4.生活改善運動による結婚の変化
著者 中田 利香
雑誌名 金沢大学文化人類学研究室調査実習報告書
巻 23
ページ 31‑40
発行年 2008‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/9707
4.生活改善運動による結婚の変化
中田利香
はじめに
西谷地区における結婚の流れ
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生活改善運動の成り立ち 生活改善遁動の具体的取り組み 考察
おわりに
1.はじめに
2007年の8月初頭に山中町の西谷地区で7泊8日間のフィールドワークを行った。毎日午前・
午後に-人ずつ、生地師、建具屋、宝寿会のメンバー、リボン工場の方、いいつたえに詳しい方 などさまざまな活動をされている人に話を聞いた。その中で何人かの女性に昔の結婚の様子を聞 いた時に、現在私が今まで生活をしていて普通だと思っていた結婚の様子とは大きな違いがある ことに驚き、もっと知ってみたいと思うようになった。結婚についてよりたくさんの人に聞いて みたところ、話をする人の年齢層や、西谷地区のうちの集落の違いによって儀礼に違いがあるこ とが分かり、情報の膨大さにまとまりが見出せなかったが、何人かのロから「生活改善」という 言葉が出ていたことに気が付いた。生活改善運動について調べてみると、その前後によって西谷 での結婚に対する時代背景が浮き彫りになり、今まで聞いた話の内容にも繋がりが見えてきた。
この章では、主に結婚の話を聞けた50代~80代の男女の話を中心に西「谷地区の結婚の様子と、
西谷地区の結婚で大きな転換となった生活改善運動について、どのような経緯で生活改善運動が 出来て、どのような取り組みがなされたのかを調べたことについて述べ、そこから私が考えたこ とを書こうと思う。
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2.西谷地区における結婚の流れ
西谷地区ではよく話を聞けた50歳から上の世代に聞いた話では(つまり1977年以前、親同士 や親戚が決めた相手と結婚するのが当たり前だったようだ6恋愛結婚をした人もいるようだが、
そのような例はごくまれで、かけおちをするほどの覚悟が必要であった。
西谷地区の中でも、菅谷、下谷、栢野、我谷では通婚圏や披露宴の内容が違うので、ここでは 結婚の一連の流れを一番詳しく話してくれた菅谷町のTさん(73歳、高校3年生の12月結婚、つ
まり1950年頃)の話を中心に述べる。なお、下谷、栢野、
表1結婚のながれ
一升酒
↓
しめ酒・たもと酒
↓ 結納
↓ 嫁入り道具運び
↓ 結婚式
↓ 披露宴
結婚試前の3日前には、嫁入り道具運びが行われる。嫁入り道具は箪笥、ふとん入れ、ミシン、
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裁縫箱が一般的であった。箪笥を運ぶ際は、おじさん程度までの親戚が4人一組になって青竹で 箪笥をかついで運ぶ。嫁入り道具の量は嫁の家の豊かさの劇致であるが、戦後の生活改善によっ て嫁入り道具の量が制限されるようになった。生活改善運動については、次の節で詳しく述べる。
結婚式当日はお昼12時頃に仲人、子供が嫁の家にお迎えに行き、そこでお茶、お菓子(うすい 紅白のせんべい、松の葉のお菓子、こぶ茶)が出され、家の中で食べる。その後、嫁の家から婿 の家まで歩いて行くのだが、通り道に「カキ」と呼ばれるものが作られている。「カキ」とは、竹 のくず、木のくず、木の棒、荷車を積み上げたり、複雑にからませたりして作る「通せんぼ」の ことである。ひどいものはカキに濡オL雑巾をぶらさげたり、雪が降る季節には、雪をスコップで 集め、天高く積み上げカキを作っていたそうだ6雪でカキを作った時は、カキをどかす為のスコ
ップが足りなくなるなど、壊す作業が大変だったそうだ6
「カキ」を作る目的は、主に2つあり、カキの前で立ち止まり、なかなか前へ進めなくするこ とで、角隠しの下から「嫁の姿(顔)を一目でも長く見よう」という要望を叶えるためであると いう理由が主である。また、結婚後もしばらくは「綺麗なお嫁さんやね-.」「どうや1家の嫁さ ん綺麗やったやろ?」という話題作りの助けになることから、結婚後の近所付き合いを円滑にさ せる役目を、もっている。もうひとつの意味としては、時間をかけてやっと婿の家までたどり着 いたのだから、「この家から決して離れません!」という気持ちの表れにもなっていたのだろうと も言われている。
