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漆 の 世 界 か ら み え る こ と ―長沢鼎と漆器の文化― 森 孝 晴

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村瀬士朗(施設長)

 本日は鹿児島国際大学主催講演会にお越しいただきあり がとうございます.

 本日は「漆の世界からみえること 長沢鼎と漆器の文化」

というタイトルで,本学国際文化学部の森孝晴先生と九州 国立博物館の川畑先生にお話をいただくということになっ ています.講師のお二人について,そしてお話の長沢鼎に ついては改めてご説明するまでもなく,皆さまよくご存知 かと思いますが,昨年が明治維新から 150 年目ということ で,今,改めて,鹿児島という地が,明治維新において果 たした役割に注目が集まっています.

 去年 NHK で『西郷どん』という大河ドラマが放映され ましたが,あの中で印象に残っている場面で,「薩長同盟」

の成立を描いた回があります.それまで対立していた薩摩 藩と長州藩がいがみ合っていて,なかなか話が進まない.

そこに伊藤博文が留学生たちの留学先の様子を写した写真 を持ってくるというシーンです.薩摩藩,長州藩の双方か ら派遣されていた留学生が,留学先では一つになって学ん でいる.その写真を見て,薩摩だ,長州だといっていがみ 合っている場合ではないのだということを,薩摩,長州の 双方が実感していく.そういう,新しい日本を作り上げて いくうえで,従来の対立を超えて一緒にやっていくという 先駆けを作った留学生の一人が,長沢鼎であると思います.

そのような地域や国を超えた交流は,現在の鹿児島とカリ フォルニア州サンタローザとの交流にも続いているといえ ます.その先駆けを作った人物が,長沢鼎です.

 本日は,その長沢鼎が所蔵していた漆器に関するお話を していただけるということで,大変楽しみにしております が,和英辞典で「漆器」を引きますと,「Japan」という訳

語が出てきます.陶器が「China」と言われているのに対 して漆器は Japan と言われているわけです.これは正確に いうといろいろ問題があって,漆器の模造品を「Japanese lacquer」といったのに対する誤解であった可能性もあるよ うですが,訳語としての「Japan」がどの程度正確なのか は別にしても,漆器が日本の輸出品として重要で評価され ていたということは間違いなくいえると思います.その意 味で,日本の文化の象徴のような漆器を切り口として,長 沢鼎の日本精神,薩摩精神がどのように生きていたのか,

それが長沢の海外での活躍にどうつながっていくのかとい うことに関して,今日はお話が聞けるのではないかと思い ます.それでは,森先生,川畑先生,よろしくお願いいた します.

神前将太(司会)

 ありがとうございました.それでは,最初に講演いただ きます国際文化学部の森孝晴先生についてご紹介します.

 森孝晴先生のご専門はアメリカ文学で,長年の研究の功 績から 1992 年 1 月に「ジャック・ロンドン・マン・オブ・ザ・

イヤー賞」を受賞されました.また,日本ジャック・ロン ドン協会会長,鹿児島サンタローザ友好協会会長,松風会 会長などを歴任されています.

 森先生には,長沢は幕末から海外で長く生活を送りなが らも,日本文化と強い関わりを持っていたこと,長沢鼎が 使用していた漆器など,新たに長沢の親族から寄贈された 資料の背景についてお話しいただきます.

 森先生,川畑先生のお話の後,質疑応答の時間も設けま すので,ぜひご質問をお寄せください.

 それでは,森先生よろしくお願いいたします.

講演会記録                

     

        漆 の 世 界 か ら み え る こ と       ― 長沢鼎と漆器の文化―

森   孝 晴

1 )

・ 川 畑 憲 子

2 )

1) 891-0197 鹿児島市坂之上8-34-1 鹿児島国際大学 2) 818-0118 太宰府市石坂4-7-2 九州国立博物館

(2)

長沢鼎の漆器入手の経緯と新情報 森 孝晴

 みなさんこんにちは.今日は本講演会に多数お越しいた だきありがとうございます.私は「長沢鼎の漆器入手の経 緯と新情報」と題してお話させていただきますが,いま村 瀬先生からお話のあったことに少し付け加えたいと思いま す.『西郷どん』の中で,薩長同盟の際にイギリスに留学 していた学生たちが何人か来て,イギリスでは薩長が仲良 くやっている,それなのにまとまらないのかという場面が ありました.こうした場面があったかどうかは怪しいので すが,実際に薩長同盟が結ばれる前に,薩摩と長州の藩士 たちが仲良くしていたことは事実です.これは記録が残っ ています.先に長州藩士が来ていましたが,少し経済的に は苦しかった.それで薩摩藩士が助けてあげたということ が記録に残っています.ただし,長州藩士の方も先に来て いるので案内をしてくれたりしまして,交流をしていたこ とは確かでして,そういった史実があることを覚えておく 必要があります.

