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梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(六)

土 屋 育 子

本訳注は、『舞台生活四十年 梅蘭芳回憶録』(梅蘭芳述 許姫伝・許源来・ 朱家溍記 上下2冊 北京・団結出版社 2006)を底本とし、適宜旧版(中国 戯劇出版社 1987)を参照した。訳注の作成における参考文献については、末 尾にまとめて記した。本文中の注は、原注を〔 〕、訳注を( )で示し、脚 注はすべて訳注である。また、これまでに公表した該書の訳注を示す場合は、 『訳注( )』(括弧内は漢数字)と省略する。本訳注では、第一集第十章一か ら四までを訳出した。なお、訳文のチェックは、東北大学大学院文学研究科修 士課程 1 年室貴明氏にご協力いただいた。 第十章 重要なキーポイント 一 初めての上海 梅先生は馬神廟の王鳳卿1の家で、彼らが初めて上海へ行ったときの様子に ついて話し始めた。帰宅してすぐ、彼は私に「私にとって初めての上海公演 は、私の演劇人生において重要なキーポイントとなった出来事ですから、詳し く話さなければなりません。今晩は私にゆっくり思い出させて下さい。明日詳 しく話します。」 明くる日の午後、彼はまず友人のところから古い戯単(プログラム)をも らってきた。そして、ジャスミン茶を淹れ、ソファに腰掛けると、彼の奮闘の 歴史を語り始めた。 「民国二年(1913)の秋に」と梅先生は言った。「上海丹桂第一台2の許少卿 1 王鳳卿(1883-1959)、名祥臻、一名奉卿、字仁斎。北京人、原籍江蘇清江。 王瑶卿の弟で、鳳二爺とも呼ばれる。有名な老生役者(立ち役)。 2イギリス租界四馬路大新街口(今福州路湖北路口)にあった劇場。1910 年義記 公司の許少卿が創設した。

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が役者を招聘するために北京にやってきました。そして、鳳二爺〔王鳳卿〕と 私の二人と契約を結びました。鳳二卿が主演で、私は助演でした。鳳二爺の出 演料は毎月三千二百元、私はたった一千八百元でした。正直に言うと、そのと き許少卿の私の芸術に対する評価は、そう高くはありませんでした。あとに なって鳳二爺が私に教えてくれたことによれば、許少卿は私の出演料を、はじ め一千四百元しか出すつもりがなかったのですが、鳳二爺は金額が少なすぎる と考え、再三わたしのために一千八百元に引き上げるよう要求してくれたので す。許少卿がそれでも躊躇するので、とうとう鳳二爺が“もしもこの金額を出 し惜しみするというなら、私の出演料の中から、四百元を融通してください” と言ったのです。許少卿はメンツを立てねばならぬと感じ、やっとこの金額で 了承したのです。」 「あのころわれわれ北京在住の者が上海に行くのは、遠出をする感覚でし た。簡単なことでなく、大したことのように思われていました。まず長い日数 をかけて計画を立てなくてはなりません。例えば、衣裳や道具を増やし、結構 いい新しい服を作り、また蜜漬け、桃の果実の砂糖漬け、スモモの砂糖漬け、 茯苓餅(ブクリョウの粉末を混ぜ込んだ白い薄焼きのせんべいに似た菓子)な ど北京みやげの贈り物を買わなければなりません。一ヵ月あまりかかって、 やっと出発することができました。鳳二爺は二人の子ども〔少卿・幼卿〕を連 れ、船で先に向かいました。」 「私はその時すでに二十歳になっていましたが、まだ北京の街を離れたこと はなかったので、一人で遠出をするのは、家族がとても心配しました。相談の 結果、伯母に附いてきてもらうことにしました。茹莱卿3先生が京胡の伴奏を 担当していたので、彼を欠くことはできません。そのほか私の床山・着付けを 担当していた韓師父〔韓佩亭のこと。彼は梅先生に二十数年間従った。業界で は床山・着付けを担当する人はみな師父と呼ばれた〕を連れていきました。付 き人の‘聾子’〔宋順〕と大李〔以前梅雨田4の車夫であった〕は、許少卿が 私たちにつきそわせて列車で南下させました。」 「当時津浦路5は汽車が走るようになったばかりでした。浦口に着いて、鉄 3 茹莱卿(1864-1923)梅蘭芳恩師一人。『訳注(続)』既出。 4 梅雨田(1869-1914)、梅蘭芳伯父(父梅竹芬兄)。京劇京胡(胡弓一種京劇 の伴奏に使われる)演奏者。 5 津浦鉄路のこと。天津から南京浦口。1912 年全線開通。

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道管理局が用意した旅客用の汽船に乗り、長江を渡ると、下関で沪寧列車6 乗り換えて上海北駅に到着しました。丹桂第一台のほうから待合室に人をよこ していて、私たちは劇場が用意した馬車に乗って、まっすぐ望平街平安里の許 少卿の家にたどり着きました。」 〔原注〕ここでひとつのエピソードを付け加えたい。今年の秋、私は梅先生 と一緒に北へ向かった。連絡船の機械が故障したので、別の汽船に乗り換え た。私たちは手荷物をいくつか持って、荷物持ちの人を捜していると、一人 の従業員がやってきて梅先生に声を掛け、丁寧に私たちの荷物の世話をして くれた。同時に彼は梅先生に自己紹介をした。「私はこの船で仕事をしてほ ぼ四十年になります。あなたが初めて南にいらしたとき、この船にお乗りに なりました。今日思いがけないことにまたあなたにお会いすることができま した。わたしのことを覚えていらっしゃいますか。」梅先生は言った。「もち ろん覚えていますよ。当時私はいつもこの路線を通りました。連絡船が無い ころでしたから、わたしたちは必ず顔を合わせていましたね。」梅先生はま た彼の肩を叩きながら言った。「私たちは昔からの友人ですよ。」その古い友 人は非常に感動したようで、「この三十数年間、大きく変わりましたよ。で もあなたは歳を取ったようには見えませんね。」梅先生は長江の水を指さし ながら、「光陰矢の如し、長江の水と同じように、昼も夜も休むことなくずっ と流れ続けています。私も初めてあなたに会ったときに比べると、すっかり 歳を取りました。」これはとても偶然のことであった。 「そこは、2階の部屋が3間、階下の部屋が3間、両側に部屋のある上海式 の住宅でした。鳳二爺は2階の客室、私は階下の一室に滞在し、許少卿自身は 私の向かいの一室に住むことにしました。彼は家族の何人かを別のところへ引 越しさせ、部屋を融通して私たちを滞在させてくれたのです。」 「客室の内部は、お決まりのマホガニーの家具が置かれていました。その中 にマホガニーの八仙卓(大きな正方形のテーブル。一辺に二人ずつ、計八人 が掛けられるところからこう呼ぶ)が二つあり、上の長いテーブルには江西の 6 上海南京鉄道路線。1908 年全線開通。下関駅南京市下関区にあった 今の南京西駅。

