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(1)

理科教育 と科学 リテラシー

1. は じめに

科学 リテラシーと共通教養論

科学 リテラシー をすべ ての高校生 に身につけ て もらお うとす る新 しい高校理科の教科書 シリ ーズ (教科書検定 に とらわれない立場で執筆 さ れた物理 ・化学 ・生物 ・地学の全4冊)が,最 近出版 された。1)

「地学,生物 ,化学,物理 の4教科 がそ ろっ た 〔この〕高校理科教科書 シリーズは,すべ て の高校生 に読 んで もらいたい,学 んで もらいた い理科 の内容 をまとめた。 (中略)本 シ リーズ 4冊 を読破す ることで,科学 リテラシー (‑覗 代社会で生 きるために必須 の科学的素養)が身 につ くこ とを 目指 してい る

」 (同 シ リーズの

「は じめに」 より)

理科教育の 目的は科学 リテラシー を身につけ ることである。 この命題 は正 しい。 しか し,料 学 リテラシーの内容 と程度 をどの ように理解す るか,そこが難 しい ところである。

同 シリーズが主張す るように,地学,生物 ,化 学,物理4科 目すべ て を,すべ ての高校生 に身 につけて欲 しい とす るのは,共通教養論の立場 である。

現行制度の高校理科

これ と現行制度の考 えは異 なる。

高校理科 の制度的現実 は,現在,選択科 目と なってい るといって よい と思 うが,制度の理念 としては微妙 な問題 を含 んでいる。現行 の学習

関口 昌秀

指導要領

(

『高等学校学習指導要領 (平成11年

3

) 』 )

で は

,

「理科 基礎 」

,

「理 科 総 合

A

」,

「理科総合

B

」 の うちか ら1科 目以上 を必履修 す ることになっている。

「理科基礎」の内容 には,

「ア 物 質の成 り立 ち」 として 「原子 ・分子 の 探究」 と 「物質の合成‑の道」,

「イ 生命 を探 る」 と して 「細胞 の発見 と細胞 説」 と 「進化 の考 え方」,

「ウ エ ネルギー」 と して 「エ ネルギーの考 え 方の形成」 と 「電気工 ネ)i,ギーの利用」, そ して 「エ 宇宙 ・地球 を探 る」 として 「天動 説 と地動説」 と 「プ レー トテ ク トニクス説の成 立

が含 まれている。そ してア‑エの単元 ではそれ ぞれの

2

項 目のいずれか を学習す ることになっ てい る。 したが って,「理科基礎」 を履修 すれ ば,物理 ・化学 ・生物 ・地学 の4分野すべ てに わたって,その中のある部分 を学習す ることに なる。

これ に対 して

,

「理科総合

A

」 は 「エ ネルギ ー と物質の成 り立 ちを中心 に」 して,物理 と化 学の内容 か ら構成 されている。そ して 「理科総 合

B

」は 「生物 とそれ を取 り巻 く環境 を中心 に」

して,生物 と地学 の内容 か ら構成 されてい る。

したが って

,

「理科総 合

A

」 と 「理 科総 合

B」

では,両者 を合 わせ れば4分野 となるが,いず れか 1科 目ではそ うな らない。

したが って 「理科基礎」 を選択 した者 には理 科の共通教養 を与 えようとす る考 え方 もうかが

(2)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 第 27号 (20083月31日)

えな くはない。 しか し,「理科基礎

理科総合

AJ

「理科総合

B

」 の

3

科 目か らの選択必修 と なっているのだか ら,制度 としては理科的教養 での共通教養 とい う立場 には立 っていない。

制度的に理科教育の内容が共通 となっている のは,中学校 までである。高校 を卒業す る上 で は物理 ・化学 ・生物 ・地学の全科 目を履修す る 必要 はない。 この考 え方 と,すべ ての高校生 に 地学 ・生物 ・化学 ・物理の4冊 を読 んで科学 リ テラシーを身につけてほ しい とす る理科教育の 立場 との間には,大 きな隔た りがある。

理科の総合の仕方

しか し実 は,す ぐあ とで述べ る ように

,

「現 代人 に必要 な理科の知識」 をどの ような形 にま とめて提示するか,理科 をどの ように総合す る か とい う大 きな問題が存在す る。だか ら,既存 の物理 ・化学 ・生物 ・地学の内容 を前提 として 議論 してはいけないのだ。

今 日,理科教育の内容構成 を考 える上で,重 要 なこ とは,その対象 を選択 的 に設定す るか, 全員 を対象 とす るか とい うこと,お よび対象設 定 との関係 で,その内容 をどの ようにまとめて い くか (‑総合 してい くか)とい う問題である

現行制度では高校以上の理科教育の内容 を全員 対象 とす ることが崩れている。 しか し,高校以 上で全員対象の必修理科の内容 を設定す る必要 はないのか。

冒頭で紹介 した 「新 しい高校理科 の教科書 シ リーズ」 は,その ような必修的理科 を設定すべ きとする主張の1つである。

ここにあ る問題 は

,

市民のための理科教育」

と 「専 門家 のための理科教育」 と表現 で きる。

そ して両者 と関連 して,エ リー ト教育の問題 も か らむ。 カ リキュラム論 としては

,

教科 の系

統性」 あるいは 「完全 カ リキュ ラム」 の理念, お よびそれ と異 なる発想 に立つ 「STS教育」 な どが検討の対象 となる。

2.

共 通 教 養 論 の理 論 的 前 提 (その

1)

高校義務化

い ま共通教養論 は どの ように考 え られるべ き なのか。

「すべ ての国民 に共通 な教養 を」 とい うのが国 民共通教養論 の基本 的発想 だった。教養 とは全 体的 な もの を指すが,科学 リテラシー とい うの はすで に分節化 された もの となっている。今 日 は,かつて とは異 なったアプローチ をす る必要 があ るだろ う

「共通教養論」 とい う名称 も問 題か もしれない。

新 しい教科書 シリーズは 「すべ ての高校生 に 身につけてほ しい科学 リテ ラシー」 を語 ってい るが, しか しそれはかつての ように 「すべ ての 国民 に共通 な教養」を語 っているわけではない。

それは教科書 シ リーズのテーマではないか ら, その点 について語 る必要 は もちろんないが, ま ず はかつての国民共通教養論 の前提 を確認 して お く必要があるだろ う。

「すべ ての国民 に身 につ けてほ しい教養」 を 語 るには,教育内容 だけで な く,高校義務化 と い う制度問題 に もふれる必要がある。教養論 と い うと内容論 とい う印象 を受 けるが,共通教養 論 は,その本体 としての内容論 だけでな く,そ の理論が成立す る土 台 として制度的な前提 をも っていた。

