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コウルリッジのイマジネーション論再考 : 推論の 方法論を手がかりに

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(1)

コウルリッジのイマジネーション論再考 : 推論の 方法論を手がかりに

著者 伊達 立晶

雑誌名 人文學

号 197

ページ 25‑73

発行年 2016‑03‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014449

(2)

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

│ 推論 の 方 法論 を 手 がか り に

││

伊 達 立 晶

序 イ

ギ リ ス・ ロ マ ン 主 義 の 詩 人 で あ り 思 想 家 と し て も 知 ら れ る コ ウ ル リ ッ ジ︵

Samuel Taylor Coleridge, 1772 ­ 1834

︶ は︑

﹃ 文学 的 自叙 伝

││ 私 の文 学 的 な人 生 と 意見 と の 伝 記的 素 描﹄

Biographia L iteraria : Biographical Sketches of My

Literary Life and Opinions

以 下﹃ 文学 的自 叙伝

﹄︶ を 一八 一七 年七 月に 発表 し︑ 独 自の イ マ ジ ネー シ ョ ン論 を 提 唱し たこ とで 知ら れる

︒そ の半 年後 の一 八一 八年 一月 以降

︑コ ウル リッ ジは

﹁方 法の 原理 に関 する エッ セイ

﹂︵

“Essays on

the P rinciples of M ethod” :

以 下﹁ 方法 の 原 理﹂

︶を 発 表 し︑ 真理 に 到 達 する た め の推 論 方 法 に つ い て 論 じ て い る

︒一 見し たと ころ

︑こ の二 つの 論文 の内 容が 重な るよ うに は見 えず

︑管 見の 限り では 両者 の密 接な 関係 を詳 述し た論 文も 見当 たら ない

︒し かし 実際 には これ らの 二つ の論 文に は︑ 共通 の問 題意 識を 見出 すこ とが でき る︒ した がっ てそ れら を比 較す るこ とは

︑従 来と は異 なる 観点 から 彼の イマ ジネ ーシ ョン 論を 見直 す契 機と なる だろ う︒ 本稿 では こう した

― 25 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(3)

問題 意識 に基 づき

︑あ らた めて 彼の イマ ジネ ーシ ョン 論が どの よう なも ので あり

︑ど のよ うに 成り 立ち

︑ど のよ うな 問題 をは らん でい るの かを 明ら かに した い︒ ま ず第 一章 では

︑﹃ 文 学的 自叙 伝﹄ 第一 三章 の有 名な 箇 所 を中 心 に︑ コ ウル リ ッ ジの イ マ ジ ネー シ ョ ン論 に つ いて 概観 し︑ その 言説 の内 容を 確認 した い︵ なお 本稿 でコ ウル リッ ジの

﹁イ マジ ネー ショ ン論

﹂と する のは この 箇所 に要 約さ れる 議 論 であ り

︑他 の 時 期の イ マ ジネ ー シ ョン 論 を 原 則と し て 含ま な い︶

︒ この イ マ ジ ネー シ ョ ン論 に 関 して 先行 研究 は多 いも のの

︑意 外に も当 該箇 所を 網羅 的・ 逐語 的に 解釈 して いる もの は︑ 管見 の限 りで はほ とん ど見 当た らな い︒

﹁ コー ルリ ッジ の﹃ 空想

﹄と

﹃想 像力

﹄と の区 別や

︑﹃ 第一 想像 力﹄ と﹃ 第二 想像 力﹄ の定 義な どは 有名 であ るが

︑い ずれ も十 分な 論理 的説 明が なさ れて いる とは 思わ れな い﹂ とい う 指 摘も あ る 以 上

︑ 不明 瞭 な 箇所 の 残 るよ うな つま み食 い的 解釈 は避 ける 必要 があ るだ ろう

︒先 行研 究と 重複 する 可能 性が あり なが ら︵ とは いえ

︑同 様の 解釈 のよ うに 見え ても

︑そ の解 釈の 深度 を測 りか ねる 研究 がか なり 多い

︶紙 数を 割い てこ の短 いテ クス ト自 体の 分析 を試 みる のは

︑以 上の 理由 によ る︒ 第二 章で は﹁ 方法 の原 理﹂ につ いて 検討 し︑ 彼の イマ ジネ ーシ ョン 論と の密 接な 関係 を確 認す る︒ 推論 方法 をめ ぐる この 問題 系か ら見 直す こと で︑ 逆に 彼の イマ ジネ ーシ ョン 論の 成立 事情 も明 らか にな るだ ろう

︒第 三章 では

︑同 じく イマ ジネ ーシ ョン 論と 推論 の方 法論 とを 関連 づけ たア メリ カの エド ガー

・ア ラン

・ポ ー︵

Edgar A llan P oe, 1809 − 49

︶ の思 想と 対比 する こと によ って

︑コ ウル リッ ジの イマ ジネ ーシ ョン 論が 抱え てい る理 論的 問題 点を 明ら かに する

︒以 上の 手続 きを 経て

︑コ ウル リッ ジの イマ ジネ ーシ ョン 論が 理性 論と 表裏 一体 のも ので あり

︑従 来の イマ ジネ ーシ ョン 論や ドイ ツ思 想の みな らず ミル トン の﹃ 失楽 園﹄ 第五 巻の 影響 を受 けて 成り 立っ てい るこ と︑ およ びそ こに 合理 論的 思考 様式 ゆえ の限 界が ある こと を明 らか にし たい

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 26 ―

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第 一 章 コ ウ ルリ ッ ジ のイ マ ジ ネー シ ョ ン論 第一

節 イマ ジネ ーシ ョン とフ ァン シー との 区別

︑お よび 創造 性の 問題 ま ずさ っそ く﹃ 文学 的自 叙伝

﹄第 一三 章の 有名 な箇 所を 引用 し︑ コウ ルリ ッジ のイ マジ ネー ショ ン論 につ いて 概観 して おき たい

︒ 私は

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ を︑ 第一 のも のか 第二 のも のか であ ると 考え る︒ 第一 の﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂に つい ては

︑あ らゆ る人 間の 知覚 の活 力で あり

︑そ の知 覚の 根源 的な 発動 者で あ り 無限 の

﹁我 あ り︵

IA M

︶﹂ に お ける 永遠 なる 創造 行為 を有 限の 心の 中で なぞ るこ とだ と私 は考 える

︒第 二の もの につ いて は︑ 前者 の反 映で あり

︑意 識的 な意 志と 共存 する もの であ ると 考え るが

︑し かし その 働き の種 類に おい ては 第一 のイ マジ ネー ショ ンと 同一 であ って

︑た だ程 度に おい て︑ その 作用 の様 式に お い て 異な る も のと 考 え る︒ それ は 再 創 造す る た めに 溶 解 し︑ 放散 し︑ 消散 し︑ ある いは この 過程 が不 可能 にな っ た 場 合で も な お︑ とに か く 理想 化 し 統 一し よ う と努 力 す る︒ あら ゆる 客体 がち ょう ど︵ 客体 とし て︶ 本質 的に 固定 され た死 せる もの であ る一 方︑ それ は本 質的 に生 きた もの で ある

︒こ れ と は 逆に

︑﹁ フ ァ ンシ ー

﹂は 固 定さ れ た も のや 限 定 され た も のの ほ か に 使え る 持 ち 駒 を も た な い︒ 実際

︑フ ァン シー は︑ 時間 や空 間の 秩序 から 解放 され た記 憶の 一つ の様 式に ほか なら ず︑ 選択 とい う語 でも って 我々 が表 すあ の意 志の 経験 的現 象と 混合 され

︑そ れに よっ て変 容さ れる

︒し かし 普通 の記 憶と 同様 に︑ ファ ンシ

― 27 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

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ーは 連合 の法 則か ら作 られ たそ の既 成の 素材 をす べて 受容 しな けれ ばな ら な い︵

Coleridge, 7 1, 304 − 305 :

