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ロカルノ体制批判とハンガリー地理学  ――テレキ・パールの「ヨーロッパ」論から(辻河典子)

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ハンガリーは第一次世界大戦で敗戦国となり、一九二〇 年六月にトリアノン講和条約に調印した。同条約は大戦前 の カ ル パ チ ア 盆 地 を 中 心 と し た 同 国 領 (歴 史 的 領 土) の 約 三分の二を周辺国に割譲することを規定し、約三〇〇万人 の ハ ン ガ リ ー 語 話 者 が 周 辺 国 に 在 住 す る こ と に な っ た。 ヴェルサイユ体制は、第一次世界大戦の敗戦国に多大な負 担を課すことでヨーロッパ諸国家間の政治的・経済的利害 関 係 を 戦 勝 国 (特 に フ ラ ン ス) に 有 利 な 形 で 定 め た。 第 一 次世界大戦後に中・東欧で成立した新興国家は、名目上は 国民国家を掲げたが、各国の多数派ないし支配的な民族が 主張する民族的居住空間は実際に規定された国境線を越え て広がっていた。 一九二五年一二月に正式に調印されたロカルノ条約は、 独仏関係の緊張緩和とドイツの国際連盟への加盟を実現さ せ、ヨーロッパにおける国際政治情勢の相対的な安定化に 成功した。しかし、フランスを中心とした同盟関係で担保 されたこの安定は長く続かず、世界恐慌の影響により一九 三〇年代初頭には動揺が始まった。そして一九三六年三月 のナチス・ドイツのラインラント進駐によりロカルノ条約 は破棄される。

第Ⅱ部

両大戦間期

中央

体制批判

地理学

河典子

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157 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 156 ブ ロ ン ツ ィ が 彼 に 注 目 し て 伝 記 も 刊 行 し た ( Ablonczy 2005; Ablonczy 2006 ) 。 地 理 学 者 と し て の テ レ キ に つ い て はハイドゥーらの研究があり、二〇〇一年には「テレキ・ パール回顧」と題してハンガリー地理学協会の『地理学紀 要』 で 特 集 が 組 ま れ た ( Nemerkényi 2001; Éva 2001; Kubassek 2001; Tilkovsky 2001; Fodor 2001; Teleki 2001; Hajdú 2001a; Timar 2001; Probáld 2001 ) 。 日 本 で も 地 理 思 想史の立場から水谷がテレキの地理学者と政治家としての 業績を概観した (水谷 二〇〇二) 。 先行研究では、一九二〇年代後半から一九三〇年代半ば のテレキ、すなわち彼が主に政治・経済地理学者として活 動した時期の研究は決して多くない。しかし、第一次世界 大戦の敗戦国からのヴェルサイユ体制ならびにそれを強化 したロカルノ体制への批判を考察する上で、この時期のハ ンガリーにおける政治と地理学の両面で大きな役割を果た したテレキに注目することは意義がある。本稿では、一九 二九年九月のフランス外相ブリアンの国際連盟での提言に 始まる「ヨーロッパ連邦」構想に対するテレキの批判を分 析し、戦間期ハンガリーの政治地理学の立場からのロカル ノ体制批判の特徴を明らかにする。 ジャルマティは、戦間期ハンガリーの政治思想における 中央ヨーロッパ統合概念の変化を概観し、そのなかでテレ キ の 主 権 の 制 限 を め ぐ る 議 論 に 注 目 し て ( Teleki 1934a: 102-103 ) 、 そのブリアン批判にも言及した ( Gyarmati 1999: 204 ) 。 だ が、 彼 の 議 論 に は、 テ レ キ の 批 判 の 根 本 が 政 治 地 理学的な立場にもとづき、ブリアンの構想が国家主権の相 互 不 可 侵 と い う 国 際 連 盟 と 同 じ 枠 組 み (新 し い 政 策) を ヨ ー ロ ッ パ (伝 統 的 な 政 策 が 適 っ て い る 地 域) に 適 用 し よ うとした点にあったことが見られない。 そ こ で 、第 Ⅱ 章 で ブ リ ア ン の 国 際 連 盟 で の 提 言 に 始 ま る 「 ヨ ー ロ ッ パ 連 邦 」 構 想 と そ れ に 対 す る ハ ン ガ リ ー 国 会 で の 反 応 を 概 観 し た 後 、 第 Ⅲ 章 で 同 構 想 へ の テ レ キ の批 判 の 特 徴 を 分 析 し 、彼の 主 張 を 第 一 次 世 界 大 戦 後の ハ ン ガ リ ー の 戦間期を通じて、ハンガリー政府や各種社会組織は歴史 的領土の完全な回復を模索した。ただしハンガリー政府は 公 式 に は 平 和 的 な 解 決 を 求 め た ( Zeidler 2007: 79 ) 。 ハ ン ガリー近現代史研究者のゼイドレルは、完全な領土回復の ための主張を、政治的境界線によるカルパチア盆地の地理 的統一の解体が誤りであったことを示そうとした地理・経 済的主張、ロシアとドイツに対抗するヨーロッパの勢力均 衡の基礎としての存在を示そうとする戦略・安全保障的主 張、九世紀末のカルパチア盆地の「征服」がハンガリー民 族に歴史的権利を与えることを示そうとした歴史・文明的 主 張 に 大 別 し た ( Zeidler 2007: 71-73 ) 。 彼 に よ れ ば、 こ の なかでは党派的偏りが最も弱く論駁されにくい点で地理・ 経済的主張が最有力だった。 こ の ゼ イ ド レ ル の 見 解 を 踏 ま え る と 、戦 間 期 ハ ン ガ リ ー に お け る 地 理 学 と政 治 と の 関 係 の考 察 は 重 要 で ある 。 すで に 、 ハ イ ド ゥ ー に よ る 第 一 次 世 界 大 戦 末 期 か ら ト リ ア ノ ン 条 約 調 印 ま で の 地 理 学 者 の 活 動 を 扱 っ た 論 文 ( H ajd ú 20 00 や 、 戦 間 期 ハ ン ガ リ ー の 地 理 教 育 と ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 関 係 に 注 目 し た ク ラ ス ナ イ の 研 究 書 ( Kr aszn ai 20 12 などがある。 本稿では、戦間期ハンガリーで首相を二度務めた地理学者 のテレキ・パールに注目し、彼が政治地理学の立場からハ ンガリーの歴史的領土の正統性を主張することを通じて、 ロカルノ体制をどのように批判したのかを考察する。 テレキの経歴は第Ⅰ章で述べるが、彼に関する先行研究 は、政治家あるいは地理学者としての彼の業績に注目する 傾向にある。戦間期ハンガリーの政治体制は第二次世界大 戦後の社会主義期に「反革命体制」と解釈され、テレキは その戦間期の政治で主要な役割を担ったことから、特に政 治家としての彼に関する研究は自殺に至る第二次政権への 注目から始まった。一九六九年のティルコフスキによる一 般向けの伝記は、彼の自殺に至った背景をその生涯も含め て 探 ろ う と し た ( Tilkovsky 1969; Tilkovsky 1976 ) 。 彼 は 一 九 八 九 年 に も テ レ キ の 自 殺 に 関 す る 著 作 を 刊 行 し た ( Tilkovsky 1989 ) 。 地理学者としての業績も含めてテレキ研究が幅広く発表 されるようになったのは一九八〇年代末以降である。特に 彼の自殺から五〇周年の一九九一年四月にはさまざまな記 念企画が催された ( Tilkovsky 1993: 553 ) 。同年四月四日の 記念集会とそれを受けた翌年一月九日の討論会では * 1 、テレ キ の 政 治 家 と し て の 側 面 (特 に 第 二 次 政 権) と 地 理 学 者 と しての側面の両方から彼の再評価が行われた。二〇〇〇年 前後からは戦間期ハンガリーの保守派政治研究の文脈でア 写真1 テレキ・パール(1921年9月3日) (出所)アメリカ議会図書館 http://loc.gov/ pictures/resource/npcc.04975/(January 15, 2015)

