2009 年4月 27 日放送
糖尿病診療における早期からの厳格血糖コントロールの重要性
東京大学大学院 医学系研究科 糖尿病・代謝内科 教授
門脇 孝 先生
平成 19 年 糖尿病実態調査 わが国では、生活習慣の欧米化によ り糖 尿病患者の数 が急増し ており、 2007 年度の糖尿病実態調査では、糖尿 病が強く疑われる方は 890 万人、糖尿 病の可能性が否定できない方は 1,320 万人と推定されました。両者を合計す ると 2,210 万人の方が、糖尿病に罹患 しているか、その予備群ということに なります。また、890 万人という糖尿病 の推定患者数を、今から 50 数年前の 1955 年と比べると、35 倍にもなります。わが国における糖尿病と合併症発症の病態と実態 糖尿病では、高血糖状態が慢性的に継続するため、細小血管が障害され、腎臓、網膜、 神経などの臓器に障害が起こります。糖尿病性の腎症、網膜症、神経障害の3つを、糖尿 病の三大合併症といいます。 糖尿病腎症は進行すると腎不全に至り、透析を余儀なくされますが、糖尿病腎症を原因 に透析を新規に導入される患者数は毎年16,000 人にものぼり、透析の最大の原因疾患とな っています。一方、糖尿病網膜症は後天的失明の原因として、緑内障に次いで第2位を占 めます。また、神経障害が進行すると、足の壊死を起こし、年間に 3,000 例以上の方が下 肢切断に至るといわれています。 また、糖尿病では動脈硬化が進行して、大血管にも障害が起こりやすくなり、心筋梗塞 や脳卒中など、発症すれば直接死亡する危険性のある大血管障害の危険率も上昇します。 わが国の2型糖尿病患者を対象とした臨床試験JDCS では、1,000 人の糖尿病患者を1年間 観察した場合の心血管イベントの発症 数が16.7 例と一般集団に比して著しく 高く、欧米の状況に近いことが明らか になりました。 また、糖尿病は自覚症状が乏しく、 糖尿病の合併症も進行するまで自覚症 状がほとんどないのが特徴です。目に 見えないところで血管の動脈硬化が進 行して、合併症を発症しやすくなって いることを十分にご理解下さい。 日本人糖尿病の死因統計 1990 年代に日本人の糖尿病患者を対 象に死因を調べた調査では、最も多い のは悪性新生物(がん)で 34.1%、次 が血管障害で 26.8%、3番目が感染症 でした。このことから、糖尿病患者の 死亡率を抑制するためには、動脈硬化 の進行を防ぎ、大血管障害の発症率を 低下させることが非常に重要であるこ とが分かります。
糖尿病患者の寿命 糖尿病患者は一般集団に比べて平均 寿命が短いことが知られています。わ が国の全国調査によれば、男性では9.6 歳、女性では13.0 歳、平均寿命が短か ったと報告されています。 糖尿病治療の目標 このように糖尿病患者は、透析や失明、下肢切断などの日常生活の質、いわゆるQOL を 損なう合併症を生じる危険率が高く、心筋梗塞や脳卒中など生命に危険をおよぼす合併症 も起こりやすくなります。また先ほど示したように、糖尿病患者の寿命は一般集団に比べ 短くなっています。そのため、糖尿病治療の目標は、糖尿病患者が健康な人と変わらない QOL を維持し、健康な人と変わらない 寿命を確保することとなります。この 目標を達成するためには、腎症、網膜 症、神経障害といった細小血管合併症 や、心筋梗塞や脳卒中といった大血管 合併症の発症を防ぎ、進展を抑制する ことが重要です。具体的な治療の目標 は、血糖を良好にコントロールするこ とを基本として、血圧、血清脂質、体 重などを統合的にコントロールするこ とになります。
HbA1c 値:主要臨床試験における従来療法と強化療法との比較 これまでにも多くの糖尿病患者を対象とした大規模臨床試験が実施され、従来よりも厳 格な血糖降下療法を行って血糖を低下 させることの意義が検討されてきまし た。例えば、1型糖尿病患者さんを対 象とした米国のDCCT 試験、2型糖尿 病 患 者 さ ん を 対 象 と し た わ が 国 の Kumamoto Study、英国の UKPDS 試 験の結果では、強化療法を行うことで、 血糖コントロールの指標であるHbA1c が従来療法群に比べて、長期間にわた り低いというデータが示されました。 