大震災後のコミュニティの変容に関する一考察:ネ
パール・パタン市I地区での共同実践、共同調査か
ら
著者
中村 律子, 古川 彰
雑誌名
関西学院大学社会学部紀要
号
133
ページ
61-74
発行年
2020-03-12
URL
http://hdl.handle.net/10236/00027710
1 はじめに
1-1 問題関心 ネパール社会では、王政から共和制の過程での 権利意識の変化、急激な市場経済の展開、国際協 力による平準化された価値観の浸透など急激な変 化に地元の人々はどのように対応しているのであ ろうか。グローバリゼーションの波は、ネパール 社会においても、モノと人、人と人、人と社会の 関係においても平準化された価値観のもとでの制 度化の方向に進んでいるようにみえる。2008 年 頃から古川らは、このような状況を「グローバル 化のなかのローカルな知の様態」というテーマで ネパールなどで連続的にワークショップを続けて いた。本稿で論じたいのは、このような“王道” ともいえる争点を少しすすめ、共同研究1)での 「グローバル化のなかのローカル知というテーマ を、もう忘れられようとしているかもしれないイ リイチのコンヴィヴィアル(コンヴィヴィアリテ ィ)というキーワードから考えてみたらどうだろ うか」(2011. 9. 1 カトマンズ便り)という古川 からの問いへの返答である。 コンヴィヴィアリティ(自立共生)に関して は、吉原(2019 : 45)もコミュニティの実態を解 明するため、モダニティ(近代性)との関わりで 具体的に考えていくときに、「イヴァン・イリイ チの『コンヴィヴィアリティのための道具』を繙 き、コンヴィヴィアリティ(共生)に関する議論 を見ていく」ことを提案している。古川はネパー ルを念頭において、「グローバル化のなかのロー カル知というテーマは、制度化された知の覇権と ローカルな知の抵抗」という図式を超えて、「ロ ーカルな知が未来に向けてコンヴィヴィアリティ を作り出していく」ことに早くから着目してい た。否応なしにグローバル化がすすむネパール社 会において、自立共生的な知とはいかなるもの か、とりわけ、ネパール大震災(2015 年 4 月、5 月)を経験したコミュニティにおいて、そこで暮 らす人々が、これまでの日常生活が大きく破壊さ れた経験から現在を、そして未来を描くときに 「自立共生的な知」とその実践がもつ可能性を考 えておくことは、大震災後のいまでは優れて実践 的なテーマであるだろう。 しかも、コミュニティに生きる人びとの自立共 生的な知の生成を考えるにあたっては、ネパール 社会の人びとの生活(世界)を、そこで生活する 地元の人びととともに考察することからでしか意 味をなさないかもしれない。なぜなら、私たちに とってのフィールドとそこで暮らす人びととの間 に、こちら側/あちら側、私にとってのあたりま え/彼(彼女)らにとってのあたりまえといった大震災後のコミュニティの変容に関する一考察
*──ネパール・パタン市 I 地区での共同実践、共同調査から──
中
村
律
子
**古
川
彰
*** ───────────────────────────────────────────────────── * キーワード:ネパール大震災、コミュニティ、コンヴィヴィアリティ(自立共生) ** 法政大学現代福祉学部教授 *** 関西学院大学社会学部教授 1)前論文の執筆者(葛西)も記述しているが、2011 年 9 月より、古川を中心に「キルティプール・プロジェクト」 (テーマは、ネパール・カトマンズ盆地のキルティプール地域を主として、水と環境、生活、福祉、カースト・ 民族、文化、景観などの変容)という共同研究が企画された。メンバーは、ネパール側ではトリブバン大学ミリ ゲンドラ・カルキ氏、VFSO のアムリット氏、日本側では古川研究室、中村を含む他の大学関係者だった。 March 2020 ― 61 ―立ち位置を超えなければならないからだ。ではど のような研究手法ならそれは可能か。古川は、柳 田、宮本の民俗学的手法である、文化論的な調査 =その土地の人とともに同じ風景を見、人々の生 活で繰り広げられるさまざまなもの・こと・記憶 ・伝承などの知をまるごと感得すること、そして それらを共有し検討していくという姿勢を本意と する。この手法をとりいれ、地元の人とともにお こなう共同調査、共同実践を通して本テーマに接 近してみたいと思う。 1-2 フィールドの人とともに調査し研究する意 味 中村は 2007 年前後からネパールでの共同研究 を 始 め て い た。最 初 の NECRI(Nepal Environ-ment and Culture Research Institute=ネパール環境 文化研究所)との共同調査である。この共同調査 は、ネパール社会の近代化と宗教観、家族観、扶 養慣行などの変化との関連でネパールにおける独 自の高齢者扶養に関する仕組みを明らかにし、そ の仕組みを現地で使われるセワ(sewa)2)やダン (dán)3)との関連で論じた(2011, 2013, 2015)。し かし、この調査によって明らかにされた成果は、 どこまでも中村の問題関心から得られたものであ り、NECRI メンバーとの問題意識の共有化・共 同作業のもとで得られたものではなかったのでは ないかと反省させられた。 その後、ネパール震災を契機に、フィールドで 暮らす人々とともに、フィールドのなかから見え てきた生活課題と高齢者の生活や幸せについて考 え る 機 会 を 得 た こ と、さ ら に は VFSO(Visual Folklore Studies Office)のアムリット・バジュラ チャリャ(以下、アムリット氏)と古川ととも に、具体的な幸せの場をつくる実践を経験するこ とになることによって、あらためて震災後のコミ ュニティのありかた、高齢者の幸せについての共 同調査の重要性に気づかされ、I 地区での共同調 査を実施することになったのである。 I 地区の人たちは、被災者であり、コミュニテ ィとそこで生活する人たちの幸せを願い、困難を 逞しく乗りこえて復興をめざす人たちである。こ の人たちとの出会いは、調査や研究のためという 目的を超えて、フィールドの生活課題を共に考 え、学びあい、それ自身が共同調査・研究・実践 のひとつの方向性を示してくれた。この共同調査 ・実践のなかに確かに災害コミュニティから自立 共生的コミュニティへと変化している様相をみる ことができた。 本稿で使用するデータは以下の調査に基づく。 古川の「カトマンズ便り」4)、アムリット氏から ほぼ毎日 E メールで伝えられる「今日の写真」 (2015 年 4 月 25 日∼)、中村の I 地区及び HDCC (Hiranya Day Care Center と名付けられた高齢者 の集いの場、のちに詳述)への参与観察(2015 年 5 月 1 日∼7 日、その後は毎年 2 回の訪問で 2 週間程 度 滞 在 の フ ィ ー ル ド ノ ー ト(以 下 ノ ー ト))、HDCC コミッティメンバー、ミサ・プツ ァ(婦人会)メンバーらとの共同 調 査「HDCC を利用する高齢者へのインタビュー調査」(2019 年)。
2 震災とコミュニティに関する研究
