ジ・ン・ロックと立憲主義の理論
森
順
次
立憲主義とは︑最も簡明にこれを定義すれば︑e国家権力の濫用に対して国民の自由を確保するために︑国家権力の作
用を立法・司法・行政の三権に分立して各々独立の機関をしてこれを担当せしめ︑図国民の選挙する議員によって構成さ
れる国民代表議会を設けて三権のうちの立法作用を行わしめ︑日国民代表議会の制定する法律を司法および行政の準則た
らしめる︑という政治原理であると言える︒右の如き立憲主義は︑国家権力の濫用に対して国民の自由を確保するとい
う︑いわば自由主義的要請と︑国家権力自体を国民の掌中に置き︑国民意思をもって国家意思たらしめることによって 駕.綴毒瀧麹U覧響式を実現するとい臥いわば民主主義的要請とを港毒せしめるものであり・絶対王政を打
倒して政治権力を掌握した第三階級1一・市民階級にとって︑必要にして充分な条件を具備した︑極めて巧妙な政治原理で
あった︒それ故に十八世紀末のアメリカ合衆国の独立やフランス大革命の後から十九世紀にかけて︑市民階級が政治権力
を掌握するに至った諸国は︑すべて完全な立憲主義憲法を採用したし︑又︑市民階級の勢力が弱くて政治権力を充分に掌
握するに至らなかった諸国においても︑何ほどか市民階級の政治的発言権が認められる限り︑その度合に正比例して︑何
らかの程度︑立憲主義の影響を受けた憲法を採用した︒十九世紀は立憲主義の時代であった︑と言われる所以である︒ニ
ジ︒ン・pックと立憲主義の理論 三八九
三九〇
−十世紀に入?て︑殊に第︸次世界.大戦後︑ドイツのいわゆるワイマール憲法︵︼九︼九︶に典型的に見られるように︑生存
権・労働権の承認や国際協調主義の採用など立憲主義憲法の展開とも言うべき転たな傾向が現われて来たが︑それも立憲
主義の基本原理に変革を加えたものとは看得ない︒そして現代においても︑いわゆる人民民主主義の諸国は別として︑そ
・の他の国々は︑依然として立憲主義憲法を堅持しているのである︒
このように長い期間にわたって︑比類の無い程の広範な影響力を及ぼしている立憲主義という政治原理は︑誰によって
理論的に完成されたと見らるべぎであろうか︒この間に対しては︑周知のように︑我々は特定の一人を挙げることを得な
い︒それは︑幾時代にもわたる数多くの学者の所論を綜合して︑初めて構成されたものである︒しかし︑それらの学者の
中で︑最も早く立憲主義を体系的に論じた者としてイギリスのジ.ン・ロック︵一六三二i一七〇四︶を挙げることについ
ては︑おそらく何びとも異議がないであろう︒
イギリスは立憲主義の母国といわれるが︑それは︑この政治原理がイギリスの長い現実の政治の歴史の中で形成された
ことを意味する︒その遙かなる源流が︑この国の政治の深奥に横たわる古代ゲルマンの二元主義にあることは︑曾って述
べた・如くである︒ この二元主義は中世のイギリスにおいては︑国王と等等議会との対立として顕現し︑或はブラクトン︵国自昌号切鎚魯︒戸一二一六−六八︶をして﹁国王は︑ いかなる人の下にもあるべきではない︒しかし神と法との下にある
べぎである︒なぜならば︑法が国王を作るのであるからである︒﹂ という有名な言葉を語らしめ︑或はフォーテスキュ
︵匂昌目頃︒詳$︒墓・一三九四頃−一四七六頃︶をして︑ ﹁ノ・ギリスの支配形態は国王も国民も絶体権をもたず︑両者の合意の上
に権力が存在するから︑法の定立・課税その他の重要な権力作用は︑すべて︑国王と国民との合意によって行われる﹂と 論ぜしめた︒次で絶対王政の時代においては国王と国会との対立抗争は激しく続けられた︒こうした歴史的背景の下に︑
遂に十七世紀にいたって︑ゼユーりタン革命︵一六四二t四九︶と名誉革命︵一六八八︶という︑世界史上最初の市民革命が
二回にわたって遂行され︑絶対王政は打倒されたのであった︒この名誉革命の時代に生きたロックが最初の体系的な立憲
主義の理論の提唱者となったのは︑偶然ではない︒
しかし︑イギリスにおける立憲主義は︑ロックの理論によって形成せられたものではなく︑逆にロックの理論が︑名誉
革命後の現実を理論づけたのである︒従ってそれは︑多くの点において︑イギリス特有の政治史上の現実によって決定的
に影響されており︑その為に︑到底︑諸国に妥当する普遍的な立憲主義の理論たり得なかった︒なるほど︑ロックは立憲
主義理論の元祖であり︑ ﹁百年の間というもの︑ヨーロッパはロックの諸観念に依存し続けた︒あらゆる方面でそれを修
正し発展させはしたが︑何ら根本的な変更は加えられなかった︒﹂としても︑ロックには︑イギリスの政治の歴史的現実
がもたらした限界がある︒それは︑立憲主義の︼般論という観点から見れば︑ロックの理論のまぬがれ難い不完全さと言
わねばならない︒本稿はこれを解明することを目的とする︒
