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【現代2 WW1後の欧米世界】

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【現代

2 第一次世界大戦後の欧米世界】

1.ロシア革命…ソヴィエト連邦の成立 2.ヴェルサイユ体制下の国際外交 3.1920 年代の欧米各国の様相 1.ロシア革命…ソヴィエト連邦の成立 二月革命 A) 第 1 次世界大戦における,ドイツとの戦線の劣勢 国内の物資不足,国民の生活困窮=経済危機深刻化,怪僧ラスプーチンの専横や宮廷の 腐敗による対策不足 ↓労働者や兵士の不満増大 首都 ペトログラードでストライキの嵐(1917.3.8)→軍隊も合流して全国に波及(労働 者・兵士らのソヴィエトが組織される) →皇帝ニコライ2 世退位(ロマノフ朝滅亡),臨時政府樹立…二月革命(ロシアの暦では三 月…ユリウス暦を使用していたため) B) 二重権力状態 労働者・兵士代表者による会議=ソヴィエト存続 臨時政府…主に立憲民主党(リヴォフ),メンシェビキのソヴィエト…戦争継続を主張 →不安定な政情続く レーニンがスイスから帰国し,四月テーゼ発表「全権力をソヴィエトへ」。ボルシェ ビキ勢力が力づくが・・・ ・社会革命党のケレンスキー首相 (メンシェビキと組んで政権掌握)→ボルシェビキ弾圧。 しかし,帝政派コルニコフの反革命がおき,ボルシェビキの支援を求める ↓ 9 月にはボルシェビキ勢力が増大する 十月革命 C) ボルシェビキが蜂起 (11 月 7 日)…レーニンやトロツキーの指導で臨時政府打倒→ 翌日,全ロシア・ソヴィエト会議で政権樹立(連立政権)を宣言 人民委員会議長レーニン,外務人民委員トロツキー,民族人民委員スターリンらの人民 委員会議が成立(ソビエト政府) 「平和に関する布告」(全交戦国に無賠償・無併合・民族自決の原則による講和の要請) 「土地に関する布告」(農民革命を認めた)を採択 この一連の動きを十月革命という 直後に議会選挙→しかし社会革命党が第一党 ソヴィエト政 権樹立 ・レーニン 議会を武力で解散(1918.1)→ソヴィエト政権=プロレタリア独裁(ボルシェ ビキの一党独裁)樹立 ・ボルシェビキ→共産党と改称,モスクワに遷都 ・国際的孤立,ドイツの軍事力優勢をみて→ブレスト・リトフスク条約(1918.3)…あえ て西部の広大な領土を割譲しドイツと単独講和→ドイツの敗戦で無効になり,新興 国が生まれる ・憲法制定…全国にソヴィエト設置,18 歳以上のすべての男女に選挙権 しかし,共産 党以外の政党は禁止

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内戦と対ソ干 渉戦争 A) 白衛軍(反革命派・帝政時代をよしとする軍人や政党)が各地で政権樹立→ソヴィエト 政権との内戦へ ↓白軍を支援して捕虜となったチェコ兵救出を名目に外国が干渉 対ソ干渉戦争…イギリス,フランス,アメリカ,日本が革命拡大をおそれ干渉 日本は シベリア出兵 B) ソヴィエト政府は赤衛軍(赤軍)やチェカ (非常委員会)を組織 レーニンは先進資本主義国での革命(世界革命)が必要と考え,コミンテルン(第三イン ターナショナル)を結成(1919.3)→諸国の革命運動・民族運動を指導したが失敗 C) 戦時共産主義 (1918~21)…反革命や外国の干渉に対する武器と食糧の確保のため採 られた。 土地国有化:農民への分配→農産物の強制徴発 工場国有化:労働者の工場管理,食料配給制 ↓農民の反発 農業生産破壊→多数の餓死者発生,工業生産力低下。燃料・食糧不足がおこり,反政府 行動が多発。 穀物生産や工業生産が衰え,経済は低下。党内も混乱 1920 年,国内の反革命政権をほぼ打倒,外国干渉軍も撤退開始 ↓ 新経済政策 (ネップ) ・戦時共産主義による被害の復興策として採用。ゆきすぎた国有化・穀物強制徴発撤回, 内戦終結とともに実施(1921~28) A) 生産回復のため資本主義的要素を一部導入→私的経営や農産物販売の自由を認める →国民経済の回復に成功(戦前水準) B) 農村にクラーク (余剰生産物を販売),都市にネップマン(中小企業の個人経営)が出現 ソ連の成立 A) ・ソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)(1922) ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカスの4ソヴィエト共和国を統合した。 新憲法公布(1924.1月) B) 外国のソ連邦承認…ドイツ ラパロ条約(1922)で イギリス,フランス,イタリア (1924),日本(1925), アメリカ(1933) 内紛 ・トロツキー vs. 他の幹部 22 年秋~ 争点:回復し始めた経済の方向性 ,党内秩序のひきしめ策を継続するか否か ↓一旦鎮静化するも, トロツキーが自著で十一月革命前のジノヴィエフとカーメネフを批判 ・スターリン,ジノヴィエフ,カーメネフ…「三人組(トロイカ)」 反トロツキー・キャンペーン「トロツキーは先進工業地域の西欧の社会主義化こそ必要とし,農民の革命性を否定してい る!」 教条化したレーニンの言説とトロツキーの意見の相反する部分をことさらとりあげて,排除しようとした。 トロツキー 軍事人民委員を辞任(25.1) ・「三人組」の亀裂 スターリン 一国でも完全な社会主義社会が作れる!←ジノヴィエフ,カーメネフ が批判 しかし,22 年以降の入党資格の緩和により大衆政党化していた共産党員の多くはスターリンを支持…第 14 回党大会で勝 利(25.12)

