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恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について

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恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について

著者

尾? 順一郎

雑誌名

集刊東洋学

119

ページ

61-80

発行年

2018-06-29

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129946

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61 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑)

恵棟﹃古文尚書攷﹄

とその学術史上の位置について

順一郎

はじめに 恵棟︵一六九七│一七五八︶は、 清代学術史上において、 ﹁ 漢 学 ﹂ を 標 榜 し、 当 時 の 学 術 を 牽 引 し た 人 物 と し て 知 ら れている。彼には代表的な著述として、漢代の易学を解明 し た﹃ 周 易 述 ﹄﹃ 易 例 ﹄﹃ 易 漢 学 ﹄ が あ る が、 ﹃ 尚 書 ﹄ の 弁 偽に取り組んだ﹃古文尚書攷﹄二巻にも﹁漢学﹂の性格が 色濃く表れている。たとえば、同年代の杭世駿︵一六九五 │ 一 七 七 三 ︶ は、 ﹁ 私 の 師 で あ る 淳 安 の 方 楘 如 は 鄭 氏 の 言 を集めて拾瀋を作り、呉郡の恵棟は鄭玄による﹃尚書﹄の 注釈を集めた。彼らは何れも鄭学を治めた者である︵吾師 淳 安 方 氏 楘 如 輯 鄭 氏 之 言 為 拾 瀋、 呉 郡 恵 氏 棟 輯 鄭 注 尚 書。 是皆為鄭学者 也 ︶1 ︵ ︶﹂と言う。 ﹁漢学﹂を奉じた恵棟が後漢の 学者である鄭玄の注釈を集めていただけでなく、朱子学に 心を寄せていたとされる方 楘 如まで鄭玄の言葉を集めてい たというところに、 学問的な立場を越えて、 鄭玄の﹃尚書﹄ 学に関心が集まっていた様子を窺い知ることができる。そ うであるならば、恵棟の﹃古文尚書攷﹄を彼の個人的な志 向 の 内 に の み 囲 い 込 む の で は な く、 ﹃ 尚 書 ﹄ の 弁 偽 が 盛 行 した明末清初以来の学術史の中にどう位置づけるべきかを 問わねばなるま い ︶2 ︵ 。 ﹃古文尚書攷﹄の成立については、 恵棟が次のように語っ てい る ︶3 ︵ 。彼は若かりし頃に現行本﹃尚書﹄の祖型となった 梅 賾 本 に 疑 念 を 抱 き、 雍 正 十 二 年︵ 一 七 三 四、 三 十 八 歳 ︶ 頃に上巻の大部分を著す機会を得た。そして、 乾隆八年 ︵一 七四三、四十七歳︶に清初の閻若 璩 の﹃尚書古文疏証﹄を 見て、自説と一致する点が多かったことから、その諸説を 書 中 に 引 い て 上 巻 を 拡 充 し、 か つ 偽 作 が 疑 わ れ る﹁ 古 文 ﹂ 25篇の典拠となった資料を集めて下巻を作った。 ただ、恵棟は﹁古文﹂ 25篇の弁偽だけに意識を向けてい たわけでもない。孔穎達は﹃尚書正義﹄の中で、鄭玄が伝 えた﹃尚書﹄は前漢の張覇が偽作した 24篇を含むという見 集刊東洋学 第一一九号 平成三〇年六月 六一 −八〇頁

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62 解を示したのに対して、 恵棟は張覇が作ったのは﹁百両篇﹂ で あ り、 24篇 こ そ が 孔 安 国 の﹁ 真 古 文 ﹂ で あ る と 反 論 し ︶4 ︵ 、 さらに次のような指摘も行っている。   梅 氏 の 偽 書 に つ い て、 呉 棫 ・ 朱 熹・ 陳 振 孫・ 呉 澄・ 趙孟頫らは、みなしっかりと論難している。だが、彼 らは鄭玄の二十四篇が孔安国の真古文であることを分 かっていない。 ︵梅氏偽書、如呉才老 ・ 朱晦菴 ・ 陳直斎 ・ 呉草廬・趙子昂諸人、皆能弁之。但不知鄭氏二十四篇 為孔氏真古文 耳 ︶5 ︵ 。︶ 要するに、 ﹃尚書﹄の解釈史上において、 ﹁古文﹂ 25篇は 偽作の嫌疑がかけられたが、鄭玄本 24篇は孔穎達の偽作説 が 一 定 の 支 持 を 得 て き た と 言 う の で あ る。 ﹁ 漢 学 ﹂ を 奉 じ る恵棟にしてみれば、このことは自らの学問的な根拠を揺 るがしかねず、どうしても看過し得なかったであろう。そ こで、 本稿では、 こうした学術史の展開を念頭に置きつつ、 恵棟の﹃古文尚書攷﹄を検討し、 清代前期における﹃尚書﹄ の弁偽について、その一側面を明らかにしていきたい。 一   ﹃尚書﹄各本の構成について ﹃ 尚 書 ﹄ に は﹁ 今 文 尚 書 ﹂ と﹁ 古 文 尚 書 ﹂ が あ る と 言 わ れ る が、 歴 代 の 学 者 た ち が﹁ 今 文 ﹂﹁ 古 文 ﹂ を 議 論 し 得 る のは、 孔安国﹁尚書序﹂や孔穎達﹃尚書正義﹄の中に、 ﹁今 文 ﹂﹁ 古 文 ﹂ の 構 成 や、 そ の 伝 承 に 関 す る 記 述 が 見 え る か らである。ただ、これらは偽作の嫌疑がかけられたり、記 述内容の信憑性が疑われたりすることもあるため、その論 述を全て信用するわけにもいかない。そのため、こうした 資料をどこまで信じるかによって、学者ごとに見解が分か れてしまう。そこで、本節では恵棟による弁偽の一端とし て、彼が﹃尚書﹄各本の構成をどう考えていたかを明らか にしていきたい。その際には、 まず孔穎達の所説を概観し、 その上で恵棟の考え方を示していく。なお、本節の考察内 容は些か煩瑣になるため、本稿末尾に﹁恵棟版尚書百篇篇 目篇次分類表﹂として整理した。 ︵ 1︶   孔穎達の見解 ﹃ 尚 書 ﹄ は 唐 虞 三 代 よ り 秦 の 繆 公 に 至 る ま で の 古 代 帝 王 による政事を述べた書物であり、孔子によって 100篇にまと められたと言われている。もっとも、現行の﹃尚書﹄は全 20巻から成り、孔安国﹁尚書序﹂と本文に当たる 58篇を収 めるだけである。そして、この 58篇は基本的に各篇の冒頭 にそれぞれの序文を附すとともに、本文を失った 42篇の序 文もその間に順次配置する。 で は、 孔 穎 達 は﹃ 尚 書 ﹄ 各 本 の 構 成 を ど う 考 え た の か。

