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はじめに
「成熟困難」ということがよくいわれる。携帯 電話・カラオケ・インターネット・アニメ等にう つつを抜かした若者イメージが溢れ、この像をデ フォルメしたマンガもヒットしている。「成熟困 難」の自己言及的構造である。江藤淳の名高い 『成熟と喪失』([1967]1993)であれば、まだこ うした構造はみられない。この稿では、その重層 性を、「うつつを抜かさせて」いるメディア(歌 謡曲)の、「うつつを抜かす」場所(夢)に内在 することで開いていきたい。2
分析枠組の設定
2. 1「虚構の時代」とは何か 「うつつ」すなわち「現(実)」という言葉に注 目して戦後日本社会をとらえているのは、見田宗 介『現代日本の感覚と思想』(1995)で あ る。見 田 は「現 実」(reality)の 反 対 語 に 注 目 し、1990 年までの 45 年間を、「理想の時代」(1945∼60 年 /プレ高度経済成長期)・「夢の時代」(1960∼70 年 代 前 半/高 度 経 済 成 長 期)・「虚 構 の 時 代」 (1970 年代後半∼90 年/ポスト高度経済成長期) の三つに区分し、分析を試みている。 確かに「現実」とは、その対領域をふくむこと によって秩序を獲得する(「理想に向かう現実」 「夢から醒めて現実」)ので、その社会秩序を生き る人々の意識または無意識が、「現実」の対領域 に「理想」「夢」「虚構」のどれを置くことが支配 的であるかによって、南博(1958)が体系だてた 社 会 心 理 学 で い う、「集 団 行 動」「集 団 内 行 動」 「(個人の)パーソナリティ」の様相が大幅に変わ ってくるであろうし、逆に、人間のいわゆる「物 質的生活」の側面が変容することによって、人々 の「現実」の対領域の持ち方が変容をせまられる ともいえる。 はじめの「理想の時代」を象徴するのは、アメ リカン・デモクラシーの理想と、ソビエト・コミ ュニズムの理想である。見田は、丸山真男「『現 実』主 義 の 陥 穽」(1957)の、い わ ゆ る「現 実 主 義者」は「現実」を改変していく側面をみないた めに真に「現実」をみることができない、という 批判をひいて、この時代の「理想」主義者は、 「夢」に溺れる人たちではなく、「現実」への志向 が基調であったと指摘する。 次の「夢の時代」の前半の基調にあるのは、1963 年の社会心理調査にみられる、現在を色彩であら わすとしたら「ピンク」のイメージだという、日 本国民の自己意識に象徴される(激動の後の「幸 福な終末の感覚」といった倦怠感と表裏になっ た)「泰 平 感」=「あ た た か な 夢」で あ る。そ し て、この時代の後半を象徴する、60 年代末から の先進資本主義諸国の青年の反乱は、「理想の時 代」の「理想」主義者や「現実」主義者が結果的 に生みだしてしまった抑圧や非条理に向けられて いた。だから彼らの批判は、「理想の時代」のよ うな「現実」への志向を一方で禁じられながら、 他方では新しい「現実」を志向するという、「現「虚構の時代」の大人像
──歌謡曲における「夢」使用法の諸類型をとおして──
吉岡 威史
YOSHIOKA Takeshi実」の否定によってのみ「現実」をたてようとす る、引き裂かれた「熱い夢」でしかありえないこ とになる。 最後の「虚構の時代」は、「現実」へ向かう志 向を手放し、新しい欲望についての付加価値が 「現実」の使用価値をうわまわり、「現実」につい ての情報が価値として機能するという、「消費社 会」「情報社会」として記述される。この時代を 象徴する の は、1974 年 の 流 行 語 で あ る、「終 末 論」と「やさしさ」である。ここでは、社会の中 の「実体的」「生活的」なものの最初で最後の拠 点である「家族」という単位の崩壊が著しいこと を、山崎哲の劇や、森田芳光の映画『家族ゲー ム』をひいて見田はのべている。「家族ゲーム」 と は、「家 族 像」を ゲ ー ム と し て 演 じ る(「虚 構」)ことの隠喩だが、ここでの食卓(一家団欒 の象徴)で家族たちは、まっすぐ一列に並んでい て、その視線は「やさしく」ぶつかりあうことが ない。さらにいえばこれは、視線の先にテレビ (「虚構」)があるということの隠喩であろう。 この見田の分析を受けて大澤真幸は、1995 年 の地下鉄サリン事件に注目し、『虚構の時代の果 て』(1996)という書物をまとめている。大澤に よれば、「理想」からの疎外(「貧病争」)に規定 されていた旧新宗教に対し、オウム真理教のよう な新新宗教を魅力的にしているのは終末論という 思想である。「終わらない時間」と〈資本〉の運 動が生の意味を空疎化していく近代の時間におい て、生の意味を付与する〈超越性〉の回復は、逆 転した理想すなわち世界の全的な否定によってな されるからだ。また大澤は、信者(≒「虚構の時 代」の若者)の態度に、虚構を相対化しながらそ れを本気で受け取ること、すなわち「アイロニカ ルな没入」をみる。 ところで、これらの議論の世界的な先駆者は、 D・J・ブーアスティンであろう。『幻影の時代』 (1962=1964)はもともとアメリカンドリームの変 容を扱ったものだが、予言的な書物ともとれる。 ブーアスティンによれば、「グラフィック(複製 技術)革命」以後、事実の世界では「出来事」は 「疑似イベント」に、価値の世界では「理想」は 「イメジ」に変貌した。重要なことは、この議論 の力点が、広告業者やジャーナリストの告発には ないということである。「日常的経験において、 『真実』の強調から『真実らしさ』の強調への移 動」がおこり、われわれを「広告独自の虚偽のゆ えにではなく、広告独自の真実のゆえに当惑させ る」(p. 222∼4)。この「真実/真実らしさ」の境界 線の発見への啓蒙がこの書物の結論であるが、批 判の焦点はわれわれの「とほうもない期待」にあ てられている。「真実らしさ」の世界では、欲望 のままに出来事や理想を製造できるからである。 「理想」をあからさまに表明することが、1935 年頃から、「ありふれた、平凡な、あるいはセン チメンタルな表現をさす」「corny=古臭い・とう もろこしで育った」というスラングで揶揄される ようになった、というブーアスティンの指摘は興 味 深 い。も う ひ と つ の「square=融 通 の 利 か な い」とならんで、これは、現代日本の若者の「ダ サい」「ウザい」に共通するが、世界大戦の敗戦 国では、事態はよりラディカルであろう。 2. 2「成熟」「大人」とは何か さ て、で は、ど う し て「う つ つ(現)を 抜 か す」「虚構の時代」には「成熟困難」問題が内在 しているのか。これは、ライフサイクル論として 有名な議論等を参考に、原理的なものとして論じ るのがよい。 まず、E・H・エリクソンの精神分析学的発達 段階論を参照していえば、人間の成熟には、「現 実(社会)」とその対領域を検討するという課題 がふくまれている。この 8 段階の発達段階説にお
