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井上一郎

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(1)

W.フォークナーの『死の床に横たわりて』

‑そのアポカリプス的構造について 井上一郎

W. Faulkner's As I Lay Dying

Its Apocalyptic Structure

Ichiro INOUE

(1)

As I Lay Dying (1930)は前作のThe Sound and the Fury (1929)とし ばしば並置して考察される。それは両作品が、内的独白(interior monologue) を中心的な技法として構成されており、素材としては南部の一家族の置かれた 終末的状況を共通に扱っているために他ならない。しかし、当然のことながら 相違点も顕著に見出せる。つまり、 The Sound and the Furyにおいては、四 章の中で最後のDilseyの章だけが三人称で作者の視点から語られているのに 対して、 AsILay Dyingでは、作者は語りの場を完全に奪われ、そこに展開

されるのは登場人物たちだけの独白の世界である。したがって、内的独白の技 法の完成度から言えば、 As ILay Dyingの方がまさにtourdeforceと断定 できよう。一方、素材として問題にされている貴族主義的なCompson家と貧 乏白人のBundren家では本質的に異るし、 Faulkner自身の立場から判断す

ると、その相違は、前者に対する主観的な態度‑"I have the most tender‑

ness for that book..." ‑、及び、後者に対する突き放したような客観的態

I simply imagined a group of people and subjected them to the simple

universal natural catastrophes which are flood and fire…

に表明されていると言ってよい。

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さらにAs ILay Dyingは、 Bundren家の人々のみならず周辺のminorな 人物達にも独白の機会を与えることによって、作品の世界を従来のいわゆる主 人公の「苦悩に満たされた自我の牢獄」3)から解放し、 「社会的反響」4)を与える ことに成功している。つまり、この作品がC.Brooksの言う「共同体」の枠 を強く打ち出している点がThe Sound and the Furyとの差であり、Faulkner の作家としての成熟度を表わしている。

いうまでもなくAs ILay Dyingの主要なモチーフは旅であり、L.G.Levins が指摘したように、それは人間の生を象徴するものとして、いくつかの神話・

民話の形で文学的パターンとしてすでに本作品の外に存在していた05)そしてそ の典型が「叙事詩の旅」、 「探究のロマンス」、及び「中世の巡礼の旅」であり、

これらはいずれも人間の精神の高貴さと救済をテーマに詣いあげたものに他な らない。したがって批評家の多くがこれらのパターンに着目しているのは当然 として、従来の批評の流れが、 Bundren家の人間たちが行う一種グロテスクな 旅が普遍的な旅のモチーフに対して露呈する落差をどのように判断するかによ って大別されてきたのも事実である。つまり、落差を強調すれば、 E.M.Kerr のいうようにこの作品は、 「『探究のロマンス』の皮肉な裏返し」6)になろうし、

C.Brooksのようにヒロイズムも愚蒙さも生の両面性を表わすものと考えれば、

「忍耐と行為に対する人間の可能性」7)という積極的価値は否定されずに保持さ れることになるだろう。

しかし上に指摘されたパターンのいずれも、 Bundrenたちの行う旅が内包し ている人間の死と死後の魂の救済(「再生」)のテーマに対しては適確な分析の 根拠を提供していないように思われる。 As ILay Dyingが立脚している文学 的パターンは、作品の外にあるのではなく、むしろVernon Tullの妻のCora

フ7ンダメンタリスト

の言動に凝縮された形で作品の中に設定されている南部の根本主義者特有の黙 示録的終末観である。本論では作品を黙示文学の伝統に従って、 Addieの死と Addieを含めた家族全体の救い(「再生」)について考察を試みてみたい。

(2)

M.Millgateによれば、 As I Lay DyingはFaulknerの終生の課題であっ た視点(point of view)の問題に対して、 The SoundandtheFuryの技法

を更に徹底させて、登場人物の内的独自(interior monologue)だけで構成す

ることによって、一応の解答を示したという意味において、 "a brilliant tour

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def。rce"ということになる。またG.L.St。numに言わすれば、 「形式と 技法(ここでは、内的独白)を表現(Bundrenたちの旅の描写)のための透明

な道具にする」9)という点において美事な成功を収めた作品でもある。いいか えるならば、 As ILay Dyingにおける技法上のtourdeforceは、前作の最 終章にわずかに残されていた作者の視点を完全に追放して、読者には「透明な」

客観的な小説世界を提示した点にあるのだ。

しかし、内的独白だけで構成された作品は必然的に断片的な世界に陥る可能 性を学んでいる。技法を徹底させるということは、作者はかくも断片化した世 界を読者の前に曝け出すという危険性に耐えることも含まれているかも知れな い。しかしFanlknerは前作に第四章を付け加えたように、この作品において