二
先ず最初に︑立憲主義理論に関係があると認められるロックの所説を瞥見する︒
ロックの政治理論は︑名誉革命の直後︑ ︸六九〇年に出版された国政目論︵日名O 日属Φ鱒酔一〇ロΦω O隔 OOく㊦属昌唐Φ︼P骨︶に示されてい
る︒
.この書物の前篇は︑ ﹁ロバート・フィルマー卿およびその追随者達の誤れる諸原理および根拠の摘発並びに覆滅﹂︵日冨
隔帥密勺臥β︒琶の︒︒きq閣︒目愚聾89の貯富︒冨片頭一翼♪餌巳匡︒︐嗣邑暑①炉騨窓無Φ書劉嘗9︒器詳穿︒名目︶と題されるが︑その第一章に
おいてロックは︑フィルマーの体系を要約すれば︑ ﹁あらゆる支配は絶対君主政でなければならず︑そしてその理由は︑
如何なる人も生れ乍らに自由ではない︑という点に求められる﹂というに尽きるとし︑ ﹁フィルマーの書物を読んだ後に
ジョン・pックと立憲主義の理論︵森︶ 三九一
三九二
おいても︑自分は︑法の許す限り︑自由な人間と考えざるを得ない﹂のでこの論文を書くという趣旨を述べている︒フィ
ルマーの族父権論 神がアダムに授け︑次で代々の家長に伝えられた家長権が君主権の起源であり︑従って人民は︑神
に対すると同様に︑国王に対して絶対服従の義務を負うとする説一はいわゆる王権神授説の代表的なものであるが︑こ
れに対してロックは激しい反駁を加えたのである︒
ロックがこの書物において反撃の対象としたと考えられる論敵がもう一人ある︒それはホッブス︵日ぎ巨器国︒♂9ω・一五八
八一一六七九︶である︒ホッブスはロックと同じく近代的自然法思想の立場に立ち乍ら︑ロックとは全く逆の結論を引き出
した学者である︒即ちホッブスにおいては︑繋争の契約によって形成された国家権力は︑一歩これを制限すれば︑それだ
け﹁万人の万人に対する闘争状態﹂たる自然状態に近づくことになるから︑絶対的・無制限的たるべきものとせられた︒
ロックは︑同国の先輩に敬意を表したせいか︑ホッブスの名前を一箇所もあげてはいないが︑明らかに彼に対する反駁と
推察される所論を︑国政二論の数多くの箇所で展開している︒
フィルマーとホッブスとは︑その基本的立場を異にしているとはいえ︑いずれもスチュアート王朝の絶対王政に対して︑
有力な思想的武器を提供した点では︑共通している︒ロッグは︑この二人に対して︑精力的な反撃を加えたわけであるが︑
立憲主義が︑絶対王政を打倒した後の市民階級の政治理論であることを思えば︑ロックがこの二人を論敵として選んだの
は︑まさに当を得たものと言わねばならない︒
こういうわけで︑国政二論の全篇が︑広い意味で立憲主義に関係があると言えようが︑直接にその理論が展開されてい
るのは︑ ﹁市民的政府の真の起源︑範囲および目的に関する論文﹂︵b昌国︒︒︒︒譜8昌8巨凝日冨頃冨︒尉芭ロ鼻国簑①鼻き臼国巳
陳9乱︒薯︒︑b唐︑口蓋︶と題される後篇においてである︒その中で︑ロックが立憲主義の理論づけに貢献したと認められる点
として︑おおよそ三点が区別される︒
第一︑自然権の承認
さぎにも一言触れたように︑ロックは近代的自然法思想の立場に立ち︑この思想を奉じた学者達の均しく認めた共通の
図式 自然状態にある人々が契約によって国家状態乃至政治社会に入るとする から出発する︒彼によれば︑自然状
態は︑ ﹁自然法の範囲内において︑如何なる人にも許可を乞わず︑又如何なる人の意思にも依存せず︑彼等が適当と考えるままに︑彼等の行
動を規律し︑彼等の財産および身体を処置する完全な自由の状態である︒それは︑叉︑すべての権力および裁判権が相互的であり︑
何人も他の人より︑より多くをもたない平等の状態である︒﹂︵ゆ幽︶
かかる自然状態において各人がもっている権力を︑共同社会の手に委ねるとぎに︑初めて政治社会が成立する︵吻・︒刈︶
が︑何故にこのようなことが行われるかという理由については
﹁自然状態において窪々は権利を有するが︑しかしその享有は極めて不確実であり︑絶えず他人による侵害の危険に曝されている︒何
となれば︑−すべての人は︑彼と同様に王であり︑各人は彼と平等であって︑しかも大部分の人は衡平と正義とを厳格に守ろうとはし
ないので︑この状態の下においては︑彼のもつ所有物の享受は極めて不安定であり︑保障されていないからである︒このことは︑彼
をして︑自由ではあるけれども恐怖と絶えぎる危険と・に充ちているこの状態を︑毒んで放棄させる︒彼が︑生命・自由・財産一こ
れを私は︑一般の名称に従って所有物︵隠ε霞貯︶と呼ぶ をお互に保護するために︑︑既に結合しているか︑又はこれから結合し
ようと思っている他の人達と社会を結ぼうと試み︑進んでそれを結ぼうとするのは︑理由のないことではない︒﹂︵ゆ感ω︶
と述べている︒政治権力がこのようなものであるために︑それは本来制限されたものである︒彼は言う︒
