古代における神社の研究
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(2) . 昭和35年8月. 北海道学芸大学紀要(第一部). 1巻 第1 第1 ,2号A. 古. 代. に. け. 於. る 原. 栗. 社. 神. の. 研. 究. 薫. 北海道学芸大学旭川分校史学研究室 inesin old Japan l Kaoru KURIHARA: A Study on t l e Shr. 次. 目. 3 , 付 阿蘇国の名について 4 . 付 日向園の名について. 序 第一章は名居神社の読み方を, ナヰとよむべきだと論じた。 又葦神社については, 古代前期の 「アシ」 の名 を冠する固有名詞を考察 し, 葦神社との関 連を論 じた。 第三, 第四章は阿蘇国名及 び日向国名 の起原について大略の考えをのべて, 本論につけ加えた。 猶第一章では, 常陸は ヒタチでなくヒタシといった事がある かも しれない。 又日高略, 日高見 路ではなくて日田路であろ うという事, 安曇 氏の名は天つ宇美の意 味であろうという事, 夏身郷の 夏身の意味は 「ナ」 に支配者の意味の 「ミ」 がついたか, 又は開拓を意味する 「ツミ」 がついたの であろうという事, 名張の 意味については, 隠る意 だと論ぜられているが, 名墾の意にもとれる事, しかし隠の字をあてるにふさわ しい事情はあっ たろうという事を, その過程で論 じた。 第二章では吾妻国 の名の起原が,「アシニ足柄峠な どの足のツマニ端の意だろうという事を含め 説 い た。. 1 . 三重県伊賀国名居神社について 延喜式神名帳 の伊賀国名張郡名屑神社は今三重県伊賀国名張市下比奈知にある。 志賀剛氏は井上宏氏と共著で 「古代村落 より見たろ式内社の研究 (九) 伊賀国二十 五座」 を著 された。 その中で名居神社にふれられ, 今其の名をナヰと呼んでいるが, 元来はナコと呼んだよう に思われる。 ナコならば安房に那古, 長門に奈古, 筑前に名子がある。 これら三つのコは何れも甲 類 で, 居 は 乙類 の コで あ る。 従 っ て こ の 居 は 古 の 誤 り で あ ろ う。 而 して ナ コ は ヒ ナ コ の ヒ の 脱 落 で. あろう。 ヒナコは 「日の子」 でこの神社は 「日の子」 神を祭っているであろう。 それならば, 比奈 知の盆地の山々が 甚だ低く, 日が良く あたるから 「日の地」 即ちヒナチというに至ったのだろうと ) 思われる地名に相応しい名で ある。 と説いて居られる1 。 な お 考 え て 見 る に, 日 本 書 紀 に は 日 の 神 を ヒ ル 〆 と 呼 ん で い る。 又 ヒ ル コ も 元 来 は 日 の 神 だ っ た の か も しれ な い。 男 の 神 又 は 人 を 日 子 と 書 く の は ヒ コ と よ む べ き で あ ろ う。 日 の 神 を ヒ ナ コ と 言 ) っ た と 考 え る の は い か が で あ ろ う か2 。 且 つ 地 名 の 比 奈 知 ニ ヒ ナ チ は 都 路 ニ ヒ ナ 十 ミ チ 又 は 都 市 ニ ヒ ナ 十 イ チ に も と れ る。 十 ミ チ が 十. 中哀紀に日本武の妃両適入姫命の 傍訓にフタチイリヒメ とあり, 又同記に菟道河辺の チになる例はイ ) 比奈知は名弓長市街より名張川を一里程さかのぼった所にあ り, その奥は伊勢 傍訓はウチである3 。 地ニイセヂを経て伊勢平野につ づいている。 つまり奈良盆地より名張をへて伊勢に通ずる道すぢの - 36 柵.
(3) . 古代に於ける神社の研究. 一つにあ たっている。(他の一つの道筋すなわち名張より青山を へて伊勢にゆく途中 にも伊勢地が あ る。 どちらの伊勢地も元来伊勢路とし う意味だったのであろう)大化の改新後 名墾bナノ ミ リの横 , 。 川までが畿内と定められたが, その名墾の盆地より 低い峠を一つ越えた所 に比奈知があるのであ , る。「ひな」にゆ、 く道のはじめというべきであろう それを思うと 比奈知の地名の起原は 日がよく当 。 るという意味ではなくて 「ひな」 への路という意味ではないかと 思う 或いは十イチ ニ市が十チに 。 なる例と して景行紀 に尾張国年魚市郡熱田社の年魚市の傍訓にアユチとあり4 ) 又垂仁紀の大市長 , ) 又倭直祖長尾市にナガラチと傍訓がつ けられている6 岡岬の大市にオホチと傍訓があり5 ) (年魚 , 。 市郡は倭名抄では愛智郡になっている。 ) ひな市がひなち =比奈知になったのだとすれば 「ひな」 に 対する市のあった土地という意 味になるのであろうか そうだとすれば 名居神社の名が比奈知の 。 , 地名と関連があると はいえないかも しれない 。 (常陸国をヒタチと いうは, 吉田東伍氏大日本地名辞典 に 常陸は比太知とよみ 常陸又は 常土 , , に仮借すれど, 本は日高見路の義とぞ 日高見とは 上古東北の汎称にして其の奥 区は今の北上川 。 , 流域にあたり, 北上即ち日高見の説なるべ しとあるが 害田貞吉氏 によれば日高見も日高も日田も ,. ) ヒ タ チ ニ ヒ タ ミ チ ; ヒ タ (日 田) 即 ち ヒ 飛 弾 も 皆 ひ な の 意 味 で あ る か ら? ナ十 ミ チ の意 味で あろ う , 。. ) 即ち伊賀国の比奈 知と同じ意味であろう8 。 そこで更に名居神社の名の由来を考えて見たい 比奈知の地は和名抄に出ている夏見郷に屈 し 。 ていたと思われる。 倭名抄名張郡に三郷がある その一の周知は該当する地名が現在ないが 大日 。 , 本地名辞典には, 今薦原村, 蔵持村なるべ しとある 名張の北方にある 他の名張 夏身は夫々そ 。 。 , の地名が残って居り, 名張川の青い流 れを名張からさかのぼれば夏身になり 更に比奈知になるの , である。 夫々半里程 しか離れていない。 大日本地名辞典には 夏身郷は往時 滝川 国津 比奈知 , , , , を総べたるならんと記されている 名張郡 の地勢から言って 比奈知等 現夏身以南の地 方は旧夏 。 , , 身郷の地と思われる。 夏身の意味は名張の 「ナ」 に 「の」 の意味の 「ツ」 と長 主 指導者 の意味の 「持」 のっづま , , っ た 「ミ」 がつ い た も の と 思 つれ る 。. 古事 記伝に安曇連の名の意 味を論じて 「アマツモチ」 が 「アヅミ」 になったのだ 「アマ 」は海 。 人,「ツ」 は 「の」 であり,「モチ」=持は統率者の意味で 「モチ」 がっづま ると 「ミ」 になるのだと ) 同様に考えると 「ナ」 + 「ツミ」 は 「ナ 述べてある9 」 の統率者の意 味である。 。 古事記伝に安曇は 「アマツモチ」 がっづまったのだとされているが {又海住(アマスミ)=海人 の意だという説があるが} ,或いは 「アマツウミ」 がっづまったのではな いかと思う。「アマ」は海人 ではなくて 天神の 「アマ」 であり, 宗教的な霊地の意味と 大和の朝廷との関係を 示し 「ウミ 」は , , 記紀に神功皇后が応神元皇を生み給うたと記されている宇 美 (古事記、 宇爾(日本書紀)であろうめ , 。 宇美は福岡県 筑前回糟屋郡にある。 広く糟屋郡一帯をさすと考えると 神功紀に 三韓征伐の前に , , 西海に国があるかと吾幾(アベ)海人鳥摩呂が見に行ったが 何も発見する事が出来なかった そこ , 。 で磯鹿(シカ)海人名草をつかわ した所 国らしきものを発見して 帰って来たと 記されているが そ , , の繊麗は糟屋郡内志賀島をさ していると思われるので 宇美にかかわりがある事がらであるめ , 。 延喜式神名帳に糟屋郡には, 志賀海神社三座並名神大のみが記されている 海の傍 訓に「ウミ」 。 と記されているが, 古事記伝は, それはあやま りで 「ワタツミ」 であると指摘 しているの 。 又倭名抄には, 糟屋郡に安曇郷がある。 抄には安雲と 記されているが 古事記伝は安曇のあや , ま り と して い る。. 又古事 記伝に, 安曇氏は応神紀, 履中紀を見るに 海人をつかさ どったのであると指摘してい , る。 されば海人っもちがあづみになったのだと主張されたのであるが 又先述の神功紀の記事を通 , - 37 卿.
