ペシャワール会は、
1983年9月、
中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成され ました。彼の活動を支援するとともに、アジアの人々への理解を深めていきたいと願っています。中村先生の希望を引き継いでいきます 村上 優
チーム・ナカムラとして活動再開 ジア ウルラフマン
◎中村哲医師お別れ会 皆様への感謝と父の思い出 中村 健
中村医師が指し示すもの 村上 優
◎中村医師を偲んで 中村先生の存在をいつも胸に モハマド ファヒーム シェルザド
少年時代から繊細でスケールの大きかった中村君 藤井健児
朝倉市とアフガニスタンの懸け橋・中村哲医師(上) 徳永哲也
【中村哲医師講演】沙漠を緑に―川崎市での講演から①
【カラー連載】PMS現地事業の近況
【カラー特集】マルワリード用水路を行く⑤ F・G地区(3766~4776m地点)
[写真]ガンベリ農場でのサトウキビの収穫(2020年1月16日)
2020年4月8日
143
1-16-8 VEGA天神南601号 TEL 092(731)2372 FAX 092(731)2373
〈URL〉
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事業再開に向けて
十二月十一日、約一八〇〇人の人々の参列をえて故中村哲先生の葬儀を行いました。中村先生を失った悲しみと喪失感は私たちを圧倒しました。前日、日本から中村先生を迎えに行かれたご家族と城尾ペシャワール会副会長とともに、アフガニスタンからはジアPMS(平和医療団・日本)副院長とディダール技師が福岡まで寄り添ってくれました。私たちペシャワール会メンバーとは悲しみに打ちひしがれる再会でしたが、ご家族の配慮で中村先生のご自宅でジア先生たちと少数での最後の時を過ごし、中村先生の御 みたま霊の前で事業の再開を誓うことができました。 葬儀を終えた十二日、今後の事業再開について一日をかけて協議をしました。「中村哲先生の事業は全て継続し、中村先生の希望は全て引き継ぐ」に尽きますが、PMS側の要望を入れてPMS総院長を村上 が引き継ぎました。銀行口座の再開など事業開始に必要な事務処理、ナンガラハル州知事に対する要望、安全の維持に対する諸手続、中村先生と共に亡くなったザイヌッラーさんと護衛四人の方々への弔意と補償など事件にまつわること、そして事件後に休止している医療・農業・用水路事業の再開手順が決まりました。 これまでは、中村先生が全体をいつも掌握して指示を出されておりましたので、今後はPMSとペシャワール会の意思疎通の円滑化を図る手立て、意思決定プロセスの在り方も課題となります。中村先生が現地からペシャワール会に届けておられた週報(解説と写真で、用水路を中心に農業・植樹などの進捗状況を細かく報告しておられました)をPMSの各部門より発信、情報共有を継続することになりました。加えてPMSの各部門の責任者(十二名)とペシャワール会、とりわけPMS支援室員と直接会っての協議を年三、四回設けることにしました。 現地、せめてカブールで開催したいのですが、中村先生さえも亡くなられた事態を前に安全体制を見計らう必要があり、近隣国での開催を予定しました。 これに併せてペシャワール会事務局、特にPMSとの連絡協議をするPMS支援室の強化を図ります。また事業再開プロセスをできる限り早く公開する目的でホームページ(HP)に順次掲載をいたします。進捗状況は会報より早くHPで掲載されますのでご了解ください。 速やかに、また確実に事業が再開できたのは、中村先生の存在を実感しながら皆で歩んでいるからです。「緑の大地計画」の今後
「緑の大地計画」は現在マルワリード用水路の取水門拡大、またマルワリードⅡ用水路に関連してクナール河の護岸工事、排水路工事、また今冬には取 しゅ水 すい堰 ぜき新設工事を予定しています。JICA(国際協力機構)とは二〇二〇年度をめどに、PMS方式の取水堰・用水路について、既刊の中村先生の著書『アフガン・緑の大地計画』をより専門化したガイドラインとマニュアルを作成中です。 ミラーン研修所は、FAO(国連食糧農業機関)の申し出があり、現場作業の進捗状況を見て、継続を検討します。 中村先生は「緑の大地計画」の流れを左
中 村 先 生 の 希 望 を 引 き 継 い で い き ま す
︱ ペ シ ャ ワ ー ル 会 と P M S の 現 在
ペシャワール会会長/PMS︵平和医療団・日本︶総院長
村上
優
まさる記のようにまとめられています。 1.マルワリード用水路建設(二〇〇三~一〇年) 地元譲渡の段階 2.取水堰の建設と研究 (二〇一〇~一九年) 標準設計の完成 3.PMS方式の普及 (二〇一七年~) 4.ガンベリ沙漠開拓・PMS農場の充実
「天、共に在り」を通奏低音に
これからも困難な課題が次々に出てくるでしょう。中村先生の著書ではさらりと触れられている本当の困難に直面した際に、私たちがどのように対処すべきかは、中村先生のこれまでの対応に学ぶところから始めます。先生は「ペシャワールとアフガニスタンでは、世界が抱えるすべての矛盾が見える」と、同所にこだわってこられました。「一 いち隅 ぐうを照らす」とも表現されています。先生の著書『天、共に在 あり』から、ガンベリ沙漠に水を引いたあとに書かれた一節をかみしめています。「小高い丘から望むと、沙漠に囲まれる緑の人里は、壮大な天・地・人の構図だ。厚い防砂林の森が、沙漠と人里とを、くっきりと分けている。過酷な自然の中で、人間は身を寄せ合って生きている。生殺与奪の権を持つ大自然を前に、つつましく生命を営む様子に、改めて『天、共に在り』という実感と、安堵を覚えるのである。自然は喋らないが、人を欺かない。高く仰ぐ天が、 常にあることを実感させる。絶望的な人の世とは無関係に、与えられた豊かな恵みが在ることを知らせる」 一月二五日に西南学院大学チャペルで行われた「中村哲医師とのお別れの会」には約五千名の方にご参列いただきました。会場に入りきれなかった方、さらには全国におられる会員や共感くださる方々の思いと一緒に中村先生とお別れいたしました。それは天におられる中村先生との出会いの始まりでもあります。今後のご支援をお願いいたします。 ニューデリーでの協議速報
