ドイ ツ文学の傑作
武 田 修 志 (昭和62年 5月18日受理) ゲーテ『ヴィルヘルム・ マイスターの修業時代』(1796年) マン『ブデンブローク家の人々』(1901年) カロッサ『ルーマニア日記』(1924年)そ
の他 ケス トナー『飛ぶ教室』(1933年) ヨハ ン・ ヴォルフガ ング・ フォン・ゲーテ『ヴィルヘルム・ マイスターの修業時代』 この作品の ドイツ文学史上 に持つ意義 はよ く知 られている。 それは,一
人の若者が様々な経験 を 重ねて精神的,人
間的に成長 して行 く過程 を描 く教養小説 (BIIdungsroman)と い う小説形態 を, この長篇小説が,一
つの典型 として示 した とい うことである。 そ して,以
後,こ
の作品 を模範 と・し て多 くの大作が もの された結果,教
養小説 という一つの系譜が形造 られ,そ
れは,
ドイツ文学 にお ける最 も特色ある小説形態 となったのである。 しか しなが ら,今
,こ
ういう文学史上の意義 を離れて,
この三百年前 に書かれた小説が,直
接, 我々に訴 えて くるものを持 っているとすれば,そ
れは一体何であろうか。あるいは,
この作品は, 今 日の我々の心 を直 に掴 む力 を明 に失っているであろうか。 この作品の魅力 あるいは内容 を論 うに際 しては,一
つの前提 を必要 とす るように思われ る。それ は,こ
の作品 を少な くとも三度読 むということである。 それ と言 うの も,今
日の読者が,
この三百 年前の長篇小説 を最初 に通読す るとき,そ
の一種悠長 な語 り口に退屈 を覚 え,話
の運 びのある種の 拙劣 さに不満 を感 じて,十
分 にこの広大 な作品世界へはいって行 くことがで きない とい うことは, 大いにあ りうることの ように思われるか らである。開巻冒頭の数章 を占めるヴィルヘルムの人形芝 居 についての長々 しい思 い出話 は,初
めてこの本 を手 に した読者 に とっては,眠
さをこらえて これ182
武 を聞 くマ リアーネに とって と同様 に,退
屈 きわ ま りない ものであると言 ってよか ろうし,例
えばま た,第
六巻の全体 を占める「美 しい魂 の告 白」 と題 された一女性の手記 は,先
んず る五 つの巻 にお ける物語の展開 と,ど
の ように関 っているのであろうか。 あるいはまた,こ
の本 の最終巻 は,多
く の入 り組 んだ人間関係や出来事 を,い
ささ力V性急に解 き明か し,片
附けて,結
末 を急 ぎす ぎていは しないか。 ぃずれ も,十
九世紀 あるいは二十世紀 の優れた小説技法 を駆使 した ロマ ンを読み慣れた 我々には,何
がな し不満で もあ り疑間の残 るところだが,し
か し,こ
こで同時 に気附かれ るの は, 作者 自身 は,こ
うい う語 り国の悠長 さや小説技法の拙 さな どに一向に頓着 している様子 はない とい うことである。 この ことは,ひ
とまず,こ の小説が18世紀末に書かれた ものであ り,当
時 としては, 小説技法 という点において も,む
しろ水準 を越 えた作品 と成 り得ているとい うことか ら,説
明す る ことがで きるであろう。 しかし,そ
れが主たる理 由で はなかったかもしれない。たぶん,こ
の作品 の作者 には,後
世の読者たる我々の言 う退屈だ とか技法の拙劣 といった ものを必要以上 に顧慮す る 気持 は初 めか ら欠 けているのである。 そ して,作
者が,
ここに描 き出さん とした人間群像の新 しさ と魅力,そ
して,こ
れ らの人間達が生 きるところに展開す る世界の意味 とを深 く信 じていて,
これ らの人間群像 と世界 とが生 きた形姿 として出来上が りさえすれば,読
者 を 慮 った小説技法な ど小 賢 しい二義的問題 と思われたか らではないであろうか。 そ して,
もしその通 りだ とすれ ば,こ
の作 者の態度 を是認 するほか,読
者が この作品世界へ本 当にはいって行 く道 はない。 この作 品を論 うに 際 して,少
な くとも再読す ることが,一
つの前提だ と言 う所以である。 さて,こ
うして,こ
の作品世界へ はい りこむことがで きた とき,我
々の心 をまっ先 に捉 えるもの は何であろうか。 それ は,ほ
かで もない,ヴ
ィルヘルム・ マイスター というこの主人公 の,幼
児の ごとく常に全身全霊 をあげて生 きている姿であ り,そ
の全 く卒直であけっぴ ろげな態度 であ り,つ
まりは,こ
の若者の邪心 を知 らぬ真 に純粋 な人間性 であろう。 この青年ほど,他
者 に向かって,あ
るいはまた世界全体 に対 して,心
を開いている人間 は珍 らしいと言っていいのであ り,そ
の無垢の 心ばえは,人
間 に地位や役割でな く,何
らかの人間的真実 を見 ようとする者 には,た
だちに感受 さ れ,好
意 を抱 かずにはいられない質の ものであろう。 また,こ
の若者 には,い
わば,生
の多面性 に 対する繊細 で豊かな感受性が育 まれてお り,就
中,作
者 ゲーテもそ うであった ように,女
性 を愛す るという点 においてはまさに一個の天才の趣がある。彼が,己
が全霊 を持 って愛 し,あ
るいは,心
か ら受 け入れた女性達 は数多 く,ま
た,多
彩である。初恋の少女マ リアーネ,イ
ヴの ごとき女性 フ リィーネ,傷
心の女アウレー リエ,理
智の人 テレーゼ,理
想の貴婦人のナター リエ……彼 は,若
き 女性の愛 らしさに,成
熟 した女の魅力 に,あ
るいはまた,気
品ある女性の美 しさに一― これ らの ど れに対 して も強 く心 をひかれ るのである。 しか しなが ら,彼
が心 を寄せたのは,
こうい う女′性たち ばか りではなかったのであ り,例
えば,常
な らぬ運命 を推測 させる竪琴弾 きの老人や不思議 な魅力 を放つ ミニ ョンもまた,彼
の愛情の対象であった。 この主人公の最大の関心 は,彼
自身の日か らも 修ドイツ文学の傑作 「人間にとっては
,人
間 こそが一番興味あるもので,本
来 なら我々 は,人
間だけにしか興味 を持 っ てはいけない もので しょう。」(二巻四章)と
言われ るように,ひ
とえに人間に向けられているので ある。 このような青年 ヴィルヘルムの,自
己の周囲 に立現われ る人々 に対 する正直で愛情豊 かなふ るま いは,ほ
とん ど彼の生 まれつ きの ものだ と言い得 る として も,し
か し,こ
の若者 は,決
して単 なる 人柄の良い富裕 な市民階級出の坊 ちゃんにす ぎないわ けではない。 この青年の胸 の うちには,そ
れ が明瞭な自覚 を持 って把握 されるな らば,一
つの新 しい人間理想 にもな り得 るような,人
生へのあ る切 ない願 いが秘 め られているのである。 この願望 を彼 は,父
の死 を知 らせ る友人 ヴェルナーの手 紙 に対する返書の中で,初
めて明瞭 に表明す る。 《君の生活の仕方や考 え方は,無
