戦後のソ連における日本人軍事捕虜 : 1945年‑1953 年
著者 小林 昭菜
著者別名 KOBAYASHI Akina
その他のタイトル Japanese POW in the USSR after WW?
発行年 2015‑09‑15
学位授与番号 32675甲第362号 学位授与年月日 2015‑09‑15
学位名 博士(政治学)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://doi.org/10.15002/00012339
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博士学位論文
論文内容の要旨および審査結果の要旨
氏名 小林 昭菜
学位の種類 博士(政治学)
学位記番号 第580号
学位授与の日付 2015年 9月15日
学位授与の要件 本学学位規則第5条第1項(1)該当者(甲) 論文審査委員 主査 教授 河野 康子
副査 教授 菱田 雅晴 副査 教授 下斗米伸夫
戦後のソ連における日本人軍事捕虜 1945年~1953年
本小委員会は、小林昭菜氏が提出した博士(学位)請求論文「戦後のソ連における日本人軍事捕 虜1945年~1953年」について、口述試験を含む論文審査を終了した。以下、その審査結果を報告 する。
1,本論文の主題と構成
本論文は、第2次大戦後のソ連における日本人軍事捕虜を対象とし1945年から1953年までの時 期について、抑留、移送、ソビエト化、アメリカからの視点などから考察した。主題そのものが極め て独創性に富むものであり、冷戦の一環としての軍事捕虜という課題について実証的に迫る力作と言 えよう。加えて軍事捕虜の人数について従来から諸説があるなか、本論文では611,237人という人数 の特定を行った。とりわけ日本人軍事捕虜を戦後のアジアで最初の冷戦の被害者として捉え、その上 で捕虜の実態について考察した。従来、聞き書き、ドキュメンタリーなどの手法で取上げられること の多かったテーマについて、本論文は学術論文としての手法からアプローチし多くの知見をもたらし た。本論文の特徴としては、ロシア公文書史料、米公文書史料を中心とする原史料を中心とし、これ に回想録などを織り込むことで奥行きの深い実証研究となったことが挙げられよう。冷戦史研究は、
現在、進展著しいものがあり、マルチ・アーカイヴズの手法によって、より総合的な研究が求められ る段階にある。本論文は、その進展にさらなる一歩を刻むものと言える。
論文の章別編成は4章からなっており、以下の通りである。
序論
1,先行研究
2,先行研究における問題点及び研究目的
2 第1章 大日本帝国の敗北と関東軍将兵の抑留 第1節 ソ連の満州侵攻と関東軍の武装解除 第2節 諸説ある日本人軍事捕虜数
第3節 関東軍将兵抑留の経緯
第2章 日本人軍事捕虜の移送とラーゲリでの生活 第1節 開始された日本人軍事捕虜の移送と配置
第2節 抑留1年目のラーゲリ内の衛生管理と死亡者への対策 第3節 捕虜郵便はがきの検閲
第3章 日本人軍事捕虜のソビエト化
第1節 『日本新聞』の発行と初期の政治教育 第2節 「民主化運動」の拡大
第3節 強化された政治教育
第4節 ドイツ軍事捕虜に対する政治教育 第4章 米国からみたソ連の日本人軍事捕虜 第1節 「プロジェクト・スティッチ」とは
第2節 48年のスティッチ調査―「赤化」帰還者のピーク期 第3節 政治教育の最終ステージーナホトカ港
第4節 監視対象者
第5節 「プロジェクト・リンガー」調査から 結語
2,本論文の要旨
まず、序論では先行研究の綿密な検討が行われ、その問題点が指摘される。その上で、本論文の目 的として、ソ連に抑留された日本人軍事捕虜を米ソがどのように利用したのか、彼等を使った米ソ間 の情報戦がどのように展開したのかを明らかにすることが示された。この一連の目的のために、本論 文はロシア公文書史料、米公文書史料、抑留者回想記に基づいて実証的に構成されることとなる。
