『大日本体育同志会』に関する研究
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(2) . 0巻 第1号 北海道教育大学紀要 (第2部C) 第4. 平成元年1 0月. l ion . I C) Vo ion (sect i i do Un iver ty ofEducat lof Hokka s Journa ,1 ,40 , No. october ,1989. 『大日本体育同志会』 に関する研究. 大. 美 .栄 子. 塚. 北海道教育大学旭川分校保健体育学教室. A Study on the Dainihon Taiiku Doshikai (The Great Japan Association for PhysicaI Education Teachers) ∼五eko OTSUKA i i i ty ofEducat l i do Un ikawa Col on ion Laborat s Phys i IEducat ver ege ory ca , , Hokka ,Asah Asah ikawa070 .. Summary iaki NAGAI ) was a national group of t iku Doshikai(The Chai Dainihon Tai rman ; Mi i ionofphys ibutedtoinnovat i caleducationand ionteacherswh i leducat r chhadbeencont ca phys l f l 9 2 6 ion o fphys i lcuture rom l921to zat ca populari . i i ionofphys ional im ofpromotion andnat 帆J i calculture,this group heldsome zat ththea i th regard to various kinds i lubs kindsofs c performances wi tudy c ng courses and publ rain ,t iku] i lexercises, games and competitions, and also publ shed an organs [Nihon Tai i ca phys d h i l i h l ivi iesofthegrouphad a mpactont e wor p ys ca i bers t about3000copiessubscr , Theact ion and sports att he dateofl920s osedfor5 years. educat ,andcl. 序 『大日本体育同志会』 (会長・永井道明) は, 1921 (大正10 ) 年12月まで ) 年から1 926(大正15 『 の短期間存在 し, 機関誌 日本体育』 を発行し, 講習会, 競技会を開催する等の活動 を行っ た, 体 育・スポーツの研究・実践団体であった, 19 20年代, 大正期から昭和にかけての 時期は, よく知られるように大正 デモクラシーと総称され る時期のうちにあり, 自由主義的教育思想の影響 が体育にも及んでおり, そして体育・ス ポーツが 学校を中心と しながらも, 全国的にまた国際的に拡がりを見せた時期であった. 9) (2.
(3) . 2. 大 塚 美栄子. 1 913(大正2) 年に制定された 『学校体操教授要目』 に添っ て, 学校における教科体操科は体操 , 教練, 遊戯 (含競技) を柱として展開されており, 1 ) 年には, 明治天皇の遺徳を称える 924(大13 という限定的目的によるものではあったが, 全 国的な総合スポーツ大会 明治神宮競技 (体育) 大 , 会が, 全国から学生のみならず青年男女を集めて開催され オリ ンピック大会にも191 2年より継続 , して参加し,20年代からは政府が財政的な援助を行ったことに示されるように スポーツを国民の , } 中に浸透させる政策がとられた年代であっ た.1 本論文は, そのような19 20年代前半の約5年という短期間の存在ではあっ たが, 我が国の体育・ スポーツのあり方に対し, 機関誌 『日本体育』 を通じて発言し, 講習会 協議会などにおいて新し , い体操の方法を提示する等, 問題提起を続けた 『大日本体育同志会』 とりわけ会長・永井道明2 )や , 3 ) 副会長・三橋喜久 雄, そして様々 な難題を抱えつつ機関誌の編集を続けた畠山源三 (花城) 4 }らの業 績を辿りつつ, 日本体育史上における, その存在意義, 問題点などを検討することを目的としてい る.. 5 )である 永井道明2 }や三橋喜久 雄3 資料の中心は,機関誌『日本体育』 )そして畠山源三4 )らの諸著作 , , 業績等を含めた全面的 な分析については, 今後の研究課題として残されており 更に 大日本体育 , , 同志会にあっ て活動した人々 の 全体的追究 については, 文献的探究 に留まらず多様な方法による研 究が必要であ り, むしろ今後 に残された課題の方が大き いのであるが ここでは 『日本体育』を主 , , 資料とした限定的な考察を試みる, )及 び『 大日本体育同志会 に関しては, 拙論 『北海道体育同志会に関する研究』6 19 20年代北海道に 7 )においてもいささか触れたが 会の存続 期 おける体育について−水間 一人の体育理論を中心に−』 , 間が大正期の後半 5年という短さであっ たこと, この時期, 体育史的には 1917年 臨時教育会議 , , 『兵式体操の振興に関する建議 に続く 1925年 陸軍将校配属令 教練教授要 による特別の決議. 』 , , , 目の発布, 1926年, 『学校体育教授要目』の改正など, 体育科の基本にかかわる大きな事柄が相次い だこと, 1924年, 国立体育研究所が創設され, 体育が科学的研究の対象となっ ていくこと 又 ス , , ポーツ活動がさかんになり, 極東オリ ンピック大会参加 各種目別スポー ツの全国組織結成 日本 , , 体育協会の組織改革運動, 脱退問題な どが起こる等, 多事多端の状況下にあって この会の存在 , , 問題提起は どのよう に評価されたのであろうか, 判然とせず疑 問が残っ た つまり北海道 における . . 水間一人らの体育活動及びその理論を考察した際, 彼らの理論と実践の依り所となっ ているものは 何なのか, その影響を与えた『大日本体育同志会』 , 永井道明そして三橋喜久雄らの活動は, いかな る体育史的位置 にあり, 体育史的意義を持つのかという問題意識を持っ たことが この小論を書く , 動機となっ た. 『大日本体育 同志会』 については 『近代日本体育史 8 』)に, この書の出版時期である昭和3年頃の , 資料による記述があり, 諸処の体育通史にお いて論じられているが 単独の論文等を見ること はで , き な か っ た.. 会長永井道明は, 191 3年, 初の教授要目制定時の委員として高名 であり, 明治期末, 日本政府の 命によっ て西欧諸国を視察し( 1905 09 , 11∼19 , 1) , 新しい体育の方向づ けにかんして指導力を発 『 揮 した。 彼は, 明治期末の 軍教問題』 に関する陸軍側との交渉において活躍し 体操教授要目の , 制定や実施に関して, 強い発言力を持ち, 大正前半期の体育教育界をリ」 ドした .. 副会長・三橋喜久雄は, 鳥取師範学校教諭であったが, 永井が教授要目体操の師範者として東京. 高等師範へ招き, 後, 同校を去り, 生命体操, 新体育の研究に従事したこ とはよく知られて いる .. 機関誌 『日本体育』 の編集者畠山源三は, 東京高等師範を体操, 修身, 教育の免状を得て卒業し. ながら, のち東京帝国大学図書館司書となっ た変り種 であっ た 1922年創刊された 『日本体育』 の . 0) (3.