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63 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 孔安国の﹁尚書序﹂は、後世の偽作と考えられることもあ るが、 孔穎達はその内容を真実と捉えた上で、 ﹃正義﹄ を作っ て い る。 そ こ で、 ﹁ 尚 書 序 ﹂ の 記 述 を 参 照 し つ つ、 孔 穎 達 の考え方を整理していくことにしよう。   済 南 の 伏 生 は、 九 十 歳 を 過 ぎ、 も と の 経 典 を 失 い、 口授した際には、わずか二十余篇だけであった。⋮⋮ 魯の共王は宮室の造営を好んでおり、孔子の旧宅を壊 して、その宮室を広めようとした際に、壁中から先祖 が収蔵していた古文の虞夏商周の書と伝・論語・孝経 を 得 る こ と と な り、 ⋮⋮ 伏 生 本 よ り 二 十 五 篇 ほ ど 多 かった。伏生本ではそもそも舜典を堯典に合わせて一 篇とし、益稷を皐陶謨に合わせて一篇とし、盤庚三篇 を合わせて一篇とし、康王之誥を顧命に合わせて一篇 としたが、孔壁本では再びこれらの篇を区別し、序を 合わせて、 全部で五十九篇あり、 四十六巻とした。 ︵済 南伏生、 年過九十、 失其本経、 口以伝授、 裁二十余篇。 ⋮⋮至魯共王好治宮室、壊孔子旧宅、以広其居、於壁 中 得 先 人 所 蔵 古 文 虞 夏 商 周 之 書 及 伝・ 論 語・ 孝 経、 ⋮⋮増多伏生二十五篇。伏生又以舜典合於堯典、益稷 合於皐陶謨、盤庚三篇合為一、康王之誥合於顧命、復 出此篇、并序、凡五十九篇、為四十六 巻 ︶6 ︵ 。︶ これによれば、孔子旧宅の壁中から現れた孔壁本︵孔安 国本 ・﹁古文尚書﹂ ︶は、伏生が伝えた伏生本︵ ﹁今文尚書﹂ ︶ よりも 25篇多かった。しかも、伏生本が舜典を堯典に合わ せて 1篇とし、益稷を皐陶謨に合わせて 1篇とし、盤庚 3 篇を合わせて 1篇とし、康王之誥を顧命に合わせて 1篇と していたのに対して、孔壁本はこれらを分割し、さらに書 序 を 加 え て 全 59篇 か ら 成 り 立 っ て い た と い う。 要 す る に、 孔壁本は、伏生本と重複する 33篇、伏生本とは重複しない 独自の 25篇、そして書序 1篇から成るというのである。 では、これらは具体的にどの篇を指すのか。そして、孔 壁本はどうして﹁四十六巻﹂という構成になるのか。   壁内より得たものについて、孔安国が伝を作ったも のは全部で五十八篇あり、四十六巻としていた。三十 三 篇 は 鄭 注 本 と 同 じ で、 二 十 五 篇 は 鄭 注 本 よ り 多 い。 その二十五篇とは、大禹謨で一、五子之歌で二、胤征 で三、仲虺之誥で四、湯誥で五、伊訓で六、太甲三篇 で九、咸有一徳で十、説命三篇で十三、泰誓三篇で十 六、武成で十七、旅 獒 で十八、微子之命で十九、蔡仲 之命で二十、周官で二十一、君陳で二十二、畢命で二 十 三、 君 牙 で 二 十 四、 冏 命 で 二 十 五 で あ る。 ︵ 案 壁 内 所得、孔為伝者凡五十八篇、為四十六巻。三十三篇与 鄭注同、二十五篇増多鄭注也。其二十五篇者、大禹謨 一、五子之歌二、胤征三、仲虺之誥四、湯誥五、伊訓

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64 六、太甲三篇九、咸有一徳十、説命三篇十三、泰誓三 篇十六、武成十七、旅 獒 十八、微子之命十九、蔡仲之 命二十、周官二十一、君陳二十二、畢命二十三、君牙 二十四、冏命二十 五 ︶7 ︵ 。︶ ここでは孔壁本における﹁古文﹂独自の 25篇の篇目を挙 げるだけで、 伏生本と重複する 33篇の篇目を挙げていない。 だが、現行本の﹃尚書﹄ 58篇からこれら 25篇を除けば、そ れが伏生本と重複する 33篇の篇目ということにな る ︶8 ︵ 。 次に、孔壁本と﹁四十六巻﹂の関係について、孔穎達は 孔 安 国 自 身 が 巻 数 に つ い て 明 言 し て い る わ け で は な い と 断 っ た 上 で、 現 行 本 の 各 篇 冒 頭 に 附 す 序 文 の 書 き 方 か ら、 太甲 3篇・盤庚 3篇・説命 3篇・泰誓 3篇はそれぞれ 3篇 で一つの序を共有しているので各 1巻であり、大禹謨・皐 陶謨・益稷と康誥・酒誥・梓材は、それぞれ篇は異なるが 一つの序を共有しているので各 1巻であり、顧命と康王之 誥とは序を共有していないので巻が分かれると主張す る ︶9 ︵ 。 また、伏生本については、ここまでの論述から、 33篇も しくは孔壁本で分出する 5篇を 1篇に組み合わせると 28篇 と計上できる。だが、この 28篇という篇数は﹃史記﹄伏生 伝が 29篇と言うのと合致しない。そのため、孔穎達は、伏 生 本 は も と も と 28篇 で あ っ た が、 ﹃ 史 記 ﹄ で は 武 帝 期 に 得 た泰誓 1篇を合わせて 29篇としていると考え た ︶10 ︵ 。ただ、彼 はこの泰誓を偽作と見てお り ︶11 ︵ 、孔壁本に含まれる泰誓とは 区別する。 そして、孔穎達は鄭玄本の構成にも言及する。   鄭玄は伏生の二十九篇の中から、盤庚二篇と康王之 誥を分けて取り出し、そして泰誓は三篇なので三十四 篇とし、 さらに偽書二十四篇を加えて五十八篇とした。 加えた二十四篇とは、 鄭玄が書序に注して言うように、 舜典で一、 汨作で二、 九共九篇で十一、 大禹謨で十二、 益稷で十三、五子之歌で十四、胤征で十五、湯誥で十 六、咸有一徳で十七、典宝で十八、伊訓で十九、肆命 で二十、 原命で二十一、 武成で二十二、 旅 獒 で二十三、 冏命で二十四である。これら二十四篇を十六巻とする のは、 九共九篇は巻を共有するので八篇を除くことで、 十 六 篇 と し て い る。 ︵ 鄭 玄 則 於 伏 生 二 十 九 篇 之 内、 分 出盤庚二篇、康王之誥、又泰誓三篇為三十四篇、更増 益偽書二十四篇為五十八。所増益二十四篇者、則鄭注 書 序、 舜 典 一、 汨 作 二、 九 共 九 篇 十 一、 大 禹 謨 十 二、 益稷十三、五子之歌十四、胤征十五、湯誥十六、咸有 一徳十七、典宝十八、伊訓十九、肆命二十、原命二十 一、武成二十二、旅 獒 二十三、冏命二十四。以此二十 四為十六巻、以九共九篇共巻除八篇、故為十 六 ︶12 ︵ 。︶ これによれば、孔壁本と鄭玄本は構成の面で幾つかの違

