明治二十五年穫における王治本の足跡及び
日本文人との希
明治十五年(以下、必要のない限り、﹁明治﹂の年号は省略)から十七 年にかけての北海道の函館及び北陸ヘの大旅行後、十八年から二十 年にかけての西国大旅行も終え在佃国文人、賑佃本令系美ど剛。 一八三五S 一九0八)は、金沢で繊憲になった若年日本人女流画家、 枇井玉繊も連れて、二十得久か、1異一渓の古里に扉名していた(庄︼)一辻3
、、、生、 二十四年夏には東京に戻った。その年の冬の佐渡劼問の後、翌 力 二十五年八村中旬に東麥τ発ち、二十六年にかけて<1度は秋田1岩 手1女林1岩手1宮城を没遊した。その東北地方での旅程のうち、 本稲では羽後(秋田県)における彼の足苗かと詩文系乢の様柳を、秋 田の地力急﹃付田魁瀬秤﹄(秋肌県立鼎鉾蔵マイクロフィルム資1を 利用した)所載の記事やその﹁文叢﹂欄所載の深吋作品、当地の詩 人の作品黍寸を中心資料として、跡付けてみたい。 はじめに やマ 二十五年八河十一日の一秋田魁新報﹄(以下、特別な場合を除き、略一東京出発秋田到着まで
して﹃魁﹄と記すことにする)に次のような、王治本の来秋予告討蹄 がー゛てつている。告
◎沽客王治木来遊ル豐士治木氏は黍園と号す博学にして詩 文三叩くす久しく関西に在りし処今回東北地方滋遊として本月しW1ーモヰユ軍.一ι言﹂1i寺 1立; d).ー
削等の砺に応する由なり田
王治木か実際に秋田市に到着したのは、同糸氏同年同月二十五日の 示偵国人王治本来市﹂と題された記事に拠れぱ、八河二十三日のこ とであった。東京からの所要日数は、多く見桜もつても十B餘りと い、つことになる。 当時、東北地方の太平洋側では、すでに東京から寺森まで鉄道東 北木線か全通していたが、日本海側の秋田県ではまだ鉄道鼠、荏 行われていなかった。そのため、東京から杁田ヘ行くには、東北本 線の岩手県内のいずれかの駅で下車して、後は馬車や徒歩で移動す るのが通例であったか、後で言及する彼の石川桜北二八六Ξ?S-八九五)ヘの川詳の題などからも分かるように、王治本は煕沢尻(現 主月 、Υ-33-継
岩手県北上市に属す)から川尻(現岩手県和賀郡西和賀町川尻)を経て、 秋田県南の槌手に至るルート(希街道)を取っているから、下車 した駅は煕沢尻ということになる。横手からは羽州街道を通って秋 (庄3) 田市に至ったものと見られる。煕沢尻から秋田市までの距獣は約一 Ξ0キロメートルで、馬車や徒朱ノでの旅であったわけだから、後述 する横手以外では、ほとんど寄り道をせず、一吾わば一路秋田を同指 したことが想像される。 ﹁束北地方漫遊﹂といっても、まずは秋田に行ってみたいという 気持ちが彼にはあったのではないだろうか。今から四十数年前に于、 治木の日木全国における足跡について調査した故さねとうけいしゅ う氏が、 f︹L山聿二氏から提供された王治本の氾輔を紹介しておられ るが、その書幅の璽則に、 石川桜北については、﹃秋田人名大亊典﹄に﹁標鶴治、枇千署長﹂ とあるが、桜手署長を務めていたのは、この時ではなかっただろう ﹃羽後平鹿水紹炎記﹄(鮮進堂、二十七年十一努)という業盲か 0 力 ある。一日本外史﹄は巻之二﹁後三午之役﹂の辺りでも見せたので あろ、つか。 さて、上引の記事には、さらに﹁尚壬治本氏か桜北氏に似したる 詩を得たれは左に掲く﹂として、次四一首か掲げられている。 壬辰孟秋江戸東装来遊秋油、塑西避暑、爰以桑盟即1下杼妙、惜 7マ
尊態、率姑二律、需努迎外台仁兄人人即希 4兪並詩
晒政 聖1匝ーヨ三¥→オ又 1干1伶Ⅱ吉互乎生を1寺多 とあることから見ると、彼の秋田訪問は、﹁小麺外台仁兄大人﹂、す なわち当時、秋田始,霽裁判所長の任にあった苅打院之号はd赴二 八三OS 一九一六)の招きにょるものであったようである。そのほか、 (住、0︺ 七年の一鼎・新潟間の肌旅で船川に'需したことも王治本 一一.、、 、﹂J/ の秋田ヘの興味の一つのきっかけになっていたのかもしれない。 ここで彼が寄り道をした横手滞在時の一餉か分かる資料を紹介し ておこう。それは二十五年九打九日﹃魁﹄の﹁妥伯木氏の金沢探邑 と題する次のような記事である。 川尻途巾口占鼎凹以博怯北吟兄一邦蝶破山両一逕平一而を墜破して臣平らかに
羊場盤仙轡砥行羊揚排曲岻を繞りて行く
黒沢尻八粒口占桜北仁兄大人正可漆園王治本
"炎嚇Ξ1苛々ム翌 LL1 1聖杉tく母毛ιこーー﹁々 tこり 市陌匝来^一見否よ稲サ"亟来りて訶蛎く才日しきをN見ゆ、帯松林新刷道一弗の松林新たに通を嗣けり
;しく糸子1会 0)一.街
たりとは風趣ある目iなり 記するに足る可しと思ふ処は史を竺之を尓し以系談に代ヘ 於ける寒造を叙する位なれは此日桜北氏日本外史を携ヘ胴跡の 束道主人となりて金沢八幡の旧跡を探る、王治本氏の打木語に 王治木氏来秋途次横手町に泊するや石打松北氏直ちに訪馴首煙優妙処思血山詞 事負雲山不識名 この詩の第一句七黒の第三句は、前九年の役に源義家が{宿貞 任を追って越えたという(一綻希﹂)白木峠をはじめ、、益の難所 として知られたこの街道が、八年問の工*を経て、十五年に岩手
秋田両県を築契な﹁希N﹂として開通した半踏まえて詠
まれている。一力、桜北も王治本に詩を照っており、それが江賭派 園(一八四〒一九0九Y圭の﹃江湖詞華﹄第ル倫(二十六年十一.月 二十一日)に掲城されている。 煙霞の妙なる処詠を留めんと思うも "司一負︹申しJなく思う︺す 汽J^i詮ら J-^﹂ ざるを 奉口添園先生 .匪旦﹃ q、ー"JFΠⅡノ,凹雀堂会仙群
︻tヒ J 1含5i 日 健筆揮来勢祭云 止綴如悔絶喫瓢 H﹂冴詔浜碇。"〒何三メーー 遊蹴到処題名字ーーカ有.帳
1 、^r 1 ,. 中亀田以の文を価列Lて星様輩仙群に会す
一学吐く処光Πと争い
健筆抑い来れぱ勢い雲を起こす
歯趣梅の如く突八を絶ち
清瘤催に頚して気雰を帯ぶ
遊朧到る処名字を題す
(Jき) 剰水残山も亦茶ぢ有り 一九0 ごか幸田露伴全八六七S 一九四七)とともに泊まり、﹁耿田 の小林といへるは、心地よき旅籠にて﹂との感想を古き残してい ('註︺ 0 横手を後にした工治本は、上述の通り、八打三十三日に秋田市に 之仕9) 着き、、﹁長町小苓姦方ヘ投宿﹂した。小林写勞とは、この人物 ︹主10︺ が餐呂する﹁旅人布﹂で、五年後の三十年に大橋乙羽(一八六九S 王治木自身か秋田で先ず訪れたと弓ているのは、小松愚山(弘 毅。一ハニニS、八九七)宅である。小松直之進編輯兼発行﹃愚山楽 哉条﹄下(一九"六年)巻末の喜本の鉱に、﹁余游秋田也、先詔心 山翁于刈条、乃以其条釜近也︹余の秋田に游ぶ々先ず愚山翁を共の 家に訪、つ。乃ち其の名の述近を震わせたるを以てなり︺﹂とある。﹁其の名 霊近を震わせた﹂のは、次のような一件であるとぢぇられる。す なわち、明治八年、長州出身の県知事国司仙吉が、鯵子者を空理虚談の推として、﹁排学私塾凱布述﹂を行った。いわゆる釜森
可事件である。これに対し、西{緑長ニハニ五S一八九五)は弟子 の袖沢繁(一八四三S一九0二)らと家塾四鴛運動をしたが、明治 初期まで存続していた久保田藩の藩校である明徳館の教師であった 小松匙山も、県に反駁文を寄せ、子の冬嶺(迫之進)を政府にさし 向けて、秋田における漢子者弾圧を訴えた。冬嶺か掃りに東京の老 儒芳野金陵(一八0三S一八七八)を訪問して亊恬を話したことから、 ﹁秋田に愚山あり﹂と全国の迷子者仰闇の器吠となったという。 上引の皷文は、さらに次のように一荊じく。 二;ーー雪Ⅱ^立上j寸妾ムロ側メ︹。 rr.^