制限な所有 と安易で愉快な享楽の仕方へ向けられてい る。 そし てば くが,そ んな ことになんの魅力 も感 じていない ことは,ほ とん ど言 う必要 もない ことだ。(・・―・) 一言でい うと,現
に今 あるがままのぼ く自身 を完成する ということが,お
ぼろげなが らば くの少 年時代か らの願 いであ り,ぼ
くの目的で もあった。(・……)ぼくは,ぼ
くの市民 とい う出 自のために 得 られないでいる自分の本性の調和的完成 とい うことに,
どうに も抑 えがたい欲求 を感 じている。》 (五巻三章) 現 にあるが ままの 自分 自身 を完成すること,自
分 の本性の調和的完成。いわば,一
本の若木が 自 然の恵みを受 けて,
くまな く芽 をふ き,豊
かに枝 を広 げて,次
第 に見事 な樹木へ と生長 してい くよ うに,自
己の内部 の素質 を余す ところな く開花 させて,一
個の堂々たる人間へ と造 り上 げてい くこ と,こ
れ こそ主人公 ヴ ィルヘルム・ マイスターの,お
のが人生 における最大の願望 なのである。 そ して,こ
れ はまた,そ
の後の近代 に生 きる自覚的人間の一つの理想の,極
めて明瞭でかつ先駆的な 表明 と言ってよいであろう。産業革命 とアメ リカの独立宣言,そ
してフランス革命の時代,こ
れら のいずれ もが人間集団の外側への拡大 を表明 してい るとすれば,こ
の主人公のおのが人生への願望 は,個
としての人間の内部への拡大 を語 っている と見 ることがで きよう。ヴェルナーの よ うな「 自 分の仕事 を果た し,金
をもうけ,家
族の者 と楽 しみ,そ
のほかの世界の ことには,そ
れ を利用 しう る範囲外では気 をつかわない」(五巻二章)平均的市民か ら見れば,ど
こかお人好 しで,何
を目的に 生 きているのか分 か らないような青年ヴィルヘルムは,実
は,近
代人 にとってある意味で は究極的 な もの とも思われ る人間理想 を抱いて生 きている人間なのである。そ して,
この青年の誠実 と迷誤 に満 ちた体験 を跡づけなが ら,そ
の興味ある人間像 を余す ところな く活写 した ところに,
この作品 の今 日で も古びない意味合があるように思われ る。 主人公 ヴ ィルヘルム・マイスターの人間性 (PersOnlichkeit)の 中核 は,先
に暗示 した ように,そ
の「人間愛」だ と言 ってよかろうが,外
へ向かっては,他
者 にで きうる限 り心 を開 き,内
を見つめ ては,お
のが人間の全体の成長 を願 う,こ
の ような人間が この作品において明瞭な輪郭 を持 って描184
武き出された ことは
,お
そ らく,今
日の我々 に想像 し得 る以上 に,こ
の小説が書かれた道時 において は,目をみはる画期 的なことであったと思われる。それは,己れを一個の全的人間(ein ganzer Mettch)へ と形成するということが,一つの新 しい人間理想 として衝撃的であったか らというだけではな く, この人生 目的を表明 して
,
この目的へ向かって生 きて行 こうとする人間が,一
人の「市民Burger」 であったか らで,当
時の十八世紀 ドイツの階級社会 においては,ヴ
ィルヘルム自身が言 うように, 平均的市民の生活 目標 は,あ
る技能 をみがいて社会 に役立 つ人間になることであ り,あ
る一つの こ とに役立つ人間 になるためには,「ほかの一切 を放棄 しなければな らず」そ こには「 どんな人間的調 和 もない」(五巻三章)と
考 えられていたか らである。 ここで思 い出 されるのは,最
終巻冒頭 に見 られ る,久
しぶ りに再会 したヴィルヘルム とヴェルナ ーニ人の外貌の描写である。ヴィルヘルムの姿は,こ
こでヴェルナー も一瞬見紛 うほど立派 なもの に変化 している。肥 って恰幅 もよ くな り,物
腰 には教養のあることが感 じ取 られ るのである。ヴェ ルナーはヴィルヘルムを前にして,言
う,「君の眼 は深 みを増 した し,額
も広 くなった。鼻 も一層上 品になった し,口
許 も一層愛嬌がでてきた。 まあこの様子 を見て くれ。すべてがなん としっ くりま とまっているんだろう。」(八巻一章)こ
れに対 して,ヴ
ェルナーの様子 は,一
見 して「勤勉 なヒポ コンデ リー忠者」(同)のそれである。以前 よ りずっ と痩せ,顔
はとがって細 くな り,頭
ははげあが って,声
は甲高 くな り,進
歩 した というよ り,何
か後退 した といった趣 なのである。 このあ まりに も明 らかな二人の対照的な変 り様が,彼
らの人生態度 の相違 に基づ くものであることは言 うまで も ない。それ は,ヴ
ィルヘルムが己れの内的欲求 に突 き動か されなが ら生 きて きたのに対 して,ヴ
ェ ルナーは,有
能 な商人 としてただ金 もうけ一つに精 出 して きた結果 なのである。 ちなみに,ヴ
ィルヘルム とヴェルナー,こ
の二人 は,同
じ富裕 な商人の跡取 り息子 として友人同 士であ りなが ら,常
に対照的な人間 として描かれてお り,「市民」の生 き方 とい う観点か ら見て興味 深い ものがある。既 に少年時代か ら,「他人の愚行 か ら利益 をあげることほど賢明なや り回は,この 世 にまた とない」と考 えて,将
来の大商人 として抜 け目のない ところをみせ るヴェルナーに対 して, 「人間の愚行 を救 ってや ることのほうが もっと高尚′な満足 ではないか」(一巻十章)と思 い こんでい るのがヴィルヘルムである。複式簿記 こそ人間の知性が考 え出 した最高の もの と考 えて,日
々の商 売の元利合計 をきちん と始末 してい くところに喜 びを見 い出すヴェルナーに対 して,ヴ
ィルヘルム は,「君たちは何か人生の総計 といった ものを忘れていはしないか」(同)と
応 ずる。 そ して,こ
の 二人の「市民」 は,先
にヴィルヘルムの手紙の言葉 に見 た ような,対
照的な人生観 を持つ人間へ と 成長 して行 くのである。 さて もう一 つ,こ
の作品の中で特 に強 く我々の興味 を喚起す るものがある。 それは,
ミニ ヨンと 竪琴弾 きの謎 めいた姿であ り,そ
の数奇な運命である。謎 と不思議 な魅力 を宿す この二人の形姿 と 運命 は,こ
の作品 に,あ
る味わい深い情趣 と奥行 きとを附与 していると言ってよいであろう。 この 修ドイツ文学の傑作
185
作品世界 は,ほ
とん ど主人公 ヴィルヘルムの眼が捉 えた限 りの世界 と言 ってよいであろうが,彼
の 眼 に,こ の二人 の人間が深 い愛情 と強い関心 を持 って捉 えられている とい うことは,注
目に値する。 それは,こ
の作品 において,人
間 と世界の内にある謎 めいた もの,非
日常的な もの,そ
の深淵が見 逃 されていない ことをよ く示 しているか らである。最終巻 において明 らかにされ るように,竪
琴弾 きは,実
は,イ
タ リアの貴族であ り,か
つて,そ
れ と知 らずに,実
の妹 を愛 し,妻
に しようとした のであった。そ して,こ
こに生 まれたのが,ほ
かで もない,ミ ニ ヨンであったわけである。つまり, 二人 は通常の市民的世界 か らはみ出 した存在 なのである。 この二人 に初 めて出会 った とき,ヴ