いては、その青年前期の「自我同一性 対 同一 性の拡散」(第 5 段階)に代表される対立が象徴 的であるが、たとえば生後 1 年の「(世界への) 基 本 的 信 頼 対 不 信」(第 1 段 階)に は じ ま り、50 代以上の「統合性 対 絶望と嫌悪」(第 8段階)にいたる心理社会的発達は、いつでも、 「現実(社会)」に適合できることと、そうできず に非日常的な領域を彷徨うこととの対立として描 かれている。〈大人〉になるためには、「現実」と その対領域との!藤を経なければならないという のだ(Erikson 1968)。 また、ダニエル・レヴィンソンによる成人男性 のライフサイクル論によれば、〈夢〉が男の人生 の四季をさだめるものだという。つまり、輝かし い業績としての〈夢〉を心に描き、成就・修正し ていくうちに男の性格や人生が形成されるという 発想が、彼の論の骨格をなしている。ここでも、 「現実」の対領域と成熟が関係づけて論じられて いる(Levinson 1978=1992)。 これらの観点からは、「現実」の対領域が「理 想∼夢∼虚構」に変容したということは重要であ る。特にレヴィンソンのいう〈夢〉はあきらかに 「理想」のことであるし、エリクソンのいうアイ デンティティを確立した大人像も、どちらかとい えば「理想」としての価値を内在したものという イメージが強い。こうした「現実−理想」間の! 藤が失われれば、〈大人〉という「現実」にかか わる価値が realize(実現・現実化)されるもので はなくなっていくだろう(ただし、realize という 英単語は、「はっきり理解する」「悟る」という意 味も強くもつので、この場合には、「現実−虚構」 のあいだを彷徨う果ての〈大人〉=「現実」への道 は、観念的にそれをみきわめるものである)。 芹沢俊介([1989]1997)による「現実−イノセ ンス」という!藤モデルは、こうした「現実」の 価値をひきうけられない、という次元でのもので ある。彼の成熟論において重要な観点は、人間は もともと自分の属性(性別・国籍・名前・身体・ 両親等)の選択について、根源的に受身で責任が ないということである。これを芹沢は「イノセン ス」と呼び、子どもが、両親による自己存在の無 償の選択(選択ではないような選択)を模倣する ことでこうしたイノセンスを壊し、自らの属性を ひきうけるようになることが成熟の原型なのだと いう。この「イノセンス」も、現実の対領域とし ての「夢」とのかかわりで論じられる。たとえば 子どもがよくみる「親・友人・自分が死ぬ夢」か ら覚めたとき、「現実じゃなくてよかった」と思 うことができれば、イノセンスは解体されてい る。 こうした芹沢のような議論は、宗教的な権威 や、親が子に食物(=生)を与えるといったこと の無償性が自明視されなくなったことや、母親と 子どもの間に有償性(社会的に「良い子」を愛す る)の要素が介入してきたためにでてきたもので あろう。このように、「虚構の時代」の成熟の問 題は、エリクソンでいえば「basic trust」という 第 1 段階において考察されている。 以上の定義から本論文の立場をしめしておく と、成熟困難問題の構築は主に近代主義の立場か らなされるが、自我の安定という意味では「成 熟」論は普遍化可能だということである。そこ で、近代主義者的な「成熟拒否」という視点は導 入せず、「現実」への着地点とでもよべるものを 大人像と想定し、見田=大澤のいう「虚構の時 代」のうちでその着地点=大人像がどのようにイ メージされていったかを分析していきたい。
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分析方法・資料
3. 1 歌謡曲のなかの「夢」 さて、分析のための資料として、この稿では十 代のシンガーソングライターの歌謡曲表現を中心にとりあげる。この種の歌手がミリオン単位での レコードを売上げ、コンサートで同世代(以上) の観客に自身のメッセージを伝えるといった現象 は、1980 年代以前には存在しなかった。 分析方法としては、「現実」の対領域としての 「夢」という言葉が登場する曲に注目し、それが どのような意味で使用されているかをみていくこ とにする。というのは、「夢」とは、見田宗介が 「理想」と「虚構」の中間地 点(い わ ば 過 渡 期) においたように、また、レヴィンソンと芹沢で含 意するところが違ったように、その両者をどちら も意味しうるからである。そして、「理想」「虚 構」という言葉は、それ自体としては(〈意味〉 の強さが言葉の流れの〈快〉を阻害するせいで) 歌謡曲のメロディにのることはめったにないのに 対 し、見 田 宗 介『近 代 日 本 の 心 情 の 歴 史』 ([1967]1978 : 47)によれば、「夢」という言葉は 「明治以降の日本の流行歌の中で、最も多く使わ れてきた名詞は『涙』であり次い で『夢』で あ る」という。実際、ここで扱う尾崎豊などは、生 涯の 71 曲中 41 曲、78 回に わ た っ て「夢」を 使 用しており、現在の歌謡曲においても、もっとも 多く使われる名詞のひとつであることは間違いな い(「涙」が、日本の近代化のなかで「夢」に主 役を譲ったという指摘もできそうだがここでは立 ち入らない)。 この「夢」が、「理想」「虚構」のどちらに傾い て使われているかを調べることで、その曲が表現 する「現実」認識を考えるということと、そのこ とで、さきにのべた、成熟の課題としての「現 実」とその対領域の!藤の様相を浮かびあがらせ ていきたい。 さて、この「夢」分析に説得性を与えるため に、「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という直感 を 裏 づ け る、鶴 見 俊 輔『限 界 芸 術 論』([1960] 1999)に端を発する「大衆芸術」「限界芸術」の 構造分析が必要だが、紙幅の都合で割愛せざるを えない。また、見田の前掲書における「歌詞=大 衆の心情の鏡」という前提が、音楽の環境化や企 業家介入等によってゆらいでいるという指摘(小 川 1998)があるが、この点も詳述できない。 要約だけしておくと、現在の歌詞にあらわれる 「夢」表 現 に は、ブ ー ア ス テ ィ ン の い う「幻 影 (イメジ)の時代」において、「印象愛(イメージ ・フィリア)」(大平 1996)の対象=身体モデル となるエロスイメージが内在されやすいというこ とである。こうした立場から、「虚構の時代」以 前の歌詞分析と一線を画し、アイデンティティ論 とパラレルに、現在の無意識の願望としての自我 統合イメージを論じていけると考える。 ところで、この「夢」を論じることに重ねて、 大人像と密接にかかわりをもつ、時間感覚や通過 儀礼がどのように表現されているかについても注 目したい。そのことで、なぜそのアーティストが 「夢」という言葉に「理想」「虚構」のいずれかを 含意させてしまうのかを、より精確に把握できる と考えられるからである。 真木悠介は『時間の比較社会学』([1981]1997) において、人類の時間意識を四つに分類してい る。真木によれば、時間を不可逆的なもの、永遠 に積み重なっていく量的で「直線的」なものとし て考え、ニヒリズム(点のような私)を内包して いる現在支配的な意識は、実際は「近代社会」に 規定されるものにすぎない。時間意識は客観的な ものではないのであり、この他に、「ヘブライズ ム」の不可逆的で質的な「線分的」時間意識、 「ヘレニズム」の可逆的で量的な「円環的」時間 意識、「原始共同体」の可逆的で質的な「反復的」 時間意識がありうるのだという。こうした時間意 識(時間感覚)に注目して歌謡曲を分析すると き、どのような変容がみられるだろうか。