(4) . 栗. 原. 薫. じて宇美に結 びつけて考え られもすると思う‘ 古事記によれば, その安曇連 が, 祖神といっく 神が, 底津綿津見命, 中津綿津見命, 上津綿津 見命三柱の綿津美の神で, それと対になって 生れた底筒之男命, 中筒之男命, 上筒 三男命三柱の神 り給う神であ は大阪府摂津国の住吉 神社に祭られている神である。 この神の荒 御魂は韓国を鎮め守, 3 ) る1 。. ・委奴神」 で, 海神(綿津見神)住吉神 は同時の生れにて, 並びに綿津見 久米邦武氏は 「住吉社ノ 国より斉き祭り, 因て沿海の要津を守りたる(なり)と述べ, 更に住吉神を祭る主と し給うた穴門 直 ホムタツ 践立と津守達之祖田裳 見宿禰とは, 古より大和 の朝廷より付けられた津守なのであろう と述べられ 4 ) た1 。. 綿津見神と 住吉神とが, だぶっているのは, 元来そうであったので あろうが, 一方のみ記に安 曇氏のもちいつ くと書れ, 一方の祭るものは記されず, ただ神功 皇后の三韓征伐の 時功あり, その 後の 三韓経営にかかわ りがあった旨記され, 書紀にはそ れを祭るものと して津守連之祖等が記され ている。 記にはこの三柱の大神は, 三韓征伐の前には じめて名を顕 し給うたとあ り, 神功皇后の三 韓経営にかかわって尊重されは じめた様であ り, それ以前は綿津見神が主だったのではあるまいか。 そ して綿津見神は 住吉神と対になり, 摂津住吉 社の対岸播磨明石をは じめ, 対馬国など, 要所要所 5 ) に 祭 ら れ て 居 る1 。. 灘(ナ)の庭という意味かと思う。 働即ち福岡地方 摂津の 住吉神社のあた りを難波というのは,. の植民地の意 味ではあるまい か。 丹波国は 「タニハ」 といい, 隣に但馬国を持っている。 筑波の 「ノリ が 「ニハ」 =庭の事を言 方を見れば分る。{その筑波は バ っているのは, 大庭=「オホバ」 , 桜庭; 「サクラ 」 などの庭の読み ツク 尽庭即ち国の一番はしの庭, 即ち一番遠方の 植民地の意味 で筑紫に対 しているのだと思う。 なお筑 6 ) 「シマ」 ではな いかと思う1 。 紫の 「シ」 は, 高志の「シ」 , 多芸志の 「ジ」 と共に島; , 武蔵の「シ」 書紀に, 出石人と書く べきだろうと思わ れるのを出 嶋人と書いてい るのは, 何々十 「シマ」 が 1)} 何 々 十 「シ」 と な る 例 で あ る 7 。. これ等の庭は, 本土があって, 別に作られた植民地のようなものをさすのであろう。(難波に安 ) 曇氏が住んで いた事は,・播磨国風土記揖保郡浦上里の 所に見えている。 この様な灘地方の植民地に, 住吉神社が祭られて居 り, 又その近くに綿津見神が祭られている 事は, まずは安曇氏が灘地方全体の宗 教生活に関係があった事になると思う。 三韓征伐の後, 住吉 神を他氏が祭り出 したのであろう。 その津守氏の名を負う住吉郡の津守神社 も延喜式に, 元そうだ 1 8 ) っ た の を 大 海 神 社 と あ らた め ら れた と書 か れて い る の で あ る 。. 新撰姓氏録考証下に, 姓氏録第二十 - 河内国安曇連は, 千都 斯奈賀命の後だといっている。 日本書紀, 続日本書紀には見えない。 と記している。 のを, 千都斯の 下に比字を脱 し賀奈を奈賀に ”故安曇運等者 ・ 作り, 垢の字 を脱 している。 今古事記に上って此を訂 した。 其は記(の)文に………・ ウ ツ シ ヒカナサク 1 9 ) 其綿津見神之宇都 志日金垢命の子 孫也, とあるものを証とすべ し , と論じられている。 しかし字をすなおに読めば, 奈賀は億地方が那珂と後にいわれた事により, 安曇の蓮の先祖の, 憐地方にうつ しに, 即ち現実面で, 即ち政治的に関係があった事を示しているという事にもなると 思う。 別名であってもよいと思う。 {日本書紀斉明天皇七年三月 丙申朔庚申, 御船還って柳之大津に至る。 磐瀬(遠賀郡)行宮に居た 2 0 もうた。 天皇は鯛大津を改めて長津とい ひ給うた ) 。 か く て 「ナ」 を 「ナ カ」 と い う よ う に な っ た の で あ る。. 大分あとの事 なので, 先祖が 「ナカ」 地方に関係のあ り, かつてはそれを支 配していたらしい - 38 -.
(5) . 古代に於ける神社の研究. と考えて, そういう名をつ けたものかもしれぬ。 或いは 「ナガ」 には 「ナの」 という意味があるから, より古いのかもしれぬ 。 さて, 久米邦武氏, 三品彰英氏によれば, 韓国は宗教的にも 日本に属 して居ったのであるが , 0 それは日本の韓国武力制圧 の前からの事なのである2 。 それは武力の支配の前に, 宗教的支配があったのであり, それは日本内部でもそうだ ったのか もしれない。 恐らく 「ナ」 が綿津見神を主に祭っていた 時代の安曇氏は 「ナ」 を宗教的に支配して いた の で あ ろ う か。. 仲哀天皇が, 球磨” 曽燃征討に筑紫に幸したもうた時, 穴門の引島に出迎えたてまつった恰土(イ ト) 県主五十跡手(イ トデ) は, 天皇から誰人 かときかれて, 高麗の意呂山に天か ら降りて来た天日 棒の子孫だといったと, 釈日本紀所引筑前回風土記にあるが, 安曇氏は神別だか ら 「イ トデ」 は安 2 ) 曇氏 の 先 祖 で は あ る ま い2 。. したがって, 伊観県主と安曇氏 は別々だったと考えたい。 久米邦武氏は, 先の論文で, 神を祭っているのは, その神の領土を 政治的に支配 しているのだ と, 述べて居られるが, それは完全自主の国の場合で, 支配と服属のはじまった国々では それが , 複雑な形で出るかも しれぬ。 さて新井白石が, 古史通, 或間下で, 醜志倭人伝の奴国は筑前回那珂郡 不弥国と は古事記に , 筑紫国の宇美とみえ, 日本紀に宇鞘に作り, 筑紫風土記に字沼 野と見へ しものこれな りと説いてい る 又本居宣長も, 駅戎慨言で,(醜志倭人伝を見るに) かの伊都の国の次にいへる奴国は 仲哀紀 , に灘県, 宣化紀に那津といへるところにて筑前, 不弥国も同じき国にて 明宮御宇(応神)天皇のあ , 3 ) れ ま し し所 を, 宇 爾 と な づ け しよ しあ れ ば, そ れ な る べ しと の べ て い る2 。 4 ) そ れ が 今 大 体 通 説 に な っ て い る2 。. つまり上述安曇氏と関係のあるかもしれない字美は, 雛志の頃は一つの国であった事にな る 。 神功紀, 応神紀には相当するものがない。 雛志は三世紀の書であり, 書紀神功 応神紀の時代 , は四世紀と考えられ, 雛志の方が先だと考えられているのであるか ら, その間 に 恐らく神功 応 , , 神時代に, 国或いはそれに相当するものと しての独立性を失なったのであろう 。 近藤喜博氏は糟屋郡に壬生部があったと説かれたが, 一部はその様になったのかもしれな い 。 継体天皇の二十二年, 筑紫国造が反いて敗れた後, その子が糟屋屯倉を献 じた それ迄は筑紫 。 国造の私領だったのである。 久米邦武氏は, 磐井を安曇氏と 結びつけて 居られるが, 釈日本紀所引 私記に筑紫の名の起原を 説明して, その三に筑前, 筑後の堺にあら ミる神がいて往来の人は半ば死 し 半ば生きた その数 , 。 が極めて多かった。 そこで人命尽 しの神といった。 そこで筑紫君等の祖変依姫が祝となって之を祭 った。 それより後行路の人は神害を被らなくなった。 そこで筑紫君とい うのだとあり 筑紫君は筑 , 紫大神を祭っていたので, 綿津見神を祭っていた安曇氏とは違うと思 つれる 筑紫は後で説明する 。 如く, 大和朝廷が九州に進出してからの名と思われる 又磐井は 政治的・軍事的実権を持つ一方 。 , 祭政分離の動きにそうて, 筑紫地方の重要な祭りには関係 していなかったのでないかと思われる 。 磐井はいわい=祝という名を持っていたにもかか つらず 彼とは別に安曇氏が宗教的権威を持って , 居 た の で は な い か と 思 う。. 鶴岡静夫氏は, 磐井乱後春米部が此の屯倉に住み, やがて其の族長は屯 倉の管理者とな ったと 論ぜられた。 かつ播磨国揖保郡に糟屋屯倉の田部の開いた所, 春米部がまず置れた 茨田屯倉の漢人 4 ) の移住した里, 安曇氏が開いた里が集っていると指摘された2 。 思うに安曇氏が孝徳天皇の御代開いた石海里は石海人夫をよんで開かれたのであるが 石海は , - 39 -.
