巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題
〔一〕
千 ち 歳 とせ も の 齢 よわい を 閲 けみ し た 柏 かしわ や 橅 ぶな の 雪 の 降 り 積 も っ た 梢 こずえ を、 嵐 が 凄 すさ ま じ い 勢 い で 轟 轟 と 揺 り 動 か し た の で、 雪 と ぎ ざ ぎ ざ の 氷 塊 が 半 ば 凍 り つ い た 地 面 に 音 を 立 て て 落 下 し た。 飢 え た 大 鴉 や 中 鴉 は 嗄 しわが れ た 啼 な き 声 を 挙 げ な が ら 霧 に 包 ま れた叢林を飛び過ぎて行き、 馴 となかい 鹿 は (( ( 乏しい苔を 食 は んで命を繋ごうと、四苦八苦して雪を掻き退け、水 牛 (( ( は唸りながら 太古からの森林をうろつき回り、頑丈な樹の幹で小さな角の先端を磨くのだった。 巨 リ ー ゼ 人 ア (( ( タフル フ (( ( は道なき道を辿り、 鬱鬱として茂みを押し分けていた。悪夢に駆り立てられ、柔らかな熊皮の寝床から飛び出したのである。貞節な妻の トゥッ ク (( ( も、花も盛りの青春に光り輝いている愛らしい娘のエーギ ル (( ( も彼の 暗 あんたん 澹 たる不機嫌を払い除けることができ なかった。アース神 族 (( ( の神意により彼の家系の滅亡が決定されたのであり、それが夢の中で告げられたのである。ア タフルフが荒涼たる道に踏み迷っているのはそのせいだった。彼は小径の行く手を塞ぐ藪や若木をかっかとしながら 巨大な棍棒で 薙 な ぎ倒した。霧の 面 ヴェール 紗 はますます深く垂れ込め、周囲は暗く、踏破しにくくなる一方。彼は既に森の中巨人の匙
──ある
昔
メルヒェン話
ルートヴィヒ・ベヒシュタイン
著
鈴木滿
訳・注・解題
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 で一夜を明かそうと覚悟していた。見透かすことのできない闇のせいで己が巖の 宮 みや 居 い へ帰る道を見つけ出せなかった か ら で あ る。 そ こ で 野 宿 に よ さ そ う な 塒 ねぐら を 捜 そ う と し た と こ ろ、 霧 を 通 し て 遥 か な 明 か り が 血 紅 色 に ま た た く の が 見えた。なんとも心決めかねるまま、彼はただぼうっとそちらへ足を運んで行った。辺りは前より明るくなった。彼 が行き着いたのは洞窟の入り口で、火が燃えているのはその中。奥へ踏み込もうとした時、くぐもった声が洞窟の 裡 うち から響いて来た。 「スヴィンダの住まいにあえて近づくは 誰 た そ。 巨人の乙女の 安 やすらぎ 息 を乱すは誰そ。 恥知らずには罰を、罰と死とを」 。 巨人は中へと叫んだ。 「な 憤 いきどお りそ、乙女 子 ご よ、 焔にて照らし廻れる、オーディ ン (( ( の 巫 み こ 女 殿、 恐れを知らぬ旅人に、一夜の宿りを許されよ」 。 すると 明 あかあか 明 と照らされている巌穴の中から再び声が聞こえた。 「 宿 ら れ る が よ い、 恐 れ を 知 ら ぬ 旅 人 殿 」 と。 長 い 通 路 を 背 を 屈 め、 ア タ フ ル フ は 火 を 目 指 し て 歩 い て 行 っ た。 洞
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 窟は壮大で 広 こうかつ 豁 、高い腰掛に座を占めているのは一人の乙女で、全てを探り出す女神ヴェ ル (( ( のように 炯 けいけい 炯 たる眼差し、 鼻息荒い翼ある駒にまたがり、ごったがえす戦闘の真っ只中に突入、勇猛果敢なつわものどもが天晴れな討ち死にを 恐 れ ぬ よ う 妖 し い 蠱 こ 惑 わく で 鼓 舞 し て 廻 り、 そ れ か ら 彼 ら を ヴ ァ ル ハ ラ ((( ( で の 戦 遊 び と 勝 利 の 宴 うたげ に 連 れ て 行 く ヴ ァ ル キ ュ リエた ち ((( ( のごとき美貌。 火と乙女の 高 たか 御 み 座 くら のぐるりには環状に 髑 どく 髏 ろ と骨が奇妙な形に組み合わされて置かれ、幾つもの大きな、岩で刻まれ た卓にはルーネ文 字 ((( ( の神秘な印が彫り込まれていた。スヴィンダが呪文とルーネの 真 しんごん 言 を小声で唱えると、環になっ た 形 は ぴ く ぴ く と 蠢 うごめ い た か の よ う に 思 わ れ、 火 炎 は 彼 女 に 向 か っ て 低 く 靡 なび い た。 焔 の 上 に 掛 か っ て い る 釜 の 中 身 を 彼 女 は ゆ っ く り 掻 き 回 し た。 高 く 立 ち 昇 っ た 湯 気 は 不 可 思 議 な 形 に な る。 ア タ フ ル フ は み じ ろ ぎ も せ ず、 あ る い は 妖 ト ゥ ル ー テ 女 を ((( ( 、 あ る い は 釜 を 凝 視 し 続 け た。 と、 突 然 沸 騰 が 鎮 ま り、 焔 は 洞 窟 の 広 豁 な 空 間 を 皓 こう 皓 こう と 照 ら し な が ら、 一 層 明るく燃え上がった。スヴィンダは腰掛からすっくと立ち上がった。アタフルフは彼女が自分と同じ身の丈なのを知 ってはっと驚いた。波打つ金髪の巻き毛は 厳 いか めしい長身に沿ってさっと垂れ下がり、頭上には冠が輝き、片手に今ま で釜を掻き混ぜていた石の大きな匙を持っている。釜の中を覗くように、と乙女は身振りで指図し、巨人はこれに従 っ た。 が、 魔 法 の 釜 の 中 身 を 一 目 見 遣 っ た 途 端、 仰 天 し た ア タ フ ル フ は 戦 おのの い て 後 ず さ っ た。 彼 が 見 た の は 頭 を 打 ち 砕かれた血まみれの若者の姿。しかし、その面立ちをしかと目に捉えぬうちに、それは消え失せてしまった。 また別の映像が愕然としている男に示された。 摩 ま か 訶 不思議な光が周囲を囲んで流れている真ん中に 屹 きつりつ 立 している高 く美しい城館だが、これまたすぐさま 瓦 が 礫 れき の山と崩れ去った。 それから彼が見たのは、どこかの湖でざざあんと高浪のどよめく様子。もの優しい、しかし血に染まり、髪を振り 乱した女性が、荒れ狂ううねりと闘っていた。もっと近くでつらつら眺めようと、深深と背を屈めたが、その前に女
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 性は暗黒の深淵へ沈んでいた。それからもやもやと濁ったかと思うと、釜の中は澄んだ液体となり、またしても沸き 立った。 ス ヴ ィ ン ダ は 峻 厳 な お も も ち で 巨 人 に 向 き 直 り、 珊 さん 瑚 ご の 唇 を 開 い て こ う 言 っ た。 「 ア タ フ ル フ、 私 は そ な た を 知 っ ている。されどそなたは私と二度と会うことはあるまい。この魔法の釜の裡に見たものを、そなたはもう一度現実に 目の当たりにしよう。して、見なかったことが、そなたの 末 まつ 期 ご に起こるであろう。巫女に顕わに示さるるは至極僅か なことどもに過ぎぬ。──我らの別れの時が来た。家までそなたの供をする 案 あ な い じ ゃ 内者 を付けて進ぜよう。したが、この 者を怒らせぬよう心せよ」 。 「 ウ ン コ ー ((( ( 」 と 乙 女 が 呼 べ ば、 洞 窟 の 奥 おく 処 ど か ら 這 い 出 し て 来 た の は 侏 し ゅ じ ゅ 儒 の よ う な 変 へん 化 げ で、 火 を 噴 く よ う な 目 付 き を したこやつ、女主人の足許に平伏。スヴィンダは毛むくじゃらのその背中をかの匙で優しくこすってやり、いくらか そちらへ身をこごめて、なんとも知れぬ数語を小声で呟くと、再びアタフルフの方を向き、重い匙を力強い右手で軽 い木切れのように振ってひょいと渡し、そうしながら告げた。 「そなたにルーネが与えるものを受け取るがよい、 その名こそフングロ フ ((( ( なれ、けだし巨人を 殪 たお すもの。 食事の折には喜びの元、 闘う時には武器たらん」 。 こうしたこと全てに心乱され、黙りこくって佇んでいたアタフルフは匙を受け取り、礼を述べかつ更に仔細を訊ね