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65 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) いがある。まず、両書は伏生本と重複する篇の分け方が異 なる。先に孔穎達は﹁三十三篇は鄭注本と同じ﹂と述べて いたが、鄭玄本では盤庚を 3篇に分け、康王之誥を顧命か ら分けて 1篇とし、そこに泰誓 3篇を加えて 34篇から成る と言う。次に、両書は伏生本と重複しない篇の篇目ととも に篇数も異なる。孔壁本は伏生本と重複する 33篇と重複し ない 25篇とで 58篇から成るが、鄭玄本は伏生本と重複する 34篇と重複しない 24篇とで 58篇から成る。また、孔穎達は ﹁篇即巻﹂の観点から伏生本と重複しない 24篇を 16巻とし、 伏 生 本 と 重 複 す る 29巻 と 合 わ せ て 45巻 と す る。 さ ら に は、 配列も孔壁本と異なっていると言 う ︶13 ︵ 。なお、孔穎達は鄭玄 本が偽書に由来すると考えるが、恵棟は真古文に由来する と考えるので、この点は区別しておく必要がある。 ︵ 2︶   恵棟の見解 つづいて、 恵棟の見解を見ていくことにしよう。まずは、 伏生本に対する考え方を取り上げる。恵棟は孔穎達と同じ ように伏生本はもともと 28篇であったが、後に大誓︵泰誓 を 指 す。 表 記 は 恵 棟 に 従 う。 ︶ を 加 え て 29篇 に な っ た と 考 え る ︶14 ︵ 。ただ、恵棟はこの大誓を本物とし、孔壁本の大誓と 合致すると考えた。この点は閻若 璩 とも見解が異な る ︶15 ︵ 。 また、彼は孔穎達が示した伏生本の構成を批判する。孔 安国﹁尚書序﹂によれば、伏生本は︵ 1︶舜典を堯典に合 わせて 1篇とし、 ︵ 2︶益稷を皐陶謨に合わせて 1篇とし、 ︵ 3︶盤庚三篇を合わせて 1篇とし、 ︵ 4︶康王之誥を顧命 に 合 わ せ て 1篇 と し て い た が、 恵 棟 は﹁ 弁 尚 書 分 篇 之 謬 ﹂ の中で、 ︵ 3︶盤庚以外を批判す る ︶16 ︵ 。 ︵ 1︶   伏生の尚書には舜典がなく、 ﹁粤若稽古帝堯﹂ ︵今の 堯典冒頭︶から﹁陟方乃死﹂ ︵今の舜典末尾︶までは、 全て堯典であり、 古文尚書の原書もこのようであった。 だから、司馬遷が史記を著し、鄭玄や王肅が尚書に注 を 施 す 際 に は、 全 て﹁ 慎 五 典 ﹂︵ 舜 典 冒 頭 ︶ 以 降 を 堯が舜を試した文章とし、孟子が﹁二十有八載、放勛 乃 殂 落 ﹂︵ 万 章 上 / 今 の 舜 典 ︶ と 言 う 際 に は、 ﹁ 堯 典 ﹂ と明言したのである。梅賾は﹁慎五典﹂以降に本づ いて、別に舜典を作った。このように、彼が堯典を省 略して舜典一篇を作ったことは、拙劣さを隠すことに 巧みであるが、明らかに孟子と食い違っているではな い か。 ︵ 伏 生 尚 書 无 舜 典、 自﹁ 粤 若 稽 古 帝 堯 ﹂ 至﹁ 陟 方 乃 死 ﹂、 皆 堯 典 也。 古 文 尚 書 原 書 亦 如 此。 故 司 馬 遷 僎 史記、鄭康成・王子雍注尚書、皆以﹁慎五典﹂已 下為堯試舜之文、孟子称﹁二十有八載、放勛乃殂落﹂ 、 明言﹁堯典﹂ 。梅氏本於﹁慎五典﹂已下、別為舜典。 此其省作舜典一篇、 巧於蔵拙也、 不顕与孟子相刺謬乎。 ︶

