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ジ ェ ン ダ ー 論 的 転 回 が 明 ら か に す る 日 本 宗 教 学 の 諸 問 題

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はじめに   日本における宗教とジェンダー研究の主な担い手の一人として︑筆者はジェンダー論的転回︵gender-critical turns︶が明らかにする日本の宗教研究の問題点を概観し︑それらを修正するいくつかの方向性を提示してみたい︒この容

易とはいえない作業にあたり︑筆者と長年にわたり交流があるウルスラ・キング︵︶とモーニ

ィ・ジョイ︵︶という二人のフェミニスト宗教学の開拓者・先駆者︵trailblazer︶の理論的テクス 稿︵gender-critical turns︶︵trailblazer︶

ジ ェ ン ダ ー 論 的 転 回 が 明 ら か に す る 日 本 宗 教 学 の 諸 問 題

││

 

ウルスラ・キングとモーニィ・ジョイを中心に

 

││

川   橋   範   子

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トの重要性を︑日本で文脈化していく︒なお本稿では︑英語圏で知られるfeminist studies in religionに呼応す

るものとして︑ジェンダー宗教学という用語を使っていく︒

  二〇一八年に︑キングの八〇才の誕生日を記念した論文集︵festschrift︶が刊行された︒キングから筆者に送られ

てきた記念論集の本の表紙には︑燃え盛る灌木とすべてを見通す神の目をモチーフにした黄金色のマンダラが描か

れている 1︒この論集にはジョイをはじめとして︑キングの研究業績と人柄を賞賛する女性と男性の宗教研究者が寄稿しているが︑それらの論考のいくつかを補助線として用いながら︑なぜ今の時代の日本の宗教研究にジェンダー

の視点が必要不可欠なのかを解き明かしていきたい︒

  キングとジョイは筆者にとって︑フェミニスト宗教学のシャイニング・スターといえる存在である︒幸運にも二

〇〇五年に東京で開催された国際宗教学宗教史会議東京大会︵IAHR2005︶のジェンダーをテーマにした﹁境界と差別﹂という全体会議︵プレナリーセッション︶の司会を筆者は担当したが︑その会議の応答者がキングであった 2︒

その後数か月たって︑会議のときにフロアにいたジョイから筆者は初めてのメールを受け取るが︑そこには﹁フェ

ミニスト的﹂視点のある全体会議を取りまとめたことへの賛辞に加えて︑IAHRの執行役員に選出されたジョイと新女性会長のロザリンド・ハケットが︑アジア︑アフリカ︑南アメリカ︑東ヨーロッパなども含めたフェミニス

ト宗教研究者のネットワークをIAHRに設立することになったので︑筆者にもアジアから委員のひとりとして参

加してほしいという予期せぬリクエストが書いてあったのである 3︒   キングとジョイは現在でもIAHRで求心力を持つ存在である︒キングの愛弟子のティナ・ビーティは前述の記 念論集の中で︑キングが女性研究者の活躍の場と女性の連帯を作り上げたいわば助産師︵midwife︶のような存在だ

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と述べ︑またキングが︑欧米以外の文化の女性の経験への知的好奇心と共感に満ち溢れている点にも触れている 4︒同じ論集でハケットも︑一九九〇年にローマで開かれたIAHRで︑ジェンダー論を宗教研究に持ち込むことに対

する抵抗勢力とキングが戦い︑その結果︑女性たちが結集するコミュニタス的な歴史的瞬間が生まれたことを記し

ている 5︒文化的境界を越えた女性研究者たちの対話と連携を強調する姿勢は︑ジョイにも共通している特徴である 6︒筆者はとりわけ︑ジョイの多岐にわたるジェンダー理論と宗教研究を接合させる洗練された方法論と︑女性研

究者の連帯を重視し次世代の研究者を育成しようとするメンターとしての在り方の両方に大きな影響を受けてき

た︒ジェンダー宗教学はこのような女性たちのつながりと切り離すことはできないのである︒

これまでの日本のジェンダー宗教学の軌跡

  筆者はこれまで一貫して︑宗教研究におけるジェンダー論的視座の重要性を主張し︑そのような立場から自身の 研究課題と取り組んできた︒二〇〇四年に黒木雅子とともに出版した﹃混在するめぐみ││ポストコロニアル時代の宗教とフェミニズム﹄では︑現代仏教とキリスト教をポストコロニアルフェミニズムの観点から考察した 7︒また

二〇〇七年に︑本特集号の執筆者の一人でもある田中雅一と編集した﹃ジェンダーで学ぶ宗教学﹄は︑ジェンダー

論と宗教研究を接合させた初めての教科書であるといってよい 8︒さらに︑二〇一二年の﹃妻帯仏教の民族誌││ジェンダー宗教学からのアプローチ﹄︵︶では︑現代仏教をジェンダー論の視点から批判し︑再構築の可能性