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 んものと口を開けかけたが、その時火がぱっと消え、乙女の姿も消え失せて、ぐるり一円真の闇。暗黒の中そこいら じゅうでぎざぎざの岩角に突き当たったり、固い髑髏を踏み潰したりしてから漸く、前をのそのそ進んでいるウンコ ー の ぎ ら つ く 両 眼 だ け が 洞 窟 の 出 口 を 教 え て く れ た。 熊 も ど き の 地 の 精 ((( ( は 終 始 ど た ど た と 歩 き 続 け、 真 っ 暗 な、 常 キ ン メ リ ア 闇の国 の ((( ( 夜を照らす星も月明もない。なぜなら、太古の巨人時代には 永 とこしえ 久 の霧が踏み越えられぬ原生林を蔽ってい たからである。アタフルフは黙黙と随いて行った。洞窟へ戻る道を憶えようと努めたが徒労だった。巨人の足が雪の 中 に 残 す 深 い 痕 跡 は 凄 すさま ま じ い 勢 い で 押 し 寄 せ て 来 る 疾 風 に す ぐ に 吹 き 払 わ れ て し ま っ た。 歩 き 辛 い 小 径 は 果 て し な かった。巨人は、案内の妖怪が自分を 稲 ジ グ ザ グ 妻型 に引き回し、朝が訪れるまで嘲弄しようとしているような気がした。怒 りに燃えた彼はずかずかと大股で後を追い、手が届くと思った瞬間、匙を大上段に振りかぶり、法外な 苛 いら 立 だ ちに駆ら れるまま、強烈な必殺の一撃をウンコー目掛けて打ち下ろした。すると怪物は振り向きもせず、矢のような速さで茂 みに跳び込み、 唸 うな るような声で明らかにこう告げた。 「その名こそフングロフなれ、けだし巨人を殪すもの。 そが 脅 おびや かすは、 嫉 ナイトハルト み屋 よ ((( ( 、そなた自身に ほ かならぬ」 。 アタフルフは荒荒しく藪を打ち叩いた。藪はその激しい打撃に遭ってずたずたにされた。が、ウンコーは消え失せ ていた。 彼は己が宮居の戸口に立っていたのである。
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号
〔二〕
巨人にして強大な魔法使いであるフロ ト ((( ( の息子インゴ マー ル ((( ( はもう長いことひそかにアタフルフの美しい娘エーギ ルに想いを懸けていた。しかし父たちは、近所同士のくせに、遥か以前から憎みあっていたので、恋い慕うインゴ マ ールの切なる願いが成就する見通しは金輪際ありえない。 この 巨 ヒューネ 人 の ((( ( 子は端麗なること、 怯 お めず臆さず敵に立ち向かい、狂猛な闘いの口火を切るオーディンの実子テュー ル ((( ( のごとく、強健にして 潑 はつらつ 溂 たること、雷神の息子ウラ ー ((( ( さながら。彼に弓を引き絞ることを教えたのは戦の場自体。 その父が住んでいる丘から、アタフルフの水晶の城──その館には最愛の者が隠されているわけだが──が立ってい る隣の山まで、彼は一ツェントナ ー ((( ( もの目方がある岩塊を楽楽と投げることができた。地底深くの洞窟で暗黒の魔術 に耽り、おぞましい目的のために自然の深奥の秘密を 孜 し し 孜 として探求している父親を尻目に、こちらは森や野原を余 念なく 彷 さ ま よ 徨 い、その剛毅な腕で巨大な 牡 エーバー 猪 や猛猛しい熊を少なからず仕留めたし、その矢が、このうえもなく高い巖 頭に巣食っている堂堂たる鷲に的中することもしばしば。 隣り合っている二つの山の間に一つの泉が湧き出していた。澄んだ水の 迸 ほとばし るさまはあたかも、全世界にその枝を 拡げるかの 梣 とねりこ のユグドラシ ル ((( ( の根元にある ミ ミ ー メ ル ボ ル ン ーミルの泉 の ((( ( よう。エーギルはしばしば聖なる柏の木木の影に覆われ ているこの泉にやって来て、神聖な蔭の中の、緑滴るふくふくした苔の上で憩うのだった。──彼女は満ち足りた思 いで、乱されず、濁ることなく、自分のこよなく麗しい姿を映してくれる水晶のような水面を覗き込んだもの。 イン ゴ マールもまたしげしげとこの寂しい噴泉へと来たが、それは可愛いエーギルを眺めんがため。しかし言葉を 掛ける勇気などなく、いつも身を潜める藪の中から清らかな乙女に純情な視線を投げるのみ。ある時エーギルはいつ巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 もの刻限に柏の聖林を訪れ、その下に立ち、小さな片手を花も盛りのかんばせに当て、物思わしげに澄んだ水面に見 入っていた。すると、自分が佇んでいる柏の木の近く、遠からぬところにだれかがいるのを清らかな鏡面に認めたの で あ る。 こ の き り り と し た 容 貌 の 主 は 姿 を 現 し た か と 思 う と、 揺 れ 動 く 榛 の 木 の 茂 み に 隠 れ た り す る の だ っ た。 生 き 娘 むすめ ら し く 恥 ら っ て 周 り を 見 回 し た エ ー ギ ル は び っ く り 仰 天 し た。 だ っ て、 こ こ に い る の は 自 分 独 り と 思 い 込 ん で い たのに、金髪の巻き毛の丈高い青年が、こちらへ歩み寄って来たのだもの。彼女は逃げようとしたが、若者は甘い声 音で懇願した。その声はこれまで一度も耳にしたことのない ほ ど快い響きで、その顔はなんとも端麗。誠実で碧い目 はその口よりも彼の気持ちを物語っていた。目にはそれと留まらぬシェブ ン ((( ( が二人の上に漂い、春の目覚めの無上の 歓喜を少女の無垢な胸の裡に呼び覚ました。そこはこれまで淑やかな貞潔の女神ゲヴィウ ン ((( ( が 治 し ろしめしており、ス ノト ラ ((( ( が淑徳と無垢という薔薇の 面 ヴェール 紗 で包んでいたところ。イン ゴ マールはおずおずと自らの恋の 経 ゆくたて 緯 を、つまり、 あまたたびここで彼女を待ちもうけていた、とか、姿を見て嬉しくてたまらなかった、とか、麗しい容姿がどんなに 深く心に刻み込まれたことか、とかを、とつとつと打ち明けた。 エーギルはこれまで恋なんぞ一度もしたことはなかったし、こうした若者を目の当たりにしたこともなかった。そ れでもやはり、夏ともなれば、泉のせせらぎに耳を傾ける折節、林に鳥たちの歌声が響き渡り、花花が嬉しそうに辺 り一面咲き匂うたび、遣る瀬無いひそかな物思いで心がいつも一杯になった。近くにいられても煩わしくないだれか が欲しいなあ、と願ったもの。なにせ女友だちは一人もおらず、家庭となると、専横に取り仕切る母親、乱暴でがさ つな父しか知らないわけ。時時訪れる父親の仲間と来たらどれもこれも父同様粗野で陰気な御仁ばかり。だからこの 綺麗で親しみ深い青年を好きで堪らなくなったのは当然というもの。でも彼女は臆病になって後ずさり、急いでおう ちへ帰りたくなった。が、灼熱の初恋に身を焼くインゴ マールはエーギルをぎゅっと抱き締めて、また戻って来ます、
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 と彼女が誓うまで、 渝 かわ らぬ恋の証として無上に甘美な 接 くちづけ 吻 をしてもらうまで、離そうとはしなかった。 さてそれからというものは、エーギルはいや増して足繁く泉に通うようになったし、恋人は早くもそこで待ち焦が れていた。二人は腰を下ろすなり互いにひしと抱き合い、林の歌鳥たちの啼き 音 ね に聴き入り、香り高い花花を楽しん だ。両人が何を囁き合ったか、言い伝えは語っていない。さはさりながら、すてきな乙女は若者にとってますます可 憐な存在となり、エーギルもまた逞しいインゴ マールをますます愛しく思うようになった。 ある時二人はひっそりと水入らずで清らかな恋の至福の 幾 いくとき 刻 かを楽しみ、 信 ま こ と 実 の相思相愛のうちに、この 現 うつせみのよ 世 で 既にヴァルハラの歓喜を見出したもの。そしてとうとうインゴ マールは大事な 女 ひと に、自分が相手の父の仇敵の息子だ、 と打ち明けた。それから彼らは、父親同士の 敵 てきがいしん 愾心 を和らげる手立てを全て試みてみよう、もしそれが叶わなければ、 びくびくせずに愛の幸せを差し障りなく味わえるような、どこか遠いところに駆け落ちしよう、と語り合った。別れ の時が来て、インゴ マールは山の麓まで恋人を送って行った。身を隠してくれた茂みから歩み出た二人は、長いこと 名 な 残 ごり の接吻を交わして渝らぬ愛を誓った。インゴ マールが茂みに戻るのをなおもぐずぐずためらっていると、巨大な 巖の塊がぶうんと落ち掛かり、青春の只中にある端麗なインゴ マールは頭をぐしゃぐしゃに砕かれ、血みどろになっ て、一言も発することなく、身をこわばらせたエーギルの足許に倒れ伏した。同時に彼女の父の恐ろしい 雄 お 叫 たけ びが、 雷鳴のように山山に 谺 こだま したのである。──この暴れ者は居城のある山の頂きから、どこぞの若者が 愛 まな 娘 むすめ を抱き締め ているのを目にし、それが不倶戴天の隣人の息子であることを鷲のように鋭い眼力で見届けるやいなや、破廉恥なな らず者に娘が襲われているもの、と思い込んで激怒、若者の頭目掛け、逞しい、狙い逸らさぬ手から致命的な 飛 つ ぶ て 礫 を 投げたわけ。──彼はどっと駆け寄ると、震え戦くエーギルを荒荒しくぐいぐい引っ張って己が住まいへと無理やり 連れて行った。
