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三代伝持の血脈 概観 50 れ目なく続いていることに喩えたものである また 三代 とは法然 親鸞 如信の三師を指す すなわち 三代伝持の血脈 とは 法然 親鸞 如信と受け継いだ浄土真宗の法義の相承を明示したものである この 三代伝持の血脈 を主張したのは親鸞の曾孫にあたる覚如である 覚如の時代とは

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「三代伝持の血脈」概観

【要旨】 「三代伝持の血脈」とは、法然 ・ 親鸞 ・ 如信と受け継いだ浄土真宗の法義の相承を明示したものである。この「三 代伝持の血脈」を主張したのは親鸞の曾孫にあたる覚如である。覚如の時代とは、 法然の門流としての親鸞の位置 づけさえも明確でなかった時期であり、 この頃に隆盛をほこっていたのは浄土の異流であった。また、 本願寺は覚 如によって史上初めてその名があらわされ、 同じ真宗門徒では仏光寺教団に勢いがあった。このような時代状況の 中で、 覚如が本願寺を中心とした教団の正統性と浄土真宗の教義の枠組みを示すために主張したのが「三代伝持の 血 脈 」 で あ っ た と 考 え ら れ て い る。 本 稿 は、 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 に つ い て 概 観 し、 そ の 意 義 と 背 景 に つ い て あ ら た めて考察することを目的とするものである。 1、はじめに 『 浄 土 真 宗 総 合 研 究 』 第 十 号 の テ ー マ は「 伝 灯 奉 告 法 要 」 で あ る。 本 稿 で は そ の 法 統 継 承 の 原 理 と も い え る「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 を 取 り 上 げ る。 「 血 脈 」 と は、 従 来 よ り「 師 匠 と 弟 子 の 間 で 法 門 を 相 承 す る こ と。 師 資 は 本 来 父 子 で は な い が, 父 の 血 が 子 に 伝 わ る の に 譬 え て〈 血 脈 〉 と い う (1 ( 」「 師 資 の 法 門 相 承 す る を 人 体 の 血 脈 相 連 な る に 喩 え た も の (2 ( 」 と さ れ る よ う に、 仏 教 一 般 に お い て 法 義 が 師 か ら 弟 子 へ と 代 々 伝 え ら れ て い く こ と を、 身 体 の 血 管 が 切

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「三代伝持の血脈」概観 れ目なく続いていることに喩えたものである。また、 「三代」とは法然 ・ 親鸞 ・ 如信の三師を指す。すなわち、 「三 代伝持の血脈」とは、法然 ・ 親鸞 ・ 如信と受け継いだ浄土真宗の法義の相承を明示したものである。この「三代伝 持の血脈」を主張したのは親鸞の曾孫にあたる覚如である。覚如の時代とは、 法然の門流としての親鸞の位置づけ さえも明確でなかった時期であり、 この頃に隆盛をほこっていたのは浄土の異流であった。また、 本願寺は覚如に よって史上初めてその名があらわされ、 同じ真宗門徒では仏光寺教団に勢いがあった。 このような時代状況の中で、 覚 如 が 本 願 寺 を 中 心 と し た 教 団 の 正 統 性 と 浄 土 真 宗 の 教 義 の 枠 組 み を 示 す た め に 主 張 し た の が「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 であったと考えられている。本稿は、 先行研究によりながら「三代伝持の血脈」について概観し、 その意義と背景 についてあらためて考察することを目的とす る (3 ( 。 2、覚如の著作における親鸞顕彰 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 で は、 法 然 か ら 親 鸞 へ の 相 承 が 示 さ れ る が、 当 時 は、 法 然 か ら 親 鸞 と い う 系 譜 が 一 般 に 認 識 されていなかったと推察される時代である。その中で、 覚如が生涯を通して尽くしたのは親鸞の顕彰であったと考 えられる。 そこで、 まず最初に覚如の基本姿勢である親鸞顕彰についてその著作における記述を確認しておきたい。 覚如が最初に著したのは『報恩講私記』である。父覚恵とともに関東の祖跡を巡拝したあとに、 二十五歳の覚如 が 親 鸞 の 三 十 三 回 忌 に 際 し て 制 作 し て い る。 『 報 恩 講 私 記 』 と は、 親 鸞 に 対 し て 甚 深 の 謝 意 を 表 明 す る こ と が そ の 趣旨であり、三段に分けられる内容では、たとえば、 他力眞宗興行則起 レ今師知識、專修正行繁昌亦成遺弟念力。酌流尋本源、偏是祖師徳也。 他力真宗の興行はすなはち今師の知識より起り、専修正行の繁昌はまた遺弟の念力より成ず。流を酌んで本

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源を尋ぬるに、ひとへにこれ祖師の徳なり。 (四、 六 五 (4 ( ) と 述 べ ら れ る よ う に、 親 鸞 を「 今 師 」「 祖 師 」 と 示 し て そ の 遺 徳 を 讃 え て い る。 後 の 著 作 で 強 調 さ れ る 法 然 と の 関 係 が 直 接 示 さ れ る の は 生 涯 の 略 述 ぐ ら い で、 「 他 力 真 宗 の 興 行 」 を 親 鸞 の 徳 と す る な ど、 親 鸞 に よ っ て 浄 土 真 宗 が 明らかにされたことを顕している。続いて二十六歳の時には、 親鸞を讃仰するためにその生涯の事績をまとめた伝 記 絵 巻 を 制 作 す る。 『 親 鸞 伝 絵 』 と 呼 ば れ る 伝 記 絵 巻 は、 異 な る 構 成 を も つ も の が 複 数 現 存 し て い る が、 最 終 的 に は 十 五 段 と み る の が 今 日 の 定 説 で あ る。 覚 如 が 生 涯 を 通 し て 増 補 改 訂 を 重 ね た こ と で 知 ら れ て お り、 『 最 須 敬 重 絵 詞』第七巻第二十六段には、 又同聖人一期の行儀を録せられたる二卷の縁起あり、 旨趣を言葉にしるし形状を後素にあらはす。これまた門 下に賞翫して處々に流布せり。 (四、 四七一) とあるように、 覚如は制作しただけでなく関東の門弟におくるなどしてその流布に努めた形跡がみられる。内容に は、 法然門下としての親鸞の姿が多く、 全十五段のうち三分の一にあたる吉水入室 ・ 選択付属 ・ 信行両座 ・ 信心諍論 ・ 師資遷謫の五段には法然と親鸞との直接関係を示し、 とくに法然の正統な継承者としての親鸞や信心を中心とした 両 者 の 法 義 理 解 の 一 致 が エ ピ ソ ー ド を 交 え て 強 調 さ れ て い る。 な お、 『 報 恩 講 私 記 』・ 『 親 鸞 伝 絵 』 に は、 い ず れ も 親鸞の廟所である大谷廟堂に関する記述があり、 そこには各地の門弟に参詣を勧める覚如の意図を見ることができ る。次に、 鹿島門徒の長井道信の求めに応じ、 三十二歳の時に制作した法然の伝記絵巻『拾遺古徳伝』である。こ れ に は『 親 鸞 伝 絵 』 と 同 様 の 特 徴 が あ る。 『 拾 遺 古 徳 伝 』 は、 そ の 題 号 に 示 さ れ る よ う に、 す で に 制 作 さ れ て い た 法然の伝記に漏れていた内容を拾遺しているといわれる。その漏れていた内容とは、 親鸞に関する記事を指してい る。第六巻の吉水入室 ・ 選択付属 ・ 真影図画や第七巻の師資遷謫などの『親鸞聖人伝絵』と重複する記事、および 第六巻の起請文連署や第七巻の親経卿申宥、 第九巻の追善供養といった記事は、 他の法然の伝記にはみられない 『拾