秋田での足跡と交流 小松愚山父子との交流-35-為游秋之愉快矣。抑愚山翁、儒雅風流、薪然抜俗。故其韓向古 雋永、有杣味不尽之妙、与文人之闇六嘉巧者、固不可同日而語 主わ 也︹既にして翁余を旗亭に激く。令息久轍君と感勤に杯酒を行り、 詩を吟じ文を竿。最も杁︹秋田の意であろう︺に游ぶの愉快たり。抑 そも愚山翁は、儒雅風流、帳{として俗を抜く。故に其の詩は商古仙永 にして、杣味不尽の妙有り、・父人の奇を開わせ巧を剪者と、固より民 を同じくして語る司からざるなり︺。 また、﹃江湖詞華﹄第三篇(三十六年二打十五旦に掲載されてい る愚山の﹁走馬燈﹂詩には王漆園の頭牙あり、様々なL需の行わ れたことが{祭せられる。 三度、各地を周遊して揮毫したため、彼の作品が全国各地に多く存 (庄ど 在することとなった。 一六の来秋は、八河二十六日であった。一十七口の﹃魁﹄に﹁巌 谷絡氏は咋午後四時頃佐藤謙堂氏と共に来秋、保一鮮愛宕町<爽別 (注︼1︺ 荘に投宿されたり、右出迎として陣井小蓮翁外数名は牛島まて趣き しと﹂と報じられている。この記き見える一罪小蓮翁は、言うま でもなく一墨した当時の秋田始・審裁判所長である。この年の十 ξ1 (1、ど 二十一日までが任期で、十一月二十五日には﹃魁﹄に﹁小子儀今 般退職致シ不日出火益示候二付拝趨可仕筈ノ処餘Πモ無之候問乍略 品薪聞紙上ヲ以テ拝別シ併テ年来ノ御偏岨ヲ途訓候﹂との広告を出 している。信州飯田の人で、昌平乳の出身。青年時代力ら国亊に奔 走し、江戸に出て同郷の先覚佐久間象山に学んだ。明治紕刃i後は法 曹界に職を得、秋田を蔀れて後は、束京で優游脚適古書画を娯しみ ながら、 Uを送った。昌平綴の詞趣味を承けたと思はれる末流の作 (庄Ⅲ︺ 家の、一人として知られている。 大力さー 一力、佐藤懲土、名は孝郷(一八五三S 一九二二)は、この当時、 秋田地方裁判他最珂当ルの任にあった。逃上は明治二年に仙台何述 藩のチX藩である白石藩の人々を引き迎れて北海道幌別に渡り、内 石(現札幌市白石区)の開拓を成し遂げた人物として知られている。 その後、札呪で札幌学校の幾子教授繋県等を務め、十七午には東 京の大一答ヘ候出した(大蔵省主税局判任四一密)が、二十下"に は大蔵省を辞任した。秋田地方裁判所勤めを経て、二十六年には捌 里の曾城県内務部に転じ、晩年には現在の慈恵医科大学の請師を務 ゛、任Ⅱ︺ め、漢文と倫理を教えたという。その後のΞ十九年四月に謙堂は九 州の宮崎ヘと旅し、その旅を題材とする﹃西遊詩草﹄(右田嘉、三 王治本の秋田における足跡に他の地方におけるそれとーなる特 色をもたらしたのは、彼と相前後して来秋した、近江水口の出身で 明治の一璽の、一人と称され、また児童文学者髪口小波(、八七OS 一九三三)の父としても知られている坐口佑、号は一L入(別号古悔。 一八三四S 一九0五)の存在である。明治元年、新政府の官吏となり、 内閣大者記官・元老塚墜目等の要職を歴任した、一六であったが、三 ホ族や官吏で功屶が 十三年に錦鶏の問祗候({呂巾における資格の 0 手 あった者を優遇する意眛で芋えられた資格)という閑職に就いて以後 官職に埒間的余俗が生じ、また、里1四年には刻一弐"院誓<と なったため、書作活動が枯極的に行えるーナ況となった。人の求めに 応じて揮毫することも夕夕く土鹸的に書作し、この頃から一年に三、 巖谷一六の来秋 2
十九年)を上梓した。これには王治本の計と践が掲枝されているが、 ﹁光緒三十二年丙午七牙谷こ(明治三十九年八"中句から九珂中句に相 当)の日付で記されたその践に﹁佐藤迷星為余、一十餘午旧友、一とあ るのにょれぱ、二人は明治十九年以前から相識の問柄であったこと になる。なお、一西遊詩草﹄には附録として、明治四年の北海道移 住を懐古した詩も城り、それに王治本と巖谷一六の評が付いてい る。秋田での開示と評か。 さて、一六来秋翌々日の八打二十八日の﹃魁﹄には、尋謎を乞 ふ者門に群る﹂と題して、﹁一祥絶倫詞賦遒淀にして其名批に鄭﹂き、 また、﹁貴族院に於けるや心を正義等せ﹂る彼の﹁風標三が揮 ,¥乞ふ者﹂で、﹁其寓所の門前佳た忙はし﹂かったことが桜じら れている。 また、九月一日の﹃魁﹄には﹁松嶋詩献、十二五律﹂と恕する記 亊と一馨作品か掲載されているが、これは一六が秋田に来及吊の 八打二十一日に、遂吊と仙発住の北火禽所(一八六六S一九0五) との案内で松島に遊んだ時に詠んだ五一吊詩十二首の聯句である。 王治本の︹花紅玉白、烟直日円、エカ削当、無慨1。.乱避談不 多讓也︹花は紅に玉は白く、烟は十皿く日は円かなり。エカ杣当たり、僻り の撃つ可き延し。石鼎の遺韻も多くは曾ざるなり︺﹂との評が付せられ ている。 らJ瓢介することにしよう。まず、小延の作である。 九月三日の﹃魁﹄にはヲ廼尓の唱和詩﹂と題して、小莚が と王治本とを芝田楼に招待した際の唱和詩が掲赦されている。それ [﹂1征1般1何一見1方、 i戈,ー]ー、ー、氾ξH1﹂ .父仞1フ有驚ノ¥ 冷チ戈文色ナ一↓ノ、忍 =凾木の唱和詩 3 ('幼) 小趣司冠宅、汚共所噛瑶鈞、以博粲正。舗刃殿直 、イj惨,イリ,〒
欣然W峩倒胃酋警ぞして我を遂えて嘉リを倒にす
、一^¥ー:,
凖画征訳郷Ⅱ八域名仙サ一宵 W<城一村なり漸黛逢左右原
委常ーニ。 d、 1地沌i Jト^ー^ーーι Ⅱ枝京華酒呼をⅡ<にしき 交朋︹朋友︺今幾人の存するか有らん 数奇︹不運な︺たる我は伏飛︹社会的地位 ミ、-J O)/.ニ、を.糸色1ー 聶伽︹前途の果てしなどたる浜は左右の 原に迩う︹出がすべて順調に進む︺ 妙第連城︹貰重な物︺内史墾六を指す︺ を隹し ︹向分を指す︺を笑う f[ ーーニ一一,r門,﹂棚迩いて且く作さん伯倫の述
︹蚊のよ、つな小人︺何ぞ関せん世俗 攻・羽 0)^、州に 沙小難成隹仏史 貌.ψ1Ξ1辻劉リHりド 相次昔竹伯倫述 女、峪可関但ハ介倫 第七句は19iの竹林の七賢の一人、劉伶、字は伯倫か礼法を怪んじ、 酒をほしいままにして世を避けたという故事(劉伶﹁酒徳包を踏 まえている。一方、一六の作は次のようなものである。 ︹J川) ノ、 -37ー濃Ⅱヒ令叩縮秋牙 有林中趣静幽室 無長者車沽白門 不議紛々人世事 除文詩外復何論 ﹃魁﹄には、これら三首に対する王治本の屡静透徹玲瓏、不 可湊泊。蓮︽器一耕風流、情文交注。磊玉具。<奪焚硯矣︹桁翁 の詩は透徹玲瓏、湊泊す可からず。匙翁の詩蛙器風流、階文交ごも注ぐ。 美畢く具われり。余は将に硯を焚かんと^、tごとの芹Fと、 1皮白身の詩Ξ=^ 首とが載っている。註第一首が一六ヘ、第三首が小共、それぞ れ贈るもので、第三首は自ら慨くものである。
漁花冷艸秋原縮まる
林中の趣有り静幽なる室 長者の車処し清白なる門議せず紛々たる人世の事
文詩を除くの外復た何をか論ぜん 古栫内翰見示一司芋少延外需日和竹也。抽奇帥司各極 (注ι 其妙。余為畳和三首。続紹之識、自知不免無孃々々。 三tfーオ\ーリJ1 ツ恍川一 11上上"をー1tえ"王妥弄.ミ゛を,キιこ、ー壁上龍蛇酔墨存壁上のψ距築凹の筆勢︺酔里酒に酔って
﹂し大鋤.ー退夏幽居宜水閣夏を退きての幽居水閣を宜しとし
尋秋逸趣愛林原秋の逸趣を尋ね林原を愛す
城公専嵐前竹城公の画意風前の竹
(庄" ・島仏吟晴月下門・局仏の吟情月下の門 文苑驥珠君独得文苑の騒珠︹得幌い宝︺君独り得たり其餘鱗介復何論其の餘の鱗介復た何ぞ論ぜん賠内怖
到老詩才格律尊 牢騒一変入温存 ,・、在巧) !旦Ⅱ麺玉÷Eユ、1吊1Ⅲ 学露休時水到原 1因力女 1両1i乏キー老ゆるに到りて詩才格僻一く
{'︹心中の不満︺一変して温存︹希
なこと︺に入る襟懐朗らかなる処雲岫に帰り
ムι'もー丹玉深き時水原に到る
許すや木口や烟波イ粒︹舟遊ひ︺を同に するを すで 栽え来れぱ桃李巳に門に盈てり内雲惨上風雅を伝え
?1上")吟篇を羅取して仔細に論ぜん賠熊一上
栽来桃李巳盈門 白雲楼上伝風雅 一雄又吟ι而子柘人佃 この詩の第五句には、﹁近約遊男鹿﹂との自条ある。次節で述 べる男鹿行きの約束のことである。0)1享きに言モ弌!丁るも