ィル ヘルムは,未
だ彼 らの運命 をつゆほども知 らないにもかかわ らず,強
く心 を引かれ る。特 に,少
年 とも見紛 う少女 ミニ ヨンの姿 を,突
然 目の前 にした とき,彼
はこの少女の不思議 な魅力 に心 をうば われるのである。「 ヴィルヘルムめ,いには,こ
の子供の姿が深 く焼 きついた。彼 は,い
つ までゃ彼女 をながめつづけ,ひ
とことも物 を言わず,沈
思のあま り,眼
の前 にいる人 たちの ことも忘れて しま った」(二巻四章)何故 に この少女の姿が これほどにブィルヘルムの心 を捕 えるのか。 その理由は明 瞭 に述べ得ない として も,ヴ
ィルヘルムが ミニ ヨンの姿に,何
か 日常性 を越 えた もの を,生
の小暗 さを垣間見ていると推測 して も,的
はずれで はないであろう。 いずれにしろ,至
る ところで明晰な言葉 を語 る理智の人 ヴィルヘルムは,一
方ではまた,生
の深 み,人
生 における異形 の ものへの鋭 く豊かな感受性 を備 えた人物 なのであ り,
この ような人間が歩 きまわるこの作品世界 は,い
わば,「生」その ものの ようによ くその多面性 と深 さを示 して,意
味豊 かな世界であると言 って よいであろう。〔Text〕 Goethes Werke Band VⅡ ,Wilhelm Meisters Lchriahre(Hamburger Ausgabe,herausgegeben von
Erich TrunZ,Neunte,durchgesehene Auflage, 1977,Veriag C H Beck,Mdnchen)
〔翻訳〕人文書院版ゲーテ全集第五巻『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(高橋義孝 。近藤圭一訳)/潮出版 社版ゲーテ全集第七巻『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(前田敬作 。今村孝訳) トーマス・ マン『プデ ンプローク家の人々』 この長篇小説 には「ある家族 の没落」という副題がついている。 この副題が示すように
,こ
れは, 十九世紀の中葉,北
ドイツのある港町に,大
きな穀物卸商 を営 む一家四代の,最
後 はこの商会の解 体 と一家の離散 に終 る,お
よそ五十年 に渡 る物語である。 ブデンプローク家 は,当
初,商
人 として 有能で人間的に もた くましい家長の下 に繁栄 を誇 っているが,代
を追 うに従 い,次
第 に文化的に洗 練 され精神化 されて,遂
には,こ
の地上の「残酷 な生」 に立 ち向か う勇気 を失 って,没
落 してい く186
武 ところで,私
はこの本 を今か ら十五,六
年前,深
い感動 を持 って読んだ ことがある。 しか し,そ
の ときが既 に再読で,最
初 は一―予備校生の時だ った と思 うが一― どこか らか この小説の名作であ ることを聞 き及んで,読
んではみた ものの,何
がお もしろいのや らさっぱ り分 か らず,最
後 まで読 み終 ることを唯―の徳 として,意
地で読 み切 った ようなあんばいだった。 それか ら数年後,大
学三年生の春休 み,私
は卒業論文 との関係で,も
う一度 この本 を手 に した。 おもむき 今度 は初 めか ら趣 が まるで違 っていた。かつて退屈 の極 みだった ものが,な
ぜ今回はこれほ どお も しろいのか。訳者の一人が「 櫓 の組立 てにも似た」 と形容す る厚みのある文章で,時
にイローニ ッ シュに,時
にユーモラスに,し
か しあ くまで も冷静 に坦々 と綴 られたブデンブロー ク家半世紀の歴 史 を,こ
の一族の生 と死 を,私
はあわててページをめ くろうとす る右手 をほ とん ど左手で押 えるよ うにして,ゆ
っ くりと読 んだ。 そ して,最
終章,
トーニ 。ブデンブロークが,兄
嫁 ゲルダ との別離 の席で,既
に幽明の境 を異 にした家族 を思いや り,「兄 さん,お
とうさま,お
じい さま,そ
してほか のみんな/み
んなはどこに行 って しまったの?み
んなにはもう会 えないのね」(十一部四章)と嘆い て,激
しく泣 いた とき,私
もともに泣かずにはい られなかった。感動 は深 く,私
はそれか ら一週間 ばか り,あ
る名状 し難 い興奮状態の中にいたように覚 えている。 しか し,私
が この作品に激 しく心 を動か された とい うのは,単
に,名
人芸 を思わせ る味わい深い 文章で美事 に描 きあげ られた一商家の没落の歴史 その ものに強い感銘 を受 けた,とい うことのみを, 意味 していない。 その とき,私
には,こ
の読書 を通 して,心
中深 く思 い知 らされた ことが ほかにあ ったのである。 その一つは,人
は必ず死 ななければな らない,
という単純 な一事である。一商家の 五十年に及ぶ栄枯盛衰 をながめや って,共
感す るところの多い幾多の登場人物 の生死の有様 をつぶ さに見つめて,二
十二歳の私 は,人
間はこの世 に一度生 まれて きた以上必ずいつか死 んでいかなけ ればならない ことを,あ
たか も今初 めて教 えられたかのように,突
然,悟
ったのである。 ブデンブ ローク家の主だった人々 は既に死に絶 え,わずかに生 き残 った者たちのわび しい別れの宴 を描 いて, この長い物語 に幕が降 された とき,私
はいつの 日か,同
様 に,わ
が家族の死 に絶 え,己
れ もまた確 実に死んで行 く日の来 ることを,ま
ざまざと感 じて,言
い知れぬ深い悲 しみ と,そ
して同時 に,あ
る不思議 な慰 めの気持 を味わったのである。 私の この「死」の認識 は,同
時 にまた,私
の「人生」認識の第一歩であった,
といってよいか も しれない。私 はこの時初めて,人
生 とい うものの本 当の有様 を,い
わば「人生の全体像」 を把握す ることがで きたように感 じたのである。つま り,こ れ まで人生 というものを,若
さ故 の性急 さか ら, ただ一方的に「生」の方向か らのみ見ていた私 は,今
,こ
れ を「死」の方向か らも見 る眼のあるこ とを悟 って,こ
こに初 めて人生 を全的に把握することがで きたように感 じて,感
動 したのである。 しか し,そ
れにして も,こ
の小説 には何 とた くさんの「死」が描かれていることであろう/一
一 早 くも第二部で手短かに語 られ る老アン トアネ ッ ト・ ブデンブロークとその夫 ヨーハ ンの「安 らか 修ドイツ文学の傑作
187
な」死。(妻を亡 くしたあ と口癖 になった ヨーハ ン老人の,あ
の「 奇 妙だな……」 とい う独 言が, 私 にはいかに も印象深 い。)前半部 を締 め くくる形 で,第
五部最終章 において描かれ るのは,
トーマ ス,ク
リスティアン、 トーニ,ク
ララ四兄 妹の父 ヨーハ ン・ブデンブローク領事 の死 である。領事 は未だ老境 にある とは言 えず,大
商会の信望 を担 って,日
夜業務 に励み,休
