Die Entwicke垣昭(垣s
!Betrachters Hugo
von Hof皿annsthal, (1)
批評・エッセーにおけるH<Dfmannsthalの発展 (一)
士 口 田 敏 (文週1学部独文学研究室) 彦 は じ め に 19世紀のドイツ文学の主傾向であるRealismusは,自然科学の進歩や実証主義哲学の発展と密接 に連携を保ちながら進展し,19世紀後半に至って支配的となる.そしてそれは80年代に,大都市の 出現と相侯ってNaturalismusとなって尖鋭化する.作家の観察の対象は特に社会的な領域におい て拡大し,現実の忠実な再現は人間の心理的観察にまで及ぶ.90年代になると,早くもNatural ismus はImpressionismusに吸収され,世紀を越える.こ丿こ至って人間の魂は外界の印象が映じる単 なる写真の乾板となり下がる.自我は色彩・音・時間・空間・情調などの勁きに解体する.印象と いう点で自我に強く結ばれているにもかゝわらず自我の崩壊が起り・,唯一の支えである生に深く身 を投じながらも生の倦怠が現われる.かくしてRealismusの窮極の局面であるImpressionismus の行きついたところは,人間の極端な孤独であった. 1893年, Hofmannsthalはこの時代の特徴を 次のように捕えている.「今日,生の分析と生からの逃避という二つのことが現代的であるようで ある.人は自己の魂の生の解剖を行っているか,もしくは夢を見ている.」(1)世紀末の当時,ドイ ツのみならずヨーロッパ文学界全体にわたって,目まぐるしく交錯して現われたSymbolismusiAsthetizismus, decadence, fin de siecle苛;といったStilの交替は,畢竟するところ,こうした
空虚な生から逃れようとする孤独のあがきであった.
しかし,この混乱の苦闘の中にも暗闇にさし込むほのかな光がなかったわけではない.19世紀の 終末はまた,なにか新しいものの芽生える胎動期でもあった.この苦闘の中で例えばHofmannsthal は次のように世界とのつながりを求める.「人間は世界に,たゞすでに自己の中にあるもののみを 認める.しかし彼は自己の巾にあるものを認めるために世界を必要とする.だが,そのためには行
動と苦悩が欠くべからざるものである.」(2)Hofmannstha1にとって,このTatigkeit und Leiden
こそ彼の生涯にわ尭って続く絶間ないDichtenであり, Denkenである. 1890年,16才にして始
められた彼の創作活動は,世紀の転換期や第一次世界大戦という内的・外的危機を乗越えながら, 1929年の彼の死まで続く.はじめに彼は,大方の詩人ならば晩年に至ってようやく達成することの
できる円熟したLyrikをもって,華々しく登場し, Chandos・Brief (1901) の後はLyrikを放棄
してDramaの世界に入る.しかも世紀を跨いで書継がれたEpikも含めて, Hofmannsthalのす
^゛ての文学において一貫して流れている課題は。die stiindige Neuschopfung der Welt“(3)であっ
た.他方,これらのジャンルと同列に文学作品と見なすべきHofmannsthalのKritik, Essayも,
彼の文壇登場とほとんど睡を接して現われ,決して弛むことなく常に次元を拡げつゝ創作と並行す る.ドイツ文学世界において類のなかったHofmannsthal独特の批評作品・エッセー文学は。seine
stete Selbstbesinnung und Selbsterklarung“ であり, ,,seinphilosophisches Tagebuch im Ereignis des Daseins“(4)であった.
Rudolf Borchardt は≫Erinnerungen≪の中で, Hofmannsthalが友人に及ぼす不思議な魔力
に触れて,読者としてのHofmannsthalについてもmagische Dichterkraft を認める.
。Er (Hofmannsthal) verkehrte mit Menschen und Geistern als Schopfer, als ein Geist ihrer hoheren Wiedergeburt : mit ihm umgehend oder im Drucke von ihm aufgenommen,
102 高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 ㈲8号
entstind・ man zu seinen wahren Zielen, nicht. .. durcK:・einen Spiegel 1丘石nem dunklen Wort, sondem von Angesicht zu Angesicht。oder, um mit de皿groSen Apostel fortzufahren, I I selber nicht stiickweise erkennend. sondern erkennend gleichwie man erkannt ist.“(5〉 I・グ●4ヅ,・y,`: Hofmannsthalの観察の対象は, Hofmannsthal自身その対象に入り込`むどと叱よって変化する. しかしながら,そのことによってHofmannsthal自身も停止することなく変貌するので,最後に 私達か眼にするものは,もはや変らない前のHofmannsthalでも彼の観察の対象でもない.生じ
たものは彼のよくロにするdas Ganze であり1 Einheitであり, Harmonieである.従ってこの
論文で取扱うHofmannsthalのKritik及びEssayは,一般に言葉どおりに捕えられうるような 他者としての作品乃至は世界の観察,あるいは自我老離れた対象の自由描写ではない. Kritik, Essayは彼にとって,彼の創作活勁と同様に‘Sich・verwandelnであり,またZu-sich-selber-komlmenであった. し I Hermann Brochは,少年Hofmannsthalに対するウィー「ン王立劇場の影響が彼の全作品に働 いていること膏指摘している.。Im Wachtraum deにDichtersschwangen … unaufhorlich und unverkennbar ... die ersten Burgtheatereindriicke d瞬 Knaben Hofmannsthal mit, sie taten
es im Dramatischen wie im Lyrischen wie im Erzahlerischen,.. .“(6)そしてHofmarmsthal の初期の詩についてBrochはまた, ,...er (Hofmanhsthal) traumt sie(seine Gedichte) in der Form imaginarer Theaterszenen fiireinen imaginar edlen Schauspieler, ...“(7)と解釈するl 確かにHofmannsthalの作る人物はSchauspielerの性格をI多分にもうている. Paul Requadt も, HofmannsthalのMantelsymbolを担っている作中人物の一つとしてSchauspielerを挙げ,と
りわけSchauspielerが詩人の言葉を伝える機能をもうことを重視する(8) Hofmannsthalが
ヴィーンで活躍した有名な俳優達の死を悼んで, ,,Zum Gedachtnis des Schauspielers Mitter-wurzer“(1897? 1898?)や。Verse zum Gedachtnis des Schauspielers Josef Kainz“ (1910)な どの詩を書いたのも故のないことではない. 一
※ ニ●’ ▽ ところで演劇に関するHofmannsthalの観察は,先ずEleonora Duse (1859―1927)に対する 傾倒となってあらわれる(9)彼はDuseをSarah i3e血hardt (1844-1923)やWolter (1834― 1897)のような名舞台女優と区別して言う.「Duseは大役といえる役柄をもたない.彼女はまた役 柄において表現すべきシーンをもたない.更にまた彼女は,シーンにおいて表わすべきニュアンス をもたない.彼女は至極さりげなくすべてを,活気ある生の一切を演じる.」(PI 66) Wolterは伝 統の古典的悲劇においての演技の美しさに彼女の様式を持うている.彼女は彼女の様式を発揮でき ない役柄につく場合は,熟練した慣れと激しい情熱でもっ七演じる. Sarah Bernhardtはこれに対 して様式を持たず,彼女自身を演じる.どんな役柄であっても,彼女が私達に見せてくれるものは 女性そのものであって,個性ではない.そしてHofmannsthalはDuseをこれらの女優と比較す ることを断念しながら,違った次元においてI Duseは畝己を演じなく,たゞ個性的なもののみを 演じるとする.「Duseは自己を演じなく,詩人の作った人物を演じる.’そして詩人の力が及ばず, 人物が詩人に見棄てられる場所で,彼女は詩人の人形を生きものとして演じる.しかも詩人が持っ ていなかった精神でもって,詩人か見つけ出Iさなかった極めて明白な表現でもって.統一的な創造 力と直観的な心理把握の才能でもって彼女は演じる.」(PI67f.) 便にHofmannsthalはある
