『聖 なる泉』 におけるコミュニケーシ ョンの不可能性
長 柄 裕 美 (平成 6年 6月21日受理) は じめ に 『聖 なる泉』(T力θ Sαθ陀,助
妨(1901))は,ヘ
ン リー・ ジ ェイムズ (Henry」ames(18431916)) の 中期 の実験 小 説 を締 め く くる, きわ め て個 性 的 な長 編小 説 で あ る。 そ の評 価 は もち ろ ん,」 F ブラコール α F Blackall)が 指摘するようにこの作品の中で何が起 こるのかについてさえ,批
評 家の間で共通の認識が得 られてはいるとは言い難い。(1)その曖昧 さゆえに,多
くの読者 にとってこ の作品を読み進めることは,絶えざる苛立ちと虚無感 にさらされることを意味 している。レベ ッカ・ ウェス ト (Rebecca West)が この作品について,「雀 同士の関係 と大差無いつまらぬ関係の有無 を 探るために, カン トが 『純粋理性批判』 に費や した以上の知力を浪費 したもの」, と椰楡 したのは 有名である。・ )この作品の正 しい読み方は,DWジ
ェファーソン (D W JeffersOn)が 子旨摘するよ うに,謎
の解明を諦めることか ら始 まるのか もしれない。C)この小論は ,『聖なる泉』 とい う作 品 の持つ唯一絶対の意味を求めることを避け,読
者 と作品 との間の伝達 を不可能に し,意
味の読み取 りを拒むために仕組 まれた語 りのメカニズムを明 らかにすることによって,作
品の曖昧 さに込め ら れた意図を探ろうとするものである。 吸血鬼 のテーマ 『聖 なる泉』は,ロ ン ドンの社交会 を題材 に,一貫 して一人称 で語 られる物語である。語 り手「私」 (“I")は ,過
去 のあるパ ーテ ィーでの経験 を振 り返 って,自
省 的 に語 っている。 物語 は,「私」 が招待 を受 けた ロン ドン郊外 の ニューマーチ邸 (Newmarch)へ向か う途 中の列 車の中で始 まる。ニューマーチ邸の常連客で もあ る二人の人物,ギルバー ト・ ロング(Gilbert Long) とグレイス・ ブ リセ ンデ ン (Grace Brねsenden)に会 った「私Jは
,二
人が見違 えるほ ど変化 して いるのに驚か される。ハ ンサムなこと以外 に取柄がな く,愚
鈍で気の きかない「見栄 えのす る人 間 家具」(“a fine piece of human furntture")に )とで も言 うべ き存在 であったはずの ロ ングが,今
で は今では一 目見 て誰 なのかわか らない程 に美 しく変 身 しているのである。 この「私」 の印象 は
,そ
れ ぞれブ リセ ンデ ン夫人 とロングとの会話 によつて,客
観 的な もの として確認 されているが,こ
の時 二人が相互 の変身 について漏 らした言葉が,「私」のその後 の限 りない想像 に火 をつけるこ ととなる。 まず ロ ングは,あ
ま りに も年が離れているため に「子供 をか どわか したような もの」(“a case Of child―stealinゴ'(p5))と
い う峰のたった4,5年
前 のブ リセ ンデ ン夫妻 の不 自然 な結婚 について触 れ,夫
人が42,3歳 ,夫
は30前
とい う現在 の年齢 を暴 き出す。続 いてブ リセ ンデ ン夫 人 は,ロ
ングの変 身が,ラ トリー卿夫 人 (Lady John)と の関係 によって着 々 と知性 と弁舌 を与 え られた結 果である と指摘す るが,「私Jは
思 わず「肝油」 を連想 して次の ように言 う。“WeH, you may be right," I laughed, “though you speak as if it were cod―hver oll Does she
administer it,as a daily dose,by the spoonful ?or only as a drop at a time?Does he take it in his
food? Is he supposed to know?"(pp 10-1)
この連想 は社交上のその場 限 りのジ ョークとしては面 白いが
,そ
れが真父1な妄想へ と発展 して行 くのが この物語の行 くえである。 しか もこの「肝油」 は,一
方が 自らを犠牲 に して抽 出 し,他
方 に 与 える ものであ り,与
えれば与 えるほ どその源 は枯 れて行 くことになる。 タイ トルの「聖 なる泉」 とは,この有 限の源泉の象徴 的表現 にほかな らない。 ニューマーチ邸 に到着 した「私Jは
,この二人の変 身の謎 の解 明 に興味津 々である。 ブ リセ ンデ ン夫人の夫,ガ
イ・ ブ リセ ンデ ン (Guy Brissenden)イ よ,見
間違 えるほ どに年老 いて見 え, 30歳
前 だのに60歳
と言 つて も言 い過 ぎでないほ どであ り,一
方42,3歳
であ りなが ら20歳
に しか見 えない夫人 と好対照 をな している。「私」は,友人であ り画家 の フォー ド 。オーバー ト(Ford Obert) を相手 に,ブ
リセ ンデ ン夫人の「奇跡」 について こう語 つている。“One of the pair," I said, “has to pay for the other ヽVhat ensues is a miracle,and miracles are ex‐
pensive ヽヽ「hat's a greater one than to have your youth twice over?It's a second wind,another`go'
一―Ⅵ/hich is'nt the sort of thing life mostly treats us to lV[rs, Briss had to get her neM/ blood, her
extra allowance of time and bloom, somettThere, and from 、vhom could she so conveniently extract
them as from Guy himself? She 力αd,by an extraordinary feat of legerdemain,extracted thenl, and
he,on hs Sde,to sup∬y he鳥 has had to tap the sacred fount,"● 2の
この夫婦 の外見上の対照 は,「私
Jの
「肝油Jや
「聖 なる泉」 の空想 に見事 に一致す る例 であ る。 しか し,ブ
リセ ンデ ン夫人のい うロングの相手,ラ
トリー卿夫人の場合 は,これに一致 しない。 ロ ングに「奇跡」 を起 こ した女性 は,自己の全 て を犠牲 に して彼 に捧 げているはずであるのに, ラ ト リー卿夫人 の知性 にはなん ら変化 が見 られ ない とい うわけである。「私」 はブ リセ ンデ ン夫人 に対『聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性
して
,ラ
トリー卿夫人の「 しゃれた シ ョー ウィン ドウには何 もか も全部そろって」お り,ロ
ングは 「 どこか ほか の店 で買物 を してい るに違 い ない」(“The wh。le show's there behind her smartshop―window,_`he deals at another establishment.り と言 う。そ してこの「ほかの店」 を探す こ
とがその後の「私
Jの
最大の関心事 になるが,そ
こでは全てを売 りつ くして「シャッターを閉め,店 を閉 じて しまっているJ(“ she will have put up he shutters and dosed he shop"(pp.35-7))は ずだと言 う。すなわち自らの知性 を捧げ尽 くして完全な「白痴状態」(“idiocy")に陥った女性 こそ, ロングの相手だというのである。 ブリセ ンデン夫人は,前言 を翻 してこの「白痴状態」に到達 した女性は,不幸 な境遇 にあるメイ・ サーヴァー (May Server)で あると指摘する。 オーバー トによれば