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159 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 158 イ タ リ ア の 戦 線 で 従 軍 後 、 ハ ン ガ リ ー に い っ た ん 帰 国 す る 。 し か し 、 一 九 一 九 年 三 月 に 同 国 で ク ン ・ ベ ー ラ ら に よ る 共 産 主 義 革 命 政 権 が 成 立 す る と 国 外 に 亡 命 し 、 保 守 派 貴 族 の ベ ト レ ン ・ イ シ ュ ト ヴ ァ ー ン ら に よ る 「 反 ボ リ シ ェ ヴ ィ キ 委 員 会 」 に 参 加 し た 。 同 委 員 会 は セ ゲ ド に 成 立 し た 反 革 命 政 権 に 合 流 し 、 テ レ キ は こ の 反 革 命 政 権 で 外 相 と な っ た 。 第一次世界大戦末期から一九二〇年代初頭にかけてのテ レキは、一九一〇年の国勢調査にもとづくハンガリー王国 領 内 の 民 族 分 布 を 色 分 け で 示 し た 地 図 (通 称「赤 い 地 図 Carte Rouge/ Vörös térkép 」) を 一 九 一 八 年 秋 か ら 講 和 会 議 の た め の 資 料 と し て 作 成 し た ほ か、 外 相 (一 九 二 〇 年 四 月 〜 七 月) と 首 相 (一 九 二 〇 年 七 月 〜 二 一 年 四 月) を 務 め た。彼の首相在任中にはユダヤ人の高等教育への進学を実 質的に制限する通称「定数条項」法の成立や、一九二一年 三月末から四月初めにかけてのハンガリー前国王カーロイ 四世が帰国して復位を要求する事件が起きた。この事件に 対応できなかったテレキは首相を辞任し、一九三〇年代後 半までブダペシュト大学経済学部などで地理学を教える傍 ら講演活動を行った。彼はハンガリーでのボーイスカウト の拡大にも尽力した。 一 九 三 三 年 に ド イ ツで ナ チ ス 政 権 が 成 立 す る と 、 ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 の 再 編 を 求 め るド イ ツ に ハ ン ガ リ ー 政 府 は 次 第 に 接 近 し た 。 一 九 三 八 年 五 月 に イ ム レ ー デ ィ ・ ベ ー ラ 政 権 で 宗 教 ・ 公 教 育 相 に 就 任 し た テレキ は 、 第 一 次 ウ ィ ー ン 裁 定 の 交 渉 に も 参 加 し た * 2 。 同 裁 定 は ミ ュ ン ヘ ン 会 談 を 受 けて ナ チ ス ・ ド イ ツ の 影 響 下 で 行 わ れ 、 ハ ン ガ リ ー は チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア か ら 南 ス ロ ヴ ァ キ ア の 支 配 を 回 復 し た 。 イ ム レ ー デ ィ 政 権 は 同 年 一 二 月 に 防 共 協 定 に 加 盟 し て ド イ ツ へ の 傾 斜 を 強 め る が 、 こ れ に 保 守 派 政 治 家 が 反 発 し 、 同 政 権 は 一 九 三 九 年 二 月 に 退 陣 し た 。 テ レ キ は そ の 後 任 と し て 再 び 首 相 と な る が 、 ハ ン ガ リ ー は さ ら に ド イ ツ の 影 響 下 に 入 っ た 。 彼 の 就 任 直 後 に は ユ ダ ヤ 人 法 が 可 決 さ れ 、 一 九 四 〇 年 八 月 に は 第 二 次 ウ ィ ー ン 裁 定 で ハ ン ガ リ ー は 北 ト ラ ン シ ル ヴ ァ ニ ア の 支 配 を 回 復 し た 。 一 九 四 一 年 四 月 初 旬 、 ド イ ツ に よ る ユ ー ゴ ス ラ ヴ ィ ア 攻 撃 の た め の ハ ン ガ リ ー 領 内 の 通 過 許 可 な ら び に 北 セ ル ビ ア の 支 配 回 復 を 条 件 と し た ハ ン ガ リ ー の バ ル カ ン 方 面 作 戦 へ の 参 加 要 請 を 受 け た テ レ キ は 自 殺 し た 。 その直後にハンガリーは第二次世界大戦に参戦した。