む暇 もない。彼 はある 日,執
務中に,仕
事机 に俯 したまま,誰
に看取 られ ることもな く,こ
の世 を去 って しまう。 この二 代 ロヨーハ ンの急逝 を描 く作者の筆 は,簡
潔 を極 めているが,逆
に,微
に入 り細 をうが って徹底的 に描かれるのは,その妻エ リーザベ トの臨終 の様子である。大富豪 クレーガー家出身の この女性 は, 晩年 には敬神 と慈善 に充 ちた生活 を送 った とは言 え,本
質的には「安楽 な生活 と生活 その ものに対 して,静
かな,自
然 な,変
ることのない愛着」 を抱 いていて,最
後 まで「天 と自分の強烈 な生活力 とを和解」 させ ることがで きない。 それ故,彼
女の死 は,
これを見守 る子 どもたちが正視 す るに耐 えないほど苦 しい もの となる。(九部―章)更
に,こ
の物語の主人公 トーマス・ブデンブロー クの無 漸な,し
か し,
どことな く滑稽 な死。歯痛のため,路
上 で昏倒 した トーマスは,泥
まみれの,い
か にもみ じめな姿で家へ運び込 まれ る。そ して,信
じ難 いことに,そ
の まま息 をひ きとって しまうの である。そのため,ブ
デンプローク市参事会員の死因は一本の虫歯だった とうわ さされ る。 そ して 最後 は,医
学書のチフスの症状の説明文 に も似た即物的な文章で暗示 されるハ ノーの悲 しい夭折 … ぎま ゅす この様々な人間の死 に様 こそ,何
よりも,若
い私の心 を捉 えて,揺
ぶ り,人
生 には「生」の側面 のみならず,「死」の側面の不可欠であることを教 え諭 して くれた ものであ った。 ところで,大
学三年生の ときの読書で,深
く肝 に銘 じた ことが,も
う一つあった。 それ は,こ
の 作品の もう一人の主人公 とも言 うべ き トーニ ことアン トーニエ 。ブデンブロークを,作
者が一― し ば しば皮肉や諸誰 を交 えなが らも一―実 に丁寧 に愛情深 く描いていることである。 それ までの私 に とって,
トーニの ような,自
分の家柄 を鼻 にか け,虚
栄心が強 く,上
っ調子で,他
人 の言葉 を自分 の言葉であるかのように口にして,悟
として昴bじないような女 は,た とえ小説中の人物 で あって も, 関心 も同情 も寄せ ることので きない,取
るに足 りない存在で しかなかった。 しか し,今
回はまた こ の点で も様子が違 っていた。開巻 冒頭で,ま
だ小学校 に這入 るや這入 らずの可愛 らしい少女 として 登場 し,最
終章 では,三
度の離婚歴 を持つ「人生の試練 を受 けたJ六
十歳の老婦人 になっているこ の女性の生涯 を,私
は今回は深い同情 と共感 を持 って跡づ けることができたのである。(ち なみに, トーニは,
この物語 において,最
初か ら最後 まで,全
編 に渡 って登場するただ一人 の人物 である。) トーニが,私
が先 に言ったような,あ
る意味で軽薄 な女であることには,何
ら変 りはない。 しか し,
トーニ を描 く作者の筆 は,「他人 を裁 くな」とい う神 の掟その ままに,決
して これ を裁かないの である。む しろ,一
―書 き始めの時点では,た
ぶん,作
者 自身が思い設 けもしなか った ような一― ある内的な強い同感 と愛着 とを持 って,こ
の女性 の半生 を丹念 に描いて行 くのである。 そ して,こ
188
武 こに立 ち現われ る トーニの,何
と魅力的であることか/何
故 にか,わ
が意 に反 して失敗 と不幸 とば か りを重ねてい く薄幸の女 トーニ。 しか し,ど
んな不幸 も失敗 も決 して我身一つの こととして胸 の うちに留め置 くことがで きず,い
つしか己が自慢,誇
りにして しまう トーニ。彼女は悲 しい出来事 に出会 うたびに,い
つ も,な
りぶ りか まわず子供の ように泣 いた。ペルマネーダー氏 に裏切 られた とき,両
親の家が売 りに出 された とき,ゲ
ルダ との別れに際 して……。幾多の不幸に際会するたび に子供のように泣 き, しか し, これを深刻 に受 け取 る ことだけはどうして もで きなか った トーニ。 この「おろかな」女の何 と愛 らしいことか/ (作者が最初 に この作品 を構想 した とき,念
頭 にあったのは,三
百五十ページばか りの中篇小説 であ り,作
者のね らいは少年ハ ノーを,せ
いぜげゝトーマス 。ブデンプロークを描 くことにあった。 それに先立 つ「前史」 は手短かに片附 けられるはずであった。それが思いがけず長い ものになった 第一の理 由は,た
ぶん,
トーニの青春時代が予定以上 に詳 しく語 ら,れたか らであろう。第五部 にお いて,ブ
デンプローク家のいわば トーマス時代が始 ま り,こ
こか ら彼が この物語の主人公 として登 場するのだが,
ここまでの最初の三百ページの主人公 は,い
ったい誰であるか と問われれば,
トー ニ と答 えるほかないことを,注
意深い読者 は気附かれた ことであろう。作者は,お
そ らく,少
女 ト ーニを描 いてい くうち,み
ずか ら創造 した この人物 に,思
いが けず愛着 を深めて行 き,彼
女の人生 行路 をた どることに,筆
を惜 しまなかったのであろう。) さて,私
が この とき,
このいささか滑稽で,
しか し愛すべ き女 トーニ・ プデンプロークの半生 を た どって,深
く肝 に銘 じた ことは,先
ほ ど述べた ことと同様 に,誠
に単純明瞭なことだが,し
か し, その ときまで私が本当には決 して知 らなかった一事,つ
まり,人
間 は,ど
んな人間であろうと,生
きて行かね ばな らないのだ,と
いうことである。人間 は,ど
んな人間 も,生
きて行 かねばな らない, それが所謂 「おろかな」 あるいは「 まちがった」生 き方であろうとも。人 にはしばしば,そ
うい う 風 にしか生 きて行 くことので きない理由があるのだ,ち
ょうど トーニがそうであった ように一― 私はその とき,他
人 を裁 くな /と 強 く思った。 その人 の生 き方が賢明な ものであったか,愚
かな ものであったか,そ
の人生が肯定 され るものであるか,否
定 され るものであるか,そ
れは究極の と ころ,人
間の業 を越 えた事柄ではないか。他人 を裁 くな,作
者が トーニ を裁 いていないように。 こうして,
この本 は若 い私 に とって,単
に一冊の「愛読書」 というよ り,「人生の書」 になった。 ひもと その後 も二、三度読み返 したように思 う。今回は久 しぶ りにまた この名作 を籍いたのだが,
トーニ のあのセ リフの ところに来 ると,同
じように目頭が熱 くなった。 この小説 は長年 に渡 って実 に多数の読者を獲得 してきた らしい。ある文学案内の書に,既
にこれ までに少 な くとも百二十万部が売 られた と記 されている。全 く読者に娼び諮 うところのないこうい う一見地味な作品が これだけの人気 を博 して きた理 由はどこにあるのであろう。色々考 えることが 士 心 修ドイツ文学 の傑作
189
できるかもしれないが,私