,彼
女 は以前 肖像画 を描 いた 頃とは違い,落
ち着 きな く動 き回っては男性 に次々 と「飛びついて」(“darど')ヤヽるという。はか なげで軽薄な今のサーヴァーは,ロ
ングに知性 を吸い取 られた抜け殻 と呼ぶにふさわ しい女性 と見 なされるのである。サーヴァーに密かに心ひかれる「私」は,こ
の説に表向きには反論 しつつ も, 彼女の行動 を追いかけることになる。 以上が物語の冒頭部分の内容であるが,こ
こに示 される「私」のいわゆる「理論」(“theoryりまたは「法則」(“law")イま
,多
くの批評家 によって「吸血鬼のテーマ」(“vampire theme")と 呼ばれている。すなわち
,男
女関係 を吸血鬼 とその餌食の関係 とみな し,必
ず一方が他方 を犠牲 に して その養分 を吸い取 るのだとする考え方であ り,外
見的にはパーティーとぃうあ りふれた舞台を扱い なが ら,この作品が「ね じの回転」(“The Turn ofthe Screw",1898)と 双生児の関係 にあると言われるのは, この怪奇性のためである。言 うまで もな く
,ブ
リセンデン夫人は夫か ら若 さを, ロング は恋人か ら知性 を吸い取 り,吸
い取 られた側は,そ
れをきちんと失 っているはずだと言 うわけであ る。実際,ブ
リセンデン夫妻が「吸血鬼―餌食」関係 に当てはまるかのように見えることは物語中 の他の人物 も確認 してお り,こ
の「理論Jは
,「あたか も・・ 。かのようだ」 という比喩表現 を含 んだジ ョークとしては充分受容可能である。 しか し問題は,そ
のジ ョークが「私」の頭の中で比H詮 から現実へ とす り替えられてしまい,ヤヽつの まにか語 りの表層にまことしゃかに居座 って しまうこ とである。文字 どお り妻が夫の若い血を「吸い取」ることによって若返 り,夫
は「吸い取」 られた 結果老いて しまうという説はあまりに幻想的であ り,この時点で,読
者はこの物語 をどこまで現実 的に受け取っていいのか という戸惑いを感 じさせ られる。そ してさらに読者を浮 き足立たせるのは, 「若 さ」の点で一見成 り立つかに見えたこの「理論」 を,拡
大解釈 して「知性」 にも無理や り当て はめようとしたことである。これも社交上の言葉の遊びと考えれば,悪
趣味だが気の きいたジ ョー クと言えな くもないが,現
実には一方が他方か らいかに多 くの知性 を吸収 しようとも,与
えた側の 知性が「減る」 ということは有 り得ない。 したがって,こ
の拡大解釈の結果が,ロ
ングの相手がラ トリー卿夫人でないことの「根拠」 として物語の筋書 きを堂々と決定 して行 くとき,読
者 は「私」の語 りか ら一歩身を引 き
,真
理に至 るはずの道 を独 自に探 って行か ざるを得な くなるのである。言 うまで もな く,こ こにあるのは人間関係 をきわめて機械的に,浅薄に捕 らえる非人間的視点である。 人間関係 とは,奪
い奪われるだけでな く互いに与え合い,豊
か さを三倍 に増や してい くもので もあ るという血のかよった認識が,「私」の発想か らは完全 に抜け落ちているのである。6) こうして読者は, きわめて現実的な社交の現場 を前 に して,非
現実的で空想的な「理論」 を受け 入れるよう強要 される。 この座 りの悪 さは,物
語が進行 して行 くにつれて,増
すことはあつて も決 して減ることはない。宙 に浮いた読者の足 は,読
み進むにつれて さらに虚空 を蹴 る空 しさを感 じさ せ られることになるのである。読者が 自らの足で しっか りと物語の地面 を踏み しめつつ歩むことが で きないこと,そ
の距離は読み進めば進むほど大 きくな り,何
が物語の現実であるのか,ほ
とんど 確認不可能になることこそが,実
はこの物語の現実である。 「理論」 の裏付 け 物語の冒頭部分で 自己の「理論」 を打 ち立 てた と自負す る「私」 は,全
身を目と耳 に して,そ
の 「理論」を裏付 ける証拠 を手 にいれ ようと躍起 になる。そ して「理論」の正当性 を確認す るため には, 同時 にその欠落部分 であ るロ ングの恋人 を特定せ ねばな らない。「私」 は,他
人 を「観察」 し,他
人 と「会話」 し, さらに他人の「 目 くばせ」 や「 しぐさ」 さえ見逃 さず,そ
こに隠 され た「意味」 を求めて行 く。読者 は宙づ りになった居心地 の悪 さに堪 えつつ「私」 の錯綜 した思索 を辿 って行 く が,「私」の熱心 さと反比例す るかの ように,この裏付 け作業へ の読者 の信頼 は薄れて行 くのである。 そ こに客観 的な情報 を求め ようとす る読者 は,全
てが「私Jの
主観 的,意
図的解釈 で潤色 されてい ることに気づか ざるを得 ない。その色付 けをで きる限 り排除 しなが ら,そ
の裏 にあ る現実 を読 み取 ろ うとす ることは,ほ
とん ど徒労 に終 わるのである。 「理論」 の裏付 け作業 として,まず「私」 の独 特 の「観察」方法 を示す例 をあげる。 「サー ヴァーが ロ ングの恋人であれば『理論』にか な う」とい うブ リセ ンデ ン夫人の言葉 か らサ ー ヴァーを守 るべ く,「私Jは彼女の観察 に熱心 になるが,彼女 と言葉 の少 ない会話 を交 わ しただけで, 気 が とが めつつ もブ リセ ンデ ン夫人の説 の正 しさをすで に確信 してい る (“There tts no question, I had compuncttously made up my mind,for Mrs Server")。 その「証拠」は彼女 とロ ングの 間に「完 全 に自然 なや りと り以タト何一つ観察 されない とい う事実」 だ と言 い (“The prOOf ofit would be,be‐ tween her and her imputed lover,the absence of anything that was not perfectly natural"(p 51)),直後 に二人が一緒 になった場面でそれ を確認す る (“They're natura,they're naturЛ
"(p.55))が
,この場合,「私」 の確信 はその証拠 の確認 の前 に起 こってお り, しか も確認す る内容 がす で に予告 されてい ることがわか る。さらに「 自然であること」とい うあ ま りに も曖味で主観的な判 断 内容が,
『聖なる泉Jにおけるコミュニケーションの不可能性 当然の ように問題 の「証拠」 とみ な され るのは,「私」 の観 察が 「理論
Jの
成立 を前提 と し,そ
れ に合致す る よう自在 に解釈 され得 る ものであることを示 している。 しか も,「私J自
身はオーバ ー トやブ リセ ンデ ン夫人の言 うサ ーヴァーの変化 を,未
だ実感 し得 ていないのであるか ら,そ
の矛盾 はなお さらであ る。サ ーヴ ァー をめ ぐるその後の様 々な観察 は,不
本意である とい う素振 りに もか かわ らず,「私」 の「理論」への確信 をさらに強化す る もの としてのみ働 いている。 「私」 とその「理論」 の虜 になったブ リセ ンデ ン夫人は, 日ま ぐる しく入れ替 わるパ ーテ ィ客達 の一瞬の組合せ を,共
に詳細 に観察 し, またその情報 を交換 し合 う。 その 中で問題の ロングとサ ー ヴアーの組合せ は,決
して頻度 の高い ものではない。 この頻度 に関する二人の解釈の仕方 を示す次 の ような会話があ る。夫人 はロ ング とサー ヴァーが人 目を忍 んで こっそ りと出て行 く (“slope") のを見 た と言 う。“Exactly They(l e Long and Server)met there―she and
tired tOgether under my eyes.They must have parted,clearly,
She toOk it all in, turned it all over. “Then what does that
seen ?''
“Ah,they're夕∽ナaraid,since both you and l sal1/them!"