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 イン ゴ マールの父フロトは邪悪な企みを胸に育みながら専用の魔術部屋に座っていた。これは住まいの下、大地の 胎内深くに、 穹 きゅうりゅう 窿 状にしつらえたもの。灼熱した炭がぱちぱちと音を立てて彼の周囲に火花を飛び散らせていた。 鋭利に仕上げているのは彼の発明になる道具である青銅の 剣 つるぎ 。それと言うのも、巨人たちはその頃まだ巨大な棍棒、 遠くの的に当たる弓、石製の戦斧しか知らなかったからである。と、その時、アタフルフの怒り狂ったわめき声が地 底の彼の許まで響いて来た。仇敵の声音はよくよく心得ている。フロトは上へ昇って行き、家の一番高い尖塔から敵 の 棲 すみ 処 か を見遣った。陰鬱な眼差しを更に下へと向けて行くと──なんと、一人息子の亡骸が目に留まったのだ。最初 の、恐ろしい驚愕の一瞬に続いて、凄まじい憤怒が沸き起こり、誰が犯人か即座に推し量るなり、彼は愛する死者が 横たわっている泉へ突進、家へ運び込むと、できる限りの手立てを講じて、打ち殺された息子に活気溢れる生命を呼 び戻そうとした。しかし、何もかも実を結ばぬ。そこで彼は無量の苦悩に浸り、息子の殺害者である不倶戴天の仇敵 への復讐を、燃え立つ復讐を、邪神ロ キ ((( ( の娘ヘ ル ((( ( ──全大地を締め付けている蛇ヨルムンガン ド ((( ( のはらから──に懸 け て 誓 っ た。 ヘ ル の 宮 居 で あ る 暗 黒 の ニ フ ル ヘ イ ム に は、 苦 痛、 困 窮、 お よ び 人 の 族 うから の あ り と あ ら ゆ る 災 厄 が 棲 ん でいて、ヘルはこれら全てを支配しているのだ。 アタフルフは輝く石灰石の我が家に安閑として寝そべり、満足しきってエーギルを眺めていた。彼女はひっそりと 恋人を哀悼しており、そのため父親の目には一層たおやかな風情だった。アタフルフは貞節な妻のトゥックが用意し てくれた食事を賞味しているところで、フロトが早くも息子の死を発見し、自分を殺害者だと看做すことなど、恐れ てはいなかった。力量でも体の大きさでも敵に引けは取らないのだ。ただし、魔法使いの超自然的な術は避けねばな ら な い の で、 賢 く 立 ち 回 っ て 相 手 と 決 し て 出 く わ さ な い よ う 用 心 し て い た。 今 彼 は、 エ ー ギ ル と ト ゥ ッ ク を 傍 かたえ に、 巨大な 石 いしぶね 槽 を前に横臥し、 妖 トゥルーテ 女 であるかの乙女がくれた重い石の贈り物を現代の 羹 ポタージュ 汁 匙のように使って、槽になみ
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 な み と 湛 え ら れ た 野 牛 ((( ( の 肉 汁 を せ っ せ と 掬 すく っ て い た。 哀 れ な 娘 の 心 を 引 き 裂 い た 己 おのれ の 英 雄 的 偉 業 に ほ く そ え み な が ら。──その時三人の足の下で地面が振動、それがずんずん強くなり、壁に架かっている打ち倒された敵どもの頭蓋 骨ももろともに震え、落下して、部屋を転げ回った。邸の門が轟然と崩壊、ずしずしという大音響が空気を騒がせた。 さながら嵐の神ニヨル ド ((( ( が 颯 さつ 颯 さつ とざわめく翼で飛び回ると、天界の 礎 いしずえ すら揺らめくように。──そしてアタフルフ の 耳 を 劈 つんざ い た の は 下 男 が 挙 げ た 死 の 絶 叫 だ っ た。 彼 は 食 事 の 席 か ら 跳 び 起 き た。 こ の 瞬 間 し た た か な 足 蹴 を 受 け て 部屋の石の両扉が内側へ砕け落ち、アタフルフの前に進み出たのは、目を憤怒と復讐の狂気でぎらつかせている畏怖 すべきフロトで、恐ろしい魔法の物の具に身を固めている。頭の青銅の被り物を取り巻く互いに絡み合った三匹の蛇 は、敵に向かって舌の毒矢を突き出し、こちらが一瞬声を呑んで立ちすくむ隙に、荒れ狂うフロトのきらめく剣はト ゥックの 雪 ア ラ バ ス タ ー 華石膏 のような胸に深深と沈んだので、彼女は呻きながら崩折れた。その時アタフルフは逞しい両の手で ずっしり重い匙を大上段に振り上げ、凄まじい必殺の一撃を与えようとしたが、報復者の魔法使いはぞっとするよう な高笑いを挙げ、とてつもなく大きな盾を振りかざした。するとあのルーネ文字の洞窟にいた熊もどきの怪物が盾か ら電光のように燃える目で睨みつけ、 嗄 しゃが れ声で、あの時と同じことを語り始めた。 「その名こそフングロフなれ、けだし巨人を殪すもの──」 しかしアタフルフは言葉が終るのを待ちはせず、匙を両手から取り落とし、脇扉から 倉 そうこう 皇 として逃げ出した。フロ トは、血を流している母親の傍らにがっくりと膝を突いて泣いているエーギルをそのままに、床に落ちたフングリフ を摑むと、逃げ去る仇を猛然と追い掛けた。こちらはその間に盾と棍棒を手にし、追手と戸外の闘いで相まみえよう
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 とした。しかし、彼が振り向く前に、なんとも重い匙がうなじに命中したので、大声で吠えるなりずしんとぶっ倒れ た。荒涼とした巌頭に巣食っている鷲や禿鷹は悉く仰天し、ぎゃあぎゃあと啼きながら巣から飛び立った。アタフル フ が 倒 れ た 衝 撃 で 大 地 は 何 哩 マイル に も 亘 っ て 震 し ん か ん 撼 し、 か っ と 開 い た 巨 人 の 口 か ら 血 が 川 の よ う に 流 れ 出 し、 こ の 山 の 土 を紅く染めた。そして今日に至るまでなおそうなっている。 一方荒れ狂うフロトは自分が殺した男の棲み家に引き返した。そこでは、トゥックが死の痙攣に石灰岩を震わせな がら横たわっていたが、これに幾たびもしたたかに剣を浴びせて 止 とど めとし、縮こまっているエーギルを母親の亡骸か ら引き離し、巨人の家を全部めちゃめちゃに叩き壊し、山の一部を廃墟とこれらの 屍 しかばね の上に投げ捨てた。それから また、泉から程遠からぬ、息子が息絶えたあの場所の地中深く、例の匙を突き刺して永遠の記念碑とした。次に自分 の 住 む 山 の 高 処 か ら 薄 は っ こ う 倖 の 巨 人 の 娘 を 空 中 に 放 り 投 げ、 と あ る 小 さ な 湖 の 波 間 に 沈 め た。 波 は 泡 立 っ て 岸 辺 と い う 桎 しっこく 梏 を打ち砕き、周囲の平野を遥か彼方まで水浸しにしたのである。復讐の渇望も今は鎮まったフロトは、仕返しを 果たしてやったイン ゴ マールを、彼が倒れたその場所に埋葬したが、その後間もなく 懊 おうのう 悩 のあまり死んでしまい、暗 黒のニフルヘイムでヘルに迎えられた次第。 け れ ど、 相 思 相 愛 の 二 人 の 魂 は 優 し い、 こ よ な く 麗 し い 愛 の 女 神 フ レ イ ヤ ((( ( が 光 の 国 へ、 七 色 の 虹 ビフロスト の 橋 ((( ( を 渡 っ て 至福の神神の宮居なるアスガルドへ連れて行っ た ((( ( 。輝かしい光明と花咲き誇る春がこの愛らしい女神を取り巻いてい る。典雅と愛の魔法で身を飾った彼女の二人の娘ノッ サ ((( ( とゲレセ ミ ((( ( が連れ立ち、 黄 こ が ね 金 なす巻き毛の腹心の友フッ ラ ((( ( と、 侍女である暖かい友情の女神フリー ン ((( ( が扈従。女神の極まりない美しさ、優雅さ、温和さという黄金の陽光に乗って 先 払 い を す る の は、 使 い 女 め の グ ナ ー ((( ( で、 女 神 ら の 到 来 を ア ス ガ ル ド に 注 進 す る。 天 界 の 住 人 た ち は ヴ ァ ル ハ ラ の 血 腥 なまぐさ い戦士の宴をよそにして友情と愛の宮殿たるヴィーンゴ ール ヴ ((( ( へと飛んで行った。再び巡り合った恋人たちは、