­

傍 線部 はイ タリ ック

︒ま た原 文で は﹁ ファ ンシ ー﹂ の説 明の 前で 改行 し︑ 段落 を分 けて いる

︒ 多

くの 補足 説明 を要 する 文章 であ る︒ ここ でま ず確 認で きる のは

︑コ ウル リッ ジが

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ を二 つに 分け

︑そ れと は別 の心 的能 力と して

﹁フ ァン シー

﹂を 挙げ てい ると いう こと であ る︒ その 他の 問題 につ いて は少 しず つ時 間を かけ て解 説す ると して

︑ま ず﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂と

﹁フ ァン シー

﹂と の関 係と いう 問題 から 解説 しな けれ ばな らな い︒ コ ウル リッ ジの 時代 にお いて

︑﹁ イ マジ ネー シ ョ ン﹂ や﹁ ファ ン シ ー﹂ は特 に 詩 の領 域 で 注 目さ れ た 心的 能 力 であ る︒ これ を遡 る一 八世 紀初 頭以 来︑ 詩の 制作 には

﹁独 創性

﹂が 求め られ るよ うに なり

︑古 典文 芸の 翻案 のよ うな もの では なく

︑独 自の 発想 が詩 人に 求め られ るよ うに なっ た

︒ その 結果

︑古 典詩 学 の 基盤 を 支 え る模 倣 論 は次 第 に 弱体 化し

︑古 典古 代の 美と は異 なる 魅力

︵た とえ ば崇 高や ゴシ ック 趣味

︑あ るい は身 近な 自然 美な ど︶ に題 材を 求め る傾 向が 生じ るの みな らず

︑想 像的 なも のへ の関 心も 高ま り︑ 現実 にな いも のを 現実 化す る詩 人の 心的 能力 を賛 美す る傾 向も 生じ てく る︒ まさ にそ うし た詩 人の 心的 能力 を﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂や

﹁フ ァン シー

﹂と して 提示 し︑ 特に 前者 に﹁ 創 造 的 な

creative

︶﹂ 性 質 を 強 調 し た 先 行 的 な 主 張 と し て シ ェ イ ク ス ピ ア の

﹃夏 の 夜 の 夢﹄

A M idsummer

Night’s Dream, c.1590

︶第 五 幕 第一 場 冒 頭 部 分 が 注 目 さ れ る よ う に な っ た の も

︑一 八 世 紀 半 ば 以 降 の こ と で あ る

︒ たし かに 一方 では

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ や﹁ ファ ンシ ー﹂ の豊 かさ が﹁ 判断 力﹂ の欠 如と して 批評 家か ら批 判さ れる 風潮 もあ った のだ が

︑ それ だけ にな おさ ら︑ 創作 の現 場に いる 詩人 たち はこ う し た能 力 の 必 要性 や 機 能を 明 確 に主

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 28 ―

(6)

張す る必 要が あっ たの だろ う︒ 創 造性 の問 題に つい ては

︑さ らに 若干 の補 足説 明が 必要 であ る︒ 詩人 の発 想に 創造 性を 認め よう とす る考 え方 が高 まっ てき たと して も︑ それ はあ くま でも 文学 の領 域に おい てで あり

︑当 時一 般に 通用 して いた 経験 論の 常識 にお いて は︑ 人間 の能 力に 創造 性を 認め るこ とは でき なか った

︒す なわ ち人 間の 心は 生ま れな がら に﹁ 白紙

﹂状 態で あり

︑成 年 期の 高 度 な 思考 も

︑感 覚 や経 験 を 通じ て 獲 得 して き た 知識 を 使 い こな す こ とに よ っ て初 め て 可 能に な る もの で あ る︒ 人間 の思 考に

﹁創 造的

﹂な 働き が見 出さ れる よう に見 える 場合 であ って も︑ 実際 には 記憶 され た知 識を 巧み に活 用で きて いる にす ぎず

︑そ の語 が本 来意 味す るよ うに

﹁無 から

﹂何 かを 思い つい てい るわ けで はな い︒ した がっ て文 学の 領域 にお ける イマ ジネ ーシ ョン をめ ぐる 議論 は︑ いか にそ の詩 作能 力に 創造 性を 認め るこ とが でき るか とい う課 題を はら み︑ 常識 的な 経験 論の 超克 を期 すも ので もあ った ので ある

︒ コ ウル リッ ジの 友人 ワー ズワ ース

William W ordsworth, 1770 − 1850

︶も また

︑コ ウ ルリ ッ ジ の﹃ 文学 的 自 叙伝

﹄の 二 年前

︑﹃ 一 八 一 五年 詩 集﹄

Poems, 1815

︶の 序 文 で︑

﹁ イマ ジ ネ ーシ ョ ン﹂ と﹁ フ ァン シ ー﹂ に つ いて 論 じ て い る︒ 彼 は︑ ウ ィ リ ア ム・ テ イ ラ ー︵

William T aylor, 1765 − 1836

︶が

﹃識 別 さ れ た イ ギ リ ス の 同 義 語

﹄︵

English Synonyms

Discriminated, 1813

︹ ワー ズワ ース は

Britsh S ynonyms discriminated

と表 記し てい る︺

︶に おい て﹁ イマ ジ ネー シ ョ ン﹂ と﹁ ファ ンシ ー﹂ 能力 を記 憶の 再現 能力 とし てし か 論 じ てい な い こと に 苛 立ち

︑﹃ 夏 の 夜 の夢

﹄第 五 幕 第一 場 冒 頭部 分 を引 き 合 い に出 し な がら

︑そ の 不 満を 表 明 し てい る

Wordsworth, 54 − 55

︒ だが 逆 に﹁ イ マジ ネ ー シ ョン

﹂な い し﹁ ファ ンシ ー﹂ につ いて 自分 なり の見 解を 示す 段に なる と︑ ワー ズワ ース は肝 心の

﹁創 造性

﹂に つい て十 分に 説明 しき れて いな いよ うに 見え る︒ たと えば ワー ズワ ース は絶 壁に たた ずむ 羊や 人間 を﹁ 絶壁 にぶ ら下 がる

﹂と 形容 する

― 29 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(7)

よう な︑ 対象 に付 加的 な特 性を 与え る比 喩表 現や

56

︶︑ 木 立 に 紛れ て 姿 を見 せ な い郭 公 が あ たか も 鳴 声だ け の 存在 であ るか のよ うに 形容 する

︑対 象か ら何 らか の属 性を 捨象 する 働き に︑ ワー ズワ ース はそ れら の能 力の 作用 を認 めて い る︵

57 − 58

︶︒ しか し

﹁イ マ ジネ ー シ ョン

﹂や

﹁フ ァ ン シ ー﹂ が諸 々 の イメ ー ジ を自 由 に 結 び つ け た り 改 変 し た り する こと はテ イラ ーも 論じ てお り︵

54

︶︑ この 程度 の例 で テ イラ ー を 糾弾 す る には 説 得 力 不足 で あ る︒ ワー ズ ワ ース は他 にも 様々 な例 を挙 げて いる が︑

﹁ 創造 的﹂ な表 現と そ う でな い 表 現と を い かに 区 別 で きる の か︑ 十 分に 示 し えて いる とは 言え ない だろ う︒ ま た﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂と

﹁フ ァン シー

﹂と の違 いに つい ての ワー ズワ ース の説 明も

︑十 分で ある とは 考え がた い︒

﹁ ファ ンシ ーは 我々 の本 性の 現世 的な 部分 を活 発に し 紛 らわ す た めに 与 え られ

︑イ マ ジ ネ ーシ ョ ン は人 間 の 本性 の永 遠的 な部 分を 鼓舞 し維 持す るた めに 与え られ る﹂ と論 じら れる ため

65

︶︑

﹁ ファ ンシ ー﹂ は軽 い娯 楽に 適し た作 品を 生み

︑﹁ イ マジ ネー ショ ン﹂ はよ り心 に訴 える 作品 を 生 むの だ ろ うと 推 察 でき る が︑ 多 く の表 現 に 関し て 両 者を 区別 する 基準 がど こに ある のか