二月十日から十四日まで、インドのニューデリーで、PMSの医療・農業・用水路灌漑部門責任者八名と、私を含めたペシャワール会PMS支援室六名が会して、手を取り合い、中村先生を偲び、悲しみを共有し、そして中村先生が興した事業と希望を引き継ぐことを誓ってきました。現在は三事業共に活動は続いています。 医療では、ダラエヌール診療所は事件直後より救急患者の治療を開始し、十二月二一日からは通常診療をおこなっています。スタッフは中村先生の活動の出発点である医療活動に誇りを持ち、継続だけでなく発展への意欲を語っています。診療所の名称を「ドクターサーブ・ナカムラ・メモリアル・ダラエヌール診療所」に変更したいと 希望され、認められました。 農業は麦と稲作が中心ですが、二万五千本のオレンジは昨年日本で学んだ剪 せん定 ていを始め、野菜、サトウキビの収穫や植え付け、酪農、オレンジの育苗、養蜂など多岐にわたり、収穫を得て意気軒昂でした。 政府より貸与を受けている二三〇ヘクタールのガンベリ農園には、すでに造成された一ヘクタールの「ドクター・ナカムラ・メモリアルパーク」があります。その横に現在、中村先生の記念塔を建築中です。また、ガンベリ農園全体を「ドクター・ナカムラ・メモリアルガーデン」と改称するように州政府に申請を出す準備を始めています。
インドでの協議。初日の様子(2020年2月11日)
用水路・灌漑については、マルワリードⅡ流域のクナール河の護岸工事が進み、これまでしばしば洪水で冠水していたベラ村周辺の安全が確保でき、同用水路下流に三キロ延長することが提案されました。 また中村先生が生前最後に準備をしていたゴレーク村については、三月に調査を開始し、秋にはPMS方式の取水堰と用水路の工事が着工される予定です。マルワリード用水路の改修工事は三月開始、取水門の拡張 工事は秋の開始が決定されました。このように中村先生の意志に沿って、こころを一つにして活動が始まり、活気があふれました。 最終日、別れの時に中村先生の写真の前で自然発生的に参加者全員が手を取り合い、
詳細な報告は次号に予定しています。 かい気持ちで終えたことに感謝しています。 人一人が中村先生の魂を抱くことができ、温 口ぐせを繰り返して、再会を誓いました。一
st d o it !
(実行あるのみ!)と中村先生の“Ju ”
チ ー ム ・ ナ カ ム ラ と し て 活 動 再 開
PMS副院長/ジャララバード事務所所長
ジ ア ウ ル ラ フ マ ン
漆黒の闇に包まれて
私の人生が漆黒の闇に包まれた日、二〇一九年十二月四日から、私のこの報告を始めます。この日の朝七時四五分から事務所で朝の打合せを行なっている時、ドライバーのヤシンから電話があり、市街地で攻撃されて、運転手のザイヌッラーと四人の護衛が死亡し、ドクターサーブ中村は病院に搬送されたと知らされました。私たちは大急ぎで病院に駆けつけましたが、ドクター サーブは術前処置をされて手術室に移された後でした。手術後に他の病院へ移動するためジャララバード空港へ搬送されましたが、空港内で命を落とされました。 ドクターサーブのご遺体はカブール経由で日本に運ばれました。私とエンジニアのディダールは先生のご遺体に付き添い、一緒に日本に行きました。ドクターサーブの葬儀を終えて私達が日本を出国する前日にペシャワール会理事会が開かれ、ドクターサーブ村上がPMS総院長に就任されました。そ の後、私達はアフガニスタンに帰国、その間PMSの活動は一時的に停止していました。 日本から戻った私は全職員を招集し、村上先生が新総院長になられたこと、今後もPMSを支援していくというペシャワール会の方針が出たこと、PMSの活動を再開することを説明しました。職員全員がドクターサーブ中村の希望と使命を引き継ぐ意思を表明し、私達は、診療所、マルワリードⅡプロジェクト、農業事業、灌漑維持管理事業と、一つずつ活動を再開して行きました。活動再開初日、私は主要な職員を集め、これからは皆で心を合わせ、何事も本部(日本)と相談の上で「チーム・ナカムラ」として事業に取り組んで行きたいとお願いしました。 日々の業務と今後の活動
中村先生が亡くなられたあと、PMSの事務所では少し体制を変えて運営をするようになりました。今回はPMSの業務を紹介いたします。 ジャララバード事務所の日々の業務は、まず朝礼で職員の出欠確認をします。その後運営委員会メンバーが集まり、前日までに完了した作業とこれからの作業の報告を行うところから始まります。PMSのミラーン事務所でも同様に朝礼、報告・打合せを行なってから、農業や用水路の現場に向かうようにしています。
現場からジャララバードのオフィスに資機材等のリクエストがあった場合は、運営委員会で購買の判断をします。購入が決定された物資については、購買委員会のメンバー数人をバザールに送り、先ず見積りを取らせます。そして翌朝、購買委員会がまずは一番安い取引先から実物を持ち帰り、ジャララバードとミラーンの両オフィスで適切なものであるかをチェックします。 両オフィスには帳簿があり、バザールで購入した物品は全てジャララバード事務所でその帳簿に登録します。登録後、ミラーン事務所に送る物資の量、ジャララバードで使用する物を日々記録し、ミラーン事務所では、ジャララバード事務所から受け取った全ての物の登録と、各現場へ送り出した物資を帳簿に記録しています。 燃料については、燃料タンクがジャララバード事務所にありますので、現場からリクエストされた燃料は、事務職員がリクエストに応じて各所に配達しています。配達の際、作業員の出勤状況や勤務状態のチェックも行います。 PMSの活動地域には、地元評議会(シューラ)が三つあり(ダラエヌール診療所、ガンベリ農場、マルワリードⅡ堰流域)、活動地域でPMS独自では解決できない問題がある場合は、月に一回の地元評議会の集会で解決してもらうよう働きかけます。 