第1章 「大日本帝国の敗北と関東軍将兵の抑留」では、なぜ関東軍兵士がソ連へ抑留されたのか、
という基本的な疑問の検証が行われる。まず日ソ戦争の開始(8 月 9 日)から停戦までの過程を述べ、
日ソ戦争の停戦が 8月15 日以降であったこと、停戦命令が徹底できなかったことを指摘した。停戦 会談の記録は、ロシア国防省文書館の史料を用いた(18 頁)。日本では、「停戦会談で関東軍兵士を労 働使役に利用してもよいという提案がなされた」との憶測が存在しているが、ロシア語の会談記録を 見る限り、そのような記録はなかった。さらにスターリンの命令は 50 万人の日本軍兵士移送を命令 したが、実際は611,237人(26頁)の日本人軍事捕虜がソ連へ移送、労働使役させられたことを考察し た。
次に日本側の「和平交渉の要綱」がスターリンの日本兵移送指令の決定に影響を与えたかどうかを
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検証した。日本政府内の和平派は、大戦の早期終結を望み、秘密裏にソ連へ特使を派遣し、戦争終結 の仲介を依頼する予定であった。近衛文麿はその役目を担い、自ら作成したソ連へ持ち込まれる予定 の「和平交渉の要綱」案(7 月12 日作成)で、戦後賠償として日本軍の労務提供案を明記していた(30 頁)。しかし、要綱文の作成された時期と作成者の意図から、彼らは戦火を交えていないソ連へ日本軍 軍人の労働力を提供することを想定していなかった可能性が高いこと、日本軍が破壊した地域に、労 務提供は限定されるものと考えていたことを指摘した。
他方、ソ連は、日本政府が戦争の終結を望んでいることを知りつつ、対日戦争の準備をしていた。
和平派がこの動きを正確に読み取れなかった責任は大きいが、「和平交渉の要綱」が作成されるよりも 前に、ソ連は対日戦を決定、そして元々予定されていた8月半ばの対日戦参加を繰り上げ、9日に攻 撃を開始した。要綱文がソ連に漏れていた可能性も指摘できなくはないが、ソ連が「和平交渉の要綱」
をもって関東軍兵士移送を決定したわけではないと結論づけた。
ロシアの先行研究は、スターリンが日本軍軍人のソ連移送を決定した原因を、米ソ間の日本占領問 題における対立であったと主張している。この対立とは、北海道北半分の占領を要求したスターリン を、トルーマンが拒否したことを指している。スターリンは、日本の占領がドイツ式(分割)でなされ るものと考えていたが、トルーマンは米軍のみでと考えていた。先行研究では1945年8月16日、ベ リヤ、ブルガーニン、アントーノフ連名の電報(32頁)で「捕虜のソ連移送は行わない」ことを極東ソ 連軍総司令官ワシレフスキー元帥へ伝えていたが、一転して 23 日に日本軍軍人の移送を決定した理 由を次のように説明した。8月18日、トルーマンは日本を分割せず、米軍が管理することをスターリ ンへ伝え、22日激怒したスターリンは不満の意をトルーマンへ伝えた(32-33頁)。しかし、クリル諸 島をソ連軍が占領することで決着がつくと、22日午前、ワシレフスキーへ北海道上陸作戦の中止を伝 え、翌日、日本軍軍人のソ連移送を命じた。先行研究は16 日の「移送せず」電報から6日後に意思 決定を覆したのは、スターリンが北海道の占領を拒否された引き替えに日本人軍人を労働力として利 用しようとしたためだと述べている。
しかしながら、日本軍軍人の移送を決定したソ連国家防衛委員会決定の該当文書は、移送配置場所 を細かく規定し、移送方法を具体的に定めている(3-4節)。また、50万(実際は61万)の兵士を移送し 扶養しなければならないことを考えると、突発的に1日で即決できる案件ではない。北海道の占領を めぐる米ソの対立は、日本人軍事捕虜の移送をスターリンへ決定せしめるきっかけと捉えることはで きても、それをもって全て説明できるものではない。従って、本論文では日本軍軍人の移送は、事前 にソ連政府内で想定されていた可能性があると指摘した。加えて「関東軍文書」、ソ連国家防衛委員会