“Oh, only just iOng enough fOr them tO pubhsh themselves same,you know,"she Said,“ they do"(p 73)
I having gone tOgetheri and they re‐
the mOment after"
prove but that they're afraid tO be
as not avoiding each Other All the
サーヴァーに心 を寄せ あ くまでブ リセ ンデ ン夫人の説 に異 を唱 えなが らも
,内
心すで にそれ を確 信 している「私」 は,次
々 と反論す ることによって夫人の当意即妙 な答 えを巧みに誘導 し,そ
こか ら男女が一緒 にい ることの柔軟 な解釈の可能性 を引 き出 している。その解釈の仕方 とは,問
題 の男 女が人前で一緒 にいるの を避 けるのは,そ
れ を「見 られるの を恐 れるか ら」であ り,逆
に一緒 にい るのは,「互い に避 けているので はない とい う印象 を与 えるため」 である とい う。 だとすれば,問
題の男女 は,そ
の先 入観 ゆえに,一
緒 にい ようが離れてい ようがいずれ にせ よ関係 を屍 われるこ と になる。関係が単純 な組合せ の頻度で測 られない とすれば,後
は全 て解釈次第 とい うことにな り, 「私」が観察 した組合せの意味 を自分の「理論Jに
合致す るように任意 に読み取 つて行 くことは, きわめて容易 である。 この ように,「私Jの
「観察」 と言 って もその客観性 は非常 に疑わ しい ものであ り,「理論」 を正 当な もの と見 なそ うとす る「私」の意図が,そ
の解釈 を歪めてい ることは充分 に考 えられる。 次 に,同
じく「理論」 の裏付 け作業 と して,他
人 との沈黙 の会話,特
に「目」 や「 しぐさ」 によ るコ ミュニケーシ ョンを利用 している例 をあげる。ある部屋で,一
枚 の絵 を前 に してオーバー トと ロングが立 っているのをサーヴァー とともに目撃 した「私Jは ,そ
の光景 を次 の ように解釈す る。The distinguished painter listened M/hile― ―to all appearance一 一Gilbert Long did,in the presence of the picture,the explaining Ford Obert moved,after a little,but not so as to interrupt― ―only so as
to show me his face in a recall of 覇/hat had passed bet、veen us the night before in the
smoking― room l turned my eyes from lvirs Server's;I allowed myself to commune a little,across
the shining space, with those of our fellow― auditor.The occasion had thus for a minute the oddest
little air of an aesthetic lecture prompted by accidental,but i■ lmense, suggestions and delivered by
Gilbert Long
l couldn't, at the distance, llrith my companion, quite follo覇 / it, but Obert Mras clearly patient
enough to betray that he llras struck His ilnpression 覇′as at any rate doubtless his share of sur‐ prise at Long's gift of talk This was Ⅵ/hat his eyes indeed most seemed to throⅥ / over tO me―― “What an unexpected demon of a critic I" It、 vas extraordinarily interesting― ―I don't mean the spe‐
cial drift of Long's eloquence, which l couldn't, as l say, catchi but the phenomenon of his, of all
peONe,deЛ g that ardcに ●
p520
「音楽J(“ a strain of music")のような中身を聞 き取 れない人の声 を,ロ ングによる肖像画の「解 説Jま たは「講演
Jと
み な し,離
れた ところか らオーバ ー トと目 と目で「語 り合 った」「私」 は, その「雰囲気」か ら,オ
ーバ ー トがその解説 を感心 して聞 き入 っている もの と解釈す る。そ して実 際彼の 目つ きが,「何 とい う思 いが けない批評の鬼 なんだろ う│」 とい うメ ッセージを送 つて きた と理解 す るのである。いわゆる非言語 コ ミュニケーシ ョンの例 であるが,こ
の 目 くばせの意味が送 り手 と受取 り手の間で果 して一致 していたか どうか,誰
に も確認不可能であ る。近づ いて行 つてそ の「解説」 をもう一度 聞かせ て欲 しい と言 う「私」 に対 して, ロングは絵 の本質 に関す ることを一 言 も国に しない し,後
にオーバー トに個 人的にその話の内容 を聞いた ときも,彼
の答 えは「いか に も彼 らしい,風
変 りで空想 的でおか しな話」(“Oh,characterisic ones e■ ough―whimsical,fanciful,funny The thing he says,you know?"(p59))と い うものであ るか ら
,な
お さ らその解釈 は疑 わ しい と言 わ ざるを得 ない。 しか し「私」 はこの不確 かなコ ミュニケー シ ョンに基づいて,や
は リロ ングの知的成長 は本物 だ と確信 し,再
び 自分 の「理論」 の確 かな「証拠」 と見 な して しまうのであ る。 また,夕
暮 れ時,「魔 法 の城」(“casde Of enchantment"(p128,130))を 思 わせ る ような庭 園の 中の美 しい一角でサー ヴ ァーに出会 った「私」 は,彼
女 のある何気 ない身振 りか ら,彼
女の秘密 を 捕 らえた と確信す る。I hesitated to co■lmiserate her for it more directly,and she spoke again before l had found any―
『聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性
“Oh," I laughedJ “、vhat is it that has happened toノ ο%?" My questiOn had nOt been in the least intended for pressure,but it made her turn and look at me,and this,I quickly recOgnised,was aH the anslver the most pitiless curiosity cOuld have desired――all the more, as well,that the intention in it had beea no greater than in my words. Beautiful, abysmal, inv01untary, her exquisite weak‐ ness silnply Opened up the depths it lvOuld have c10sed.It ttras in short a supremely unsuccessfil attempt tO say nothing lt said everytlling, I sallr as l had never seen before Ⅵ/hat cOnsuming passion can make of the marked mortal on、 vhOnl,with ixed beak and claws,it has settled as on a
prey She reminded me of a sponge wrung dry and 、vith fine pores agape roided and scrape of everything,her shell覇′as merely crushable So it、 vas brought hOme to me that the victin cOuld be