ある意味 でそれは きわめて単純 なことなのだ が

,

「すべ ての国民」 を対 象 とす るの だか ら, すべ ての国民が高校生 となっていなければな ら

ない。そ うい う制度 の実現 に向けた考 え方の上 で語 られた ものが,国民共通教養論 であった と い うことである。

高校進学率 と階層格差

バ ブル経済の下 において も高校進学率 は95%

の壁 を越 えることはなかった。かつて小 川利夫 が指摘 した 「5%児童 の問題」 は量 的 には同 じ

ように存続 しつづ けた。2)

1990年代 か らの格差拡大 の結果が明瞭 に認め られ るようになった今 日,青年の教育, とりわ け経済的 自立 のための職業訓練 を,広い意味で

(3)

の (つ ま り文科省管轄 を超 えて存在す る)教育 制度 として, どの ように構築 してい くかが大 き な課題 となっている。 しか し今,高校義務化 を 語 るだけでは問題 は解決 しない。進学保障が無 意味 になったわけではないが,今 の状況 におい て語 られるべ きは,保障 され るべ き教育内容で ある。

かつては高校進学 を保障すれば,一定程度の 青 年 の将来 的経 済生 活 が見通せ たか も しれ な い。 しか し今 日の格差社会化状況では,高校進 学では見通 しが もてない。いや大学‑進学 して もその ような将来見通 しをもっ ことは困難 だろ う。今 日,いわゆる偏差値 的な上位大学へ進学 した青年 に とって も,安心感 は もてない青年の 状況が出ている。 わた したちは,かつては信 じ られなか った大企業の倒産 とい う事実 を経験 し ている。かつては大企業 に就職すれば安心 だ と 感 じられたが,今ではその ような安心 を感 じる

ことはで きない状況 となった。

かつての国民共通教養論が想定 した青年期教 育の形 と,今 日のそれは様相 を異 にす る。今 日 の青年期 問題 は何 よ りもまず職業訓練的 に発想 される必要があるだろ う。少 な くとも,かつて の 「5%児童 の問題」 の後継 と考 え られる様 々 な意味での 「底辺層青年 ・周辺層 青年 の問題」

に関 しては,そ うである。

それは教養論では解決で きない。それほ ど事 態が深刻 だ ともいえる。教養 よ り飯 を心配 しな ければな らない。 「人 はパ ンのみ にて生 きる者 ではない」が, しか しパ ンが なければ生 きてい け ない。今 日の状 況 は, その よ うな様 相 に近

い。

経済的能力 と政治的判断力

働 く青年 に教養が必要 ない とは思 わない。生 活者である限 り,誰 で も経済的 自立 のための能 力が必要であ り,かつ また主権者市民 として 自 己主張で きる政治的判 断力が必要 であ る。 「生 きるため に必要 な教養」 は,政治的判断力 を中 核 として結晶化 される, と私 は考 えている。 た

んなる博学的知識 ではない 「生 きる力 としての 教養」 は,市民生活 における判断の力 と して表 現 され る。 そ うい う 「生 きる力 と しての教養」

は働 く青年 に も必要である

すべ ての国民 に共通 な 「生 きる教養」 を語 る とき,それは政治的判断力 とい う問題設定 にな る。

た とえば,原子力発電問題 を考 えればす ぐわ かるように,科学技術 が市民生活 に及 ぼす影響 は大 きい。 この ような問題 を判 断す るために科 学 リテ ラシーは当然必要である。それゆえ政治 的判 断力 と科学 リテ ラシーは無 関係 ではない。

政治的判断力 と科学の関係 について,私 はこれ まで何度か論 じたことがある。3)

ここでは 「科学 リテ ラシ

」 と理科教育の カ リキュラムに焦点づ ける中で,その問題 も考 え てみたい。

3.

知の総合一教養論の前提 (その

2)

1つの科学 を前提 とした共通教養論

かつての共通教養論 には,たんに科学 リテラ シーだけでな く,すべ ての教科 を含 む仝教養の ミニマム ・エ ッセ ンシャルズ をすべ ての国民が 共通 に身につける, とい う発想があった。 しか し今で は, この ようなアプローチ をとることは で きない。 ひとつの理 由は直前 に述べ た教育制 度構想 とい う問題であるが,教育内容的 な観点 か らは次の ような問題があるか らである。

単純化 して言 えば,かつ ての共通教養論 は, 社会的教養 を考 えるにあたっては,社会科学 を 前提 とし,科学的教養 は 自然科学 を前提 として 考 えた。

社会科学の崩壊

ところが,社会科学の方 は,ソ連 の崩壊 によ り, マルクス主義的な発想 の土台がゆ さぶ られた。4)

社会構造的 には冷戦構造 の消滅 とい う世界史 的事態 を経 てい る。社会 を対象 とした学問はそ の根 本 にお い て価値 的立場 と切 り離 せ ないか ら,社会諸科学 としてかつて も存在 していたわ

(4)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 第27 (2008年3月31日)

けだが,かつては, ソ連社会主義 に対す る批判 を含めて も 「ひ とつの社会科学」が存在 しうる 可能性へ賭 け られた。共通教養論 は,そ こに賭 けた。

しか し,その ような賭 けは,誰の 目か ら見 て ち,見直 しを迫 られている。ユー トピア構想 を 含 めて社会科学的知が再構築 されなければな ら な くなった

自然科学の細分化

自然科学の方 は,社会科学 に比べれば,価値 中立 的な形 で構成 されているか ら,科学的知見 の拡大 はあるが,それによって動揺 をきた して いる とはいえない。 しか し,次の世代へ伝 える 知の内容の構成 ・組み立 て とい う点では考 える べ き問題がある

た とえば,分子生物学 を中心 とす る遺伝子学 の発展 にはめざま しい ものがあ り,高校生物の 内容 も30年前 とは大 きく変 った。地学 に含 まれ る地球科学 の進展 もめ ざま しい。地球環境問題 が背景 となってそれが うなが されている面 もあ る。同様 に宇宙科学 も進展 した。

これ らに象徴 されるように,科学的知見の蓄 積 には目を見張 る ものがあ り,それ を次の世代 に伝 えるには新 しい形で再整理 される必要が生 じた。人間の学習能力 ・記憶能力 には,一定の 容量的限界があるか らだ。

「知の総合化」の必要

社会状況 の根本 的 な変化 と科学技術 の発展 に よ り,社会諸科学 ・自然諸科学 は,限 りな く細 分化 された。だか ら現在,新 しい形 で 「知の総 合化」 5)が必要 だ と,立花 隆 はい う。現代 は, 知 の新 しい総合 を必 要 とす る時代 に入 ったの だ。その ような文化的時代状況がある。た しか に,学問の進展 はつ]射 こあるのだか ら,いつの 時代 に も 「知の総合」 は必 要であ る しか し, 現代 は と りわけ大 きい歴史的変化 を経験 した。

それゆえ 「知の総合化」が必要 とされるのだ。

教養論 は 「総合 された知」 を前提 として, は

じめて成立す る。総合 された知が存在 しない と ころで共通教養 を語 ることはで きない。かつて の共通教養論 は 「総合 された知」 の存在 を仮定 していた。社会科学 と自然科学 とい う形で総合 的知が存在 している と考 え られていた。 しか し 現在

,

「総合 された知」 は存在 しない。現代 の 課題 は知 を総合す ることである。新 しい世代 に 伝 えるべ き科学 の内容 も, そ こか ら精選 され, 新 しく組み直 されなければな らい。

この ような中で理科教育 も考 えなければな ら ない。

4.