(6) . 栗. 原. 薫. イハミとよんでいる が, 斎海#祝宇美ではあるまいか。 揖保=いひぼ=いぽとなったのを見ればい はひうみ=いはうみとなり, いはうみ=いはみとなってもよいと思う。 古の宇美に関る神領の民 を つれてきたのでは あるまい か。 さすれば安曇氏は, 孝徳天皇即 ち大化の改新の後 も, 筑前国糟屋郡 の地と関連 があった事と なる。 (吉田東伍氏, 史学雑誌第八篇 地名沿革例に引 かれた例に揖保があり, まず母音は ぶかれ, 後 ;かれて, い ひぽがいぽになったのだと説かれた。 それを応用すれ ば, 斎海=いはひうみ 子音がはる - - い は う み に な る と 思 う。. 或いは大日本国語辞典に, 八雲御抄をひき, 詩鋤=いはすき, 孫官=いはひのみや=いはみや と 出 て い る の で, 斎 海 = い は ひ の う み ; い は う み と な り, 更 に 何 々 十 う み が 何 々 十 み に な る の で あ. ) るから, いはうみ;いはみになったともとれると 思う。 数があり 醜志倭 人伝によれば, 奴国は二菌戸程の戸 , 投馬国及び邪馬台国と共に, 数千の戸数 しかない国 からはと びはなれた大国である。 しかるに西北に百里はなれた伊都国, 東北に更にまぢかく不弥国があるのはなぜであろう。 伊都国に邪 馬台国の一大率がいて, 諸国を検察 し, 諸国が之を畏悌 したと記されているが, 不 2 め 弥につ いてはその様な邪馬台 国との関係は記して ない だが, どちらも位置が奴国に接近 し, かつ同 じく千余戸の小戸 数しかないのは, 不弥国も伊都 と似た立場にあった為 かもしれない。 戸数四千余戸の未塵国と, 千余戸の伊都 国との間が五百里あり, 奴国はその両隣の国と百里以 内の距 離 しかはなれていない。 しかも両隣の国の戸数も特に少ないのは, 奴国の領土にくひこんで その要部を占 めている為と考え られまい か。 愛馬, 弥馬台と戸数は五万, 七万と増え, その間, 国は 倭人伝の よみ方によるが, 不弥より, 3 一 つ も は さ ま れ て い な い の で あ る。. 或いは不弥の方 は宗教的な役割を持っていて, 支那人にはよく分らなかったの かも知れない。 (醜使が, 伊都 より先にゆかなかったとすると, 投馬などの方角があわないのは, あざむかれた ) 為かもしれない。 特に邪馬台国は, 一つ代替のを作って 示し, 非常にそなえたのではあるまい か。 が進む 仲哀紀によれば, 同天皇の 八年, 九州に遠征 し給うた所, 闇浦に入り水門に至って御船 ことが出来 なかった。 そこで箇県主の 祖, 熊鰐が御船 が進む事が出来ないのは, 是の浦に男 女二神 があり, 男神を大倉主, 女神を菟夫羅媛というが, その神がきまたげているのにちがいありま せん と 言 っ た。. 2 6 ) 天皇はかじとり, 倭国菟田人伊賀彦を祝と して祭らせ給うた所, 船が進むを得た 。 菟夫羅媛は傍訓 「ツブラ」 とふってあるが, 菟を普通「ツ」とはよめないから, 元来 「ウブラ」 で, 後 「ツブラ」 に当ると考え られて, その様によまれたのではあるまい か。「ウブラ」 とすれば, 2 7 ) 「ブラ」 は 「フル」 , 「フリ」 などと共に村の意味である 。 「ウ」 は 「ウミ」 のっ づまったもので, 紀記の宇摘, 宇美, 倭人伝の不弥に相当するのではあ る ま い か。. 」 「ツブラヒメ (津布良比売) ノ命」 という神があり, 大水神の なお 「ツブラヒコ(津布良 比古) 2 8 ) 児で, 皇大神宮儀式帳の未だ官帳に入ら ざる田社の事の項にある津布良神 社の祭神である 。 その神と同じと考えて 「ツ ブラ」 と訓をつけたのであろうか。 又大倉主は朝倉郡 (福岡県筑後 川流域の一部) の神であろう か。 さて菊夫羅媛を伊賀彦が祭ったの が, 宇美だとすれば, 宇美即ち不弥国が仲哀天皇以前より特 別の宗教性を持っていた事を示す ものかもしれぬ。 - 40 -.
(7) . 古代に於ける神社の研究. かく見てくると安曇= 「アヅミ」 を 「アマツウミ」 と考える考え方もなり立つであろう 。 大和の者でないのに天という事は天日槍の例がある。 彼は新羅からの帰化人である もっとも 。 古語拾遺には, 海桧槍とかいてあるが。 ま してや, 三韓征伐以前, 邪馬台国の意を受 けて, 奴地方の宗教を司っていたとも思われるの である。 さもなくば小国が分れている筈がな い。 古事記傍訓に渡官家をワタツミヤケとよんでいるが, 綿津見も, 渡っみ=朝鮮海峡を支配する 意味で, その神を綿津見といったのかもしれない。 そ して弥馬台国で は, 政治的な管理者と 宗教的 な管理者を別にしたのかもしれない。 なお 何々十 「ウミ」 が, 何々十 「ミ」 となる のは, 近江の海 =あふみのうみ;あふみのみ {葛 0 39等実例が多い。 例えば266柿本人麻呂の歌一首 近江の海 夕浪千 葉柴 国歌大観番号244 , 24 鳥. 汝が鳴けば. 心もしぬに. いにしへ思ほゆ. の例がある。 } 9 ) 又 釈 日 本 紀 は ツ ム エ日ばち ツ 更に考えて見ると, 日本書紀天武即位前紀の積殖 {傍 訓 ツ ミ ェ2 , 0 ) 今三重県伊賀国阿山郡柘殖町} の 「ツミ」 倭姫命世記の敢都美恵宮 (アベノ ミエとよんでいる3 。 3 1 ) の 「ツ ミ」 は 「ツ ミ」 の 先 に 何 も な い の で あ る か ら 「ツ」 が 「の」 の ツ ミ エ ノ ミ ヤ, 三 重 県 同 地) , ,. 意 味 で は 意 味 が 分 らな く な る。 こ れ は 恐 らく ー ば い に つ め る。 ゆ き つ め る。 追 い つ め る 巣 ま で つ 。. めてゆくの 「ツミ」 ではあるまいか。 柘殖町は伊賀国の東北部の高地を占めて居る。 2 ) それは倭名抄には葉を蚕の食べ 柘殖の柘の字は奈良朝時代の東大寺文書等 にまず見られる3 。 る木で 「アツミ」 と記されているが, 類従名義抄には 「ヒラク」 とも記してあるから, 拓の意味を 持つ事もあったのかもしれぬ。 柘殖が柘を拓と同様に考える事により, 開拓の意味を持つと考える と, 開拓は上に考えた様に 「ツミ」 の意味に相当するので, その意 味で拓殖の字が便 つれ た の だ と 考えられはすまいか。 なお 「ツミエ」 は 「ツミイエ」 の意味だと思う。 拓殖は現在 「ツゲ」 と読むが 「ゲ」は郡家; , 「グウケ」 の 「ケ」 と同じであろう。 辺地開拓の官司の居る所の意味ではあるまいか 。 その用法によれば, 夏見は 「ナ」 の新しい開拓された 端の方の土地の意 味になる 。 夏見の地には夏身廃寺あり, 郡の中心地の一つのようにも思える し, 又新撰姓氏録に名張臣, 坂上系図に夏身忌寸が出ているが, 一方は阿倍一族であり, 一方は後漢霊帝, 応神天皇の御代に帰 化した阿知使主の子孫である。 名張臣は阿倍一族である。 阿倍朝臣は孝元天皇の御子, 大彦命の後 である。 大彦命は四道将軍の一人で, 子孫繁栄し大族とな った。 新撰姓氏録考証は伊賀国阿拝郡, 同 郡敢国神社が夫々アベ, アヘクニと訓れているのを見ると, 阿倍氏はその名を伊賀の一地方に負う 3 3 ) 夏身の忌寸の方は 大和地方に同族倭文直一族が広まった3 ‘ ていると 為ている。 も 最初名張臣の , 住んで居る所に, 夏身の忌寸が入りこんできたのであろうか。 その際なにか大和の朝廷より権限の ようなものを持たされ,「ナ」の統率者と称したのであろうか。 それとも, 名張臣の方がより強力な ように思えるので, 夏身忌寸はあとからは入ってきて, 「ナ」 地方の新開拓地を開いたのであろう か。 後の方がよいようにも思う。 さて夏身を 「ナ」 + 「ツ」 + 「ミ」 又は 「ナ」 + 「ツミ」 と解すると, 夏身に隣り合う名張の 意味が問題 になる。、 名張と夏身の意味は本当は 何ら関係がなくてもかまわない。 夏身の 「ナ」 は他地方の名につら な る の だ と い え な い 事 も な い が, な お 考 え て 見 た い。. ナ パ ル カクル. 名張の名義に関しては, 古事記伝に論ぜられてゐる。 那姿流は隠の古言なり。 葛葉十六の舟葉 ナ マ リ テイルアシガニ 5 ) 長帯に, お してる難波の小江に慮作, 難麻理己居葦 蟹をとある。 と解れている3 。 しかし名は元来の固有名詞, 張は開拓の意味にとれないこと は無いかと思う。 もしとれオ滅ば夏 一 41 胴.
