一橋フォーラム 2008 年 5 月 13 日・20 日
「商法講習所の創立から東京外国語学校との合併まで」
如水会事務局 酒井雅子(昭57 法・平 18 修企)
1 明治
8(1875)年の商法講習所の創立から、明治 18 年まで
図表 1 主要年表 明治7 年 10 月 7 年 11 月 1 日 8 年 8 月 3 日 8 年 8 月末 8 年 9 月 24 日 8 年 10 月 8 年 11 月 9 年 5 月 11 年 6 月 12 年 4 月 13 年 8・9 月 14 年 6 月~ 15 年3月 森有禮・富田鉄之助が福澤諭吉を訪問、商法講習所設立基金募集の趣意書の 執筆を依頼。 福澤諭吉「商学校ヲ建ルノ主意」 ホイットニー一家、 横浜港到着 妻アンナ、ウィリス(20 歳)、クララ(15 歳)、アデレイデ(7歳) 勝海舟、講習所へ1000 円を送る 東京会議所、東京府知事大久保一翁あてに銀座尾張町二丁目二三番地に森有 礼私立の商法講習所開所届 銀座煉瓦街の尾張町二丁目二三番地の鯛味噌屋の二階で授業を開始。 森有禮、特命全権大使として清国へ赴任、商法講習所は東京会議所(頭取澁 澤榮一)へ移管。 校舎は木挽町へ移転、会議所解散のため東京府へ移管、矢野二郎が所長に任 命さる。 任期を残してホイットニーは解任→ホイットニーは津田仙が開校した銀座 の夜間簿記学校の教師に。 通常府会で商法講習所予算が半分に減額。澁澤ら有力実業家有志の醵金と矢 野の私財提供で乗り切る。 前回同様反対意見は出るも、沼間守一議員の賛成意見が府会を圧し、13 年 度商法講習所予算は全額承認。 府会で予算が全額否認、澁澤・益田孝らは農商務卿河野敏鎌に危機を訴える もいったんは廃校に。16 年 11 月 17 年 3 月 18 年 5 月 18 年 9 月 18 年 10 月 →松田道之府知事、農商務省に要望書を提出、9 月補助金の下付が決定。 →講習所再開、矢野所長復帰。 →農商務省は15 年度の補助金を減額→3 月、松田府知事は府下の銀行等に 資金援助の要請、13000 円集まる 矢野所長、辞任。 東京商法講習所は東京府から農商務省へ移管、東京商業学校と改称。商議員 制度:澁澤榮一(第一国立銀行総裁)、富田鉄之助(日本銀行副総裁)、益田 孝(三井物産會社社長)が委員に。5 月矢野校長に復帰。 東京商業学校の所管は文部省へ移管される。 東京外国語学校・同校所属高等商業学校・東京商業学校の三校合併。矢野校 長留任 神田一ツ橋通町の旧東京外国語学校の校舎に移転。 出所)一橋大学学園史刊行委員会編『一橋大学百二十年史』2 頁―26 頁より作成
2 澁澤榮一と大久保一翁
森有禮の商法講習所設立以前にも、文部省みずから商法学校を設立しようとする動きはあっ た(図表2)。 大蔵省勤務時代の澁澤榮一は、文部省から出された商法学校設立案に対し、反対をしている。 森有禮が設立した商法講習所には、江戸時代から引き継がれた七分積金が活用された。 「七分積金」寛政3(1791)年松平定信の命により、寛政の町法改正:町政運営費の節減、町 入用賦課の規準などについて、各町で定めている町法が改正され、節約した町費から七割を積 み立て、困民救済などにあてた。(節約額の七分で年間約二万六千両、これに幕府の差加金一 万両をプラス、勘定所御用達が預かっていた) → 江戸市政の引き継ぎ:七分積金は明治初 年には正金六十七万円、不動産の価格四十万円に達した。明治5 年 3 月、町会所が廃止され たので、この財産は一時新政府の管理にゆだねたが、その性質が江戸市民の共有金であったこ とを尊重して政府で管理すべきでないとし、当時の大蔵大輔井上馨は東京府知事大久保一翁とはかって信用ある市民を招集して相談した結果、明治5 年 5 月その管理団体として東京営繕 会議所の創設を見た。 この七分積金は東京府の共有金として市政財務の「虎の子」となり、 有益に使われた。江戸の知恵、江戸の貯えが新政府の東京市政を大きく支えた。 澁澤は、大蔵省退任後、東京会議所(以前の名称は東京営繕会議所)の頭取となった。東京 会議所は、七分積金を引き継いだ共有金の管理をまかされていたのだが、澁澤を説得したのは、 当時の東京府知事大久保一翁であった(図表3)。大久保と澁澤とは、明治初年の駿府におい て、上司と部下にあたる関係であった。 その後、澁澤は本学の存続にあらゆる局面で力を尽くし、本学の大恩人のひとりとなってい るが、商法講習所の設立には大久保一翁の存在も大きかった(図表4)。 図表2 商法学校設立をめぐる文部省、大蔵省の動き 明治5年3月 文部省から正院へ提出された「学制発行ノ儀伺」 第七号「後来ノ目的 ヲ期シ当今着手之順序」 「商法学校一二所ヲ興ス事」 4月17日 文部省から正院に対して、「外国人を教師とする商法学校を設立し、教 師は当時大学東校の教師であったワグネルをあてたい、ついては、新 たに教師一名をプロシア国から採用したい」という伺いが提出された。 