もAsILayDyingというタイトルを冠せることによって、その危険性を回避 している。今、 Odysseyの第十一章にあるとされる出典を無視して字義通りに 解釈するならば、このタイトルは、主語の"I",つまりAddieが"LayDying"、

つまり「死の床に横わって」いる時に見、かつ醜いたことこそ、一見断片的に 思われる作品の統一的な内容に他ならないことを問わず語りに暗示しているか

らである。

だがAs ILay Dyingを小説全体のタイトルとすることは、実は論理的では ない。なぜなら、小説の冒頭では、たしかにAddieは臨終の床にあって家族 と近隣の老たちに囲まれているが、そのすぐ後には彼女は実際に死んでしまい、

家族の者が経験する旅の難難辛苦の世界からは閉め出されてしまうからだ。い

ずれにせよ、彼女に限らず自分の臨終の場面をどんな手段を用いても、それを

後ほど、つまり、自分の死後に表現することは不可能であることは言うまでも

ない。何らかの意味で表現者であるということは、当然のことながら、その表

現者は生者であらなければならない。だからタイトルのAsILayDyingを字

義通り小説全体に適用することは自己矛盾を呈することになる。このタイトル

を適用する限り、主人公のAddieの死はありえないからだ。しかし、予盾を解

く可能性が一つ残されている。それは、同じく黙示文学の色彩の濃いFlannery

O'Connorの短編"The Judgement Day" (1964年)の中で、主人公のTanner

は自分の死後の世界についての夢を見るのであるが、それと同じようにAsI

LayDyingの旅の世界を一種のAddieの夢と考えることである。 (Taは

後に、実際に死ぬのであるが。)もしそうすれば、従来考えられていた作品全体

のリアリティは根底からくつ返され、そこにはAddieの黙示的な幻の世界が現

出することになるであろう。

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Bundrenたちの旅の豊かなリアリティを確保するためには、 Addieの死を認 めかすればなるまい。死そのものは肉体の腐敗とそれに連なる絶対的な非在(ノ ンリアリティ)に他ならないが、ここで言うリアリティとは、村の医者Peabody の言葉を借りるならば、 「心の働き」それも「残された老たちの心の働き」10)の 中で展開される性質のものである。だからAddieは彼女の死後も夫のAnse を初め家族の者たちの心の中にリアルに生かされ、また生きているといえるの である。それに対して、 Addieの死を認めまいとする人物が二人いる。それは、

Gillespieの家の庭で「棺の中でおふくろはひそひそとした秘密のつぶやきを、

時折ぽつりぽつり吐き出すようにつぶやいている。」11)と観察するDarlであり、

「母ちゃんは魚であり」12)したがって、棺の中に針づけにされたのは「母ちゃん じゃなかった」13)と主張する弟のVardamanである。そして、二人は死の現実 性を認めることを拒む程度に応じて、他のBundrenたちが遂行する旅の間中、

周辺的存在に留まるが、あるいは、旅そのものから放逐される運命にある。

しかし小説の中では、 Addieの死の現実性はDarlとVardamanによって 希釈される一方、隣人の女性Cora Tullによっては一層強化されるのである。

フアンダメンタリスト

いわゆる根本主義者のCoraにとっては、人間の死とは、人間の魂の歴史にお いて、いわば終末論的な一つの「出来事」であり、その後に展開される魂の救 いの黙示録的世界の入口に他ならない。 Coraにとっては、人間の地上の生は

「永遠の恩寵をかちとるには短かすぎる」14)ぐらいの、あくまでも準備期間で あり、死と死後の世界こそリアルな期待感と充実感に包まれているのである。

だからAddieの死を連絡しにやって来たVardamanを見て、まだその事実を 喋べる前から(̀̀But he aint said " I(‑Tull) says.)15)Addieの死を信 じて疑わず、 Bundren一家を観察しつづけて来た結果として、彼女の死こそ「彼 らに対して下された裁きである。」16)と断定するのはCoraである。肉体の崩 壊に続くカオス状態を引き起こす死の終末的な意味も、その後に開示される救

いの状態を考慮すると強烈な希望に導かれているのであるから、彼女にとって 一死は現実的であり、又、むしろ期待されるべきものでもある。

しかしながら、ここで問題なのは死の現実性そのものにあるのではなく、逆

説的に言えば死後どのように生きるかということである。この小説のすべての

人物が腐心するのはじつにこの問題であり、タイトルの"Lay Dying"という

逆説的表現がそのことを如実に物語っている。南部のファンダメンタリズムの

伝統の中で育ち、その典型的人物であるCoraは、死の終末の時には声高らか

に勝利の歌を歌いながら天国に召されて永遠の生をかち得るものと確信してい

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る。一方、伝統に対して反逆的立場を取り実証主義者のAddieは、地上の生 を来世への準備に奉仕させ空洞化させるのではなく、ひたすら地上の生の充実 を願望する。したがって彼女の死後の生き方もきわめて地上的なものに留る。