を論じた︒その後二〇一六年には小松加代子とともに﹃宗教とジェンダーのポリティクス││フェミニスト人類学

のまなざし﹄を編集し︑様々な宗教文化のなかでの女性の経験をフィールドワークに基づいて考察した 9︒英文で

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は︑二〇一七年に小林奈央子との特集号Gendering Religious Practices in Japanをゲスト編集し︑海外の研究者からも反響を得た A︒筆者のこのような仕事の背景には︑必ずと言ってよいほどキングとジョイの理論的な研究群があった︒彼女たちの卓越した理論とフェミニストとしてのゆるぎない実 践から絶えず力を得てきた筆者は︑いわば彼女たちの足跡︵footprints︶の中にいると感じている︒

ジェンダー宗教学の信条

  筆者はジェンダーを︑性別にかかわる差別と権力構造を明示し社会変革の梃子になる力を生み出す批判的概念と

とらえてきた︒ジェンダー史の代表的な研究者であるジョーン・スコットは︑ジェンダーという概念がもつラディ

カルな学問・政治的な切れ味が弱まることを憂慮したが︑それはフェミニスト的探究の主眼が﹁つねに現状に甘んじることへの拒否﹂にあると信じるからである B︒強調しておきたいのは︑ジェンダー論的転回が既存の学問に単な る一要素を付加して補うだけの追加的アプローチ︵additive approach︶ではなく︑変革的アプローチ︵transformative︶ だということである C︒つまり︑﹁ジェンダーの視点も﹂一補足物として必要だというのではなく︑﹁ジェンダーの視点こそが﹂必要不可欠なのである︒ここでは筆者がこれまで様々な場所で主張してきたことを︑要約して述べるこ とにする D︒   第一に宗教は︑信念︑儀礼︑象徴などをとおして﹁ジェンダー﹂を形成し人間を超えた存在のもとにそれを正当化し︑規範として正統化する力を持つ︒そのため宗教は︑ジェンダーが社会・文化的構築物であることを否定し

て︑男女の本質を規定していると受けとめられることが多い︒このことは宗教が︑男女間の階層的差異を固定化

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し︑差別の形成と現状維持に加担してきた︑という批判を生み出す︒   第二に︑多くの宗教伝統が︑女性を男性の聖性を脅かす劣ったものと位置付けて儀礼や組織の中でも参画の可能

性を狭めてきたことにより︑宗教は女性を拘束し抑圧する道具のようにみなされてきた︒このような状況は︑宗教

の主題そのものがジェンダー・フェミニズム研究において軽視される傾向を生み出した︒反対に宗教の立場からは︑ジェンダーの視点が神仏などの権威を否定し︑宗教が従来守ってきた伝統的な倫理規範を覆すようにみえるた

めに︑宗教研究もまたジェンダー研究に強い抵抗感を示してきた︒このような理由から宗教研究とジェンダー研究

とを接合させる試みは二律背反︵oxymoron︶であるとさえ言われてきた E︒   第三に︑このように︑宗教研究のなかでジェンダーの視点が矮小化されてきたことは︑宗教学が標榜する﹁客観

性﹂あるいは﹁価値中立﹂の規範と深くかかわっている︒宗教学はジェンダーの視点からの研究を︑学問的中立性

をもたない政治的に偏った主観的なイデオロギーの産物と批判し排除してきたが︑これはそのようなアプローチ

が︑普遍性を欠く女性特有の関心事として矮小化されてきたことを意味する F︒   第四に︑ジェンダーの視座と宗教研究を二律背反とみなすことは︑宗教を男性中心主義の砦のなかに追いやり再

構築の可能性を否定することになる︒このような経緯を踏まえて︑ジェンダー論の視座をもつ宗教研究は︑宗教に

おける女性の周辺化と不可視化を明らかにし︑男性中心主義に支配された解釈や価値観を問い直しそれらを変容させようとする批判的視点を提示する G︒しかしながら現在でも日本の宗教研究では︑ジェンダーの視座は︑﹁主流﹂

の学問に単に付加されるだけの特別な関心事であるかのようにみなされていることが多い︒このことはさまざまな

弊害をもたらし︑後述するように︑宗教界の女性たちはジェンダー平等に関心がなく︑一部の女性が問題視してい

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るだけだ︑という︑教団や研究者の見方をも生み出している︒このことについて小松加代子は︑深く根づいた性差 別の構造や権威を改革しようとするものは﹁非客観的であるとか︑政治的すぎるとレッテルを貼られることになる﹂と鋭く指摘している H︒次節では冒頭で述べた主旨に戻り︑キングとジョイそれぞれのジェンダー論的宗教学の