治安の関係で、村上PMS新総院長のアフガニスタン入国が難しかったため、二〇二〇年二月十日~十四日に、インドのJICA事務所をお借りして、PMSジャララバードとペシャワール会PMS支援室との合 同会議を開き、PMSから主要スタッフ八名が出席しました。担当部署についてそれぞれが、ドクターサーブ村上に活動内容を説明し、ドクターサーブ中村の希望を引き継ぐことを約束しました。その後、ドクター村上より日本側からの支援について、また今後のPMSの活動について、ドクターサーブ中村の考えておられた計画や希望を踏まえて説明がありました。 まずはマルワリードⅡプロジェクトなど進行中の事業を完成させましょう、また、ゴレーク堰の建設のため地勢調査を出来るだけ早く開始しましょう、と話されました。十四日にアフガニスタンに戻った私達は、ワークスケジュールを立て、マルワリードⅡ工事を完全に再開し、三月中にゴレーク調査を開始することを決めました。 アフガニスタンでは間もなくイスラム教の新年を迎えます。それに合わせてマルワリードⅡ現場とガンベリ農場で、ナンガラハル州の灌漑局長を迎えての植樹祭を行う予定です。 一カ月程前、アフガニスタンのガニ大統領が、私達PMS職員と亡くなったザイヌッラー運転手と護衛四名の遺族を、大統領官邸に招きました。大統領は初めにドクターサーブ中村のためにお祈りを捧げた後、アフガニスタン人五名へのお祈りを捧げられました。また亡くなった五名の遺族にそれぞれ住居を提供するようにと命じられました。そして最後に、「十二月四日の出来事は 事務局からのご報告
殉職された方々への弔慰金等について
中村医師とともに亡くなられた運転手の ザイヌッラー氏、ガードの4人の方々のご遺 族への弔慰金・補償等について、お問い合 せを多数いただいております。ご遺族、特 にご遺児のことを心配されるお便りやご提 案も頂戴いたしました。
村上優会長が昨年12月の記者会見で一 部を報告、またペシャワール会のホームペー ジでも告知しましたが、ご支援くださる皆様 への直接のご報告が遅くなりましたことをお 詫び申し上げます。
ザイヌッラー氏を含む5人のご遺族には、会 としてできるかぎりの弔慰金をお渡しいたしま した。また、ザイヌッラー氏は現地 PMSの 職員ですので、アフガニスタン当地でPMS 規定の補償金とご遺児の教育を念頭におい た特別手当が支払われました。
ガードの4人の方々はアフガニスタン政府 から派遣された公務員ですので、ご遺族に は政府から補償金が給付され、住宅の供与 も約束されました。ザイヌッラー氏のご遺族 にも特例として住宅の供与が約束されました。
私どもも、殉職された5人の方々の御冥福 をお祈りしますとともに、今後ともご遺族のこ とを見守っていく所存でございます。
皆様からのご寄付は、現地の各事業は もちろんのこと、ザイヌッラー氏のご遺族の 方々への支援にも用いられていると、ご理 解くださいますようお願い申し上げます。
「行動で示せ!」
─
父の思い出本日は父中村哲のお別れ会にご参加いただきありがとうございます。私は故人の長男で健と申します。皆様にご挨拶をする機会を設けていただいたペシャワール会へ感謝いたします。 まず最初に、父と共に亡くなられたザイヌッラーさん、マンドザイさん、サイードさん、アブドル
十二月四日の訃報から二カ月弱が経とうの記憶に最も濃く残っています。 きます。り言わんで行動で示せ!」という言葉は私 思い出と感謝の意を申し上げさせていただでも強い口調での「口でりっぱなことばか 遺族を代表いたしまして、皆様へ、父のことが記憶の中に色濃く残っています。中 悔やみを申し上げます。拶、態度に対しては特に叱責を受けていた のご家族やご親族の皆様に改めて心よりお私が二〇歳になるまでは、言葉遣い、挨
ク
ドゥスさん、ジュマさん好きな父でした。 山の方が父の中で勝つぐらいに、本当に山 「行きましょう!」と言うのです。仕事より 時があり、そんな時もしばらく考え込んで した。一度忙しい時に声をかけてしまった 最近では私の方からよく誘うことがありま ってくれるところは本当に山ばかりでした。 くさんあります。小さい頃、父が連れて行 父とは、楽しいことから苦い思い出までた 姿を、幻覚を見るように思い出されます。 被った父が自宅の窓の外を一瞬通り過ぎる 行なっていました。今でも、麦わら帽子を かでいつも庭の草木の手入れを嬉しそうに 生前を思い出すと、自宅での父はおおら 間の流れが非常に速いものでした。 した。私にとって、今日のこの日まで、時 らも、合間で父の思い出を振り返る日々で としています。この期間は、仕事をしながs
中 村 哲 医 師 お 別 れ 会
︵一月二五日/於・西南学院大学チャペル︶で の 挨 拶
皆 様 へ の 感 謝 と 父 の 思 い 出
中村家代表・長男
中 村
健
父のこれまでの生き様はこの言葉通りのものでした。二〇〇一年のアフガニスタン空爆の時、母の前だけで涙している姿があったことを母から聞いたことがあります。それ以外にも極限の状態が多々あったと思います。しかし、父は家族には苦しいことや心配させるような素振りは一切見せない人でした。いつも部屋にこもって机に向かい、黙々と何かを行っていたり、ふと見たときには真剣な表情で考え事をしていた姿をよく覚えています。 父は普段、私には現地での活動のことはほとんど話しませんでしたが、沙漠化した大地が緑で一杯になった様子を、パソコン上の写真を通して、初めて見せてくれたことがありました。沙漠から緑地への変化については、いつも熱心に家族に話してくれていたのをよく覚えています。話し出したら止まらず、その話しぶりは淡々としていましたが、聞いていて、父の喜びと一つの達成感が伝わってきました。 どんな状況でも目の前の問題に対して必要なことを見極め、行動に移してきた父でした。ここに行きつくまで、父とペシャワール会の皆様が築き上げたものの大きさは私には計り知れないものがあります。「口でりっぱなことばかり言わんで行動で示せ!」という言葉は、私の人生において今では大切な叱咤激励の言葉になっています。 また以前、家族に不幸があった時、私は 一生忘れない。私もPMS職員とともにドクターサーブ中村の希望を引き継ぎ、ドク ターサーブのやり残した仕事を完成させるべく努めたい」と述べられました。
