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『政経かながわ』視点論点

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『政経かながわ』視点論点 そろそろ対中制裁解除を1990 年 7 月号 保守派一辺倒脱する中国1990 年 8 月号 競技会水面下の権力闘争1990 年 9 月号 東アジアでも冷戦が崩壊1990 年 10 月号 保革対立し混迷する中国1990 年 11 月号 ポスト鄧小平のはじまり1990 年 12 月号 捏造記事の裏側を読む1991 年 1 月号 逆戻りする中国の経済改革1991 年 2 月号 赤字激増の中国国有企業1991 年 3 月号 ポスト鄧小平の綱引き激化1991 年 4 月号 冷戦体制解体に動く中国1991 年 5 月号 動き始めた朝鮮半島情勢1991 年 6 月号 大攻勢に出る中国改革派1991 年 7 月号 中国の香港政策に暗雲が1991 年 8 月号 ソ連政変に動揺する中国1991 年 9 月号 ソ連の革命に揺れる中国1991 年 10 月号 台湾の動きにあせる中国1991 年 11 月号 終焉を迎える鄧小平時代1991 年 12 月号 目標は若返りと改革開放1992 年 1 月号 鄧小平が挑む最後の闘争1992 年 2 月号 マスコミ使い鄧小平反撃1992 年 3 月号 まだ続く中国の保革対決1992 年 4 月号 鄧小平「重要談話」の行方1992 年 5 月号 赤字多発の中国国有企業1992 年 6 月号 李鵬後めぐって改革競争1992 年 7 月号 胡論文から見る保革抗争1992 年 8 月号

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中国流の政経分離の矛盾1993 年 4 月号 現実味ない中国経済展望1993 年 5 月号 甘え許されぬ中国の成長1993 年 6 月号 楊の護衛船団が江に一矢1993 年 7 月号 完成近い貿易基地・図們江1993 年 8 月号 中国金融混乱に約法 3 章 1993 年 9 月号 中国に送ろう開放の陽光1993 年 10 月号 不幸招く中国の報道規制1993 年 11 月号 完成期の中国・脱社会主義1993 年 12 月号 中国成長率は9-10%へ 1994 年 1 月号 朱が約法3 章に新 3 カ条 1994 年 2 月号 経済安定しポスト楽観1994 年 3 月号 中国の前途を学ぶ副読本1994 年 4 月号 中国の焦点「中央対地方1994 年 5 月号 米・中華圏の活力を認知1994 年 6 月号 教訓もとにした中国の発展1994 年 7 月号 中国近代化刺激する台湾1994 年 8 月号 中国転換期経済に新腐敗1994 年 9 月号 人事面で強化計る江体制1994 年 10 月号 悪化する中国の資源需給1994 年 11 月号 インフレ抑制より成長率を1994 年 12 月号 新年中国の課題は三改革 1995 年1月号 鄧小平はすでに引退、大乱なし 1995 年2月号 順調に後継固める江体制 1995 年3月号 改革中国への三つのカギ 1995 年4月号 統一も独立もできない台湾 1995 年5月号 陳雲死去と天安門事件 1995 年6月号 世界的視点でみる中国は 1995 年7月号 中国、金融引き締め効くか 1995 年8月号 九五計画で所得4倍増へ 1995 年9月号 21世紀の中国像描く 1995 年 10 月号 示唆に富んだ李登輝総統懇談 1995 年 11 月号 中国の人権再考を 1995 年 12 月号

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集約型成長をめざす中国 1996 年1月号 中央の権威に頼る江沢民体制 1996 年2月号 中国経済の牽引力は上海 1996 年3月号 まず中国自身の難問解決 1996 年4月号 中国情報の解説は慎重に 1996 年5月号 一年後に迫った香港返還 1996 年6月号 中国が抱く危機と核開発 1996 年7月号 中国からの輸出減に注目 1996 年8月号 成長する天津技術開発区 1996 年9月号 中国の食糧危機、実は過剰 1996 年 10 月号 党政首脳ポストの争奪戦 1996 年 11 月号 関係改善進む米国・中国 1996 年 12 月号 「香港人による香港の統治」 1997 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「軟着陸」成功の中国経済 1997 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 「見事な引き際の鄧小平氏」 1997 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民集団指導部の実力」 1997 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 「香港化が急速な大陸経済」 1997 年 5 月 15 日号 6-7 ページ 「中国成長を支えた技術移転」 1997 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 「中国の市場経済化導く香港」 1997 年 7 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾省廃止でゆれた台湾」 1997 年 8 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾海峡に日本の出番ない」 1997 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 「新世紀へつなぐ江沢民体制」 1997 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 「争点は残しての米中協調」 1997 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「民は食を以て天と為す」 1997 年 12 月 15 日号 6-7 ページ 「発育期で丈夫な中国経済」 1998 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「変わる上海経済の産業構造」 1998 年 2 月 15 日号 6-7 ページ

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「伸び悩み脱し上向きの中国経済」 1998 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民訪日の失敗」 1998 年 12 月 15 日号 6-7 ページ 「灰色市場」の理論--論理的整合性よりも実現可能性を 1999 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 鉄面宰相朱鎔基の密輸摘発 1999 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 広東省GITIC 閉鎖問題 1999 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基総理就任から1 年 1999 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基訪米 1999 年 4 月 25 日号 6-7 ページ NATO軍の中国大使館「誤爆」のウラを読む 1999 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 反米運動に苦慮する中国指導部 1999 年 7 月 15/25 日号 6-7 ページ 朱鎔基のデフレ対策が本格始動 1999 年 8 月 15/25 日号 6-7 ページ 李登輝「国と国」発言の波紋 1999 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 中国指導部が注目のハンガリー改革 1999 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 底を打った中国の景気 1999 年 11月 15 日号 6-7 ページ 中国のWTO加盟と日本の報道 1999 年 12 月 15-25 日号 6-7 ページ 中国経済展望2000 2000 年 1 月 5-15 日号 8-9 ページ 朱鎔基3300 人講話 2000 年 2 月 15 日号 8-9 ページ 「過熱する台湾総統選」 2000 年 3 月 15 日 6-7 頁 「李登輝神話の崩壊」 2000 年 4 月 15-25 日 6-7 頁 「中国の資本逃避」 2000 年 5 月 05/15 日 6-7 頁 「台湾総統選挙の真の争点」 2000 年 6 月 15 日 6-7 頁 「朝鮮半島の緊張緩和と中国」 2000 年 7 月 5 日 6-7 頁 「三つの代表」の狙いはなにか 2000 年 8 月 15 日 6-7 頁 映画「生死をかけた選択」 2000 年 9 月 15 日 6-7 頁 北京・上海間「新幹線」はどうなるか 2000 年 10 月 15 日 6-7 頁 朱鎔基訪日の成果 2000 年 11 月 15 日 6-7 頁 第10 次5カ年計画の建議 2000 年 12 月 05 日 6-7 頁 「21 世紀の日中関係」 2001 年 01 月 05 日 「金正日"秘密訪中"の舞台裏」 2001 年 02 月 15 日 「二つの江沢民発言」 2001 年 03 月 15 日 「米中関係の構図」 2001 年 04 月 15 日 「小泉政権の対中政策は」 2001 年 05 月 15 日 「小泉・田中外交をどうみるか」 2001 年 06 月 15 日

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「中国共産党が資本家の入党を認めた意味」 2001 年 07 月 15 日 「北京五輪開催決定から見えるもの」 2001 年 08 月 05 日 「小泉首相の靖国参拝を考える」 2001 年 09 月 05 日 「米国同時テロ事件から考えること」 2001 年 10 月 15 日 「外交的配慮が欠けている小泉首相の揮毫」 2001 年 11 月 15 日 WTO 対応型の中国の経済方針」 「 2001 年 12 月 15 日 2002 年 1 月 5 日 日中国交正常化から 30 年 2 月 15 日 中国経済脅威論批判 3 月 15 日 アジア経済の相互依存急進展 4 月 25 日 日中国交正常化 30 周年 5 月 25 日 中国首脳人事の読み方 7 月 5 日 中国 Geely Motor Cars Co.