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66 2︶   咎 繇 の 謨 に﹁ 帝 曰 来 禹 女 亦 昌 言 ﹂︵ 今 の 益 稷 冒 頭 ︶ と あ る の と、 ︵ 今 の 皋 陶 謨 で ︶ 咎 繇 が 述 べ た 内 容 は、 同じ時の言葉であるから、どうして区別して別物とで きようか。そのため、伏生の今文と馬融・鄭玄・王肅 本では、全てが皋陶謨と益稷を分けていない。ずっと 後 文 の﹁ 賡 歌 颺 拝 ﹂︵ 今 の 益 稷 末 尾 ︶ 以 降 に な っ て、 咎繇謨が終わり、これとは別に棄稷の篇が存在し、益 稷と言われる篇目はなかったのである。梅賾が篇中に ﹁ 臮 益 臮 稷﹂ ︵益稷冒頭︶ の文章があるので、 ﹁帝曰来禹﹂ 以下から切り離し、棄稷という名称を益稷と改めたの は、そもそも省略して偽作するのに都合が良いという 私 智 に 他 な ら な い。 ︵ 咎 繇 謨、 ﹁ 帝 曰 来 禹 女 亦 昌 言 ﹂、 与咎繇所陳、是一時之言、豈容分異。故伏生今文与馬 鄭王本、皆不分篇。直至後文﹁賡歌颺拝﹂而後、咎繇 謨 篇 止、 其 外 乃 別 有 棄 稷 之 篇、 未 有 所 謂 益 稷 篇 目 者。 梅氏乃以篇中有﹁ 臮 益 臮 稷﹂之文、 遂断自﹁帝曰来禹﹂ 以下、改棄稷之名為益稷、亦其便于省造之私智也。 ︶ ︵ 4︶   伏生は康王之誥を顧命に合わせており、馬融・鄭玄 本 で は﹁ 高 祖 寡 命 ﹂︵ 今 の 康 王 之 誥 ︶ 以 前 を 顧 命 の 篇 として、 ﹁王若曰﹂ ︵今の康王之誥︶以降を康王之誥と している。経典の文脈を考えると、 ﹁諸侯出廟門俟﹂ ︵今 の顧命末尾︶とあり、 その﹁俟つ﹂とは、 ﹁王出づ﹂ ︵今 の康王之誥冒頭︶を﹁俟つ﹂のである。語勢の面では 区切れないから、 ここで章を区切るわけにはいかない。 ︵ 伏 生 合 康 王 之 誥 於 顧 命、 馬 鄭 本﹁ 高 祖 寡 命 ﹂ 已 上 為 顧命之篇、 ﹁王若曰﹂已下為康王之誥、尋経文、 ﹁諸侯 出 廟 門 俟 ﹂、 俟 者、 俟﹁ 王 出 ﹂ 也。 語 勢 不 断、 不 容 於 此断章。 ︶ 恵棟の所説は、前提として顧炎武﹃日知録﹄巻二﹁古文 尚 書 ﹂ で 示 さ れ た 見 解 が あ る ︶17 ︵ 。 ま ず、 ︵ 1︶ 堯 典 と 舜 典 に ついて、恵棟は伏生の尚書には舜典がなく、現行の堯典と 舜典はもともと堯典であったと考える。顧炎武は恵棟も引 く﹃ 孟 子 ﹄ の 文 章 を 挙 げ て い る が ︶18 ︵ 、 恵 棟 は さ ら に﹃ 史 記 ︶19 ︵ ﹄ と鄭玄 注 ︶20 ︵ ・王肅 注 ︶21 ︵ では、舜典冒頭に見える﹁慎 五典﹂以 下の文章を堯が舜を試した文章と見なしていることを挙げ る。 次 に、 ︵ 2︶ 咎 繇 謨︵ 今 の 皐 陶 謨 を 指 す ︶ と 益 稷 に つ いて、恵棟は咎繇謨と益稷とはもともと咎繇謨であり、 100 篇の中には益稷という篇は存在せず、棄稷という篇が存在 したと考える。その根拠として、顧炎武は両篇で語られて いる内容が同時期のものであると言うが、恵棟はさらに馬 融 ・ 鄭玄 ・ 王肅が咎繇謨と益稷とを合わせて咎繇謨として、 これとは別に棄稷があると言っていることを挙げ る ︶22 ︵ 。そし て、 ︵ 4︶ 顧 命 と 康 王 之 誥 に つ い て、 恵 棟 は 伏 生 本 で は 両 篇で 1篇を成すのに対して、孔安国本ではこれらを区別し

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67 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) て い た が、 現 行 本 は 両 篇 の 分 け 方 を 誤 っ て い る と 考 え た。 顧炎武は顧命末尾の ﹁諸侯出廟門俟﹂ と康王之誥冒頭の ﹁王 出在応門之内﹂とは連続する文章であると言うが、恵棟は さらに馬融 ・ 鄭玄が現行本の康王之誥に見える﹁高祖寡命﹂ 以前の文章を顧命とし、同じく現行本の康王之誥に見える ﹁王若曰﹂以後の文章を康王之誥としていることを挙げ る ︶23 ︵ 。 このように、恵棟は顧炎武の説に拠りつつも、それを鄭玄 本などの記述で補強し、現行本を批判するのである。 ただ、恵棟は論旨こそ顧炎武の説を受け入れるが、こう した問題が発生した理由については別の見解を示した。   顧炎武はこの三つの事柄を挙げて書序の妄と見なし ている。そもそも、漢代において百篇の書序は別に一 巻をなしており、梅賾が上書してから、ようやく序を 区分して篇首に冠したのである。どうして、舜典・棄 稷に別にまとまった篇があり、康王之誥が実際は﹁王 若 曰 ﹂ か ら 区 切 っ て 始 ま り、 ﹁ 王 出 在 応 門 之 内 ﹂ か ら 始 ま っ て い る の で は な い こ と を 知 っ て い よ う か。 ︵ 顧 氏炎武挙此三事以為書序之妄。夫漢世百篇書序別為一 巻、自梅氏上書始以序分冠篇首、豈知舜典・棄稷別有 成篇、康王之誥実断自﹁王若曰﹂始、不始于﹁王出在 応門之内﹂也。 ︶ すなわち、顧炎武は﹁序分為両篇者妄 也 ︶24 ︵ ﹂といい、書序 に問題があったために分篇の誤りを誘発したと考える。こ れに対して、恵棟は書序そのものではなく、梅賾が書序 1 巻を﹃尚書﹄各篇の冒頭に分割配置したことに問題がある と考える。つまり、舜典の序を堯典の本文中に挿入し、益 稷の序を皐陶謨の本文中に挿入したことで、序と本文を備 えた舜典と益稷とが出来上がり、また康王之誥の序を顧命 の﹁王出在応門之内﹂の前に配置したことで、両篇を誤っ て区切ることになったと主張する。 つづいて、鄭玄本 24篇に対する考え方を見ていこう。前 述の如く、恵棟は鄭玄本の 24篇を孔安国の﹁真古文﹂と考 えた。ただ、恵棟は孔穎達が挙げた 24篇をそのまま踏襲し たわけではなく、若干の修正を試みている。具体的に言え ば、 ︵ 1︶ 孔 穎 達 は 益 稷 と す る の に 対 し て、 恵 棟 は 前 述 の 如く棄稷に改める。 ︵ 2︶孔穎達は胤征とするのに対して、 恵棟は雍正帝の諱である胤禛を避けて嗣征に改める。そし て、 ︵ 3︶孔穎達は 臩 命︵冏命を指す。 ︶とするのに対して、 恵棟は以下の理由から畢命に改め る ︶25 ︵ 。   逸書の中には冏命があるが、私は﹁冏﹂は﹁畢﹂字 に 作 る べ き 誤 り と 考 え る。 劉 歆 の 三 統 暦 に、 ﹁ 畢 命 豊 刑に﹃惟十有二年六月庚午朏、王命じて策豊刑︻ある テ キ ス ト で は、 ﹁ 作 策 書 豊 刑 ﹂ と い う ︼ を 作 ら し む ﹄ と あ る ﹂ と あ り、 鄭 玄 の 畢 命 序 注 に、 ﹁ 今 そ の 逸 篇 に