父から「いつまでもくよくよしてないで、長男なんだからお前がしっかりするんだ」と言われたことがありました。この時の父の言葉は、悲しみの中で自分を奮い立たせるために、自分自身に言い聞かせていたようにも思えました。その時、父は自身を奮い立たせて活動を行っていました。今この場にいたら、きっと同じことを言われるでしょう。私は気持ちが沈む時、「いつまでもくよくよするな」「しっかりしろ」という父の言葉を思い出し、気持ちを前に進めるようにしています。 今、皆様それぞれが生きていく中でいろいろなやるべき役割をきっとお持ちだと思います。私にはあらゆる面で父ほどの人間力はありませんが、これからは父の言葉・生き様を心に残し、私なりの大切なことを見極め、一つ一つ出来ることを増やし成長して前に進んでいきたいと思います。
皆様への感謝の意
されているペシャワール会の皆様をはじめ、 後の活動の継続に向けて、早期に行動に移 援いただいている皆様」のおかげです。今 つづけた「ペシャワール会」そして「ご支 援態勢をしいて現地活動を物心両面で支え 父の活動の成果は、日本において着実な支 日本の皆さんのおかげ」と言っていました。 だけやってこれたのも、支え続けてくれた 父は以前、自宅で「こんな頑固者がこん ⿆ペシャワール会の皆様・ご支援頂いている皆様へ いたしまして深く感謝いたします。 ご支援くださっている皆様に、遺族を代表
もに実りある生活を送っていただけるよう 前のように自給力を取り戻し、ご家族とと スタン全土に緑の大地が広がり、人々が以 私たち家族は、父が望んだようにアフガニ の継続を示してくださり、感謝いたします。 して今後も父の意志を継いで確固たる活動 父とこれまで活動をともにして頂き、そ くださったアフガン国民の皆様へ 方︑PMS現地スタッフの方︑ともに活動して ⿆アフガニスタンの大統領をはじめ政府関係者の つまでも心より願いつづけます。 になることを、達成されるその日まで、い
ご挨拶とさせていただきます。 感謝の意をもって、私からの皆さまへの く感謝を申し上げます。 恵まれていると思います。皆様に改めて深 ちが救われています。私たち家族は本当に ております。皆様のご厚情には本当に気持 皆様から追悼の思い、お気遣いをいただい 皆様との合同葬儀から、その後も、多くの 去年の十二月十一日のペシャワール会の ⿆私たち家族を気遣ってくださっている皆様へ
本日は、「中村哲医師お別れ会」に全国から大勢の方にご参加いただき、ありがとうございます。 昨年の十二月四日朝、中村先生はいつものようにザイヌッラーさんの運転する車の助手席に座り、用水路現場に向かっておりました。そして日本時間の十二時過ぎ、ジャララバードの郊外を出てまもなく、何者かによる凶弾に倒れました。先生だけでは なく、ドライバーと四人の護衛を含めて六人が帰らぬ人となりました。 アフガニスタン・カブール空港での葬送の儀式では、ガニ大統領が棺を担がれましたが、用水路がある地域の長老の方々も駆けつけ、先生との別れを惜しみました。これほどアフガニスタンの人々に敬愛されてきた中村先生の死は、いまだに信じることはできず、また受け入れることができずにおります。そして二 ふた月 つきが過ぎようとしています。 本当に多くの人々が、日本だけでなく世界中の人びとが、中村先生の死に、心を揺さぶられ、深い悲しみが波紋のように広がりました。その後、アフガニスタンや日本の各地で中村先生を惜しむ追悼会が開かれております。そのことに残された者を代表
中 村 医 師 が 指 し 示 す も の
ペシャワール会会長/PMS総院長
村 上
優
して感謝を申し上げます。 亡くなるその十二月四日当日は、事務局ではボランティアの方々が、ペシャワール会の会報一四二号の発送準備をしておりました。中村先生はその会報の中で、世界の「凄まじい温暖化の影響」による干ばつや沙漠化の前にあっても「希望を守り育てるべき」と書いておられます。さらに「札束が舞う世界は、沙漠以上に危険で面妖」であるけれど、自分たちの「仕事」が、経済至上主義の世界とちがう「新たな世界」に「通ずることを祈り、力を尽くしたい」と述べられております。 残された私たちは、「中村哲先生の事業は継続し、中村先生の希望は引き継ぐ」と決意致しました。 中村先生は亡くなりましたが、その精神・魂は今でも私たちそれぞれの心の中に強く大きく存在しています。中村先生の犠牲は、貧困や飢えや病の中で、困難な「生」を強いられている人々に、当たり前のように手を差し伸べる大切さ、それを実行することの尊さを世界に思いおこさせました。今日お集まりの皆様にも中村先生の意志を共有して頂き、継続してご支援いただけるように切にお願いいたします。 最後になりますが、二〇〇一年、アフガニスタンは、放置すれば百万人が餓死するという大干ばつに見舞われていました。その年の三月、タリバンの急進派によってバ ーミヤンの石仏が破壊され、世界中が非難の大合唱を行いました。その時、中村先生が記した文章(『學士會会報』)を最後に紹介いたします。「その数日後、バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、ひとつの啓示を与えるようであった。『本当は誰が私を壊すのか』。その巌 いわおの沈黙は、よ し無数の岩石塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って逝き、万人に宿る仏性を呼び起こそうとする意志である。それが神々しく思えた。騒々しい人の世に超然と、確かな何ものかを指し示しているようでもあった」 犠牲になられた中村先生が、この大仏が物語る尊さそのものに思えてなりません。
―
中村先生が亡くなられた後、どのように仕事をすすめていますか?「中村先生が亡くなられた後、PMSでは運営委員会が結成され、灌漑事業でどの事業を先に始めるか話し合いました。マルワリードⅡ事業については、護岸工事、排水路工事、植樹と水やり、マルワリードⅡ以外の灌漑事業に関しては、できるだけ作業を進めるためにエンジニアデ