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「三代伝持の血脈」概観 遺古徳伝』 独自の内容である。これらの内容を補うことによって法然の伝記の中に高弟としての親鸞の姿を示して 両者の関係を強調しているといえ る (5 ( 。 以上の伝記類からは、 親鸞の遺徳を顕彰する中で、 法然の正統な継承者、 法然との緊密な関係をもつ親鸞の姿が 示されていることを見て取ることができる。しかし、 三十二歳時の 『拾遺古徳伝』 制作後から五十七歳時の 『執持鈔』 制 作 前 ま で は 著 作 が な い。 『 拾 遺 古 徳 伝 』 と『 執 持 鈔 』 と の 間 に は 二 十 五 年 の 空 白 期 間 が あ る (6 ( 。 そ の 間、 覚 如 の 周 辺は非常に慌ただしい。大谷廟堂の管理権をめぐる紛争であった唯善事件の対応に追われ、 その影響から関東の門 弟とのやり取りを繰り返してようやく延慶三年 (一三一〇) 四十一歳の時に留守職に就任する。 正和三年 (一三一四) 四十五歳の時に、 一旦は長子存覚に留守職を譲るも、 元亨二年(一三二二)五十三歳の時には一度目の義絶をして いる。また、 越前、 奥州などの各地をまわり、 大谷廟堂の寺院化を企図して活動し、 正和元年(一三一二)には「専 修寺」の寺号を掲げる。これを延暦寺からの抗議により撤去するも、 弘安十年(一二八七)八月二十九日の三尊寺 本願寺敷地境界契状(専修寺所蔵) 、 元亨元年(一三二一)の門弟等愁申状および妙香院挙状においては「本願寺」 の寺号が用いられている。よってこの頃には「本願寺」と称されていたと考えられる。 そして、 著作活動の上からみた空白期間を終えて嘉暦元年 (一三二六) 五十七歳の時に 『執持鈔』 が制作される。 『執持鈔』は、 それ以前の三つの著作が伝記的な性格であったのとは異なり、 教学的な内容を中心としている。 『最 須敬重絵詞』第七巻第二十六段に「平生業成の玄旨これにあり、 他力往生の深容たふとむべし」とあるように、 信 一念往生、平生業成の宗致を明らかにし、他力信心の要義が説かれている。また、第二条 ・ 第三条 ・ 第四条におい て法然の法語や善導の『往生礼讃』あるいは親鸞の『教行信証』などを引用し、親鸞と善導 ・ 法然の教義における 一 貫 性 が 示 さ れ て い る。 ま た、 『 執 持 鈔 』 以 降 に み ら れ る 特 徴 と し て 全 面 的 に 本 願 寺 の 親 鸞 を 打 ち 出 す よ う に な る 点 を あ げ る こ と が で き る。 『 執 持 鈔 』 で は、 第 一 条 の 冒 頭 に「 一 本 願 寺 聖 人 の 仰 せ に の た ま は く 」 と 本 願 寺 の 親 鸞

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による法語であることを述べ、 続く二 ・ 三 ・ 四条では「またのたまはく」と「本願寺聖人の仰せ」であることを重ね て示している。この 「本願寺聖人」 とは、 本願寺号公称後に示される基本的な親鸞の呼称である。 『親鸞伝絵』 では、 初期段階において題号にあった 「善信聖人」 が、 増補改訂を重ねる中で康永二年 (一三四三) 制作の最終稿本では 「本 願寺聖人」と改められている。 そして、 康永三年(一三三一)六十二歳の時に制作された『口伝鈔』に至って、 はじめて「三代伝持の血脈」の 主 張 が な さ れ る。 『 口 伝 鈔 』 や 建 武 四 年( 一 三 三 七 ) 九 月、 六 十 八 歳 の 時 に 制 作 さ れ た『 改 邪 鈔 』 に お い て は、 後 に触れるように浄土の異流や真宗門徒に対する意図をもって「三代伝持の血脈」を主張する。しかし、 これは従来 よりあった親鸞顕彰という覚如の基本姿勢と齟齬を来すものではなく、 そこに法然からの相承を強調し、 その延長 線 上 に 如 信 を 加 え た の が「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 で あ っ た と 考 え ら れ る。 ま た、 そ の こ と は『 口 伝 鈔 』『 改 邪 鈔 』 の 間 に位置する建武四年(一三三七)五月に制作された『本願鈔』において、法然 ・ 親鸞の説示の一致が示される点か らも窺われる。すなわち、 『本願鈔』では『大経』および善導大師の『往生礼讃』から全六文を連引した後に、 わたくしにいはく、 この經釋の文にまかするに、 黒谷の聖人[源空]より本願寺の聖人[親鸞]相承しましま すところの、 報土往生の他力不思議の信心を善知識ありて、 つたへときてさづくるを、 行者きゝうるによりて、 文のごとく一念歡喜のおもひをこるにつきて、 往生たちどころにさだまるを、 正定聚のくらゐに住すともいひ、 か な ら ず 滅 度 に い た る と も い ひ、 攝 取 不 捨 の 益 に あ づ か る と も い ふ な り。 ( 中 略 ) し か れ ば 黒 谷・ 本 願 寺 の 兩 聖人の御化導、經釋符合せる條、文にありてあきらかなるものをや、しるべし。 (四、 二九二) と述べて、さらに『選択集』と『教行信証』信文類を引用して第十八願の意趣を明かしている。つまり、法然 ・ 親 鸞 の 教 え が、 『 大 経 』 お よ び『 往 生 礼 讃 』 の 経 釈 に 合 致 す る も の で あ る こ と を 述 べ て 両 者 の 説 示 の 一 致 を 強 調 し て い る の で あ る。 ま た、 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 を 表 明 し て い る 覚 如 に お い て は、 先 の『 本 願 鈔 』 に お い て「 黒 谷 」・ 「 本

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「三代伝持の血脈」概観 願 寺 」 と 相 承 し て き た「 他 力 不 思 議 の 信 心 」 を 伝 授 す る「 善 知 識 」 が、 「 如 信 」 に 置 き 換 え ら れ る こ と は 何 ら 問 題 のないことであると考えられる。この頃には、このような善知識の強 調 (7 ( や信心正因 ・ 称名報恩の釈義が明確に示さ れ、 覚 如 の 教 学 的 な 特 徴 も み ら れ る よ う に な る。 『 本 願 鈔 』 は、 引 用 し た 経 釈 の 文 に 沿 っ て 覚 如 が 私 釈 を 加 え、 浄 土真宗の要義である一念業成 ・ 住正定聚 ・ 不来迎義 ・ 信心正因 ・ 称名報恩について簡潔に述べた内容であるし、暦 応 三 年( 一 三 四 〇 )、 七 十 一 歳 制 作 の『 願 願 抄 』 は、 親 鸞 が 浄 土 真 宗 の 教 義 を 体 系 的 に 示 し た 真 実 五 願 に 立 脚 し て それぞれの願意を明らかにしたものとみられる。また、 康永二年 (一三四三) 四月、 七十四歳制作の 『最要鈔』 では、 第十八願の願意を示して信心正因 ・ 称名報恩を明らかにしている。いずれも小部ではありながら浄土真宗の要義を 顕示している。なお、 覚如には、 他に制作の年時は不明であるが、 法華と念仏の教えが同体異名であることを明か した『出世元意』がある。 以上、 覚如の著作を成立順に確認してきた。覚如の著作全体を通して見えてくるのは、 親鸞を中心にして浄土真 宗の教義を明らかにしていく一貫した姿勢である。また、 それらと連動するように、 大谷廟堂から寺院化をはたし た本願寺は、 伝承するところの親鸞の教義を展開していくための公的な活動拠点として据えられ、 そこを中心に各 地 の 門 弟 を ま と め よ う と し て い く 覚 如 の 意 識 も あ っ た と 考 え ら れ る。 ま た、 『 親 鸞 伝 絵 』・ 『 拾 遺 古 徳 伝 』 に お い て み ら れ た 法 然 と 緊 密 な 関 係 に あ る 親 鸞 の 位 置 づ け は、 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 の 主 張 以 降 に よ り 明 確 な 表 現 で 示 さ れ る のではないかと考えられ、次に「三代伝持の血脈」主張の意義についてみきたい。 3、 「三代伝持の血脈」主張の意義─法然からの相承と如信への相承 覚 如 の 生 涯 を 通 し た 目 的 が 一 貫 し て 親 鸞 の 位 置 を 確 固 た る も の に 押 し 上 げ る こ と に あ っ た の で あ れ ば、 「 三 代 伝