3. 2 分析対象の選定 さて、今回中心的にとりあげるのは、実際の十 代の表現という意味では、1999 年、16 歳でのデ ビューアルバムが 800 万枚という売上を記録した 宇多田ヒカル(1983∼)と、十代のシンガーソン グライターとしては戦後日本で唯一この宇多田と 比肩しうる話題性を獲得した尾崎豊(1965∼1992) である。このふたりを比較することで、アイデン ティティ統合にとってのもっとも重要な時期が、 それぞれの時点の彼らにとってどのように通過さ れているのかを考えることができるだろう。 ただし南博(1958)が指摘するように、流行は 現代においては、マス・コミュニケーションの急 速な発展につれて、ひろがる速度と範囲が大きく なると同時に、その寿命も短くなり回転率も高ま る。そのため、筆者の考えでは、流行現象を効果 的に扱うためには、①時間的規模 ②他の現象と の連動性 ③量的規模、の諸条件をみたしている かを考慮しなければならない。ここでは、尾崎は 死後 9 年を経ていまだにベスト盤・ライブ盤など の発売が後をたたないという意味で①をみたす し、宇多田はそのヒットの規模において③をクリ アすると考えて扱う。 また、①③をもっともみたす「虚構の時代」の 代表者として、1978 年から 2001 年まで一貫して ヒットを続けている、サザンオールスターズの桑 田佳祐を論じるための章をもうける(前提とし て、桑田は「夢」という言葉を多用するアーティ ストであり、実際の十代ではないが、現実とその 対領域の間の!藤を大きなテーマとしている)。 宮台他(1993)による、90 年代前半の、首都圏・ 関西圏の大学生におこなった「最もよく聴くミュ ージシャン」調査では、1434 人中 204 人がサザ ンオールスターズをあげており 1 位である。ま た、男 女 比 も、(男)66.8% 対(女)33.2% と な っており、この調査対象の比率は(男)63.6% 対 (女)36.4% であるから、他のミュージシャンと く ら べ、き わ め て 中 立 的 で も あ る。小 川 博 司 (1995)による 92・3 年の杉並と神戸における調 査でも、男女で 4 位以内に確実にランクされてい るのはサザンオールスターズだけである。 条件②についていえば、桑田は 1956 年生まれ で尾崎の 5 年前にデビューしているが、人気や作 品の質としてはむしろ尾崎と宇多田の中間に位置 すると考えられる。尾崎とのかかわりでは、80 年代の「ツッパリ」文化の裏表両面をこのふたり が象徴していると考えられるということがあり、 また、宇多田とのかかわりでいえば、両者とも 90 年代に「天国」のイメージを表現している、とい うことがあげられる。 この三者の「夢」表現を、以下の三つの章にお いて、「虚構の時代」のうちなる「理想の時代→ 夢の時代→虚構の時代」として描きわけていきた い。
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空転する「夢=理想」、暮れゆく黄昏
4. 1「超越」する翻訳語 情報社会におけるアーティストは、その人生の ストーリーの、社会との相互作用を無視できな い。尾崎豊については、「破滅型の天才」という 定型として生前・死後の人気を確立したといって よいだろうが、ブーアスティンが情報社会の特徴 として指摘する「同義反復」を援用するなら、 「破滅型の天才」というストーリーに向けて背中 を押されることが「破滅型の天才」を構成する。 なぜ彼は、実力者「にもかかわらず」、(92 年・26 歳のとき)早朝の路上で孤独に、全裸で倒れて死 にいたらねばならなかったのか。また、人気の絶 頂期「にもかかわらず」、なぜニューヨークで覚 醒剤に溺れなければならなかったのか。この逆接 のひずみは、70 年代末から登場した「ツッパリ」 という逸脱形態がめざす、ある〈大人〉イメージに規定されているのではないか。 もうひとつふれておきたい社会からのリアクシ ョンは、個人的印象だが、尾崎の意外な評判の悪 さがあげられる。彼は「若者の教祖」にはみえな い。その理由を考えると、まず、作者の作品への 推敲が不十分なために、知的に、作品に情緒的埋 没をしない鑑賞をするときに耳障りな言葉が多い からかもしれず、さらに、それと重なりきらない ことだが、その推敲されきらない言葉そのものの 問題かもしれない。 たとえば、「自由 平和 そして愛を何で示す のか」(『太陽の破片』1988)とか、「誰もが皆一人 じゃいられず/二人で分け合うことすらできな い」(『汚れた絆』1992)とか、「俺は真実へと歩い てるかい」(『シェリー』1985)など。〈自由〉〈愛〉 は、「夢」と並列されたり、それに含意されるパ ターンが多いが、これに〈平和〉をくわえて、フ ランスのトリコロールを思わせる三点セットが日 本人には耳慣れない。同様に、「分け合う」「真 実」は、尾崎以外でこれほど多用した日本人アー テ ィ ス ト は ま ず い な い が、英 語 で い え ば 単 に 「share」「truth」である。 小川博司『音楽 す る 社 会』(1988)は、音 楽 の 「ノリ」という用語が、電気的メディアを媒介と した「音楽化社会」を生きる若者にとっては、日 常生活の作法のうえでも決定的に重要であること を示唆している。その言い方でいえば、これらの 欧米近代の価値の源泉となった言葉の直訳は、と てもメロディへの「ノリ」が悪い。井上俊(1992) は文化の様態を「適応」「超越」「自省」という精 神形態のダイナミクスによってとらえ、小川の指 摘をひきながら「適応」過剰の現在を論じている が、そうした場所において、果敢に近代の理想と いう「超越」へ向かおうとする尾崎の「夢」は場 違いである。 4. 2 醒めた〈自由〉〈愛〉 この「超越」を〈自由〉〈愛〉のふたつの側面 に 腑 分 け す る と、ま ず、尾 崎 の「夢」=〈自 由〉 は、たとえばこんな場面に象徴されている。「落 書きの教科書と外ばかりみてる俺/超高層ビルの 上の空 届かない夢をみてる」「盗んだバイクで 走りだす 行き先もわからぬまま 暗い夜のとば りのなかへ/誰にも縛られたくないと逃げ込んだ この夜に/自由になれた気がした 15 の夜」(『15 の夜』1983)。 ここで読み取れることは、ありふれた「反社会 性=盗んだバイク」という逸脱ではなく、むしろ 「自由になれた気」にしかなれないという、「反社 会 性」の 不 可 能 性 で あ る。そ し て、そ う し た 「夢」を不可能と感受させているものは、「超高層 ビル」だとされる。加藤典洋『日本という身体』 (1994)は、「大」「新」「高」という言葉の用いら れ方に注目して近代日本社会を分析しているが、 ここで尾崎の前にあるのは「超(高)」である。 意味過剰のすえに無意味化したポストモダンの風 景の問題がここにある。このように、尾崎が終生 固執したテーマとして、〈不可触なシステム社会〉 と〈ちいさな自分〉とを対比させるパターンがあ る。「立ち並ぶビルの中/ちっぽけなおいらさ/ のしかかる虚像の中で/心奪われている」(『街の 風景』1983)といったように。 代表曲『卒業』(1985)にしても、「仕組まれた 自由に誰もきづかずに」といったふうに、〈みん な不自由から抜け出そう〉というメッセージが、 実質的な像を結ばずに、「俺たちの怒り どこへ 向かうべきなのか」と歌われる。また、「人はみ な縛られたかよわき小羊ならば/先生あなたはか よわき大人の代弁者なのか」というフレーズで は、「先 生」と い う「社 会 性」を も っ た〈大 人〉 の象徴が、「反社会性」の攻撃対象として、弁証 法的な像を結ばないことへのいらだちがみられ