講演・鄧小平後の中国はどうなるか1996 年2月号 講演・どうなるこれからの中国1993 年 3 月号 講演・中国でなにが起きつつあるか講演1990 年 10 月号 『政経かながわ』 そろそろ対中制裁解除を1990 年 7 月号 保守派一辺倒脱する中国1990 年 8 月号 競技会水面下の権力闘争1990 年 9 月号 東アジアでも冷戦が崩壊1990 年 10 月号 保革対立し混迷する中国1990 年 11 月号 ポスト鄧小平のはじまり1990 年 12 月号

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『政経かながわ』90 年 7 月 25 日 七月二日、香港の株式相場が急騰した。ハンセン指数は三三一九・四七にはね 上がり、戒厳令施行直前の高値(八九年五月一五日、三三〇九・六四)を上回 った。これは八七年一〇月の「ブラック・マンデー」以来二年九カ月ぶりの高 値である。反体制物理学者方励之の釈放を契機として、ヒューストン・サミッ トで対中制裁が解除されようとの観測に基づくものであることは、いうまでも ない。中国当局が方励之・李淑嫻夫妻を「病気治療」を名目として出国を認め たのは、六月二五日である。方励之は今後ケンブリッジ大学天文研究所で研究 を続けることになった。 夫妻が出国に際してアメリカ大使館を通じて発表した声明の文言は、意味深長 である。「1)私が中国憲法の前文の四つの基本原則に反対したのは、その〔原 則の〕目的が階級闘争的政治制度を維持することにあるからである。私は上述 の政治的主張が憲法の前文に違反したことに注目している。2)海外の親友を訪 ね、必要な医薬治療を得るために、私は出国旅行を申請した。私は中国政府が 人道的に考慮するよう希望する。3)出国の目的は学術交流と研究に集中される。 われわれは中国社会の進歩の利益に符合するあらゆる活動を賞賛し歓迎すると ともに、中国に反対することを動機としたあらゆる行為に参加することを拒絶 する」。 新華社や中国中央電視台など当局側発表は「方励之が誤りを認め、反省した」 ので、出国を許可したとしているが、この声明はいわば「玉虫色」である。1) を注意深く読むと、方励之は四つの基本原則に反対した事実を書くことによっ て、自らの政治的主張を明言している。政府は方励之が憲法に違反した事実を 認めたもの、反省したものと受け取っている。3)では「中国反対を動機とする 行為」と書かれているが、方励之の基本的立場は「中国共産党の政策への反対」 であり「中国反対」ではない。彼は中国共産党への批判の自由を留保している。 政府にとっては中国共産党=中国であるから、「愛国」の枠で縛ったつもりで ある。2)の「病気治療」については、ロンドンでの記者会見で「私の健康状態 は良好だ」と明言する始末。方励之が口実はともかく出国できたこと、方励之 は当面は研究生活に集中し政治活動は行わないこと、しかし自らの政治的信念 を捨てたわけではないこと、が核心である。中国政府と方励之の妥協は、中国 政府とアメリカ政府との妥協であり、米中間の喉元の骨を取り除いた。

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中国側の事情をみると、政治・経済ともに累卵の危機である。天安門事件一周 年を無事に乗り切ったものの、内外の累積する難題はまことに深刻であり、こ れ以上強硬路線を堅持することは、不可能になってきた。 経済の実勢、特に失業問題の深刻化は一刻も猶予を許さないところまできてい る。この問題を直截的に採り上げて鄧小平は、最近「老朋友の資格」で訪中し た海外賓客、華人同胞につぎのような「恫喝メッセージ」を繰り返した。この 発言は、恫喝であるとともに、老いた指導者の悲鳴とも読める。 「中国が不安定になれば、世界が不安定になる。中国で内戦が始まったらどう なるか?中国で内戦が始まったら停められない。誰にも停められない。中国が 乱れたら、人口の海外流出が大問題となり、誰にも管理できなくなる」。「〔た とえば〕千万がタイに流れ、一億がインドネシアに流れる。香港に五〇万人が 押し寄せたら大乱になるではないか。しかも乱れたら、彼らは武装することに なるのだ」。「したがって、この意味では、香港人はわれわれ〔大陸〕が安定 を保つことを最も擁護すべきなのである。双手を挙げて、双脚で擁護すべきで ある」。「世界・中国・地球に対して責任感をもつ政治家はわれわれ〔の立場〕 を理解すべきである」(香港『文匯報』一九九〇年六月一六日)。 この鄧小平発言は、いささか八方破れのやつ当たりの観もあるが、危惧される 危険性を率直に認めた点では評価されてよい。自らの「失政」によってもたら された異常事態を逆手にとって制裁解除の切札にしようというのであるから、 大国の指導者の発想はユニークである。とはいえ、天安門事件以後一年目の深 刻な事態をここまで冷静に見極めているからには、希望が生まれてきたともい える。西側としてはヒューストン・サミットで、制裁解除に踏み切るべきであ ろう。

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政懇ホット情報、『政経かながわ』90 年 8 月 15 日 李鵬総理の辞任説が消えては浮かび、他方で趙紫陽復活説が話題になっていた が、七月二七日、李瑞環(政治局常務委員、イデオロギー担当)が自民党の宮 沢派代表団に対して「軟禁解除説」を強く否定した。つまり当面は趙紫陽の軟 禁状態が続くわけだが、ポスト鄧小平期においてか、あるいはその前にか、遅 かれ早かれ、何らかの形での復活は時間の問題とみられる。いま重要なのは、 改革派李瑞環が復活説を否定した事実のもつ政治的意味であろう。天安門事件 以後の保守派片肺飛行のなかで、李瑞環は大胆にその軌道修正に努めてきた。 しかし六月二六日、保守派の牛耳る『中国文化報』が「全党は中央に服従せよ」 と題する社説を掲げて「いわゆる新精神」を批判した。これは名指しではない が、明らかに李瑞環が標的である。同紙は「イデオロギー問題についての指示」 と題して、鄧小平、江沢民、李鵬ら指導者の語録四九句を掲載したが、このな かに、イデオロギー担当常務委員李瑞環のものが一つも含まれていないのは、 異様である。これは八九年六月以来九〇年六月までの演説からサワリを抜き書 きしたものだ。反革命暴乱の基本規定や「平和的変質」問題などについての党 中央の考え方の核心がこの語録によって示されている。 語録の内訳は 1)党決議から五句、2)鄧小平の八九年六月九日講話から六句、3) 李鵬の全人代三次会議報告(九〇年三月二〇日) から九句、4)江沢民のもの二 九句で最も多い。語録という形式は、文化大革命時代の『毛沢東語録』を想起 させる。こういう手口を用いて、イデオロギー統制を図ろうとする発想はいか にも保守派らしい。保守派の攻撃に対して、李瑞環は七月九日『中国文化報』 に対して「工作組」を進駐させ、文化部系統の保守派退治に乗り出した。李瑞 環の反撃を支持しているのは、鄧小平であり、「党内の健康な勢力」の代表と しての李瑞環を用いて、李鵬・姚依林らの保守派の跋扈を牽制していると伝え られる。安定団結という表看板の下で、権力闘争は激化しつつあるように見え る。 ところで、七月六日から十日まで四川省成都で国防教育研討会が開かれた。こ のセミナーは北京国際戦略基金会、解放軍報社など十三単位が発起して開いた ものであり、人民大衆の「愛国意識」「国家利益意識」「国防意識」「国際意 識」を増強することを中心テーマとするものであった。成都開催の理由を「四 川省は国防の大後方」であり、「国防教育工作が全国の先頭にある」からだと 秦基偉(国防部長)が説明している。開会式は陳楚(国際戦略研究基金会会長)