カキを作るのは「だんくら」と呼ばれるワンパク坊主が中心になっており、子供はカキを作る のが楽しくてふざけ半分でしている。しかし、時間をかけてカキを作ることから、お嫁さんを受 け入れる-つのセレモニーである祝儀にもなるので、大人もこの日ばかりは「もっとやれ!」と 子供にカキを複雑に作ることを勧める。「カキ」をどかすのは仲人や相手方の親戚に役が当てられ ており、花嫁行列は先頭が仲人.迎えに来た子供・嫁・兄弟・おじさん・子供の順に並んでいる。
嫁がカキを越えてやっと家にたどり着くと、「あわせ水」が行われる。あわせ水とは、玄関の敷 居の上で、自分の家から持ってきた水と相手の家の水をかわらけの杯に入れてあわせて飲むこと である。その後にかわらけを玄関の前に落として割る。綺麗に2つに割れれば幸運とされるが、
-回で割れない場合は何度も落として割れるまですることもある。それが終わると、はじめに白 無垢を脱いで仏様に参り、その次に白無垢を脱いで神様に参る。-通り終われば家の中で写真撮 影が行われ、結婚式が終わる。
3~4時から婿家で披露宴が行われ、両方の親戚が参加し、近所や区長は呼ばず、司会者もいな
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い内輪で行われていたようだ6料理は3~4日前から親戚が作った鯛|S|理のお膳が40人前ぐらい 用意される。披露宴の最中は、婿側は誰一人座らず、嫁側を接待する形になる。婿はみんなにお 酒をつぐこともなければ、披露宴の会場にいることもなく、酒を温める番をわりあてられること が普通であった。披露宴が夜に終わると、次の朝早くから嫁も婿側の家族の一員として、披露宴 の後片付けの仕事が待っている。
【地区による違い】
先にも述べたとおり、西谷地区の4つの集落で聞き取り調査を行っていると、集落ごとでの違 いをところどころ発見できた。西谷地区の全員に話を伺えたわけではないので、年齢などによっ てひとそれぞオL違いが出てくるだろうが、私が調査中に発見した集落ごとの主な違いをまとめて みようと思う。菅谷に関しては上の文で詳しく述べているので、我谷・下谷・栢野で菅谷と異な る点を下記にまとめる。
<我谷>
・通婚圏は集落内.もしくは近くの集落からだった。
・カキを壊してくれた人には酒をふるまう。
・披露宴の料理は、当日に料理屋を呼び手前で作る。
・披露宴の余興は若い衆が行う。
・合同結婚式もあった。
<下谷>
・集落内の結婚はしない。
・カキはしない。
・結婚式当日はバスで迎えに来る(通婚圏の影響だと考えられる)。
・嫁入り道具を-列に並べ、新婚旅行中披露していた。
<栢野>
・集落内の結婚はまれで、違う集落からヨメを探し、またその知り合いなどを他のヨメとし て紹介するなど、芋づる式に誘っていた。
・カキのことを「ナワバリ」と呼び、ナワバリを壊してくれた人にはおまんじゅうや金を配 った。
・結婚式・披露宴は二晩にわたって行われる。
<菅谷>
・集落内結婚がほとんどだった。
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3.生活改善運動の成り立ち
第二次世界大戦後しばらくは物がなくて結婚式も盛大にしたくても質素なものしか出来ない時 期が続いた。昭和20年後半から30年にかけて物が少しずつ出てくるようになると、結婚式も昔 のようにだんだん華美になってきた。そんな頃、たくさんの母親たちから「自分の娘には頑張っ て結婚式をいいものにしてあげたけど、大変やったなあ~」「家計苦しかったなぁ~」という声が 多くなり、「みんな大変だったと思っているのなら見栄なんかの為に生活を苦しめる必要はないん じゃないか!?」という考えから、「裕福な人も生活に困っている人もみんな同じレベルの結婚式 に統一したら見栄がなくなるだろう」という考えが生み出され、「山中町公民館生活改善部」が 組織化された。
生活改善というと、文部省でも大正9(1920)年から「生活改善同盟会」が設立され、後に「生 活改善中央会」へと変組されている。参考までに二つの活動内容を下記にまとめた。
【生活改善同盟会の活動内容】
生活改善同盟会の活動は、衣食住や社交儀礼等、生活各方面の合理化と節約とを目指した改善 方針・改善項目を検討・発表する事業や、講演会、講習会、展覧会等による具体的な生活改善方 法の普及を図る事業が中心であった。その他、機関誌「生活改計毒」の発行、毎年の「時の記念日」