る。 桜井哲夫(1997)は、フーコーの指摘した「規 律(デ ィ シ プ リ ン)」や デ ュ ル ケ ム の 指 摘 し た 「社会的なあり方(エートル・ソシアル)」という 概念が、近代における〈正常―異常〉の対立、す なわち「不良少年」をうみだしたと要約してい る。しかし、技術発展の完了した社会では、対立 は差異に還元される。社会秩序の「統合と規制の 無 ! 意 ! 識 ! 的 ! な装置」の働きとして、「諸個人を差異 のシステムと記 ! 号 ! の ! コ ! ー ! ド ! に組みこむこと」がな され、「コードのレベルでは革命はもはや起りそ うにない」(Boudrillard 1970=1979 : 122)。そうした 消費社会論の論理が、ここでの自我のありように あらわれている。〈善―悪〉の対立がなければネガ ティブ・アイデンティティも不可能になる。「ツ ッパリ」とは、さきにみた共同体的な「ノリ」を 重視する、おそらくアジア型の精神的土壌とポス トモダンに到達した物質的背景の融和形態におい て、強い「価値」をもちこむ無理強いの比喩であ ろう。 さて、もうひとつの「夢」=〈愛〉については、 たとえば、「悲しみの色に塗りつぶされていく黄 昏の街/家路をたどる人ごみのなか/愛だけたよ りに雑踏のなかに君をさがしている」(『群衆の中 の猫』1985)とか、「ほら坂道で歌う少女の夢のよ う/一 日 の 終 わ り 燃 え て る」(『Teenageage Blue』 1985)とか、「涸れた噴水のふちに 僕らは腰掛 けて 夢みる訳でもなくただ無口になっている」 (『黄 昏 ゆ く 街 で』1990)と い っ た よ う に、「黄 昏」 の多用が印象的であり、尾崎の心象風景をよくあ らわしている。 幻かもしれないが、夕暮れどきの街は、ひとと き美しくみえる。だから、無機的な都市にやって くる黄昏の光景のなかで、自然的な異性と、ささ やかだがあたたかな親交をもつ(あるいはもてな い)ということが、初期の尾崎のラブソングのイ メージを規定している。そこには、「人ごみ」「雑 踏」などが影のようにかならず否定的に登場する が、後年の『黄昏ゆく街で』では、もはやそうし たものに「夢」がのみこまれてしまっていること もうかがえる。 このように「黄昏」は、尾崎の「夢=理想」が 「夢=虚構(幻)」に傾く必然性をあらわしている と同時に、のちの「夢=理想」の挫折とも連動し ている。黄昏の情景は十代の 29 曲中 7 曲に登場 するが、その後亡くなるまでの 42 曲では僅か 3 曲、しかも最後の『太陽の瞳』(1992)では、「太 陽が沈もうとしている夜が/唸りをあげてあばれ ている」「こんな仕事ははやく終わらせてしまい たい/まるで僕を殺すために働くようだ」「夢も 現実も消えてしまえばいい」と歌われている。 4. 3 直線的時間感覚 こうした尾崎の時間感覚に注目してみよう。 「まとまった金をため ひとり街とびだしていく ことが/新しい夢の中歩いて い く こ と だ か ら」 「小さな俺を眠らせた 壊れちまったオルゴール が/バッグの中で時を奏でている」「家をとびだ してきたのは それより上めざしてたから/やが て俺も家族をもち 同じように築きあげるだろ う」(『坂の下に見えたあの街に』1985)といったよ うに、「坂道のぼり」街をバイクに乗ってでてい く、というイメージは直線的なものである。「家 族」という単位では円環的だが、戦後日本の核家 族が「同じように築きあげる」というほどの根拠 がないものだとは了解されていないかもしれな い。 このタイプの「夢」は、前の世代の〈故郷・小 部屋をでていく〉という外部・上昇志向が受け継 がれ、変奏されたものである。例をあげると、 「都会の香りふりまいて/夢をみさせてくれたん だ」(吉田拓郎『となり町のお嬢さん』1975)とか、
「狭い部屋で仲間と夢描いた/いつかはこの国 目をさますと」(浜田省吾『路地裏の少年』1976)と か、「つぎの汽車で 出てゆくのさ」「暗く狭いあ の屋根裏部屋でみた/夢はとても美しかったよ と」(矢沢永吉『親友』1976)とか、「夢やぶれ い ずこへ還る」(中島みゆき『成人世代』1981)といっ たように、日本のフォーク・ロックと呼ばれるジ ャンルの「夢」は、第一・二次産業から第三次産 業への移行期にあって、精神としても〈貧しい村 落〉を離脱しようとする。 すなわち、これらの「理想」はわかりやすく、 〈欠如〉の充!が「都会」というエロスイメージ によって担われていた世代のものである。いわば 都市はそれだけで「千年王国」として、直線的な 時間感覚(のニヒリズム)を線分的なそれに変換 しうる装置であったのだ。尾崎の時間感覚は、こ うした「夢=理想=都市=千年王国」が、「夢= 虚構=都市=システム社会」というかたちで実現 してしまう過程にあらわれた、痛みにみちたもの である。 たとえば通過儀礼を扱った『卒業』(1985)で は、「卒業していったい何わかるというのか/思 い出のほかに何が残るというのか」とされてい る。またこの曲には、「あと何度自分自身卒業す れば/本当の自分にたどりつけるだろう」という 部分が登場する。彼の時間感覚は、先へ、先へと 外部に「本当の自分=大人」の領域を措定してい くものだ。これはむしろ根源的に「卒業」できな い不安定さの表現である。「ツッパリ」という空 虚なアイデンティティは、こうした場所にあらわ れる。 また、「はじまりさえ歌えない俺がいる」(『は じまりさえ歌えない』1983)とか、「ああ夢は形を 変えてゆく」「誰かが明日の君に 裏切りをふり かざしている/だから今 君を包むその世界の/ 時をとめてしまおう」(『時』1988)とかいう、操 作願望的な時間感覚も特徴的である。 不可解な時間を、かたちあるものとして把握し たいし、できないなら止めてしまってもいいとい う感情は、直線的時間感覚がもたらす、理想に追 いたてられる不安からくるものである。言い方を 変えれば、直線的時間感覚が理想を要請し、それ が裏切られるということがシステムとして恒常化 しているともいえる。 「天才の夭折」と尾 崎 を 語 る 立 場 が あ る と し て、彼の 26 歳の死は、いかにも性急であった。 そもそも天才の夭折という観念は近代のものだ が、「もっと速く もっともっと輝くまで 俺た ち は 走 り 続 け て い か な け れ ば」(『Freeze Moon』 1985)と、メロディに乗り切れずに叫んだ尾崎に 流れていた時間は、近代の初発国よりも、さらに 速く直線的だったかもしれない。 4. 4 伝説・背中 ボードリヤールはマクルーハンの「メディアは メッセージである」公式を、イメージ消費におけ る「シニフィエなきシニフィアン」と読みかえ て、「伝説的なもの」のコードに世界が再編成さ れ て い く さ ま を 論 じ て い る(Boudrillard 1970= 1979 : 178−9)。この論者の悲観を全面的に受け入 れる必要はないが、「伝説」としばしばよばれる 尾崎の性急な破滅は、確かに、理想を虚構化して しか表現しえない、個体としては不幸な〈大人〉 モデルを示唆する。たとえばツッパリマンガの定 型として、藤沢とおる『湘南純愛組!』は、ある 暴走族のリーダーがその絶頂期に、交通事故でガ ードレールから海へ、風のように転落死したとい う設定を大切そうに内包している。「伝説になっ たんだ、あの人は。もう追いつけねぇんだよ」と いうように、主人公はそのリーダーに憧れていた 少年に語る。 「虚構の時代」のひとつの大人像として、こう