すなわちAddieは夫のAnseがJeffersonで新しい花嫁を見つけて再婚す るまでは生かされ続けるであろう。

Addie自身はCoraが体現するファンダメンタリズムの伝統に基く黙示録 的終末論は否定して生きて来た。しかし彼女の意志の消滅した死の瞬間と死後 の状態は、すなわち、彼女を取り囲む人びとが描き出す小説全体は終末のヴィ ジョンに色濃く覆われていることは否定Lがたい。 As ILay Dyingに存在す るapocalyptic atmosphere (黙示録の雰囲気)について指摘を行った批評家 は少いが、ここではAndre BleikastenとBarbara M. Crossの説を取り上 げてみよう。

Bleikastenによれば、全体的に見て「As ILay Dyingに描かれた世界は、

原初的なカオスが新たに出現する世界ではなくて、むしろ原初的なカオスへと 今まさに回帰しようとしている世界である。」17)っまり、彼は正統的なキリスト 教の終末論が内包しているところのカオスを超えて再生された新しい性界の誕 生をこの作品の中に兄い出すことに対しては否定的である。さらに、このひた すらカオスへ向ってdissolveする終末の世界こそ、主要な語り手であるDarl の「内的精神の崩壊」を反映しているのであれば、結局、 「この小説のdrama を演出しているのは彼である」18)として、 Darlにいわば「演出家」としての統 一的役割を与えている。

一方、 Barbara Crossも旅の背景(太陽は「入道雲の項に血に染った卵の ように」浮いており‑‑空気は硫黄の臭がし‑‑‑光は鋼のような色をしている。) や登場人物の行為と言葉を黙示録の世界を表わすimageryが包み込み、また、

それらの意味を「増幅」 ("magnify";している点を指摘することを忘れない。

さらに彼女は、旅の行程で開示(reveal)される登場人物たちの偽善性と打算 性のゆえに、 「彼らが神話(apocalypse)のパロディを提供している。」19)という 事実をも鋭く見抜いている。

喜劇的な方法によってではあるが、とにかくも悲劇的な旅の苦難を乗り超え て勝利するBundrenたちの人間的な強さを賞讃する皮相的な見解の多い中で、

Cross、 Bleikastenともに、作品の本質的な雰囲気の指摘においては鋭い批評

眼を示しているといってよい。しかしながら、筆者に言わすれば、二人の意見

が作品の黙示録的雰囲気の指摘、あるいはそのパロディ化、に留まっており、

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IIU

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作者Faulkner自身によっても支持され、また作品内の登場人物Coraをは じめとして共同体の中に伝統的に保持されているといっても過言でない黙示録 の構造(それは死後どう生きるか、という問題、つまり、「再生」のテーマこそ、

この構造の要であるのだが。)に対する認識が欠落しているように思われる。

(3)

当然のことながら黙示小説は未来のこと、つまり人間の生にとっては死後の ことを主題にする。しかし、人間の死の瞬間もまた、黙示小説が下敷にしてい る聖書の黙示録の構造から言えば、地上の生に対して下される神の裁きであり、

その後に終末の試練と輝かしい新しい生命の始まりを予測させるがゆえに、作 品の中では絶対に欠かせないモメントを形成している,AsILaingDyingにお いては、冒頭に見られるAddieの死がそれであり、恐らく他の小説であった ら重要であると思われる彼女の死因は、この場合問題にならない。この小説は 主人公のAddieの死後の時間に対してのみ開かれているのだ。

たしかに、Addieの死とAddieが遭遇する旅の苦難(あるいは、Addieの 死体を入れた棺が遭遇する、と言い換えてもよいが、とにかく、彼女にとって 死後の永生への道が閉されるまでは、比喰的にまだ生き続けているのである。) は、Coraの言う通り、Addieの地上の生に対して下された"judgement"で あり、また、終末の時のHcatastrophe"にちがいない。それは何日間も埋葬 を遅らされた死体が周囲に発する腐臭とそれを喚ぎつけて上空を漂うハゲタカ の群に象徴されるところの極めてニヒリスティックで救いのない性界である。

これが、伝統的なキリスト教の救いを拒否して‑何故なら、共同体が獲得し たファンダメンタリスト的な歪曲化を指して、彼女は、それが「言葉の上だけ の救いにすぎない」(‑Salvationisjustwords‑と非難するからだ‑、

自分にとっての救いとは、まさに夫Anseからの解放であり、それを達成させ てくれる救い主はといえば、神ではなく、最愛の息子Jewelにちがいない ("21)

Hewillsavemefromthewaterandfromthefire")と断言して

悼ら射、Addieの当然の黙示録の世界とも言うべきものであろうか。

その著TowardaNewEarth(1972)において、アメリカ文学に流れる黙

示文学の伝統の中にAsILayDyingを置いて分析を加えたのはJohnR.May

である。その際、彼はこの文学伝統に必須の象徴的要素として、judgement審

判)、catastrophe(災難)、および、renewal再生)の三つの要素を指摘し、

(7)