abased, and sO it disengaged itself fro■ l these things that the abasement cOuld be cOnscious That
M/as Mrs Server's tragedy, that her cOnsciOusness servived― ―survived with a force that made it struggle and dissemble This cOnsciousness was all her secret― it was at any rate aH mine(pp. 135-6) 「あなたにはどんなことが起 こったのですか」 という問いに対 して
,彼
女が「振 り返って私 を見 た」 というただそれだけの しぐさが,「全 てを物語っていた」のであ り,そ
こか ら「私」は最 も知 りたかった彼女の秘密を直感的に読み取って しまう。すなわち,彼
女が恋人の情熱の犠牲 になって カスカスの「スポンジ」のように枯れ果てていること,そ
して何 よりそれを自覚 して苦 しむだけの 「意識Jが
彼女 に残 っているということである。これもまた非言語コミュニケーションの極端な例 であるが,先
の例 と同様,伝
達の正確度 には限 りない疑惑がつきまとう。サーヴァーが振 り返るし ぐさにこれほど深遠なメッセージが込められていたとは,誰
にも確認するすべがないのである。 し か し再び,こ
の場面は彼の「理論」 を裏付けるさらなる「証拠」 となる。なぜなら彼女が自覚的で あるとい う認識 によって初めて,「私」は,彼
女の美 しさと次々 と相手 を替える落ち着 きの無い行 動 とを, 自分の「理論」に結び付ける確かな理屈 を手に入れるからである。その理屈 とは,彼
女が 自己の白痴化 を自覚 し,そ
れを他人に気 どられるのではないかという恐怖か ら,発
覚する前 に短時 間で切 り上げ相手 を替えて行 くのであ り,そ
の際,彼
女の人眼 を欺 く美 しい微笑が,単
なる沈黙 を 豊かな弁舌 にみせかける技巧 として大いに役立っているというものである (pp.1389)。 しか もこ の理屈が,彼
女が苦心 して隠そ うとしているものは何か という点に思い巡 らした際にすでに「私」 が想像 し,そ
の後のブリセンデンとの会話の中で もヒン トを得て自信 を深めていた,正
にそのまま の内容であったことは注目に値する。「私」は,先
のい くつかの例 と同様,あ
らか じめ想像 によっ て予定 した内容を, どのようにも受取れるささいな出来事を取 り上げ,主
観的で意図的な解釈 を行 うことによって,単になぞ り直 しているに過 ぎないように見える。このことについて,「私」は「人並外れた好 奇心が観察 を産み
,観
察が想念 を産 むのだ」(“That(i.er my extraordinary interest)breeds observation,and observation breeds ideas"(p147))と 言 つているが
,そ
れに加 えるとす れば,「私」の場合, しば しば想念が観察 に先立ち,観
察は想念の確認のために行 われるのである。 以上例 をあげたような「観察」や「 目くば り」 。「 しぐさ」の解釈 は,作
品中あま りに頻繁に現 れ,逆
にそうでない部分 を探す方が難 しい と言 つて も言い過 ぎではない。「私」の「理論Jの
裏付 け作業は,理
詰めに論理的に行われているかのような表層 にもかかわらず,内
実はその解釈 に恣意 的要素が多分 に含 まれてお り,そ
れが読者の共感 を遠 ざけていることがわかる。 では最後 に,実
際に言葉 を介 して行 われるコミュニケーション,他
の人物 との「会話」の場合 は どうであろうか。「私」のいわゆる「腹心の友」に相当するのは,画
家のオーバー トとブリセ ンデ ン夫人であ り,まず冒頭部分でオーバー トにはブリセ ンデン夫妻の若 さの移動 を打 ち明け,ブ
リセ ンデン夫人にはロングの知性の変化 と彼の恋人を探す条件を打ち明ける。その後 も「私」はこの二 人 と何度か言葉 を交わすが,あ
たか も秘密 を漏 らしたことを悔やむかのように,そ
れ以上本心 を打 ち明けることはない。この二人を含む登場人物達 とのや りとりは,む
しろ「私」の想像の客観性 を 確認 し,新
しい情報 を得 るための もの として意識的に利用 されることが多い。必然的に,「私」の 言葉には嘘や矛盾が多 く, またわざと曖味に表現 して相手の出方 を見 る場面が 目立つ。 例えば,「私」が漏 らしたブリセ ンデ ン夫妻の秘密 に刺激 を受けたオーバー トが,そ
の「類比の 松明」 に照 らして,独
自にサーヴアーの変化の原因となった男性 を探そうとしていることが明 らか になる場面があるが,この時の「私」のオーバー トに対する反応は疑肺に満ちたものである。まず 「私」は,オ
ーバー トがサーヴァーは与えているのではな く与えられていると「誤解」 し,彼
女 に 与えている男性 を探そうとしていることを知って安堵する。彼が「真相」 をつかむ可能性は薄い と 見たか らである。(pp 64 5)し か し,依
然 としてサーヴァーの変化 を実感で きない「私」は,オ
ー バー トが何 に注 目して彼女の恋人を探す手がか りを手 に入れたのか聞 き出 したいという強い欲望 と,一
方 自分がブリセンデン夫人か ら聞 き出 した情報 (ロ ングとサーヴァーの関係の可能性)に
つ いては決 して彼に知 られた くない と身構 える気持ちとの間で,絶
えず微妙 に揺 れ動いている。(“ I hadn't reaHy made out at a■ lvhat he was impressed所ケカ,and l should only have spoiled everythingby inviting hi■l to be definite This was a little of a、 vorry, for l should have liked to knollI;but on
the other hand l feL my track at present effectuЛly covered"(p.67))このため,この場面での「私」 の言葉 は
,一
貫 して,自分 の本心 を隠 した まま,オ
ーバ ー トが不用意 に彼 の本心 を漏 らす よう誘導しようとす る もの となってい る。 こう した徹底 した警戒心 には
,自
分 よ リサ ー ヴ アーをよ く知 り,人 を観 るよ り鋭 い 目を持 っている と認 めるオーバ ー トに対す る「私
Jの
対抗 意識 と,「 理論」 を一 人 じめ したい とい う強い独 占欲が感 じられ,結
果的にそれが二人の会話 を歪 めているこ とが読 み取 れる。『聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性 またサーヴァーとの会話の中で,「私」が名前 を特定 しないでブ リセ ンデンのことを「彼
Jと
呼 んだため,彼
女が不安気な様子 を示 したのを見て,完
成 した自分の「理論」 を初めて実地に試 して みるまた とない「客観テス ト」(“objecЫve test")のチャンスが到来 したと喜ぶ場面がある。 これ をロングだ と取れば,サ
ーヴァーが思わず本音 を漏 らして しまったことになるというわけであ り, 一瞬「私」は目くるめ くような興奮を覚える。そ して しばらく名前 を伏せたまま会話を続けてサー ヴァーを苦 しめ,最
後 にブ リセ ンデ ンの名前 をあげたときの彼女のほっとした様子を見て,「私」 は知的優越感に酔い しれるのである。これは,繰
り返 し強調 される「私」のサーヴァーに対する保 護的な思い とは裏腹 に, 自分の「理論」確立のためには何 もの も犠牲に してはばからない,「私」 の冷酷 さを垣間見 させる場面でもある。(“that tt kept her for sOme seconds on the rack was a trinecompared to my chance"(pp.1423))そ して何 より,「私Jの強い満足感 にもかかわ らず,サーヴァー の本Jと、を確認 したと言える根拠 は皆無であ り
,実
はこの「客観テス ト」は全 く機能 していないので ある。 以上見 たように,「私」の「会話」 は一方的で意図的な ものであ り,相
手か らみれば疑肺 に満 ち たものであることは否定で きない。またその解釈 を巡っては,前
述の例 と同様,一
人よが りで誘導 的な要素が 目立つ。「私」は自分の計算通 りに「会話」を利用 しているつ もりであるが,裏を返せば , こうしたきわめて作為的な「私」の言葉に対 して,相
手の言葉が どれほどナイーヴに真意 を伝 えて いるものか,甚
だ疑間である。一方,慎
重 に選ばれた台詞 と台詞 との間には「私」 自身の本心が詳 しく述べ られてお り,ある意味では「私」にとって真の腹心の友は読者であるとも言える。しか し, その読者 もまた,彼