 さて,長沢鼎のことについてはみなさんご存知ではない かと思いますので,今日はそのことは特急で行きたいと思 います.

 最初に,これは『若き薩摩の群像』の碑ですが,こちら の方向が中央駅,こちらがイオンです.長沢鼎は下級武士 ですので,碑の下の方にいるのですが,下級武士といって も西郷さんも下級武士ですから,それなりの地位にいた人 たちということになります.椅子に座って左手にぶどうを 持っている.ぜひ機会がありましたらみてください.横の 机の上にもぶどうがあります.みなさんご存知のとおり,

長沢鼎は「ぶどう王」と呼ばれた人です.

 実は,今朝二つ嬉しいことがありました.一つは,今朝 の朝日新聞の土曜版に「みちものがたり」という連載記事

いた御著書が届いていました.『薩摩の二十傑』という本 で,薩摩を代表する人物,西郷さんや大久保さん,桂久武,

桐野俊秋といったそうそうたるメンバーがならんでいます が,この 20 人の中に長沢鼎が入っています.日本に帰っ てこなかった人ですので,ちょっと考えにくいですが,こ こに入れてくださいました.これはすごいことで,長沢鼎 もようやく日の目を浴びてきたのかなと思います.

 先日高速道路の桜島インターに立ち寄ったところ,記念 撮影用の西郷さんの看板が立てられていたました.そこに,

長沢鼎の看板もありました.五代はなかったのですが,西 郷さんは 3 体,篤姫もありました.私も長沢の看板で記念 撮影をしました.

 このように,最近は長沢のことについて関心を持たれる ことが多くなっています.海の向こうでも,長沢のことが 話題になっていまして,いずれ紹介したいと思っています.

復習となりますが,長沢は 13 歳の時に薩摩藩英国留学生 プログラムに参加しました.これは日本でも最大の留学プ ログラムですが,膨大なお金をかけています.おそらく数 億円規模のお金をかけて,留学生を送っています.

 留学生の出発点は城下です.その後羽島に着きまして,

そこからイギリスへと旅立つわけですが,イギリスの定期 船航路を伝ってイギリスに向かいます.ロンドンで勉強す るのが目的でしたが,長沢は北のアバディーンというとこ ろに行きまして,そこで勉強していたところ,状況が変わっ てきました.戊辰戦争が始まり,多くの学生は帰国します.

帰国せずイギリスに残ったメンバーが,ハリスという宗教 家の斡旋でアメリカにわたります.アメリカは当時イギリ スを凌駕するほどの発展をしていたので,それは間違いで はなかったということです.

 実はこれはあまり知られていないのですが,長沢鼎はカ

リフォルニアでワインと出会ったのではなく,ニューヨー

ク州でワインと出会っていて,勉強もしています.カリ

フォルニアに行った際には,一人前のワインメーカーでし

森 孝晴氏(鹿児島国際大学国際文化学部教授)

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た.森有礼に永住宣言をしたのはカリフォルニアに行く前 でしたが,これが失敗のもとだったのではないかとも私は 考えています.「永住します」と武士が言うと,「やっぱり 帰ります」とは言えない.そして最後の地となるカリフォ ルニア州サンタローザに向かったあと,すでにワインメー カーの力はありましたから,ハリスから命令されて一手に すべてのぶどう畑,ワイン製造にかかわっていきました.

根が学者であり,父親や祖父はみな暦学者なので,もとも と頭がいい.さらには物事を追究するという性格を持って いた.上等なワインを作るということに献身しまして,つ いに 800 社ほどの中で 2 位になるというすばらしい赤ワイ ンを作りまして,押しも押されぬ「ぶどう王」となりまし た.82 歳で亡くなっています.今なら 100 歳を超えるよ うな年齢になっていただろうと思います.ですから,私は 長沢を「ラスト・サムライ」だと考えています.