それらが実際の作品の中でどのように具体的に表現されているかを解明しよう とした。22)これら三つの要素のうち、どの要素が欠けてもその作品は黙示文学 としては不十分なものとなろうし、また、Mayはこれらの要素の中でどれを特 に重視しているということでもない。しかし、黙示文学の起源である聖書の黙 示録の本質的な内容が個人あるいは社会全体の将来に対する願望の表現にある ことを考慮すれば、作品にとってjudgementとcatastropheが十分条件で あり、 renewalが必要条件を形成していると言えるだろう。だとすれば、 「わ たしはただ一群の人々を想像し、かれらを単純で普遍的な自然の災害、洪水と 火事にさらすだけでよかった」という例のFaulkner自身の言葉は、この作品 の十分条件だけについて述べたにすぎないものであり、 As I Lay Dyingを黙 示文学の一つとして完成させている必要条件については、テーマにかかわる部 分として慎重に言明を避けたことが窺える。いずれにしろ、作品を黙示文学の 伝統の中に置く限り、そこには終末論的な試練を超克して精神的再生renewal)

を果す主人公に対する作者の期待が込められているといってさしつかえない。

以上の観点からすれば、 As ILay Dyingの主人公がAddieではないという 事実がすでに明らかである。彼女は自らの死によって他のBundrenたちに災 難と無秩序に満ちた終末の世界を用意した。しかし、その終末の世界を彼女は 生きることができないし‑ "Lay Dying"しながら、目の前で上演されるド ラマを見るように眺ることはできるかも知れないカー、したがって、それを超 えた黙示録の救いの世界へも参入できない。 Addieの、あるいは作者Faulkner の黙示録の他界を生き、完成させるのは、後に残された他のBundrenたちで

ある。

因みに、多くの批評家が指摘するところの1920年代から30年代にかけての Faulknerの作品の変貌と発展の一要因として、まさにこの主人公の質の変化 が挙げられるのである。それは、 Addie以前ではQuentin Compsonに代表 されるような社会階層や知性の面で程度の高く、いわば作者の自伝的要素の強 い人物から、本作品に登場したpoor whiteとも呼ばれるBundren家の人び とのような、すべての面で自伝的な枠を越えており、したがってその創造にお いては従来の主観性の打破を要求されるような人物への変化である。そしてこ のような変化は前作The Sound and the Furyの最終章に登場する「黒人」

の「召使い女」であるDilseyの姿にすでに感じ取られる。と同時に彼女はす

ぐ後に書かれたAs I Lay Dyingの黙示録的な特徴の前ぶれ的な存在でもあ

るのだ。なぜならAddieに対して他のBundrenたちがそうであるように、

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u萌

井上一部

DilseyもQuentinの自殺に象徴されるCompson家の人びとが露呈する終 末的な状況に対暗させられ対応を迫られるからである。しかし、 Compson家 に対しては部外者であるという立場もさることながら、 Dilseyに彼らの状況 を超克する役割を期待することは不可能である。黒人教会で聞いた説教師の激 烈な言葉に突き動かされてふと口をついて出る彼女の言葉‑"I've seed de first en de last. 23)‑が示す通り、 DilseyはCompson家の崩壊を予知 し、救い主(メシア)の到来を待望する預言者的な存在に留まっていると言わ かすればならない。

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しかし我々がこの作品から最初に受ける全体的な印象が、作者がBundren の人びとに託した希望と期待からは遠くかけはなれていることは否めない。彼 らが行う埋葬の旅は希望と約束の地を目ぎして前進を続けるというよりも、出 口のない失敗と絶望の連続としかいいようのないものである。 I. Howeに言わ すれば、彼らの旅は彼らを絶望へと追いやるべく、 「次から次へと多くの災難が 待ち受け、まるで障害物マラソンの感を与えられる」24)ようなものである。目 的の単純さといいJeffersonの町へAddieの死体を運んで埋葬するだけ の話である‑、目的達成の途中、どこまでも限りなく引き延ばされる苦痛と それが人間に要求する多大な忍耐といい、我々はF. Kafkaの『城』を想起さ せられる。 『城』の主人公のKが長い時間と労力を費すのも、ただ自分が測量技 師として城に採用されるという目的のためにである。そして作品の最後まで読 むに至って、彼等がそれぞれ達成しようとして努力する目的の単純さと、一方、