に対 して無防備ではいないのである。 こうして「私」の怪奇的「理論Jは
,観
察によって も言語 または非言語によるコミュニケーシ ョ ンによって も,正
確 な読み取 り・伝達が行われないまま,「私」 の主観 という閉塞 した空間の中で のみ連鎖的証拠付けがなされて行 く。言い替えれば,そ
の着想か らすでに論理のズ レを見せたこの 「理論」は,そ
の確認のためという名目のもとで, さらなるズ レを積み重ねて行 くのである。この ズ レは過剰で非人間的な想像力が生み出 したものである力乳 この物語の語 りそのものが,想
像 をい つの間にか現実 とす り替えなが ら, さらにそれを前提 に新たな想像 を積み上げるという構造 を持 っ てお り,や
がて現実の手痛い応報が待 っているのは自然な成行 きであると言える。それはマザー・ グースのなかの「二枚舌の男」(“A Man of Double Deed")“)を連想 させる。この「男」は,「・・・のような」(“like")と形容 した比喩 にす ぎない ものを実在するもの と見 なし
,そ
れ を前提 にさらなる比H論を重ね実在性 を付与 し続けて行った結果
,そ
の頂点において自らの嘘の犠牲 となって死 に至るのであった。「私」の運命はこれ ときわめて類似 している。そ して読者は,奇妙な一貫性 を持 っ たこの連鎖上のどこかで
,巧
妙 な論理の罠 に気づ くのである。 これこそ,読
者が完成 させ ようとす るもう一つの「理論」,Vヽわば,罠
読み取 りの「理論」である。魔法の解 けるとき 結局,「私」の「理論」の真の完成は
,意
外 な角度か ら訪れる。 ロングとサーヴァーの関係 を確 信 しつつ もその決定的瞬間を捕 らえることので きなかった「私」 は,サ
ーヴァーとブリセンデンと いう頻繁に見 られる組合せによつて,問接的にその裏付 けがで きたと考える。すなわち,犠 牲 となっ た者同志が共通の運命 を意識 し,そ
の連帯感か ら親近感が生 まれ互いをいたわ り合い励 まし合 うよ うになったのだ とい う見方である。(p.140)ブリセ ンデ ンとの会話の中で,彼
が頼 りなげなサー ヴァーに親切 に してや りたい と思い,彼
女 もそれを望んでいるように感 じると証言 したことによつ て「私」は意 を強 くしたわけだが,こ
の証言 と「理論」の完成 との間には,な
お「私」の想像力が 埋めねばな らない大 きなギャップがあることは言 うまで もない。「私」 はこのサーヴアー とブ リセ ンデンの組合せ を「私の理論の全開 した花」(“he fdi bbwa nower Of my theory"(p169))と 考え
,そ
れ と均衡 を保つべ くもう一輪の「全開の花」 を咲かせることはで きない ものか と夢想する。 すなわち,恩
恵 を獲得 した者同志の親近感,ロ ングとブリセンデン夫人の組合せである。 ところが その数分後,「私Jは
望 んだ通 りの組合せ を目撃 し,「二人は―ザb同体だ」(“They盟
%as one"(p.182))と 興奮 して見つめることになる。この二人は物語の冒頭にも堂々と揃つて登場 したわけであ るし
,客
観的にはそれほどの意味が隠されているようには見えない。 しか し,例
によつて,単
なる 「偶然」 もそれを待ち望んでいた「私」にとつては,否
定 し難い「必然」 と映るのである。「私」 は ロングとブリセンデン夫人 も,サ
ーヴァーとブリセ ンデンと同 じように自分達の立場を意識 し始め たのだ と認識す る。結局,強
引で誘導的な解釈 によって,「私」の「理論」は二組の類似 した関係 を持つ男女 と,そ
のうち共通の運命 を持つ者同志の二組の連帯,そ
して彼 らの自分達の関係全体 の 自覚 という四巴の対称図形で完成するのである。°) こうして知的野心を満た し,勝
利の興奮に酔い しれるはずの「私」 は, しか し,不
思議 な不安 を 表明する。「現実の世界では物事は釣合いを保たぬのが常であ り,二
組の男女の見事 な対称形 は人 工的な釣合いにす ぎない」(“ThingS in the real had a way of not balancins it was all an affair,this hne symmetry,of artificiЛ proporion,"(pp 182-3))と 言い,またロングとブリセ ンデ ン夫人に自 分達の関係 を自覚 させて しまった結果,この関係が「内部か ら動揺 し,割
れ,裂
け始める」(“begin to brate,to crack and split,from within"(p184))の ではないか と恐れるのである。つ ま り,「私」は自分の「理論」が現実から遊離 した人工的な紛い物であることまではっきりと自覚 してお り
,一
方問題の関係 は当事者達が無 自覚でいてこそ完全 なバ ランスを保つのだと考えている。「意識」 は 常に見 る「私Jの
側に閉塞 していなければならず,見
られる対象が「意識」 を持つことは彼 の「理 論」の崩壊 を意味するのである。「私Jが ,完
成 した「理論」 を「大 きな輝 くガラスの宮殿J(“a『聖なる泉』 におけるコ ミュニケーションの不可能性
ラ ンス を も象徴 してい る と言 える。
「理論」が足元 か ら崩 れ る ような不 安感 は,実は物語 の全体 を通 じて繰 り返 し表 され ていた。「私」 は,「考 え出す こ とはす な わ ち実現 す る こ と」(“to have thought it was to have brought五 "(p129)) で ある と言 い
,全
て は 自分 の「神 の ご と き条 配」(“providendal supervision"(p154))に よる もの で あ り「 自分 以外 の 人 は何 も分 か っ て い な いJ(“r alone was magnificenЫ y and absurdy aware―everyone else was benightedly Out of it"(p.177))と 表 語 す る一 方 で
,全
て は 「 ば か げ た妄 想J (“rldttdous obsession"(p89)),「狂 乱 した誤 信 」(“frenzied fЛlacy"(p.177))で あ り,自
分 は どうか して しまったので はな いか, とい う自己不信 が繰 り返 し訪 れ る。 この作 品 は,あ
る意味 で は 「私」 の 自信 と不 安 の絶 え ざる交錯 の物 語 で もあ る。 物 語 の結 末部分,パ
ー テ ィー終 了後 に行 われ るオーバ ー ト,ブ
リセ ンデ ン夫 人 と「私」 との会話 は,「 ガ ラスの宮殿」 に与 え られ る最後 の試 練 であ る。 そ れ に堪 え られ れ ば, この 「宮殿 」 は ま さ し く「私」 の 自負 の象徴 とな るはず で あ った。 二 人 の腹 心 の友 との これ らの会話 は,一
見 してそ れ まで の物 語 の一 貫性 を大 き く崩 し,一
層 曖 味 な もの にな ってい る と言 え る。 しか もその崩 れ は,「 私」 に起 こるの で はな くて二 人 の友 人の側 に 起 こるの で あ るか ら,な
お さ ら厄 介 であ る。「私」 は,そ
れ に もか か わ らず,超
人 的 な粘 り強 さで ぎ りぎ りまで 自己の一貫性 を守 ろ うとす るが,読
者 は よ うや くつ か ん だはず の読 み取 りの 「理論」 が崩 され る こ とに,不安 と苛 立 ち を感 じ始 め る。何 を手 が か りに物 語 を読 み進 んで行 けば よいのか, 理 解 の基準 を失 うか らで あ る。 まず オーバ ー トは,昨日の彼 の話 と打 って変 わ って,サー ヴ ァーが知性 を取 り戻 した と報告 す る。 そ してサ ー ヴ ァーが 回復 した理 由 を,オ
ーバ ー トも「私」 もともに「知 っているJと
言 うが,互
い に相手 の考 え を探 ろ う と して曖味 なほのめ か しを交 す ばか りで,何
を「 知 ってい る」 のか は っ き り しない。 オーバ ー トは,「 私Jか
ら渡 され た「類 比 の松 明」 を頼 りに聞 を抜 け,「 日の光」 の 中へ と 出 て きた と言 う。 しか しその 「 日の光」 の正体 は次 の よ うに きわめ て暖味 であ る。“What l can the light of day is the sense I've arrived at of her visioa"
``Her visiOn?"――I just balanced in the air
“Of MThat they have in co■ lmon F」 /ittpoor chap's――extraordinary situation too"
“Bravol And you see in that一 ―?"