本稿では、震災を経験したコミュニティとそこ で生きる人びとのコミュニティの変化を「自立共 生的な知」の生成との関連から考察する。まず は、これまで、災害とコミュニティ、災害と人び とについてはどのように論じられてきたのか、本 稿との関連で概観しておこう。 2-1 レジリエンス、コミュニティ・レジリエンス 災害時におけるあらたなコミュニティの生成に ついては、災害コミュニティと命名されるような 災害時に緊急避難的に立ち上がるコミュニティと ───────────────────────────────────────────────────── 2)sewa とは、子どもや親の世話、介護、介添え、神への奉仕・献身、一般の人々の社会的奉仕という意味で使わ れる言葉(サンスクリット語起源といわれる)。日本語のセワ、世話と同じ意味を持つ。 3)dán とは、サンスクリット語で贈与の概念及び実践をいう。世俗的な報酬への期待をせず無私に与えることをい う。僧侶や寺への布施・寄進をさす。 4)古川が 2008 年から毎年 2 回各 1 ヶ月ほどの滞在中に、主に院生や研究仲間に送っているフィールド日記。2015 年は 4 月∼10 月の留学中の便りである。 ― 62 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号は別に、コミュニティ自身が潜在的にもっている 力に注目し、コミュニティが災害から立ち直る力 をコミュニティ・レジリエンスという言葉で表現 する研究が阪神淡路大震災とりわけ東日本大震災 後に大量に現れた。レジリエンス(resilience)研 究は、1970 年代頃から心理学や精神医学で「心 の回復研究」としてトラウマに効果的に対処する 個人の能力として研究が先行していた。わが国で は、阪神淡路大震災以降、大災害を経験した人の PTSD、心のケア、人的・物的な被害を受け、近 隣関係の希薄化から生じた孤立化、孤独死などの 問題が噴出するなかで、いかに地域(コミュニテ ィ)を復興していくのか、心を回復していくのか に関心が高まっていったといえよう。災害(の) 社会学では、災害のなかで「地域や集団内部に蓄 積された結束力やコミュニケート能力、問題解決 能力などに目を向けていくための概念装置であ り、それゆえに地域を復元=回復していく原動力 をその地域に埋め込まれ育まれていった文化のな かに見ようとする」(浦野 2007 : 39)レジリエン ス概念が注目されてきた。と同時に、ヴァルネラ ビリティ概念と復元=回復力とともに着目した研 究の必要性も指摘されている(同前:41)。 地震や津波などの自然災害や突発的な大事故・ 大事件に見舞われ、その状態に耐え、元の安定的 な状態を取り戻そうとする力、困難から立ち直る 力であるレジリエンスは、コミュニティやそこで 暮らす人の生活の復旧や復興、回復を考える基本 的概念には違いないだろう。 2-2 災害ユートピア、束の間のパラダイス 災害が起きると、人はどのような行動をとるの であろうか。社会が無秩序化したなかで、人びと は暴動や略奪などを行う、地域が無法状態になる 様子が恐怖とともに TV や新聞などで報道され る。しかし、実際には、災害のあと、被災者の間 では相互扶助的な共同体が形成される、無償の行 為がなされるという状況を、サンフランシスコ大 地震(1906 年)をはじめとする 20 世紀に発生し たいくつかの災害ケースから明らかにしたのが 『災害ユートピア』(ソルニッ ト 2010)で あ る。 災害という異常事態のなかで、人は生きるため に、いかに相互扶助的な自発的共同体を形成した のかを考察し、その状況を「災害ユートピア」と 呼んだ。確かに、東日本大震災、熊本地震、最近 の台風被害の時、近隣での声かけや食料のわかち 合い、宿泊場所の提供、ボランティア活動でも示 されたように、被災した直後に普段の生活ではみ られないような助け合いが生まれたことは記憶に 新しい。『災害ユートピア』でも論じられている ように、人が本来持っている相互扶助的な力は、 既存の社会秩序や行政機能がマヒ・崩壊したとき に発揮される。人は普段は利己的で個人主義的で あっても大災害を前にして誰かの役に立ちたい、 誰かと繋がりたいという利他的欲求にもとづく行 動がなされることは、世界共通の現象ともいえ る。 しかし、このようにしばらく続いた「ユートピ ア」「束の間のパラダイスの発見」は、救援シス テムが整い都市機能が回復にするにつれて「変化 ・変容」「縮小」「消滅」する(させられる)よう になる。ならば、この「ユートピア」「パラダイ ス」は幻影でしかないのであろうか。著者は、 「ユートピア」「パラダイス」について、さまざま な事例のなかからそれは幻影ではないことを提示 しているものの、消えない、消滅しないとの確信 を得るほどの答えをみつけることは難しい。それ は、災害の状況、社会状況などが個別的であるこ とと関連しているからかもしれない。とはいえ、 著者はエピローグで、「ヒエラルキーや公的機関 はこのような状況に対処するには力不足で、危機 において失敗するのはたいていこれらだ。反対 に、成功するのは市民社会のほうで、人々は利他 主義や相互扶助を感情的に表現するだけでなく、 挑戦を受けて立ち、創造性や機知を駆使する。こ の数え切れないほど多くの決断をする数え切れな いほど大勢の人々の分散した力のみが、大災害に は適している」(同前:427)とする。「災害ユー トピア」を経験した人々ができることは、「その 経験から生きる意味や係わり合いやコミュニティ に対する愛を持って行動した精神を持ち続けるこ と、現実の社会を変えていくこと」(同前:428) など、日常の中で展開されることが永続化の方法 となるのかもしれないという。 これらの研究によって、災害によって破壊され たようにみえるコミュニティが従来持ってきた紐 March 2020 ― 63 ―