それに付随する苦痛の膨大さと執掬さとのアンバランスこそが両作品の共通点 であることを知るのだ。

しかし相違点も明らかだ。すなわち、 『城』の主人公Kが結局、所期の目的を 達成できず、作品それ自体が深い挫折感と絶望感を残したまま放置されている

のに対して、 Bundrenたちは途中、洪水と火事の災難に遭遇しながらも、それ らを悲劇的とも喜劇的とも思われる対応の仕方で乗り越え、とにかくも埋葬の 旅を完成させてしまう。言葉を換えれば、 Kの発散する人間の普遍的で形而上 学的な悲劇性がBundrenたちの埋葬の旅においては、彼等独特の土俗的な喜 劇性によって、一種の解放感を与えられているといえよう。

では一体、両作品の主人公たちが彼らの人間的可能性の全てを発揮して立ち

(9)

向かわなければならないように宿命づけられているこれらの試練は何を象徴し ているのだろうか?彼らの経験する苦痛の程度は彼らの忍耐をとっくに越えて いるし、また彼らが試練に会わ・なければならない根拠さえも明らかにされてい

ないというのが事実である。普段は信用のおけないAnseだが、次の言葉は十 分に説得力がある。

I have heard men cuss their luck, and right, for they were sinful men. But I do not say it's a curse on me, because I have done no wrong to be cussed by.

つまり彼らにとって、これらの試練は、いわば「身に覚えのない」不条理をも のと感じられても不思議ではない。このようにAnseの無事の声に耳を傾ける ならば‑『城』の場合、特にこの声が作品全体に流れている‑、この作品は最 初から一種の不条理小説的な雰囲気を醸し出していると言えよう。 A. Bleikasten もBundrenたちの無罪性を支持し("They are not guilty.")、罪は宇宙的 なものである("Evil here is on the world's sideつとして、実存主義的 な不条理小説の要素を指摘している26)

だが実のところ、この試練の不条理性はこの作品の実存主義的解釈への道を 開くのではなく、前章において指摘しておいた黙示録的終末論の構造の中で考 えれば、終末時の「審判」 (judgement)と人間の側の「罪」の所在を象徴して いるのである。だから狂信的なファンダメンタリストのCoraにとっては、試 練の不条理性は、最後の「審判」の時機の到来とその後の永遠の王国の始まり を象徴するがゆえに、むしろ歓迎すべきものであった。一方、自分が投げ込ま れた境遇の中にAnseが抜け目なく喚ぎつけた不条理性は、妻のAddieが設 定した永遠の都エルサレムへの旅に出発するAnseにとって蹟きとなる。なぜな ら、それは「裁くのは神さまのなさること」27)に対して疑義をはさむことであ り、自らの罪深い存在状況に開眼することを妨げることになるからである。そ して、その通り、 Je∬ersonの町で念願の義歯と後妻を手に入れたにしても、

彼の存在のあり方は垂も変化することはないBundrenたちの行う旅が試練 の連続であり、エルサレムの都への到着が果しなく遅れること、このこと自体 が彼らの罪とそれに対する神の「裁き」を象徴しているといってさしつかえな い。

Anseに及ぼした旅の試練の影響について言うなら、彼は旅の前も後も相変

わらず口先だけの校滑な男として何ら精神的に変化しないし、物理的な危険も

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¥u 井上一郎

巧みに回避して、家族の老たちのほとんどが被った肉体的な損傷もない。むし ろ旅の報酬としてありついた物質的利益‑義歯と後妻‑のために最後の場

面での彼の姿Cashの目には、=afoottaller,kindofholdinghishead up,hangdogandproudtoo"に見えた‑は一層際立っているのだ。しか

し、この点を指して、作者Faulknerの期待を荷わされて終末の世界に生き抜 いたBundren家の人びとの強靭さだけを結論づけるとするならば、旅の試練 は再び、作品を解釈する批評家にとっても蹟きとなるであろう。

ところで、それが死者を埋葬するためのものであること、また、Bundrenた ちは全員生まれて始めてJeffersonの町へ出かけるということから、彼らの行 う旅は非日常性そのものである。そして、罪は日常の存在様式の中に内蔵、隠 蔽されており、彼らがいわば「強制的」に旅の非日常性の世界へと連れ出され ること自体が神の下した「裁き」であり、「救い」の謂である存在様式の変革を 期待させる試練でもある。では一体、罪とは、そして、罪の日常性とはいかな るものであろうか?罪とはCoraの言うように←声高らかに主を讃えること」29) を怠るという宗教的な意味よりむしろ、Addieが彼女の人生において絶望的に 認識するに至ったところの、「言葉」と「行為」に分裂した人間の普遍的存在形 式といった形而上学的なテーゼの表現である。(しかし、まったく宗教的でない というわけではない。純粋な「行為」者としての彼女のラディカルな生が、「は じめに言葉ありき」とするキリスト教がCoraに見られるように「言葉」だけ