草々たる吟箭玉存せず
勝顕遍く経て絶島を拶りぬ
濁醸︹濁酒︺何ぞ碍げん平原を酌むを郡愁遼闇たり秋笛を開き
旅況︹旅先での右様︺凄凉たり昼門を
拡う風雨塵峡行くゆく自ら惜しむ
鼠肝蟲臂人の論ずるに任さん自胤
Ⅲ盲t ;竹丁 a艾酉 草々稔肩玉不存 貯尉一迦経排絶島 遷醜和碍酌平原 黍太遇ξ闇ーリ,研^由 旅況凄凉昼掩門 風雨塵挨行白惜 丘肝蟲臂任人^爾 第一句の﹁布衣﹂は無位無官の士で、王治本自身を指す。陸游の﹁習況﹂詩の︹貧知堕艮美 W見布衣N﹂辺りを踏まえた表現か。 第三句は十七年、及び二十四年に訪れた佐準τ言うか。第四句の後 には﹃世説秒江鷄術鰄廂の一節を踏まえた﹁亜楢日平原仔郵以平。 原専軍ぎ止胴也﹂(﹁以﹂は璽か)との自注がある。すなわち、﹁平 原﹂は欽んでも腰辺りで止まってしまう、悪い酒のこと。第八句 は﹃荘子﹄大{一倫篇の造化に関する{鑾川を踏まえ、向分訂身を卑下 する表現。 さて、上引の唱和詩の中で王リ栗が、一六に同行を求めた男鹿行き え+﹂'︺ は、謙堂をも加えて、九月三日に出発となった。耿田市扉許は六日 ︹庄29︺ であった。この吟行の模様を九月十三、十四、十五Πの一魁﹄文叢 欄掲載の一誓にょり、跡制けてみょう。 この一冴作品の冒頭を飾るのは、王治本の﹁壬辰九月戈品 1 起。風日哨朗。与古栴内翰・遂呈秋曹同発秋田徃遊鮒鹿、並轡徐
下車過唖彬兌漸入河原。墓希美、緑傑臣四面鴛護
!t。ー{工F山噛劣之俗向時、恍*夕笑1"旦。望!中口占 1一、壬辰九月三H眺に 起きたり。風日暗朗なり。古梅内翰・懲上耿曹と同に秋田を発し徃きて雄 鹿に遊ぱんとし、轡を並ベて徐ろに行く。車四祷を過ぎて、漸く郊凍 に入るを党ゆ。蔀おごと稲熟し、緑樹、霞く、円而の雲轡或いは述 上ζ く或いは近し。太平山蛸然として高く崎ち、恍も笑いて迎うるが若し。 道中口占︺﹂と踵する作品である。面ψ薪は﹁八橋1所に架せ (庄兇︺ る小橋﹂、太平山は杁田市の東北にそびえる山で、 一一七0 票拓 四メートル。 男鹿行 4超然として何れの日にか<簑を脱せん
琶 H丁開にtr1 ^9 1 一. 上 海外に如今知巳︹知己︺を得たり同に游び笵を枝せて仙山を訪ねん
L﹂日ーノー]山.川, 侵暁勿々出市剛,ティく i
凸"リ^ー^町又父TⅡ 7, 詩酒追遊水石・簑.鞆,人、鬮
J,、、j削]尚3 前面先看皀溢Ⅱ に次韻した[U1勿:のイhΞ。 ,て丁山・^二呈之を!呈rk日まノくノと侵暁勿々として市剛を出づ
重畳せる壬霧多くは識らざるも喫小認取す太平山
超然可日脱<,袋 1T1﹂寸﹂嘩 ママ 海外如今得知巳 (舟κ事リ山[ 同じく誹堂のノト。 次に城るのは、王治本の﹁車行六里註逸士崎湊、訪金沢議員 家。玉テ古梅内翰右旧。園庭修潔、儿案問陳列金銀鼎鐺。是殆晋 石学Z流亜獣。少作茗吠移時復行︹車行くこと六里詐、士崎湊に 上Y、 逸り、<淡議貝の家を訪ぬ。蓋し古柳内翰と旧有り。園庭修潔にして、 、一 1 ' 凡案の冏金銀馴鐺陳列せられたり。是れ殆と晋の石崇の流亜か。少く 茗鹸を作し、時を移して復た行ぐごと題する作と、これに次韻しえ 詩酒もて追遊す水石の竺地域︺ 門を出でて始めて覚ゆ人剛と隔たるを 此の行訪ねんと欲す龍湖︹八龍湖︺の勝 削ⅡⅡムモ^9ネiる,μ可"圧 1 -39-( 2 )古梅・謙堂、両人の作である。金沢曾<とは、当時小於院曾ぞ 務めていた金沢松右衛門交八五OS 一九二四)のことである。士 (ι口︺ 崎で商業を営み一代で産を成した。日本全国商1人名録発行所 (住怒
編﹃日本全器工人急全﹄所収の三十一年九月調の﹁秋畢
多額糊者及大地主﹂で、﹁多綱税者﹂十五人中の七番目に位 置している。詩は次の通りである。 塔前秋草自生香 門外蒼波近水捌詞架炯鉦鷲醐
Ⅱ中少1方姑¥ 納祥するに 古毎'ノ川及陛鴎{開き
}ξi リ寸口京リ升下1 我将に岐鐙の句を儁り需せんとす 雲水光中眼を洗い来る 塔前の秋草自ら香を生じ 門外の蓊波水郷に近し 一卯の茶炯俗舘劃く し1上' 寸コιこ 4,くf卜まりーカイ品イ羊司 銀μ需茗・.赤香 ママ 家富風流冠一 1妥気淋縛而竹
ーーーノ介メ丁粘1 橋八姻波禹頃開 制璽1畢押千即 孑戈一誉昔市及'羽fn 上厶人光﹂洗Wメ 銀鋪︹銀の耳玉︺冷茗{驫︹香炉の美称︺ 香しく 茶・袖加游一捌に冠たり屯気淋洞たり壁制の竹
此の君︹竹のこと︺俗ならず 子し 三つ目は王治木の﹁自土崎発中、盤曲行程、歴経三十餘里。樵 ママ ーイく兆色、'^一ネ士す皮i釜々、本寸1登捌k1畢。 1安烈f十寸1召]万酋子手1金色行ルー^白 也。行近八龍候一訓湖光談"晶目令人烈雁冏扣心︹士崎より 東を発し、盤曲せる行程、三十餘里を歴経たり。枇舎抑村連落して絶 えす、社需じく迩々たり、村童跳び郷えり。蓋し郷村邪猶お盆節の 旧習存するなり。行くゆく八"器に近づくに、一漲の制光咲一として目 を豁かしめ、人をして・隊淑間の想いを動かさしむ︺﹂と題する作と、こ れに漆頗した古梅・歎昆、両人の作である。﹁社皷﹂は村祭りの 谷以。八龍湖は、今では大契刀の水域が干拓にょり陸地化し、ハ 郎潟と呼ぱれているが、かつては我が国第二位の面枯を誇ってい た湖。﹁八龍橋、一は、その八龍湖にかかる橋。﹁一江間の想い﹂と は、昇壱士子=秋水筋の1子と恵子が宏梁のほとりに遊んだ故1小に 基づき、ここでは、湖の牛粛らしい風光に溶け込んでしまいたい 気持ちになったことを言う。 片H1J 旧州一 h、 j才[ 家住水雲深処捌 .丹ーオミー与 小園血甲客竹稍祥 王治本白身せ言うとおり、この作品は、第二句が殊城の﹁九日尋 玖W<遂泛小舟工弼師院三首﹂詩(七律)其二の第一句﹁湖上青 山翠作堆﹂を踏まえ、第四句蛙鞭の鼎の第四句をそのまま用い ている。一織の詩は彼が西湖の南岸から舟に乗って孤山ヘ行き、そ こに住む恵勤を訪ねた時の作で、﹁西湖のほとりの青い山、孤山に洗団︹上"1全一鼎煮来れば香し
家は住む杢深き処の郷
多訓す主人恬味早く
小園に客を留めて稍祥を作さしむるに 1主31︺ 司、ー ③濃い緑の色かうずたかく、盛り上がっている中、私は雲と水の凌み きった光の中で目を洗おうとやって来た﹂と歌っているのであるが、 王治木はこの表現を八龍湖一帯の条色に当てはめて用いたのである。 萬頃明波一鏡開 円"ー. 1卸 1L,1丙1一下" 天公与此沙図画 手戈ヨ則云モト李牙
萬頃の明波一鏡開き
ーフ螺宇Π山のたとえ︺杉左倒にし千佐を蔀 す 力 天公此の妙なる図画を写き 我が王郎︹王染のこと︺に一N ︹誇の題材︺ を惜し来りぬ 湖心如霧主中開 溌激波光玉作堆奇絶崇芭画彩
一斉落向馬前来 U1ーつ目は王治本の﹁抵船越、就西村旅屋午飯。脇程岐恕、車行 サーj冥牙ミ一一 1夸、革安﹁bξ。 1愆白k,江芝芽川i"ー、〒Hi飯 7﹁、"介越に
抵り、西村方r屋に就きて午飯す。岡程憶悪にして、車行に阻有り。遂に輪 と易、つるに再を以てす。余轡東より未だ一たびも跨らずして、鞍卜反、つ。賭 う自ら異に西湖に游びて、駿に湖上に策うち、耕を停めて山を舌たり。 ﹄:て 甍し巳に十餘載を関しぬ。首を回らして之に及ぴJ1J:えず赦駄す︺﹂と題 する作と、これに辺除した古柳・謙堂、両人の作である。船越は、 =﹃ソく日オ丈地名舌辛11E,にょれぱ、一﹁男鹿斗主島の沸ミ倖iウ諾に Ⅱ!f o)ヰー、-J ιこⅡⅡき艷激たる波光玉垪を作す
奇絶なる宗鴛Ξ国の影
﹂Ⅱ司力、し、て,引でる iakGk山﹂