批評.・エッセーにおけるHofmannsthalの発展日(吉田) 10ろ 「彼女は移り変りを演じる.彼女はモチーフの間の空白を埋める.彼女は戯曲の中に心理小説を再 現する.」(PI 68)観察をこゝまで追詰めると,優れた俳優は詩人のもつGestaltungの才能を具え ていなければならない.あるいは,少くとも俳優が詩人の描き出した所作を完全なものにするため に, dazudichten (皿ケ的スすることをHofmannsthalは望む.(lo)Schauspielerの像はDichterの 像と重なり合う.プリミティブな段階の Schauspieler・Leser はSchauspieler-Dichterに拡大す る(11)だ刈非優の表現の道具は,詩人の表現の道具である言語ではない.私達は詩人の語らなかっ た言葉をDuseの唇から読みとり,包み隠されている詩人の思想が彼女の額に掠め過ぎるのを見 る.「Duseはふと洩れた言葉・所作・暗示から,詩人か見ていた生き生きとした人間を再現する.」 (PI 73)ここに Hofmannsthalの言う Sprachliebeに必要なSprachverleugnung (A 71)の秘 密がある. しかしDuseはNatural ismusを凌駕している.「Duseは単にリアリスティックな現実を演じ るばかりではなく・,彼女の役の哲学をも演じる.」(PI 74)彼女はNoraに扮するとき完全にNora になりきりながら, Noraが自分自身について知っている以上にNoraについて知っている.彼女 は役柄次第で,あるいは完全にNoraであり,あるいは完全にMargueriteである.私達はDuse がどんな姿をしているかを決して知らない.しかし, Duseは絶えずこのように姿を変えて見せて くれるにもかりっらず,その肉体を衣服のようにまとっている魂がいつも核心としてある.そして Hofmannsthalが,あらゆる‘物はそうした芸術家の魂の中を通り過ぎ名ど含,意味と魂を受けとる とするとき,こりこはまたImpressionismus以上のものの芽生が感じとられるj 魂は同時に観察 者でも客体でもあるので汲み尽くし得ない.「認識の客体と主休との間の,悩む自我と悩むのを見 る自我との間の激しい相互作用」(12)であるかゝる魂の動きを見せてくれるのがDuseのテクニヅ クである. ゛ Schauspieler を介して Dichterは Leser と一致する. Schauspieler・Dichter-Leserは, Schauspielerでもあり, Dichterでもあり, Leserでもあるが,しかしこりこはSchauspieler乃 至Dichter,あるいは Leserのみどしては存在し得ない.かゝヽる見事な変貌を為し遂げる芸術家 によって生きられ,様式と雰囲気を与えられることによって,関連のない現象の入乱れた生は,生 気を取戻し調和を回復する.「生を失わない芸術家は薄暗い無気味な生の中を通って行く.すると 芸術家の触れるものが輝き,生きてくる.」(PI 76) 「人々は語る言葉を聞くのに飽きている.彼等は言葉に強い嫌悪感を抱いている.というのも言 葉は物の前へ置かれているだけであるから.おうむ返し(HSrensagen)が世界を呑込んでしまっ た.」(PI 228) Friedrich Mitterwurzer (1844―1897)に関するある人の批評に因んで書かれた 。Eine Monographic“(13)(1895)には, Chandos卿の危機がすでに現われている.時代の虚偽は 人々・の乏しい生の上に重苦しくのり力いりy思考は概念の陰にすっかり消滅してしまっている. Hofmannsthalのsprachliche Krise は,先ず何よりも世紀の転換期というこの時代の危機であっ た.そしてこのまゝ人間が言葉に圧倒されるとき,「言葉の物すさまじいつながり」(PI 229)が 人間の素朴な表現力を押殺してしまう.人間は役者のように語り,彼自身の体験の中に⑩に不在で ある.そしてかゝる状況の象徴がまずい俳優であるとHofmannstha1が非難するとき,時代の仮象 を取除き真の豊かな生に向かうことによって,この危機を克服しようという彼の決意が読みとれ る.. しかし「言葉を自由に操りながら,その力を無視し,言葉をも言葉を自由に操る力をも無視する 俳優」(PI 229)であ’るMitterwurzerはこれとは異なる.彼は彼の台詞に沈黙を教えこんだ.する と言葉は彼の口の中で突然なにか根元の要素のごときものとなる.「彼の弁舌の中に魂が,なにか 形を整えたように現われ,我々の眼の前で体験を身につける.」(PI 230)こゝでも俳優の演技に魂 が垣間見られ,その魂に触れる物は生を獲得する.「彼が火や水を語るとき,我々は暖かみ,湿り
104 高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 第8号 を感じる.」(PI 230) Hofmannsthalが創作において切抜けねばならないChandos卿の危機は, Mitterwurzerにおいては早くも解消している. Hofmannsthal t)^俳優に対して持っている限りな い憧憬も,彼の創作活動の発展のための,こうした学ぶべきものヽschweigsame Beredsamkeit を 彼が予感していたからに他ならない. Mitterwurzerから学びとることのできる今一つめことは,彼が彼自身のもつ本質を鋭く見抜い ている点てある.彼は彼自身をSchauspielerと意識し,またSchauspielerの何たるかを知って いる.即ち俳優は彼自身の表現の素材なのである.この自己と自己の表現の素材の自覚は芸術家の もつ唯一のTugend (PI 231)であって,これがあればこそ彼は私達になにかを体験させてくれる. 更に,この自己を知ることは俳優にとって,また唯→の体験である.言いかえると,俳優が彼自身 の身体の隅々まで,心の奥底まで知り尽くしていることは,言葉や概念をとり去った真の体験であ る.このようなKiinstlerとMaterialの一致と,そのー致の自覚は,詩人Hofmannsthalの常 に求めて達し難いものであったし(14)更に一致の自党からするSchauspielerと Gestaltの完全 な融合は, Hofmannsthalがいつも作品の中で生きさせようとしたSchauspieler・Gestaltである. MitterwurzerはGaukler (schweigender Schauspieler)として自己を把握している.彼は意識の 彼方から操られている表情や言葉を意のま丿とする力によって,聴衆の意識を欺き,聴衆の感受性 を征服することかできる.この暴力は,彼が彼自身と演技と世界との間の根本的な関係を無造作に 捕えているが故に,つまり明白な真理に基づいているが故に許されうることである.私達は言葉の 織物を衣服のようにまとって,それが身体から脱げ落ちることがないように思いこもうとしてい る.俳優達も彼等の役柄を盗んだ着物のように身につけている.しかしMitterwurzerはその役柄 を次の瞬間には嫌なぼろ服のように脱ぎすてかねない.彼が台詞を言わず他の役者が語っていると きでも,私達は絶えず彼から眼を離すことができない.何故ならば「彼は自分の身体の周囲にすべ ての雰囲気を作っている」(PI 232)からである.このAtmosphareの中に有機的に織込まれて いるSchauspieler・Gestaltは, Atmosphareを形作ると同時に, Atmosphareなしには考えられえ ない.両者の間の有機的な相互関係こそ調和であり真理である. 1903年, Hofmannsthalは再びDuseをとりあげる.り5)「この婦人は我々の時代の苦悩を他の誰 よりも多く悩んでいる.しかも偉大な方法で.」(Pn 48)時間的にも空間的にも,舞台の上でも現 実の世界にも,決して安住の地を見出すことのできないDuseは,彼女に具現化される人物以上に 時代の苦悩を背負っている.それ故かつての, Duse個人に向けられた観察は,一般化・普遍化の 方向を辿る.「今度,彼女が舞合に立って演じている間,昔にもまして,なにか人物の運命以上に 偉大なもの,なにかもっと普遍的なものが生じた.」(PH 49) Duseは詩人の手に身を委ねる.す ると詩人は彼女の眼を盲目にし,見える手と感じる身体を与,えて,彼女を空間の中に泳がせる.詩 人は彼女のためにシーンを与える.成程, Duseが舞台に現われると,半ば悲劇的で半ば歪んだ雰 囲気の真只中に不思議な魔法のような光がさしこむ.しかし幕が降りると,彼女はこの世界を身か ら払い落して唯一人そこに立っている.「Duseは身を委ねたが自己を手放さななかった.彼女は 疲れはしたか力を残り余さず費しはしなかった.」(Pn 51)Duseは以前のようにすべてを私達に 与えたのではなくて,たゞ演じてみせてくれただけである.彼女は人間としてはなし得ない力で もって,俳優として,万人か見,感じ,悩んでいる生に襲いかゝる.そしてこの襲撃に勝利をお さめたと思われる瞬間に,彼女は分解し,融合して全体の中のFigurになってしまう.これは, HofmannsthalのDramaのみならず他のジャンルの作品においても,主役が脇役(Chargenrolle) に書替えられているという批評(10)と軌を一にする.俳優は個性を強調することによって,調和の とれたWelttheaterを破壊することはできない. Duseは,この彼女の芸術の限界を自己の苦悩と して彼女の魂の中に受取ったことによって,偉大な女優となった.彼女は演技そのものである行為