戦間期

地理学

近代地理学は一九世紀初頭のプロイセンでカール・リッ 領 土 問 題 な ら び にそ れ を 承 認 す る ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 に 対 す る ハ ン ガ リ ー 地 理 学 界 か ら の 批 判 の 一 例 と し て 扱 い 、同 時 代 の ヨ ー ロ ッ パ に お け る ハ ン ガ リ ー の 位 置 づ け を 考 察 す る 。

経歴

経歴

テレキはトランシルヴァニアを拠点とする貴族の子弟と して一八七九年一一月にブダペシュトで生まれた。一八九 七年にブダペシュト大学の法政治学部に進学したテレキは 間もなく地理学に関心を持った。ラッツェルの政治地理学 (人 類 地 理 学) の 理 論 は 当 時 の ハ ン ガ リ ー の 地 理 学 者 に も 大きな影響を与えており、テレキが一九〇三年に政治学で 提 出 し た 博 士 論 文 に も そ の 影 響 が 見 ら れ た ( Ablonczy 2006: 10-13 ) 。 彼 は ブ ダ ペ シ ュ ト 大 学 の 地 理 学 講 座 の 教 授 を務めた地質学者のローツィ・ラヨシュ、ならびにその同 僚 の 地 理 学 者 チ ョ ル ノ キ・ イ ェ ネ ー と 親 交 を 結 ん だ ( Ablonczy 2006: 11 ) 。 一 九 〇 四 年 に は 世 紀 転 換 期 ブ ダ ペ シュトで代表的な進歩派知識人が集った雑誌『二〇世紀』 に寄稿した。同誌はハーバート・スペンサーの影響を受け て一九〇〇年に創刊され、スペンサーと同誌の母体となる 社会科学協会の会長を務めたピクレル・ジュラにテレキは 影 響 を 受 け て い た ( Ablonczy 2006: 14 ) 。 国 会 議 員 を 短 期 間務めた後、彼は一九〇九年に日本の発見に関する地図学 の歴史を扱った『日本列島の地図学史についての地図』を 刊行して国内外で評判となり、一九一一年にはフランス地 理学協会からジョマール賞を授与された。 テレキはローツィが会長を務めるハンガリー地理学協会 の 事 務 局 長 と な り、 指 導 部 で 重 要 な 役 割 を 果 た す よ う に なった。世紀転換期のハンガリーでは、ユーラシアの「ウ ラル=アルタイ語諸族」の民族的・文化的統合を主張した ツラニズムが知識人や芸術家、政治家からさまざまなレベ ルや動機から支持されるようになり、それらを結びつける 目 的 で 一 九 一 〇 年 に ツ ラ ン 協 会 が 設 立 さ れ た ( Ablonczy 2006: 29 ) 。 テ レ キ は 同 協 会 の 副 会 長 (後 に 会 長) に 選 出 さ れ、機関誌『ツラン』の編集長も務めた。ただし財政難等 で 同 協 会 の 活 動 は 順 調 で は な く ( Ablonczy 2006: 30-31 ) 、 第一次世界大戦の開戦後に活動を停止した。 第 一 次 世 界 大 戦 下 、 テ レ キ は 一 九 一 七 年 ま で セ ル ビ ア と

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161 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 160 (旧 ブ ダ ペ シ ュ ト 大 学) で は 一 九 四 〇 年 に 人 文 地 理 学 講 座 が 開 設 さ れ、 一 九 四 一 年 に 自 然 地 理 学 (物 理 地 理 学) 講 座 をチョルノキから引き継いだブッラ・ベーラの活動は、第 二 次 世 界 大 戦 後 の 自 然 地 理 学 の 発 展 を 用 意 し た ( Tiner 2000: 349 ) 。 一九四一年四月、テレキの自殺直後にハンガリーは第二 次世界大戦に参戦した。彼のかつての教え子で同僚だった ローナイ・アンドラーシュがパーズマーニ・ペーテル大学 の 経 済 地 理 学 講 座 を 引 き 継 ぎ、 「テ レ キ・ パ ー ル 学 術 研 究 所」と改名された国家学研究所の所長にも就任した。第二 次世界大戦末期の同研究所は、政府から来たるべき講和会 議 へ の 学 術 的 準 備 が 主 要 な 課 題 と し て 与 え ら れ て い た ( Tiner 2000: 349 ) 。