上記文部省の願書は4月20日太政官から大蔵省に送られる。 4月 28 日 大蔵省より拒否の回答「普通の学制さえ十分の施設がないのに、ひた すら「理論に拘泥し通商交易等の学課」を設けても、「実際の所得」は いくらもないだろう、このような学校は私立で設立すべきである」 5月3日 正院は大蔵省のこの回答を無視して、この商法学校は、「通商貿易の 道ヲ商人ノ子弟ニ」学ばせるものだから願書のとおり許可した、と文部 省に通知し、澁澤榮一従五位が正院に見えた昨日、口頭でお伝えし た、といっている。 出所)細谷新治『商業教育の曙 上巻』152-158頁より作成
図表3 如水会館開館式における澁澤榮一挨拶 如水會開館式に臨みて ―その命名の由来を語る― 大 正 八 年 九 月 二 十 九 日 故青淵先生 満場の諸君、御目出度い御席に出まして、一言の祝辞を申述べられますことを、第一に 有難く感謝いたします。(略) 其頃商業教育を奨励した故森有禮君の如きは實に先見の明あつて、早く實業の教育が無 ければならぬと云ふ様に感ぜられた様に思ひます。 私は森君に親しみを厚ふしたのでございませぬから、このことに付て意見を交はした事 は多くはござりませぬ。私は偶然に、私が役人を罷めて第一銀行に入り銀行者と相成つた 頃に、亜米利加から商法講習の為に一つの教育所を設けると云ふことを、時の東京府知事 大久保一翁氏に通信されて、大久保府知事は其頃東京市に存じて居る共有金に依つて此の 端緒を啓きたいと云ふのが、商業教育の始であつて商法講習所が依つて以て成立したので あります。此事は大底諸君御承知であるから重複でありますけれど、其時には私などは商 業教育は格別必要とは思はずに、餘計なことをする、未だそれよりも先にすべきものがあ るといふ位に感じましたが、兎に角府知事が熱心に望まれるによつて、其時の市の共有金 を支出するのは差支なからうと、厭々ながら同意したのが、商業學校の端緒となつたので あります。故に私は今日此御席へ出て、特に私一人お招を蒙ったことは實に、此上も無き 名誉ではあるが、其昔を顧みると左様に先見の明有つた者ではなかつた、若し故森子爵に 地下で逢ふたならば「足下は如水會館の開館式に商業教育の講演をせられたけれども、當 初は充分に賛成はせなんだ」と苦言を受くるかも知れませぬ。是は私が諸君の前で在體に 白状するのであります(拍手)。(略) 出所)如水会会報 昭和六年十二月号「青淵先生追悼號」 図表4 商法講習所ゆかりの東京府知事 (1) 大久保一翁 文化14(1817)年 11 月 三河以来の徳川譜代の家臣大久保忠向(五百石)の家に生れる。
駿府・京都の各町奉行、外国奉行、勘定奉行という幕府の要職を歴 任。西洋風の議会方式の採用や、江戸城明渡しを勝海舟と共に説く 進歩的文化人、東京を戦火から救った功労者のひとり。幕府瓦解時 には会計局総裁・若年寄を務めた。 慶應4(1968)年 4 月 勅使一行の江戸入城に応対、同月 9 日勝海舟と共に西軍参謀海江 田・木梨の両人と会見、同月の江戸城明渡し式にも応接し、江戸の 治安維持を一任される大役を引き受けている。 明治維新後 旧主徳川家達静岡県知藩事を助け、権大参事を務め静岡にいた。 明治 5(1872)年 5 月10 日 文部省二等出仕(そのまえにも出仕要請はあった) 5 年 5 月 25 日 東京府知事就任 (前年7 月廃藩置県が断行され、新政府のもとに数々の新政策が進 行、11 月には岩倉使節団一行が横浜を発っている)府知事着任時の 東京は、中心街である銀座・築地は焼野原(5年2月の大火)、武 家屋敷は人影もまばらで荒れ果て、草が生え放題、旧旗本御家人の 不満は渦巻いて、京都市民の東京遷都反対の恨み声もいまだに鎮ま らない、という状況だった。 5 年 8 月以降 「学制」の画一的政府 干渉を 排除 「邑ニ不學ノ戸ナク、家ニ不學ノ人無カランコトヲ期ス」ことを目 標とした「学制」頒布 ⇒ 大久保一翁は「諸国近在の寺子屋は夫 れ夫れ田畑の所有ありて一時生活に差支無きも、市中の寺子屋は年 来此業を営みて生活せし者なれば、突然廃止の令出なば路頭に迷は んとて暫く従前の儘に据え置」くことを主張。 府知事時代の主な 行政 (5 年)町会所の廃止、壬申戸籍完成、新橋―横浜間の鉄道開通、 娼妓解放令(6 年)上野公園設立申請、養育院建造、日本橋改築架 橋、撃剣会禁止、万世橋竣工、官立小学校設立。(7 年)銀座の煉瓦 街と道路竣工、府立病院建設と娼妓の性病検査開始。(8 年)瓦斯燈 工事、各街に成る。私娼取締規則通達、三業会社設立認可、諸雑税 廃止、市谷囚獄完成、演劇取締通達 等。 8 年 12 月 19 日 府知事から、教部少輔に。(東京会議所改革問題についての府知事 の出方が大久保内務卿の不信を買った)
