武者小路実篤
﹁
そ
の
妹
﹂
という戯曲とその上演
寺 津 浩樹
武者小路戯曲作品の上演では﹁その妹﹂が最も多いが、大正年間に限らず現代でも、その演出上の解釈により、 作品は多様に理解されている。このことは研究史上の武者小路戯曲の不当な批判にも見られる。﹁その妹﹂の成 立から見て、作品は作者の創作意図からのズレを含む。その結果、批評家と作者の議論はどこか噛み合わない。 その理由として武者小路の表現の特質に、あえて文章に技巧を用いないで力強さを押し出すといった新しさがあ る。これが彼に当時の文壇と一線を画させ、かっ、意図とは異なる悲劇を創作させる要因ともなった。 初めての自作上演﹁わしも知らない﹂の失敗に比して、﹁その妹﹂の上演は好評であったが、そこにも作品自 体と同じように、上演においても時代からは理解されないものがあった。こうして武者小路戯曲を評価する視点 として、新たに、外来の表現主義や後期印象派の美術から得たものをいち早く取り入れたということが、﹃白樺﹄ 派の歴史的特質と同時に、武者小路の資質にとりわけ適ったものとして見直されるべきである。 キーワード:日本近代文学・戯曲・武者小路実篤・演劇・白樺派 武者小路実篤の戯曲﹁その妹﹂は﹃白樺﹄大正四年 三月号に発表され、同年九月刊行の戯曲集﹃向日葵﹄ に収められた。最初の上演は大正六年三月、赤坂見附 ローヤル館で、山本有三の舞台監督のもとで舞台協会 -340-(53)寺津浩樹 により演じられた。この作品は、上演回数から見ても、 武者小路の戯曲作品の中でも最も人気の高い作品であ る。﹃武者小路実篤全集﹄第六巻の﹁解題﹂には武者 小路戯曲の過去一四
O
回分の上演記録があるが、うち ﹁その妹﹂の上演回数が最も多くて一四回、次いで ﹁ 愛 慾 ﹂ ( ﹃ 改 造 ﹄ 大 日 ・1
初出、大同・7
初演)が一O
回 、 ﹁ だ る ま ﹂ ( ﹃ 中 央 公 論 ﹄ 大 路 ・1
初出、大日・ 5 初演)が七回、﹁或る日の一休﹂(﹃白樺﹄大 2 ・ 4 初出、大 7 ・U
初 演 ) 、 ﹁ 或 る 日 の 素 蓋 鳴 尊 ﹂ ( ﹃ 改 造 ﹄ 大 叩 ・ l 初出、大口・ 2 初 演 ) 、 ﹁ 三 和 尚 ﹂ ( ﹃ 太 陽 ﹄ 大 4 ・ 9 初出、大印・6
初 演 ) 、 ﹁ 桃 源 に て ﹂ ( ﹃ 改 造 ﹄ 大 ロ ・ 9 初出、大口・2
初演)がそれぞれ六回、﹁二つ の心﹂(﹃白樺﹄大元・日初出、大 4 ・H
初演)が五回 と続く。これらの数字によっても、﹁その妹﹂の戯曲 としての人気は明らかだ。関口弥重吉氏は﹁昭和初年 までに﹃新潮﹄広告面では六一版の記録があり、また 六三版の本も確認されたということであるから、当時 からかなり多くの人々に読まれたことがわかると述 べ て い る 。 「文学部紀要」文教大学文学部第11-2号 しかし実際に上演された作品の印象は、役者や演出 者の意図によってずいぶんと異なってくるものだ。藤 木宏幸氏によれば、昭和四一年に新人会公演ハ広次・ 山本学、静子・渡辺康子等)で上演された時には美し い兄妹愛がテ l マとされ、その結果﹁お芝居じみて、 新派くさくなって﹂しまったようだ。さかのぼって、 大正九年の上演(有楽座で広次・守田勘弥、静子・森 律子)でも、久保田万太郎に﹁身売りの芝居でもみて ゐるやうな甘さ﹂を指摘され、酷評されている。