﹁政治権力は︑各人が自然状態において持っていたのを︑社会の手に︑従って叉︑祉会が自らの上に立てた支配者に︑各人の幸福と各
人の所有物の保護のために使用さるべきであるという明示もしくは黙示の信託によって︑譲渡したところの権力である︒⁝⁝政治権
力の目的と分量とは︑それが自然状態において各人の手中にあった時には︑社会のすべての成員一即ち一般に全人類一の保謹と
いうことにあったのであるから︑政治権力は支配者の手に譲渡された時でも︑社会の全成員の生命・自由および財産を保護すること
ジョン・ロックと立憲主義の理論︵森︶三九三
三九四
以外の目的と分量とをもち得ない︒従ってそれは︑全成員の生命や財産を麦配する絶対的・専断的な権力ではあり得ない︒1−それ
らは出来得る限り保護せらるべきものなのである︒L︵ゆ≡︶
更にロックは︑国家権力が専断的権力ではない所以を︑彼が国家の最高権として重視した立法権について︑繰り返し強
調している︒曰く 唖
﹁立法権は︑国民の生命および財産を麦配する絶対的・専断的権力ではないし︑叉︑そうである可能性さえない︒何となれば︑立
法権は︑社会の各成員の権力を集めて︑立法者たる個人叉は集会に譲渡したものに過ぎないからである︒それは︑彼等が︑社会状態
に入る以前に︑自然状態において持っていて︑共同社会へ譲渡したもの以上のものたり得ない︒というのは︑何人も︑自らの申に持
っている権力以上の権力を他に譲り得ないし︑又何人も︑自らに対して自己の生命を絶ったり︑他人に対して他人の生命︒財産を奪
つたり出来るような︑絶対的・専断的権力を持っていない︒⁝⁝人が自然状態において持っているのは︑他人の生命.自由︒財産を
支配する旗売的権力ではなくして︑単に︑自然法が︑彼自身の保護および他の人々の平穏のために︑彼に与えただけの権力である︒
そしてこれが︑共同社会に対して︑叉︑それを通じて立法権に対して︑彼が譲渡し︑もしくは譲渡することの出来る権力のすべてで
ある︒従って立法権は︑この権力以上の何等の権力をも持たない︒⁝⁝それは︑保護のみを目的とする権力である︒﹂︵ゆ一こ︒㎝︶
こ−のように国家権力︑特に国家の最高権たる立法権が︑本来制限されているということは︑これを反面からみれば︑国
家権力を以てしても制限することの出来ない人間の自然権 生命・自由および財産 を承認することであった︒かか
る自然権の承認ということで︑ロックは立憲主義理論の礎石を確立したのである︒
樹ここで︑国家権力と自由︵自然権︶との関係についてのロックの理論構成を一瞥しておきたい︒ 国家権力は自由を保
護することのみを目的とするものである︑と言ってみたところで︑本来︑権力が自由の拘束を︑叉︑自由が権力からの解
放を意味する限り︑権力と自由とは無媒介的に両立し得るものではない︒ロックにおいては︑権力と自由との二律背反を
矛盾なく調和せしめる媒介物とせられたのは﹁法﹂であった︒彼は言う︒
﹁社会における人聞の自由とは︑国民の同意によって設立された立法権以外のものに服しないことである︒即ち︑立法府が自己に
与えられた信託に従って制定するもの以外には︑如何なる意思の支配にも︑叉如何なる法の抑制にも服しないことである︒それ故に
自由とは︑ロバート・フィルマーが﹁アリストテレスについての覚書﹂五五で言っているような﹃各人にとって好きなように行動し︑
気儘に生活し︑如何なる法によっても束縛されない自由﹄ではない︒政治社会に入った後の人々の自由とは︑当該社会の中に樹立さ
れた立法権によって制定された所の・すべての人に共通した生活規範たる永続的な法をもつことである︒﹂︵諾唯︶﹁法は間違うこと
があるかも知れないが︑法の終局の目的は︑自由を廃止したり︑制限し塗りすることではなくして︑自由を保護し︑拡大することで
ある︒何となれば︑法に従って生活する能力をもつ被造物たる人聞のあらゆる状態において︑法のない所には︑自由はないからであ
る︒自由とは他人の抑圧や暴力から解放されることであるから︑法のないところには︑自由があり得よう筈がない︒従って前に述べ
たように︑自由とは︑各人にとって好きなように行動する自由ではない︒︵人が自分以外のすべての他の人の気まぐれに制圧される
かも知れないようなときに︑どうして自由であり得ようか︒︶﹂︵蜜刈︶
ロックは法の中においてこそ自由は確保せられると考え︑これによって︑法を制定する立法権一1ひいては国家権力と
自由との調和を見出した︒しかもこの昌昌︑前提となっているのは︑立法権が国民の同意によって設立されることである︒
ここでロックの思考は第三にのべる民主主義の原理へ接合するわけであるが︑このようなロックの論述は︑後にルソーが
﹁人はあらゆる面で権力による束縛をうけ乍ら︑術且つ何故に自由であると言えるか﹂という﹁民約論﹂の主要テーマに