重要性とそこから我々は何を学べるのかを考察していく︒

キングのパラダイム

シフト

  キングはジェンダー論からの宗教研究の古典となった一九九五年の編著で︑ジェンダー論的転回は宗教学の全分

野に新しい方向性を与えるパラダイム・シフトであると強調している︒以下︑筆者が重要と考えるキングの議論の

骨子を述べてみたい I︒第一にキングは︑ジェンダーの視点を鋭く応用することなしには︑どのような宗教ももはや正しく記述︑分析︑説明されえない︑と主張する J︒第二にキングは︑宗教とジェンダーの間の不幸な関係に関し て︑ダブル・ブラインドネス︵double blindness︶の語を用いて︑ほとんどのジェンダー研究が過度なほど宗教に対 して目を閉ざし無関心であるのと同様に︑ほとんどの宗教研究はジェンダーを度外視し︑その重要性を見ていない︑と論じている K︒第三にキングは︑﹁ジェンダーの視点﹂が﹁女性の視点﹂と同義ではないことを強調する L︒ジ

ェンダーは︑単一的な﹁女性の視点﹂よりも包括的で︑人種や民族や階級や性的指向や年齢など多様な差異の経験

と交差する視点である︒キングが初期の段階から︑ジェンダーを様々な差異のアイデンティティに敏感な概念として用いてきたことは︑後述するようにジョイによっても評価されている︒第四にキングは︑﹁個人的なことは政治

的なこと﹂というフェミニズムの有名なスローガンを︑﹁精神的︵spiritual︶なことは個人的で政治的なこと﹂と読

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み替え︑宗教的な関心事は︑個人の内面のみでなく社会や共同体とかかわっていると指摘している M︒   すでに何度か述べてきたことであるが︑エリアーデの名を冠した一九八七年編集の﹃宗教百科事典︵

︶﹄が一八年ぶりに改訂されたとき︑エリアーデ版に存在していなかったジェンダーとフェミニズム

の視点が︑﹁ジェンダーと宗教﹂という二一編からなる項目として新たに追加されたのはキングの功績と言ってよい N︒しかし︑キングの記念論集の序文で指摘されているように︑このことが持つ意義は単に項目が付加されたとい

うことだけではなく︑キングの手腕と熱意によって︑ジェンダー研究の視点を持つより多くの女性宗教研究者たち

がこの事典に執筆する機会を得たということにもある O︒このように女性研究者の参入によって宗教研究を変容させ る取り組みをキングが推進してきたことは︑記念論集の中のホーソーンの論考が明らかにしている P︒ホーソーンは︑キングの一九九五年の編著は現在でも有効なパラダイム・シフトであると評価し︑この転換が個人の存在と精

神的な希求︑学問の言説や知の構築︑そして宗教体系全体への批判の三つのレヴェルでの変容をもたらすと述べて

いる︒さらに女性研究者にとって︑これはより深い意義を持つ︒なぜなら︑キングが述べるように︑﹁女性研究者は社会の中の自らの立場性をより批判的に自覚し︑彼女たちを取り巻く知の構造と自らの位置を問い直すことにな

るからである Q﹂︒いいかえると︑ジェンダー論的転回によって︑女性研究者が自己再帰的になり︑学問的な帰属と

アイデンティティの構築とが不可分であることが明示されるという意味である︒キングがどのようにジェンダー・アイデンティティと切り離せない経験の中から自らの学問性を培ってきたのかについて︑筆者には忘れがたい思い

出がある︒二〇〇六年にランカスター大学で開催された学会に参加した時︑湖水地方に行くバスの中で筆者はキン

グと並んで座り︑フェミニスト宗教学者の開拓者としての彼女の逸話をいろいろと聞いたのだが︑カトリックであ

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るキングが自身の指導教員であった男性神学者︵後のベネディクト一六世︶の男性中心主義で女性蔑視的な学問と いかに熾烈に戦わなくてはいけなかったのかを知って︑畏敬の念を抱いた R︒ところで︑自己のジェンダー・アイデンティティと学問性が切り離せないのは︑キングより一世代若いジョイの場合も同じである︒ジョイはオーストラ

リア出身であるが︑オーストラリアの学会の性差別主義に嫌気がさし︑大学院の時にカナダに移住して学問を続け

ることにしたという経験を持っている S︒次節ではジョイのフェミニスト宗教研究の重要性を簡潔に述べていく︒

ジョイのフェミニスト宗教学

  モーニィ・ジョイはもともとポール・リクールの解釈学など哲学的研究を専門としているが︑欧米のフェミニズ

ム思想とポストコロニアル理論に関してきわめてすぐれた知識を持つ多面的なフェミニスト宗教研究者である︒アジアを専門地域にする研究者ではないにもかかわらず︑多くのアジアの国々を訪れ現地のフェミニスト女性研究者