連邦﹂構想

国際連盟

提言

一九二九年九月、フランス外相アリスティード・ブリア ンは国際連盟総会でヨーロッパにおける連邦的な秩序の形 成を提言する演説を行った。彼は一九二〇年代後半に国際 協調外交を推進し、一九二五年にはルール地方の占領から の撤退とロカルノ条約正式調印、一九二八年には不戦条約 の締結を行った。彼はパン・ヨーロッパ運動の名誉総裁も 務めた。 彼は、総会に参加していた各国の代表が彼の提言を公式 に承認して次回の国際連盟総会までにその提言が実現可能 で あ る か に つ い て 各 国 政 府 の 検 討 に 委 ね る こ と を 求 め (戸 澤 二 〇 〇 八: 一 〇 八) 、 ヨ ー ロ ッ パ の 二 六 ヵ 国 の 代 表 か ら 委託を受けたフランス外務省は、一九三〇年五月に同事務 総長アレクシ・レジェによるブリアンの提案を具体化した 覚書を提出した ( MAEF 1930 ) 。 この覚書では、このヨーロッパ連合的な体制が国際連盟 と 密 接 に 連 携 す る 必 要 が あ る こ と が 主 張 さ れ た ( MAEF 1930: 10-12 ) 。 た だ し、 こ の 覚 書 に は、 ヨ ー ロ ッ パ 諸 政 府 によって追求される連邦秩序を設けることに際して、いか なる場合でも、またいかなる程度でも、加盟国の主権に属 する権限のいかなる部分にも影響を及ぼさないという留保 が付けられていた ( MAEF 1930: 12 ) 。 その上で、覚書は四項目について提言した。第一点目が ターとアレクサンデル・フォン・フンボルトによって基礎 づけられ、ハンガリーにも同世紀後半に導入された。ハン ガ リ ー 独 自 の 地 理 学 の 発 展 は、 一 八 七 〇 年 に フ ン フ ァ ル ヴィ・ヤーノシュによるペシュト大学での地理学講座の設 置 に 始 ま る ( Tiner 2000: 346 ) 。 彼 は 一 八 七 二 年 に ハ ン ガ リー地理学協会も設立した。 世 紀 転 換 期 に は 地 質 学 者 ロ ー ツ ィ が ブダ ペ シ ュ ト 大 学 の 地 理 学 講 座 の 教 授 と な り 、 同 国 で の 自 然 地 理 学 と 人 文 地 理 学 の 研 究 の 進 展 に 貢 献 し た 。 彼 の 尽 力 で 地 理 学 や 地 質 学 で の 研 究 成 果 が 中 等 ・ 高 等 教 育 機 関 で 教 え ら れ る よ う に な り 、 そ の 教 育 を 受 け た 世 代 が 一 九 〇 〇 年 代 初 頭 に 登 場 し た 。 地 理 学 で は チ ョ ルノ キ 、 プ リ ン ツ ・ ジ ュ ラ 、 テ レ キ 、 地 質 学 で は パ ッ プ ・ カ ー ロ イ ら が お り 、 彼 ら は 二 〇 世 紀 前 半 の ハンガリーの地理学の発展に貢献した ( Tiner 2000: 347 ) 。 第一次世界大戦末期からトリアノン条約調印にかけて、 ハンガリー地理学協会は同国の歴史的領土保持のために活 動した。戦間期ハンガリーでは地理学が国民教育の教材と してさまざまに用いられ、高等教育レベルでは一九三〇年 代から同国のそれまでの地理学の研究成果を明らかにして ま と め る 文 献 ( Cholnoky 1936-37 な ど) が 多 数 刊 行 さ れ た ( Tiner 2000: 349 ) 。 ま た、 第 一 次 世 界 大 戦 後 の ハ ン ガ リ ー の歴史的領土の解体により、周辺国の帰属となった都市の 大学の再編が行われ、地理学の高等教育と研究でもさまざ まな変化が見られた ( Tiner 2000: 347 ) 。 一九二〇年にはテレキのイニシアティブでブダペシュト 大学経済学部に経済地理学講座が設けられ、プリンツのい た ペ ー チ 大 学 と 並 ん で 同 国 で の 経 済 地 理 学 の 中 心 と な っ た。この講座では、当時の民族的少数派の問題を政治地理 学と地図学の方法論で解説した。彼は幅広い学術組織の活 動の協力を得て、中央ヨーロッパ各国の経済地理学や人口 地 理 学 の 関 係 か ら 研 究 を 行 う 社 会 誌 学 研 究 所 (一 九 二 四 年) と 国 家 学 研 究 所 (一 九 二 六 年) も 設 立 し た ( Tiner 2000: 349 ) 。 彼 の 著 作 に よ り、 地 理 的 環 境 の 底 流 に あ る 経 済や社会を調査する手法がハンガリーでの地理学研究で一 般的に受容されるようになった ( Tiner 2000: 349 ) 。 一九三三年三月にドイツでナチス政権が成立すると、ハ ンガリーは次第にドイツへ接近し、一九三九年二月には防 共協定に参加した。一九三八年から一九四〇年にかけてハ ンガリーは旧領土の一部の支配を回復するが、一九四〇年 一 〇 月 に 再 設 置 さ れ た コ ロ ジ ュ ヴ ァ ー ル 大 学 経 済 学 部 に は、歴史地理学、経済地理学、地質学の三つの研究所が置 か れ た ( Tiner 2000: 349 ) 。 パ ー ズ マ ー ニ・ ペ ー テ ル 大 学

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163 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 162 の議論と絡めて、こうした外交政策がフランスの中・東欧 への影響力の強化を狙ったものであるという批判が示され るようになった。特にロジェの覚書が示されて間もない一 九 三 〇 年 五 月 二 六 日 の 下 院 (代 議 院) で は、 こ の フ ラ ン ス 外交への批判が相次いだ ( 1927-XXVIII: 319-347 ) 。 一九三一年三月、ドイツとオーストリアの間で関税同盟 協定が結ばれ、チェコスロヴァキアなどから強い反発を招 いた。同年五月八日の下院で、当時のハンガリー首相兼外 相カーロイ・ジュラは二国間の経済協定とブリアン提言の 両 立 可 能 性 を 指 摘 し た ( 1927-XXXVI: 33 ) 。 彼 は 世 界 恐 慌 の影響でヨーロッパ内に形成されつつあった経済ブロック からハンガリーが排除されかねないことへ懸念を示唆して いた。 一 九 三 二 年 三 月、 当 時 の フ ラ ン ス 首 相 ア ン ド レ・ タ ル デューは通称「タルデュー・プラン」でドナウ諸国の連合 を提案した。同年五月二七日の下院で、保守派のキリスト 教 経 済 党 の 有 力 議 員 ト ゥ リ・ ベ ー ラ は、 「タ ル デ ュ ー・ プ ラン」とはブリアン提言の対象がドナウ盆地へと縮小され た形式、すなわちドナウ盆地で列強諸国が数十年間互いに 進めてきた政策であると指摘し、同構想への慎重な対応を 求めた ( 1931-VIII: 303 ) 。 このように、ハンガリー国会におけるブリアン提言に始 まる一連のフランス外交に関する議論では、世界恐慌下で 苦境に陥った同国経済への対処も念頭に置きながら、同国 のヨーロッパ内での孤立化を警戒する立場から語られる傾 向にあった。

