第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
著者 服部 伸
雑誌名 文化學年報
号 59
ページ 61‑83
発行年 2010‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027651
第 二 次 世 界 大 戦 後 の 鍼 灸 分 野 に お け る 日 欧 の 交 流
服 部
伸
は じ め に 本稿
は︑ 戦後 の漢 方医 学と ヨー ロッ パの オル タナ ティ ブ医 療の あい だに どの よう な交 流が 存在 した のか を明 らか に す るこ とに よっ て︑ これ まで 東ア ジア の中 だけ で語 られ てき た日 本の 伝統 医療 を︑ 近代 社会 にお ける 世界 的な オル タ ナ ティ ブ医 療史 のな かに 位置 づけ よう とす るも ので ある
︒こ れま で︑ 近代 の漢 方史 研究 にお いて は︑ 明治 以降 の近 代 化 によ る衰 退︑ 欧化 政策 の一 環と して の漢 方抑 圧の 側面 を明 らか にす るも のと
︑今 日の 漢方 再評 価に 繋が るも のと し て の漢 方復 興運 動を 評価 する 研究 は存 在す るが
!
︑い ずれ も︑ 漢方 医臨 床家 によ る 現 代 漢方 医 学 の立 場 か ら書 か れ た も ので あり
︑欧 米の オル タナ ティ ブ医 療と の関 係に つい て十 分に は論 究さ れて いな い︒ す でに 筆 者 は︑ 一九 五
〇 年代 に 漢 方 と 鍼 灸 治 療 の 指 導 の た め に ド イ ツ 連 邦 共 和 国 に 渡 っ た 漢 方 医 坂 口 弘︵
1921 −
2003
︶ の目 を通 して
︑当 時の ドイ ツを 中心 とし たヨ ーロ ッパ の鍼 治療 の実 情を 紹介 し︑ 戦後 のヨ ーロ ッパ で積 極的 に 鍼 治療 が取 り入 れら れて いた こと を明 らか にし た"
︒ 本稿 では
︑後 に坂 口を ドイ ツへ 招聘 する こと にな る一 ドイ ツ人 医師 の来 日を きっ かけ に活 性化 した
︑日 本と ヨー ロ
― 61 ―
ッ パの 鍼灸 関係 者の 交流 を通 して
︑日 本の 鍼灸 界が ヨー ロッ パか らど のよ うな 影響 を受 けた のか を解 明す る︒ その た め に︑ まず
︑第 二次 世界 大戦 後の 日本 とヨ ーロ ッパ での 鍼治 療の 状況 を確 認す る︒ その うえ で︑ とく に鍼 灸業 者の 業 界 誌と して 機能 して いた
﹃医 道の 日本
﹄を 主た る分 析対 象と して
︑こ のド イツ 人医 師と の出 会い を通 して
︑日 本の 鍼 治 療の 担い 手た ちが 何を 感じ
︑ま た︑ 何を 学び 取っ てい った のか を浮 かび 上が らせ ると とも に︑ この 時代 の日 本の 漢 方
・鍼 医学 の置 かれ てい た状 況︑ さら には 日本 の疾 病・ 衛生 状況 につ いて も言 及し たい
︒ 一︑
日 欧 にお け る 鍼治 療 の 状況
︵一
︶近 代日 本に おけ る漢 方と 鍼治 療 第二 次世 界大 戦後 の日 欧の 鍼治 療に 関す る交 流を 考え る前 提と して
︑双 方の 鍼治 療の 状況 を歴 史的 に確 認し てお こ う
︒ま ず︑ 近代 以降 の日 本に おけ る漢 方と 鍼治 療に つい て見 てみ よう
︒ 古代 以来 中国 医学 を移 入し てき た日 本で は︑ 江戸 時代 まで の医 学の 主流 は中 国医 学を 起源 に︑ 独自 の発 展を 遂げ た 漢 方医 学で あっ た︒ しか し︑ 幕末 には 蘭方 に転 向す る医 師も 現れ
︑し だい にヨ ーロ ッパ の医 学の 影響 力が 日本 でも 強 ま って きた
︒ 明治 期に なる と︑ 漢方 は壊 滅的 な打 撃を 受け るこ とに なっ た︒ 明治 政府 はヨ ーロ ッパ をモ デル とし た近 代国 家へ の 転 換を 急い だ︒ その 中で 医学 に関 して も西 洋医 学の 導入 が図 られ た︒ 一 八 七四 年 に 制定 さ れ た医
制!
は︑ 日本 の 歴 史 上
︑医 師 の 免許 に 関 する 規 定 を 設け た 最 初の 法 律 であ り
︑新 た に 医師 と し て開 業 す るた め に は 西洋 医 学 の 教 育 を 受 け
︑国 家試 験に 合格 する 必要 があ るこ とを 定め てい た︒ 一八 八三 年に 制定 され た 医 師 免許 規 則 と医 術 開 業試 験 規 則"
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 62 ―
で は︑ 漢方 医に つい ても 同じ 条件 が求 めら れる よう にな った
︒こ れ以 降は
︑西 洋医 学を 学ん だも のだ けが 国家 試験 に 合 格す るよ うに なり
︑漢 方医 の下 で古 典を 学ん だだ けの 門下 生に は︑ 新し い国 家試 験に 合格 する こと は不 可能 であ っ た!
︒国 家試 験の 合格 者が 漢方 治療 を行 う余 地は 残さ れて いた が︑ 大半 の国 家試 験 合 格 者は ヨ ー ロッ パ の 医学 に よ る 治 療を 志し た︒ こう して
︑後 継者 を養 成す るこ とが でき なく なっ た漢 方医 は︑ 日本 社会 から 自然 消滅 する 運命 とな っ た ので ある
︒ もち ろん
︑漢 方医 たち はさ まざ まな 活動 を通 して 試験 規定 を改 正し
︑後 継者 を再 び養 成で きる よう にし よう と試 み た
︒と りわ け憲 法の 規定 に従 って 一八 九〇 年に 帝国 議会 が開 設さ れる と︑ 全国 の漢 方医 が結 集し て︑ 医師 試験 規定 を 改 正 す る運 動 が 活発 に な っ たが
︑一 八 九 五年 の 議 会で 医 師 試 験規 定 改 正法 案 は 僅差 で 否 決 され
︑運 動 は 下 火 に な っ た"
︒漢 方医 学の 長老 がし だい に医 療の 現場 から 退い たこ とも あっ て︑ 漢方 医学 は急 速に 衰退 した
︒ 一九 一〇 年代 にな ると
︑新 しい 世代 によ る漢 方復 興運 動が 起こ って きた
︒医 師資 格を もつ 和田 啓十 郎は 一九 一〇 年 に
﹃医 界之 鉄椎
﹄を 著し
︑彼 に触 発さ れた 金沢 医学 専門 学校 出身 の医 師湯 本求 真は 一九 二七 年か ら一 九二 九年 にか け て 三巻 から なる
﹃皇 漢医 学﹄ を発 表し た︒ また
︑一 九二 六年 には 作家 の中 山忠 直が
﹃日 本及 び日 本人
﹄に
﹁漢 方医 学 復 興論
﹂を 発表 し︑ 漢方 は社 会的 にも 注目 を集 める よう にな った
︒ この よう な漢 方医 学を 再評 価す る動 きに あわ せて
︑漢 方医 学の 講習 会が 行わ れた り︑ 漢方 普及 のた めの 協会 組織 が 結 成さ れた
︒た だし
︑こ のよ うな 活動 をも って
︑漢 方が 日本 社会 で復 権し たと 即断 する こと はで きな い︒ 確か に︑ 戦 前 期の 民族 主義 的な 雰囲 気の 中で
︑伝 統的 な医 学へ の回 帰は 時代 にマ ッチ して いた よう に思 われ るか もし れな い︒ し か し︑ 戦争 準備 を進 める 当時 の日 本に とっ ては
︑よ り高 度な 科学 的医 学へ の関 心が 高ま って いた ので ある
︒一 九三 三 年 に は︑ そ れま で は 認め ら れ て いた
﹁漢 方 科﹂ の 標榜 が 禁 止さ れ
︑漢 方 医 は﹁ 漢方
﹂を 名 乗 る こ と が で き な く な っ
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た!