“Vhat,all these hours,had touched,fascinated,drawn her lt has been an instinct with her" “BravissimO l"
It saw him,my approval,safely into port, “The instinct of sympathy, pity― ―the response to fel―
I couldn't help jumping straight up― ―I stood before him. ``So that ttrhoever may have うιιη the
man,the man ttου,the aCtual man――"(pp 223-4)
オーバー トが独力で「私」 と同 じ「ガラスの宮殿」 を建 てたことを匂 わせ る
,思
わせぶ りな表現 が断片的 に並 び,「私」 を大 い に興奮 させ た この瞬 間,当
の ブ リセ ンデ ンが妻 か らの伝言 を持 って 姿 を現 し,この話 は絶 ち切 れ になって しま う。「私」 は,こ
こに至 って もの ご とのつ じつ まが合 わ な くなって きた こと (“ThingS had,from step to step,to hang together,and just here they seemed to hang a lttde apart")に気づ き,「自分 の想像 は全 て,サ
ー ヴ ァーの状態 の解釈 に基づ くもの」であ り (“My whole superstructure reared itsdf on my ew of Mrs Server's condidon"),「 自分が立 つ倒 れ る も彼女 の知 的能力次 第で あ るJ(“whatl stood or fdi by was that Q e`血 e quesdon)of her
facultyり ことを思 って不安 にか られる。その結果,「私
Jは
次のように考 えることで自分の「理論」の一貫性 を保 とうとする。すなわち「ロングは
,サ
ーヴァーが賢 くなったのと同 じ驚 くべ き過程 を 経て,完
全 に無能化 したのだ」(“by a process not less wonderful,he himself was測l wrong")と し,だからこそ「その事実 を隠すために
,ロ
ングは普段の社交好 きか ら一変 して孤独 を好むようになっ たのだ」(“If he was all wrong what more consequent than hat he should have wished to hide it, and that the most i■ lmediate way for this should have seemed to hinl, markedly gregarious as heusually was,to keep away from the smokers?"(pp.230-1))と い うわけである。
「私」はオーバー トとの会話の試練 をしの ぎ
,か
ろうじて「理論」 の一貫性 を維持する。それ ど ころか, 自分が与えるよりはるかに多 くの情報をオーバー トから聞 き出 し, しかもブリセンデンの 伝言がサーヴァーか らの ものであるという間違 った印象 を与えて相手 を混乱 させることに成功 した と信 じて彼 と別れる。 しか し,何
がオーバー トの認識 を変えたのか, または何がサーヴァーの知性 を回復 させたのか, さらにオーバー トはどんな真相 を捕 らえたのか依然 として不明であ り,読
者 は 不可解なままに置 き去 りにされる苛立ちを禁 じ得ない。そ してそのまま, さらに悪夢のようなブリ センデン夫人と「私」 との深夜の会話へ と引 き込まれるのである。 ブリセンデン夫人 と「私」の会話は,そ
の時間の非常識 さが もの もの しさと怪 しさを助長 し,一
層緊迫 した ものになっている。彼女は話 し始めるとす ぐ感 じられるように,そ
れまでの彼女 とは別 人のように変わっている。「話題 に してきた問題 など無意味であ り,それに関 して話す ことなどない」(“ Iどs nOnsense I've nothing to ten yOu l feel there's nothing in it and I've given it up''(p.250))と
言 うのには,「私」同様読者 も唖然 として しまう。そ して彼女 はロングの相手はサーヴァーではな いと言い, しか もロングの相手は依然 としてわからないと突 き放す ように言 う。あま りの変わ りよ うに,「私」はこれはロングの差金 に違いないと考 えぎるを得ないのである。「私」 は繰 り返 し
,同
じ問題 を夢中になって追いかけて来たではないか と今 までの彼女 自身を思い出させ ようとするが,『聖なる泉』 におけるコミュニケーションの不可能性
ほんの一 日の ことであるに もかかわ らず
,彼
女 の反応 は まるで遠い過去 の こ との ようであ る。「私 達 の 目的って何 の こ とですか」(“what do you call with such solemnity our purpose?")と 言い,「一体何 のお話 のつ も りですかJ(“ what you consider you're tЛ king about?"(pp 260 1))と 言 うの を 聞いて「私」が さらに詰 め よる と
,彼
女 は次 の ように「私Jを
批判す るのである。“I rnean you're carried away――you're abused by a fine fancy: so that, 、vith your art of putting
things, one doesa't knoMI M′ here one is― ―nor, if youll aHow me to say so, do l cluite thinkノ ο
"al―
ways do Of course l don't deny you're awfully clever But you build up _houses of cards"(p
262) 実際 この批評 は
,空
想力過剰 なため に他 人 に理解で きない言葉 を述べ立 てるこ との多い「私」 の 欠点 を, よ く言い当ててい る。 そ して,「私」 の 自信 と不安 の象徴 である「 ガラスの宮殿」 は,あ
たか もシンデ レラの カボチ ャの馬車の ように,深
夜 を過 ぎる とともに安 っぽい「 トランプの家」 に 変 わって しまうのである。全 ては思 い込みであ り,魔
法 にす ぎなかったのだろ うか, とい う脱力感 が一瞬読者 を襲 う。それは,懸
命 に築いて きた読み取 りの「理論」が,色
あせ て見 える瞬 間で もあ る。 オーバ ー トもブ リセ ンデ ン夫 人 も,な
るほ ど魔法 が解 けた ように別 人 になった。 そ してサー ヴァー も知性 を取 り戻 した と言 う。 しか し,単
純 なお とぎ話仕立てに解釈す るには, この物語 も登 場人物達 も,あ
ま りに複雑怪奇である。 一方 「私」 は,魔
法が解 けてなお,「 トラ ンプの家Jを
「ガラスの宮殿」 だ と信 じて必死 に武装 す る。「理論Jの
一貫性 に異常 なほ どの執着′とヽを燃 やす「私」 は,結
局,ブ
リセ ンデ ン夫人が深夜 にやって来 て,い
つ まで も引 き上 げるで もな く居残 り苦 し紛れの嘘 をついているのは,ロ
ングとの 秘密 を見抜 いた「私」 を「 まるめ こむ」 ためだ (“She had cOme down to square mei she was hang― ing on tO square me; she was suffering and stammering and lyingi she M/as both carrying it grandlyoff and letting it desperately go:Л l,Лl to square me")と 考 える。そ して,二人 が「 私 」の干 渉 を嫌 っ
た わけ は
,二
人の犠牲 とな った二 人が,「 私」 の手 助 け に よって結 び付 き, と もに逃 げ 出す こ と を 恐 れ た た め だ と言 うので あ る。(p273)さ らに ど こで 方 向転 換 した のか教 え て欲 しい と詰 め よ る 「私Jに
対 して,ブ
リセ ンデ ン夫 人 は た だ一 つ の判 断,「 私Jは
「狂 人」(“crazy"(p278))で
あるという判断によって
,結
論が出たと言 う。 しか し「狂人」 というレッテルほど,全
ての意味 を無 に化 して しまうものはない。いわばこれは「私Jの
「理論Jの
完全な,徹
底 した否定 と認識 してよ いだろう。彼女はロングについても,「彼 は きわめつ きの大馬鹿だ」(“Why,dOn't you know he'sapttze fool?"(p292))と 言い, しか も過去のことではな く現 にそうであることがわかった と言 う。 これに対 して「私
Jは ,全
てを自覚するに至 ったロングが,今
度は「愚鈍 を装 うことによって保身 を計 ろ う と してい る」(“his excited acuteness was henceforth to protect itself by dissim■ lation"(p294))と考えてさらに「理論