批評・エッセーにおけるHofmannsthalの発展H(吉田Σ 105・ においても,やすらいを見出すことができない.しかしながら「彼女は,芸術の分野においてより 魂の中により大きな可能性をもつという,驚嘆すべき珍らしい人間の一人である」(Pn 53)ので, 彼女のウィーン来訪は, Hofmannsthalの眼に敗北に似た勝利として映る. かくしてHofmannsthalの演劇に対する関心は舞台全体にまで及ぶ.(17)舞台のイメージを作る 人は,「世界には,勣かないもの,関係をもたないもの,ひとり孤立して生きるものはなにも存在 しない」(PH・63)ということを知らなければならない.彼は詩人の中の詩人でなければならない. 「1フィートの間とて意味をもたない筈のない舞台のイメージを作ること,これがすべてである.」 (Pn 63)これがためには「魂の中から覗いている視線に,賦与されている魔術」(PH 64)が生じ なければならない.この強力なMagieこそ, Hofmannsthalが若い頃から求めてきた生の道の目 標であり,「魔力をもったまなざしで諸関係を把握する能力,カオスを愛によって甦らせる才能」(18) である. HofmannsthalはLyrikにおいて限界を知ったところのものか,舞台において見事に実 現されるのを夢みる.舞台の巨匠の書割は模倣された現実でも,装飾でも,様式の技巧でもない. それは夢が私達の中に建てる書割に似ていて,簡潔なものである.舞台は奇蹟の世界であり,夢の 中の夢でなければならない.何故ならば,「世界は現実にすぎないが,世界の反照は無限の可能性 である.これが,奥深いところからとび出した魂の,襲いかゝる獲物である」(Pn 66)し,また 舞台の巨匠が暗がりの舞台に現実の唯一の使者である光を当てると,夢は舞台の上を流れ,私達は 喜びに目覚める.そして夢の舞台は新しい世界,「第二の現実」(PH 338)となる. Hofmannsthal が「最高の非現実をつかむ人は最高の現実を形作るであろう」(A40)と言うのは,そういう回り 道による現実への到達を意味するのである.
。Prolog zur ≫Lysistrata≪des Aristophanes“ (1908)ではDramaturgが幕前に登場する.俳 優が彼を陶酔させるものは,「俳優はすべてを現在のもつ力に委ねようとする.彼等は瞬間を過大
評価する魅惑者である」(Pn 321)ことである.そして彼が俳優を愛するのは,彼自身に拒まれて
いるsich verwandeln (PII 323)が俳優に許されているがためである.しかし彼は読むことによっ
て変貌する. Dramaturgもまた≫Lysistrata≪を数千年の昔ではない今日の戯曲のように上演し ようとする.彼は過去への展望を持っていない俳優の空想を妨げることはできないが,彼は俳優の ために・新しいリズムに乗って勣こうとする彼等の秘密の願いの伝声管の働きをする. Dramaturg と同じくHofmannsthalも,いかなる冷静な読者にも,いかなる学者にも潜んでいない,俳優のも つ力を信じる.「俳優は彼等の生きた身体に,遠い世界を開いてみせる道具をつけている.」(Pn323) Hofmannsthalは・ウィーンの伝統の一つである演劇を時代の眼で観察する. Schauspielerは彼
にとって。Schliissel universeller Gestalten“ であり, ,,Mittler in die Mitte des Stuckes“ に成
長する.そしてまたTheaterは彼にとって。Spiel“であり, ,,Fest“であり,
>,sozialesTun“(19)
となる. SchauspielerによってHofinannsthalは彼の文学の本質を知り, Theaterの観察によっ
て彼は現代の詩人の使命を学んだ.
n
Michael Hamburger はHofmannsthalの初期の詩集を本質的にLyrikであると規定しながら
も。,. .. obwohl sein friihes Werk wesentlich lyrisch ist, trachtet es einesteils nach den Ausdrucksformen von Musik und Malerei, andernteils nach denen des Dramas.“(20)とする. Dramaの表現形式については, HofmannsthalがLyrikと並んでlyrisches Dramaを書いてい たことからも容易に窺われるし,事実Versdramaよりもっとdramatischな詩がある。それはさ
ておき,伝統の音楽都市ウィーンに生れたHofmannsthalにとって, Musikは,彼の生涯の課題
106 』知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 第8号
と絵画は両方共,同じ被造物を愛しており,それを互に投げかわした」(21)とのHofmannsthalの言
葉は,彼の文学とMalereiとの間の密接な関係を言い表わしたものと見てよいだろう. Hamburger
はこれらの芸術の影響を,更にHofmannsthalの生涯の全作品に認めているよ.うである.。Es ist
ein Charakteristikum der Hofmannsthalschen Werke jeder Periode..;',daB die entscheidenden Gedanken und Gefuhle seiner Personen sich nicht durch Worte ausdriicken lassen, sondern nur durch Gebarde> Musik oder Schweigen angedeutet werden konnen ;…“(22)とのGebarde, Musik, Schweigen を直接の表現手段とする芸術家はSchauspie!erであり, Musikerであり, Malerである. TheaterのみならずMusik, MalereiもまたHofmannsthalの自己教育・自己 観察の場であった.
※
HofmannsthalはMozart (1756―1791)の百年祭に際して, Salzburgと Mozartの不滅の価 値について語る.(23)MozartのもっているものはBeethovenのRhetorik, WagnerのFuhlen, SchumannのDenken以上である.彼の芸術はForm (PI 41)である.このことからHofmannsthal はMozartをGoethe並びにShakespeareと比肩させる.「彼が獲得したものは我々の目標であ る.我々はそこへ向かわなければならない.つまり彼は自標であって,道程ではない.」(PI 41) しかし完成は死であるので,今日私達にとって生きているものは「Mozartのフォルムの感覚的な 美しさ」(PI41)だけである.動きが生であって,出来上ったものは私達に何も教えず,たゞい・つ か完全になろうとする意志を伝えてくれるだけである:それ故,「彼から我々に働きかけるものは, 彼のもっとも優れたものではなくて,未完成のもの,まだ発酵し続けているものである.」(PI 41) Hofmannsthalは消えた過去の光を思起し,新しい光を点じて移り変る.彼は「Maurice Barr6s は今日の中に,今日のために生きている」(24)と語るときのBarr^s (1862―1923)と等しく,彼の 時代の' Zeitburgerである. 「静止しているものを,与えられたものを求める人は常に空虚をつかむ.一切かとゞまることの ない動きの中にある.」'"' Hofmannsthalが生から受取るものはBewegungであり, Ubergang である.それ故Hofmannsthalの作品の中でも第二の自然としてWind, Luft, FluB, Schiff等 のイメージか示された.「すべてが流れる.精神界にも外の生の世界にも,どこにも固定した岩塊 は残らない.」(26)しかし勁きは言葉のみでは捕えることは困難である.「詩から生へ,また生から 詩へ直接通じる道はない.」(27)こりこ若きHofmannsthalは一挙に生の統一を完成しようと,.「素 材が忘れ去られるまでに克服されている芸術」(28)である音楽の表現形式を求める.音楽はTraum・ Lebenを現実として見せるMagieであった.これがHofmannsthalの初期のLyrikは早,き完成 を示しているとされる所以である. 世紀転換期のChandos-Briefに表面化するsprachliche Krise は,当然純粋な音楽的表現形式 への志向を不可能にする.成程,音楽そのものについては,「音楽の魅力に浸るとき,黙せる物は もっとも強く生きる」(29)と言えるか,言葉の背後の生か失われ,言葉か生とのリアルな関係を絶 つとき,音楽的な言語もまた死である.「言語は眼に見えない不思議な楽器のようなものである. 我々に使用してもらうために絶えず我々の傍につきまとっている.言語の中には常に不滅の詩の可 能性か眠っている.しかし我々はその楽器を思いきりへまに鳴らしている.」""> Hofmannsthalは Praeexistenzの状態にあったLyrikの領域を去る. Brochは聴覚的作家James Joyce と比較し て, Hofmannsthalを視覚的詩人と呼んでいる尹1)成程Asthetizismusに深く足を踏入れてい
た若き Hofmannsthalの眼から見た視覚的なものは,容易に聴覚的なものに転換できる.しかし Existenzへ向かうことを決定したHofmannsthalにとって,生の動きである色彩の勁きは生の象
批評・エッセーにおけるHofmannsthalの発展H`(吉田) 107・ の助けを借りて,後期に至って初めで達成されたことは周知のことがらである. Hofmannsthalが耳を傾けようした音楽は,完全なものを与えてくれる音楽家のものに限られた. それはMozartでありBeethovenである.彼が1910年の小文で触れたGustav Mahler (1860-1911)(32)でさえ, BeetHovenのRhetorikを高めただけに過ぎなかった. Hofmannsthalは,む しろまだ当時未知数であった新しい音楽家に,現代的なもの,即ち完成への意志を認めようとした.