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景徳鎮で焼かれた福禄寿三人の福の神が並べられていました。それから、朱漆 に金蒔絵を施した神棚があり、福の神が守財童子を伴って中に鎮座し、長い間 線香のお供えを静かに受けていました。この家の主人が事業に失敗して財産を 使い果たすまで、福の神の任務は続くのでしょう。両側の壁には名家の書画が 掛けられていました。最も頭を悩ませたのは白檀のお香で、黒い煙が立ち籠め て、家に入るとまるで廟に来たみたいでしたが、この家の人々はこの種のお祈 りが仕事に対して影響したり加護があったりすると信じていました。」 「食事の面では、許家の使用人が私たちのために料理を作ってくれました。 彼女の作る青魚の姿煮と味噌炒めは、本当に素晴らしいものでした。これは私 にとって初めて味わう南方料理でした。朝には点心(軽食の類)を食べ、麺類 の店でスープ入りの肉まんや肉入り麺を食べることもありました。」 「当時、人を訪問するという習慣は、まだあまり一般的ではありませんでし た。社会的にいうところの‘聞人(名士)’と‘大亨(顔役)’も、後の時代ほど 多くありませんでした。鳳二爺は私を連れていくつかの新聞社へ行き、『時報』7 を取り仕切る狄平子8、『申報』9の史量才10、『新聞報』11の汪漢渓12のところだけ 訪問しました。狄先生は北京に来たことがあり、もともと鳳二爺と交流があっ たので、ほかの二人は彼が紹介してくれたのです。私たちはこのほか、呉昌 7 『時報』:1904 年 6 月 12 日上海創刊された新聞。創刊者狄楚青(狄平子)。康有為、 梁啓超の資金援助を得て、君主立憲制、民族の商工業の発展を提唱したことで、大いに 部数を伸ばした。辛亥革命後、康、梁が“保皇党”と見なされたため、徐々に人気を 失った。 8 狄楚青(1873-1941)、別名狄平子、江蘇溧陽人。若くして挙人となりのち日本 に留学。康有為の弟子。康有為・梁啓超の援助を得て、時報を創刊する。 9 『申報』:1872 年 4 月、イギリス商人エルネストメイジャーによって創刊された新聞。 10 史量才(1880-1934)、名家修、江蘇南京人。1912 年、申報社長となる。1934 年、 国民党の特務によって暗殺された。 11 『新聞報』1893 年創刊された新聞。1899 年、南洋公学監院アメリカ人牧師福

開森(John Calvin Ferguson)が買い取り、汪漢渓に経営を委任した

12 汪漢渓(1874-1924)、字竜標、浙江温州人。

13 呉昌碩(1844-1927)、原名俊、字昌碩のほか、蒼石、倉石など。清末から民国

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碩13、况夔笙14、朱古微15、趙竹君16など多くの文芸界の友人と知り合いになり ました。崑曲の大先輩、兪粟廬17、徐凌雲18もみな同席してお会いしました。 そのほか‘久記’と‘雅歌集’という 2 つの古くからある票房(京劇のアマ チュアが集まる場所)も訪問しました。当時のアマチュアの活動は、素人出演 やチャリティー公演などをよく行っていましたが、後の時代のように大規模な 組織ではなく、参加していた人数も今ほど多くありませんでした。ですから、 私たちのつきあいもそれほど忙しくありませんでした。」 二 楊家での堂会 「劇場での初演を前にして、金融界の楊蔭蓀という方が、人に頼んで鳳二爺 を訪ねてきて、彼の結婚式の堂会(個人の邸で行う演芸会)で「武家坡」19 演じてほしいと頼んできました。楊家が交渉人として依頼した人は私たちの古 い友人でしたので、人情として断ることができず、引き受けてしまいました。」 「劇場の支配人である許少卿はこの話を聞いて、すぐにやめさせようとしま した。彼が言った理由はこうでした。新参の役者が劇場での初お目見えの前 に別の場所で演じてはならない。万一失敗したら、彼は非常に大きな損失を被 る、だから強く反対する、と断固とした態度でした。その一方で、私たちはす でに楊家に承知する返事をしていたので、信頼関係を失わないように、必ず公 演を行わなければなりません。そのため双方の意見は一致せず、膠着状態にな 14 况周頤(1859-1926)、清末官員、詞人。原名周儀であったが、宣統帝溥儀 避けて周頤と改名した。字は夔笙、広西臨桂の人。光緒五年(1879)の挙人。民国に 入ってからは上海に居住した。 15 朱 祖 謀(1857-1931)、 原 名孝 臧、 字生、 古 微、 浙 江 呉 江人。 光 緒 九 年 (1883)進士となり、官は礼部右侍郎に至る。辛亥革命後は上海に隠居した。 16 趙鳳昌(1856-1938)、字竹君、晩年惜陰老人、常州武進人。張之洞幕僚 を務め、「民国諸葛」などと呼ばれた。 17 兪粟廬(1847-1930)、清代崑曲研究家。名宗海、娄県人。小生役者兪振飛 父。『訳注(四)』に既出。 18 徐凌雲(1886-1966)、崑曲研究家。字文傑、浙江海寧人。 19 武家坡:演目名。薛平貴十数年ぶりに故郷、川くで王宝釧出会 う。武人の男が夫だと気づかない王宝釧は、不審に思って家に戻り、かんぬきを掛けて 外の様子をうかがう。薛平貴がこれまでの経緯を話したので、王宝釧は扉を開け、二人 はめでたく再会する。