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2.ヴェルサイユ体制下の国際外交 賠償問題 A) ドイツの賠償金1320億マルク…支払い不可能な状態→賠償不履行を口実としてフラン ス,ベルギーがルール占領実行(1923)。しかし,国際的非難をあびる。 B) 不服従運動で対抗したドイツでは生産が低下し,インフレ激化に対し,シュトレーゼマ ン首相が対策…レンテンマルクでインフレ克服,およびドーズ案成立(1924)…新しい賠 償支払計画を決定(アメリカの借款による経済復興を図る) シュトレーゼマンの協調外交によりフランス,ベルギーはルール地方から撤兵(1925) C) ヤング案成立(1928)→賠償額 358 億マルクに減額 D) 世界恐慌により→ローザンヌ会議(1930)で 30 億マルクに減額…後のナチス政権はこれ すら否定した。 国際紛争 民族自立と国際協調の矛盾 A) フィウメ問題…イタリア・ユーゴスラヴィア戦争 イタリア過激派がフィウメ占領(1919)(詩人ダヌンツィオも参加) イタリアが併合(1924)(ムッソリーニ政権) イタリアとユーゴスラビアが対立 B) トルコ・ギリシア戦争…スミルナ地方をめぐるギリシアとトルコの対立(1919~22) トルコのケマル・パシャ(ムスタファ・ケマル or ケマル・アタテュルク)がセーヴル条約を 認めず奪回のために活躍→ローザンヌ条約へ C) ソビエト・ポーランド戦争 (1920~21)…国境問題から発生 フランスの支援でポーランドが勝利→ベラルーシとウクライナの一部を獲得 D) ルール占領(1923)…賠償金の支払いをめぐり,フランス・ベルギーがドイツのルール工 業地域を占領 国 際 協 調 の 時代 ・総力戦となった第一次世界大戦は,惨禍をもたらしヨーロッパの人々に戦争を嫌う風潮を 増大させた。大戦後に飛躍したアメリカは新たなフロンティア=太平洋の覇権をめざして, 日本を仮想敵国と考えるようになる。アメリカが望む形で,日本は軍事力を制限されていく。 日本国内では軍部の不満が高まり,大正デモクラシーの時代がやがて,軍部による政党内閣 攻撃へと向かうことになる A) ワシントン会議 アメリカ大統領ハーディングの提唱(1921~22) ・海軍軍備制限条約…主力艦保有比率 英:米:日:仏:露=5:5:3:1.67:1.67 ・四ヶ国条約(1921) 日英米仏 太平洋の現状維持 日英同盟の破棄 ・九ヶ国条約(1922) 中国の主権尊重,独立,門戸開放,機会均等を約束 日本は青島(チンタオ),山東の利権返還,石井・ランシング協定の空文化で破棄 ワシントン体制:この会議で決められたアジア・太平洋地域の新国際秩序 B) ロカルノ条約…英,仏,独,ベルギーなど(1925) ラインラントの不可侵,非武装化(現状維持)=国境を相互に守ることを確認→ドイツ が国際連盟に加盟実現(1926) ・ジュネーヴ軍縮会議補助艦制限を話し合うが,決裂(1927) …日本,イギリス,アメリカ 間 C) パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)…ケロッグ国務長官(米)とブリアン外相(仏)が提 唱(1928) 国際紛争を解決する手段として戦争に訴えぬことを約束(戦争放棄を規定)。15 ヶ国が調 印。 実は第二次世界大戦後の日本国憲法の九条の文言はここから引用したもの。