︑か なり 曖 昧 で ある と 言 わざ る を えな い

︒﹁ イ マ ジネ ー シ ョン

﹂を

﹁フ ァ ン シー

﹂よ りも 価値 のあ るも のと 見な す考 え方 自体 はこ の時 代に おい て珍 しい もの で は ない が

︑ワ ー ズ ワー ス が それ を 十 分に 理論 化で きな かっ たこ とは 否定 でき ない だろ う︒ コ ウル リッ ジの イマ ジネ ーシ ョン 論は

︑こ のワ ーズ ワー スの 主張 に呼 応し

︑そ の弱 点を 克服 する もの とし て構 想さ れ たも の で あ る︒ すな わ ち コウ ル リ ッジ は

︑わ ず か な文 章 表 現に 即 し て﹁ ど うい う も のが イ マ ジネ ー シ ョ ン の 所 産 か﹂

﹁ どう いう もの がフ ァン シー の所 産か

﹂と 帰納 的に 種類 分け する ワー ズワ ース の方 法に 疑義 を呈 し︑

﹁根 本的 原理 を研 究 し︑ その 後 で 種 類か ら 程 度を 演 繹 する こ と﹂ を 目 指す こ と にし た の であ る

Coleridge, 7 1, 88

­

︶︒

﹁種 類 か ら程

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 30 ―

(8)

度を 演繹 する

﹂と いう 表現 はや や不 明瞭 だが

︑先 の引 用文 にお いて

﹁第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂と

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂と が同 じ﹁ 種類

﹂で あり

︑﹁ 程 度﹂ にお いて 異 な ると さ れ てい る こ とを ふ ま え るな ら

︑ま ず コウ ル リ ッジ は原 理的 考察 をし て種 類分 けを し︑ さら に同 じく 原理 的考 察に 基づ いて 演繹 的に

﹁程 度﹂ まで 明ら かに する と主 張し たい のだ ろう

︒ し たが って コウ ルリ ッジ の議 論に つい て検 討す る上 では

︑次 の三 点を 前提 とし て考 慮し てお く必 要が ある

︒ま ず第 一に

︑イ マジ ネー ショ ン論 はも とも と詩 論の 伝統 のう ちで 考察 され てき たも ので あり

︑コ ウル リッ ジ自 身も ワー ズワ ース の詩 的イ マジ ネー ショ ン論 に触 発さ れて いた とい うこ とで ある

︒た しか に先 の引 用文 では この イマ ジネ ーシ ョン 論が 詩に 関わ るも ので ある こと を明 示し てい ない ので

︑詩 論と して のみ 考察 され てい るの かど うか につ いて は検 討の 余地 があ る︒ その こと につ いて は第 二章 以下 で詳 細に 検討 する が︑ 第一 章で はと りあ えず 詩論 の枠 組み の中 で考 えて いく こと にし たい

︒第 二に

︑﹁ イ マジ ネー シ ョ ン﹂ と﹁ ファ ン シ ー﹂ との 相 違 を原 理 的 に 説明 す る こと が

︑課 題 とし て求 めら れて いる こと であ る︒ そし て第 三に

︑コ ウル リッ ジの 議論 にお いて 最大 の課 題に なっ てい るの が︑ いか にす れば 詩人 の制 作能 力に

﹁創 造性

﹂を 認め うる かと いう 問題 であ ると いう こと だ︒ こう した 問題 意識 の上 で︑ コウ ルリ ッジ は﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂を 二種 類に 区分 し︑ これ らと は異 なる もの とし て﹁ ファ ンシ ー﹂ を扱 うこ とに なる

︒以 下で は︑ 最も 理解 しや すい

﹁フ ァン シー

﹂か ら解 説し てい くこ とに した い︒ 第二

節 ファ ンシ ー

﹁創 造性

﹂が 問題 にな るの は﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ にお いて であ り︑

﹁フ ァン シー

﹂は この 問題 とは 無縁 であ

― 31 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(9)

る︒ すな わち

﹁フ ァン シー

﹂は

﹁記 憶の 一つ の様 式﹂ にす ぎな いの であ り︑ 感覚 を通 じて 記憶 され たイ メー ジを 再現 する 能力 だと 考え られ る︒

﹁ 記憶 の一 つの 様式

﹂と い う 語に

﹁時 間 や 空間 の 秩 序か ら 解 放 され た

﹂と い う修 飾 句 が付 加さ れて いる こと から 考え れば

︑﹁ い つ︑ どこ で経 験し た﹂ と い った 制 約 もな く 自 由に 記 憶 像 を思 い 出 す働 き が 想定 され てい ると 考え られ る︒ わ かり にく いの は︑ その 直前 の説 明 で あ る︒

﹁第 二 の イマ ジ ネ ーシ ョ ン﹂ の 説 明の 中 で﹁ 固 定さ れ た﹂ も のが

﹁死 せる もの

﹂と され た﹁ 客体

﹂で ある こと をふ まえ るな ら︑ 同様 に﹁ 固定 され たも の﹂ とさ れる

﹁フ ァン シー

﹂の 扱う 素材 も﹁ 死せ るも の﹂ であ り﹁ 客体

﹂で ある と考 えら れる

︒そ の意 味で は﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ の扱 う素 材も

﹁ ファ ンシ ー﹂ の扱 う素 材も

︑と も に﹁ 死 せる も の﹂ で あり

﹁客 体

﹂で あ ると 考 え ら れる が

︑そ う なる と

﹁こ れ とは 逆に

﹂と これ ら二 つの 心的 能力 が対 比さ れる 理由 がわ から ない

︒明 言さ れて はい ない もの の︑ おそ らく は次 のよ うに 考え るべ きだ ろう

︒す なわ ち︑ これ ら 二 つ の心 的 能 力は と も に﹁ 死せ る も の﹂ で ある

﹁客 体

﹂を 扱 うが

︑﹁ 第 二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ の場 合は その 素 材 か ら︑ いわ ば

﹁生 き た﹂ 制作 物 を つく り あ げ るの に 対 し︑

﹁フ ァ ン シー

﹂は

﹁死 せる

﹂制 作物 しか つく るこ とが でき ない

︒そ うし た所 産に つい ての 言及 が欠 けて しま った ため に︑ わか りに くい 対比 にな って いる ので はな いだ ろう か

︒と も あ れ﹁ 生き た も の﹂ と﹁ 死せ る も の﹂ との 対 比 に つい て は︑

﹁ 第二 の イ マジ ネー ショ ン﹂ の解 釈を 待っ て再 検討 しな けれ ばな らな いの で︑ この 問題 は次 節で 考察 する こと にし たい

︒ま た﹁ ファ ン シー

﹂の 扱 う 素 材が

﹁限 定 さ れた も の﹂ と され る の は︑ そ れら が 無 限な る も の では な い と い う こ と だ が

︑こ れ も

﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ にお いて 言及 され て い る﹁ 無限

﹂な る も のと の 対 比か ら 考 察 され る べ きな の で︑ こ れは 第四 節で 再検 討し よう

︒こ こで はた だ︑

﹁ イマ ジ ネ ーシ ョ ン﹂ と は違 っ て﹁ フ ァン シ ー﹂ が 生 き生 き と した 所 産 をつ

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 32 ―

(10)