決定No.9898(スターリンの極秘指令)を検討、特に、なぜスターリンは「日本軍軍事捕虜50 万」
と定めたのか、50万人の捕虜が見込めることをいつから把握していたかを検証した。
ここでは、もう一つのベリヤ指令に注目し、ドイツ人等軍事捕虜の送還との関連を考察した。ソ連 は、対日戦争後すぐにドイツ人軍事捕虜でさえ戦後労働使役に使っているのだから、なぜ日本人はい けないのか、という論理を主張した(44 頁)。日本人軍事捕虜の移送が決定される少し前である 1945 年8月13日、ベリヤはソ連領内のラーゲリに既に配置されていたヨーロッパ系の軍事捕虜70万人の 解放命令を出し、それを8月15 日までに開始するよう命じた。解放対象者は病人を含んでいた。捕 虜の引き渡しは、10月15日までに完了することも指示された。つまり、働けない者を含むヨーロッ
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パの捕虜をソ連から移動する指令と言える。この指令が出された時点で、既に大日本帝国の敗北は決 定的となっていた。ベリヤ指令の時期に注目すると、ちょうど日本の敗戦、日本軍軍事捕虜の移送決 定の時期と重なる。労働に適さない病人や解放可能な軍事捕虜であれば、あえて対日戦争の混乱期を 選ばなくとも、もっと早い段階で祖国へ引き渡せたはずである。従って、このベリヤ指令は、不足す る労働力を日本人捕虜で代替すると同時に、これから大量に移送される50万人(実際は61万)の日本 軍軍人を扶養する余裕を確保するための策であったと考えられる。日本人軍事捕虜がソ連入りする前 に、先ずはヨーロッパ系の軍事捕虜を解放することを決定したと指摘した。
次に第2章 「日本人軍事捕虜の移送とラーゲリでの生活」では、軍事捕虜の移送状況を分析、加 えて日本で反ソ・バッシングの主要点となった抑留1年目の死亡率の解明、バッシング回避策として 登場した捕虜郵便の実態解明を行った。日本人軍事捕虜の移送は1945年9月24日の時点で30%、
10月4日の時点で45%、10月末までに69%が完了、残りは12月までに一部の病人を除き完了した。
1945年8月15日から10月までの間に、ベリヤ指令に従い、508,790人の外国人軍事捕虜がソ連 から帰還した。以上のデータから、日本人軍事捕虜のソ連移送は日ソ戦争終了前から計画されていた と指摘した。ソ連は既に収容されていた労働に適さない外国人軍事捕虜の扶養を止め、代わりに日本 人軍事捕虜を移送したのである。
戦後から1年の間に日本では、ソ連で大量の日本人軍事捕虜が労働に従事し、多くが亡くなってい るという噂が広まり始めていた。ソ連では抑留の最初の冬季に全抑留期間で最も多くの軍事捕虜が亡 くなった。日本人軍事捕虜を大量に死亡させた主な原因は、栄養失調であった。ソ連に管理責任があ ることは否定しないが、移送中の軍事捕虜の健康状態が酷く悪かったことも指摘した(59頁)。例えば、
移送された軍事捕虜の70%が病人や衰弱者であるなど、ラーゲリの内務省管理責任以外に、鉄道輸送 局の捕虜輸送管理責任、ソ連軍の満州集結地での管理問題が存在することを指摘した。また、ラーゲ リでソ連内務省は、日本人軍事捕虜の死亡率の高さを懸念し、衛生管理を徹底する指令を出していた が、ラーゲリ現場は指令を遂行することができなかった。
