[資料紹介] 金石文拓本資料の表装 : 江戸時代文人 墓碑と中国墓碑
著者 角田 芳昭
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 2
ページ 151‑188
発行年 1996‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16528
本学博物館には多量の日本︑韓国︑中国の金石文拓本が約二千点所蔵
きれている︒わが国の碑石︑墓碑︑石塔婆︑灯篭︑鐘類の拓本資料は﹃大
日本金石文﹄︵七巻・大正一○年︶を著わした木崎愛吉︵号好尚︶氏の
所蔵されていたもので︑資料の片隅に﹁好尚所拓﹂と捺印がある︒恐ら
くこの著書が完成後︑懇意としていた当時の毎日新聞社長本山彦一氏へ
譲られたものであろう︒その後︑本山コレクションの一部として本学が
購入したものである︒
本学ではこの資料を毎年計画的に表装をし所蔵資料して報告している︒
そこで平成七年度も若干の拓本を表装したので報告しておきたい︒
はじめに ︵資料紹介︶
金石文拓本資料の表装
l江戸時代文人墓碑と中国墓碑I
階柱國左光禄大夫弘義明公皇甫府者碑︑唐故徐州都督房公碑︑大智禅
師碑銘井序︑隆閑大法師碑銘井序︑大唐西京千福寺多宝塔佛塔感應碑文︑
三蔵和尚碑銘並序︑大秦景教流行中國碑︑國師千福寺多宝塔院法華楚金
禅師碑︑郎宮題名石柱︑唐盧世南撰井書︑勧愼刑文井序︑京兆府學新移 本阿弥光悦墓碑︑中江藤樹墓碑も里せいさへもん墓碑︑西山宗因墓碑︑井原西鶴墓碑︑三田浄久墓碑︑山口清右衛門墓碑︑竹本義大夫墓碑︑松尾芭蕉墓碑︑室鳩巣墓碑︑一本亭芙蓉花墓碑︑十時梅崖母墓碑︑中井竹山墓碑︑尾崎羅月墓碑︑以上十四点
二中国の拓木類 |日本の拓本類 角田芳昭
一
五
一
石經記︑宋高僧傳序︑樵李翼所公家訓︑禺玉衡山獄狗楼碑︑訓筋子文︑
白頭山定界碑︑新脩城陸廟碑以上十八点
主に日本の拓本は江戸時代の資料で︑本来︑研究時間があれば︑各人
の歴史上の業績を研究し︑また考察すべきところであるが︑発行期限と
表装の仕上りが遅れた為︑略歴のみを記し参考に供したい︒
ほんあみこうえつ本阿弥光悦一五五八一六三七桃山・江戸時代前期の芸術家︒書・
陶・漆芸を能くし特に優れた意匠をもって知られる︒室町時代より刀剣
のとぎ︵磨研︶・ぬぐい︵浄拭︶・めきき︵鑑定︶の三業で知られ︑また
京中の法華方大将といわれた有力信徒の町衆本阿弥家に︑永禄元年︵一
五五八︶父光二・母妙秀の長子として生まれる︑父光二の分家に伴い︑
本阿弥三業から半ば解放され︑家産を背景に芸術活動に専念する幸福を
得た︒それでも父光二以来知遇を得た織田信長家臣前田利家からは二百
石の知行をもって迎えられ︑家業のほか漆芸の御用にもあたった︒光悦
の消息百五十通のうちに加賀前田家重臣らとの交渉の多いのもそのため
である︒その間︑光悦は茶について千利休を批判して古田織部に学んだ︒
書は︑近衛信尹・松花堂昭乗とともに寛永の三筆とされ︑その師を青蓮
院尊朝とするのが通説である︒しかしむしろ生来天賦の才能をもって一
流を開いたものと考えられる︒作品に多数の和歌巻・色紙のほか﹃立正
安国論﹄︵重要文化財︶などがあり︑消息は特に珍重される︒その書を
版下にし︑嵯峨に住む角倉素庵︵与二の協力によって意匠・料紙に工