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D) ロンドン軍縮会議…マクドナルド首相(英)開催(1930) 補助艦の保有比率を決定 英:米:日=10:10:7 弱 →日本の軍部や右翼は「統帥権干犯」と猛反対し,軍国主義化の転換点となった。 3.1920 年代の欧米各国の様相 特徴 ・各国政府:資本主義体制あるいは社会主義を志向する動き ↑↓対立 保守勢力(すみやかな再建をめざす),急進的な右翼ら反革命勢力 ドイツはもっとも左右の攻撃が顕著だったが,既存の勢力が乗り切った。 イタリアは,既存の支配層が新しい党派に乗り切りをゆだねた。 英仏は,既存の支配層が戦後危機を自ら乗り切った。 ・1920 年代後半…相対的安定期,労使協調路線の拡大 電気・化学産業などの新興産業の本格的展開でWW1 前とはことなる資本主義的秩序 米国の金融的支援に支えられていたこと ↑↓ ソ連,植民地の動向 アメリカ A) イギリスにかわって,主導的国家へ成長 WW1…連合国に物資供給し莫大な利益。英仏の戦債免除要請も拒否 債務国から債権国へ転換⇒世界の金融市場を支配=世界経済の中心に 高関税政策=国内市場を保護→世界の富を集中 B) 一方で,ヨーロッパの政治への直接的かかわりを回避,伝統であったモンロー主義の延長 として孤立主義(国内第一)の傾向深まる。 ・ウィルソン大統領(民主党)(1913~21) 上院でヴェルサイユ条約の批准を拒否されたため,国際連盟不参加。民主主義の進展…女性 参政権の実現(1920) C) 資本主義経済が繁栄 共和党政権下で「永遠の繁栄」の時代…大企業の利益重視 自動車の大衆化,家庭電化製品やラジオ・映画などの発達→現代大衆文化成立 ・一方で,保守的傾向…白人中心の価値観の強調,禁酒法の実施,移民法(1924)など ・ハーディング大統領 平常への復帰を唱える(バックトウノーマルシー), ワシントン会議を主催,日本の太平洋での勢力拡大を阻止する方向へ。 ・クーリッジ大統領 ・フーヴァー大統領 世界恐慌に対して無策。 ドーズ案によりドイツへ借款,パリ不戦条約などの外交政策 イギリス A) 戦後イギリス経済は不振 B) 民主政治の進展…労働党の勢力拡張 ロイド・ジョージ挙国一致内閣 第四次選挙法改正(1918) 21 歳以上男子と 30 歳以上の婦人参政権 第五次選挙法改正(1928) 男女(21 歳以上) 普通選挙制=男女同権へ ↓労働党が進出 マクドナルド内閣(1924) 労働党が自由党と連立し初めての政権。漸進的な社会政策。ソ連 承認。 1929 年の選挙,労働党初の第1党→マクドナルドⅡ内閣 イギリス帝国会議(1926,30)の決議→ウェストミンスター憲章が制定され,イギリス連邦成

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立(1931) 国王に対する共通の忠誠に基づく国家連合…各自治領は本国と対等の地位を承 認。 C) アイルランド問題 大戦中 デ・バレラらの独立運動 アイルランド自由国成立(1922)…北部アイルランドをのぞく自治領成立 ↓アイルランド独立派…ウ憲章にあきたらずイギリスからの完全独立要求 エール共和国 として完全独立(1937) フランス ・国土が戦場=戦争の被害が大きかった→ドイツへ強い警戒心→強国ドイツの復興を懸念 ・ソ連が帝政ロシア時代の債務を破棄したため,反ソ的傾向強まる ・アルザス・ロレーヌの鉄やザールの石炭を得ても,財政は不安定 A) ポアンカレ右派内閣(1923) 賠償金支払いのおくれを理由にベルギーとともにルール占領→ドイツ側はストライキ(生産 停止)で経済混乱。結局得るところはなく撤退 B) エリオ左派連合内閣(1924) ソ連承認(1924),対独協調政策へ転換,ロカルノ条約(1925)→ドイツの国際連盟加盟へ C) ポアンカレⅡ(1926)…「挙国一致内閣」 財政安定に成功 ブリアン外相 不戦条約など平和外交,ドイツとの和解もすすめた。 ドイツやソ連を警戒し,ポーランドや小協商国と提携した。 ドイツ ・ドイツ革命(1918)の後, 経済復興,国際協調に努めるが,賠償金の支払いに苦しみ政治・経済は不安定 社会民主党とドイツ共産党の対立 A) 社会民主党のエーベルト臨時政府 休戦条約調印 ドイツ共産党 スパルタクス団(社会主義革命をねらった)を中心に結成 ↓その蜂起を鎮め,国民議会開催 エーベルト大統領の選出 ヴァイマル(ワイマール)憲法(ドイツ共和国憲法)制定 主権在民 20 歳以上の男女普通選挙権 労働者の団結権,団体交渉権。 ・左翼革命と右翼の反動による社会不安にゆさぶられる。 レーテ共和国(バイエルン)(1919.4)←5 月 右翼の義勇軍により倒される 国会選挙で右派台頭(6 月) これに対し,政府が右翼に解散命令を出すと→カップ一揆 (1920) 共産党内急進派が強まり武装蜂起(1921.3)→× フランスらによるルール占領 (1923)に対し,労働者のストを指揮。しかし,その間も給料 は支払われるため,大インフレを招く ↓ B) シュトレーゼマン内閣(1923 夏)…新紙幣レンテンマルクの発行→インフレ克服 ドーズ案によりアメリカより資本導入(借款)で経済復興 ヒトラーの ミュンヘン一揆 も生み出した。 その後シュトレーゼマンは外相として,ロカルノ条約締結,国際連盟加盟を実現 この間,ヒンデンブルク大統領 (1925~) 左右の攻撃をどうにかのりきった政府は,米国資本に助けられつつ,資本主義的秩序をとりも どしていった…しかし,1929 の世界恐慌でドイツ経済は破滅的状況になる。