くれ ない のだ ろう とい う推 測に とど めて おき たい

︒ さ て

﹁時 間 や 空間 の 秩 序か ら 解 放さ れ た﹂

﹁ フ ァン シ ー

﹂は

︑﹁ 選 択﹂ の 影 響 を 受 け る と い う

︒つ ま り

﹁フ ァ ン シ ー﹂ は記 憶の 断片 を﹁ 選択

﹂し なが ら再 構成 する こと で︑ 元の 記憶 から

﹁変 容﹂ され た空 想を 生み 出す とい うこ とだ ろう

︒ワ ーズ ワー スが 羊や 人間 のイ メー ジと

﹁絶 壁に ぶら 下が る﹂ とい うイ メー ジと を選 択し

︑そ れを 結び つけ るこ とに よっ て元 のイ メー ジを 改変 して みせ たよ うに

︑記 憶の 諸断 片を 素材 とし て自 由に イメ ージ を操 作し てい くこ とが

﹁ ファ ンシ ー﹂ の作 用な ので ある

︒ 他 方︑ ファ ンシ ーは

﹁連 合の 法則

﹂か ら作 ら れ た 素材 を 扱 う心 の 働 きだ と も さ れる

︒﹁ 連 合﹂ と はい わ ゆ る﹁ 観念 連合

﹂の こと であ り︑ ある 観念 がそ れと の類 似性 や︵ 時間 的・ 空間 的な

︶近 接性

︑あ るい は因 果性 とい った 諸性 質に 基づ いて 他の 観念 を思 い起 こさ せる 心の 働き のこ とで ある

︒コ ウル リッ ジは

﹃文 学的 自叙 伝﹄ 第五 章に おい て︑ 観念 連合 説の 起源 がす でに アリ スト テレ スに 認め られ ると しつ つ︑ その 学説 史の なか で特 に一 六世 紀ス ペイ ンの 人文 学者 ヴ ィ ー ヴ ェ ス に 注 目 し

︑こ の 観 念 連 合 が

﹁フ ァ ン タ シ ア﹂ の 作 用 で あ る と さ れ て い る こ と を 指 摘 し て い る

Col- eridge, 7

-

1, 99

︶︒

﹁ ファ ンシ ー﹂ を連 合の 法則 と関 連づ ける コウ ルリ ッジ の主 張は

︑基 本的 にこ の考 え方 を受 け 継 ぐも のと 考え て良 いだ ろう

︒ 以 上を ふま えた うえ で﹁ ファ ンシ ー﹂ 概念 を噛 み砕 いて 規定 し直 すな らば

︑次 のよ うに まと める こと がで きる

︒す なわ ち﹁ ファ ンシ ー﹂ は創 造性 をも たず

︑通 常の 心理 法則 に基 づい て記 憶を 再現 ない し改 変す る心 的能 力で ある

︒そ れ は﹁ いつ

︑ど こ で 経 験し た

﹂と い う束 縛 か らは 解 放 さ れ︑ 自由 気 ま まに 思 い 浮 かべ る こ との で き る も の で は あ る が︑ 既存 のイ メー ジを 選択 的に 再現 する 以上 の働 きを もつ もの では なく

︑生 き生 きと した 有機 性を その 所産 にも たせ

― 33 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(11)

るこ とも でき ない

︒こ うし た日 常的 な思 考能 力を 詩作 に生 かす とし ても

︑有 機的 統一 性の ある 傑作 が生 まれ ない こと も明 らか であ ろう

︒現 段階 で理 解で きる 限り にお い て︑

﹁ フ ァン シ ー﹂ と はお お よ そ以 上 の よ うな も の と考 え る こと がで きる だろ う︒ 第三

節 第二 のイ マジ ネー ショ ン

﹁フ ァン シー

﹂の 次に 理解 しや すい のは

︑﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ のほ うで ある

︒そ の説 明の 第一 文か らは

︑こ れが

﹁第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂と 密接 な関 係を も つ こ とが 読 み 取れ る が︑ そ れだ け に﹁ 第 一 のイ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ の理 解な くし ては その 内実 につ いて 説明 でき るも ので はな いの で︑ 現段 階で は第 一文 につ いて の説 明を 省略 して おこ う︒ 第二 文で はま ず︑

﹁ 第二 のイ マジ ネー シ ョ ン﹂ が﹁ 再創 造

﹂す る もの で あ るこ と が 示 され る

︒先 に 予告 し て おい たよ うに

︑﹁ 創 造性

﹂が 問題 にな るの は﹁ 第一 のイ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ にお い て なの で あ る が︑ 何ら か の 形で そ れ と密 接に 関わ る﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ は︑ すで に創 造さ れた もの をあ らた めて 創造 し直 す働 きで ある こと が示 唆さ れて いる と考 えら れる

︒す なわ ち

﹁第 二 の イマ ジ ネ ーシ ョ ン﹂ は︑

﹁ 理想

﹂的 な も の ない し

﹁統 一﹂ 的 な所 産 を 創造 しよ うす るも のな ので ある

︒た だし この 文章 に は 目 的語 が 抜 けて お り︑

﹁ 第二 の イ マ ジネ ー シ ョン

﹂が 何 を﹁ 溶 解し

dissolve

︶︑ 放 散 し︵

diffuse

︶︑ 消 散︵

dissipate

︶﹂ す る の か が わ か り に く い

︒﹁ 再 創 造﹂ す る た め と い う こ と か ら 考 え るな ら︑ 思考 の素 材と なる 被造 物の イメ ージ をい った ん分 解す るこ とを 意味 する と思 われ る︒ しか しこ の問 題に つい ては

︑さ らに

﹃文 学的 自叙 伝﹄ 第一 四章 の次 の文 章を ふま える 必要 があ るだ ろう

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 34 ―

(12)

理想 的な 完全 性に おい て描 写す るな ら︑ 詩人 は︑ その 諸能 力を それ らの 相対 的な 価値 や品 位に 応じ て相 互に 従属 させ るこ とで

︑人 間の 魂全 体を 行為 へと もた らす もの だ︒ 彼は

︑統 合的 かつ 魔術 的な 力で それ ぞれ をそ れぞ れの 内に 混合

し︵

blend

︶︑

︵ いわ ば︶ 融解 した

fuse

︶一 つ の調 子 を︑ す なわ ち 統 一性 の 精 神 を放 散 す る︵

diffuse

︶の で あ り

︑こ う し た も の に 対 し て 我 々 は も っ ぱ ら イ マ ジ ネ ー シ ョ ン と い う 名 を 充 当 さ せ て き た の で あ る

Col- eridge, 7

-

2, 15 − 16

︶︒ こ

こで は詩 人の もつ 諸能 力を 統合 した 能力 が︵ 第二 の︶ イマ ジネ ーシ ョン であ り︑ それ が﹁ 統一 性の 精神 を放 散す る﹂ のだ とさ れて いる

︒い わば 諸能 力の 統合 がイ マジ ネー ショ ンの 所産 の統 一性 に反 映さ れる わけ であ る︒ した がっ て第 一三 章の

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂に おい て﹁ 溶解 し︑ 放散 し︑ 消散

﹂さ れる 対象 は︑ 思考 の素 材だ けで なく 詩人 の諸 能力 でも あり

︑そ れら が統 合さ れた 結果 と し て その 所 産 も﹁ 統一

﹂性 を も つよ う に な るの だ と 考え ら れ る︒ コウ ルリ ッジ が目 的語 を明 確に 示さ なか った のは

︑客 体で ある 素材 と思 考の 主体 であ る詩 人の 諸能 力と の双 方を 含め た全 体的 な話 とし て論 じた かっ たか らか もし れな い︒ この 問題 につ いて は︑ 次節 でも う一 度検 討し よう

︒ そ して

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂が

﹁本 質的 に生 きた もの

﹂で ある とさ れる のは

︑単 にそ の活 動が 生き 生き とし てい ると いう のみ なら ず︑ 先述 した よう に︑ これ によ って つく りだ され るも のも 生き 生き とし てい ると いう こと だろ う︒ 第 一四 章 の よ うに 詩 作 に即 し て 言 え ば︑

﹁統 一

﹂を 目 指 す こ と な く 再 現 さ れ た 記 憶 の 集 積 の よ う な イ メ ー ジ を

﹁ ファ ンシ ー﹂ がつ くり だす のに 対し

︑﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ は︑ 客体 的素 材の

﹁統 一﹂ を目 指す 詩人 の主 観的 な意 志に よっ て有 機的 統一 がな され た詩 をつ くり だす ので あろ う︒ いわ ば再 統合 され た作 品が 単な る素 材の 混合 物で