帯、知識、生活、社会関係の回復、災害を受けた 人が再び生きる意味を見出し、災害の経験をもと に、新たなものへと作り直していく永続性、継続 性、日常性が重要であることが明らかにされてい る。 ネパール社会では、伝統的なコミュニティが急 激な近代化のプロセスで強い紐帯を失いつつある ときに大震災を経験した。そうした状況のなかで コミュニティがふたたび活力を取り戻すにはどの ような方法があったのだろうか。ネパールの人た ちは生きていくためにどのような行動をとったの であろうか。ネパールの首都カトマンズに隣接す るパタン市 I 地区では、震災当初から援助に入っ ていた NPO などとの協働によってコミュニティ をコアとした高齢者を中心としたケア(ネパール 語では sewa)の場が出現するというあらたな展 開が見られた。そのプロセスは、あたかも震災を 経験したことで、本来、人が持っている利他主 義、相互扶助的力が「震災のユートピア」をつく りあげ、結果としてコミュニティのレジリエンス を高め、あらたなコミュニティを展開させる現象 ともいえる。 そこで次節からは、ネパール大震災を経験した I 地区のコミュニティとそこで暮らす人々がどの ようにして、そのコミュニティを創造させてきて いるのかを、「自立共生的な知」と関連させなが ら、あらたなコミュニティ生成のプロセスについ て記述する。
3 ネパールでの震災状況
2015 年 4 月 25 日(土)11 時 56 分、ゴ ル カ 地 方北東部シンドゥパルチョークを震源とするマグ ニチュード 7.8 の大震災は、震源地から近かった 首都カトマンズのあるカトマンズ盆地にも甚大な 被害をもたらした。その後も余震は続き、5 月 12 日にはマグニチュード 7.4 の大きな余震も発生し た。この余震によって、最初の地震では倒壊を免 れた建物も壊れ使用できなくなるなど、復興・復 旧に向けて頑張ろうとしていた人々の心身面や生 活面に大きな打撃を与えた。この地震による被害 状 況 は、死 者 は 8,712 人(男 性 4,808 人、女 性 3,902 人)、負傷者は約 22,500 人、被災者は約 810 万人にも及んだ。被害者の多くは子どもと高齢者 に集中し、ネパールの生活形態を反映して男性よ り女性の死傷者が多くなっていた。 建物の全壊は約 49 万棟、半倒壊は約 27 万棟、 政府系施設の約 3 万箇所が被災したと言われてい る。震災直後は数十万人にも及ぶ人々が公園や広 場などのテントやビニールシートをはっただけの 避難場所での生活を余儀なくされ、首都カトマン ズの空き地には約 6,400 人がテントでの生活を強 いられているとの報道(朝日新聞、2015. 10. 25) もあった。 中村は地震から 1 週間目の 5 月 1 日にネパール を訪問したがその時もまだ余震が続いていた。食 料やテントの配布は十分には進まず、避難所では 支援物資を求めて行列ができていた。当時を振り 返ってみると、都市機能はストップ、食料や物資 の流通が滞り市場には野菜や食肉が届かない、ス ーパーからは物品が不足する、被害を免れた店舗 や事業所でもシャッターが降りたままの状態が続 いていた。倒壊した建物の掘り起こし救出作業を している軍隊や警察の活動を昼夜見守りコミュニ ティを離れない住民、粉塵が舞う中を手作業で自 分たちが住んでいた建物の後片付けをする住民に 混じって、若者や大学生ボランティアが自分たち のコミュニティを超えて支援活動を行っている風 景が目立っていた。避難場所やテントの外では、 互いに助け合いながら食事の支度を手伝う風景も 見られた。コミュニティの自治会や青年団、若者 グループが自警団を作ってコミュニティを見守る 動きがあった。 ネパール政府の機能不全のため、壊れた個人の 家とともに、公共的な寺院、コミュニティホール の修繕や建て直しなどについては、コミュニティ のあちらこちらで意見交換やコミュニティの復興 プランを検討するタウンミーティーングが始めら れ、合意形成に向けて動き出していた。 新憲法を巡っての混乱が続きインドとの関係が 悪化し国境封鎖なども経験するなど混乱した政治 情勢のなかで、2015 年 9 月 20 日に新たな共和国 憲法が制定され共和国体制のもと、ようやく罹災 した家屋や建物、インフラの再建も進み、日常生 活が戻りつつある5)。震災から 4 年が経過しパタ ン市 I 地区でも、道路の整備、建物の建て替えが ― 64 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号行われている。次に、コミュニティとそこで暮ら す人々の震災後の変化を見ていこう。
4 パタン市 I 地区で始まったコミュニテ
ィ再生のための共同実践
4-1 パタン市 I 地区について パタン市は川を挟んでカトマンズ市に隣接する 古都である。カトマンズ中心地からは車で 15 分 である。町の中には寺院や仏塔も多く、仏像やそ の関連の伝統工業や金銀細工職人(サッキャ)な どを中心に先住民族であるネワール人が住民の 8 割を占める地域でもある。ネワール人はバハ・バ ヒ・ナニと呼ばれる集合住宅もしくは道沿いに密 接して軒を連ねるアパートで暮らしている。それ らの住宅にはかならず中庭もしくはチョークと呼 ばれる道の辻や途中の広場、水場など伝統的で歴 史的な共有空間がある。ネワール社会ではもとも とコミュニティ、居住エリアがカーストごとに棲 み分けられていて、震災時の避難所もそのコミュ ニティ単位で造られていた。I 地区は、バジュラ ヤナ仏教の総本山の位置づけにある H 寺院の裏 側にあるもともとはその寺院の僧侶家族の中庭を 取り囲む集住コミュニティ(ナニ)であった(写 真 1)。 震災後、この I 地区の中庭が重要な避難場所に なり、先取りして言えば、その避難場所が高齢者 のデイケアセンターの設立とその活動実践の場へ 変化し、同時に伝統的な高齢者ケアの新たな展開 を意識化させ、コミュニティの再創造の場になっ たのである。 I 地 区 の 人 口 は 163 人、世 帯 数 は 23 世 帯 (2019 年 10 月現在)である。震災により、家屋 が倒壊、半倒壊した 4 世帯は、I 地区から近隣に 転居している。震災により自宅に住めなくなった 家は 6 軒。それでも、転居した後も、祭り・儀 礼、グティ(組織/講)の活動の時には I 地区に 戻ってくる。H 寺院もあるため毎日の祈りも欠 かすことがない。コミュニティへの帰属意識は高 く、共同性も強いコミュニティである。 4-2 I 地区の中庭で始まった高齢者のためのデ イケアセンター設立への動き この I 地区で、なぜデイケアセンターが設置さ れたのか、古川の「カトマンズ便り」やアムリッ ト氏の「今日の写真」からコミュニティの動きを みておこう。 4 月 25 日の地震発生直後から居住区のあちこ ちで避難テントが造られ、I 地区の婦人会(ミサ ・プツァ)など近隣の女性たちによる炊き出しが 始まったという(写真 2)。まさに「災害ユート ピア」で述べられていたコミュニティが持つ相互 扶助がそこにあった。互いに助け合って食事の準 備や洗濯など日常の生活の世話が行われていた。 普段はあまり話をしない人たちが一緒に避難し共 に暮らす場になっていた。