たちとの対話と連帯を大切にするジョイのような欧米人女性研究者を︑筆者は他に知らない︒彼女の多文化主義的

な方向性は︑前述したように︑キングが初期の論考ですでにジェンダーを人種や階級や民族などの差異の要素と交差︵intersect︶する概念ととらえていたことを評価する視点にも表れている︒また女性の主体性を巡る理論に関心

が深いジョイは︑従来は男性研究者によって研究される対象でしかなかった女性が学問的分析の主体となった意識

改革をキングが強調した点についても︑モニュメンタルな展開であったと記している T︒   筆者が最も共感し尊敬するのは︑ジョイの女性の主体と宗教を巡る先鋭的で誠実な議論である︒彼女は︑さまざ

まな文化で︑宗教の名のもとに多くの女性たちが抑圧と苦痛を経験している事実に絶えず関心を払い︑心を痛めて

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いる︒そのためにジョイは︑フェミニスト研究者としての判断と実践に基づいて︑非西洋の女性研究者との連携を大切にしているが︑当然のことながら︑日本の学会と宗教界における女性の状況にも高い関心を持っている︒ジョ イは優れた宗教研究は︑現代社会の様々な場所で表面化する女性の人権︵Women’s Human Rights︶としての権利と 宗教との複雑な相互作用を正しく認識し解き明かさなくてはいけないという信念を持つ U︒彼女は︑宗教研究において女性の人権を論じる重要性を学会や論文を通して発表し続けているが︑この内容はいわゆる西洋中心主義あるい は白人中心主義の﹁普遍的フェミニズム﹂の主張などではない V︒むしろ彼女が警鐘を鳴らすのは︑宗教と女性の主

体を巡る論争が︑女性の権利や選択やジェンダー正義を論じることで普遍主義に陥ることを警戒するあまり︑かえ

って︑宗教が伝統や文化の名のもとに女性の人権へのバックラッシュを引き起こす動きに取り込まれていく状況である︒ジョイは︑表面的には他者の文化的差異やアイデンティティを尊重するかのようなスタンスが過剰な差異の

本質化につながり︑実質的には﹁フェミニスト﹂による新たな家父長制的な宗教の擁護につながりかねないことを

憂慮している︒つまり彼女が重視するのは︑過剰なイデオロギーや理論的対立論争にとらわれすぎて︑現場の女性たちが何に抗い何を望んでいるのかその声を犠牲にすることなく︑彼女たちを抑圧するさまざまな権力や差別のヒ

エラルキーの批判的分析に忠実であろうとする姿勢である︒後述するように︑彼女の議論は︑女性宗教者の主体を

巡る日本の現状に多くの示唆を与えることができる︒

  ジョイはキングの記念論集の中の﹁宗教研究における女性の旅﹂と題された章で︑第三世界のフェミニズムの最

も優れた論客の一人であるチャンドラ・モハンティの論考について︑モハンティのプロジェクトは女性の倫理的な

幸福︵well-being︶への深いコミットメントに根差していると論じ︑ジョイ自身も女性のうえに正義や公正がもたら

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されることを倫理的に熱望していると述べている W︒宗教とフェミニズムはともに新しい価値や基準を切り開き︑社 会正義や持続的な幸福を追求する︒ジョイはキング同様に︑たとえ動機や方法は異なっても︑宗教とフェミニズムはすべての女性の存在自体の一貫性や統一性︵integrity︶を肯定する正義を実現させるというゴールを共有してい

ると強調するが︑しかしその実現にはまだ時間がかかるということも述べている X︒

日本のジェンダー論的宗教研究の障害物

  キングとジョイの研究の足跡をたどり︑ジェンダー論的転回の重要性を説いてきたが︑なぜ日本の宗教研究にお

いてこのような視座が特に必要なのかについていくつかの理由を述べてみたい︒これまで論じてきたことを︑足元

を揺るがすカルチャーショックのように感じる男性宗教研究者や宗教者もいるのではないかとさえ︑筆者は感じることがある Y︒日本の宗教研究者には特定の宗教教団に所属する研究者が多いことから︑研究者と教団が親密である ように思える︒そのため︑教団の男性中心主義が学会にも持ち込まれる傾向が強いといえる Z︒このことは特に︑男

性研究者たちの多くが︵意図的︑あるいは無意識のうちに︶ジェンダーの視点からの教団や宗教者批判を等閑視し抑制する傾向を作り出したのではないか︒そして︑この背景に︑近年メディアと学会の両方で支配的な︑﹁宗教の