 長沢の顔を並べてみました.これが 20 歳ごろの写真,

これが 30 代,40 代と並んでいますが,ずっとスーツを着 てネクタイをつけています.顔は,笑っていない.口をあ けて笑っている写真は一枚もありません.串木野の留学生 記念館に所蔵されているアルバムの写真も見せてもらいま したが,ほんの少し笑みを浮かべている写真があります.

それはイジチさんの小さな子供たちと触れ合っている際に 少し口角がゆるんでいますが,口はあけていない.

 これは火事に遭ったラウンドバーンの写真です.現地で は現在も火事が起きています.早速連絡を取りましたが,

カリフォルニア州でもサンタローザは大丈夫のようです.

ソノマのワイナリーは北の方まであるのですが,その一部

が燃えたそうで,長沢のご子孫の赤星さんという方が経営 されているワイナリーもありそちらの方が心配なのです が,まだそことは連絡が取れていません.サンタローザの 人々や,イジチさんは大丈夫のようです.

 写真のワイナリーは一昨年のカリフォルニア州の大火事 で焼けてしまいました.

 次に,50 代から 60 代にかけての長沢の写真です.これ は 70 歳くらいの写真です.顔は,ずっと同じ顔をしてい ます.

 これが 80 歳ごろの写真です.まったく変わらず頑固お やじのような顔です.かなり頑固だったと思うし,まじめ な男だったと思います.ただし,現在 92 歳で唯一長沢と 暮らした経験をもつエイミーさんから言わせると,「優し かった」とのことでした.

 長沢がどう生きたかは説明するときりがないのですが,

13 歳というと若く子供のように思われるかもしれません が,当時で 13 歳といえば「大人」の最低限の年齢だった ということを押さえておく必要があります.長州藩は全員 20 代ですが,薩摩藩は 13 歳でも行けるということは,意 味のあることだと思います.若い人だからこそわかること がある,ということだと思います.

 最初に村瀬先生がお話しされましたように,長沢は死ぬ まで薩摩武士の精神を貫いたと思います.逆にいうと,薩 摩武士道の精神がなくてはならなかったのだと思います.

人間にはいろいろな生き方があり,同化してアメリカナイ ズされて生きるという生き方もあります.長沢は器用な男 ではないので,薩摩武士道がなければ生きられなかったの

長沢 13 歳ごろ 長沢 40 歳ごろ 長沢 70 歳ごろ

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ついては,森に宛てた手紙の下書きを読んでいきますと,

日本へのあふれる思いをうかがうことができます.

 たとえば,晩年カリフォルニアで過ごしていた際にも日 本刀を 2 本持っていました.1 本はすごくいい刀だったそ うですが,すごくよかったはずの刀は,今は行方不明だそ うです.もう 1 本は,長沢のファウンテングローブのワイ ナリー跡に作られたパラダイスリッチワイナリーが持って いたそうですが,火事で焼けてしまい焼けただれて出てき ました.非常に惜しまれることです.

 もう一つの証拠として,長沢が鹿児島市にあとで作った 戸籍です.戸籍というのは,長沢が鹿児島を発つ際にはな かったそうで,明治に入ってから戸籍はできたということ になります.戸籍なしで出国していますから,日本国籍も ないしアメリカ国籍もないという状態で,「薩摩武士」と いうだけで生きてきた.でも落ち着いてきたときに,薩摩 藩士であり日本人であることを証明するために,戸籍をあ えて作った.しかし面白いのは,磯永家の人間なのに長沢 の姓で戸籍を作っている.

 これは, 「長沢鼎」は一代限りの名前で,藩主からもらっ た名前で,子供に継がせることもできない.しかし彼はど うしてもこの名前で戸籍を作りたかったのだと思います.

私の想像では,市役所はやむを得ず受諾したのだろうと思 います.藩主からもらった名前でなくてはならない,とい うことが見て取れます.

 次に,長沢が亡くなってからの話をして,漆器に結び付 けたいと思います.長沢が亡くなったのは, 1934(昭和 9)

年でした.長沢が亡くなった後,激変が起こります.財産

の 97%まで取られてしまいます.長沢には子供がいませ

んでしたから,財産を継がせることはできませんでした.