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68 は霍侯を任命した事が載っているが、この序と対応し ていない﹂とある。彼らは孔安国の逸書に依拠して説 を 立 て た に 違 い な い。 ︵ 逸 書 有 冏 命、 愚 謂 冏 当 作 畢 字 之誤也。劉歆三統暦云、 ﹁ 畢命豊刑曰、 ﹁惟十有二年六 月庚午朏、王命作策豊刑。 ﹂︻一云﹁作策書豊刑。 ﹂︼康 成 畢 命 序 注 云、 ﹁ 今 其 逸 篇 有 冊 命 霍 侯 之 事、 不 同 与 此 序相応。 ﹂蓋亦拠孔氏逸書為 説 ︶26 ︵ 。﹂ 孔穎達は劉歆﹁三統暦﹂に引く畢命の文章を﹁偽作﹂と 見 な し、 鄭 玄 の 発 言 も﹁ 妄 作 ﹂ と 見 な す ︶27 ︵ 。 こ れ に 対 し て、 閻 若 璩 は 劉 歆 が 暦 法 に 関 す る 零 句 を 引 用 し た と 考 え る が、 篇名を改めるには至っていな い ︶28 ︵ 。一方、恵棟は孔壁本には 冏命ではなく畢命があったので、鄭玄は畢命序に注を施し たと考える。こうした措置の妥当性は別にして、ここにも 鄭玄に対する尊崇の念を窺うことができる。 以上、本節では﹃尚書﹄各本に対する孔穎達と恵棟の見 解について考察してきた。 この中で恵棟は鄭玄が伝えた ﹃尚 書﹄は﹁真古文﹂であるという観点から、孔穎達の見解に 対して修正を迫ろうとしていたことを確認した。中には強 引とも言える考証も見受けられたが、それは恵棟が鄭玄に 従おうとする姿勢が現れたものと言えよう。 二   鄭玄本顕彰の解釈史上の意義 恵棟は ﹃尚書﹄ の弁偽を試みる中で、 鄭玄に依拠して ﹁古 文尚書﹂本来の姿を明らかにしようとしていた。ただ、恵 棟が鄭玄に依拠する際には、後漢期における﹃尚書﹄の伝 承に関わる問題が横たわっている。そこで、本節では恵棟 が鄭玄本の性格をどのように理解したかを確認し、その上 で彼の考え方が明末清初以来の﹃尚書﹄の弁偽の中にどう 位置づけられるかを考えていきたい。 恵棟は鄭玄に至る﹃尚書﹄の伝承を次のように述べる。   そもそも、古文の伝承には膠東の庸生以降、代々経 師が存在した。扶風の杜林は、さらに西州で 桼 書を得 て、 相 互 に 比 較 検 証 を 行 い、 衛 宏・ 賈 逵・ 馬 融 ら は、 みなその学問を伝えた。だから、 鄭玄から﹁雅材好博﹂ と 称 賛 さ れ た の で あ る。 ︵ 蓋 古 文 自 膠 東 庸 生 已 下、 代 有経師。扶風杜林、又得西州 桼 書、互相攷証、衛賈馬 諸君、皆伝其学。故有雅材好博之 称 ︶29 ︵ 。︶ まずは、恵棟がこの文章を書く上で本づいた資料を確認 しておこう。 ﹁古文﹂ が膠東の庸生に伝えられたことは、 ﹃漢 書﹄に﹁安国為諫大夫、 授都尉朝、 而司馬遷亦従安国問故。 ⋮⋮都尉朝授膠東庸生。庸生授清河胡常少子、⋮ ⋮ ︶30 ︵ ﹂とあ る。 そ し て、 杜 林 に つ い て は、 ﹃ 後 漢 書 ﹄ に﹁ 林 前 於 西 州

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69 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 得 漆 書 古 文 尚 書 一 巻、 常 宝 愛 之、 雖 遭 難 困、 握 持 不 離 身。 ⋮⋮宏・巡益重之、於是古文遂 行 ︶31 ︵ ﹂とあり、また﹁扶風杜 林伝古文尚書、 林同郡賈逵為之作訓、 馬融作伝、 鄭玄注解、 由是古文尚書遂顕于 世 ︶32 ︵ ﹂とある。さらに、 ﹁雅材好博﹂は、 鄭玄﹃書賛﹄に﹁我先師棘子下生安国、亦好此学、衛 ・ 賈 ・ 馬二三君子之業、則雅才好博、既宣之 矣 ︶33 ︵ ﹂と見える。恵棟 はこれらの資料を組み合わせて、上掲の文章を著したと考 え ら れ る。 と こ ろ が、 文 中 の﹁ 互 相 攷 証 ﹂ と い う 一 句 は、 資料の中に関連する記述が見当たらない。恵棟はこの一句 を挿入することで、杜林が﹁古文尚書﹂と﹁西州 桼 書﹂を 用いて﹁互相攷証﹂したと言おうとするわけだが、資料の 面で裏づけることができないのであ る ︶34 ︵ 。 では、なぜ恵棟はこうした文章を著したのか。前述の如 く、恵棟は鄭玄本が孔安国の﹁真古文﹂を継承していると 考えていた。だが、その鄭玄の﹃尚書﹄学は、上述の資料 からも明らかなように、杜林本の系譜に連なっている。そ の場合、杜林本がどのような性質の書物であるのかが明ら かでなければ、鄭玄本が﹁真古文﹂を継承しているという 主張に綻びが生じかねない。しかも、 ﹃隋書﹄経籍志には、 ﹁ 後 漢 の 扶 風 の 杜 林 は、 古 文 尚 書 を 伝 え、 同 郡 の 賈 逵 は こ れに訓を作り、 馬融は伝を作り、 鄭玄もこれに注を作った。 だが、杜林が伝えた尚書は二十九篇だけで、さらに今文も 混入していたので、孔安国の旧本ではない。この他に師説 は 全 く 存 在 し な い。 ︵ 後 漢 扶 風 杜 林、 伝 古 文 尚 書、 同 郡 賈 逵為之作訓、馬融作伝、鄭玄亦為之注。然其所伝、唯二十 九 篇、 又 雑 以 今 文、 非 孔 旧 本。 自 余 絶 無 師 説 ︶35 ︵ ︶﹂ と あ り、 杜林本と孔安国本との関係を断ち切っている。そこで、恵 棟は﹁杜林が伝えた漆書は、孔壁から現れ朝廷に献上され た 尚 書 に 他 な ら な い︵ 林 所 伝 漆 書、 即 孔 壁 中 書 也 ︶36 ︵ ︶﹂ と 指 摘する。なるほど、 杜林本を孔壁本そのものと見るのなら、 鄭玄本の﹁真古文﹂としての地位が揺らぐことはない。 ここでは恵棟の主張の妥当性は問わない。ともかく、彼 は鄭玄本が孔安国の﹁真古文﹂に由来するとの観点から自 説を組み立てた。では、それは学術史的に見た場合、どの ような意義があるのだろうか。 本 稿 冒 頭 で 示 し た よ う に、 恵 棟 は 呉 棫 ・ 朱 熹・ 陳 振 孫・ 呉澄・趙孟頫らが、鄭玄本 24篇が偽作であるという孔穎達 の考え方を否定するには至っていないと言う。ただ、この 中で実際に鄭玄本 24篇が張覇の偽作に本づくと断言した者 はおら ず ︶37 ︵ 、わずかに陳振孫が﹁両漢の名儒は、誰も孔氏の 古文を実見していない ︵ 両漢名儒、 皆未嘗実見孔氏古文 也 ︶38 ︵ ︶﹂ と言うだけである。恵棟としては、言及しないこと自体が 不満なのだろうが、彼らからしてみれば、梅賾本の真偽こ そが問題なのであり、後漢期における﹃尚書﹄の伝承は関