(8) . 栗. 原. 薫. 身とむす びつきがよいのである。(張には 「フル」 な ど共に村の意もある。 そうとってもよいのはよ ) い が。. 6 ) 難波 (上述) 一体, 九州の奴よりはじまり, 穴門3 , 和名抄大和国宇陀郡浪坂(ナムサカ自邸と , るのだとも思える 名張に及んでい づいてきた一連の地名が つ 。 又張を墾の意味とすれば, 大和よ , り東方につ づく開拓地のごくはじまりのものであろう。 こ残った氏族の中, 師木(シキ) 県主次に那波理(ナバ . 古事記に神武天 皇の御代以前を除くと,後ご 3 3 ヵ リ)以下の伊賀の 三稲置が記されて居る 。 これは或いは大和朝 廷がまず磯域(シキ)の地に興り め , そこより大和の中心部よ り反対の伊賀の方への びた事を意味するのかもしれない。 9なこ名張を隠と書いて居る事について 考えて見たい 此所に日本書紀の天武即位前紀, 菌葉集3 。 くり」 にたまたま隠の意味 があったから, その字を使って名張をあらわ したのであ まずそれは 「ナノ ろうと考えられる。 それは必ず しも名張の地名の源が隠れるという意味である事を要 しない。 「ナ」 + 墾 で あ っ て も よ い と 思 う。. しか しなおそれ以上に考えて見ると, 名張に隠郡と書くにあたいする性格があり, それで特に 隠と書 かれた面があるのでは あるまいか。 日本書紀, 雄略天皇六年春二月壬子朔乙卯, 天皇が迫瀬の小野に遊 びたまい, 山野の体勢を観 慨 然と して感を興 して, 歌をおうたいになった。 その歌は よ ろ しき山 わ し(走)り出の よろ しき山の こもりくの に う ら ぐは し. こもりくの初瀬の山は 初瀬の山は. いでたちの. あやにうらぐはし あや. 0 ) と い う の で あ る。 そ こ で 小 野 を 名 づ け て 道 の 小 野 と い っ た4 。. こ)というのは, 葛葉集巻一に, 隠口泊瀬山と書き, 釈日本紀に龍国也, 言奥 き 初瀬をこもりく{ 1 4 ) 逼也 , といい, 又鹿持雅澄の葛葉集枕詞解では, この詞は隠国と書けるが正字にて, 山ふところ 弘く かこみたる所なれば寵り国の長谷とはいへるなりと云説はさることにてある べ けれど, なお思 もうに, 木高く盛えたろを木盛と云べき……久は伊豆久(何所)の久 にて 処を 云 なり, と説 い て い 2 ) る4 。. 午母理久能は隠城之にて‘ 初瀬といはん枕詞なり, 許母理とは岩屋 又橘守部は稜威言別巻七で, 言 隠など云如く, 人の幽冥に隠りて, 見えずなる事, 城は墓を奥城と云城也。 液瀬は上古の葬所にて ウキ. 山城京の鳥部山の如くなりければ, 其の地の名も, 果瀬と云。 果は終る憲, 瀬は悪瀬など云瀬にて 午母理国志多備国とあるは下 限りのある意也。 故隠城之果瀬とは云つ づ けたろ也。 倭姫命世記に, 言 部国にて黄泉の地也。 続けの意, 全く此と同じかれば, 此も隠国の意と見てもあ しからじ, 禽葉十 ノ イシキ ニ モ コモラバトモニ ナオモヒソ コトジアラバ 六, 事之有者。 小泊瀬山乃。 石城岡母。 隠者共雨 莫思吾背 とよみたろ石城即墓の事也……これ らを合わ せて右の意を悟るべ し。 後世の心にはさる不祥の事を常に冠らせよむまじきにやと, 思う 3 )と論じた ようなれど, 既に地名になり, 枕言葉となりつるうへなれば, 忌としも無かり し也4 。 日本書紀標註巻十三の註に葛葉一に, 隠国乃泊瀬とあるぞ 正字にて, 立周りたろ山の中に龍り ) た ろ 国 と 云 意 な り と あ る” 。. サナノ“′クノミャツコノォャ. 半信友が倭姫命世記考で, 佐 奈 県 造 祖 萌之国とあるのは, イ 午母理国志多1 又倭姫命世紀に言 午母理国 (云々と答えて神田井神戸を 弥志呂宿弥命(が俵姫命より国名は何かとたずねられて)……言. ミシロノスクネノミコト. ・図 ノ 誤 テ,(大 神 宮) 儀 式 帳 ニ モ 国 ト ア レ ド, ソ レモ 誤 ニ テ, 下 ニ カ カ ル 枕 辞 ナ た て ま つ っ た, 国ノ. 1歌ニ, 言 午母理豆(能)志多用波間都々トアルト同ジ (歌はこも リ, 古事記高津宮(仁徳天皇)段ノ大御 りづ. した よ は へ つ つ. )… で あ る。 古 事 記 伝 巻 三 十 五 に こ も り づ は こ も り 水 の 意 だ と い っ て い る。. ・大神宮儀式帳ニ, 飯高下樋小川トアリ, 谷川士清云, 今(三重県)飯高郡 に 下樋小川ア ……下樋ノ 5 ) リ, 下見橋モ同所ニテ, 松坂ノ巽ノ方櫛田ノ西ノ方, 岸江村ノ東南ノ小川是也云々とといている4 。 さすれば倭姫命世記のは, こもりくの説明に役 立たなくなるが, 彼の考え方に一理あるが, 原の字 間 42 -.
(9) . 古代に於ける神社の研究. をありのままうけ入れることも出来る様に思う。 延喜式に駅使の大神宮の堺に入る者は, 飯高郡下 6 ) これは下樋小川が大神宮の堺だった事を示すものであ 樋小川に至り鈴声を止むと記されている4 。 って, 大和盆地南部より東国に行く出口 に当る初瀬や名張に似た位置にあると思う。 似た場所なの で, 枕言葉が共通になったのではあるまいか。 名張は名そのものが隠 れる意味を持っているので, 枕言葉は隠れるにゆ かりのある奥っ藻になったのであろう。 所が奥っ藻は別にな びく にも使われて いる。 又折口信夫氏は楽浪のという枕 言葉は, 志賀のみならず比良等近辺の多くの地名の枕言葉に 7 ) こもりくのが二つの言葉の枕 なっている事を指摘し, 楽浪もそれらと同じ地方名だと説かれた4 。 言葉に使われていてもかまわぬ。 摂津国風土記の逸文に, 同国下樋山は, 昔大 神があり天津鰐と云ったが, 鷲になってこの山に 下り止つた。 十人往けば, 五人は去り五人は留った。 久波乎という者あり。 この山に来り, 下樋を 伏せて神の許に届 らしめ, この樋の内より通ひて祷り祭った。 そこでその山を下樋山というのだと 伝えられている。 倭姫命世記の伊勢国の志多備国, 或いは下樋小川も同 じ様な意味あいがあると思 つ。. 倭姫命世記に阿佐 加の峯にいずはやぶる神がいて, 百往人は五十人取殺し, 四十人往く 時は二十 人取殺したので, 倭比売命は阿佐加山嶺に社を作って, 其の神をやわ ししづめて祭った。 その時う 8 ) 阿佐加は, 古事記に天孫降臨の道案内を れしと詔うたので其所を宇礼志となづけ給うたという4 。 した猿田毘古が其所にま しし時, 漁 して比良夫貝にその手をかまれて海水に溺れたもうたと記され 9 ) 阿佐加と岸江とはどどちらも飯高 一志郡境にあり 松阪をはさんで東西に二里程離れ ている4 , , 。 0 )にもあり 境界が持った意味を示している その様 て居る。 旅人を神が殺す伝説は播磨国風土記5 , 。 な境に, こもりくのという枕言葉が使われたのである。 更こその様な境界地域につき考える為, 雄略天皇の御歌を考察していきたい。 0 ) はっ せ の 山 に つ い て は, 釈 日 本 紀 に は 泊 瀬 山 也 と あ る5 。. ;也, 言絶妙之義 いでたちのについては, 釈日本紀には, 和歌四 雄略の所に伊麻泡智能, 今崎 5 2 5 1 ) 也とあり , 標注には山の形の葺立たるを云うとある ) 。 増補フ 国史注には山の姿勢をほ めたろ詞 2 ) 稜威言別では いでたちにと次に出るわ しりいでは出立, 走出で,(厚顔)抄以下の古注 とある5 , 。 等に, 山のたたずまひを云と云れど, 然らず。 此は, 這入の反対にて, 後選春上に妹が家の波比理 ヒノ波比里を云。 此方より出立ッ, 向ひを云なり。 「見わたす」 に立てる青柳に今や鳴らん鴬の声, 止 を「打わたす」 ,「家を出る」を「朝戸出」など云も, このよ しなり。 景行紀に, 亦進相模欲往上総望海 高言日。 是小海耳。 可立跳渡とある。 此立跳の立は, 出立の立と同じく, 跨ぎ波の跳は, 走出の走と 恵にも, 出て見給う地なりけれ{ 出 同じ。 されば此山は, 朝倉宮(雄略皇居)に真向ひて, 常に立馬 立とも, 走出とも詔ふなり。 ……(日本紀歌月曜云 「はしると, わ しろとは異なることなり。 は しる は, 水は しらせ, 椴たばしろ, 石ばしるなど, 皆早き意にて早走の義なり。 禽葉十二に, 垂水之水 能, 早敷八師とある。 此水の早きと云意につづけたり。 わ しり出は, 山の引はへたろを云, 出立と は, 山の立登たろを云言にて, 共に, 山の成立たる形を云言と知べ し」 と云る, いみぢきひが事な 4 ) と 述 べ て い る こ れ に つ い て の 見 解 は わ しり 出 の 所 で 述 べ る り5 。 。 。. ぢ 6 ) 稜威言別に ) 日本書紀通釈には宜山なり5 よろ しきやまについては, 釈日本紀には宜山也S 。 。 は依添ひて瞳しく親 しき山の意に詔ふ 、なり……此も朝倉大宮に宜ならびて, 向ひ立る意なる事をさ とるべ し。 さるを, 昔より此与慮斯を, 充満足意の語とのみ心得たるから, あまたの歌を解ひがめ 7 ) た り と あ る5 。. 8 ) 稜戯言別には 上述出 立 わしり出については, 釈日本紀に蓬出也。 言奇巌恢石崎也とある5 , 。 の所の如く書いてある。 守部は山彦冊子巻三でも出立, 走出にふれ, 其は家の入口遠からぬ間をは - 43 -.