理科的知の総合化の形

高校地学の総合

新 しい高校理科の教科書 シリーズは,理科 と い う教科の枠 の中での 「知の総合化」 の試み と とらえることがで きる。それは高校理科の 1つ の総合の形 を提示 している といえる。

それが最 もよ く表 れ てい るの は,地 学 で あ る

戦後1948年 に誕生 した地学 は

,

「天文学,也 球物理学,気象学,池質学,鉱物学,海洋学 な ど非生物界 の 自然現象 を集 めて」,教養教育 と して成立 した。 しか し, これ らの基礎学 問 は, 研 究対象が異 なるだけでな く,その研究方法が

まった く異 なっていた。一方 には天文学や地球 物理学,気象学の ように,法則科学的段 階 にな っている ものか ら,い まだ博物学的な自然記述 的段 階の もの まで存在 していた。そ うい うこと か ら,「1960年 の学習指導要領 の改訂作業時 に は,高校長協会試案 として 『地学廃止論』 も出 されるな ど,理科教育関係者 間において も地学 教育の 目標 や意義 について共通理解が得 られて いなかった」。6)

それが現在,地球科学 と宇宙科学 として総合 され ようとしている。 と くに, このテキス トで は,地球科学 の成果 を,地球史 を軸 に整理 して いる。ここに1つの総合の形が提示 されている

歴史 を軸 に したことで,す っ き りと統一 された 印象 を与 えている

(5)

た しかに,宇宙科学の分量 の少 な さ,お よび 宇宙科学 と地球科学の関連の させ方の問題 は残

っている

しか しそ こに, ごった煮的統一性 のなさの代 名詞であったかつての地学の印象 はな く,す っ き りと 「読 んでわかる」 内容 の作 品に仕上が っ ている。新 しい地学 として知の総合 を感 じさせ るテキス トである

理科の総合化 と内容の精選

この教科書 シ リーズは,検定教科書が扱 うす べ ての内容 を高校生 に教 えようとしているわけ ではない。その内容 は 「精選」 されている。

とりわけ大学受験 で必要 となる計算問題 は基 本的に載せていない。

その例 としては,生物 における遺伝 の ところ を挙 げるのが よいだろう。遺伝子 の連鎖 と組換 えの内容では, 自家受精第2世代 の分離比の計 算が大学入試セ ンター試験 の必須内容 となって いるが,同シリーズの高校生物では,組換 えの 仕組み については詳 しく説明 してあるが,分離 比 は話題 に していない。

もちろん数学 な くしてその理解が不可能 な物 理 には,数式 による説明が当然 出て くる し,化 学で も量的関係が出て くる箇所 はある。しか し, それは数式 による説明の方が言葉 だけの説明 よ

り解か りやすいか らであ り,その現象の理解 に 必 要 と判 断 され るか らであ る

「内容 の精選 と 丁寧 な説明」が特徴 と言 うだけあって,た しか

に,同 シリーズは内容が精選 されている。

この教科書 シリーズが大学受験 に必要 な計算 問題 の類 を載せてい ない とい うことは,それが

「市民 のための理科教育」 をめ ざ してい る, と い うことで もある。すべ ての高校生 に身につ け てほ しい科学 リテラシー とい う考 え方 は,そ う なる と思 う。

自修書 と しての教科書

この教科書 シ リーズは

,

「読 んでわか る」 こ とにこだわった。そ う言 うだけあって,た しか

に,読 んでわか るようになっている。 これはす ぼ らしい ことだ。

1 9 7 0

年代初頭私 の高校時代 の生物では,先 ほ ど挙 げた 「遺伝子 の姐換 え」 の説明はまだ扱 わ れていなか った。理科 の教科教育法 を担 当す る ようになった都合か ら,現行 の高校生物 の教科 書 を見 る必 要 に迫 られ たが , あ る検 定教 科書

「生物

」 の記述 に比べ る と, このテキス トシ リーズの説明は詳 しくかつ解 か り易 い もの とな っている。

私が読 んだ検定教科書 は,い ったい高校生 に 理解 させ ようとしてい るのか しら, と疑いた く なる文章であった。生物学の知識 は35年前の高 校生 とほ とん ど変 らないか もしれないが,それ 以外 の本 はそれ な りに読 んで きたつ も りで あ る。 ち ょっとひ どい, とい うのが率直 な感想で あ る。 もっ と丁寧 な本 づ くりの姿 勢 を求 め た

い 。

そ もそ も検定教科書 は,高校生が読 んで理解 で きるテキス トを作成 しようとす る意図がある のだろ うか。その ような疑問 を抱 いている。私 が生物 の教科書で読 んだ ものは 1社 にす ぎない が

,

「化 学

」 や , あ るい は 「現代 社 会」 や

「政治経 済」 な ど,他 の科 目の教科書 を見 て も 同様 の感想 を抱 かせ る叙述が多 い。それ らに共 通す る印象 として,難解 な専 門用語が登場す る 割 には,それに関す る丁寧 な説明が言葉足 らず である。もう少 しスペース を割いて説明すれば, わか りやす くなるのではないか。含めなければ な らない内容 と紙幅の関係 があ るに して も,そ の辺 りを考 える必要がある。

もちろんそれだけでは済 まない事柄,た とえ ば現在 の高校生 に理解 されるような言葉使 いの 問題 もあるだろ う。そ こまです るには,何人か の現役高校生 に読 んで もらうような 「本づ くり の体制」が求め られる。そ こまで求めるのは無 理 な注文 とい うべ きか もしれない。 しか し, ち

う少 し時 間 をか けて丁寧 に行 う姿勢が あれば, 説明の し方 は もう少 し分 か りやす くなるはずで ある

(6)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 第 27 (2008年 331日)

もしか した ら,検定教科書 は 自修書 と考 えて いないのか もしれない。 しか し,そ うい う発想 は,教科書 とい うものに対する考 え方 として根 本的にまちが っている。

学習 はすべ て 自己学習である。 自宅学習 を宿 題 として課 そ うが課す まいが,それ にかかわ ら ず, 自分の脳 内に何 らかの形で記憶 として定着 す るのが

,

「学習」 であ る。 それが 「学習」 に ついての心理学的な真実である。そ うである以 上, 自分 の記憶 を振 り返 って確 かめ ようとした ときに,理解 でい ない教科書 は役 に立 たない。

自修書 として役立 たない教科書 は,受験参考書 にその地位 を奪 い取 られる運命 にある。 まさか 受験参考書 の売れ行 きを伸 ばすため に検定教科 書があるわけで もないだろ うが,その ような疑 い も出て くる程 だ。

5.