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イタリア A) 第 1 次世界大戦後のヴェルサイユ体制への不満 戦後の領土をめぐる不満の拡大。 ・大戦後,未回収のイタリアを取り戻すが,フィウメの領有を主張→過激派(詩人ダヌン ツィオも参加)によるフィウメ占領(1919) ・戦後の経済危機で労働運動激化…インフレ下の労働運動の高まり社会党左派(のちに共 産党)の指導した北イタリアのストライキ失敗(1920)⇒共産主義は信を失う B) ムッソリーニがファシスト党結成(1919) 危機の原因は左翼(共産主義)や議会制民主主義にあると考え,強権的な指導者や国家による 国民の統合を主張(全体主義)。軍人,地主,資本家の支持を受ける ローマ進軍(1922) …政権獲得をめざして党を率いてローマへ 政権掌握(1922)。 国王より首相に任命され組閣 新選挙法(1922)…最多得票党が3分の2の議席を獲得することとする 一党独裁体制確立(1926)…他の政党禁止・議会制度の廃止 言論出版の抑圧や経済統制実施 ファシスト大評議会(党の最高機関)が国家最高機関に(1928)⇒言論統制へ ラテラン条約(1929)…ローマ教皇庁と和解(1870 以来)→ヴァティカン市国成立 既存の支配層は,危機の乗り切りを,新しい党派であるファシスト党にゆだねた形になる。 ソ連 A) レーニン死後(1924) →後継者争い スターリンの一国社会主義論 ⇔ トロツキーの世界革命論との争い →トロツキー失脚,国外追放(1929),スターリンが実権。粛清工作により反対者を次々に処 刑し,独裁権力を手中にしていった。 コミンテルンもソ連国家の擁護を主課題としていく。 B) 資本主義国の支援を受けられない状態での,設備投資の必要性→国家の干渉・統制がふた たび強められていく C) スターリン憲法(1936)…民主的な内容,信仰の自由や民族の平等,男女平等。 共産党一党独裁と,選挙の候補者推薦制はかわらず。 D) 計画経済の実施 第一次五ヶ年計画実施(1928~32)…重工業育成に重点。 集団農場(コルホーズ),国営農場(ソフホーズ)による農業の集団化→農民の抵抗に対し弾 圧,生産物供出を強制→多数の餓死者を出すが,集団化はほぼ完成。 資本主義国との通商が少ないため,世界恐慌の影響も受けず。 第二次五ヶ年計画(1933~37) 軽工業中心 社会主義建設には民生の犠牲もあったので, 国民生活の向上をはかる。 第三次五ヶ年計画(1938~42 )…ウラル・シベリア地方での重工業建設,軍需工場 ・次第に国力が向上していった。労働者といっても,農民と工場労働者とのきずなはほとんど ないまま。「官僚主義」の弊害が定着し始めていく。 東欧諸国 民族構成が複雑で民族自決主義が不完全。 新興国は政治的・経済的に独立維持が困難→チェコ,ユーゴ,ルーマニアら小協商国,ポーラ ンドはフランスと同盟 ・ポーランド:戦後 バテレフスキーの統一政府成立。国境問題でウクライナに侵入し,ソヴ ィエトと交戦。 クーデタでピウスツキ大統領就任(1926) ・ハンガリー:ソヴィエトの影響によりハンガリー革命(1919)…ルーマニアの干渉により失敗 以後は権威主義体制へ ・チェコスロバキア:マサリクやベネシュの指導で独立実現 ・ユーゴスラビア 独立後,ユーゴスラビア王国(1929)として独裁が始まる ★