した理想の不可能性をかんじながらもその可能性 に向けて空転した!藤をし、ある〈ひたむきさ= せつなさ〉を価値とする像がある。これは「ツッ パリ」の〈二枚目〉の側面である。『十七歳の地 図』(1983)に お い て、「半 分 大 人 の Seventeen’s map」という言葉を導く、「電車の中 押し合う 人の背中にいくつものドラマをかんじて/親の背 中にひたむきさをかんじて/このごろふと涙こぼ した」という表現のなかには、そのようなモデル がある。この「背中」は、大袈裟な「伝説」が、 日常生活において獲得するであろうささやかな身 体の像である。
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「夢=理想=虚構」、虹のエロス的幻影
5. 1 潜在するセルフアイロニー 桑田佳祐の楽曲中、携帯電話の着信音に採用されたりする『MISS BRAND−NEW DAY』(1984)
は、泡立つようなイントロから、英語に似せられ た日本語が快く流れていく。断片的にききとれる のは、「夢にみる姿のよさと美形の Blue Jean/カ ラダと欲でエリ好みのラプソディ/皆同じそぶり /誰かと似た身なり/意味のないハヤリの言葉と 見栄の Illusion/教えられたままのしぐさに酔っ てる/月並みを愛し/ありのまま着ままの君で心 は Rainbow/人目をはばかるにゃ美しすぎる/誰 のため本当の君を捨てるの Crazy/しなやかと軽 さをはき違えてる/慣れない場 所 で 背 伸 び All night/粋な努力をただで売る」という、都市の 幻想的身体に宛てたナンセンス詩である。 これは一見、ボードリヤールの消費社会批判を 思わせるものだ。「『あなたが夢みる肉体、それは あ!な!た!自!身!の!か!ら!だ!です。』このすばらしい同語 反復(実はあるブラジャーの宣伝文句)は、『個 性化された』ナルシシズムのあらゆる矛盾の集中 的表現である」(Boudrillard 1970=1979 : 123)。しか しステージで、こういった歌詞が享楽的で幻想的 なメロディに潜在されて大衆と共鳴するさまが、 桑田の「夢=理想=虚構」の場所を象徴し て い る。エロスとは、時間的空間的な自己同一性にと っての虚偽としてあらわれることと、にもかかわ らずエロス的なものには魅かれてしまう自然が同 致され、そこでしかエロス批判はなりたたないと みなされている。欲望追求が解放された「慣れな い場所=都市」で勘違いし、土着的身体の reality を超えすぎてしまう主体が「粋な努力をただで売 る」笑い者にされる。 これはノリのいい曲をつくりだした自己にかえ ってくる。ノりながら自分の気持ちを隠し持つ桑 田のような態度を、栗原彬([1989]1996)は、管 理社会に対抗する「二重意識」と呼んでいる。し かし厳密にいえば、「夢の中身は風まかせ/魚眼 レンズで君を覗いて/熱い乳房を抱き寄せりゃ/ 自分勝手に空を飛ぶ」(『エロティカ・セブン』1993) というように、ノることのサービス過剰が桑田の 本質であろう。醒めた顔でノるのではなく、エロ スにノりすぎて猥褻さや自己中心性を露出してし まうという意味で二重である。 尾崎もまた「俺ははぐれものだから/おまえみ たいにうまく笑えやしない」(『シェリー』1985)と 歌っていた。「ツッパリ」の自然発生的な笑いを 歪める「力」とは何か。 梅原猛によれば、〈笑い〉とは「異なった意味 または価値領域に属する二つのもののコントラス トにより起こる価値低下の現象」によっておこる ものだという。そして、岸田秀は梅原の〈笑い〉 の定義では説明できないものもあるとして、より 包括力のある定義を試みており、岸田によれば、 「共同幻想(疑似現実)の崩壊または亀裂によっ て起こる、それが要求していたところの緊張から の解放」が〈笑い〉の本質だという。人間は、本 能によって動く動物と違い、疑似現実としての 「幻想」(意味・価値・文化など)をつくりだして
から、それに沿って動かねばならず、その緊張か らの解放による筋肉の弛緩が〈笑い〉だというの だ(岸田[1977]1982)。こうした説明は、なぜ人 間だけが笑うのかということについて説得力をも つ。 これらの定義をふまえていえば、逸脱者として の「ツッパリ」の「悪」という価値の強烈な提示 は、〈善―悪〉を求められつつも〈快―不快〉が支 配的になった世界では意味をもちえず、そのコン トラストによる価値低下が、〈善―悪〉を保持せね ばならないという共同幻想の緊張を解放すること によって、〈笑い〉がうまれるのだといえる。こ れが〈善―悪〉を十分に内在する「不良少年」で あれば、実際に「悪」の被害が及ぶかもしれない という緊張を漂わすことによって〈笑い〉はうま れないが、「ツッパリ」の「悪」は虚構(「ハッタ リ」)でしかないという前提があり、緊張を解く ことが許されているのである。逆にこれが、ムカ ついたりキレたりする、社会化されない「少年非 行」であれば、〈快―不快〉にしたがっているのだ から「場違い」はしょうじない。「不良少年」と 「少年非行」の過渡期に、「慣れない場所」がしょ うじるのだ。 さきの井上俊による「適応」「超越」「自省」の 分類にしたがえば、こうした「ツッパリ」の〈三 枚目〉の側面は「自省」に あ た る。「反 社 会 性」 が不可能になった世界での「自省」とは、自己も 魅かれる〈快〉に溺れすぎることで、その幻想性 をあえて隠蔽しそこなってしまうところにあらわ れるだろう。 5. 2 ポップ 1978年のデビュー曲である『勝手にシンドバ ッド』では、「ゆきずりの女なんて 夢をみるよ うに忘れてしまう」という初の「夢」使用がみら れるが、これはすでに述べてきたような「理想= 虚構」を集約している。桑田の「夢」は、「ゆき ずりの女」のようにわくわくさせるものではある が「虚構」であるものとして、すなわち、その醒 める瞬間の前後のドラマとして扱われているから だ。幾人かの論者はこの新しさを、「ポップ」と いう概念によってとらえようとしている。 たとえば村上龍(1984)は、「サザンは日本に 初めて現れたポップバンドだと思う。(略)ポッ プスは、人間の苦悩とか思想よりも、つまり『生 きる目的は?』とか『私は誰? ここはどこ?』 よりも、大切な感覚について表現されるものだ」 とのべる。あるいは、植島啓司は「真 の『ポ ッ プ』の体現者」において、「二〇世紀とはアメリ カのポップカルチャーの時代だったのである」 「サザンオールスターズは、そのことをぼくたち にはっきりと認識させてくれた。