︒漢 方へ の抑 圧は なお も続 いた ので ある
︒ 漢方 の復 興が 本格 化す るの は︑ むし ろ第 二次 世界 大戦 後で ある
︒一 九五
〇年 に結 成さ れた 日本 東洋 医学 会は
︑全 国 の 有力 な漢 方医 が結 集す る学 術組 織で あり
︑﹃ 日 本東 洋 医 学会 雑 誌﹄ を 刊行 し
︑漢 方 を 学術 的 に 研究 す る ため の 基 盤 と なっ た︒ ただ し︑ これ まで 述べ てき た漢 方医 学と は︑ 主と して 薬物 治療 を中 心と して おり
︑大 半の 漢方 医は 鍼治 療に は消 極 的 であ った
︒ド イツ 滞在 中の 坂口 が日 本に 書き 送っ た記 事の 中で 指摘 した よう に︑ 日本 では
︑長 らく 鍼治 療は 盲人 の 仕 事 と 位 置 づ け ら れ て い た が︑ 医 学 の 基 礎 知 識 を 持 た な い ま ま で
︑多 く の 治 療 師 が 鍼 治 療 に 携 わ っ て い た の で あ る"
︒こ うし た傾 向は
︑第 二次 世界 大戦 後に も変 わら なか った
︒鍼 治療 従 事 者 は︑ 一部 の 漢 方医
︑鍼 灸 学 校に 学 ん だ 治 療師
︑盲 学校 の鍼 灸コ ース に学 んだ 治療 師な どに 分 かれ て い たが
︑医 師 資 格を も つ 鍼 医は き わ めて 少 数 で あっ た
︒ ま た︑ 社会 的に も鍼 治療 の効 果は それ ほど 高く 評価 され てい たわ けで はな かっ た︒ 業界 団体 の利 益団 体と して の鍼 灸 師 組織 は存 在し たが
︑純 粋な 学術 組織 とは 言い 難く
︑鍼 灸雑 誌﹃ 医道 の日 本﹄ も学 術雑 誌と して の体 裁は 整え てい な か った
︒ こう した 中で
︑鍼 灸医 学を 科学 化す るこ とに よっ て︑ 鍼灸 が時 代遅 れの 迷信 であ ると いう イメ ージ を払 拭し よう と 模 索が 始ま った
︒し かし
︑一 方で は解 剖学 的な 見地 から
︑経 絡は 実在 しな いと して
︑科 学化 を徹 底し よう とす るグ ル ー プと
︑中 国古 典の 記述 に忠 実な グル ープ との 対立 が深 まっ てい た︒ 一般 的な 鍼灸 師た ちは
︑医 師グ ルー プを 中心 と し た鍼 治療 近代 化に 向け た研 究に よっ て︑ 自分 たち の 治療 法 の 効果 が 証 明さ れ る こ とに 期 待 しな が ら も︑ 他 方で は
︑ 医 学教 育を 受け てい ない 自分 たち の地 位が 脅か され るこ とを 恐れ てい た︒
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︵二
︶ヨ ーロ ッパ にお ける 鍼治 療 次に
︑ヨ ーロ ッパ にお ける 鍼治 療に つい て確 認し てお こう
︒東 アジ アの 鍼治 療は
︑大 航海 時代 にヨ ーロ ッパ にも た ら され てい たが
︑鍼 灸を 中心 とす る東 アジ ア医 学へ の関 心が 高ま って きた のは 二〇 世紀 にな って から であ った
︒戦 後 西 ド イ ツ の 鍼 治 療 隆 盛 の 直 接 の き っ か け に な っ た の は
︑一 九 世 紀 後 半 に 活 躍 し た ホ メ オ パ シ ー 医 ヴ ァ イ
エ
August
Weihe
︵
1840 − 1896
︶ の 痛点 刺 激 治 療で あ る︒ 彼 は︑ 特定 の 痛 点を 刺 激 す るこ と に よっ て
︑特 定 の ホ メ オ パ シ ー 治 療 薬 の服 用治 療と 同じ 効果 が現 れる こと を発 見し た︒ その 妥当 性を めぐ って ドイ ツの ホメ オパ シー 医学 会で は激 しい 論 争 が繰 り広 げら れた が︑ ヴァ イエ の説 はホ メオ パシ ーか らの 逸脱 と考 えら れて
︑ド イツ では 受け 入れ られ なか った
︒ しか し︑ 諸国 を放 浪し て︑ 北米 イン ディ アン の痛 点治 療に 興 味を も っ た フラ ン ス 人の ド ゥ
=
ラ=
フ イ ユRoger de la
Fuye
︵
1890 − 1961
︶ は︑ 中国 の鍼 灸治 療と ヴァ イエ の治 療 法を 結 合 させ て
︑ホ メ オ ジニ ア ト リー
︵中 国 風 ホメ オ パ シ ー
︶を 提唱 し︑ ヨー ロッ パ人 に理 解し やす いか たち で普 及さ せた
!
︒ 一九 五〇 年に パリ でド ゥ
=
ラ=
フ イユ の教 え を 受け た ド イツ 人 が シュ ミ ッ トHeribert Schmidt
︵
1914 − 1995
︶ であ る
︒ 彼 は元 来ホ メオ パシ ー医 であ った が︑ ドゥ
=
ラ
=
フイ ユの 下で ホメ オジ ニア トリ ーを 学び︑一 九五 二年 には 師の 著書 を ド イツ 語に 翻訳 した
"
︒同 年に はド イツ 鍼医 学会 の機 関誌
﹃ド イツ 鍼雑 誌﹄
Deutsche Zeitschrift für A kupunktur
も創 刊 さ れて おり
︑西 ドイ ツに おけ る鍼 治療 が軌 道に 乗り 始め た時 期で ある
︒つ まり
︑西 ドイ ツで 鍼治 療が 普及 して いく う え で︑ すで に多 くの 人び とに 知ら れて いた ホメ オパ シー が重 要な 役割 を果 たし てい たの であ る︒
― 65 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
二︑ シ ュ ミッ ト の 日本 訪 問
︵一
︶日 本で の研 修 一九 五三 年に 研修 のた めに 来日 した シュ ミッ トの 活動 を見 てゆ くこ とで
︑彼 が日 本で どの よう な人 間関 係を 形成 し た のか を踏 まえ たう えで
︑当 時の 日本 の鍼 灸界
︑さ らに は日 本社 会に 与え た影 響を 考察 する とと もに
︑東 洋医 学を 学 ぼ うと した この ドイ ツ人 医師 が︑ もっ てい た医 学観 を明 らか にし てゆ く︒ シュ ミッ ト!
