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木村博一先生のご遺志を継いで

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

木村博一先生のご遺志を継いで

著者 後呂 忠一

雑誌名 高円史学

巻 20

ページ 65‑71

発行年 2004‑10‑01

その他のタイトル Following the wills of Professor KIMURA Hirokazu

URL http://hdl.handle.net/10105/8821

(2)

木村博一先生のご遺志を継いで

今ごろ木村博一先生の追悼文を書こうとは夢にも思いま

せんでした︒私のような浅学非才の身で先生の追悼文を書

くことは荷が重くてお引受けしようかどうか迷ったのです

が︑長い間先生にたいへんお世話になった一人として︑先

生のご恩の万分の一でも報いたいと思い筆をとることにし

追悼文といっても︑木村先生の歴史学についてのすぐれ

た業績は語る力量はありませんので︑それは別の方に譲る

として︑私は︑主に歴史教育や市町村史の調査・研究︑史

跡めぐりなどについて︑平素先生からいろいろ教えを受け

たことやそれに依って私が実践したことなどを述べたいと

後     呂     忠

科学的な社会認識を高めるために

65

木村先生は一九四三年に︑東京文理科大学史学科 ︵国史

学専攻︶ を卒業され︑海軍予備学生として入隊︑任官され

ました︒終戦後の四六年に文部教官となられ奈良師範学校

に勤務されました︒掴九年に奈良学芸大学講師︑五三年に

助教授︑六七年に奈良教育大学教授になられました︒

先生の葬儀の際の挨拶でご子息の滋君は ﹁父は︑戦争で

多くの学友を亡くし今後は戦争への道を歩まないこと︑歴

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史は下からつまり地方または民衆から見ることが大切であ

ると言っていました﹂ と述べられたが︑私はこれを聞き︑

先生の戦後のご研究や諸活動の原点がここにあったのでは

ないかと思いました︒

私も学生時代は十五年戦争下で︑天皇のため国のために

死ねという教育を受けました︒四〇年に奈良県師範学校に

入り︑四五年五月に特別甲種幹部候補生を志願して入隊し

ました︒四五年九月に卒業して十月から郷里の下北山村第

二国民学校に勤務し︑﹁教え子を再び戦場に送らない﹂ こ

とをモットーに民主主義と平和の教育を行いました︒戦争

を教えているときに︑生徒から ﹁先生︑どうして戦争を止

めることが出来なかったのですか﹂ と聞かれたことがあり︑

これがその後長く私の心に突刺さっています︒

五〇年四月に奈良学芸大学奈良師範学校附属中学校 ︵現︑

教育大附中︶ に転任しましたが︑ここで木村先生に出会い

ました︒先生には︑研究会や教育実習のほか歴史の非常勤

講師として来校されたときなどにお目にかかり︑ご指導を

五二年に先生を中心に︑附中・附小や奈良市の先生方と

奈良歴史教育研究会をつくりました︒ここでは研究方針と

して︑二正しい歴史教育の確立と実践︑二.新しい地方

史の開拓と活用︑三.歴史教育の普及などを定めました︒

三の方針は︑このころ社会科の現場はまだ単元学習や問題

解決学習の域から脱することができなかったので︑系統的

な歴史教育を行うことを提唱したのです︒会では研究会を

開き︑先生のご指導を受けました︒また︑﹃奈良の歴史教

育﹄という機関紙を発行しましたが︑創刊号に先生は︑万

国に冠たる日本史が再び復活することのないようにする︑

子供の生活現実に根ざした実践を大切にする︑お互い真実

の歴史教育を行うことなどを述べておられます︒

会は︑五六年には地理教育もふくめ︑奈良県歴史地理教

育研究会と改称し︑会長に池田源太先生︑常任委員長に木

村先生が就任されました︒その後︑研究会の開催や機関紙

の発行︑学習指導要領の批判などのはか奈良バイパスから

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平城宮跡を守る運動・建国記念日反対運動など幅広く活動

しました ︵バイパスは計画を変更させました︶︒

先生は前々から社会科で ﹁科学的な社会認識を高める﹂

ことが大切であると述べておられましたが︑機関紙十九号

で ﹁社会認識の系統化﹂ と題して論文を発表されました︒

そこでは︑社会の事実や実体のリアルな認識が基本である

とし︑社会の矛盾や対立の関係に目を開かせ全体的・構造

的な社会認識に向かわせる︑民衆の労働と生産が歴史発展

の根源であることを認識させることなどが重要であると述

六六年に︑この会は奈良県歴史教育者協議会︵県歴教協︶

となり︑先生は初代会長に就任され︑あいさつで︑社会科

の教師と教育学者との協力︑会員相互の自由と平等の確保︑