出所)重松一義「東京市政事始―異色の知事群像」・小木新造「大久保一翁と寺子屋始末記」 (ともに『東京人』編集室編 『江戸・東京を造った人々2』2003 年ちくま学芸文庫所収)、 松岡英夫『大久保一翁』(1979 年中公新書) などから作成
3 森有禮と大久保一翁、勝海舟、津田仙
商法講習所の初期の頃に関わったひとびとのほとんどが、森有禮をはじめとして幕末から明 治初頭のごく早い段階で海外渡航経験を持っていた。 前述のように、当初商法講習所に乗り気でない澁澤榮一を説得したのは大久保一翁であった。 洋行経験者が欧米を見聞して来て商法講習所の創立に理解を示すというのはわかりやすいが、 洋行経験もない一翁はなぜそこまでの理解をしめしていたのか。それは森有禮が米国において、 留学生管轄をしていたことと関連があると思われる。 商法講習所創立の関係者にあって大久保一翁は例外的に洋行経験を持っていない。け れど外国奉行等の経験、西周らとの交流を通じ、海外事情に関しては一翁はかなりの水準 で把握をしていたと思われる。また、駿府に移住した徳川家臣団が経済的に困窮したこと からも、商法講習所を設立したいという森の提案に共鳴した可能性は大きいと思われる。 一方、大久保一翁の理解に加え、図表1で示したとおり、勝海舟は明治8年8月には千円 の寄附を申出ている。また、任期を残して明治11 年に解任されたホイットニーに対しては、 津田仙が銀座の夜間簿記学校を開き、ホイットニーを教師として迎えている。 図表1には記していないが、商法講習所の教師を解任され木挽町の家を出なくてはならな くなったホイットニー一家を自宅敷地内の家に引き取ったのは勝海舟であった。この勝や津 田の行動は、商法講習所への理解というよりもホイットニー氏もしくはホイットニー一家へ の親切というようでもある。 森有禮は明治3(1870)年 9 月少弁務使として米国駐在を命じられたとき、具体的な任務 として指示されたのは「交際事務および留学生管轄」であった。この頃には特に日本から米 国への留学生が増えていた。図表5 留学生の年次、国別統計 (延人員) 米 英 独 仏 露 清 墺 白 香港 伊 蘭 瑞 欧洲 不 明 合計 明治 元 2 6 1 3 1 13 2 4 3 3 1 1 12 3 66 53 31 24 3 1 2 2 182 4 86 71 30 17 4 5 2 2 1 7 225 5 46 18 7 15 1 1 3 91 6 2 10 5 4 1 22 7 6 3 1 10 不明 11 9 3 1 3 1 1 2 31 合計 223 173 81 60 8 8 5 4 2 2 2 1 15 2 586 出所)石附実『近代日本の海外留学史』(1992 年、中公文庫)204 頁 第 15 表 これらの中には、有名な女子留学生5 名が含まれている。 図表6 5 名の女子留学生 東京府士族秋田県典事吉益正雄娘 吉益亮子 15 歳 外務省中録上田畯娘 上田悌子 15 歳 青森県士族山川与七郎妹 山川捨松 12 歳 静岡県士族永井久太郎娘 永井繁子 9 歳 東京府士族津田仙弥娘 津田梅子 8 歳 出所) 山崎孝子『津田梅子』(1988 年吉川弘文館)31-32 頁より作成 なお、永井繁子は益田孝の実妹。かつて幕府騎兵隊の医師で沼津病院の医師であった永 井に養女として出した。津田仙弥は津田仙である。 この 5 名の女子留学生を米国で受け入れた森有禮は、最年少であった津田梅子につ いては森の秘書であったチャールズ・ランマンに預ける。チャールズ夫妻には子供が
なく、梅子を11 年余り預かった。梅子は帰国後もランマン家とは長く手紙のやりとり をしている。 米国駐在当時の森は、留学生の面倒をよく見ていた。 勝海舟の長男小鹿(嘉永5(1852)年生まれ)は、1867 年から 1877 年まで米国に 留学していた。津田仙の次女梅子(元治元(1864)年生まれ)は 1871 年から渡米し ている。そして、大久保一翁の息子三郎(安政4(1857)年生まれ)も 1871 年に米 国にわたり、ミシガン大学で植物学を学んでいる。つまり、大久保一翁、勝海舟、津 田仙はいずれも子供を米国に留学させておりそのときの米国駐在が森であった。明治 初年で海外事情もいまより格段に入手しにくい頃、外国でわが子が世話になり、森有 禮に対して大いに恩義を感じていたことは想像される。また、ホイットニーは妻と、 20 歳の息子、15 歳と 7 歳の娘を伴って来日している。一翁らの子女が渡航した年齢 とほぼ重なる年頃である。わが子が異国でさまざまなひとに世話になっていることを 思い、ホイットニー一家が日本で困窮する事態に対して、勝や津田が同情して援助の 手を差し伸べたのも理解できる。 大久保一翁、勝海舟、津田仙らの、森有禮の提案する商法講習所の創立への協力や、 そののちのホイットニー家への同情には、こういった背景があったと考えられる。