夫した嵯峨本は︑慶長九年︵一六○四︶から十三十五年にかけて出板
され︑光悦も特に﹃方丈記﹄﹃徒然草﹄﹃観世流謡本﹄など美術性豊かな 種目に力を尽くした︒片岡本本阿弥系図に本阿弥本家光刹の女子に﹁タワラャ宗達室﹂の註記があり︑光悦書の下絵を俵屋宗達が担当したと考えられている︒また料紙は紙屋宗二︑筆は筆屋妙喜が製作して晩年光悦の膳ヶ峰の隠栖にあたっても同行した︒元和元年︵一六一五︶大坂夏の陣のあと︑古田織部の自刃などもあってか︑光悦は二条城において家康から板倉勝重を通じて﹁近江・丹波杯より京都への道に︑用心あしく辻切追はぎをもする所あるべし︑左様の所を広々と取らせ候へ︑在所をも可取立者なり﹂との上意をうけて鷹ヶ峰拝領ということになった︒その解釈は従来の恩賞説に対して洛中所払いの形で師織部に連坐したとも考えられる︒膳ヶ峰の生活はこの地を芸術の里とともに法華の巷として開発することにほかならなかった︒薦ヶ峰における芸術活動は︑主として作陶にあった︒もとよりそのさきにも楽茶碗に惹かれて常慶の協力のもとに作品を残していたが︑赤楽の雪峰︵重要文化財︶のごとき独創的ながら大きな火割れがあって素人らしく︑乙御前はいっそう修業を積ん
こうだいでいるが高台に難がある︒その後いよいよ本格的な作陶に入って赤楽の
加賀光悦︑白釉の不二山︵国宝︶の名品を出すに至った︒不二山には太
虚庵と箱書され︑光悦が寛永元年︵一六二四︶のころ鷹ヶ峰に営み板倉
重宗・林羅山などを迎えた太虚庵の号を伝え︑さらに雨雲︵重要文化
財︶・時雨などの作品が安定した至芸をとどめている︒太虚庵の庵号の
もとでの漆工の硯箱・文庫などは︑たとえば舟橋蒔絵硯箱︵国宝︶もそ
れと伝えられ︑その意匠において他の追随を許さぬ作風がみられる︒そ
のころ﹁膳峰光悦町古図﹂︵元和四年l寛永四年製作︶によると︑膳ヶ
峰は光悦の宅︵間口六十間︶を中心に本阿弥一類に茶屋四郎次郎︑尾形
五
なかえとうじゅ
中江藤樹一六○八四八江戸時代前期の儒学者︒韓は原︑字は
これなが惟命澱通称は与右衛門︑号は喫軒︒自宅に藤の木があったことにより︑
門人から藤樹先生と呼ばれた︒慶長十三年︵一六○八︶︵三月七日︑近
あどがわ江国高島郡安曇川町上小川︶に生まれた︒父は吉次︵徳右衛門︶︑母は
北川氏︒祖父吉長︵徳左衛門︶は︑武士となって︑伯耆国米子城主︵六
万石︶加藤貞泰に仕えていた︒貞泰の父光泰は︑天正十年︵一五八三
ごろに近江国高島城主であったから︑吉長はそのころに出仕したのであ
ろう︒吉次もともに武士となったが︑のちに事情があって帰農したかと
推測される︒藤樹は元和二年︵一六一六︶九歳の時︑吉長の養子となっ
たが︑一人だけの男子を養子に出した点からも︑一家の武士志向がうか
がわれる︒翌年︑加藤家は︑伊予国大洲に転封になり︑吉長は禄高百五
十石で風早郡の郡奉行を勤めた︒吉長の没後︑十五歳で藤樹が相続し︑
やはり郡方の役人として︑百石の禄を受けた︒この間に藤樹は文字を学
