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長崎大学教養部紀要(人文科学編) 第32巻 第1号 47‑66 (1991年7月)

W. Faulkner の Absalom, Absalom !

‑語りの技法について‑

井上郎

William Faulkner, Absalom, Absalom! :

Its Narrative Strategy

Ichiro INOUE

I

Absalom, Absalom ! (1936年)の主人公については、批評家達の間で意見が分か れていたし、現在もまたそのように思われる。ある批評家は、 Absalom, Absalom ! はThomas Sutpenの物語であると断定し、一方、ある批評家はQuentin Compson の物語であると主張するといった具合である。前者の意見は抵抗なく受け容れられる。

なぜなら、この作品がSutpenの物語であることは、一読した限りでも明らかだから である。しかし、後者については、例えばE. Schoenbergが「QuentinはSutpen や南部のことを物語ろうと努めてはいるが、実は彼が物語ろうとしているのは、彼自 身についてである。」 1)としてAbsalom, Absalom !をむしろQuentinの物語である と主張する時、我々は多少の抵抗を感じることになる。それは、一見して、いくつか の語りを統合する人物としてのQuentinの存在感はたしかに動かし難いが、実際彼

自身が行う語りの量が全体から考えて少なすざるというのも一つの理由かも知れない。

しかしながら、彼女の意見がAbsalom, Absalom !の解釈の上から言って重要な問 題提起になっていることは間違いない。

ところで作者Faulkner自身の意見はどうだろうか。彼自身が語った言葉を検討す ると、南部共同体を代表するSutpenの物語か、それとも共同体の中の個としての Quentinの物語かについて、あいまいな立場を取っているような印象を受ける。し かし、結論から言うと、 Faulknerは、この作品がSutpenだけの物語でも、Quentin だけの物語でもなく、両者の物語であるという点を実は表明しようとしているのだ。

Virginia大学で学生の"Who is the central character of Absalom, Absalom !?"

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48 井上一部

という質問に答えて、言下に"The central character isSutpen"2と述べている。

しかし、同大学のその後のsessionでは、 Sutpenの物語であることを認めた上で次の ように説明している。

But then, every time any character gets into a book, no matter how minor, he's actually telling his biography‑that s all anyoye ever does, he tells his own biography, talking about himself, in a thousand different terms, but

himself. Quentin was still trying to get God to tell him why in Absal0m, Absalom ! as he was in The Sound and the Fury.3)

Faulknerはここで、いかなる人物も作品の中では歴史の中に準えるSutpenの話 を語ると同時に自分自身の話をも語るがゆえに、マイナーな人物と言えども無視でき ないこと、そしてさらに、 Quentinはマイナーであるとは言えないが、少なくとも Absalom,Absalom!はQuentinについての物語であることを表明している。 (と すれば、ここで注意すべきは、今までQuentinとして述べてきたところは、本当の

ところは、 Quentinの他にRosa Coldfied, Mr. Compson, Shreve McCannon達を 含めていたという点である。)

以上のような議論は、この作品が誰の物語か、あるいは誰についての物語か、とい うことであるが、この議論には作品の主題にかかわる重要な問題が潜んでいるように 私には思われる。

上に引用したFaulknerと学生との質疑応答の前には、さらに次のようなやりとり もあるのだ。つまりAbsalom, Absalom /のQuentinとTheSoundand the Fury のQuentinは同一であるかという質問に対して、 Faulknerはたしかに二人のQuen‑

tinは"consistent"ではあるが、後者の作品における彼の立場は、 「Sutpenを知る ための13の方法の1つにすぎない。」4)と答えているのだ。 「13の方法のうちの1つ」

とは、このやりとりを少し遡った所で、人間が真理を把握するときに宿命的に陥る相 対主義を比愉的に表現するためにWallace Stevens ( 1879‑1955 )の詩、 "Thirteen WaysofLookingataBlackbird"を援用しているが、ここでもそれについて言及 している。 Faulknerは、この比職によって我々をして先の議論に立ち帰らせ、問題 の核心に導いてくれる。なぜなら、 「13の方法」についての彼の言葉は、対象を知ろ うとする主体とそれによって知られる対象の両者の存在を前提にし(ということは、

両者の立場が一方に片寄ることなく対等であることは当然である。というのは、お互 いにとってお互いが必要とされているからである。)、作品の中に中心的アクションと して「知る」という行為を据えていることも同時に明らかにしてくれているからだ。

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William FaulknerのAbsalom, Absalom!‑語りの技法について‑ 49

語り手たちはSutpenについて知り、 Sutpenの話をし、同時に、問わず語りに自 分自身の話を語っている。そしてまた、自分自身について語るとは自分自身を語りの 対象として客観化することにはかならず、それはとりもなおさず自身を語りの対象と して客観化することにはかならず、それはとりもなおさず自分について知るというこ とでもある。だから語り手たちは共通の対象であるSutpenについて知り、かつ自己 認識にも至るのである。しかし奇妙な点は次の事実だ。つまり、今まで知られる対象 として中心的な場所に位置していたSutpenでさえその場所を明け渡して、自らも Sutpenについて知るという行為を開始するということである。彼はそれまでの自分 の人生をまるで「逸話でも語るような態度で」「ひとごとのような興味と好奇心か ら」5)Quentinの祖父Compson将軍に話して聞かせ、人生のどの時点において自分 が誤りを犯したか知りたがるのである。この意味においてAbsalom, Absalom !に は、共同体の英雄Sutpenの行為やそれについてのQuentinの語りが存在するとい うよりも、ただ知るという行為、それも自らを知るという行為が実際に行われるので ある。ひたすら語りのみによって複雑に構成されたこの作品が本質的には語り手たち の認識論( epistemology )6)の苦闘の跡であることはややもすれば見逃されてきた。

本論においては、語り手たちの語りが彼らの存在にまつわる問題、ここで先まわりし て言えば、不滅の生という課題に対して如何なる解答になっているかという点をまず 検討した後、本来的に語り手である作者Faulkerとその語り、つまりAbsalom, Absalom!という作品そのものの関係についても考察するつもりである。