良好な血糖コントロール(HbA1c 低値)は合併症を抑制する これらの臨床試験では、血糖コントロールの指標であるHbA1c 値を低く維持することに よって、糖尿病合併症の危険率を低下させることができました。例えば米国のDCCT 試験 では、HbA1c 値は標準療法群の 9%に比べて強化療法群では 7%と低下し、糖尿病合併症の 相対危険率は網膜症では 63%、腎症で は54%、神経障害では 60%、それぞれ 統計学的に有意に低下しました。同様 の 結 果 は Kumamoto Study や UKPDS でも得られています。一方、心 筋梗塞や脳卒中といった大血管障害の 発症リスクは、強化療法を行うことで 低下する傾向は認められたものの有意 差は認められず、強化療法が大血管障 害を抑制するかどうか、明確な結論は この時点では得られませんでした。
糖尿病治療の指標 さて、日本糖尿病学会では、こうした大規模臨床試験などの結果に基づいて、血糖コン トロールの目標値を設定しています。一般に、糖尿病の診療では、血糖コントロールの指 標としてHbA1c 値と血糖値が用いられ ており、HbA1c 値については、5.8%未 満が優、5.8%以上 6.5%未満が良、6.5% 以上 7.0%未満が可ではあるが不十分、 7.0%以上 8.0%未満が可ではあるが不 良、8.0%以上は不可と設定されていま す。 また、血糖値については、空腹時血 糖値と食後2時間血糖値の基準値が設 定されています。 DECODE Study:空腹時および2時間血糖値別の死亡の危険率 血糖コントロールの血糖値の指標には、空腹時血糖値と食後血糖値がありますが、どち らの方が死亡の危険率との関連性が高いのでしょうか。 DECODE Study は欧州を中心として行われた大規模疫学研究で、糖尿病患者を一部含む 2万名以上を対象とし、空腹時血糖値、75g経口グルコース負荷2時間後の血糖値が、死 亡の危険率に及ぼす影響を前向きに検討した試験です。結果として、空腹時血糖値、負荷 後2時間値のどちらも、上昇するに従 って死亡の危険率は上昇しましたが、 空腹時血糖値よりも負荷後2時間血糖 値の方が死亡の危険率との関連性が強 いことが明らかにされました。つまり、 非糖尿病患者を主体とした集団では、 空腹時血糖値が高い方でも食後血糖値 が低ければ死亡の危険率はそれほど上 昇しませんが、空腹時血糖値が低い方 でも食後血糖値が高い方では死亡の危 険率が高いということになります。
IDF 食後血糖管理に関するガイドライン こうした知見に基づいて、国際糖尿病連合(IDF)では、2007 年 9 月に、食後血糖値管 理に関するガイドラインを作成、発表しました。そこでは、食後および負荷後高血糖は心 血管のリスクに強く関連していること、 最適な血糖値管理には、HbA1c 値にか かわらず、食後および空腹時血糖値の 両方を管理することが推奨されていま す。実際には空腹時血糖値に加えて食 後2時間血糖値を定期的に測定して、 食後2時間血糖値 140mg/dL 未満を達 成することが、実地臨床における治療 の目標とすることが推奨されています。 日本糖尿病学会でも、こうした知見に基づいて、空腹時血糖値および食後2時間血糖値 の管理基準を設定しています。心血管のリスクとの関連性が強い食後血糖値については2 時間値の指標として、80mg/dL 以上 140mg/dL 未満は優、140mg/dL 以上 180mg/dL 未満 は良、180mg/dL 以上 220mg/dL 未満は可、220mg/dL 以上は不可と設定されています。 UKPDS 目的と対象 先ほどご紹介した英国の大規模臨床試験 UKPDS では、強化療法を行うことによって、 細小血管合併症は抑制できましたが、 大血管障害を抑制できるかどうかは明 確には示すことができませんでした。 1997 年に本試験が終了した後にも、強 化療法による血糖コントロールの改善 が、長期にわたる大血管障害の危険率 に好影響を及ぼすかどうかが、追跡調 査を行って検討されました。対象は、 UKPDS に参加した 4,209 例のうち 3,277 例です。