ィダールと相ことができました。 皆がまるで一つの家族のように仕事をする ジニアのように話していました。私たちは をし、またエンジニアと話すときにはエン 作業員といるときには彼らと同じように話 年下の人と話すときには同等に、日雇いの 「年配の人と話すときは年配者のように、―
中村先生はどんな方でしたか。 感じています」 村先生の姿は見えませんが、いつも存在を とを教えて頂きました。今は現場で働く中 知識が非常に深く、いつも現場で多くのこ ていました。中村先生は水利事業に関する 「私はいつも中村先生と現場で一緒に働い とはありますか。 先生から助言や助けをもらいたいと思うこ―
現場の事業を再開していく中で、中村 談しています」s 中 村 哲 医 師 を 偲 ん で
中 村 先 生 の 存 在 を い つ も 胸 に
PMS技師/用水路建設担当モ ハ マ ド フ ァ ヒ ー ム シ ェ ル ザ ド
(
13頁につづく)
マルワリード
Ⅱ
排水路№4の建設工事が開始。この排水路№4は長さ3.5kmに及び、周辺湿地を回復する(2020年3月1日)ダラエヌール診療所。診察を待つ人々(2020年2月2日)
PMSがガンベリ公園に建設中の中村哲医師記念塔
(2020 年3月11日)
昨年9月に福岡の農業試験場で実習したように、柑橘類の剪 定を始めた農業チーム(2020年1月18日)
【特集】 PMS現地事業の近況
↑←12月4日以降、PMSの事業が一時停止していた中、
マルワリード
Ⅱ
堰流域では、「中村医師が続けてきたことを無駄にはしない」と、住民たちが水やりを始めた。
(上:2020年1月7日/左:2019年12月15日)
↓カマ郡住民がカマ第二取水口の横に中村哲医師記念 碑を建設中(2019年12月31日)
Ⓒ
Ⓔ Ⓕ Ⓖ
Ⓗ Ⓘ
Ⓙ
Ⓚ
Ⓛ Ⓜ
Ⓝ Ⓞ Ⓟ
Ⓠ
Ⓢ Ⓣ Ⓓ Ⓐ Ⓑ
ダラ エヌール
渓谷 ダラ
エヌール 渓谷
5km 0
ガンベリ沙漠
クナール河
ブディアライ
スランプール シェトラウ シェイワ
クナール河
取水口
シェイワ用水路取水口
ガンベリ沙漠 横断水路 D沈砂池
H2遊水池
J池
K池 石出し水制群
ガンベリ沙漠
クナール河
ブディアライ
スランプール シェトラウ シェイワ
シギ 国道
シギ
クナール河
取水口
シェイワ用水路取水口
ガンベリ 自然洪水路 ガンベリ 自然洪水路
ガンベリ沙漠 横断水路 D沈砂池
H2遊水池
用水路終点
用水路終点 最終的な終点2009年12月最終的な終点
J池
K池 石出し水制群
PMSガンベリ農場
国道
国道
800m 700m 750m 1,416m 2,411m
3,000m 1,430m
1,350m 2,200m
1,060m 900m
100m 800m 700m 750m 1,416m 1,010m 1,010m 2,411m 3,000m 1,400m 1,400m
1,250m 1,250m
1,430m 1,350m 1,260m 1,260m 2,200m 1,000m 1,000m 1,060m
2,800m 2,800m
2009年8月
2009年8月 2009年12月
900m
100m
用水路によって灌漑される地域
マルワリード用水路
マルワリード用水路
マルワリード用水路全図
総延長:24.837km 灌漑面積:約3,000ha
ジャ
リバ バ 渓
谷ジャ
リバ バ 渓
谷
バルカンデイ バルカンデイ
ウォレスダラウォレスダラ
地図は『天、共に在り』(中村哲著/NHK 出版)より転載し追記しています
◎カラー連載
マ ル ワ リ ー ド 用 水 路 を 行 く ⑤ F・ G 地 区 ︵ 3 7 6 6 〜 4 7 7 6 m 地点 ︶
今回取り上げる地区
(3766〜4776m)
🅕
↓F・G地区はクナール河からの洗掘を防ぐため、長さ100メートル以上の水制を設置した。元来湿地だった同地は今では豊かな耕作地となっており、2019年夏には水田が一面に広がっていた(
07年5月6日)
🅖
中村医師手書きの図面。F・G 地区の工事概要 G区の岩盤に上り、測量をする中村医師(2003年7月6日)
堤防造成開始直後(2003年9月20日) 堤防造成中(2005年2月27日)
↓7年目の同地点。岩盤沿いに高さ
水路を通した。幅は広い箇所で 17メートル、5段の堤を這わせ、その上に る。(2009年4月 締め固めを繰り返し行った。用水路沿いには柳、堤防法尻には桑を植樹してい 70メートル。元来湿地であった為、ローラーで 12日)
盛土に不備があり、用水路が決壊したことも(2005年6月27日) 岩盤を削る作業員たち(2003年8月8日)
最初の受洗者となった中村君
中村哲君が初めて教会にやってきたのは一九六一年(昭和三六)の初夏ごろだったと思います。ですからもう六〇年の付き合いになります。中村君は当時、西南学院中学の三年生。フェナー先生という、アメリカから来日したばかりの宣教師に連れられ、数名の級友とともにやってきたのでした。 私は幼いころ自転車にひかれて片目の視力を失い、盲学校の教師になるため上京していたのですが、二〇歳のころ残った左目の視力も失いました。絶望した時期もありましたが、目白ヶ丘教会の牧師をしておられた熊 ゆ野 や清 きよ樹 き先生との出会いがきっかけとなり、伝道の道を志すことになりました。西 南学院大学の神学部を卒業したのは二六歳のころ。香住ヶ丘教会は前年に開堂したばかりで、私はまだ三〇歳の新米牧師でした。 中村君の逝去後よく質問されるのは、彼がなぜクリスチャンになったのかということ。中村君は、宗教というものが、「どう生きるべきか」という問題にヒントを与えてくれるのでは、と期待していたのではないでしょうか。 最初のころ中村君は、伯父の火野葦平さんの影響か、「物書きになろうと思っとります」と言っておりました。 中村君はその年の十二月に洗礼を受けました。当教会初の受洗者の一人です。しばらくすると、「物書きは他の仕事をしながらでもできます。人の助けになるような仕事がしたいので医学の道に進もうと思います」と言うようになりました。 高校時代までは、礼拝の日以外にも、学校帰りなどにふらりと訪ねてくるのでいろいろな話をしました。折々に「先生は目がお悪いのに、どうして…」と言って、私が歩んできた道についても尋ねてきました。 それから中村君は県立福岡高校に進むの