4 勝海舟の寄附
商法講習所開校にあたって、勝海舟が1000円を寄附している(図表7)。これは、 現在では7000万円くらいにあたるといわれているが、勝は当時そんなに金持ちであっ たのか。 慶應4 年、徳川家達は駿府七十万石に移され、一万人を超える家臣団とその家族を 含め数万人が駿府に移住した。徳川家としても七十万石の身上で一万人を超える家臣 を養うのは無理だった。以下は、勝部真長『知られざる海舟』より引用する。 「海舟は、静岡七十万石では徳川家臣団を養いきれないことはよく知っていた。静 岡の荒地を開いて茶畑をつくり、金鉱を採掘し、産業を興してみても間に合わない。 そこで明治6年5月、大黒屋六兵衛という江戸の豪商を説得して、金三万両を徳川家 に献金させたのは彼の凄腕といっていい。これが徳川宗家(千駄ヶ谷)の資金となり、 これを元本として一種の「私設徳川バンク」を開くのである。千駄ヶ谷の徳川事務所に旧勘定奉行の溝口伊勢守勝如を主任に、勘定方の役人だった旧幕臣十二人ばかりを 抱えて出納事務をとらせ、貸付の窓口は氷川邸で海舟自身がすべて目をとおす。ほと んど毎日のように海舟は自邸にいて、金を借りにくる人に会う。大口では公卿華族や 旧大名らの家政破綻に苦しむ者らが一万円、五千円と申し込むのから、小口では旧幕 臣の十円、五円、一円というのまでいろいろある。相手によって利子をとる。金利は 千円以下では年六分、千円以上では年五分であった。(中略)とにかくこうして集めた 金で、旧幕臣の生活を援助し、幕臣の子弟の教育費や留学費を捻出し、徳川家臣の経 済的困窮を救うのである。海舟自身の私費からだけでも総計十五、六万円(今の価格 で十五、六億円)をバラまいた、と杉亨二が語っている(『旧幕府』参照)。 (勝部真長『知られざる海舟』(1977年、東京書籍)186-187頁) 図表7 勝海舟の寄附 勝海舟日記 明治八年八月二十七日 杉田玄端、森有礼、商法教師相招く云々。金これ無く困却、不都合の 話これあり。 二十八日 森有礼へ、商法教師用度として千両、相助け申すべき旨申し遣わす。 九月一日 富田貞作、森氏の手紙持参。六百三十円金相渡す。商法教師米人某来訪。礼申し 聞く。 十五日 高木貞作、商法学校、兎角云々にて捗取り申さず、千円の跡今少し見合わせ置き 然るべしと云う。 二十三日 商法教師の妻、高木貞作、兎角教師困窮の旨内話。森氏へ寄付金千円、半ばは教 師へ、半ばは学校へ附候旨申し遣わす。 十月三日 昨夕、高木貞作より書通、森氏より小拙寄付金の内、六百三十円は教師手元へ遣 わし候事承知の旨につき、同人、近日参るべき旨申し越す。 八 日 高木貞作、商法学校寄附金残三百七十円、同人へ渡す。 出所)『勝海舟全集20』三十頁以降、『商業教育の曙上巻』二〇七―二〇八頁
5 勝海舟と福澤諭吉
このふたりは不仲であったとされるが、商法講習所の設立には両者がかかわっていた。『知られざる海舟』の著者勝部氏は、この勝と福澤との「不仲」も上記「私設徳川 バンク」資金に関係すると指摘している。 明治10 年の「西南戦争によるインフレ経済は慶應義塾の学生を激減させた。三百余 名の学生のうち、薩摩出身の四十名がいっぺんに退学したりした。学生はほとんど士 族の子弟であったから、金禄公債の値下がりは彼らの学費の出所をなくし、塾の月謝 収入は減る一方であった。明治6 年に一万四百余円であったものが、10 年には半分に なって五千二百余円、12 年には三千七百余円となり赤字経営を続ける始末。そこで明 治11 年 4 月 11 日、福澤は氷川の勝邸を訪問して、資金の融通を申し入れた。金額は おそらく二十五万か二十万、十年間無利子で、これを担保に国債を買い、七分の利と して年一万四千円以上の利廻りとなれば、これで塾財政はラクにいけるという計画で あったといわれる。」(前掲『知られざる海舟』137-138 頁)福澤は、上記に引用した 「私設徳川バンク」の資金を借り入れるつもりであったようである。 「福澤もかつては幕臣として翻訳方に勤務していたのであるから、徳川家の金を万 一の当てにしたのであろう。しかしこの金談は不調に終わった。」(前掲書、138 頁) 福澤は百方手を尽くしますが不調に終わり、ついに廃校を決意して門下生幹部に告げ たところ、さすがに塾の社中は奮起し、それぞれに資金を持ち寄ってなんとか危機を 切り抜けました。この苦労は、福澤には「面白くない経験であった」だろう、と勝部 氏は指摘している。 商法講習所の創設のころ、つまり明治7、8 年頃には、富田鉄之助とはそれぞれに 縁があったが、勝と福澤との間にいまだ格別の事情はなかったようである。