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持の血脈」 もそれに関連したものであったことになる。 先に触れたように 「三代伝持の血脈」 は、 康永三年 (一三四四) 六十二歳の時に制作された 『口伝鈔』 に至ってはじめて主張されるようになる。 その主張が顕著であるのは 『口伝鈔』 および『改邪鈔』である。これは従来よりあった親鸞顕彰という覚如の基本姿勢に、 法然からの相承および如信へ の相承を加えたものであったと考えられるが、 両書の主張内容を具体的にみていくことで、 以下にその意義を明ら かにしていきたい。 ま ず、 『 口 伝 鈔 』 に は、 冒 頭 に「 本 願 寺 の 鸞 聖 人、 如 信 上 人 に 対 し ま し ま し て、 お り お り の 御 物 語 の 条 々」 ( 四、 二四五)とあるように、 最初に全体の内容そのものがそのまま親鸞自身によって如信に語り伝えられたものである ことを言明している。さらに製作の由来を記した奥書には、 元弘第一之暦[辛未]仲冬下旬之候、 相當祖師聖人[本願寺親鸞]報恩謝徳之七日七夜勤行中、 談話先師[釋 如信]面授口決之專心 ・ 專修 ・ 別發願之次、所奉傳持之祖師聖人之御己證、所奉相承之他力眞宗之肝要、以予 口筆令記之。 (四、 二八五) と あ る。 『 口 伝 鈔 』 と は、 覚 如 自 身 が 如 信 に 直 接 面 会 し、 口 決 相 承 し た 法 語 を 中 心 に 話 し た 内 容 を 記 録 し た も の で あることを詳細に記している。すなわち、 元弘元(一三三一)年十一月下旬、 本願寺において七日七夜にわたって 親 鸞 の 恩 徳 を 報 謝 す る 報 恩 講 が 勤 め ら れ て い た 期 間 中 に、 覚 如 は 親 鸞 か ら 如 信 が 直 接 口 伝 え で 授 け ら れ た 他 力 の 信 ・ 他力の行 ・ 第十八願のいわれを法話し、さらに伝持してきた親鸞の己証や他力真宗の肝要な法義についても合 わせて口述して筆記させたというものである。 この 『口伝鈔』 全二十一章を通した覚如の主張について、 梯實圓氏は 「三代伝持の血脈」 を顕示することにあり、 それによって①浄土の異流である鎮西派 ・ 西山派などに対して、親鸞聖人の法灯が法然聖人の正統であること、② 聖人の直弟の系譜を引く各地の教団に対して如信 ・ 覚如と伝統してきた大谷本願寺が一宗の根本であること、③浄

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「三代伝持の血脈」概観 土真宗の教義の中核は、信心正因 ・ 称名報恩であるというこ と (8 ( 、の三点を明らかにしようとしたもので、①、②は 本願寺教団の正当性を示そうとし、 ③は真宗教義の綱格を確定しようとしたものだと指摘される。梯氏の指摘にあ るように「三代伝持の血脈」の意義はこれらの点にあり、 一々の条をみていくと、 「黒谷」 「源空」などと示される 法然の名は、 第一条、 第九条、 第十条、 第十二条、 第十四条、 第十五条、 第十九条にみられ、 それぞれ略述すれば 以下のようなことが述べられている。 第一条では法然が浄土宗独立に関する件について聖覚に相談する際に使者と して親鸞を選んだこと、 第九条では親鸞が九州から上洛してきた聖光房を法然のもとに案内したとすることが記さ れている。第十条では『往生礼讃』の「世」の一字の省略について法然 ・ 親鸞が一致することから法然の正統を受 け継いているのが親鸞であることを強調し、 第十二条では恵信尼の夢により、 勢至菩薩の化身である法然から観世 音菩薩の化身である親鸞へと直接伝えられた法義こそ真実義であると主張している。また、 第十四条では往生につ いて親鸞と善恵房が議論になった時、 親鸞の主張する不体失往生(平生業成)が本願念仏の教えであるとした法然 の 態 度 を 示 し て い る。 す な わ ち、 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 に よ っ て 述 べ ら れ た 内 容 に は、 法 然 と 親 鸞 と の 直 接 的 な 関 係 性の強いこと、 あるいはその法義理解の一致を繰り返し説示しており、 法然の正統な継承者としての親鸞の位置づ けを明らかにしようとしているとみられる。それは 『口伝鈔』 以前に制作された著作と共通する点でありながらも、 『 口 伝 鈔 』 に お い て は よ り 強 く 示 さ れ て い る と い え る の で は な い だ ろ う か。 ま た、 血 脈 相 承 に つ い て は、 た と え ば 第十五条の「大勢至菩薩化現の聖人より代々血脈相承の正義」として、 海徳仏から釈尊の出世の本意が阿弥陀仏の 教えを説くこと一つを根本とする説示や、 第十九条の「本願寺の聖人、 黒谷の先徳より御相承とて、 如信上人仰せ られていはく」として、 いわゆる悪人正機説を示す点にみることができる。そこには「三代伝持」との語はなくと も、 法然 ・ 親鸞の相承に如信を加えた「三代伝持の血脈」が直接的に顕れているといえるだろう。さらに、 『口伝鈔』 以後の著作にも展開されていく信心正因・称名報恩の説示については、第十六条や第二十一条に詳述されている。