の開催や生活改善実践に関する功労者の表彰、外部の講演会への識而派遣、ラジオ講演、生活改 善関連資料の貸出も手がけられていた。また、同盟会内の生活紹介部による、日常生活のための 推薦商品紹介も、機関誌を媒体として行われていた。
総じて、1930年代初頭までの生活改善同盟会においては、消費の節約、道徳の健全化の提ロ昌が なされつつ、消費生活の質的向上の推進を目指す活動もまた重視されていたといえる。これらの 活動内容の大部分は都市住民、特に新中間層を実質的な対象として想定したものであった。
【生活改善中央会の活動内容】
生活改善同盟会は、昭和期以降も時|f状況からの大きな影響を受けつつ、活動を継続させてい く。生活改善同盟会は、会の地方支部やその他生活改善に取り組む地方の諸団体との連絡機能を 充実させていくことを目的として、昭和8(1933)年11月に「生活改善中央会」へと改組される が、この時期の前後から、経済更生運動と協調する形で、農村部での生活改善事業に重点が置か れるようになった。この時期の会の刊行物や展覧会・講習会・講演会事業においては、都市新中 間層の家庭生活を前提とした知識提供の傾向が希薄となり、他方、農*焙旧の生活を念頭に置いた
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結婚・葬儀等の社会儀礼の改善に関する活動が重視され、農村部での生活改善の実例の紹介にも 力が割かれるようになる。
その後、戦時体制に伴う都市の生活課題への注目度が増し、町内会・隣組の整備が内務省の主 導により進展しはじめる1930年代末になると、生活改善中央会もまたこれらの都市の生活課題へ
と再び活動の重点を移していった(活動継続は昭和18[1943]年6月まで)。
政府でも生活全般に生活改善が叫ばれていた背景がありながら、山中町の場合は戦後の昭和30
(1955)年頃から生活改善運動が始まり、政府に強制されたというよりは、主に結婚儀礼の見直 しに対する住民の声が高まってスタートしたものだと言われている。
山中町の結婚に対する時代背景は、終戦(昭和20[1945]年)以前の昭和17(1942)年頃には ぜいたくな暮らしはとても出来なくなり、華美な結婚行列はなく、カキもこの頃にはしなくなっ ていたそうだ。戦時中に結婚したSさん(下谷、83歳)は空襲警報がいつ鳴るか分からない状況 で、外に光が漏れないように窓に黒い布を張った家の中でひっそりと結婚式をしたそうだbその 当時、山中町では魚は配給制だったので、披露宴の料理には大聖寺)||で取れたアユが用いられた。
嫁入り道具に関しては、箪笥、鏡台、はり箱、あとはSさんが'」松出身だということで、小松で は家紋が入っているのれんを持っていく風習があったので、その4つを持っていって、玄関から
-列に並べ多く見せていたそうだ6その後、終戦後の昭和20年代前半は物がない状態がしばらく 続き、昭和20年代後半~30年代前半にかけて少しずつ物が増えて、結婚もだんだん華美になって きた。この頃に華美に出来る家とまだまだ華美にする余裕のない家が出てきたので昭和30(1955)
年を過ぎた頃から生活改善運動がスタートしたという。
以下では、昭和37~49(1962~1974)年の間公民館に在職し、生活改善部に携わっていた元会 館職員のUさん(74歳)の話をもとに、生活改善部の事業内容・影響について述べる。
4.生活改善運動の具体的取り組み
【山中町公民館生活改善部の活動内容】
組織の構成人数は婦人会が中心に20人ほどで、そのうち80%は山中温泉地区の住民である。生 活改善部員の職業は、職人、商売人、漆器関係者などに代表される一般住民から、比較的富裕層 の代表となる山中旅館の奥さんなどもいて、さまざまな家柄の人が参加していた。
生活改善部の目的は、「裕福な人も生活に困っている人もみんな同じレベルの結婚式に統一する ことによって見栄を張るためだけの華美な結婚式をする風習をなくすこと」その為に、派手すぎ ず、ある程度満足度のあるぐらいの標準レベルを決め、(1)嫁入り道具の制限(2)レンタル
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衣装(3)結婚式・披露宴会場の提供(4)披露宴の料理の統一化という4つの取り組みが主 にされた。
(1)嫁入り道具の制限
嫁入りの際、道具は多ければ多いほど裕福な家の子の象徴となる。嫁入り道具は婿側や 周りに道具の多さを見せつけるが、実際に生活が始まってみると大きい箪笥は多すぎると 邪魔になるし、せっかく嫁入り道具を豪華にするために高い箪笥をたくさん買っても実用 性がないという意見が出てきて、嫁入り道具の制限が行われた。