ありて、八龍湖の円戸に酷む。対岸は天王村にして、その制に長 (L一巴 橋を架す﹂所である。 (庄.︺ 聖1、ユ゛一村 (ギ") イノ!η 1t1,."小フ丁f山一" ヨ﹂J、'Ⅱi 岳一勺1、、 、 Hハ、院湖﹂ニ"各 判疋又廻1f加流 (.Ⅲ) ヤL.ー 一一 湖のほとりの橘のたもとで暫一ならぬ馬にむち(鞭、策)を打っ たこと力ら、十様ず前、すなわち来H前の習分自身の西湖遊歴か思 い出されたのである。次の二首は、作者名が明記されていないが、 これまでの配列から見て、十H愉作、謙ルえの順と考えて湖逸いない え三ろ、つ "る、、一と、一ノリ丁、イ需1而百^乢県依稀として十秋を過ぐ
ノ{、叫眺.り﹂二の丘鞭に拠りて又逞しくすΠ鳳流
々1于141虻Π子斗旧ル 四、、虫リ﹂ト小R丁y 和心1子゛﹁,女F.1y ーノーくノーiご、t1=例 緩々として行くゆく吟じ張顕を並ぶ 熊匝崇(寒風山︺下新杁を製す N心し看る."依 殊に美しからんこと ー﹂、 を 八Ⅵ・篇士又師噸 P m"Π1女々下.オ上干 、,之プく徹ナi ].一.↓ヒ一1上;一1し.-qてー 八北桟上 X 頭を回らすして二禾火ιこイ以大こり
此より 1央桑大いに尽きんと欲す什みて看る北河に雪一語流るるを
(4 ) 、jf. 」・」-41-五つ目は王治本の﹁発船越、策馬〆野。一路湖山或左或右、恍 如入山陰道上、応接不暇。過寒山、海色在前、湖光在後︹船越を 発し、馬に策うちて緩やかに行く。一路湖山或いは左に或いは右に、 恍も山陰道上に入り、応按に暇あらざるが如し。寒山を過ぐれぱ、海色 前に在り、湖光後ろに在り︺﹂と題する作と、これに次誤した古桁 鄭夬両人の作である。﹁寒山﹂は男鹿市にある成層火山、寒風 山のこと。 波光澗処畳畑. 浪白峯村到眼寛 路過寒山湖在後 一博驥北月劉騎看 砂1雲參戀巡荏 亜金P 1t一Ⅱ'Ⅱ一.i,、ノ Ⅱメミ引一1ー、Ⅱ J 田メ
波光濶き処烟鴛宜なり
浪白く崇青く眼に到るもの寛し
後ろに存り路﹂缶を過ぎて
古 肱背を転じ倒に騎りて看る 巌頭'首放眸着 砂范たる雲の袈海鷲隠れ雪浪銀濡菖里寛し
此より割界冒シアか︺は仰れの契、力是 れなる ι:ι巖頭馬を立めて眸を放ちて看る
かさ 六つ目は王治本の﹁熊風山以北路敵側。取径海浜。懸嵯百丈、 く究&司旦征i升そ、司く 1嘆﹄忌1夏、圭受イシノX、亜b日↓一'モ゛逝ミ云ぢλどU託^{ヨ太陸L山fi阿.秀し力父吸、壮1 征き
<住ど 来り、水瑪腹に雌ぎて、幾ど人をして日蓉れ途窮まるの慨きを動かさし む︺﹂と題する作と、これに次談した古梅,謙堂、両人の作であ るが、占栴の作は、利用したマイクロフィルム資料不鮮明で測市 しがたい個所があるため、ここでは取り上げない。上1旻1E1
力く千.山眼界寛 不怪人間奇句落 0十コ 風光又作画中看 最後の七つ目は王治木の﹁時近粘民日、始至湯木温泉舎。此舎新 築名場判鯨。条馬行来、小膨労頓 1〒衾一浴白党祁暇望肺陽 然融t列之一︹時に黄昏に近づき、始めて湯木温泉舎に至る。此の舎新た 一コ主羽、 に築き、暢祁館と名づけたり。馬に策うちて行き来り、労頓に勝えず、装 を解きて一浴し、自ら神桜流暢するを覚ゆ。欣然欣然︺﹂と題する作と、 これに一徐した古栴・謙唯、両人の作である。 き型上司tキ井を1旻し萬ガく千Ⅱ恨界寛し
怪しまず人問奇句︹奇抜な句︺の落つ
るを風光又画中と作して看る
半竿落H晩蕭々謡岻前路一条
馬踏海沙行綏々 ]ナ j又.ネー?削 1P竿の落日晩云恬々たり岻前路一条
五 1f←.J瑪一渉を踏みて行くこと緩々たり
山を舌ること来だ了わらずして又
を看る璽四洗轟泰々
細径小罷通一条 行尽須咲天忽濶 !匝L山干.月づー.り力N 一 1ー渓声耳を洗いて釧又郁々たり
細径鑁かに能く一条を通ずるのみ行き尽くして須典にして天忽ち湖く
t ,ー. 熊風山下査浦を見る 弧土 ⑤ (フ) ⑥ 潮、.ーニ﹁1、 j﹂ノー 1無制ほ豐早下 為撲征塵忙一 、、、︼ ノ,ノ﹁ ,﹂ιザ四H ネ 円に到りし時節︹とき︺晩凉︹夕力の涼しざ︺ 彩tここ ︹褒め称える︺す可し ︹心︺を暢ぶるのみなら ^ー^ 繪1二耀、仁Ⅱ舌羽 や乞下りて 1Ⅱ将に苦辛を道う 1土゛.コ .bたノ 征塵J長わんが為に忙しく一浴す
衣を捉いて倍ます党ゆ吟神︹念︺暢ぶ
るを L、"包甘Ⅱ村"訂田子 さて、男腔行力らの昂秋後まもない九月九H、小莚の崔しに系る 滞会ガ空壕倶楽剖別鯨で開かれた。その様子を窺う手禽かりになる 一昇としては、九打九Π﹃魁﹄の﹁今日の雅会ごと題す免事(資 .一'りイ 料A)、十河二十二日﹃魁﹄文叢所枝の歓宍介定雄(鷹嶺)の文と詩(資 判B)、十一打二日一魁﹄文誹載の根岸秀彬(古狂)の文と詩弐棣 華一第Ξ染にも収められている)(噺C)、匝平﹄第三架所載の小野 源橘(爺谷)の文﹁豊楽倒雅染記﹂(資科9 の四つがある。これら の資判を突き介わせることにょり、この詩会の詳細を窺ってみょう。 まず会場であるが、﹁秋田似楽部﹂とも暫れていたようで、﹁秋 (よ岱︺ 城之南、数百武﹂(町D)にあり、﹁述対太平山、近抱旭川、山川 庖丁調味1叩美 !ト^'内1Ⅱ中1五中 ー=も 励倫︹剌身︺牛婦1 ︹焼肉︺麟に上りて刷 1L ι 蒜︹ニンニク︺葱の甘きは和す焦山︹肉杜 と生姜︺四¥きと庖丁の調味塾契
列{り謡内河の能くネ ず 空壕倶楽部別館での詩会 5え女]ー!W
頓忘峨路幾快辛 伶游丁独同文穿 j.司之゛内水陽チ戈ネ 似に妙に、噺郎﹁一字をも柏せずして、盤く樂乢を得﹂なり。余が作 りし所を視るに、織乎として後れたり(完)︺﹂との墜鬮を付けている。﹁不 着工'得風流﹂は庖の司空図の﹃臂巴<号篇の嘉永で、﹁迫皮 な形式で大げさに表現せずとも、<永すところなく表現できる﹂の愆 であるが、王治本の牙んとするところは、この章ぎ基準に己が 作を見てみると、見劣りするため、袈{白失するということである。 なお、九月九日の﹃魁﹄の﹁詞客倫耿﹂と題する記事には、一 六﹁翁に随ひ至りし人黒話を開くに一六先生の名声到る処人の知凡、"寸より,.委女二
沓至し叉船越村にては西村浮Nの宅に同村及天王村村志署染まり 居敦れも"需めに応し揮一誇りしを以て折他の雅遊も一半は俗了せ (注Π︺ られたるならん﹂とある。一浴融松恵更に新たに
頓に忘れたり鱸路幾たびか難辛なりし
を 同游は独り同文の楽しみのみならず 況や巾、業の我か神を暢ぶる有るをや 勺創豊 以上二十一首の後に王治本の﹁以七首亘廂投括数十里風光水色。オ第拙平愽伊妙所飴不着丁1".匝汁。柳<*川乍黛乎妾矣
発)︹七首の詩篇を以て数十里の風光水色を捜括せり'ーもて揣き来れば、 ^ r 干-43-兼美、尤為奇観爲﹂(断旦であったという。そして、この日、招 かれた一六が小蓮と相談して、この團を﹁豊楽園﹂と名づけること とし、そのΞ字を題したことから、豊楽園の名で呼ぱれるように なった。その命名は展豊人楽﹂から取ったものという(資料B、 C)。 壁お参加者は、エへ王染のほか、﹁秋城竃、需数十名﹂であっ た(資刷C)。具休的な参加者名も含め、この会の模様を小野源橘は 次のように描写している(盲D)。
一時き暑、巌谷古梅、王漆園、西{県荷前田汝侠狩町旭
j卜jEiナ,.^,ーー冴巻]1τ1昜イカニNt司下宝t 陽ii藪,一"畔 d 野崎秋城、籠谷鷹嶺、根岸古狂、佐一枇園、岡本東皐、西村素 堂、、多田破塵、茂木楽山、皆岼附乏名流也。是日残火粂{燕可 寸マ 以礫石。而此園則一上試簾、運織屋、清風颯颯、川声浜海、 胸襟頓忘点塵之累矣。 1座乗興、探的献咏。笵徽謙綴瓊珸、唖畊玉人嬰剖仔詞<冷愈奇夫奇於目名典H1壽
1 於心者、莫良師友益一。今井得之、辿海自適、満酌快飲、盖可 需奇游也︹一時来会せし者は、轡古桁、、嘉園、西宮端斎、(人名 は以下略)、皆呼讃の名流なり。是の日は残条一蒸として、以て石をも 1 礫かす可し。而るに此の園は則ち翠嶽簾に映じ、油流屋を繞り、 風颯颯、川声溺溺として、胸襟頓に点塵の累いを忘れたり。一座 興に釆り、的を探りて娘、咏す。笵もて概い里もて歌い、瓊瑶を綴り、珠 玉を唖き、奇籍、決詞、愈いよ出でて愈いよ交'り。夫れ目に奇なる者 は、山水に若くは莫く、心に決き者は、良き師友に若くは告大し。今井び に之を得て、造癌自適し、満酌快飲す、盖し太券と認う可きなり︺。 黒木園粋集、 一式研嚢随叉携 太平山下駐人'技裁和穂堆玉