Hofmannsthalにとって, Richard Strauss こそ。der groBe Reprasentant deutscher Musik, der, geistig geleitet, den Weg zu klassischer Vollendung mochte finden konnen."*"'であっ
た. Hofmannsthalの創作の道は,言わばこのStraussの道と並行する. ※ ※ ※ ノ「詩(絵画).生において,無数の異なった媒質の中に複雑に現われているものを,言葉(色彩) を用いて表現すること.生を移し変えること.」(A 119)絵画は言葉の代りに色彩を用いて,・私達 の周囲の世界を,伝えてくれる魔法の文字である.そしてMalenはDenken,Traumen,Dichten(34) となにか関伍をもっている. Hofmannsthalは,生き生きとした眼で新しい世界像を知覚する画家, そしてその過程を観察者の魂に伝えるに相応しい方法で画いて見せてくれる優れた画家に学ぽうと する.(35)FranzStuck (1863―1928)は線画から出発した.彼は線画によって物の核心に立脚する ことを学び, Horensagen (P I 170)から脱却し,ナイーブな眼で見ることを覚えた. Stuckは物 を,その慣習的な意味を損わずに,フォルムそのものとして見る自由な力を持つ.こうして彼の中 に「色彩への,’色彩による陶酔への強い憧れ」(PI171)が生れたのも自然の成行であった.不確 かなもの,輪郭を欠くもの,情緒に分解したものへと,彼を駆りたてたのは当然の反動である.私 達は重要なものを棄てさり,副次的なものを強調するDuseの勇気を思い浮べる.こうした副次的 なものに包まれているのが生の真の姿なのかも知れない. Stuckを惹きつけるものは,「物が,形 を失い,暗い色彩を一杯に吸込んだ震える影のように,湿っぽい大気の中へ絡み合って現われる. その夕刻時の黄昏の夢の色彩」(PI 171)である.彼はまた眩いほど明るい昼をも愛する.「この 湿った濃い暗黒と,眼をくらますか,または柔かな白さとの対照が,興味あるヴァリエーションと なって現われる.」(P 11172)物は互に孤立せず,物と物の間の闇の色彩・光の色彩でつながれ,生
の動きと統一をもたらす. Stuckの選ぶ画材はZentaur, Faun, Eva, Pallas Athene のような,
かゝる雰囲気によく融け入る空想の生物である.「優美なアレゴリーでStuckが暗示していると思 われることは,芸術家の抒情的な時期にはまだ人間描写が不慣れであるということ,彼の画く人間 は言わばなんの体験ももっていなく,生気を帯びてきた夢の中の物,芸術品である物であるという ことである」(Pil 172)と評するHofmannsthalは,当時のLyrikの時代の自分自身を語ってい るようである. ● ● Hofmannsthalは, 1894年ウィーンで開催された国際展覧会の英国の絵画を,再び記憶の中に呼 返す(36)これらの英国の絵画に画かれた人物は互に語り合うことができない.「これらの人物は互ど お.しの間で利も害も与えない.彼等が存在するということが,彼等が互について知っているすべて である,」(Pn95)そして。Theodor von HOrmann (1840―1895)“(1895)の箇所でも,「言葉 が洩れ落ちる場合も眼が見る場合と共通のことが言える.つまり見たり語ったりできるというだけ では,必ずしもなにかをなしたとは言えない.その奥にはまだ触れられていないなにかかある筈 だ」(PI 224)とHofmannsthalは言う.画かれた物の沈黙と画家の沈黙は共通する.しかしこの 英国の絵画に画かれているものは内的生をもっている.魂が出発点も目的地も知らないまゝ生の中 を逍遥し,驚きと憧れと悲しみのために震えるのは,・あらゆる空想の意味深い機能である.「驚き が最初にして最大の要素となってくるような,存在をプリミティブに捕える観察,この観察がすべ ての絵の中から語りかけた.」(PI 195)それ故,画家は言葉に曇らされない生の真の姿を見るとき,
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すべてを表現することができる(37)「これらすべての画家は彼等の画く手法において,詩が表現す
ることができない多くのことを語った.」(PI 198)彼等は創造するよりむしろ現実を解釈するにす
ぎないとしても,彼等の解釈には本質的なPoesieが潜ん,でいる.それは言いかえると「有形であ
る物を豊かな精神で支配すること,その物に魂を与えること」 ・1198)である.