公益性︵宗教者の社会貢献︶﹂言説があることは否定できまい︒人々に寄り添い絆をはぐくむのに貢献する宗教︑

という圧倒的に肯定的な宗教の表象のされ方は︑現実のジェンダー不公正を覆い隠すかのような力を持っている︒このような状況に対して筆者は︑フェミニスト人類学とフェミニスト神学の親和性をテーマにした拙論の中で以下

のように述べた︒

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一方でこのような宗教界の現象を好意的に評価し︑一種パトロナイズする男性研究者たちのプレゼンスが高まっているが︑そこにはジェンダー不平等にまつわる既存の権力関係への批判が欠落しているのみならず︑彼ら

がどこから何のために誰に向けて書いているのか︑の問いに関する再帰性がほとんどみられない︒小松加代子

は︑公益性の概念は︑共同体内部のジェンダーや階層などの様々な差異を等閑視したまま︑それがまったくの善であるかのように一つの集団の上に押し付けられた場合︑力を持たない人々への抑圧をもたらす︑と述べて

いるが︑この指摘は重要である︵﹂﹃︶︒

﹃社会貢献する﹄教団関係者を一枚岩の善なるものとみなして宗教の公益性を補強するデータのように表象し

てしまうことは︑その裏にある不均衡な力関係や声に出せない疑義を覆い隠してしまうのではないか︒華々し くスポットライトを浴びる男性宗教者と宗教学者の陰には︑沈黙させられた女性たちがいるのではないのか a︒   田中雅一も︑宗教を現代社会の諸問題を克服する公共心や社会関係の復活を可能にする社会資本であると一義的 にとらえる言説に批判を提示し︑このような見方は権力関係に基づく格差や搾取を隠ぺいし温存する︑と的確に述べている b︒

  さらに︑前述のように︑日本の宗教研究ではジェンダー論の視座を無視︑あるいは﹁狭いスタンス﹂と否定する

傾向が強いが︑ジェンダー論的転回の意義をきちんと考察することもしないままに矮小化しようとする立場には強い疑問を感じる︒たとえば︑日本宗教史の再構築に関する最近の座談会で菊地暁は︑ジェンダーの重要性に異論は

ないがと断ったうえで︑﹁ジェンダーで見直された日本宗教史のイメージがまだ湧きません﹂と述べ︑﹁既存の実証

研究にジェンダー的なタームを付け加えただけで︑ためにする議論に終始してしまう﹂と印象論を記している c︒こ

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のような性急な評価は︑現実の宗教における様々なジェンダー不均衡や抑圧の現状維持に貢献してしまうのではな

いのか︒実際︑男性宗教者や教団に関するメディアの表象をみるかぎり︑あたかも日本の宗教界には性差別など存在しないかのようなものが多い︒言い換えると︑宗教界のジェンダー問題は︑外部の目から遠ざけられているので

ある︒

仏教教団とジェンダー正義の欠如

  現在でも︑宗教の内部でジェンダー不均衡の現実にかたくなに目を閉ざそうとする傾向は続いている︒最近︑龍

谷大学のアジア仏教文化研究センターが刊行した﹃現代日本の仏教と女性││文化の越境とジェンダー﹄のあとが

きで編者の一人である那須英勝は︑﹁仏教本来のあるべき姿﹂や﹁信仰生活のよき伝統﹂という耳当たりのよいイメージを無批判に使うことを戒め︑﹁国際性﹂と﹁ジェンダー﹂という二つの視点から現代の日本仏教を再考する

と︑それが何を周辺化してきたのかが明示される︑と的確に述べている d︒この論集では︑真宗の男性僧侶の配偶者

である女性が寺のなかで感じる抑圧と閉塞感や︑出家型の女性僧侶が受ける排除と蔑視をはじめとして︑現代の日本仏教が抱え込んできた様々なジェンダー差別の実例が提示されている︒しかし︑那須の問題意識が共有されてい

ないことを示す︑男性中心主義の視線からの現状肯定論は多い︒

  筆者は︑伝統仏教教団が標ぼうする﹁出家主義﹂の理念と男性僧侶の婚姻の事実との間の整合性のなさを﹁虚偽の出家主義﹂と名付け︑それに挑戦する教団の女性たちの運動を記述したエスノグラフィーのなかで︑男性僧侶の