与えた解答の原型をなすとみることができる︒
第二︑権力︑分立論
ロックは国政二言の後篇第十二章において︑立法権︑行政権︑連合権の三権を区別している︒このうち連合権︵岡①黎・甲
乙Φ℃暑︒・︶は︑宣戦・講和・同盟・条約等︑対外的事項の処理を意味するが︑ロック自身︑これを行政権と分離すること
は殆んど不可能で︑そういうことをすれば︑社会的力が異った統率下に置かれて︑無秩序と破滅とをもたらす危険がある
と述べている︒︵ゆ=c︒︶従ってロックは︑基本的には無権分立を唱えたとみるべきである︒ロックが二権分立を主張する
目的は︑国家権力の濫用に対して︑国民の自由を確保しようとするところにある︒彼は言う︒
ジ︒ン・ロックと立憲主義の理論︵森︶ 三九五
三九六
﹁立法権は︑共同社会およびその成員を保護するために︑国家の力がどのように行使さるべきかを指示する権利をもつものである︒
しかし︑諸法律は絶えず執行され︑その力は常に継続しなければならないが︑法律を作ることは短時聞でできる︒それ故に︑立法権
は常時存在する必要はなく︑又︑常時なすべき仕事があるわけではない︒そして︑法律を作る権力をもつ人々が︑同時に︑法律を執
行ずる権力をもその手中に握ることは︑権力をむさぼりがちな人間の弱点にとって︑余りにも大きな誘惑であろう︒その場合︑彼等
は︑彼等が作る法律に従うことから︑彼等だけを免れさせるかもしれないし︑叉法律の作成においても︑その執行においても︑法律
を︑彼等だけの個人的な利益に適応させ︑社会および政府の目的に反して︑共同社会の平穏とは異った利害関係をもつ.にいたるかも
知れない︒それ故に︑全体の幸福がよく考えられている秩序だった国家においては︑立法権は︑時々会合して︑彼等だけで︑又は他
と共.同して︑法律を作る権力をもつ特別の人々の手中に置かれ︑彼等は︑法律を作ってしまつだ時には︑再び解散して︑彼等が作っ
た法に服従するのである︒﹂︵ゆ=G︒︶﹁法律は一度で且つ短時間で作られるが︑絶えざる・そして永続的な力をもち︑永久の執行や︑
それについての監督を要するから︑作成され・効力を有する法律の執行を引受ける一の権力が常時存しなければならぬ必要がある︒
かくて立法権と行政権は塵々分立される︒﹂︵ご註︶
ロックにおいて立法権と行政権の分立が説かれる場合︑対等の立場における分立ではなく︑立法権が優位に立つ︒それ
は国家の最高権力である︒そして行政権は常に立法権に従うという形の﹁法による行政﹂即ち法治主義が説かれる︒彼は
言う︒ ﹁あらゆる国家において︑立法権即ち最高権力を持つ者は誰でも︑公布されて国民に知られている所の確立された恒常的な法によ
って支配する義務を負うのであって︑即席の命令によって支配してはならない︒﹂︵吻函︶﹁絶対的な専断的権力︑もしくは制定され
た恒常的な法なくして行われる交配は︑いずれも︑社会および政府の目的と一致し得ない︒﹂︵ゆ琴曲︶
国家権力の濫用に対して国民の自由を保障するための制度として権力分立を唱え︑かつ法治主義を主張したのは︑ロッ
クが初めてであり︑その功績は極めて大きい︒
第一一一︑民主主義
すでに一言した如く︑ロックによれば︑国家権力乃至政治権力は︑自然状態において各人が有していた権力を信託的に
譲渡されたものに外ならず︑﹁政治権力は︑専ら共同社会を構成する人々の契約と協定と相互の同意に︑その起源をもつ﹂
︵吻≡︶︒そしてこのような権力の譲渡や︑権力の基礎となる国民の同意は︑ ロックにおいては︑直ちに多数決原理と結
びつく︒曰く
﹁自然状態から出て一の共同社会へ結合した人々は︑彼等が社会へと結合するに至った諸目的を達成するに必要なすべての権力
を︑その社会の多数党に譲渡したと解されねばならない︒﹂︵ゆ8︶﹁どれだけかの数の人々が︑一の共同社会又は一の政府を作るこ
とに同意した時︑彼等は︑それによって直ちに一体化され︑一の国家を作るのであり︑その国家内では︑多数党が他の者の代りを勤
めて決断する権利をもつ︒﹂︵ゆ︒α︶﹁何となれば︑どれだけかの数の人々が︑各人の同意によって一の共同社会を作った時︑彼等
は︑それによって︑その共同社会を︑一団体として行動する権力を持った団体としたのであり︑かかる団体は︑多数党の意思と決意
とによってのみ可能である︒⁝⁝それ故に各人は篭.同意をし忙以上︑多数党のなす決断に服する義務を負う︒﹂︵ゆOひ︶
かくてロックは国家権力の基礎を国民の同意乃至信託に求めたのみでなく︑具体的に国家権力が多数党の意思であるべ
きことを主張した︒立憲主義理論における民主主義的要請が此処に適確に示されていると言える︒
三
ロックが説いた以上の三点は︑疑もなく︑立憲主義の基本的原理を明らかにしたものと言わねばならない︒叉︑実際上