― 35 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(13)

はな く︑ いわ ば全 体的 に融 和し て生 き生 きと した 生命 観を 感じ させ るも のと なる わけ であ る︒ こう した 相違 が明 示さ れる こと によ って

︑第 二の

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ と﹁ ファ ンシ ー﹂ とが 明確 に区 別さ れる わけ であ る︒ 以 上を ふま えた うえ で﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ 概念 を噛 み砕 いて 規定 し直 すな らば

︑次 のよ うに まと める こと がで きる だろ う︒

﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ は︑ 何 ら かの か た ちで

﹁第 一 の イマ ジ ネ ー ショ ン

﹂と 密 接な 関 わ りを もち

︑人 間の 諸能 力を 統合 した 能力 であ り︑ 素材 とな るイ メー ジを 融解 し︑ 再統 合し て統 一性 のあ る理 想的 かつ 有機 的な 所産 をつ くり あげ る心 的能 力で ある

︒詩 人で あれ ば︑ この 能力 によ って 初め て︑ 生き 生き とし た統 一性 のあ る詩 をつ くる こと がで きる のだ と考 えら れる

︒現 段階 では

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂に つい て︑ おお よそ この よう なも のと 考え てお けば 良い だろ う︒ た だし

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂に つい ては 微妙 な 問 題 があ る の で︑ それ に つ いて 補 足 的 に説 明 し てお き た い︒

﹃ 文学 的 自 叙 伝﹄ 第一 二 章 では

︑コ ウ ル リッ ジ が か つて 書 い た﹁ イマ ジ ネ ーシ ョ ン

︑つ ま り形 成 し 変 容 さ せ る 能 力︒ ファ ン シ ー︑ つま り 集 合さ せ 連 合 させ る 能 力﹂ とい う 文 章が 紹 介 さ れ︵

7 1, 293

-

︶︑

﹁ 集 合 させ 連 合 させ る 能 力﹂ をイ マジ ネー ショ ンに も認 める べき とす るワ ーズ ワー スに 対し て反 論 がな さ れ てい る

294

︒ ワ ーズ ワ ー ス自 身 の 見解 は明 瞭に 理解 でき る︒ 彼は 絶壁 にた たず む羊 や人 間を

﹁絶 壁に ぶら 下が る﹂ と形 容す るよ うに

︑あ る対 象に 対し てそ れと は本 来無 関係 な特 性を 結び つけ て比 喩表 現を 作り あげ る作 用を

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ と﹁ ファ ンシ ー﹂ とに 認め て おり

︑そ こ に 別 種の イ メ ージ を

﹁集 合 させ

﹂る 作 用 を 認め る の であ ろ う︒

﹁イ マ ジ ネ ー シ ョ ン﹂ や﹁ フ ァ ン シ ー﹂ に諸 々の イメ ージ を結 合さ せた り分 離さ せた りす る作 用を 認め る こ とは

︑伝 統 的 な 見解 で も ある

︒こ れ に 対し

︑コ ウル リッ ジの 見解 は必 ずし も明 瞭で はな い︒ とい う の も︑

﹁ 第二 の イ マジ ネ ー ショ ン

﹂が 素 材 を統 合 し て有 機 的 統一

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 36 ―

(14)

をつ くり だす のだ とす れば

︑な ぜ﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ にも

﹁集 合さ せる

﹂作 用を 認め ない のか 理解 し難 いか らで ある

︒お そら くこ の問 題の 答え は︑ コウ ルリ ッジ にと って

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂が 単に 集合 ない し結 合す るこ とを 目的 とす るも ので はな く︑ あく まで も統 一的 なイ メー ジ世 界を 創造 する こと を目 的と する もの であ った とい うこ とに 求め られ よう

︒い わば コウ ルリ ッジ にも また

︑潜 在的 には

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂に

﹁集 合さ せる

﹂作 用を 認め る余 地も あっ たの だろ うが

︑そ の作 用で もっ て﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ を概 念規 定す るわ けに はい かな かっ たの では ない だろ うか

︒こ の潜 在的 なニ ュア ンス をも 合わ せて 理解 して おく 必要 があ るよ うに 思わ れる

︒ 第四

節 第一 のイ マジ ネー ショ ン さ てそ れで は﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ とは ど の よ うな も の なの だ ろ うか

︒ま ず 注 目 すべ き は︑

﹁ 第二 の イ マジ ネ ーシ ョ ン

﹂が 意 図を 伴 う 能 力

︑特 に 詩 作 の 能 力 と 考 え る こ と が で き た の に 対 し

︑﹁ 第 一 の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン

﹂が

﹁ あら ゆる 人間 の知 覚の 活力

﹂と され てい る こ とで あ る︒ し たが っ て﹁ 第 一の イ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ は︑ 詩人 に 限 定さ れな い人 間一 般に 関わ るも のだ と考 えら れる

︒そ れゆ え﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ がこ れの

﹁反 映﹂ であ り﹁ 意識 的な 意志 と共 存す るも の﹂ であ ると され るの は

︑﹁ 第 二 のイ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ が人 間 一 般 に関 わ る﹁ 第 一の イ マ ジネ ーシ ョン

﹂を 基盤 とし つつ

︑そ こに たと えば

﹁詩 を創 作し よう

﹂と いう よう な﹁ 意識 的な 意志

﹂が 加わ って 成り 立つ もの であ るこ とが 推察 され る︒ そし て﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ が﹁ 創造

﹂的 な作 用を もつ のだ とす れば

︑詩 の創 作に もそ れと

﹁同 一﹂ の作 用が 働く ので あり

︑た だ人 間一 般の 活動 と詩 作活 動と の間 に見 られ る﹁ 程度

﹂に 応じ て二 つの イマ ジネ ーシ ョン が区 別さ れる のだ と言 えよ う︒ それ では 人間 一般 の﹁ 知覚

﹂と

﹁創 造﹂ 的な 作用 とは どの よう

― 37 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(15)

に関 係し てい るの だろ うか

︒そ して

﹁無 限の

﹃我 あり

﹄﹂ な どと いっ た謎 めい た言 葉は 何を 意味 して いる のだ ろう か︒

﹁我 あり

﹂と いう 語に つい ては

︑二 つの 観点 か ら 考察 す る 必要 が あ る︒ 一つ は デ カ ルト の い う﹁ 我思 う

︑ゆ え に我 あり

cogito ergo sum

︶﹂ にお ける

﹁我 あり

sum

︶﹂ に即 した 観点 であ る︒

﹃ 文学 的自 叙伝

﹄で は第 一 二 章で デ カ ルト の方 法的 懐疑 につ いて 言及 され

︑﹁ 我 々が いな く て も事 物 は 実在 す る﹂ と いう 素 朴 実 在論 を

﹁本 質 的な 先 入 観﹂ とし て退 けた 上で

Coleridge, 7 1, 258 − 259

-

︶︑

﹁我 あり

﹂と いう 命題 が先 入観 とは 言え ない こと をシ ェリ ング に即 し て 指摘 して いる

259 − 260

︒ とい うの も﹁ 我﹂ が﹁ 我思 う﹂ の結 果と して 導き 出さ れる と す れ ば︑ この と き 思惟 さ れ る客 体と して の﹁ 我﹂ と同 時に

︑思 惟す る主 体と して の﹁ 我﹂ も認 めら れる から であ る︒ ただ 客体 とし て認 識さ れる 他の 事物 に関 して は︑

﹁ その 認識 が誤 りで はな い か﹂ と 疑う 余 地 があ っ た︒ し かし 主 体 の 側の

﹁我 思 う﹂ と いう 否 定 しが たい 認識 体験 は︑ その 客体 を主 体と して も確 認で きる もの とな り︑ その 認識 の客 体と 主体 との 実在 を信 じる 根拠 とも なる わけ であ る︒ これ が認 識さ れる 客体 の実 在を 積極 的に 認め る根 拠と なり