(10) . 栗. 原. 薫. ひりといふも, 走入の義と聞ゆれば, 家より速からぬ間の見わた しを, 出立とも走出ともいひしな め 標註には引延べたろ り。 ……走とは見わたす。 打わたす, な ど云渡と同意なるを合せて知べ し5 。 0も 山 麓 の さ ま を い ひ て … … と あ る6. 出立, わ しり出の意には, 標註のようにも一応とれるが, 又守部のいうようにも一応とれる。 守部のは朝倉山のすぐ近くに泊瀬の山 があり, 近く見はらせるというのである。 しかし私は思うのに, これはそうではなくて, 朝倉宮より辺地に出る道すぢにあたり, 門出の 地である初瀬(長谷)の狭騰をこえると宇陀川の流域になり, 伊賀よりに流れて木津川に落ちる, 宇 陀より伊賀にこえる と東国への道がつ づく。 そこは交通の要地であり, 又その為の祭りの行なわれ る場所でもある。 こもりくとはこもって, 交通のさまたげになる神に対する祭りを行なう所の, 境 をなす場所をさ しているのでないかと思う。(台所の流 しをは しりというのもそこから水が勢よく流 ) れ出る所という意味である。 似た用法である。 なお, 菌葉集十三に隠来の 長谷の山 青幡の. 忍坂の山は. 走出の. 宜 しき山の. 出立の妙. という歌があるが, 武田祐吉氏寓葉集全註釈では忍坂の 山は迫瀬の山口をなす山だからよみこんだので, 雄略天皇の御製をもとにして作られた歌であると しき山ぞ. 惜しき山の. 荒れまく惜しも. されている。 或いは忍坂から宇陀に通ずる道もあるので, 長谷と同様にみられていた事もあるのか とも思うが, なお武田祐吉氏の説の如く解 して, 忍坂には特別の意味がないと考えるべきであろう。 先述イ 中哀紀に宇陀人伊賀彦が, 筑紫で大倉主, 菟夫羅媛を祭って船を進める事が出来る様にし たと記されているのは, 宇陀の人が交通の障害をとりのぞく宗教的な役割を果 した事になる。 それ は宇陀地方の人に元来交通に関する宗教的な立場があったのではないかと思う。 その宇陀郡より峠一つへだてて初瀬であり, 名張である。 似た性質が夫々の時期にあったかも しれ ぬ。. この様にとる時, 道の小野となづけられたという道という名が生きる様に思われる。 守部が道 とは, なくなられた渡瀬に葬られた雄略天皇の妃などの御墓に天皇がかよい給う遣すぢの小路と解 2 I )と云っている 通釈の方がよ ) 又通釈は人の往来ふ大道に有 三小野と云位の名なるべし6 して居りG , 。 いかと思うが, 更に私のように考える方がよいと思う。 そこで出立, 走出は東方へ元 気よく出かけていく意になり, 宜 しき山は, その門出にあたって 好もしく見える山ととれはすまいか。 自分が出るというより一般的に人が東方へと出かける, その とき見る好もしい山という意味にとれるように思う。 そ して走出は 「はせ」 という地名と関係がな ) いであろうか。(走ははせるともいうから。 折口信夫氏は, 諺と言うものは現在考えているのと非常に違うのです。(現在地方で) 諺をば覚 えてゐる人, 覚える事の出来る人と言うのは, 実は限られた人だけなのです。 そ して其の諺を覚え ていると言うと, 其の諺の持っている威力が, 其の人の体に宿るのです。 同時に其の言葉の威力, 言霊ですね。 ……其の言葉の威力と言うものは, 結局, 其の土地を自由にすることが出来る威力と 同じことです。 言霊と言うものと国魂というものを同一視 していますが, もとは違うで しよう。 … …天子様の御 身体には, 大和の国を自由になさる魂が, 這入っているのですが, 国々の古い領主に も, そういう国魂と言うものが這入って居るのです。 ……日本の本島のは, 言葉を通して魂が這入 って来る。 即ち言語は仲介者であると考えていたので して, 後には言語其のものも魂を保有してい ると考える様になって来たのです。 これを強く感ずると言霊信仰ですが, 兎も角, 魂の這入った言 葉と言うものがあるのです。 それを体のなかに入れておくと, 其の人は其の土地に対する力を生ず る の で す。 … … ま あ 覚 え て い る こ と な の で, 覚 え て い る と 魂 が 這 入 っ て い る 訳 な ん で す ね。 で 其 の. 国にある諺と言うものは, 出来る丈其の土地の威力を持っている人, つまり権力者が覚えてをった - 44 -.
(11) . 古代に於ける神社の研究 もの で す。. それと同時に, 歌がやはりそうなのです。 偶数句の歌と言うものは, 諺の影響を受けているの です。 …・ ・ ・古事記, 日本書紀或いは菌葉集の古い歌は偶数句に近くて, これは諺とそんなに離れて い な いと 言 う こ と に な り ま す。. ……本道は諺 というもののもとは, 兜詞がありまして, 其の中の一番急所が, 諺と して残って .常陸風土記で見ると, 諺は多く枕言葉です。 つまり其の地方で言い伝えている重要な言 いる。 …. , 3 ) ・…・と 論 じて 居 ら れ る6 葉 と 言 う こ と ら しい。 ・ 。. 考えて見るに, 総じて記紀の歌物語は, 歌が変形しにくいのに対し, 地の文は変る可能性が多 かったろう。 殊に時代が具体性を好む様になって, 多くの固有名詞が結びつけられたかもしれない。 その様な時. 歌が本文と不調和に本文にとり入れられ勝ちで, 歌だけきりはな して考えて見る必要 がある。 諺にはそれ以上に, そういう性格があろう。 上述折口信夫氏が説かれた様に, 諺がその土 地に関する所が大きいとすれば, それ丈その土地の性格をよく説明する要素があるのではないかと 思う。 道の小野の歌は偶数句であり, 迫瀬山がよみこまれ, 上述折口氏の諺に近い歌と思われる。 走 出とよんで 「はせ」 -長谷=初瀬を説明 しているのだと思う。 又同じくこもりくの迫瀬というのは 枕言葉の形の諺ではあるまいか。 なおよろ しきやまの 「よ」 は初瀬西方吉隠のよと関りがあるかも しれ な い。. そしてこの歌及び枕言葉は, 上述 した様に初瀬が畿外に出る境界に近い交通の要地であり, そ れに関する祭りが, 葬式などと共に行なわれた事を示している様に思われるo そ してこの歌が道の ・野と結びついたのは, 迫瀬の交通上の性格の為であろう。 {古事記の軽の太子の読歌 (古事記伝には歌わずによむ歌であろうと論じてあるが, 夜見国の ) 二歌に 「こもりくの油瀬の山」 がよまれている。 それは 「こもりくの はつせの 夜見かもしれぬ。 やまの おほをには はたはりだて さををには はたはりだて おほをに し ながさだめる (国 史大系傍訓, 武田祐吉氏古事記は 「なが」#汝が, 古事記伝, 倉野憲司古事記大成には 「なか」に中) お も ひ づま あ は れ. つくゆみの. る」 及 び 「こ も り く の. いくひには あ が もふ っ ま. こやせるこやり も. はつ せのかはの. かがみをかけ. まくひには. あり と いわ ばこそよ. あ づさゆみ. かみっせ に. またまをかけ. いへ にもゆかめ. たてりたてりも. の ちもとり み. しもつ せ に. まく ひをう ち. いくひをう ち. またまなす. あがもふいも. かがみなす. く に を も しぬ ば め」 と い う の で あ る。 そ れ. り, その途中で死なれた。 その時の歌だという は軽太子が同母妹に通じた為伊予に流される事にな、 のである。 それは死ぬ前の歌であると共に, 大和から辺境にゆく境界での, それをよみこんだ歌で もあ る。 そ の 歌 は, 古 事 記 伝 に よ れ ば 前 の 歌 は 二 つ の 歌 が - しよ に な っ て い る の で あ る。 した が っ. て歌が三つあるのであるが. 第一の歌は古事記伝には意味が通じないといっている。 幡は葬式の旗 ともとれるが, 普通の境の神をまつる旗ともとれる。 第二句は古事記伝には使わずに伏せ, 又立て てある弓を後手に取る様に, 後今又再見給う意だと しているが, 軽太子とは元来関係がなかった歌 とすれば, 辺境への旅行とむすびつけても考えられる。 第三の歌も祭りをよんでいるのだが, それ が葬式だとは必ず しもいえない。 辺境に旅立つ人の歌ととれぬこともない。 古事記伝は軽太子の歌 と してその境遇にあう様に解釈しており, 葬式とはむすびつけていない。 ただ元来軽太子とは無関 係の歌が後でその物語にくみ入れられたの だとすると葬式の歌と考えられぬ事もない。 ただ旅人が 機内と, 機外の境で, 境の神が祭られているのを見ながら妻の事を考えているという意味にもとれ そうだとすると 「こもりくの初瀬」 の性格によく合う。 又倉野憲司氏の様に死んだ妻を しのぶ歌と すると, 又それも初瀬の 生格に合うのである。 辺境との堺は神にかよう下びの国であると上に述べ - 45 -.