たしかにSutpenを含めて語り手たちは、すべてSutpenについて知ろうとしてい る。ということは、 Sutpenはまだ(作品の冒頭においては、という意味だが)知ら れていないということである。これは、つまり、作者Faulkerが彼等の前にSutpen

という人物をaprioriな形で与えていないからにはかならない。いいかえれば、

Faulkerは彼等語り手たちの輪の中にSutpenという人物をではなく、 Sutpenとい う"blackbird"を投げこんだことに等しい。

しかしながら、人物たちが受け持たされているSutpenについて知り、表現すると いう行為は、もともと作者Faulkerの仕事ではなかったか。逆に言えば、 Faulker はSutpenを知っているからこそ、 Sutpenの物語が書けるはずである。そして Absalom,Absalom!の最大のポイントは、 Faulkerが小説を書くに際して、この 前提、つまり対象を知ること、作家においては、動きをその本質とする人間の実在を 言葉(懸念)で捉えて表現し尽くせるという可能性に対して懐疑的になったという点

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にある。いわばFaulkerはAbsalom, Absalom Iにおいて、この可能性に挑戦して いるわけで、彼も語り手たちと、あるいは読者と一緒になってSutpenについて知ろ うとしているのである。だから、 J.B.Wittenbergは、この小説全体が"themar‑

velous process of fictional creation'蝣サ7)であると言い、またJ. W. Reed, Jr.は言 葉を変えてこの"fictive process"こそAbsalom, Absalom !を他の作品から際だた せているものであると指摘している。 8)

当然のことながらfictionalCreater (創造主)としてのFaulknerの知るという ことと語り手たちfictionalcreaterの知るということでは意味が異なる。 Sutpenは Faulkerが創り出したものである。しかし、この創造主も全能であるためには、自

ら創り出した被造物Sutpenを新たに人間たちに知らせ、その存在を認めてもらわな ければならない。創造主は必然的に表現者であらねばならない。だから、 Faulker は語り手たちと同じような通常の意味での認識者ではありえない。問題は、この作品 ではFaulkerがこの絶対者の地位からおりていることである。分かりやすく言えば、

絶対者FaulkerがQuentinに化身して、ということは、人間的な限界性の中で Sutpenを知り、人間的な言葉でSutpenについて語ろうとしているのである。

さて、 Quentinをはじめとして、語り手たち一人一人について見れば、 Sutpenと いう"brackbird"は部分的に存在し、部分的にしか知ることができない。それに対 して、 Faulkerにとっては、全体的な姿で存在し、全体的な姿を知ることができる。

しかし、ここで言う全体的な姿というのは、完成した固定された姿という意味ではな い。それは創造主が自分が創り出したものであるから、彼の意識の中にすでに存在し ているものを直観的に知るという意味であり、その姿の本質は動きであり、また変化 にちがいない。 Faulknerは自分の小説の多くが単一のイメージをもとにして書かれ たことを自ら語っているが、実はこのイメージも彼が意識の中で直観的に捉え、動き を瞬間的に停止させた一人の人間の姿に他ならない。 Faulkerにとって小説を書く ということは、この凍りついた動きを溶解し、停止の相から解放し、運動の状態に複 帰させることであったのだ。

With me, a story usually begins with a single idea or memory or mental picture. The writing of the story is simply a matter of working upto that moment, to explain why it happend or what it caused to follow.

しかし、本質的に動きをその実相とする人間の生を表現するために小説家 Faulknerに与えられた道具は何か。それは言葉であり、一つ一つの単位として見れ ば記号あるいは懸念である。そしてその本質は動かざるもの、固定されたものである。

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William FaulknerのAbsalom, Absalom !語りの技法について‑ 51

つまり運動を表現するのに不動性をもってするという本来不可能な作莱( 「概念は実 在者の影をわれわれに提示するにとどまるのに、概念でもって実在者を把握すること ができると信じてもだめである。」10)とベルグソンは述べている。)を作家は宿命づけ

られているのである。次のFaulknerの言葉、特に後半の「百年後に‑‑動き出す‑

・‑」という部分は、生の動きを表現するための人間の発明した「人工的な方法」の働 きに対する最大限の期待が込められていると考えざるを得ない。

The aim of every artist is to arrest motion, which is life, by artificial means and hold it fixed so that 100 years later when a stranger looks at it, it moves again since it is life.n)

Faulkerはかって「表現のための一番簡単な方法は音楽である。」12)と言ったこと があるが、このことによって彼は表現の手段としての言葉の不十分性、不足性と同時 に、動きの特性である持続が、同じ特性を備えた音楽によってより表現しやすいとい

う感想を表明したものと思われる。

上に引用した芸術家の目標( "Theaimofeveryartist" )についての言葉は、 19 55年に行われたJ.スタインのインタヴューに対するものであるが、 Faulkerが1936 年にAbsalom, Absalom !を出版した時点ではこれほど楽天的にはなれなかったは ずだ。恐らく、芸術家の目棲、後車で論ずる表現行為そのものの意味について考え、

また自分に与えられた"artificialmeans"の有効性に対する自信が揺らぎ、それが 結果としてAbsalom, Absalom !の主題と表現方法となって反映されているのでは なかろうか。たしかに"Lifeismotion." "Theaimofevery artisttoarrest mo‑

tion"というFaulkerの視座は貫かれたと思われるが、表現の方法については、以 前の作品の反省の上に立ち( "a writer goes on writing because he is not satis‑

fiedwithhis work, and thus wants to get it better." )、その上で"the aim"

を追求した作品であると言うことができる。だから、 G.Stonumの言うように、

Absalom, Absalom !は、 「動きを捉える行為についての一貫した思索の産物」であ り、従って、 「芸術の目的と人生におけるその役割について新たな疑問を提出してい る」 】4)ことになる。

もともと小説の世界とは、作者の意識の中にa prioriに存在する実在のイメージ にならって、言葉によって型どられた世界であると言えるかも知れない。そして

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52 井上一郎

Faulknerの場合、実在のイメージが人間の運動の瞬間的に凝固したイメージとして 捉えられる場合が多いということはすでに述べたTheSoundandtheFuryにおけ るCaddyのdirty drawersはその例であり、 Absalom, Absalom Iでは、 Sutpen 、 つまり、

a man who wanted a son and got too many, got so many that they de‑

stroyed him15)