は,今
回読み返 してみて,そ
れは全 く単純 な理由によるのだ と思 った。 つまり,こ
の小説が読者 に人生 というものをしみ じみ と感 じさせ るか らだ。読者 は,
この ドイツ北 方の小 さな港町 に生 きた,穀
物卸商ブデンプロークー家の半世紀 の歩みをともにして,彼
らが読者 と同 じように,人
生の各場面で,あ
るときは喜び,あ
るときは悲 しむ姿 を間近かに見 て,己
が人生 を,あ
るいは人生 その ものヽを思いやって,こ
れ をしみ じみ とかみ しめるのである。 そ して,こ
れ こ そ文学作品 を読 む ことの本来の喜ぴであ り,醍
醐味ではあるまいか。 この醍醐味 を十分 に満足 させ て くれるか らこそ,こ
の小説 は,幅
広 く根強い人気 を博 してきたのであろう。 更 に,今
回読み返 して,あ
らためて感嘆 したのは,こ
の,ま
だ二十代前半 にあった作者の最初の 長篇小説が,言
葉の洗練 されていること,表
現の的確 さ,筋
の運 びの巧みさ等々,小
説技術上の点 か ら見ても,ほ
とん ど完壁 な出来栄 えを示 していることである。例 えば,先
に も述べたように,こ
の物語の中には多 くの「死」が描かれているが,
このあ またの「死」が,あ
るときは簡潔 に,あ
る ときは即物的に,あ るときは情感 をこめて,あ
るときは附随的に,あるときは真正面か らと,様
々 に 描 き分 けられて,こ ういう年代記的物語 に附 きものの単調 な繰 り返 しを美事 に克服 している。 また, 叙述の方法 も,客
観描写 あ り,手
紙形式あ り,モ
ノローグあ りで,多
様 な形式が用い られているが, その一つ一つが各場面で生 き生 きとしたイメージを喚起 す る ことに成功 していて,読
者 は,こ
の七 百ページを越 える長篇 に全 く退屈する暇がないのである。 さて,最
後 に私 は,こ
の物語の数多い登場人物 の中で,一
人 トーマス・ブデングロークについて, 若干の言葉 を費 したい と思 う。 それは,こ
の人物が この小説の主人公――少な くとも最 も重要な登 場人物の一人一― と目され るのみな らず,私
が この本 を初 めて読んで以来,最
も興味 をひかれ,そ
して打 ち明 けて言 えば,最
も共感す るところの多い人物 だか らである。 トーマス・ ブデンブロークを特徴づけているのは,彼
が一方においては大商会の有能な社主,敏
腕の市参事会員であ りなが ら,他
方においては,普
通の市民の水準 をはるかに越 えた内省家 として, 心中ひそかに,人
生あ るいは人生の意義 について深い懐疑の念 をいだいていることである。トーマ スの外貌には祖父 ヨーハ ンを街佛 とさせ るものがあるが,
この祖父には人生への懐疑の思いは未だ なかった。彼 は「現在 にしっか りと足 を踏 まえた」人間で,商
人 として有能で,次
々 と大 きな成功 をかちえて生 きた。人生の意味な どに思 いまどう暇 はなか った。先代の遺訓「わが子 よ,日
中は業 務 にいそしむべ し。 され ど,夜
とな りて安 らかに眠 りうる仕事 のみなすべ し」(二部一章)を信条 と していれば,人
間 として良心の痛 むこともなかった。トーマスの父になると,
しか し,既
に多少事 情が違 って くる。代々受 け継がれて来た,一
家の歴史 を叙 した家族簿 に,最
も熱心 に書 き入れをす るのは,こ
の二代 ロヨーハ ンである。彼 は,自
分の人生の重大 な局面では,常
に自分がブデンブロ ひとつな くきり ―クー家 とい う一繋が りの鎖の輪の一つ として生 きていることを,強
く意識せずにはい られない。190
武 これを彼 は決 して深 く自覚 しているわけではないが,
しか し,こ
の ことは,彼
が,近
代人 の生 を特 徴づける,人
間一人一人が切 り離 されて生 きているという意識 を,い
やお うな く内部 に持 ち始めて いる証左であると言ってよいか もしれない。彼が本当の意味での宗教家ではないにもかかわ らず, 熱心なキ リス ト教徒 として,信
仰箇条の字旬 に拘泥す るというの も,近
代人の「己れ一個 に差 しも どされた生」(ヤスパース)を,無
意識 に回避 しようとしているため とも見 られ よう。 しか し,こ
の 二代 ロヨーハ ンにおいては,熱心なキ リス ト教徒 と目端の利 く実業人 とが未だ何 の飢解 もきたさず, むしろうま く一体 となって,彼
を問題のない人物 にしている。 しか し,彼
の息子 トーマスになると,様
相 は一変 し,何
か危機的な ものが現われて くる。 トーマ スの心中には,常
に人生 に対 する懐疑の念が,わ
だか まっている。 しか し,彼
は,市
民たちの見 る ところ,あ
くまで も決断力 ある商人,有
能な市参事会員であ り,ま
たみずか らも固 くそう信 じてい るので,そ
の結果,彼
の自己意識 は絶 えず分裂せ ざるを得ない。彼 は,晩
年のある日,一
人み じめ な思いで自間す る,「私 は実際的な人間なのだろうか,そ
れ とも繊細 な夢想家なのだろうか?」 と。 (八部四章)この 自己分裂の意識 こそ,
トーマスを若年の ころよ り最 も苦 しめて きた ものであった。 トーマスは弟 ク リスティアンを嫌 ったが,そ
れ は単 に弟が厭 うべ き無能 な存在であったか らではな かった。 この地上の「苛酷 な人生」 と戦 うことを避 け,繊
細 な感受性 を持 ちなが らも,あ
われな道 化 として一生 を送 った弟 ク リスティアンに,彼
は人生 に敗北 した自己の姿 を見たのである。 若 くして大商社の社主の座 に就 いた当初,次
々 に大 きな取引 きに成功 をおさめ,有
力な商人 とし て,多
くの同業者や市民の賛嘆 を一身に浴びたが,
しか し彼 は,既
に当時か ら,小
さな故郷の町に おける商人 としての己れの活動 を,決
して何の疑念 もな く意味あるもの と受取 ることがで きたわけ ではなかった。伯父 ゴッ トホル トの臨終の場で,トーマスは一人考 える,「この地上の一切 は比喩に すぎない」(五部四章)と。彼 は,ブ
デンブロークとぃ ぅ由緒ある名 も,自
分 の商人 としての成功 も, 教養ある市民 としての声望 も,故
郷の町の小 さな世界の ことにす ぎないことを知 っている。しか し, 彼が まだ気力 もあ り,成
功 に も恵 まれていた とき,己
れの夢想癖 を逆手 に取 って,「小 さな町 におい て もカエサルになれ るのだ」(同)と考 えることがで きた。 しか し,成
功 に も見離 され,気
力 も衰 え た とき,彼
の分裂 した意識 は,ど
こにも安心立命の場 を見い出す ことがで きない。彼 はある日,シ
ョーペ ンハ ウアーの主著 に読 みふ けるという経験 をして,そ
の影響 によって,一
瞬の間,自
己の永 遠の生 を信ず ることがで きるが,
しか し,そ
れ もたちまち,日
常の営為の うちに,雲
散霧消 して し まう。結局彼 は,迷
いの うちに,あ
る回路上で昏倒 して,未
だ五十代の若 さで この世 をあ とにす る この,一