(4) . 『大 日 本 体 育同 志 会』 に 関する 研究. 3. 編集にあたり, 文筆に長ずるその才能を生かし, 体育界の外にあって 『体育思想開発のために努力 ) した』.6. 『 1920年代には体育ス ポーツ関係の雑誌として,『体育と競技』(大日本体育学会) , 体育研究』(体 『 『 『 『 育研究協会) , 大日 , 教育関係誌には 教育時論』 , 学校体育』 (日本体育学会) そして 運動界』 本教育会雑誌』 等があり, 永井らは 『日本体育』 のみならず, それら他誌にも執筆しており, 著作 もある, それら全体を収集し, 会及び構成員全体の理論や実践を含 めて総合的に分析することが必 )しかし現時点では論者の手に余る課題であるので, 本論においては機関誌『日本体育』 要であろう.9 を主資料として, この会の活動, その特徴と役割についての考察を試みたい,. 大日本体育同志会の組織について 1) 会の結成と解散 ) 年11月発足し, 1 922年1月より機関誌 『日本体育』 を刊 21(大正10 大日本体育同志会は, 19 行した. 設立趣意書には,『世界を挙 げて戦後の経営画策に相競ふの実状……民族発展の重要案件た 1 0 )と永井道明の二度目の外遊による状況認識に基づき,疲弊 る体育的施設をどう したらよかろうか』 した国民の心身を回復さ せるため行動をおこしたのだと発会の趣旨が述 べられた. 1 0 )が必須であるが 民衆的体 問題解決の為には,『科学的体育の発 達向上と民衆的体育の普及徹底』 , 育の台頭についてはゆるやかながら認められるに対して, 科学的体育の発 達については前途遠きも のがあると把握されていた. 国民の体力は統 計的に年々 降下する傾向にあり, 政府当局者や国民の 自覚が必要であるが特に教育家の奮起を要すると, 体育界の人々の団結を望んで会を結成するので あるとその意図が述べられ, 『衆心 一如 の白熱的勢力に よって 一 は体育そのものの更新と充実を計 1 0 )のが同志会結成の趣旨で り, 一 は体育家自身目か ら身を挺して, 此の国民的危機に備えんとする』 あると, 体育の革新をめざす意気込みが示された. 永井道明は大日本体育同志会の発足にあたり,『二度目の外遊から帰って見ると, 我が国の体育も 1 1 }が 欧米に比較して見るなら ば及ぶべくもなく, 国家の盛衰, 国力 少しは明瞭になった気がする』 , の消長は, 国民の健康・体力・能率に左右されるのであるから, 体育事業の計画を立て体育政策を 樹立させるように しなければならないと, 国立の体育研究機関, 体育教員養成機関の設 立を要望し つつ, 自らは大日本体育同志会を創立して, 社会体育の推進のために自治的努力 をするのであると 述べた, 会の発起人代表 (在京者) として, 今井学治, 今井熊太郎, 畠山源三, 西海竜蔵, 高橋キヤウ, 田中セキ, 永井道明, 熊田伝 一郎, 藤山快隆, 三橋喜久雄, 三橋義雄, 宮田覚造, 広井家大, 森秀, 2 )発会を祝って 滝沢菊太郎(東京青山師範学校長) 6名が名を連ねた.1 倉敷甚一郎, 杉本正信ら1 , ,. 高橋清一 (東京府女子師範学校長) , 寺沢巌男 (東京高等 , 北沢種一 (東京女子高等師範学校教授) 3 } 師範学校教授) 他から祝辞が寄せられた.1 『日本体育』 創刊号には 会員募集の呼びかけが, 『日本体育界における真の整明期, 真の革新 時 , 代来る, 国家を愛し, 社会を憂へ, 人類の将来を慮り, 日本体育の振興を策せんとする ものは, 勇 4 1 }となされ, 全国から入会者があった, ・ ・来って此国家的大事業に投 ぜよ』 奮して来り参加せよ…↑. 会発足直後の1 921年12月末, 第一回の体育講習会及 び協議会が東京高等師範学校を会場として 開催され, 八百余名 が参加, 1巻2号の グラ ビア頁には高等師範学校校庭いっ ぱいに 『屈膝脚側出 1) (3.
(5) . 大 塚 美栄子. 1 5 ) の運動』 をしている講習生が写されている. , 参加者は北海道から九州各県そ して朝鮮 (当時) に及 6 ) ん だ.1. 会則には, 会の目的はず国民体育ノ普及振興ヲ ・図ル』 (1章1条) こととあり, その目的を果たす ための事業と して, 1, 体操, .競 技其他体育的運動の研究,.2. 講演会, 講習会の開催, 3. 機関 7 雑誌 『日本体育』 の発行等を行うこととしていた.1 } 会はこの会則に則り, 大小さまざま の事業を行ったが, 五年後の1926 (大正15 ) 年12月, 会長 永井道明の 『大日本体育同志会会員諸君に告ぐ』 及び 『大日本体育同志会解散 の辞』 によっ て解散 8に の会は 大正10年代の丁度5年余り その活動の足跡を刻み 日本体育の振興という『国 した.1 , , , 家的大事業』 を遂行しようと望んだが, 僅か5年でその活動の幕を引いた のであっ た 『解散の辞』 . は, 『同志をあっめて結束するというよりは, 自ら治め, 自ら進めて, 然る後広く天下の人と連合せ んとの企図にほかならなかっ た……他の団体と排撃 し合ふような党派的態度に出ぬよう ……実行し てきたが……正々 堂々たる主義主張を以っ て互いに切瑳琢磨することは斯道更新 の要因であるにも かかわらず, かかる公明盛大の論議 はほとんど影を没し, たまたま一, 二少数のこの挙に出ずるも 9 } のあれ ば, 恰も異端邪説の如く遇せられるといふ有様であっ た』 と嘆いた.1 創刊時には大いなる希望をもっ て, 大日本体育同志会結成の, その使命の第一は, 日本民族のた . 、 めに誠実なる忠僕として終始すること, 第二は公平無私を一貫して体育界に貢献すること, そして 第三に常に清新滋刺の精気を鼓吹すること であるとし, これらの使命を果たすため同志諸君と共に 0 )当時の教育界 体育界の状況からも これらの使命を果たす 努力 していこうと呼びか けていたが,2 , , には五年という才月 は短か過 ぎた. それは, 同じ頃創立された大日本体育学会が第二次大 戦中も存 続し, 機関誌 『体育と競技』 も統制によっ て合併 ( 19 41年, 学校体錬) させられるまで刊行しつ づ けたことと対照的であった. 2) 会則, 組織, 役員 機関誌 『日本体育』 に随時掲載さ れた会則により, その組織, 構成などについて見るならば, 創 刊号 (大正11年1月) で, 会則は6章25条から構成され (他の細則があるが省略さ れている) ,翌 大正12年1月号では, 7章25条となり, そして大正1 3年12月号においても 7章25号であっ た. 1 )会則 の構成は 一章目的及び事業 二章名称及 び事務所 大正1 4年,10章32条と整備されていた.2 , , , 1 ) 三章正会員及 び会費, 四章顧問及び名誉会員, 五章役員, 六章役員会, 七草総会であっ た 2 . 会員は正会員及び名誉会員があり (3章5条) , 正会員は届出 制 (3章6, 7条) , 名誉会員は, 会の趣 旨に賛同する朝野の名士中から推薦されたもの (3章8条) とされ, 会費は3円であった ,. 顧問及び名誉会員には, 学習院長一戸兵衛, 文部省学校衛生官吉田章信, 東京高等師範学校教授 田中寛一, 女子学習院長大島義備, 東京高等師範学校教授寺沢厳男, 教育学術界主筆尼子止ら2 7名 2 )それらの人々 は体育・スポーツ界に限らず 広く医学 教育又軍人などにわたっ が上 げられて いた.2 , , ていた. 逆に言えば, 体育・ス ポーツ界の人が少ないともいえた, 会則には明記さ れていないが, 3 } 賛助会員として, 例えば, 大谷武一, 藤村トョ等が名を連ね, のちに顧問欄に記載された 2 . 役員は, 会長・永井道明, 副会長・三橋喜久雄, 今井熊太郎, 理事は, 今井学治, 畠山源三, 高 4 )大正1 橋キヤウら発起人として名 を連ねた13名の他に原清吉,加藤シゲを加えた1 5名 であった.2 4年の会則整備により, 名誉会員制を廃 して顧 問のみ推挙することとなっ た, 新しく評議員として. 今井学治, 小倉恒司, 上林英太, 倉敷甚一郎, 藤山快隆があげられ, 又地方理事若干名が委嘱され 5 }会務は 事務部 (庶務 会計 編集 宣伝) と研究部とにわけられ 各々 担当理事が委嘱され た.2 , , , , , 2) (3.