彼らの音楽は、 すぐにぼくたちの心に深く入りこみ、そして、忘 れ去られてしまう。だが、そうした刹那性こそが 生命力なのである」とのべている(竹田編[1988] 1990 : 168)。また、竹田青嗣は、「桑田佳祐のラ ディカリズムは、欲望を〈物語〉化もしくは〈抒 情〉化せずに、むしろ女性への憧れを、男の性的 な渇望に対するいとおしさに重ね合わせるような 形で浮かばせる所によく現れている。むろんこれ は、当時の音楽の大きなコード破壊を意味してい たし、また時代のリアリティをも鋭敏につかんで い た と 言 え る」と 論 じ て い る(竹 田 編[1986] 1990 : 132)。 そのことを「夢」とからめていえば、たとえ ば、「夢が舞い散るしらべ」「しゃれた浮き世のさ だめ」(『あっという間の夢の TONIGHT』1984)とい う言葉が、快く弾むリズムにのる様子が、桑田の 不 安 な〈軽 さ〉を 象 徴 し て い る。桑 田 の「夢」 は、植島がいうように「深く心に入り込」むのだ が、「虚構」にすぎず、すぐに「忘れ去られてし まう」ようなものである。そして、そういう軽や
かな「さだめ」であるがゆえに愛しいということ が、桑田とそのファンの「ポップ」な感受性であ ろう。 5. 3 反復的時間感覚と〈祭〉 この「エロス的幻影」と呼ぶべき「夢」は、桑 田の陽性な資質にふさわしく、「虹」の心象風景 をともなう。たとえば、「甘い恋など夢 瞳の中 に虹をみるのもいつのことなのか」(『瞳の中にレ インボウ』1978)、「起きぬけの 不思議な夢/七 色花咲く」(『南たいへいよ音頭』1983)、「水色の天 使が舞う あの虹の彼方に/夢いずる人魚のよう
な 想 い 出 が 住 む と い う」(『Bye Bye My Love』
1985)、「愛だけじゃ奪えない七色の未来」(『せつ ない胸に風が吹いてた』1992)、「酔い醒めの朝なの に/また虹が待ってる」(『恋のジャック・ナイフ』 1996)など。 「虹」は、「夢」の「理想」と「虚構」をまぜあ わせる最高の素材であり、「夢」使用法の類型と しては、〈甘い夢〉というバリエーションとして とらえることができる。それは味覚としても「甘 い」のであるが、現実認識としても「甘い」とい わざるをえないものである。 ここには桑田の時間感覚がよくあらわれてい る。『せつない胸に∼』から読み取れることは、 虹は未来の理想だが、それは不可触で操作不可能 であるということだ。だからといって、全体とし ては否定的感情になっているのではない。それは 「また待っている」ものだからだ。「自然との〈生 きられる共時性〉」(真木 1981)の要素が、「夢= 理想」を「虚構の時代」に保つことの尾崎型破滅 から桑田を救っている。 また、「あの虹の彼方に夢いずる人魚のような 想い出が住む」という、私たちの常識からは突飛 な発想はここからきている。これは、過去があり 現在があり未来がありという直線的な時間感覚で はなく、過去があこがれの対象になりうるとい う、キルケゴール的な「反復」の時間感覚であ る。あるいは、真木悠介の整理でいえば、原始共 同体の「反復的」時間感覚であるといえる。「夢 いずる人魚」というときの「夢」は、だから、時 間全体を統括する「夢=虚構=神話」である。 真木の紹介す る エ リ ア ー デ の〈聖 な る 時 間〉 〈俗なる時間〉という議論を参照していえば、〈聖 なる時間〉とは「通時がくりかえしそこに収斂し てゆく共時」のことである。つまり、〈聖なる時 間〉によって〈俗なる時間〉は絶えず始源に戻る のである。これらの時間感覚は「交替」して進行 していくのではなく、「平行」したものが、潜在 化したり顕在化したりするだけのイメージであ る。こうした議論から想像すれば、こうした時間 をもつ社会の文化として、〈祭〉のような、〈聖な る時間〉を司るエロスイメージの蕩尽が、時間意 識の存立を支えるために要請されてくるだろう。 2000年に話題となった桑田の「茅ヶ崎(里帰り) ライブ」などもそのようなものとしてとらえう る。 さて、こうした「反復」に規定されながらも近 代的時間感覚をもつ桑田にとっての通過儀礼の像 は、たとえば、「いい女には Forever 夏がまた来 る/泣 か な い で マ リ ア い つ か ま た 逢 え る」 (『Melody』1985)とか、「俺にしてみりゃこれで最 後の lady」(『いとしのエリー』1979)といった場面 から読み取ることができる。 ここでは、反復する自然的なエロスイメージの 曲線と、直線的時間の矢印が交差させられてい る。その像は、地縁を抜けだしてはじめて自由恋 愛の選択を手にした男性の、戸惑いの模様かもし れない。この「永遠の女性=マリア」とのすれ違 いの自己把握が〈大人〉になるということだが、 それは大袈裟で否定的なものではない。「違いの わかる男」といった、こうしたさりげない断念の
果てにしかありえない、価値の繊細な差異性を認 識するものの像であろう。
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「夢=虚構」の完成、天国の不安
6. 1 化粧する自我 宇多田ヒカルのデビューアルバムから、「夢」 をすべてとりだしてみると、ある特徴に規定され ていることがわかる。 「フェイクネイル/カラーコンタクト/エクス テンション 髪にかざって/フェイクファー 身 にまとって/どうして本当の愛 捜してるの?」 「夢も現実も目を閉じれば/同じ/だから dream-ing of you/夢にエスケープ in my room/ウソも ホ ン ト ウ も 口 を 閉 じ れ ば/ 同 じ 」(『 In MyRoom』)、「真実は最高の嘘で隠して/現実は極上
の夢でごまかそう」(『Never Let Go』)、「夢からさ めた時に/君がそこにいてくれたら/何もいらな い」(『Another Chance』)。 このように、ほとんどの曲で、かならず「虚 構」の 系 列 に あ る〈嘘〉〈幻〉〈入 眠〉〈不 安 定〉 〈化粧〉がはりついている。これが性別にのみ規 定されることでないのは、80 年代の代表的女性 歌手(中島みゆき・松任谷由実)の「夢」は基本 的に「理想」を含意していることや、90 年代後 半に流行したり話題になった男性(スピッツ・ hide)には「夢の夢」とか「夢に夢みる」といっ た独特の「虚構」表現がみられることからわか る。「現実」の対領域が完全に「虚構」と化した ことは、自我形成期の逸脱形態として「ツッパ リ」たちが徐々に消え、「殺人・援助交際はなぜ 悪 い」と い っ た、〈善―悪〉獲 得 以 前 の「少 年 非 行」が社会問題として浮上したことと対応する。 都市は完成し、少年の理想は内向する。宇多田の 描く少女は、膨らんでいくエロスイメージに〈化 粧〉で追いつこうとしながら、ふと「本当の愛= reality」を問うている。 6. 2 電子メディア社会の「天国」 さて、宇多田ヒカルは、携帯電話などの、現在 の関係性の変容を論じるのに欠かせないメディア を自然に身体化し、効果的に歌詞にとりいれた第 一人者である。 