Chandos-Briefと同じ頃Karl Lanckoronski の家でHofmannsthalがおこなったスピーチがあ る.(38)「絵の無限の世界.絵がそこに懸っていて,絶えず絵の中から我々に,遠く忘れられていた ものか現在のものとして流れこむ.」(Pn 24)私達の周囲の美しい黙せる物が力強い生を帯びて, 私達の傍で生きているのが感じとられ,私達の生か私達自身によりもむしろこれらの物の中に生き てくる孤独の瞬間がある.一方それを画いた画家にとって世界はヴィジョンに転化している.「世 界は彼にとって幻影に転換した.色彩に,そして色彩以上のものをヴェールの下に隠している影に, またこれらの色彩にのからまりとコントラストによって生じるIフォルムに転換した.」(Pn 24)こ の色彩が私達の生を奪おうとするのだが,この要求を私達はschonと名付けることによって認め る. schbnという言葉について言えば,「美しいという言葉ほど誇らかで,そして危険な言葉はな い.」(PH 26)こうしたHofmannsthalの観察は,ま’だPraeeχistenzの状態を述べているようで ある.しかしながら私達はschOnと名付けることてよっに,絵画を通じて私達の中でなにかが動 かされることを表現するのである. HofinannsthalのPraeexistenzからExistenzへの道程で訪れるChandos卿の危機は, .,Die Briefe des Zuruckgekehrten“(1907)で繰返されている.帰郷者が真の。der in die Sprache Zuruckgekehrte“(39)となって,この危機を克服することのできたのは> Vincent van Gogh
(1853-1890)の体験による.特に,第四・第五の手紙は。Die Farben“ と題されて公刊されたこともある ように,(・4o)帰郷者にとって色彩の印象が強烈である.「物の内部に潜む生か色彩に現われないなら ば,色彩は何であろう」(Pn 303)と帰郷者は反問する. Goghの絵が帰郷者に投げかけてくるも のは,もはやかつてのように,妖しい雰囲気として流れてくる美しい黙せる物の歓喜や調和ではな い.画かれているものの存在の重みが彼の魂に襲いかゝる.それらか死の混沌から虚無の深淵から 浮び上り,世界への疑惑から新しく生れ,今その死と虚無の裂目を永遠に鎖したことを,帰郷者は 知った.これは若き Hofmannsthalが陶酔のうちに感じとった統一ではない.そんなものは死の 深淵を前にして脆くも崩れ去っていた.表現し思考する言語を失っていた帰郷者の魂に,今この物 の言語が語りかけ,彼が堪難い重苦しさの中で安んじては感じえなかったものを,しかも彼が身か ら拭いさりえなかったものを,同時に彼に理解させてくれた.帰郷者は次のように言う.「こ丿こ, 捕えようのない大きな力をもった未知の魂が私に答を与えた.答として一つの世界を私に与えてく れた」(Pn304) Chandos・Briefの中で文筆放棄の原因となっていたものが解決された. Goghの言語である色彩は,色彩どおし互に他の色彩のために生き,一つの色彩が他のすべての 色彩を支えている. 1904年にも, Hofmannsthalはこれとは逆の表現で,「色彩の限りない相対性. すべての色彩は隣合う色彩によってのみ存在する」(A 138)と書いた.この色彩に物の内部の生 か噴出し,物の色彩が不思議な時間に帰郷者を圧倒する.しかしむしろ物の色彩から,言葉になら ない深淵の秘密を奪いとる力を得るものこそ,自分ではなかろうかと帰郷者は自問する.帰郷者は 危機に晒されているほうが,正常なときよりもより多くのことを理解でき,るのを予感しているので ある.物の色彩はそれ自体完全な世界であると同時に帰郷者のすべての生を保持する.こ丿こおい て色彩は「言葉をもたないもの,永遠なもの,巨大なものを供与する言語」(Pn 308)の機能を獲 得し,物の言語となる.このとき帰郷者は物の内部にあって,以前のように自分自身である.帰郷 者のlchは物のDuとなって語りかける.。Und bin ich dann nicht im ・Innern der Dinge... ein Mensch. ..?Und ist dies nicht, wohin du auf dunk 1en Wegen immer gelangst, wenn du
批評・エッセーにおけるHofraannsthalの発展日(吉田 109
tatig und leidend lebst unter den Lebenden ?“(PH・309f.)(41)
帰郷者はGoghの絵の中に生を見出し,彼自身もその中でmitlebenすることによって生を取戻 す. Hofmannsthalもこゝから得たものは,彼の文学の中で行勤し悩むことによって,生に参加す ることであった. ノ Ⅲ HofmannsthalのSpracheに関する問題は,これまでにも何度も触れてきた.しかし Hof-mannsthalは,いかに演劇・音楽・絵画による生の表現を彼の文学において目差したとはいえ, 詩人として当然のことながら言葉に固く結ばれている.「言葉がすべてである.見たもの聞いた ものを呼出して新しい存在を与えることのできる言葉,霊感に基づく法則に則ってそのものの動き を写して見せることのできる言葉がすべてである.」(42)そしてまた後に彼は,「言葉は,真理で ある神の精神の封じ込まれた牢獄である」(A 105)とも言っている.こうしたHofmannsthalの 発言においては,詩人にとって第二の自然・第二の現実の索材としての言葉が問題になっている. しかし既成概念に囚われている言葉は,いかにして新しい生を創造する力を獲得するのか,あるい は言葉自体,現実の生にまつわりついている場合,そこ・での約束が芸術の世界でも通用するのか, という言葉と現実とのかりっりも問題とならざるをえない.この点でHofmannsthalの場合Sprache の問題は,彼の現実に対する態度,彼と世界との関係という問題と密接に絡み合ってくる. Richard
Brinkmannはこのことを次のように言っている. 。Das Sprach≫problem≪steht... bei Hofmannsthal nicht isoliert.Es entwickelt sich im engsten Zusammenhang mit seinen Uberzeugungen vom Menschen und dessen Beziehungen 2ur Welt.“(43)詩人と人間の間の矛盾 からくる緊張が,絶えず言語に関する問題の発展という形をとって現われるのである. ※ 若きHofmannsthalにとって生は何よりもTraumである.そしてその夢の中にあって,なんら 文学と生との間の矛盾を感じない.互に一方が他方に干渉しあって,全体の真理を作り上げる.夢 なくしては魂の生は乏しく,色摺せた取るに足らぬものである.この夢をもち出すものが,私達の 心に落ちてそのうちに発酵作用を起す秘密に満ちた言葉である. Hofmannsthalが望むのは,かゝ る「言わば物の心から怪しく恐ろしく響き出る言葉」(44)を持つことである.そして言葉が現実の 衣服を脱ぎ棄てゝ夢に入るには,私達に一瞬「雄大な世界の関係」(PI 191)を予感させる閃光に 似た急激な光, Magieが働かなければならない.こ丿こおいて言葉は生きものとなり概念から逃
れる. Hofmannsthalは,か<自己の証を見出そうとしたAlfred Biese (1・856―1930)の ≫Die Philosophic des Metaphorischen≪(1893)を一篇の詩になぞらえる.
しかし言葉をその相互の偽りの固い結合から解き放つことほど困難なことはない.それには言葉 を極めて自由に表現しなければならない.そうすることによって,言葉どおし新たに大胆に結びつ いて優れた芸術となる.言葉の芸術である文学の要素はこのように精神的なものである.「それは 浮遊している限りなく意味の多い言葉,神と被造物との間に懸っている言葉である.」(45)言葉のつ ながり,言葉のリズムは確かにPoesieのすべてである.しかしHofmannsthalは生か芸術とどん な関係にあるかを知っている.彼は生を愛する.否むしろ生のみを愛する.ところがHofmanns-thaiは読者にも同じ態度を要求する.「生の道を進むことによってのみ,疲れ果てながらその生の 道の奈落と峠を極め尽くすことによってのみ,精神的な芸術に対する理解か賜われる.」(PI267) こうした同じ体験をする読者をも,共に創造する任務を詩人はもつ.人はうまく語ることができれ ばできるほど,そしてその人の頭に偽りの考えが強まれば強まるほど,彼は生の道から益々遠ざか
110 高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 第8号 る.「真に理解する人は莫に創作する人と等しくまた言葉を語らない.」‘(PI 267)人々が発言に よって芸術を損い,弁舌によって誤認しがちなのは,言語に鈍感な時代に,言葉によって感動を受 けない世に生きている証拠である.芸術において全体の概念が失われて=しまっていることを, Hof-mannsthalは嘆く. ……`’……T 言語をいかにも不器用に使用している状況下にあって, Hofmannsthalはフランス語から学ぼう とする(■16)彼は再び世のもっとも美しい物である言語を礼讃する.「言語は故郷から離れていな ければならない人に残されたすべてである.」(PI301)そしてまた.丁言語から,あらゆる単語の彼 方にある故郷の風が吹寄せる.」(PI301)これは言語とFremd・ und Daheimsein (PI 329, Pn 243)である詩人との間の関係の象徴のようである.詩人の言語は,彼が後にした現実の生の風を 吹寄せる.しかし言譜の魔力はもはや言語そのものにはない.「この不思議な力は言回しにある. 単語の並べ方,単語か互に指示し合い,互を強めたり消し合ったり,互に他を弄ぶばかりか偽る仕 方,また交互に他を本来の意味から遠ざけながら他の語のマスクに隠れるやり方,この伝達不可能 な方法に力が潜んでいる.」(PI 301)言葉と言葉の間を埋める言語の動きは,すでに先に論じてき た身振りや音色や色彩の動きをもっている.このような機能をもつ言語を,言語の精神にのっとっ て語る人に言語の魔力が働く.彼は成程,語る前と同じ世界に存在し,彼の周囲に同じ人間がい て,彼の運命にはなんの変更も加えられない.だが彼の指に魔法の指輪をはめられたように,彼の 眼にすべての物がいくらか変って見える.その結果,物の誼みか減じ,彼自身の自我の意識も弱ま る. HofmannsthalはGabriele d'Annunzio の行った演説に基づいてこの過程を辿る.「思想の 象徴をもっている書かれた言葉か,もし奇蹟によって掴むことのできる物に変じることか可能であ るならば,きっと男は非常な驚愕に襲われて,彼自身のいつもの世界のどっしりした重みを平手の 上に支えているのだと思うだろう.」(47)現実は常に無限であり,芸術作品はこれに対していつも有 限なものに制約される.詩人は彼の生を手に持つことができるためには,世界の一切の関係を予感 させてくれる言語,その動きの中にすべてが生と統一を見せてくれる言葉を選ばなければ.ならな い.