もち ろん好評な上演もあったわけだが、このような評価の 振幅は、作品自体の持つ特質に由来する部分もあるの で は な い か 。 武者小路の戯曲作品自体については、政治経済史な いしは思想史的な批評基準の用いちれがちな小説史の 研究上のみならず、より芸術史的であり得べき戯曲史 の研究の上でも、概して﹁いささかの対立もない﹂、 ﹁舞台軽視、技巧無視﹂と-評され、また別の評者には ﹁はたして劇は存在するのであろうか﹂と言われ、た とえば戯曲﹁愛慾﹂を﹁作者の﹁思想﹂の破綻を示す 唯一の作品﹂と見るまでに批判されている。 本稿の自的は﹁その妹﹂の評価であるが、作品自体 -339-(54)武者小路実篤「その妹」という戯曲とその上演 を論じることは以前おこなったのでここではしない。 武者小路の戯曲ないし作品創作論を中に挟みってそ の戯曲作品としての発表と同時代評、およびその上演 と同時代評を見ながら、﹁その妹﹂および武者小路文 芸の新しい評価軸を探っていきたいと思う。 ﹁その妹﹂は、戦争で盲目となった天才画家が、そ れに追い打ちをかける様々な不運から最愛の妹を失っ てさらに不幸に陥る物語である。逆境の中で必死に生 き抜こうとする人間の力を表現しようとした武者小路 は、盲目というハンディを背負った人間を主人公とし た作品を三たび試みては失敗し、四度目についに完成 させたが、それは作者の意図とは微妙に異なる色合い を持ったものとなってしまった。次に引用するのは、 武者小路がその創作過程を述べたものである。ここに は作品の素材とそこに込められたモチーフが示されて いるので、あらすじの紹介も兼ねて少々長く引用しよ う。なお、文中﹁彼﹂とあるのは武者小路のことであ る 。 天才のある画家が戦争で目をつぶした。この想 像は﹁彼が三十の時﹂をかく時、一す考へた筋で あったのだ。之だけで彼の同情は十二分に生きる こ と が 出 来 る 。 画家が盲目になる。自己を生かす道を新たに考 へなければならない。いくら目をとりも
ε
したく も、この事実の前に立った以上はさけることは出 来ない。それで生きる道をやっと見出したのが文 学である。そしてそれには一人の助手が必要で彼 はその助手としてよき妹を与へたが、そこから事 件が発展しだした。彼は人間がどんなに苦しくも 生きゃうとするその力がかきたかった。 よき目をもった画家が目を失ひ、よき妹をもっ てゐた画家が妹を失ふ。そしてなほこの世にしが v みついで、更に生きゃうとする。其処がかきたか っ た 。 -338-(55) しかし彼はその妹をいやな男と結婚させたくは なかった。しかし運命ととつくんで、血みどろに寺 津 浩 樹 なって、それでも勝てない事実はこの世にも多く ある。彼は日中の幽霊に勝つ所がかきたくはなか った。現実ととつくましてどっちでも本当の方に ゆかすより仕方がなかった。そして彼にはその妹 を生かす力が自分にあるとは思へなかった。西島 は彼よりも力あるものではなかったが、力なきも のでもなかった。そして彼は泣き/¥、その妹を 不幸な位置におとし入れた。兄の犠牲にした。 ( ﹁ 或 る 男 ﹂ 百 七 十 七 ) 「文学部紀要」文教大学文学部第11-2号 こうして作品自体が独自に走り出して作者の意図と は異なってしまった結果、武者小路は﹁今度の自分の 脚本は社会劇でも問題劇でもない。(中略)盲目とそ の妹をあ、﹀云ふ境遇におくと自分の今のリズムは二人 をあすこに迄流れっかすのである。問題劇とか、性格 劇とかを書かうとは夢にも思ってゐないのである﹂ ( ﹁ 六 号 雑 記 ﹂ ﹃ 白 樺 ﹄ 、 大 4