のものになり、偽善性を曝け出していることに対する生理的な嫌悪感に根ざし ていることは間違いないからだ。)そして、一般に、このような存在のdichotomy に対しては、決定的に意識を欠いているがゆえに罪は日常的となる。罪の日常 性は人間の行動に「狂気」を帯びさせるはずだが、Bundren家の者たちにはそ の状態が「正気」にはかならない。旅に出発する以前、「行為」の人、Cashが 死にかけた母親の枕元で棺作りに没頭している姿は「狂気」としか考えられな いが、Jewelを除いて誰も非難する者がいない。Bleikastenの言う通り「意 識を欠いているということもまた、一種の狂気である。」30)のだ。

そういえばBundrenたちの旅は最初から最後までグロテスクな雰囲気を漂

わせながら「狂気」の行動に終始Lはしないか。少くとも彼らの旅を外側から 見守る共同体の人びとにはそう映る。例えば、Samsonの女房のRachelに

は、死体を腐敗するにまかせて旅を続けるとは、「なんてひどいこと」("Aout‑

ii¥31)

rage.)にちがいないし、また、Cashの骨折した足をセメントで固めてお

きながら、本人を含めて「気にならない」というのは、医者のPeabodyには、

(11)

・とんでもか、こと」 ("Dont tell me.")32)に思われて仕方が射、。そして、

このような彼らの「狂気」は、彼らが追い込まれたところの、本来、非日常的 別犬況においてもなお、日常的な生を継続している事実を示すバロメーターの 役割を呆しているのである。つまり、家族のおのおのが埋葬の儀式という旅の 目的(それはAddieがAnseに交わした約束の「言葉」である。)の裏側に 巧みに別の目的(それが彼らの旅の「行為」を促している)を隠しているとい うことが、彼らの日常的な罪の姿であり、それが、家族から疎外されるがゆえ により一層鋭敏な意識の持主である次兄のDarlに啓示reveal)されるにし たがって、 「狂気」の質が深まるのだ。

(5)

Bundrenたちが聖都エルサレムで手に入れた勝利はこれ以上のものがない 程、日常的で性俗臭芽券たるものばかりである。 AnSeが念願かなって買うこ

とのできた義歯と「アヒルみたいな格好の」33)後妻、および彼女が持参した蓄 音器、 Dewey Dellと弟のVardamanが始めて食べることのできたバナナ杏

どがそれであり、これらの「もの」は、終末の世界の試練を通して獲得するこ とが期待されていた精神的な「再生」の不在を美事に証明している。肉体的に は何ら外傷を蒙らないこと、むしろ、物質的には「再生」を果すことは、彼ら にとっては勝利を意味するのではなく、日常性に覆われた堕罪と底の深い救い 難さが永遠に継続することを暗示している。しかし、これがBundren家の者 達のすべての姿であるとするならば、この作品は作者Faulknerが当初、意 図した黙示文学のパターンをいわば戯画化したものに成り果てるであろう。

では一体、彼らの中で誰が、 Addieが"Lay Dying"しながら夢見た黙示録 の世界を完成させることができるのであろうか。黙示録の構造においては、終 末の状況における肉体的試練こそ精神の不滅性を発揮し、生の完成へと至る重 要なモメントであってみれば、旅の途中で、その体に一番深い癒し難い傷を負 った者こそ、その可能性を享受できる立場に立っているといえるであろう。そ して、それが、濁流逆巻く氾濫した河の中から棺を放出する際に足を骨折し、

それをセメントで固定するという家族の無思慮な手当ての為に、医者のPeabody に言わすれば、 「これから先一生涯‑もう一度歩けるようになったとしても ー一一短い片脚でびっこ引き引き歩かにゃならん」34)ほどにまで不具の身を余儀

なくされた長男のCashであること ̄ほ一日 ̄瞭然である。 (たしが二三男のJewel

(12)

ill慧

井上一郎

も納屋の火事から棺を救い出すときに背中に火傷を負う。傷の程度はCashに 劣らない位である。しかし、彼には後で述べるところの、精神的成長を可能に する自己意識をついに持ちえなかった。)

肉体に負った傷を通して旅の試練の意味を深く感知し、目的地に到着した時 点において、出発前に比較して顕著な精神的変化を示すのは家族の中でCash ただ一人である。彼の表明する、いわゆる登場人物としての性格の"rounded‑

ness"こそ、この作品が喜劇的な黙示文学のパロディへと傾斜することから救 い出しているといえるだろう。死後の憧界に永生を賭ける狂信的なidealist のCoraとちがって、成長途中の青年であるCashにとってこの世でのre‑

alisticな経験は、彼が精神的な発展を遂げて大人へと変貌していくためには 不可欠の要素である。なかでも彼が経験した最大の苦痛‑河の中から棺を救 い出そうとして足を骨折したこと‑は、 J. B. Wittenbergが指摘するよう に、 「新しい意識の段階へ入るための心理的なbaptism (洗礼武)」35)であり、