日本で、ソ連にいる日本人軍事捕虜の多くが死亡しているという噂を聞いた留守家族は、マッカー サーに請願書を提出し、ソ連から日本人を帰還させて欲しいと訴えた。ソ連が日本人軍事捕虜をポツ ダム宣言に違反して抑留したことは、対日理事会で米国が指摘し続けていた。そこで、ソ連は、国際 的な批判の下にさらされている日本人軍事捕虜の帰還問題を先送りする代わりに、ソ連が軍事捕虜を 丁重に扱っていることを赤十字が発行するはがきに書くよう、軍事捕虜に強制した。日本社会で広が る反ソ・バッシングを緩和するため、捕虜郵便を許可したのである。
ソ連政府は厳しい検閲制度を定めたが、捕虜郵便が届いた日本では、米国がはがきの中身を分析、
ソ連が日本人軍事捕虜に政治教育を行っていることを確認した。当時ソ連からの情報が少ない中で、
はがきは貴重な情報源であった。ラーゲリの配置場所も、極秘事項であったが、はがきの私書箱番号 とラーゲリ番号が同じであったため、米国は情報を収集し続けた。
第 3 章 「日本人軍事捕虜のソビエト化」では、日本人軍事捕虜の政治教育の過程を分析、日本人 への教化をどのように行ったのか、をロシア側の史料から明らかにした。日本人軍事捕虜への政治教
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育は、1945年9月4日にソ連共産党中央委員会で承認されたプロパガンダ新聞、『日本新聞』の発行 と共に始まった。初号は9月15 日に発行された。日本人軍事捕虜の政治教育の監督者でもあった、
イワン・コワレンコ編集長と一部の左翼的日本人協力によって、編集が行われた。まず、彼らは、新 聞を通して、反軍国主義思想を宣伝した(81頁)。この取り組みが下級兵士を中心に広がり、左翼的な 日本人軍事捕虜をリーダーに、下級兵士が彼らに賛同し従う反軍闘争がラーゲリ各地で始まった。こ れを「民主運動」と呼んだ。反軍闘争は新聞で大々的に報じられた。その後、運動を理論面でサポー トするクラブ活動「日本新聞友の会」が創設された。一部のラーゲリでは、反軍思想に目覚めた軍事 捕虜が日本共産党へ賃金の寄付を申請したケースがあった(84頁)。
反軍思想を基とする「民主運動」をさらに組織的な活動とするため、ソ連内務省は、1946年10月 19日、ラーゲリ各地に軍事捕虜用の政治部を設置することを決めた。これは、日本人軍事捕虜の祖国 帰還がいよいよ現実のものとなり、政治教育を急がねばならなかったこと、また、米ソ対立の亢進に 伴った政治教育強化の必要からである。
この時期、「民主運動」は講習会や勉強会を開催しながら、広がりつづけていた(89 頁)。しかし、
一部軍国主義思想が抜けない将校によって活動が妨害されたりもした。そこで、ソ連内務省は、妨害 する者を排除する指令を出した(88頁)。さらに、当時開始されていた祖国帰還に併せて、帰還者の選 抜を行うことと、ハバロフスク裁判へ向けた準備の一環として、戦時中の諜報活動家などを摘発する 指令を出した。結果多くの軍事捕虜が摘発された(88頁)。1947年になり、46年から停滞していた帰 還が3月から再開されると、極東のナホトカにある帰還用のラーゲリでは、帰還前に1日12時間の 集中教化が行われた。
この時期の特筆すべき事項は、軍事捕虜の「自主」委員会である「反ファシスト委員会」が設置さ れたことと、帰還後の日本共産党入党が奨励されたことである。「反ファシスト委員会」は 1947 年 12月末に創設が決定し、委員は、労働の免除とラーゲリを管理する権利、そして帰還者を選ぶ権利が 与えられた。時に彼らはその権利を乱用し、他の捕虜を脅したりした。反ファシストになるための訓 練コースが設置され、参加率は47年の2倍以上であった。日本共産党の宣伝が、『日本新聞』で大々 的に展開された。野坂参三、徳田球一、志賀義男らが紹介された。
その他、49年には、生産競争運動とスターリンへの感謝運動があった。両運動は、『日本しんぶん』