大澤真幸(1995)は、「音声」「図像」の段階か ら「文字」の段階をへて「電子・電気」の段階へ という、コミュニケーション・メディアの支配的 な形式の変遷と社会秩序のかかわりを論じるなか で、電子・電気メディアの特性を、時間的には極 限的な高速性、空間的には極限的な拡散性として とらえる。その特性から、従来の「自 己―他 者」 関係の時間・空間的距離による秩序が崩され、た とえば電話中には「自己が自己に対して他者であ ることの断裂」をもたらすという。 その「他者」体験の混乱を原理としてとらえる ために大澤は、フロイトによる、幼児が糸巻きを 自分で隠しては発見する「fort−da(いないいない /ばあ)遊び」の分析から導かれる「糸巻き=母 の身体=自己の身体」という状態から、「自己―他 者」関係を考える。つまり、原初的母子関係にお ける分離不安の反復強迫が時間・空間的距離の感 覚と「他者」感覚をうみだしていくという議論だ が、電子メディアを介したコミュニケーション は、この時間・空間的感覚の変容を通じて「fort− da」の断裂を無化してしまうのだという。「他者」 はどこにでもいるしどこにもいない。 宇多田はこの「他者」に、こう呼びかけてい る。「毎日話す必要なんて無い/電話代かさんで 迷惑してるんだ」「留守電になってる夜中/メッ セージ聞きにもう一度かけたい」「だけどそれじ ゃ苦しくて/毎日会いたくて/この気持ちどうす ればいいの/今おとなになりたくて/いきなりな れ な く て / 君 に addicted か も 」(『 Addicted To You』)。すこし大澤の論点と離れて展開してみる と、宇多田の歌詞にあらわれる女性は、addicted
(夢中・中毒)という言葉から、まさにこの「い ないない/ばあ遊び」の反復強迫にとらわれてい るのではないかという印象をうける。つまり、自 己の身体の単一性と他者性との直接の共存と、そ こから分離することの体験は、新たな位相におけ る時間・空間的距離や「他者」感覚を獲得し、 「おとな」になるための!藤としてとらえうる。 こうした電話メディアを用いた原初的母子関係 を思わせる体験は、吉本隆明([1968]1982)のい う「対幻想」領域の特性として、密接な二者関係 に基礎をもち、家族を構成する〈性〉的なもので ある。しかしこの〈性〉は、モバイルという特性 とパーソナライゼイション(松田 1999)という ふたつの要因によって、家族という集団の内部か ら流出しはじめているといえる。 だ か ら、宇 多 田 は、個 室 に い な が ら(in my room)外部と接続され、「その目にみつめられる だけで/ドキドキ止まらない」「キラキラまぶし くて」(『Automatic』)、と、外部の対象よりも自己 の身体にかかわる〈性〉的な夢を見、この感情か ら、「抱きしめられると/君と paradise にいるみ たい」という、「天国」の心象風景が描かれる。 「天国」は、無限に遠いことがそのままに自己の 身体に内在していることの表現であり、「夢=理 想」が矛盾なく「夢=虚構」と同致する場所であ る。尾崎の最後の曲での「夢」表現は「死」と並 列(「星 に な っ た」)で 肯 定 的 に 用 い ら れ て い る し、桑田が 80 年代末から「虹」に変わって突如 多用するようになったのもこの「天国」表現であ る。ここには、「虚構の時代」に残存した「理想」 の死=到達点があると考えてよい。 6. 3 場所性の不安 このような「天国」は、さきの引用にも「極上 の夢でごまかそう」とあったように、「目を閉じ れば」いいが、そうでもしなければ恐怖をもたら すようなものだ。「静かすぎる夜は考えがあばれ だすの/わかってるのに結局寝不足」(『Movin’on without you』)とか、「どうして居場所をいつも探 してるの?」(『In My Room』)といったように、 「ここはどこ?」と問わないはずだった「ポップ」 に、場所性の不安と中毒性が侵入しはじめてい る。 電子メディア社会における被パラサイト(寄 生)の感覚は、鈴木光司(原作)『リング/らせ ん』(1991・5)・岩明均『寄生獣』(1990∼5)・瀬名 秀明『パラサイト・イヴ』(1995)といった 映 画 ・マンガ・小説のヒット作などがあり、注目に値 する。「パラサイト・シング ル」(山 田 1999)と いう新語も、客観的な状態を指すより、家族とい う無償性を原理に持つ場所の衰弱と、そこからく る自我の浮遊をよくあらわしている。宇多田のい う「静かすぎる夜」は、電話による「極限的に直 接的なコミュニケーション」(大澤)が途絶えた あとの沈黙は無限の解釈を誘うがゆえに、いった ん相手との親密性が失われたとき、被害妄想や関 係妄想の世界と親近性をもってしまうことを示唆 する。文脈は違うが、小川博司(2001)も、現代 のメディア社会ではむしろ静寂が非日常であるこ との逆説を指摘している。 それでは、人間関係が「スイッチ ON/OFF」さ れる(辻 2000)のと連動するように「夢も現実 も目を閉じればおなじ」という、宇多田の不安を 救済しているのは、どういう要素なのだろうか。 つまり、その!藤のさきには、どのような大人像 が想定されうるだろうか。「ねぇ どうしてそん なに不安なの/ゆるぎない愛なんて欲しくないの に」とか「夢からさめた時に/君がそこにいてく れたら/何もいらない」といった言葉からは、そ れは、単純に「君」「あなた」がいてくれたら、 という願望の先にあるものだろうと思われる。つ まり、「夢=虚構」の揺らぎをそのままで受け入
れていこうという態度が基調にあって、それがあ る程度安定すれば大人像と呼べるのだろう。 宇多田は、そうした願望を託すものとして、自 分の〈自然〉としての身体感覚を、信頼できるも のとして強くうちだしている。たとえば「唇から 自然と/こぼれ落ちるメロディー/でも言葉を失 った瞬間が/一番幸せ」と歌われる『Automatic』 は、言葉よりも「自動的」な自分の感受性への依 存 を 表 現 し て い る し、『Another Chance』で は 「こんなに natural な感覚が/間違ってるわけない のに」と歌われ、「あなたとなら/自然なままの 私でいられる」(『B & C』)とされている。 ここにあらわれているのは、一緒にいて自然な 感情の交換さえできたらそれでいい、という、原 初的母子関係を思わせる〈やさしさ〉の要素であ る。「一緒に〈夢〉を求めて く れ る 人」(Levinson [1978]1992)という、近代男性の願望としての女 性像でもない。逆説的にも、最新のテクノロジー を背景にもたらされるのは、従来の家族の崩壊で あると同時に、「現実」との接触感、身体感覚を 取り戻そうとするかのような「母性的」と呼ばれ て き た 大 人 像 で も あ る。竹 村(1999)が 指 摘 す る、ヒップホップ世代の好む、楽曲中に入る意味 不明のアナログレコードのようなノイズも、80 年代の非接触レーザー技術による「ノイズが少な ければ少ないほどよい」という理想から逆行し、 偶発的な揺らぎに身をまかせていたいという感性 がみられる。 6. 4 「やさしさ」と疑似円環的時間 ところで、「貧しさの憧れに狂いだした太陽が /欲 望 の 名 を 借 り て 何 処 ま で も 果 て し な い」 (『LOVE WAY』1990)と い う、直 線 的「欲 望」解 釈をもつ尾崎豊もまた、「答などなくていい そ の理由は/誰も皆 安らぎのはじまりに 生きる こと」(『LIFE』1988)とか、「終わりのない やさ し さ の は じ ま り」(『MARRIAGE』1990)と い っ た、「答=理 想」を 放 棄 し た 場 所 に あ ら わ れ る 「安らぎ」「やさしさ」のはじまりを感受してい た。〈癒し〉という流行語の登場は、1988 年の読 売新聞による上田紀行の紹介記事だという説があ るが、その年発売のアルバムにもこの言葉が登場 する。ただ、「答がいらないその理由」とか「終 わりのない」とかいう観念的な言葉のいいまわし からは、ある極限的な「理想」にすぐさま転化し そうな堅苦しさが漂ってくる。 宇多田の場合、「泣いたって/何も変わらない って言われるけど/誰だってそんなつもりで泣く んじゃないよね」「時間がたてばわかる/明日へ のずるい近道はないよ」「だからそんなにあせら なくていいよ」「今は泣きたいだけ泣いていい」