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りました。」 「結局、楊家が人に頼んで許少卿に対して、もしも新参の役者が今回の堂会 で失敗して、劇場の営業に影響を与えることがあれば、その場合の救済方法を 考えていると次のように示しました。経済力のある商工業界の人びと、及び観 客の所謂“公館派”の人たちが合同で一週間貸し切りをして、損が出ないよう にする、というものでした。しかも堂会では、丹桂第一台の人員に手伝っても らうという好条件も出して許少卿を言いくるめ、無理矢理彼の同意を取り付け ました。」 「この一連のトラブルで、私は劇場の支配人が我々の芸術に対して全く信頼 を置いていないのだと感じました。鳳二爺はすでに芸術上の地位と名誉を得て いますが、私はまだ観客に認められていない若輩者です。今回の堂会は私の将 来に大きな影響を与えるものでした。失敗して北京に戻れば、おそらく鳴かず 飛ばずのまま意気消沈してしまうことでしょう。私はこういった暗い話をたく さん見聞きしてきました。正直に言えば、最初の晩は熟睡できなかったほどで す。二日目の朝起きると一番に鳳二爺にこう言いました。」 「“今晩は私たちが上海の観客に初めてお目見えします。精神を集中させてこ の演目を演じて、公正な判断をする観衆に評価してもらえば、私たちを軽んじ ている支配人に私たちの腕前を知らしめることができるでしょう。” “そのとおりだよ。”鳳二爺は笑いながら言いました。“きみ、恐れることは ないし、硬くなることはない、きっとうまくいくよ。”彼はこう言って私を勇 気づけてくれました。」 「許少卿が間に割って入って邪魔をしても、楊家が私たちを信頼しつづけ、 なんとしても演じてもらいたいという姿勢を崩さなかったことは、私たちを とても満足させました。すぐに私たちの演目をプログラムの一番最後に置きま した。そして事前に、また口頭でも親戚や友人たちに精一杯宣伝してくれまし た。」 「堂会の場所は張家花園20でした。面積はとても広く、前門は静安寺路に面 20 張園ともいうかつての共同租界にあった庭園。麦特赫威嚇司脱路(今泰興路) の南通りにあった。もともとは西洋人格龍(格農にも作る)の別荘であったが、光緒 8 (1882)年、無錫出身の豪商張叔和(張鴻禄 1850-1919)が買い取り庭園内を整備し た。味蒓園と命名されたが、俗に張家花園、張園とも呼ばれた。1918 年ごろまで、上海 の三大個人名園の一つとして大いに賑わったという。

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し、後門は威海衛路に面していて、個人が造営した庭園でした。園内には‘安 塏第’と‘海天深処’という二つの休憩所があり、どちらも茶座を並べていま した。春や秋の気候のよいときには、男女の観光客が‘亨司美’の馬車で張園 の中を回ったものですが、当時としてはハイカラなことでした。私の友人も上 海に初めて来た私につき合って何度か一緒にぶらぶらしてくれたことがありま した。‘安塏第’の中には大ホールがあって、園主の張叔和とつきあいがあれ ば、結婚式の式場として使うことも出来ました。」 「楊家は上海での交友範囲が広く、その日は男女の祝い客も多く来ていまし た。男性は長衣に短い上着を着て、女性は中国式マントに紅いスカートをまと い、頭には真珠や紅いビロードで出来た髪飾りを付けて、みな喜ばしい雰囲気 にあふれていました。私たちは式場に入り、まず主人に向かってお祝いを申し 上げました。彼らは酒席を準備して私たちをもてなしてくれ、食事の後、楽屋 に入って支度をしました。」 「「武家坡」は北京で演じ慣れた演目で、鳳二爺と何度も共演したことがあり ました。ですから上演前、私は落ち着くことが出来ましたし、決して慌てるこ ともありませんでした。揚げ幕が掲げられると、観客席からはすぐに満場の喝 采があがりました。私が唱った【西皮慢板】21と掛け合いの【快板】、いずれ も喝采の声がありました。身振りについても、観客は細かくみていて、貧しい 家(原文は窑。洞穴式住居)を出はいりする所作も喝采を浴びました。観客は 私という見慣れない役者に対して、とても注目していると感じました。」 「鳳二爺の唱は、言うまでもなく、私以上に観客に歓迎されていました。彼 が家の外で唱う【大段西皮】は、昔の歌詞なのですが、薛平貴が王宝釧と別 れてから、西涼にたどり着くまでを語ります。譚派の歌詞では薛平貴が西涼に 着いた後のことまでも唱ってしまうのですが、それは後で夫婦が顔を会わせて からたくさんの対話があるのですが、それとしっくりしません。家の外で夫が 唱っていた長い歌詞を王宝釧が聞いていなかったかのようになりますが、実際 には彼女は家の中で座って彼の唱を聞いているのです。こういうことですか ら、私はいつも昔の歌詞もかなり合理的であると考えています。」 「「武家坡」の上演は円満に終わったと言えるでしょう。そのとき上海の新聞 21 「西皮」、「二簧」とともに京劇二大曲調。「慢板」「快板」「西皮」 中の節回しの名。あとに言及される「大段西皮」なども同じ。