HbA1c 値の変化 UKPDS 追跡調査における HbA1c 値 の推移は、従来療法を受けた患者群と 強化療法を受けた患者群では、試験終 了時にはHbA1c 値に統計学的な有意差 がありましたが、その差は次第に縮小 し、試験終了1年後には有意差が消失 していました。 厳格血糖コントロールの長期効果 しかし、イベント発生の危険率を2007 年まで追跡したところ、本試験終了時に強化療法 群の優位性が認められた糖尿病関連イベントおよび細小血管合併症の発症リスクの抑制効 果は維持され、本試験終了時には強化療法の優位性が確認できなかった心筋梗塞や全死亡 にも、10 年間追跡することで、有意な 発症リスクの抑制効果が認められるよ うになりました。 こ の こ と か ら 、強 化 療法 を 行 っ て HbA1c 値を早期から厳格にコントロー ルすると、大血管合併症や全死亡の抑 制効果は、発現までに時間を要するも のの、次第に顕在化することすなわち legacy effect(遺産効果)のあることが 示唆されました。
危険因子のコントロール指標 また、最近では、血糖コントロールに加えて、高血圧、脂質代謝異常、肥満や喫煙など の危険因子を統合的に管理することで、 糖尿病の合併症が発症、進行する危険 率を効率よく抑制できることが明らか になっています。そのため日本糖尿病 学会でも、各危険因子に管理目標値を 設定して、危険因子の管理を推奨して います。しかし、危険因子の管理状況 は十分とは言いがたいレベルにありま す。さらに厳格な管理を行うことによ って、糖尿病合併症の発症をより低く 抑制できる可能性が考えられます。 J-DOIT3 こうした知見を背景に、わが国でも2型糖尿病患者を対象に、危険因子を積極的かつ統 合的に管理する強化療法の有用性を検討する臨床試験、J-DOIT3 が進行中です。J-DOIT3 は、高血圧または脂質異常を伴う2型糖尿病患者を対象に、現在の診療ガイドラインが推 奨する管理目標値の達成を目指す従来療法と、さらに厳格な管理目標値の達成を目指す強 化療法の有効性を比較検討する試験です。従来療法の管理目標値は HbA1c 6.5%未満、血 圧 130/80mmHg 未満、血清 LDL-C 120mg/dL 未満、一方、強化療法群の管 理目標値は HbA1c 5.8%未満、血圧 120/75mmHg 未 満 、 血 清 LDL-C 80mg/dL 未満に設定され、イベント抑 制効果が4年間にわたり比較検討され ます。一次エンドポイントは死亡、心 筋梗塞または脳卒中で、3年間で相対 危険率を30%低下させることが目標で す。
血管合併症抑制のためのJ-DOIT3 の治療戦略 J-DOIT3 では血管合併症を抑制するために、次のような治療戦略をとっています。まず は生活習慣介入と自己管理をベースにした糖尿病治療、そして UKPDS で示唆されたよう に早期からの厳格血糖コントロールです。 またACCORD 試験では、急速な血糖降下療法は、重篤な低血糖や体重の増加、高インス リン血症を引き起こし、とくに2次予防群において交感神経の緊張や動脈硬化の進行を促 進させて、死亡を増加させた可能性があることが示唆されました。そこで J-DOIT3 では、 重症患者の低血糖リスクを最小限に抑 えながら良好な血糖コントロールを実 現すること、肥満や高インスリン血症 を起こさない血糖コントロールを実現 することを目指しています。 J-DOIT3 の結果から、日本人の2型 糖尿病患者において、血糖、血圧、脂 質の値を積極的かつ統合的にコントロ ールする強化療法の有用性が明らかに されるものと思われます。 まとめ 糖尿病患者は年々増加しており、糖尿病合併症は生命や患者のQOL を損なうリスクを伴 います。糖尿病患者の死因は血管障害に関連するものが多いため、大血管障害を抑制する ことが死亡率の低下につながると考えられます。また、食後高血糖は大血管障害の重要な リスクファクターであることが明らかにされました。さらに、早期から厳格な血糖コント ロールを長期にわたり行うことで、細小血管障害だけでなく、大血管障害の進展を遅らせ うることが示されました。こうした知見を踏まえ、J-DOIT3 では、血糖、血圧、脂質管理 をすすめる統合的な糖尿病治療に関するエビデンスの確立を目指しています。 糖尿病の診療では、糖尿病患者のQOL、寿命を健常な方と変わらないレベルに保つため に、低血糖に注意しながら早期からの厳格な血糖コントロールを基本として、血圧、血清 脂質、体重などを統合的に管理することが重要です。