で宣伝され、ノルマを超過遂行した者は祖国へ優先して帰還できるなどという噂が広がった。スター リンへの感謝運動は、ソ連政府の政治教育の集大成としての意味を持っていた。4 年間のソ連生活へ の感謝、スターリンへの感謝をアルバムや感謝状にして表現することを政治指導部が決定、軍事捕虜 が準備した。
さらに日本人軍事捕虜の「民主運動」の発生時期とは異なるが、日本人の運動と比較するため敢え てドイツ軍事捕虜についての考察を第3章に加えた。ドイツ人軍事捕虜の反ファシスト運動は、戦時 中ソ連に亡命していたドイツ共産党員とソ連のイニシアチブによって始まったのに対し、日本人軍事 捕虜の「民主運動」は、左翼的な軍事捕虜とソ連によって始まったことを確認した。また、ドイツ人 軍事捕虜の「反ファシスト運動」の展開は、日本人軍事捕虜の「民主運動」と酷似していた。このこ とから、日本人軍事捕虜の政治活動は、ドイツのケースやその教訓を基に実行、展開されたと考えら れる。
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第4章 「米国からみたソ連の日本人軍事捕虜」では、ソ連からの帰還者を調査した米公文書史料、
CICのレポート「プロジェクト・スティッチ」を分析した。ここでは、共産主義化した帰還者は、米 国が脅威を抱いたほど多くはなかったことを結論付けた。中でもスティッチが「赤化」した帰還者の ピークを1948年の10月~12月と分析したことに基づき、該当年/月の地域別、月別、帰還船別のデ ータを分析した。地域別データでは、ソ連と共産主義に賛同した軍事捕虜はイズベストコーワヤ、チ
タで 46%と半数にも満たず、政治教育の中心地ハバロフスクでは、34%だった(109 頁)。帰還した月
別(10月〜12月)に分析して見ると、ソ連と共産主義の賛同者は最大で57.3%と半数を超えていたが、
逆に反ソ的な者の最大値は62.6%であった。史料2(112頁)では、共産主義に賛同という点ではⅠとⅡ を足すと過半数を超えているが、史料3(112頁)の学歴別データに従うと、大多数である小学校卒者の 20%が、共産主義とは何であるか理解していなかった。従って、ソ連の政治教育は、ナホトカ港では 成功したように見えたが、実際、共産主義者として帰還した者は米国が警戒したほど、多くはなかっ た。
次にCICが分析した、ナホトカ港のラーゲリの様子を考察した。同史料によると、ナホトカ港では、
日本人軍事捕虜で形成されたグループ「新日本青年同盟」が、監視役を担った。(「新日本青年同盟」
という集団はロシア側の史料では見つかっていない。)彼らは、日本人の共産主義化が十分であるか精 査、帰還者を選抜した。ナホトカでは、およそ200人の日本人軍事捕虜の共産主義者(「新日本青年同
盟」)が、ナホトカへ送還された者に帰還後はソ連の情報を口外しないよう警告したり、誓約書を書か
せたりした。青年同盟は、後に日本新聞社の日本人スタッフとそのイニシアチブを交代した。
監視対象者については、1954年に駐日ソ連代表部から米CIAへ投降したユーリー・ラストヴォロ フの証言から、彼がソ連の日本人軍事捕虜ラーゲリで、スパイをリクルートしていたことが明らかと なっている。ここでは、ラストヴォロフに関する個人監視ファイルIRRと、CIC史料を用いて、米国 が疑いの目を向けた、日本人4人について、それぞれの活動や任務を検証した。
朝枝繁春は、史料が少なく不明点が多いが、スパイ活動のためのコードネームが与えられていた。
志位正二は、ラストヴォロフと直接接触したスパイの一人で、活動に関する謝礼として金銭の授与も あった。しかし、米国の要求に応えた諜報活動もしており、2 重スパイともみなされている。種村佐 孝は、ソ連でスパイ契約を結び、暗号の解読方法まで教授され帰国した。しかし、なぜか帰還後すぐ にソ連のスパイであることを米当局に自供した。板垣正は、父板垣征四郎の死刑判決をハバロフスク で聞き、共産党員になり父の罪滅ぼしをと考え、「民主運動」のリーダーとして活動した。ソ連でスパ イ契約を結び帰還、そして日本共産党へ入党したが、2 年後「思うところあり」と離党、その後 80 年に自民党党員となり政界で活動した。