は 一九 一四 年に ザー ルラ ント に生 まれ た︒ ロス トッ クと ハイ デ ル ベ ルク で 医 学を 学 び︑ 第 二次 大 戦 中 は オー バー シュ レー ジ エ ン のバ ー ト・ ケ ーニ ヒ ス ドル フ
Bad K önigsdorff
︵ 現 在は ポ ー ラン ド 領︶ で 開業 し た
︒一 九 四 七年 には シュ トゥ ット ガル トの ロベ ルト
・ボ ッシ ュ病 院で 開催 され たホ メ オ パ シー 講 座 を受 講 し"
︑ 一 九五 二 年 ま で シュ ヴェ ービ ッシ ュ・ グミ ュン ト
Schwäbisch Gmünd
でホ メオ パシ ー医 とし て開 業し た︒ 彼は ドゥ
=
ラ
=
フイ ユよ り ホ メオ ジニ アト リー を学 んで いた が︑ ホメ オパ シー の理 論に 基づ く鍼 治療 には 満足 しな かっ たの か︑ 東洋 の鍼 治療 を 学 ぶこ とを 決意 し︑ 一九 五三 年に 日本 へと 旅立 った︒ど のよ うな いき さつ があ った のか は不 明で ある が︑ 彼は
︑鍼 灸 師 の岡 部素 道宅 に滞 在し なが ら鍼 灸術 を学 ぶこ とに なっ てい た#
︒ 一九 五三 年に はド イツ から のシ ュミ ット とと もに
︑香 港か らの 許密 甫も 日本 に滞 在し てお り︑ さら に︑ フラ ンス か ら バラ ート
・デ ュポ ン
Barat D upont
も 短期 留 学 に来 た
︒彼 ら の日 本 訪 問に よ っ て︑ 日 本の 漢 方 医学 界 と 針灸 界 は に わ かに
﹁国 際化
﹂を 意識 して 活気 づい た︒ シュ ミッ トの 滞在 中︑ 鍼灸 師向 け雑 誌﹃ 医道 の日 本﹄ は︑ 彼の 言動 につ い て
︑ほ ぼ毎 号で 報じ てい た︒
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後年
︑シ ュミ ット は自 著の 序文 にお いて
︑日 本滞 在中 に鍼 治療 分野 では 岡部 素道 と間 中喜 雄︑ 漢方 薬草 療法 につ い て は大 塚敬 節と 細野 史郎 の教 えを 受け たと 述べ てい るが
!
︑滞 在中 長期 にわ た っ て 間中 喜 雄 宅に 滞 在 し︑ 鍼治 療 に つ い ての 教え を受 けて いた
"
︒と くに
︑医 学を 修め た正 規の 医師 であ り︑ ドイ ツ 語 に も堪 能 で あっ た こ とか ら
︑シ ュ ミ ッ トは 間中 を信 頼し てい たよ うで ある
#
︒間 中は
︑小 田原 の医 師の 家系 に 生 ま れ︑ 京都 帝 国 大学 を 卒 業後
︑沖 縄 で 軍 務 に着 き︑ 終戦 後郷 里に もど って 間中 外科 医院 を継 ぎ︑ さら に病 院を 設立 した
︒外 科医 とし ても 著名 な人 物で あっ た と いう が︑ 一九 五〇 年の 日本 東洋 医学 会設 立に 参加 し︑ 東洋 医学 発展 のた めに つく した
︒後 には
︑東 洋針 灸専 門学 校 長
︑北 里研 究所 東洋 医学 研究 所客 員部 長な どを 歴任 する 人物 であ る$
︒ 岡部 素道 は︑ 鍼灸 治療 復興 運動 の中 心人 物柳 谷素 霊の 弟子 で︑ 経絡 治療 を提 唱し たこ とで 知ら れて いる
︒大 塚敬 節 は
︑代 々高 知で 医院 を開 業し てい た家 系に 生ま れた
︒熊 本医 専を 卒業 後︑ 家業 であ る産 婦人 科を 継ぐ こと を期 待さ れ て いた が︑ 手先 が不 器用 だっ たた めに
︑む しろ 内科 を志 した
︒中 山忠 直の
﹃漢 方医 学の 新研 究﹄ に触 発さ れて
︑漢 方 に 興味 をも つよ うに なり
︑さ らに 湯本 求真 の﹃ 皇漢 医学
﹄を 読ん で感 銘を 受け て︑ 単身 上京 して 湯本 の元 に弟 子入 り し た%
︒ 細野 史郎 は︑ 京都 帝国 大学 を卒 業し た医 師で
︑戦 後漢 方の 近代 化に 取 り 組 んだ 人 物 とし て 知 られ て い る︒ そ の うち の一 つは
︑漢 方薬 の薬 理学 的研 究で
︑も う一 つは
︑漢 方薬 のエ キス 剤 創 成 であ っ た&
︒ 彼 の弟 子 で ある 坂 口 弘 は
︑や はり 京都 大学 医学 部卒 業の 医師 であ り︑ シュ ミッ ト に請 わ れ て一 九 五 四年 か ら 五 五年 に か けて ド イ ツ に渡 り
︑ 漢 方・ 鍼灸 治療 の指 導を 行っ た︒ シュ ミッ トは
︑遅 くと も五 月に は京 都を 訪れ
︑細 野と 坂口 に会 って いた
︒間 中と 同 じ 京都 大学 医学 部の 卒業 生で あり
︑同 窓生 のネ ット ワー クが 活用 され たの かも しれ ない
︒ 他に も︑ 長野 では 七條 晃正 宅に 約一 ヶ月 滞在 し︑ 経絡 につ いて の講 義を 受け た︒ また
︑鍼 灸師 の代 田文 誌を 訪ね て そ の治 療法 を見 学し た︒ 当地 では
﹁ヨ ーロ ッパ に於 ける 近代 鍼術 の勃 興 と 将 来﹂ と題 す る 講演 を 行 って い る'
︒さ ら
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に
︑七 條が かつ て学 んだ 金沢 大学 医学 部の 石川 太刀 雄教 授︑ 藤田 六朗 教授 など
︑東 洋医 学に 関心 をも つス タッ フの 研 究 につ いて の説 明を 受け た!
︒ 長野
・金 沢の 滞在 後に は関 東地 方に 戻っ たが
︑伊 勢崎 で開 業す る赤 羽幸 兵衛 を訪 ね︑ 彼の 研究 成果 につ いて 説明 を 受 けた ほか
︑伊 勢崎 市医 師会 に招 聘さ れて 鍼治 療に 関す る講 演を 行 っ た"
︒ ま た︑ 柳谷 素 霊 から も
︑通 訳 を交 え な が ら 古典 的な 東洋 医学 の理 論に つい ての 個人 授業 を受 けて いた
#
︒さ らに
︑帰 国前 に 東 京 で開 催 さ れた 送 別 会に お け る 謝 辞の なか で︑ シュ ミッ トは
︑井 上恵 理と 本間 祥白 から 五行 理論 につ いて 学 ん だ こと に 言 及し
た$
︒日 本 にお い て シ ュ ミッ トが 教え を受 けた のは
︑当 時の 一級 の漢 方医 や鍼 灸師 であ り︑ 十ヶ 月間 の日 本滞 在中 に︑ 当時 の最 高水 準の 理 論 と技 術に 触れ るこ とが でき た︒
︵二
︶日 本で の講 演活 動 しか し︑ 彼は もっ ぱら 日本 の漢 方医 学・ 鍼治 療に つい て吸 収し ただ けで はな かっ た︒ 彼は
︑活 発な 講演 活動 を通 し て
︑ヨ ーロ ッパ で起 こり つつ ある 新し い鍼 治療 を日 本に 紹介 した
︒す でに
︑シ ュミ ット が日 本に 到着 する 前か ら︑ 岡 部 素道 らは
︑許 密甫 とシ ュミ ット を交 えて 国際 鍼灸 座談 会を 開催 する こと を 計 画 して い た%
︒ 六 月一 四 日 に東 京 の 日 本 教育 会館 で開 催さ れた この 会合 では
︑ド イツ 側か らシ ュミ ット がド イツ にお ける 鍼灸 術の 現状 につ いて