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が主持し、姫鵬飛(中央顧問委員会常務委員、国際戦略研究基金会名誉会長) が開会の辞を述べた。 地元四川省担当の政治局委員楊汝岱(省委員会書記)が講話を行い、こう述べ て注目された。「国防教育は外からの武装侵略に反対するだけでなく、 平和 的変質 〔原文=和平演変〕にも反対し、プロレタリア独裁を強化し、社会主 義近代化建設を促進するためである」「〔西側敵対勢力は〕社会主義危機論、 社会主義失敗論を撒き散らし、社会主義と共産党への不満と敵対感情を煽って いる。この手段の実質は心理戦争であり、人心をばらばらにし、人心をかちと り、ブルジョア階級の後継者を養成しようとうするものである」「 平和的変 質 の戦略がすでに一部の社会主義国家で成功したことは、この戦略の現実的 危険性と重大性を示している」(『四川日報』七月八日二面)。ここでは東欧 の平和革命を「西側敵対勢力」の陰謀に帰している。そして中国においても、 社会主義の「危機論、失敗論」が存在することを「現実的危険性」と認識して いるわけだ。楊汝岱の社会主義危機論はオクターブが高いが、これは成都での 武力鎮圧の当事者であることが関係していよう。楊汝岱講話に対して秦基偉(国 防部長、政治局委員)の祝電は、きわめて冷静な判断を示したのが注目される。 「現在、国際情勢の主題は平和と発展である。しかし国際的反動勢力は平和的 転化の戦略を推進している」「今のわれわれの主な任務は精力を集中して経済 建設を行い、生産力を発展させることである。国防建設は経済建設の大局に従 属しなければならない」(『四川日報』九〇年七月七日)。ここで秦基偉が「平 和と発展」が主流だとし、「国防建設は経済建設に従属すべきだ」と述べてい るのは、穏健派の見解が天安門事件以前のものに戻りつつあることを象徴する ものとして重要であろう。

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勤務先の夏休みの一カ月を中国、香港の旅に費やし、さまざまの人々(中国人、 日本人、その他の外国人)と話し合う機会を得た。概して、中国の行方に対す る悲観論を聞くことが多かった。天安門事件の後遺症の深さを改めて実感した。 アジア競技大会を一カ月後に控えた八月二二日江沢民総書記が点火した聖火は ハルピン、ラサ、ウルムチ、三亜(海南省) に運ばれ、聖火リレーがスタート した。大会開始までいよいよ秒読みの段階に入った。この大会の招致を決めた 時点での目論見としては、西暦二〇〇〇〇年の「北京オリンピック」のための リハーサルとして位置づけられ、スポーツを通じて国民的統合、愛国心発揚を 図るとともに、経済発展への大きな役割を期待されていた。 しかし、昨年の天安門事件によって当初の夢は大きく崩れることになった。す べてが裏目に出た。なによりもまず、大会を通じた景気拡大構想の失敗である。 一九六四年の東京五輪、一九八八年のソウル五輪は、それぞれの経済成長の成 果を世界に示す絶好の機会となり、その後の経済発展の跳躍台となったことは よく知られている。中国は日本と韓国の例にあやかろうとしたが、天安門事件 の衝撃がすべてをだいなしにしてしまった。 西側の拒否反応と東側の平和革命という二つの圧力のなかで、孤立した中国は 政治面でも経済面でもひたすら引き締めを堅持して、体制の維持に汲々とせざ るをえなくなった。いまやアジア大会は雇用拡大の機会となるどころか、重荷 にさえなっている。たとえば、大会予算は六億人民元だが八月末の時点で実際 に集まったのは四億元強であり、目標の三分の二にすぎない。大会の財政担当 スポークスマンは「目標達成に自信あり」としているが、状況はかなり厳しい。 資金不足の最大の要因は、西側企業からの寄付が思うように集まらなかったこ とであろう。ひとり韓国のみは中国に食い込む絶好の機会として、三星グルー プを始めとして、企業広告が北京の街角で目立ったが、日本や他の西側企業は、 寄付や広告にきわめて消極的であった。このため、当局は資金集めを全国市民 の浄財に頼るほかなくなった。各単位を通じて寄付割当(「亜運会基金奨券」 という名の宝くじ作戦) が行われており、これに対する市民の協力はいま一つ 盛り上がらない(私はたまたま南京で一枚一元也を買い求めた)。北京市の場 合、アジア大会のために市民生活が犠牲にされているとの話を少なからず聞い

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た。とはいえ、こうした悪条件のもとにありながら、中国当局はいま大会の成 功に向けて必死の努力を続けており、大会が無事に終わるならば、当初の目論 見通りではないとしても、いちおう事態を糊塗することはできるかもしれない。 問題はアジア大会以後である。現在は政治、経済ともに「大会以後にむけて凍 結」されている。ここでいわば「ケンカ預かり」の形になっている水面下の権 力闘争は、一一月に予定されている一三期七中全会で一挙に火を吹く可能性が ある。 一三期七中全会の主な議題は 1)「第八次五カ年計画」の決定、2)天安門事件以 後の諸政策の承認、3)人事異動、の三つであろう。現在、起草作業が進められ ている八五計画の骨子となるのは、国務院経済発展研究中心(馬洪グループ) と中国社会科学院(劉国光グループ)が提出した二つの報告である。これら二 つのシンクタンクが原案を作り、両者をもとに国家計画委員会レベルで刷り合 わせをやって計画を作成する段取りであるとある北京で会ったあるエコノミス トが教示してくれた。 表向きの議題は八五計画だが、舞台裏では人事をめぐるポスト争奪が熾烈をき わめるであろう。穏健派(改革派)は天安門事件における武力鎮圧の当否をめ ぐる微妙な評価の違い、それを遠因とするアジア大会の「失敗」という結果を 踏まえて、保守強硬路線の転換を要求する兆候が見える。これに対して、保守・ 強硬派はアジア大会を「成功」と総括して現状維持、ヘゲモニーの強化を要求 し、抗争はポスト鄧小平期へ向けて波乱含みの展開となろう。

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九月三〇日、韓国の崔浩中外相とソ連のシェワルナゼ外相がニューヨークの国 連本部で会談し、共同声明を発表し、両国はついに国交関係を樹立した。韓国 側から見れば、八八年のソウル・オリンピック以来精力的に続けてきた「北方 外交」の一つが実を結んだことになる。 韓国の「北方外交」のもう一つの成果は、中国との間で貿易事務所開設でほぼ 合意したとみられることである。韓国の有力紙『朝鮮日報』九月三〇日は、「中 韓双方は一〇月中旬にも民間レベルの貿易事務所の相互開設に合意するであろ う」「この事務所は領事機能をもつことになる」と報じた。韓国側事務所は北 京のほか、韓国から見て最短距離にある山東省や遼東半島にも設けられる予定 だとも伝えている。要するに単なる貿易事務所を越えており、ビザの発給業務 なども行えるわけであり、事実上の「大使館」であろう。 他方、ソ連側から見れば、ゴルバチョフのペレストロイカが東欧を一巡して、 ついにアジアにまで及んできたことを意味している。ソウル・オリンピックの 時点では、中国・ソ連が競ってソウルとの関係改善のために「スポーツ外交」 を展開していた。こうしたなかで経済交流の実績の面では、中国が一歩進んで いた。経済交流先行の点では今回のアジア大会における状況も似ており、大会 を中継する北京からのテレビ画面には決まってラッキー・ゴールドスターやサ ムソンなど韓国の有力企業の広告が登場し、この大会はソウルが行われている のではないかと時に錯覚させるほどであった。しかし、中国とソ連との間には やや条件の違いもないではない。中国の場合は台湾との統一問題を抱えている ことのほかに、天安門事件以後中国政治の行方がきわめて不透明だという事情 もあって、結局国交正常化競争ではソ連が先行することになった。 しかしソ連が道を開いたからには、中国に対して強い影響を与えないわけには いかない。こうして戦後の冷戦体制は東アジア全体においても確実に崩壊し、 新たな秩序作りへの模索が実際に始まった。北朝鮮は八六年にソウルで開かれ たアジア大会および八八年のソウル・オリンピックをともにボイコットしたが、 今回の北京大会では六〇〇人を越す選手団、二〇〇〇人の応援団を派遣し(韓 国はそれぞれ七〇〇人、五〇〇〇人)、外国との試合に際しては、韓国との共 同応援団まで結成して、朝鮮は一つをアピールしたのを初めとして、終始積極