CICの史料は米陸軍のもので、帰還者の思想調査を目的に1946年より作成されたものだが、空軍 の史料「プロジェクト・リンガー」は 1951 年にロシアの地誌情報を得る目的で、帰還者から証言を 集めたものである。
ここではリンガー史料の100人分アンケートをまとめた。思想調査を目的に行われていないせいか、
いくつかの興味深い証言が見つかった。
まず、「モラル」についてである。米調査員がどのような意図を持ち、「モラル」という表現を使っ たのか明らかでないが、対象者に同じ質問を投げかけることで、各人の置かれた立場によって、「モラ
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ル」の捉え方が異なることが分かった。例えば、「民主運動」の活動家たちは、ラーゲリが「民主化」
することを「モラルがある」状態と捉えていた。他方、反「民主運動」の軍事捕虜は、日本軍隊的な 生活を維持することを「モラルがある」状態と捉えていた。この結果から、「民主運動」を肯定した「ソ 連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」が主張するような、運動が発生したことで、「ラーゲ リの秩序が保たれるようになった」という評価を再検討することができよう。
逃亡者や逃亡計画について、62%が見聞きしたと証言したことも興味深い。ロシアの公文書史料で は、逃亡者数は解明されていないため、リンガー史料は、ラーゲリで逃亡が頻発していたことを示す 史料といえる。逃亡はほとんどのケースで失敗に終わったようだ。
軍事捕虜の性生活についての証言も興味深い。特に中央アジアでは、管理体制が緩慢なラーゲリが あり、民間人と日本人軍事捕虜の性的接触があったことが多数報告されている。子供が生まれたケー スもあったようだ。
ソ連の核開発情報について質問していたことは、スティッチにはなかったポイントである。しかし、
重要な情報は得られなかったようである。
結語として、本論文は日本人軍事捕虜を利用する米ソ情報戦の視点から抑留問題にアプローチした ものであることが強調される。ソ連で抑留を経験した日本人軍事捕虜は、戦後アジアで初めて米ソ冷 戦の被害者となり、2 つの超大国に利用され、翻弄された。日本人軍事捕虜が、冷戦の犠牲者である ことが鮮明になるのは、ソ連の教化の中にいる時よりも、日本へ帰還してからの方が強く表れた。ソ 連は日本人軍事捕虜を共産主義者として帰還させ、「新日本国家」建設の革命戦士として活動すること を期待した。しかし、徹底した共産主義教育を受け帰国した彼らを待っていたのは、米国の容赦ない 情報収集作戦だった。米政府は、過剰なデータに基づく反ソ・バッシングを日本や国際社会に向けて 展開した。そして帰還した捕虜を尋問し、ソ連で彼らが実際に見聞きしたありとあらゆる情報を得よ うとし、収集した情報からソ連の政治、経済、軍事、地誌情報を分析した。米国の容赦ない尋問に耐 え兼ね、多くの者がナホトカでの誓いを破りソ連の情報を米側へ提供した。ナホトカで教えられた日 本の状況と実状が異なっていたことも、帰還後の彼らを目覚めさせた理由の一つだった。そして、米 国は共産主義者として帰還した捕虜の割合が、警戒したほどではなかったことに気づき驚いたが、ソ 連のスパイとして活動していた者も一部おり、彼ら監視対象者の動向を 50 年後半までマークし続け た。
しかし、本論文は、ソ連における日本人捕虜問題は、まだ完全に解明されていないとし、日ソの外 交史からの考察不足、又、ソ連全土の外国人軍事捕虜政策からみた日本人の位置づけがまだ明らかに なっていないことを指摘した。加えて、本論文では1950年から56年までに抑留された「長期抑留者」