(12) . 栗. 原. 薫. たが, 古事記の神話で は, それは黄泉比良坂になっている。 そこは千引の岩に引きさえぎられて相 互に往き交う事 が出来無くなったが, それでも元来 夜見国への道なのである。 そこまでは黄泉の国 にいった伊耶那美 神も, 根の堅州国に居る須佐の 男の命も出てくるのである。 その様な境は現実の 迫瀬などの境界になぞらえて考えられたのであろう。 此は迎瀬の事 だが,「こもりくに」と言われた迫瀬と名張が似た性格を持っていたろうという事 は, 名張が大 化の改新後, 畿内の境界に定 められた事を考え合わせると, その様に言えると思う。 唯その時期にずれがあった かもしれぬ。 日本上古氏研究三巻二号 「帝紀の成立過程について」 で庄司浩氏は, 原固の帝紀では, 神武一 崇神 は(一代)磐余彦,(三代) 磯城津彦,(五代) 観松彦(?)等三代位で, 単に系譜のみを記す程度で あるとしているが, それによると, 開化以前の 皇統はうたがうべきであるが, 第三代安寧天皇の御 代等は 必ず しもうたがえず一応あったと して取扱ってよい かと思う。(誌37を見よ) さて, 那姿理の稲置 が古事記に出ているのは, 第三代安寧天皇磯城津彦の御代であり, 雄略天 皇の御歌などより前であると考えられるので (歌そのものは, 雄略天皇にむす びつけられて居ても より以前にでき, 初瀬の地にむすびついて, 社会的に意味を持っていた歌であろう。 恐らく雄略天 皇以後に再編成, 再確認されたのであろう。 記紀に雄略天皇までを一応整理した跡があり, それが ) 資料となっていると考えられる事, 又初瀬に雄 略天皇の宮があった事が考えあわされる。 ,したがっ て境界としての性格を初瀬がもって居た。 したがってそれより外に位 する 名張は, 名墾即ち 「名」 の開拓地 という意だったのではあるまいか。 さて, 神宮雑例集巻第二の神宮四至の事に, 遠界と近界があげられている。 即ち二重の境界線 が作られている。 これは鎌倉時代の事であるので, 神宮の事であるから旧俗が残って居るかもしれ ないとも思えるが, 或いは推して古代の事とは出きないかも しれない。 さりながら或いは初瀬・名 張の地帯に二重に境が作られて居り, 最初のが初瀬で, 後のが名張だったという場合も考えられは する。 それに しても他の 神が交通をさまたげた説話では 境は一重で, 二重ではなく, その様に二重 になったとして もごく初期にはそんなに複雑ではなかったろう。 なばりの稲置の頃は, 初瀬が境と して の 意 義 を 持 っ て い た ろ う60 。. 又初瀬の近くに吉隠があるが, これは持続紀九年十月 十一日, 天皇が菟田の吉隠に行幸された 5 ) と 記 さ れ て い る6 。. 又蓮葉集に も出て, 夏身から朝 芝, 猪養岡の地名に懸けて使はれている。 名張 から宇陀郡をへ 6 ) て城上郡に及んでいる。 又和名抄では郷名になっている6 。 この地名は名 張に 「ヨ」 がついているのであるが, 今吉隠の西に与害浦の地名があり, それと 結 びついた名であろう。 前述雄 略天皇の御歌の 「よろ しき山」 の 「ヨ」 が吉隠の「ヨ」 とかかはっているのかもしれぬ。 ・セ」 = 初 瀬 に か か っ て い る と 思 わ れ る 様 に で あ る。 「走 出 の」 の 「ノ・シリ」 が 「ノ. 薗葉柴の吉なばりが名張郡より城上郡までつづいているのは, 前述折口説によれば, 吉隠の近 くの何々, 夏身という意味かもしれぬ。 又もと一郷の名でなく更に広い土地だったのかもしれない。 持統紀に蒐田のとあるのはその為 かもしれない。 或いは郡の堺 が移ったのかもしれぬが。 もし, 折口説による解釈をとれば, 吉隠は名張と 「ヨ」 をつける事により区別されているので 元来吉隠は雄細各天皇の御歌とむすびついて宗教性があり, 名張は(前述の如く古く よりあったので) 名墾即ち開拓地だったのが, 次第に堺の宗教的性格が東に 移って行ったので, 隠の実を持ってきた の で は あ る ま い か。. - 46 -.