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的な取り組みを行った。そこに外交的孤立から脱却しようとする強い意欲を見 い出すことができよう。 周知のように、九月下旬の金丸・田辺訪朝団を契機として、日本と北朝鮮との 関係も大きな動きを見せ始めた。これは何よりもまず北朝鮮の態度の変化によ るところが大きいと見てよい。北朝鮮の変化に最も直接的に影響しているのが ソ連と韓国との国交回復であることはいうまでもあるまい。このままでは世界 の潮流から取り残されるという強い危機感のもとで、従来のかたくなな姿勢を 転換する必要に迫られたことは明らかであろう。 日本としては過去の不幸な歴史の清算という面からばかりでなく、むしろ二一 世紀への新しい東アジア世界の秩序をどう構築すべきかという前向きの視点か ら問題に取り組んでほしいものである。問題の焦点は、アジア大会以後の北京 の政治情勢に移った。中国は金メダル獲得では圧勝し、大いに面目を施したも のの、天安門事件の後遺症はこれで消えるほどに小さなものではない。表向き は開放政策を掲げているが、保守派は内心で開放政策が「平和的変質」(原文 =和平演変)につながることに恐怖している。西側と経済交流は拡大したいが、 「帝国主義の害毒が怖い」というわけだ。かくて改革派と保守派の綱引きは激 烈である。 ▲訂正とお詫び 先月のコラムでアジア大会の予算を六億元(約五・四億ドル)と書いたのは予 算の一部たる「民間からの募集額」の誤りで、大会の予算総額は二五億元でし た(ちなみに、民間以外の分担金は、中央政府からの補助八・五億元、北京市 からの補助五・七億元、財政部からの支出一・九七億元、宝くじ売上げ三・二 七億元計一九億元強となっている)。

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当初はアジア大会直後に開かれる予定だと伝えられた中国共産党の一三期七中 全会(中央委員会総会)の開催が遅れている。この会議の最大の課題は第八次 五カ年計画の基本構想を決定することだが、そのほかにも趙紫陽前総書記の処 分問題、天安門事件によって生じた政治局委員の空席を補充する問題(現在は 失脚した趙紫陽、胡啓立、死亡した胡耀邦合わせて三つのポストが空いている) など扱いのやっかいな懸案がある。 天安門事件以後すでに一年半を経たが、これまでは事件の責任問題、政治局の 空席補充問題など改革派と保守派の利害関係が激突する争点については、ケン カ預かりの形で糊塗してきたのであった。第八次五カ年計画の基本的な考え方 をどうするかは、さしあたりは純粋な経済問題にすぎないが、扱いによっては 高度に政治的な課題になる。というのは、計画経済と商品経済の位置づけの在 り方によっては、社会主義を守るのか否かというイデオロギー論争に発展する からである。 鄧小平時代の改革と開放の一〇年のうち、前半は計画経済のなかに市場調節を どれほど加えるかという形で改革が進んだが、これは「鳥籠経済」論であり、 保守派の長老陳雲の年来の主張と同じであった。しかし八四年秋に「経済体制 改革についての決定」を行い、「計画的商品経済」論を採用した時点から、改 革が大いに進展し、それまでの「鳥籠経済」論は旧式のものとして乗り越えら れた。この積極的改革案は第一三回党大会では「国家が市場をコントロールし、 市場が企業を誘導する」モデルとして総括された。 しかし、この積極的改革案のもとでインフレが生じたところから、保守派の巻 き返しが始まった。鄧小平は天安門事件以後も第一三回党大会の基本路線を変 えないと繰り返し指示してきたが、実際には改革と開放は全面的に停滞してい るのが実情である。これが天安門事件の一時的後遺症対策にすぎないならば、 問題ない。しかし保守派は天安門事件の反省から、旧来の計画経済体制を守る ことこそが社会主義体制を守ることにほかならないとして、経済建設の基調を 「鳥籠経済」論まで戻そうとしている形跡がある。たとえば『人民日報』九月 一四日号に改革派のリーダーの一人である中国社会科学院副院長劉国光までが 「鳥籠経済」論礼讃を書いているのは、現在の政治的潮流のなかで保守派がイ ニシャティブをとっていることをよく示している。

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この春から夏にかけて国務院政策研究室の所轄となった『経済日報』が「計画 経済と市場調節をいかに結合するか」をめぐって紙上討論を展開したが、そこ では趙紫陽時代のような積極改革論は影をひそめ、計画経済の意義を強調する 議論が目立っていた。 第八次五カ年計画は九〇∼九五を対象としているが、この五カ年計画のなかで 計画経済の比重をどれほどのものとすべきかは、単なる経済問題の域を越えて 今や社会主義制度を守るのか守らないのかという保守派主導のイデオロギー論 争に変質している。しかも保守派は天安門事件以後のソ連東欧の平和革命を「和 平演変」論で説明しようとしている。「和平演変」論とは、帝国主義者が「和 平」という手段で社会主義を資本主義に変質させる陰謀が行われているとする 時代錯誤的な認識である。 こうして経済問題でさえもイデオロギー問題として扱われる雰囲気のなかに、 趙紫陽の処分問題、政治局の補充問題が加わるのであるから、改革派と保守派 の対立は容易なものではない。 趙紫陽は九月初めにゴルフ場に姿を現し、処分問題に決着がついたかに見えた が、最終決定は七中全会であり、これは政治局の補充人事ともからんで依然大 きな論点として残っている。欠員の補充問題は改革派と保守派の際どいバラン スを崩すために、綱引きのなかで大きな問題となることはいうまでもない。加 えて、最高指導者鄧小平氏の健康問題がある。鄧小平氏は金丸、竹下両氏だけ でなく、キシンジャー氏、シンガポールのリークワンユー氏にも会っていない。 鄧小平氏の支持を得て保守派路線の軌道修正に乗り出したかに見えた李瑞環氏 が保守派の包囲によって活躍を制約されていることと合わせて、注目を要する 点である。Xデー問題も含めて、当面中南海から目を離せない。