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では劇評というのは、まだ一般的ではありませんでした。この多くの観客たち の口コミというのが、彼らが持っている力なのです。私が後に劇場で上演した ときの客入りは、多くがこの堂会での評判に影響を受けたものでした。」 三 お目見え興行初日 「当時、丹桂第一台は四馬路大新街口にありました。のちにこの劇場は取り 壊され、新しく商店が建てられました。現在その跡地に、当時の面影を認める ことは全く出来ません。」 「最初の三日間の出し物について、私たちは次のように決めました。一日目 は「彩楼配」22「朱砂痣」23、二日目は「玉堂春」24「取成都」25、三日目は「武 家坡」です。楽隊については、私は胡弓伴奏の茹先生とだけ契約し、板鼓26 当は連れてきていませんでした。鳳二爺は胡弓の田宝林と、板鼓の杭子和と契 約していました。私はいくつかの演目で杭子和に板鼓を打ってもらいました。 そのころの慣習では、のちの旅行劇団のような、大規模な組織で大ドラ、小ド ラ、月琴、弦子すべての楽隊を連れて行く、ということはありませんでした。 なぜなら出し物はみな人口に膾炙しているおなじみのもので、曲も比較的単純 で、いずれにしても大枠から外れることはないので、板鼓を打つのも胡弓を弾 くのも誰にでも出来たのです。ですから出張旅行の公演は非常に簡単でした。 22 彩楼配:演目名。唐丞相王允三女宝釧、彩楼から婿選びのくす玉投げをす る。彼女は、薛平貴が貧しいながらも志が高いのを見込んで、くす玉を平貴に与える。 23 朱砂痣:演目名。韓廷鳳東平刺史転任する際、金兵、妻鄭氏 印と生き別れとなる。韓が呉恵泉の妻を娶ろうとすると、彼女は貧しさ故に売られたと 話す。韓は憐れんで彼女を夫の元へ返してやった。呉夫婦は感謝して、韓に子がないの をみて、代わりに子どもを買って連れてくる。韓がその子に生い立ちを尋ねると、なん と生き別れになっていたわが子の玉印であった。 24 玉堂春:演目名。妓女蘇三太原護送され、審問けることになるが、審問官 の一人はかつての恋人王金龍であった。王金龍は蘇三を尋問するに忍びず、潘必正と劉 秉義に任せる。蘇三の話から冤罪が明らかとなり、晴れて蘇三と王の二人は団円する。 25 取成都:演目名。『三国志演義』第六十五回にもとづく。西川劉璋劉備攻撃 け、張魯からの援軍馬超は劉備に降ってしまう。劉璋が臣下に降伏を打診すると、王累 は諫言して自殺する。降伏の日、劉璋は劉備を詰問するものの、諸葛亮に丸め込まれ、 益州牧の官職を与えられる。 26 京劇伴奏楽器。片面にのみった太鼓。

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支出も抑えることができ、食事や宿舎の問題も、容易に解決しました。」 「丹桂第一台の主要俳優は、みな素晴らしい役者でした。武生(立ち回りを する男役)には蓋叫天27、楊瑞亭、張徳俊がいました。老生(立ち役)は小楊 月楼28、八歳紅〔劉漢臣のこと〕29、でした。さらに双処〔原名は闊亭〕は有名 な孫派老生で、声が明るく広く、出し物の種類も豊富でした。残念なことに当 時彼の視力はすでにかなり悪くなっていて、表情を作る際に影響が出ていたた め、いつも最初のほうで唱を唱っていました。花臉(隈取りを施す男役)には 劉寿峰、郎徳山30、馮志奎31がいました。小生(若い男役)には朱素雲32、陳 嘉祥がいました。陳嘉祥は私の祖母のきょうだいの子で、私の崑曲の笛を担当 した陳嘉梁の兄弟です。花旦(活発な若い女役)には粉菊花〔高秋顰のこと〕、 月月紅33がいました。多士済々、何でもござれで、もともと大変整った劇団 だったのです。ですから許少卿は私たち二人とだけ契約し、そのあとで、彼の ほうでは人員がそろっているから、演目の割り振りに困難が生じないようにほ かの人を連れてくる必要はない、と言っていました。」 「民国二年十一月四日〔旧暦十月初七日〕は私たちの劇場での上演初日でし た。私たちが初めて楽屋に入ったとき、慣例通り支配人が私たちに付き添い、 劇団の俳優たちそれぞれに紹介してくれました。私には階上に化粧室をあて がってくれ、鳳二爺は楽屋の賬桌(テーブルの一種)で支度をしました。」 「昔の楽屋のしきたりは、大変封建的でした。この賬桌について言えば、老 27 蓋叫天:(1888-1970)京劇武生役者。本名張英傑、号燕南。河北省高陽県人。 28 小楊月楼(1900-1947)、原名楊慧儂。父楊天宝杭州・嘉興・湖州著名京劇 生役者。1909 年、許少卿の招きを受けて上海で初公演を行い、その際、楊月楼(著名な 老生役者)にあやかって芸名を小楊月楼に改名した。1914 年、喉を悪くして、旦角役者 (女役)に転向した。 29 劉漢臣(1902-1927)、京劇老生役者。直隷故城県 ( 今河北省衡水市 )人。 30 郎徳山(1867-1917)、京劇浄角役者(隈取りを役柄)。 31 馮志奎(1860-1930?)、京劇浄角役者、北京人。幼いとき北京勝春奎科班(旧制 の俳優養成所)で修業した。光緒(1875-1908)の初年天津から上海に移り、上海を中 心に活躍した。 32 朱素雲(1872-1930)、名、字舫仙、号紉秋。原籍江蘇蘇州。京劇小生役 者(若い男役)。 33 呉紅喜、芸名月月紅のこと。漢劇(湖北省地方劇花旦(活発女役)。

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生、武生などの役者が賬桌で化粧できる以外は、旦の役者はここに座る資格が ありませんでした。新顔の俳優が賬桌で支度ができるということは、楽屋の役 者たちはみな、この人は筆頭に名を掲げられる名優なのだと認識するのです。」 〔原注〕この賬桌の上には、いつもひとつの“戯規(ついたての一種)”が並 べられていた。それはマホガニー材で縁取られたついたてである。内側には 十二マスの小さな長方形の象牙がはめ込まれ、上下二列に分けて、それぞれ にその日の演目だけが書いてあり、役者の名前はない。しかし役者たちは楽 屋に入ると、この戯規を見ただけで、すぐに自分の出し物が何か、いつ舞台 に上がるのかがわかるのである。たとえばこの劇団に青衣(貞淑な女役)が 二人いて、前に「母女会」34、後に「祭江」35と書いてあるとすると、かれ らは席次によって、自分がどちらを演じるべきなのかわかるのだ。あるとき もしも戯規に突然「牙笏(象牙製の笏)」が一つ立てかけてあったら、それ はきっと今日の楽屋でなにか事情がみんなに知らされるということである。 各部門の従業員は“牙笏が出た”と聞くと、すぐに賬桌を取り囲んで牙笏に 書かれている事柄を見に来る。その形は朝廷で使われる笏と同じである。だ から楽屋ではこの賬桌を軽視してはならず、演目を知らせたり、通知を出し たりするときは、すべてそこから出して行うのだ。この知らせを出すのは誰 かというと、大権を握っているあの楽屋の支配人なのだ。 「わたしの出し物は、後ろから二番目で、だいたい十時ごろの開演だったの で、その日は八時半から化粧支度を始めました。化粧をしながら、舞台の芝 居を聞いていたのですが、一幕一幕が演じられて、あっという間に私の「彩楼 配」の出番になりました。私は最初確かに少し緊張していましたが、出来るだ け自分を抑えていました。それから、これは慣れた演目なのだから、間違いは ない、恐れることはない、こんなふうに自分を落ち着かせると、たしかに効果 34 母女会:演目名。薛平貴出征後、妻王宝釧粗末貧苦えている。宝釧 は父王允が再婚を強要するのを断り、母親が帰宅を促すことも拒絶する。 35 祭江:演目名。三国志演義づく演目。孫夫人尚香荊州からったあと、蜀 に戻れずにいた。劉備が呉との戦いで亡くなったことを知り、長江のほとりで西に向 かって夫を弔い、その後長江に身を投げる。