︑中 国を 代 表 して 香港 の許 密補 が中 国に 於け る鍼 灸術 の現 状︑ さら に日 本側 から 柳谷 素霊 が日 本の 鍼灸 諸流 派に 関す る解 説︑ 間 中 喜雄 が診 察と 治療 の関 連性 につ いて 講演 し︑ 慶應 大学 の医 局に いた 漢方 医の 龍野 一雄 と鍼 灸師 の岡 部素 道が これ ら の 報告 に対 して コメ ント した
︒そ の後
︑フ ロア の聴 衆も 含め て討 論が 行わ れ︑ 最後 には
︑シ ュミ ット
︑許
︑赤 羽の 鍼 治 療術 の実 技デ モン スト レー ショ ンが 行わ れた
&
︒
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 68 ―
ここ での シュ ミッ トの 講演 内容 は︑ 以下 のよ うに 要約 され る︒ フィ ルヒ ョウ らに よっ て打 ち立 てら れた 細胞 病理 学 な どの 近代 医学 はす でに 限界 に来 てお り︑ 身体 全体 の 病気 を 考 慮す る 動 きが ヨ ー ロ ッパ に も 出て き て い る︒ そし て
︑ 鍼 と類 似の 治療 方法 がヨ ーロ ッパ の科 学的 医学 の医 師の 間で も知 られ るよ うに なっ てき てい る︒ ただ し︑ この よう な 治 療方 法は
︑東 洋の 鍼治 療術 のよ うに 経絡 の概 念を もっ てい ない ため
︑偶 然性 にた よっ てい た︒ ヨー ロッ パの 鍼治 療の 源流 はホ メオ パシ ーで あり
︑東 洋医 学で はな い︒ ホメ オパ シー は本 来薬 物療 法で ある が︑ あ る 薬物 によ る治 療が 必要 な患 者は
︑決 まっ て同 じツ ボに 痛み があ るこ とを ヴァ イエ が発 見し
︑こ の考 え方 をさ らに ド ゥ
=
ラ=
フイ ユが 発展 させ︑中 国鍼 灸の ツボ にホ メオ パシ ーの 薬物 を当 ては めて いっ た︒ これ は机 上の 空論 で︑ 臨床 的 な 必ず しも 正し いと は限 らな い︒ そし て︑ 戦後 のド イツ では ドゥ
=
ラ
=
フイ ユの 門下 生が 中心 にな って︑ド イツ 鍼治 療 学 会が 設立 され
︑か なり の鍼 医が すで に活 動し てお り︑ 鍼医 学の 主流 をな して いる
︒こ のよ うな 状況 を打 開す るた め に
︑彼 は経 絡・ 経穴 を理 解す るこ とが 必要 であ ると 主張 した
︒シ ュミ ット はド イツ の医 療状 況を 紹介 しつ つ︑ ヨー ロ ッ パで 独自 に鍼 治療 が発 達し てい るこ とを 日本 に伝 えた
︒ シュ ミッ トは
︑こ の座 談会 以外 にも 日本 鍼灸 治療 学会 や日 本東 洋医 学会 でた びた び講 演し た︒ さら に︑ ドイ ツ人 の 講 演を 聴く とい うこ と自 体が 珍し かっ たか らか
︑彼 の立 ち寄 った 先々 で︑ 地域 医師 会な どが 主催 する 講演 会が 行わ れ た
︒と くに
︑帰 国が 迫っ た一 九五 四年 一月 には
︑新 しい 鍼治 療法 で一 躍有 名に なっ た赤 羽幸 兵衛 と西 日本 各地 を巡 講 し
︑鍼 灸関 係者 を中 心と した 多く の聴 衆を 集め た︒ 一月 一七 日の 大阪 労働 会館 での 講演 には 二〇
〇名 以上 の聴 衆が あ っ た︒ 翌日 は延 岡市 医師 会館 で一 二〇 名︑ 二〇 日の 熊本 市公 会堂 では 一六
〇名
︑二 二日 の長 崎市 町村 会館 では 三八
〇 名
︑一 月二 三日 の佐 賀新 聞会 館で は四
〇〇 名︑ 二四 日に は九 州大 学病 理学 教室 で五
〇名
︑小 倉市 保健 所で 一五
〇名 の 聴 衆を 集め た︒ さら に本 州に 戻っ て︑ 二五 日に は広 島 教育 会 館 で一 二
〇 名を 集 め た 講演 会 を 開催 し て い る︒ とく に
︑
― 69 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
延 岡で は宣 伝カ ーで 街路 を行 進し
︑長 崎で は県 知事 の挨 拶を 受け た!
︒ この よう に︑ シュ ミッ トは 各地 で話 題に なっ た︒ 当然
︑日 本の メデ ィア も彼 に関 心を もっ た︒ 鍼灸 師の 雑誌 だっ た
﹃医 道の 日本
﹄誌 では
︑全 国各 地の 新聞 が報 道す る鍼 灸 関 連記 事 を 紹介 し て お り︑ この 時 期︑ 各 地の 新 聞 でシ ュ ミ ッ ト につ いて 取り 上げ られ てい たこ とが わ かる
︒た と え ば︑ 代田 文 誌 宅に 滞 在 中 には
︑﹃ 信 濃 毎日 新 聞﹄ が 一九 五 三 年 八 月二 九日 付け 夕刊 に﹁ 東洋 医学 の鍼 灸術 や漢 方薬 は次 第に 西洋 医学 に圧 迫さ れて
︑今 では 日本 の医 学界 では 家庭 療 法 の一 種ぐ らい に思 って いる 人も 少な くな いが
︑日 本の 鍼術 を深 く究 め︑ これ から 広く 西欧 に広 めよ うと ドイ ツか ら は るば る長 野市 へき て鍼 灸の 研究 をし てい るド イツ 人の 医博 があ る︒
⁝⁝
﹂と 紹介 され てい る"
︒ 地方 では
︑シ ュミ ット が自 分の 町を 来訪 する ので はな いか と妄 想が 広が るこ とも あっ た︒ 下諏 訪に 住む ある 鍼灸 師 は 自分 が開 発し た鍼 灸法 をシ ュミ ット に知 らせ たと こ ろ︑ 彼か ら は その 治 療 法を 見 学 し たい 旨 返 答が あ っ た とい う
︒ こ のこ とが 下諏 訪︑ 岡谷 地方 の地 方紙 には
﹁シ ュミ ット 博士 来町 か﹂ とい う記 事と して 掲載 され た#
︒ 全国 紙で もシ ュミ ット のこ とは 取 り上 げ ら れた
︒一 九 五 三年 一 一 月 一七 日 付 けの
﹃朝 日 新 聞﹄ 夕 刊︵ 東京
︶で は
︑
﹁ド イツ の博 士︑ 漢方 医学 習う
﹂と いう 見出 しと とも に記 事 が 掲載 さ れ︑ 大 塚敬 節 か ら 漢方 原 論 と臨 床 の 教え を 受 け て いる シュ ミッ トが 写真 入り で紹 介さ れた
︒こ の記 事で は︑ すで に第 二次 世界 大戦 前に フラ ンス では 鍼治 療へ の関 心 が 高ま り︑ ホメ オパ シー 医学 と結 合す るこ とに よっ て急 激に この 治療 法が 普及 して いる こと が伝 えら れて いる
$
︒ 講演 やメ ディ ア︑ さら には 個人 的な 発言 を通 して シ ュミ ッ ト は自 分 の 思想 を 披 露 した
︒朝 日 新 聞の 取 材 に 対し て
︑ 彼 は次 のよ うに 答え てい る︒
﹁ 漢方 医学 は四
〇〇
〇年 の歴 史 を 持ち 人 体 を総 体 的 に 見て 研 究 した も の だ︒ 現代 の 医 学 で なお らな い患 者が 漢方 医学 で治 った 例も 多い
︒私 はド イツ で科 学的 に現 代の 医学 の言 葉で これ を説 明し よう と思 っ て いる
%
︒﹂
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 70 ―
シュ ミッ トは
︑一 方で は伝 統的 な身 体観 を重 視す る姿 勢を とっ てい た︒ 優れ た鍼 灸師 であ る代 田文 誌が 経絡 の存 在 を 否定 して
︑鍼 灸の 科学 化を 急ご うと する こと に対 して
︑来 日当 初の シュ ミ ッ ト は批 判 を 浴び せ た!