6 度重なる廃校の危機とそれを救った恩人たち
図表8 商法講習所の東京府会での予算承認と沼間守一 高等商業學校は元来商法講習所と稱し、東京會議所積立金を以て補助し、中途より之を府 費に移したる者なり、然るに府會議員中此商法講習所に補助金を下附するに反對する者あ り、或は曰く商法講習所は市民に利益ある者なれば、市に於て之を補助するは可なるも、 府に於て之を補助する時は、郡部の人民も亦之を負擔する事となり、其の迷惑少からず、 故に府費を以て之を補助するを廢す可し、或は曰く、商法講習所は市の有志者に於て之を補助す可き者にして、府費を以て之を補助するは不可なりと、補助金廢止の聲盛に起り、 遂に府會に於て此費用を削除せり、所長矢野次郎大に之を憂ひ、府會議員沼間守一を訪ふ て曰く、帝國の首府に於て一の商業學校なきは、一大缺點に非ずや、余幸ひに此業に着手 し、将に緒に就かんとする今日、突然補助金を廢止され、折角萌芽せし此事業を中挫せん とするは、帝國商業教育の為め深く嘆ずべし、君請ふ先づ我學校に来て参観し、果して無 用の者なりと信ずるならば、余亦斷念すべし、若し之を有用なりと思ふ時は、一旦削除せ る補助金の費目を復活するに務めよと其説く所甚だ理あり、沼間乃ち試みに商法講習所に 就て其事業を観るに、成績頗る良好にして、眞に國家に有用なる機關なるを感じ、且つ矢 野の人物は此事業を大成するに適せるを看破し、慨然として一旦削除せる費目を復活に務 むべきを諾す、一旦削除せる費目を復活するの運動は、最初削除するに反對する運動より も更に困難なりしが、沼間の熱心なる説明は、議員の多數を動かし、遂に之を復活せり、 是れ明治十三年の事なり、其後農商務卿河野敏鎌此商法講習所を助け、漸次に其事業を擴 張し後數年文部の直轄学校となり、漸次發達して現時の高等商業學校となれり、學校の基 礎全く鞏固となるや、校長矢野次郎式を擧げて、朝野の貴紳を聘し特に河野敏鎌、沼間守 一の両人を招待して、之を上賓となし、會衆に紹介して曰く、此兩君は此學校の恩人にし て、永く忘る可らざる人なりと、其の學校との關係を詳説す、時に河野と沼間とは共に改 進黨員として政府に反對せしかば、官人等は政府の意を迎へて、多く之に近かざりし際に、 矢野は獨り文部省の所轄なる商業學校長として、此兩人を上賓となせしかば、此の行動は、 大に一坐を感動せしめ、傳へて世の美談となれり 出所)石川安次郎『沼間守一』明治34(1901)年、復刻版 1993 年 44-46 頁 図表9 明治十三年一月三日 福地源一郎から松田道之東京府知事宛書簡 過日御直談の商法講習所醵金一條に付同日直様澁澤・益田・三野村の諸人へ打合候處何れ も不同意無之而己ならず閣下の御保庇にて同所も是迄の通に府立たるを得ば一同に取りて 無上満足に候間新年は早々醵金の願書連署にて御手許へ差出候事に決議仕候偖又府債を起 し市街を改正し火災豫防手段を立つるの一議も前顕の諸氏皆閣下の御名案を讃稱致候と及 貴命に應じて委員と相成候義は承諾仕候尤も府債を起すの方法に關しては澁澤は聊か見込 も有之候趣に御座候右に付愚考にては兼て閣下の高案の如く早春に委員を御令じ被遊其委
員と府會議員と東京紳士と両種より御選挙に相成是を府吏と共に取調に御任じ候方至極の 御計かと奉存候府會議員中にては堀田正養・沼間專ママ一・安田善次郎・大倉喜八郎・千葉勝 五郎の諸氏は錚々者にて可有之歟為に紳士連には 第一國立銀行頭取 澁澤榮一 三井銀行元締 三野村利助 三井物産會社長 益田 孝 株式取引所頭取 澁澤喜作 の四名は固はママり不可缼の人物に奉候存其餘は亦閣下の御目鏡の其人も可有之候へ共御懇命 を蒙候に任せ腹臓なく其人を指名仕候義に御座候右不取敢奉申上度猶不日参廳の上可奉伺 候 草々頓首不宜拝 一月三日 福地源一郎 松田公閣下 出所)木山竹治『松田道之』54 頁 図表10 商法講習所ゆかりの東京府知事 (2) 松田道之 天保10(1839)年 5 月 鳥取藩士の子として生れる。豊後国日田で廣瀬淡窓に学び、帰藩後、 尊皇攘夷派を支援。明治新政府に入り、明治2 年 7 月京都府大参事、 4 年大津縣令就任。 明治 8(1875)年 3 月 大久保内務卿に挙用され内務大丞(のち内務大書記官)となり、琉 球処分実施のため三度奉使(滞琉は合計約五ヵ月半) 12 年 1 月、3 月 11 年 5 月大久保内務卿が暗殺され、伊藤博文が後任に就任。内務大 書記官になっていた松田は伊藤内務卿のもとで政府の命により兵 を率いて琉球に赴き、首里城を接収して廃藩置県を実施した(琉球 処分)。 12 年 12 月 12 日 東京府知事就任。 12 年 12 月 26 日 箔屋町大火 日本橋区箔屋町より出火。被災総町数65、棟数 6,552、戸数 10,430 余戸、人口35,980 人余、焼死者 23 人負傷者五千人余。 松田知事は道路改正・運河の開鑿を行い、それに沿って煉瓦造り倉