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70 心から外れていた。 こうした状況は明代でも大差ない。 明代になると、 ﹃尚書﹄ の弁偽に関わる人物も増えるが、やはり後漢期の伝承にま で言及する者は稀である。梅鷟は閻若 璩 に先駆けて体系的 な﹃尚書﹄の弁偽に取り組み、 ﹃尚書考異﹄ ﹃尚書譜﹄を著 した人物として知られる。その梅鷟は後漢期の伝承も検証 しているが、両漢の儒者が見たテキストを張覇の偽書と見 なす孔穎達の考え方からは抜け出ていな い ︶39 ︵ 。 では、明末清初期の状況はどうだろうか。ここでは、閻 若 璩 とその周辺人物の考え方を見ていきたい。 ま ず は、 閻 若 璩 の 見 解 を 確 認 す る。 恵 棟 も 言 う よ う に、 閻 若 璩 の 考 え 方 は、 恵 棟 と 類 似 す る 点 が 多 い。 た と え ば、 鄭玄本が張覇の偽作に本づく見解を批判す る ︶40 ︵ 。また、孔安 国本は両漢を通して伝承され、鄭玄本は孔安国本に由来す ると考え る ︶41 ︵ 。ただ、彼は杜林本に踏み込んだ言及はしてお ら ず、 鄭 玄﹃ 書 賛 ﹄ に﹁ 我 先 師 棘 子 下 生 安 国、 亦 好 此 学 ﹂ とあることから、孔安国に淵源すると強調す る ︶42 ︵ 。 つづいて、閻若 璩 と同様に﹁古文﹂ 25篇に疑念を深めた 者として顧炎武と朱彝尊の見解を見ていこう。 顧炎武は ﹃後 漢書﹄に﹁ 孔僖字仲和、魯国魯人也。自安国以下、世伝古 文尚 書 ︶43 ︵ ﹂とあることから、後漢期にも孔安国本が存在した と 認 め は す る が、 孔 僖 の テ キ ス ト に は 孔 安 国 の 伝 が な く、 杜林 ・ 賈逵 ・ 馬融 ・ 鄭玄は、孔安国の伝を見ずに解釈を行っ たので、孔安国の伝と鄭玄らの解釈とは異なるに違いない と 主 張 す る ︶44 ︵ 。 顧 炎 武 の 論 述 は 簡 略 で あ る が 故 に、 ﹁ 伝 ﹂ だ けを問題にしているのか、テキストも併せて論じているの か読み取りにくい。一方、朱彝尊は杜林本に本づいて解釈 を行った賈逵・馬融・鄭玄は孔安国本を見ていないと考え た ︶45 ︵ 。彼らは閻若 璩 に触発されて﹁古文﹂ 25篇に疑念を深め た者として注目されている が ︶46 ︵ 、伝承まで見解を共有するに は至っていない。 管見の限りではあるが、閻若 璩 の周辺で﹁古文﹂ 25篇を 疑 い、 か つ 鄭 玄 本 が 孔 安 国 本 に 由 来 す る と 明 言 し た の は、 顧炎武の甥に当たり、閻若 璩 のパトロンとしての役割も果 たしていた徐乾学くらいである。彼は鄭玄が孔安国本のた めに﹃書賛﹄を作っていること、そして﹃後漢書﹄に﹁塗 惲↓賈↓賈逵﹂という伝承が示されていることか ら ︶47 ︵ 、鄭 玄と賈逵は孔安国本と杜林本を見ているが、二人ともその 異同を論証していないので、孔安国本と杜林本は別系統の テキストであるはずがないと結論づけ る ︶48 ︵ 。 では、 ﹁古文﹂ 25篇を偽作と見なすことに反対した者は、 どう考えたか。まず、黄宗羲﹁尚書古文疏証原序﹂に名前 が見える朱朝瑛は、史書に見える記述から、両漢の儒者が 見た ﹁古文﹂ は張覇の偽書ではなく、 孔安国に由来する ﹁古