方 において有能 な商人,市
参事会員であ りなが ら,他
方,繊
細な感受性 を持 った内省家 として,自
己意識の分裂 に苦 しむ トーマス・ ブデングロークの姿 は,当
時同 じような立場 にあると 感 じていた大学生の私 に とって強 く共感す ることので きるものであった。人生の意義 な どに深刻に 士 心 修ドイツ文学 の傑作
191
悩 むことな ど決 してな く,有
用な社会人 となるべ く,勤
勉 な,あ
るいは,怠
情 な学生 として毎 日を 送 っている同輩 たちの中にあって,己
れの どんな能力 も全 く彼 らに劣 るとは思われないが,ど
うし て も彼 らと同 じようにぶるまえない自分一―。 当時私 は,
トーマス・ ブデンブロー クを,あ
たか も 彼が現実に存在 した人間であるかのように,そ
の姿 をわが,いの中に育み,し
ば しば彼 と対話 した も のである。 先ほど,こ
の本が幅広 く根強い人気 を博 して きた理由に触れたが,そ
れはまた,こ
の小説が,近
代 における「己れ一人 に差 しもどされた生」,近
代人の分裂 した自己意識の,次
第 に深 刻 に,自
覚的 になってい く様子 を,
トーマス・ブデンプロークを中心 に,美
事 に描 き切 っているか らで もあろう。 読者 はこの物語 に,十
九世紀 中葉,あ
る地方都市 に生 きた一商家の没落の運命 を見 るのみな らず, 近代 に生 きる人間の,生
の様相の推移 を も同時 に読み取 るのである。〔TeXt〕 ThOmaS NItann Gesammelte Werke in dreizehn Banden,Band I Buddenbrooks Verfall einer Familie, S Fischer Verlag,Zweite,durchgesehene Auflage, 1974
〔翻訳〕新潮社版 トーマス・マン全集 I『 ブデンブローク家の人々』(森川俊夫訳) ハ ンス・ カ ロッサ 『ルーマエア 日記』その他 カロッサ と言 って も
,最
近の学生のほ とん どが,名
前 も聞いたことがないであろう。小 島公一郎 氏の『ハ ンス・ カロッサ』 によると,本
国 ドイツで も,こ
の作家 は,戦
後次第 に読 まれな くなって 来ているらしい。「今 日(1970年)西
ドイツの国語教科書でカロッサの文章 をのせてい るものは絶無 であるJ―
― そ ういう報告 もあるそうである。 しか し,こ
の作家 は一一本国ではいざ知 らず一―わ が国ではほんの二十年前 まで くらいは,(と
い うことは,戦
後 も)広く読 まれ,
ドイツ語 を学ぶほど の者 なら,学
生時代 に教室で この作家の作品を読 む ということも,ま
れではなかった ようである。 私 自身 は三十 を過 ぎて初 めてこの作家 を読んだ。たいへん遅 い出会いである。早 く読 んでおけば よかった という気 もす る。カロッサ自身の大学時代 を描 いた『美 しき惑いの年』 を,自
分 も大学生 であった時 に読 んでおれば,き
っ とまた違 った感想 を抱 いたであろう。 しか しまた,ち
ょうどよい 時に出会 ったのか もしれない。それ とい うの も, この作家の作品を理解するのに,困
難 とい うほど の ことは特 にない として も,そ
の勁 く静諭な筆致 を,ま
た,「叡智」とす ら言いた いその人間 と世界 に対する深い洞察 を味わ うには,多
少 とも読者の成熟 を必要 とす るように思 えたか らであ る。 いずれに しろ,
このような作家が,現
在本国で もわが国で も全 く顧 み られていない とい うのは誠 に残念な気がす る。ハ ンス・ カロッサ という作家の存在 を知 って,学
生諸君の誰 かが 自分 も読んで みようとい う気 にな られた ら幸いだ と思い,以
下 に紹介 とも雑感 ともつかぬ一文 を綴 ってみた。192
武 初めに,カ
ロッサの年譜 を見て,紹
介 しておいた方が よい と思われ ることを,二
、三手短 かに営こ してみる。 生年は1878年 (明治11年)で
ある。 これは,
この作家が,日
本でよ く知 られている ドイツの大作 家・ 詩人 たち,
トーマス・ マン (1875年生),
リルケ (1875年生),ヘ
ッセ (1877年生)等
と同世代 人だ とい うことであるが,そ
れはまた,未
だ十八,九
世紀の ヨーロッパの精神遺産 を総身 に受 けて 育 った世代 であることを意味 している。マ ン,ヘ
ッセ と同様 に,カ
ロッサの最高の「師」 はゲーテ であった。 履歴で最 も注 目すべ きは,こ
の作家(詩人)が
,一
方において また医者で もあった ことであろう。 医学部 に通 っていた学生時代,若
いカロッサは,自
分 は詩人であ り,医
学 は二義的な もの,
と思 っ ていた らしい。 しか し,学
校 を出て,医
業 を始 めてみる と,こ
の仕事が,詩
人であることと同様 に, 最高の人間的誠実 を要求するものであることを知 らねばな らなかった。医業の放棄 ということを何 度 も考 えた らしいが,詩
人 であ り医者であることに深 く苦悩 しつつ,結
局五十一歳 の年 まで開業医 であ り続 けた。彼 は医者 として も傑出 していた らしく,あ
る時期 カロッサの診察 を受 けた ことのあ るリルケは,こ
の深 く人間 を知 った医者 に出会 えた ことを,何
にも増 して喜ば しいことの一 つ とし ている。カロッサが作家であるとともに,医
者 で もあった ことは,言
うまで もな く,作
品のテーマ に,素
材 に,決
定的な影響 を及ぼしている。 さて,
ここで もう一つ言 っておかねばな らないの は,こ
の作家の散文作品の多 くは所謂 自伝小説 だ ということである。カロッサは,例
えば トーマス・ マンにおけるような,壮
大 なフィクションを 造形す る力 は本来なかったのか もしれない。 しか し,そ
の ことは,だ
か ら彼 は自伝小説 を書 いた, ということを意味 しない。彼 は若年のころか ら詩 を書 き,そ
して,生
涯詩 を書 き続 けた。処女出版 も1910年,三
十二歳 の時の「詩集」である。ハ ンス・ カロッサはまずはじめに詩人であった と言わ ねばならない。一方,自
伝小説 は,こ
の詩人が最初 か ら計画 して書 こうとした ものではな く,い
わ ば彼の内部か ら自然 にほ とばしり出てきた ものなのである。1914年の対露宣戦布告がなされてか ら まだ幾 日も経たぬある日の夜,三
十六歳 のカロ ッサ は,ス
パイ として射殺 された男の死体 の検視 を 終 えたのち,疲
れた身体 をひきずって,何
か暗 い気持で河辺 をわが家へ と急いでいた。 と,突
然, 遠い幼年時代の一駒が,眼
前 に見 るかの ように生 き生 きと蘇 って きた。一駒 は次の一酌へ と続 いた 一―。 その時,彼
はあ りあ りと過去の姿 を見,同
時 に,
この蘇 った過去の姿 を通 して人間存在の意 味合 を感得 して「幼年時代」を書いたのである。 カロッサの自伝文学は単なる過去の追想ではない。 それは,過