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 歓びが治ろしめすグラドヘイ ム ((( ( に安着、グラゾー ア ((( ( なる林苑の黄金の木木の下、今は果てることのない恋を水入らず で楽しみながら、ふっくらした臥床でしばしば憩うのだった。 暗い森の洞窟の神秘な女スヴィンダは魔法使いフロトの妹だった。同じく魔法使いなのだが、彼女には更にもう一 つ、所持する魔法の釜の中で未来の秘密を覗かせるという能力があり、陰険な兄としめし合わせて、アタフルフの滅 亡に手を貸したのである。さりながら、かの巨人が殪れ、フロトが死に、それからだんだんに巨人族が没落して行く と、彼女は魔法の釜を泉の深処に沈 め ((( ( 、己が洞窟に引き籠り、二度と姿を現さなかった。さて、この釜だが、きらめ く青銅を満たして、後世しばしば水面に浮かび上がった、とのこと。もっとも、だれかがこれに手を差し伸べると、 さっと 水 みなそこ 底 に潜ってしまったそうだ。 この暗澹たる伝承はとうの昔に 湮 いんめつ 滅 したが、それでもあの晴れやかで清涼な泉から程遠からぬところに今なお丈の 高 い 石 が 立 っ て い て、 民 衆 は 老 い も 若 き も「 巨 リ ー ゼ ン レ ッ フ ェ ル 人 の 匙 」 ((( ( と 呼 ん で い る。 美 うま し 国 テ ュ ー リ ン ゲ ン を 旅 し、 物 見 遊 山 を したい、とご希望の向きは、アルンシュタッ ト ((( ( を抜けて北西方向、 ゴ ータへ通ずる道を行かれるとよろしい。すると、 こ ん も り と し た 高 処 に そ の 石 が 見 え る。 左 手 西 方 に は カ ル ク 山 ベルク が ((( ( 望 ま れ る。 ア タ フ ル フ が 石 の 堆 積 の 下 に 横 た わ っ て い る の は こ こ。 右 手 に は ア ー ル ン ス 山 ベルク が ((( ( あ る。 こ れ は ド イ ツ の び っ し り と 生 い 茂 っ た 叢 林 や 登 攀 で き な い 絶 壁 が まだ鷲たちの棲み家だった昔にはアーレン 山 ベルク と ((( ( 言ったもの。これらの山山には往古の住人の痕跡も見当たらないが、 ア ー ル ン ス 山 ベルク の 山 蔭 に は い ま だ に 小 さ い 池 と 草 原 が あ り、 こ れ ら を ぐ る っ と 取 り 巻 く 柳 の 古 木 が、 か つ て こ こ で 水 がざわめいていた証拠となっている。今はただそよぐ葦が西風に吹かれてさらさらと鳴るのみだが。これこそフロト が薄倖のエーギルを投げ込んだかの小さな湖で、今日なおここはエーギル 湖 ゼー 、 ((( ( あるいはエーゲル 湖 ゼー と ((( ( 呼ばれている。 アルンシュタットなる 聖 リープフラウエンキルヒェ 母 教 会 の正面入口の内側、石の 迫 ア ー チ 持 の上に取り付けられているいとも大きな肋材──
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 俗信によればある巨人の肋骨とされる(原注)──は、闇に包まれた太古に、より強大な種族が存在したことを証明 するものではなかろうか。さようなことはないにしても、創造性に富む 空 ファンタジー 想 はこうした無邪気な夢の数数に耽るの が 好 き で、 げ に も め で た き 昔 メ ル ヒ ェ ン 話 と ((( ( 妖 フ ェ 精 の 世 界 を 描 き 出 す 華 や か な 漆 フ レ ス コ 喰 壁 画 を 楽 し む の で あ る。 こ れ ら の 絵 は、 あ る いはもの凄くも恐ろしく、見る者を慄然とさせ、あるいは朗らかで優雅、親しみ深く 潑 はつらつ 溂 としたさまで、魔法の 角 ランタン 灯 [幻灯機 ] ((( ( の映像にも似て、楽しげにこもごも入れ替わりながら通り過ぎて行く。 原注 俗 信 に よ れ ば あ る 巨 人 の 肋 骨 と さ れ る 枢 密 顧 問 官 フ ォ ン・ ヘ ル バ ハ 氏 の 学 識 あ り 且 か つ 深 遠 な る 著 作『 古 き 聖 リ ー プ フ ラ ウ エ ン キ ル ヒ ェ 母 教 会 等 等 に 関 す る 報 告 』、 ア ル ン シ ュ タ ッ ト 刊、 二 六 ペ ー ジ を 参 照 の こ と。 Siehe des Herrn Hofrat von Hellbach gelehrtes und gründliches Werk: Nachricht von der
alten Lieben Frauenkirche etc. etc. : zu Arnstadt. Seite 26.
訳注 ( () 馴 と な か い 鹿 Renntier. 体 長 二 メ ー タ ー ほ ど。 雌 雄 と も に 角 を 持 つ が、 牝 の 角 は 小 さ い。 北 極 を 取 り 巻 く 地 域 に 広 く 分 布、 北 欧 や シ ベ リ ア で は 家 畜 化されている。 ( () 水 牛 Büffel. 牛 の 最 も 原 初 の 亜 種。 原 初 の も の は 体 高 一 メ ー タ ー ほ ど だ っ た よ う だ。 野 生 の 水 牛 は 南 ア ジ ア や ア フ リ カ の 沼 沢 地 に は 現 代 で も棲息。これは体高約一 ・ 八メーターにも達し、左右に張った四メーターにもなる巨大な角を有する。 ( () 巨 リ ー ゼ 人 Riese. 北 欧 神 話 に あ っ て は、 灼 熱 と 寒 冷 か ら 原 初 の 巨 人 ユ ミ ル( 両 性 具 有 か ) が 作 ら れ、 彼 / 彼 女 の 養 母 的 存 在 で あ る ア ウ ズ フ ム ラ と い う 牝 牛 が 舐 め た 塩 辛 い 霜 の 石 か ら ブ ー リ と い う 男 が 出 現 し た。 ユ ミ ル か ら は ま た「 霜 の 巨 人 」 と い う 種 族 が 生 ま れ た( 単 性 生 殖 )。 ブ ー リ の 息 子 ボ ル が 巨 人 ボ ル ソ ル ン の 娘 ペ ス ト ラ を 妻 と し て も う け た の が、 オ ー デ ィ ン、 ヴ ィ リ、 ヴ ェ ー な る 三 柱 の 兄 弟 神 で あ る。 オ ー デ ィ ン ら は や が て 天 と 地 の 創 造 に 関 わ る が、 巨 人 一 族 の 方 が 神 話 で は 先 に 生 成 し た わ け。 ユ ミ ル( こ の 屍 骸 か ら 神 神 に よ っ て 日 月 星 辰、 陸 地、 大 海 原 な ど 世 界 が 作 ら れ る ) が オ ー デ ィ ン ら に 殺 さ れ る と、 霜 の 巨 人 た ち は 一 組 を 除 き、 ユ ミ ル の 血 の 中 で 溺 れ 死 ん だ が、 滅 亡 を 免 れ た 巨 人 夫 妻 か ら 新 た な 巨 人 族 が 生 じ、 彼 ら は 神 神 と 人 間 た ち を 相 手 に い ず れ 雌 雄 を 決 す る べ く、 人 間 の 居 住 地 ミ ッ ド ガ ル ド を 取 り 巻 く 荒 れ 地、 山 岳、 海 洋、 ま た ヨ ツ