また、テント避難のた め空き家になった家の防犯のため地域の夜間見守 ───────────────────────────────────────────────────── 5)ネパールは長い内戦状態の民主化運動を経て 2008 年に王政から連邦民主共和国に移行し、その後、政党が入り 乱れて政権を争う状態が続き、ようやく 2015 年の大震災後に制憲議会によって憲法が公布された。 写真 1 I 地区の中庭。中央上方、小さな建物が HDCC 写真 2 地震直後に炊き出しを行う女性たち March 2020 ― 65 ―りや警備も、若い人たちが中心になって交代で行 われていた。そうした避難生活は 2 ヶ月余り続い た。これまで経験したこともないようなコミュニ ティの新たな関係もでき、コミュニティの存在が I 地区の人々に意識化されていった。 とはいえ、中庭につくられたテント避難所での 生活が長期化するなかで、テント内では高齢者が 嫌がられ、相手にされない高齢者がテントの外に 出される、孤立するということも起こっていたと いう。震災のショックから食事を勧めても食べな い高齢者、シャワーも使っていない高齢者、夜眠 れない高齢者、ただ呆然と座っているだけの高齢 者が目立ち始めていた。5 月 12 日の大きな余震 後はさらにその傾向が強くなっていったという。 余震も落ち着く 5 月下旬頃から、自宅に帰る人も 増えていくなかで、家屋が半壊し自宅に戻れない 高齢者や震災トラウマのため自宅前の椅子に腰掛 けて自宅に入れない高齢者を見かけることが増え た。高齢者の世話や孤立問題を認識したアムリッ ト氏と青年グループの一部のなかで、コミュニテ ィの公民館を利用して日中の高齢者の居場所にし てはどうかという話が持ち上がった。これらの状 況を聞いた古川は、日中心配なく憩える居場所と してセンターを考えてはどうかというアイディア をアムリット氏に伝えた。しかし公民館は I 地区 の共有空間のため高齢者のみの居場所にすること が難しいということから、まずは、避難テントを 男性用、女性用、介護を必要とする高齢者用の 「デイケア・テント」として I 地区の中庭につく ろうと考えたアムリット氏と古川はテントの寄付 についてフィールドワーク仲間の O 氏に相談、 O 氏は早速 6 月上旬に日本からテントを持参し、 アムリット氏と古川、O 氏、青年グループとと もに I 地区の中庭に 3 張のテントを張った。I 地 区の共有空間である中庭に男性用、女性用、介護 を必要とする高齢者用の「デイケア・テント」が つくられたことは、I 地区の住民全員に震災後の 高齢者が置かれている状況を認識させる象徴的な 意味をもったと考えられる。 6 月中旬になると、ネパールでは雨季を迎え る。暑さと大雨で「デイケア・テント」の活用は 不適切であり、仮設でもきちんとした場所を作る ことが、アムリット氏、古川との間で検討されは じめる。その過程で、高齢者のための持続的なデ イケアを実現する場所を作ろうという案がアムリ ット氏から青年グループに提案された。この企画 に賛同した青年グループの内の 5 人は、震災後の I 地区だけではなく郊外の農村部への支援活動を 行っていたボランティアグループのメンバーであ り、そのなかでも活動的な人々だった。この 5 人 が発起人となって、I 地区を含む街区(トール) の役員会であるトール・スダールサミッティとト ールの婦人会であるミサ・プツァなどに相談をも ちかけ、デイケアセンター設立の意義を説明する ミーティングを開いて、トール全体の合意を得る 努力を続けた。また同時に、I 地区の高齢者宅を 訪問しデイケアセンターの説明を行っていったと いう。デイケアセンターの設置場所についても話 し合われた。I 地区の H 公園を含む中庭は、I 地 区の共有財産であるため、全員の了解を得る必要 があったのだ。 そうした動きのなかで、古川、アムリット氏か ら相談を持ちかけられた中村は、7 月 8 日にネパ ールを訪問し、I 地区自治会、婦人会、青年団な どに日本のデイサービスセンターの実態や課題、 ネパール独自のデイケアセンターの可能性につい て講演し、ファンドを申し出た。候補の設置場所 を巡っては、これまでさまざまな儀礼や行事の時 のボーズ(共食)に使用するトールの共同空間で あるとして反対する人、高齢者がデイケアセンタ ーを利用することは家族が高齢者の世話を放棄す ることになるといった家族規範や世話観からデイ ケアセンターの設置を躊躇していた人々があった という。その人たちとの度重なる話し合いを経て 合意形成がすすみ、デイケアセンター計画は具体 化していった。震災時の物資不足や高騰のなか、 I 地区居住の建築家による設計、知人などの人脈 を頼りながら資財を調達し、大工による建設が 7 月中旬から進められ、8 月 15 日の行事がひっき りなしに続くグンラ月入りまでの完成をめざして いた。 4-3 デイケアセンター仮オープンする I 地区では、震災被害を受けた家屋、水道、電 気の問題が解決されないまま、しかも、自分たち も被災しているにも関わらず、デイケアセンター ― 66 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号
開所に向けて、アムリット氏を中心に、5 人のコ ミッティメンバーたちは、デイケアセンターの運 営方針について議論を重ねていた。その議論は、 日本にいる中村にもメールで伝えられ成り行きを つぶさに把握することができた。基本的には、5 人のコミッティメンバーが主体的にデイケアセン ターを運営するため、I 地区やその他の地域で協 力可能な人的・物的資源のリスト作り、開所後の プログラム、規約などを作成していった。そして 2015 年 8 月 15 日に予定どおりデイケアセンター は仮オープンした。 デイケアセンターの名称は、I 地区の守護寺院 の正式名称の頭文字から H デイケアセンター (通称を HDCC)となった。HDCC の目的は、高 齢者の健康、愉しみ、信仰の 3 つを重視して、高 齢者の生活を豊かに幸せに過ごす場所とする。利 用曜日は、月、水、土の週 3 回、利用時間は午前 11 時∼午後 3 時まで。利用者は I 地区に居住す る 75 歳以上でデイケアセンター利用を希望する 高齢者である。 運営組織は、①コミッティメンバー 5 人、②サ ポートメンバー(H 図書館、トール・スダール サミッティ(街区役員会)、ミサ・プツァ(婦人 会)、青年会)、③専門家(医師 3 人(内、日本の NPO 法人 D 海外保健協力会医師 1 名):看護師 2 名:理学療法士(PT)1 名(日本の NPO 法人 D 海外保健協力会))、④日本人サポーター(筆者ら を含む 5 名)である。また、今後の運営に当たっ ては、ミーティング(コミッティー会議=月に 1 回、全体代表者会議=2 ヶ月に 1 回、利用者会議 (高齢者とコミッティー=半年に 1 回)としてい る。