・
3 ) と弁解めいた補足を 加えざるを得なくなった。それは﹁人間がどんなに苦 しくも生きゃうとするその力﹂が、作品末尾の広次の 姿にはあまり強く感じられないからである。そこで武 者小路は広次の末尾の台詞に大変苦心することになっ た。初出﹁俺は今力がほしい。﹂から﹃向白書(大 4・
9
)
収録時に﹁(泣く)﹂が付け加えられ、初演時の脚 本となったと思われる﹃その妹﹄(大 5・
U ) で は ﹁俺は今自信がほしい。固まひがして来た。﹂へと変わ り、岩波文庫(昭3
・
4 ) では最もシンプルな﹁俺は 力 が ほ し い 。 ﹂ に 一 反 さ れ て い る 。 ﹃ 向 日 葵 ﹄ 収 録 時 の 改 変は、三井甲之の批評で﹁単に﹃力﹄とはいはずに ﹃何しろ金の力といふものが﹄とやうに考へ又言へば 事実に随順する﹂(﹁白樺の人々﹂﹃文章世界﹄大 4・
4 ) と言われ、﹁そんな風にとられてはたまらないと 思った﹂からだと後に武者小路は述べている(﹁六号 ω 雑 記 ﹂ ﹃ 白 樺 ﹄ 大6
・
4 ) 。出来上がった作品と作者の 意図とが異なる以上、作者と批評家との議論がどこか 噛み合わないのは当然のことと言える。 しかしそれにもかかわらず、山田横榔の﹁主人公の ひ ろ じ ぜ つ だ い ゅ う き も つ ぐ わ ん き ゃ う う ん め い ち か ら た h か 広次が絶大の勇気を以て頑強に運命の力と闘ってゆ り 、 マ マ し せ い そ う せ ん と う せ い く わ っ う つ く、その濠々しい。而かも懐槍な戦闘の生活を写し け だ か フ マ ニ ス ム ス ぜ ん べ ん つ ら ぬ てある。気高い人道主義が全篇を貫いてゐるので、 ど く し ゃ お ぽ せ っ し ゃ く わ ん と も な と も 読者をして覚えず切歯施腕せしめ、倶に泣き、与に 7 山 け り 氾 日 , . ﹃ 札 〆 , ‘ 、武者小路実篤「その妹」という戯曲とその上演 ど ほ か ご と さ く ひ ん し ん す ぐ げ い 憤らしめる。斯くの如き作品こそは真に傑れたる芸 じゆっひん 術品である﹂(﹁三月の文壇﹂﹃文章世界﹄大
4
・
4
)
といった評価もあり、また、読者からの手紙も増え、 ﹁その妹﹂はおおむね好評を博したのである。 三 井 甲 之 や 山 田 償 榔 の よ う な 殻 蛍 一 口 褒 庇 が 武 者 小 路 に とっては﹁理解なき﹂悪評や好評と感じられた(﹃向 日葵﹄あとがき)のは、こうした事情のためであろう。 そもそも武者小路は﹁その妹﹂の発表以前から﹁自 分は今脚本の第一幕をかいてゆきなやんでゐる。(中 略)新年の雑誌の小説を三つ四つ読んだが世界があま りにちがうので淋しかった。しかしやり上げたいと思 っ て ゐ る ﹂ ( ﹁ そ の 妹 を か き つ ﹀ ﹂ ﹁ 六 号 雑 感 ﹂ ﹁ 白 樺 ﹄ 大 4・
2
)
と述べている(この大正四年一月に発表さ れたものは谷崎潤一郎﹁お艶殺し﹂、森鴎外﹁山撤大 夫、徳田秋声﹁あらくれ﹂、永井荷風﹁夏姿﹂など) が、これも先の﹁理解﹂のなさと無関係ではない。 作者自身の制御を超え、また一方で同時代の批評家 たちの評価を揺るがせた﹁その妹﹂という作品の持つ 魔力はどこから来るのかを、次に見てみよう。 武者小路の文学の方法は、つねに創作時の感情の白 熱を根底に持ち、したがって地の文や叙景を苦手とし、 逆に会話による想像が得意で、したがって戯曲や﹁雑 感﹂と呼ばれるエッセイの創作に自ずと向かう乙とに なった。これらについてはすでに他でしばしば論じて い る のω