会の民主的な運営などが民間教育運動の原則であると提唱

されています︒会の研究方針はその後先生のご教示のもと

に次のように定められました︒

1.一人一研究と集団研究を大切にする︒ 2︐地域の歴史︑人民のたたかいのあとを発掘する︒3︐授業や歴史クラブの実践を持寄り︑みんなのものに

4︐学習指導要領と対決し︑教科書の批判研究を深める︒

5︐多くの実践や研究を総括し︑教材の自主編成をすす

会では六八年に歴教協第二〇回大会を奈良で開く機会に

﹃奈良県社会運動史年表﹄をつくりましたが︑刊行の辞で

先生は ﹁明治百年祭﹂ の反動性を指摘して ﹁人民の平和と

民主主義の歴史をぬきにしては︑近代の真実は明らかにな

らない﹂と述べておられます︒

先生は六九年には学生部長︑七二年には附属中学校長︑

八一年には附属図書館長などの要職を歴任されました︒校

長時代には︑式日に原稿を用意され︑よく人権や平和の尊

さから自然科学の分野までお話をされ感銘を受けました︒

そのはか修学旅行の行先を関東地方から中央高地に変えた

り︑﹃附中三十年のあゆみ﹄ の編纂が行われました︒三十

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(5)

年史の中で︑先生は今後の附中教育の課題として次のよう

なことがらを挙げておられます︒

独自性に富む自主的な教育計画︑価値ある教材の精選

と系統化︑大学学部・附小・附中の共同の研究体制の

確立︑公立学校との人事交流︑附属教官の待遇改善︑

教官の相互批判の活発化︑教師と父母と子どもが共に

参加する活動の積極的な計画︑校舎の改築︑附属高校

の設置︑附属校の入学者選抜の検討 ︵エリート校化の

防止︶︑附属学校の任務と存在意義の探究

これら課題は現在にも通じる重要な課題で︑その解決の

ために関係者が真剣に取組んでいく必要があると考えます︒

歴史教育の重点

先生の教えを受け︑歴教協の会員の実践に学んで︑私は

日々の歴史教育の重点を次のように定めて授業しました︒

1.戦前のような超国家主義的・軍国主義的で偏狭で虚

偽の歴史を教えるのでなく︑日本国憲法と教育基本法

に基づく民主的・平和的・科学的な真実の歴史教育を

2︐支配者中心の歴史でなく︑多数の民衆が歴史を動か

してきたことをしっかり教える︒その際︑民衆はいつ

の時代も苦しい生活を耐え忍んできたという停滞的な

教え方でなく︑生産や労働に苦闘しながら︑社会を発

展させてきたというように教える︒

3︐近代以前に多くの時間を割くのではなく︑近現代史

にも力を入れて教える︒近現代史で戦争を取扱う場合

は︑戦争の真因や加害・被害の実態・結果影響などを

正しく教える︒十五年戦争は︑侵略戦争であったこと

や戦争中におこった南京事件・中国人や朝鮮人の強制

労働・従軍慰安婦問題・七三一部隊などの真実をあり

4︐地域の歴史をできるだけ取上げる︒木村先生は地域

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学習は ﹁子どもの興味を呼び⁝⁝学習に充実感をもた

せ︑問題意識をもって主体的に学習させるのに役立つ⁝=

社会科の学習に具体的な現実的な資料を提供すること

によって︑科学的な社会認識の基礎を培う﹂ 等々の教

育的意義を述べておられる︒

5.文化の取扱いでは︑木村先生が提言された ﹁政治・

経済・文化の発展との結びつきを明らかにする﹂ ﹁文

化の創造に参加した民衆の役割を正しく評価する﹂

﹁生活文化や民衆文化︑郷土の文化にも眼を向ける﹂

﹁祖先が過去の文化遺産を継承発展してきた歴史にも

留意する﹂ ことをふまえて指導する︒

6.子供たちに歴史を楽しく分かりやすく面白く生き生

きと学ばせる︒そのために︑先生の監修を受けて﹃歴

史学習史料集﹄ ︵地域史を多く盛りこむ︶ や﹃父母が

語る戦争の歴史﹄などを作成して授業で活用した︒特

に古文書の現物をできるだけ用いる︒ 地域史の編纂と活用

終戦後︑木村先生は︑県史や多くの市町村史の編纂・執

筆に関わりました︒一九五〇年代末刊行の﹃榛原町史﹄ で

は近現代史を﹃五候市史﹄では天誅組の変を詳述されまし

た︒先生は市町村史の編纂方針や内容を検討して︑次のよ

うな新しい編纂方針を立て︑それに基づいて六四年から

﹃下北山村史﹄を編纂されました︒

1︐村を担ってきた村民の歴史と現在の村の姿を明らか

にすることを眼目におく︒

2︐新しい村づくりの指針となり︑将来においても︑実

用性を保持できるものにしたい︒

3︐学問的に正確を期するとともに︑表現は平易に村民

にわかりやすいものにしたい︒

4︑できるだけ共同で調査・研究し︑統一ある村史にす

る︒

下北山村は私の郷里でもあるので︑私も村史の編纂に協

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(7)

