

勧 修 寺 顧 允 御 墓 裏 墓 壁 松十 尺 三 十 尺 敬

也 桓

1 31 1 9 8 7

′ ′ ′ ' / ' " 1 1 ! ( O f , 憲・ ‑ ' ! k 霊 1 " :′ ′ ′

七 尺 五 寸 鼻如堂墓地

Ⅲ五輪塔

仏向井元升之墓

畑向井元升妻之基

軸向井元端之墓

㈲向井元端妻之墓

㈲文室向井氏之量

刑久米英彦之墓

㈱久米英俊之墓

㈱向井伯彦之墓

㈹向井元雄之墓

価純良貞俊之墓

㈹向井元進之墓

的晋軒向井元隆之墓

㈹向井定之丞之墓

(15)

図3.昭和52年10月現在(難波作図)

向 井 以 順 甫 之 基

益寺院法印向井元端蓋

向 井 定 之 丞 之 蓋

震 軒 之 妻 片 桐 氏 墓

去来供養塔

文 室 向 井 氏 墓 益 書 院 法 印 元 桂 墓

久 米 英 彦 之 墓

保蕎院法眼元棟之基

久 米 英 俊 之 墓 向 井 伯 彦 之 墓 昭和52年10月現在

向 井 元 雄 之 墓 純 良 貞 俊 之 墓 向 井 元 進 之 墓

晋軒向井元隆之墓

北弓‑

向井以順甫妻久米氏之墓 (7)なお︑元禄三年買\日並﹄には︑十月十四日の条に﹁向井元端子息

死去︑今晩東山二而葬礼有之︑引導師無量院﹂とあり︑もう1人の早世

の 子 が あ っ た

( 8 ) ﹁ 向 井 去 来 ﹄ ( 去 来 顕 彰 会 ︑ 昭 和 二 十 九 年 刊 ) 所 収 ﹁ 去 来 と そ の 一 族 ﹂

四五九貢︒以下﹁向井氏系譜﹂﹁向井元仲書上書﹂等は同書及び聖堂文

庫 文 書 に 拠 る

(9)﹁去来先生全集﹄(落柿舎保存会︑昭和五十七年刊)所収︒以下こと

わりないものは本書からの引用である︒

(S)r俳譜の奉行向井去来﹄(大内初夫・若木太l共著︑新興社︑昭和六

十一年刊)の第八章﹁長崎への旅﹂参照︒

(3)注6参照︒

(3)長崎市立博物館(﹁聖堂文庫﹂)所蔵︒本簡の日付は﹁元禄七年歳次

甲成春分日﹂とある︒墓碑建立は同年六月になったものと思われる︒

︹ 付

記 ︺

本稿をなすにあたり︑真如堂覚園院住持奥村真隆氏︑真如堂研究会の小

林月史氏︑多数の関係資料の借覧を許された越智美登子氏にあっ‑御礼

申 し 上 げ ま す

また︑長崎の去来資料について御教示下さった中西啓氏︑長崎聖堂資料

について長崎市立博物館及び原田博二氏︑田上徳三寺庵主杉山二郎︑三郎

氏︑さらには京都真如堂覚園院等の調査に協力していただいた長崎放送の

大和憲1氏らに感謝いたします.

なお︑本稿は﹁長崎聖堂と向井家‑中国文化のフィクサ‑﹂と題す

る三島海雲記念財団研究奨励金(平成四年度)の研究成果の一部である︒

(一九九二年十月三十日受理)

京 都 向 井 家 墓 碑 考

‑ 文 人 向 井 元 升 の 家 系

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