でこれ以上触れない。 ここでは、武者小路文芸における外来の影響を武者 小路自身の言葉を引用して確かめたい。ゴ l リ キ l や ストリンドべりなどの海外の演劇を見、また戯曲を読 んで感じたことを武者小路は次のように述べている。 ﹁或る男﹂百六十一からの引用になるが、これはおそ らく大正二年秋から年末にかけてのことを述べたもの と 思 わ れ る 。 彼はその秋、(だったと思ふ)自由劇場でやっ たゴルキ!の﹁夜の宿﹂を見てすっかりおどろい た。彼は自分の自信をすっかり打ちこはされたや うな気がした。こんない﹀脚本が他にあるかと思 -336-(57)寺津浩樹 った。ともかくその全体の感じが、一つの地の底 から燃え上る生命の炎のシンホニーのやうな気が した。(中略﹀うちくだかれた自信をとり戻すの に 二 三 日 か ﹀ っ た 。 その後、彼はストリンドベルヒの﹁死の舞踏﹂ をよんだ。そして﹁夜の宿﹂にまさるとも、劣ら ない恐ろしさを感じた。この作のそばにゆくと、 どんな作も甘いやうな気がするだらうと思った。 之は彼にとってまるでちがふ世界ではなかった。 其処がなほ恐ろしかった。 お 紛 QUμ い い ストリンドベルヒの影響をうけてドイツに表現 派が出来たとすれば、彼のこの芝居もストリンド ベルヒの﹁ダマスカスの方へ﹂から影響を'つけて 出来た点で、何処か似かよひがあるかも知れない。 彼は精神的にセザンヌやゴオホの影響を'つけたこ とは前にかいた。彼は脚本の方ではあきらかにイ プセン、マ i テルリンク、ストリンドベルヒの影 響 を ' つ け た 。 ( ﹁ 或 る 男 ﹂ 百 六 十 六 ) 「文学部紀要」文教大学文学部第11-,-2号 ここでは武者小路は自らをドイツ表現主義文芸の作 家になぞらえている。また、セザンヌやゴッホなどの 後期印象派から表現主義の先駆となった画家からの ﹁精神的﹂影響を述べている。こうした深さや力強さ、 緊張感は、武者小路の表現の特質である﹁無技巧﹂の 意識化によって可能になるのだ。 ここには武者小路が文芸の理想として求めるものが、 ﹁一つの地の底から燃え上る生命の炎のシンホニー﹂ という言葉で言い表されている。これは﹁その妹﹂の 目指したものではなかったか。そして﹁死の舞踏﹂に ついては﹁之は彼にとってまるでちがふ世界ではない﹂ と 述 べ て い る 。 また、﹁その妹﹂の一年ほど前に書いた戯曲﹁ A と 運 命 ﹂ ( ﹃ 白 樺 ﹄ 大
3
・
4
)
に関連して、次のように述 べ て い る 。 枝葉の内要に拘泥しすぎて文章のリズムがパラ /¥になることは元より恐れる。それから意味の ありさうな顔をしたがる言葉をつかうことを嫌ふ。自分のかくものに技巧があるとすれば、それは技 巧をなるべくつかはない処にある。事実っかべな いのであるが、っかうことが又気がひけるのでも ある。(中略)尤もニイチェが云ってゐるさうだ が、頭が白熱し切った時には自覚する余裕もない 言葉がほとばしり出ることがある。自分はその時、 勿論さう云ふ言葉を尊重し、その言葉の火を少し でもよわめることを恐れはする。 ( ﹁ 自 分 の 文 章 ﹂ ﹁ 雑 感 ﹂ ﹃ 白 樺 ﹄ 大 4 ・