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 ンヘイムという巨人の国に住んでいる。すなわち、巨人は本質的には神神に敵対する存在。 ( ()アタフルフ Atahulf. ( ()トゥック Tuck. ( ()エーギル Egil. ( () ア ー ス 神 族 Asen. 北 欧 神 話 の 神 神 に は ア ー ス( 単 数 形 ア ー サ ) 神 族 と ヴ ァ ニ ー ル( 単 数 形 ヴ ァ ン ) 神 族 の 二 種 が あ る。 ア ー ス 神 族 を 率 い る の は、 オ ー デ ィ ン で あ り、 彼 の 配 偶 者 は 全 人 類 の 運 命 を 知 る 女 神 フ リ ッ グ で あ る。 戦 い の 神 ト ー ル を 初 め、 ア ー サ 神 族 の 他 の 神 神 は し ば し ば オ ー デ ィ ン の 子 ど も と し て 位 置 付 け ら れ る。 ヴ ァ ン 神 族 に は 航 海・ 漁 撈・ 商 業・ 豊 饒 の 神 ニ ヨ ル ド、 そ の 双 子 の 子 ど も フ レ イ、 フ レ イ ヤ が あ る。 この双子は互いに契りを結んだ。両神族はしばしば戦ったが、最後には講和をして人質を交換している。 ( () オ ー デ ィ ン Wodan. 原 典 に あ る ベ ヒ シ ュ タ イ ン の 表 記 Wodan に よ れ ば「 ヴ ォ ー ダ ン 」 と い う 片 仮 名 表 記 の 方 が 近 似 値 だ が、 こ の 訳 に お け る 北 欧 神 話 の 固 有 名 詞 は、 中 世 ア イ ス ラ ン ド の 文 人 ス ノ ッ リ・ ス ト ゥ ル ル ソ ン( 一 一 七 九 ― 一 二 四 一 ) の 編 ん だ『 エ ッ ダ 』 の 一 部「 ギ ュ ル ヴ ィ た ぶ ら か し 」( V ・ G ・ ネ ッ ケ ル、 H ・ ク ー ン、 A ・ ホ ル ツ マ ル ク、 J ・ ヘ ル ガ ソ ン 編 / 谷 口 幸 男 訳『 エ ッ ダ ─ ─ 古 代 北 欧 歌 謡 集 』、 昭 和 四 八 年、 新 潮 社 ) の 訳 文 に あ る 片 仮 名 表 記 に( そ っ く り そ の ま ま で は な い に し て も ) か な り 依 拠 し た。 世 界 の 神 秘 と 魔 法 に 通 じ る。 狡 猾 で 邪 悪 な 半 面もあり、極めて複雑な属性を持つ。 ( () ヴ ェ ル Wörra. 原 典 の 表 記 Wörra に よ れ ば 片 仮 名 表 記 は「 ヴ ェ ラ 」 が 近 い が、 前 掲 注「 オ ー デ ィ ン 」 に 記 し た 理 由 に よ り「 ヴ ェ ル 」 と し た。ヴェルはアース神族のさ ほ ど名の知られぬ女神たちの一柱。聡明、かつ極めて穿鑿好き。何事も彼女に隠しおおせない ほ ど。 ( (0) ヴ ァ ル ハ ラ Walhalla. 「 戦 の 広 間 」 の 意。 ア ー ス 神 族 の 住 む ア ス ガ ル ド( 人 間 の 住 む ミ ッ ド ガ ル ド の 中 心 部 に 作 ら れ て い る ) に あ る オ ー デ ィ ン の 館。 ア ス ガ ル ド に 行 く に は 虹 ビフロスト の 橋 を 渡 ら ね ば な ら な い。 た だ し 橋 の 袂 で は 聡 い 目 と 耳 を 持 ち、 ほ と ん ど 眠 る こ と の な い 神 ヘ イ ム ダ ル が見張りに立ち、巨人族が侵入しないよう守っている。 ( (() ヴ ァ ル キ ュ リ エ た ち Valkyrien. 「 戦 死 者 を 選 ぶ 女 」 の 意。 ド イ ツ 語 で は 普 通「 ヴ ァ ル キ ュ ー レ 」 Walküre で あ る。 オ ー デ ィ ン に よ っ て い つ い か な る 戦 場 に も 送 り 出 さ れ、 討 ち 死 に し た 選 り 抜 き の 勇 士 た ち を ヴ ァ ル ハ ラ に 連 れ て 行 く。 英 雄 た ち は 昼 は お 互 い 同 士 戦 闘 を 遊 戯 と し て 楽 し み、 夕 刻 に な る と 大 広 間 で、 い つ ま で も 尽 き る こ と の な い 牡 猪 セ ー フ リ ー ム ニ ル の 肉( 朝 料 理 さ れ て も 夜 に は 再 生 す る ) を 食 い、 ヘ イ ズ ル ー ン と い う名 の牝 山 羊の 乳 房か ら 出る 強 い蜜 酒(蜂 蜜 を原 料 とし て 醸し た酒。 ド イツ 語「 メー ト 」 Met 、 英語「 ミ ード 」 mead ) を酌 み 交わ し て、 長 夜 の 宴 を 張 る。 彼 ら は「 神 ラ グ ナ レ ク 神 の 宿 命 」 Ragnarök ( 古 代 北 欧 語。 「 神 ゲ ッ タ ー デ ン メ ル ン グ 神 の 黄 昏 」 Götterdämmerung と い う ド イ ツ 語 訳 は 誤 訳 )、 つ ま り 巨 人 族 が その係累とともに神神に 逆 さか 寄 よ せする世界の終末時に、神神の味方をして闘う 軍 ぐん 兵 ぴょう として徴募されたわけ。 ( (()ルーネ文字 古代のゲルマン文字。 「ルーネ」 Rune は「神秘」 「秘密」の意。
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 ( (() 妖 ト ゥ ル ー テ 女 Trute. ド ゥ ル ー デ Drude と も 綴 る。 ム ゼ ー ウ ス は「 ロ ー ラ ン ト の 従 士 た ち 」 Rolands Knappen に 登 場 さ せ た ピ レ ネ ー 山 中 の 魔 女・ 巫 女・ 女 性 ド ル イ ド( 「 ド ル イ デ 」 Druide ─ ─ ド ゥ ル イ と も ─ ─ は 古 代 ケ ル ト 民 族 の 賢 者。 司 祭、 施 政 官 / 司 法 官、 医 師、 学 者 の 資 質 を 兼 ね 備 える。しかし女性のそれはなかったようだが)的存在を表現するのに後者を用いている。 ( (()ウンコー Unkoo. ( (()フングロフ Hungloff. ( (()地の精 Gnomenwesen. 直訳すれば「地の精的存在」 。「 地 グ ノ ー ム の精 」 Gnom は大地の中に棲み、金銀 ・ 宝石 ・ 鉄 ・ 銅などを掘り、これを加工して 見事な細工物を拵える。鉱山で働く人人は、坑道に出没して悪戯をしかけたりするこのような存在を、コー ボ ルト Kobold と名付けた。 ( (() 常 キ ン メ リ ア 闇 の 国 の cimmerisch. ギ リ シ ア 神 話 に よ れ ば、 キ ン メ リ ア は 世 界 の 果 て の 大 河 オ ケ ア ノ ス の 西 か 北 に あ っ て 一 年 中 陽 光 が 射 す こ と の な い国。そこの住人をキンメリオイと言う。 ( (() 嫉 ナイトハルト み屋 Neidhardt. 十三世紀ドイツの叙情詩人ナイトハルト・フォン・ロイエンタール Neidhart von Reuental (? ― 一二四〇頃)をもじっ て、やっかむ(ドイツ語 neiden )人間のことを固有名詞のようにしたもの。ムゼーウスも「沈黙の恋」 Stumme Liebe および「宝物探し」 Der Schatzgräber の中で用いている(ただし綴りは Neidhard )。そこでは「 謗 そしり 屋 や 妬 ねたみ 氏」と訳しておいた。 ( (()フロト Froth. ( (0) インゴ マール Ingomar. ( (() 巨 ヒ ュ ー ネ 人 Hüne. 前 出「 リ ー ゼ 」( 前 掲 注「 巨 人 」 参 照 ) の 他 に こ の「 ヒ ュ ー ネ 」 も ド イ ツ 伝 説 で「 巨 人 」 を 指 す 語 と し て 用 い ら れ る。 こ れ は 「 フ ン 族 」 Hunne 、 す な わ ち カ ス ピ 海 の 北 部 と 東 部 に 居 住 し、 四 世 紀 後 半 ヨ ー ロ ッ パ に 侵 入、 西 ゴ ー ト 族 を 圧 迫 し て 民 族 大 移 動 の 原 因 と な っ た 剽 悍 な 遊 牧 民 族 に 由 来 す る 中 世 低 地 ド イ ツ 語 Hune を 源 と す る。 そ の 拡 張 最 盛 期( カ ス ピ 海 か ら ラ イ ン 河 畔 ま で 支 配 ) の 首 長 は ア ッ テ ィ ラ (四〇六? ― 五三) 。前三世紀から後五世紀に亘って中国を脅かした 匈 フン 奴 ヌ の分派がフン族であるとか。ちなみにモンゴ ル語の 「フン」 は 「人」 「人 間」の意。 ( (()テュール Tyr. アース神族のうちで最も雄雄しく、勇ましく、戦いの帰趨を決定する。戦闘の神。 ( (() 雷神の息子ウル Uller, des Donnergottes Sohn. 原典の表記 Uller によれば「ウラー」が近い。 「雷神」は(これもオーディンの息子と言わ れ る こ と が あ る ) ト ー ル Thor ( ド イ ツ 語 形 ド ナ ー ル Donar ) の こ と。 そ の 武 器 で あ る 鎚( す な わ ち 雷 電 ) は 極 め て 強 力 で、 当 た れ ば 敵 を 粉 砕 せずにはおかない。ウルは雷神の妻シブの息子で、雷神の継子だ、とのこと。極めて優れた射手で、スキーの名人。端麗な戦士である。 ( (()ツェントナー 百プ フ ント、すなわち五十キロ。 ( (() ユ グ ド ラ シ ル Ygdrasil. Yggdrasil と も 綴 る。 古 代 北 欧 語「 恐 ユ グ ル ろ し き 」 yggr +「 馬 ドラシル 」 drasil か ら。 宇 宙 全 体 を 支 え て い る。 そ の 三 本 の 大