がそれである。

しかし、 Absalom, Absalom !の言葉は、それ自体では、 Sutpenの真の姿を組み 立てる点において適当とは言いがたい。その言葉はFaulknerの言葉ではなく、登場 人物たちがSutpenについて主観から発した言葉にすぎない。したがって、もし Sutpenの真の実在が捉えられるとすれば、それは、客観的立場をとれる(そう信じ ているが実はそうでないことが後で分る)読者の意識の中においてである。 Faulkner が客観性を放棄したために、読者が代わりにその役割を果すという緊張にさらされて いる。このように作品の性質上、作品の世界への読者の「参加」 (participation ) がなければ、 Absalom, Absalom!は成り立たないのだ。読者の「参加」の問題は、

多くの批評家の指摘するところだが、次のConradAikenの言葉は、すでに「参加」

を必要条件とみなしている。

The reader must simply make up his mind to go to work, and in a sense to cooperate.16)

ある意味で奇妙な位に読者の存在を無視し続けてきたFaulknerがこの作品において は、読者の存在と読者の想像力に依存せざるを得ないというのは皮肉なことではない だろうか。

だが、読者による小説世界への「参加」そのものが問題であるのではない。その問 題はすべての小説の大目標であるが、また、ある意味では、小説の前提でもあるのだO 小説は表現の対象として読者を必要とするから、それは前提であり、読者を現実の世 界から連れだして、非現実の「もう一つの世界」へと参入させることこそ虚構の果す 役割であるからして、それは大目標であるにちがいない。したがって、ここで問題に なるのは、その「参加」を可能にするような如何なる「方法」が用いられているかと いう点である。

Absalom, Absalom !の「方法」については、

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William FaulknerのAbsalom, Absalom!‑語りの技法について‑ 53

I was first of all ( I still think ) telling what I thought was a good story,

and I believed Quentin could do it better than I in this case.1

というFaulkner自身の言葉に要約されている。我々は、特に、 「この作品の場合、

私よりQuentinの方が上手に語れると信じた」という後半の言葉に注目すべきだ。

言葉の中でQuentinとなっているのは、語り手の代表としてQuentinを挙げたまで で、 Faulknerの代わりになる語り手として、他に、 RosaColdfield,Mr. Compson, Shreveがいる。ところで、この言責は、ただ単に、Quentinがこの作品のnarrator であるという周知の事実を確認したにすぎないのだろうか。くり返しになるが、この 言葉は、 Faulkner自身が従来の作家的視点からはSutpenについて表現できないこ と、あるいは、少なくともQuentinが語った方が読者の「参加」を可能にし、した がって小説の機能を生かす「方法」であると認めた率直な言葉と受け取ってよい。

それでは、何故、 Quentinの方がSutpenの話を上手に物語れるのか?まず、

Quentinは、たしかに、単なる語り手ではない。 QuentinはQuentinであり、しか もその上に語り手であるというような存在である。 Quentinは作者の言葉を喋る抽 象的な媒体ではなくて、人間として彼自身の歴史を備えた具体的な実在であるという ことである。 (だからこそ、 Absalom,Absalom !がSutpenと同程度にQuentin の物語でもあるという問題が生じるのだ。)そして、この実在性というのは、彼が物 語を行うというよりも、 Sutpenについて知ろうとすること、あるいはそれより重要 なことだが、自分について知ろうとすることによって高められるのである。たしかに、

A. Kinneyが言うように、 Absalom, Absalom !では、 "People only sit and talk."18)だが、実は、彼らはそれ以上のことをしているのだ。

そこで、あいまいなSutpenの存在は、 Quentinをはじめとして複数の語り手たち 自身の実在性につなぎ止められる。逆に、 Sutpenは、彼らによって知られる対象と して実在性を与えられることになる。このことは、もしSutpenが従来通りFaulkner 自身によって語られるとしたらどうなるかということを考えたら明らかになる。

FaulknerにとってSutpenはいわば被造物であるから、 Faulknerが取れる視点は 創造主としての無人称で客観性を極めたものであろう。ところで、 Faulknerの意識 の中にあるSutpenの生の直観的イメージは、個的で独自な問題を学んでいた。しか しそのような客観的に視点によって表現されるならば、 Sutpenの運命は決っている。

Sutpenは歴史上の人物となり、あるいは神話的人物となり、ついにはリアリティを 奪われて風化してしまうであろう。 Sutpenは、しばしば、神話的人物であると言わ れるが、神話的とはどういう意味か。それは、すべての人に共有され、すべての人に

とって普遍的意味を持っが、同時に、誰にとっても衝撃を与えないようなものにはか

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ならない。誰のものであるということは、誰のものでもないということである。とす れば読者のものでもないこと、つまり、読者に対して如何なる実在性をも主張せず、

従って、作品そのものが失敗になるだろう。 Sutpenが実在性を持っためには、誰か に見られ、又、知られなければならない。すなわち、誰かの主観において、はじめて Sutpenはリアリティを持つ、確かに存在するというわけである。誰にとっても関係 のない、誰にも危害を加えないような、抽象的なSutpenという人物は存在しないは ずである。

ところで、この場合尊重されている語り手たちの主観の特性とは何か。それは、

Quentinをはじめとして語り手達の話の内容を見れば一目瞭然である。想像力、推 理力を含めた知覚において個人差があり、個人的な関心、利害においても左右される。

一言で言えば、誤謬を含んだ限界性の多いものである。だから、たしかに、 Sutpen は各ナレーターの主観の中に実在するが、その仕方は主観のもつ誤り易さと独自性の ゆえに、当然差異があるRsaのようにSutpenを主観的に捉えているのはもちろん のこと、彼女の主観はSutpenによって偏執的に捉えられている場合もあれば、

Quentinのように、関わりのなさから軽妙な主観的な見地を取れる場合もある。し たがって読者の側からすれば、さまざまなSutpen像を目の前に展開されることにな る。