イジチさんは家族で,イジチさんの子供たちはいました.

しかしそれでは財産を継ぐことはできません.長沢はアメ リカの国籍ももっていません.また差別法が次々と出てき て,あとから来た人は土地を持つことができない.長沢は

 長沢のワイナリーはどうなったかというと,40 年代に はさびれていきました.50 年代には全くなくなりました.

その間に,ひそかに長沢のぶどうの樹を持って行ったひと がいたのです.一方,70 年代には,パラダイスリッチと いうワイナリーができてくるわけです.このワイナリーは,

長沢のぶどうとは全く関係がない.長沢に敬意を表して,

長沢の土地にワイナリーを作ったわけで,いまでもそのワ イナリーは残っています.

 そして長沢の遺骨が返ってきたのが 70 年代で,興国寺 墓地に長沢の墓があります.磯永家の墓になぜ入らなかっ たのか.これは磯永家のみなさんのご意志です.長沢は,

生涯藩主からもらった名である長沢鼎として通した.亡く なったから,磯永となるのは,長沢の希望ではないだろう.

亡くなっても長沢鼎でありたいだろう.ということで磯永 家の墓の横に長沢鼎の墓を作られたわけで,長沢鼎の気持 ちをよくわかっていらっしゃると思います.

 その後 80 年代にアメリカのレーガン大統領が長沢鼎の 話をしたころから,少し長沢鼎の名前が知られるように なってきまして,サンタローザに鹿児島友好協会,鹿児島 にサンタローザ友好協会が誕生しています.そして今でも 売っているナガサワワインを発売しました.鹿児島友好協 会がお願いをして,カリフォルニアのワインを輸入して山 形屋に独占販売をしていただいています.

 パラダイスリッチワイナリーは,長沢鼎が持っていた土 地の上にワイナリーを作りました.ただし,長沢鼎のぶど うの樹を使っているわけではありません.中に長沢鼎の展 示室を持っていました.ところがこれは燃えてしまった.

もったいないことです.パラダイスリッチワイナリーが出 しているワインがこれで,赤ワインと白ワインを長沢の写 真のラベルをつけて輸入しています.鹿児島でも購入でき ます.

 これは下荒田にある「生い立ちの碑」で,こういうもの

もできました.ところが,長沢が建てたワイナリーの建物

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が 2016 年までに残っていましたが,とうとう撤去されま した.木造の建物でしたので,市が火事など起こると危険 だということで,撤去されました.残るは,ラウンドバー ンという納屋のみでした.

 ラウンドバーンが焼ける前に,大変なことが起きました.

これは長沢鼎が育てたカベルネソービニオンという赤ワイ ンのぶどうの樹のことですが,これを長沢の死後 100 本ほ どひそかに持ち去った人間がいました.これはリッジワイ ナリーができる前に,このワイナリーの土地にぶどう畑を 後に作ることになる人が,ごそっと持って行った.その樹 がまだ残っていることがわかったのです.大変驚きました.

全米で 2 位になるようなすぐれたワイン,初めてイギリス に輸出されたのは長沢のワインだった.そのブドウの樹は 質が良いことはだれもが知っていたわけで,欲しかったの だろうと思います.その樹はいまだに残っていて,それか らワインがつくられている.このワインは,普通の人では 買えない.これはラベルですが,ファウンテングローブか ら運んだということが書いてある.これは私では買えない ワインで,大統領のパーティーなどで出るワインです.質 が非常に良いので,特別な場で出るワインとされています.

ただし,私はこれを飲ませていただきまして,とても美味 しかったです.これは城山ホテル鹿児島で飲むことができ ます.

 これは本学の長沢鼎常設展示室です.隣の 7 号館 4 階に ございます.いまは資料を 5 号館 1 階の展示室に持ってき て特別企画展を開催しています.焼けたラウンドバーンの 燃えカスをいただいています.ラウンドバーンは,私が留 学時も朝夕ながめていて,サンタローザの町にとってもラ ンドマークでした.とても残念ですが,現在再建計画があ るそうです.

 これは城山ホテル鹿児島に去年できたワインバーです.

「バロンナガサワ」という店名で,バロンは「男爵」です.