体制批判

の﹁

﹂論

テレキは国際連盟を基盤としたヨーロッパでの連邦的な 体制の構築に批判的であった。例えば一九三一年三月刊行 の『ハンガリー評論』に掲載された「ヨーロッパの問題」 で、彼はアメリカ合衆国の状況と比較するとヨーロッパ各 国は自然景観、伝統、言語が異なるため連邦制的な秩序に はそぐわないこと、ならびに歴史が繰り返されることはな いという考え方から同じく連邦制を採るスイスの例に倣う こ と も で き な い 旨 を 主 張 し た ( Teleki 1934b: 102-103 ) 。 本 章では、ブリアンの提言後の一九二九年に彼がヴロツワフ 「ヨ ー ロ ッ パ の 道 徳 的 連 合 の 原 則 を 確 立 し、 な ら び に ヨ ー ロッパ諸国間で設けられる連帯の事業を厳かに行うための 一 般 的 な 秩 序 に つ い て の 協 定 の 必 要 性」 ( MAEF 1930: 13 ) 、 第 二 点 目 が「ヨ ー ロ ッ パ 連 合 ( l'union européenne ) に任務を遂行するために不可欠な諸機関を保証するための 適切な仕組みの必要性」 ( MAEF 1930: 14-15 ) 、第三点目が 「ヨ ー ロ ッ パ 委 員 会 ( Comité européen ) の 一 般 的 な 考 え を 決定し、またヨーロッパの組織化の計画を入念に作り上げ るための検討作業において、指針となる不可欠な綱領を事 前 に 定 め て お く 必 要 性」 (こ の 第 三 点 目 は 次 に ヨ ー ロ ッ パ 各 国 が 再 び 会 合 を 開 く 際 の 判 断 に 委 ね ら れ る こ と が 付 記) ( MAEF 1930: 16-17 ) 、第四点目が「次回のヨーロッパ会議 ( Conférence européenne ) あ る い は 将 来 的 な ヨ ー ロ ッ パ 委 員 会 ( Comité européen ) に お い て 実 施 す る 上 で の あ ら ゆ る 問 題 を 検 討 す る こ と へ の 留 保」 ( MAEF 1930: 18-19 ) で ある。これらを踏まえ、同覚書はヨーロッパでの平和の組 織化に関するすべての問題を共同で規定し、ならびにヨー ロッパ諸国の軍事力を合理的に調整するために、ヨーロッ パ諸政府間での最高位の方法の連絡と確固たる連帯を効果 的 に 実 現 す る こ と に 取 り 組 む こ と を 主 張 し た ( MAEF 1930: 20 ) 。 この覚書には連合体制に参加する各国の国家主権の不可 侵性という留保が設けられており、この文書が国際連盟の 諸 条 約 (特 に ロ カ ル ノ 条 約) の 遵 守 と ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 を 固 定 化 し よ う と す る 内 容 で あ っ た こ と を 意 味 し た (戸 澤・ 上 原 二 〇 一 四: 六 八) 。 す で に 一 九 二 九 年 一 〇 月 に ド イ ツ 外相シュトレーゼマンが死去してドイツ外交では修正主義 が台頭しており、世界恐慌の影響が広がるにつれて各国の 保護主義も強まっていた。このため、ブリアンの提案はフ ランスの同盟国である小協商以外からは支持されないまま 棚上げとなった (戸澤・上原 二〇一四:六八) 。

国会

反応

ハ ン ガ リ ー 国 会 で も ブ リ ア ン の 提 言 に 始 ま る 一 連 の フ ラ ン ス 外 交 に つ い て 意 見 が 交 わ さ れ た 。 当 初 は 、 例 え ば 一 九 二 九 年 一 〇 月二 三 日 に 与 党 議 員 で 法 務 関 係 の議 論 で国 際 連 盟 へ 派 遣 さ れ た 経 験 も あ る 外 務 担 当 官 ラ カ ト シ ュ ・ ジ ュ ラ が 、 ブ リ ア ン提 言 に お け る ヨ ー ロ ッ パ に お け る 法 や 経 済の 分 野 で の 統 一 の 意 義 に 言 及 し た 発 言 を 行 っ た よ う に ( 19 27 -X XI II: 22 ) 、 同 提 言 に 対 す る 肯 定 的 な 評 価 も 見 ら れ た。 だ が、 ハ ンガリーが世界恐慌の影響を受けるなかで同国の経済問題

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165 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 164 よってなされるものである。なぜなら、修正は諸国家の主 権の制限なしに実行できない、少なくともこの制限によっ て明らかであるような合意なしには実行できない」 ( Teleki 1934a: 84 ) と も 主 張 し て お り、 諸 国 家 の 主 権 を 制 限 で き る ような超国家的な国際機関の設立そのものには賛同し、そ れを通じたヨーロッパの国際的な枠組みの再編を求めた。 第一次世界大戦後のヨーロッパ再編と関連して、テレキ は (民 族 的) 少 数 派 に つ い て も 論 評 し た。 彼 は 第 一 次 世 界 大戦までの少数派を「伝統的な少数派」と「自発的な少数 派」に分類した。前者は、少数派の特徴・言語・習慣・生 活 様 式 が 奪 わ れ る こ と な し に 多 数 派 の 人 民 ( nép ) と 何 世 紀にもわたって共存してきた人々のことで、歴史的ハンガ リ ー で の ス ロ ヴ ァ キ ア 人 ( tót ) の ほ か、 ブ ル ト ン 人 や カ タ ロ ニ ア 人、 ア ル ザ ス = ロ レ ー ヌ 地 方 の 人 々 を 例 に 挙 げ た。後者は強制移住ではない形で移住した人々のことで、 ハンガリーではドイツ人を例に挙げた。彼によれば、政治 的ならびに法的に両者に関する国際的な規定の必要性は認 識 さ れ て い な か っ た ( Teleki 1934a: 85 * 6 ) 。 一 方、 彼 は 第 一 次世界大戦後のヨーロッパの多くで新たに「強制された少 数 派 ( kényszerkisebbségek ) 」 が 創 出 さ れ て 各 国 内 で 法 的 に困 難な立 場に 置かれ てい ること を指摘 し、彼 らへの 法 的 保 護 の 必 要 性 を 主 張 し た ( T ele ki 193 4a : 85 ) 。 テ レ キ は 「 ヨ ー ロ ッ パ を 少 数 派 が い な い よ う に す る こ と は で き な い 」 と 述 べ 、 少 数 派 の 立 場 を 完 全 に 十 分 な も の とす る 体 制 なし で は ヨ ー ロ ッ パ の 運 命 や 未 来 は 決 定 で き な い が 、少 数 派 の 問 題 を こ れ ま で の 展 開 と 諸 原 因 に 関 す る 知 識 と 尊 重 な し に 決 着 す る こ と も で き な い と 主 張 し た ( T ele ki 19 34 a: 8 5-86 ) 。 そして国際連盟、ヨーロッパ、修正、少数派という以上 に挙げた四点から、テレキは世界の各所とそこに住む諸人 民、ならびにそこで形成された国家間の妥協の必要性、同 じ く ヨ ー ロ ッ パ の 生 活 共 同 体 の 結 束 ( tömörülés ) と は、 人類の歴史とそれによる地表での生活の統合的な過程の自 然 な 現 象 で、 そ の 過 程 に は 人 間 の 歴 史 の 一 つ の 要 素 が あ り、環境を形成する要素としての人間の支配が発展する時 代があると総括し、これらの現象が当時起きる必要があっ た と 主 張 し た ( Teleki 1934a: 86 ) 。 彼 は、 修 正 の 決 定 と 実 行はこの歴史的経過の理性的な結果であり、これゆえに実 現されねばならないが、ヨーロッパの人民共同体には少数 派が生活する諸組織があるので、少数派問題の決着も含ま れていなければならないと述べた ( Teleki 1934a: 86 ) 。 トリアノン条約によるハンガリーの領土解体を念頭に置 いてこれらのテレキの主張を考察すると、歴史的に形成さ 大学で行った時事評論的な講演「政治地理学の観点におけ る現在の国際的な政治諸問題 * 3 」の一部を主に参照したい。 この講演で、彼は時事的な政治問題を論評し、そのなか で 国 際 連 盟、 ヨ ー ロ ッ パ、 (講 和 条 約 の) 修 正、 (民 族 的) 少数派についても扱った。彼は国際連盟の弱点を戦勝国に よって創設されたという成立過程と第一次世界大戦後の各 国が排他的になっている状況で形成されたことに見出した ( Teleki 1931: 12 ) 。 この箇所は一九三四年版の講演録で 「戦 争[引用者注―第一次世界大戦]と戦勝国が国際連盟をも たらした