Cashにとって旅の行程全体は、いわば、大人になるためのinitiation rite (通過儀礼)であるとさえいえるのである。終末の試練は、すでに述べたよう に、黙示文学の構造においては、人間が日常性の中で完成されない存在である ということ、いいかえれば、罪の状態にあることの暴露(revelation)であり、

また、それに対する神の裁き(judgement)を象徴していたのであるが、今、

Cashは旅の中での経験を通して今まで日常性の中に隠されていた自己の存在 に対する深い洞察と認識を得、大人に成るための精神的発展の糧とすることに よって、彼が受けた試練のinitiation rite的な意義を満たすのである。

このようにCashは黙示文学の要素を備えたAsILayDyingの鍵を握る 人物であるのだが、我々は、試練の中でCashが発揮する「忍耐」の美徳を諾 える批評の多い中で、試練を通して精神的「再生」を果し、もって人間の輝か

しい未来と勝利を黙示するCashの人間像に対する指摘が少ないことに驚かざ るをえない。前者の批評はたしかにCashの「忍耐」する美徳を認めはする が、 ′その美徳の価値の消極性のゆえに、作品の中でのCashの積極的役割につ いて気付いていない場合が多い。例えば、 C. BrooksはCashが危機に直面 しても「弱音を吐いたり、不平を言ったりすることをく忍耐することのできる 偉大な能力の持主」であることにはちがいはないのだが、そういった美徳もい

くつかの角度から検討を加えた結果、理解されうるような種類のものにすぎな

いとしている。36)またR. P. Adamsによると、Cashは精神的にも肉体的に

もdrasticを変動を誘発するような状況において、「忍耐」するというより、む

(13)

アイデンテイテイ

しろ、それに争いながら自己の同一性を維持するという意味で、彼は自己を 変革したり再生させたりはしないということである。

それに対して、「自己を開示するばかりか、体験を積むことにより人間的成長 をとげる人物は、フォークナ‑の小説にはほんのわずかしか登場してこか)が、

Cashはまさにその一人である。」38)と指摘するのはI. Howeであり、また O. Vickeryも「CashはAddieの死と葬式の結果、明白で決定的な変化を 蒙っている。」39)と断定し、結論として彼が「理性と直観力、言葉と行動が単一 だが複雑な反応へと融合するような完全な人間性を獲得している。」40)としてい るのは正しい。しかしながら、 I. Howeの主張は試練を通して人間的成長を遂 げるという、いわばCashの「教育」について指摘したに留っており、O. Vickery にしても、 I. Howeのいう「人間的成長」を「言葉と行動の融合」の面から跡 づけている点は正鵠を射たものにちがいないのだが、一方で"religion is in a real sense this novel's subject."とJ. Goldが言うように、この作 品において見逃せない宗教的雰囲気の中で、この「言葉と行動の融合」あるい

は分裂がいかなる意味を持っているかという問題については触れていないので ある。

それではCashの精神的変貌と作品全体の構造から見た場合の黙示的人物と しての価値はどこにあるのだろうか。旅に出発する前は死にかけた母親の枕元 で棺作りに没頭して何も異和感を感じか1位の、言葉を持たない(inarticulate)、

つまり自己を客観化する意識を完壁射まど欠いた人物であったCashが、献身

と忍耐に基いた行動によって旅の試練を克服していくうちに、自己と自己が置

かれた立場に対する客観的な意識を獲得するに至り、旅の最終的段階において

は、精神病院に追放されたDarlに代って主な語り手の役目を果しているので

ある。人間が置かれた宿命的な罪の状態、すなわち、言葉と行動の希離に対し

て、その克服を将来、実現する可能性を秘めた黙示的人物としてのCashの真

の価値は、彼が家族の他の老たちと協同して母親Addieの約束の言葉をさま

ざまな動機を裏に隠した行動によってまがりなりにも埋めることによって完成

させた旅そのものだけにあるのではない。旅そのものはたとえ完成されたにし

ても、 Anseをはじめ他のBundrenたちにとって、それは日常性の延長以外

の何物でもなく、世俗性の都であるJe仔ersonではない真の目的地である聖都

エルサレムへは永遠に到達できないであろう。旅の日常性の虚偽を認識し、し

かも、 Darlのようにその日常性から逃避したり、あるいは、 Coraのように

偽善的に目を覆ったりしないCashだけがそこに到着することを許されるであ

(14)

Ill廻

井上‑一郎

ろう。だからと言ってCashの前途に輝かしい未来が開けていると考えるの は、彼の人物像に対してその黙示性を強調するあまり抽象化を行い、作品その ものをも寓話化してしまうことに等しい。埋葬の旅が終った時点でCashに残 された仕事といえば、今度は少しは楽な行程が予測かも知れないがとにかく同 じ道のりを再び自分の家があるFrenchman's bendまで旅をすることであり、