Jの
一貫性 を維持 しようとするが,読
者 にとって, この努力はも はやあまりに空虚 に映ると言わざるを得 ない。そ して全ての意味 を決定的に無化 して行 くのは,物
語のほとん ど終わ り近 く,論
理の矛盾 を「私」 に突かれ続 けたブリセ ンデン夫人が,「他人を傷つ けた くな くて,恥
を忍んで半分馬鹿の真似 をしていたJの
であ り,時
には「真実 を歪め」,「嘘の説明さえした」が
,こ
うなったか らには「他人のことなど構わず真実を話そう」(“I've had to protect others and,at the cost of a decent appearance,to pretend to be myself half an idiot I've had even to depart fro■l the truthito give you a false account of the manner of my escape from your tangle But now the truth shaH be tdd,and others can take care of themselves I"(p302))と 言 う場面である。この一言 によって,これ までの全 ての会話
,い
や物語全体 が無意味 な もの と化 して しまう。 まさ し く「真実」 とは一体何 なのか, または,そ
もそ も「真実」 な ど存在 したのか, とい う空虚 な思 いが 物語全体 を遡 って行 く瞬間である。 この瞬 間,あ
らゆる「理論」,あ
らゆる「意味」,あ
らゆる「一 貫性」,そ
してあ らゆる「努力Jは
意味 を失 う。 その後夫 人が告 白す る内容 は,ロ
ングの相手 は ラ トリー卿夫人であること,それ を夫 ブ リセ ンデ ンか ら聞 き知 ったこと,また同様 に夫 か らサーヴ ァー がブ リセ ンデ ン自身に言 い寄 っていた と聞か されたこと,そ
して夫 によればサ ー ヴァーは「恐 ろ し く鋭い」(“awfuIIy sharp"(p317))女性 であ るこ とであ る。 これ らは全 て今 まで の一貫性 をさら に崩す ものである。 しか し, こう した言葉 は,す
で にいか なる意味 をも失 ってい る。意味の無法地 帯 と化 した現実 を前 に,「私Jと
同様読者 も,こ
の場所 を逃 れることによって しか 自分 を取 り戻 す すべ はないのである。 曖昧 さの意味 こうして物語全体 を辿 った とき,そ
れが 「私」 による「理論J完
成へ の着実 なプロセス と,そ
の 徹底 した無意味化 のプロセス とい う,一
つの対称形 をな していることが確認 で きる。積木 くず しに も似 たこの物語 の空虚 さは何 を意味 しているのだろ うか。 「理論」完成へのプロセスは,非現実的な仮定 に始 ま りその不確 かな証拠付 けへ と,想像力 によつ て意味 を無限 にず らす ことによって,結
果的には現実か ら大 きく遠 ざか って行 く過程 を意味 してい た。「私」 による状況の独断的解釈 や他 の登場人物 との不毛 なコミュニケー シ ョンゆえに,読
者 は, 物語の語 りとの間の確か な意味伝達 を徐 々に進断 されることとなる。 しか しそのズ レの重 ね方 に一 定の方向性,規
則性があることを見抜 き,そ
れ を物語の謎 を読み解 く際の「理論Jと
して活用す る ことによって,読
者 はかろ うじて語 りとの接点 を維持 し得 た と信 じたので る。す なわち,謎
めいた 現実 を前 に,そ
れ を読み解 く「理論」 を完成 しようと懸命 になる「私」の姿 は,そ
の ままこの物語 を読み解 くための「理論」 の完成 を目指す読者 の姿で もあ ったのである。『聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性 しか し先 に見たように
,こ
の二つの「理論」は,そ
の完成後,「私Jと
二人の腹心の友 との間で 交わされた会話 によつて,そ
の論理の構築 を完全 に崩 されて しまう。それは,新
たな理論 による反 論です らな く,意
味の積み上げそのものを無化する「理論Jの
根本的否定であった。二人の言葉 に はそれまでの二人のイメージとの間に一貫性が無 く,またその変化 を説明する論理性 も認め られな い。とりわけブリセンデン夫人の場合は,苛
立つ「私」の問い詰めに対 して,あ
くまで しなやかに 身をかわ してその意味付 けを逃れつつ,根
拠の無い情報 を断片的に散 りばめているかのような印象 を受けるのである。 これについては,二
人の人格が突然に変わって しまったと考えるより,二
人が きわめて意識的に こうした会話を成立 させていたと理解 した方が 自然である。物語の前半部分,「私」か ら奇妙 な「理 論Jを
聞かされた ときの二人が,「私」 と同程度 またはそれ以下の意識 しかなかった と想定す るこ とは容易である。だからこそ「私Jと ともに謎解 きに夢 中にな り,時
には「私Jに
優越感 を与 える ような無防備な会話が成 り立 ったのである。 しか し最後の会話部分での二人は,非
常 に意識的であ り,「私」の意識 を上回つた高みか ら逆 に「私」 を翻弄 し,混
乱 を誘 っているように も見 える。物 語のどこかの時点で,彼
らの内に「私」に対するこうした意識の逆転が起 こったのは確実である。 二人は,「私J自
身を「観察」の対象 とし危険人物 と見 なす ようになった結果,意
識の 自然 な防衛 本能か ら, 自分達が無 自覚に関わつて しまったあの狂気 じみた「理論」 を, もと通 り解体 してお き たいと考えるに至ったのではないか。彼 らの「私」に対する警戒心は,ブ
リセ ンデン夫人の次の よ うな言葉 によく表れている。“people have such a notion of M′ hat you embroider on things that they're rather afraid to conlmit
themselves or to lead you oni they're sometimes in,you kno、 v,for more than they bargain for,than they quite know what to do with,or than they care to have on their hands"(p298)
しか し
,危
険人物である「私」 に対 して意味や論理 で対抗す ることは,新
たな妄想 を生 み出 させ ることで しか な く,賢明な方法 とは言 えない。二人 に とって最 も有効 な方法 は,完全 な意味 の放棄, 論理性 の欠如 で対抗す ることだったのである。 まさしく,「私」が予言 した通 り,「理論Jは
それ に 関わる自分以外 の人物 の「意識」 によって,「内部か ら動揺 し,割
れ,裂
け始 め」,つ
い に完全 な崩 壊 に至 ったのである。 同様 の ことが読者の「理論」 について も言 える。す なわち,読
者の「理論」 は絶 えず「私」 の意 識だけを追 って きたのであ り,そ
れに対す る他 の登場人物 の意識 は,そ
れ を補 うものではあって も それに逆 らうほ どの強 さを持 つ ものではなかった。他 の人物 の言葉 の中 に,「私」 の「理論」 の客 観性 を裏付 ける ものがあるか どうかが問題 となって も,彼
らが意識的 に嘘 をついて「私Jを
欺 いて いる可能性 はほ とん ど計算 に入 れ られていないのである。 しか し最後 の二人 の人物 の会話 は,「 いつか ら彼 らが意識 を持ち始めたのか」 ということに思い至 らせるものであ り,また意識 を持つのが 一人「私」だけでないことを強烈に主張するものとも言える。これを考慮 に入れつつ物語 を振 り返 るならば, この二人に限 らず物語中の全ての人物の行動 と言葉は
,必
ず しも本心 または真実 を表 し ているとは限 らない もの,それ どころか きわめて意識的で意図のあるもの とも見えて くる。例えば, 夫人によれば,今
まで実直で信頼がおける印象の強かったブリセンデンは,実
は全てを冷静に見つ め把握 していた人物であ り, また弱々しくて内容のある会話など何 もで きないと見 られていたサー ヴァーが,実
は「恐ろ しく鋭い」女性であると言 う。その言葉の真偽は別 としても,今
までのブ リ センデンとサーヴァーの行動 と言葉を,全
く別の意味 を持つ もの として解釈 し直す可能性が有効性 を帯び始めることは否定で きない。 とするならば,「私」同様読者にとって も,この作品を読むた めに積み上げて きた全ての意味が,「私」以外の他の登場人物達の「意識」 によって,「内部か ら崩 壊 し去 った」と言えないだろうか。読者の「理論」は,「私」が他の人物 と交わ してきた様 々なコミュ ニケーションにおけるズ レの認識から起こったのであ り,そ
のズ レの測定の基準 となったのは無 自 覚な他の人物の行動や言葉への信頼 に他ならなかったのである。 この点に関しては,双
生児の片割れ とも見なされる「ね じの回転」 と比較 してみるとより明確 に なる。「ね じの回転」では, この作品 と同 じように,視
点人物 の意識 と現実 とのズ レの認識が物語 の読み取 り上重要な意味を持つが,そ