︒ 送 別会 で の 挨 拶 でも
︑科 学の 発展 によ って 左右 され ない 統一 原理 が東 洋医 学に あり
︑こ の点 にこ そ東 洋医 学の 長所 が見 られ ると 述 べ てい る"
︒ 帰国 した シュ ミッ トの 元で 東洋 医学 によ る治 療を 行っ た坂 口 か ら の報 告 に よる と
︑シ ュ ミッ ト は
﹁日 本 で 習っ てき たい わゆ る古 典派 五行 説を 旗印 にし て﹂
︑﹁ す べて の生 理現 象を 古典 語行 説に 考え てい る﹂#
︒ ただ し︑ 彼が 古い 思想 にだ けこ だわ って いた ので はな い︒ 彼は あく まで も現 代科 学の 言語 で説 明す る努 力を 怠ろ う と はし なか った
︒少 なく とも
︑治 療の 現場 にお いて
︑そ の 治療 を 選 び取 る た めの 合 理 的 な理 由 を 見い だ そ う とし た
︒ そ のた め︑ 科学 性が 欠如 する 日本 の鍼 治療 の問 題点 を彼 は指 摘し た︒ たと えば
︑治 療の 際に
︑日 本で は多 くの ツボ に 鍼 を刺 すた めに
︑ど のツ ボへ の刺 激が 効果 的で あっ たの かを 見極 める こと がで きな い︒ ひと つひ とつ のツ ボご との 効 果 を観 察す るこ とに よっ て︑ 科学 的に 把握 する こと が始 めて 可能 にな る︒ また
︑科 学的 なデ ータ を集 める こと によ っ て
︑治 療効 果が ある かど うか を把 握す るこ とが でき る︒ この よう なこ とは すで にド イツ では 行わ れて いた
$
︒ 三︑
国 際 化の 中 で の日 本 鍼 医学 界
︵一
︶ヨ ーロ ッパ 鍼医 学情 報の 流入 本章 では
︑シ ュミ ット をは じめ とす る数 人の 外国 人が 相次 いで 来日 した こと によ って
︑日 本の 鍼灸 関係 者が どの よ う な影 響を 受け たの かを 明ら かに する とと もに
︑日 本人 が世 界を 見る 視点 につ いて 考え てゆ く︒ すで にシ ュミ ット 来日 以前 から
︑ヨ ーロ ッパ にお ける 鍼治 療に 関す る情 報は
︑わ ずか なが ら日 本に も入 って いた と
― 71 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
考 えら れる
︒し かし
︑シ ュミ ット の来 日を 機会 に︑ 体系 的 にヨ ー ロ ッパ の 情 報が 日 本 に もた ら さ れる よ う に なっ た
︒ た とえ ば︑
﹃ 医道 の日 本﹄ にも 国際 鍼治 療学 会の 大会 に つ いて の 記 事が 掲 載 さ れる よ う にな っ た︒ 一 例と し て
︑龍 野 一 雄が 入手 した
﹃ド イツ 鍼雑 誌﹄ から
︑一 九五 三年 八月 にミ ュン ヘン で開 催さ れた 第七 回国 際鍼 治療 学会 の報 告集 を 紹 介し た︒ 皮膚 電気 抵抗 測定 のよ うに 鍼治 療の 効果 を科 学的 に説 明し よう とす る研 究︑ 東洋 医学 の経 絡を 真正 面か ら 理 解し よう とす る研 究︑ 人類 学的 病理 学研 究︑ オカ ルト 的と も言 える 手相 の医 学的 研究 など 幅広 い報 告が なさ れて い た こと が︑ 一般 読者 にも 明ら かに され た!
︒ シュ ミッ トに 招聘 され てシ ュト ゥッ トガ ルト に赴 いた 坂口 は︑ 滞在 報告 を﹃ 医道 の日 本﹄ にも 寄せ てい た︒ 往路 で 立 ち寄 った 香港 に関 する 記事 に始 まり
"
︑自 身と 金沢 大学 の石 川太 刀雄 が研 究発 表 を 行 った ド イ ツ鍼 医 学 会の 大 会 参 加 記事 も掲 載さ れた
︒リ ュー マチ と鍼 治療
︑頭 痛と 鍼治 療︑ 高血 圧・ 低血 圧及 び甲 状腺 機能 亢進 症の 鍼治 療な どの よ う な︑ きわ めて 臨床 的な 研究 から
︑古 代中 国の 病気 と治 療と いう 歴史 的研 究︑ 鍼治 療に 対す る動 物磁 気の 意義 とい う 他 の オ ル タ ナ テ ィ ブ 医 療 と 鍼 治 療 の 関 連 性 を 探 る 研 究
︑そ し て 中 国 の 脉 診 と 内 分 泌 に 関 す る 研 究 な ど が 紹 介 さ れ た#
さ ︒ ら に︑
﹃ 医道 の日 本﹄ は﹃ ドイ ツ鍼 雑誌
﹄の 論文 を 日 本に 紹 介 した
︒た と え ば 一九 五 五 年八 月 号 には
︑フ ラ ン ス 人 によ る﹁ 漢方 脉診 の価 値﹂ とド イツ 人に よる
﹁御 産と 鍼﹂ とい う二 つの 論 文 の 抄訳 が 掲 載さ れ た$
︒ こ のよ う な 抄 訳 は︑ 以後 しば しば
﹃医 道の 日本
﹄に 掲載 され た︒ さら に︑ ドイ ツか ら帰 国し た坂 口は 積極 的に ヨー ロッ パの 鍼医 学 に つ い て紹 介 記 事を 執 筆 し た%
︒ ただ し
︑ヨ ー ロッ パ 鍼 医 学 の 紹 介 が
︑す べ て の 読 者 に 歓 迎 さ れ た わ け で は な か っ た
︒読 者 の 声と し て︑ 一 九五 六 年 一
〇月 号 に は﹁ 最近
﹃医 道 の 日本
﹄に 横 文 字 欧文 が 多 く な り ま し た が︑ 読 者 の う ち
︑何
%が こ れ を諒 解 し てい る の で しょ う か︑ な るべ く 欧 文と 同 時 に 国語 に 訳 して 記 載 して も ら え ませ ん か
⁝⁝
﹂&
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 72 ―
と いう 投書 が寄 せら れて いた
︒確 かに
︑執 筆陣 の中 には 医学 博士 を始 めと する 知識 人層 も少 なか らず いた が︑ 鍼灸
・ 按 摩師 を読 者と する 雑誌 であ るこ とを 考え ると
︑誌 面の 国際 化と 科学 化は
︑時 期尚 早だ った のか もし れな い︒
︵二
︶日 本発 国際 ネッ トワ ーク の形 成の 試み 日本 人に とっ ては 東洋 こそ が鍼 医学 の中 心だ った はず であ るが
︑シ ュミ ット らを 通し てヨ ーロ ッパ にも 独自 の鍼 治 療 が存 在す るこ とを 日本 鍼灸 界の 人び とは 知っ た︒ 彼ら がヨ ーロ ッパ の鍼 医学 界と どの よう に向 き合 った のか をこ こ で は明 らか にし てゆ く︒ ヨー ロッ パか ら日 本に 研修 に来 たシ ュミ ット やデ ュポ ンら は︑ いず れも ホメ オジ ニア トリ ーに 飽き たら ず︑ 純粋 な 東 洋医 学と して の鍼 灸学 に興 味を もっ てい た︒ 従っ て︑ 彼ら はド ゥ
=
ラ=
フ イユ に良 い感 情を もっ てお らず︑東 洋医 学 を 持ち 上げ た︒ とく にシ ュミ ット はた びた びヨ ーロ ッパ の鍼 医学 界の 状況 に言 及し てい たの で︑ 日本 でも ヨー ロッ パで の対 立の 構 図 はあ る程 度把 握さ れる よう にな った
︒ヨ ーロ ッパ の鍼 医学 の中 心は フラ ンス であ った が︑ ホメ オパ シー と鍼 医学 を 結 合さ せた ドゥ
=
ラ
=
フイ ユは︑鍼 医学 に興 味の ある 人び とを 引き つけ て︑ 国際 的な ネッ トワ ーク を形 成し てい た︒ 国 際 鍼医 学会 も彼 が主 宰し てい た︒ これ に対 して
︑中 国 の鍼 医学 に興 味を もっ たス リエ
=
ド
=
モラ ンGeorge Soulié de Mo-
rant
︵
1878 − 1955
︶ は︑ 二 度の 大 戦 で敵 国 で あっ た ド イ ツ人 を 嫌 い︑ シュ ミ ッ トら と は 手 を結 ぼ う と し な か っ た︒ シ ュ ミッ トら は古 典に 興味 をも って いた にも かか わら ず︑ ドイ ツの 鍼医 学界 はド ゥ
=
ラ=
フ イユ 派に よっ て支 配さ れて お り︑孤 立し てい たの であ る!