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 き な 根 の う ち 一 本 は ア ス ガ ル ド( 同 時 に 人 間 界 で あ る ミ ッ ド ガ ル ド ) に、 一 本 は ヨ ツ ン ヘ イ ム( 巨 人 の 国。 前 掲 注「 巨 人 」 参 照 ) に、 も う 一 本 は冥府であるニフルヘイム(暗黒と寒冷の国)に延びている。それぞれの根の傍には泉がある。 ( (() ミ ミ ー メ ル ボ ル ン ーミルの泉 Mimerborn. 霜の巨人たちの方に向かっているユグドラシルの根の下にある泉。この泉の持ち主がミーミル。スノッリの 「ギ ュ ル ヴ ィ た ぶ ら か し 」 に よ れ ば、 常 に こ の 水 を 飲 ん で い る ミ ー ミ ル は 知 識 に 満 ち て い る。 オ ー デ ィ ン は 泉 の 水 を 一 口 飲 ま せ て も ら う 代 償 に、 自 分の片目を支払った。ミーミルは地下の泉を守る予言者的存在の巨人であろうか。 ( (()シェヴン Siöna. 原典では「シエナ」 Siöna となっているが、文脈から推察するに、男女の心に情熱を目覚めさせる女神シェブンのことと思 われるので、あえて本文でもそう変えておいた。 ( (() ゲ ヴ ィ ウ ン Gesione. 原 典 で は 上 記 の ご と く Gesione と 綴 ら れ て い る。 s は v か f の 誤 り に 違 い な い。 ベ ヒ シ ュ タ イ ン の 誤 記 か 出 版 社 の 誤 植 で あ ろ う。 な お、 ス ノ ッ リ は『 エ ッ ダ 』 の 中 で、 彼 女 は 処 女 神 で あ り、 処 女 の ま ま で 死 ぬ 者 は 全 て 彼 女 に 仕 え る、 と 述 べ て い る に 過 ぎ な い が、 ベ ヒ シ ュ タ イ ン は こ の 記 事 を 採 用 し た か。 他 の 伝 承 に よ れ ば 別 段 処 女 神 で は な い。 ゲ ヴ ィ ウ ン は 巨 人 と の 間 に で き た 息 子 た ち で あ る 四 頭 の 巨 大 な牡牛を使って、スウェーデンから豊かな土地を引き離し、海中に置いたが、これがデンマークのシェラン島である、とあるので。 ( (() ス ノ ト ラ Suotra. 原 典 で は 上 記 の ご と く Suotra と 綴 ら れ て い る。 こ れ に 従 え ば「 ス オ ト ラ 」。 け れ ど も、 該 当 し そ う な の は「 ス ノ ト ラ 」 だし、スノトラなら賢明で立ち居ふるまいが淑やかな女神なので、こちらを選んだ。 ( (0)ロキ Loke. 原典の表記によれば「ローケ」くらいが近いか。北欧神話の中で最も特色のある神。その属性は極めて複雑で、本質を解明する こ と は 困 難 で あ る。 ア ー ス 神 族 の 一 員 で は あ る が、 そ の 敵 対 者 た る 巨 人 の 血 も 引 い て い る ら し い。 無 害 な 剽 軽 者 と し て 描 か れ る こ と も あ れ ば、 ト ー ル な ど に 賢 明 な 助 言 を す る 随 伴 者 に な っ て い る こ と も あ る。 ま た、 ア ー ス 神 族 と 巨 人 族 が 戦 い 合 っ て 滅 亡 し、 全 世 界 が 灰 燼 に 帰 す る 「 神 ラ グ ナ レ ク 神 の 宿 命 」 の 折、 ロ キ は 巨 人 族 側 に 付 く。 こ の 場 合 神 神 の 邪 悪 な 敵 と な る わ け。 ト リ ッ ク ス タ ー と 考 え れ ば あ る 程 度 は 説 明 で き る か も 知 れ な い。 彼 は ヨ ツ ン ヘ イ ム の 女 巨 人 ア ン グ ル ボ ダ と の 間 に 三 人 の 子 ど も を も う け る。 こ れ は、 全 世 界 を 取 り 巻 く 大 海 に い て 世 界 を 締 め 付 け る 大 蛇 と、 冥 府 を 司 る 女 神 ヘ ル、 巨 大 な 狼 フ ェ ン リ ル( こ の 恐 ろ し い 怪 獣 は 神 神 の 企 み で 縛 いまし め ら れ て い る が、 「 神 ラ グ ナ レ ク 神 の 宿 命 」 の 際 縛 め は ち ぎ れ て 自 由 になり、オーディンに襲い掛かってこれを呑んでしまう)という、いずれも恐ろしい存在である。 ( (() ヘ ル Hela. 原 典 の 表 記 に よ れ ば「 ヘ ラ 」 が 近 い。 「 隠 す も の 」 を 意 味 す る。 病 死 し た 者、 定 じょう 命 みょう で 亡 く な っ た 者 が 赴 か ね ば な ら ぬ 黄 泉 の 国 ニフルヘイムの支配者たる陰鬱な女神。 ( (() 蛇 ヨ ル ム ン ガ ン ド Schlange Jormungandur. 原 典 の 表 記 に よ れ ば「 ヨ ル ム ン ガ ン ド ゥ ー ル 」。 全 陸 地 を 一 巻 き に し た 上、 己 が 尻 尾 を く わ え ている世界蛇。 「ミッドガルドの大蛇」とも言う。 ( (() 野 牛 Aueroochs. ア ウ ア ー オ ク ス。 ア ウ ア ー オ ク セ Auerochse 、 オ ー ロ ッ ク ス Aurochs 、 あ る い は、 ウ ー ル Ur と も。 歴 史 時 代 ま で ヨ ー
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 ロ ッ パ、 中 央 ア ジ ア、 南 西 ア ジ ア、 北 ア フ リ カ に 棲 息 し て い た 野 生 の 牛。 牡 の 場 合、 体 長 約 三 メ ー タ ー 余、 肩 丈 一 ・ 八 メ ー タ ー ほ ど、 体 重 一 ト ン に も 達 し、 ヨ ー ロ ッ パ 最 大 の 陸 生 動 物 だ っ た。 こ れ ら の 地 域 の 畜 牛 に 似 た 姿。 こ れ ら の 地 域 の 畜 牛 は こ れ を 家 畜 化 し た も の。 ヨ ー ロ ッ パ 最 後 のウール は十七世 紀にポーラン ドで絶滅し た。一説に、マ ゾフシェ Mazowsze 地方の ある野獣園で 生涯を終え た、と。あるい は、一六二七 年に ヤクトルフ Jaktorów の森で密猟者たちに仕留められた、とも。 ( (() 嵐の神ニヨルド Niord, der Stürme Gott. 原典の表記 Niord によれば「ニオルト」が近い。前掲注「アース神族」参照。ヴァン神族の豊饒 神であり、風と海に結び付いている。 ( (() フ レ イ ヤ Freya. 前 掲 注「 ア ー ス 神 族 」 参 照。 ヴ ァ ン 神 族 か ら ア ー ス 神 族 に 移 っ た 女 神。 豊 饒、 愛 情 を 司 る。 オ ー デ ィ ン の 妻 フ リ ッ グ が 北 欧 神 界 の 妃 で は あ る が、 こ の フ レ イ ヤ も 女 王 的 存 在 で あ る。 む し ろ 北 欧 各 地 で た だ 一 人 の 女 神 と し て 尊 崇 さ れ て い た よ う で も あ る。 生 と 死、 愛 情 と 戦 闘、 豊 饒 と 黒 魔 術 と い っ た 背 馳 相 反 す る も の を 包 含 し、 命 を 与 え る と 同 時 に 奪 う 者、 と の 解 説 す ら あ る。 