の問題をカバーできていない。今後は、ソ連史の個々の側面を映し出す帰還者の記録、ソ連政府の公 式記録、そして米国の公的記録を基に更なる研究の前進が求められている。
3,本論文の特色と評価
本論文の特色は、これまでその実態が十分には解明されてこなかったソ連における日本人軍事捕虜 について、ロシア、米国の一次史料に基づいて多くの知見を提供したことにある。まず、そもそも何
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故、関東軍兵士がソ連に抑留されたのか、という基本的な課題について、日ソ戦の開始だけでなく、
それに先立つ日本側の構想(「和平交渉の要綱」)にまで遡り、これまで推測されてきた諸説を批判的 に検証した。その際、ベリヤ指令、ドイツ軍事捕虜の送還などとの新知見との関連にも配慮しつつ、
本論文は日ソ戦開始以前に日本軍軍人の移送が想定されていた可能性があると指摘した。さらに日本 人軍事捕虜に対するソ連の政治教育過程に注目し、「民主化運動」の拡大、これに対する妨害などの実 態を明らかにした。ここでドイツ人軍事捕虜の「反ファシスト運動」との類似性が指摘された。総じ て本論文の特色は、従来、推測などを交えつつ論じられて来たソ連における日本人軍事捕虜という存 在を改めて分析の対象とし、厳密な実証的アプローチを通じて軍事捕虜の正確な人数などを含む多く の新たな事実を発掘したことと言えよう。
本論文について評価できる点としては以下である。
第1に評価できるのは、本論文が、これまで本格的な先行研究が蓄積されてこなかった新たな研究 領域について積極的に取り組み、成果を得たことである。本論文には冷戦史の研究領域のなかに新た なジャンルを開拓するという研究意欲が明確に示されている。
第2に評価できるのは、1950年代という冷戦のピークとも言える時期にあって、ソ連と米国が日本 人軍事捕虜をめぐる熾烈な情報戦を展開した実態が具体性をもって示されたことである。こうした実 態は、従来、必ずしも十分には理解されてこなかった。
第3に本論文の史料的レベルの高さが評価できる。小林氏は本論文完成のためにモスクワへの数次 にわたり留学し、ロシア公文書史料を渉猟した。その成果は本論文の随所に活かされている。加えて 米国公文書史料についても、米国陸軍省史料(RG319)を十分に利用し、その成果を本論文に反映さ せて議論に深みを持たせることに成功した。マルチ・アーカイヴズの手法が高度に発揮されたものと 言えよう。もっとも他方で、米ソ冷戦という括りに収まりきれない問題群に意欲的に取り組む、とい う挑戦精神は評価できるが、主題の展開がやや不鮮明になったことも指摘できる。その後のスパイと された軍人活動家の経歴を研究する必要も出てこようが、もしそうすれば、筆者の時期設定とのずれ も出て来るかも知れない。その点で各章ごとのつながりの論理を詰めて欲しかった、との印象が残る。
こうした点は小林氏の今後の課題となるものである。
4,口述試験
本小委員会は2015年6月3日に小林氏の口述試験を行った。その際、審査委員からは本論文につ いて、問題意識、実証の方法、論理性などを中心に詳細な質問があった。それらの質問に対して小林 氏からは史料にもとづく回答があった。試験のなかで展開された小林氏の議論には、対象に関する十 分な洞察が窺われるものがあった。なお小林氏について母語以外に外国語2ヶ国語(ロシア語、英語)
の能力について確認が行われた。試験の結果、本小委員会は、小林氏について合格と判定した。
5,結論
以上の審査の結果、本小委員会は小林氏が、研究能力並びに学位論文に結実した研究成果の水準の 両面において、博士(政治学)の学位を受けるのに十分値するものと判定する。 以上