︒ しか も︑ スリ エ
=
ド=
モ ラン は中 国学 者で あ っ て︑ 鍼 のエ キ ス パー ト で はな い し︑臨 床 家 でも なか った
"
︒
― 73 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
一九 五三 年一 一月 に開 催さ れた ある 研究 会で
︑シ ュミ ット は世 界の 鍼医 を繋 ぐ組 織を 作り たい と述 べた
︒帰 国後 に は
︑す ぐに ドイ ツの 鍼医 の組 織を 改編 する とい う計 画を 表明 した
!
︒来 日し てい た デ ュ ポン と と もに 国 際 東洋 医 学 協 会 をヨ ーロ ッパ で作 り︑ フラ ンス での 活動 はデ ュポ ンが 中心 にな り︑ ドイ ツで はシ ュミ ット が中 心と なっ て︑ 後進 を 育 てる こと が約 束さ れた
"
︒さ らに
︑こ の二 人は
︑国 によ って 呼び 方が 違う 経穴 名 を 国 際的 に 統 一す る こ とを 日 本 側 に 求め た︒ 柳谷 素霊 は︑ 日本 が中 心に なっ て対 照表 を作 るこ とを 提案 した
︒ま た︑ 国際 鍼灸 学界 のセ ンタ ー構 想に つ い て述 べ︑ 鍼灸 治療 の﹁ 総元 締め をも って 任じ てい る﹂ 日本 は︑ 欧州 に隷 属す るこ とは 具合 が悪 いが
︑欧 州が 世界 に 呼 びか けた 方が
︑世 界に 広く 呼び かけ るこ とが でき る︒ 従っ て︑ 日欧 は対 等な 立場 で協 力し てゆ くと 述べ た#
︒ しか し︑ 柳谷 素霊 ら日 本の 鍼灸 界の 指導 者達 が︑ 日欧 が対 等な 立場 にあ ると は思 って はい なか った
︒デ ュポ ンに 招 聘 され て渡 仏す るこ とに なっ た柳 谷素 霊を 囲ん だ一 九五 五年 六月 の座 談会 では
︑露 骨な 優越 感が 表明 され た︒ 参加 者 た ちは
︑ヨ ーロ ッパ で使 われ てい る太 い鍼 では
︑日 本 の鍼 の よ うな 繊 細 な治 療 が で きな い と 考え て い た︒
﹁日 本 の 鍼 灸 は中 国か ら伝 わっ た後
︑模 倣の 時代 を経 て独 自に 進歩 し︑ さら に近 代に は自 然科 学的 な研 究が 行わ れ︑ 現代 にお い て は
︑一 方 で古 典 主 義が
︑他 方 で は こ れ に 反 対 す る 実 証 主 義 が 現 れ て 学 術 の 検 討 を 重 ね て 進 歩 し た﹂ も の で あ り
︑
﹁古 代中 国文 化に よっ て大 成さ れた もの が︑ 日本 に渡 って 一 層 洗練 さ れ た形 に な っ た﹂ と自 分 た ちの 治 療 法を 高 く 評 価 した
︒そ して
︑﹁ 陰 陽虚 実が わか らな くて は治 療 な どで き な い﹂ と︑ ヨー ロ ッ パ 人を 突 き 放し て い た︒ フラ ン ス で 鍼 治療 を指 導す るこ とに なっ てい た柳 谷の 方針 は︑ 理屈 を抜 きに して
︑ま ず技 術を たた き込 み︑ それ から 理論 を教 え る とい うも ので あっ た$
︒ これ は︑ 理論 が先 行し てい るド ゥ
=
ラ=
フ イユ らを 暗 に 批 判し て お り︑ 職人 的 に 技を 鍛 え 上 げ てき た鍼 灸師 たち の意 識を 示し てい る︒ 日本 では︑ド ゥ
=
ラ=
フ イユ 一派 によ って 東洋 の伝 統を ねじ 曲げ た誤 った 鍼治 療が ヨー ロッ パで 広が って いる と理 解第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 74 ―
し
︑ス リエ
=
ド
=
モラ ンに 教え を受 けた 鍼医 が正 統派 に近 いと 理解 した︒た だし
︑上 記の 通り
︑ス リエ
=
ド
=
モラ ンは 臨 床 を行 って おら ず︑ その 弟子 たち は手 探り で治 療法 を模 索し てい た︒ した がっ て︑ 柳谷 たち は︑ スリ エ=
ド=
モ ラン に 近 い五 行論 に基 づく 治療 を志 す医 師た ちを 支援 しよ うと した︒こ こで 注目 され るの は︑ ドゥ
=
ラ
=
フイ ユの グル ープ を﹁科 学派
﹂︑ スリ エ
=
ド=
モ ラン のグ ルー プを﹁伝 統派
﹂と 呼ん でい るこ とで ある
︒ さて
︑柳 谷素 霊は 六月 一七 日に パリ に到 着し
︑ヴ ェル ダン で開 業し てい るデ ュポ ンを 訪ね て実 地指 導を した り︑ シ ュ トゥ ット ガル トの シュ ミッ トな らび に彼 の元 で働 く柴 田三 代治 を訪 問し た︒ また
︑ド イツ の鍼 医を 前に して 講演 会 を 実施 した
︒ さら に︑ パリ では ドゥ
=
ラ
=
フイ ユと その 門下 生の 前で 公開 治療 を行 い︑ 喘息 症の 若い 女性︑二
〇年 以上 半身 不随 の 五
〇代 男性
︑左 に五 十肩 があ るう え︑ 右側 座骨 神経 痛で 足先 まで 痛む 四〇 代の 女性 を診 察し た︒ この うち
︑半 身不 随 の 男性 に関 して は︑ 回復 の見 込み なし とし て︑ 治療 せず
︑他 の二 人の 女 性 の 症状 は 著 しく 改 善 した
︒!