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ポスト鄧小平の始まり 十一月二十日、香港で鄧小平死亡説が流れた。翌々日、中国当局はこれをきっばり否定し た。鄧小平が健在で、舞台裏から依然、重要な指示を与えていることは確かである。たと えば国家体制改革委員会主任のポストに、陳錦華を据えたのは鄧小平らしい。四人の副主 任はいずれも陳錦華よりもキャリアが上だが、これらを飛び越す人事ができるのは、鄧小 平以外には考えられない。最近は王兆国(福建省長)を台湾弁公室主任に据え、また丁関 根を党中央統一戦線部長に選んだ。いずれも鄧小平人事の色彩が濃厚である。それだけで はない。アジア大会以後、鄧小平はいくつかの「内部指示」を行ったが、それを香港『鏡 報』(11 月号)がスクープした。鄧小平談話の要旨は次のようなものである。 「改革開放の政策は中国の十年来の実践を経て、その正しさが繰り返し証明されている。 改革開放は建国以来の建設における大革命である。私はもう一度述べておきたいが、改革 開放政策は私個人が考え出したものではなく、わが党が建国三十年来の実践のなかで得た 真の知識であり、巨大な代価を払って得たものである」 今後数十年、改革開放政策を変えるな 「われわれはいま八・五計画(一九九一∼九五年)と、今世紀の最もカギになる経済発展 計画(九一∼二〇〇〇年)を制定しようとしているが、改革開放の歩みをいかに速め、完 全にするかが全体の指導方針たるべきである。改革開放を″もっと速く、もっと立派に、 もっと実績を挙げるようにしなければならない″。今後数十年、改革開放政策は変えては ならない」。 「前の段階で、 一部の部門、 一部の地方で、治理整とんをもって改革開放 を抑えつけ、改革開放を否定する現象が現れたが、これは正しくない。われわれが整とん を語るのは、改革開放に符合しない不利な、あるいは妨げになる問題を解決するためであ る。整とんの目的は改革開放を続けるため、改革開放を不断に改善するためである」 「改革の進展につれて、カギは社会主義建設に不利なすべての上部構造を、改革すること にある」(『鏡報』編者注。ここで鄧小平は再度政治体制改革の重要性を提起した)。 (天安門事件以後の指導部不信について)われわれは下部を責めてはならない。問題はや はり上部にある。人民は改革開放に反対していないことは、人民がわれわれを信任し、希 望を託していることを説明している」 李鵬の軌道修正は対外的なポーズ これら一連の鄧小平談話について、 一部では改革派の願望を込めた創作と見る説が行わ れているが、その観測は正しくない。というのは、鄧小平談話を裏付ける資料を、公式報 道の中に発見できるからである。国家体制改革委員会主任の陳錦華は、こう引用している。 「中国は改革開放を引き続き堅持するだけでなく、鄧小平同志が要求したように、改革開 放を″もっと立派に、もっと速く、もっと実績を挙げるようにしなければならない」(『人 民日報・海外版』10 月 23 日付一面)。傍線部分が『鏡報』の伝える鄧小平語録と同じであ る。鄧小平談話のあと、李鵬も軌道修正した観がある。十一月八日にスーダンのパシル副 議長と会見したが、その際に「三カ条の最も基本的なもの」として「①鄧小平同志の提唱 した改革開放の路線を変えないこと②国民経済の持続的、安定的、協調発展の方針を変え ないこと」を強調している(『人民日報』海外版11 月 9 日)。 ここでわざわざ「鄧小平同志の提唱した改革開放」と断っていることが注目される。いか にも唐突な変身だが『鏡報』の伝えるように、鄧小平が最近、改めて経済体制改革の意義 を強調した背景を考えれば、理解できる発言である。ここでの問題は、李鵬が本当に軌道 修正したのか、それとも修正のポーズを示しただけなのかであろう。というのは『人民日 報』国内版では、陳錦華発言、李鵬発言ともに報道されていないのである。これは何を意 味するのか。一つの解釈は「内と外との使い分け説」である。国内では引き締めを堅持し、 対外的にのみ微笑を振りまく形である。もう一つの解釈は『人民日報・海外版』でまず軌 道修正を行ったとする見方である。おそらくは前者であろう。つまり鄧小平はすでに「死 に体」、神通力を失ったのではないか。ポスト鄧小平はすでに始まっている。

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捏造記事の裏側を読む1991 年 1 月号 逆戻りする中国の経済改革1991 年 2 月号 赤字激増の中国国有企業1991 年 3 月号 ポスト鄧小平の綱引き激化1991 年 4 月号 冷戦体制解体に動く中国1991 年 5 月号 動き始めた朝鮮半島情勢1991 年 6 月号 大攻勢に出る中国改革派1991 年 7 月号 中国の香港政策に暗雲が1991 年 8 月号 ソ連政変に動揺する中国1991 年 9 月号 ソ連の革命に揺れる中国1991 年 10 月号 台湾の動きにあせる中国1991 年 11 月号 終焉を迎える鄧小平時代1991 年 12 月号

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「犬も歩けば棒に当たる」は、確かに真実である。私は昨年八月の夏休みに北 京を旅行し、さまざまな人々とポスト鄧小平問題を語り合ったが、そのなかに 棍棒があろうとは予想だにできなかった。八月一六日午前一〇時三五分から一 二時五分前までの約一時間二〇分、私は共同通信北京支局長の勧めで「李鵬の ブレーン」を自称する何新なる人物と北京長富宮飯店ロビーで会った。彼は一 年来の国際情勢の激変を研究しており、近く日本へも訪問したいとのことであ った。共同支局長のほか『読売新聞』北京支局長を含めて四人で雑談した。北 京語で世間話をすることを「聊天儿」と言うが、まさにこの種の雑談であった。 一一月末になって『北京週報』(四七∼四九号)が「中国の学者何新氏と横浜 市立大学矢吹晋教授との対談(上・中・下)」なる捏造対談を連載したのを知 ったとき、私は唖然とするのみであった。あまりにもばかばかしいし、私の本 を少しでも読んだことのある読者にとっては、私の発言と異なることは明白だ と思われたので、放置しようと思った。しかし、少なからぬ友人の示唆で一二 月六日付の抗議書を作り、八日に『北京週報』日本支局にファックスで送った。 この抗議書はただちに北京の本社に転送された。 ところが『北京週報』および何新氏は私の記事撤回、謝罪要求に対して、なん ら返答することなく、あまつさえこれを一二月一一日付『人民日報』(一面半 分および二、三面全ページ)に転載した。転載に際して、私の抗議書を踏まえ て小さな訂正を行っている。一つは、横浜市立大学矢吹晋教授」を「S教授」 と改めている(矢吹を北京語読みにするとSで始まる)。さらに『NOといえ る日本人』の箇所やラビ・バトラ、マルラス、ヒックスなどについての箇所を 何新氏自らの発言に改めている。 私が要求したのは、これらの部分的訂正ではない。記事全文の取消を要求した ものである。なぜなら、これは「対談」などではなく、何新氏自身の「自問自 答」にすぎない虚構だからである。一二月一一日付で何新氏は『北京週報』編 集部を通じて、矢吹宛てに奇妙な弁解の手紙を寄せた。私は一〇日間待った末 に、『人民日報』編集部、『北京週報』編集部および何新氏へ再度の抗議書を 送った(一二月二〇日)。同時に、この抗議書コピーを東京の中国大使館楊振 亜大使にも送った。事柄の経緯は以上のごとく簡単なものである。しかし、か くもばかばかしい異常な出来事がなぜ発生したのかを考えて見ると、そこには 容易ならぬ陰謀がすけて見える。

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鄧小平はすでに死に体であり、ポスト鄧小平をめぐって、中南海の権力闘争は 激化している。とりわけ一二月末の七中全会における改革派と保守派の綱引き は予断を許さない情勢になっている。何新氏の内容から見ても、形式から見て も異常としかいいようのない「対談」は、改革派に対する保守派による先制攻 撃であろう。資本主義の危機を強調し、社会主義の優位性を語る何新氏の論調 は、天安門事件以後の体制的危機のなかでの保守派の対応を最もよく示すもの である。 外国人の名を用いて、「青年学者」の権威を高め、それを皮切りに世論作りを やろうとする発想は、毛沢東が文化大革命を始めた際に、姚文元を用いて「海 瑞罷官」批判の論文を始めた経緯と似たところがある。この意味で、私の「冤 罪事件」は、中国の政治危機と深くかかわっており、注目を要する出来事であ る。にもかかわらず、この事件についての日本の報道はいささかズッコケてい る。『読売新聞』一二月一二日付朝刊が私の抗議談話を報道し同日付『信濃毎 日新聞』が共同北京特派員電で、私の抗議書に言及したのみである。日本の新 聞は私の抗議よりも、『北京週報』や『人民日報』の立場を重視しているので あろうか。理解に苦しむ。ところで香港の各紙は一斉にこの問題を報じている。 『経済日報』は私の抗議書の全文を掲載している(一二月一三日付)。『サウ スチャイナ・モーニング・ポスト』は香港から電話取材で、私の抗議を紹介し ている(一二月一三日)。日本がらみの事件を香港紙で知るとは情ないではな いか。