習し︑祖父の代筆をするなど︑すぐれた能力を示したが︑寛永元年︵一 宗柏︵光琳・乾山の祖父︶︑土田宗沢︑筆屋妙喜などの家すべて五十五軒が建ちならび︑その中心に題目の巷らしく法華寺院も四所を数えている︒光悦らは前田家からの知行のほか︑﹁町中作取﹂︵新検百七十六石余︶という開発地主的境遇を迎えていた︒晩年光悦によって佳き妻吉野を迎えた灰屋︵佐野︶紹益は︑寛永十四年二月三日光悦が八十歳で世を去った時︑﹁生れ得たる心の趣かつ覚たらんもうせてなく︑伝聞かんも又々なし︑又世に有べき人間とは覚侍らず﹂︵﹃にぎはひ草﹄︶と書きしのんでいる︒墓は京都市北区鷹峯光悦町の光悦寺にある︒ 六二四︶十七歳の時︑京都から来た禅僧による﹃論語﹄の講義を聞いて︑本格的に儒学に志すようになり︑﹃四書大全﹄を入手して︑独学で朱子学を修めた︒当時の大洲の武士の間では︑学問をすることに反感をもつ者も多く︑また次の藩主泰興も藤樹には冷淡であったらしい︒のちに著
さぶらいどうわした﹃翁問答﹄の中で︑儒道と士道とは一致する︑と主張している
ように︑このころの藤樹は︑武士としての生活の上で儒学の教えを実践
しようと努力しており︑二十四歳の時には︑幕府の儒官である林羅山と
その門人との言行不一致をきびしく批判した文章を書いている︒翌年︑
泰興の弟直泰が分封︵新谷藩︑一万石︶されると︑藤樹はそこに配属さ
れた︒二十七歳の寛永十一年に至り︑郷里に住む母への孝養と︑自己の
病気︵喘息︶とを理由に︑退職を願い出たが︑許きれないまま武士の身
分を捨てて京都へ︑ついで近江へ帰った︒この行動の背景には︑武士社
会の実情と︑藤樹の抱く理想との間の︑矛盾の意識があったと推測され
あきないる︒﹃翁問答﹄には︑﹁商立身の上手なる士の時めく﹂現実に対する批
判的記述がみられる︒帰郷後の藤樹は︑酒の小売りなどで生計を立て︑
学問に専念した︒三十で高橋久と結婚したが︑この年齢も﹃礼記﹄の原
則に基づくなど︑このころまでの藤樹は︑朱子学の教える礼法を厳格に
守ろうとしていた︒しかし次第に形式的な礼法の実践に疑問を抱くよう
になり︑一時は道教の太乙神を信仰したりしたが︑やがて道徳の形式
︵﹁通﹂︶よりも︑その精神︵﹁心﹂︶の方が重要であるとし︑﹁時・処・位﹂
の具体的な条件に応じ︑その状況に適切な正しい行動をとること
︵﹁中﹂︶︑またその状況に応じた正しい行動のあり方を自主的に判断する
能力をもつこと︵﹁権﹂︶にこそ︑学問の目標があるとする︑自由な道徳
一
万
一
一
一
思想を唱えた︒これは︑個人の主体性を基本とした朱子学の道徳思想を︑
日本の社会に適応させようとした︑独創的な思考の成果として注目され
る︒その主張は︑﹃論語郷党啓蒙翼伝﹄︵三十二歳︶︑﹃翁問答﹄︵三十三
歳︶︑﹃孝経啓蒙﹄︵三十四歳︶などの著述に示されている︒特に﹃翁問
答﹄は︑大洲に残して来た学問上の同志んおために︑平易な和文の問答
体で書かれた教訓書であって︑﹃孝経﹄に基づき︑﹁孝の道理﹂という理
解しやすい表現で︑朱子学の道徳理論を解説しており︑三年後には無断
で出版されて︑広く流布した︒正保元年︵一六四四︶三十七歳の時に︑
王陽明の全集を入手し︑その思想に傾倒して︑以後は陽明学の立場で﹃大
学考﹄などを著述し︑そのことにより日本における陽明学の祖とよばれ
ている︒しかしその陽明学についての理解は︑十分なものではなく︑こ
の時期の藤樹の道徳思想も︑社会批判の要素を欠いた消極的な性格のも
のにすぎず︑﹃翁問答﹄のような魅力には乏しい︒晩年に著わした女性
かがみぐさのための教訓書﹃鑑草﹄の内容も同様で︑その中で具体的な事例とし
て述べられている話も︑その大半が明代の書﹃廸吉録﹄の引き写しで︑