(6) . 『大日本体育同志会』 に関する研究. 5. 6 ) 192 2年7月, 内部に女子体育研究部を設置, 女子体育の調査研究等を行った(会則の中での位 た.2 ) 7 置 づ けは明 瞭ではないが, 3章6条の内規を定めた),2 会員数は判然としないが, 初めて会員名 簿が日本体育誌上に掲載されたのは, 1巻5号巻末であ り, 東京58名中に会長永井をは じめ役員名も含まれ, 小計744名とあり初期の会員数を推測できる 8 }次の6号には続報として, 東京83 ものであろう.2 , 北海道63など, 合 , 兵庫69 , 鳥取65 , 千葉71 2 9 } 23(大正12 )年8月の総会では会員二千名と発表され, しかし会費の滞 計909名と記載された. 19 0 } 納な どで運営は苦しいと報告された.3 永井道明の御膝元である東京を始め, 鳥取, 青森, 神奈川, 北海道な ど会員数が多く, 推進する リー ダーのいる 地域 では, 会結成直後より支部設置が要 望さ れ, 地方支部が実現し活動が行わ れ 1 ) た.3. 『日本体育』 は 大正1 4年9月号 (4巻93号) から, 発行が広文堂となり, 大正の終り, 大日本 , 体育同志会の 解散によっ て, 『日本体育』 も終刊となった. 『休刊の辞』 には 『三千読者を包容する』 とあり, おおよその読者数す推測されるにしても, 会員数は実際どれ位であったのであろうか,. 2. 大日 本体育 同 志会の 事 業 につ いて. ー) 講習会, 協議会, 競技会の開催. 大日本体育同志会は, 『国民体育ノ普及振興ヲ 図ルラ目的』 (会則1条)として, 『1, 体操, 競技. 其他体育的運動ノ研究 2, 講演会, 講習会ニ開催其他体育ニ関スル指導 3, 機関雑誌日本体育 4, 其ノ他』 (会則2条) 等の事業を行っ た, ) 年12月 25 日から 5日間, 東京高等師範を会場として 0 最初の講習会は, 発会直後1921(大正1 た が参加し盛会であ 開かれ, 約9百人 っ , この講習会は, 学校教育・体育の総本山である東京高等. ノ発刊. 師範を会場として行われ, 大正2年の体操教授要目制定の実力者である永井道明が呼びかけたので あり, 参加者は多数であった. この講習会の内容は, 会長・永井の開会挨拶, 講演 『欧米再遊中の所感』 にはじまり, 宮田覚造. による協議題 『国民体育振興策』 にたいする提案説明 (協議会は三日目午後開催され数名が意見発 表をした) , そして三橋喜久雄指揮による 全員の体操実技と続いた, 実技講習は男子15班, 女子1班に分れ, 各種徒手体操, 懸垂運動, 跳躍運動, 競技(短, 中距離 走, 走高跳, 走幅跳, ホッ プステッ プジャ ンプ, ローハ ードル, 砲丸投, 円盤投, デッ ドボール, バスケッ トボール, ヴァ レーボール) 等多様な運動が指導された. 講演は, 『身体をよくする体操』 『 『 (今井学治) , 体操要領‐主として跳躍運動につきて』 (三橋喜久 , 跳躍運動につきて』 (永井道明) 2 ) 雄) 等であった.3 会の総会は6回まで開かれ, 総会開催時に行われた, いわゆる本部講習会も夏冬の長期休暇毎に 全国から人を集め, 講習, 協議を行い, 体操の改革を唱え, 体操内容改善への参考としてスポーツ. 教材, 体操実技等を指導をした, 会場が東京高等師範学校から学習院, 青山師範学校そして本郷中 学校と変わり, それはつまり永井 が東京高等師範を退職し東京本郷中学へ転じたことによる が, 参 3 ) 加者数は漸減の傾向 であった.3 東京以外 では地方講習会が, 各地教育会, 体育会, 地方支部の要請により, 会の幹部が出張して 2月, 姫 路で500人 参 922(大正11 )年1 行われた. 同志会が主催する第一 回地方講習会と しては, 1 3) (3.
(7) . 大 塚 美栄子. 加により, 体操, 競技の指導, 講師による ヴァ レー ボール, バスケッ トボールの模範試合等が行わ 4 ) れ た.3. 永井道明をはじめ三橋喜久雄, 宮田覚造ら役員達は, 精力的に講習活動, 地方出張を行っ た 『日 . 本体育』 の動静欄には, 幹部らが全国各地で講習指導した ことが細かに記載さ れており 当時各地 , 域の体育指導に影響を与えていたことを読 みとることができよう . 又, スポーツ競技会開催活動についても 『日本体育』 誌上に紹介された その中では 女子の大 , , 会が詳報された. たとえば1922年1 1月, 第一回全日本女子選手 (権) 競技大会 (会場・陸軍戸山. 学校, 後援東京朝日新聞社) を主催したことが報告されている. 東京在住の体育同志会員らが運営 5 に当り, 陸上競技, バスケッ トボール, ヴァ レーボール等が290余名の参加で競われた 3 . に の大会 5 ) における記録が日本最初の女子陸上競技の記録であると述べられている 3 . 同時期,第二回女子連合 競技大会等が開催さ れていたが, そこではまだ二人三脚や置き変えリレーな どの運動会種 目も行わ 6 ) れ て い た の で あ る,3. 会は大正11年7月 に女子体育研究部を設置し, 内規を設け委員を委 嘱 藤村トョなどとも共 同し , つつ女子に適当な教材の理論実技研究を行い, 毎月の例会で研修するな ど, 女性の体育・スポーツ の振興につとめていた, 会長永井, 理事の宮田覚造 は東京女子高等師範に, その他東京府立女子師. 範や各高等女学校教諭など女子中心の学校に勤務する会員も多く, 女性の体育振興を大きな課題と していた. その際, スポーツ競技大会を開催する ことは, 会にとっ ては教育活動としても経済活動 としても効果的なものであっ た. 不世出の女性ラ ンナー人見絹枝も出て,1924年第一 回女子オリン ピックが開かれた時代状況であったことと考え合わせると スポーツ競技会開催は 体育振興のた , , めばかりではなく, 会 の権威を高め, 国民にアピールする好材料 であっ た . 又類似のものとして, 児童のス ポーツ大会主催もあっ た. たとえば1 924年3月 には, 第一回全国 小学生デッ ドボール大会と称 し, 青山師範校庭に56チームを集め, 東京市長を名誉会長(後援国民 7 } 新聞社) 永井道明が指導したという方型 デッ ドボールが行われた 3 . ともあれ大正後期 の5年間, 大日本体育同志会 は, 体育研究, 講習, 競技会開催な ど 精力的に , 活動し, その影響を全国に拡げて いたのである. 2) 機関誌 『日本体育』 について 大日本体育同志会 の機関誌 『日本体育』 は, 1922(大正11 ) 年1月 を創刊号として, 関東大震災 による欠号 ( 1923年12月号) 926 (大正15 ) 年1 2月まで毎 , 及び途中発行を広文堂に移したが, 1 月発行, 5年間, 全59号の刊行であった. A5判, 縦書き, 毎月6−70頁(創刊号や毎年一月号は百頁位)程の雑誌であっ た 編集は 終始 , . 畠山源三 (花城) であっ た, 記事は, 1. 巻頭言, 主張, 2. 論説, 3. 研究と実際, 4. 翻訳, 5 文検関係, 6 懐藻 . , , 7. 雑報等であり, その他書評, 競技会記録や会員 の動静が折々 に加えられた. 1925年9月 (4巻9号)より機関誌として の性格を保ちつつ, その発行を広文堂とした 広文堂 .. は三橋喜久雄著 『体育即生活論』 や, 後には永井道明, 三橋喜久雄共著 『新体操教授要目の組織的 批判』 等, 体育及び同志会関係者の書籍を刊行した出版社であった 雑誌の表紙から大日本体育同 . 志会の名は消えた. 編集は畠山源三であり, 構成にさほ どの変化 は認められないが 同志会が終始 , 意識していた大日本 体育学会の機関誌 『体育と競技』 が順調に号を重ね, 『発行部数一万と号して』 いると 『近代日本体育史』 ( 380頁) に記述されたことと比較すれば形勢はあきらかであった . 4) (3.