半年後、1 年後に、デイケアセンター運営の 見直しを行うこととした。また、HDCC を利用 する高齢者への支援だけでなく、I 地区コミュニ ティの人々へのサポートとなるために実施可能な 要望は実現しようということになった。 4-4 HDCC オープンとこの 4 年間の歩み 2015 年 8 月 26 日、HDCC は正式にオープンし た。I 地区の 75 歳以上の高齢者 18 名(2 名は病 気で欠席)とトールの自治会、ミサ・プツァなど 約 50 名の参加があり HDCC のオープニングセレ モニーが開かれた。筆者らも創設者メンバーとし て出席した。セレモニー後の会食は本来なら儀礼 食が用意されるところを、震災復興時であるので 簡素にすることにし、I 地区自慢の料理人と女性 たちによって調理された会食が参加した高齢者や I 地区と隣の N 地区の人々に供され、和やかな 祝賀会となった。 翌日から HDCC が本格的にスタートした。仮 オープン後から HDCC のプログラムを支えてい る PT の M さんが、1 時間半、ゲ ー ム、音 楽 に 合わせた健康体操と談話を行なった。高齢者メン バーとその家族、婦人会から 16 名が参加し、あ っという間に時間が過ぎた。その後は、月曜以外 の水・土は、読経や利用者同士の談話、石けんづ くりなどが行われていた。また、9 月上旬には、 12 年に一度主神が開帳される郊外にある寺院 (ゴダワリ寺院)へのバス遠足が実施され、高齢 者だけでなく家族同伴も貴重な体験だったとのこ とである。 HDCC では、ダサインやティハールなどネパ ールの代表的なお祭りだけでなく、ネワール社会 のお祭りを祝う宗教儀礼も行われていた。お祭り に向けて毎日夕方から HDCC の場所を使用し、 儀礼の時に使用する葉っぱの皿(ラプティ)、蝋 燭や線香づくりなどを I 地区の婦人会が行ってい たという。12 月の満月の時は、各家では米の収 穫を祝い健康を祈るためにヨマリ(お菓子)を作 ってお祝いをする。HDCC ができたことで、高 齢者だけでなく I 地区や隣の N 地区の高齢者に 混じって、若い女性や子どもたちがヨマリ作りに 参加するようになり、高齢者が作り方を教えた り、当時の生活ぶりを話す和やかな場となり、い までは 毎 年 の 恒 例 行 事 に も な っ て い る(写 真 3)。 写真 3 ヨマリづくり March 2020 ― 67 ―
2016 年 8 月 に は 1 周 年 記 念 会 が 催 さ れ、 HDCC 関係者、家族、I 地区の住民、パタン市役 所関係者の出席もあり、1 年間の活動の歩みをま とめた記念誌が配布された。2018 年 8 月の 3 周 年記念会では、高齢者の写真大会、I 地区区長の 挨拶、楽器演奏、伝統ダンスなど 2 時間半のセレ モニーに、HDCC 高齢者とその家族、招待者、I 地区の住民など 200 名の参加で、華やかで賑やか なお祝いとなった。その時に、I 地区区長より「I 地区のサポートでコンクリートレンガ張り耐震ネ ワール様式建築で新しい HDCC の建物を建設す る」との発表がなされたのである。いずれは、H 寺院の庭に相応しい建物を作ろうと話していたこ と が、こ の よ う に 早 く 実 現 す る こ と に な り、 HDCC 高齢者やコミッティメンバー、ミサ・プ ツァ、家族たちにとっては大変な喜びであった。 この 3 年間の HDCC の活動がコミュニティに確 かに認められ、根付いた瞬間だった。 HDCC という場は、震災後の I 地区の復興の シンボル的存在となっていったと考えられる。し かもコミュニティとそこで生活する人びとにさま ざま影響や変化を与えてきている。HDCC へ通 う高齢者のなかには、次第に HDCC を「いろい ろな良いことを学べるところ」「幸せを分かち合 う場」「第二の家」であると位置づけるようにな る。さらには「神様へ祈る心で周りを世話した い」「私たちが守る場所」「お互い助け合いたい」 (2019 年インタビュー調査)といった「世話の 場」という認識を持つようになった。震災を契機 にスタートした HDCC によって守られることの 喜び、守られたからこそ守ることの大切さを得て いる。このような高齢者の存在は、高齢者自身を 変え、家族を変え、コミュニティの人々、コミュ ニティ全体に影響を与えている。こうした変化こ そが、「自立共生の知」の生成ではないかと筆者 らは考えている。それらについて、もう少し具体 的にみていこう。
5 HDCC と い う 場 が 発 信 す る“も の”
“こと”
2015 年 5 月から始まったデイケアセンターの 4 年間の活動記録や参与観察、「HDCC を利用する 高齢者へのインタビュー調査」(2019 年 5 月∼7 月)の結果から考察する。なおインタビューでの 高齢者の発言については( )内にインタビュー 時期と高齢者のイニシャルを記す。 5-1 融通無碍なデイケアプログラム HDCC では、週 3 日の午前中、月曜日は健康 /体操、水曜日は信仰/お経、土曜日は映画やス ライド鑑賞などの娯楽というプログラムが提供さ れている。また、半年 1 回の遠足も企画され、こ れまで、寺院参拝、博物館、美術館、王宮訪問な どが行われた。このようなプログラムは、パタン 市、ネパール全体の他のデイケアセンターと異な っているわけではない。 しかし HDCC のプログラムは、高齢者の生活 を重視した融通無碍なものとなっている。具体的 にみていこう。一つは、体操(通称マエダ体操) である。他のデイケアセンターではヨガがおこな われることが多い。しかし、HDCC では、先述 した PT の M さんが考案した健康体操である。 午前 9 時から 10 時まで、HDCC 屋内、天気が良 いときは公園の芝の上で行われる。フィジカルな 面だけではなく、祭りに関する「しりとり」をし ながら体操を行うなど、楽しく笑いの絶えないコ ミュニケーションをとりながら行っている。体操 の習慣のない高齢者にとっては、「元気になった」 「膝や腕の痛みがなくなった」「体調が良くなっ た」「健康に気をつけている」「教えてもらった体 操を家でも行っている」と、体操を通じて心とか らだの健康状態がプラスになっていることを実感 している。高齢者の感想のなかに「体操は、最 初、覚えることができなくてみんなバラバラに行 っていたが、タイミングが合うようになると面白 いし楽しくなった」とある。毎回体操後には血圧 測定があり記録もされているため、体調に無理な く楽しみながら自由に体操できることが高齢者を 引きつけ心身の安定と回復をもたらしている。 もう一つは、信仰、宗教的行事が重視されてい ることである。他のデイケアセンターでは、バジ ャン(仏賛歌演奏)などの時間があるのが一般的 である。