現実味に欠けている︒慶安元年︵一六四八︶八月二十五日没︒四十一歳︒
上小川の玉林寺に墓がある︒藤樹は教育にも熱心で︑友人の子大野了佐
に医術を教えるため︑精根を尽くしたこともあった︒大洲をはじめ諸国
から来て従学する者も多く︑特に岡山藩主池田光政は藤樹を尊信して︑
その三人の子を岡山に招き︑宜伯を客分とし︑仲樹を近習に︑また季重
を学校奉行に登用した︒季重︵常省先生︶は退任して帰郷したのち︑対
馬藩の客分となり︑その子孫は対馬藩士としての地位を世襲した︒また
こうざん門人の中では︑熊沢蕃山と淵岡山とが傑出し︑岡山の学派は︑京都・大 坂・会津などで発展した︒近世後期には藤樹は近江聖人と称せられるようになり︑さらに明治以後は︑親孝行の模範として︑道徳教育の上で重んぜられ︑大正十一年︵一九一三︶には藤樹神社が県社として創設された︒なお居宅は藤樹書院と称せられて︑神位︵儒式の位牌︶や関係資料などを現在に伝えている︒﹃藤樹先生全集﹄︵全五冊︶がある︒たけもとぎだゆう竹本義太夫浄瑠璃︵義太夫節︶の太夫︒
㈲初代一六五一一七一四本名五郎兵衛︒清水理太夫︑竹本筑後
橡と号す︒慶安四年︵一六五こ摂津国東成郡天王寺村南堀越︵大阪市天王寺区︶に生まれる︒清水理兵衛の門弟︒延宝五年︵一六七七︶京の宇治加賀橡座に出演︑﹃西行物語﹄二段目の豪快な語り口で好評を博す︒貞享元年︵一六八四︶大坂道頓堀に竹本座を創立︒翌二年﹃出世景清﹄以後︑作者近松門左衛門と提携し︑義太夫節を創始︒人形浄瑠璃を中世色濃厚な古浄瑠璃から︑歌舞伎と並ぶ近世の現代劇へと脱皮せしめた︒元禄十一年︵一六九八︶正月以前受領︑竹本筑後橡藤原博教と号す︒同十六年︑近松作の世話浄瑠璃﹃曽根崎心中﹄の大好評により︑竹本座が年来の負債を返してのちは︑座の経営を興行師竹田出雲に任せ︑舞台にかさねいづつけいせいはんどうこう専念︒﹃心中重井筒﹄﹃傾城反魂香﹄﹃冥途の飛脚﹄︵いずれも近松作︶な
ど︑今日まで舞台に残る多くの名曲を語り︑晩年も﹁筑後の橡の世話事
あわれは︑哀︶でだてでしっぽりで﹂と称えられた︒正徳四年︵一七一四︶
九月十日没︒六十四歳︒法名は釈道喜︒墓は大阪市天王寺区大道の超願
寺に現存︒
ちゅうもみや
口二代一六九一一七四四本名小原氏︒通称中紅屋長四郎︒若竹
一五四むろきゅうそう
室鳩巣一六五八一七三四江戸時代中期の儒学者︒諄は直情︑字
は師礼︑汝玉︑通称は新助︑号は鳩巣・槍浪︒万治元年︵一六五八︶二
月二十六日江戸に生まれる︒父は玄撲︑草庵と称し医を業とし︑備中英
賀郡から摂津に移りざらに江戸谷中村に転住した︒母は平野氏︒寛文十
二年︵一六七三二月加賀藩に出仕し︑秋には京都で木下順庵に学ぶこ
とを命じられた︒以後加賀・京都・江戸を往来して勉学を続けた︒この
間︑天和三年︵一六八三︶に父が江戸菊坂の宅で没した︒享年六十八︒
貞享元年︵一六八四︶俸禄百五十石を給され︑元禄三年︵一六九○︶に