長沢は「バロンナガサワ」と呼ばれたようで,貴族のよう に見えることからそう呼ばれていたようですが,それを記 念して命名されました.店の裏側にプレートが入っていて,

この方がケン・イジチさん,現在の当主です.これがエイ ミーさんで,ケンさんのおばさんにあたります.唯一長沢 と過ごしたことのあるご存命の方です.多くのご家族がい らっしゃいます.

 これが長沢のブドウの樹からつくられたワインで,「ヒ ストリック・ヴァイン」と書いてあります.歴史的なブド ウの樹からつくられたワインということです.この樹を去 年の 8 月に見にいきました.この写真は私と津曲貞利氏,

サンタローザの市長,本学の学生とともに現地の会議場で 会談をした際の記念に撮影したものです.これが,ブドウ の樹を見た証拠写真です.長沢と私がつながったような気 がしました.この際もイジチさんとエイミーさんとでリッ ジワイナリーで再会しました.

 エイミーさんからこの漆器をいただきました.鹿児島に 戻り,周りの人に聞いたところみな「これは茶筒だ」と言っ ていました.茶筒とはいっても,内側をみるとこげついて いるようにみえる.私も全くわからないので,新聞に茶筒 として発表してしまいました.

 これは漆器をいただいた際にエイミーさんがつけてくだ さったカードです.「孝晴さん,Many thanks for your many kind message. This small container was part of Nagasawa’ s belonging at Fountain Groove. Respectly, Mori」

 モリさんという方で,この世代までは日本人の血を守っ たということだと思います.次の世代では,日本人の名は 続きません.

 これは,長沢の所有物の一部であるということで,家に あったということとはまちがいないと思います.これは,

焼失前のラウンドバーン 焼失後のラウンドバーン跡地

(6)

ていた証ではないかと思います.どこで手に入れたか,い つ手に入れたかもわかりません.川畑先生にお聞きしたと ころ,江戸時代の末から明治にかけてだろうとのことでし たので,かなり古い時期に手に入れた可能性がある.

 私は,渡英する際日本から持っていったとは考えにくく,

アメリカに行ってから手に入れたと考えます.一つの可能 性として,ジャパンタウンのような場所で手に入れたとい うことです.あるいは日本に帰ってきたときに,買ったか プレゼントされたか.プレゼントされた可能性が高いかと 考えています.たしかにそれを使っていたかどうかは,わ かりません.

 ただ,イジチさんたちが逃げるようにサンタローザを去 る際に,それほど多くのものを持っていくことはできな かったと思います.小さいものですし,「これは持ってい こう」と漆器を選んで持って行ったのではないかと思いま す.長沢が使っていたとすれば,亡くなる直前まで香道を していたのかもしれません.

 そうすると,いろんなことと符合してきます.長沢鼎の 名を捨てなかったことや,武士としての威厳を捨てなかっ たこと,本籍も鹿児島に置いたこと.長沢が亡くなるまで 武士であり続けたラストサムライであるということがわか ると思います.

 最後に,これは長沢が親しくしていたカリフォルニアの

「ポテト王」の写真です.日本人会の会長をしていて,出 身は久留米だそうです.彼は長沢と家族ぐるみで親しく付 き合っていたようです.ポテト王は長沢よりも年下なのに 先に亡くなってしまいまして,その仮葬儀の写真です.こ こに長沢がいます.左にいるのが,トモキさんという長沢 のおいです.家族でこうして仮葬儀にやってきたというこ とがわかります.

 これは,そのあとの記念塔で,ポテト王として知られ日 本人会の会長でしたから,こういう記念塔が建てられまし た.その除幕式にも真ん中に長沢がいます.この写真はい

州国立博物館の学芸部文化財課資料において登録室長とし て業務を担当されています.文化交流の視点から,漆工品 の調査研究,展示に従事され,これまでトピック展示「き らめきで飾る 螺鈿の美をあつめて」( 2016 年)等を担当 されました.

 今日の題目は「漆器の魅力 五十嵐蒔絵を中心に」で,

江戸時代の五十嵐蒔絵の漆器をご紹介いただいた後に,現 在 1 階展示室で展示中の長沢の遺品からわかることについ てお話しいただく予定です.それではよろしくお願いいた します.