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おおよそ『口伝鈔』ではこのような展開がなされているが、 『慕帰絵』第十巻第一段には、 かの歳序に当て口筆せしめて口伝鈔と題する三帖の文を製作す。これは鸞聖人より随分の稟承、 如信御房受持 の法要たるに依て授与 云々 。 (四、 四一四) とある。ここで明らかになるのは 『口伝鈔』 以前にはなかった如信相承を 「三代伝持の血脈」 として主張すること により、覚如自身の法義相承が浮き彫りにされている点である。それは、覚如の立場からいえば、法然 ・ 親鸞と相 承された法義は如信を通して自身が受け継いだということの表明と言い換えることもできるだろう。すなわち、 親 鸞を顕彰するにあたって自身が正統な立場にあることを示したものと考えられるのである。 この点は次の 『改邪鈔』 においてさらに尖鋭化される。 『改邪鈔』 は、 『口伝鈔』 よりも直接的な文言にて 「三代伝持の血脈」 を示している。 まず、制作の由来を記した奥書をみると、 右此抄者、 祖師本願寺聖人[親鸞] 、 面授口決于先師大網如信法師之正旨、 報土得生之最要也。余、 壯年之往日、 忝 從 受 三 代[ 黒 谷 本 願 寺 大 網 ] 傳 持 之 血 脈 以 降、 鎭 所 蓄 二 尊 興 説 之 目 足 也。 …… 爰 近 曾 號 祖 師 御 門 葉 之 輩 中 構非師傳之今案自義謬黷權化之清流恣稱當教自失誤他 [云々] 太不可然不可不禁遏因茲爲碎彼邪幢而挑厥正燈 録斯名曰改邪鈔而已 (四、 三二七) と 述 べ ら れ て お り、 明 確 に「 三 代[ 黒 谷 本 願 寺 大 網 ] 傳 持 之 血 脈 」 と 記 し て い る。 ま た、 こ こ に は『 改 邪 鈔 』 の 内容が親鸞から如信への口決相承であること、 それは覚如自身が「壮年之往日」に、 法然(黒谷)─親鸞(本願寺) ─如信 (大網) の三代伝持の血脈を相承して以降、 かわらずに蓄えてきたものであることを述べている。ここに 『口 伝鈔』 ・『改邪鈔』両書における覚如の一貫した姿勢が見られるが、 『改邪鈔』において特徴的なのは、 「三代伝持の 血脈」を主張する覚如が、 その立場から親鸞の門流を汲む者の中に、 師伝とは異なる理解を主張して教えを乱す者 が あ る た め に、 邪 義 を 砕 破 し て 正 義 を 顕 彰 す る 点 に あ る。 『 改 邪 鈔 』 に は、 先 の 奥 書 以 外 で「 如 信 」 に つ い て の 記

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「三代伝持の血脈」概観 述はない。すなわち、 覚如が如信より伝え聞いたところを記すのではなく、 如信から伝え聞いた覚如が邪義を破す ことに主眼があるといえる。たとえば、 第一条では「名帳」が所破の対象となっているが、 冒頭に『選択集』の一 文を引用して、 曾 祖 師 黒 谷 の 聖 人 の 御 製 作『 選 択 集 』 に の べ ら る る が ご と く、 「 大 小 乗 の 顕 密 の 諸 宗 に お の お の 師 資 相 承 の 血 脈 あ る が ご と く、 い ま ま た 浄 土 の 一 宗 に お い て、 お な じ く 師 資 相 承 の 血 脈 あ る べ し 」 と[ 云 々] 。 し か れ ば、 血脈をたつる肝要は、 往生浄土の他力の心行を獲得する時節を治定せしめて、 かつは師資の礼をしらしめ、 か つは仏恩を報尽せんがためなり。かの心行を獲得せんこと、 念仏往生の願(第十八願)成就の「信心歓喜乃至 一 念 」 と 等 の 文 を も つ て 依 憑 と す。 こ の ほ か い ま だ き か ず。 「 曾 祖 師   [ 源 空 ]  祖 師   [ 親 鸞 ]  両 師 御 相 伝 の 当教において、 名帳と号してその人数をしるすをもつて往生浄土の指南とし、 仏法伝持の支証とす」といふこ とは、 これおそらくは祖師一流の魔障たるをや。ゆめゆめかの邪義をもつて法流の正義とすべからざるものな り。 (四、 二九九) と 述 べ て い る。 法 然・ 親 鸞 の 教 え と し て「 名 帳 」 を「 往 生 浄 土 の 指 南 」「 仏 法 伝 持 の 支 証 」 と す る こ と を、 覚 如 は 祖師の一流にない邪義として徹底的に批判している。 これは存覚の存在を背後にもつ仏光寺教団に対するものだと 言われるが、 この内容に代表されるように 『改邪鈔』 は正統な立場から批判を展開していく内容をもっている。 また、 第二十条では条目として、 至極末弟の建立の草堂を称して本所とし、 諸国こぞりて崇敬の聖人の御本廟本願寺をば参詣すべからずと諸人 に障礙せしむる、冥加なき企ての事。 (四、 三二六) との内容が掲げられており、 本願寺が 「御本所」 であり、 その他の草堂を 「本所」 と称することについて批判している。 こ の 点 な ど は、 各 地 域 の 門 弟 に 対 し て 中 心 は 本 願 寺 で あ る こ と の 覚 如 の 強 い 意 識 が 見 ら れ る と こ ろ で あ る。 『 改 邪

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鈔』が批判する内容は多岐にわたり、 先行研究においては三、 四に分類され る (9 ( 。おおよそ、 教義(念仏思想) 、 寺院、 門徒の儀式 ・ 風儀などに集約されるようで、覚如はこれらのことについて「三代伝持の血脈」の表明のもとに論述 していくのである。 以 上、 『 口 伝 鈔 』・ 『 改 邪 鈔 』 に お け る「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 に つ い て み て き た が、 本 願 寺 を 中 心 に、 法 然 の 正 統 な 継承者として親鸞を位置づけ、 その教義を明らかにする覚如の意図が窺われる。ただし、 それを主張していくには 主 張 す る 側 に も 正 統 性 が な け れ ば な ら な い。 覚 如 に お い て は 大 谷 廟 堂 の 留 守 職 継 承 権 は 確 立 し て い た が、 親 鸞 か ら の 直 伝 を 称 す る 関 東 の 門 弟 た ち に 対 し て、 法 義 の 伝 統 の 上 で も 正 し き 継 承 者 の 存 在 が 必 要 で あ っ た の で あ ろ う。 そこで覚如が自身の立場に正統性を持たせる論理として「三代伝持の血脈」があり、 それを支える重要な役割が如 信相承にあったものと考えられる。 それでは、 次にその如信について以下に見ていきたい。従来の研究には、 覚如が如信の存在を強調することは不 自然であるとして、 その位置付けが問題視されたこともあった。たとえば、 村上専精 氏 ((1 ( は如信が本願寺の第二代宗 主 と さ れ る こ と に つ い て、 五 つ の 項 目 を 立 て て 疑 問 を 呈 し て い る。 す な わ ち、 ( 1) 如 信 親 鸞 入 滅 の 時 上 京 せ ざ る の疑問、 (2)如信は常に奥州に在て本願寺に居住せざるの疑問、 (3)如信入滅の時本願寺に通知なきの疑問、 (4) 如信本願寺を以て實子に譲らざる疑問、 (5)弘安三年の譲状に覚恵房とあるの疑問、 というものである。そして、 村上氏はこの五つの疑問を挙げた上で、 上述の如く如信上人を以て本願寺の第二世と為す古来の説に就き、 是の如き幾多の疑問ありて、 到底解釈しが たきもの多し。故に上来余の疑問を開陳し、 以て真宗史専門の研究者に対し、 其の解決を求めんとするところ 也。余固より断乎として、 如信は本願寺の第二世にあらずといふ自説と為し、 敢て之を主張せんとするものに あらざる也。