五十石加増︑元禄十年に母が没した︒同十五年﹃大学章句新疏﹄を著わ 政太夫︑竹本政太夫︑竹本上総少橡︑播磨少橡と号す︒元禄四年︵一六九こ摂津国東成郡島の内三津寺町︵大阪市南区︶に生まれる︒初代の門弟︒初代没後の竹本座の危機に︑若い政太夫を中心に据えた陣容による﹃国性爺合戦﹄︵近松門左衛門作︶が三年越し︵正徳五年︵一七一五︶l享保二年︵一七一七︶続演の大成功を博し︑政太夫は座頭格の地位を確立︒享保十九年二代目襲名︒二十年上総少橡受領︒元文二年︵一七三七︶再受領して竹本播磨少橡藤原喜教と号す︵享保二十年︑播磨少橡受領説あり︶︒延享元年︵一七四四︶七月二十五日没︒五十四歳︒法名不聞院乾外孤雲居士︒墓は大阪市天王寺区夕陽丘町の天瑞寺︒生得小音の悪条件を克服し︑情深く細心に語ることで︑初代以来の義太夫節の基本方針﹁うたうな語れ﹂を一層徹底せしめた︒彼を中心とする竹本座の質実剛健な曲風を西風とよび︑豊竹若太夫の華麗な東風と対時する︒二代目政太夫はじめ門弟多数︒﹃音曲口伝害﹄に芸談を収録︒ し︑程朱学の旗幟を掲げた︒正徳元年︵一七二︶五十四歳の時︑新井白石の推挙により幕府儒員︵二百石︶に登用され︑四月一日に将軍に謁見し︑十月朝鮮信使来日に際し本願寺で筆談応接にあたった︒同三月駿河台屋敷を拝領︑享保四年︵一七一九︶十一月三日には高倉屋敷講釈を勤め︑同六年正月御座間講釈を勤め︑また七月に六諭術義仮名書御用を命じられた︒同七年には御座間にて﹃尚書﹄講釈︑また﹃六諭桁義大意﹄成り︑貞観政要﹄の侍講を勤めている︒八年・九年にも侍講を︑十年六月には高倉屋敷講釈や西丸講釈を︵十二月に西丸奥儒者となる︶︑十一年二月には﹃大学﹄三綱領・﹃孟子﹄序の講義をそれぞれ勤めた︒同十九年八月十四日没︒七十七歳︒法名容性︒江戸大塚︵東京都文京区大塚五丁目︶の室家墓地︵現在の大塚先儒墓所︶に儒葬された︒彼は経学・文章ともに知名の大儒で︑典型的な朱子学者として︑﹁孔孟の道は程朱の道なり︑程朱の道を捨てて孔孟の道に至るべからず﹂と主張し︑また徳の本源は心の仁であるが︑仁を補うものとして義を重んじている︒著名な﹃赤穂義人録﹄はそれに基づいている︒時務策については︑深い交友にもかかわらず白石とは異なる立場をとり︑また遊佐木斎との論争からも崎門とは異なる主張であった︒著者は︑﹃大学﹄﹃中庸﹄﹃周易﹄のおのおのに新疏があり︑﹃鳩巣文集﹄﹃献可録﹄﹃駿台雑話﹄﹃朝鮮客館詩文集﹄﹃国喪正議﹄﹃神儒問答﹄﹃鳩巣小説﹄﹃兼山麓沢秘策﹄ほか多い︒なかいちくざん中井竹山一七三○一八○四江戸時代中期の儒学者︒名は積善︑字は子慶︑通称善太︑竹山は号︒死後文恵先生と誼された︒享保十五年︵一
七三○︶五月十五日︑大坂の学問所懐徳堂の預人兼学生であった中井瓦
一五五
詩の作詩法︶︑﹃逸史﹄︵国史︶などがある︒ 愁庵の長男として生まれた︒学問は弟履軒とともに︑主として当時懐徳堂で教授していた五井蘭洲に学んだ︒宝暦八年︵一七五八︶︑父の死とともに懐徳堂預人の地位を引き継ぎ︑天明二年︵一七八三に三宅春楼︵同校の創始者三宅石庵の子︶が没するとそのあとを承けて学生となり︑以後没するまで︑同校の発展のために心血を注いだ︒また︑同じころ詩社﹁混沌社﹂を主宰して多くの文人を結集した片山北海と並んで︑大坂文人社会の中心的存在となり︑当時大坂にあって寛政朱子学派を形成しつつあった尾藤二洲・頼春水らとも親交があった︒学問上の立場は朱子学を基本とし︑その立場から祖棟学を激しく攻撃した﹃非徴﹄を著わし︑天明四年︑師蘭洲の﹃非物篇﹄とともに刊行しており︑また︑懐徳堂の講堂には朱子の白鹿洞学規﹄を掲げたが︑経害解釈にあたっては必ずしも朱子の説を固守するわけではなく︑自由に諸家の説を折衷する態度をとっている︒同八年︑大坂を訪れた老中松平定信に謁