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があり、すぐに冷静になりました。」 「しばらく舞台上で小ドラが打ち鳴らされている間に、道具方が私の上海初 公演における出場の幕を揚げてくれました。目の前が明るくなったように感じ たのですが、どういうことなのかわかりますか?なんと当時の劇場の支配人が 現在と同じように、新しくやってきた役者に観客が注目するように、工夫を凝 らしていたのです。舞台前方に一列の照明を設置し、私の登場の時にすべて点 灯するのです。今日から見ると大したことはないのですが、三十七年前におい ては上海ですら電灯が使われ始めたころで、この照明が明るく光ることで、観 客の注意を引くことに一定の効果があったのです。」 「私は初めてこの劇場の舞台に立ったとき、半円形の新式舞台が目に入りま した。お決まりの二本の柱が観客の視界を遮る四角形の旧式舞台と比べ、新し いのは明るく開放的で、よい条件がたくさんありました。古い舞台は全く比べ ものになりません。私はこの上なく楽しい気分になり興奮しました。」 「私は登場しての独白、椅子に腰掛けて定場詩をとなえました。せりふを 言って、引き続き八句からなる【慢板】の調子の唱を唱いました。彩楼に登っ てから、【二六】の“さまざまな身分の人びとも両側にずらりと居並ぶ”まで 唱いました。この句は当時の節回しとしてはかなり斬新なものでした。観客は “いいぞ”と声を掛けると、みな静かに聞き入りました。まるで私の演技をと ても受け入れてくれているようでした。」 「実際、あの時の私の技術は成熟していたと言えるものではありませんでし た。若さと体力、舞台栄え、声の良さ、発声力、怠けないこと、これらのこ とが最初の頃私が舞台で奮闘するよりどころでした。身振りの面では私は指で つつくように、ただ手真似をするばかりでした。何も特徴というのはありませ ん。逆に表情の面では、私は小さい頃から少し会得しているところがありまし た。どの演目であっても、私は劇中人物の性格と身分について掘り下げ、出来 るだけ工夫を凝らしてそれを演じていました。これは私個人のこの方面でのこ だわりです。」 「唱の方面では、私は入門から正統の青衣の芝居を学んできました。のちに 王大爺36と陳老夫子37の芝居をよく聞くうちに、陳老夫子の歌声は細やかで明 るく可憐でしっとりしていると感じるようになりました。私の歌声は広く明る いので、王大爺と比較的似ています。ですから、私は王大爺から多くのやり方 を取り入れています。」

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「その日芝居がはねて帰宅して、私は部屋でマホガニーのひじ掛け椅子に座 り、一杯の龍井茶を手にして、先程の劇場の様子を細かく考えていました。新 しい舞台、新しい照明装置、新しい観客、一幕一幕が、脳裏を走馬燈のように くるくると回りました。しばらくすると鳳二爺が戻ってきて、お互いにおつか れさまと言い合うと、彼は休むために二階に上がりました。許少卿はそれに続 いて自分で用意した貸切車を帰し、ついでに私の部屋に入ってきて、言いまし た。「今日の観客は、みなあんたに上々の評価をしているよ。」私は彼に向かっ て笑って言いました。「一日目のお目見え興行の評判は、あてになりませんよ。 数日後の様子を見てからです。」と言ううちに、彼は向かいの部屋に戻り、服 を着替えて、鳳二爺の話し相手をしに二階に上がっていきました。」 「三日間のお目見え興行を終えると、許少卿は盛大な料理とさまざまな点心 を用意して、甘いのや塩辛いのをテーブル一杯に並べ、私たちを客間に招待し て夜食をご馳走してくれました。彼は沢山の料理を私の前のお皿に取り分けて 言うには、“公演はとても大変なのですから、今夜は気楽に夜食を召し上がら なくてはいけませんよ。”私たちは彼の隠しきれないほどの笑顔と一連の御世 辞から、彼がすでにもうかる可能性と自信を持っていることがわかりました。 彼が座っている場所は、ちょうどあの小型の財神廟と向かいあっていました。 彼は財神を見ては、また鳳二爺と私を見ました。私たちに対する期待は、この 土人形の菩薩を超えているようでした。彼は私たちにチケットの販売情況や、 多くの大使公館や会社38が長期の座席を貸し切っていること、評判では、みな 今回の新顔の役者について、唱やしぐさ、舞台姿、歌声がよいと言っていて、 けちを付けるものはいないと報告しました。彼はブランデーの入った小振りの 杯を掲げて、地元の言葉で得意気に私たちに言いました。 “なにも言うことはないです。運が上向いてきたんです。あんたがたのおか げで、愉快に年が越せそうですわい。”私は彼に向かってほほえみ、声は出し 36 王瑶卿(1881-1054)、旦角役者(女方)。原名瑞臻、字稚庭、号菊痴、芸名 卿。崑曲の名旦角役者、王絢雲の子。祖籍は江蘇清江、北京に生まれる。王鳳卿の兄で あるので「王大爺」と呼ばれる。『訳注(五)』に既出。 37 陳徳霖(1862-1930)、名璋、字麓畊、号漱雲(一痩雲)、幼名石頭。「老 夫子」と呼ばれる。原籍は山東黄県。京劇の旦角役者。 38 原文「客帮公司」。他省出身商人運営する会社のこと

