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中世後期における寺社参詣の研究 : 京都の寺社と 参詣者

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Academic year: 2021

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中世後期における寺社参詣の研究 : 京都の寺社と 参詣者

著者 川嶋 美貴子

学位名 博士(文化史学)

学位授与機関 同志社大学

学位授与年月日 2017‑03‑20 学位授与番号 34310甲第815号

URL http://doi.org/10.14988/di.2017.0000016923

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課程博士・論文博士共通

博 士 学 位 論 文 要 約

論 文 題 目: 中世後期における寺社参詣の研究―京都の寺社と参詣者―

氏 名: 川嶋 美貴子

要 約:

本論は、室町・戦国時代の京都で盛んに行われた寺社参詣について、公家の日記と縁起を主な手が かりとしながら、参詣者とそれを受容する寺院とのそれぞれの動向を探り、参詣をめぐる文化の一端 を解明しようとしたものである。

中世後期の京都は寺社の集中する都市であった。そこで多様な参詣が行われるのは当然で、当該期 の研究において、断片的にその事実はしばしば取り上げられる。寺社参詣が時代を表象する文化の 一つであることは、これまで漠然と認識されていたといえる。しかしながら、参詣そのものの解明 を進めた研究は少ないのが現状である。

寺社参詣史において大きな存在感を保っている新城常三氏の研究は、交通史の観点から遠隔参詣を 中心に取り上げられたため、日常的に行われる近郊の参詣については手薄であった。それ以降の研究 も概ね新城氏の論調に従って蓄積され、経済の発達と参詣の遊楽化を前提とした各種の事例研究が個 別に展開している印象である。そこで、多数の寺社参詣が行われた事実が確認できる京都の様相をあ る程度総体的に把握し、その上で個々の事例を位置づけることは、寺社参詣史研究を前進させ、当該 期の理解を深めることができると考える。

本論ではこの課題に取り組むため、寺社参詣に関わる史料が豊富な公家の日記を用いて分析すると ころから始める。各人の日記に現れる参詣の全体像を把握し、参詣対象や動機等の傾向を探り、当該 期の信仰や風俗の特徴を掴むことを目標とする。寺社参詣を支えた社会背景の解明と寺社参詣そのも のの解明は、不可分の関係にある。これはつきつめると、参詣を受容する立場と参詣者の関係に収斂 するといえ、両者の考察を行い、相互関係を探ることが寺社参詣史研究に必要であると考える。故に 本論では、第Ⅰ部「寺社参詣をめぐる風俗と信仰」と第Ⅱ部「参詣者を受容する寺院の動向」に分け て構成することにした。第Ⅰ部は参詣者、第Ⅱ部は題目どおり参詣者を受容する立場からアプローチ したものである。

第Ⅰ部では、公家個々人の参詣の特徴と具体相にふれ、この時代に特徴的である誕生日に行わ れた寺社参詣とその背景にある氏神信仰について言及し、寺社参詣をめぐる風俗と信仰の一端を 明らかにした。

まず第一章では、主に『二水記』と『実隆公記』を用いて検討した。そもそも、寺社へ参るこ とを「参詣」というが、「参詣」の他に寺社へ参ることを指して「罷向」や「見物」といった表 記もある。これらはある程度使い分けられており、祈願を凝らすために寺社へ参ることが「参詣」

と認識されていた。この「参詣」について、日記の記主ごとにその様相を概観し、傾向を把握し た。

いずれの記主も熱心に参詣をした対象は、公家としての社会的立場による普遍的な信仰対象で はなく、個人的に篤く信仰した寺社であった。しかも、古来、朝廷の尊崇を受けた大寺ではなく、

中世以降に興った寺院がその対象となっていた。個人的に信仰を深める契機としては開帳が確認 でき、寺社の非日常的な催事による参詣者確保の様子が知られた。

生涯を通してみた参詣の頻度と傾向についても個人差があり、同じ公家だからといって一様に みなすことはできない。私的で多様な信仰に基づく参詣が多いものの、時には職務や人付き合い、

市井の噂や流行といった様々な理由ないし動機によって寺社へ参ったのであった。そしてそれら 参詣対象の多くは、各人の邸宅から程近い場所にあった。遠隔にある寺社へ頻繁にかつ定期的に

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課程博士・論文博士共通

参詣を行うよりも、近郊の寺社を頼りに、祈願や祈祷、先祖の供養を行った。高野山や天王寺へ 参詣するといった遠方への参詣は、人生の中でも貴重な体験であった。

以上は、先に掲げた目標に到達するための基礎固めといえる作業である。

続く第二章では、基礎固めの作業から見出された、誕生日に寺社参詣が行われるという傾向に 着目して、その追究を行った。その際、中世の誕生日の歴史についても未開拓かつ未整理な研究 状況であったため、同時に検討を加えた。誕生日の文化は禅宗を通じて日本にもたらされ、室町 幕府将軍が誕生日に仏事を営むことを恒例行事として、武家や公家、庶民にまで拡大し、江戸時 代には広く行われる習俗となっていた。その誕生日の催事の一つに寺社参詣があり、仏事や酒宴 などと併せて行われた。生まれた日に生を意識し、息災延命を祈る手段の一つに参詣があったと いえる。氏神を祀った神社が参詣対象となることが多く、この場合の氏神は、生まれた土地の守 り神である産土神と考えられる。この点について更に追究をしたのが第三章である。