国際連盟は今も戦勝国の連盟であり、その精 神によってむしろ適切な国際連盟の形成の障害である。ど のような組織がそれでもすでに存在しようとも、そして会 うことと話し合うことの可能性とある程度の形式ならびに 構造がみられ、それが疑うことなく用件を容易にすること が 事 実 で あ ろ う と も」 ( Teleki 1934a: 81 ) と 書 き 直 さ れ て いる。いずれにせよ、国際連盟が第一次世界大戦の戦勝国 の利益を固定化させる役割を果たしていることをテレキは 批判した。そして、国際連盟の思想によるヨーロッパ諸国 の会合がブリアンの提言以後に特に好意的な考えだと見ら れるようになっていることに対して「国際連盟とヨーロッ パ 諸 国 の 共 同 の 間 に は 本 質 的 な 違 い が あ る」 ( Teleki 1934a: 81 * 4 ) と 述 べ、 ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 が 伝 統 を 共 有 す る 生 活 共同体として発展してきたことを解説しながら「ヨーロッ パ の 未 来 を 国 際 連 盟 の 妥 協 に 従 っ て 形 成 さ れ た 委 員 会 に よ っ て 解 決 す る こ と は で き な い」 ( Teleki 1934a: 83-84 ) と 主張し、ブリアンの提言を明確に否定した * 5 。 そ の 上 で、 彼 は ヨ ー ロ ッ パ の 再 建 が「修 正 ( revisió ) 」 によってのみ解決可能だと指摘した。ただし、この修正と は単に敗戦国の利益になるものでも、それらの国々の問題 でもなかった。また、戦前の状態に単純に戻すことができ ないのも明らかであった。彼は「この修正は明らかにヨー ロッパ諸国家の国家間の共同行動の新しい規則と共同行動 のより密接でより安定した手段によるものである」 ( Teleki 1934a: 84 ) と 述 べ、 新 し い 国 際 秩 序 の 形 成 を 主 張 し た。 テ レ キ は「私 は『ヨ ー ロ ッ パ 国 際 連 盟』 の 名 を 使 い た く な い。なぜなら、この名はジュネーブの国際連盟とブリアン の計画がすでに利用しており、この方法、すなわち国際連 盟の『小委員会』の方法では目標に至らないか、少なくと も 大 き な 回 り 道 に な る だ け で あ ろ う た め だ」 ( Teleki 1934a: 84 ) と 述 べ た よ う に、 国 際 連 盟 を 基 盤 と し た 国 際 協 調外交が非現実的であると批判的であった。しかし、彼は 「修 正 は 明 ら か に 共 同 体 に 超 国 家 的 な 権 力 が あ る 組 織 に