人会同文星ホ黍 満閣凉風揺竹樹 也人﹂戯J二1 鷺 雪泥吾亦留鴻爪 山藁人山棚上第 分韻得斉。筆袋研糞随処に携え
太平山下驗会を駐む
税1にΞ工j1,きに 博こ次1上、つ 千人会し文を同じくし星柔永まる
満閣の凉長にけ樹揺れ
'くしこ下しり、M叫佳﹂.'畿Z 雪泥に吾も亦鴻爪を留め (at円︺豊楽の崟倒媚上に第す
この詩会における一六の作品が﹃一六遺稿﹄乾全十四オ)に載っ ているので、まずそれを切界しておこう。 次に、一六、王治本、謙堂のほか、来会した秋城の﹁騒鯆一の名流﹂ のそれぞれがどのような人物であったか、私が四ることのできた 範囲内で奨打しておこう。 にしのみや 西宮ψ器は前述の西{尿長。藤長か諒で、一架はその号。角館 の出身。一柔から明治にわたっての教育家で、根本通明と並んで秋 田藩学の最後を飾った人。二十七年十二月十口訓のものであるが、 i =﹃不火田旧^礁L員1示E一(秋穂堂、三十七年、"には、一﹁不火田旧4;气腎上吊 (注四 師処子校嘱托教師年俸百弐拾円﹂とある。 狩野旭峰交八三二S一九二五)は大館の出身。良知の弟。名は良貴、 徳蔵と称し、一撃者新開尋として名声を馳せた。明治七年、﹃退 邇新開﹄四璽人、﹃秋田掛新開﹄主幹、同十五年には﹃山形新聞一 、玉として一時秋田を去った。のち再び秋田に帰り、秋田魁新報社に迎えられ、、歴史その他の一益に粘魂をかたむけ、江帖漆倒ととも 一.勺︺ に明治初期轟一を担った。後に﹃秋田魁新報﹄の王築となり、一 ゾ 三二年に﹃秋田五十年史﹄を上梓した安一輪風交八六六S一九ご.六) は﹁江帖浄奥小は大舘4れなるが、剣里を同じうする守野也崇翁 の推糊に由り姑めて新開界の人となつたから、旭突調は元よりその 先輩である。この子翁は全く否小新聞記者の二祖と云はねぱなら ︹主記︺ ぬ↑と述ベている。これより後の二十八年一 4刑文の沃力{ ]一 歌等をも含む文藝誌﹃棣華﹄を創刊した。 辺1Ⅱ映 0)ち証Ⅱ一羽 4﹂よ了.越1 ー,儘1 L船、コ一前姿、ヨ;リ 廼八古と号した漢詩人にして、{砂人、灯朋氾老。寧,吟社を王,.邑し、 漢詩文と和歌から成る文孤姦﹃江湖詞華﹄を二十五年八打十日に創 刊した。この九塚倶楽部別鮪での焚工に染った秋田側の人々の大半 は、そ象馨吋竹品か﹃訂湖詞華﹄に掲枝されている。すなわち、卓 静吟社の同人たちであったことになる。
この日倫会におけ壽園の作品は、その宗靜楼詩紗﹄巻之三
に載っている。次のような作品である。 北崔檐に噂りて松気︹稔の空気と霄︺ 一保し誰か識らん茲の筵千鎰に直するを
ず然た,昼士︹決い音を料かせる美しいモ︺幾 hf一ユf-上{.方{岫、上デ泊オ'i1 W力影轟n^/L﹂L1J1ー・ 1三ーグヌ小泳11X1司﹂^河 カーー,1召,一、陣剖{^。 我盟堪詮北方強我が盟︹篝呼吟社のことであろう︺よ池るこ堪 え大り 1力の,リ中外名誓ご堂中外の名流一堂に会す
士4< 委鬼.^日 i寺千各1よーぜに1予に委鬼^日を1旦オつんとし佳奘工有継楊王隻絵会ず楊王を継ぐ有らん
刷魚捌水波繋鹿刷魚水に北ねて波女麗しく
黄雀叫彬杉卜気京 t茲゛メ委^担千'益 .、-L N1ー; f1,[アT 王治木は、合わせて二巻ある示靜楼詩紗﹄の表÷ソ一のほぼ最後 まで評をイ寸けている。巻之二末尾の﹁諸髮松評﹂には泰ω烈鹿句、 逸戦俗易到処癌徹奪鷲上之塁。哩而一過、歯頭主香井細麗句、 一.訊︺ ミ付が朴圈る処、、幾ど殊・染の樂を奪わんと欲す。竪涌、一過、断頓こ香生ず︺。笈X 治国王治本弐乢﹂とある。
川井束洲(一八四三})は、"輸詞華﹄に頻出する作者名から、 忠排かその名であったことか知られる。川井忠鯲は、諸種の資料に より、二十一年六月ごろ以降、、平鹿郡長、二十二年十月士詳は河辺 郡長三十年一月当時は山木郡長、同年五月に非職を命じられたこ ︹.開︺ とが分かる。渡辺真英﹃国厶系俳秋田暴目内名士列伝﹄の﹁川井 ﹁川井君は。夙に果肌文雅の士たり。日本刀及ひ こま ﹁わ心ι11佐 珍史冷画の類。処一隨ふる多し。(以下略)﹂とある。﹃江朋詞華﹄第支のイ乍、一、﹁犯11ιι士三寺にょ、橘i園の
頭評がある。 小野崎耿城は、写輸風の﹁秋田五十年史﹄にょれぱ、その名は 堅治、﹁秋田日々新聞社の社長門樹家﹂で、﹁講巡大古といふ私塾 の教師を務め、自ら﹁、王,宰して詩文会を開いた﹂人物という。﹃秋 ︹些巴 巨糸勺、一第一一瑞頁幸乞という*^凶1勿を包可繁1 している。 佐藤槐園分八六一 S?)は、吉木信がもとの名である。﹃秋田人 4-名大亊典﹄青木信の項に﹁漢詩人。角館町。青木定謙弟、佐藤順信 に養われたが、後に復籍。字子必、別号槐園、万延二年生﹂とある。 めあ 彼が佐業の養子となって妻わせられた貞子は二十年十月に死んで いる。妻の死去後、しばらくたってから籍を抜ミ青木姓に戻った 牝馨直光(号三邨。一八四二S一九0二。六郷町の人)に長らく教 力 えを受けたという。二十Ξ年五月当時、秋田県学務課属の判任官六 (下)。二十四年頃には改正小学校令の施行準備に取り掛かるこ 亨 ︹住認︺ とになった耒客貝の一人であった。その後、関西地方に移住ないし深 盆弱) くかかわるようになったのではないかと思われる。 岡本東皐は、その著書として国立国会図皆館に﹃学生須用惜出千 字文﹄上(秋瑞書房、二十六年六月十八旦があり、奥付には﹁坪宅 者岡本元良秋田県秋田市手形堀一柵六番地﹂とある。耿田魁新 郡文化部編﹃秋田の画人﹄、﹃秋田人名人事典﹄、井上岳﹃新絵 秋田書画人伝\いずれも﹁岡村来皐﹂の項に﹁万延元1明治。木 名を元良といって、一静人としても一{永をなしていた。字は子慎。 佐竹藩の武士である。ま奈条でも名をあらわし、明治にはいって から、県内小学校の書き力手本を弐いているほどの能竿であった﹂ 旨記されているが、この﹁岡村﹂は﹁岡本﹂の誤りである可能性が 多田破塵は、﹃江湖詞華﹄には多異観の名でも出ている。チベッ ト研究家として有名な多W観(一八九OS一九六七)の父親で、 モ 旭町琴平(現士崎港中央三丁旦 R宗西船寺の住職であったようで ある。三1七年十二打十日調、鈴木鉄治四秋田県職員録﹂では﹁監
獄署教諭所月俸拾弐円多田義観秋田﹂となっており、﹃明
治'十年一月秋田呉官内職員録﹄にもほぼ同じ記載が見られ
(正偶︺ る。 籠谷,系(一八五九S一九一五)については、{護和風か之馨定 唯氏は鷹嶺又たは狂堂と号した。筆舌並ひ能くし、文章も硬軟をヨ ﹁、一プ ねたが、後に至り、本市に種々の新聞紙か発行せられしも、不審議 に関係しなかつた。併し市△瓢員として顕角を露はし、、一派の首領 として勢力を張り、市政に一献したことか祭ノでない。氏の別号狂 堂は狂者は進んで取るの意より来たものにして、其の気性も亦中央 の競争場裡に立ちしならぱ或は町田中搭氏以上に大成したかも知れ ぬが、早く郷土の人となりしは、人物技倆の璽納を得たものではな 氏は狩野世炎羽に道を問ひて、詩文を能くし、殊に漢詩に長筋0 し 多く、其の遺稿も多い筈である。氏は雄志を寳し、大正四年頃五ヨ (、; b) 七歳を以て黄泉の人となつた﹂と評している。二十五年十月二十二 Eの﹃魁﹄文叢には、彼が九河九日の焚本で課題に応じ工詠んだ﹁龍 湖秋泛﹂﹁題帰去来図﹂の二首と﹁即事分誤﹂栗枝っている。 根山秀彬(古狂。一八五八S 一九二九)については、二十三年五河三十一日閥﹃秋田栂唖点﹄には﹁河辺劉郡肴記れ矼官ナ等
(下)﹂、二十七年十三月十日調、鈴木鉄治編﹃秋田県職員録、には﹁内務部第三課判任官九級俸戸符係延子務係参災烹記﹂、﹃明治