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ませんでした。鳳二爺は、私たちが先に楊家の堂会で演じるのを彼が許さな かったことを思い出して、こんなふうに彼に尋ねました。 “許支配人、私たちはしくじることはなかったでしょう?”許支配人殿はき まり悪そうに詫びを口にしながら笑って言いました。 “失礼しました。あなた方の実力が優れていることは、最初からわかってい ましたよ。でも私たち劇場経営の出資者は、沢山のお金を使って、苦労して北 京から招いた名優が、もしも先にほかのところに出演してしまったら、みんな 見たことがあるから、新鮮味を感じなくなるのを心配するんです。これは劇場 を経営する者の一つの手腕ですよ。私が今回あなた方を招くのにはほかの人の 株式もありまして、彼らに不平不満を言わせないことも、私のやむを得ぬ苦し いところなんですよ。実際、本物の金は火で焼かれることを恐れないと言いま すが、あなたがたの実力は、私はようくわかっています。そうでなけりゃ、私 がどうして千里はるばる北京からあなたがたを招いたりするものですか。”」 「鳳二爺は話を私のことに向けて言いました。 “許支配人、上海の役者は、「圧台」すること(その日の最後の演目を演じる こと。詳しくは後の許姫伝による原注を参照)を尊ぶそうですね。私たちも 初めて上海に来ましたから、私の弟にも「圧台」する機会を作ってくれますよ ね。”許少卿はすぐに続けて言いました。 “あなたさまが演目を譲ることを承知なされば、私は従いますとも、従いま すとも。” “問題ありません。”鳳二爺は言いました。“私たちは身内だから、どうやる のでもかまわない。問題は、あなたが引き受けるかということです。私は提案 しただけです。”」 「鳳二爺は、許少卿が部屋に戻ってから私の部屋にやってきて、私の手を 取って言いました。“ねえ、私たちは今後永遠に共演していくと約束しよう。” 私は非常に感動しました。本当に上海公演の後、私たちは二十数年間ずっと共 演し続け、九・一八事変の後、私が上海に居を移すまで続いたのです。」 四 「穆柯寨」 「前回鳳二爺が私にも「圧台」する機会を与えることを許少卿に提案したの は、鳳二爺が私をひきたてようと考えたからです。私は彼の好意を有難く思う ほかに、この事が実現するとは考えていませんでした。私たちが一週間公演を

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おこなってから、許少卿は本当に鳳二爺の提案通り私に相談に来て、私にいわ ゆる“圧台戯”を演って欲しいと言いました。これは簡単なことではなく、ど の演目にすれば、観客を満足させることができるのか、本当に検討すべき課題 となりました。」 〔原注〕当時、上海の劇場の習慣では、その日の最後にはいつも“送客戯” がある。その一つ前が“圧台戯”と呼ばれ、北京の大軸戯に相当する。北京 の圧軸戯も後ろから二番目なのだが、上海の圧台戯とは性格が異なる。39 「私が単独で演じる演目では、ここ数日の経験からいうと、最初の三日間、 「玉堂春」は「彩楼配」より評判が上々でした。後半の四日間の出し物は、 「雁門関」40「女起解」41「御碑亭」42〔日曜昼の部〕、「宇宙鋒」43「紅霓関」 その二でした。これらの演目に対する観客の評判は、「紅霓関」その二が最も よかったのです。このことから、観客の好みというものを見出すことができま す。青衣の「落花園」44、「三撃掌」45、「母女会」……といった唱としぐさが 中心の演目、または昔ながらの演目には、物足りなさを感じているようなので す。彼らが見たがっているのは唱としぐさがどちらも中心であって、しかも斬 39つまり、上海場合ろから二番目演目、実質的トリだということであろ う。 40 雁門関:演目名。『楊家将演義』づく演目。楊八郎金沙灘いの後、遼 れたため名を変え、遼国の公主青蓮と結婚した。おりしも宋が遼征伐に軍を派遣、八郎 は青蓮の協力で母親に再会する。交戦中、青蓮らが宋軍に、楊四郎が遼軍にそれぞれ捕 らえられる。両軍は講和を結ぶ。 41 女起解:演目名。誣告された妓女蘇三、洪洞から太原護送されていく様子 護送役人の崇公道との掛け合いで演じる演目。 42 御碑亭:演目名。王有道科挙受験のため。妻孟月華実家からの 道、上京途中の柳生春と御碑亭で雨宿りすることになったが、一晩中一言も交わさず、 雨が止むとすぐに別れた。帰宅した王有道はこの事を知り、妻の不貞を疑い離縁を迫 る。及第した王は柳から真相を聞き、妻に許しを請い、柳と妹の淑英とを婚約させる。 「王有道休妻」とも。 43 宇宙鋒:演目名。趙高匡洪、匡洪子匡扶となっていた娘趙艶容 二世皇帝胡亥の所望に応じて献上しようとする。艶容は胡亥の前で気が触れたふりを装 い、胡亥の欲望をあきらめさせる。