配偶者の教義的正当性や教団の女性の制度上の位置づけに関する従来の議論が︑女性の当事者性を軽視した男性中

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心主義の目線からのものに終始していることを批判した︒また︑僧侶が妻帯する非出家型の日本仏教は︑世界に誇れる仏教の近代化した姿であるという現状肯定の論調が︑その背後で周辺化される男性僧侶の配偶者や女性僧侶の 経験を省みない︑ジェンダーの視点を欠くものであることも筆者は指摘した e︒しかしながら︑仏教系のメディアで

も状況はさほど変わっていない︒たとえば︑﹃仏教タイムス﹄の平成仏教の三〇年を検証する鼎談は教団の女性の位置付けもテーマの一つに取り上げているが︑釈徹宗は︑日本の寺院が妻帯により家庭となった事情を﹁里坊﹂の

現代形ととらえて配偶者や家族の協力が大事と述べている︒しかしこれでは︑寺の中に﹁家﹂が持ち込まれたこと

により立場の弱い﹁弱者﹂が生まれる現実は見えてこない︒釈は︑僧侶の妻をどう位置付けるかは﹁日本仏教の特

性として積極的に意味づけしていった方がいいのではないか﹂と続けて述べるが︑ここでも現実はそうなっていな いことへの批判的視点は欠落したままである f︒   実際には多くの仏教教団で︑僧侶の女性配偶者の身分や保証は不安定で発言権もなく︑また女性僧侶は教団の下 位に位置づけられ重要な儀礼への参画からも外されている︒女性の地位向上を要求すれば女性のみを優遇するのはおかしいと言われ︑表だって活躍すればもう弱者ではないのに弱者のふりをするな︑と言われることさえある g︒筆

者は︑人権学習の講師や仏教教団関連の委員会などで同席した各教団で一定の地位にある︵若手もふくめた︶男性

僧侶たちが︑自らの役割を﹁素晴らしい︵クールな︶日本の伝統文化﹂である仏教を海外に紹介するマウスピース

︵代弁者︶のようにナイーヴに思い込んでいるのを見て︑非常に居心地が悪かった h︒そこには︑伝統仏教を代表す

るのがなぜ男性僧侶でなくてはいけないのかということへの自己再帰性の問いが欠如していたからである︒宗教界

が世間のジェンダー平等の動きに無関心で連動できていないことは否定できまい︒筆者は︑前述の那須編集の論集

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でも﹁男性僧侶の多くが︑自らの身近にあるジェンダー問題に無自覚なまま大衆に教えを説く導師のようにふるま うことは︑滑稽でさえあるように思える﹂と述べたが︑そのような男性宗教者に対する批判の視点を持てない一部の男性宗教研究者にも自覚を促したい i︒

女性宗教者の活躍促進に潜むネオリベラリズム

  結論部では︑宗教と女性の主体を巡る近年の言説の陥穽とそれが日本の宗教研究に及ぼす個別の影響について考

察するが︑その前に簡単に述べておきたいことがある︒社会学者の菊地夏野は︑今の日本社会は﹁フェミニズムは

終った﹂という前提のもとに︑﹁女性の﹃元気﹄や﹃活躍﹄﹃成功﹄が称揚される文化状況にある﹂が︑同時にこの

状況下では︑性的差異に基づくとされる﹁女性の特性﹂が強調され︑かえって﹁女性を差別する風潮が高まる﹂と述べている︒続けて菊地は︑マイノリティであった女性が﹁競争を勝ち抜き評価を得る﹂という構図はネオリベラ

リズムを正当化する口実のように使われ︑社会の性差別的な構造は温存されたまま︑女性の成功や活躍は︑﹁女性

の個人的な努力によって獲得されるものである﹂と結論づけられていくことを鋭く批判する j︒   菊地夏野の考察は︑宗教界の女性の参画についても重要な示唆を持つ︒最近︑従来の沈黙させられた女性僧侶の

イメージに代わる︑能動的に活躍する女性僧侶像が登場しているが︑その多くは男性僧侶とは異なる女性の特質を

生かした教化に自己充足感を見出しているように取り上げられる傾向がある︒このような女性僧侶像を否定はしないが︑そこには菊地が述べる自己責任論の危うさがみられるのではないか︒つまり︑自分で努力すれば女性僧侶な

りの役割や地位を教団の内外で得られるのに︑それができないのは努力が足りないからだ︑という論法である k︒教

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団の男性たちが女性僧侶の活躍に期待すると表明したとしても︑これでは一部の女性僧侶がトークンのように持ち上げられるだけで︑教団の性差別的な制度や意識は現状維持のままである︒現在の宗教とジェンダーを取り巻く言