も︑一七七六年のアメリカの独立宣言を始め︑その後の諸国の立憲主義憲法に対して︑ロックの所説が甚大な影響を及ぼ
していることは否定し得ない︒それは︑立憲主義憲法一般に対するものである︒だから︑例えば︑我国についても﹁わが
明治憲法にも現行憲法にも︑その背景にロックの思想がうかがえる︒ごくおおまかにみて︑明治憲法はロックの思想より
遅れており︑現行憲法はロックより進歩的である︒そうして︑現行憲法のほうが明治憲法よりもずっとロック的色彩が強
ジョン・戸ックと立憲主義の理論︵森︶ 三九七
三九八 くなっている︒﹂というような立言が可能なのである︒
けれども︑ロックの所説において︑後世の立憲主義憲法の理論が︑のこるところなく記述されているかと言うと︑決し
てそうではない︒それは︑前述の︑ロックが述べた三つの基本的な点のそれぞれについて︑指摘できると思う︒
先ず第一の自然権について見ると︑ロックが自然権の存在を論証し︑更に具体的に生命・自由・財産というそのカタロ
グを例示したのは︑偉大な功績であるが︑彼はこれを︑アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言の如き形式︑乃至は立
法権をも拘束する成丈憲法という如き形式で確保する方式に思い及ばなかった︒これはイギリスにおける国民の権利が︑
専ら﹁法の支配﹂︵弓弼一〇 〇隔 一声く﹃︶の原則の中で保障されて来たという歴史的事実に制約されたものである︒
イギリスでは︑﹁国民の権利﹂は﹁法の支配﹂のコロラリイにほかならない︒この︑ことは一二一五年のマグナカルタ︑
一六二八年の権利請願︑ 一六八九年の権利章典などから今日に至るまで︑ 一貫してぎ口えることである︒ダイシイが
﹁憲法律すなわち諸外国においては当然に︑憲法典の一部を構成するところの規律が︑イギリスでは︑裁判所によって決定され且 つ強行される個人の諸権利の源泉ではなくして︑その結果である︒﹂ ﹁憲法の一般的諸原則︵例えば︑人身の自由の権利又は公の集
会の権利︶は︑イギリスでは裁判所にもち出された特定の事件において︑私人の諸権利を決定する司法判決の結果である︒﹂
と述べているのはこれを示す︒従ってイエリネックが﹃今日のイギリス人の見解によれば︑自由権とは単に﹁法の支配﹂ にほかならぬ︒主観の法︵権利︶ではなくして︑客観の法︵法規︶である﹄と説いているのは正しい︒
以上のようなイギリスの伝統を顧みれば︑ロックが人権宣言や︑立法権をも拘束する成文憲法の制定を主張しなかった
のは︑極めて当然である︒ロックにとっては︑﹁法の支配﹂が維持されている限りは︑自然権の宣言は不必要であった︒し
かしイギリスのような特殊な﹁法の支配﹂の歴史をもたない国々では︑国民の権利を保障するためには︑なによりも﹁権
利の宣言﹂が必要であり︑又成文憲法上で国民の権利を明示することが必要であった︒独立宣言以後の諸種の人権宣言や
その後の諸国の成文憲法上の権利保障 一七九一年のフランス憲法第一章が﹁立法権は本章に定め︑憲法により保障せ
られたる自然権および民権の行使を侵害し︑およびこれを妨ぐる如何なる法律をも制定することを得ず﹂と規定するのは
その典型である一などはこれを示している︒
なお︑イギリスでも︑ピューリタン革命の際クロムウェルの兵士達が作成した人民協定︵bσq・①窪婁︒紫冨団8bβ 一六四 ド
七︶には﹁国民の不可譲渡の権利﹂が規定され︑国会もこれを侵し得ないとされたことを思えば︑ロックの所論は︑これ
よりも後退しているとされねばならない︒
第二にロックの権力分立論は︑立法権と行政権との分立にとどまっている点で︑明らかに不充分であるのみならず︑分
離された権力の均衡による・権力の相互的抑制の主張を含んでいない点で︑決定的な不完全さを示している︒これらの点
は︑後にモンテスキューによって補完されたのであった︒
もとより︑ロックの思想がモンテスキューに及ぼした影響は極めて大ぎい︒モンテスキューが
﹁すべて権力を有つ者はそれを濫用しがちだ︒彼は極限までその権力を用いる︒これは不断の経験の示す所だ︒﹂﹁政治的自由は︑
決してその欲することを為すことに存しない︒国家において︑即ち法の存在する社会において︑自由とは︑ただ︑その欲すべきこと
を為すことが出来︑且つ欲すべからざることを為すべく強制せらるることなきことにのみ存する︒⁝:︐自由はすべて法の許容するこ ⑲ とを為す権利だ︒﹂
などと述べているのは︑ロックをそのまま採り入れたものである︒こうして︑モンテスキューはロックの追随者たるの
へ も一面を有するが︑他面︑三権の分立とその相互的抑制均衡を主張する点では︑﹁法の精神﹂の扉に﹁母なくして生れた子﹂
と記して︑この書物の独創性を誇ったことが︑まさしくあてはまるのである︒ .