(13) . 古代に於ける神社の研究. 又広い土地の名だとすると, それは堺の宗教的性格と共に広くなったのかもしれない。 更にい えば, 元来隠の性格を名張の地が持っていたとしても, なお名墾といういみで地名がつけられたと いう場合も考え られるのである。 ここに名張が 「ナ」 +墾とも考えられるとすると, 夏身が 「ナ」 + 「ツミ」 又は 「ツ」 +「ミ」 と思 つれる事と相まち,名居神社の名は,名張・夏身郷の神社,即ち 「ナ」 の居であろうといえよう。 居は恐らく井戸であろう 大日本史神祇志には名張郡名居神社, 居は一に井に作ると記されている。 神社名で井の名を持つものはかなり例がある。 すると, 名居のよみ方は 「ナヰ」 となるのであろう。 註 1 ) 12頁。 2 2頁。 ) 新訂増補国史大系, 日本書紀, 前篇 6頁~1 「耶馬台国所収, 魂志倭人伝雑者」 に坂本太郎氏が卑弥乎をヒメコとよむべきか, ヒミコとよむべきかという 問題について論じ, 弥の古音がメ でありわが古文献に姫をいみするヒメの場合にかぎってメ音を弥で表わして 居り, 叉日の御子という言葉があるが,「の」を略して日御子と称した例はしらない。 叉姫尊という言葉は存在 した が, そ れ を 略 した 形 と して の, ヒミ コ と い う言 葉は 古 文献 に はな い と い っ て, ヒメ コ と 読 むべ き だ と 主 張 して 居 ら れる。. 3 ) 新訂増補, 国史大系, 前篇 231頁。 4 ) 〃 5 ) ″ 6 ) 〃. ,. 221 頁。 185 頁。 177 頁。. 7 56頁。 ) 第四巻, 35 常陸国風土記に常陸国の国名の起原が説明してあり, それは近く通う義を取りて名称としたのだとあり, 叉 或者の説明として, 楼武天皇が巡狩して新治の県においでになった時, 井を掘った所良い泉を得たので, 天皇 は水をもてあそび手を洗ひ給うた所, 御衣のそでが泉に垂れてぬれたので, 袖を流泉にひたすが国名になった ので, 風俗の諺に日く, 筑波の岳に黒雲擦り, 衣袖漬の国と云うのだとあるが, 最初の説明は直道一ヒタミチ がヒタチになった事になる。 それは風土記の編者等が合理的に考えた結果とも思われるが, 或いはヒタミチか ら出ているという位の伝承があった為かもしれないとも思う。 更に思うに, 後のは, 風俗の諺と地の伝承がう まく合わない。 風俗の諺の. 伝承力が殊更強かったろぅという事を考えると, 風俗の諺がもとの伝承をつたえ, 地の伝承はあとから作りかえたもの或いは一度諺が孤立し, 別の伝承についたものと思える。 漬 は無 理 に 「ヒタ チ」 と よ む 必 要 はなく,「ヒタ シ」 でも よ い の で はな い かと 思う。 元 来 ヒタ シと い った の か. もしれない。 常陸風土記中にこの地方を元は日高見国といったと記きれている位であるから, 強いて解すれば 辺地の意味の 「ヒタ」 に越洲 (コシノシマ) , 淡洲(アハノシマ)などと同義の 「シマ」 の約まった 「シ」 が付い たのではあるまいか。 吉田東伍氏は, 史学雑誌第八篇, 地名沿革例で, 富士山をふじ, ふし, ふちとよんだ如 く, ひた ち 煽 ひ た しであ り,「チ」 と 「シ」 が 通ず る 事 を 指摘 さ れ て い る が, な お ヒタ シ瑠 ヒタ チと して 解 す る. より, ヒタシという本来のよみ方にしたがって解する方がより自然ではないかと思う。(上述越洲などの「シマ」 は島興の意ではなく, 大陸の中の一区劃の意味であるのは明らかであるが,ヒタシのシマも同様にとればよい。 叉 本 文3 頁 に 「シ」 が 「シ マ」 であ る 事 に つい て ふ れた が, 或 い は 「ヒタ シマ」 と い った 事 があ る か も しれ な い。 ) さ て, ヒタ シ を 「ヒタ シマ」 と 考 える と, そ れ は 多 芸 志 {出雲を含むかなり広い地域をさ すのだと思う。 古事記に神武天皇の皇子に百済の王をさすと思われる岐須美々命とならんで多芸志美々命が書かれ, 母は南九 州の郡名を負吾 、阿比良比売である。 かつ大国主命がかくれ給うたのが, 多芸志の小浜である。(史流ニ号拙稿国 }高志・筑紫などと対になるであろう。(高志の 「シ」 も島の意で, 越洲というのは元の意味 名の起原について) を忘れて更に洲を付け加えたのであろう。 筑紫については, 釈日本紀に, 四つの義を説明してあるが, その中 一は地の形が 「づく」 という鳥の形ににているからで, 他は尽るという意味である。 それは尽くの他動詞の連 用形を地名にしたと考えるのであるが, 自動詞尽くに 「シマ」 が加わり, 約って 「ツクシ」 になったか, 叉は 「ツクシシマ」 が約つて 「ツクシ」 になったのであろう。 叉尽くの意味は釈日本紀説明の古事来歴とは関係な く, 恐らく菌葉防人歌にある如く, 国土のはての島, 馬のひづめのつきる島の意味であろう。 なお, 私記所引 筑後国風土記にのせられた土人が 「クラックシ」 の坂といったという事は, 多少興味がある様に思う。 第ニ章. 一 47 -.
(14) . 栗. 原. 薫. ) の 「クラ」 にふれる時でなお此れを説明する。 叉風俗の諺で筑波岳が這入っているのは, 筑波 (その意味は本文並びに上述国名の起原についてに説いてい る。 ) 即ち筑紫の対になる所の国土の つきた所にある庭, 即ち植民地という意味の地名と総 ぴつい て いる のだ と 思 う。 筑 波岳 に 黒 雲 が か か って や が て ず ぶ ぬ れ にな る と い う の だ か ら, 順 当な む す び つ き を 意味 す る の では. ないかもしれない。 筑波は日本武命のかかなべての歌に新治, 筑波をすぎてとあるのは恐らく新治, 筑波が別 々の地名となる以前のもので, 新治即ち新墾が筑波だったのだと思う。 或いは日本武命の遠征物語では, 尾張 (尾張は妃ミャズ媛が居, 小墾, 或いは母妃の出身地播磨=墾マと対になって新治が出ているのかもしれぬ。{ } 草薙剣が祭られた所で特に日本武命の物語と関係が深い。(前出拙稿参照) さて常陸国風土記の国名起原の説明ではいずれも 「ヒタ」 という語が出て居り, 必ずしも日高とか日高見と かが出ていない。 これは日高見路, 日高路という意味であるが, それらの言葉と同義の 「ヒタ」 に 「ミチ」 が く っ つ い た 事 を幾 分は 示 す の であ ろ う。. 8 ) 校訂古事記伝, 乾 305頁。 3頁。 1頁~35 9 ) 吉川弘女館, 本居宣長会集古事記伝一巻 35 96頁。 10 ) 国史大系, 古事記 〃 11 } 〃. 12 } 1 3 ) 14 ) 1 5 ) 1 6 ) 1 7 ) 18 ). 日 本 書 紀, 前 鴬 248 頁。 〃. 245頁。. 31 4頁, 6 4頁。 延喜式 前総 〃 国史大系, 古事記 15頁, 96頁。 史学雑誌, 第ニ篇, 第十五号 73頁~97頁。 国史大系, 延喜式, 前篇 62頁, 297頁。 史流二号, 拙稿, 国名の起原について 8頁。 国史大系, 日本書紀前篇 17 朝日新聞社, 増補六国史, 日本書紀, 上巻 127頁。 国 史大系では出嶋人にイ ヅシマと傍訓をつけ何らことわっていない。 増補六国史は, イ ヅシと傍訓をつけて い る。 い づ れ に せ よィ ヅ シマ 副イ ヅシ と い える 事 は 同 じ で あ る。. 385頁。 19 ) 新撰姓氏鎌考証, 下 1 20 ) 増補六国史, 日本書紀, 下巻 272頁。 21 ) 史学雑誌, 二二巻, 一号, ニ号。 倭姉共に日本神国なるを論ず 久米邦武。 神話と文化境域 三品彰英。 22 46頁。 ) 国史大系, 釈日本紀 1 23 ) 新井白石全集, 第三巻, 古史通或閲, 下 386頁。 本居宣長会集四巻, 駁戎概言, 上之巻 775頁。 、奴国ヨリ東行百里トア レバ, 糟屋郡ノアタリニテ港湾アル処ト なお菅政友は魂志倭人伝の注釈に, 不弥国ノ 思ハルレド, 今ソレニ当ツベキ地名ハ, 本居翁ノ……トイ ハレタ レド不弥ヲ宇美二当タルモ隠ナラズ, 和名抄 7頁) 二, 穂波郡, 穂波 布奈美 トアルハ是モ不弥ニ似ヨリニ間ュ といっている。(菅政友全集28 24 ) 史学雑誌, 61篇, 9号 47頁。 牧 健ニ 塊志の・ 倭の女王国の政治地理。 日本上古史研究, 2巻4 号, 筑前国風土記逸文一条報告。 史学雑誌, 第2篇 15号。 増補六国史, 日本書紀, 下巻 22頁。 日本上古史研究, 第3巻, 10号, 糟屋郡と春米・阿墨両氏。 25 ) 三国史繁解 十一。 26 ) 国史大系, 日本書紀前篇 234頁 ~235頁。 27 ) 地名の研究, 柳田国男 35頁。 「壱岐の鳥に渡ると右の名, 龍, 免に当る区劃を瓢の字を書いてフレと云ぶ 、 。 ……種子島, 屋久島では之に該 当する区劃をバリ(晴)と云い, 前晴, 西晴な どと云う。 ……少なくともフレ, バリ, ブルは共通の語原を持つ とは 云 い 得 る であ らう と 思う。 J. rフ ラ」 も 同様 村 を意味 す る の であ る う と 思う 。. 28 ) 群書類従, 第1幅, 22頁, 皇大神宮儀式帳。 ) 2 ≦ ) 増補六国史, 日本書紀, 下巻 251頁。 30 ) 国史大系, 球日本紀, 秘訓 275頁。 - 48 -.