去の姿 とそ こに生 きる人間の存在の意味が同時 に感得 され るようなある「何か」である。 今回私が読んだのは『幼年時代』『青春変転』『美 しき惑 いの年』『 ドク トル・ ビュルゲルの運命』 『ルーマエア日記』の五篇である。 どの作品 も何か微光 を発 しているような,よ
く抑制 の きいた筆 志 修ドイツ文学の傑作
193
致に貫かれていて,読
む者の気持 を引締 めると同時 に,あ
るおだやかさをもた らす。作者 は『美 し き惑いの年どの中で「芸術作品には私たちの内部 にある 〈人 と結ぶ心〉 を強めて くれるもの と,私
達 を個別の境地 に誘 い こむもの とがある」 と言 っているが,カ
ロッサ 自身の作品 はどれ もこの前者 に属するもの と言 えるだろう。 この五篇の 自伝 的作品を読んで まず気づ くのは,ど
の作品にも,悪
党や悪人 は言わず もがな,一
方的に否定的 に描かれたような人物 は一人 も登場 しない ことである。この ことを別の言葉で言 えば, カロッサ文学の世界 は,対
立や否定の世界ではな く,融
和の世界 であるということである。 この我 々の対立 と否定 の時代 に,こ
ういう作品世界が存 す ることを思 うと,こ
れは,既
にこれだけで何 か 特筆すべ きことの ように私 には思われる。 この作家の精神 の眼には何事 をも治癒する力が宿 ってい て,
この精神の眼 に見 られた人物や風景は,す
べて深 く痣 されて,あ
る犯 しがたい,お
だやかで意 味豊 かなものへ と変容す るかのようである。 しか しなが ら,誤
解 してな らないの は, この ことは, この作家が殊更 に物事 の悪 しき面 を見逃 し,肯
定的面のみを見 ようとしているのではない,
とい う ことである。 そ うい う感傷 はこの作家 にはない。 そうではな くて,そ
れは,事
件 や事物 の うちに在 る人 間的側面 を決 して見逃 さない,忍
耐強い,注
意深 い眼 なのだ,と い うことである。この ことを最 もよ く示 しているのは,戦
争文学の一つの記念碑的傑作 『ルーマニア日記』の中にあるあの少年 と 仔猫のエ ピソー ドであろう。多少長 いが,引
用 してみる。 《今 日の正午,わ
た しはある場面の目撃者 となった。(・・…。)数
週間以前,こ
の家でた くさんの猫 が生 まれた。家人 がそれを今では荷やっかいにしていた。 ことにそれ らの猫 の仔 にや る牛乳がなか ったからだ。 この うちに働 いている十五歳 ぐらいの少年が,こ
のあ り余 る猫の始末 をつけろ といい つけられた らしい。少年が中庭越 しに仔猫 を運んで行 くのを,わ
た しは自分 の部屋で書 きもの をし なが ら見ていた。 どうするつ もりだろうと思 っているうちに,少
年 は仔猫 を一つずつ信 じられない ほどの素速 さで納屋の壁 にたた きつけ始めた。投 げつけられた仔猫たちは壁の前に死んでたおれて いた。小僧 はいつ ものように腕 をふ りふ り口笛 を吹 きなが ら台所へ引 き返 して行 った。台所ではち ょうど食事がだ されていた。小僧 もほかの連 中の仲間入 りをして,の
ん きに食事 していた。 ところ が処刑 された仔猫 の うち,顔
と胸 と足が白 く,首
に明 るい銀色の毛がはえている灰 白色の,ほ
かの とは全然ちが った一匹 は気絶 しただけで,次
第 に生 き返 って きた。 その仔猫 はよろよろ と小 きざみ に歩 こうとし,立
ち どまって,二,三
度前足で耳の ところをなでた。 そうすれば正気 に立 ち もどれ るとで もいうような様子だった。 それから中庭 を横切 って家の中へはいってきた。その時になって 初めてあごの ところに血が流れているのがわた しの 目にとまった。 そのほか は別 に どこもけが をし てはいない らしか った。仔猫 はため らいがちに台所 の ドアか ら中へ行 ってきて,あた りを見回 した。 食事中の人間 を見 ると,仔
猫 は一生 けんめいになってベ ンチに飛びあが ろうとした。二、三度や っ194
武 たあげ く,遂
にそれが成功 した。 それか らしば らく仔猫 はじっとしていた。その うち仔猫 はうまそ うに口を動か している自分の殺害者のひ じに,親
し く哀願す るようにす りよった。(・……)小僧 は仔 猫 を認めた時,最
初 はまだその まま食事 しつづけていたが,突
然嘔気 と戦 うようなふ うを見せ,
し ゃっ くりのような ものがではじめてスプー ンを投げだ して しまった。ほかの者が立ち去 ってしまう と,仔
猫 をおそれ るような,そ
こにそうして生 きていることを疑 うような様子で,用
心深 くなでて や り,最
後 には自分 にで き`か ぎりの慎重 さで,ま
るで瀬戸物出来の置 き物 を扱 うような手つきで 仔猫 をテーブルの上 にのせて食べ残 しの肉 とパ ンとをちぎってや った。仔猫はそれを少 しばか り食 べ た。それが彼 をひどくよろこばせた。主婦がはいってきた時,小
僧 はひ どく熱心 に何事か主婦 に 話 しだ した。マチュカ とい う言葉がたびたび きこえた。 そういいなが ら彼 はそのつ ど仔猫の方を指 さ した。主婦 は黙 って仔猫 を見て,ま
た部屋 をでて行 った。 それか ら小僧 はまた中庭 での仕事にも どって行 き,死
んだ猫 の仔 を生 きていると同 じように用心深 く拾 い上 げて,ど
こかへ持 ち去 った。 人柄が少 し変わったように思われた。顔 つきがはっき りとしてきた し,歩
き方 もしっか りとして き た。この時以来,こ
の少年が口笛 を吹いているのをきかなかった。》 見 るべ きものが見 られ,そ
してそれが,性
急な判断や意見 を全 くさしはさむことな く,沈
着 とも 言 うべ き落 ちついた文章 によって的確 に描写 されている。何度読 んで も飽 きない箇所である。作者 の注意深い眼は何か をことさらに見 ようとしているのではな く,己
が前の少年 と仔猫 の動 きを静か に とらえて,そ れを一語 の無駄 な く描写す ることによって,いわば出来事 自体 にその意味 を語 らせ, これだけを取 り出せばさしたる印象 もな く見逃 される場面 を,我
々すべてにかかわ る,一
つの忘れ がたい意味深長 なエ ピソー ドヘ と仕上 げるのである。 初めに書 いたように,
この作家 は,現
今,本
国 ドイツにおいて も我が国において も,そ
れほど読 まれていないようである。察するに,カ ロッサ文学の「隔和の世界」,この作家の地味で,控
え日で, 肯定的な姿勢 は,現
在の「複雑 な」世界 においては,「アクチュアルJな 意味 を失 った とい うことで, 顧 みる人が少ないのだろう。 それ はそれでよい。多 くの人が好 むのは,目
立 た しく分か り易いもの である。加 えて「現代 的問題」で も捉 えて,威
勢の よい批判で もくわ えていれば,読
者,特
に若 い 読者の注 目を集めることがで きるだろう。ハ ンス・ カロッサにはどんな意味で も派手な ところがな い。それに,彼
が書 くに値 すると思 った ものは,決