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【現代② 第一次世界大戦後の欧米世界】

1.ロシア革命…ソヴィエト連邦の成立 2.ヴェルサイユ体制下の国際外交 3.1920 年代の欧米各国の様相 1.ロシア革命…ソヴィエト連邦の成立 二月革命 A) 第 1 次世界大戦における,ドイツとの戦線の劣勢 国内の物資不足,国民の生活困窮=経済危機深刻化,怪僧ラスプーチンの専横や宮廷の 腐敗による対策不足 ↓労働者や兵士の不満増大 首都 [ ]でストライキの嵐(1917.3.8)→軍隊も合流して全国に波及(労 働者・兵士らの[ ]が組織される) →皇帝ニコライ2 世退位(ロマノフ朝滅亡),臨時政府樹立…[ ]革命(ロシアの暦 では三月…ユリウス暦を使用していたため) B) 二重権力状態 労働者・兵士代表者による会議=ソヴィエト存続 臨時政府…主に立憲民主党(リヴォフ),メンシェビキのソヴィエト…戦争継続を主張 →不安定な政情続く [ ]がスイスから帰国し,四月テーゼ発表「全権力をソヴィエトへ」。 ボルシェビキ勢力が力づくが・・・ ・社会革命党のケレンスキー首相 (メンシェビキと組んで政権掌握)→ボルシェビキ弾圧。 しかし,帝政派コルニコフの反革命がおき,ボルシェビキの支援を求める ↓ 9 月にはボルシェビキ勢力が増大する 十月革命 C) [ ]が蜂起 (11 月 7 日)…レーニンやトロツキーの指導で臨時政府 打倒→翌日,全ロシア・ソヴィエト会議で政権樹立(連立政権)を宣言 人民委員会議長レーニン,外務人民委員トロツキー,民族人民委員スターリンらの人民 委員会議が成立(ソビエト政府) 「平和に関する布告」(全交戦国に無賠償・無併合・民族自決の原則による講和の要請) 「土地に関する布告」(農民革命を認めた)を採択 この一連の動きを[ ]革命という 直後に議会選挙→しかし社会革命党が第一党 ソヴィエト政 権樹立 ・レーニン 議会を武力で解散(1918.1)→[ ]政権=プロレタリア独裁 (ボルシェビキの一党独裁)樹立 ・ボルシェビキ→[ ]と改称,モスクワに遷都 ・国際的孤立,ドイツの軍事力優勢をみて→[ ]条約(1918.3)… あえて西部の広大な領土を割譲しドイツと単独講和→ドイツの敗戦で無効になり, 新興国が生まれる ・憲法制定…全国にソヴィエト設置,18 歳以上のすべての男女に選挙権 しかし,共産 党以外の政党は禁止

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内戦と対ソ干 渉戦争 A) 白衛軍(反革命派・帝政時代をよしとする軍人や政党)が各地で政権樹立→ソヴィエト 政権との内戦へ ↓白軍を支援して捕虜となったチェコ兵救出を名目に外国が干渉 [ ]戦争…イギリス,フランス,アメリカ,日本が革命拡大をおそれ干 渉 日本はシベリア出兵 B) ソヴィエト政府は赤衛軍(赤軍)や[ ] (非常委員会)を組織 レーニンは先進資本主義国での革命(世界革命)が必要と考え,[ ] (第 三インターナショナル)を結成(1919.3)→諸国の革命運動・民族運動を指導したが失敗 C) [ ]共産主義 (1918~21)…反革命や外国の干渉に対する武器と食糧の確保の ため採られた。 土地国有化:農民への分配→農産物の強制徴発 工場国有化:労働者の工場管理,食料配給制 ↓農民の反発 農業生産破壊→多数の餓死者発生,工業生産力低下。燃料・食糧不足がおこり,反政府 行動が多発。 穀物生産や工業生産が衰え,経済は低下。党内も混乱 1920 年,国内の反革命政権をほぼ打倒,外国干渉軍も撤退開始 ↓ 新経済政策 (ネップ) ・戦時共産主義による被害の復興策として採用。ゆきすぎた国有化・穀物強制徴発撤回, 内戦終結とともに実施(1921~28) D) 生産回復のため資本主義的要素を一部導入→私的経営や農産物販売の自由を認める →国民経済の回復に成功(戦前水準) E) 農村に[ ] (余剰生産物を販売),都市にネップマン(中小企業の個人経営) が出現 ソ連の成立 F) ・ソヴィエト[ ] (USSR)(1922) ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカスの4ソヴィエト共和国を統合した。 新憲法公布(1924.1月) G) 外国のソ連邦承認…ドイツ ラパロ条約(1922)で イギリス,フランス,イタリア (1924),日本(1925), アメリカ(1933) 内紛 ・トロツキー vs. 他の幹部 22 年秋~ 争点:回復し始めた経済の方向性 ,党内秩序のひきしめ策を継続するか否か ↓一旦鎮静化するも, トロツキーが自著で十一月革命前のジノヴィエフとカーメネフを批判 ・スターリン,ジノヴィエフ,カーメネフ…「三人組(トロイカ)」 反トロツキー・キャンペーン「トロツキーは先進工業地域の西欧の社会主義化こそ必要とし,農民の革命性を否定してい る!」 教条化したレーニンの言説とトロツキーの意見の相反する部分をことさらとりあげて,排除しようとした。 トロツキー 軍事人民委員を辞任(25.1) ・「三人組」の亀裂 スターリン 一国でも完全な社会主義社会が作れる!←ジノヴィエフ,カーメネフ が批判 しかし,22 年以降の入党資格の緩和により大衆政党化していた共産党員の多くはスターリンを支持…第 14 回党大会で勝 利(25.12)