︑確 かな 知の 出発 点に なる ので ある

︒ た しか にこ こで コウ ルリ ッジ は﹁ 我々 がい なく ても 事物 は実 在す る﹂ とい う素 朴実 在論 を﹁ 本質 的な 先入 観﹂ とし て いる

︒し か し 彼 は万 物 の 客観 的 な 実在 を 否 定 す る よ う な フ ィ ヒ テ 的 な 観 念 論 に 陥 る こ と を 拒 否 し︑ む し ろ 逆 に︑

﹁ 我々 が実 際に 見て いる

actually behold

︶ すべ ての もの

﹂の 実在 を認 める 方 向性 を 模 索 する こ と にな る

262

︶︒ すな わち

﹁我 あり

﹂と いう

﹁我

﹂の 実在 を認 める こと を契 機と して

︑諸 事物 の実 在が 認め 難い 段階 から

︑そ れら の実 在す る現 状を 許容 する 段階 へと 移行 する 可能 性が 検討 さ れ る ので あ る︒

﹁ 我あ り

﹂を 通 じて 諸 事 物 の実 在 が 初め て 認 めら れる よう にな る過 程は

︑次 のよ うに 説明 でき るだ ろう

︒ 客 体の 実在 を素 朴に 信じ てい る場 合︑ 我々 は﹁ 私が Aを 認識 する

﹂と か﹁ Aが 私の 認識 に対 して 現れ る﹂ とい うよ

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 38 ―

(16)

うに

︑﹁ 私

﹂と いう 主体 や﹁ A﹂ とい う客 体を それ ぞ れ の命 題 の 主語 と な る主 導 者 だ と考 え が ちで あ る︒ し かし Aは 実在 の認 めら れな いも ので ある し︑ その よう なA を認 識し てい るつ もり にな って いる

﹁私

﹂の 存在 もそ のレ ベル では 疑わ しい

︒と はい えそ の認 識作 用が

﹁あ る﹂ と思 った 体験 さえ も﹁ ない

﹂と 見な して しま うと

︑そ れは それ で事 実を 偽る こと にな るだ ろう

︒む しろ

﹁私 がA を認 識す る﹂ と﹁ Aが 私の 認識 に対 して 現れ る﹂ とい う命 題は 同一 の体 験を 語っ てい るの だか ら︑ 単純 にこ の認 識体 験の 主導 者が

﹁私

﹂と

﹁A

﹂と のど ちら か一 方だ と思 うこ とが 誤り だと 考え るべ きで ある

︒す なわ ち﹁ 主体 であ ると 同時 に客 体で あり

︑あ るい はむ しろ 双方 の絶 対的 同一 性で ある もの

﹂の 実在 を認 めな けれ ばな らな いの であ る︵

285

︶︒ こ のよ うに

﹁私

﹂と

﹁A

﹂と を含 み︑ かつ その 区分 さえ 融解 して 成り 立つ 高次 の主 導者 が実 在し てこ そこ の体 験が 成り 立ち

︑そ こか ら﹁ 私﹂ と﹁ A﹂ の実 在が 初め て認 めら れる こと にな るわ けで ある

︒ 表 層的 な認 識主 体で ある

﹁私

﹂の レベ ルを 越 え る この 根 源 的な 主 導 者は

︑﹃ 文 学 的 自叙 伝

﹄で は﹁ 絶 対的 な 我 あり

the absolute I AM

︶﹂ と され る︵

277

︶︒

﹁ 私﹂ を通 じて 働く

﹁絶 対的 な我 あり

﹂は

︑私 にと って 自己 の意 志を 越え たも ので あり

︑こ の点 で﹁ 意識 的な 意志

﹂を 伴う

﹁第 二の イマ ジネ ーシ ョン

﹂と は異 なる もの とな る︒ いわ ばコ ウル リッ ジは

︑客 体と 区別 され るよ うな 通 常 の 意識 に お ける

﹁私

﹂と

︑﹁ 私

﹂も 客 体も 包 含 す るよ う な﹁ 絶 対的 な 我 あり

﹂と のレ ベル 差を 鮮明 に自 覚し

︑人 間の 知覚 の働 きに

﹁無 から 実在 を生 じさ せる

﹂作 用を 認め る理 論を 根拠 づけ たの だと 言え よう

︒し たが って

﹁第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂は たし かに 万人 の通 常の 知覚 能力 に潜 在す るも ので はあ るが

︑し かし

﹁絶 対的 な我 あり

﹂と とも にあ るこ とが 自覚 で き て いる 人 は ほと ん ど いな い と 言 える

︒換 言 す れば

︑﹁ 第 一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ を真 に体 感す るた めに は︑

﹁ 我々 がい なく ても 事物 は実 在す る﹂ とい う先 入観 から 離れ

︑﹁ 絶対 的な

― 39 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(17)

我あ り﹂ のレ ベル にま で自 らを 高め なけ れば なら ない ので ある

︒ 他 方

︑﹁ 私

﹂と

﹁A

﹂と を 生 じ さ せ る こ の 根 源 的 な﹁ 我 あ り﹂ に つ い て 考 察 す べ き 第 二 の 観 点 は︑

﹃出 エ ジ プ ト﹄ 三︑ 一 四で 示 さ れ る神 の 自 称﹁ 我は 我 あ り と い う も の で あ る︵

IA MT H A T IA M

︶﹂ に お け る

﹁我 あ り﹂

︑す な わ ち

﹁ 神﹂ に即 した 観点 であ る︵

275

︶︒ い わば コウ ルリ ッジ は︑ 上 述 の認 識 作 用と 神 に よる 創 造 作 用と が 重 なる も の だと 主張 して いる わけ であ る︒ もち ろん 神は 実際 に無 から 存在 を創 造す る存 在で あり

︑人 間で ある

﹁私

﹂は 思い のま まに 諸々 の存 在を 創造 でき るわ けで はな い︒ それ ゆえ 第一 三章 の当 該箇 所で は﹁ 絶対 的な 我あ り﹂ に﹁ 無限 の﹂ とい う形 容詞 が付 き︑ かつ その

﹁創 造行 為﹂ にも

﹁永 遠な る﹂ とい う形 容詞 がつ くの に対 し︑ 人間 のも つ﹁ 創造 行為

﹂は ただ それ を﹁ 有限 の心 の中 で﹂

﹁ なぞ る﹂ のだ と 説 明さ れ る こと に な る︒ あら た め て﹁ 限 的的

﹂な 素 材 を扱 う

﹁フ ァ ンシ ー﹂ と比 較す るな らば

︑﹁ フ ァン シー

﹂は 無限 なる 神の 思 考 にも 通 じ るよ う な 高次 な 思 考 では な く︑ 経 験世 界 に 閉ざ され た非 創造 的な 思考 と考 えら れて いる こと は明 らか であ る︒ この 点で

﹁フ ァン シー

﹂と

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ とは 明確 に異 なる ので ある

︒ 以 上 を ふ まえ た う えで

︑﹁ 第 一 のイ マ ジ ネ ーシ ョ ン﹂ 概 念を あ ら ため て ま と めて み よ う︒

﹁第 一 の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン﹂ は︑ 人間 が物 事を 知覚 する 際に 働く 心の 作用 であ る

︒そ の 意 味で こ の 作用 は 万 人が 体 験 で きる も の では あ る が︑

︵ 主体 とし ての

︶自 分と

︵客 体と して の︶ 諸々 の存 在 と が既 存 の もの と 信 じ込 ん で い る大 多 数 の人 は

︑こ の﹁ 第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂の 作用 を明 確に は自 覚で きな い