6
)
武者小路実篤「その妹jという戯曲とその上演 これに続けて武者小路は﹁この自分の行き方が近頃 の日本では幾分か珍らしかったのである。さうして自 分が新らしい文壇、或は芸術に運動を起し得たならば その点だ﹂と述べているが、それが先に見た﹁その妹﹂ 執筆時の淋しさと無縁でないことは言うまでもない。 事実は小説に向き、空想は戯曲に向くと言う(﹁自 ω 分の創作する時の態度﹂﹃新理想主義﹄大5
・3
)
武 者小路にとって戯曲様式は、より自由な物語世界の創 造の場であったのだ。そこで登場人物相互の心理的相 克、主人公の生き方の必然性が最も重んじられて創作 される。その結果、武者小路の書く作品には自ずと運 命との、それもより悲劇的で過酷な運命との格闘が描 かれてゆくことになる。こうして﹁その妹﹂のような 運命劇・境遇劇にも読みとれる悲劇が生まれるのは ﹁死を恐れながらも死を選ばなければならない人問。 或はそれに比敵するだけの緊張した生命の底に流れる ことを強いられてゐる人間をか﹀なければならない﹂ ( ﹁ 死 以 上 の も の ﹂ ( ﹁ 雑 感 ﹂ ﹁ 白 樺 ﹄ 大 3 ・5
)
と考え る武者小路にとって必然的なことであった。 四は
の
, ・ ー ・ 、 F h u向 。
〆 , 、 、 ﹁その妹﹂発表の二一ヶ月後、大正四年六月に帝国劇 場で戯曲﹁わしも知らない﹂が上演された(釈迦・守 田勘弥、流離王・市川猿之助)。これは武者小路にとっ ては初めての自作の上演であったが、彼自身にはとう てい満足できない出来映えであった。作者にとっては 重要であった運命観照の内的苦痛のモチーフは、舞台 ではそれほど重く緊張感のある表現を克ち取れなかっ たのである(﹁わしも知らない﹂上演に関する詳細は寺津浩樹 「文学部紀要」文教大学文学部第11-2号 同時上演された「債鬼」 酒井よね子の芳子 小枚淑の西島 , 三井光子の妹静子 別稿で述べる)。その後﹁ 二 つの心﹂も新 富座で上演 されたが、これは喜多村緑郎、川上貞奴らの役者があ まりにいい加減なので、武者小路自身もその成 果には 期待しなかったらしい(﹁或る男﹂百九十一)。 こうして三度目の自作上演となった﹁その妹﹂の上 演は大正六年三月赤坂見附ローヤル館でおこなわれた。 文壇は﹃白樺﹄全盛期を迎えつつあり、武者小路は前 年に戯曲﹁或る青年の夢﹂の連載を終えてこの年 一 月 に刊行、また上演と同じ三月には小説﹁不幸な男﹂を 脱稿した。翌年九月には﹁新しき村﹂建設のために、 日向に旅立つことになる、そのような上昇的な時期だっ た 。 お ゆ っ u h け い 加藤精ーの広次 武者小路は上演に先立っての講演会で、今の日本の 演劇には芸術味が足りず、戯曲もイプセンやストリン ドベリに比肩しうるものがないと演説している(﹁雑 感﹂﹃白樺﹄大 6
・
4 ) 。自作によほどの自信があった のだろうが、同時に﹁広次に傑作をつくらしたい気で は人後に落ちない﹂とも述べ、ここにはやはり多少の 不安もあったようだ。 さて、山本有三の演出(舞台監督)のもとに、 広 次を加藤精一が、静子を三井光子が演じた舞台は概して 好 評 で あ っ た 。 武者小路実篤「その妹
J