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中国共産党の一三期七中全会は昨年の一二月二五∼三〇日に開かれた。会議直 後には簡単な公報しか発表されなかったが、およそ一カ月を経て一月二九日付 『人民日報』はこの会議で採択された「中共中央の国民経済、社会発展一〇カ 年規画と第八次五カ年計画の制定についての建議」を公表した。 この建議は『人民日報』一∼四面のほとんど全頁を埋めるほどの長大なもので あり(全文三万余字)、全七章七二節から成っている。七章のタイトルから、 概要はうかがうことができる。 一、主要奮闘目標と基本的指導方針、二、経済発展の産業的重点と地域的配置、 三、科学技術教育文化事業の任務と政策、四、人民生活の改善と社会保障の健 全化、五、経済体制改革を深化させる方向、任務、措置、六、対外開放政策の 拡大、七、規画と計画の実現のために奮闘しよう 原案段階から採択されるまでに二百箇所以上修正されたと香港『広角鏡』(九 一年一月号)が伝えている。これは保守派主導で起草された原案に対して、改 革派がクレイムをつける形で政策論争が行われ、結局保守派と改革派の折衷案 になったものと見ることができよう。肝心の課題、経済体制の改革を推進する のか、それとも棚上げするのか。この点を論じた第五十節のサブ・タイトルは こうなっている。すなわち「社会主義の計画的商品経済(A)を発展させる要 求に照らして、計画経済と市場調節を結合する経済運行メカニズム(B)を樹 立することは、経済体制改革の深化の基本的方向である」。 この文章で(A)の部分は第一三回党大会で決定されたものである。当時、こ の規定は「計画的」に重きを置いて読む保守派の読み方と「商品経済」に重き を置く改革派の読み方との二様の解釈が行われたが、社会主義経済=計画経済 論を否定したところが新鮮であった。しかし、今回はその部分をいわばマクラ 言葉に棚上げして、(B)の部分すなわち「計画経済と市場調節」を結合する ことこそが基本的方向だとしている。 ここでは、二つの意味での折衷が行われている。一つは、党大会の決議につけ たしを加え、前者を骨抜きにするという意味での折衷である。大会決議を一見 尊重したかに見せつつ敬してこれを遠ざけ、後半の保守派の主張する「計画経 済プラス市場調節」論を強調する仕掛けになっている。もう一つは従来と同じ く「計画経済」と「市場調節」との折衷である。ただし、ここで「計画経済」

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という用語が要注意である。党大会当時は「社会主義=計画経済」論を斥けて、 「社会主義=商品経済」論を導入する観点から、「計画経済」という用語を避 けて、「計画管理」「計画工作」「計画調節」などの表現を用いたのであった。 したがって、この部分は仮りに改革派主導で描くならば、「商品経済プラス計 画調節」となるべきところである。つまり、主と従の位置関係が逆転している。 路線の基調は、第一三回党大会の基調と鳥籠経済論との中間に位置するものと 解釈できる(鳥籠経済論そのまでは戻っていない)。 計画調整すべき分野は、「総量コントロール、経済構造、経済配置」に属する もの、および「全局にかかわる重大な経済活動」である。そして「企業の日常 の生産経営、一般的な技術改造、小型建設などの経済活動」は市場調節による としている。 趙紫陽時代には郷鎮企業の活力をもって停滞している国営企業にカツを入れよ うとする迂回的戦略が採られたが、今回は「国営大中企業の活力を強めること が経済体制改革深化の中心」だとしているが、手段たるや企業の請負責任制、 企業管理体制の強化など一般的な措置にとどまり、具体性に乏しい。「リース 制」や「株式制」の試行も続けると一行だけ書かれているのは、いかにもリッ プ・サービスの匂いがする。 産業政策としては「傾斜生産」として農業の発展が強調されている。さらに基 礎工業、インフラ建設、エネルギー部門、交通運輸、郵電、通信、原材料部門 などボトルネックへの重点的投資がうたわれている。この「傾斜生産」論は地 域的にも適用されているが、かつての沿海地区優先路線への反発もあって地域 格差拡大防止に重点が置かれている。

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中国経済は依然低迷状態を続けている。二月末に公表された国家統計局の「一九九〇年国 民経済と社会発展統計公報」(『人民日報』二月二三日付)から経済の実情を読むことに したい。 1)九〇年のGNPは一兆七千四百億元(一元=約二五円)であり、年間成長率は約五%で あった。五%という数字は西側先進国と比べると悪くない数字だが、中国は過去四〇年平 均して約一〇%であったことを考えると、低空飛行であることが分かる。2)農業総生産額 は対前年比六・九%増で、このうち食糧生産量は四億三千五百万トンで史上最高を記録し た。「史上最高」であるにもかかわらず、人口爆発のゆえに、一人当り食糧で見ると、八 四年水準(四〇〇キログラム)を回復していない事実に注目する必要がある。3)工業総生 産額は対前年比七・六%の伸びである。過去四〇年の平均は十数%台であり、半分にすぎ ない。4)小売物価上昇率は二・一%にとどまり、八八年の一八・五%、八九年の一七・八% と比べて、様変わりの様相を見せている。5)国営大型企業の「税引き前利益」(原文=利 税) は一二七一億元(約三兆三千億円)であり、対前年比一八・五%の大幅減少である。 大型企業一万余について見ると、約三割が赤字を計上した。 こうした実績を踏まえて、国家統計局は次のように警告している。「製品在庫が増え、経 済効率が悪化し、財政困難が激化し、潜在的インフレ圧力が強まっている」と。 国家統計局公報を読むと、中国経済の実態が容易ならぬものであることが分かる。物価上 昇率が急降下したのは、インフレ対策が効を奏したわけだが、このような引締めのもとで 「潜在的インフレ圧力が強まっている」事実は重大である。八八∼八九年の場合は、いわ ば需要超過型インフレであったが、今度は国営企業の業績悪化や政府の財政赤字に現れた ようなコスト・プッシュ型圧力が強まっているわけである。これは、景気低迷下のインフ レ懸念であり、好況下のインフレよりもはるかに深刻な、中国的スタグネーションの危機 である。 ある内部資料(厳聞広「国有企業の重大な欠損の原因)は、中国国営企業に占める赤字企 業の比率は拡大の一途をたどっている事実を暴露している。これによると、八六年の国営 工業企業の赤字率(企業総数に占める赤字企業の数) は一四%であったが、八七年一六%、 八八年一九%、八九年二〇%とうなぎ上りに増え、九〇年上期は三四%に達している。国 営企業のうち三つに一つが赤字だというわけである。赤字企業の増加につれて、赤字額も 増えている。七九年の赤字額は三〇億元であったが、八五年は四〇億元、八六年七二億元、 八七年七六億元、八八年一〇五億元、八九年一三六億元と増え、九〇年は上期だけで一〇 〇億元の大台を突破しており、これを単純に二倍すれば九〇年の年間赤字は二〇〇億元を

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超えることになる。しかも、一部企業の赤字から一業種全体が赤字に転落するなど、赤字 企業が蔓延している。 この結果、赤字企業への補助金は工業利潤の半分に匹敵するほどの規模に膨れている。国 営企業への政府財政からの補助金は八〇年代初頭には七〇億元であったが、八七年には二 〇〇億元に増え、八八年には四〇〇億元に膨れ上がった。この補助金四〇〇億元は、八八 年の工業利潤総額の半分に相当するほどの金額である。九〇年に国営企業の赤字を補填す るために政府から支出された補助金は六〇〇億元に上り、国家財政にとって大きな荷物と なりつつある。 国営企業の赤字はなぜ生じたのか。一因は、原材料価格の大幅な値上がりであり、これが 企業の製品コストの七割以上を占めている。もう一つの要素は職員労働者の賃金、ボーナ スなど人件費である。これらの費用は下方硬直的であり、赤字企業においても、賃金やボ ーナスは従来通り支払われている。こうして、少なからぬ企業の賃金の増加率が労働生産 性の伸びを上回り、企業赤字を増大させている。資源、エネルギー不足のゆえに「週四日 操業、三日休業」の企業が増えているのも問題だ。「実際の赤字」はこれらの「報告され た赤字」の約二・五倍と見る推計も行われており、親方日の丸の国営企業に対する大ナタ は不可欠だが、保守派は国営企業擁護=社会主義擁護と錯覚している。