漆器の魅力 五十嵐蒔絵を中心に 川畑倫子

 九州国立博物館の川畑です.まず自己紹介をさせていた だきますが,私は現在,九州国立博物館学芸部文化財課資 料登録室長をしております.専門は漆で,博物館では日本 も朝鮮も琉球も漆のものはすべて担当しています.福岡の 出身でして,曾祖父の家が鹿児島です.祖父の代から引っ 越して福岡に住んでいるので,こちらに住んだことはない のですが,とてもご縁を感じています.

 九州国立博物館ではおもに漆工品の展示に関わっていま す.九州の太宰府にいらっしゃったときには,ぜひお立ち 寄りいただければと思います.

 はじめに,イントロダクションとして漆の基礎的な話を させていただきます.漆の展覧会を見る際に,技法のこと がキャプションや解説に書いてあると思います.そうした 技法について最初に説明していきます.次に宿題としてい ただいております長沢鼎さんの所有の漆器についてです.

私は最初に見せていただいた際に,五十嵐派の蒔絵のよう

ですねとお答えしましたが,五十嵐派についてご説明した

いと思います.そして最後に,1 階の展示室で展示されて

いる長沢鼎さんがお持ちであった漆器についてお話させて

いただきます.

(7)

 まず,漆についてから始めましょう.皆様のご自宅にも 漆器がおありかと思います.お椀でお味噌汁を飲んだり,

ご飯を召し上がったりされていると思います.漆はウルシ の樹液を採取,精製したものです.これが漆の木の葉です.

岩手県の浄法寺は,漆の産地としてとても有名なところで すが,写真に写っている男性は漆搔きの方ですが,木に傷 をつけて漆の樹液をとります.下の方が黒っぽくなってい るのは,先につけた傷から樹液が染み出ているためです.

漆は樹液が出てきたときは乳白色ですが,すぐに酸化がは じまり,茶色に変化していきます.一本から採れるのはお

よそ 200㎜リットルほどといわれていまして,わずかしか

採れません.

 これがベトナムのハゼです.この写真の場所はハノイ近 郊ですが,日本と同じような方法で樹液を採ります.日本 のウルシとは葉の形も少し違います.ベトナムは,日本と は少し掻き方が違い,V 字に傷をつけて樹液を採取してい ます.

 では漆器の技法についてすこしお話ししましょう.漆器 の技法として大きく分けると次の 3 つがあります.

 一つ目が平文・平脱.厳密にいうと別の技法のことを指 していますが,金属板を文様の形に切り抜いて文様を表す 技法です.二つ目が螺鈿.これは貝を使った装飾です.三 つ目が蒔絵.これは金や銀などの金属粉を使ったものです.

平文・平脱は金や銀の薄板を文様の形に切って器物の表面 に貼り付け,上から漆を塗って研ぎ出したり,剥ぎ起こし たりして文様をあらわすという技法です.いま正倉院展の 時期ですので,その技法を使った代表的な漆器として正倉 院宝物の銀平脱箱をご紹介します.これは鏡を収める箱で,

器表には銀を用いた平脱の技法で繊細な文様が表現されて います.

 次に螺鈿ですが,ヤコウガイやアワビガイなどの真珠層,

白いキラキラした部分で文様を表す技法です.螺鈿の作品 をご紹介しましょう.国宝「時雨螺鈿鞍」です.東京の永 青文庫様のご所蔵品で,鎌倉時代の螺鈿を代表する名品で,

新古今集の「我が恋は松を時雨の染めかねて / 真葛が原に 風さわぐなり」という歌がモチーフとなっています.よく みてみますと,「時雨」という文字が見えませんか?これ は文様の中に文字をひそませる手法で葦手と言います.

 次は蒔絵で,これが漆器のイメージとしてポピュラーで しょうか.漆で文様を描いて,そこに金粉や銀粉を蒔きつ けて文様を表す技法を蒔絵といいます.蒔絵の名品をいく つかお見せしたいと思います.これは国宝「片輪車蒔絵螺

鈿手箱」(東京国立博物館所蔵)で,平安時代 12 世紀に制 作されたものです.これも教科書に載っているので,見覚 えのある方もいらっしゃると思います.平安時代後期の蒔 絵を代表する作品で,金銀,青金の研出蒔絵に螺鈿を交え て文様を描いています.この片輪車の文様は,牛車の車輪 の乾燥を防ぐために川水に浸した光景を表す,あるいは浄 土の池に咲く大蓮華を車輪に見立てて,仏法の広まりを表 すという説もあります.また,手箱という名称がついてい ますが,全体の形姿からみて経箱の可能性が高いとされて います.