(8) . 『大日 本 体 育 同 志会』 に関 する 研究. 7. 『日本体育』には 永井道明はじめ幹部, 役員の寄稿が多い 三橋喜久雄は会存続の約半分は外国 , , にあり, 外国通信が多い, 編集の重点は学校体育の研究, 実践上の参考となるものの紹介であった が, 体育時評, 論説, スポーツ評論, 競技成績紹介等, 幅の広い編集であった, 『本誌は時流にこ び ず, むしろ時代に先んじて斯界の批評と指導とに任 ずること, 不偏不党, 至公至正の立場に立っ て 3 8 )を心掛けたと畠山は述べ 穏健着実の主張をなす べきこと……ジャ ナリズムの悪弊に陥らぬこと』 3 8 )( 3 0‐ 35頁) において, 投稿数の多い順に執筆者名をあ げ, 謝意を表 た. 畠山は最終号 『感恩記』 した, その筆頭は, 永井道明であり, 42編において時々の体育問題を直裁に論 じた, 永井の論調が 『日本体育』の基調となっていた点を考えれば, この雑誌は永井道明同人誌的性格ももっていた. し かし 『日本体育』 を支えたのは, 第 一に編集者畠山源 三の努力であった. 雑誌の隅々 に, 投稿を呼 び掛け, 会費納入を促す彼の文章がみられ, 長 短 7 0編以上の論説, 書評, 編集雑記そしてスポーツ. 小説と縦横に書かれた. 彼は, 東京高等師範体操科専修であるが, 同志会発会の直前より東京帝国 大学図書館に勤務した異色の人物であっ て, 現実の体育界に身を置いていない立場から, その論旨 は明快で, 批判は鋭いものであった, 文章をよくする彼は 『日本体育』 廃刊後, 『体育と競技』 にも 昭和7年まで17編寄稿し, 著作も刊行する等文筆を通じて体育とかかわった. 会の方針は 『国民体育ノ普及振興ヲ図ルラ目的』 (会則1条) として運動の研究, 指導にあたるこ とであり, 学校における体育・ス ポーツ指導についての論稿が多いのは当然であったが, 会員中に 高等師範学校や新設の国立体育研究所関係の研究者は殆どいなかったこともあり, 改訂の時期が近 い学校体操教授要目に関する, その筋の情報や, オリ ジナルな研究論文な どは見られない. その辺 にも読者の不満はあり, 読者数にも反映したであろうと推測される.. 3 『日 本 体 育』 誌上 に おけ る諸 問 題の 論調 につ いて 1) 軍事教練の問題について 永井道明らが, 時の体育政策について正面から論じたもののうち目立つのは, 教練問題について 917年の 臨時教育会議による兵式体操振興に関する の発言である, 教練問題とは, いうまでもなく1 『 建議を契機に, 1 925年 『陸軍現役将校学校配属令』 , 教練教授要目』 と強行された, 軍人による軍 事教練導入政策のことである, 永井は, 1923年 『国民の軍事教育に関 して同胞に語る』 において, 兵式教練は 『退役軍人の隠居 9 }と こ 仕事では徹底 した本気の訓練は施こし難い……新 進気鋭の将校でなければ』効果は上がらぬ3 ,. の時点では現役将校配属を支持した.. 倉敷甚一郎 (教練教官) は 『教練の本質を論ず』 で, 『教練, 軍服の資格なくては出来ないと誤信 0 }と軍事教練を せず, 体育教官が研究し, 真に規律ある軍人精神を函養する教育』をなさねばならぬ4. より教育的に実施するため体育教師が努力 すべきであると説いた, 25年1月 9 永井は,1925年陸軍現役将校配属令や同施行規則, 教練教授要目が発せられる直前,1 1 }時は陸 『 号に付録 いわゆる軍事教育に就きて』 を付し, 教練問題についてまとまった発言をした,4 軍o文部の交渉調整 の時期を過ぎ, 具体的実施策が動き出していた時期であった, 彼は, 軍事教育 は国民教育の問題 として重大であるとしながら, 1, 軍事教育の名と意義, 2, 軍事教育彼我の実 際, 3, 軍事教育の攻究, 4, 結論と13頁にわたっ て段階的に論 じ, 結論として次のよう にまとめ た.. 5) (3.