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三月二五日∼四月九日の一六日間にわたって開かれる七期全人代四次会議(日本の国会に 相当する) の冒頭、李鵬総理は「国民経済、社会発展十カ年計画および第八次五カ年計画 要綱についての報告」を行った。李鵬報告は全文約三・三万字(四百字八三枚) であり、 七中全会で採択された「国民経済、社会発展十カ年計画および第八次五カ年計画について の中共中央の建議」よりも、およそ一割方長い。全体の構成を見ると、1)十カ年計画と八 五計画要綱制定の立脚点、2)主な奮闘目標と基本的指導方針、3)経済建設について、4)社 会発展について、5)経済体制改革と対外開放について、6)国際情勢と外交工作について、 の六章から成っている。 この「要綱」は、七中全会で採択された中共中央の「建議」を受けて、行政府としての国 務院が「建議」を具体化するためにまとめたものである。したがって、基本的には党の設 けた枠にしたがう形になっている。たとえば 2)の基本的指導方針として、「中国的特色を もつ社会主義の建設」を挙げ、その内容として、人民民主主義独裁、共産党の指導の堅持、 など一二カ条を列挙している点は「建議」と全く同じである。3)の経済建設では、1)経済 の総量バランスの保持、2)産業構造の調整、3)地域的分業の促進、4)経済効率の向上、5) 科学技術、教育の発展、6)人民生活の改善、を挙げているが、4)の経済効率の向上などよ りも 1)の総量バランスを強調しているところに、改革慎重派(保守派)としての李鵬グル ープの考え方がよく現れている。 同じ傾向は、4)の社会発展についてもいえる。1)精神文明の建設、2)民主と法制の健全化、 3)政法工作の強化、4)腐敗反対、廉政建設( 清潔な政治) 、5)計画出産と環境保護、6)各 民族の団結、の六項目からなるが、なによりもまず精神文明の建設といったイデオロギー 教育を前面に出しているところに李鵬色が見られる。天安門事件前に、改革派が腐敗反対、 廉政建設(清潔な政治)を主張し、その手段として民主と法制の健全化を求めたことはよ く知られていよう。この李鵬報告では、それらの前に精神文明の建設を押し出しており、 イデオロギー教育を強調していることが分かる。改革派主導ならば、経済改革に対応した 政治の民主化、政治の民主化と法制化を促進するためのイデオロギー教育となるはずであ り、このような形でイデオロギー教育が押し出されることはあるまい。 李鵬による『要綱(草案) 』の説明は、七中全会で決定された枠を基本的には守りながら も、随所で保守派寄り、改革慎重派寄りの解釈が行われていることに気づく。つまり、ポ スト鄧小平をにらんだ改革派と保守派の「綱引き」はいぜん続いており、ますます激しく なっているように見える。

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それを示唆する一つは、朱鎔基(上海市長)と鄒家華(国家計画委員会主任)の副総理昇 格、銭其シン(外相)の国務委員昇格の人事である。朱鎔基が上海市長として江沢民党書 記を助けたことはよく知られている。したがって、このコンビが中央で実現すれば、江沢 民の指導体制は大幅に強化されよう。鄒家華は李鵬と同じくモスクワ留学帰りだが、同時 に広東を基盤とする地方改革派葉選平(今回、政協委員に転出)の義弟、故葉剣英の女婿 である。 もう一つは、本来なら九二年に開かれるべき第一四回党大会の年内「繰上げ開催」説であ る。天安門事件直後に二階級特進して総書記になった江沢民としては、鄧小平の元気なう ちに党大会を開いて、後継体制を固めておきたいところであろう。すでに一部の地方で党 大会代表選出が始まったとか、党大会で審議する政治報告の起草に着手したとか、「繰上 げ開催」説を伝える「小道消息」(ウワサ)が絶えない。江沢民や李瑞環ら鄧小平の支持 に依拠する改革派にとって、早期開催が有利なことは確かであろう。問題は大量引退、大 幅入れ替えになる指導部人事について改革派・保守派の調整がうまくつくかどうかである。 最後に、三月二六日鄒家華(国家計画委員会主任) が行った「九〇年実績と九一年計画」 によると、九一年のGNP成長率は九〇年実績と同じ四・五%、農業、工業の総生産額も 九〇年と同じくそれぞれ三・五%、六・〇%である。中国としてはかなり控え目な目標で ある。インフレ再燃を警戒したものであろう。

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黄金週間中、政治家諸氏の「中国詣で」が目立った。中曾根元総理が北京釣魚 台国賓館八号楼に宿をとれば、竹下元総理はすぐそばの十一号楼に宿をとると いった具合だ。中国側の会談相手も、江沢民総書記、李鵬総理、王震国家副主 席、銭其琛外交部長とまったく同じで、中国側の気配りがうかがわれる。 さて、竹下元総理と同じフライトで田辺社会党副委員長が訪中し、同じく釣魚 台国賓館内に宿をとり、中共中央対外連絡部長朱良と会談した(五月二日夕刻)。 朱良部長は田辺氏との会談に先立って、即席の会見の形で「韓国の国連単独加 盟支持せず」と述べた。とはいえ、朱良部長は朝鮮民主主義人民共和国(北朝 鮮)が主張している「単一議席による南北加盟」案の是非には触れなかった。 朱良発言の言外のニュアンスを北京からの報道はさまざまに読み取った。五月 二日夜のNHKニュースは、ずばり「中国は拒否権を行使せず」と速報した。 翌日の『読売新聞』は「これは韓国が単独加盟申請に踏み切った場合、中国が 拒否権を発動せず、棄権することに含みを残したとも受け取られている」(五 月三日、大野岩雄特派員電)と解釈し、また『朝日新聞』は「中国の不支持表 明は、ただちに国連安保理の常任理事国として中国が拒否権を行使することと は必ずしもそのままつながらない」「単独加盟は支持しないとの意思表示をし つつ、棄権または欠席という行動に出る可能性も消えたわけではない」(五月 三日、横堀克己特派員電)と解釈した。 朱良発言は李鵬総理の北朝鮮訪問直前のものであった。おそらく「単独加盟支 持せず」報道の世界に対する強い衝撃を和らげるためと推測されるが、江沢民 総書記は五月四日、田辺副委員長らに対して単独加盟問題についての言及を控 え、「深く申し上げたくない」と軌道修正した。 ちなみに韓国は九〇年秋にソ連と国交を正常化し、九一年春には中国と貿易事 務所を相互に開いた。ゴルバチョフ大統領は訪日の帰途、韓国済州島に立ち寄 り、韓国の単独加盟を支持を表明した。五月一日ブッシュ大統領はワシントン を訪れた李相玉韓国外相との会談で単独加盟全面支持を表明した。韓国訪問中 のロカール仏首相も五月二日、単独加盟支持を表明している。韓国はいま三六 カ国に特使を派遣し、単独加盟への支持を求めるため活発な外交活動を展開し ている。現在、韓国を承認している国家は一四八カ国であり、北朝鮮を承認し ている一〇五カ国を大きく上回っており、また南北同時承認国は九〇に達して いる。こうした潮流から見て、中国が仮りに「拒否権」を行使しなければ(棄