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2.ヴェルサイユ体制下の国際外交 賠償問題 A) ドイツの賠償金1320億マルク…支払い不可能な状態→賠償不履行を口実としてフラン ス,ベルギーが[ ]占領実行(1923)。しかし,国際的非難をあびる。 B) 不 服 従 運 動 で 対 抗 し た ド イ ツ で は 生 産 が 低 下 し , イ ン フ レ 激 化 に 対 し , [ ]首相が対策…レンテンマルクでインフレ克服,および[ ] 案成立(1924)…新しい賠償支払計画を決定(アメリカの借款による経済復興を図る) シュトレーゼマンの協調外交によりフランス,ベルギーはルール地方から撤兵(1925) C) ヤング案成立(1928)→賠償額 358 億マルクに減額 D) 世界恐慌により→ローザンヌ会議(1930)で 30 億マルクに減額…後のナチス政権はこれ すら否定した。 国際紛争 民族自立と国際協調の矛盾 A) [ ]問題…イタリア・ユーゴスラヴィア戦争 イタリア過激派がフィウメ占領(1919)(詩人ダヌンツィオも参加) イタリアが併合(1924)(ムッソリーニ政権) イタリアとユーゴスラビアが対立 B) トルコ・ギリシア戦争…[ ]地方をめぐるギリシアとトルコの対立(1919 ~22) トルコのケマル・パシャ(ムスタファ・ケマル or ケマル・アタテュルク)がセーヴル条約を 認めず奪回のために活躍→[ ]条約へ C) ソビエト・ポーランド戦争 (1920~21)…国境問題から発生 フランスの支援で[ ]が勝利→ベラルーシとウクライナの一部を獲得 D) ルール占領(1923)…賠償金の支払いをめぐり,フランス・ベルギーがドイツのルール工 業地域を占領 国 際 協 調 の 時代 ・総力戦となった第一次世界大戦は,惨禍をもたらしヨーロッパの人々に戦争を嫌う風潮を 増大させた。大戦後に飛躍したアメリカは新たなフロンティア=太平洋の覇権をめざして, 日本を仮想敵国と考えるようになる。アメリカが望む形で,日本は軍事力を制限されていく。 日本国内では軍部の不満が高まり,大正デモクラシーの時代がやがて,軍部による政党内閣 攻撃へと向かうことになる A) [ ]会議 アメリカ大統領ハーディングの提唱(1921~22) ・海軍軍備制限条約…主力艦保有比率 英:米:日:仏:露=5:5:3:1.67:1.67 ・四ヶ国条約(1921) 日英米仏 太平洋の現状維持 日英同盟の破棄 ・九ヶ国条約(1922) 中国の主権尊重,独立,門戸開放,機会均等を約束 日本は青島(チンタオ),山東の利権返還,石井・ランシング協定の空文化で破棄 ワシントン体制:この会議で決められたアジア・太平洋地域の新国際秩序 B) [ ]条約…英,仏,独,ベルギーなど(1925) ラインラントの不可侵,非武装化(現状維持)=国境を相互に守ることを確認→ドイツ が国際連盟に加盟実現(1926) ・ジュネーヴ軍縮会議補助艦制限を話し合うが,決裂(1927) …日本,イギリス,アメリカ 間 C) [ ] (ケロッグ・ブリアン協定)…ケロッグ国務長官(米)とブリアン 外相(仏)が提唱(1928) 国際紛争を解決する手段として[ ]に訴えぬことを約束(戦争放棄を規 定)。15 ヶ国が調印。 実は第二次世界大戦後の日本国憲法の九条の文言はここから引用したもの。 D) [ ]海軍軍縮会議…マクドナルド首相(英)開催(1930)