生活改善運動の時代に結婚をした箪笥屋の娘さんに話をうかがったところ、両親は娘の 結婚には自分の家で作った箪笥を持たせたい気持ちが強かったが、いくら箪笥屋で買う費 用が他の人よりかからなくても箪笥は一本に制限されたので、決まりに従うしかなかった という。両親はどうしても娘の結婚にはよくしてあげたいという気持ちで、結婚式が終わ ってからひっそりと箪笥を追加で持ってきたそうだ6
着物に関しても、見栄をはってたくさんの着物を持っていってはならないとされていた が、それでも持っていきたい人は着物を箪笥に詰め込んで運んでいたという。
もともと、嫁入り道具は結婚の際に家の玄関から部屋に向かって-列に並べて多く見せ て楽しむものだったのに、生活改善によって決められた分より余計なものは隠さなければ ならなくなったところから、嫁入り道具という役割そのものが変化したと言える。
(2)レンタル衣装
結婚の際は紋付を着るのが一般的だったが、新しい着物を作るにはかなりの費用がかか り、着物の生地や模様も家柄によって違いが出てきてしまう。また、本当は着物を買う余 裕がないにも関わらず、一生に一度の結婚なのに着物も着れないなんて可哀想だという親 の気持ちから、なんとかして着物を買っていたという苦労話もあったことから、生活改善 部の持ち物として公民館で着物を数着買い、レンタル衣装の制度を設けた。いくら裕福な 家で着物を買う余裕があっても、着物を買って結婚式をする家と、レンタル着物で結婚式 をする家があっては、せっかくこの制度を作ってもいつまでたっても見栄がなくならない ので、レンタル着物の使用が義務づけられた。
(3)結婚式・披露宴会場の提供
それまでは家で結婚式も披露宴もしていたので準備や後片付けが大変だということから、
山中町社会教育文化会館が会場として提供されるようになった。結婚式では、司会や三々
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九度の銚子に酒をつぐ「雄蝶雌蝶」という役割などを改善部の5名で分担していた。この 役割に関しては、人件費はとらず、結婚する親族から気持ちばかりのお金をもらったケー スもあったが、ほぼ奉仕同然に行われていた。結婚式から披露宴に移り変わる時には生活 改善部が全員集合して披露宴会場の設営を行った。
雄蝶・雌蝶一「婚礼の式に用いる長柄の銚子の首につける折紙。金紙に紅奉書を重ね、
表に裏の紅を少し出しておす・めすの蝶の形に折り、あるいは白紙だけを 折り、水引で結ぶ」(広辞苑)
雄蝶・雌蝶は一般的に上記のように示されているが、山中町では雄蝶・雌蝶がついてい る銚子に酒をつぐ人のことを雄蝶雌蝶と呼んでいるようだ6
(4)披露宴の料理の統一化
披露宴の料理に関しても統一化が行われた。旅館や料理屋【と提携をして、統一のメニュ ーや単価を決め、料理屋はローテーションされた。メニューはいたって質素なもので、生 活改善運動が実施された当初は、親戚一同で3~4日かけて作られた豪華な料理に比べると 質素すぎると抵抗があったが、次第にどこの結婚式に行ってもみんな同じレベルになり、
その質素なメニューが当たり前だとされた。この統一化は厳密にされており、もの寂しい からもう一品付け足すなどのアレンジも「見栄」になるとして禁止された。
5.考察
いずれの取り組みに関しても、生活改善での(1)~(4)の取り組みによって、箪笥屋、呉服 屋、旅館、料理屋の経営状況に影響を及ぼしたと考えられる。反発はなかったのかうかがってみ たところ、結婚の簡素化に伴い経営は苦しくなるという意見も出たが、披露宴の料理に関しては、
生活改善部が料理屋や旅館と提携しており、ローテーションで数々の料理屋が同じメニューを出 していたので、反発意見に対しては「そんな反発するなら提携から外す」という姿勢で生活改善 部は対応していたので、そこまで反発意見は出なかったという。それほど生活改善部の権威は偉 大だったので、他の商店や住民にも生活改善運動は浸透していった。
生活改善運動が浸透した理由はもう一つ考えられる。それは改善部の構成人員の家柄が幅広い こと危改善部の中には山中町の裕福層を代表する旅館の奥さんも参加しており、いくら自分に 余裕があって従来のような豪華な結婚式が出来たとしても、生活改善運動による取り決めは守ら れており、そのような裕福層の方が率先して運動に携わっていたという点がさらに幅広い住民層 の信頼を得て、運動を浸透させたと言える。