(9) . 8. 大. 塚. 美栄 子. 1 . 純軍事教育としてならば, 永遠の方針を樹ててある時期を以て行ふべく, みだりに普通教育と範 囲とを犯してはならぬ. 2 . 訓練としてならば,.むしろ整理してこ れを省き, 学校訓練の徹底を期すべきである. 3 . 体育としての軍事教育は全然不合理である. この際速やかに整理し, 学校体育の普及励行を図る べ き で あ る,. 永井の意見は, 明治末期, 彼が陸軍文部両省協議時において説いたと同様, 明瞭かつ愛国的, 国 家主義的であっ たが, 情勢は変化しており, 彼の情勢把握及びその 意見でリー ドできる時期 ではな か っ た.. この時期, 永井の他, 畠山源三, 上林英太らも発言した. 畠山は, 『所謂軍事教育に対する考察』 において, 『大正の学校教育には軍事教育をいれるほどの余裕はなく, もっ と一般教養を, 一般 的体 育 (軍事体育と区別する) を重視し充実せねばならぬ, 軍事精神は従来の修身, 歴史な どで養成で 2 }教練を重視する必要なしと強調した きるのであっ て, 問題とする程の事はない』 と,4 . 畠山はまた1925年1月号に寄せられた諸家の新年のメ ッセージ 『体育界への期待』 について, 現 今の問題たる青 年の訓練について述べたものは少なく,『陸軍から軍事教練を強いられ……結果現役 将校をかりて来ぬばならない羽目になっ たのは……体育家の面上に泥を塗りつけられたものと解釈 4 3 )と評した この欄では教育学術界主幹 尼子止が『従来教育者としての資格を することもできる』 . , 有せざる予後備軍人を以っ て学校体育の任に当らしむるの悪政たるは論なき所たるに今また軍縮の 余沫を受け, 現役軍人の名を以っ て学校教育は占領されんとす……全国二千の体育教師なるものの 4 ) 中これに就いて意見を発表せるものあるを聞かず, 何たる意久地なしの連中ぞ』 と論難した 4 . 上林英太 は, 『学校における軍事教練について』 ( 1925 , 1) において, 少年の軍事教練は, 教育 上体育上妥当なものであるかと自問し, 少年から大人 に変っ ていく時に, 強い軍事訓練を課すこと は生活を退化せしめ, 当を得ていると はいい難い, 多くの時間を費やすならば, 学生生徒が当然学 ばねばならぬ多くの課業を犠牲にしてしまうと, 諸外国たとえばアメリカ のD サーゼントやJ . . プュ ーイ 等の言葉を引用 して, 軍事教練に対する反対乃至消 極的意見を述べ, 国家観念養成, 愛国 心を発達させる教育として意義はあるかと自問し, 戦争によっ て国家を保護するというのは誤った 見解であり, 平和を愛する市民こそ愛国者 であり, 軍事的訓練によっ てのみ愛国心を養成しようと するのは妄想である, また身体的にみて18 , 9歳以上でなければ軍事訓練は妥当でなく, 中学校で 4 6 ) は適当でないと断定 した. 甲南高等学校教師の上林は,学生の教練反対の意見や反対運動の存在を 耳にしていたのか, 論点は具体的であり明瞭であった. 当時, 体育界においては, 反対の意見が出されていたが正面からの反対ではなく,『結論的にいえ ば, 文部陸軍両省で協議をとげ具体化 した今日, 是非を論ずる時期ではないという意見に傾いた . 4 6 )であった つまり 全日本体育指導者連盟の大正1 3年12月に於ける理事会の態度などはその好例』 , 『体操科中の教練改善に関し目下当局 に於いて調査審議せられつつあるは 最も時宜に適したるもの , と確信す. ……此際中等学校及専門学校 に於ける体操及武道の時間を増加せられんことを熱望 す 4 7 )と 文政審議会に請願書をだしていたのである ……』 , .. 又, 体操科指導監督者体育協議会 ( 1 9 2 5年1月, 於文部省) においても学校教練問題は重要事項 であっ て, 議論百出であっ たが, その実施方法について質問, 不賛成の意見が出されると文部省側 が, 教練重視, 体操軽視にはならないと答弁し, 議長北 (豊吉) によっ て協調的態度を保っ てほし いとまとめられ, 結局, 教練以外の体操遊戯等の時間を減少させな いこと, 体操科の時間数を増加 8 ) するよう希望するということ で収拾した.4 『 又野口源三郎は, 軍事教育に直面せる体育教師の態度』 で, 『教育の理想的見地からは反対, 現 6) (3.
(10) . 『大日本体育同志会』 に関する研究. 今の実状より視ては賛 成』 と述べ, 多数の理想的体育指導者を養成することが出来ず, 徳育訓練上 の効果を収むることすくなく, 然も其の応急の良法を確立せ得ざるの際, 陸軍が選抜する優良な将 校を各学校に配属せしめ, 体育の 効果を促進せんとするは, 体育実施力を増大する点において有意 9 )将校と提携して学校体育の 実を挙げるべきである と述べていたのである. 体育界 義なこと』とし,4 の指導的地位にある者が, 体育の目的と比較し, 基本的立場から, この施策に異議を唱える状況に はなく, 『体育と競技』 誌上では, 『軍事教練と体育は異質のものであるゆえに, 分化, 独立せよ』 0 5 1 ) ・ と述 べた も の が 散 見 さ れ た.5. 『 1 92 5年, 『陸軍将校配属令』 , 教練教授要目』 が発令された後, 大谷武一 は, 配属将校諸君の参 『 考意見と称し, 学校教練の根本問題に関しては, 自分は別に一個の意見がある. しかし今はそれを いうべき 時期ではない……学校教練の目的は……歩兵操典にある, 指揮官及 び兵卒を訓練して諸制 式及戦闘の諸法則に習熟せ しむると同時に, 軍記厳正にして精神 強固たる軍隊を練成 し以って戦闘 百般の要求に適応せ しむるにあり』というものとは異なり, 『児童, 学生の身神を鍛錬し, 規律, 厳 2に のときは永井 道明も,『軍事教練の活 粛にして精神確固たるもの』とするという点にあると述 べ,5 3 )学校教 用』と題し, 軍事教練の特徴を発揮し弊害を除去すべし, 軍事訓練たるを徹底せよと述べ,5 練の長所と短所及び実施上の注意点を述べたのである. 2) 明治神宮競技大 会問題について 永井道明は『大日本体育同志会解散の辞』 において, 『我が会の出処, 我会の進退は, 一に斯道奉 公の 一念にあった, しこうして最近吾人をして如上の結論を急がしめたろ最大の 動機は明治神宮競 4 ) 技大会問題である』 と述べた.5 3年から, 内務省が『明治天皇の遺徳を拝 ここで言うところの明治神 宮競技大会問題とは, 大正1 する』 という目的によっ て, 明治神宮例大祭の時期に, スポーツ競技大会を開催することが, 国民 の身体鍛錬, 国民精神の作興上, 効果あるものとして主催したのに対し, その大会の所管が内務省 であったことに対して, 文部省から疑問が提示され, 問題化したもの である. 文部省は, (体育)競 技大会については, 文部省が所管とすべき事項であり, かつ, スポーツ競技大会に学業 を休んで学 生が参加する問題, さらに時期的な問題, 参加費用の問題など何点かを指摘し, 内務省の先行に疑 義を申し立てた, 内務省は, 国民精神作興, 体力増進のため社会体育施策の実施に乗りだし, たとえば1924年春よ り大小の 『運動奨励に関する講習会』 を開催したのを始め, 5年の歳月をかけ明治神宮競技場を建 設, ここを会場として毎年, 全国規模の競技会を挙行することと し, その組織化について 政府が乗 り出し, 紛糾の続く大日本体育協会とは別の団体にや らせようとしたのであった. 0: 5人が参加する(体育と競技.3州1 ここにおいて明治神宮体育競技大会は,全国の青年男女3,10 4頁)『戦前の国内における唯 一の総合的なスポーツ大会としてスポーツ史に一大エ ポックを画す 10 1 )となったのであり, 日本におけるス ポーツ競技が高等教育機関の学生の占有 物から, 一般 ること』 に拡 がる契機となったことで独特の位置づけ, 性格づけされたように, 注目されるス ポーツ行事で あ っ た.. その行事及 び, その会場が内務省の手に なるものであった. 畠山源三は, 力 では文部は内務にか 6 }つまり国立の競技場一つにして も内務省の手に なわない,文部省は静観して時期 を待てと述べた,5 建設されてしまう よっ て, 関東大震災直後の混乱期をこえて , というより困難を押 しても建設すべ きであるという政策判断 を内務省は行い, 予算を執行したのであり, その点で内務省は先んじてい 7) (3.