こ う な る と 大 地 母 神 の ご と き 存 在と言ってよいのかも知れない。 ( (() 虹 ビフロスト の橋 Brücke Bifrost. 地上から天、つまり、人間界からアスガルドに架かっている橋。 「ビフレスト」 。前掲注「ヴァルハラ」参照。 ( (()……アスガルドへ連れて行った 以下はフレイヤについてではなく、フリッグについての「ギュルヴィたぶらかし」の描写にかなり相応する。 ( (()ノッサ Nossa. 未詳。 ( (()ゲルセミ Gersemi. 未詳。 ( (0) フ ッ ラ Fylla. 処 女 神。 原 典 の 表 記 に よ れ ば「 フ ュ ッ ラ 」 が 近 い。 フ リ ッ グ( フ レ イ ヤ で は な い ) の 櫃 や 履 物 を 管 理 し、 そ の 秘 密 に 与 っ て いる。 ( (()フリーン Hlyn. 原典の表記によれば「フリューン」が近い。 フリッグ(フレイヤではない)が守ってやろうとする人人の後ろ盾となる女 神。 ( (()グナー Gna. フリッグに命じられてさまざまな世界への使者となる。空も海も疾駆するホーヴヴァルプニルという馬に乗って。 ( (() ヴ ィ ー ン ゴ ー ル ヴ Wingolf. ア ス ガ ル ド に あ る 女 神 た ち の 美 し い 宮 殿。 人 間 は 神 神 に 息 を 吹 き 込 ま れ た 存 在 な の で、 肉 体 が 滅 び て 土 と な っ て も 生 き 続 け る、 と「 ギ ュ ル ヴ ィ た ぶ ら か し 」 に あ る。 礼 節 を 弁 え た 善 良 な 人 間 は、 ヴ ィ ー ン ゴ ー ル ヴ へ 行 っ て、 神 神 と と も に 暮 ら し、 悪 い 人 間はヘルに赴く。 ( (()グラドヘイム Gladheim. アスガルドにある内も外も黄金色に輝く大神殿。ここには主神オーディンの座る玉座の他に十二の座がある。 ( (() グ ラ ゾ ー ア Glasoor. 未 詳。 「 ギ ュ ル ヴ ィ た ぶ ら か し 」 に は ア ス ガ ル ド そ の 他 を 流 れ る 河 が 列 挙 さ れ て い て、 そ の 中 に「 グ ラ ー ズ 」 な る 名 が 挙げられているから、あるいはこれか。ただし、前掲書では、アスガルドを巡る河とは明記されていない。
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 ( (()魔法の釜を泉の深処に沈め 「 釜 ケッセルブルンネン の 泉 」 Kesselbrunnen と呼ばれる泉がこれで、 巨 リーゼンレッフェル 人 の 匙 の近くにある。 ( (() 巨 リ ー ゼ ン レ ッ フ ェ ル 人 の 匙 Riesenlöffel. 「 巨 リ ー ゼ 人 」 Riese の「 匙 レッフェル 」 Löffel 。 表 題 の 拠 っ て 来 た る 所 以 で あ る、 匙 に 似 た 大 き な 石 の 造 形 物。 ア ル ン シ ュ タ ッ ト の 中 心 か ら 程 遠 か ら ぬ と こ ろ に あ る。 高 さ 二 ・ 二 五 メ ー タ ー で 砂 岩 製。 一 つ の 石 材 か ら 作 ら れ て い る。 聖 龕 がん ( 聖 像 な ど を 納 め る 厨 ず し 子 ) 状 の 形 を し た 上 部 構 造 が、 断 面 が 四 角 の、 面 取 り を し た 柱 シ ャ フ ト 身 の 上 に 載 っ て い る。 上 部 構 造 に は 尖 頭 迫 ア ー チ 持 型 の 壁 龕 が 刳 く り 抜 か れ て い る が、 そ の す ぐ 下 の 柱 シ ャ フ ト 身 上 部 に も 同 じ 形 の、 し か し も っ と ず っ と 小 さ い 壁 龕 が し つ ら え ら れ て い る。 町 域 内 を 巡 っ て 聖 餐 式 を 挙 げ る お 練 り( 祈 願 行 列 ─ ─ こ れ は と り わ け 聖 フ ロ ー ン ラ イ ヒ ナ ー ム 体 の 祝 日 〈 復 オ ー ス テ ル ン 活 祭 後 の 三 ド ラ イ フ ァ ル テ ィ ヒ カ イ ツ フ ェ ス ト 位 一 体 の 祭 日 の 週 の 木 曜 日、 す な わ ち 復 活 祭 か ら 六 十 日 目 に 行 わ れ る。 最 も 早 く て 五 月 二 十 二 日、 最 も 遅 く て 六 月 二 十 一 日 〉 の 折、 こ こ ま で 司 祭 に 捧 持 さ れ て 来 た 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 が 上 部 の 大 き な 壁 龕 に 置 か れ、 下 の 小 さ な 壁 龕 が 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 か ら 取 り 出 さ れ た 聖 体、 す な わ ち「 久 く 遠 おん の 光 」( 神 ) の 象 徴 で あ る 聖 せい 餅 べい ( 祭 餅。 聖 餐 式 の パ ン ) = ホ ス チ ア の 安 置 場 所 と な っ た か、 と 思 わ れ る。 ち な み に 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 と は カ ト リ ッ ク 教 会 の 祭 器 で、 聖 餅、 あ る い は 聖 遺 物 を 容 れ た ガ ラ ス、 な い し 水 晶 製 の 容 器 の 周 り に、 通 常 は 貴 石 や 宝 石 を 鏤 め た 銀 など貴金属の光輪を取り付けたもの。幅広い脚部を持つ。 こ れ は 一 五 〇 七 年 建 て ら れ た。 こ の 歳 の 聖 マ ル ク ス 祭( 四 月 二 十 五 日 ) の お 練 り に つ い て 次 の よ う な 伝 承 が あ る。 「 釜 ケ ッ セ ル ブ ル ン ネ ン の 泉 の 傍 に あ る 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 の 壁 龕 の と こ ろ に 来 る と、 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 の 中 の 秘 サ ク ラ メ ン ト 蹟 〔 聖 餅、 聖 水 な ど を 指 す。 こ こ で は 聖 餅 〕 が こ こ に 安 置 さ れ て 定 め の 儀 式 が そ の 傍らで執行され、それから更に先へとお練りが進んだ」と。 や が て 宗 教 改 革 が テ ュ ー リ ン ゲ ン に 及 び、 こ の 地 方 が 新 教 に 帰 属 し、 カ ト リ ッ ク の 祭 祀 で あ る 祈 願 行 列 が 行 わ れ な く な る と、 こ う し た 用 途 は す っ か り 忘 れ ら れ て し ま っ た よ う だ。 一 六 五 二 年 の 文 書 に は、 単 な る 耕 牧 地 の 目 印 と し て「 釜 ケ ッ セ ル ブ ル ン ネ ン の 泉 の 畔 の 例 の 長 い 石 の 傍 」 と い っ た 記 述 が あるそうな。 「 巨 リ ー ゼ ン レ ッ フ ェ ル 人 の 匙 」 と い う 名 称 は ど う や ら 十 九 世 紀 初 頭 の ロ マ ン 主 義 の 時 代 に 発 す る よ う で あ る。 そ し て こ の 名 称 を 地 域 の 境 界 を 遥 か に 越 え て 広 く、 かつ、少なくとも十九世紀末あたりまで長期に亘って、普及・維持するのに力あったのは、もとよりベヒシュタインのこの物語に ほ かならない。 巨 リ ー ゼ ン レ ッ フ ェ ル 人 の 匙 は 一 九 七 一 年 ソ 連 軍 の 戦 車 に 轢 ひ き 倒 さ れ、 三 つ に 砕 か れ た ま ま、 翌 年 一 九 七 二 年 ア ル ン シ ュ タ ッ ト の 城 シ ュ ロ ス ・ ム ゼ ー ウ ム 館 博 物 館 の 庭 園 に 運 ば れ、 転 が さ れ て い た が、 一 九 八 二 年 十 月 十 五 日 篤 志 の 市 民 た ち が 城 シ ュ ロ ス ・ ム ゼ ー ウ ム 館 博 物 館 の 南 翼 に 近 い 庭 園 に 復 元。 一 九 九 四 年 ア ル ン シ ュ タ ッ ト・ テ ュ ー リ ン ゲ ン 歴 史 協 会 そ の 他 の メ ン バ ー に よ っ て 本 来 の 場 所 で あ る ハ ー ル ホ イ ザ ー・ シ ュ ト ラ ー セ 脇 に 移 さ れ た。 ( 以 上 は、 「 ト ゥ ッ カ ー ラ ン ト 新 ツ ァ イ ト ゥ ン グ 聞 」 Tuckerland-Zeitung 第三四号掲載記事──筆者史料保管係ペーター・ウンガー Peter Unger ― を主要材料として、訳者が纏めたものである) 。