HDCC では、H 寺院という大きな仏教 寺院もあることから僧侶の講話を大切にしている し、またネワールの高齢者にとってはこころの安 ― 68 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号らぎ、他者への祈り、読経などの宗教的行いは、 欠くことができないものである。そのため僧侶を 呼んで講話を聞きお経を詠むときには、HDCC の高齢者だけでなく「一緒にお坊さんの講話は聞 きたい、お経を詠みたいと言って来る人が多くな ってきている。そういうみなさんには気軽に一緒 に詠みましょうと言っています。HDCC の高齢 者と友だちだったり、I 地区の人だったりが喜ん で来ています」(2016. 3. 7 ノート)というよう に、閉じた空間ではなく、開放された場所となっ ている。また祭りや宗教儀礼の時は、HDCC を 近隣に開放している。儀礼用のイタ(灯心)、葉 っぱのお皿、ヨマリづくりを近隣の人たちととも に行っている。このように、HDCC は、儀礼や 祈りをとおして、人々の安らぎ、こころや魂の回 復の開かれた場になっている。 そしてもっとも HDCC らしいのは死者への弔 いである。当初は HDCC のプログラムにはなか ったことである。HDCC がスタートして 4 年間、 メンバーの 5 名が亡くなっている。ネワール社会 では、死者への弔いは同カースト・同コミュニテ ィに住む人で構成される死を弔う葬式講(シ・グ ティ)が中心となって行われるのが一般的である ため、HDCC で亡くなった方の弔いを HDCC で も執り行うことは考えられていなかった。しかし コミッティメンバーとミサ・プツァメンバーは、 亡くなった高齢者の追悼プジャ(供養)はできな いか、どのようにしたらよいのかと話し合い、亡 くなった 4 日目にお経を詠む追悼の会をして見送 るということを決め、亡くなった家族、HDCC の高齢者の了解を得て、HDCC 内で執り行うよ うになった。HDCC メンバーだけでなく I 地区 や縁のある人々が参加することもあるという。死 者の家以外でも追悼の会が執り行われることはき わめて珍しく、おそらく I 地区でも初めての試み だったと考えられる。HDCC の高齢者は「自分 がなくなった時も、あのようにしてくれるのであ れば安心です」(2019. 3. 8 ノート)と語った。大 切なメンバーを弔う、見送るのは何れ自分もその ようにしてもらえるという心強さを得ていること でもある。熊本震災やその後日本で起こった災害 犠牲者、日本人サポーターの肉親が亡くなった時 にも、HDCC 全員が追悼の会をひらき祈りを捧 げてくれた。震災以降、HDCC でともに過ごし たメンバーは生を支え合ってきた仲間であり、そ の仲間の死を悼み見送る追悼プジャ(供養)に は、死者への礼とともにあふれる温かさがある (写真 4)。 以上、HDCC のプログラムは高齢者の生活を 重視し、融通無碍であると述べてきたが、震災に よってつくられたデイケアセンターについては、 当初、HDCC の高齢者の多くは、「実のところ、 3 年前に HDCC が始まると聞いたときには、あ まり続かないだろうと考えていました。デイケア の内容もわからなかったのです」(2019. 6. 7 G さん)という思いを持っていたようだ。しかし、 HDCC に通うようになり、「震災の時から、私た ちは、一緒に避難していたので、建物ができると 聞いたときに、何かが起こったときの建物(避難 所)だ と 安 心 し ま し た」(2019.6.7 D さ ん)や 「アムリットたちのグループが、それぞれの家に 熱心にこのセンターのことを説明してくれたから 信用して来てみました」(2019. 6. 17 T さん)と 変化し、この 4 年間、HDCC で過ごす時間、人 と人とのつながりが「私たち高齢者のためにいい ところを作ってくれました。私たちもできるだけ 世話をしたい」(2019. 7. 5 N さん)と考える高 齢者も少なくない。「HDCC が高齢者を世話す る」から「高齢者が HDCC を世話することを愉 しむ」という自立共生的な関係ができはじめてい るようでもある。 5-2 高齢者が変わる、家族が変わる HDCC へ通うようになって高齢者は変わった、 家族も変わったということを良く聞く。どのよう 写真 4 HDCC メンバーの追悼会 March 2020 ― 69 ―
に変わったのであろうか。今回のヒアリング調査 で明らかになったのは、「ナマステ!と挨拶する 習慣になりました。ナマステをするようになって みなさんととても親しくなりました」(2019. 7. 5 K さん)とのことである。それは、私たち日本 人サポーターが「ナマステ」と挨拶する様子を見 ていて、自分たちも言うようになったということ である。また、そうした挨拶によって、よくしゃ べり、大声で笑うことが多くなった(2019. 6. 17 T さん)こととも関連しているようだ。 ネワール社会の高齢の女性は毎朝、2 時間ほど かけて近隣の寺院や祠など数カ所をお参りし家族 の安寧を願って神様へ祈りを捧げることが日課で ある。お参りを終えてから食事をする。その後の 過ごし方としては、孫と同居している場合は孫の 世話、近隣に住む親族宅を行き来する以外は、テ レビを見て過ごすことが多いという(竹内:2007 p 137、ラタ・サッキャ:2013 p 58)。 また、子ども家族と同居していても、「子ども 家族は自分たちで好きな場所に行って、(自分は) 一緒に出かけるということは少なかった。若いと きから家族の世話、お祭りや儀礼の世話をしてき たが、高齢になってからも子どもたち家族が出か けた後の家の留守番をしていることが多かった」 と の こ と 。 し か し 、 HDCC に 来 て か ら は 、 「HDCC の世話をしている若い人たちと一緒に出 かけるようになってとても嬉しい」(2019. 3. 8 ノ ート)と語っている。HDCC に通うようになっ てから、外出の機会も増えたと同時に、HDCC へ通うために服やアクセサリーを買うことが嬉し いという高齢者。「昼間ひとりでいることがなく なった」(2019. 6. 13 K さん)「外出するように なった」「何事にも前向きになりました」(2019. 7. 5 A さん)と語るように、HDCC の存在は、 身体的な健康だけでなく、外とのつながりができ たこと、自身の生活を生きること、他の高齢者と ともに自由に楽しむように、自己を開放していく ことができるようになったようである。 そのことをさらにあと押したのは、設立 3 周年 記念にむけて高齢者自身が撮った写真を展示する 企画である。