(11) . 10. 大. 塚. 美栄子. た. 内務省はオリ ンピック選手派遣 への補助金も同省予算から算出しようと文 部省と争いになり , 結局文部省が出すことになったという経緯があり, 当時畠山は, スポーツの親は文 部省であるから 6 ) 当然であり,文部省はこれからも この調子で頑張っ てほしいと述べた 5 . ようやく国民の支持を得て 普及 しつつあっ たス ポーツをどこが握るか で主導権争いがあっ たわけである . 永井らは, 明治神宮体育競技大会開催を歓迎し, 誌上で詳報し, 主催者な どについては問題とし ていない. 女子陸上競技, ヴァ レーボールの予選大会を体育同志会がひきう けるなど積極的であっ 7 }それは永井道明らの国家主義的体育・スポーツ観と矛盾しないこと であ たからであろう 大 た.5 っ . 正13年1 0月号 ( 55頁) ではこの問題を文部対内務のい ざこざとし, 文部省系といわれる大 日本体 育協会に対する内務 の対策といい, 明治神宮体育競技大会を組織するための別の 『体育協会』 を創 設したならば, 文部省側の体育事業 にとっ ては大きな打撃であると述 べている 5 8 . に の時期, 体育協 会内部においては, いわゆる 『 1 3校問題さらに組織改革問題』 について協議の最中であっ た 同志 . 会にとっ て, この混乱は対岸 の火事であったが, 内務省にとっ て スポーツによる国民の思想善 導 , , 精神作興を期待するためには, 競技会を主催する組 織が確固としたも のであることが重要な条件で あっ た. 勿論文部省にとっ ても政策的意図は同じであったが このように国民的 にから支持された , スポーツ大会を自らが所管し, 体育・スポーツのことは文部省の責任分野であることを内外に示す 必要があった. 『日本体育』 には 畠山源三の 『問題の神宮競技大会 5 )や 原緑花の『神宮競技大会問題 に対する 』5 , , 5 9 }が掲載さ れ 未だ多数の投稿があったが 紙面の関係で省略する 『研究的領域を越え 時 一考察』 , , , , 0 )本誌にはそぐわな いと注釈があり 畠山は 1925年段階でも原稿を 事論や露骨なる人身攻撃』で,6 , , 書いたが掲載を見合わせたことがあるとも述べた この問題は当時かなりの論議を呼び 新聞など . , でも取りあげられたものであっ たという. 畠山は,『この問題 の内包している価値の限りにお いて問題視しなければならぬ ……この所管の , 問題は, 1, 体育的施設とみれば……文部省, 2, 国民の 一般的娯楽とみれば……内務省 3 両 , , 者の中間とみれば両者共同の管理下におくことで, 所管の根本的原則は決まる』と述べ 5 6 )はじめ政 , 府の手にあっ ても次第に国民の手に委ねるべきである 経過から見るとこの大会の成立は内務 の手 , で行われたので, 体育のことは文部省の所管であるが, 雅量を持っ て協力すべき である ここでの , 文部の態度はいささか狭量である, つ まり, 内務と文部の社会的位置 『社会的地歩』を比較すると , 大きな相違がある, この明治神宮競技大会問題については文部に理があるにもかかわらず 割が悪 , い立場となっ ているが, この問題は, 『民間に絶対勢力 を有する一大団体が完全に生れる迄』紛糾は 続く であろう, この大会は国庫から財政 措置を講ぜられて, 国民の大歓迎を受けたものである点か らも, 文部省は時をまっ て根本的対策を講ぜよという見解を述べた . 原は内務省の大会開催の趣 旨に全面的に賛成し, 文部省のいい分 には共鳴できないという 政府 , が主催す れ ば, 強制的となるという点, 学業問題, 費用, 時間問題等た いしたことではなく 競技 , 会参加による教育効 果のほう が大である, 文部省は積極的実行の方針を立て 日本の体育振興を計 , 9 ) る よ う 望 む と 述 べ た.6. 永井道明は前記 『解散の辞』 において 『内務, 文部両省, 各体育団体 各体育実際家 皆ことご , , とく伝統的藩籍 に等しき従来の感情行 掛りを一掃し……全国民的運営の機構に帰還し……国家興隆 の 一大要素たる体育の進展に奉するの誠を表せねばならぬ……今後更に積極的の活動としてまず明 治神宮競技問題 の徹底的解決を期せん』 とするのであると表明した . 明治神宮競技大会は, 大正1 5年より内務省が主催からおりて, 各競技団体 へと移管された つま . りこの年には, 大日本体育協会の組織改革問題が決着を見て, 大日本体育協会組織が整備される , 8) (3.
(12) . r大日本体育同志会』 に関する研究. 11. つまり, 各種スポーツ別の全国組織結成, 各地域体育協会の組織結成な どにより, スポーツ組織の 統合, 一元化が進み, 選手権大会主催権, 所轄等については自明のこととなった, ここにおいて大 日本体育同 志会が, これまでのようにス ポーツ競技大会を主催 していくことは不可能と なり, 更に いうな らば,スポーツ発展にとって混乱を持ちこむことになるかもしれない事態となったのである. この明治神宮競技大会問題 が, 何故, 大日本体育同志会の組織 を左右する問題であるのかについ て, 日本体育誌上に詳細には記述されておらず, 推測であるが, 永井道明らは大日本体育同志会の 失地回復の場として, この明治神宮競技大会開催団体として 一役担うという点に希望を託していた のかもしれないと考えるのである, 混乱の続いていたスポーツ界の調停者, 仲介者として名をあ げることは, 永井道明, 大日本体育 同志会の権威を取りも どす一つの機会であった. しかし状況は大日本体 育同志会が考える方向とは 異る方向へすすみ, 永井らは, ここで一挙 に会そのものの 解散を断行せざるを得なかっ た. それは, 5 ) 年春, 改訂された学校体操教授要目が, 大日本体育同志会の志とは異っ て, 会が提 19 26(大正1 唱してきた デンマーク系の体操ではなく, スエーデン体操系が主流となっ ていた事とも重なり, こ の時点で, 会の命脈が断たれる要因の 一つ がつくり出されたのである.. まと め に かえて 大日本体育同志会は, 成立後5年という 短期間の存在であっ たが, 中央, 地方, 大小の講習会,. 競技会開催や機関誌 『日本体育』 の発行によって, 国民体育の振興や学校体育の改革を提起し理論 づけを行い, 独自の活動を続け, 体育の教育内容改革について 具体的なア ピールを続けた, その活 動が体育界に広 げた波紋は大きく, 会の存在意義もまた大き なものであっ た, その活動を可能にしたのは, 第 一に会の組織者たる永井 道明の, 日本最初の教授要目制定に当っ ての功労者たる威光 を背負ってのことでもある が, 自信に満ちた, 直裁な表現による個性的なリー ダーシッ プによる面と, 第二にその永井道明をたすけた三橋喜久雄の精力的な活動, 優れた体操実 技能力, 外国留学によって得られた具体的な体操の内容指導と講演, 又更に機関誌 『日本体育』 を 編集し, 多くのユニーク な論稿によって同誌の内容を豊かにした畠山源三ら会幹部の活躍な ど, 人 的な要因であっ た. 大日本体育同志会の存在その ものが大正デモクラシーの影響下 にあっ た. 厳密な意味で, 永井道 明の理論, 三橋喜久雄の理論と実践それら一つ 一つの内容が自由主義的主張, 理論であったという ことではなく, 会の存在そのものが, 当時の自由な気分を反映していたものと考えられる。 たとえ ば当時, 機関誌 『日本体育』 に投稿した人物, また掲載された論稿の中には, 同時期に発行されて いた, 大日本体育学 会 『体育と競技』 のもの と同じ筆者, 論題も見られ, 全国各地域の中学校, 小 学校教師が投稿しており, いわゆる現場の教師たちに自由な意見発 表の場が用意された点で, 大き な価値があったと考える, 教育の場における 自由というものについて見る 時, ここでは, 異説の存在が認められるか どうか が一つの指標である とするならば, 様々の 理由はあろうが, この期間には並立が可能であり, たと え ば, この時期, 大のつかない日本体育学会と大日本体育学会が共存していたのである. しかし, 永井道明は,最初の教授要目実施の当の責任者であったという特殊な地位により,『近代日本体育史』 が述べたように, 純然たる野党とは言えない側面があるにしても, 改訂教授要目に多く関与した大 日本体育学会 が与党 であり, 大日本体育同志会 が野党であるという 使い分けはさ れてい たわ けで 9) (3.