Wolfram Mauserは言う.。Nicht These, Programm und Ausdruck einer plbtzlichen Krise ist der Chandos-Briefj sondern der Versuch, eine in Jahren vor sich gegangene Klarung und Vergewisserung im Bereich Wort-Ding sprachlich zu bewaltigen.“(■tS)そしてまたChandos-Briefに示岑れているsprachliche Kriseの問題は,単にHofmannsthal個人に限る問題ではな い. HofmannsthalはExperimentiertriebとSchonlieitstrieb (PI 150)に曇らされた時代のモラ ルの回復のために,現代のあらゆる虚偽に覆われている生の復活のために,彼の時代の代弁者とな る.もはや文章をまとまった言葉のイメージとしてはつかめず,たゞ一語一語辿って理解すること しかできなくなったChandos卿が,生の危険に身を浸しながらも決して勇気を失うことのなかっ た思想家Francis Baconに心境を吐露する丿9)かつてChandos卿はすべてのものに自然を感 じ,彼には精神の世界と感覚の世界,芸術の生と現実の生か少しも対立を示さなかった. Chandos 卿は,「当時私には,一種の永続的な陶酔状態の中で全存在か雄大な統一となって見えた」(Pn10) と述懐する.精神の粒も肉体の糧も同じであり,いたる所に生か蔽っていて,彼はどこにいても生 の中にあった.そして無意識のうちに,すべてが比喩であって,どの生物も他の生物の秘密を解く 鍵であるように彼に思えた.これかPraeexistenzと呼ばれている状態である. とにかくChandos卿は真の世界の存在を予感している.ところが今,これを拙写しようという 段になると,彼の自由になっていた言葉か輪郭を失い,物から離れてしまって,この試みは挫折し てしまう.「抽象的な言葉は,なにかある判断を表明するのに舌で自然に使用されねばならないの に,私の口の中で腐った茸のように崩れていった.」(Pn 12)更に生のすべてが連鎖反応的に分解 し,もはや概念でもってつなぎとめることかできない. Chandos卿の目の前に言葉はばらばらに
‥批評・エッセーにおけるHofmannsthalの発展H(吉田) , m なって浮遊し,それを見ることに彼はめまいを覚える.言葉と同時に考えたり感じたりする力も失 われる.しかしそんな中にも生気を与えてくれる喜びの瞬間がないわけではない.平生なにげなく 眼を滑らせている物が,・ある瞬間に崇高な胸うつ特徴を帯びてくる.毒の餌を与えられて地下室の 中を狂気のごとく駆廻名微,りローマ人によるAlba Longaの街の破壊の際,死んで行く子を抱い て虚空を見詰める母のことなどである.だがこの瞬間はChandos卿が惹起しえない瞬間であり, この印象も言葉があまりにも貧弱であって表現することができない. Chandos卿がoffenbarenさ るべき物が名付けられない限り,そういう契機はやってこないであろう,すこゞ先の爪や母などが彼 に呼起すところのものは,同情とか共感ではない.それは「積極的な関与,それらの被造物への自 己流入,あるいは,生と死の,夢と覚醒の流動体が彼等の中へ流れ込んだという感情」(pn 15)で ある.つまり物への関与の積極的な意志,生と死の体験,夢と目覚めの自覚によって,すべてか真 の存在を獲得することをChandos卿は悟る.まだこの段階は,死んだ魚に涙を流すCrassusの イメージの場合と同様に,一種の熱病のごときDenkenの段階である.しかしこのDenkenは. 「言葉よりもっと直接的で,流動的で,熱のこもった素材の中での思考」(PH 19)である.この Material,この自我も全世界も共に織り交ぜる調和を与える言葉,こ・の沈黙の物が自我に語りかけ
る言葉,これを求めることによって始めてDenkenも成立する.そしてmit Herzen denken (Pn
17)によって全存在への新しい予感に満ちた関係が取戻されるのである. 作品に表現された危機は危機そのものではない.危機の表現ということ自体がすでに危機を克服 することを意味する.このようにしてHofmannsthalは,彼の輝かしいPraeexistenzの状態を犠 牲にする.しかしExistenzへの道はまだ遣い.それはHofmannsthalにとって,絶間ない行為と 苦悩を続けながら歩まなければならない道である. Chandos-Briefの体験は,再び書簡の形式で伝えられる.18年ぶりに故郷へ帰ってきた人が,自 己の立つ基盤を失っていることを告白する(50)しかし帰郷者はそれをExistenzgefuhl (PII 280) のせいだとする.とすると,これもやはりExistenzへの道であり,途上の不安な状態を示すもの である.帰途,故郷についていろいろと作り上げてきた帰郷者の概念は,現実を目のあたりにし て無惨にも崩れ去ってしまう,それに代って生じたものは,「散逸してしまった現実感,意識不在 の麻庫,精神的混乱」(PH 279)である.海外にあって帰郷者は,なにか人間性を感じさせる身振 りや表情に出合うと,故郷を感じとった.物が彼の魂に触れると,彼はその生を書きとめた多彩な 色彩の書物を読んでいるような気がした.「これらの物が向かってきて心の奥底に触れると,物は, 明確に力強くドイツについて語った;」(Pn284)力八る古い記憶につながる物が彼に接触する度毎 に,彼はドイツにいた.個々の物の衝撃は外からやってきた.彼はそれらの物の出入りする鳩小屋 (Taubenschlag) (PII 83, 290)に過ぎない.しかし彼の中には,「生の怒濤・カオス・生れざり しもの(ein Ungeborenes)」(PH 285)という未知の可能性かあった.そこからドイツ人の人間像 が生れた.,これらの人間像は同じ鋳型から生じたものであって,彼等の一つ一つの身振りにすべて が存在する.帰郷者の思想に‥I,The whole man must move at once“(Pn 281, 286)なる言葉 が基調として流れる. しかし今,帰郷者はドイツに帰ってきて,ドイツに存在しない.こゝではなにか名付けることの できないもの,「現実感,ヨーロッパ・ドイツ的現実感」(Pn 289)が彼を追及する.ドイツにあっ て彼はドイツ人を,彼等の顔にも身振りにも会話にも発見することができない.ドイツ人のすべて がその所作のどこにも存在しないからであり,彼等は到る所におりながら真にどこにもいないから である.言い換えると何よりも人開かいない.こ丿こ欠けているのは結局のところ,「決して表現で きない広大な背後思想,善良な顔にあらわれる不変の真意,道標のごとく生の混乱を通抜け死を指 し示すばかりか死の彼方を指示する隠れた思想」(PH 290)であり,また「すべての関係の真の凝
112 高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 第8号 縮」(PH 293)である.古いイメージの中でと現実の中ではすべてが違っている.生か過剰となっ たところで文学と現実,言語と物の間の懸隔は拡がる.しかし両者の間に橋をかけることのできな い深淵は横だわっていないと帰郷者は言う.彼は自然への関係,生への関係を知っているからであ る.「日常の背後に隠れているこの本質的なもの,人間から日常のありのまゝの行動を駆り出す真 実のもの」(Pn 297)を彼の世界は所有している.帰郷者はドイツを離れたい気持を簡潔に述べる. 「人は死にたくない場所ではまた生きるべきでない.」(Pn 297)生は死なくしては考えられない. Hofmannsthalの芸術の目標はかゝる繰返し行われる精神界と感覚界の融合である.そして彼はこ の融合の作業を,次元を高めながら拡大していく. Hofmannsthal がLyrik を書くのを断念したこととうらはらに,詩についての会話が行われ る(51)しかしHofmannsthalの全作品が眼に見えない強い糸で結ばれているので,とりわけ彼の Lyrikを論じる場合,その作品の全体との関係をも論じることが必要であることと関連して,こゝ には文学一般についても語られている. Poesieは私達の心に宿らず,広い尨大な自然の中にある. だから以前私達の中にあった何かは,外へ逃去り再び舞戻ってくる.