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167 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 166 唱したアルベルト・E・F・シェフレの影響から「空間の た め の 戦 い」 と い う 概 念 を 示 し て い た ( Weikart 1993: 486 ) 。 こ の ラ ッ ツ ェ ル の 理 論 を 背 景 に、 一 九 世 紀 末 に ス ウェーデンの政治学者ルドルフ・チェレーンが領土・民族 と一体化した有機体として国家を理解する地政学の概念を 創出した。この理論はイギリスの地理学者・国会議員のハ ルフォード・J・マッキンダーや、ドイツの軍人出身の地 理学者カール・ハウスホーファーによって体系化され、一 九三〇年代以降にはナチス・ドイツの東方侵略の正当化に 利用された。 ハンガリーの地理学にもラッツェルの著作は大きな影響 を も た ら し た が、 戦 間 期 に は す で に 批 判 を 受 け て い た ( Hajdú 1998: 96-99 ) 。 ハ ン ガ リ ー 地 理 学 協 会 の『地 理 学 紀 要』でもドイツ語圏で刊行された地政学関連の著作が紹介 されたが ( Teleki 1929: 46 など) 、これらは外国での研究動 向の紹介であった。当時のハンガリー地理学では地政学と 距離を置きつつも、地政学と理念的には類似する環境決定 論が議論されていた ( Hajdú 2001b: 66-73 ) 。 テレキも、例えば先述のヴロツワフ大学での講演「政治 地理学の観点における現在の国際的な政治諸問題」で地理 学の一分野として地政学を捉えることに否定的な見解を示 し、政治地理学を支持した。彼は地政学の出発点たるラッ ツェルの政治地理学の理論が学術的な批判に耐えられない こ と を 指 摘 し た ( Teleki 1934a: 72 ) 。 彼 は、 地 政 学 が 第 一 次世界大戦後に隆盛になったのは政治諸問題の拡大とさま ざまな地域の諸問題が組み合わさることで政治における地 理学的状況が考慮されるようになったことから当然だった と認めながらも、地政学とは依然としてまず政治的なもの であり、 政治的事件の一つの説明であると見なした ( Teleki 1934a: 72 ) 。 そ し て、 地 政 学 と い う 語 の 当 時 の 用 法 に も と づいて、彼は地政学が学術性を欠く政治的な概念だと主張 した ( Teleki 1934a: 72 ) 。 テレキは、政治およびそれに関連する経済生活に対する 自然環境条件の有効性や影響と、そこでの自然環境条件へ の人間からの影響を考察することが、固有で特に社会化す る存在たる人間の役割に注目した分野である普遍的で統合 的 な 地 理 学 と し て の 政 治 地 理 学 の 課 題 で あ る と 述 べ た ( Teleki 1934a: 76 ) 。この環境決定論的な立場ゆえ、彼の思 想 が 地 政 学 に 立 脚 す る と 受 け 止 め る 者 も い た ( Palotás 1943: 109 など) 。 れてきた生活共同体たるヨーロッパに属するハンガリー王 国の領域が同条約によって分断された状況を批判し、ハン ガリー国境外のハンガリー系住民に対する法的保護を訴え ようとする彼の意向が読み取れる。 一 九 三 〇 年 前 後 の テ レ キ が ヨ ー ロ ッ パ の な か で ハ ン ガ リ ー を ど の よ う に 位 置 づ け て い た の か と い う 点 に つ い て は、一九三〇年五月にミュンヘン芸術家協会とドイツ=ハ ンガリー協会、ミュンヘン地理学協会の招きを受けて行っ た講演の内容も参照したい。同講演で、彼はヨーロッパに おける経済発展の背景を人々の居住地域や気候、土地と人 の結びつきなどから解説しながら、第一次世界大戦後のハ ンガリーが経済的に困難な状況に直面していることを説明 し た * 7 。 そ の な か で、 彼 は ハ ン ガ リ ー 王 国 の 成 立 に 関 し て 「ド ナ ウ 川 中 流 の 盆 地 の 特 徴 的 な 状 況 は、 大 筋 で 人 間 の 生 存 圏 ( menschlicher Lebensraum ) と し て 盆 地 の 運 命 を 予 め示していた。その運命はそれぞれのヨーロッパの発展に 参加して経験しなければならない。だが、それは辺境地域 として、かなり後にはヨーロッパの核となる地域として、 そして微妙に異なる別様の形式を取った地域的特性の結果 としてのものである」 ( Teleki 1930: 10 ) と述べた。この主 張からは、彼がハンガリーの領土的一体性の回復を求めて いたことが読み取れる。先述のように地理・経済面からの ハンガリーの領土修正要求は最も説得力のある手法だった ( Zeidler 2007: 71-72 ) 。 ま た、 「生 存 圏」 と い う 用 語 に 加 え て、 王 国 領 の 地 理 的 特 性 が 王 国 民 (主 に 想 定 さ れ て い る の は ハ ン ガ リ ー 民 族) の居住空間やその歴史に影響を及ぼすという考え方には地 政学との類似性が見られた。ただし、テレキ自身は地政学 に批判的であった。この点についても次節で簡単に述べて おきたい。

地政学

関係

一九世紀末から二〇世紀前半の地理学、特に政治地理学 の分野では、地政学が国際的に注目された。政治地理学と は、ある国家の政治と地理的な要因との関連について当時 の地理学で主流だった環境決定論的な発想、すなわち土地 や自然が人間の生活に及ぼす影響から考察する分野であっ た。ドイツの動物学者・地理学者フリードリヒ・ラッツェ ル の『政 治 地 理 学』 (一 八 九 七 年) が 重 要 な 著 作 で あ る。 彼はすでに『人類地理学』 ( Ratzel 1882; Ratzel 1891 ) で、 ダーウィンならびに社会ダーウィニズム的な経済思想を提

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169 ロカルノ体制批判とハンガリー地理学 168 協 的 な 組 織 で あ る の に 対 し、 ヨ ー ロ ッ パ を 諸 人 民 と そ の 地 で の 生 活 に よ っ て 歴 史 的 に 発 展 し て き た 一 つ の 生 活 統 合 体 ( életegység ) と し て 理 解 し、 ヨ ー ロ ッ パ の 再 建 は 妥 協 的 な 組 織 で は な く 諸 人 民 と 彼 ら の 指 導 者 の 意 志 に よ っ て 可 能 と な る のだと主張した( Teleki 1934b: 103-104 )。 *5 彼 は「ヨ ー ロ ッ パ の 問 題」 内 で、 ブ リ ア ン の 構 想 は ヨ ー ロ ッ パ 政 治・ 世 論 の 一 般 的 な 心 理 と「講 和 条 約 が 作 成 さ れ た 状 況 を、 と に か く 現 状 を 維 持 し よ う と す る フ ラ ン ス の 試 み」 が 生 み 出 し、 さ ら に フ ラ ン ス 内 政 の 歓 心 を 買 お う と し た 内 容 であったと批判した( Teleki 1934b: 106 )。 *6 一九三一年版では「法的に」のみ( Teleki 1931: 17 )。 *7 例 え ば「我 が 国 の 状 況 の 困 難 さ は、 ヨ ー ロ ッ パ な ら び に 全 世 界 の 経 済 発 展 の 自 然 な 組 織 的 進 行 が ち ょ う ど 我 が 国 固 有 の 経 済 発 展 に 特 に 強 く 変 更 さ せ る よ う な 大 き な 影 響 を 与 え、 そ し て 与 え ね ば な ら な い と き に、 我 々 に こ の 過 酷 な 一 撃[引 用 者 注 ― 第 一 次 世 界 大 戦 に よ っ て 領 土 と 人 口 の 大 半 が 失 わ れ、 民 族 的 ハ ン ガ リ ー 人 の 四 分 の 一 以 上 が 他 国 の 支 配 下 に 置 か れ て い る こ と] が 当 て ら れ た こ と に よ っ て 高 め ら れ て い る」と解説した( Teleki 1930: 13 )。 ◉参考文献 戸澤英典(二〇〇八) 「ブリアンの国際連盟総会における『ヨー ロ ッ パ 連 邦 的 な 秩 序 樹 立』 演 説(一 九 二 九) 」 遠 藤 乾 編『原 典 ヨ ー ロ ッ パ 統 合 史