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「三代伝持の血脈」概観 と述べている。しかし、たとえば、重松明久 氏 ((( ( が、 ここにおいて、 覚如がことさらに如信に言及するに至ったのは、 如信が親鸞の血統をひいており、 しかも、 面 授口決の弟子であったこと、 覚如また如信を直接の師としており、 したがって、 親鸞─如信─覚如の継承関係 は、 法脈とともに、 血縁のつながりもあり、 仏光寺系には、 到底このような系譜の優秀さを主張する何物もな いのに対せしめていたのであろう。 と い わ れ る よ う に、 今 日 で は 如 信 の 位 置 付 け に つ い て 覚 如 と 如 信 の 関 係 性 か ら 大 旨 一 致 し た 見 解 が あ る と み ら れ る。そこで、 以下に管見の限り如信についての資料を示して覚如との関係を確認しておきたい。 「三代伝持の血脈」 によって如信相承が強調されるのは覚如六十二歳の時であるが、 それ以前から如信には上洛の記録があり、 覚如と の間にはいくつかの接点がある。 如信は慈信房善鸞の子息として親鸞が六十三歳の時に誕生した。 如信について詳 しく記されるのは、覚如の門弟である乗専が著した『最須敬重絵詞』第一巻第一段で、そこには、 本廟は京都白河大谷にあり、 知恩院の西の邊本願寺これなり。根本の門弟はもはら東國にみち、 枝末の餘塵は やうやく諸邦にをよぶ。面授の弟子おほかりし中に、 奧州東山の如信上人と申人おはしましき。あながちに修 學 を た し な ま ざ れ ば、 ひ ろ く 經 典 を う か ゞ は ず と い へ ど も、 出 要 を も と む る こ ゝ ろ ざ し あ さ か ら ざ る ゆ へ に、 一すぢに聖人の教示を信仰する外に他事なし。これによりて、 幼年の昔より長大の後にいたるまで、 禪床のあ たりをはなれず。學窓の中にちかづき給ければ、 自の望にて開示にあづかり給事も時をえらばず。他のために 設化し給ときも、その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の徳も人にこえ給けり。 (四、 四三二) と記されている。 これにより如信は幼少期より親鸞の膝下において法義を直接に学んだものと考えられている。 ま た、同じく『最須敬重絵詞』第六巻第二十二段に、

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如信上人は奧州大網東山といふ所に居をしめ給けるに、 勸化にしたがふ人國郡にみち、 徳行をあふぐやから遠 近にあまねし。 (四、 四五八) と あ る よ う に、 の ち に は 奥 州 大 網 の 地 に 住 し、 親 鸞 門 弟 の 系 譜 を 示 し た『 親 鸞 聖 人 門 侶 交 名 牒 』( 妙 源 寺 本 ) で は 直 弟 と し て「 奥 州 大 網 住 如 信 」( 『 真 宗 史 料 集 成 』 一、 一 〇 〇 一 ) と 記 さ れ て い る。 如 信 と 覚 如 と の 接 点 は、 ま ず、 現 存 唯 一 の 如 信 自 筆 の 書 状 で あ る 建 治 三 年( 一 二 七 七 ) 十 一 月 一 日 の「 ひ わ 女 預 状 」( 本 願 寺 所 蔵 ) に よ れ ば、 如 信 は 覚 如 の 祖 母 で あ る 覚 信 尼 か ら「 ひ わ 」 と い う 女 性 を 預 か っ た こ と が 知 ら れ る。 如 信 四 十 三 歳、 覚 如 八 歳 の 時 のことである。次に、 より直接的な接点となるのが弘安十年(一二八七) 、 覚如が十八歳の時の出来事である。 『慕 帰絵詞』第三巻第三段によれば、 弘 安 十 年 春 秋 一 八 と い ふ 十 一 月 な か の 九 日 の 夜、 東 山 の 如 信 と 申 し 賢 哲 に あ ひ て 釈 迦・ 弥 陀 の 教 行 を 面 授 し、 他力摂生の信証を口伝す。所謂血脈は叡山黒谷源空聖人、本願寺親鸞聖人二代の嫡資なり。 (四、 三八一) と 記 さ れ て お り、 「 釈 迦・ 弥 陀 の 教 行 を 面 授 し、 他 力 摂 生 の 信 証 を 口 伝 す 」 と あ る こ と か ら、 上 洛 し て き た 如 信 に より覚如は父覚恵とともに他力の法門の伝授を受けたことが知られる。同じ内容は 『最須敬重絵詞』 第四巻第十三 段の図絵について説明をしている指図書に、 如信上人御対面ノ所、 冬、 スヒツニ火ヲコサルヘシ。大谷ノ御房ヲ書テ、 如信上人[六十ハカリ]大上[クヒ タ テ 衣 キ ヌ ノ ス ミ ソ メ ノ 御 ケ サ ] 十 八 歳。 御 対 面 ア リ テ 法 門 御 聴 聞 ノ 儀 ナ リ。 覚 恵 上 人 モ 罪 (ムシクヒ ( 罰 罪 罰 ア ル ヘ シ。 如信上人ト別ノ畳ヲナラヘテ御坐ナリ。 (『大系真宗史料』 [特別巻]絵巻と絵詞、句読点記号付加筆者) と あ る。 こ の 指 図 書 で は、 六 十 歳 ほ ど の 如 信 よ り 十 八 歳 の 覚 如 に 法 門 伝 授 の あ っ た こ と が よ り 具 体 的 に 知 ら れ る。 そして、 これより三年の後、 覚如は覚恵とともに東国の親鸞の遺跡を巡拝した際にも如信と面会している。次に正 応四年(一二九一)制作の如信の寿像(本願寺所蔵)からも、 両者の関係の深さが知られる。すなわち、 そこには

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「三代伝持の血脈」概観 覚如自身による賛銘が記されている。また、 裏書の記述によって、 寿像は如信五十七歳の時のもので、 覚如が正応 四 年( 一 二 九 一 ) に 絵 師 に 描 か せ、 元 亨 三 年( 一 三 二 三 ) に 修 復 し た も の で あ る こ と が わ か る。 さ ら に、 如 信 は 六十六歳にて金沢の地にて示寂するが、 覚如はその後も如信の年忌法要のために、 たびたび東国を訪れるなどして いる。そして、 『口伝鈔』 ・『改邪鈔』において「三代伝持の血脈」の主張を明示した後には、 『改邪鈔』と内容的に 共通し、 仏光寺教団を意識したとみられる「六箇条禁制」を如信の孫である空如と連名で出している。これらの内 容と 『最須敬重絵詞』 や 『常楽台主老衲一期記』 などの記述を参考にして覚如と如信との関係を年表にすれば次頁 のようになる。 その内容から、 大谷の地と如信との関係性は良好であったこと、 覚如は如信から「教行」 「信証」を「面授」 「口 伝」されたこと、 如信の示寂後には覚如は法要をつとめて大網などの由縁ある地をたびたび訪れていたことなどが 知られる。これらの点より 「三代伝持の血脈」 主張以前から覚如にとって如信の存在は特別なものであったと考え られる。また、 『最須敬重絵詞』第六巻第二十二段において如信について詳述した後には、 この上人の弟子またそのかずあり、 東國には數輩にをよぶ。處々の道場をのをの化益をいたす。京都には一人 の尊宿まします、 勘解由小路中納言法印坊[宗昭]これなり。當流傳來の譜系をば今師よりうけ、 親鸞聖人の 遺跡をば先考よりつたへたまへり。これ一流の法將、 當教の名哲なり。初は南京の綱維をへて三笠山の春の花 におもひをそめ、後には西土の行人となりて九品臺の秋の月に心をぞすまされける。 (四、 四三三) と如信の門弟としての覚如について述べられている。そのことは『親鸞聖人門侶交名牒』 (妙源寺本)に、 奥州大網住   如信   親鸞聖人真弟卿公子息也 覚恵   乗善   入善   明教   性信   覚如        自余門弟略也 (『真宗史料集成』一、 一〇一九) とあり、 如信の下に挙がる複数の門弟の中に父覚恵とともに名前が記されていることからもわかる。これらによれ