ロックが立法と行政との二権分立にしか想到しなかったのは︑矢張り︑当時のイギリスの事情に基づいている︒この点
ジョン・戸ックと立憲主義の理論︵森︶ 三九九
四〇〇
について清宮教授は次のように言われる︒
﹁ロックは︑裁判作用または司法作用を無視していたのではない︒かえって︑ロックにおいては︑立法潅の主たる作用は︑司法法
殊に刑事法の制定であり︑執行権の主たる作用は︑刑事法の適用にあったのである︒それにもかかわらず︑ロックが行政と司法とを
区別しなかったのは︑フランスでは︑十八世紀以来すでに行政と司法とが区別されていたのに対し︑当時のイギリスでは︑裁判作用に 対して行政作用がいまだ発達せず︑司法法と行政法との区別もなく︑また司法官と行政官との区別も判然としなかったからである︒﹂
このような当時のイギリスの事情は︑更に遡れば︑ゲルマンの二元主義に源を発する・行政権の担当者としての国王と︑
立法権の担当者としての国会との対立抗争に帰着する︒そして名誉革命は︑国会がウィリアムを新たに迎えて国王の地位
につけたということによって単的に示されているように︑国会の国王に対する優位を確立したものである︒ロックの権力
分立論において︑立法権と行政権とが均衡せるものとはされずに︑立法権が優位に立つものとせられるのは︑あたかもこ
の歴史的事実に照応する︒ところがモンテスキューにおいては﹁権力の濫用を為し得ぬようにするためには︑権力が権力
⑮を抑制するよう︑事物を塩梅することが必要だ﹂として権力の相互抑制が強調されるのである︒権力分立論の中核が︑単
なる権力の分離ではなくて︑権力の相互抑制にあるとすれば︑ロックの所論はそこまで及んでおらず︑従ってロックにお
ける権力分立論は﹁寧ろ偶然的である﹂とされよう︒それはイギリスにおける﹁法の支配﹂を実現する手段として︑第二
次的な意義しか持っていないのである︒
第三にロックにおいて︑国家権力が国民の同意もしくは信託に基づくものとせられ︑更に具体的には国内の多数党に譲
渡されたものとせられる点においても︑ロックの所説は︑不徹底をまぬがれない︒ロックの所説を論理的に押しつめて行
けば︑当然に国民主権の主張に到達すべぎである︒ロックの時代はフランスのボダンが国家論六巻︵∪︒冨怨彪自ρロρ一五
七六︶において近代的な・王権の概念を提唱して以来一世紀以上を経過して・おり︑近代的主権概念はイギリスにも広く影響
していたとみられる︒殊にホッブスにおいて主権の無制約性が強調されているのであるから︑ホッブスに対し批判的立場
をとるロックが主権論について無関心であったとは考えられない︒それにも拘らずロックは彼の書物において﹁主権﹂の
概念を用いることを注意深く避けている︒それは畢寛︑主権論に言及するとすれば国民主権の理論に到達せざるを得ない
ことを自ら知り乍ら︑そこまでは踏みきれなかったことを意味すると解してよいであろう︒なお又︑既に︑スコットラン
ドの宗教闘争やピューリタン革命は︑カルヴィンの後継者ベザ︵しuΦ国騨・一五一九−一六〇五︶によって主張された国民主権の
理論を思想的底流としたと言われるのであるから︑ロックの時代にはこの理論は広くイギリスで知られていたと考えられ
るのである︒
これと関連して国民の抵抗権の問題がある︒ロックは︑国家権力の基礎を国民の同意乃至信託に求めた以上︑国民の抵
抗権を承認せざるを得なかった︒彼によれば︑国家の最高権たる立法部が国民の信託にそむいて国民の生命・自由・財産
に対する専断的権力を握るようになれば︑立法部はこの信託違反行為によって権力を喪失し
﹁権力は国民に移り︑国民は本来の自由を回復し︑︵彼等が適当と考えるような︶新たな立法部を設立することによって︑彼等が
社会生活.に入った目的たる彼等自身の安全と保障とに備える権利をもつ︒此処で私が立法部一般について述べたことは︑最高の行政
権担当者についても真理である︒﹂︵ゆPB︶
こう言うところは︑国民の完全な抵抗権を認めているわけであるが︑その実現方法という点になると︑
﹁立法部と国民との中問には何者も存しないのであるから︑立法部か行政部かのいずれかが権力を握ってしまった時に︑国民を奴