庫群などにより防火路線(火事の延焼をそこで食い止める)を建設、 防火のための建築制限などを計画し、建設事業の財源は府債七十数 万円を募集してこの事業に充てようとした。 ⇒ 議論百出で難 航。 13 年冬 東京の火災史上最 悪の冬 13 年 12 月 30 日神田鍛冶町の大火(2,188 戸)、14 年 1 月 26 日神 田松枝町大火(10,637 戸)、同年 2 月 11 日神田柳町大火(7,751 戸)、 同年2 月 21 日の四谷箪笥町大火(1,499 戸) 14 年 2 月 25 日 「防火路線並ニ屋上制限規則」公布 15 年 7 月 6 日 逝去 (44 歳) 存命中に防火路線及び屋上制限の完成を見ることはできなかった が、「防火路線並ニ屋上制限規則」の効果は絶大で、その後、東京 の主要道路・運河沿いの防火路線には土蔵造りの町並みが出現、都 心四区(京橋・日本橋・神田・麹町)の家屋の屋根は瓦葺きに変わ っていった。 出所)木山竹治『松田道之』(1925 年、鳥取縣教育會)、週刊朝日百科 90『日本の歴史 近 世から近代へ⑩西南戦争と琉球処分』(2004 年、朝日新聞社)、石田頼房「松田道之と東京 の都市防災」(『東京人』編集室編『江戸・東京を造った人々1』2003 年ちくま学芸文庫)、 藤森照信『明治の東京計画』(2004 年 岩波現代文庫)、『日本史人物辞典』(2000 年、山 川出版社)などから作成
7 所轄の変遷
図表11 商法講習所・東京商業学校が文部省所管になるまでの主な動き 商法講習所・ 東京商業学校 文 部 省 農 商 務 省 森 有 禮 8 年 12 月 清国 赴任 11 年 5 月帰国 8 年 9 月商法講習所創立 (木挽町校舎完成まで銀 座尾張町鯛味噌屋の二階 にて開校) 8 年 11 月東京会議所に移 管 6年 11 月東京外 国語学校 一ツ橋通町一番地 に開設 11 年 6 月 外務 大輔(12 年11 月まで)9 年 5 月東京府に移管 矢野二郎所長就任 16年12月 文 部 卿 大 木喬任 12 年 府会成立。以降府会での 講習所予算承認が難航 14 年 7 月 東京商法会議所(澁 澤会頭)「商法学校ノ設立ヲ政府 ニ要望スル之建議」を農商務卿 河野敏鎌に提出 7 月末いった ん廃校に。8 月松田道之府知事河 野農商務卿に補助金申請 15 年 3 月松田府知事東京府下の銀行、 会社、富商を招集して講習所へ の資金援助要請 (15 年 7 月松 田府知事死亡44 歳) 16 年 11 月矢野所長辞任 17年1月 商 業 学 校 通則制定 14 年 4 月 農商務省発足 農商務卿河野敏鎌 4 月 農商工の実業学校 の管理権が文部省から農 商務省に移管 14 年 10 月-17 年 2 月農商 務卿西郷従道15 年 6 月- 18 年 9 月農商務大輔 品川 弥二郎18 年 9 月-18 年 12 月農商務大輔 吉田清成 12 年 11 月駐英 公使として 英 国へ赴任 (ロンドンでホイ ットニー一家と会 う) 森 有 礼 公 使 の 下、富田鉄之助 が一等書記官 17 年 3 月 東京外 国語学校所属高等 商業学校設立 17 年 3 月東京商法講習所 は東京府から農商務省へ 移管、東京商業学校に改 称 5 月専任校長として矢野 二郎復帰 18 年 4 月 太政官決裁により実業学校の管 理権は文部省に決定 18 年 5 月東京商業学校を文部省へ移管 18 年9月 22 日東京外国語学校・同校所属高 等商業学校・東京商業学校の三校を合併し、 校名は東京商業学校、校長は矢野二郎留任 18 年 10 月 神田一ツ橋通り町の東京外国語 学校の校舎に移転 17 年 1 月 帰国 命令 17 年3月 帰 国 17 年 5 月参事院 議官、文部省御 用掛兼務 (18 年 12 月 22 日第一 次伊藤博文内閣) 文 部 大 臣 森 有 礼 農商務大臣 谷干城 初 代 文 部 大 臣 就任 出所)各種資料より作成
8 明治
8 年-20 年の商法講習所・東京商業学校の教員