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補助艦の保有比率を決定 英:米:日=10:10:7 弱 →日本の軍部や右翼は「統帥権干犯」と猛反対し,軍国主義化の転換点となった。 3.1920 年代の欧米各国の様相 特徴 ・各国政府:資本主義体制あるいは社会主義を志向する動き ↑↓対立 保守勢力(すみやかな再建をめざす),急進的な右翼ら反革命勢力 ドイツはもっとも左右の攻撃が顕著だったが,既存の勢力が乗り切った。 イタリアは,既存の支配層が新しい党派に乗り切りをゆだねた。 英仏は,既存の支配層が戦後危機を自ら乗り切った。 ・1920 年代後半…相対的安定期,労使協調路線の拡大 電気・化学産業などの新興産業の本格的展開でWW1 前とはことなる資本主義的秩序 米国の金融的支援に支えられていたこと ↑↓ ソ連,植民地の動向 アメリカ A) イギリスにかわって,主導的国家へ成長 WW1…連合国に物資供給し莫大な利益。英仏の戦債免除要請も拒否 債務国から債権国へ転換⇒世界の金融市場を支配=世界経済の中心に 高関税政策=国内市場を保護→世界の富を集中 B) 一方で,ヨーロッパの政治への直接的かかわりを回避,伝統であったモンロー主義の延長 として孤立主義(国内第一)の傾向深まる。 ・ウィルソン大統領(民主党)(1913~21) 上院でヴェルサイユ条約の批准を拒否されたため,国際連盟不参加。民主主義の進展…女性 参政権の実現(1920) C) 資本主義経済が繁栄 共和党政権下で「永遠の繁栄」の時代…大企業の利益重視 自動車の大衆化,家庭電化製品やラジオ・映画などの発達→現代大衆文化成立 ・一方で,保守的傾向…白人中心の価値観の強調,禁酒法の実施,移民法(1924)など ・ハーディング大統領 平常への復帰を唱える(バックトウノーマルシー), ワシントン会議を主催,日本の太平洋での勢力拡大を阻止する方向へ。 ・クーリッジ大統領 ・フーヴァー大統領 世界恐慌に対して無策。 ドーズ案によりドイツへ借款,パリ不戦条約などの外交政策 イギリス A) 戦後イギリス経済は不振 B) 民主政治の進展…労働党の勢力拡張 ロイド・ジョージ挙国一致内閣 第四次選挙法改正(1918) 21 歳以上男子と 30 歳以上の[ ]参政権 第五次選挙法改正(1928) 男女(21 歳以上) [ ]制=男女同権へ ↓労働党が進出 [ ]内閣(1924) 労働党が自由党と連立し初めての政権。漸進的な社会政 策。ソ連承認。 1929 年の選挙,労働党初の第1党→マクドナルドⅡ内閣 イギリス帝国会議(1926,30)の決議→[ ]憲章が制定され,イギリス連 邦成立(1931) 国王に対する共通の忠誠に基づく国家連合…各自治領は本国と対等の地位 を承認。

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C) アイルランド問題 大戦中 デ・バレラらの独立運動 アイルランド自由国成立(1922)…北部アイルランドをのぞく自治領成立 ↓アイルランド独立派…ウ憲章にあきたらずイギリスからの完全独立要求 [ ]共和国 として完全独立(1937) フランス ・国土が戦場=戦争の被害が大きかった→ドイツへ強い警戒心→強国ドイツの復興を懸念 ・ソ連が帝政ロシア時代の債務を破棄したため,反ソ的傾向強まる ・アルザス・ロレーヌの鉄やザールの石炭を得ても,財政は不安定 D) ポアンカレ右派内閣(1923) 賠償金支払いのおくれを理由にベルギーとともに[ ]→ドイツ側はストライキ (生産停止)で経済混乱。結局得るところはなく撤退 E) エリオ左派連合内閣(1924) ソ連承認(1924),対独協調政策へ転換,ロカルノ条約(1925)→ドイツの国際連盟加盟へ F) [ ]Ⅱ(1926)…「挙国一致内閣」 財政安定に成功 ブリアン外相 不戦条約など平和外交,ドイツとの和解もすすめた。 ドイツやソ連を警戒し,ポーランドや小協商国と提携した。 ドイツ ・ドイツ革命(1918)の後, 経済復興,国際協調に努めるが,賠償金の支払いに苦しみ政治・経済は不安定 社会民主党とドイツ共産党の対立 A) 社会民主党の[ ]臨時政府 休戦条約調印 ドイツ共産党 [ ]団(社会主義革命をねらった)を中心に結成 ↓その蜂起を鎮め,国民議会開催 エーベルト大統領の選出 [ ] (ワイマール)憲法(ドイツ共和国憲法)制定 主権在民 20 歳以上の男女普通選挙権 労働者の団結権,団体交渉権。 ・左翼革命と右翼の反動による社会不安にゆさぶられる。 レーテ共和国(バイエルン)(1919.4)←5 月 右翼の義勇軍により倒される 国会選挙で右派台頭(6 月) これに対し,政府が右翼に解散命令を出すと→カップ一揆 (1920) 共産党内急進派が強まり武装蜂起(1921.3)→× フランスらによる[ ] (1923)に対し,労働者のストを指揮。しかし,その間 も給料は支払われるため,大インフレを招く ↓ B) [ ]内閣(1923 夏)…新紙幣[ ]の発行→インフレ克服 ドーズ案によりアメリカより資本導入(借款)で経済復興 ヒトラーの ミュンヘン一揆 も生み出した。 その後シュトレーゼマンは外相として,ロカルノ条約締結,国際連盟加盟を実現 この間,ヒンデンブルク大統領 (1925~) 左右の攻撃をどうにかのりきった政府は,米国資本に助けられつつ,資本主義的秩序をとりも どしていった…しかし,1929 の世界恐慌でドイツ経済は破滅的状況になる。