さて、これらの誤謬と独自性を備えた視点によって見られたSutpen像が、それら のうちどれが正しく、どれが誤りであると我々に言えるだろうか。すでに述べたよう

に、人間の主観の限界からして、どれもが正しいとは言えないだろう。というより、

どのSutpen像もそれ独自では不十分であると言った方が正確かも知れない。しかし、

不十分だからといって、すべてのSutpen像が間違っているとはいえないのだ。それ は、

宇宙の実在は一定の展望のもとにのみ見られ得るような性質のものである。パー スペクティヴは実在の構成分子の一つである。それは実在を歪曲するものではな く、実在を編成する要素なのである。どの視点から見てもつねに同一の像になる ような実在は不条理な概念である19)

からだ。それでは、 Quentinに語らせるというFaulknerの「方法」は、客観的な真 実を提示するという従来の作家的視点を放棄してまで語り手の主観に依存し、いわゆ る不十分なる「実在の構成分子」 、言葉を換えて言えば、 「黒鳥についての13の見方」

を並置させる事で満足するということであろうか。そうではあるまいFaulknerは、

「黒鳥についての13の異なる見方を読めば、読者は読者自身の黒鳥についての14番目

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William FaulknerのAbsalom, Absalom !‑語りの技法について‑ 55

のイメージを抱く。」20)と言っているが、まさしくこの点にこそ、読者の小説世界へ の「参加」を促す「方法」が暗示されている。それは、ものを知るという、人間の衝 動ともいえる永遠の努力に根ざした「方法」である。この「方法」と、それが達成し ている読者の「参加」について、 D.Aswellは次のように述べている。

Faulkner plays upon precisely those needs and desires in us that he shows operating in his characters, and demonstrates the truth of his fable by making us equally blind and hopeful participants in the search for illumination.2

いかなる作品においても読者の視点は、リアルな世界に対する一つのパースペクティ ヴにちがいない。そして、それが誤謬のない客観的なものであり、そこから捉えられ た世界が、 Faulknerが創造した世界の本当の姿であると信じて疑わない。また今ま では、 Faulknerも読者がそうすることを期待していたのである。しかし、 Sutpen についてのいかなる客観的な真理を与えることをFaulknerが拒んだAbsalom, Absalom!において、読者がまず第‑に知るのは、自分のそれも含めて人間的な視 点というものがいかに誤りやすく、限界のあるものであるかという点である。読者が その認識に基づいて、 「登場人物の主観に自らの主観を混ぜあわせ、真理に近づく努 力をする」 ("takealltogether, thetruthisinwhatthey saw" )ことを期待し、

予見しているのだ。

Sutpenについての語り手たちの雑多な言葉とイメージが無秩序に放置されている のではなく、実は、秩序と意味を探して作品の中へ読者が「参加」することを要請す る「方法」こそ、 Absalom, Absalom!の偉大さの証明である、とJ. Matlackは次 のように述べている。

This strategy of engaging the readey so deeply in a shifting, dislocated narrative that he must join in the task of reducing it to coherent order is basic part of the greatness of this novel.2

IV

Absalom, Absalom !では作者のFaulknerと登場人物が共同して、一つのテー マに取り組んでいるように見える。それは生の不滅性、永遠性というテーマである。

すべての人物が、 Faulknerを含めて、自分の人生の総体と向きあい、宿命的な力の

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56 井上一郎

支配から独自の秩序と意義を救い出し、それを将来へと伝え残そうとする衝動に取り 愚かれている。その意味でAbsalom,Absalom!では、すべての者が自らの生を表 現することに腐心し、いわば、すべての者が作家であるのだ。

ところで宿命的な力とは何か。彼らの永続性‑の希望を穀すものは何か。それは、

とりもなおさず、時間である。永遠の生を目指して注ぎ込まれた意志と努力の膨大な エネルギーが、あるいはまた、女性ゆえに、それさえ不可能だったがゆえに一層、亡 霊じみた人生が忘却(oblivion)の彼方に押し流されることを、彼らは一番恐れて

いるのだ。 SutpenにとってもRosaにとっても最大の敵は時間にはかならない。

「時間と戦って勝ったためしはない」24)と、 Mr. Compsonは息子のQuentinに向っ て言うが、彼らはみな一様に、生の永続性を確保する「方法」を模索しているように 思われる。

そこで以下にSutpen, Rosa, Judithについて、この共通のテーマを追求する彼ら の姿勢の素描を行うことにする。

壮大な屋敷と農園を所有することがSutpenの生のデザインではないという点をま ず確認しておくべきだ。彼のデザインはもっと永続性のあるものを志向している。

「自分の先祖が後のものに伝えてくれるように自分の中に残していったもの」 (220)、

つまりSutpen家の血を絶やすことなく、未来に持続させることこそ、 Sutpenのデ ザインにはかならない。 「血」が屋敷や農園に対して永続性の確かさにおいて、大き

く隔たる所がないとすれば(事実、そういう結果になったが)、 Sutpenはその「方 法」において素朴すぎたということだ。

先にあげたFaulknerがSutpenに対して抱いた直観的イメージ、 "a man who wantedason"は、 Sutpenのデザインを一気に言い当てている。ジェファソンの町 の人々の非難の中で、 EllenColdfieldと結婚して、息子のHenryをもうけ、 Henry が"asonたりえないことを知るや、 RosaとWashJonesの孫娘のMillyとを侮 辱してまで̀̀asonに執着せざるをえないのがSutpenである。 Sutpenの「方法」

における失敗は、 "amanwhowantedason"に続く言葉、 "gottoo many, got so many that they destroyed him"、つまり、息子の一人のBonに黒人の血が流れ ていたという事実よりも、 Sutpenを含めて、すべての人間のデザインが必然的に敵 にまわさざるを得ない相手が時間であるという事実にむしろ起因しているのだ。実際、

Sutpenは、勇気と意志と賢さでBonに代わるHenryを作ることができたし、又、

勇気と意志と賢さがあったら、 Henryに代わるSutpen家の後継ぎをもてただろう。

「彼はもう自分の勇気にも意志にも賢さについてさえも、心配してはいなかった。自 分に三度立ちあがれるだけの力があるかということについても、ぜんぜん心配してい なかった。」 (278)と、 Mr.Compsonは、南北戦争から帰還後のSutpenについて