したことが機縁となって︑以後数年がかりで政治論﹃草茅危言﹄を書きあげた︒寛政四年︵一七九三大火で懐徳堂が焼失してからは︑その再建と官学化をめざして江戸に出府︑定信をはじめとする幕閣への陳情などに奔走したが︑思うような成果が得られず︑同七年三百両の手当金を下賜されたにとどまった︒不足分を門下生などの義損金でまかない︑翌八年懐徳堂は再建されたが︑九年十一月預人の地位を子の蕉園に譲って隠居し︑文化元年︵一八○四︶二月五日に没した︒七十五歳︒墓は大阪市南区の誓願寺にある︒代表的な著書には前記のほか︑﹃莫陰集﹄︵詩文集︶︑﹃詩律兆﹄︵漢 参考文献
﹃国史大辞典﹄吉川弘文館昭和五十四年三月 一五六
42X31cm
一五
七
中江藤樹墓碑拓本慶安元年 (1647) 111 X 31. 5cm
一五
八
88X63cm
一五
九
一六
〇
一六
三田静久墓碑元禄元年 (1688) 62X60cm
六
山口清右衛門墓碑拓本元禄5年 (1692) 118 X 69cm
六
竹 本 義 太 夫 墓 拓 本 正 徳4年 (1714) 65X46cm
六四
松尾芭蕉墓碑銘拓本享保19年 (1734) 105X60cm
六五
室 鳩 巣 墓 碑 拓 本 享 保19年 (1734) 65 X45cm
六六
六七
十時 梅 崖 母 墓 碑 拓 本 寛 政5年 (1793) 69 X 52cm
一六 八
中井竹山墓碑拓本文化元年 (1804) 102 X 38cm
一六
九
尾 崎 羅 月 墓 碑 拓 本 文 政10年 (1827) 68 X 42cm
七〇
隋柱國左禄大夫弘義明公皇甫府君碑 建徳4年 (575) ll7X90cm 七
唐故徐州都督房公碑拓本(部分) 大業11年 (615) 314 X 128cm
七
一七 三
大智禅師碑銘並序拓本 開元24年 (736) 203X110cm
隆閾大法師碑銘井序 天賓2年 (742) 159X83cm
七四
大唐西京千福寺多室佛塔感應碑文拓本 天宝11年 (752) 182 X 96cm
七五
疇
三蔵和尚碑銘並序拓本建中2年 (781) 195X9Zcm
七六
七七
大薬景教流行中國碑唐建中2年 (781) 228X88cm
国師千福寺多宝塔院法華楚金禅師碑拓本 貞元21年 (786) 170 X 93cm
七八
郎 宮 題 名 石 柱 大 中12年 (858) 98X63cm 七九
唐虞世南撰井書相王旦題拓本宋乾徳年間 (963‑968)再刻 181X99cm
八〇
勧 恨 刑 文 井 序 泉 天 聖6年 (1028) 158X82cm
八
京兆府學新移石経記拓本元祐5年 (1090) 125 X 64cm
J¥
一 八 ︱ ︱
︱
守高僧博序 111 X90cm
樵 李 翼 所 公 家 訓 葛 暦4年 (1576) 165X84cm
八四
萬王衡嶽狗楼碑拓本康熙5年 (1666) 204 X82cm
八五
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訓 筋 士 子 文 康 熙41年 (1702) 184 X 7 4cm 八 六
白頭山定界碑拓本康熙51年 (1712) 83 X 58cm
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