のズ レを測るための基準 と見なすことのできる人物がはっき りと存在 していた。つ ま リグロース夫人 (Mrs,Grose)である。読者は, グロース夫人の決 して鋭 くはないが常識的で善良な反応 をほぼ完全に信 じて,そ
れを基準 としつつ女家庭教師の行動や言葉 の異常 さを徐々に認識 して行ったのである。同様のことが同時代の作品である『メイジーの知った こと』(V施ナ〕イαldづ列物θν,1897)について も確認で きる。メイジーの認識 と現実 とのズ レを読み取 る基準 となったのは,赤面 と苦笑に満ちた回 りの大人達の きわめて世俗的な反応であった。メイジー が子供であるために,彼
らは比較的無防備 にその本心 を漏 らしていたのである。言ってみればこの 作品には,グ
ロース夫人やメイジーを巡る大人達に相当する現実 との接点が,意
識的に排除 されて いる。全員が様々な (時には狂気 じみた)意
識 を持つ女家庭教師だと想定すれば,この作品の持つ 極端な相対主義が さらに明 らかになるだろう。つ まり,全
ての人物が「私Jに
な り得 たのである。 こうしてジェイムズは,無
数の意識の混在する意味の混沌へ と,「私」のみならず読者 をも導 き 入れ, しか も一切の救済を拒絶する。「私」は現実 を読み取るための有効なコミュニケーションの 可能性 を完全 に絶たれ, また読者は作品読み取 りのためのあ らゆる意味イ云達の可能性 を絶たれる。 『聖なる泉』がニューヨーク・エディションの選考か ら外 され,ジ
ェイムズ 自身の解説 も与えられ なかったことを思えば,そ
の封印がいかに意識的で徹底 したものであったかが窺い知れよう。この 作品は,ア
メリカとヨーロッパに象徴 される二極のバランスの上に立って生 き, またそれをテーマ に倉1作をして来たジェイムズが,そ
の二極性の基盤 となったものをも解体 し,さ らに大 きな多極 間F聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性 のバランスヘ とその相対主義 を徹底 し
,拡
大 して行 った結果生 まれた もの と考えられる。この混沌 とした現実を,苛
立ちを持 って放棄するか,逆
にそこに限 りない リアリテ イを読み取って甘受する かは,読
者に任せ られた選択 である。Wフ
ォーレット (W Follett)が 言 うように,こ
の物語が,無
か ら有 を生むように人工的で意識 的な世界 を構築 して行 ったジェイムズの,「自己のパ ロディ」であるという解釈はある意味では当 たっているだろう。に)彼にとって,創
作 の対象である現実は,ま さ しく相対的な無数の意味の混在 した世界であ り,そこで頼るべ きものは,自 己の意識 と想像力が作 り出す彼独 自の閉塞 した「理論J に他ならなかったであろうことは想像に難 くない。 しか し, さらに大 きく解釈するなら,誰
にとっ ても現実はこうした捕 らえどころのない空虚 さを内に秘めたものであ り,そ
こに一瞬意味ある「理 論Jを
見いだ したところで,そ
れは交錯する多様な意味の中に,再
び埋 もれて行 くべ きものに違い ない。その意味では,この作品に20世紀的な現代性 を見だ したR,P.ブ
ラックマー(R,P Blackmur) の評価は, さらに優れたものであると言 えるだろう。⑭)パロディーとして,また嘲笑の対象 として 見るには,この物語の持つ意味はあまりに深刻であ リリアルである。捕 らえ難い現実,不
確かなコ ミュニケーション,読
み取 り難い語 り,そ
して錯綜する無数の意味 と限 りない相対主義一一その全 てが20世紀モダニズム文学の到来 を,確
かに予告 していたと言えるだろう。 注(1)Jean Frantz Blackall,デαlltοSね″4111bり,1妙α,,ど`T力σS,御セどЯο″″ナ'(COrnell university Press,1965)
(2)Rebecca West,rrT′ ιヮザι421οs(Maskdl HOuse,1974)pp 107-8は he recOrds how a week end sitor spends more
intellectual fOrce than Kant can have used on TIPを G万
"?″
ヮゥ「P″″ 父ι,sο″in an unsuccessful attempt to discover
、vhether there exists bet∼ veen certain of his fellOllI― guests a relationship not n10re interesting among these vacuous
people than it is among sparro、vs"
(3)D W JeffersOn,Fr9″9〕
"″
9s,,,ど サル 〕ぢοJヮf14翼σαJ″(01iver&BOyd,1964)p176“ On the irst reading or readings of The Sacred Fount(1901),the desperate need tO solve the ddle is hable to inhibit other kinds of interest When
the riddle has been abandoned as insotuble,the novel can be ettoyed as Other nOvels are enioyed"
僻)Henry James,Tllp S,ひ ″′F9″,″ (GrOve Press,1953)p2以 下ペー ジ数 は本文 中 に記す。 なお 日本語訳 は青 木次
生訳 (国書刊行 会版)を参考 に させ ていただいた。
(5)cf Leon Edel,`An lntroductory Essay',T力 σ醜兜J局″″′,op cit.pp xxv viiエ デルは この点 につ い て ジェイム
ズの 自伝 的要素 をあげている。著名 だが優柔不断な父 と,父を支 え全 で を捧 げ尽 くして亡 くなった強 い母 とい うジェ
イムズの両親像 をあげ,そこか ら,彼が愛情 とは人 を枯渇 させ,破壊す る力 を持 つ もの と信 じていた と指摘す る。
(6)“ A Man of Double Deed":There was a man of double deed/Sowcd his garden full of seed/Mrhen the seed began to grow,/'Twas like a garden fuH of snowi/When the snow began lo melt,/'Twas hke a ship without a belt/ ヽVhen the ship began to sail, / 'T、 vas like a bird、 vithout a taili /Ⅵ /hen the bird began to fly, /'T、 vas like an eagle
in nesにyi′ ヽVllen ho sky began to FOar,/'Twas hke a lion at the door,/When the door b.egan to craё kJ/'Tヤas llke a penk■こfe in my bac、 /When my heartと egan to smart,/'T、vas IIke a pむllknifこ れmy hOarH/Wllen mtt httFt
began to bleed,/TヽAFas deatll atld death and dcath indccd
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この回巴の対称図形は,F黄金の杯』や『.メイジーの知,たこと』にも使われてお り,徹底 した対称性を強調するため-1こジェイネズね`好んで用いたものと思わ―れる。
18)IVilson,olle ,“IelaFア 」a叩益
`Portrait Of He“
Fy Jattes,"Tル プVttψ ン″″Tt切公2o94資¢υ,効(Augu説 23,198o)
19)R I Blaclcn■ r,S物,あ 力 勇″タカ″∫(Nelv Dヤ ectO■s,1983)ュ47.“Tytο ttι″ι員
"併is not―a nov01 as the novel
hen stood at tlle t● Fn Of tlle celltu呼 五Or Witlli■ Mr.F。1lёば s estiallation of the fOrm a geneFれion latei Butit is cer‐
tainly a nOvel,Or a uSe of the nOvel to a preponderant degFee,in the sentt that we caH he works of virginia lVoolfi Of PrOtst,Of Karka and Of JOyce novelsI It would seem thatよ ames had IIot o■ly predicted he course of a good deal
Of mOdeFi fiC住oュ bllt had indeed actually anitipated a good many of its ioiveities of丘 減miT
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