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William FaulknerのAbsalom, Absalom !語りの技法について‑ 57

語る。 「彼の関心事は」 、と氏は続けて説明する。 「それをするだけの時間があるか ということ、失地を回復するのにじゅうぷん時間があるかということだけだった。 ‑‑・

問題はただ時間がたりないということだけではない、この時間の不足をよくよくつき つめていったところに問題がある、自分はもう六十才を過ぎており、おそらく子供は あと一人だけしか生むことができない‑」 (257‑258)つまり、時間はSutpenの デザインを滅ぼしたばかりか、デザイナーのSutpen自身にも迫っているのだ。

Sutpenから勇気と賢さを奪い、一気に滅ぼしてしまうために、時間は、 Washの孫 娘のMillyと彼女が生んだ女の子供を用意するのだ。 Sutpenの侮辱的な言葉を聞き つけて激昂し、草刈り鎌で襲いかかるWashは、この意味で時間を象徴する人物で あると言える。

しかし、 Sutpenはただ時間によって自らの首がはねられるのを受け入れたわけで はない。時間との戦いにおいて人間の宿命的敗北を予見していたかのように、彼は一 つのことをやり遂げる。 Bonの出現によって引き起こされたデザインの崩壊の予感 と南部そのものの敗戦の可能性の中でSutpenは自分の、̀そして妻Ellenの墓石を用 意するのである。そのこと自体戦時下にあっていかに困難な作業であったかはMr.

Compsonが語る。

He bought the two of them while the regiment was in Virginia, after Judith got word to him that her mother was dead. He ordered them from

ltary, the best, the finest to be had‑・and this while on active service with

an army which had not only the highest mortality rate of any before‑‑‑

(188‑ 189)

Quentinの祖父のCompson将軍以外に対しては寡黙であり続けたSutpenが永続へ の執念を雄弁に表現しようとしたのがこの墓石であり、そこに書かれた碑文であった にちがいない。

Ellen Coluield Sutpen. Born October 9 , 1817. Died January 23, 1863.

Thomas Sutpen, Colonel, 23 rd Mississippi Infantry, C.S.A. Died August

12, 1869. (188)

これらが単純に誕生と死亡の記録ではないことは明らかである。それは、ちょうど古 代の王族が自分に達成できなかったただ一つのこと、つまり永遠の生の代わりに、漠 大な財産と人力を駆使して作り上げる墳墓に等しいのだ。人間は永遠ではありえない。

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58 井上一郎

しかし永遠であろうとすることはできる。とすれば、 Sutpenがその「方法」におい て、いかに拙劣で幼稚であるかが分る。なぜなら、彼のとりよせた墓石が立派であれ ばあるほど、それがSutpenの敗北をそれだけで膚鮮やかに宣言しているからである。

「昔は南部では、わしたち男は女の人をみんな叔女にしていたんだ。ところが戦争 がおこって、そのために叔女たちはみんな亡霊になってしまった。」 (12)と、 Mr.

Composonは息子のQuentinに向かって言う。戦争という自分達女性の力ではどう することもできない運命的な仕業のために、当然約束されていた「叔女」の地位を追 われ、不毛で空虚な生を送らせられた「亡霊」が、 Absalom, Absalom !には二人 登場する。それは、 RosaColdfiedと娘のJudithである。この二つの「亡霊」は、

その実体のなさを埋め合わすかのように、より激しく永遠性を追い求めるのだ。

Rosaには、 Suptenの立派な墓や、次に述べるJudithの手紙のような形に残る永 遠性の証しはない。あるとすれば、自分の話をQuentinが憶えていて、彼が後で小 説家になった際にそれを文字にしてくれるかも知れないという期待感だけである。

maybe someday you will remember this and write about it. ( 9 ‑10)

だから他の語り手たちの語りに比べて、彼女の語りは執鋤で鬼気迫るものがある。彼 女の語りには、彼女の実在性とその持続がかかっているのだ。

しかし、 Rosaにとっては、語るという作業は自らの実在性を宿命の支配から救い 出すことでもある。彼女は、 「私は遅く生まれすぎたのです」 (22)とQuentinに向っ て述懐する。その「遅く生まれすぎた」分だけ彼女の実在には空洞ができ、その空洞 めざしてさまざまな大人の声、感情が住みつこうとし、さらには彼女の人生を宿命的 にひきずりまわすのだ。その意味では、話を聞かされるQuentin自身も同じような 境遇の中にいる。南部に育ったQuentinにとっては

彼の体そのものは、ひびきわたる敗北者の名前がこだまする伽藍であった。彼は 一個の実在者としての人間ではなくて、もろもろのものの統一体であったo視線 を背後にばかりむけている頑固な亡霊たちが一杯あふれた営舎であった(12)

のだ。二人とも宿命の力の支配を逃れ、自らの「実在者としての人間」 ("abeing, an entity'つの立場を確保する必要に迫られているのだ。

ところで、 SutpenについてのRosaの話は、きまって、 「彼は紳士なんかではあ りませんでした」 (4)というリフレインで始まる。それは、とりもなおさず、彼女が 永久に実体を奪われ亡霊として生きることを余儀なくされた人生の一地点を暗示して

(13)

William FaulknerのAbsalom, Absalom!語りの技法について‑ 59

いるのだ。そもそも、南軍の敗色が濃く叔女たちがみな亡霊になりかけていたころ、

それも幼年時代から徹底的に憎むことを教えられてきたSutpenの所へ行って住む気 になったのも、 「それが南部の叔女というものだ」 (86)という当時まだかすかに残っ ていた「叔女」の観念に従って行動した結果であった。この「叔女」の観念を侮辱的 な結婚の申し出によって破壊し、Rosaを完壁なまでに形骸化するのが、当のSutpen である。

だから彼女の「彼は紳士なんかではありませんでした」という怨念を込めた繰り言 は、南部の「叔女」としての実体を取り返そうとする亡霊の悲痛な叫び声であったの だ。しかし彼女はSutpenによって実在性を奪われたが、一方では、 Sutpenによっ て、あるいは、 Sutpenについての語りによって、実在性を回復することを試みる。