三司年、一月耿田押誓内職員録﹄には﹁河辺郡役所郡当ル判
西村玉呈は、﹃秋田人名大事典﹄には﹁男鹿市船越の詩人。名は 美明﹂とある(三0三頁)とあるが、名は﹃羽陰詩・家小伝L では美 朋に作る(七頁)。元湖軍平﹄第七篇(二十七年三月九日)には千代 松の名でも出ている。二十七年十二月↓興調、鈴木鉄治編﹃秋田県 職員録﹄には﹁秋田市明徳ゑ吊小学校訓導兼校長三等下級俸 西村千代松﹂として載っている。 0 匡一1 1',J し)任官八,律﹂として、それぞれその名が見える。二十五年1 一月二 日の﹃魁﹄文きは、彼が九月九日の女Aで﹁席上一需を分得﹂ して詠んだ一首と、課題に応じて詠んだ﹁龍湖秋泛﹂﹁題帰去来図﹂ ︹t主腿︺ の二首とが竺ている。 小野源橘(焚巳については、二十七年十二月十H開、鈴木鉄治 編﹃秋田県職員録﹄に﹁耿田警察署秋田市馬喰町派出所三級俸﹂ とある。﹃江湖詞華﹄第九篇(二十七年十二月三十日)に焚合小野源雨 の﹁浴後﹂詩が赦り、漆園の頭評がある。 その他前田廼侠、北爆東陽、湯御膿、茂木楽山の四人は、そ の事跡が明らかでない。ただ、前田は﹃江湖詞華﹄に一首のみその
作品が竺ており至篇)、そこで後記から、本名が利貞で、
灣のノであったこと力、知られる。湯瀬,局疇ま^江湖司華忌一こ可首 か作品を発表しており、その名が弓疇(哲)﹂と標記されている。 哲か哲太郎の略称であれば、十、一年頃、県にょって選任された畜産 協肇育貝の一人で、・鹿角郡(モ馬内)の人であり、また、二十三年 に行われた秋田県金轌貝の改選で再選された二十一人の一人,という ことになる。茂木は﹃江湖詞華﹄にその作品が〒目のみ載っており、 そこでの標記から、本名が知慎であったことが知られる。その一首 六と王治本を送別詩であるので、次小節で掲げることにする。 ; 一綴については不明である。 四首の荊しすれも、小鮮明で判ωできぬ文・孚かあるため、詩句は 取り上げないが、その内訳は次の通りである。 つ、以下に引用する。 を窺ってみたいが、不嫌明で測肌できぬ文字があるため、中略しつ れた西{長長ら四首の詩が城っている。熈覗の序にょってその様子 二十五年十一月二十三日の﹃魁﹄文きは、九月十七Πに高一岸 で催された祖筵について序したや馨鷹嶺の烹十と、その祖筵で詠ま 高遠亭での祖筵 6 明治壬辰之耿、巌谷古梅先生、沽客王漆園先生、枝一隶遊、旬 日将広。同社十餘人張祖筵于童墜、。亭在秋城之西数十武、地 騨向原。(小略)倚欄一切乏見数里中、山光水色、沙鳥塑上、野 在目。杁哉此亭、淘又称秋城第一。一豊之名、真不趣也。牧文人黒蓉、過我郷者、皆必鴛鳥。(中略)烟専釜嶋叢淡、
別砂一種怜趣、屋惚ヘ別燭賦詩、酌酒話別。(中略){禿 月十有七日也。因輯席上唱和諸什、ル秀一巻、以供他日焚'云 爾︹明治壬辰の秋、巌谷占梅帋、清客素園先生、筆を枝せて来遊し、 句Πにして将に広らんとす。同礼(軍m吟社であろう)の十餘人柤筵 .1述E張る。、¥は秋城の西数十武に在り、地高原に属す。(中略) 欄に倚りて一望すれぱ、数里の中、山光水色、沙丸坐ヘ歴1してⅡ に在るを覚ゆ。快きかな此の亭、洵に又秋城第一とも称す。高述の 名は、真に護いtゞるなり。故に文人忠十客の我が郷を過ぐる名は、皆必 ず登りて賞す。(小略)姻雨冥涼として、晦望驚淡たり、別に一種の愉 <, 、﹂ 趣饒わり、一座陶坐たり、燭を別りて詩を献し、酒を酌みて別れを話す。 (中略ご尖に九月十右七日なり。因りて席上唱和倫什を輯め、粂めて 、一巻と乃し、以て他Πの燮ふに供すとしか云う︺。 -47ーー端斎西{員鸞﹁送熨口古栴先生壬漆園先生﹂上昂詩、韻字は ﹁洪新、人、真、賓﹂(上平声・覇)。同﹁全限靜﹂七一品句、 一架は﹁青、板、亨﹂(下平声・鴛膨。旭崟狩野徳蔵﹁全仰桜﹂ 七一品句、炉學は至馨、亭﹂(同前)、﹁呈女口占怖先生﹂ と付記。同﹁<工限韻﹂七一呈句、一撃は尾{芋、亭﹂(同前)、 ︹呈王漆倒先生﹂と制記。 この祖筵で詠まれたことが硫実で、かつ文字がすべて刈乢できる のは、﹃江湖詞華﹄第三篇(二十六午二月十五Π)所載の茂木楽山の 次の作である。
一豊亭︺筈怖漆園両先生楽山茂木匁世
オく前山共入糯後水前U、共に儒に入り
ーオつる
送君此所風光好君を送る此の所風光好L
鄭趣秋城第一亭
一豊秋城第一 楽山の作も含め、牡纏・詩形・押韻の占一から見てぃくと、﹃江湖 詞華﹄掲載の作品の中にこの日の祖筵で詠まれたとおぽしきものが いくつかある。それは第.一需全十六午二月十五日)掲載の契屍嶺 の了患梅漆園二翁畢目之区、第四埼 91六年五刃十七旦 1 の川井東州の﹁送古掬漆園子色第L倫(三十六年十三河二十一 H) 掲腎佐一綴堂の﹁送古梅漆園二先生﹂、第七篇全十七年Ξ月九U) 掲努湯瀬高暫﹁送古悔漆園二先生﹂である。いずれも七.昆句 で、下平声舎一翠押韻している。ここでは、謙堂と旧編古勗のイ を光手げることにしよう。 ーーリ.乙4才匝1 一 "一ノ少"-H釘LU,Hノ司F航筵不復醍1
色゛酉゛1i 窄二酉 七字新詩把筆銘 ﹂'ミー寸.酉ナf,1十J 火戸f 可汁^市剣÷卯 Lr11青 1子.戸!式コ
死生逃呈佐藤孝卿
Ⅱ1惣に^劉りてⅡ艮^<にψ吟し、一、みな気"ち が昂るL航筵復た二"丁︹綴︺を診力じ
幾巡かの美酒樽を傾けて酌み 七字の新詩第を把りて銘す清夜只宜しく酔いを将下度るべし
秋声何ぞ用いん愁いを帯びて聴くを
る活L 到るj "4 抽一1く水送り山迎えん亭又亭
一、﹁]f垣何項コJ.゛仁
つ力俳口扣留不ル祥轡を枇みて相留むるも停まるを肯せず
航歌一曲豈堪聴離歌一曲豈聴くに堪えんや
くj尽、く一す一パ; L ,t.フ^肖 0)州し
此広.長程幾士〒此を広らば長程幾寸亭
なお、第七一得城の佐藤熱土の了幕園先生次迎は五ヨ郁詩で あるが、押額を同じくし、この祖筵での作である可牝佳があるので、 P寺ておくことにする。 ﹁÷送漆園先生次節懲土体業卿
一曲離歌恨、一曲の乱歌の恨み 一J留君君不件 、、、研舟双菓万 征嘱幾長亭 枩外貢川緑 ワJユ^'ーーヨ.1 一,ゞ上 不堪蕭烹感 今夜両同聴 丁まC)コゞg 君を詔むるも 経水の水 ,ナ 上馬幾長1!!コ 樅夕百<川︹加物川︺ 一一オ+、
]ノ q-H1一
堪えず独必の感
イ>松そ両つながら同に聴くに (よ俳︺ 女十寸﹂﹄一1}U L1'子,ミ小N可ヨιi古え工迩経水接天一派の沽池水天に接す
ロ,ι一コ"01 0) U.ー
虫ⅡH小及ヰ臥符玉の山Uノ示ノ波中こ他一ノj、夕卞ιこ打Fし
1明141[
-JⅡ逹かに迎なる雄鹿島
7又よ僅︺ . r"、1亡'ー り下1 ﹂ーヌーγ、ーニー イ.リ /y河,,丁ij、/.7一Π心"ノトを尤るムエj 今可くこ力一上る マ一 二林樹苔范龍夕烟林樹蒼范として夕烟を龍む
また、二十五年十月二十七日の﹃魁﹄文叢欄に﹁太答﹂と題する 王治本の七ご羅句三首か枝っているが、その第一首がヒ上"・真 誠、第、一首か1平声・嘉劇で、それぞれ押談しているところから兄 て、この祖筵における姿口の作と見なしていいだろ、つ。なお、第三 首は上平声・先一撃ある。 上一ノ 細は叫油bにして一之゛誕よ"跿力なり頻番過ぎて賞す竺て依々たり
堤に袷、つ樹色青きこと洗うか如く リΥ刑、ι1ψ﹂、.トd託撒頻釆.熟俵々