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ば、両者は師弟と見られるような関係にあったと言うこともできるだろ う ((1 ( 。 以 上、 種 々 の 記 録・ 資 料 を 確 認 し て き た よ う に、 早 く か ら 覚 如 と 如 信 の 関 係 性 は 深 く、 覚 如 に と っ て の 如 信 と は 法 門 伝 授 を 受 け て い る 重 き を 置 く べ き 存 在 で あ っ た。 そ う で あ れ ば、 「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 に よ っ て 示 す 如 信 の 位   〈如信・覚如関係略年表〉 西   暦 元   号 覚   如 事       項           一二七七 建治三 八 如信、覚信尼より﹁ひわ﹂という女性を預かる 一二八七 弘安十 十八 覚如、京都にて如信より覚恵とともに法門の伝授を受ける 一二九〇 正応三 二十一 覚如、覚恵とともに東国巡拝中に善鸞・如信と面会 一二九一 正応四 二十二 覚如、如信の寿像に賛銘を記す 一三一二 正和元 四十三 如信十三回忌覚如、常陸国金沢や大網など巡拝 一三二三 元亨三 五十四 覚如、如信寿像を修復する 一三三一 元弘元 六十二 覚如﹃口伝鈔﹄を口授︵十一月下旬﹁三代伝持の血脈﹂主張︶ 一三三二 元弘二 六十三 如信三十三回忌覚如、東国の遺跡を訪れる 一三三七 建武四 六十八 覚如﹃改邪鈔﹄を口授︵九月二十五日﹁三代伝持の血脈﹂主張︶ 一三四四 康永三 七十五 覚如、空如と連名で六箇条禁制を出す 一三〇〇 正安二 三十一 如 信 示 寂︵一 月 四 日、六 十 六 歳︶ 、覚 如、同 年 の 秋 頃 知 り 中 陰 を 勤 め、後 に 京都にて一周忌・三回忌を勤める

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「三代伝持の血脈」概観 置づけは、 従来より覚如の中にあったものであろうと考えられる。しかし、 それを『口伝鈔』や『改邪鈔』に至っ て明示していったのには、法然との関係性を強調することによって親鸞を顕彰することとともに、その法然 ・ 親鸞 と 相 承 し た 浄 土 真 宗 の 法 義 が 今 日 誰 に よ っ て 継 承 さ れ て い る か と い う こ と を 明 ら か に す る 必 要 が あ っ た か ら で あ ろう。次にそのように主張するに至った背景を確認していきたい。 4、 「三代伝持の血脈」主張の背景─覚如の時代 これまで見てきたように、 覚如は親鸞の遺徳を顕彰し、 本願寺を中心とした教団作りを企図して、 自身に相承さ れた法義を後世に伝えるために生涯力を尽くした。そして 「三代伝持の血脈」 を主張するようになる。この 「三代 伝持の血脈」を主張するのには、 当時の覚如を取り巻く時代状況が背景にあった。覚如の時代に隆盛をほこってい たのは浄土の異流であった。また、 同じ親鸞の教えを汲む流れにおいては、 関東の地には直接教えを受けた門弟が 活躍し、 京都では長子存覚が理論指導者として背後にいたと推測される仏光寺教団が勢いをもっていた。法然─親 鸞─如信という「三代伝持の血脈」を主張していく背景について、 先行研究に論じられているところをまとめると 大きく三つになると考えられ る ((1 ( 。すなわち、 ①浄土の異流の隆盛②真宗門徒の台頭③血脈 ・ 口伝相承の流行である。 ①浄土の異流の隆盛 覚 如 の 時 代 は、 聖 光 房 弁 阿 の 鎮 西 派、 善 恵 房 証 空 の 西 山 派、 礼 阿 然 空 の 一 条 流( 浄 華 院 流 )、 隆 寛 の 長 楽 寺 流、 覚明房長西の九品寺流などの浄土の異流がさかんであったようである。覚如においては、 座視できないような状況 もあったと考えられ、 後に述べるように『口伝鈔』においては直接的な批判を展開しているものもある。そのよう

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な浄土の異流の隆盛が覚如に影響を与え、信心正因 ・ 称名報恩、平生業成の覚如の教学が打ち出されていったと考 え ら れ て い る。 ま た、 長 楽 寺 流 隆 寛 の 門 弟 で あ る 敬 日 房 円 海 の 附 法 慈 信 房 澄 海、 西 山 派 東 山 流 の 学 僧 阿 日 房 彰 空、 幸西の一念義といった覚如の修学過程を挙げて浄土の異流を意識していることも指摘される。 すでに見た覚如の著 作 か ら こ の よ う な 意 図 を 汲 み 取 る こ と が で き、 『 口 伝 鈔 』 の 第 一 条 で は 法 然 が 浄 土 宗 独 立 に 関 す る 件 に つ い て 聖 覚 に相談する際に使者として親鸞を選んだこと、 第九条では九州から上洛してきた聖光房を親鸞が法然のもとに案内 し た こ と が 記 さ れ て い る。 ま た、 第 十 四 条 で は 往 生 に つ い て 親 鸞 と 善 恵 房 証 空 が 議 論 に な っ た 時、 親 鸞 の 主 張 す る 不 体 失 往 生( 平 生 業 成 ) が 本 願 念 仏 の 教 え で あ る と し た 法 然 の 態 度 を 示 し、 第 二 十 一 条 で は 当 時 の 一 念 多 念 の 諍 論 を 批 判 し て 信 心 正 因・ 称 名 報 恩 の 釈 義 を 主 張 し て い る 点 が あ る。 こ の よ う に、 覚 如 は 鎮 西・ 西 山 の 諸 行 往 生・ 臨終来迎、 一多の諍論などの浄土の異流に対して、 親鸞が法然の正統な継承者であることを明らかにしているとみ られるのである。 ②真宗門徒の台頭 まず、直接的には仏光寺教団が挙げられる。真仏から荒木 ・ 阿佐布 ・ 甘縄そして明光の系統をひく仏光寺教団は、 空性房了源によって確立する。覚如は、 了源が本願寺に教えを請いにきた時に存覚に命じて指導にあたらせ、 それ によって存覚は仏光寺教団と密接な関わりもっていくようになる。そして、 同じ京都から教線を広げていき、 大き く発展を遂げていくのである。 これには存覚の存在も影響を与えているといわれる。 仏光寺教団への覚如の意識は す べ て で は な い が、 『 改 邪 鈔 』 全 二 十 箇 条 に お い て 展 開 さ れ る 所 々 の 内 容 に 表 れ て い る。 と く に、 覚 如 が 如 信 の 孫 にあたる空如と連名で康永三年 (一三四四) に出した 「六箇条禁制」 と重複する 『改邪鈔』 第一条の 「一   今案の 自義をもつて名帳と称して、 祖師の一流をみだる事」や第二条の「一   絵系図と号して、 おなじく自義をたつる条、