図表12 成瀬隆蔵・村林建蔵の略歴 成瀬 隆蔵(範三郎、正忠) 村林 建蔵 天保7(1836)年 江戸浅草生まれ 安政元(1854)年生まれ 幕臣川村順次郎の 二男として江戸で生まれ、幕府瓦解とともに 主君に従って一家で静岡へ。 静岡藩沼津藩立小学校卒業ののち、特別生と して残り教師を補佐 明治4 年 沼津兵学校入学(第七期資業生) 生家は浅草蔵前の札差商人伊勢屋四郎兵衛 で幕末まで営業を続けて いた。村林は八代目にあたる。嘉永3 年より 門松余作に就き漢学を、 明治8 年より堀秀成に就き国学を学ぶ。 11 年 内務省衛生局勤務 13 年退職 6 年 上京して工部省の横浜にあった燈台寮 技術見習いで働く、ここ が工部大学の所属になったので退職 14 年 3 月 商法講習所教師となって珠算を 担当する。 7 年 2 月 三田の慶應義塾に入学 同年9 月 三等助教諭 8 年 10 月 商法講習所入学(慶應在学中) 23 年 10 月 高等商業学校助教授 43 年 3 月 同校教授 10 年 3 月 商法講習所卒業、第一回卒業生 同期は森島修太郎 同年5 月 同校退職、引き続き講師として勤 務。44 年 2 月死去 10 年 4 月 同校の助教心得 就任 22 年 森有礼文相の命で関西の商業教育の 現状視察 22 年から 23 年には商業教育事情視察のため 欧米出張 25 年 市立大阪商業学校長に転出 のち 実業界へ 28 年 上海紡績会社支配人 29 年 三井元方 33 年 三井家同族会事務局秘書掛長兼營業 店重役会書記長 晩年の村林に親しく接した山田真太郎(明治 41 年東京高商卒)によ れば「先生は小背やせぎすの方、講義当日は 黒紋付仙台平の袴、白足 袋、草履と云ういでたちで他の諸先生方外人 教師のモーニングフロッ クコート取り取りの中に誠に異色であった。 珠算と暗算は神に入ると 申上げ度い。(中略)出席簿を付けられる時 が又非凡で新入予科生約 三百人、一組五十人の名前は第二週目に既に42 年 三井合名会社の重役待遇 昭和17 年2月 89 歳で死去。 暗記され出席簿を見ずに 順番に、時には逆順に名を呼ばれるので、ズ ル休み代理返事の連中は 本当に脅威であった」(『如水会々報』昭和 28 年十月号、32 頁)。尚、 建蔵の死後明治44 年 8 月、高商の嘱託とし て珠算、商業算術を教え のち専門部教授となった村林専之助は建蔵 の子息である。 出所)『商業教育の曙上巻』254 頁―255 頁 出所)『商業教育の曙下巻』284 頁―285 頁
9 本学には、沼津兵学校、静岡学問所ゆかりの関係者が多かった
図表13 著名な、もしくは本学ゆかりの沼津兵学校・静岡学問所・沼津病院等関係者 静岡藩軍事掛(沼津在勤)少参事軍事掛 江原鋳三郎(素六)沼 津 兵 学 校
静岡学問所
沼津病院
頭取 西 周 学頭 向山黄村 頭取 杉田玄端 員外教授方 杉亨二 学 頭 津 田 真 道 (真一郎) 重立取扱 林梅仙(洞 海) 第三期 鈴木伴三郎(知言)(高等商業 学校附属徒弟講習所教授) 中村敬宇(正直) 三等医師並 永井玄 榮 第四期 鈴木三郎(島田三郎) 外山捨八(正一) 永井當昌(東京外国語学校教師 →高等商業教師) 加藤弘蔵(弘之) 関 近義 杉 亨二(純道) 第五期 奈佐榮太郎(奈佐忠行 東京高 商専門部初代主事の兄) 深井譲 資 業 生 第六期 松岡捨三郎(馨)(商法講習所 教師)田口卯吉 第七期 成瀬範三郎(隆蔵)商法講習 所第一回卒業生、教師 出所)大野虎雄『沼津兵学校と其人材』(1939 年、復刻版 1983 年)、山下太郎『明治の文明開 化のさきがけ―静岡学問所と沼津兵学校の教授たち―』(1995 年、北樹出版)より作成 図表14 明六社の顔ぶれ(明治 7 年 12 月『郵便報知新聞・第 531 号』) 明六社定員 森有禮、西周、津田真道、加藤弘之、福澤諭吉、杉 亨二、西村茂樹、 畠山義成、杉田玄端、清水卯三郎、 中村正直、阪谷 素、○津田仙、箕作秋坪、箕作麟祥 同通信員 遠国に 在る連中なり 米人ウニフィス(グリフィス)、神田孝平、高木三郎、富田鉄之助、ゝ 柏原学而 同格外員 ○田中不二麿、ゝ前島密、○九鬼隆一、○古川正雄、○秋山恆太郎、 ○長与専斎、ゝ子安峻、ゝ柴田昌吉 会計 清水卯三郎 書記 世良太一 ○ハ新加入 ゝハ後会より来 出所)影山昇「明六社の社会教育活動と静岡藩の人びと」(放送教育開発センター研究紀要 9、1993 年) 参加者からのご質問:商法講習所と慶應義塾、三菱商業学校とはどう違ったか。 回答: 慶應義塾は明治初めの私塾の中では規模が大きかった(図表15)。 商法講習所、慶應義塾、三菱商業学校との比較は、図表 16・17 をご参照された い。 また、実際に教えていた程度の差(どこがいちばんむずかしかったか、など)は、 わかりにくいけれども、別途配布した明治 24 年度の商法講習所、慶應義塾の入 試問題をご参照されたい。今見ても、なかなかむずかしい問題であるように思わ れる。