そしてこの何かは私達の中で 他のものと解遁する.しかしPoesieは人間の言語であるので,送返されるものは人間的なもので ある. Poesieはまた決してある物でもって他の物の代理をさせない.「使い古した日常語とはまっ たく異なるエネルギーでもって,貧弱な学術専門用語とは全然違う魔力でもって,物そのものを配 置しようと夢中になって努力するのが,まさにPoesieである」(pn84)のだから. Hebbelの詩 の中の白鳥は, Poesieの眼で見られた白鳥以外のなにものをも意味しない.すべての物をその度毎 に初めて眺めるPoesieの眼,すべての物の周囲にその生のあらゆる奇蹟を配するPoesieの眼, この眼で見た場合動物は,神が世界に物言わぬ物として轡きつけた生き生きとした符牒である.詩 人はその神の符牒を彼の文字の中に織り込むことかできる.これはまた言語が解く力をもっていな い符牒である. GabrielはこのChiffreを生の象徴として,象徴の意味を説き始める.原始の時代に怒る神を宥 めるために犠牲として供された動物は,人間に親しい身近な動物であった.動物が人間の身代りに 死ぬことができたのは神秘なことであり,同時に大いなる真理であった.その後,動物は引続いて 象微的な犠牲の死を遂げるようになった.しかしもとをたゞせば動物が人間の運命を担ったのであ る.「事の真相は彼もまた一瞬の間,動物の中で死んでしまったということであった.それはまた 彼の存在が一呼吸の間,他の存在の中で分解してしまったということであった.」(Pn 89) der Opferndeが同時にder Geopferte(52)である.これ力^Poesieの根本である.自然は力八る魔術以 外に,私達を捕え,私達を奪い去る手段をもたない.自然は私達を征服する象徴の総体である.こ の会話と同じ年, Hofmannsthalは,「存在するものはすべて存在する.存在と意味は同一である. 従って存在するすべてのものは象徴である」(A 106)と書いた. Hofmannsthal自身も彼の生を彼 の運命の象徴として受取った.生はTraumよりはむしろSymbolとなる. Gabrielは続ける. 自然は私達の肉体であるところのものであり,私達の肉体は自然であるところのものである.それ 故,象徴はPoesieの構成分子であり,従ってこゝでもまたPoesieは決してある物でもって他の 物の代理をさせない.即ち「Poesieは言葉のために言葉を話す.それがPoesieの魔術である.つ まり言葉が我々の身体に触れ,我々を絶えず変貌させるためにもっている魔的な力の故に, Poesie の言葉は話される」(PH 89) 詩人の言葉は物の代理ではなく,物そのものである.そして詩人がその言葉に身を投出すことに よって,言葉は詩人の運命となり,詩人を変貌させる.詩人の運命をもった言葉は再び詩人自身と なって詩人のもとに戻ってくる. Hofmannsthalはこのように言語と迎命を共にする.
批評・エッセーにおけるHofmannsthalの発展日(吉田) 115 Ⅳ Hofmannsthalに先立つこと10年余り,.やはり16・7才にして詩才の名声をはせたGabriele d'Annunzio (1863―1938)が,様々な意味で若きHofmannsthalの先達となったのも理由のない ことではない(53)事実,彼の時代の象徴とも言えるd'Annunzioの作品から■ Hofmannsthalは 時代の傾向をはっきりと読取る.「彼の小説は精神病の記録であり,彼の詩集は宝石の小箱である. 前者には学術的資料の冷徹で厳めしい専門語が支配的であり,後者には殆んど熱病のような色彩・ 色調の夢遊状態か支配している.」(PI150)現代の人間は魂の解剖を行っているか,夢に耽ってい るかのどちらかである.しかもこれは同じ19世紀末の現代という状況から発した二つの現象面に他 ならない.
Paul Bourget (1852―1935):の≫Physiologie de r amour moderne≪(1891)のClaude Larcher は, Hamletの魂でもって書き,獣の魂がもとで破滅する(5-1)両者に共通なのは死のみである.下 僕の血を輸血され,下僕が殺されると同時に,.同じ傷で死ぬ王子の伝説のように,自我が分裂す る.一方の自我は他方の自我を仮借なく苦しめ,二つの自我は互に憎み合うばかりで理解し合わな
い. これが精神病者の病的に研ぎすまされた眼で見る場合,すべてのものの確執(Kampf aller
gegen alle) (PI 9)の認識につながる.人間どおしの理解や会話,また現在と過去の間のつなが
りは存在しない.言葉や感情は偽り,自意識さえも欺く. Hofmannsthalはこの破滅から免れる道
を「純真・素朴・単純・率直,病的な魂の分裂に対する魂の統一.従って完全な人間へ, Nietzsche
の個性へ向かう自己教育」(PI10)に求め,反省を排斥する.他方Algernon Charles Swinburne (1837―1909)のような英国の詩人は芸術から自然へ向かう(55)彼等にとって生は,なにかある 芸術の中を通り過ぎたとき始めて生きてきて,様式と雰囲気を獲得する.彼等の生の雰囲気は, Chopinの音楽が流れ,古い芸術品で飾られている部屋のそれである.その部屋の窓にはゴブラン 織力幼八っていて薄暗い.しかし窓の外には,車の音や人の叫びに満ちた赤裸々な現実の生か動い ている.彼等の芸術には,部屋の中の人間と街路上の人間との間の相互不信と理解欠如か支配して いる.彼等は生から出発していないので,彼等の創造するものは生に入り込むことができない.『街 路にいる人々はr彼等の創造するものは豪奢と虚飾のはかげた忌わしい器である』と言う.いずれ にしても,それは洗練された感情の小さな毀れやすい器である.」(PI101) ※ さて, Hofmannsthalは先ず, d'Annunzioの小説の人間に「無気味な意志喪失」(PI 150)が現 われているのを認める(56)彼等は植物的な生活を送り,生の雰囲気を欠いている.彼等の生の体験 は行動としてのそれではな〈,状況としての生の体験である.ところが≫L'Innocente≪(1892) では,魂の解剖というイタリア自然主義(Verismus)が空想に転換する点が見られる.そしてまた ≫Elegie romane≪(1892)の中の愛の飛翔はIkarusの飛翔である.それは失速と墜落をもたら す.「空想の陶酔」と「ノイローゼと反省の宿酔」(PI 156)のためである.喜びは苦痛となる.純 粋な美を獲得するのに≫L’ISott&o≪(1890)が成功した.これは同時にリアルでもあり空想的でも あり,同時に現実でもあり夢でもある. HofmannsthalはHermann Bahr (1863―1934)の≫Die Mutter≪(1891)にも,生々しいリアリティと抒情詩的な洗練の調和という芸術課題を探る(57) そして彼は Bahr 自身がこの問題を次のように捕えているという.【ZO】aismus とRomantikか ら,市街のEpikと夢のLyrikから,神秘な大きく新しい統一か生れるべきである.」(PI 19) まことに≫Llsotteo≪は「現在のものとしての神経の働き」が,「過去のものとしての室内装飾 のPoesie」(PI 147)に昇華した作品である.この作品にあるのは過去のMobelpoesieだけでは ない.「我々の思想か生の美を見出す充分な力をもたない場合,我々が生から呼出して夢の芸術
114 高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 第8号 美へ持去ろうと努める無数の物が存在するものである.」(PI 157)」≫L’lsott色o≪はこの夢の芸術 美を達成した.しかしHofmannsthalは生の美を見出す力を充分にもっているDenkenを要求す る.私達が美と幸福を追い求めている思いは,必然的に私達からそして日常の生から去って行く. Hofmannsthalが自分にも期待しているのは,そうした美を求める気持を生きている現実に奉仕さ せる偉大な詩人である.