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題
http:www.fotolibrary.de/foto/Riesenloeffel.html
武蔵大学人文学会雑誌 第 40 巻第 2 号 ( (() ア ル ン シ ュ タ ッ ト Arnstadt. 中 ミ ッ テ ル 部 テ ュ ー リ ン ゲ ン の 中 都 市。 エ ア フ ル ト の 南 方 二 〇 キ ロ ほ ど の と こ ろ に あ る。 ベ ヒ シ ュ タ イ ン は 一 八 一 八 年 か ら 一 八 二 四 年 に 掛 け て、 こ の 町 の 薬 局「 ウ ン タ ー・ デ ア・ ガ レ リ ー」 Unter der Galerie で 徒 弟 修 業 に 入 り、 や が て こ れ を 終 了( 『 テ ュ ー リ ン ゲ ン の 民 話 』 Thüringische Volksmährchen を 出 版 し た の は ア ル ン シ ュ タ ッ ト 時 代 の 一 八 二 三 年 の こ と で あ る )。 以 降 マ イ ニ ン ゲ ン、 バ ー ト・ ザ ル ツ ン ゲ ン で 薬 プ ロ ヴ ィ ー ゾ ア 剤 師 主 任 助 手 を 勤 め た。 十 九 世 紀 の 人 口 は 一 八 一 四 年 四 千 余、 一 八 九 〇 年 一 万 三 千 弱( 二 〇 〇 六 年 現 在 二 万 五 千 余 )。 テ ュ ー リ ン ゲ ン の 豪 族 の 一 つ だ っ た シ ュ ヴ ァ ル ツ ブ ル ク = ゾ ン ダ ー ス ハ ウ ゼ ン 家 の か つ て の 城 下 町。 ほ ど ほ ど の 産 業 基 盤 を 持 ち、 伝 統 あ る 文 化 の 中 心 で、 保 養 地 で も あ る。 古 く は ヘ ル ス フ ェ ル ト 家 の 代 官 と し て ケ ー フ ェ ル ン ブ ル ク 伯 爵 家 が 治 め て い た が、 一 三 〇 六 年 シ ュ ヴ ァ ル ツ ブ ル ク 伯 爵 家 の 手 に 渡 り、 同 家 は 一 七 〇 六 年 ま で こ こ に 宮 廷 を 開 い て い た。 ロ ー マ の 軍 事 殖 民 諸 都 市 以 外 で は ド イ ツ 最 古 の 由 緒( 七 〇 四 年 古 文 書 に 初 出 ) を 誇る。エアフルトやアイゼナハとともにかの バ ッハ一族ゆかりの町でもある。 ( (() カ ル ク 山 ベルク Kal ɡberg. 「 石 カ ル ク 灰 の 山 ベルク 」 Kal kb erg で は な い が、 音 は 同 じ。 こ れ が ア タ フ ル フ と ト ゥ ッ ク 夫 妻 が 一 人 娘 の エ ー ギ ル と と も に 住 ん でいた山なのだろう。彼らの家の床は石灰岩でできていたようだから。 ( (0)アールンス 山 ベルク Arnsberg. ( (() ア ー レ ン 山 ベルク Arenberg. 綴 り が Aarenberg ( 音 は 同 じ「 ア ー レ ン ベ ル ク 」) な ら「 鷲 の 山 」 と 言 う 意 味 に な る。 Aar は Adler ( ア ー ド ラ ー =鷲)の古語。ムゼーウスの「三姉妹物語」 Die Bücher der Chronika der drei Schwestern にも、鷲伯エドガー Edgar der Aar がスイスに建 設した町が後にその名に因んでアールブルク Aarburg と呼ばれた、とある。 ( (()エーギル 湖 ゼー Egil-See. ( (()エーゲル 湖 ゼー Egel-See. ( (() 妖 フ ェ 精 Fee. フランス語 fée から。ラテン語「 運 ファトゥム 命 」 fatum が語源か。十七世紀後半から十八世紀に掛けてのフランス王国では 妖 フ ェ 精 を狂言回 し と す る「 妖 コ ン ト ・ ド ・ フ ェ 精 物 語 」 conte de fées が 流 行、 ド イ ツ 語 圏 で も 大 い に も て は や さ れ た。 殆 ど は 上・ 中 流 階 級 の 閨 秀 作 家 の 著 作 で、 例 外 は シ ャ ル ル・ ペ ロ ー の『 過 ぎ し 昔 の 物 語 あ る い は お 伽 話、 な ら び に 教 訓 』 ま た の 名『 鵞 鳥 お ば さ ん の お 伽 話 』( 一 六 九 七 ) Charles Perrault: Les
Histoires ou Contes du temps passé. Avec Moralitéz (= Moralités) / Contes de ma
mère l ’Oye (= l ’Oie) 。 ( (() 魔 法 の 角 ラ ン タ ン 灯 [ 幻 灯 機 ] magische Laterne. ラ テ ン 語「 ラ テ ル ナ・ マ ギ カ 」 laterna magica の ド イ ツ 語 訳。 ム ゼ ー ウ ス 著『 ド イ ツ 人 の 民 話 』 Volksmärchen der Deutschen 序 文 で あ る「 我 が 畏 友、 思 想 家 に し て、 * * 市 の 聖 ゼ ー バ ル ト 教 会 聖 物 保 管 係 ダ ー フ ィ ト・ ル ン ケ ル 殿 に 捧 げ る 緒 言 」 に も こ の 言 葉 が 繰 り 返 し 出 て 来 る。 従 っ て、 こ れ を 書 く 時 も、 『 ド イ ツ 人 の 民 話 』 が ベ ヒ シ ュ タ イ ン の 脳 裡 に 揺 曳 し て い た、 と 考 え て も よ い か も 知 れ な い。 初 期 の ス ラ イ ド 式 幻 灯 機 で あ る。 イ エ ズ ス 会 の 修 道 士 に し て 学 者 で あ る テ ュ ー リ ン ゲ ン 生 ま れ の ア タ ナ シ ウ ス・ キ ル ヒ ャ ー Athanasius Kircher ( 一 六 〇 一 ― 八 〇 ) に よ っ て 発 明 さ れ た ラ テ ル ナ・ マ ギ カ に 始 ま る。 ガ ラ ス 板 に 描 か れ た 壮 麗 な 建 造 物 や 雄 大 な 風 景、 珍 奇
巨人の匙 ──ある昔話 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン著 鈴木滿訳・注・解題 な 人 種・ 鳥 獣・ 草 木 の 姿 な ど を、 こ れ を 用 い て 壁 に 映 し 出 す 真 っ 暗 な 小 屋 の 中 で の 見 世 物 は、 十 八 世 紀 か ら 十 九 世 紀 に 掛 け て 西 欧 の 子 ど も た ち に人気があったことは確か。 解題 「巨人の匙 ──ある 昔 メルヒェン 話 」の原題は
Der Riesenlöffel. Ein Mährchen.
である。 テ ュ ー リ ン ゲ ン 地 方 の ア ル ン シ ュ タ ッ ト 近 郊 に 近 世 初 頭 に 設 置 さ れ た 石 の 造 形 物、 通 称「 巨 リ ー ゼ ン レ ッ フ ェ ル 人 の 匙 」 に 纏 わ る 伝 承が、ベヒシュタインによって、ちょっと変わった太古北欧風絵巻物に仕立て上げられたわけ。もっともこの絵巻物 は彩色されておらず、白黒のみの陰鬱な墨絵とでも言うべきか。 結 び に 一 言。 聖 モ ン ス ト ラ ン ツ 体 顕 示 台 と そ の 透 明 な 容 器 部 分 に 納 め ら れ る 聖 ホ ス チ ア 餅 に つ い て、 土 屋 和 彦 司 祭( 畏 友 土 屋 正 彦 氏 の 令 息)にお教えを乞うた。また、ポーランドの地名の片仮名表記について、ヨーロッパ比較文化学科の同僚阿部賢一准 教授にお助け戴いた。土屋さん、阿部さん、まことにありがとうございました。