隷化したり︑破滅せしめたりすることを企て︑もしくはそれにとりかかるかも知れない︒この腸合︑国民は︑あたかも地上における
何らの裁判官をももたない他のすべての場合と同様に︑天に訴える外には方法がない︒﹂︵脅ひ︒︒︶
というような︑すこぶる曖昧な見解を述べている︒更に彼は︑抵抗権の承認が革命を奨励して絶えず政治機構の不安定
を招く結果とならないか︑という問題を自ら提起し︑これを種々の角度から検討して︵育8以下︶そ到いう結果とはなら
ジョン﹂ロックと立憲主義の理論︵森︶ ﹂ 四〇一
四〇二
ないことを強調し︑寧ろ逆に抵抗権を是認することが﹁謀反に対する最善の障壁であり︑それを防止するための最も蓋然
性のある手段である︒﹂︵吻︑旨ひ︶と述べている︒つまり彼においては︑国民の抵抗権は現実に容易に行われうるものでもな
ければ︑行うべぎものでもないが︑これを理論的に認めておくことは︑立法部や行政部の信託違反的暴政を防止するのに
役立つという判断がなされているわけである︒急激な政治的変革を極力避け︑時として現われる例えばピューリタン革・命
⑱ における急進的な共和政の如ぎをも︑程なく抹殺した︑イギリス政治史の保守性が︑ロックをして安んじて抵抗権を主張
せしめた根抵となっているのである︒
更にロックが国民主権の理論から程遠い立場にあったことは︑彼が国王の大権︵夕霞︒撃群長︶という特殊な権力を認め允
ことにも示されている︒ロックは国政二論の第二三明十四章を﹁国王の大権について﹂と題して詳論しているが︑そこに
言う大権は︑立法と行政とのいずれにも属しない権力で﹁法律の規定なくして︑もしくは時として法律に違反してさえも︑
公共の福祉のためを計って行動する権力﹂︵ゆ一ひ︒︶ ﹁規則に左右されずに公共の福祉を成就する権力﹂︵ゆまひ︶とされる︒
その実例として議会の召集権があげられる︒ロックは︑国王の大権が公共の福祉以外のために用いられるようになれば国
民がこれを制限するのは当然であるが︑最も賢明な国王達は最大限の大権をもっていたとしている︒そのわけは﹁国民は︑
それらの国王達の行動の全般的な傾向が公共の福祉に向けられていることを見て︑この公共の福祉という目的のために法
律なしに何が為されようと問題にしなかったからである︒﹂︹官ひα︶こうしたイギリス特有の伝統的な概念をそのまま承認
することは︑徹底的な民主主義の立揚から遙かに離れていることは嘗うまでもない︒
以上に明らかな如く国家権ヵの基礎を国民の同意乃至信託に求め︑国民自律の原理を明らかにした点についてのロック
の所説も︑イギリスの特殊事情に制約せられて不徹底たるをまぬがれず︑後世ルソーによって補完されねばならなかった︒
ルソーは彼独自の一般意思︵<98芯σ99二巴︒︶の概念を駆使し︑国民の多数決によって定まるところの二般意思﹂こそが
主権に外ならないとして︑整然たる国民主権の理論を形成したのである︒
これを要するに︑ロックの思想において︑自然権の承認︑権力分立主義︑民主主義という立憲主義の理論に不可欠な基
本原理が示されているが︑それらはいずれも不完全さをまぬがれない︒ロヅクは国政二野の序文の中で﹁この論文は︑わ
が偉大なる復興者︑ウィリアム現国王の王位を確立⁝⁝するに足るものとしたい﹂と述べているが︑これはなによりも雄
弁に︑彼の理論の限界を示すと言える︒名誉革命の市民革命としての早熱性乃至不完全さがロックの立憲主義理論の不完
全さにつらなるわけである︒
①拙稿・立憲主義とゲルマン思想︑彦根論叢三四号︑秋爵範二先生還暦記念論文集三〇八頁以下︒
②Φ皇臣口ΦF留ω譜日画霞︒・口菖Φ蓉署窪︒常Φ暮ぎげ曾國8暮炉O︒巳G︒・︒・高柳賢三.英国公法の理.論︑一七ニー三頁︒伊.藤.正己・法の支配︑
一八頁︑九一頁︒
③ フオーテスキユはローズ戦争時代にランカスター派の有力者であったためエドワード四世に有罪を呈せられ︑波瀾の多い生涯を送
つたが︑約二十年間︑王座裁判所の首席裁判官の職にあり︑イギリスの中世末期︑絶対王政成立の前夜において︑国家権力の存在様