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新で生き生きとしたおもしろさがあるものなのです。「玉堂春」は新しい節回 しの唱が結構多く、「紅霓関」その二はしぐさと表情がかなり生き生きして、 いずれも彼らの要求を比較的満たすことができました。私は青衣の役者なの で、出来る出し物が多くありましたが、その大半がこのような腹を抱えこんで ぼんやりと歌うような古くさい演目ばかりでした。これらは圧台戯としては、 おそらくふさわしくないでしょう。」 「私には昔なじみの友人が何人かいますが、そのうち馮先生〔幼偉〕46、李 先生〔釈戡〕47が北京から私の芝居を見に来ていました。舒先生〔石父〕48 許先生〔伯明〕49はもともと上海在住でした。この中で馮先生が一番古い知り 合いで、私が十四歳の年に彼と出会いました。彼は熱心で誠実なさわやかな人 で、とりわけ私への援助に対しては、最大の努力を払ってくれました。彼は絶 えず私を教え、背中を押し、励まし、応援してくれました。今日に至るまでそ うで、四十余年も一日のごとしと言えますね。ですから私の人生の事業で、彼 から受けた影響は大きく、彼から得た援助も最も多いのです。このことは私と 知り合った友人のみんなが知っていることです。」 「その日、彼らは許少卿が私に一度大トリをつとめさせようとしていること 44 落花園:演目名。「二度梅」とも。唐奸臣盧杞梅良玉一家れる。梅良玉許婚 陳杏元の父は雁門関を守備していたが、吐谷渾との戦いに敗れる。盧杞は徳宗を唆し、 杏元に吐谷渾と和親を結んで贖罪するよう命じる。杏元は梅良玉に別れを告げ、途中の 落雁坡で谷川に身を投げるが、神仙の力で河南節度鄒伯符の庭園に吹き飛ばされる。鄒 の娘月英に逢って、名を汪月英と改め、鄒の養女となる。梅良玉は名を穆栄と改め、鄒 伯符の幕賓となっていたが、杏元から贈られた金のかんざしを無くし、失意のあまり病 に伏していた。鄒夫人が看破して、梅と杏元の二人は再会を果たす。 45 三撃掌:演目名。王宝釧薛平貴婿、父親王允報告する。王允貧乏人 を嫌がり、宝釧に縁談を断るように勧める。しかし宝釧は承知せず、三回手を打って二 度と会わないことを誓って、薛と婚礼を挙げる。 46 馮耿光(1882-1966)、字幼偉、広東番禺人。梅蘭芳をバックでえた梅党一人。 47 李釈戡(1894-1961)、またの李蘇堂、李疏畦とも 48 舒厚徳(1881-?)、字石父。浙江省慈溪人。 49 許伯明(1877-1957)、別名葆英。浙江海寧人。若いとき日本留学した。長金融 業に携わる傍ら、京劇とも密接な関わりを持ち、馮耿光、李釈戡とともに梅党三巨頭と 呼ばれた。

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を聞き、みな唱中心の古い演目は荷が勝ちすぎると考え、一致して私が刀馬旦 (主に女武将に扮する役柄)の演目をいくつか習うよう主張しました。なぜな ら、刀馬旦の扮装と身振りは、比較的生き生きとして美しいからです。そのこ ろの王大爺以外に、青衣の役者で刀馬旦も演じられる人は多くありませんでし た。私はすぐ彼らの意見を受け入れ、まず「穆柯寨」を学ぶことにしました。」 「私の立ち回りの技術はもともと茹先生が教えてくれたものなので、ここで 「穆柯寨」を演じるということで、言うまでもなく、彼にお願いして舞台稽 古をつけてもらいました。彼は私に言いました。“この刀馬旦の芝居は、もと より立ち回りの技術に基礎を必要とするが、目つきもとても重要だ、目つきを 使うことができればよろしい。”私たちは急いで数日間リハーサルを行いまし た。公演十三日目、すなわち十一月十六日〔旧暦十月十九日〕の夜から、私は やっと「穆柯寨」をプログラムに出して上演を始めました。これが私の初めて 上海で大トリを演じた記念日です。」 「この芝居の穆桂英は、登場してすぐに見得を切り、続いて高台に上り、と ても堂々としています。次の「打雁」の段は、舞台上で円を描いて歩かねばな りませんが、身振りも比較的見せ場を作るのが容易です。その日、観客は私と いう旧式の青衣役者が、意外にも刀馬旦の演目を演じるのを見て、おそらく目 新しく感じ、絶え間ない喝采で私を励ましてくれました。」 「芝居が終わったあと、古なじみの友人たちが私の化粧室に入ってきて、忌 憚なく私に一つの欠点があることを指摘してくれました。彼らはこのように私 に教えました。 “君はこの芝居を習得してすぐに上演し、このような成果を出すのは、苦労 もあったと思う。観客たちの君に対する好意的な感情も間違いはない。しかし 今日君は舞台上でしばしば頭を低くしたので、穆桂英の風格を大きく減退させ ていた。頭が低くなるのは、どうしても少し腰をかがめ猫背になるからだ。こ のことは、私たちが見て今後君に直してもらわなくてはいけないことだ。注意 を払ってそれを改めるべきだ。”と。」 「“私は何年も立ち回りを稽古してきましたが”、私はこのように彼らに答え ました。“しかしこれまで背中に旗指物を背負う武将の扮装はしたことがあり ませんでした。思いがけず今日はぴったりとこの鎧武者の扮装をし、背中の四 本の旗指物はかなり重いので、私は最初の試練に遭いました。そのため自分で も知らず知らずのうちに頭を低くしていたので、まるで私が腰をかがめ背中が

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曲がっているように見せてしまいました。それから頭を低くすると目も必ずそ れにつられて下を向きますから、目つきにもきっと影響が出ます。私も舞台で このような欠点に少し気がついていました。でも全神経を唱やせりふ、表情と しぐさに集中していたので、ほかのことに気を回すことができませんでした。 いま欠点が見つかり、それは対処しやすいことなので、次にこの演目を演じる ときは、当然注意して改めますし、同時に皆さんもこの欠点を直す手助けをし てください。”」 「彼らは相談しおえると、このように言いました。“次に再演するとき、私た ちは正面のボックス席に座り、あなたがまた頭を低くしたら、私たちはそっと 拍手で合図します。こうすることで、ほかの人にわからないようにあなたに注 意を与えることにします。”」 「二回目の「穆柯寨」公演で、私は舞台上で案の定またこの欠点が出てしま いました。私は向かいのボックス席からの拍手を聞いて、これが観客による 満足の表明ではなく、数名の評価員が発している信号だとわかりました。私は すぐに頭を上げました。芝居がおわるまでに、四、五回このような合図があり ました。彼らの両脇にいた観客たちは、彼らが芝居をとても楽しそうに見てい て、だから躍り上がっていささか有頂天になっているのだと思い込んでいたこ とでしょう。実際は、穆桂英が病を治す医者を特別に招き、そこで症状に合っ た薬を処方してもらっていたのです。」 〔原注〕当時、観客の習慣では、演技に満足したとき、いいぞと声を掛ける ことで彼らの気持ちを表し、拍手する人はめったにいなかった。もしも役 者が舞台で間違えれば、遠慮会釈無く野次を飛ばす。野次の飛ばし方は一通 りではなく、あるものは「好い」という声を長く伸ばして、尾音に「か」と いう一字を加え、劇場中の観客に役者が間違えたところを暴露する。もっと 荒っぽいのは「普通」という野次を飛ばすことである。以前にもわざと嫌が らせをする輩がいて、人混みの中で変な声で「いいぞ」と叫び、秩序を乱す のだが、とりわけ女優が公演しているときには、いつもこういう奇怪な声が 聞かれることが多かった。これらはすべて旧社会の不良少年、チンピラ、ご ろつきの仕業だった。芸術を観賞するために来る観客にとっては、非常に悩 ましいことであった。だからある劇場の舞台には、いつも「奇声にての喝采 はおやめ下さいますようお願い致します」という看板が掛けられていた。