という戯曲とその上演 ひ き か た ぷ た い け ふ く わ い げ き み た め 園三月三十日久方ぶりの舞台協会劇を見る為 ゐ け た く ん あ か き か く わ ん む し や こ う ぢ し に井桁君と赤坂ローヤル館に行く、武者小路氏 い も う と ひ じ ゃ う お も し ろ せ ま ぶ た い の﹃その妹﹄を非常に面白く見た。あの狭い舞台 た ︿ み つ か き う く つ お も ひ あ た を巧に使ってさのみ窮屈な思を与へなかったのは か ん と く し ゃ え ら ま く か で の 監督者の賢いところであらう。幕あひに勘解由 こ う ぢ し し ゃ く せ う か い む し ゃ ζ う ぢ し は じ あ 小路子爵の紹介で武者小路氏に始めて逢った、 ど う し ひ と ま か し ば ゐ し ん ば い 同氏は﹃人任せにしてゐた芝居ですから心配して は ん き ゃ う よ ろ こ ゐましたが:::﹄といって反響のあるのを喜ん で ゐ た 。 ( 豊 後 ) ( ﹁ 演 芸 日 誌 ﹂ ﹁ 新 演 芸 ﹄ 大 6・
5
)
武者小路自身は上演後の感想で﹁自分は﹁その妹﹂ を泣いてかいた。かいてゐる時散歩しながら泣きすぎ る程泣いたこともよくある。自分はその感じが見物人 に伝はるのを見た。自分の心の動きの、見物人の心に伝 はってゆくのを見た﹂(﹁﹁その妹﹂上演に就て﹂﹃新 演芸﹄大 6・
5
)
と一応は満足の意を表明しているが、 第五幕初め近くで広次が﹁理想﹂と言う時の自己憐偶 的なニュアンスが役者に伝わらなかったと悔やんでい る。しかし、そ.れ以上に問題だったのは、﹁その妹﹂ に続けて演じられた出し物が、武者小路の最も畏怖す るストリンドベルクの﹁債鬼﹂(一幕)であったこと で、﹁或る男﹂二百五ではこれに触れて﹁彼の作は圧 倒された﹂、﹁勝利の感じが得られなかったことは確か だ﹂などと述べている。武者小路のプライドの方が高 かったということもあろう。 五 内 ノ u 、3 ノ 円 、 U 1 i3 ω
武者小路の戯曲を評価する視点として、関口弥重吉 氏は状況設定の単純や会話の平易を演出者や役者の自 由の余地として評価していも祖父江昭二氏は武者小 路の対話的発想を﹁リアリズムの契機﹂として評価し ている。しかし、こうした評価は従来の批判に対して 水掛け論となるかも知れない。 武者小路辰子氏は武者小路に対してトルストイやメ 1 テルリンクが与えた影響は、思想であって文芸ではな寺津浩樹 いと言う。確答はないとしながらも、代わって、スト リンドベリというドイツ表現主義の影を指摘している が 、 私 も ー こ れ に 賛 同 す る 。 東珠樹氏は高村光太郎の評論﹁緑色の太陽﹂(﹃スバ ル ﹄ 明 必 ・
4
)
を紹介し﹁この高村の評論とそれに続 く有島(壬生馬・寺津注)のセザンヌ紹介が、﹁自己 を生かす﹂ことを、文学(芸術)の最大の眼目とする 白樺同人たちに強い感動と共感を呼び起したことは、"
想像に難くない﹂と述べている。言うまでもなくセザ ンヌは後期印象派に分類され、﹁物の実在と量および 空間を表現しようと努内レた画家であり、同じ後期 印象派で武者小路が繰り返し慣れを述べたゴッホは ﹁強烈な色と筆触で内的生命を表出しようと熱中す色 画家であった。ここから表現主義への距離は、そう遠 くはない。ただ、このことは﹁その妹﹂より十数年遅 れて日本に流行することになる、一連の表現主義戯曲 と同一であるという意味ではない。しかし 1 西 洋 美 術 ・ 芸術の性急とも言われる紹介者であった﹃白樺﹄派の 視線は、確かに世界の同時代芸術を見据えていたはず であり、事実、志賀直哉や有島武郎ではない、武者小 「文学部紀要J