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「三代伝持の血脈」概観 謂なき事」などは、 痛烈な批難内容であることに加え、 繰り返し提示していることから強い意識をもっていたこと が顕著であるといえる。また、関東の地においては、顕智から専空 ・ 定専と教団組織を形成 ・ 継続していた髙田門 徒および横曽根 ・ 鹿島 ・ 大網などの真宗門徒が活動していた。さらには、覚如は『三河念仏相承日記』にみられる 三河の和田門徒や如道の三門徒、 瓜隆津門徒の愚咄などとも交渉があり、 唯善事件の時に破壊された大谷廟堂の復 興や、覚如の留守職就任に際して活動したのも主に高田 ・ 鹿島 ・ 和田の真宗門徒であった。親鸞示寂の八年後に誕 生し、 親鸞と面授の関係になかった覚如は、 これら真宗門徒に意識を向け、 時には交渉を重ねながら生涯を通して 本願寺を中心とした教団作りを求め続けたのである。 ③口伝相承・血脈重視の傾向 「口伝相承」については、 「三代伝持の血脈」の主張がなされる『口伝鈔』がそもそも如信の口伝相承を根拠とし たものであり、 第十三条では「かの御相承、 その述義を口決の末流、 他にことなるべき条、 傍若無人といひつべし」 と も 述 べ ら れ る。 ま た、 『 改 邪 鈔 』 で は、 第 一 条 で は「 祖 師 の 御 口 伝 に あ ら ざ る と こ ろ 」、 第 二 条 で は「 祖 師 聖 人 御 在 世 の む か し、 ね ん ご ろ に 一 流 を 面 授 口 決 し た て ま つ る 御 門 弟 達 」、 第 十 四 条 で は「 往 生 の 時 節 を 定 め ま し ま す 条、 口 伝 と い ひ 御 釈 と い ひ 顕 然 な り 」、 第 十 八 条 で は「 聖 教 の 施 設 を は な れ 祖 師 の 口 伝 に そ む け り 」 な ど と 述 べ ら れ、 「 口 伝 相 承 」 に 重 き を 置 い て い た 記 述 が 多 く み ら れ る。 ま た「 血 脈 」 に つ い て も、 す で に 見 て き た よ う に『 口 伝鈔』第十五条において説示があり、 存覚の『破邪顕正鈔』の第十六条でも「一   念佛もし往生の業ならば、 みづ か ら こ れ を と な へ ん に 往 生 を う べ し。 あ な が ち に 知 識 を あ ふ い で 師 資 相 承 を た つ べ か ら ざ る よ し の 事 」 と 述 べ て、 師資相承について論じる条で、 この條、 總じて佛法修行の法をみるに、 みな師資相承あり。なんぞ淨土の一家にをいて血脈なからんや(中略)

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いかでか面授の恩徳をわすれ、 いかでか口決の血脈をあふがざらん。しかれば、 黒谷の源空聖人、 淨土宗にを いて師資相承の義あるべきことを判じて、 五祖等の血脈をひかれたり。上古にをいてすでに血脈あり、 末代に いたりなんぞ相承なからんや。 (四、 六一〇) と 示 し て い る。 ま た、 『 存 覚 上 人 袖 日 記 』 や『 親 鸞 聖 人 門 侶 交 名 牒 』 に も 関 連 し た 用 語 が み ら れ、 性 信 を 中 心 と し た横曽根門徒が編集にあたったとみられている『血脈文集』は、 本来、 消息ではない宗祖との関わりを示す内容が 含まれることやその書名から法然・親鸞・性信という血脈を示したものともいわれている。 以上、 覚如における「三代伝持の血脈」主張の背景について確認した。上記の内容に加えてさらに覚如を取り巻 く時代状況として述べておきたいのは、 真宗門徒の教団は法然門下の一流という位置付けにあったが、 一般に知ら れ て い る よ う な 存 在 で は な か っ た と い う こ と で あ る。 そ の こ と は 法 然 の 門 流 を 記 し た 資 料 か ら 知 る こ と が で き る。 法然の門流について記した資料の中に親鸞の名前が出てくるのは、 法然の示寂からだいぶ時間がたってからのこと である。たとえば、法然示寂から四十五年後に制作された『私聚百因縁集』 (正嘉元年 ・ 一二五七) 、また四十七年 後の『一代五時図』 (正元元年 ・ 一二五九)や九十九年後の『浄土源流章』 (応長元年 ・ 一三一一)には、 幸西 ・ 聖光 ・ 隆寛 ・ 証空 ・ 長西などの名前は見られるが、親鸞はもちろんその門流は示されていない。法然門下の一流として親 鸞 の 名 前 が み ら れ る の は、 さ ら に 時 代 が 下 っ た 永 和 四 年( 一 三 七 八 ) に 制 作 さ れ た『 法 水 分 流 記 』 で、 そ こ に 史 上 は じ め て「 大 谷 門 徒 号 一 向 宗 」 と し て 親 鸞 の 門 流 が み ら れ る。 覚 如 の 示 寂 が 正 平 六 年( 一 三 五 一 ) で あ る か ら、 その在世中の記録には法然門下の一流として親鸞の名が見られないことになる。すなわち、 覚如の時代には法然か ら親鸞へと受け継がれた一流が、 必ずしも法然の門流として周知されていたわけではなかったと考えられるのであ る。覚如が生涯を通して行った親鸞の遺徳の顕彰は、 その示寂後から約三十年たってようやく形となって見られる ようになることとなる。このような状況下にあったため、 覚如の著作には、 法然と親鸞との教義の一貫性や浄土の

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「三代伝持の血脈」概観 異流に対した記述が随所にみられる。また、 浄土異流という対外的な点だけでなく、 同じ親鸞の教えを引き継ぐ対 内的な真宗門徒にも覚如の主張は向けられていたのであり、 それが「三代伝持の血脈」として顕れたものと考えら れる。 5、おわりに 覚如の時代では管見の限りにおいて、 法然門流の中で親鸞の系譜以外には親鸞について記された資料は一つもな い。 その点からいえば当時の法然門流の中では、 覚如ほど親鸞を法然の正当な継承者として顕彰した人物はおらず、 今日まで継承される親鸞を中心とした浄土真宗の法統の源流は、 覚如の尽力にあるということもできるのではない だ ろ う か。 そ し て、 覚 如 が そ の こ と を 主 張 す る た め に 構 築 し た 論 理 が「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 だ っ た の で あ る。 ま た、 この論理を具体化したのが、 覚如の著作群であった。すでに見てきたように、 『報恩講私記』は親鸞の顕彰を、 『拾 遺 古 徳 伝 』 は 法 然 と の 関 係 性 を、 『 口 伝 鈔 』 は 如 信 の 相 承 を 言 説 す る も の で あ っ た。 覚 如 は、 親 鸞 の 位 置 づ け が 明 確でない時代状況の中で「三代伝持の血脈」により、 法然の正しい法義の伝承は親鸞においてなされ、 如信をとお して自身に伝授されたことを明示した。その主張によって、 本願寺を中心とした真宗教団の確立を目指し、 後世に 親 鸞 の 教 え を 護 り 伝 え て い く 基 盤 を 作 っ た と い え る だ ろ う。 そ こ に 今 日 に お い て も 色 褪 せ な い「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 主張の大いなる意義がある。覚如によって明らかにされた浄土真宗の伝統と系譜は、 幾多の時代を超えて今日まで 絶えることなく受け継がれ、これからも次代へと継承していくものである。