説は︑一見︑女性の主体を尊重しているように見えるが︑その物分かりの良さの陰には男性中心主義が巧妙に隠さ

れているように思える︒次節ではこの危うさを見ていきたい︒

誰のための主体なのか

  女性宗教者の主体︵agency︶に注目し︑彼女たちが活発に主体を発揮させ自己充足感を得ているかのように一面

的に描いてしまうことは︑男性中心主義的な宗教の構造的暴力や搾取を不問にし︑不可視化してしまう︒ここではジョイの問題提起にそって︑過剰なまでに女性の主体性を強調する理論が倫理的あやうさを持つことを述べてい

く︒

  女性僧侶が︑男性と同等の教団内の地位や儀礼上の役割を求めるのではなく︑女性特有の役割を担うことで自己実現を達成しようとする選択に焦点を当て︑彼女たちの在り方を称揚し現状を肯定する解釈が︑現在でも一定の評

価を得ている︒女性たちが持てる資源を活用していることは理解できるが︑このような表象のされ方は︑ジェンダ

ー平等や女性の参画を要求し教団の差別性を批判する女性を﹁特殊で標準から外れた女性﹂ととらえて︑男性僧侶たちが﹁標準的﹂だとみなす女性から分離してしまう危険性があるのではないか l︒筆者は以前にフェミニスト人類

学の論集の中で︑次のように述べた︒

しかしある程度まで家父長制を内面化したうえで演じるジェンダーの役割概念が女性にとっての自己肯定の手

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段でもあり︑性役割を演じることによって獲得するメリットがあるという解釈は︑更なる具体的な事例の抽出

が必要なのではないか︒いわば限定つきの戦略によって︑女性たちに従来許されていなかった異議申し立てが︑どの程度まで可能になったのか︒そして︑女性たちの自己理解や自己実現の認識が︑男性たちの側にどの

ような影響力や変革の意識を与えうるのか︑それこそが明らかにされていかなくてはならないであろう m︒   女性たちが追い込まれていく不均衡な力関係を注視せずに女性の主体をいわば庇護する研究者の立場は︑結果として男性中心主義な宗教構造の現状維持や後押しにつながる危険がある︒女性であるがゆえの拘束された選択状況

の中でも女性たちは活躍しているという時︑その拘束を作り出して維持しているのは誰なのか︒また︑例えば女子

学生に対する入試差別や性暴力に甘い司法制度などの︑教団以外の日本社会のジェンダー差別について︑それらの

女性たちがどう考えているのかは研究者の関心の外なのだろうか︒

  この点に関してファンダメンタリズムとフェミニズムを研究するサラ・ブラックの考察は︑ジョイと同様に︑

﹁主体﹂が理論的な道具としてさまざまなやり方で利用されることをきちんと踏まえたものである︒ブラックは︑

ファンダメンタリスト的な宗教運動について︑女性に抑圧的な宗教に自らコミットする女性を﹁虚偽意識﹂の犠牲者として一面的に描くことが帝国主義フェミニズムへの加担になるというフェミニスト研究者のディレンマを提示

する︒そのうえで︑家父長的なジェンダー制度に参加する女性は主体を発露させていると全面的に肯定すること

は︑服従させられた﹁犠牲者﹂という表象に拮抗するためだけに新たな主体のパラダイムを作り出す不毛な試みではないのかと問いかける︒ブラックは︑構造的な拘束︵structural constraints︶が振るう力を等閑視する対価を払っ

て女性の行為主体性を主張することは︑緊張関係を中和し︑女性たちが拘束された状況の中で選択を行っているこ

(17)

との重みを置き去りにしてしまうと論じている︒さらに彼女は︑女性たちの経験が生み出すナラティヴは︑主体

︵agency︶の作用に関する情報を研究者に与えるだけではなく︑構造的な拘束についても多くをもの語る︑と指摘 している n︒なぜ女性たちがそのように選択するのか︑その背後の力関係を消し去ってしまうような主体の理論の乱 用は危険な力を持つ︒前述したようにジョイの女性の主体と宗教をめぐる議論の力は︑女性の主体のロマン化を戒め︑フェミニストとしての判断を保留することなく不均衡な力関係や搾取の構造を見据えていく点にある o︒研究者

は︑特に自文化と切り離された遠くの他者である女性をロマン化する誘惑の陥穽に慎重であるべきだろう p︒筆者は

かつて︑土着の家父長制的宗教と西洋中心主義の啓蒙主義フェミニズムのどちらにも利用︑回収されない視線の維

持が研究者には求められると述べたが︑今︑さらにその思いを強くしている q︒

今後の課題

  本稿ではキングとジョイの理論的足跡と日本の宗教研究の問題とを連結させようと試みてきた︒ジェンダー宗教学はもちろん未完のプロジェクトである︒筆者は日本の宗教学の男性中心主義が変化しつつあることは否定しない が︑そのペースは遅すぎると感じている r︒最近︑アメリカを中心に︑いわゆる﹁マネル︵manel︶﹂と呼ばれるよう な︑男性だけで構成された学会パネルのメンバーに女性が参入していくことを可能にするネットワークを︑アジアの宗教を専門にする若手の女性研究者たちが立ち上げている︵Women in the Study of Asian Religions︶︒このような