(15) . 古代に於ける神社の研究 積殖はツムエになって居るが, 日本書紀の傍訓な ど, 単純にミがムになって居る場合が多 ・。 た だ 「ツ ミ」 が追いつめる意であると考え, ツミ(連用形)=ツム(終止, 連体形) と使っているのな ら面白い 。 31 ) 伴信友会集, 第5巻, 倭姫命世記者 36頁。 32 49頁~65 ) 寧楽遺文, 下 6 1頁。 内閣文庫所蔵文書及び東南院文書, 伊賀国柘殖郷田巻等。 天平ニ十年の柘順里一カ所, 外に柘殖郷四ヵ所。 大安寺伽藍縁起ヲ F流記資財帳, 伊賀国弐拾町同拝郡柘殖原, 伊賀園阿開郡柘殖庄一処。 33 2頁, 13 ) 新撰姓氏鎌考証上巻 16 4頁~1 46頁。 同書下巻 1185頁~1193頁。 34 } 校定古事記伝, 坤, 三十三巻 1726頁。 35 ) 本居宣長全集, 第二, 古事記伝 125 2頁。 36 ) 史学雑誌, 第九篇, 第一号 63頁~65頁, 吉田東伍, 地名沿革例 。 37 ) 新訂増補, 国史大系, 古事記 84頁。 開化天皇以前の皇統を無視する説は, その名が後世の様式に則り, 叉は更に具体的に似ている事を主張する のであるが, 庄司浩氏は, 日本上古史研究三巻ニ号, 帝紀の成立過程についてで, 神武,(三代} 安寧 (五代) , 孝昭天皇は, 皇居と思われる地名が郷名に含まれているので, もとの帝紀にあったのかもしれないとし 残り , は な か っ た と き れ た。. ニ代天皇神沼河耳の命は, 三代以下の天皇の御名に比べ特色がある。 神沼河耳の命は, 神武天皇五皇子中 , 庶兄多芸志美々命 (多芸志については前述, 出雲を中心とする地方を支配 したのであろう) 岐須美々命 (朝鮮 。, を支配したのであろう。 岐須は百済近肖古王で近仇首, 貴須, 貴首とも書かれた)に対し 東海道などを支配 。 , したという意味であろう。 沼河は, 信濃, 毛野, 美野の 「ぬ」 に 「の罰之」 の意味の 「な」 に 側の意味の 「か , は」 が つ い た 名 であ ろ う。 例 え ば三 河 霜 み かは は 美濃 の 側 が っ づ ま っ た も のと 考 える如く 考 え て 見 る と そ う な. る。 或いは北陸の事を言う時が あ っ た かもし れ ない。 後八代孝元天皇の御孫 建沼河別命は 東海道を平定 , , し, その子孫は阿部臣となった。 神沼河耳の命は, 安寧天皇一人しか皇子がなく, 叉多芸志美々等ニ人は皇子 が全くなかった。 神沼河耳の命は皇統を残したが, それ以外には子孫だといぅ者がなく 他のニ人は子孫だと , いう者が居なかったのである。 他残余のニ皇子は, 東海道九州中心に多くの氏族の先祖となって居る そ して 。 その名は別に地名とは関係なさそうなのである。 そして神沼河耳命は師木県主の祖である河僕昆売を妃にして居, 次の師木津日子玉手見命は, 河僕昆売の姪 と結婚して居たもう。 第四代天皇が叉師木県主の祖である人を妃とし給うたが, 第ニ代 第三代天皇の妃との , 関聯はわからない。 師木県主祖がニ度出ていて, どちらも女であるのは, 同じ伝承の異説がだぶってあらわれ ている様でもある。 そして皇子に多芸志比古があるのは, 神武天皇皇子の多芸志美々命と相対している 。 これは第三代天皇までが, 一まとめになって居り (神武天皇皇子の中, 上述三皇子のみ含み 他のニ皇子は , 含まぬ) , それは師木県主でまとめられているのではあるまいか。 師木津日子玉手見命が実在性強しとなれば, それにつらなる, 第ニ代天皇も実在性強しとできるかもしれな い。 その師木県主にかかる系譜のはじめに, 師木県主, 次に伊賀の三稲置がくるのである 。 なほ師木津日子の御子の一柱は三 稲置の祖であるが, 他の一柱は, 和知津美の命である 「わち」 は 「ち」 が 。 「し」 に 通 ぅ と 考 える と 「わ し」 か も し れな い す る と 「わ し つ み」 に な る 何々 つみ は 何 々 の 支 配 者の 意味 。 。 である か ら, わ し っ み は rわし」 の支配者で rわし」は第二章で説明するが如く 境の事であろう その御子 ,. ,. ,. が淡 路 の 御 井 の 宮 に ま しま し た の で ある。. 。. rわしつみ」 は叉 「わしすみ」 になり, 後述讃岐国造及び阿波脚メ ド別の祖の鷲住王と同じ名になる。 すなは ち阿波, 讃岐, 叉阿波の忌部な どとゆかりのある人である・ うか。 此れを含むと, この師木の県主を中心とする三代の系譜には, 東国 (或いは北陸を含む) 出雲を中心とする , 地方, 朝鮮, 東四国を支配したかと思われる人々が含まれている事になる。 それらは皆子孫がなく て (皇室の 正系たる東国を除く) 後にそれと同名の別人が出て諸氏族の祖となって居り, 子孫を残してこの系譜とつなが って居るのはまず師木県主, ついで伊賀の三稲置のみである。 神武天皇皇子で, 神八井耳命 日子八井命は子 , 孫を残して居るが, 名に特色があり, 同じe 市木の系譜でも第四代講徳天皇の所に出ている別の系譜に関るので はな い か と 思 う。. 38 ) 歴史地理, 44巻1号, 大和朝廷の発生についての疑問, 丸山ニ郎。 39 ) 日本書紀, 下巻, 25 0頁, 菌葉集巻第一43隠乃山, 巻第四51 1隠乃山, 巻第八15 3 6隠野。 43~511 は同じ類で持統天皇六年伊勢行幸の時と思われる類である 隠の山は名張東方 国境の山であろう 。 , 。 40 ) 日本書紀, 前篇 36 9頁~369頁。. - 49 -.
(16) . 栗 41 ) 42 ) 43 ) 44 ) 45 ). 原. 薫. 0頁。 釈日本紀, 和歌四 33 34頁。 菌葉集古義, 枕詞解 1 橘守部全集, 第三, 稜威言別第七 317頁。 7頁。 日本書紀標註, 巻十ニ 31 4 9頁 巻 伴信友全集, 第五 。. 46 ) 延喜式前篇 93頁。 9頁。 47 ) 折口信夫全集, 第十九巻, 国語学 384頁~38 4 5頁 48 ) 伴信友全集, 第五巻 。 49 ) 古事記 44頁。 96頁, 佐比国。 50 ) 風土記, 岩波文庫,1 3 2 風土記, 岩波文庫, 8頁~329頁, 筑紫国く ら尽しの坂。 5 1 ) 釈日本紀 330頁。 5 2 ) 5 3 ) 5 4 ) 55 ) 5 6 ) 5 7 ) 8 5 ) 5 9 ) 60 ) 61 ) 62 ) 63 ) 64 ) 65 ) 66 ). 日本書紀標註, 第十三巻 十九丁 増補六国史, 日本書紀, 上巻 268頁。 6頁。 35頁~33 橋守部全集, 第三, 稜威言別 3 30頁。 釈日本紀 3 7頁。 日本書紀通釈, 第四巻 234 橋守部全集, 第三 335頁。 ( )頁。 釈日本紀 33 07頁。 06頁~1 橘守部全集, 第八, 山彦冊子 1 日本書紀標註, 巻十三 十九丁。 37頁。 橘守部全集第三 3 日本書紀通釈, 第四 2346頁。 折口信夫全集, 第十九巻, 国語 と民俗学 160頁~164頁。 75頁。 74頁~1 辞書類従, 第一輯 1 42頁。 増補六国史, 日本書紀下巻 3 菌葉葉巻第ニ, 但馬皇女薬後, 穂積皇子, 冬日零落遥望御墓悲傷流梯御作歌一首。 203 ) 但馬皇女は天武皇女和銅元年六月蒙。 ふる雪は あはになふりそ 吉隠の 猪義の岡の せきならなくに( 吉か 歌ニ首 古( )名張の 猪麦の山に 伏す鹿の ドコロ )作 トミノタ 巻 第八, 大伴坂上女郎跡見田庄( , つまよぶ こえを. 1561 ) きく が と も しき { 。. 2190 ) 巻第十, 詠黄葉 吾門の 浅茅色づく 吉魚張の 浪柴乃野の もみぢちるらし( 。 0 2 2 7 夏身は浪業にも作る ) ( ) { しぐれふるかも 夏身の上に 。 吾やどの 浅茅色づく 吉魚張の 2 3 3 9 われかも ( ) るしくも こひむ いちぢ 白雪の ほi 。 詠雪 吉魚張の 野木にふりお 、 浪柴は, 今榛原の東に朝芝, 長芝あり。 長芝の事ではあるまいか。 浪も長も 「な」 とよめる。 夏身は今の名 張近くの夏身であろう。 長芝は吉隠と名張の中間にある。 宇陀郡にある。. 2 . 三重県伊賀国葦神社につ いて 」 で, 同神社につき述べ, 上阿波村の中 志賀剛氏は,「古代村落 上より見たろ式内社の研究(九) 央服部川の北 岸山麓にある。 川の堤防に今も多くの葦が見られるから, 往古は一面の葦原であった 1 ) のであろう。 …… 祭神は大国主命と事代主命である。 と書いて居られる 。 葦が同神社の 社名の由来では 必ず しも無いと 思われるので, その事につき 考えて見た。 2 ) 「アシ」 の地名に関 しては, 古事記の倭 武命の所に 「足柄之坂本」 がある 。 3 足柄坂は束 に延喜式足上Lアシノカ ミ)郡, 足下(アシノシモ)郡がある 1 又芦(アシ)ノ湖があり, 西に愛鷹(アシタカ)山がある。 これ等の地方を, したがって或い は今の足柄上, 同下郡より広く 「アシ」 地方があった事が考 ) え ら れ る4 。. 日本書紀 巻第七景行天 皇五十六年に蝦夷が騒動したので, 兵をあげて撃った。 所が蝦夷の首帥 0- -5.
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