市 民 の た めの教 育 と専 門 家 の た めの教 育

カ リキュラムの 目的 と しての市民 と専門家 高校段 階 は完成教育 とい う性格 だけで な く, 大学への準備教育 とい う性格 をも 。高校 は必 然的にこの ような二重の性格 をもつ。

前者 を念頭 において 「市民のための理科教育」

が考 え られ,後者 を念頭 にお くとき 「専 門家 の ための理科教育」 が考 え られる。 (念 のため に 言 えば,ここで考 えているのは理科教育 だか ら, 高校 におけるいわゆる 「専 門教育」 ‑職業教育 での完成教育 は議論 の対象でない。 また 「専 門 家 のための教育」 とい うの は

,

「専 門教育」 ‑

職業教育 を指 して言 っているわけではない。 む しろ逆 にそれは,いわゆる 「普通教育」 の中の 準備教育 と して存在 してい る, と考 えてい る

この点,高校教育 についての制度用語の用法 と ずれている。)

「市民 の ための理科教育」 とい うのは,現代 社会 の市民 として生活 してい く上で必要 とされ る科学 リテラシー を教 えることである。 これ に 対 して

,

「専 門家 のための理科教 育」 は,科学 者やエ ンジニアになるため に必要 な科学的素養

を教 える ものである。その道の専 門家 を養成す るのが 「専 門家 のための教育」 である。それは

「市民のための教育」 と対置 される概念である

高校教育でいえば,理学部 ・工学部 な どの理 科系学部‑進学す るため に必 要 な理科教育が,

「専 門家のための理科教育」 と考 えるのが よい。

厳密 にいえば,理科系学部へ進学す る理科教育 の中 に も

,

「市民 の ための理科教 育」 は必要で ある。市民 は素人 としては,専 門家 に対立す る 存在 であ る しか し他方で専 門家 も1人の生活 者,1個 の主権者 と しては市民 であ る。それゆ えに,専 門科 学者 を養 成 す る カ リキ ュ ラム に

「市民 のための理科教 育」 は含 まれてい なけれ ばな らない。

だか ら 「市民のための理科教育」 と 「専 門家 のための理科教育」 は,対 立す るだけで な く, 相補 う部分 もある。 ただ し, カリキュラムの 目 的 としては,両者 をカテ ゴリー として区別 して お くべ きである

普通教育 と完全 カ リキュラム

そ うい う意味では,現行 の高校理科教育の内 容 に両者が混在 していることは一定の進歩 とみ るべ きか もしれない。

伝統 的に高校 の 「普通教育」 としてあった理 科 は大学の準備教育 を中心 として きた。そ うい う意味 で高校 理科 は, 「専 門教育」 として考 え られて きた と言 った方が よい。 この点,高校段 階で は

,

「普通教育」 とい う名称 とその内実 は 異 なっていた, とい うのが私の主張である

ここで 「普通教育」 について, くわ しくふれ ることはで きないが,簡単 に述べ てお くと,吹 の ようになる。

カ リキュラムの発想が後述 の 「完全 カ リキュ ラム」 とい う考 え方以外 なか ったか ら,職業分 化が大学 において出現す る もの に対す る準備教 育が,普通教育 とされた。大学で専 門的に分化 す るまでは共通 の準備教育 をす る, とい うのが 伝統的な考 え方 だった。

た とえば,理科教育の完全 カ リキュラムでい

(7)

えば,かつては高校時代 あるいは大学の教養課 程 まで,物理 ・化学 ・生物 をまとめて学習す る のが普通教育 の内容 だった。大学では一般教育 と呼ばれていた。教養課程の後 に専 門分化 して, 専 門教育 を受 ける

専 門教育へ の準備 を普通教育 とい うのは,エ リー ト教育的な区分 によるものである。

歴史的には,庶民のための小学校 (プチ ・エ コール) と,エ リー ト養成 としての大学 (お よ びその準備教育 としての コレージュ) とが接続 されてい なか った時代 にまで さかのぼる。現在 で は学校 階梯 が ,小 学 校 (初 等 教 育 ), 中学 校 ・高校 (中等教育),大学 (高等教 育) と接 続 して存在す る。科学の発展 によ り教育内容 も 追加変更 されて きたが,最終学歴 によってエ リ ー トとノンエ リー トを区別す る考 え方が,学歴 主義 として残 った。接続 した学校 階梯 の下, カ リキュラムは 「教科の系統性」 をもった 「完全 カ リキュラム」 として一貫 して,小学校 か ら大 学 まで上昇 してい く。その ピラ ミッ ドの頂点 ま で履修 した学生がエ リー トで,途 中で社会‑ 出 て行 く者が ノ ンエ リー トと熔 印 され る。 (正確 には中途で職業教育 を選択す る者 もノンエ リー

トとされる。)

しか し, カ リキュラムの考 え方 としては,そ の養成 目的 を 「市民」 とす る もの と

,

「専 門家

とす る もの に区分す るのが よい。その方が平等 主義的だ。

市民のための理科教育

「分化 と統合」 とい う枠組 でみれば,職業 的 分化 と政治的統合 とも言 われるように,職業 的 には分かれてい くが,政治的には人はつながる。

職業 を異 に して も,国民共同体 の中で暮 らして い く。 (地球共 同体 とい う発想 まで含 めた細 か い議論 は今 除いてお く。) 階級 的あ るいは階層 的に考 えな くて も,職業的には専 門分化 してい く。それに対 して,生活者市民 としては同 じだ。

経済的能力 は職業 にかかわる能力であ り,政治 的判断力 は市民生活 にかかわる能力である。

だか ら

,

「市民 のための理科教 育」 とい うの は,共通 なカリキュラムのことである。それは, 新 しい教科書 シリーズがい うように,進路 とは 無 関係 に

,

「すべ ての高校生 に学 んで もらいた い理科 の内容」 か らなる ものであ る。問題 は, その内容 をどの ように考 えるか とい うことであ る。かつ ての共通教養論 は,その内容 を当時の 高校 程 度 と した。宮 原 誠 一 『青 年 期 の教 育 』

( 1 9 6 6

年) には

,

「後期 中等教育段階 においてす べ ての青 年 が習得 すべ き共通 の最小 必 要基 準 は,現在 の高校程度 になる」 とい う趣 旨の言葉 がある。7)