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この運動は、費用と労力がかかる結婚を簡単にしたので、結婚に対して大変だと思っていた家 柄の人には負担が減り、みんな質素にするから下手に見栄を張らなくてよくなり良かったという 意見もあれば、反対に裕福層には、せっかく一生に一度の結婚なのだから、もっと嫁入り道具や 着物を持たせて結婚式や披露宴も派手にしたいという意見もあり、生活改善運動は賛否両論だっ たと言える。
生活改善運動の終わりは、この年にきっちり終わったというほど定かではないが、昭和45(1970)
年ぐらいには着物のレンタルはやめ、公民館結婚式はその後もしばらく続いていた。着物に関し ては、レンタルで長い間同じ着物をみんなで着ていたので修理に出すか、新しく買い換える必要 が出てきた。その時にはすでにみんなの生活レベルが中の上意識になっていたので、わざわざ高 いお金を改善部が出して着物を買う必要がないだろうとされて、着物レンタルが終わり、公民館 での結婚式が少なくなり生活改善運動は衰退したといえる。
生活改善運動の期間は、生活改善部が結婚式の運営を行い、現在の結婚式場のような機能を担 い、みんな同じレベルの型にはまった結婚が一般的になりオリジナリティは失われた。しかしそ の後、現在に至るまで結婚式の形態はある程度の型にはまったホテルで豪華に行われるホテルウ エディングが主流になり、結婚式会場だけの為に作られたチャペルや、現在はハウスウエディン グという形態が主流になってきている。結婚情報誌「ゼクシイ」(リクルート調べ)の「ゼクシイ 2006年度のトレントド調査改訂版」によると、実際に行なわれた挙式の形式の全国平均比率は、
キリスト教式が65%、神前式・人前式(じんぜんしき)共に16%であった。通常儀式の後披露宴 が行なわれるため、結婚式を行う場所も出席者の交通の利便性がよく大広間が利用できるホテル の利用者が多く、全体の35%を占め、次に多いのが結婚式場の28%であった。ホテルや結婚式場 では、式場側で結婚式に関するほとんど全ての用意を行い華やかな演出まで行ってくれるので、
式を主催する側には大変便利になっている。これらの式場には神社や寺院、キリスト教会の出張 先として別室が設けられ、主に両家の親族が入って式が執り行われる。その後併設した宴会場で 盛大な披露宴を行うことになる。宴会場を利用した場合、いずれにしても多額の費用がかかるた め、親類縁者だけの小規模な結婚式もある。また、近年ではハウスウェディングと称して一軒家 を借り切って親族や友人など身近な者を招待し、パーティー形式の結婚式・披露宴を行う形態が 人気となっており、全体における比率は16%であった。ハウスウエディングの一軒家を貸しきっ て時間を気にせず参列者にゆっくり楽しんでもらおうという配慮が出来る点は生活改善以前に各 家で行われていた結婚の形態に似ており、オリジナリティを大切にするという姿勢は昔に戻って
きていると言えるだろう。
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6.おわりに
最後になりますが、この論文を書くにあたり西谷地区の多くの方々に時間を割いて話していた だきました。中には事前に約束をしていなくて祭り会場でいきなり話を聞かせてもらった方や、
二度三度も時間を取ってくれた方もいました。皆様に聞いた話はとても興味深く、知識不足の私 にも初歩的なことからとても親切に説明してくださってとても感謝していますbこの実習や追加 調査を通して、たくさんの方々に出会えた喜びはもちろん、特製しそジュースや、祭り会場で野 菜たっぷりの豚汁などもご馳走になり、地元の素材を使った地元ならではの温かさを実感するこ とが出来ました。特に私は、今回実習に行った13人のメンバーの中で唯一の石Ⅱ|県内出身者で、
地元も能美市という所で山中町と同じ加賀地区ということもあって、改めて自分の住んでいる「石 川っていいなぁ」と思うことが出来ました。
山中町は温泉観光地として有名なだけあって、西谷地区だけでも町のいたる所に神社があり、
こおろぎ橋や、国の天然記念物に指定されている栢野大杉など、みどころがいっぱいな場所だと 思います6実習が終わった後も、個人的に菊の湯の前にある足湯や、栢野のおまんじゅう屋に立 ち寄っては、今回の実習先が山中町で良かったなあと感じると同時に、これからも足を運びたい と思っています6
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