 ぐっと時代は飛びまして,桃山時代です.九博の作品を ご紹介しようとスライドを持ってきました.重要文化財「花 鳥蒔絵螺鈿聖龕」です.聖龕というのは,キリスト教の宗 教画を納める厨子で,お像を入れるものもあります.絵画 を納める聖龕のうち,現在知られる遺品として最大のもの で,大航海時代にヨーロッパ向けに輸出された,いわゆる 南蛮漆器を代表する名品です.当時,来日した宣教師や商 人が特注で作ったものと考えられます.日本の漆器は西洋 の人から見るととてもエキゾチックで,大変人気がありま した.

 技法の流れをおおまかに述べますと,平文・平脱は奈良,

平安の初期,8 ~ 9 世紀が一番盛んだった時代です.螺鈿 は奈良時代にもちろんありますけれども,平安末から鎌倉,

南北朝初期まで,そのあたりがもっとも発達しました.蒔 絵は平安後期,12 世紀くらいから江戸にいたるまで蒔絵 が隆盛します.本当におおまかですが,少し技法に着目し ていただくと漆芸作品を見るのが楽しくなると思います.

 続いて,五十嵐派の蒔絵のお話に移っていきたいと思い ます.五十嵐派の蒔絵を考えるにあたって,五十嵐派と並 び称される幸阿弥派のお話をしたいと思います.どちらも 精巧で格調高い蒔絵ですが,幸阿弥派の代表作として有名

川畑憲子氏(九州国立博物館文化財課資料登録室長)

(8)

なのは,国宝「初音の調度」(徳川美術館所蔵)です.

 3 代将軍家光の長女千代姫が数え 3 歳でお嫁に行ったと きに持参した婚礼調度です.化粧道具や文房具,香道具な どたくさんの品が写っていますが,これらは当時の女性の 暮らしに必要な道具です.「初音の調度」は,幸阿弥派の 十代長重が当主の時の作で,『源氏物語』の初音という帖 をモチーフにしていることから,「初音の調度」と呼ばれ ています.将軍家の威信を示すかのような豪華な蒔絵調度 で平成 8 年に国宝に指定されています.

 初音の調度には,贅沢に金銀を使いさまざまな蒔絵技術 を駆使しています.これは眉作箱といいます.眉を描くこ とを眉を作るといいますが,この箱には眉を作る際に使う 刷毛や剃刀など,こまごまとしたお化粧道具が収められて います.これは櫛箱といいまして三ツ櫛が収められていま す.

 ここにも先ほど「時雨螺鈿鞍」でお話ししました葦手の 手法が用いられています.「初音の調度」には,モチーフ となる和歌(「年月を松にひかれて経る人に今日鶯の初音 聞かせよ」)の文字が,松と鶯以外,表されています.文 字を意識して見ていくと,さきほどの時雨よりは見つけや すいです.ここまで拡大しますと,蒔絵のすごさも感じて

て,前田家の御用を務めていたというのがわかっています.

蒔絵に平文,それから螺鈿を組み合わせた精緻な蒔絵が特 色です.

 五十嵐の代表作をご紹介しましょう.「秋野蒔絵硯箱」

といいます.先ほどの初音の蒔絵と比べても,少し蒔絵の タッチが違うということがおわかりいただけるかと思いま す.より線がシャープで,きりっとした感じ,それが五十 嵐の蒔絵の持ち味です.初音もそうですが,こういうふう にクローズアップしてもいいかげんなところがないという のは,いかに手掛けた職人の技量が高いものであったかと いうことがよくわかります.

 五十嵐派の蒔絵の特徴をまとめますと,かっちりと洗練 されたシャープなデザイン,華やかな色彩,銀と貝の白,

それから赤いサンゴ,金属,こういったコントラストで華 やかさを十分に出しています.

 もう少し作品を見ていきますが,これは江戸時代 17 世 紀,作者はわかっていないのですが,五十嵐派の蒔絵です.