Sutpenについて知り、 Sutpenについて語るということは、自分を知り、自分を語 ることに他ならない。そして、 J.B.Wittenbergによると"Sheseems to know ‑・

that only in telling does history achive order and meaning."25)であるからして、

RosaがQuentinを通して伝え残そうとするものは、この̀̀order"と"meaning によってつなぎ止められた実在の証しである。

一方、 Judithを亡霊たちの仲間に加えるのは、 Rosaの場合と違って自分が憎ん でいたものではなく、逆に自分が愛していたものであるJudithは、 Rosaのよう に「遅く生まれすぎた」ことはなかったし、 「情容赦もなく自らの欲するものをその 力を発揮して取っていくという、 Sutpenのやり方をそのまま受け継いだ、純然たる Sutpen系だった」 (120)ように、生のあり方において受動的であるように宿命づけ られることはなかったはずである。 「彼女はおよそ宿命論者などではなかった。」

(120)その彼女が、

she waited. She waitid four years.... she waited ; she made no effort to do anything else. (121)

であった。すなわち、自分とBonの結婚を父Sutpenが反対する理由を知ろうとせ ず、 Bonが戦争に行っている問、彼がまだ生きているというHenryからの知らせ以 外なんの便りもなく、ただひたすら「待った」のだ。だからこの場合、宿命論者では ないJudithが「待つ」ということによって宿命論者になっているのだ。それは、彼 女が「待つ」ている間に、 Bonに流れる黒人の血が探り出されて検討され、また Bonの生命そのものが戦場にあって危険にさらされているからである。そして、実 際、恋人Bonの死を宿命的結果として受け入れるのである。

このことは何を表わしているのだろうか。およそ宿命論者などではなかった彼女が

(14)

60

井上一郎

愛という人生の‑局面においては、宿命論者にならざるをえなかったということを示● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

すにすぎないだろうか。愛は南部女性にとって人生の‑局面であるし、同時に実体性 の中枢であるからして、彼女は本質的に宿命論者であったということを、それとも示・・・・・・・・

すのであろうか。もし、そうだとすれば、確かにJudithは愛の殉教者となり、自分 が愛していたものによって亡霊に変えられたことになるだろう。

しかし、 JudithもRosaと同じように、自分の実体を奪ったものによって、逆説 的に、自分の実在性を回復し、永続性を主張しようとする。それがローザのような未 来への楽天的な期待ではないにしても、何らかの行為を行うことによって、時間とい

う敵に一矢を報いようとするのである。

さて、南部の女性が「叔女」であるといえるのは、彼女が愛において宿命論者の地 位を甘受するからではなく、愛において「真実の誇り」を体現できるからである、と Mr. Compsonは説明する。

Judith, giving implicit trust where she had given love, giving implicit love where she had derived breath and pride : that true pride, not that false kind which transforms what it does not at the moment understand into scorn and outrage and so vents itself in pique and I acerations, but true pride which can say to itself without abasement I love, I will accept no substitute ; something has happend between him and my father ; if my father was right, I will never see him again, if wrong he will come or send forme ; ifhappyI can be will, ifsufferI mustIcan. (121)

すなわち、 Mr.Compsonの説明によると、 JudithはBonとの愛を、ただ自分の 努力を放棄して、自分の力の及ばない要因に委ねたというのではなく、 「真実の誇り」

(truepride)をもつことができたから自分達の愛を運命の力に委ねられたというこ とになるのだ。このことは、言いかえると、宿命論者ではなかったJudithが、ただ 愛においてのみ宿命論者になるのではなく、ただ愛においてのみ不滅の価値を発揮し、

実在性を確かめることができるということでもあるSutpenの率いる南軍の敗色が 濃くなり、母Ellenが死に、祖父が死に、いわば運命の力が最後の仕上げに取りかか ると、 JudithはBonから来た手紙をQuentinの祖母のところに持っていって手渡 す。彼女にとって、自分がこの世に生きた証拠を残すには、恋人のBonとの間に宿 命を越えた「真実の誇り」に導かれた愛情がかつて存在したことを記録するこの手紙 以外に何もないからだ。しかし、そうはいっても、その手紙が「保管されようがされ まいが、読まれようが読まれまいが、とにかくそれを知らぬ人の手に手渡して、われ

(15)

William FaulknerのAbsalom, Absalom!語りの技法について‑ 61

われ間の宿命である忘却という空白のうえに、なにか傷あとを残そうとした」 (129) というMr.Compsonの解説が、時間という運命の力に挑戦しようとするJudithの 永続への意志と努力を悲観的に照射してしまってはいないだろうか。

以上、 Sutpen , Rosa, Judithの三人の小説中の人物について、彼らの生の永続へ の意志、及び、その人間として究極的であり共通のテーマを達成する「方法」を模索 する姿を概略辿ってみた。ところで、 Sutpenが"Sutpen Hundred"に残した Sutpen家の「墓」 、 RosaがQuentinに向って語りかけた「声」 、それにJudith がQuentinの祖母に手渡した「手紙」 、これらに相当するものが、 Faulknerにおい ては、 Absal。m, Absal。m!という小説そのものである。 Faulknerはこれをどうす るか。彼は三人の小説中の人物が自分たちのものを後世の人々に託したのと同じ意図 をもって、この小説を今度は我々読者にそっと手渡すであろう。

そこで我々は、小説家Faulknerにとって小説Absalom, Absalom !が如何なる 意義をもっているかという問題をここで問うてみる必要に迫られたことになりはしな

いだろうか。何故なら、 「小説の諸傑作は、ほとんど小説とは何かの自他への問いか けであった、と言っても過言ではない。」26)からである。

Faulkner自身が小説を書く行為、あるいは創作行為一般について述べた記事は多 く残っているが、 Lioninthe Gardenからの次の二つの引用もその例である。

To me, a proof of man s immortality, that his conception that there could be a God, that the idea of a God is valuable, is in the fact that he writes the books and composes the music and paints the pictures.27)

‑ They should just get the words out of themselves and down onto paper.