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71 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 文﹂と主張する。とりわけ、 後漢期の伝承については、 ﹃後 漢 書 ﹄ に 示 さ れ た﹁ 塗 惲 ↓ 賈 ↓ 賈 逵 ﹂ と﹁ 杜 林 ↓ 賈 逵・ 馬融・鄭玄﹂という伝承から、賈逵・馬融・鄭玄が伝えた ﹃ 尚 書 ﹄ が 孔 安 国 本 に 由 来 す る と 断 言 す る。 さ ら に、 杜 林 本については、恵棟と同様に、新から後漢の成立に至るま での混乱の中で、孔安国本が散逸したものではないか、と の見解を示す。ただ、彼は梅賾本は孔安国本に由来すると も考えていた。そこで、さらに﹃三国志﹄に鄭玄の孫の鄭 小同が鄭沖とともに高貴郷公から﹃尚書﹄を授かった記事 が あ る の で、 鄭 玄 と 小 同 の﹃ 尚 書 ﹄ は 大 き く は 異 な ら ず、 それが孔穎達が引く﹃晋書﹄に﹁鄭沖↓蘇愉↓梁栁↓臧曹 ↓梅賾﹂という伝承に連なると主張す る ︶49 ︵ 。 次 に、 黄 宗 羲 の 弟 子 の 万 斯 同 は ︶50 ︵ 、 史 書 の 記 述 か ら、 ﹁ 古 文尚書﹂が両漢より魏晋に至るまでの間に伝承され、梅賾 によって献上されるに至ったと考えた。その上で、彼は鄭 玄や杜預が経書の解釈に際して、本文中に見える﹁古文尚 書﹂からの引用に対して﹁逸書﹂と述べていることにも言 及 す る。 ﹁ 古 文 尚 書 ﹂ は 前 漢 よ り 世 の 中 に 細 々 と 流 通 し て いたものの、 彼らは実見できる状況にはなかったため、 ﹁逸 書﹂という言い方をしたと考え る ︶51 ︵ 。 最後に、 毛奇齢の見解を取り上げよう。 彼の考えでは、 ﹁古 文尚書﹂が壁中より現れると、孔安国は原本の状態のまま 献上し、武帝は孔安国に伝を作るよう命じた。その後、孔 安国は伝を完成させたが、巫蠱の禍が生じたため、献上す る こ と が 出 来 な か っ た。 そ の た め、 ﹁ 古 文 尚 書 ﹂ は 学 官 に 立てられなかった が ︶52 ︵ 、孔安国は原本の写しを用いて都尉朝 に伝を授け、それが両漢より魏晋に至るまで伝承され、や がて梅賾によって孔安国の伝が献上されるに至った、と言 う ︶53 ︵ 。ただ、毛奇齢は後漢期にはこれとは別系統のテキスト が現れたとも考える。すなわち、彼は﹃後漢書﹄の記載に より、塗惲は孔安国以来の﹁古文尚書﹂を賈に伝え、賈 がそれを賈逵に伝えたが、その後に賈逵・馬融・鄭玄は 杜林の漆書を受けたことで、 系統の異なる ﹁漆書﹂ 本と ﹁壁 経﹂本とが並存することとなったと言 う ︶54 ︵ 。さらに、彼は鄭 玄本は伏生本と重複する 34篇だけでなく、孔壁本独自の 24 篇にも注を施して孔伝と大差なかったが、唐初に今文を墨 守する者が 24篇の注を削ったにもかかわらず、孔穎達はそ のことに気づかなかったとまで言うのであ る ︶55 ︵ 。 さて、ここまで南宋以来の学者たちによって、後漢期に おける﹃尚書﹄の伝承、とりわけ鄭玄本の性格がどのよう に考えられてきたかを概観してきた。残念ながら、資料の 残存状況や紙幅の制約などから網羅的な考察とまではいか ないが、ここまで見てきた範囲から言えば、歴代の学者た ちの関心は何より﹁古文﹂ 25篇の真偽にあるため、伝承に

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72 関する発言自体が多くはない。それでも、恵棟が言うよう に、鄭玄本が張覇の偽書に由来するという考え方は確かに 存在した。ただ、それとは別に、明末清初には﹁古文﹂ 25 篇を疑う側だけでなく、信じる側でも鄭玄本を孔安国本に 関連づけて、自説の根拠とする動きがあったことが確認さ れ た。 も っ と も、 朱 朝 瑛 や 万 斯 同 の よ う に、 ﹁ 古 文 ﹂ 25篇 の偽作説を退けるために、史書の記述に本づいて孔安国本 と梅賾本とを関連づけた場合、孔穎達が指摘した梅賾本と 鄭玄本における構成の違いを説明することができない。も し、梅賾本が孔安国本に由来することを主張しようとする ならば、閻若 璩 批判が念頭にあるとはいえ、毛奇齢のよう に鄭玄本と梅賾本とは切り離さざるを得なくなる。 ともあれ、鄭玄本に関する議論は、張覇の偽作に由来す るという孔穎達の考えを鵜呑みにする状態から、史書の記 述に本づいて伝承過程を再構成する段階を経て、やがて梅 賾本と鄭玄本の構成面の違いと関連づけて考えていくよう に、徐々に進展していく様子を見て取ることができる。 では、 伝承に対する考え方は、 その後どう展開したのか。 乾 隆 十 八 年︵ 一 七 五 三 ︶、 恵 棟 と 同 年 代 の 程 廷 祚︵ 一 六 九 一│一七六七︶は﹃晩書訂疑﹄を著した際に、その序文の 中 で、 ﹁ そ も そ も、 晩 書 の 疑 う べ き は、 来 歴 が 明 ら か で な い こ と に あ り、 儒 者 た ち は そ の 根 拠 を 言 う こ と が で き ず、 議論を沸騰させ、問いを発することはできても解決するこ とができなくなっている︵蓋謂晩書之可疑、 在于来歴不明、 而諸儒不能言其所以然、 致使議論沸騰、 能発之而不能定也︶ ﹂ と指摘し た ︶56 ︵ 。この時、程廷祚は﹃尚書古文疏証﹄を見てお らず、三年後の乾隆二十一年︵一七五六︶に漸く実見でき たとい う ︶57 ︵ 。乾隆期にもなると、晩出 25篇の真偽を論じる上 で伝承を正しく認識する必要があると明確に意識されてい たことを示していよう。 恵棟は﹃古文尚書攷﹄を著す際に、 鄭玄の学問を称揚し、 その妥当性を立証することに意識を向けていたことは間違 いない。ただ、それは﹃尚書﹄の伝承を追求しようとする 潮流の下で著されたものであった。そして、それは乾隆十 年︵ 一 七 四 五 ︶ に 出 版 さ れ た﹃ 尚 書 古 文 疏 証 ﹄ と と も に、 鄭玄本の価値を広く印象づけるものとして受け入れられる こととなったのではなかろうか。 おわりに 本稿では、恵棟の﹃古文尚書攷﹄を手がかりとして、彼 が行った﹃尚書﹄の弁偽の一端を窺うとともに、その解釈 史上における意義を探ってきた。 恵棟は﹃古文尚書攷﹄において、現行本﹃尚書﹄の弁偽