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イタリア A) 第 1 次世界大戦後のヴェルサイユ体制への不満 戦後の領土をめぐる不満の拡大。 ・大戦後,未回収のイタリアを取り戻すが,[ ]の領有を主張→過激派(詩人 ダヌンツィオも参加)によるフィウメ占領(1919) ・戦後の経済危機で労働運動激化…インフレ下の労働運動の高まり社会党左派(のちに共 産党)の指導した北イタリアのストライキ失敗(1920)⇒共産主義は信を失う B) [ ]がファシスト党結成(1919) 危機の原因は左翼(共産主義)や議会制民主主義にあると考え,強権的な指導者や国家による 国民の統合を主張(全体主義)。軍人,地主,資本家の支持を受ける ローマ進軍(1922) …政権獲得をめざして党を率いてローマへ 政権掌握(1922)。 国王より首相に任命され組閣 新選挙法(1922)…最多得票党が3分の2の議席を獲得することとする 一党独裁体制確立(1926)…他の政党禁止・議会制度の廃止 言論出版の抑圧や経済統制実施 [ ] (党の最高機関)が国家最高機関に(1928)⇒言論統制へ ラテラン条約(1929)…ローマ教皇庁と和解(1870 以来)→[ ]市国成立 既存の支配層は,危機の乗り切りを,新しい党派であるファシスト党にゆだねた形になる。 ソ連 A) レーニン死後(1924) →後継者争い スターリンの[ ]論 ⇔ トロツキーの世界革命論との争い →トロツキー失脚,国外追放(1929),[ ]が実権。粛清工作により反対者を 次々に処刑し,独裁権力を手中にしていった。 コミンテルンもソ連国家の擁護を主課題としていく。 B) 資本主義国の支援を受けられない状態での,設備投資の必要性→国家の干渉・統制がふた たび強められていく C) スターリン憲法(1936)…民主的な内容,信仰の自由や民族の平等,男女平等。 共産党一党独裁と,選挙の候補者推薦制はかわらず。 D) 計画経済の実施 第一次[ ]計画実施(1928~32)…重工業育成に重点。 集団農場([ ]),国営農場(ソフホーズ)による農業の集団化→農民の抵抗に 対し弾圧,生産物供出を強制→多数の餓死者を出すが,集団化はほぼ完成。 資本主義国との通商が少ないため,世界恐慌の影響も受けず。 第二次五ヶ年計画(1933~37) 軽工業中心 社会主義建設には民生の犠牲もあったので, 国民生活の向上をはかる。 第三次五ヶ年計画(1938~42 )…ウラル・シベリア地方での重工業建設,軍需工場 ・次第に国力が向上していった。労働者といっても,農民と工場労働者とのきずなはほとんど ないまま。「官僚主義」の弊害が定着し始めていく。 東欧諸国 民族構成が複雑で民族自決主義が不完全。 新興国は政治的・経済的に独立維持が困難→チェコ,ユーゴ,ルーマニアら小協商国,ポーラ ンドはフランスと同盟 ・ポーランド:戦後 バテレフスキーの統一政府成立。国境問題でウクライナに侵入し,ソヴ ィエトと交戦。 クーデタでピウスツキ大統領就任(1926) ・ハンガリー:ソヴィエトの影響によりハンガリー革命(1919)…ルーマニアの干渉により失敗 以後は権威主義体制へ ・チェコスロバキア:マサリクやベネシュの指導で独立実現 ・ユーゴスラビア 独立後,ユーゴスラビア王国(1929)として独裁が始まる ★

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参照

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