HofmannsthalはWalter Pater (1839-1894)の評伝的小説から, d'Annunzioにも嗅ぎとっ たAsthetizismusの概念をはっきり認識した尹8)私達は皆なんらかの方法で,芸術というI手段を 通して見られ様式化された過去に,われを忘れている・.これは換言すると,「理想的な生に少くと
も理想化された生に夢中になる態度」(PI 204)である.これがAsthetizismusである.この時代
の文化の一要素となっているAsthetizismusは阿片のように危険である.何故なら生は遥かに強力 であり,偉大であり,言葉に言尽くしえないのに対して,書物は乏しい印象を作り上げることしか できない. HofmannsthalはW. Paterからまた1 iisthetischな世界観に立っては完全な生の営み を礎きあげることができないという,「Asthetizismusによる到達不可能性」(PI205)を学ぶ.こ の観点からI Asthetizismusの危険を逃れるためにHofmannsthalは, d'Annunzioの≫Trionfo della morte≪(1894)に欠けているものとしてOffenbarung (PI 211)という思想を引き出し た(59) Hofmannsthal と共に更に d'Annunzioを辿ってみよう(00リd'Annunzioにとって生は巨大 なメカニズムであった.人間や物の迎命は彼の場合,!空虚の中を通りながら互に配列されるだけ で,互になんの関係も持たない.彼等の唯一の体験は互に見詰め合うことであった.彼等は生のす べての記号を知っているが,すべてかどのようにかゝわり合って`いるかを知らなかった.これは Anschauen以外に生となんの関係も持だないd'Annunzioの体験でもあった.しかし「造形的な ものは見詰めることによっては生じなく,対象との一致(Idehtifikation)によって生れる」(A73) のであるから,こいヽでHofmannsthalは,人間は何かをなすことによって生に入り込むことがで きるとする.「生の一切は思考と行動の神秘的な結びつきいかんに依る.何かを求める人だけが 生を認識する.」(PI 235)≫Le vergini delle rocce≪(1896)の中ではd'Annunzioの魂の勁き が見られ,この動きの中に力が啓示される.力の啓示は静止においては行われないか,この勁きを
もたらすのも至難の業である.たゞ行為のみが力と美を静止の中から動きへ解き放つのである. d'Annunzioはこの力を彼のungeborenes Kind (PI 238)と名付けて,思考の中で自己の本質と
切離して客観的に認識した.「彼はナルシスのように自己を愛するのではなく,「生れ出るべき彼」
を愛する.」(PI 238)これは生か私達の中で甦ろうとするやり方であって,生か真に生と結びつこ
うとする内なる要求である.この生れざりし子のために母を求めることが,とりもなおさず行為を
求めることである.≫Le vergini delle rocce≪ではまだこの行為は達せられていない.しかし
Hofmannsthalは, d'Anriunzioかこゝで目覚しい転換を為し遂げたことを認める.「私は,生か意 識をもたないものの肉体に甦るように,この非凡な芸術家が自己に立戻るのを見る.」(PI 241)先 ず生の中の自分に帰ることによってExistenzへの展望が開ける. 後にd'Annunzioが実際に政治への参加という形で,直接現実の中で行勁することになったのは 皮肉なことである. 1897年,早くもd'Annunzioは彼の地区民を前にして選挙演説を行っている(61) しかしこれはまだ純粋なアジテーションではなく,芸術の根本に触れているので, Hofmannsthal にとって学ぶ点が多い. d'Annunzioは,詩人の精神がその国の土地と結びついている絆につて語 る.芙は大衆の中に隠れていて,詩人と英雄のみが美の閃きを誘い出すことができる.詩人の言 葉は群衆の頭上を渡って行くと行為となる.「詩人にとって,生の素材がもはや掴みえない象徴に よってだけでは呼出されなく,生か全体として啓示される瞬間がいつかやってくる.そのとき文の 連絡のリズムは呼吸し触れることのできる形態に形.作られ,力と自由の充実のうちにIdeeが告げ
批評・エッセーにおけるHofmannsthalの発展日(吉田) 一一一一-一一 一一 115 られる.」(PI 292)これはこの演説の要約であるとはいえ, Hofmannsthal自身が言ってきた言葉 のようである. d'Annxinzioは続ける.もはや孤独のまゝ月桂樹やミルテの木陰で夢みる時ではな い.知性のある人達は,生きることを望むならば) DenkenとTuen (PI 293)の間の分裂を取除 くべきである. d'A臨unzioは彼の孤独は外見にすぎないと言う.「私の演説は孤立している人の 演説ではない.私の演説はコーラスの反響であるが,その歌声か諸君に聞えないのは,それが諸君 の心の奥底から発しているからに他ならない.」(PI297f.)私達はこ丿こ,「政治とは,より高次 な段階での回り道の芸術である」(A57)とか,「政治は魔法(Magie)である.政治は力を呼出す ことのできるものに従う」(A60)とかのHofmannsthalの言葉と照らし合わせてみて,政治と芸 術の類似性に驚かざるをえない.
Hofmannsthalが。Studie uber die Entwicke】ung des Dichters Vitor Hugo“ (1901)におい て辿った観察は,今まで述べてきた事柄の総括である.このようにHofmannsthalはもはや過去
となった人に対しても,同時代人に対すると同じ眼で眺めようとする.これは観察の対象を死ん だ客体としてではなく,生の主体として捕える彼一流のやり方である.従ってHofmannsthalが Victor Hugo (1802―1885)について語るものは耳ofmannsthal自身の自己主張でもあり自己確認 でもあれば,また,対象が彼自身の中に芽生えているものを生み出す母体であったという意味にお いて,自己再生でもあり自己改造でもあった.「芸術の領域は限られている.これに対して時代は幅 広い河床の上を流れる.なにびとも生きることを望む.それ故,彼は行動しなければならない.な にびとも自己の行動のために成果を目差そうとするとき,そして力と生を無駄に浪費することを恐 れるとき,彼は直ちに時代の精神的なものの中で方向を定め,彼の時代との一致を自己の中に打建 てるよう努力しなければならない.」(PI 337) Chandos卿に襲った危機は,詩人Hofmannsthal の意識の中で生の重みがあまりにも嵩じてきて,もはや芸術の手に負えなくなったときの危機とも 理解できよう.とすると,この危機を克服する手段として Hofmannsthalは,時代の精神的なも の,即ち創作へと向かう.彼自身の行為は創作することにあった. 芸術家はasthetischな世界の中で自己を失う危険な状態にある.彼はこの状態を離れる決心を する.しかし物言わぬ現実の生の中へ入ると,芸術家はまた自分の無力に絶望して,自・己の基盤を 失いかける.彼はまだその無力にさせるものが何であるかを知らないが,この同時代の世界との戦 の中で,自己の本質の体験以外にいかなる体験も存在しないことを知る.。tjber Charaktere im
Roman und im Drama“ (1902)の中のBalzacは,そうした芸術家を客船の機関室から一体する ためにデッ牛へ上ってきた火夫に晋え・る.火夫は仕事場から這出して生の水を飲み生の空気を吸込 むと,船客に一瞥をくれただけで船の中に姿を消す.これが生の中での芸術家の滞在の仕方であ る.しかし彼の創造するものは,デッ牛の上の一等客より貧しくない.芸術家の運命は彼の仕事以 外のどこにもないから,芸術家は生きている人々の間にいる人々よりも貧しくない.彼は仕事の中 にすべてを所有している.「彼は仕事の中に体験をもつ.それは言語が表わす言葉をもたず,どん な暗い夢でさえも暗示する比喩をもたない体験である.」(PH 39)・従って彼か彼をとりまく世界に 認めることができるものは,仕事の苦痛と喜びを味わいながら,切抜けてきた状況のコントラスト に他ならない.あるいは彼の魂にとって世界に存在したものを,彼は作品の中に移し入れたのであ るから,世界は彼の仕事の中にあり,彼の仕事は彼の生である. こゝでHofmannsthalは,この会話の発言者Balzacと共にGoetheに眼を向ける. Balzacは
≫Die Leiden des jungen Werther≪の情熱は好まない.しかしGoetheは≫Werther≪を書
いたとき,言わば彼自身の危機を克服した. Goetheは自己の迎命をWertherに仮託することに