図表15 明治4年3月 都下の私塾並びに生徒数一覧 英佛學 箕作秋坪 生徒106名 洋漢學 山東一郎 生徒 34名 佛學 福地源一郎 同 78名 洋漢學 尺 振八 同 111名 英學 田中録之助 同 23名 英佛學 司 馬 少 博 士 同 19名 洋學 伊東昌之助 同 14名 佛蘭學 中神 保 同 14名 洋學 西 周助 同 13名 英學 上 野 鍈 太 郎 同 9名 英學 山尾工部權大 丞 同 8名 洋學 高橋琢也 同 4名 佛學 村上英俊 同 13名 英學 吉田健三 同 6名 英學 福澤諭吉 同 323名 英學 鳴 門 二 郎 吉 同 141名 出所)明治4 年 6 月「新聞雑誌 5」 新聞集成明治編年史第一巻 381 頁 図表16 商法講習所・東京商業学校、慶應義塾、三菱商業学校 生徒数の比較 商法講習所・東京商 業学校 慶應義塾 商法講習所 東京商業学校 明治 (年) 入学生 卒 業 生 入 学 生 卒 業 生 在学生 卒業生 8 26 373 ( 不 明) 9 41 340 37 三菱商業学校(神田区錦町 二丁目) 10 60 7 282 10 正科 速成科 計 11 69 1 233 22 114 34 148 12 76 1 26 64 54 118 13 62 ( 財 政 危機) 22 109 65 174 14 136 4 476 22 28 130 158
15 156 4 578 19 73 16 84 10 649 38 25 17 1 3 3 19 34 正科、速成科の区 分なし 2 18 1 3 3 15 明治 21 年 に 千 名 を 超 える 36 合計 710 27 2 6 6 34 266 総計 698 出所)商法講習所・東京商業学校については『一橋大学百二十年史』34-35 頁表 1・表2 より作成 慶應義塾の在学生数は、私立慶應義塾編『慶應義塾五十年史』(1907 年、慶應義塾)514 -518 頁より作成 慶應義塾卒業者数は、『一橋大学百二十年史』35 頁表 2(原資料は『慶應義塾百年史付録』 所収「創立以来各部卒業者数」のうち「年度別正則、変則、本科、正科、別科、高等科等 卒業者数」) 三菱商業学校については細谷新治『商業教育の曙上巻』384 頁 (原資料は『岩崎弥太郎 伝下』434 頁) 図表17 商法講習所、慶應義塾、三菱商業学校 授業内容の比較 商法講習所 明治12 年 7 月 「校則」 慶應義塾 明治 16 年「開 申書」 三菱商業学校 明治 11 年 3 月「教授ノ規則」 「商業一般必用ノ事務ヲ教 授スル所トス」 「当社社員ノ子弟ヲ薫陶ス ルヲ以テ主意トス」 「英文読書並ニ算術ヲ授ケ 専ラ近時ノ文明ヲ講ス」 学 期ハ凡ソ五箇年トス 入学年齢は十五歳以上、修業 年限は2 年四期制、最初の二 期(一年)は講理のみ、第三 期(半年)は講理・実践半々、 第四期(半年)は実践のみ 第 一 年 英書:スペリング、地理 初歩、窮理初歩、コルネ ル地理書、グレー地質書、 パーレー万国史、クワケン ボス小合衆国史 算術:欠 入学年齢は十五歳以上、予備 科3 年、本科 2 年 普通教授の科目は以下の六 科:洋籍科、記簿法科、英語 科、日本書科、算術科、習字 科
講理科の学科目と使用教科 書: ブライアント・ストラトン合 著『商業算術書』 ブライアント・ストラトン合 著『商業簿記法』 第 二 年 英書:カツトル人身窮理、 フーケル博物史、マルカ ム英国史、ビネラ文典、 ガノー窮理学 算術:ア リスメチツク 洋籍科:西洋読本・文典、地 理書・万国史、物理書・舎密 書・物産書、経済書、商法律・ 貿易史 英語科:綴字・会話、商用作 文 商用簿記初歩、英習字、英作 文、英会話、パーソン著『商 律』 第 三 年 英書:ガノー窮理学、ヒ シカル地理書、ロスコー 化学書、チトレル万国史 算術:アリスメチツク ホウセット著『経済書』、和 英・英和訳文、商業歴史(口 述)、商業地理(口述)、電信 暗号 日本書科:日本地理書・民間 経済録・商用尺牘及作文、日 本外史、十八史略、諸会社條 例ノ類及ビ商業ニ関シタル 諸條例 ウォーカー著『致富学』、簿 記法論講、英文商業作文、商 業関係ノ諸務 第 四 年 ホウセット経済書、テル リー法律原論、ギーゾー 文明史、ペイン心身論、 ベンサムモラールレジス レーション、ボウエン経 済書 算術:簿記法、代数 算術科:洋算、ブライアン ト・ストラトン合著 『商業算術書』、和算 記簿法科=本科のみ 記簿 法初歩、高等記簿法 実践科では、会社、銀行、小 売店、郵便局、製造所、税関、 外国支店など各種機関の模 型を一室に配置して商業実 践を行なう。 第 五 年 英書:ホアットリー論理 書、ミル代議政体、ウル シー万国公法、バゼヲツ ト英国政体書、ミル自由 論 算術:幾何、三角術 習字科=予備科のみ(西洋習 字・日本習字) 出所)商法講習所については『一橋大学百二十年史』17-18 頁より作成、慶應義塾については、東京都 公文書館編『都市紀要10 東京の大学』(1963 年、東京都)38-39 頁より作成、三菱商業学校について は『商業教育の曙上巻』374 頁 (原資料は太田主馬編『岩崎弥太郎創設の三菱商業学校に関する史料』 19-21 頁) 以上