What matters is the end of life, when you're about to pass into oblivion, that you've at least scratched "Kilroy was here," on the last wall of the universe. Nothing else matters.28)

前者は長野でのセミナーから、後者は、パリでCynthiaGrenierのインタヴュー 中、若い作家達へのアドヴァイスを求められてそれに応えた内容からの引用である。

ここには、まず第‑に、小説というものが、自己の存在が不滅であることを証明した い( "proof of man's immortality'つという人間の本質的衝動を満足させるための 芸術的手段のうちの一つであることが述べられている。言いかえると小説家である Faulknerは、彼に与えられた小説という手段、つまり「宇宙の最後の壁に向かって

"Kilroywashere"と書き刻むこと」 、によってだけ人間としての実在を「人間の

(16)

62 井上一郎

宿命である忘却という空自」 (Mr.Compson)に向って主張できるのである。

FaulknerにとってAbsalom, Absalom Iは、いわば彼の実在を賭けた"Kilroly washere."に他ならないのだ。 (ちなみに、 "Kilrolywashere."とは、第二次大 戦中、アメリカ兵が外地の建物など至る所に書いた落書きで、 "a U.S. serviceman was here"か"a strangerwas here"位の意味を表わしている。 Kiloryなる人物に ついては、落書きの側に似顔絵も書かれていたといわれているが、実在性は不明。)

たしかに小説は「時間と戦って勝っ」ための一つの手段である。しかし、小説それ 自体としては、手段として機能するための、つまり、時間に対する勝利を宣言するた めの「方法」である。さらに言えば、小説を含めた芸術的営為は、すべて「方法」で あるのだ。時間に対する勝利を共通の主題にした芸術家たちの中でSutpen, Rosa, Judithが作品において破綻し、 FaulknerがAbsalom, Absalom !において成功し ている( "thebestnovelyetwrittenbyanAmerican"29 )のは、その「方法」に よるものである。

そして小説の「方法」とは、作家の意識の中の流動する実在のイメージを言葉で捉 えるという、いわば表現の「方法」であり、そのものとしては、人間の認識行為一般 に等しい。しかるに、 Bergsonの哲学に代表されるような、認識における概念(言 葉、記号)の力の不十分さ、不完全さを唱える思想風土で育った現代作家たちもその 影響に対して免疫であるはずはなく、認識の「方法」 、表現の「方法」において新た な対応を迫られたのである。彼らは、これらの課題を小説世界に対して配置される視 点の問題として解決しようと試みた、とM. Millgateは次の様に指摘している。

These problems all involved in some degree the question of point of view, an area of technique which is not only of fundamental importance to all novelists but which has characteristically been a major preoccupation of modern novelists, and particularly of Conrad and Joyce, two of the most powerful and most immediate influences on Faulkner himself.30)

そして、 Absalom, Absalom!の視点の問題については、前章までに述べたので、

ここでは繰り返さないが、簡単に言えば、それは読者の小説世界への「参加」を必然 化することによって、 Absalom,Absalom!を「方法」的に成功させているという ことである。 Faulknerは、

The aim of every artist is to arrest motion, which is life, by artificial

means and hold it fixed so that 100 years later when a stranger looks at it,

(17)

William FaulknerのAbsalom, Absalom!語りの技法について‑ 63

it moves again since it is life. Since man is mortal, the only immortality possible for him is to leave something behind him that is immortal since it will always move. This is the artist's way of scribbling "Kilroy was here"

on the wall of the final and irrevocable oblivion through which he must

somedaypass.30 (イタリック体は筆者)

という言葉によって、作家の「方法」を定着させた感がある。この中で"astranger"

とあるのは、小説の場合、もちろん読者をさすわけであるが、読者の存在を無視し続 けた、いかにもFaulknerらしい表現である。しかしながら、 Absalom, Absalom ! においては、読者に対して"looksatit" (小説を読む行為)以上のことを要求する ことによって、彼の「方法」を確かなものにしているのである。

それに対して、森の中にある落葉の積ったSutpenの墓を訪れて碑文を読み、

Sutpenの生を回想する人は、 Mr. CompsonとQuentin以外にほとんどいないし、

Judithは、 Bonからの手紙をQuentinの祖母に手渡す時、それを後日誰かが読んで くれるだろうということを全然期待していない。 「持っててくださっても、棄ててく ださっても、どちらでもいいんです。」 (127)と彼女は言うのだ。さらに、将来作家 になって自分の話を雑誌に書いてくれるはずと期待していたQuentinは、The SoundandtheFuryにある通り自殺してしまい、 Rosaの意図は実現されなかった

のである。つまり、彼らの"Kilorywashere"に対する"astranger"は、文字通 り̀̀astranger"に他ならず、 「取り返しのつかない忘却」の測から彼らを救い出す ことは絶えてなかったのである。

V

Absalom, Absalom !はRosaがQuentinにSutpenについて語って聞かせようと する所からスタートする。 (物語を語ることそれ自体は、 「論理と一貫性に対する人 間の内なる欲求を満足させる一つの方法である」 32)から、 Sutpenについて物語る行 為は、 Sutpenを知ることに等しく、又、すでに述べたように、 Sutpenについて語 り、そして知ることは、それ自体きわめて主観的な行為であり、結局、自分自身につ いて語り、自分自身について知ることであった。)しかし、奇妙なことに、読み進む につれて、 Rosaが語ろうとしている当のSutpenも自分自身について語ろうとして いることに我々は気付くのである。

He was telling a story ‑‑・he was just telling a story about somethinga

(18)

64 井上一郎

man named Thomas Sutpen had experienced ‑‑ (247)

つまり、 SutpenはQuentinの祖父Compson将軍に「自分が人生のどの点で誤りを 犯したか」 (263)をたずねるまでもなく、彼は自分自身について知ろうとしている のだ。ひるがえって、 RosaもSutpenについて語ることを通じて、自分自身を知る ようになる。 J. ReedがAbsalom, Absalom!は、

not about what happened but about arriving or understanding what hap‑

pend.33)