︒そ う し た誤 謬 に とら わ れ ない 人 に と って

︑﹁ 第 一 のイ マ ジ ネー ショ ン﹂ は︑ 知覚 以前 の状 態︵ 知覚 され る存 在が ない 無の 状態

︶に 知覚 対象 とな る客 体の 存在 を生 み出 す能 力と して 自覚 され る︒ 知覚 以前 の状 態に おい ては

︑主 体も また 存在 せず

︑無 にす ぎな い︒ むし ろ﹁ 知覚

﹂と いう 体験 にお いて

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 40 ―

(18)

初め て︑ 知覚 する 主体 が認 識さ れ︑ その 存在 が確 認さ れる ので ある

︒し たが って

﹁知 覚﹂ とい う体 験は

︑客 体と 主体 とを 同時 に無 から 存在 させ る出 来事 だと いえ よう

︒こ の主 体と 客体 とを 同時 に無 から 存在 させ る高 次の 主体 が神 であ り︑

﹁ 知覚

﹂と いう 体験 を通 じて 低次 の主 体︵ 有限 な る 人間

︶は そ の 創造 行 為 に参 与 す る こと に な る︒ この 際 の 創造 作用 が︑

﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ の作 用な の で ある

︒し た が って そ の﹁ 第 一の イ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ の主 た る 発動 者は 神で ある が︑ 有限 なる 人間 も︑ その 創造 行為 に主 体と して 関わ るこ とが でき る︒ この とき 有限 なる 人間 は︑ 主た る発 動者 の創 造行 為を 副次 的な 発動 者と して なぞ るこ とに なる ので ある

︒上 記の 文章 での 規定 から 読み 取る こと ので きる

﹁第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂と は︑ おお よそ 以上 のよ うな もの と考 えて 良い だろ う︒ こ の﹁ 第一 のイ マジ ネー ショ ン﹂ が万 人の 通常 の知 覚能 力に 潜在 して おり

︑そ れゆ え人 間に は創 造的 な思 考作 用が ある とコ ウル リッ ジは 考え る︒ しか し先 述の よう に自 覚的 に神 の創 造作 用に 参与 でき てい る人 はほ とん どお らず

︑そ の﹁ 第 一の イ マ ジ ネー シ ョ ン﹂ の創 造 作 用を

﹁第 二 の イ マジ ネ ー ショ ン

﹂に ま で 連動 で き る人 は き わ め て 少 数 で あ る︒ 詩人 の場 合︑ 身の 回り の事 物の 実在 を疑 うま でに 自己 の内 面に 沈潜 し︑ 神の 創造 作用 を体 感し つつ それ を詩 作へ と転 換し てい くこ とが 求め られ よう

︒ま た

︑す で に 見た よ う に︑

﹁第 二 の イマ ジ ネ ー ショ ン

﹂に よ って

︑詩 人 は 自己 の諸 能力 を融 解し 統合 する とと もに

︑諸 々の 素材 を融 解し 統合 した 作品 をつ くる と考 える こと がで きた

︒こ こに

﹁第 一の イマ ジネ ーシ ョン

﹂の

﹁反 映﹂ であ る主 客合 一の 状態 を認 める こと もで きる だろ う︒

﹁ 第二 のイ マジ ネー ショ ン﹂ が﹁ 働き の種 類に おい ては 第一 のイ マ ジネ ー シ ョ ンと 同 一﹂ で あり

︑﹁ 程 度 にお い て

﹂﹁ 異 なる

﹂と さ れ てい た の は︑ こう した 考え 方に 基づ いて いる と考 えら れる

︒ と もあ れコ ウル リッ ジの 議論 にお いて 課題 であ った

﹁イ マジ ネー ショ ン﹂ と﹁ ファ ンシ ー﹂ との 区別 は︑ とり あえ

― 41 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(19)

ず原 理的 に説 明さ れ︑ 人間 の思 考に

﹁創 造性

﹂を 認め うる こと も︑ 理論 的に 説明 する こと がで きた

︒そ の﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂の

﹁創 造性

﹂こ そ︑ 経験 論に 対抗 する 根拠 とな るの であ る︒ 第

二 章 コ ウ ルリ ッ ジ にお け る 推論 の 方 法論 と イ マジ ネ ー ショ ン 論 第一

﹁ 法則

﹂と

﹁理 論﹂

﹃文 学的 自叙 伝﹄ 出版 の半 年後 の一 八一 八 年 一月 以 降︑ コ ウル リ ッ ジは

﹁方 法 の 原 理﹂ を発 表 し︑ 推 論方 法 に つい ての 独自 の見 解を 披瀝 して いる

Coleridge, 4 1, 448 − 524

-

︒一 見し たと ころ その 内容 はイ マジ ネー ショ ン論 と無 関係 であ るよ うに も見 える が︑ しか し﹃ 文学 的自 叙伝

﹄と も執 筆時 期の 近い この 著作 は︑ イマ ジネ ーシ ョン 論を 検討 する 上で 見逃 せな い主 張を 読み 取る こと もで きる

︒本 章で はま ず﹁ 方法 の原 理﹂ の内 容を 確認 して みた い︒ 八 回に 分け られ て発 表さ れた ため 八節 構成 と なる こ の 著 作の 第 一 節︵

448 − 457

︶で は︑ 筋 の 通っ た 話 を語 る た めに は語 るべ き内 容の 順序 につ いて よく 検討 すべ きだ とい う主 張が

︑話 の枕 とし て論 じら れて いる

︒そ して 筋道 立て て語 る ため に は

︑か け 離れ た 様 々な こ と をま と め

︑﹁ 関 連性

﹂を も た せ る﹁ 方 法︵

Method

︶﹂ が 必 要 性 だ と さ れ る

454 −

455

︶︒ そ の た め には 話 を 導く 先 導 的な

﹁思 想

﹂が 必 要 にな る が︵

455

︶︑

﹁連 結 する 力 を も つ︵

connective

︶﹂ そ う し た

﹁ 思想

﹂の 代わ りに

︑﹁ 接合 する 力を もつ

co-adunative

︶﹂

﹁ イマ ジネ ーシ ョン

﹂も また 有効 だと され る︵

456

︶︒ 語 り 方 よ り も む し ろ 筋 道 立 て て 推 論 す る た め の﹁ 方 法﹂ に つ い て 検 討 さ れ る の は

︑第 二 節 以 降

458 −

︶ で あ り︑ 次の 二つ の﹁ 関連 性︵

relation

︶﹂ を 見 定 める こ と が必 要 だ とさ れ て い る︵

458

︶︒ 第 一 の﹁ 関連 性

﹂と は﹁ 法 則﹂ に関

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 42 ―

(20)

す る﹁ 関連 性

﹂で あ り︵

458

︶︑ 第 二 の﹁ 関 連 性﹂ は 第 三 節 の 冒 頭 で 言 及 さ れ る

﹁理 論

﹂に 関 す る

﹁関 連 性

﹂で あ る

464

︶︒ 第 一の

﹁関 連性

﹂に つい ては

︑幾 何学 のよ うな 精神 的な 学問 のみ なら ず︑ 自然 科学 にお いて も﹁ 法則

﹂に 基づ いて 検討 され るべ きだ とさ れる

459

︶︒ 幾何 学的 法則 や自 然法 則と いう もの が広 く認 めら れて いる ため

︑そ の主 張自 体に 違和 感を もつ こと はあ まり ない だろ う︒ しか しコ ウル リッ ジは さら に︑ 学問 的に 検討 され る対 象の 関連 性が

﹁心 の中 に源 泉を もつ 真理 によ って 予め 決定 され てお り︑ 諸部 分の 観察 から 抽象 化な いし 一般 化さ れて はい ない よう ない かな る学 問に おい ても