(13) . 12. 大. 塚. 美 栄子. あ っ た.. 当時の教育界において は, 異説, 異見の存在の余地は狭くなりつつあり すでに各教科の教科書 , は国定化されて いたのであるから, 体育科においても, 教授要目は準拠すべきものと統制され 正 , 統なのは, 体操教授要目作成に携る者が集合する大日本体育学会, 即ちそこが編集した 『体育と競 技』 なのであっ た. 教授要目に指定さ れた体操に意見をさしはさ み 異った 『体操』 の方法を教授 , , 指導, 講習な どをすることは, 諮意的な派閥的行動 と見なされたのであっ た . 大日本体育同志会が5年で自壊した, その自壊の要因は何であっ たろうか 体育同志会が活動を . 続行できない状況に陥っ た要因として, 一つには社会情勢, 教育情勢の変化があげられる すでに . 前年, 『普通選挙法』 と引きかえの 『治安維持法』 は制定され, また 『陸軍現役将校配属』 『教練教 , 授要目』 は実施さ れていた. 更に, 大正15年, 『学校体操教授要目』 が改訂され 永井の体育界に , おける権威は失われるの であり, この状況は永井道明の強気で乗り切れるものではなかった , 要因の第二として, 体育教育・スポーツ界にお いて, 主体的な勢力 の未成熟であったことを上げ 『 ることができる. 永井道明らが唱道する 『国民体育』 , 民衆体育』 の, その担い手たる民衆の実態 ・ はいかなるものであっ たか.スポーツ・体育の自主的活動を求める主体は未だ形成さ れてはいなかっ たのである. ラ ジオ体操に集合する人数の多さが一応の指標になる体育状況であっ た 永井道明は . ナショナリズム, 愛国精神を基底にしながら, 自由主義を掲げ, 体育・スポーツの大衆化を叫び , 6 0 }に体育の大衆化 への希望を託したが この体育聯盟の政策的意 1924年結成された『日本体育聯盟』 , 図は別にあり, 『民衆体育』 を担うべき大衆は, スポーツを楽しむゆとりなどなかったのである . 要因の第三に, 体育・スポーツ界の発展の場から取り残された 問題がある 体育・スポーツ の世 , 界は, 近代オリンピックへの参加に象徴されるように, 諸外国との交流もさかんとなり 1924年に , は, 永井道明も待望していた 国立体育研究所が設立されるな ど進展を見せた 永井らが 会の周辺 , . から研究者を送りこみ, 体育の科学的研究, スポーツ発展への中心部分 への接近を果たすことが出 来なかっ た点をあげることができる. それは一 つには永井道明が東京高等師範学校出身 ではあった が, 体操科の出ではなかっ たという点も疎 外の要因であっ た , ある意味で, 大日本体育同志会の解散, 日本体育の廃刊は, 大正自由主義教育思潮の 直接的で , はないが, 一定の影響を受けた体育教 育運動の退潮を告げるものであっ たと言えるのではなかろう か, 大日本体育同志会 の運動, 主義,主張がひとつひとつが大正デモクラシーとの共通の基盤をもっ ていた訳ではないとしても, 体育界にあっ て, 野党的立場で自由にものをいい 雑誌出版によっ て , 全国的に同志を集め, 教授要目内容改訂 へ具体的に提言し 実践を試みるなど 大日本体育同志会 , , そのもの, 『日本体育』そのものが, 全国の体育のあり方に不満を持つ教師たち 大正期の自由主義 , 教育運動の余波を受けて高揚する教師たちの拠点であった. つまり, 会 の存在そのものが大正自由 主義の産物であつたと見ることができるのである , 終りに, 永井道明研究の要を御 教示下さっ た, 恩師・故押切由夫先生 に感謝を捧げます また鈴 .. 木敏夫先生(北海道大学) , 滝波武先生, 小田切正先生(北海道教育大学)の御指導に謝意を表しま す.. 註 1. 加賀秀雄. 19 83 1 ) ‐5 0 , 明治神宮競技大会の成立とその歴史的性格について( , 北海道体育学研究18:49 ,. 0) (4.
(14) . 『大日本体育同志会』 に関する研究. 13. 2年東京高等師範学校兼東京女子高等 908 ‐1 92 893年東京高等師範学校芳物学科卒業, 1 1950 ) 1 96 8‐ 2. 永井道明 ( ,1 頭 師範学校教授. 1923年東京本郷中学校教 , 13 11 1 91 1 主著作, 文明的国民用家庭体操191 . 学校体操 . 学校体操要義19 , 体操科講習会筆記19 , 体操姿勢図1 生活と其感想 師範大学講座5 ( 余が6 8年間の体育的 2 6 的批判1 9 91 7 機械の設計1 . 体育) , , 新体操教授要目の組織 ズム体育 『 の全 ナリ をリードした……ナシ 大正期前半の体育会 ョ 95 1 1 935 , 永井道明に関しては, , 遺稿永井道明伝1 近代日本体育史 1 8 5 た ( 岸野雄三 9 あきらかに反対者であ っ 』 面的な肯定者であったが, ミリ , , ・タリズムに対しては 97 6 97 0 東洋館出版社,)と評された他, 今村嘉雄1 , 大正期における自由 . 日本体育史, 不味堂出版, 入江克巳,1 9 57 8−1, 押切由夫,1 主義体育思想の研究1. 鳥取大学教育学部研究報告教育科学1 , 北海道教育大学紀要1増8 −1等で論じられた. 4‐25 1 0年文部省検定中等学校体操科合格. 鳥取師範教諭. 191 )1 90 9年鳥取師範卒業. 19 88 ‐1 96 9 18 3. 三橋喜久雄( の公職を歴任 第二次大戦後は数々 三橋体育研究所創立 31年 92 1‐ 23年欧米留学.19 年東京高等師範学校助教授,1 , , 926 25 4 91 主著作, 小学校体操教程1 , . 新体操教授要目の組織的批判1 . 現代の学校体操19 . 体育即生活論1925 93 5 3 2 93 0 体育の理論と実際(実際編)1 , 三橋喜久雄先生 . 生命体操野実際1 . 小学校における新生命体操野学習19 97 2 藍授褒賞受賞記念論文集1 . 84 98 2 80 三橋喜久雄の体育論については, 下記の論文が詳細に論じている, 大熊広明. 19 , 19 ,1 . 三橋喜久雄の 6 同2 同2 2 2 ‐ 2 4 ) 3 ) 2 ) 1 体育論( , , , ,{ , 鳥取大学教育学部研究報告教育科学 ,( 913年東京高等師範体操(教育. 道徳)卒業, ) 910年秋田師範卒業, 1 1 9‐ 1 95 7 98 4, 畠山源三(小野源蔵, 花城) .1 ,( 0年東京帝国大学図書館司書. 日本読書会を組織, 第二次大戦後は郷里秋田に戻り教育職をつとめた. 1 20‐1 94 9 923 22 主著作, 青年団の適切なる競技とページェント19 , 現在体育 . 体育の理論と実際(理論編)1930 . 体育論1 び情報サービス課に 課庶務係及 0 論1933 , 畠山源三については, 註8の他, 東京大学総合図書館総務 , 馬上観花197 4 97 よる資料提供そして秋田人名大辞典. 1 . 秋田さきがけ新聞社等による. 1月号 2年1 23年は震災の影響により11号まで)なお192 92 6年12月まで. (うち19 2年1月から1 92 5, 日本体育.1 は所在不明. 4 大学紀要1 IC:23‐ 3 ・大塚美栄子. 