しか し,そ こでは,共通教養の具体的な中身 まで語 られたわけではない。それは未定の まま であった。

新 しい教科書 シ リーズは,すべ ての高校生 に 必要 な理科教育の内容 を,具体 的な形 に してみ せ た。そこに大 きな意義がある。

専門家のための理科教育

「専 門家 の た め の理 科 教 育 」 で は物 理 ・化 学 ・生物 ・地学4科 目すべ て を身につける必要 はない, とい う問題 も生 じる

自然現象 を物質現 象 と生命現象 に分 ければ, 生命現象 を扱 うには物理学 を必ず しも必要 とは

しない。実際,生物学科への進学 には高校生物 が必要だが,物理 は必要でないだろう。逆 に物 理学科へ進学す るため には高校物理の修得 は必 要だが,生物 は必要 としないだろ う。大学受験 科 目でみ る と,工学部へ の進学者が高校物理 を 未履修 の場合 もある。東京大学では,その よう な学生 に補習的講義 を行 っている とい う。8)

おそ ら く多 くの大学の理工系学部で も同様 な 事情があるだろ う。本学 (神奈川大学)の理学 部で も数年前 か ら補習講義が始 まっている。 こ の ような現実 は,一方で大学での専 門教育 に と って高校理科が必須 であることを示 している と ともに,他方では4科 目すべ てが必要 とな らな いことを示 している。

生命現象 をその物質的基礎 か ら考 えれば,物

(8)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 27 (2008331日)

理法則 の上 に成立 している。それゆえ,生物学 の基礎 に物理学がある といえる。 しか し,現実 的には,生命の物質的基礎 とい う場合,それは 細胞 内の分 子 的 な化学 反応 レベ ル に求 め られ る。それゆえ,ふつ う生物学の基礎 を物理学 ま で求めることは しない。

化学現象の基礎 は量子力学 にあるか ら,化学 での基礎 は物理 にまで求める。 しか し,生物分 野での基礎 は化学であ り,物理学が扱 う物質 レ ベ ル まで遡 ることはふつ う しない。大人数 を対 象 とす る教育では,教育の効率性 とい う要因が 考慮 されるか らである。研究 に必要 な場合 は研 究者個 人が独学で勉強す る。教育 はその学習能 力 をつければよい。

この ようなわけで,生命現象 と非生命現象の 区別 に したが って,専 門科学者 も生物学 を必要 とす る者 と物 理学 を必 要 とす る者 に区分 で き る。

これは皮 肉に も大学入試 セ ンター試験 日程で 生物 と物理 を同 日にす る根拠 にす りか え られ も す る。す り替 えだ とい うのは,大学で生物学 を す るの に高校物理が不必要 とい うわけではない か らだ。

す ぐあ とで見 る ように,立花 隆は,現代社会 においては文科系の学生 に とって も分子生物学 の知見が必要だ とのべ ている。

エ リー ト教育にも必要 な理科教育

理科教育の程度 の上昇 とともに,専 門的内容 は分化 してい く。 だか ら,その基礎的素養の内 容 と程度 を考 えることはむずか しい。

立花 隆は,現代科学の基礎である物理学 も必 要であ り,バ イオ時代 に生 きる人間 として分子 生物学の知識 も必要である と主張 している。9)

彼 の議論 は 「東大講義」 とい う性格か ら,エ リー ト教育 を念頭 においた議論である。ただ し, エ リー トとして問題 に しているのは,専 門科学 者の卵 である理科系の学生 よ りは,む しろ政策 立案者 な どになってい く文科系 の学生 であ る。

彼 らは将来,わが国の官界 ・経済界 ・政界 ・学

界 ・言論界 の指導 的立場 に立 つ可 能性 が高 い。

そ うい う日本 の将来の指導者 たちが,今 の制度 の ままでは,科学技術 の基礎 的理解 の ところが 中学生 レベルになって しまう。

物 質世界 の基礎構造 は物 理法則 が支配す る。

それは, 自然界の基本定数の間の関係 として記 述 される。光の速度,万有引力定数, アボガ ド ロ数,そ してプランク定数,ボルツマ ン定数 な どが, 自然界の基本定数の代表者である。物理 学の基礎 となるのは,ニュー トンの運動 の3法 則 である。そ こにある運動 ,加速度,質量 など の概念, さらに熱,披,素粒子 などの概念, こ れ らは

,

「この世界 のあ り方 の根 本 にかかわ る 最 も基礎 的な概念」 である。それは高校物理の 範 囲 に含 まれてい る。 「それす ら正 しく理解 し ていない者 は,大学で もの を学ぶ資格が ない」。

立花 はその ように言 う。

2 1

世紀 はバ イオの時代 である。 だか ら

,2 1

世 紀 の知 的活動 や経済活動 を理解 す るため には, 分子生物学の知識が必要である。米 国のハ ーバ ー ド大学やマサチューセ ッツ工科大学ではカ レ

ッジ段階で専攻のいかんにかかわ らず,全学生 に分子生物学 を学習す ることを義務づ けた。 こ れは

,2 1

世紀がバ イオの時代 であることを意識

した大学 における教育内容の改革である。

じつ は

,

「日本 の理科教育 の水準 が19世紀以 前 にある」 とい う問題 もある。

立花 は

,

「物理IBJ「化学IBJ「生物IB」

(これは前課程 ,平成元年3月の 「高等学校学 習指導要領」 の科 目であ る。) に載 ってい る事 項が何世紀 に発見 されたか を述べ ている。問題 なのは,20世紀 に発見 された事項が,物理 と化 学でほ とん どないことである。化学で15%程度, 物理では 8%位 しかない。最先端 の事項が教 え

られていない。最先端 に向か ってい くカリキュ ラムであ りなが ら,それが高校 でほ とん ど見 え ない。

エ リー ト教育 かつ/ または市民の ための教育 立花 の主張 はエ リー ト教育 について述べ た も

(9)

の だが ,共通教養論 的発想 に通 じる ものが あ る

講義 の対象 を東大生か らすべ ての高校生 まで 拡大すれば よい。そ うすれば,その主張す る と ころは,すべ ての高校生 に物理 ・化学 ・生物 ・ 地学4科 目を身につけてほ しい とす る新 しい教 科書 シ リーズ と同 じになる。 た しかに,すべ て の大学生 を対象 として共通 カ リキュラム を考 え ることと,すべ ての高校生 を対象 として考 える ことは,同 じでな

い。

しか し,立花 も

,

「現代社会がかか える, さ まざまなイ ッシュー(issue争点)の相 当部分が, 実 はいろんな レベルで科学技術が らみ」である ことを認めている。現代社会が科学技術 に支 え られた社会 だか ら,当然そ うなるのだ。そ うい う認識 があ るか ら

,

「単 に市民生活 を送 ってい るだけで も」,科学技術 に関す る 「浅 くて広 い 知識」が 日々に必要 となっている。そ う立花 は

■ ‑r l 百つ。

この ように立花 には,共通教養論 的発想 もあ る。

いいかえれば,かつて主張 され,今立花 によ って主張 されている 「エ リー ト教育」の中身は, 現代社会 に生 きるすべ ての人間に必要 な科学 リ テラシー として,主張 されてよい事柄 なのだ。

視点 は異 なって も,内容 の点 において,エ リ ー ト教育は 「市民のための教育」へ転轍で きる。

この点 はかつ ての共通 教 養論 と同 じ論 理 で あ る。

「浅 くて広 い知識」 とい うものの具体 的 な姿 を,た とえばテキス トとして, どの ようにまと めるか。その具体的な姿が出 されたこと (た と えば,新 しい教科書 シリーズ)が,かつて とち が う。それは,進歩 と考 えるべ きことである。

6.