力しましたが︑先生のご指導はたいへん厳しかった︒先生

はほとんどの原稿に目を通され︑不適当なところは何度も

書直しを命じられました︒特に学問的な正確さ︑文章のわ

かりやすさには厳しいご指導を受けました︒私は原稿を三

〜五回も書直しさせられ︑これ以後文章には一段と気を遣

うようになりました︒

本村史は︑七三年に刊行されましたが︑村民の生活や近

現代史が詳述され︑その道一筋に生きた九人の生涯︑村の

将来に関する各世代のビジョンなど収録されています︒先

生は ﹁木年貢制度と林業﹂ を叙述されましたが︑これは地

元はもとより研究者にも高い評価を受けています︒

下北山村の史料集はまだ出来ていません︒しかし︑数年

前に村史を執筆した四人が︑先生のご指導のもと︑最近村

内に残されている四冊の ﹁庄屋年代記﹂ を筆写しました︒

先生から早く出版せよと言われていましたので何とか早く

世に出したいと思っています︒

先生は︑近世大和の産業 ︵奈良晒はか︶︑大和の百姓一 揆その他数多くの論文を書き残されました︒百姓一揆の年表づくりには私も手伝いました︒なお︑私は︑竜門騒動や富雄の一揆・芝村騒動などは歴史の授業でたびたび使わせ

なお︑先生は︑高円史学会の創設にもかかわり︑奈良市

文化財保護審議会委員その他多くの役職を歴任されました︒

奈良市の歴史で先生が編著された主なものは﹃奈良市史﹄

読本︶ ﹃奈良市政八十年﹄﹃奈良市災害編年史﹄などです︒

このうち﹃奈良の歴史﹄は︑毎年先生と共に内容のまちが

いや不十分な点︑付加えなどがないかどうか慎重に検討を

八五年︑先生が退官された記念に三百数十名の方々のご

賛同を頂き﹃地域史と歴史教育﹄と題する論文集をつくり︑

同年記念祝賀会を開き百余名の方々の参加を得ました︒

先生は和歌山県橋本市のご出身で︑和歌山県史編纂委員

や和歌山市立博物館長になられるとともに︑橋本市史史料

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編纂委員会長にも就任されました︒橋本市史史料編はすで

に近現代史料I・Ⅲが発行され︑いよいよご専門の近世編

にかかられたときに急逝されたのです︒奥様が本年二月に

亡くなられたとき︑私は今後どうされるのですかとお聞き

しますと︑先生は︑橋本市史が完成してから考えると言っ

ておられました︒近世編の完成を見ないで亡くなったのは

さぞかし残念なことと思います︒橋本市史は私も手伝って

いますので︑後を継いで完成に協力したいと思っています︒

二〇〇二年に先生の歴史学に関する論文集が﹃近世大和

地方史研究﹄として出版されました︒これで先生の業績は

永遠に残ることになりました︒

史跡めぐり

事もしました︒でも先生の奥さんが身体をこわされてから は日帰りの旅になりました︒附中の教職員の同窓会である

﹁さくらんぼの会﹂ には会長として毎年出席され︑興味の

ある話や時には歌も出て楽しいひとときを過ごしました︒

でももう先生はこの世にはいません︒旅をしようにも︑

一献かたむけようにももう先生はいません︒四月七日にあっ

けなく冥土の旅に出てしまいました︒淋しいです︒悲しい です︒心にポッカリ穴があいたようです︒今でも夜︑電話一 がかかってくるような気がしてなりません︒先生︑どうか 71

安らかにお眠りください︒ご冥福をお祈りいたします︒

私は︑先生のご遺志を受継ぎ︑出きるかぎりがんばって

先生に恥じない生き方をしてまいります︒

先生とは一年に一回グループで各地の史跡を訪ねる旅を

しました︒途中から﹁史訪会﹂と名付けました︒ふだん行っ

たことのない所に行き随分見聞を広めました︒ときおり食

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