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『ディスカッションから学ぶ翻訳学 トランスレーション・スタディーズ入門』

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Academic year: 2021

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 書店の言語学・翻訳関連の棚のなかにこの本を見つけたとき、思わず顔がほころんだのである。

ピンク色のカバーに、吹き出しのデザインでタイトルと著者名が書かれている。学問書にしては 可愛らしい見た目で、「翻訳学も一般向けの書籍が出版されるようになったか」とわくわくする ような気分で手に取った。なかを見ると、入門書にふさわしく、言語学の知識や翻訳の経験をも たない人にもとっつきやすい構成になっている。しかしよく読むとその内容は濃密であり、また、

一般に考える「翻訳」という固定概念を打ち破るような力をもつものであった。

 本書は、英国とベルギーで翻訳学を学び現在は東京工業大学で翻訳、言語、科学技術コミュニ ケーションの研究と教育に携わる野原佳代子が、翻訳関連の学生や教員、翻訳の実務家に加え、

異文化コミュニケーションに興味をもつ人全般に向けて著した翻訳学の入門書である。翻訳に関 する研究は、世界でもここ半世紀ほどのあいだに確立されてきた比較的新しい学問分野であり、

英語でもさまざまな呼び名があったが、近年は Translation Studies という呼び名が定着してい る。それに対応する日本語としては「翻訳研究」という名称が使われることが多かったが、近年、

Jeremy Munday による Introducing Translation Studies 2008 )の日本語版タイトルが『翻訳学入

門』 (鳥飼 監訳 2009 )とされるなど、「翻訳学」という名称が使われ始めている。「翻訳研究」と

比較し、「翻訳学」ということばからは、成熟した学問分野という印象をより強く受ける。

 さて本書のタイトルは『ディスカッションから学ぶ翻訳学』であるが、そのサブタイトルとし て『トランスレーション・スタディーズ入門』とある。「翻訳学」と「トランスレーション・スタ ディーズ」。タイトル内にこの両方のことばが使われていることに筆者は興味を覚えた。著者の 野原は、同書のなかで「翻訳学(トランスレーション・スタディーズ)」と書き表すなど、「翻訳 学」と「トランスレーション・スタディーズ」をほぼ同義語として扱っているようにも見受けら れる。しかし筆者はこの二つのことばのあいだに、 Sociology Social Studies の違いほどでは ないにせよ、それに類するニュアンスの違いを感じる。柳父の提唱する「カセット効果」も影響 しているのかもしれないが、それより明確に、「トランスレーション・スタディーズ」というこ とばからは、言語間翻訳だけでなく言語内翻訳や記号間翻訳を含むさまざまな形態の翻訳をより 幅広く扱い、それらのあいだの境界を軽々と飛び越える印象を受ける。これを著者が意図したか どうかはわからないが、じっさいのところ本書では、言語間翻訳以外の翻訳について幅広く深く 論じられている。翻訳課題を行う 9 章のうち、 6 章は言語間翻訳を中心に言語内翻訳や記号間翻 訳の可能性を検討しており、残る 3 章は全面的に言語内翻訳と記号間翻訳を扱っているのである。

翻訳についてこれから本格的に学ぼうとする人に向けた書で、このような比率で言語間翻訳以外 の翻訳について論じることの意味は大きい。それは、翻訳にさまざまな種類があることを認識す

野原佳代子  

『ディスカッションから学ぶ翻訳学  トランスレーション・スタディーズ入門』

(三省堂、

2014

年、

A5

版、

159

頁、

2,200

円+税)

立見みどり

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111 書評

るだけでなく、コミュニケーション、情報、言語などにまつわる行為全般に「翻訳」という営み が内在していることを発見し、「翻訳とは何か」という問いを、人との関わり合いという広い視 点から考えるきっかけになるためである。

 ここで、各章を簡単に紹介する。第 1 章〜第 3 章では、まず「翻訳とは何か」という問いを通 じて、翻訳という行為の定義だけでなく、翻訳物の存在意義やその役割についても考え、また翻 訳学のもっとも基本的な概念のひとつである「等価」について概観する。さらに、ヤコブソンに よる「言語間翻訳」 「言語内翻訳」 「記号間翻訳」という概念を導入して、翻訳という行為の幅広さ と可能性について考える。第 4 章以降はさまざまな翻訳課題を中心として進む。第 4 章から第 9 章までは、それぞれ、マンガ、絵本、小説、俳句、新聞記事、映像字幕をとりあげ、異なるジャ ンルの言語間翻訳において生じる各種の問題について議論し、それらの問題に関連づけて翻訳理 論を紹介している。第 10 章から最終章である第 12 章までは、メッセージを読み取ってキャッ チコピーを生み出す、専門的な科学情報を一般に向けて発信する、裁判における証言を記録して 協議に役立てる、といった、言語内翻訳や記号間(メディア間)翻訳を詳しく取り扱い、同一言 語内でのコミュニケーションや情報整理という文脈で発生する「翻訳」について考える。興味深 いのは、言語間翻訳とそれ以外の翻訳のあいだに特別な区別がなく、すべてが同じ地平線上で論 じられている点である。ここに、翻訳という概念に対する著者の考えが端的に表れている。

 入門書とはいえ、各課題で取り扱う内容は濃密である。たとえば第 5 章の「絵本」では、日本 語で書かれた絵本の一部、 A5 にして 1 ページ程度を英語に翻訳する課題を行っているが、その 中で、日本語と英語における時制の取り扱いのズレ、自然な訳にするための情報の追加や省略、

擬音語や擬態語の表現、主人公の名前の翻訳、比喩の翻訳、特殊効果を出すための表記文字の使 い分けなど、さまざまな翻訳方略をとりあげている。また絵本のような、ビジュアルが重要な位 置を占める媒体における翻訳の課題についても論じている。さらに、絵本翻訳に関連づけて異質 化と受容化という翻訳学の基本的概念にふれ、ナイダ、ヴェヌティ、シュライエルマッハの主要 理論を紹介している。

 第 4 章以降の各章はまず翻訳課題で始まり、それを実行した学生たちのディスカッションが 続き、その後、主な概念の解説という構成になっている。また読者のための新たな課題と、学生 による提出課題例も掲載されている。しかしこれは「翻訳の指南書」ではない。翻訳における悩 みを解決するのでなく、むしろもっと悩む機会を提供しているからである。ただしそこには方向 性があり、どのように悩むべきかが示されている。翻訳にはほとんどの場合、ひとつの正解とい うものは存在しない。そのような種類の作業を行うにあたって進むべき方向を決めるには、道筋 の選択肢をなるべく多くもつことが重要である。本書では、翻訳の実践を通じて、より多くの解 釈を試み、そこからひとつを選択するという難題を楽しみ、またあえて冒険的な方略を試すこと で、翻訳の可能性だけでなく原文解釈の可能性まで広げることを提唱している。

 著者の考える「翻訳」は幅広い。誰かに何かを伝えるためにことばを選ぶときにも、目撃した

出来事を記録するときにも、文化が輸入され定着するときにも、なんらかの「翻訳」が発生して

いると考える。本書は、これから翻訳理論を学ぼうとする人が、一般に定着している「翻訳」と

いう枠組みを越えた広い文脈で翻訳という行為をとらえるところから出発して、翻訳の面白さや

奥深さ、魅力を知り、さらに探求するためのステップとなるだろう。

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ICR 立見みどり

参考文献

ジェレミー・マンデイ (2009). 『翻訳学入門』(鳥飼玖美子監訳).みすず書房. [原著 : Munday, J. (2008).

Introducing Translation Studies: Theories and Applications. London & New York: Routledge].

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