理 科 教 育 の カ リキ ュ ラム を ど う考 え る か

完全 カ リキュラムの問題 (その1)

理科教育 の カ リキュラムはふつ う

,

「完全 カ リキュラム とい うプラ トン的理念」 に基 いて組

み立 て られている。STS教育の主張者ザ イマ ン は, この ように言 う。10)

「完全 カ リキュラム」 の考 え方 は,1960年代 の 「教科の現代化」の ときにいわれた 「教科の 系統性」 の考 え方 と同 じ発想 に立つ もの と考 え て よい。 これは乱暴 な言い方 だが,その基本 的 な構 えは同 じである。 その ときの科学の最先端 を基準 として,そ こ‑ 向 って小学校か ら大学 ま での学校段階のカ リキュラムの内容 を考 えてい

く点で,それは同 じである

その原理 をわか りやす く述べ たの は

,

「数学 史 と現代数学 と児童心理学」 とい う遠 山啓 の言 葉である。現代数学が研 究の最先端であ り,そ こへ 向って易 しい ものか ら高度 な ものへ と順序 正 しく並べ てい く。その並べ方の基本 は数学史 があたえて くれる。そ してそれ をどの年齢 に当 てるかべ きか を教 えて くれるのが,児童心理学 とい うわけである

この原則 は理科 の カ リキュラムを考 える上で も通用す る。 ただ し,それは まだ大 まかな原則 であ り,具体的な細 かい点 まで決定で きる原則 ではない。

遠 山の原則 を適用す る と,理科ではまずい こ とが生 じて くる。容易 な ものか ら高度 な ものへ の順序の基本 は,歴史的発生順序が決める。 そ うす る と,最先端 は,いちばん最後 となる。す でに紹介 した ように,高校 の物理 と化学では20 世紀 に発 見 され た事 項 はほ とん ど扱 ってい な い。

この問題 に関 して批判す るのは,立花 だけで はない。 これについては最後でふれ よう。

STS教育一完成 カ リキュラムの問題 (その2) STS教育 といわれ る ものは,完全 カ リキュラ ム とは異 なる発想 に立 つ。STS(科学 ・技術 ・ 社会)教育 は,現代 の科学 ・技術 が社会 に及ぼ す問題,た とえば原発 問題やIT問題,資源エネ ルギー問題,環境問題 な どを取 り上 げ,それ ら の科学技術が社会の中につ くりだす問題 をテー マ としてカリキュラムを構成 しようとす る

(10)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 27 (2008331日)

したが って

,S TS

教育 は,科学教育ではな く,

「科学論教育」 だ ともいわれ る。 た とえば,原 発 問題 を扱 うには, 日本 における政治的経済的 事柄 も扱 わねばな らない。つ ま り

S TS

教育 は, 理科 だけでは扱 えない総合科 目になる側面があ る。教育実践研 究運動 の中で 「総合学習」 ない し 「課題学習」 と呼ばれて きた ものに含 まれる とい う側面である。

総合学習で は

,

「調べ学習」 とい うような教 育方法の側面が強調 される ときがあるが,科学 論 としての

S TS

教育 は必ず しも,生徒 による調 査 を強調す るわけではない。む しろ,教師の講 義 を中心 とす るこ ともある。 「シス コン」 の よ

うに教科書 を作成すれば,そ うなる。11)

しか し

,S TS

教育 を科学教育 と全 く別 に行 う べ きか, とい うと必ず しもそ うな らない。原子 核分裂の知識 な しに,原発 問題 の総合学習が ど

こまで, どうい う形で行 えるか,考 えてみ ると よい。放射能の知識 な しに行 えば,それは時事 問題 として社会科で扱 われる内容 となる。 しか し,それでは,現代 の科学技術が引 き起 こす社 会問題 の本質 をどこまで理解で きるか,疑 問 と なる。

そ うい う意味で

,S TS

教育 は,科学教育 と連 動す る ものである

これ を程度問題 として考 えてみれば,高校物 理程度 の知識 を前提 とす る,あるいは,その程 度 の知識 を与 えなが ら授業 をす るのが

,S TS

教 育 とい うことになる。

しか し,具体 的なテキス トの構成 となる とむ ずか しい。

STS

の学際性

S TS( s c i e n c e ,t e c h n o l o

gy

,s o c i e t y )

は,そ もそ も学際的

( i n t e r d i s c i p l i n a r y )

だ といわれる。

いいかえれば,デ ィシプ リン,1つの学問 と しての方法 と体系 が, まだ存在 しない とい うこ とであ る。学際的領域 は,立花 の言 うように,

「局所 的 な補完行為」12)にす ぎないか も しれ な い

。S TS

は トピック として問題 ,た とえば原発

問題 な どを扱 うことはで きて も,科学技術が社 会で引 き起 こす諸問題一般 を論 じることはで き ない。少 な くと も, まだで きてい ない。 トマ ス ・クー ンやマイケル ・ボラニーや カール ・ポ パー らの間で論争があることは,デ ィシプ リン が まだないことを示 しているのだろう

S TS

は本来的 には大学 における研究 としては じまった。 さきに

S TS

教育 は科学教育ではな く 科学論教育 だ と述べ たが,そ こで科学論 に含 め られる学問は,科学史,科学哲学,科学社会学 な どと呼ばれる ものである。 ここにあげた3つ だけで も,その方法論 は歴史学,哲学,社会学

と異 なっている。

これは,教育史,教育哲学,教育社会学 と並 べ てみ る と,教育学 と同 じように見 える。教育 史 は歴史学,教育哲学 は哲学,教育社会学 は社 会学 と,それぞれ方法 を異 にす る。科学論 も教 育学 も同様 に,様 々な方法 を用 いて科学 とい う 1つの対象,あ るいは教育 とい う1つの対象 を いろいろな側面か ら研究す る。 しか し,教育学 には,その中心 として

,p e d a g o g y

(教授学)が 存在 している。 しか し,科学論 にはそれ に相 当 す る ものが ない。教育学が 1つのデ ィシプリン を もった学である と思 われ もす るのは,そ こに 中心 となる

p e d a g o g y

が存在 してい るか らであ る。それ に対 して

,S TS

が学際的 といわれるの は,そこに中心 となるものが ないか らである。

STS

教育 とエ リー ト教育

しか し,教育学が学際的で ない面 をあ ま り強 調するつ もりはない。

じつは,教育学の

p e d a g o g

yが教員養成の実践 学であるの と同 じように

,S TS

も実践 的性格 を も

「科学技術 が社 会 に及 ぼす影響 を評価 で きる能力 をもった」科学政策立案者の養成 をめ ざ して

,S TS

は始 った。 もちろん政策立案者 だ けで な く,科 学 の研 究 者 に も, これ か らは,

「科学技術 が社会 に及 ぼす影響 を評価 で きる能 力」 をもって もらお うと して,それは始 った も ので もある

(11)