この企画は、いつも撮られる立場 (地域全体が世界遺産であり、観光的にも有名な H 寺院の裏庭にあるため、外国人観光客から写 真をとられていた)の高齢者が、自分もその人た ちを写真に撮ってみたいと話していたこと聞いて いたアムリット氏(写真家でもある)が、古川、 S 氏とともに、高齢者に写真をとってもらいその 写真を展示する企画を考えたのである。すぐさ ま、アムリット氏たちは、HDCC で、体操を終 えた後に、「アムリットの写真教室」を催し、高 齢者たちに写真撮影について学んでもらい、2 回、写真撮影会を実施している。「アムリットさ んから写真をとることを教えてもらった。私たち の年代でカメラを持っていろいろな景色や人を撮 ってプリントして展示することなんて考えられな いことです。撮影した写真を孫に見せたら、孫が 笑って見ていた。写真をとることはほんとうに良 いことですね」(2019. 6. 17 T さん)と(写真 5)。 そのような高齢者の変化を知り、家族も変わっ た。HDCC で作ったクラフトや遠足の様子など を 家 族 に 話 す 機 会 が 増 え た こ と で、最 初 は HDCC へ通うことに反対していた息子が送迎を するようになったこと。母親を HDCC に通わせ ていることを「恥じて」HDCC の行事や I 地区 の行事への参加もない息子に対して、HDCC の 世話役であるコミッティメンバーが粘り強く母親 の様子を伝えることで、挨拶もできなかった息子 から挨拶やお礼のことばが寄せられるようになっ た(2019. 3. 9 ノート)。親族関係、家族規範が強 いネワール社会では、自分の親を他人に世話して もらっていると言われることは、子どもにとって は辛いことである。親の世話をしない、他人に任 せることを恥と考えている子どもには、批判する でもなく押しつけるわけでもなく、HDCC で過 写真 5 3 周年記念日の写真展 ― 70 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号
ごす高齢者の様子を伝え、行事への参加を促す、 時と場合によっては子どもへ厳しく意見するとい った地道な方法で対処している。このような対処 をする HDCC(の メ ン バ ー)へ の 信 頼 を 高 め、 他者が世話をする、他者から世話を受けるという ケア観やケアの意味を考えながら、コミュニティ の人々のケア意識を育てているのだと考えられ る。 5-4 HDCC の共同実践から共同調査へ これまで、HDCC はコミッティメンバー、ミ サ・プツァメンバーを中心に運営されてきた6)。 筆者たち日本人サポーターはその運営を見守り、 年 2 回のネパール訪問時には、可能な限り様々な 行事にも参加してきた。これからの運営やプログ ラムを検討するため、他のデイケアセンターの見 学訪問も一緒に行ってきた。このような共同実践 を通じて、創設後 4 年間の HDCC の運営の評価 や将来の方向性を検討するため高齢者から意見を 聞こうと「HDCC を利用する高齢者へのインタ ビュー調査」を実施しようということになった。 2019 年 3 月訪問時に、中村、古川、アムリット 氏を含むコミッティメンバー、ミサ・プツァメン バーとの共同調査が企画された。それは、先述し たように、I 地区中庭に建てられた新しい HDCC (I 地区の診療所と併設予定)への移転を契機に、 新たな HDCC の実践への模索のためでもあった。 2019 年 5 月、コミッティメンバー、ミサ・プ ツァメンバーは調査目的、調査内容、初めて経験 するインタビュー調査手法を理解するため、ミー ティングを 4 回実施して調査に臨んでいる。 2019 年 5 月の下旬には、HDCC での体操終了 後に調査対象である高齢者に、調査目的や調査内 容の説明会を 2 回実施し、調査協力のお願いを行 っ た。調 査 協 力 を 得 た 高 齢 者 20 名 に 対 し て、 HDCC 内で 5 月 27 日からインタビュー調査を実 施した(写真 6)。 インタビュー調査は、はじめての調査というこ とも考慮して、予め設定しておいたインタビュー 項目に基づいて実施され、平均 2 時間程度のイン タビュー時間であった。高齢者の話を遮ることな く話を聞いていると内容があちらこちらに飛んで しまうも途中で遮断せず根気よく聞いていたため 長い場合は半日かかった高齢者もいたとのことで ある。半構造的調査がどんどん緩やかな談話型の インタビュー調査に変わっていったのである。 調査終了後に高齢者から聞き取った内容を全員 でチェックして、アムリット氏が 20 名の各調査 回答内容を作成した。回答はネワール語であった ため、アムリット氏が、ネワール語から日本語に 翻訳し、筆者らにメールで伝えられた。筆者らは 日本語チェックとともに、高齢者ひとり一人のイ ンタビュー内容について、2019 年 8 月からの約 1 ヶ月のネパール滞在中に確認・補足して整理し た。 これらの共同調査は、新たな HDCC への模索 のためであった。確かに、今後の HDCC の運営 やプログラムを検討するために貴重なアイディア を得ることができた重要なものとなった。ただそ れ以上に、コミッティメンバー、ミサ・プツァメ ンバー、高齢者、そして筆者らにも次のような思 いもかけない結果がもたらされたのである。 まず、コミッティメンバー、ミサ・プツァメン バーにとっての共同調査の経験について。アムリ ット氏以外は、普段 HDCC では高齢者とともに 過ごしてはいても、あらためて高齢者に意見を求 める「調査」「インタビュー」する経験はもちろ んはじめてのことで、緊張しつつも新鮮な体験だ ったとのことである。共同調査に参加できたから ───────────────────────────────────────────────────── 6)コミッティメンバーは、Babukaji Shakya, Raju Shakya, Amrit Vajracharya, Bipin Shakya, Bijaya Shakya、ミサ・プ
ツァメンバーは、Sita Shakya, Nirmala Shakya, Gunakesari Shakya, Tara Shakya である(敬称略)。 写真 6 共同調査風景