して所謂 アクチュアルな事柄 ではな く,い
わば 古典的人間事象であった といってよいだろう。 ここで,い
かに もカロッサの作風 と人柄 とを思わせ る場面 を引用 してみたい。 これ も『ルーマニ ア日記』の一節である。 修ドイツ文学の傑作
195
《ハ ンガ リー軍の観測将校 がわれわれの仲間に加わった。 しまいにわた しとハ イラー中尉 とが彼 の観測地点 に招待 されて,お
茶 をごちそうになった。鋏状観測鏡 ものぞかせて もらった。(・・・)わた しは観測鏡の中に,濯
木のおい茂 った小 さな石だ らけの丘 を見つけた。大 きな樹木 はほ とん どはえ ていない。河ヽさなね じをまわす と,突
然た くさんのルーマニア兵 を発見 した。杜松 のやぶかげで菫 壕 を掘 っているのだ。観測将校 に教 えてや ろうか と思 ったが,何
者かがわた しをお しとどめるよう な気が して黙 っていた。初 めてわた しは人 を殺す義務の前 に立たされ ることになった。なぜか とい って,相
手 を見のがせば,つ
ぎの瞬間,や
られ るのは こっちである。 しか し向 こうの方で菫壕掘 り をやっている連 中は,こ
の小 さなレンズの中に とらえ られて,い
わばわた しの掌中にある。ひ とり は今 まさにパ イプにたばこをつめているし,他
のひ とりは水筒の水 を飲んでい る。みんな知 らぬが 仏で安心 しきっている。わた しが もらさぬか ぎ り,み
んな無事 なのだ。一―軍人で はな くて,自
分 自身 とどうにか こうにか平和 に暮 らして きたわた しご とき人間に とっては,こ
れ は奇妙 な状況 にち がいなかった。心臓が どきどきし始 めた時 に,か
な り年輩のボスエアの大尉がや って きた。昨夜休 暇か ら帰来 した彼 は,活
発 なお しゃべ りでみんなの注意 を自分の上へ引 きつけたので,魔
法の望遠 鏡の ことはす っきり忘れ られて しまった。》 ここに描かれた数瞬のカロッサの態度 を,あ
る種 の人々は,お
そらく,な
まぬるい平和主義 と非 難す るであろう。一方,所
謂平和主義者 は,消
極的だが ともか く無惨 な殺家 に対 す る抵抗の姿勢 と して,何
が しかの評価 をす るか もしれない。 どち らもまちがっていると思 う。いったい,こ
うい う 類の人間的状況 における他者のふ るまいを示 されて,人
がそれを非難 した り評価 した りす るとい う その態度 自体が,私
には理解のいかぬ ことである。『ルーマニア日記』全篇 を読 めば,こ
の軍医が猛 勇の武人で もなければ,繊
弱な「平和主義者」で もないことは一 目瞭然であろう。彼 はあ らゆる場 面で,自
己ので きうる限 りの力で,平
常心 を失わず,有
能な軍医,一
個の人間た らん とつ とめてい る。この場面で もまたそうなのだ。彼 は言 う,「何者かがわた しをお しとどめるような気が して黙 っ ていた」と。 ここには,人
間 を越 えた「何者か」の声 を聞 く自覚 した人間がいる。 そ して,
この「人 間」 はこの何者かの うなが しに従 いなが ら,そ
の瞬間の状況の推移に身 をまかす。 ボスエアの大尉 がはいって きて,皆
の注意 を引 きつけ,望
遠鏡の ことは忘れ られる。 自然の成 り行 きである。是 も 非 もない。状況の とりこにな らず,し
か も己れが眼前の状況か ら完全 に自由でない ことを知 ってい る人間,作
者 はここでそうい う人間 を描 いている。 そうい う人間の数瞬の姿 を,
ここで もまた,
こ の場面 自体 にその意味 を語 らせ るかの ように,描
いている一一 これがカロッサの作風 であ り,
ここ に,こ
の作家の人柄がよ く現われている。196
武 〔翻訳〕河出書房『世界文学全集30
カロッサ』(手塚富雄・高橋義孝訳) エー リヒ・ ケス トナー『飛ぶ教室』 『飛ぶ教室』 は今か ら五十余年前,1933年
に発表 された ものだが,こ
れは今 も少年文学 の傑作, 否,最
高傑作の一つに数 えてよい ものであろう。全篇,文
学作品の名 に値する歯切れの よい生 き生 きした文章で貫かれ,何
よりも,児
童文学 に通弊の子供だ ましの退屈な空想や嘘が全 くな く,人
間 的真実にあぶれている。私 は一読,再
読 して誠 にすがすが しいものを感 じた。 しか しなが ら,そ
れ はまた,こ
こには全 く子供だましの嘘が書かれていないか らとい うだけでな く,も
っ と積極的 に,作
者が一個の成熟 した大人 として,
この「子供のための長篇小説」において, 自分の考 えや人生観 を一文の値引 きもな く,だ
れ憚 る ところな く吐露 しているか らで もあろう。例 えば,「第二 の まえが き」で著者 は,「子供 というものが極上のお菓子の こね粉 で出来ているかのよ うに」初めか ら終 りまで甘 く楽 しい話ばか り書 いている童話作家に腹 を立て,「子供 も時 にはずいぶ ん悲 しく不幸 になることがある」 と主張 して,
こう言 うのである。 《子供の涙 は決 して大人の涙 よ り小 さい ものではな く,大
人の涙 より重 いことだって,め
ず らし くあ りません。誤解 しないで下 さい。皆 さん/私
たちは何 も必要以上 に涙 もろ くなるには及びませ ん。私 はただ,つ
らい時で も正直 でなければな らない とい うのです。骨の髄 まで正直で。(・・・) 皆 さんは,ボ
クシングの言葉 をか りると,防
御 の時 も,ぶ
んば らねばな りません。パ ンチを忍ん で,こ
な して行 く修業が必要です。世の中 というものは,
とほうもな く大 きなグローブをはめてい ますよ。皆 さん/そ
れに対する覚悟がで きていないで,一
発食 らうと,小
さい家バエがせ きをした だけで,も
うばった りのびて しまいます。 そ こで,元
気 を出 し,不
死身になるんですね/そ
れを心 得た者 は,も う半分勝 ったような ものです。そ ういう人 はあまん じて打たれても,沈
着 さを失わず , 勇気 とか しこさをあ らわす ことがで きます。私が今言 うことをよく頭に入れて下 さい。 か しこさを 伴わない勇気 は不法です。勇気の伴わないか しこさは無意味です。世界史には,ば
かな人 が勇 まし かった り,か
しこぃ人々が憶病だった りした時がい くらもあ ります。それは,正
しい ことではあ り ませんで した。》 これを説教 とい うな ら,何
とも気持の よい説教 とい うほかはない。 このように作者が作中に顔 を出 して (今,引
用 したのは「 まえが き」か らだが),遠
慮会釈 な く自 分の考 えや意見 を述べてい くというのは,こ
の作家の一つの特質で もあ り,大
きな魅力 に もなって いるように思われ る。 いま引いた ところからも分かるように,年
少の読者 には十分 な理解が い くだ ろうか と思われ るような内容 も,決
して割引 きす ることな く語 りかけて行 くのである。子供の理解 力 を付度 して,安
易 に薄められた言葉ばか りが氾濫す る中で,ケ
ス トナーの一語一語の何 と凌剌 と 修ドイツ文学の傑作