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「このような新式の修正方法を経て、だいたい二回の公演のあと、私はやっ とこの欠点をだんだんと克服していきました。私の芸術方面における進展に は、外部の友人からのこうした援助を得た部分が実に数え切れないほど多く、 これは一つの例を挙げたに過ぎません。彼らは鏡のように、数十年来ずっと私 を映し続けてくれています。」 「穆桂英は山賊の頭領の娘です。彼女は天真爛漫で善良な性格なので、彼女 のあどけなく可愛らしい様子を描き出さなくてはなりません。しかしまた、上 品に演じようとして、もしも度が過ぎると、不快な感じを与えてしまいます。 とりわけ彼女の京白(北京語によるせりふ)は、言葉をはっきり発音し、語気 も熟練していなければなりません。一文字ずつすべて観客の耳に聞こえるよ うにしてこそ、このいきいきとした物語を完全に際立たせることができるので す。幸い私は王大爺のところで京白のこつを学んで、あとでこの方面にまたひ と工夫を加えたので、「槍挑穆天王」の縁談の場面のような長ぜりふも、古い 友人たちはみな満足していました。」 「朱四爺〔素雲〕の楊宗保、劉寿峰の孟良、郎徳山の焦賛、このお三方の大 ベテランが私と一緒に演じてくれ、これ以上なにか言うことがありましょう、 当然ことのほかすばらしいものになりました。身振りについては朱四爺も私に 見せ場のいくつかを教えてくれました。大部分は茹先生の真剣な指導のおかげ です。なぜなら私たち二人は一つ屋根の下に暮らし、一日中一緒にいたからで す。夜に舞台に立てば、また私のために胡弓の伴奏をしてくれました。そのと きの楽隊はやはり舞台の登場口のそばに並んでいたので、私の一挙手一投足、 演技の一つ一つの動作を、彼はすべてはっきりを見ていて、帰宅すれば私と詳 細に検討しました。このように検討したり、実習したりするのは、確かに速く 上達します。」 「以上話したことは、私が初めて「穆柯寨」を演じたときのことだけでな く、私が初めて武将劇を演じたときの状況でもあります。北京に戻ってから は、いつも蕙芳50と「穆柯寨」を共演しました。それはこういう演じ方です。 例えば最初の幕は私が出演し、第二幕は彼が演じ、第三幕、第四幕もその順序 50 王蕙芳(1891-1953)、字湘浦、号若蘭、祖籍安徽省潜山県。北京まれ。梅 蘭芳の幼なじみ。『舞台生活四十年』第三章に、梅蘭芳とともに京劇を学んだことが記 されている。

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に従ってやるのです。こうした子供の遊びのやりかたは、いま思い出してみて もとても面白く思います。」 「「穆柯寨」を演じたあと、私はまた「虹霓関」その一の東方氏を学ぶつもり でした。私は以前ただ「虹霓関」その二の小間使いを演じたことがあるだけで した。もしも一・二を続けて一緒に演じたら、もっとにぎやかに見えるじゃあ りませんか。確かにまず先に「虹霓関」その一の東方氏に扮して、続けてその 二の小間使いに身なりを変えるというのは、私が始めたことなのです。当時私 になぜこのように演じるのかと尋ねる人がいましたが、これは私の個性がその 二の東方氏という役に対してあまりに違いすぎ、人前に出せるものではなかっ たためでもあります。」 「ちょうどタイミングのよいことに、蕙芳が漢口から上海に遊びに来て、私 が上海にいると聞いて、平安里に私を訪ねに来てくれました。私は「虹霓関」 その一の稽古をすることになったいきさつを彼に話しました。「虹霓関」その 一が彼の十八番だったことを思い出したので、彼に話してくれるよう頼みまし た。彼はすぐに歌詞・せりふとしぐさについて私に話してくれました。朱四爺 が王伯党に扮したのですが、彼も私と一緒に登場するときのよいしぐさを教え てくれました。また数日間一生懸命にやって、やっと許少卿の申し出を受ける ことにし、十一月二十六日〔旧暦十月二十九日〕に「虹霓関」一・二を一日で 上演しました。私が舞台衣裳を着替えなければならない関係で、一・二の中間 に、鳳二爺の「取帥印」51を入れました。」 51 取帥印:演目名。唐太宗秦瓊病気がちになったのでかわりに尉遅恭 を元帥にしようとした。尉遅恭らは秦瓊を見舞いに行き、ついでに元帥の印をもらおう とする。秦瓊は息子の懐玉を元帥に推薦するものの、太宗の命があるためなくなく従 う。程咬金らが懐玉をそそのかして尉遅恭を殴らせると、太宗は両者を和解させる。

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【参考文献】 陶君起『京劇劇目初探』中華書局 2008(初版は上海文化出版社 1957) 『中国戯曲志・上海巻』中国 ISBN 中心出版 1996 『中国劇目辞典』河北教育出版社 1997 『上海昆劇志』上海文化出版社 1998 『上海京劇志』上海文化出版社 1999 『中国戯曲志・北京巻上下』中国 ISBN 中心出版 1999 北京市/上海芸術研究所『中国京劇史』中国戯劇出版社 2005

参照

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