こそ、高齢者からさまざまな意見を聞き、いまま で知ることのできなかった高齢者の思いや考え方 を再認識できたこと、自分たちが行ってきた世話 (sewa)は間違いではなかったという自負を得る 機会となったとのことである(2019. 9. 1 ノー ト)。 高齢者たちの反応はどのようなものだったの か。「インタビューは試験を受けるような気分だ った」「このインタビューで答えたら、これから も、HDCC に 行 け る、新 し い HDCC に 行 け る」 とインタビューを終えた高齢者が笑顔で話してい たとのことである。このことについては、アムリ ット氏は、多くの高齢者が学校に行った経験が少 ないからだろうと述べている。もちろん、インタ ビューは試験でも今後の HDCC 利用の可否を決 めるものではないことを承知のうえで、高齢者自 身も自由に意見を言える、表明できる経験を得た こと、自分たちの意見を伝えることが HDCC の これからの役に立つことになるとの認識を持つに いたっているということだろう。 そして、筆者らにとっては、コミッティメンバ ーやミサ・プツァメンバーとの共同調査を経験し て、コミッティメンバーやミサ・プツァメンバー だからこそ得られる高齢者の真実やコミュニティ の実情を教えられ、気づかされたことである。共 同調査 で な け れ ば 得 ら れ な い さ ま ざ ま な“こ と”、“もの”があった。彼ら/彼女らは、筆者ら と HDCC の高齢者、コミュニティとを媒介する 存在となっている。今回の共同調査から、I 地区 の高齢者やコミュニティが抱える生活課題をとも に発見し、これから主体的、自立的に解決方法を 見出すことが可能になったと、彼ら/彼女らとと もに実感できた。
おわりに
アンドリュー・ゾッリ(2013)は、「強力な社 会的レジリエンスの存在するところには、必ず力 強いコミュニティが存在すること・・・(中略) 混乱に対処し、傷を癒すためにレジリエントなコ ミュニティが拠り所とするには、深い信頼関係に 根ざしたインフォーマルなネットワークだという ことだ。レジリエンスを人為的に植えつけようと する努力は功を奏しがたいが、その努力が真に日 常の活動に根ざした人間関係から生まれるとき、 レジリエンスは花開く」(pp.21-22)と述べてい る。 震災によって創造された HDCC は、I 地区コ ミュニティの中心に位置し、中庭を取り囲むよう に建てられている家々から、いつでもだれでも、 利用している HDCC の高齢者の様子を見たり知 ったりすることができる。そのため、I 地区の人 びとは、HDCC の高齢者の変化をみることで、I 地区のコミュニティ、そして自身が震災から少し ずつ回復することの実感を得てきたのではないだ ろうか。HDCC は震災当初、被災した高齢者の 孤立や孤独を癒し世話を行うために設置された。 その後は、コミッティメンバーやミサ・プツァメ ンバーの無償で「深い信頼関係に根ざしたインフ ォーマルなネッ ト ワ ー ク」や「sewa」や「dán」 の基盤のもとで動き始め、この 4 年間で、そこに 通う高齢者のみならず、コミュニティとそこで生 きる人の生老病死を支え/支えられる結節点とな っていったといえよう。このように HDCC に象 徴されるレジリエンスは、人びとが愉しんで自立 しながら互いを支え合う開かれた公共空間、共同 空間を形成してきたのである。HDCC は「コン ヴィヴィアリティのための道具」そのものへと生 成され続けているといっても過言ではない。 これらの事象は、ネパール社会のなかでも、パ タン市のひとつのネワール社会特有の事象である かもしれないが、これらの事象が、よく知られて いる H 寺院を訪れる人々が HDCC を見学するこ となどを通して他の地区にも関心や影響を与えて いることも事実である。 ネパール社会は、これまで伝統的に高齢者ケア の拠点であった家族、親族、コミュニティの機能 が急激な近代化のなかで衰退したところに震災に よって生活が崩壊するなかで、その困難に対処 し、生きる方法を模索しはじめたのである。本稿 では、I 地区に創られたデイケアセンターをもと に、コミュニティの人と人がつながり、互いが助 けあいながら日常を生きている姿を描いてきた。 伝統的に育んできた高齢者の世話を、さまざま人 や組織と主体的に協働しながら HDCC という形 に変容させさまざまな工夫を加えて、新たな高齢 ― 72 ― 社 会 学 部 紀 要 第133号者ケアの可能性が開かれた様子。それは、大震災 という緊急時の数日間、数週間をともに食べ、と もに昼夜を過ごした経験によって創り出された、 コミュニティの新たな動きであった。一過性の 「ユートピア」「パラダイス」とみなすのではな く、この 4 年間の日常を取り戻すなかから、培わ れてきた人々の自立共生的(コンヴィヴィアル) な知とその実践としてのコミュニティといえよ う。このようなコミュニティの立ち上がりに出会 えた共同実践、共同調査から私たちは多くを学 び、これからもさまざまに学んでいくことだろ う。 参考文献 アンドリュー・ゾッ リ 著 須 川 綾 子 訳、2017(2013) 『レジリエンス復活力 あらゆるシステムの破綻と 回復を分けるものは何か』ダイヤモンド社 長谷川公一他、2016『岐路に立つ震災復興 地域の再 生か消滅か』東京大学出版会 イヴァン・イリッチ 著 渡 辺 京 二 他 訳、2015(1973) 『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸 文庫 前田昌弘、2016『津波被害と再定住 コミュニティの レジリエンスを支える』京都大学出版会 中村律子、2016「ネパール震災と高齢者ケアーコミュ ニティ・ケアの再創造」現代福祉研究第 16 号 p 177-193 法政大学現代福祉学部 似田貝香門他、2015『震災と市民 1 連帯経済とコミ ュニティ再生』東京大学出版会 レベッカ・ソルニッ ト 著 高 月 園 子 訳、2018(2010) 『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立 ち上がるのか』亜紀書房 サッキャ・ラタ、2013『ネパールの歴史都市における 中庭型集住体の共同空間の管理システム−パタン 旧市街地を対象として−』京都大学博士学位論文 竹内愛、2007「ネパールにおける ネ ワ ー ル 族 女 性 の 「新たな生き方」に関する文化人類学的研究−女性 自助組織「ミサ・プツァ」」愛知県立大学紀要 p 135-164 浦野正樹、2013(2007)「災害社会学の岐路−災害対応 の合理的制御と地域の脆弱性の期限」大矢根淳他、 『シリーズ 災害と社会① 災害社会学入門』弘文 堂 吉原直樹、2019『コミュニティと都市の未来−新しい 共生の作法』ちくま新書 謝辞 共同調査では、コミッティメンバー、ミサ・プツァ メンバーのインタビュアとしての「聞く力」がなけれ ばスムーズには進みませんでした。HDCC の高齢者の みにさまには、長時間のインタビューに応じていただ きましたことに心からお礼を申しあげます。また、本 稿の写真は、アムリット氏より提供していただいた。 写真の掲載についてもHDCCのみなさんの承諾をい ただきました。 なお、本稿は JSPS 科研費基盤研究 C(代表・中村律 子、18K02122)および同基盤研 究 B(代 表・古 川 彰、 19H01582)などによる成果の一部である。 March 2020 ― 73 ―