少 年 時 代 か ら 繊 細 で ス ケ ー ル の 大 き か っ た 中 村 君
香住ヶ丘教会名誉牧師/ペシャワール会名誉理事藤 井 健 児
現場では多くの作業員が働いていたので、彼らの仕事ぶりを見て中村先生は怒ることもありましたが、きちんと作業ができるとたいへん喜んでくれました」―
中村先生が亡くなられたあと、家族や同僚とどのような話をしていますか。「まずは、現場でエンジニアでは仕事は成らず、行動によってのみ仕事 と専念できる人になって欲しい』『言葉だけ ぬ石のようになり、一つの仕事にしっかり りと動かない。だからあなたは大きく動か しかし、大きな石は川の底に留まりどっし あちらへ、こちらへと流され落ち着かない。 中村先生は私に、『川の中で小さな石は でいきたいです。 そんな中村先生の働きを私たちは引き継い それが大切なことではないかと思います。 長ではなく、ひとりの作業員としてでした。 のために働きました。それは地位の高い院 師でした。現地では早朝から夕方まで人々 「中村先生は素晴らしい院長であり人生の は何ですか。
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中村先生について一番大切に思うこと 志と希望を、私たちも進めていきます」 ということを話しています。中村先生の意 ので、この事業をどのように進めていくか 働いていることはみんな分かっていました そして中村先生が困っている人々のために 生が何を望んでいたのかを話し合いました。 はじめ一緒に働いている人たちと、中村先デ
ィダールを 村先生と話したことや現場で働いていたこりません」 先生のこの言葉を思い起こしています。中す。皆、中村先生のことを忘れることはあ でいろいろ考え込むこともよくありますが、アフガニスタン全土で皆に覚えられていま 中村先生がいなくなって、夜になると家す。中村先生はナンガラハル州だけでなく、 は成る』と何度も話してくれました。とが映像のように本当によく思い出されまですが、思い出深いのは受験日の朝のこと。教会の表を掃除しておりますと、下駄を履いた中村君がやってきたのです。「今日は入試じゃないのか?」と尋ねますと、「忘れとりました。終わったらまた来ますので聖書を預かっておいて下さい」と言い残して試験に行きました。
宗派・教派にとらわれず
中村君は繊細でありながらスケールの大きな人柄でした。医者でありながら井戸や用水路を掘り、キリスト教徒でありながら現地にモスクまで建てるというのはなかなかできるものではありません。彼は「無教会主義」を唱えた内村鑑三を尊敬していましたが、やはり教派や教義の違いといった形にとらわれ、排他的になってしまうことに違和感を感じていたのだと思います。 九大医学部時代は、ちょうどアメリカ空母の寄港をめぐる反対闘争があったころで、のめりこんでいたようでした。最初は「先生、キリスト教はふうたんぬるか
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(ここでは現実の問題に対して即効性がないという意)」と言っていたのですが、学生運動が内ゲバへと発展する中で、じっくり考えることの大切さに気づいたようでした。またそのころ、「今の医学は人の心を見ていない。どの科に進むかは別にして、精神科の勉強もしておきたい」とも言っていました。実際に中村君は卒業後、医局に入らず、精神科で 有名な国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)に勤め、それから大牟田労災病院に移りました。そこで看護師をしていたのが尚子夫人です。 「約束を果たせて良かった」 中村君は八四年(昭和五九)、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)からペシャワール・ミッション病院に派遣されます。私は少年時代からの彼の志望を知っておりましたので、かねてからJOCSに対して「有望な青年がいるから」と話していました。派遣が決まったとき、中村君の活動を主に資金面から支えるために結成されたのがペシャワール会ですが、彼の山仲間や同窓生、教会関係者達が賛同し、ネパールで長く活動された岩村昇先生も大喜びで発会式にも出席してくださいました。その後中村君は、現地で必要とされる知識を得るためリバプールの熱帯医学校に留学し、感染症やハンセン病について懸命に勉強したようです。 中村君が活動を始めてから教会に来る機会は減りましたが、よく電話をもらいました。私が彼の健康を気にかけていると、「向こうは楽しかですよ。日本に帰ってきたときのほうが気 き忙 ぜわしくて疲れます」とこぼしていました。 二年前、視覚障害をもつキリスト教関係者を対象に、福岡市内で講演をしてもらいました。中村君も「先生との約束を果たせて良かった」と言ってくれました。最後に 教会に来たのは五年ほど前。付属幼稚舎の園児向けに話をしてくれた時でした。 中村君が聖書からよく引いていたのは、裏切られても裏切り返さないこと、信じることの大切さを説いた教え、あるいは、たとえ一匹でも迷った羊がいたら助けなければならないという教えなどでした。 また、武器を農具に変えて平和を実現するという聖句があるのですが、その教えが後の彼の活動に結実したような気がしています。▼未使用の切手、書き損じハガキ(官製ハガキ・年賀ハガキ)をお送り下さい*引き出しの中などに眠っているものをお送りいただければ幸いです。会報発送等に使わせていただき大変助かっております。なお、外国の切手は取り扱っておりません。▼寄付をしてくださる皆さまへ*当会は法人格を持たない「任意団体」です。お送り下さったご寄付については税金控除の対象となりません。予めご了承頂きますよう、お願い致します。▼現地活動を紹介するパンフレットをお送りします*ペシャワール会の活動をご紹介されるときにお使いいただけるものです(払込用紙がついています)。ご希望の方は遠慮なく事務局にお申し越し下さい。パンフレットはA3変形を四折りしたもので、長形の定形封筒に入るカラー版です。なお、パンフレット、会報等は受け取る意思のある方への配布を原則としております。(ポスティング等は御遠慮下さい)