こ の 際
︑ド ゥ
=
ラ
=
フ イユ との 間に は烈 しい やり とり があ った︒一 つは
︑ド ゥ
=
ラ=
フ イユ らが︑あ る特 定の 経穴 を補 穴ま たは 瀉穴 で あ ると あら かじ め決 めて しま って いる こと であ る︒ 東洋 医学 では
︑使 い方 によ って 同じ 経穴 が補 穴に も瀉 穴に もな る と 柳谷 は反 論し た︒
﹁ 鍼は 東洋 のも ので あっ て︑ 東洋 では そ う なっ て い ない の だ か ら君 が 間 違い で あ る﹂ と柳 谷 は 主 張 した
︒柳 谷に 対し て︑ フラ ンス 側か らは
︑日 本鍼 術で は鍼 を刺 すツ ボが 多す ぎる とか
︑治 療時 間が 長す ぎる とい う 批 判が 寄せ られ た︒ これ に対 して
︑柳 谷は 鍼を 刺す のは 片手 間で はな く︑ じっ くり と時 間を かけ るべ きで ある と反 論 し てい る︒ また
︑半 身不 随の 患者 に治 療を 施さ なか った 理由 とし て︑ 治る 可能 性が ない 者を 治療 して
︑治 療費 を取 る よ うな 金儲 け主 義は 東洋 には ない と述 べた
"
︒鍼 を刺 すツ ボが 多す ぎる とい う 意 見 を︑ 時間 を か けす ぎ る とい う 意 味 で 受け 取っ たよ うで ある が︑ すで に述 べた よう に︑ シュ ミッ トは 一度 に多 くの 鍼を 刺し すぎ て︑ 個々 のツ ボの 効果 に
― 75 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
つ いて はっ きり しな い主 張し てい る︒ シュ ミッ トと ド ゥ
=
ラ=
フ イ ユ の間 に 経 絡を 認 め る かど う か で対 立 は あ った が︑ 一 つ一 つの ツボ の効 果を 科学 的に 見極 めよ うと する 点で は︑ 両者 は共 通し てい た︒ 柳谷 は廃 兵院
l’Hôtel des Invalides
に も連 れて 行か れ︑ ここ で戦 傷兵 の治 療も 行 った
︒大 腿 中 央部 か ら 切断 さ れ た 病 人は
︑無 い足 の痛 みが 取れ ない
︒手 を切 断さ れた 患者 も︑ 同様 に失 った 手が 痛む
︒こ れま でに さま ざま な治 療法 が 試 みら れた が︑ 治療 成果 を上 げる こと はな かっ たと いう
︒柳 谷は 彼ら にも 鍼治 療を 施し た︒ 二人 の患 者の 痛み は取 れ た
︒柳 谷は
︑各 所で 研究 と称 して
︑自 分の 腕を 試さ れる 試験 を受 けさ せら れた と述 懐し た!
︒ この よう に柳 谷は 鍼治 療の 実演 を通 して 日本 の鍼 治療 の優 秀性 をヨ ーロ ッパ で訴 えた
︒し かし なが ら︑ シュ ミッ ト と デュ ポン とが 計画 した よう な東 洋医 学の 組織 立ち 上げ は思 うよ うに はは かど らな かっ た︒ シュ ミッ トの 助手 とし て ド イツ に滞 在し
︑ヨ ーロ ッパ 滞在 中の 柳谷 の 世話 も し てい た 柴 田三 代 治 は︑ 次 のよ う に 日本 に 書 き 送っ た
︒﹁
⁝⁝ 何 と 言 っ ても ド ゥ
=
ラ=
フ イ ユ のヨ ー ロ ッ パ鍼 術 界 にも っ て い る勢 力 は 大き く︑五 行 論に 基 づ く 経絡 治 療 派 の シ ュ ミ ッ ト
︑デ ュポ ン両 氏の 活躍 も︑ こと ごと に反 対に あっ て難 航し てお りま した
︒今 回の 柳谷 先生 の御 来欧 は︑ 大き な推 進 力 であ り︑ 少な くと も西 洋的 なも のの 見方 にば かり 凝り 固ま って いる 連中 には
︑良 い教 訓を 与え られ たこ とと 思い ま す
︒"
﹂
結
語 シュ
ミッ トが 来日 した 一九 五三 年頃 の日 本で は︑ 大半 の日 本人 はヨ ーロ ッパ 人と 身近 に接 する こと はな かっ た︒ 日 本 人の 多く も忘 れ去 って いた 漢方 医学
・鍼 治療 を高 く評 価す るド イツ 人の 医学 博士 が突 然来 日し
︑こ れら を学 び取 ろ
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 76 ―
う とし たこ とは
︑多 くの 日本 人に とっ ては 大き な驚 きで あっ た︒ シュ ミッ トの 講演 ツア ーは 各地 で歓 迎さ れ︑ 多く の 人 びと が彼 の講 演会 に詰 めか け︑ 新聞 や雑 誌も 彼の 活動 を取 り上 げた
︒ 彼の 来日 は︑ 日本 の鍼 医・ 鍼灸 師た ちに とっ て三 つの 意味 があ った
︒第 一に
︑ド イツ 人医 師が
︑あ えて 極東 の地 ま で 漢方 医学
・鍼 治療 を学 びに やっ てき たこ とに よっ て︑ 日本 の漢 方医 学・ 鍼治 療に お墨 付き を与 えら れた
︒長 らく ド イ ツか ら医 学を 移植 して きた 日本 では
︑ド イツ 医学 は世 界で も最 高級 の権 威と 考え られ てい た︒ 第二 に︑ それ まで の漢 方医
・鍼 灸師 は︑ 国際 的な 視点 をも たな かっ たが
︑シ ュミ ット を通 して 鍼治 療が ヨー ロッ パ で 受容 され てい るこ とを 知っ た︒ ヨー ロッ パで は多 くの 医師 が鍼 治療 を行 って いた
︒こ れは
︑日 本の 鍼治 療の 担い 手 が 鍼灸 師だ った 日本 との 大き な違 いで あり
︑科 学化 の必 要性 を認 識す るこ とに なっ た︒ とく に︑ ヨー ロッ パで は生 活 習 慣病 など 現代 的な 疾病 の治 療に 取り 組ん でい た︒ その 際︑ 治療 効果 を確 認す るた めに
︑科 学的 な検 証が 求め られ て い たこ とを 知っ た︒ 第三 に︑ ヨー ロッ パを 中心 にし て︑ ホメ オパ シー をベ ース にし た鍼 治療 が広 がり
︑国 際的 なネ ット ワー クが 生ま れ て いる こと に︑ 日本 側は 危機 感を 持つ よう にな った
︒シ ュミ ット ら︑ 古典 的な 鍼治 療に 興味 をも つ医 師と 手を 結ぶ こ と によ って
︑国 際的 にも 日本 の影 響力 を強 めよ うと する 動き が現 れた
︒た だし
︑当 初は 日本 側の 試み は必 ずし もう ま く いか ず︑ 日本 を中 心と する 鍼医 学の 国際 的ネ ット ワー クは 形成 され なか った
︒ しか し︑ 日本 の多 くの 鍼灸 師た ちは
︑ヨ ーロ ッパ にお ける 鍼治 療の 状況 を正 確に 把握 して いた とは 言え ない
︒当 時 の 日本 の鍼 灸雑 誌で は︑ 経絡 説を 信奉 する シュ ミッ トら を伝 統派 と呼 び︑ 経絡 を迷 信で ある と否 定す るド ゥ
=
ラ=
フ イ ユ らを 科学 派と 呼ん だ︒ 確か にシ ュミ ット は伝 統的 な概 念を 用い て鍼 治療 を行 った が︑ 同時 に︑ 科学 的に 治療 効果 が 証 明さ れな けれ ばな らな いと 主張 して いた︒ド ゥ
=
ラ=
フ イユ らも︑ヨ ーロ ッパ の医 学状 況の 中で 考え るな ら︑ 科学 的
― 77 ― 第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流
医 学に 立脚 して いる わけ では なく
︑非 正統 医学 に位 置づ けら れる
︒そ して
︑治 療効 果に つい て︑ 科学 的な 検証 を求 め て いる 点で シュ ミッ トら と同 じで ある
︒ ここ では
︑両 派の 違い につ いて 詳し く議 論し ない が︑ 注目 する べき 点は
︑一 九五
〇年 代の ヨー ロッ パ社 会に 鍼治 療 が 根付 き︑ 日本 より も合 理的 に︑ 生活 習慣 病に 代表 され る新 しい 治療 分野 を開 拓し てい たこ とで ある
︒同 時代 の日 本 で は
︑ヨ ー ロッ パ か らの 刺 激 も あっ て
︑漢 方・ 鍼 治療 へ の 関心 が 高 ま った と は いえ
︑社 会 に 広く 受 容 し て い っ た の は
︑一 九七
〇年 代以 降で あっ た︒ この よう な逆 転現 象の 原因 を最 後に 述べ たい
︒第 一に
︑ホ メオ パシ ーの 知識 をも つヨ ーロ ッパ 人は 鍼治 療を 理解 す る 素地 があ り︑ 彼ら は短 期間 のう ちに 鍼治 療を 自分 たち のも のに した とい うこ とで ある
︒シ ュミ ット と坂 口が 指摘 し て いる よう に︑ 漢方 とホ メオ パシ ーが 類似 した 疾病 観を もっ てお り︑ ホメ オパ シー 医に とっ ては
︑漢 方や 鍼治 療を 受 容 しや すか った
︒ 第二 に︑ ヨー ロッ パで は科 学的 医学 に飽 き足 らな い患 者・ 医師 が増 加し てい た︒ ヨー ロッ パで は一 九三
〇年 頃に は ガ ン に よ る 死 者 が 結 核 に よ る 死 者 を 上 回 る よ う に な っ て お り
︑生 活 習 慣 病 の 深 刻 化 が 認 識 さ れ る よ う に な っ て い た!