取り組みは︑日本の学会でも一考に値するのではないか︒宗教界と学会の両方が︑ジェンダー論的転回を受け入

れ︑周辺化されてきた者たちの希望を叶えるものへと変容していく必要性を今後も強調していきたい︒フェミニス

(18)

ト宗教研究に特化した学術誌は三五年あまりの歴史を持ち︑これと連 動したNPOのFeminist Studies in Religion︵FSR︶もアメリカでは設立されている︒の最新号では︑アメリカ宗教学会︵AAR︶の女性の地位に関する委員会︵Status of Women in the Profession︶のメンバーが制定し

たセクシュアル  ハラスメントの禁止規程がとりあげられ︑ハラスメントが知的自由を侵害し職業倫理に背く行為 であることが︑女性研究者たちが経験してきた苦難の事例とともに述べられている s︒   牧師でもあるアリソン・ボーデンが主張するように︑宗教制度は道徳的力と影響力の貯蔵庫であり︑宗教はグロ

ーバルなジェンダー正義を保障するための重要で積極的な要因となりうる︒宗教の象徴力と組織力が強大であるが

ゆえに︑宗教はジェンダー平等に敏感なものへと再構築される必要があることを忘れてはいけないのである t︒最後 に述べておきたいが︑最近ヨーロッパで出版された宗教と女性に関するアンソロジーの中で編者の女性たちは︑女性たちの宗教間対話︵interfaith︶の重要性を説いている︒さまざまな宗教伝統に属する女性たちが︑対話を通して

お互いが持つジェンダー・ステレオタイプを脱構築し︑差異と共通性の両方を見出して協力し合っていくことが︑

今の時代は強く求められている u︒さらに︑ジェンダー宗教学の学問的課題の一つとして︑ジョイやキングも重視するインターセクショナリティの問題があげられるであろう︒これは︑一元化された排他的あるいは同質的なアイデ

ンティティではなく︑人種や階級やセクシュアリティなど様々な差異が交差し相互連結する複合的な視点から差別

の作動をとらえ︑社会変革の可能性を探ることを目指すアプローチである v︒日本をホームランドとする私たちが︑このような流れにどのように参入しジェンダー論の視座を持つ宗教研究をこれからの日本で展開していけるのか

が︑今︑問われている︒

(19)

︵ , vol. 19  D. Corrywright and B. Schmidt eds.,  (Bristol, University of Bristol Press, 2018).1︶

︵ IAHR2005︵︶﹄︵  2︶

  Women Scholars Network3︶

︵   Tina Beattie, Friendship, Faith and Feminism, in , pp. 86‑99.“”4︶

︵ ︵︶︑﹄   Rosalind Hackett, Gender and Religion: Too Quiet a Field of Study? in , pp. 78‑85.5“”︶

調︒   6︶西

︒   7︶

︒   8︶

  9︶

︵ 10  , 44(1), 2017.︶

︵ 11  ︶︶﹃

︵ 12  ︶﹄︑︒ 13  ︶︑﹃

(20)

publication ethics and mal-practice statement︒︵

︵ 14  ︶﹄︑

︵ 15  ︶﹄︑

︵ 16  ︶﹄︑

︶︑︒ 17  ︶﹂︵﹃

︵ Blackwell, 1995), p. 28. 18  Ursula King, “Introduction: Gender and the Study of Religion,” in , ed. by Ursula King (Oxford, ︶

︵ , eds. by King and Beattie (London, Continuum, 2004), p. 8. 19  Ursula King, General Introduction: Gender-Critical Turns in the Study of Religion, in “”︶

︵ 20  King, “General Introduction: Gender-Critical Turns in the Study of Religion,” pp. 1‑2.︶

︵ Jones (Detroit, Macmillan Reference USA, 2005), p. 3296. 21  Ursula King, Gender and Religion: An Overview, in , Second Edition vol. V, ed. by Lindsay “”︶

︵ Press, 1993), pp. 198‑199. 22  Ursula King,  (Philadelphia, Pennsylvania State University ︶

︵ 23  ︶﹄︑﹄︑

︵ Lindsay Jones (Detroit, Macmillan Reference USA, 2005). hashi, Gender and Religion: Gender and Japanese Religions, in , Second Edition vol. V, ed. by “” 24  , p. 9.Noriko Kawa-︶ 25  homo religiosus︶﹂︵

参照

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