中村医師との出会い
二〇〇九年三月に私は山田堰 ぜき土地改良区事務局長になり、その年の八月、朝倉市で開催された中村哲先生の講演会に参加しました。 中村先生は、一九八四年からパキスタン・アフガニスタンで医療活動に従事し、二〇〇〇年からは、きれいな飲料水を得るため井戸掘りを行い、二〇〇八年までに一六〇〇カ所の飲料用井戸が確保されました。 二〇〇三年からは「一〇〇の診療所より一本の用水路」を合言葉に、「緑の大地計画」に基づき用水路工事に着工するも、「取水技術」の壁に突き当たられました。アフガニスタンのどこでも、誰でも、多少の資金と工夫で出来るものを求め、取水堰の調査に奔走されました。 その中で出会われたのが筑後川の「山田堰」で、近世・中世日本の古い水利施設です。当然全て自然の素材を使い、手作業で 造られたものでした。 筑後川もアフガニスタンのクナール河も規模こそ違え急流河川、水位差が極端な暴れ川という点で似ており、山田堰の「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど、他に方法がないと確信されたそうです。 この出会いが、アフガニスタン復興の原点であり、「朝倉の先人に感謝、感謝」と述べられ、感慨深いものがありました。 講演会終了後、山田堰に来訪されたとき、クナール河取水堰を山田堰と同様、一〇〇年以上耐えうる取水堰にしたいと力強く語られていました。 一九五三年、朝倉地域も筑後川の堤防が決壊し大洪水となり、甚大な被害を受けました。この時、筑後川上流の大石堰、下流の床島堰は流出しましたが、山田堰だけは流出せず、堅牢な取水堰であることが裏付けられました。 また、先生から「徳永さん、朝倉は三連水車が有名だけど、山田堰はほとんどの人が知らないのではないか。この山田堰は自然と調和し、生き物と共存する、世界に誇れる取水堰で、歴史的農業遺産だ。先人の知恵で造られた山田堰を国内外に情報発信するのも、事務局長の仕事ではないか」と指摘され、私の尻に火がつきました。 その後、現地のPMS職員の皆さんを中村先生が連れて来られ、山田堰の勉強会が開催されるようになり、中村先生と接する 回数も増えました。 中村先生と交流する中、アフガニスタン復興に向けた壮大な「緑の大地計画」の「志」達成を少しでもお手伝いしたいとの強い意識が醸成されました。 脚光を浴びる山田堰 二〇一〇年、マルワリード用水路二五㎞が開通し、三千ヘクタールの荒野・沙漠が農地によみがえり、十五万人の農民が帰農し復興。 大河クナールの取水堰が山田堰をモデルに造られたことを、中村先生が会報・著書・講演会・報道関係者に情報発信されたこと
朝 倉 市 と ア フ ガ ニ ス タ ン の 懸 け 橋 ・ 中 村 哲 医 師
︵上︶山田堰土地改良区前理事長/ペシャワール会理事
徳 永 哲 也
マルワリード
Ⅱ
堰にて。山田堰の生きたモデルを前に、感激溢れる徳永さんと笑顔の中村医師(2019年4月23日)
で、一躍山田堰が脚光を浴びることとなりました。 また、中村先生がアフガニスタンの大臣・副大臣・政府高官を山田堰に案内されることにより、新聞・テレビなどの取材も多くなり、国内外からの来訪者も増加、朝倉市の地域活性化に多大な貢献を果たしてもらっています。 現在の山田堰が一七九〇年に築造されて二二〇年後の二〇一〇年、マルワリード取水堰が完成。先生に堰長を尋ねたところ二二〇mであるとの返事で、二二〇という偶然の数字にお互い顔を見合わせたことが忘れられません。 二〇一九年までに「緑の大地計画」取水堰九カ所が築造され、一六、五〇〇ヘクタールが農地によみがえり六五万人の農民が生活できるまでに復興。 国内外の山田堰への関心度が高くなっていることを実感しています。
「山田堰パンフレット」へのメッセージ
二〇一一年、山田堰パンフレット作成に当たり、中村先生から寄稿してもらいました。その一部を紹介します。〈「山田堰」が時代と場所を超え、多くの人に恵みをもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏 い怖 ふしても、制御して 征服すべきものとは考えなかった。治水にしても「元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰が当たるけれど、触れないと生きられない」という、危うい矛盾を意識し、祈りをこめて建設に臨んだと思われます。その謙虚さの余韻を、「治水」という言葉が含んでいるような気がします〉 昨年四月、私がアフガニスタンを訪問した時、先生がこの思想に基づき、事業に取り組まれたことを実感しました。 筑後川とクナール河は規模が違います。クナール河は、川幅も三~五倍あり、流量・流速とも筑後川とは大違い。川幅の広いところは一キロ以上あり、筑後川では想像できません。 スケールの違うクナール河に、取水口・用水路を造ることの困難──想像を絶するものがあります。その困難に立ち向かわれた中村先生の姿を思うと言葉もなく、敬服するばかりです。(続く)
皆さんこんばんは、中村です。今日のテーマは、「沙漠を緑に」ということですけれども、実際には、沙漠化したところを緑に戻したというのが正しいので、そういうつもりでお聞きください。 一九八四年に私がパキスタンのペシャワールに赴任しまして三五年が経ちます。私たちPMS(平和医療団・日本)は医療活動を中心に展開してきましたけれども、現在どういうことをしているかというと、河の中で河川工事をやっております。医療団体がなぜ河川工事をしなくてはいけないのか、 アフガニスタンくんだりまで行って医者がなぜ河の中に入って工事をしなくちゃいけないのか、というお話です。 皆さんの中には何度も同じ話を聞いたという方もおられると思いますが、少しずつ以前と比べて仕事は進行していますので、また新しく何か汲みとっていただきたいと思います。質問の時間もとってあります。怒りませんので(笑)何でも尋ねてください。