式によって国家を三つの種類に分ける興味深い理論を提唱した︒その第一の類型は角︒巨巳扇筥話撃ざと呼ばれ︑君主が自ら制定する
法によって統治する絶対王政的国家である︵彼は当時のフランスをこれめ典型とした︶︒第二の類型はΩ︒巨ほβ日工まざ百目と呼ばれ
旧主は国民の制定する法によってのみ統治する︵彼はこの形態について多くを語らない︶︒第三の類型は簿︒巳巳d日臣覧冨9唱9彗8巨
と呼ばれ︑国王と国民との合意によって国家権力が行使される︵彼はイギリスがこれに属するとした︶︒ この時代に君民協治の理論
を唱えたのは注目すべきである︒フオ1テスキユについては伊藤正己・イギリス法における国家.権力︵一九五三年法哲学年報︑法と
国家権力五一八頁以下︶に詳しい︒
④bO︒♂事♪国簿百毒9じd醇落夢昌q誓Φ国薯鼻聾撃陣霧算冨一︒︒爵O曾慧還=呂∫型ま・丸山真男・﹁ジョン・ロックと近代政治原理
﹂法哲学四季報第三号﹁法と政治の連関﹂七五頁以下所収︒ ︐
⑤野景を︑︒u冨︒輪q︒冒ピ︒爵ρ⊂のく︒どひ甚①P寄$<︒︸・HH.後篇のみを収録したものに︑q・罰・o︒薦F臣︒・︒Φ8巳弓器9勢︒島虫く
ジョン・ロックと立憲主義の理論︵森︶四〇三
四〇四
Ωoく霞昌日①曇帥屡qbピΦ雰霞8昌8医営晩弓90蜜鵠︒ロ身臼︒げ渥ご︒爵ρなどがある︒第二次大戦後︑我国でも松浦嘉一氏のと鳥井博郎氏の
と二種類の邦訳が出た︒
⑥園・国ぎ段︵︷αcQOl一ひαω︶℃勲窪雷器審=ひ︒︒o・第二次大戦中にバートランド・ラッセルが書いた大著﹁西洋哲学史﹂︵b国蓉︒曙鬼
智①︒・桑実勺ぼざ啓喜劉︶のロックの章では﹁恐らく日本を除けば︑政治権力をなんらかの意味で親権と同等に扱うような考え方は近代
人には思いも及ばぬだろう︒成程︑日本では︑フイルマーに酷似した説が今日でも通用し︑あらゆる教授や学校教師はそれを教える
義務があることになっている︒ミカドは天照大神からの一系の相続者である︒他の日本人もまた天照大神の子孫であるが︑ただ分家
に属している︒それ故にミカドは神聖であり︑彼に対する一切の抵抗は漬神である︒この理論は主として一八六八年に発明されたも
のなのだが︑現在では︑世界創造以来伝統によって連綿として受けつがれて来たと信ぜられている︒﹂と述べ︑古代エジプトや︑ス
ペインの征服以前のメキシコ.ペルーにもこれと類似する思想のあることを指摘した後﹁人類発展の一定の段階においては︑それは
極めて自然なのである︒スチュアtト時代のイギリスは既にこの段階を通過したが︑近代日本はまだだというだけのことだ﹂と言っ
ている︒︵℃・ひト⇒ρ丸山真男・前掲八○頁以下所載︶
⑦清宮四郎・日本国憲法とロックの政治思想︑国家学会雑誌六二巻九号︒
⑧鋭く.冒8ざ冒貯a琴霞︒昌ε爵の祓砕身9嘗ω陰白︒崩爵︒O︒窪窪註︒♪︵一〇α悼︶噛や悼8・ ⑨b.く・98ざ︒㍗§・や・寄αiひ.
⑩美濃部達吉訳︑イエリネック人権宣言論外三篇︵昭和二一年版︶四二頁以下︒
⑪皐職色団器ド﹄茜Φ日量琴0Ω峠鐸芭Φ年︒﹁⊆︒嘩b匡どの09.㎝δ一汗 ⑫宮沢俊義訳︑法の精神上巻ご二六頁︒
⑬宮沢俊義訳︑上掲二二五頁︒ ⑭清宮四郎・権力分立制の研究二三頁︒ ⑮宮沢俊義訳︑上掲ニニ六頁︒
⑯ 国払日導者巨︒♪昌①浮8塁塑鶏箕舘賦器憂目︒山臼ロσq︒<霞眠目︒鼻6ω卜︒噌緊一㎝ω■尾形典男・近代国家と政治的自由︑︵近代国家論第三
部自由︶八四頁︒ ⑰加藤新平・国家権力の正当性︑︵近代国家論第一部権力︶七八頁︒
⑱占部百太郎氏は言われる︒﹃法律的に言へば︑チャールスニ世はその父王の死んだときに即位したことになって︑一六六〇年は彼
の治世の第十二年に当るのである︒従って︑国王の裁可を経なかった長期国会の凡ての法律の無効なること︑勿論である︒だから王
政復古に於ける国会の業務は﹁凡てチャールスニ世がその父王の死んだ瞬間から統治したと云う理論に依て為されたのである︒﹂
︵寓9騨一騨目自一〇〇昌ω鉱叶q欧O爲即一頃お酔O憶闇O晦国土σq一雪空魁●唱¶卜⊃CQω一Cゆ●︶﹄ ︵占部苫口太郎・英国二一政史︸血ご一門頁︶︒
︑