(『time will tell』)とか、「悲しみはやさしい雨に任
せて/幸せを思い出そう/先がみえない/けど怖 くない/明日の私たちどこにいるの?」(『Never Let Go』)といったように、〈自然〉にまかせた円 環的時間感覚はより身体にねざす。 加藤典洋(1996)は、半独言を若者語の特徴と して示唆し、これは「虚構の時代」の「や さ し さ」の議論と響きあうものだが、この宇多田の応 援歌も内向している。「やさしさ」については、 大平健(1995)や栗原彬([1989]1996)による 90 年代型自我論や戦後青年小説論があり、その議論 をとらえなおしていえば、これがこのアメリカ育 ちの日本人にもたらされていることは示唆的であ る。尾崎の「甘えるのが下手な やさしさに似た Rock’n’Roll」(『街 路 樹』1988)と い う フ レ ー ズ も、土居健郎(1971)の指摘した日本人の精神構 造の根底をなす「甘え」の共同性が、西洋近代の 個人主義に侵食を受けて「やさしさ」に転化する その瞬間をとらえている。 宇多田がステージでカヴァーした、尾崎の『I Love You』は、「きしむベッドの上にやさしさを
もちより/きつく躰抱きしめあえば/それからま たふたりは目を閉じるよ/かなしい歌に愛がしら けてしまわぬように」というメインフレーズをも つ。ここでは、「虚構の時代」にしらけないでい られる結合が、目を閉じた「やさしさ」に収斂さ れていく。
7
結
論
以上で、主に歌詞にあらわれる「夢」表現の諸 類型をとおして、尾崎豊の〈ひたむきさ=せつな さ〉〈癒し〉、桑田佳祐の〈笑い〉、宇多田ヒカル の〈やさしさ〉〈自然〉という性格特性にねざし た大人像をみてきた。彼らの!藤は、表層的には 情報・消費社会論の文脈においてとらえうるが、 まず、戦後日本社会という特殊性を考慮するため にも、近代論としての社会学という層からとらえ かえしておく必要がある。 富永健一(1998)は、近代化を社会システムの 変動としてとらえ、その構成要素を、経済的・政 治的・社会的・文化的サブシステムの四つに分類 している。ヨーロッパの近代化においては、文化 的近代化が先行し、社会→政治→経済とすすん だ。興味深いのは、富永が、日本の近代化はちょ うどそれと逆向きに進んだとのべている点であ る。これは、日本近代の外発性や下部構造優位を 物語っているが、第二次世界大戦の敗北によっ て、そのことはさらに明確となった。 M・ウェーバーは、近代を発進させたプロテス タンティズムの「禁欲」の精神が、宗教的・倫理 的意味を取り払われ経済的強制の歯車に変わった 未来について、「精神のない専門人、心情のない ニ ヒ ツ 享楽人。この無のものは、人間性のかつて達した ことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚 れ る だ ろ う」と の べ て い る(Weber 1920=1989 : 366)。価値判断をこめたこの予言は、敗戦による 伝統的価値の否定から世界に冠たる経済大国に登 りつめた日本の近代化を考えるとき、もっともよ くあてはまるものだろう。 「社会変動」の理論家としてのデュルケム(宮 島 1989)は、近代の、「時間的に個人に先んじて 存在し、個人よりも永続し、あらゆる面で個人を こえているような集合的存在」への帰属感の希薄 化 と 自 殺 の 増 加 と を 関 連 づ け て い る(Durkheim 1897=1985 : 478)。この観点からは、経済の停滞 から自殺が急増している戦後日本も、そうした 「集合的存在」が経済にかかわるものに集中して いる社会として分析されるだろう。 尾崎には、経済的近代化に、精神的な近代の原 理を追いつかせようという切迫感がある。桑田に は「心情のない享楽人」へのアイロニーがある。 これらは外発的近代化の批判であるが、彼ら「ツ ッパリ」もまた、貧困な資質から貪欲に消費を希 求し、「私はあなたを愛している」というのにも 英語をもちいる自己中心性・表層性によって特徴 づけられる。宇多田はアメリカ育ちということ で、この表層性を拡大・解消する両面をもつ。 これは富永のような近代化論者からすれば、普 遍文明としての近代の伝播(diffusion=自発的受 容)の未熟ということになろう。また伝統主義者 や「近代の超克」論者からは、汚染ということに なろう。また、異文化共生論者からは、新しい時 代への第一歩ということになろう。ここで成熟困 難問題は、近代化や伝統回帰の問題に接続され る。 ここではそうした議論にはたちいらず、ある極 端に過渡的な時間空間において、美的対象(夢) に向けて自我構築する三つのモデルを把握できた ことを成果としたい。三者とも、どこか「自己の 身体サイズの欲望」ともいうべき着地点を模索し ているようにみえた。これはブーアスティンの情 報社会論と響きあうものでもある。 ここまでくると、戦後日本における情報・消費社会論という出発点を再検討することが可能であ ろう。見田宗介の「虚構の時代」論は、「終末論」 「やさしさ」というふたつの軸をもっていた。前 者についていうと、破滅に向かうような尾崎の時 間、2000 年における桑田のレコード大賞受賞と 〈祭〉の時間との適合性、さらに、〈彼岸〉を求め るかのような 1999 年の「天才少女」宇多田ブー ムといったように、人間がつくりだした時間の区 切りが、物質的貧困と欧米への憧れを媒介にしな がら、ここ数十年の日本人の集団行動や心象風景 を規定してきたということは確かである。 しかし、「世界の終わり」は訪れず、「実現され た ユ ー ト ピ ア と い う パ ラ ド ッ ク ス」(Boudrillard 1995)のなか、5 章で「甘え」と「個人主義」の 折衷という仮説を与えた「やさしさ」の問題が残 された。80 年代後半以降の村上春樹作品が代表 的であるが、「虚構の時代」を代表する大衆文化 のうちにも、従来の性役割を折衷したような〈お じさん〉という「やさしさ」の大人像が描かれて いる。江藤淳([1967]1993)の指摘するような、 近代日本にしょうじた「恥づかしい父」「支配的 な母」の克服(不可能)過程とともに、今後の研 究課題としておきたい。 [参考文献]
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