「技術革新や環境 の アセス メ ン トがで きるア ナ リス ト」や科学政策の立案者 を養成す ること をめ ざす点で,STSはエ リー ト教育で もある。

知の総合‑ エ リー ト教育の真の課題

大学 レベ ルの授業科 目で考 える と,STSと立 花の考 え方の間に,どの程度の差が出るのかは, わか らない ところが多い。STSは運動 としては, 明 らか に科学論 を中心 とした学科 ない し研究科 な どを創 出す る

,

「学問創 出」運動 である。 た だ し,その運動が成功 し,1つの学問 となるか どうかはまだ不明である

立花 の立場 はそ うではない。知の全体 を学ぶ 立場である。既成の伝統 的な学問 も含 めて,最 先端の科学的知見の蓄積の全体 を,浅 くて もよ いか ら,知 れ, とい う。彼 はスペ シ ャリス ト, 専 門科学の研 究者ではな く,あ くまで もゼネラ

リス ト,全体的な知 を追い求める者である。

立花が科学史や科学哲学や科学社会学 を学ぶ ことを否定す ることはあ りえないが,エ リー ト 教育 とい う視点か ら考 える と,それがSTSに収 束 してい くとい うことはで きない。

エ リー ト教育 とい う視点で立花が問題 にす る のは,スノーが問題 に した

「 2

つの文化の問題」, 文科系の知識人 と理科系の知識人の間における 知の乗離である。そ して さらに,おな じ自然科 学で も,基礎研 究 をす る人間 と応用研 究 をす る 人間の間のギ ャップ,その相互無理解,そ して また文科理科 を問わず産業 に直結す る仕事 をす る人 とそ うでない人の間で進行 している無理解 状況であ る。 これ らの 「三重構造 の無理解」13)

を立花 は,エ リー ト教育の中心問題 として提起 している。まさに課題 とす るのは

,

「知の総合」, インテグレーシ ョンである。

ここか ら, もしSTSに問われることがある と すれば,STSは知の統合 に どんな寄与 を為 し得

るか, とい うこ とである。 しか しこれは,STS が エ リー ト教 育 に も寄与 す る と答 えるだ けで は,不十分である。

エ リー ト教育 を本気で考 える とい うことの問

題 には, この ような問題があ る。 ここではそれ を確認す ることしかで きない。それは知識社会 学的な 1大問題 である。科学 リテ ラシーの問題 と無縁 とはいえないか もしれない (た とえば文 科系知識人 に も科学 リテ ラシーは必要だ とは簡 単 に言 えるか ら)が,本稿 で論 じられ るもので はない。

最先端 か らの物理教育

先 に述べ た,高校物理の中で最先端がほ とん どふれ られない, とい う問題 について考 えてみ よう。

わが 国の物理教育が古典物理学 か ら入 って, 教科書の大部分が これ に費や され,現代 の最先 端 であ る素粒 子物理が少 ない こ とに対 しては, 物理学者の本 間三郎 も批判 している

「物理学の学習 は其の意味での物理学,す なわ ち,われわれの まわ りの 自然界が究極的 には何 か らどの ような仕組みでつ くられてい るか を明 らかに しようとす る物理学か ら出発すべ きであ る」。 そ うい う意味 で は,原子物理学 あ るいは

「素粒子物理学か ら始 めていか な くてはな らな い」。 け っ して,力学 とか電磁気学 とか熱学 と かの 「古典物理学か ら始めるべ きではない

」14)

この ように本 間は,最先端の原子物理学か ら 物理教育 を始め よ, と主張 してい る。本 間が取 り上 げて批判 しているのは,高校 と大学の物理 教育である。

本 間の主張 は,次 に紹介す るワインバ ーグの ように,物理未修者 だけを念頭 において考 える のか,それ とも両者 なのか。 また高校 と大学の 両方でそ うす るのか, どち らか片方だけ改善す れば残 りは良 くなるのか。 はっ き りしない点が あるが, ここではただ,古典物理か らは じめる 通常 の物理教育 に対す る批判の例 としてのみ挙 げてお く

最先端 を教 えるワインバークの本

本 間が訳 した 『電子 と原子核 の発見』の著者 ワイ ンバ ーグは,文科系の学生,あるいは物理

(12)

神奈川大学心理 ・教育研究論集 第 27号 (2008年 3月 31日)

教 育 を受 け て い ない理 系 学 生 を対 象 と して,

「 2 0

世紀 の物理学が成 し遂 げた偉業」 を紹介す る目的で,同書 を書いている。

同書 は,原子 を構成する基本的 な素粒子 であ る電子 と陽子,中性子 を中心 とす る発見の物語 である。それは,ニュー トン力学か らは じまる ふつ うの物理教育 とは異 なって,次の ような叙 述 をとっている。

電子や陽子の発見 を理解す る上で どうして も 必要 となる背景説明 として,その都度その都度,

「電気 の性 質,ニュー トンの運動 法則 ,電気力 と磁気力,エ ネルギーの保存」 な どについての 知識 を与 える。

た とえば,電子 の発見の実験 を理解す るため には,ニュー トンの運動法則,電気力 と磁気力, エ ネルギーの保存 など,古典物理学の概念が必 要 となる。だか ら,その実験 の背景 として,そ れ らについて説明す る。説明はほ とん ど分数 ま での算数 レベルである。抽象的な文字式 は使 わ ず,分数の式 も 「言葉」で表現 されている。数 学が得意 な人向けには,付録 と して 「ニュー ト

ンの運動 の第2法則」 な どが付 け られてい る

ここでは文字式 も使用 されてい る しか しその レベルは中学数学 レベルである。

この ようにワイ ンバ ーグは物理教育のふつ う の順序 を並べ替 えた。科学者 を目指すわけでな い素人 に対 して,科学の内容 を伝 える 「啓蒙の 方法」 として,彼 はこれ を考 えた。既成の物理 教育の順序 は,科学者 をめ ざす学生 には適 して い るか もしれない。 しか しそれは,科学者でな い人には適 さない。

「それ 〔ふつ うの物理教 育〕 は,つね に力学 か ら始 ま り,その次 に熱,電磁気 ,光,そ して 最後 にほんの少 しの現代物理学, とい うもので ある。 これは物理学者 になろうとしている学生 には理想的か もしれないが,一般の人たちには, 渡 りきる こ とので きない広大 な砂漠」 であ る

(同書 「まえが き」)