文教大学文学部第11~2号 路実篤こそが、自身の資質に適った力強い、緊張感の ある表現を、その作家活動の初期から目標としていた こ と だ け は 確 か で あ る 。 ここにおいて、もはや戯曲﹁その妹﹂の悲劇性・ド ラマトゥルギ l のアリバイを繰り返す必要はないだろ う。戯曲を論じた本稿は、最後に力強さ溢れる武者小 路の小説の表現を引用して締め括りたい。 何しろ自分はおちついてゐられない。しかし母 に打ちあけて云ふのは気まりがわるかった。思一飯 食ってからもじっとしてはゐられないので神田に 行った。さうして一人鶴のことを思って微笑んだ。 美しい、美しい、優しい、優しい、気高い、気 高い、鶴は女だ! 自分はその夕、麻布の友を訪れて、﹃鶴に逢っ たよ﹄と簡単に話した。友は﹃さうかい、そりゃ よ か っ た ね ﹄ と 云 っ た 。 (小説﹁お目出たき人 L 十一J -331-(62)武者小路実篤「その妹」という戯曲とその上演 十月の或日自分は気分のい﹀淋しい秋の気を深 く呼吸しながら庭を歩いてゐたら女中が来た。さ うして自分に一通の手紙をわたした。 自分の胸はおどった。川路氏からの手紙である。 自分は封を切った、さうして読んだ。自分は全 身に力を入れた。白から涙がながれた。 鶴は人妻になったのである。 自分は耐えやう耐えゃうとしたが耐え兼ねて声 出して泣いた。自分はどうしてい﹀かわからなく なった。自分は夢中で庭を歩きまわって自分の室 に 入 っ て 机 の 上 に 泣 き 伏 し た 。 ( 同 十 二 ) 野島はこの小説を読んで、泣いた、感謝した、 怒った、わめいた、そしてやっとよみあげた。立 ち上って室のなかを歩きまはった。そして自分の 机の上の鴨居にかけてある大宮から送ってくれた ベ l トフエンのマスクに気がつくと彼はいきなり それをつかんで力まかせに引っぱって、釣つであ る糸を切ってしまった。そしてそれを庭石の上に た﹀きつけた。石膏のマスクは粉微塵にとびちつ た。彼はいきなり机に向って、大宮に手紙をかい た 。 ( 小 説 ﹁ 友 情 ﹂ 下 篇 十 一 ヨ 注
ω
﹁ 解 題 ﹂ 、 ﹃ 武 者 小 路 実 篤 全 集 ﹄ 第 二 巻 、 昭 回 ・ 2 、 小 学 館ω
﹁ 問 題 性 に 迫 り 得 ず ﹂ 、 ﹃ テ ア ト ロ ﹄m
、昭但- m
ω
藤木宏幸﹁﹁その妹﹂の上演をめぐって﹂、﹃武者小路実 篤全集﹄第二巻月報、昭臼・ 2 、小学館ω
大山功﹁武者小路実篤﹂、﹃近代日本戯曲史﹄第二巻、昭M
-m
、近代日本戯曲史刊行会 間永平和雄﹁白樺派の劇作家 l 人間探求の文学・武者小路 と 有 島 の 間 ﹂ 、 ﹁ 近 代 戯 曲 の 世 界 ﹄ 昭 U ・ 3 、東京大学出版 ム 一 品 仙川寺津浩樹﹁﹁その妹﹂の悲劇性│生命力表現の変容l
﹂ 、 ﹃ 日 本 文 芸 論 叢 ﹄ 第 3 号、昭ω
・ 3m
﹁或る男﹂は武者小路の自伝的小説。初出は﹃改造﹄大 日 ・71
同ロ・日。以下、﹁或る男﹂の引用はすべて﹃武 者小路実篤全集﹄第五巻、昭臼・ 8 、小学館によるω
﹃武者小路実篤全集﹄第三巻、似頁下i
術 頁 上ω
ω
に 同 じω ω
と同書、閣頁上 一 330-(63)寺津浩樹