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【註】 (1) 『岩波仏教辞典』第二版(二〇〇二年発行) (2) 『望月仏教大辞典』 (一九五八年増訂再版発行) (3) 「三代伝持の血脈」 については、 覚如の教学理解や時代背景などを踏まえて論じたものがすでに多くある。 代表的なものを挙げれば、 普賢晃壽氏 『中世真宗思想の展開』 (一九九四年発行) 第二章 「覚如教学の特色」 、梯實圓氏 「覚如教学の特色 (講演) 」( 『龍谷教学』 第 三 十 六 号、 二 〇 〇 一 年 発 行 )、 重 松 明 久 氏『 覚 如 』( 一 九 六 四 年 発 行 ) な ど で あ り、 本 稿 に お い て も こ れ ら の 先 行 研 究 に 依 る と ころが大きい。 (4) (    )内の漢数字は、とくにことわらなければ『浄土真宗聖典全書』の巻数と頁数を示す。 (5) 『真宗重宝聚英』 (一九八八年発行)第六巻 「総説 拾遺古徳伝絵」参照。 (6) 『教行信証大意』 の撰述者には覚如説 ・ 存覚説があって未詳であるが、 嘉暦三年 (一三二八) の十一月二十八日制作と考えられている。 そのため、仮に覚如説に従うとしてもこの空白期間ではなく、 『執持鈔』から二年後の制作となる。 (7) こ の よ う な 善 知 識 の 強 調 に つ い て、 村 上 速 水 氏( 「 覚 如 教 学 の 基 本 姿 勢 と 親 鸞 の 立 場 」〈 『 続・ 親 鸞 教 義 の 研 究( 一 九 八 九 年 発 行 )』 所収〉 )は こ こ に 一 宗 を 開 創 す る 意 志 を も た ず、 ひ た す ら 聞 法 の 姿 勢 に 終 始 し た 親 鸞 と、 教 団 の 確 立 を 企 図 し、 各 地 に 分 立 し た 門 徒 を 統 一 し て、 自 ら 宗 主 と な ろ う と し た 覚 如 の 姿 勢 と の、 根 本 的 な 相 違 が あ る。 そ れ は 覚 如 が 親 鸞 の 同 朋 主 義 を 吹 聴 し、 弟 子 の 争奪をいましめながら、反面において如信からの口伝を強調し、 「師伝口業をもって最とす」といい、しきりに善知識による べきことを主張することと無関係ではない。 と親鸞と覚如の姿勢の比較から、教団の確立・統一の意図と無関係ではないとされる。 (8) 梯實圓氏( 『口伝鈔セミナー』 、二〇一〇年発行) (9) 重 松 明 久 氏( 『 中 世 真 宗 思 想 の 研 究 』、 一 九 七 三 年 発 行 ) は「 大 別 し て 四 部 門 と な し う る( イ ) 対 寺 院 観( ロ ) 門 徒 間 の 風 儀・ 言 語 に つ い て( ハ ) 知 識 観( ニ ) 念 仏 思 想、 以 上 の 四 方 面 の こ と に 言 及 し て い る 」 と 述 べ て 四 分 類 し、 普 賢 晃 壽 氏( 『 中 世 真 宗 教 学 の 展 開 』) は「 い ま『 改 邪 鈔 』 を 見 る に 学 者 も 指 摘 す る 如 く、 ① 教 義 に 関 す る も の ② 寺 院 に 関 す る も の ③ 門 徒 の 儀 式、 風 儀 等 に 関 するもの等に分けられている」としている。 ( 10) 村上専精氏『増訂 真宗全史』 (一九二二年発行) 。また、村上氏は如信が本願寺の第二代宗主とされる理由を、 初 代 の 留 守 職 は 覚 信 尼 な る と 共 に、 二 代 目 の 留 守 職 は 覚 恵 な る と、 亦 前 述 せ る と こ ろ に 於 て 已 に 明 か な り。 三 代 目 の 留 守 職

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「三代伝持の血脈」概観 が 覚 如 な る に 於 て は、 固 よ り 異 論 あ る と な し。 さ れ ば 覚 如 は 故 聖 人 よ り 数 ふ れ ば 第 三 世 に 非 ず し て 第 四 世 に 位 す、 然 る に 古 来 覚 信・ 覚 恵 の 二 人 を 除 き、 善 鸞 系 の 如 信 を 以 て 第 二 世 と 為 し、 覚 如 を 第 三 世 と 為 す も の は、 畢 竟 男 系 を 重 ん ず る 所 よ り 来 れるものならん。 と 男 系 で あ る こ と と し て い る。 こ の 説 に 対 し て 今 井 雅 晴 氏( 『 親 鸞 と 如 信 』、 二 〇 〇 八 年 発 行 ) は 異 な る 見 解 を 示 し て「 鎌 倉 時 代 に は 女 性 の 仏 教 指 導 者 も 存 在 し て い ま し た。 た と え ば 鎌 倉 東 慶 寺 の 開 山 は 覚 山 志 道 尼 で す。 真 宗 で も、 二 十 余 輩 第 一 坂 東 報 恩 寺 の 二 祖 は 性 智 尼 で す。 『 親 鸞 聖 人 門 侶 交 名 牒 』 を 見 れ ば、 他 に も 真 宗 の 尼 の 名 を 見 出 す こ と が で き ま す。 お そ ら く 覚 信 尼 が 正 式 に 出 家 し て い る か、 覚 恵 が 親 鸞 の 正 式 の 門 弟 に な っ て い れ ば 問 題 は な か っ た の で は な い か、 と 私 は 考 え て い ま す。 し か し そ う で は あ り ま せ ん で し た。 男 系・ 女 系 と い う よ り も、 覚 如 が 親 鸞 か ら 正 し い 教 え が 伝 わ っ て い る、 と 誰 に で も 認 め さ せ る こ と の で き る 親族として注目したのが如信だったのです。 」と述べている。 ( 11) 松 氏『 覚 如 』。 他 に も 重 松 氏 は、 如 信 と 覚 如 の 関 係 事 項 を 示 し た 上 で「 覚 如 の 如 信 へ の 傾 倒 を 察 す べ き で あ る 」( 『 中 世 真 宗 思 想 の 研 究 』、 一 九 七 三 年 発 行 ) と 言 わ れ る。 ま た 村 上 氏 の 説( 註 の( 10) を 参 照 ) を 挙 げ て「 し か し 論 拠 は 薄 弱 で あ り、 如 信 の 地 位 はやはり高かったと思う」 (『中世真宗思想の研究』 )とも述べている。 『増補改訂 本願寺史』 (二〇一〇年発行)第一巻では、如信 の 寿 像 に 覚 如 が 賛 銘 を 記 し て い る こ と に つ い て「 覚 如 宗 主 は こ の と き 二 十 二 歳 で あ り、 〈 三 代 伝 持 〉 の 主 張 が 展 開 さ れ る ま で に は か な り の 間 が あ る が、 み ず か ら 賛 を 記 し た と い う こ と は、 覚 如 宗 主 が は や く か ら 如 信 宗 主 の こ と を 特 別 な 存 在 と 見 て い た と い う こ と で あ ろ う。 」 と 指 摘 し て お り、 覚 如 に と っ て 如 信 の 位 置 付 け は「 三 代 伝 持 の 血 脈 」 主 張 以 前 か ら 明 確 な も の が あ っ た と 考 え ら れる。 ( 12) 存 覚 上 人 袖 日 記 』 に は、 当 時 の 真 宗 教 団 に お け る 名 号 本 尊 や 光 明 本、 高 僧・ 先 徳 像、 あ る い は 存 覚 自 身 が 聞 見 し た 本 尊・ 影 像 類 が多数記されているが、その中には如信の名が見られるものも数点ある。 ( 13) ①②については山上正尊氏 「覚如上人と浄土異流に就いて」 (『無尽灯』 第二十二巻   第四 ・ 第五号、 一九一七年発行) 、普賢晃壽氏 『中 世真宗思想の展開』 第二章 「覚如教学の特色」 第一節 「覚如教学と時代背景」 、梯實圓氏 「覚如教学の特色」 ・「『改邪鈔』 と存覚上人」 (『行 信学報』通巻八号、 一九九五年発行) 、 重松明久氏『覚如』 、 ③については、 細川行信氏「三代伝持考」 (『親鸞教学』 52、 一九八八 年 発 行 )、 宮 崎 圓 遵 氏「 本 願 寺 蔵 善 導 源 空 親 鸞 三 祖 像 に つ い て 」( 『 仏 教 私 学 論 集 本 博 士 頌 寿 記 念 』 一 九 六 一 年 発 行 )、 『 増 補 改 訂 本願寺史』第一巻、重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』 (一九六四年発行)を参照。

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【キーワード】   三代伝持の血脈   如信   覚如

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