この ように, ワイ ンバーグは述べている。

市民のための教育 と最先端の教育

ワインバ ーグは古典物理学か ら始 めるこれ ま での物理教育 について,物理学者 になるための 教育 としては よい, と肯定 している。物理教育 を受 けていない学生 に向けて,最先端 の物理 を 紹介す るために,上の ような内容構成 を考 え出

した。

ワインバ ーグのい う 「物理教育 を受 けていな い人 に最先端の物理学の成果 を紹介す る」 とい うのは,それはまさに 「市民のための物理教育」

である。

そ して, ワイ ンバ ー グの立場 で は

,

「市民 の ための物理教育」 と 「専 門家のための物理教育」

とは, カ リキュラムの内容 を異 にす る。 ワイ ン バ ーグの本 は, レベル的には,高校生 に も使 え る。 これ と新 しい教科書 シリーズ を比較す る と 面 白い。

新 しい教 科書 シ リーズ の構 成 は伝 統 的 で あ る。そのちがい をどう考 えるか。

ワインバ ーグの方 も,背景説 明 として,ニュ ー トンの運動法則 を説明 し,その後で電気力 と 磁気力や,エ ネルギーの保存 な どの説明 を して い く。そ うい う点で,並べ方の順序が大 きく変 ってない ともいえる

む しろ大 きな違 いは, ワイ ンバ ーグの説明の 方が,同 じニ ュー トンの運動法則 の説 明で も, 説明す る事項が はるか に少 ない ことだ。教科書

シリーズは,大学受験 向けの計算 は していない が,それで も文字式 に よる表現 を基本 と して, 円運動 や単振 動 につ い て も丁寧 に説 明 してい

く。 ワインバ ーグにはそれはない。

教科書 シリーズの方 は,将来物理学者 になる 生徒 に向けて もつ くってあ る。載せ てある事項 は,通念 として高校物理で取扱 うとされる事項 (それは学習指導要領が想定 す る事項 と大 き く ちがわない) となっている。

教科書 シリーズは

,

「市民のための物理教育」

と 「専 門家のための物理教育」 の両方 をめ ざ し ている。あるいは,かつての共通教養論 の考 え 方 と同 じく,共通 に学ぶ もの を取 り出そ うした

(13)

試 み とい える。 ワイ ンバ ー グは 「専 門家 の ため の もの で は な い」 物 理 教 育 と して ,考 え て い る。

さて, どうす るか。 どち らの道 を行 くか。両 者 は統 合 され るか。第3の道 が あ るか。高校 の カ リキ ュ ラム を考 え るの は, ここか らで あ る

い くつかの考 え方が提示 で きるだろ う

しか し,今 , それ に決着 をつ け る方法 はみつ か らない。 これ以上 はたんな る思 弁 にす ぎな く なって しまうか ら, ここで止 めてお こ う。

1)2006年 に講談社 ブルーバ ックス として出 され た以下の4冊である。

・山本明利 ・左巻優男 編著 『新 しい高校物理の 教科書』講談社,2006年。

・左巻優男 編著 『新 しい高校化学の教科書』講 談社,2006年。

・栃 内新 ・左巻優男 編著 『新 しい高校生物の教 科書』講談社,2006年。

・杵 島正洋 ・松本直記 ・左巻健男 編著 『新 しい 高校地学の教科書』講談社,2006年。

2)私 は1980年代 半 ば

,

「大衆 的青年期」状況 を 背景 と して,小 川のい う 「5%児童 問題」 は その間題 の質 を変 えた と主張 した こ とが あ る。現在 で もその主張 を撤 回す るつ もりはな い。 しか し,格差問題への教育的対応 では考 えを異 にす るようになった。当時は,大衆的 青年期 における 「平準化」の中で青年期教育 の平等性 を,いわゆる 「普通教育」化の方向 で考 えていたが,現在では 「職業訓練」 を提 供す る形での平等性実現 を考えている。80年 代 の大衆的青年期論 としては,次の拙稿 を参 照。 「大衆 的青年期 における 『階層 問題』 の 性格」 (日本教育学会 『現代社会 における発 達 と教 育 (第四集)』 1986年所収),お よび

「今 日のわが国 における大衆的青年期 の主要 な矛盾の性格 についての試論」 (『東京大学教 育学部紀要 第26巻』1986年所収)0 3)政治的判断力 についてまとまって論 じた もの

として,拙稿 「普通教育概念の問題 (1)‑(3)

」 (

『神奈川大学 心理 ・教育研究論集 第18‑

20号』1999年〜2001年所収)参照。

4)公害学習運動 などの中で行 われた 自己教育運 動 に もマ ル クス主義 的 な発想 はあ った と思 う。 しか し私 はマルクス主義的土台がすべて 誤 りだった と考 えてはいない。私の考 えか ら すれば,労働 カテゴリーをめ ぐる問題である。

ポイエーシス (制作)としての労働 とは別 に, プラクシス (実践) としての対話的行為 をカ テゴリー として立 てる必要がある。広 い意味 ではマルクス主義者 とも評 されるハーバーマ スが,ハ ンナ ・ア‑ レン トの影響 を受 けて,

コミュニケーシ ョン的行為 のカテゴリーを押 し出 した ことは,そ うい うことだ。 したが っ て, ここでの問題 は,公害学習運動 それ 自体 の中に問題があ った とい うよ りは,それ を位 置づけ評価す る言説の問題 となる。思考枠組 の問題 である。ポイエーシス (制作) とプラ クシス (実践)のカテゴリーについては,拙 稿 「普通教育概念の問題」 (前掲)参照。

5)立花 隆 『脳 を鍛 える』新潮社,2000年,209 頁。

6)田中実 「地学教 育 の 目標」 (左 巻健 男 編著

『授業づ くりのための理科教育法』東京書籍, 2004年所収)

7)宮原誠一 『青年期の教育』岩波新書,1966年, 173頁。

8)立花隆 『脳 を鍛 える』 (前掲),40頁。

9) この点 についての立花の主張 に関 しては,節 掲書 『脳 を鍛 える』の 「日本の理科教育の水 準 は19世紀以前だ」 (37‑47頁) を参照。

10)ザ イマ ン 『科学 と社会 を結ぶ教育 とは』 (竹 内散 人 ・中島秀 人 訳 )産業 図書,1988年 ,

2 1

1頁。

l l ) J o a nS o l o mo ne d

,TheScienceinaSocialContext, 1983.(邦訳,『科学 .技術 ・社会

( S TS )

を考 える‑‑ シス コン ・イ ン ・スクール』東洋館 出版社,1993年) シス コン ・イン ・ス クール につ い て は,拙稿 「理科 教 育 と

STS

教 育 」 (神奈川大学経営学部 『国際経営論集 第32 号』2006年所収)の中で紹介 しておいた。

12)立花隆 『脳 を鍛 える』 (前掲),209頁。

13)同上,227頁。

14)本間三郎 「訳者あ とが き」(ワインバーグ 『新 版 電子 と原子核 の発見』 ち くま学芸文庫 , 2006年所収)。

参照

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