[N二ータムー゛U ン{Ⅱa 九月三十日の﹃魁﹄には臣各王治本氏﹂との小見出しの下、﹁過 日山1郡能代地方に赴力れた尋馨モ冶本氏は昨午後吊市さτし おり、これにょり、ΞE^伯吋又力ゞ n毛イ勺ノ\出力、け、 九月三十九Πに村田市に尻ってきたことが分かる。すでこ九珂トヒ 日に一玲の叉王で開いてもらつた被であったが、その後まもなく 県内の小旅行に出かけ、再び秋田市に戻ってきたのである。 {夫は、祖筵が十七日に開かれたのは、、王として一六のこの後の勺 定に合わせたものであったようだ。九月九日の﹃魁﹄の﹁一六冴 南m﹂と恕する記辻に拠れぱ、、一六は本来 7剛都各也有上宕の'Π 丘、;一丁 7 切なるを以て両三日小には当市を発し南向﹂の一上止であった。とこ ろか、九打十五Bの亘の 7一六翁の発市延翔﹂と題すゑ*に 拠れば、﹁一六翁は吽十四日当゛i出発の潔定なりしか鯉"翫土人非常 に多く画贇キ乞ふものあり蘭竹画を望むものあり或は詩文の添削を 嘱するものあり就中某氏依頼三体千妥の如きは忌巾累に非す券 磐止の日限に書了ること能はざる山にて南向、出発の期を来上八日 迄延期﹂ということになったのである。 さて、本小節では王寸栗の能代道中の作を取り上げることにしよ う。まず、宍輸詞華﹄第十一箭(二十八年九月)に載る次の二首は、 能代ヘ行った時の谷復の作と思われる。 川 ⅡL{ 過? 湖才-49-隔岸山容翠作囲 一水浮窪一倒影 ^鴎低^伯鷺高飛 倩誰写個鎖湖景 笠帽蓑衣立釣磯 十月十二日の﹃魁﹄長る﹁壬辰秋八月、発淳城、至森岳、夜宿 盖璽呈賦﹂は、時間の流れから言えば、上の両作の問に位置するこ とになろう。停城は、﹃日本圭白紀﹄斉明天皇四年の条の記載に由来 する能代の別称。森岳は能代の西方。善慶堂は未詐であるが、この とき王治本が宿泊させてもらった当地の人物の家と考えられる。詩 の尾聯では、その人物との別れの悲しみを歌っている。
岸を隔つる山容翠囲みを作す
一水空に浮かびて雲影を倒にし
^鴎低く浴し鷺高く飛ぶ
二 力 誰に倩いてか個の湖を鎖す景を写かしめ笠帽蓑衣釣磯に立たん
江帖汲鬮と四需
王治本の港園あて書簡文は、九河二日判のものも﹃江湖詞華﹄第 (二十八年九月)に掲載されている。次のようなものである。 繞凱山僻地 又到杢=郷 吐晒留人住 鳧鴎咲我忙 残燈聴夜雨 帰馬策朝陽 分手龍湖上秋繋恨長
綏かに山僻の地を航れたらんか又到る水器郷
詩酒人を留めて住まらしめ せわ見鴎我が忙しきを咲う
残燈夜雨を聴き
帰馬朝陽に策うつ
手を分かたん蛤織の上 秋風恨みを惹きて長からん 江姥濃園、狩野旭峰との交流 8 迎日不晤、渇想々々。昨晩過訪古栫内翰、随即相避、詢知 ^ー. 出、為虚。今特修勧奉迂。得暇メ布即移玉一叙。勝切々々。害 布。即頒文{女︹しばらくご無沙汰しておりますので、ぜひお目にかか りたく存じます。昨晩、古柳内翰(馨一六のこと)を訪ねる際、お誘 いしようと思ったのですが、外出なさっていたとのこと、残念でござい ました。ここにあらためてお招きいたします。お暇の折に一度お越しく 一ートフ︺ ださい。お待ちしております。(以下略)︺。 辱交王治木頓首︹九打三邑 港園仁翁詞宗先生著席 今晨、自森岡発車、刻方抵寓拠。館主云、大加媛労過問。特 1長。証聖i炎#3出)。司三"功 7訂子割明 1一、イ>帆森岡を車で 出発し、ムー晶所に帰着したところです。宿主が中しますには、何度もお いで下さったとのこと。ぜひお願いしたく存じます。お暇の折にお越し (住m) ください。お話しすることを楽しみにしております。(以下略)︺。 弟王治本頓首︹九打川日下午五時︺ 游園先生晩好 能代行を終えて耿田市の宿所に帰着した王治本が江帖檐園に宛て 喜いた書簡文が、滄園の主宰する﹃江湖詞華﹄第十一篇全十八 年九打)に掲載されている。次のようなものである。 次の小節では、当時の秋軍撃の両巨顕、江帖漁園及び狩野旭降 とモ、治本と四荒に焦点を当て、これを跡制けてみることにしたい。 ム・凡・ 住)槍園の主宰する﹃江湖詞華﹄第二籍?十五年上月六日)は、王 治本の次のような題辞がその語荏飾っている。 片哥以陟豆一坐観可以役等尿。工於詩者能之、風雅変例而 興同、古今体殊而理一'恭詩者輩、此劉禹錫,希也︹片言 も以て百意を明らかにす可く、坐して観るも以て舗条を役す可し。 E 工なる者は之を能くす。風邪嗣を変ずれども興は同じく、古今体 殊なれども理は一なり。才に述する者はとを能くす。此れ劉禹錫の論 なり 壬辰秒月膨様道人 ^t工湖詞華赴一第,合八、篇(三十二年十乃十七H)には、檐剛の 次のような作品が掲叔されている。 佐縢謙堂招紗、八刀肩都字得聖、﹄ナ巌谷古毎・鱒井小班一 客王漆鬮諸老同賦。
蓮、4難可比蓮八程雄比す可く
亭々植自浄亭々として植ちて自ら浄らかなり
毎而丁士ヒ千毎奇今は:千毎 1と一す一.司く ミー生".'カー之ヲミr上を同^る加.添園叟之に漆園の叟を川う
斉物心不競物を斉しくして心競わ司
主人亦堪欽、王人も亦欽うに堪えたり
交一吠而敬六建︹交情の様︺久しくして敬す {,,←詣ハム訂旧盟諸公は旧劉を訂ベるも
能容我柴硬 環坐一条符 ^Hり:士^1了、水 グ旦叩本 Ξ旦ヒ;.Π三゛.ー 酒聖亦所牙 酉ι人矛腫皇聖 一配助談柄 除々ー,Ⅱ一一五 交態夕圷可心 井﹁コ浮殊1j一上皿 ネ俳Ⅱ可F}J日 ノ﹂Ⅱ二 i 目!懐遂可炊 前株夕場皎 能く我が柴の硬きを容る 環坐して茲に盡等︹会厶巳し文海共に游泳す
客豈標樒︹示して品評する︺を耻じんや あ0 牡堕一亀、︹1の名人︺併まる漂叉酒豪︺も亦兼ぬる所
同に呼まん徐逸の聖
Tマ一酔談柄︹甑︺を助け
陶々として觴詠を擅にす ,,、念何の似たる所ぞ唐詩韓︹報愈︺と孟孚兆と
(弓ノJ、!更オぐ)リ匝斂まりて彬正し
博遂に゛寸ぞ刑{らざらん 一晤先知述吉< 伊臼陶潜心ル丸1ー ︹名染︺ 詞文幸しに得たり良因︹良い因縁︺を結 ぶを一たび晤うや先ず知る述士の真
ε﹁を郷ける︹{昌職を辞した)陶潜応に気類 ︹気の合っ相手︺なるべく 一﹂お︺ 崔に乗る博望或いは儕倫ならんか おt博望Ξ艾儕倫 次に裾園の靈静楼詩紗﹄下所収の作晶二首を智介しよう。 (JU しこごSノ弓ιⅡ央す M.客王漆園 司文幸得結良閃 hi-51-才名已有伝殊域 風雄可坊混俗塵 為勧帰程容少住
中秋節近旦薪
その他の交流の跡としては、港園の二十五年十月二十六日﹃魁﹄ 文叢所枝の﹁送古梅君﹂詩、﹃江湖詞華﹄第四篇(二十六年五月十七日) 所載﹁送古梅巖谷君﹂詩、同書第九篇(二十七年十二河三十日)一鞭 の﹁春思三首之区詩に、漆園の頭票ある。 二才名已に砕域に伝わる有り風雅何ぞ妨げん俗塵に況じるを
し﹂t .﹂ 為に勧む帰程{谷に少く住まるべし 中秋節近く河華宗fたなり②狩野旭降との壽
二十五年の﹃魁﹄には、旭岼と王治本との﹁護耿問答﹂が二度掲 載されている。それらをここ爲介することにしよう。問答の一っ 従i見女 j又力、﹂トヒじ頁牙ξ沌主北王る1青,名︻ヨ三濶ミ匝1 上又{こオ究て. 1立 聡る所の詩禽簑問答は文学上に幾分の裡益をりふる所あるへし 徳蔵氏は猶基山疑する所を質問する由なれは追々得るに従て掲記す へし﹂として、掲載されている。旭峰の質問の内容をかいつまんで 言えば、次のようになる。古詩における平灰の有無については、 ] ︼ 国では王漁洋(一六三四S 一七一ごを承けて璽永の i、、詩を為す、 平灰語わさる者無し﹂とする翁窯伏(一七三三S一八一八)の説と 、 まさ ﹁古詩は洽に好き処に到れば、自ら鴛即を為す。何ぞ必ずしも句討 の末に斤々たり、平灰の微に珀々たらんや﹂とす粂詮園(一七一 六S 一七九七)の説とがある。わが国では最近、森大来旦八六三S 一こが王徽洋の1詳平灰論から取り、参訂して卜梓した。そ ブ の愆は、古詩は平灰にかない、そこには定格があるとするもので、 (ル西 その実例も引証している。しかし、あまねく他の詩を検するなら、 しないものも多いだろう。結局私は、ノ、1i詩のイー湛二は谷!糸 と異なり、初めから一定の法がなく、﹁法を無涛中に禽す﹂とい う見方をするのが当たっている。要するに音に抑揚のある文字を、 平灰を錯綜させて用いて、はじめて音節か生まれる。声調を叶えさ せ、ことばを本来の諜に合致させ、.平灰を交互に用い、前後か助 け合って、はじめて﹁秀鞭の勢い﹂を得ることがーになる> と考える。陽読の当否、如何。 