1 9 88 6. , , 北海道体育同志会に関する研究. 北海道教育 −水間一人の体育理論を中心に−体育史研究6. 日本体育学 道における体育について 8 9 1 9 2 0年代の北海 9 7. 同,1 .. 会体育史専門分科会,. 98 4 ) 928(復刻1 8. 真行寺朗生, 1 . 近代日本体育史. 大日本体育学会. 育思想. 不昧堂書店において思想史的な分析, 総括がなされた. 日本フ シズム下の体 9. 入江克巳, 1986 ァ . 日本体育 立趣意書1 2 2 9 大日本体育同志会設 1 0 , 1‐1:2‐3,. . . 1 1‐1:9‐1 922 11 . , 欧米再遊より帰りて見たる我が国の体育. 日本体育, , 永井道明. 1 ‐ 1:3 日本体育 1 1 9 2 2 ) ( 在京者 発起人代表 12 , , . . . 1‐1:4‐8. 922 1 3 , 日本体育同志会発会を祝す, 日本体育, , 滝沢菊太郎他. 1 1:0 1 ‐ 2 2 日本体育 会員募集 1 9 1 4 , , , . . 運動)19 22 1 5 , 日本体育, 1‐1:グラ ビア頁. . 本会主催体育講習会術科練習実況 (屈膝脚側出の 92 2 1 6 . , 日本体育, 1−1:65 . 講習会員府県別調, 1 2 大日本体育同志会会則 17 . , 日本体育, 1−1:65 , 192 , 9 26 12:0, 同1 6 1 8 , 大日本体育同志会解散の辞. 日 , 大日本体育同志会会員に告ぐ. 日本体育, 5‐ , 永井道明.192 12:3‐8. 本体育, 5‐ 12 ‐8 1 9 6 1 9 同 2 , 大日本体育同志会解散の辞. 日本体育, 5‐ :3 . . , 1 1: 1 0 1 − 日本体育 1 2 2 9 創刊の辞 20 , . . . . 2 2 21 . . 日本体育, 1‐1:101 , 大日本体育同志会会則, 19 23 大日本体育同志会会則, 19 . . 日本体育, 2−1:85 2 6 大日本体育同志会会則. 19 . . 日本体育, 5−1:106 日本体育 会員 1 2 2 9 顧問及名誉 22 . 1‐5:表紙裏. . . . 1 12:6 2 23 , . 日本体育, 1‐ , 会員消息. 192 1 5:表紙裏 日本体育 ‐ 2 1 9 2 役員 24 , . , . . 4名が記載されている) 1 3 25 25 , .( , 日本体育, 4‐2:4 . 地方役員, 19 42地域から75名が記載されている) ‐ 1 2 1 1 0 1 5 ‐ 1: 日本体育 地方役員, 1 926 , ,( , ,. 1) (4.
(15) . 14. 大. 塚. 美栄子. 26 , 役員. 1926 . 日 本 体 育, 5‐1 :110 .. 2 7 2 0‐ 51 . 大日本体育同志会女子体育研究部の設立. 192 . 日本体育, 1‐9:5 . 28 22 . 会員. 19 . 日本体育, 1−5:付1‐8. 29 22 . 大日本体育同志会会員. 19 . 日本体育, 1‐5:付1‐3. 30 本会総会及懇親会 の概況 23 4‐ 45 . . 19 . 日本体育, 2‐9:4 . 1 3 9 22 6 . 日本体育. 1 . 1‐4:6 . (日本体育に記された支部としては北海道がはやい, 註6参照) , ・ 3 2 92 2 ‐64 . 同志会第一回講習会状況. 1 . 日本体育, 1‐2:57 , 33 00人 (東京高等師範) 00人 (青山師範) . 講習会参加人員を日本体育誌では, 第一回は約9 , 第二回は約5 , 第三回 は約4 00人 (青山師範) 00人 (本郷中学) となっている. , 大正14年夏期講習約3 34 3 8‐54 . 本会第一回地方講習会状況, 192 . 2‐2:4 . 35 2 2 ‐55 . 本会主催全日本女子選手競技大会記事. 19 . 日本体育, 1‐12:43 . 36 922 , 女子競技大会. 1 . 日本体育, 1÷10:62 . 3 7 24 3 . 西海生. 19 . 第一回小学デッ ドボール大会の記. 日本体育, 3‐4:61‐6 . 畠山源三 38 1 9 , . 26 . 感恩記. 日本体育, 5‐12:25 . 39 . 永井道明. 1923 . 国民の軍事教育に関して同法に諮る, 日本体育. 2‐5;2‐6. 40 倉敷甚一郎 23 2 , , 19 , 教練の本質を論ず, 日本体育, 2‐8:4−1 , 41 25 , 永井道明. 19 . 所謂軍事教育に就きて, 日本体育, 4‐1:付録. 4 2 4 11:2‐ 12 . 畠山源三. 192 , 所謂軍事教育に対する考察. 日本体育, 3‐ . 43 3 . 同上. 1925 , 所家の応事を輯めて, 日本体育, 4‐1:6 . 44 4 . 尼子止, 191 . 意久地のない連中かな 日本体育, 4‐1:47 . 上 45 林英太 25 25 . . 19 . 学校における軍事訓練について. 日本体育, 4‐1:13‐ . 46 ・19 5 8 34 . 岸野雄三, . 近代日本学校体育史, 東洋館出版社:1 . 47 925 ‐9 8 9 23年7月創立の国 . 全日本体育指導者連盟.1 . 体育と競技, 4‐2:96 .(全日本日本体育指導者連盟は,1 民体育向上を目的として, 同職の者が, 協力する機関, 理事3 5名, うち常常理事1 1名の中に, 大谷武一, 永井道 明, 野口源三郎, 宮田覚造らが入っていた) . 48 925 1−5 0 . 体操科指導監督者体育協議会状況. 1 . 日本体育, 4‐3:4 . 4 9 9 25 17 . 野口源三郎. 1 , 軍事教育に直面せる体育教師の態度, 体育と競技, 4‐2:9‐ . 50 25 − 22 . 佐々木等. 19 . 学校教練と体操科, 体育と機技, 4‐9;20 . 51 , 破荷道人. 1925 . 体操科の分化. 体育と競技, 4−9:2. 52 25 3 . 大谷武一. 19 . 学校教練. 体育と競技, 4‐6:4‐1 . 5 3 925 1:2‐5. . 永井道明. 1 . 軍事教練の活用, 日本体育, 4−1 5 4 26 2:3‐8. . 同. 19 . 大日本体育同志会解散の辞. 日本体育, 5−1 畠山源三 5 5 26 . . 19 . 問題の神宮競技大会. 日本体育, 5‐8:2‐7. 56 4 . 同, 192 . 所感三題. 日本体育, 3‐5:1, 57 4 12:3 ‐ 5 38 , 本会主催全日本女子選手権陸上競技大会, 明治神宮競技大会関東女子予選会. 192 . 日本体育, 3‐ . . 58 4 1 0:55 . 又々文部対内務のいさくさ. 192 . 日本体育, 3‐ . 59 2 6 0 . 原緑花. 19 . 神宮競技問題に関する一考慮. 日本体育, 5‐8:7‐1 . 60 24年設立, 総裁林博太郎, 役員として大谷武一, 永井道明ら 競技聯盟と異なり スポーツの , 日本体育聯盟. 19 . , 国民的大衆的発展を目的に結成され, 活動した団体.. 2) (4.
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