第三章では公家の日記にみえる「氏神」や「生神」といった表記に着目して、それらが同族集 団としての氏が奉斎する神ではなく、その土地に生まれた人を守る神として認識されていたこと を確認し、その「氏神」への信仰と寺社参詣のあり方について考察した。「氏神」信仰の表出し た形として、第二章に既出の誕生日の参詣に加えて、祭礼への参詣や礼拝、病気平癒祈願、宮参 りや暇乞いが挙げられ、「氏神」が人生の節目に関わった神であることを指摘した。併せて、「氏 神」信仰をもつ公家の誕生地と氏子区域の検討を行い、近世に明記される氏子区域に含まれるも のが多いという結果を得た。「氏神」信仰は京に生きた公家に根付いていたものであり、公家の みならず、祭礼を支えた氏子ら及び京の各地域住民の信仰がうかがい知れるものであった。また、

室町幕府が御霊社や今宮社を保護した事実は、京の住民の生活から切り離しがたい信仰の拠点を おさえるものであったことを改めて確認した。

第Ⅱ部では、いずれも京都に存在した木屋薬師堂と朱雀権現堂の二つの寺院に焦点を当て、参 詣者を受容する寺院の実態を把握した。特に、経営再建と参詣者獲得の狭間で、寺院がどのよう な態度で臨んだのかを明らかにした。

第四章では、第Ⅰ部第一章で取り上げた公家の参詣対象の木屋薬師堂が、土蔵から薬師堂へと 経営の主体を移していった経緯を明らかにした。木屋薬師堂には薬師如来を祀る堂と土蔵が併設 されており、比較的早い時期の史料には土蔵としての活動が顕著にみられた。それは禁裏御蔵を 拝命し、各所に金融を行うといったものであったが、度々強盗の被害に遭い、致命的な損失を被 って影を潜めていく。うって変わって史料に頻出するようになるのは、薬師堂の存在であった。

特に薬師堂で行われた長期間の開帳は、貴賤が参詣結縁し、土蔵の経営が傾いた薬師堂を支えた ものと思われる。土蔵から薬師堂へ経営の主体を移した例として、寺院経済ならびに土蔵経営の 新しい側面を提示した。

第五章では、それまでの章において基本史料としていた中世後期の日記の世界から離れ、縁起 を用いて寺院中興の様相を追究する試みを行った。具体的には、下京に現存する朱雀権現堂の縁 起ならびに略縁起の翻刻を行い、内容を比較して、両者の前後関係を明らかにするとともに、縁 起の制作時期周辺における寺院の状況を検討した。これら二つの縁起は、いずれも朱雀権現堂が 中興された頃の作と思われ、中興にあたって寺院が重視した点がここに表れていた。当時の朱雀 権現堂には種々の伝承や由緒来歴が伝わっていたが、それらは浄土宗知恩院末の権現寺となるこ とによって、次第に整理される運命にあった。

従来の朱雀権現堂に関する研究は、説経「さんせう太夫」研究の域を出るものではなかった。

朱雀権現堂は交通の要衝にあり、説経者の活動の場として位置づけられていた。それを寺院史、

寺社参詣史の視点で理解することによって、改めて朱雀権現堂における説経の重要性がみえてき た。

以上のように、京都周辺の参詣者と参詣者を受容する寺社との関係をみたとき、それぞれの需 要を満たす独自の関係が成立していたと考えられる。参詣者は、日常的に多くの参詣対象をもっ

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ていた。それらは、日々の息災祈願や急を要する祈願など、必要に応じて柔軟に参ることができ るものであった。逆に、恒常的なものではなく、状況に応じて取捨選択されるものであったとい える。また、寺社へ参るのには祈願のみならず、遊楽の目的もあり、美しい景色や目新しいもの、

非日常的な催事がそこに求められた。それに対する寺社は、祈願や開帳などの様々な方法で、日 常的にも非日常的にも参詣者と積極的に関わり、その需要を満たすことを経営の柱としていた。

これら参詣者と寺社を結びつけるものに、地縁が挙げられる。それは誕生日の参詣を通じて氏 神信仰の諸相をみた通りで、生まれた土地に結びついた信仰が根付いており、それに基づいた参 詣が行われていた。加えて、京都における多様な寺社の存在は、参詣者にとって身近な距離にあ り、利便性の高いものであり、日常の信仰や生活に組み込まれたものであった。さらに、中世後 期は町が成立して、地域共同体としての結束が高まる時期にある。近郊の寺社との関係は、木屋 薬師堂の例のように、町や同地域の住民としての結束の上に成り立つ場合もあったと思われる。

また、流行の影響も重要である。様々な伝承や巷説が流布して、参詣の大きな動機になってい た。『二水記』にその様子がよく表れていたが、京都の人が日々様々な流行に左右されていた様 子がうかがわれる。そういった流行の一つとして寺社にまつわる伝承が存在し、これを語るもの として説経師の存在や縁起があった。説経師は各地を歩いて人々に物語を広め、縁起は文字の形 で残り伝えられ、参詣者に共有された。説経は第Ⅱ部第五章で扱った「さんせう太夫」のみなら ず、多種の物語が語られていた。縁起も当該期に多く制作されており、それは三条西実隆の仕事 ぶりからみても疑いのない事実である。

このように、生活の場に根付いた寺社の存在や耳目を惹く情報の溢れた社会、不安な世相が、

中世後期の京都周辺における多様な寺社参詣を生み出していたといえる。

参照

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