自給自足ができた国
私たちが三五年間やってきた事、現地で
【 中 村 哲 医 師 講 演 】 沙 漠 を 緑 に 川 崎 市 で の 講 演 か ら ①
二〇一九年九月九日︑川崎市総合福祉センターホール主催かわさき国際交流民間団体協議会/川崎市国際交流協会
見たもの、聞いたもの、そして、それに対して私たちはどういうふうに振る舞ってきたか、それをそのまま紹介いたしまして、皆さんの何かの役に立てていただきたいと思います。 まず、アフガニスタンという国ですが、日本人にとって最もなじみの薄い国の一つです。簡単に現地の様子を紹介します。 アフガニスタンは日本から真西に六千キロメートル、中国を飛び越えた彼方にあり ます。地図で分かりますように、アフガニスタンという国は、北アフリカから、中近東、中央アジアに連なる地球の乾燥ベルトの中にある国です。それからもう一つは、ヒマラヤ山脈を西へ西へとたどって行きますと、世界の屋根の西の果てがアフガニスタンに相当します。つまりアフガニスタンは高山地帯であり、山岳地帯であり、同時に乾燥地帯であるということ、インドの西の端に当たるところだということを頭において、私の話を聞いていただきたいと思います。 このヒマラヤ山脈の西の端、カラコルム山脈から続く山脈、これがアフガニスタンの国土の大部分を占めております。アフガニスタンの国土は日本の約一・七倍、人口は二五〇〇万人と言われております。国土のほぼ全てというか、八割以上を占めるのが山脈地帯、標高も七千メートル近くの山々がずらりと立ち並んでいるのですが、この山々はアフガニスタンの人々にとって特別 の意味があります。「アフガニスタンでは、金がなくても食っていけるけれども雪がなくては食っていけない」という有名なことわざがあります。その通りでありまして、どうしてあの山岳地帯の乾燥地帯で二五〇〇万人の人々が食っていけるかというと、実はこの白い山の雪のおかげなのです。 この二五〇〇万人の八割、九割が農業で生計を立てている人々で、自給自足の農業で一家を養っている家庭が多いのです。そういう人々にとって、農業用水の源であるのが雪解け水です。冬に降り積もった雪、何万年もかけてできた氷河が夏に少しずつ解けだしてきて、川沿いに豊かな恵みを約束する。人も動物も植物も、何千年だか、何万年だか何十万年だか知りませんけれども、こうやって命をつないできました。 これが近年大きな変化を受けております。雨がほとんど降りません。私がおりますアフガニスタンの東部、ジャララバードという町での年間の降雨量は二〇〇ミリ前後と言われます。このくらいの雨は、日本だと夏ならば何時間かで降ってしまう量です。しかしこの、雨が降らないということは、それだけ日差しが強いということで、水さえあれば植物の成長はとっても早い。ほんの四、五〇年前までアフガニスタンは食料自給率一〇〇%近くを誇る農業立国でありました。これが近年大打撃を受けているのです。
現地は貧富の差が激しい
多民族国家とイスラム教
日本人になじみの薄いのは多民族国家ということ。アフガニスタンは山の国です。山が深い。山が深いということは、谷と谷の行き来が困難でありまして、どうしても狭い谷あいにそれぞれ違った種類の人々が割拠しやすい状態ができております。かつて、シルクロードの時代にアフガニスタンは民族の十字路と呼ばれてきたところでありまして、いろんな民族がそこを通過しては定着していく。そして、それぞれ小さな集団を作って、アフガニスタンの各地に散らばって定着している。そういう歴史を繰り返して きたところですので、アフリカ系の人々以外はすべての人種がアフガン人に化けられるというぐらい多様な民族が住んでいます。 私たちの活動はこのアフガニスタンの主に東側を中心に展開してきております。現地にはPMSという団体がありまして、ここに百数十名の職員がおり、私と一緒に仕事をしております。さらに数百名の作業員も働いている。これを財政的にバックアップしてきたのがペシャワール会という団体で、私たちの活動のほとんどは、この全国約一万二千人の会員の手によって支えられてきております。 アフガニスタンの国の話に戻りますが、こういう状態でありますから、中央の権力がなかなか末端まで行き届きにくいという社会であります。日本と逆なんですね。日本ではいくら法案に反対していても、法案が通れば、もう翌日から一億二千万人の人々はそれを守る。アフガンはそういう国ではないということです。悪く言えば分裂しやすい状態、良く言えば地域の自治が非常にしっかりしている、ということです。 山岳地域に行きますと、山の中には警察がない。それから精神病院がない。いわゆる国家権力の力というものが入らない。その分だけ住民たちが自分たちの地域を治める。このバラバラになりやすい民族を束ねるのがイスラム教です。 私たちはイスラム教というとすぐテロ、爆 破事件というきな臭い事件を想像しますけれども、現地におきましては、バラバラになりやすい人々をつなぐ絆であります。国民の一〇〇%近くがイスラム教徒でありまして、地域の揉め事につきましても、警察がない、裁判所がないのにどうして解決できるのかというと、地域同士の話し合いで解決することが多いのです。金曜日になるとみんな礼拝に集まってくる。長老たちがそこで話し合いをして、平和裡に揉め事を解決するというのが農村地帯の一般的な風景でございます。 それと、これはアフガニスタンだけではないのですが、我々が現地に行って面食らうのが、貧富の差です。 私たちが日本くんだりから現地まで行って診療活動をしなくたって、現地のお金持ちだとか政治家だとかの主だった方々は、ちょっとした病気でもロンドンやニューヨークやパリや東京に飛んでいって治療を受けることができる。一方で九九・九九%の人たちは数十円というお金が無くて、薬が買えずに死んでいく。このようなところで、私たちとしましては、いかに少ないお金で、いかに多くの人々に恩恵を及ぼすかという特別の配慮をしなくてはならないということでございます。 人々の命をいかにして守るか
私たちが三五年間守ってきた一つのガイ
多民族国家アフガニスタンの民族・部族分布図