であると断定する通り、この小説はSutpenについての物語などではなく、 Sutpen を知ること、すなわち自己を知るに至る過程をむしろ問題にしているのである。

RosaはSutpenについて知ることによって、逆に自分自身の坐‑宿命の力を防 ぐ術もなく、四十三年間に亘って亡霊として生きてきたこと‑の深い認識に達する。

Sutpenも自分の存在が宿命のからくりの中に捕らえられていること‑しかし、彼 にはそれが自分の倫理的欠陥のせいであることが、ついに分らずじまいであり、この 自己認識の不十分さことSutpenの悲劇的英雄性を高めているとも言える‑を薄々 気付くようになる。

しかしながら、彼らの関心はさらに自己認識を越えて自己表現に向かう。自己表現 ( "Kilroywashereつによって、宿命的な力の支配から自分を救い出し、自己の生 の永続性を志向しようとするのだ。だが、 Faulknerが創造したこの表現者たちは、

その拙劣な「方法」のために目標を達成しえずに挫折せざるをえない。

一方、作者Faulknerにとっても、いわゆる南部の神話的な人物Thomas Sutpen について語ることは、自分を知ることである。すなわち、それは南部に生きる作家と

して、南部神話に対する自分の境位(愛着でもあり、呪いの意識でもある)を見定め、

それを表現することである。このことをFaulknerは、 ‑登場人物(Quentin)と して行い、巻末の"Idon't;Idon't;Idon'thateit; Idon'thateit;" (378)とい う言葉に要約している。 Faulknerは、 「私は同じ物語を繰り返し語っているのであ り、その物語とは私自身であり、世界であるにはかならないのです。」34)とM.

Cowleyに述べて、数多くの小説に展開されたYoknapatawphaの世界こそ、南部 に生きた自分、つまり、 "Kilroywashere"を小説として定着しようとする努力の 表われであることを示唆している。今、Absalom, Absalom !の世界では, Faulkner は全能者としての神の地位を棄てて、人間(Quentin )の地位まで降りてくること によって、完壁な位、人間的で主観的な世界が実現されている。しかし、そのことに

(19)

William FaulknerのAbsalom, Absalom!語りの技法について‑ 65

よってかえってFaulknerは、読者が積極的に小説世界に「参加」することを容易に し、読者に語り手たちと一緒になって、人生を支配する宿命の中での自己の境位を見 極めて、それを乗り越えるという課題を提示することができるのである。

Notes

1 ) Estella Schoenberg, Old Tales and Talking ( Jackson : Univ. Press of Mississippi, 1977), p.142.

2) Frederick L. Gwynn & Joseph L. Blotner (eds. ), Faulkner in the niversity (Char‑

lottesville : Univ. Press of Virginia, 1977 ), p. 71.

3) Ibid., p.275.

4) Ibid., p.274.

5) WilliamFaulkner, Absalom, Absalom!(NewYork : Random House, 1964 ), p. 250.以 後こテキストからの引用はこの版により、ページ数のみを記す。邦訳は富山房版『フォークナ‑全集』

第12巻、大橋健三郎氏のものを参照させていただいた。

6 ) Judith B. Wittenberg, Faulkner : The Transfiguration Biography ( Lincoin & London Univ. of Nebraska Press, 1979 ), p. 143.

7) Ibid., p.154.

) Jonseph W. Reed, jr., Faulkner's Narrative ( New Haven and London : Yale Univ. Press, 1974), p. 171.

9 ) James B. Meriwether & Michael Millgate( eds. ), Lion in the Garden( Lincoln & London : Univ. of Nebraska Press, 1980 ), p. 248.

10) 『ベルグソン全集』 (白水社、 1978)、第7巻、 p.213.

ll) James B. Meriwether & Michael Millgate, op. cit., p. 253.

12) Ibid., p.248.

13) Ibid., p.277.

14) Gary L. Stonum, Faulkner's Career : An Internal Literary Histoり′ ( I thaca & London : Cornell Univ. Press, 1979 ), p. 123.

15) FrederickL. Gwynn&JosephL. Blotner(eds. ), op. cit., p. 71.

16) Conrad Aiken "William Faulkner : The Novel as Form," William Faulkner : Four Dec‑

ades of Criticism, ed. Linda W. Wagner ( Michigan Univ. Press, 1973 ), p. 137.

17) Malclm Cowley, TheFaulkner‑Cowley File ( New York : The Viking Press, 1968 ), p. 15.

18) Arthur F. Kinney, Faulkner's Narrative Poetics : Style as Vision ( Amherst : Univ. of Massachusetts Press, 1978 ), p. 195.

19) 『オルテガ著作集.B (白水社、 1976)、第1巻p.263.

20) Frederick L. Gwynn & Josewh L. Blotner ( eds. ), op. cit., p. 274.

21) Duncan Aswell, "The Puzzling Design of Absal0m, Absalom !," ∬enyon Reviei〟, 30, No.

118 (1968), p.68.

22) Frederick L. Gwynn & Joseph L. Blotner ( eds. ), op. cit., p. 273.

23) James H. Matlack, "The Voices of Time : Narrative Structure in Absalom, Absalom !,"

The Southern Review, 15, No.2 ( 1979 ), p. 342.

(20)

66 井上一郎

24) William Faulkner, TheSound andthe Fury ( New York : Random House, 1956 ), p. 93.

25) Jadith B. Wittenberg, op. cit., p. 145.

26)三島由起夫F小説とは何か」 (新潮社、 1972), p.119.

27) James B. Meriwether& Michaal Millgate (eds ), op. cit., p. 103.

28) Ibid., p.227.

29) Joseph Blotner, Faulkner : A Biography ( New York : Random House, 1974 ), p. 927.

30) Michal Millgate "William Faulkner : The Problem of Point of view,'mMamFaulkner Four Decades of Criticism, ed. Linda W. Wagner ( Michigan Univ. Press, 1973 ), p. 180.

31) James B. Meriwether & Millgate ( eds. ), op. cit., p. 253.

32) Duncan Aswell, op. cit., p. 75.

33) Joseph W. Reed, Jr., op. cit., p. 146.

34) Malcolm Cowley, op. cit.

(1991年4月26日受理)

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