これに対する王治木の回答は、書き下し文のみを掲げることにす る。 て 古詩の原は撃11R難井等四誥に酪まり、沿きて三百篇二詩経﹄ のこ上の労人思婦の歌に及ぶ。初め何ぞ僻て巧を平灰の瀏に 求むること有らんや。詩の別に古体たるや、顕らかに律詩と同 じからず。其の音節の発する所、天籟の流打するが如し。触る る所に随いて声を成す。土儲・斎︹衷随園、すなわち哀枚のこと︺ 認う、﹁恰に好き処に到れぱ、自ら音節を為す﹂と。此の論 之を旦寸たり。王徽洋は当時騒増、を王劉し、融7の浮沸にして、 Lt { 靡靡として風を成すを痛み、特に此の言を以めて以て之を矯正 せんとせしのみ。亦未だ得たりと為さざるなり。槐南の著す 所に至っては、漁洋の偏見を踵ぎて、火言を以て人を驚かすの み。若し果たして漁洋の論に拠らぱ、則ち李杜も亦多く格に おも 余はイ可を力、云倫气ぞん。ノ、永緒j力、に、^明え')く^証二寺の 平灰は、律詩と相同じきを忌む。若し拘々として平平灰灰灰平 平等の音に合せぱ、則ち句語便ち老到︹老練になる︺する能'。是れ今、利又にして 1fイーヌに非ず。(以下略) もう一つの問答は、九河二十二Uに﹁狩野徳一焚の沽客王漆倒氏 に就て古詩中に長句短句を用ゐるに必す之を要する塲処ありて用ゐ る欺或は哘蕪の不足を補充する為か或は前後句覗叩気の振はさるを 讐束する為なりや又別に格法ありや否やを問ひしに漆園氏はメエの答 7? ひをなせりと﹂として掲城されているものであるが、省略に従う。 その他四荒の跡としては、旭峰の九月二十日の﹃魁﹄文叢所枝 の﹁.命湖歌﹂と十月十四日の﹃魁﹄文叢所努﹁題帰去来図後﹂、 ﹃江湖詞華﹄第二篇(二十五年十一月六R)所載﹁八月五Π夜、同詣子、 泛用八龍湖﹂詩に、王治本の計かある。 可隣断蓬巫 十月に入って、王治本はいよいよ秋Ⅲ市を肌れることになった。 十月四日の﹃魁﹄に﹁王治木氏出発﹂との小見出しの下、罪W中 なる消客王治本氏は明U頃当地発社Ⅷ北捌大曲、六郷辺に遊艾を曳 れ同地方より成備を経て肖森県に遊はる、都合なりと云ふ﹂という 記事が出ている。また、﹃江湖詞華﹄第八篇(.子七午七河十二聨) には、次のような彼の詩が枝っている。 秋田市を出発羽後南部ヘ 9 広々万く.'^千 ナ河1 "Ⅱ.ノニⅡ又即 芽滞前﹂庭 メ、4011火一川 !証t詩倒六於氏 蛾光芋友舶 両北界<1ーー々 コ i1 卯0;1王 1 上牙j孔白] ん1t.わ﹂酋] 4厶六n噂{机 古 1、/J堺1 ー ^ e]'"寸︺ 壬辰中秋後三日、将発秋城、城此幼鹸'Ⅷ濃園先生、以
紀鴻爪之緑。漆園王治本
栖々果何為栖々︹落ち着かぬ様︺として果たして何売か為 す 去き々きて停まるを容れ司 秋風客J儒して感ぜしめ リ'水乢虚こ苅つ :ノ占中1火鄭 "ノ, 詩を賦し様醍︹緑色を含んだ美泗︺を倒く 蝶光︹月光︺と友誼と 両・愆ヨ﹂<に惺々司佃らかなさま︺たり 戸酒紅祁︹女性︺を璃し (妾U 徃来 f左1丁︹学のない人︺無し 暫才b メ子く 配し,1r 一一1Hるし ] 独り坐りて疎衞︹格fのあらいれんじ窓︺に倚る囲賑す八航の喫み
王 R1^ 一一1. Hし やご訂ま伎もⅢ一颪 哩々︹鶏の叫き声の繹語︺として梦を催して 離めしむ くク、しく廊と打艾1ーリ 煙慢漫りに綴を乞う︹1のための杣霊の助け を求める︺ 碕む可し断たれたる蓬梗︹根を切られたヨモギ やイバラ︺懇油す父前汀
畷々化多離 ーノ,ーーと,1N .池卜立N僕一厶む、 十打二十一一.日の﹃魁﹄には、﹁深箇王氏序﹂という小見出しの下、 ﹁之くを送るに言を以てするは士人の雅道なり小松直・玉君毎に之懇泊X野
," 一U Ⅱ虻 jⅢ 頼-53-を取りて抱負を叙するは<永の私に服する所、此篇の如きも日清の関 係を論じて王氏四除に及ひ東洋の活勢を説きて王氏の将来に望 む、巷署往く所内ら経世家の見に似たり夫の徒らに彫蟲を耶とす るものと相距る述矣﹂との記冴後、小松直,孤の司漆圓王先生 序﹂が掲載されている。ただ、残念ながら、不鮮明で判読できぬ文 字が少なくないため、觀乢できる文字にょって読み取れる内容だけ を以下に記しておくことにする。 アジアの大勢は、旦簡国四際如何にかかっており、日消 両国n翁も、その分かれるか合わさるかにょって決まるので ある。これこそ日本が血苗と、傑して、日増しに親'符にならざ るを得ない所以である。両国の人士の往来は、互いに敬愛し、 その力を尽くしている。中でも先生の来遊は、大は長短たがい に採り入れて、国益を図ることにあり、小は傑士と於肌を開わ せて、斯文を振興することにある。文人が珍吏厶ものを求める 類の旅ではあるまい。花を吟じ月を詠んでおられるのは、今不 遇なための憂さ晴らしに、そのような風雅な思いを述ベておら れるだけであって、先生の志はきっと別にあるに述いない。そ もそも国家独立の原点はご灸力を養うことにあり、実力とは和 衷恊同することであり、他の術はない。(中略)先生は新任の 汪敘差と大変ご泥懇と開いている。先生が上京されたら'ん で手を携え、先生を上堂に案内し、瀬問の重任を託されるだろ なわち明治二十五年に出使口本欽差大臣(いわゆる涯日清国公使)に 任じられ、三年後に帰国した。王治本と汪敘差とが﹁大変ご嵯起ど
(原文は﹁先生11祭星ど)だとすれば、それはアメリカ人
マーティン(K円ユΞ"冬丑各ヨンお釜豆含﹁ゴ讐m0誘、中国名は丁軍艮、丁ハニ 七S一九一六)が当時北京の京師同文鯨の副教習であった汪鳳.謄 翻訳させ、自ら校開した上で一八八0年に刊行したイギリス人 フォーセツト弓円叉呉辻含乏、一八三三S 一八八四)原著念.策﹄ に訓点を付けた復刻版を、唐ら鴛呂する楽鷲呈書房から出版した岸 田吟香二八三三S一九0五)を通じてのつながりか。または、束京 時代のなんらかの関係か。ともあれ、王治本もえらく買いかぶられ たもので、この序の内容にはさぞ面食らったことだろう。 秋田市を出発後、王治木蝶W中の大曲から十月十三日付で江帖 檐園に次のような屯補を誓ている。 、つ 汪敘差とは氏迷一八五一 S 一九一八)のこと。光緒十八年、す 秋城臨八北、辱労過送、感謝不尽。見耒女゛評大イ午、狂啓加剛、 勢心。寓大曲已四泊、明午後、擬赴六捌矣。近日拙作、似抄制熱克、嘱刊新城、詰過開之、丕野示。餘俟後泙。手澗布
銅弌近佳︹秋田出発の際はお見送りくださり、感剛に堪えません。 玉作ヘの点評を仰せっかり、見当はずれの添削をいたしましたこと、ご 寛恕のほどお願いいたします。大油にすでに四泊いたしまして、明日の 午後、六郷ヘ向かうことにしております。"取近の拙作は、轡き写して謙 堂兄にお送りしました。﹃新報﹂令秋田刈新報﹄)にご登載のほどよろし くお願いいたします。その際にお目通しいただけぱと存じますので、こ こには録しませ人。他小につきましては、またあらためてお便りいたし ます。ご機嫌よろしゆ、つ︺。徽園先生劃尓閣下 六劉の次はさらに角問川に赴いたようで、角冏川では荒川格骨き 八四五1 一九0八)左需し、その庭鬮を叙した﹁日渉園記﹂という (;主J 文告十を書き残している。 ところで、上迹の通り、一六は九月十八日ごろ秋田市を発ったが、 その後も一力月餘り耿田県内に滞在していた。1月ニト七Πの亙 に﹁巌谷一六翁﹂とい、つ小見出しの于、﹁久しく木県にありて雄笵 を弄し金声を振ひたる一六居士巌谷修氏は去る二十二H県地を出立 してⅢ↓き趣き国勿町劉久好・盾に投循し両二日問同地沸在抑毫の上 (主﹂) 尋小せらる、と云ふ﹂とあるのにょり、そのことが知られる。その 一六を王治本は横乎で訪おうとしたが会えなかったとする作があ る。横手でのもう、一作とともに掲げることにする(二十五年十月一 七日﹃魁﹄文叢)。 U"分の避跡両つな力ゞら哀れむにj1tえたり 碧血︹忠臣烈士︺の北肴緑一ざ鎚さる (庄郭︺ 滅せず セ