︑我 々は そこ に法 則の 存在 を確 言す る﹂ と主 張す る︵

459

︶︒ す なわ ちコ ウル リッ ジが 学問 に見 出す

﹁ 法則

﹂と は︑ 対象 の観 察か ら導 き出 され るも ので はな く︑ 心か ら涌 き起 こる

﹁真 理﹂ によ って 決定 され た﹁ 関連 性﹂ な ので あ る

︒こ の 主張 は さ らに

﹁物 質 界 は︑ 理性

reason

︶か ら 独自 に 演 繹さ れ た 法 則と 同 一 の法 則 に 従 っ て い る﹂

462

︶と いう 端的 な発 言に まで つな がっ てい る︒ いわ ば物 質界 の法 則は

︑た とえ 観察 によ らず とも

︑理 性か ら演 繹し て明 らか にす るこ とが でき ると いう わけ であ る︒ こ の主 張に は︑ うつ ろい 変わ る感 覚に よっ ては 永続 的な

﹁法 則﹂ をと らえ るこ とが でき ない とい うコ ウル リッ ジな り の根 拠 が あ り︵

461 − 462

︶︑ た とえ ば 自 然物 を 分 類 する た め には 予 め 分 類表 を 想 定し て い なけ れ ば な らな い は ず で ある とい う指 摘や

466

︶︑ 実際 に自 然学 者も 目的 因を 仮に 想定 した うえ でそ れを 観察 や実 験の 指針 とし てい ると いう 指 摘も

498 − 499

︶︑ こ の主 張 を 裏打 ち す るも の と な って い る︒ こ こに は 経 験 論に 対 す る明 白 な 異議 申 し 立 て が 含 ま れて いる ので ある

︒そ して その 主張 は︑ 経験 論の 元祖 とさ れる フラ ンシ ス・ ベイ コン さえ もじ つは 実験 に先 立つ

﹁知 性 の光

Lux Intellectus

︶﹂ を 頼 りに し て い た の だ と い う 第 六 節 で の 議 論 に お い て︑ 一 つ の 山 場 を 迎 え る こ と に な る

― 43 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

(21)

490

︶︒ 一 方

︑筋 道 立 てて 推 論 する

﹁方 法

﹂に お いて 見 定 め ら れ る べ き 第 二 の﹁ 関 連 性﹂ は︑

﹁理 論

﹂に 関 す る﹁ 関 連 性﹂ であ る︵

464

︶︒ コ ウル リッ ジは この

﹁理 論﹂ とい うも のを

﹁法 則﹂ より かな り劣 った もの と考 えて いる

︒す なわ ち第 四節 にお いて

︑﹁ 実 験に 関わ る学 問や 観察 に関 わる 学 問 にお い て︑ 一 般化 の 上 に打 ち 立 て られ た 理 論に よ っ て﹂ 自然 の原 理が 明ら かに なる こと はな いと 述べ てい るよ うに

476

︶︑

﹁ 理論

﹂は 実験 や観 察か ら導 き出 され た一 般論 であ り︑ 結局 のと ころ 何ら かの 原理 を解 明す るよ うな もの では ない ので ある

︒な ぜな ら﹁ 理論

﹂は 限ら れた 観察 から 導き 出さ れ たも の で あ る限 り 実 際に は 不 確実 な 仮 説 にす ぎ ず︑ 新 たな 発 見 に よっ て 覆 され る 場 合が 頻 繁 に ある か ら だと い う

476 − 477

︶︒ た しか に﹁ 理論

﹂化 され るこ とに よっ て︑ その 知識 は 記 憶し た り 伝達 す る こ とが 容 易 にな り

︑諸 対 象を

﹁ 悟 性 的 に 理 解 す る こ と

understanding

︶﹂ も 可 能 に な る の だ が︵

464

︶︑ し か し

﹁理 論﹂ は 最 高 の 場 合 で も せ い ぜ い

﹁ 法則

﹂へ の近 似値 にす ぎな いか

︑そ の発 見の ため の仮 の練 習に すぎ ない ので ある

465 − 466

︶︒ コ ウル リッ ジが 第一 の﹁ 関係 性﹂ と第 二の

﹁関 係性

﹂と を︑ そし て﹁ 法則

﹂と

﹁理 論﹂ とを 対比 的に 論じ

︑後 者に 対す る前 者の 優位 性を 主張 して いる こと は明 白で あ る

︒ こ の﹁ 法則

﹂と

﹁理 論

﹂と の 関 係は

︑こ こ ま での 説 明 にも 出て きた

﹁理 性︵

reason

︶﹂ と

﹁悟 性︵

understanding

︶﹂ と の関 係と 重ね て考 える こ と が でき よ う︒

﹁ 方法 の 原 理﹂ と同 年一 一 月に 発 表 され た コ ウル リ ッ ジ の﹁ 理性 と 悟 性﹂

“Reason and U nderstanding,” 1818

︶ とい う エ ッセ イ で は︑

﹁理 性﹂ は﹁ 物質 的で 偶然 的な もの に対 して 目が もつ のと 同じ 関係 を︑ 精神 的諸 対象

︑普 遍性

︑永 遠性

︑必 然性 に対 して もっ てい る一 つ の器 官

﹂と 定 義さ れ て い る︵

Coleridge, 4 1, 155 − 156

-

︒﹁ 法 則﹂ が﹁ 理 性﹂ か ら演 繹 さ れる と い う先 の説 明も

︑同 じ考 え方 から 来て いる と言 えよ う︒ これ に対 して

﹁悟 性的 理解

﹂な いし

﹁悟 性﹂ は﹁ 感覚 的な もの の概

コ ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

― 44 ―

(22)

念化

﹂あ るい は﹁ 我々 が知 覚対 象に 属す る現 象を 一般 化し

︑整 理す るの に用 いる 能力

﹂だ とい う︵

156

︶︒ こ れは 先に 見た

﹁一 般化 の上 に打 ち立 てら れた 理論

﹂と 重な るも のだ と考 えら れる

︒こ うし た理 解に 基づ いて

︑コ ウル リッ ジは

﹁ 理論

﹂を 打ち 立て る﹁ 悟性

﹂よ りも むし ろ﹁ 法則

﹂を 解明 する

﹁理 性﹂ に大 きな 信頼 を寄 せて いる ので ある

︒ 第二

節 理性 の二 重性 そ れで はな ぜ﹁ 理性

﹂か ら演 繹さ れた

﹁法 則﹂ が物 質界 の﹁ 法則

﹂と 一致 する と主 張で きる のだ ろう か︒ その 問い に対 し︑

﹁ 方法 の原 理﹂ では プラ トン を引 き合 いに 出し て次 のよ うに 論じ られ てい る︒ その

問い に応 じる こと がで きる とプ ラト ンが 思っ た唯 一の 解答 は︑ 理性 をそ れ自 体の 外に 越え させ

︑そ して 理性 の理 想像 であ ると 同時 に物 質界 の原 因で もあ り︑ 両者 の中 の︑ 両者 の間 の予 定調 和を つく りあ げる もの であ るこ の一 致の 基礎 を︑ 超感 覚的 本質 の内 に探 し求 めさ せる こと にな る︒ それ ゆえ

︑哲 学自 体が 諸学 問を 補う もの とな る結 果︑ 宗教 は哲 学の 究極 の目 的と なり

︑ど ちら も共 通の 目的 すな わち 叡智 へと 万物 を収 斂さ せる もの とな るの だ︵

Coleridge, 4 1, 463 :

-

傍 線部 はイ タリ ック

︶︒ この

文章 から は︑

﹁ 理性

﹂に は少 なく と も 二段 階 あ り︑ 通常 の

﹁理 性﹂ と は別 に そ れ を越 え た﹁ 理 性の 理 想 像﹂ なる もの があ ると 考え られ てい るこ とが わか る︒ これ が﹁ 物質 界の 原因

﹂で もあ り︑ それ ゆえ 理性 の﹁ 法則

﹂と 物質 界の

﹁ 法則

﹂と の一 致は

︑究 極に おい ては この 超 感 覚的 な

﹁理 性 の理 想 像﹂ な いし

﹁物 質 界 の 原因

﹂の 内 に 探し 求 め られ

― 45 ― コ

ウ ル リ ッ ジ の イ マ ジ ネ ー シ ョ ン 論 再 考

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