︒そ の際
︑既 存の 医学 だけ では 対応 しき れな くな り︑ オル タナ ティ ブ医 療 へ の 関心 が 高 まっ た の であ る
︒ナ チ 政 権 がホ メオ パシ ーや 自然 療法 に関 心を 示し たの は︑ この ため であ る︒ 他方
︑表 1で も明 らか なよ うに
︑日 本で ガン の 死 者が 結核 の死 者を 上回 った のは 一九 五〇 年代 であ り︑ 生活 習慣 病が 問題 と な る のは 一 九 六〇 年 代 以降 で あ る"
︒ こ の よう な社 会で は︑ オル タナ ティ ブ医 療へ の関 心が 高ま るの は遅 れた
︒つ まり
︑シ ュミ ット が来 日し た当 時は
︑鍼 治 療 が広 く受 容さ れる 素地 は︑ 日本 より もは るか にヨ ーロ ッパ の方 が大 きか った ので ある
︒ 一九 五〇 年代 とい う時 代を 切り 取っ てみ ると
︑鍼 治療 にお いて は︑ ヨー ロッ パの 方が 日本 より も︑ 広く 受け 入れ ら
第二次世界大戦後の鍼灸分野における日欧の交流 ― 78 ―
表1 日本の死因別死亡者数統計(%)
1902年1905年1910年1915年1920年1925年1930年1935年1951年1955年1959年 先天性弱質・奇形・乳児の疾患
!搦(ちくでき)
老衰 産褥熱
妊娠・分娩に関する疾患 猩紅熱
麻疹 ジフテリア 百日咳
腸チフス及びパラチフス 発疹チフス
結核(呼吸器)
結核(その他)
肺炎 インフルエンザ コレラ 赤痢 赤痢および疫痢 ペスト ハンセン病 痘瘡 マラリア
その他の伝染病及び寄生虫病 気管支炎
その他の呼吸器疾患 その他の血行器疾患 脳血管疾患 髄膜炎
その他の神経系疾患 心疾患
精神・行動の障害 胃腸疾患 ヘルニア・腸閉塞 腹膜炎 肝硬変 腎炎 虫垂炎 泌尿器系疾患 女性生殖器疾患 梅毒 悪性新生物 癌
良性腫瘍・性質不詳の新生物 内分泌および栄養・代謝疾患 霍乱(かくらん)
脚気 自殺 外因死 中毒 不明・不詳 その他
4.57 2.23 5.5 0.2 0.48 0 0.35 0.47 0.17 0.55 0 6.88 1.73 5.58 0.15 0.85 0.9
0 0.13 5.38 2.5 7.81 7.43 1.8 2.49 12.71 0.21 2.35 0.23 1.64
0.58 2.56 2.52
1.16 0.84 2.03 0.06 11.83 3.97
3.97 1.74 6.49 0.19 0.43 0 0.41 0.39 0.28 0.63 0 7.57 1.99 5.96 0.27 0 0.87 0.01 0.2 0 0.1 0.64 5.52 2.93 7.58 6.86 1.6 2.58 13.25 0.26 2.36 0.24 2
0.49 0.85 2.65 2.6 1.8 0.04 1.16 0.8 1.99 0.05 11.35 3.45
5.77 1.28 5.55 0.24 0.35 0.05 0.25 0.51 0.39 0.76 0 7.77 2.87 6.57 0.25 0.16 0.77 0 0.15 0 0.06 1.09 5.54 2.48 0.33 5.92 6.56 3.25 2.96 0.02 14.66 0.36 1.74 0.31 2.5 0.19 0.34 0.45 0.95 3.08 3 1.6 0.08 0.9 0.88 2.06 0.05 6.3 1.59
5.89 0.96 5.43 0.24 0.35 0 0.75 0.46 0.45 0.81 0 7.61 2.99 7.86 0.18 0 0.49 0 0.12 0 0.03 1.3 4.73 2.35 0.5 6.19 6.27 2.61 2.98 0.02 14.24 0.45 1.65 0.31 3.57 0.2 0.23 0.35 0.93 3.43 3.36 1.5 0.03 1.03 0.93 2.1 0.07 5.8 1.49
5.47 0.58 5.17 0.19 0.31 0 0.53 0.27 0.56 0.91 0 6.12 2.68 12.35 7.62 0.24 0.26 0 0.08 0.05 0.02 1.32 3.7 2.11 0.46 6.19 4.87 1.96 2.44 0.03 12.24 0.39 1.47 0.27 3.91 0.18 0.19 0.23 0.63 2.84 2.78 1.35 0.01 1 0.75 1.78 0.08 5.2 1.2
6.96 5.79 0.02 0.35 0.02 1.28 0.3 0.7 0.87 0 6.74 2.84 10.67 0.87 0.03 0.17 0 0 0.01 2.93 2.58 7.94 4.83 3.16 13.75 0.41 1.63 0.32 4.95 0.22 0.19 0.58 3.45 3.35 1.31 0.01 1.15 1.01 2.09 3.37 7.46
6.41 6.54 0.14 0.34 0.03 0.51 0.35 0.64 0.75 0 7.35 2.87 8.63 0.44 0 0.24 0 0 0 2.39 2.57 8.95 4.06 3.2 14.13 0.41 1.73 0.4 5.42 0.22 0.15 0.51 3.83 3.72 1.51 0 1.32 1.19 2.27 3.52 8.28
7.3 6.82 0.12 0.37 0.04 0.84 0.38 1.05 0.64 0 8.38 2.99 9.04 0.26 0.29 1.37 0 0 0 1.18 2.09 1.47 0.55 9.86 3.24 1.22 3.43 0.29 10.62 0.47 0.39 5.09 0.21 0.14 0.48 4.41 0.25 1.15 0.87 1.22 2.52 2.89 5.05
0.08 7.05 0.44 0 1.07 0.11 0.46 0.05 0 9.05 1.95 5.97 0.09
1.75 0 0.01 0 0 1.27 2.23 1.05 12.48 0.64 6.44 8.9 0.71 0.68 2.91 0.28 0.03 0.55 7.82 0.56 0.62 0.38 1.82 3.98 2.61 8.52
5.84 8.58 0.44 0 0.32 0.13 0.06 0.02 0 5.74 0.95 4.91 0.08
0.86 0 0 0 0 1.01 1.27 1.3 17.39 0.36 7.9 5.96 0.68 1.09 2.74 0.2 0.04 0.41 11.12 0.73 0.47 0.16 3.22 5.06 2.69 8.24
3.99 6.6 0.03 0 0.24 0.09 0.02 0 0 3.72 0.41 4.29 0.98 0.07 0.31 0 0 0 0 0.59 0.98 1.69 17.89 0.17 13.37 4.13 0.52 1.1 2.06 0.14 0.06 0.28 11.43 0.56 0.35
2.64 5.45 1.87 13.72 友部謙一、鈴木晃仁、都道府県別死因別死亡者数統計データベースより作成
http : //www.rekishow.org/db/CSDS/
表作成:倉田有里(同志社大学大学院文学研究科)
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