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権あるいは欠席するならば)、今秋の国連総会において韓国の加盟が実現する 可能性はきわめて強い。 ここで誰もが想起するのは、湾岸戦争における「武力行使容認決議」の際に中 国がとった態度である。中国はこのとき、拒否権を行使せず、「棄権」した。 一方でアラブ世界との従来からの友好関係に配慮しつつ、他方で、西側の経済 制裁緩和を求める観点から西側世界との国際協調を重視したい。このジレンマ のなかで中国の選んだ道が「棄権」という態度なのであった。 中国から見て、韓国の加盟問題を扱う観点は二つであるとこれまで見られてき た。一つは台湾問題であり、もう一つが北朝鮮問題である。台湾では四月二二 日の国民大会臨時大会での決定を踏まえて、三〇日に李登輝総統が記者会見し、 「反乱平定時期」の終了を宣言し、大陸との「内戦状態」が終焉したとする認 識を公式に表明した。台湾は今後、「大陸当局」を「一つの政治実体」と認識 し、「一つの中国、二つの政府」の考え方にしたがって大陸との交流を続けて いく方針である。鄧小平流の「一国両制」(一つの中国、二つの経済体制)と は、むろん距離があるが、平和共存への大きな歩みの一歩であることは疑いな い。現在、東アジアにおける冷戦体制解体の最後の問題はただ一つ、北朝鮮の 動向にかかってきた。中国としては国際原子力機関(IAEA)の核査察を受 け入れている事実を指摘することによって、北朝鮮の査察受け入れを中国が間 接的に要望していることを示唆している。また北朝鮮の核開発について中国は 協力関係にないことも明らかにしている。南北朝鮮と日中米ソとの駆け引きは 国連総会へ向けてますます激化しよう。なかでも日朝国交正常化交渉は大きな 要素の一つである。

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政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 6 月 15 日 ゴルバチョフの登場を契機として戦後の冷戦体制が音を立てて崩れ始め、八九 年の東欧の激動をもたらしたことはわれわれの記憶に新しい。こうした潮流は 東アジアに対してもボディブローのような深く静かな衝撃を与えつつあること はいうまでもない。 本誌前号で韓国の国連単独加盟問題に触れて「中国が仮りに 拒否権 を行使 しなければ(棄権あるいは欠席するならば)、今秋の国連総会において韓国の 加盟が実現する可能性はきわめて強い」と観測した。私は朝鮮半島の情勢につ いては特別な勉強をしているわけではない。ただ中国の韓国・北朝鮮(朝鮮民 主主義人民共和国)政策を注視してきただけである。私の素人評論に対して、 専門家筋からは「あまりにも楽観的」とする批評の声も聞こえていたが、どう やら素人の直観の方が的中する場合もあるようだ。 五月二七日、私は『読売新聞』主催の七カ国専門家会議(日中米ソおよび韓国・ 北朝鮮・モンゴル)に出席し、中国情勢についての私見を報告したさいに、前 号で書いた趣旨を述べた。韓国・北朝鮮および北朝鮮と密接な関わりを保持し ている中国の友人の前で、素人が発言することにはかなりの躊躇と心理的圧力 を感じたが、そこは素人の強み、思い切ってカマをかけてみた。 案の定、中国の友人から厳しい反発があった。「第一に、南北双方が同意でき る解決でなければならない。二番目に、いかなる大国も何らかの決定をして、 それを南北朝鮮に押しつけることはできない。三番目に、過去の経緯から反日 感情があり、日本が問題提起するのは逆効果だ」。この友人は私にとって老朋 友である部分だけ、遠慮がなく、厳しい口調であった。 私は少し軽率であったかと反省したが、もともと本音を探るのが目的である。 この反発から、今の段階で苦しい立場に陥っているのは北朝鮮だけでなく、中 国も同じであることを痛感した。前号で書いたように、中曾根、竹下、田辺各 氏から「拒否権行使の有無」を問われることはたいへんな心理的圧力であった わけだ。「使う」といえば、韓国を初めとして、西側全体と衝突するし「使わ ない」といえば、朝鮮戦争の盟友を裏切ることになる。中国はこの板挟みに悩 んでいた。

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ただし、黄金週間の時点で中国の基本的態度は決定済みのごとくであり、李鵬 総理の北朝鮮訪問は「拒否権は使えない」と引導を渡しに行ったようなもので はなかったか。この通告を踏まえて、江沢民総書記はモスクワを訪問し、ゴル バチョフとの会談で韓国問題についての中国側態度を通告し、両者の情勢認識 は一致したごとくである。つまり、モスクワは韓国加盟を積極的に支持し、中 国はそれに反対しないという形で消極的に支持する。いまや北朝鮮の国際的孤 立は決定的になった。ここまで追い詰められて、ピョンヤンは清水の舞台から 飛び下りる決意を固めたのではないか。 私が中国の友人から厳しく批判された翌朝、『朝鮮通信』は北朝鮮の国連加盟 申請の発表を伝えた。このニュースに接して、会議の政治的気温は一気に上昇 した。議長はこのニュースを午後のセッションで扱うことにし、活発な討論が 続いた。 最終二九日の朝、別の中国友人が私の顔を見るなり、つぶやいた。「われわれ も読みが外れた」と。海千山千のこの老外交官のつぶやき、真意がどこにある かはよく分からない。ただ、私の直観では、ピョンヤンの豹変ぶりを指してい たはずである。そう理解して私は、「良い方向への変化じゃありませんか。今 後は南北対話だけでなく、国連の場で皆の前で対話を続けて欲しいものですね」 と述べた。中国の友人はニコニコした。忖度するに、肩の荷が下りたように、 ホッとしたのではないか。この会議で、中国代表の北朝鮮寄りの姿勢は明確で あり、韓国側から抗議が出たほどである。中国側は北朝鮮との内輪の対話にお いては、北朝鮮の頑なな態度を批判し、国際的孤立を避けるように説得を続け たはずである。しかし、国際舞台では、韓国が単独加盟のための多数派工作を 行い、北朝鮮をいっそう孤立に追い込むような態度に明らさまな不快感を示し ていた。いずれにせよ、ここで舞台は一つ回った。こうして日朝正常化交渉の 意義はますます深いものになりつつある。

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政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 7 月 15 日 最近、第一四回党大会の九二年六月繰上げ開催説が有力になってきた。ポスト 鄧小平体制を固めようとする江沢民ら改革派とそれに抵抗する李鵬ら保守派の 権力闘争はいよいよ熾烈である。 二月一五日春節、上海党委員会機関紙『解放日報』に皇甫平署名「改革開放の 導きの羊 たれ」と題する評論が載った。皇甫平とは、上海市党委宣伝部執 筆グループの筆名。その一人は周瑞金で最近香港『大公報』副社長兼編集長に 起用された。周瑞金は朱鎔基に重用されていた記者で、これは鄧小平の「上海 談話」を解説したもの。筆名は上海の代名詞である黄埔江と鄧小平にちなむ。 ここから鄧小平──江沢民・朱鎔基──皇甫平の人脈が浮かび上がる。三月二 日付『解放日報』は「改革開放には新思考をもつべき」と題する皇甫平第二評 論を掲げ、計画と市場の関係を対立させる考え方を「新たな思想的停滞」と断 じた。計画と市場についてこう述べている。「一部の同志は計画経済=社会主 義経済、市場経済=資本主義経済とすることに慣れ、市場調節の背後に資本主 義の幽霊が必ず隠れているとみなしている」「ますます多くの同志が、計画と 市場は単に資源配置の二つの手段、形式にすぎないのであって、社会主義と資 本主義を区分するメルクマールではないことを理解し始めた。資本主義に計画 はあるし、社会主義に市場がある」「社会主義商品経済と社会主義市場を発展 させることを資本主義と単純に同一視し、市場調節といえば資本主義だとみな してはならない。外資の利用と自力更生とを対立させ、外資利用の問題で小心 翼々であってはならない」。「計画と市場」を「資源配置の手段、形式にすぎ ない」と断定したのは、大胆な主張であり、七中全会公報にいう「〔体制とし ての〕計画経済と〔方法としての〕市場調節の結合」論を一歩踏み越えたもの。 おそらく鄧小平の言葉そのものであり、俗に「新猫論」ともいわれる。 この評論が発表されるや、保守派の牛耳る中央宣伝部は早速調査に乗り出した。 黒幕が鄧小平であり、評論の多くの部分が鄧小平語録であることを了解した後 で、なおかつ皇甫平論評の批判を図り、「ブルジョア自由化反対」が欠けてい ると非難した。 三月二二日皇甫平は「開放拡大の意識をさらに強めよ」として、外資導入にか かわるさまざまの保守派思想を系統的に批判した。これは名指しは避けたもの の事実上、何新 対談 (『人民日報』九〇年一二月一日)の基調を論駁した

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