「竹垣秋草蒔絵硯箱」(東京国立博物館所蔵)です.竹垣に 秋草が華やかに顔を出していて,黒地に金と白と赤が映え た大変美しい作品です.

 最後に,長沢鼎所有漆器についてお話します.さきほど 森先生からお話いただきましたけれども,こちらの鐘ヶ江 先生より連絡いただいたのは,この漆器についてよろし かったら見ていただけますかとお声をかけていただいたの が最初です.1 階の展示室でも展示をしていらっしゃいま すが,これは長沢鼎さんが持っていらっしゃったという遺 品です.これは,文様がつながるということをお示しした かったので,少しずつ回転した画像を並べてみました.柴 垣の上に秋草文が上から頭を出している構図になっていま す.手前の右側に岩が描かれていまして,桔梗や菊,萩,

女郎花,さきほど五十嵐派の蒔絵で見たような秋草が描か れています.また内部も上から撮っていただきました.内 部は金で塗られているようで,蓋は菊の文様になっていま

漆の採集と精製

(大田区立郷土博物館編 2004『ものづくりの考古学』pp.74 より引用)

(9)

す.

 この作品の特徴をまとめておきます.主文様,蓋は菊で すけれども,柴垣の秋草文です.そして蒔絵はというと,

黒地を活かした蒔絵に金蒔絵を主調としたシャープなデザ イン,薄肉の高蒔絵をお花の部分に使っています.つまり 五十嵐蒔絵の特徴と一致します.

 それから,形,用途は何かということですが,器形の特 徴としまして,ちいさな蓋付き容器,おそらく香道具の一 種だろうと思います.その中で焚殻入あるいは香炉が形と しては近いです.焚殻入というのは,焚き終えた香木片を 入れる容器でたいていは中に金属が貼ってあります.もし もこの品が焚殻入であれば,金属を貼っていたのではない かなと思います.

 江戸時代の焚殻入をご紹介すると,江戸時代 18 世紀の 婚礼調度「牡丹唐草向鶴文散蒔絵調度」(国有品)にも含 まれておりまして,赤く囲んだのが焚殻入れです.やはり 蓋につまみが付いていまして,蓋は身の中に嵌るような形.

この中には金属が貼ってあります.幸阿弥派の「初音の調 度」の中にも焚殻入があります.右下の香道具の中の一番

手前のもの,一番右下にあたるもの,丸い蓋がついている のが焚殻入になります.これが開けたところです.中にや はり金属が貼ってあります.

 もしかしたら,当初は金属が貼ってあったけれども,そ れが取れてしまって後で色を塗られたのかもしれません し,元々なかったのかもしれない.それは今となってはわ からないのですが,何という名称を付けるかと言われたら,

焚殻入とすると思います.

 それでは,まとめます.この漆器はどういうものか,長 沢さんの人生と切り離して物自体としてみた場合どうかと いうことですが,五十嵐系統の蒔絵師によるものであって,

制作時代は江戸時代,18 から 19 世紀くらいと思います.

長沢鼎以前の所有者,伝来については,作品の上ではよく

わからないです.伝来を示すような箱などはないとのこと

です.また使用痕もみられるのですが,どのように使われ

ていたのかというはいまの状況からはっきりとはわかりま

せん.香道具として,あるいは喫煙具,灰落として,ある

いは美しい漆器としてインテリアの飾りとして使われてい

たか…どのように使われていたかは,いろいろな想像はで

長沢鼎ゆかりの漆器(本学 7 号館長沢鼎展示室で展示中)

(10)

 大変長くなりましたが,ご清聴いただきありがとうござ

いました.

参照

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それでは資料 2 ご覧いただきまして、1 の要旨でございます。前回皆様にお集まりいただ きました、昨年 11

* Windows 8.1 (32bit / 64bit)、Windows Server 2012、Windows 10 (32bit / 64bit) 、 Windows Server 2016、Windows Server 2019 / Windows 11.. 1.6.2

【会長】

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

司園田園田園.

〇齋藤会長代理 ありがとうございました。.

○安井会長 ありがとうございました。.

・毎回、色々なことを考えて改善していくこめっこスタッフのみなさん本当にありがとうございます。続けていくことに意味