その後は恐らく、 Anseの後妻が持参してきた蓄音器に耳を傾けすぎて仕事が 手につかなくなるということを用心しながら腕の良い大工として生きてゆくこ

とであろう。したがって、気の狂った弟Darlの追放の運命の中にこそ、自己 と家族の狂気の本質を認識するに至って‑ uSometimes I think it aint none or us pure crazy and aint none or us pure sane精神的に

巴V^Bk

再生し、いわゆる「腕の良い大工」(救い主、キリストへの暗示を当然、備えて いる)としてのCashの第二の生は、なお狂気を内包した家族と共同体に対時

して営まれてこそ其の価値があると言えるのである。

最後に、黙示文学の文学形式にとって必要な条件とされる主要人物の、ある いは共同体全体の「再生」について、 J. R. Mayは、 「ユダヤ・キリスト教的 な想像力にとって再生とは、単に新たな出発を意味するのではなく、事実上の 成長と発展を意味するものである。」43)と述べている。したがって、すでに上に 指摘した通り、 AnseがJeぽersonの町で義歯と後妻を手に入れることによっ て成し遂げた「再生」は、実は世俗的、物質的な「再出発」にすぎず、精神的 に「事実上の成長と発展」を看取できる長男のCashこそが、 As ILay Dying におけるFaulknerの想像力の本質に根ざした人物であると思われる。また、

Faulknerの二十年代の小説の主人公の伝統である、いわゆる「苦悩に満たさ れた自我の牢獄」に幽閉された人物のタイプ(Addie)の終末を経ることによ って自我の殻を打破し共同体意識を備えて新しく登場した人物Cashこそ が、 Faulknerの後期の作品群の幕あきとなる黙示的な人物といえるだろう。

(註)

1) James B. Meriwether & Michael Millgate (eds.), Lion in the Garden (Lincoln

& London: Univ. of Nebraska Press, 1968), p.147.

2) Ibid., p.244.

3) Judith B. Wittenberg, Faulkner: The Transfiguration of Biography (Lincoln &

London: Univ. of Nebraska Press, 1979), p.110

4) Michael Millgate "William Faulkner: The Problem of Point of View," William

(15)

Faulkner: Four Decades of Criticism, (ed.) Linda W. Wagner (Michigan Univ.

Press, 1973), p.190.

5) Lynn G. Levins, Faulkner's Heroic Design (Athens: The Univ. of Georgia Press, 1976), pp.94‑114.

6) Elizabeth M. Kerr "As ILay Dying as Ironic Quest," Linda W.Wagner, op.

cit., p.230.

7) Cleanth Brooks, William Faulkner: The Yoknapatawpha Country (New Haven

& London: Yale Univ. Press, 1969), p.165.

) Michael Millgate, op. cit., p.184.

9) Gary L. Stonum, Faulkner's Career: An Internal Literary History (Ithaca &

London: Cornell Univ. Press, 1979), p.99.

10) William Faulkner, As I Lay Dying (New York: Random House, 1964), p.42.

ll) Ibid., p.202.

12) Ibid., p.79.

13) Ibid., p.63.

14) Ibid., p.160.

15) Ibid., p.67.

16) Ibid., p.68.

17) Andre Bleikasten, Faulkners As ILay Dying (Bloomington & London: Indiana Univ. Press, 1973), pp.107‑108.

18) Ibid., p.114.

19) Barbara M. Cross ''Apocalypse and Comedy in As ILay Dying," Texas Studies in Literature & Language, 3 (Summer, 1961), p.258.

20) William Faulkner, op. cit., p.168.

21) Ibid., p.160.

22) John R. May, Toward a New Earth: Apocalypse in the American Novel (Notre Dame: Univ. of Notre Dame Press, 1972), pp.93‑114.

23) William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Random House, 1956), p.371.

24) Irving Howe, William Faulkner: A Critical Study (Chicago: Univ. of Chicago Press, 1975), p.176.

25) William Faulkner, As ILay Dying, op. cit., p.37.

26) Andre Bleikasten, op. cit‑, p.132.

27) William Faulkner, op. cit., p.146.

28) Ibid., p.249.

29) Ibid., p.159.

30) Andre Bleikasten, op. cit., pp.128‑129.

31) William Faulkner, op. cit., p.111.

(16)

井l二郎

32) Ibid., p.230.

33) Ibid., p.249.

34) Ibid., p.230.

35) Judith B. Wittenberg, op. cit., p.162.

37) Richard P. Adams, Faulkner: Myth i里Motion (Princeton: Princeton Univ. Press, 1968), p.78.

38) Irving Howe, op. cit., pp.187‑188.

39) Olga W.Vickery, The Novels of William Faulkner (I」onisiana State Univ. Press, 1964), p.57.

40) Ibid., p.51.

41) Joseph Gold, "Sin, Salvation and Bananas," Mosaic, 1, No.VII (1973), p.70.

42) William Faulkner, op. cit., p.223.

43) John R. May, op. cit., p.37

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