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以上、一九三〇年前後のテレキによるヨーロッパ政治の 批 判 を 概 観 し た。 彼 は 国 際 連 盟 を 基 盤 と し た 政 治 枠 組 み (す な わ ち ロ カ ル ノ 体 制) に 否 定 的 で、 新 た な 枠 組 み を 構 築する必要があると考えていた。彼はその枠組みを考案す る上でハンガリーの領土的一体性を主張し、その際に同国 が歴史的にヨーロッパの一員であり続けてきたことを強調 した。ただし、彼自身は地政学に批判的だった。 テレキはヨーロッパを世界の他地域とは異なる独自の伝 統ある共同体として優位なものと見なしただけでなくハン ガリーはヨーロッパの一員であることを強調しており、彼 のハンガリー国家ならびにハンガリー民族への選民的な発 想を読み取ることができる。先のゼイドレルが指摘した領 土回復のための主張の歴史・文明的主張、すなわち周辺の 諸 民 族 と 比 較 し た 社 会 的・ 文 化 的 優 越 を 主 張 し て ハ ン ガ リーを西欧に対するキリスト教世界の東の砦と位置づけた 主張と重なる。 ウォルフが一八世紀の啓蒙思想家が「文明」を指標とし て「後進的」な東欧を認識し、その東欧と西欧を区別する 地理認識が現代にも引き継がれていることを指摘したよう に ( Wolff 1994 ) 、「東 欧」 と は 地 理 的 な 位 置 関 係 だ け で な く、文明空間としての「ヨーロッパ」ないし「西欧」と対 比されて「後進的」な地域だという価値判断が含まれてい た。ハンガリーは近代以来「ヨーロッパ」から「他者化」 されてきた存在であり、かつ戦間期には第一次世界大戦の 敗戦国として経済や社会の面で負担を課せられていた。テ レキは二重の意味で「他者化」された存在だった戦間期ハ ンガリーを「ヨーロッパ」の一員であると位置づけながら ヨーロッパの再編を訴えたのである。 ◉注 *1 両集会の内容は

Csicsery-Rónay & Vigh

( 1992 )に収録。 *2 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 解 体 に 伴 い、 ハ ン ガ リ ー は 一 九 三 九 年 三 月 に ル テ ニ ア 地 方(現 ウ ク ラ イ ナ・ ザ カ ル パ ッ チ ャ 州) の支配も回復した。 *3 こ の 講 演 録 は 一 九 三 四 年 刊 行 の 著 作 集 収 録 時 の 加 筆・ 修 正 に よ っ て 彼 の 主 張 が よ り 明 確 に な っ て い る た め、 本 稿 で は 主 に 一 九 三 四 年 版( Teleki 1934a ) を 参 照 し、 適 宜 一 九 三 一 年版( Teleki 1931 )を参照する。 *4 彼 は 他 の 論 考 で 両 者 の 差 異 に つ い て、 国 際 連 盟 が 二 〇 世 紀 に 新 た に 登 場 し た 諸 問 題 に 取 り 組 む よ う な 伝 統 を 欠 い た 妥

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172 著者紹介 ①氏名…… 辻 河典子 (つじかわ・のりこ) 。 ②所属 職名…… 近畿大学文芸学部文化 ・ 歴史学科 ・ 特任講師。 ③生年・出身地…… 一九八二年、大阪府生まれ。 野・ …… 歴 史 学 と 地 域 研 究。 中 央 ヨ ー ロ ッ パ( 特 に ハンガリー) を主な対象とする。 …… 東 京 大 学 教 養 学 部、 東 京 大 学 大 学 院 総 合 文 化 研 究 科 修士課程、同博士課程、同修士 (学術) 。 …… 日 本 学 術 振 興 会 特 別 研 究 員( 三 〇 歳、 二 年 )、 城 西 大 学非常勤講師 (三一歳、一年弱) 。 …… ハ ン ガ リ ー・ ブ ダ ペ シ ュ ト( 二 五 歳、 二 年、 留学) 。 ⑧研究手法…… 文献・史料調査。 ⑨所属学会…… 東欧史研究会、史学会、日本西洋史学会。 …… 一 九九 〇 年 の 東 西ド イ ツ 統 一 。 当 時 は 事 情 を ま っ た く 理 解 せ ず に ニ ュ ー ス を 見 て い た が 、 後 に そ の 歴 史 的 意 義 を 知 り 、 い わ ゆ る「 東 欧 」地 域 に 関 心 を 持 つ よ う に な っ た 。 …… ナ イ ジ ェ ル・ ル イ ス『 ペ イ パ ー チ ェ イ ス 』( 中 野 圭 二 訳、 白 水 社、 一 九 八 六 年 )。 第 二 次 世 界 大 戦 中 に ベ ル リ ン の プ ロ イ セ ン 国 立 図 書 館 か ら 下 シ レ ジ ア の 修 道 院 へ 疎 開 し た 所 蔵 品 の う ち、 モ ー ツ ァ ル ト や ベ ー ト ー ヴ ェ ン ら 著 名 な 作 曲 家 の 自 筆 楽 譜 の 所 在 の 解 明 の 試 み を 中 心 に 扱 っ た ノ ン フ ィ ク シ ョ ン。 第 二 次 世 界 大 戦 後 に 国 境 線 が 大 き く 変 動 し た ポ ー ラ ン ド と ド イ ツ の 現 代 史 だ け で な く、 国 家 に よ る 文 化 遺 産 の 所有の意味についても貴重な示唆を与えてくれる。

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