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73 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) を 試 み る 際 に、 鄭 玄 本 を 分 析 の 基 準 に 据 え て、 ﹃ 尚 書 ﹄ の 伏生本や孔安国本の在り方を追求しようとしていた。中に は、強引な考証も見られたが、これらは鄭玄を尊崇すると いう考え方に端を発していると言える。一方で、恵棟の取 り組みを ﹃尚書﹄ の弁偽の流れの中で見てみると、 彼は ﹃尚 書 ﹄ の 伝 承 に 対 す る 意 識 が 高 ま る 中 で、 ﹃ 古 文 尚 書 攷 ﹄ を 著しており、閻若 璩 の﹃尚書古文疏証﹄とともに、鄭玄本 の価値を世に問うこととなったであろう。その鄭玄を尊崇 する意志は、やがて恵棟の学問に共鳴した王鳴盛や江声の ﹃ 尚 書 ﹄ 学 へ と 受 け 継 が れ る。 恵 棟 の 学 問 は、 後 に 漢 代 の 学術を尊崇する余り、その方法論の面での行き詰まりを批 判されることもある が ︶58 ︵ 、その学問の価値は後人の価値観で はなく、学術史の展開の中で探っていく必要性があること を示す一例と言えよう。   注 ︵ 1︶   杭 世 駿﹁ 尚 書 後 案 序 ﹂、 ﹃ 道 古 堂 文 集 ﹄ 巻 四、 ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄ 第 一 四 二 六 冊、 上 海 古 籍 出 版 社、 一 九 九 五 │ 二 〇 〇 二年、二二九頁。 ︵ 2︶   本 稿 で は 乾 隆 五 十 七 年 宋 廷 弼 読 経 楼 刊 本︵ ﹃ 続 修 四 庫 全 書﹄第四四冊︶を用いる。 ︵ 3︶   ﹁ 予 少 疑 後 出 古 文、 年 大 来 文 理 未 進、 未 敢 作 書 指 斥。 甲 寅 夏 秋 間、 偶 校 九 経 注 疏、 作 疑 義 四 条、 弁 正 義 四 条、 継 又 作古文証九条、 弁偽書十五条、 又先後続出両条、 共為一巻。 其 二 十 五 篇、 采 摭 伝 記、 兼 録 其 由 来。 蔵 篋 衍 数 年 矣。 癸 亥 春、 於 友 人 許 得 太 原 閻 君 古 文 疏 証、 其 論 与 予 先 後 印 合。 大 氐 後 出 古 文、 先 儒 疑 者 不 一。 第 皆 惑 于 孔 沖 遠 之 説 以 鄭 氏 二 十四篇為偽書、 遂不得真古文要領、 数百年來、 終成疑案耳。 閻 君 之 論、 可 為 助 我 張 目 者、 因 采 其 語 附 于 後、 其 博 引 伝 記 逸 書、 別 為 一 巻、 亦 間 附 閻 説。 後 之 学 者 詳 焉 ﹂︵ ﹃ 古 文 尚 書 攷 ﹄ 巻 上﹁ 附 閻 氏 若 璩 尚 書 古 文 疏 証 ﹂、 六 七 │ 六 八 頁 ︶ と あ る。 な お、 沈 彤﹁ 古 文 尚 書 攷 序 ﹂ の 末 尾 に﹁ 時 乾 隆 十 五 年 歳 次 上 章 敦 牂 四 月 既 望、 果 堂 弟 沈 彤 僎 ﹂︵ 同、 五 六 頁 ︶ と あ る の で、 乾 隆 十 五 年︵ 一 七 五 〇 ︶ 頃 ま で に は 完 成 し て いたと思われる。 ︵ 4︶   ﹁ 正 義 曰、 ﹁ 前 漢 諸 儒 知 孔 本 有 五 十 八 篇、 不 見 孔 伝、 遂 有 張 霸 之 徒 於 鄭 注 之 外、 偽 造 尚 書 凡 二 十 四、 以 足 鄭 注 三 十 四 篇 為 五 十 八 篇。 ﹂ 案 覇 所 僎 有 百 両 篇、 無 偽 造 二 十 四 篇 之 説。 二十四篇之文、 ︻⋮⋮︼劉歆 ・ 班固、 皆以為孔安国所得逸書、 非 張 覇 書 也。 自 東 晋 二 十 五 篇 之 文 出、 于 是 始 以 二 十 四 篇 為 偽書。信所疑而疑所信、 此後儒所以不能無弁也。 ﹂︵同巻上、 ﹁弁正義四条﹂第二条、五九頁︶ ︵ 5︶   同上。 ︵ 6︶   ﹁ 尚 書 序 ﹂︵ 廖 明 春・ 陳 明 整 理﹃ 尚 書 正 義 ﹄ 巻 一、 北 京 大 学出版社、一四│一七頁︶ 。 ︵ 7︶   同巻二、堯典疏、二四頁。 ︵ 8︶   梅賾本には舜典が欠けていたため、 隋代に補われた。 ﹁時 已 亡 失 舜 典 一 篇、 晋 末 范 甯 為 解 時 已 不 得 焉。 至 斉 蕭 鸞 建 武

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74 四年、 姚方興於大航頭得而献之、 議者以為孔安国之所注也。 値 方 興 有 罪、 事 亦 随 寝。 至 隋 開 皇 二 年、 購 慕 遺 典、 乃 得 其 篇焉。 ﹂︵同、二六頁︶ ︵ 9︶   ﹁ 此 云﹁ 四 十 六 巻 ﹂ 者、 不 見 安 国 明 説。 蓋 以 同 序 者 同 巻、 異 序 者 異 巻、 故 五 十 八 篇 為 四 十 六 巻。 何 者。 五 十 八 篇 内、 有 太 甲・ 盤 庚・ 説 命・ 泰 誓、 皆 三 篇 共 巻、 減 其 八。 又 大 禹 謨 ・ 皐陶謨 ・ 益稷、又三篇同序共巻。其康誥 ・ 酒誥 ・ 梓材、 亦 三 篇 同 序 共 巻、 則 又 減 四。 通 前 十 二、 以 五 十 八 減 十 二、 非四十六巻而何。其康王之誥、 乃与顧命別巻、 以別序故也。 ﹂ ︵同巻一、 ﹁尚書序﹂疏、一九頁︶ ︵ 10︶   ﹁ 案 史 記、 ﹁ 秦 時 焚 書、 伏 生 壁 蔵 之。 其 後 兵 火 起、 流 亡。 漢 定 天 下、 伏 生 求 其 書、 亡 数 十 篇、 独 得 二 十 九 篇、 以 教 于 斉 魯 之 間。 ﹂ 則 伏 生 壁 内 得 二 十 九 篇。 ⋮⋮ 而 言﹁ 二 十 九 篇 ﹂ 者、 以司馬遷在武帝之世見泰誓出而得行、 入於伏生所伝内、 故 為 史 揔 之、 并 云 伏 生 所 出、 不 復 曲 別 分 析 ﹂︵ 同 巻 一、 ﹁ 尚 書序﹂疏、一四│一五頁︶ 。 ︵ 11︶   ﹁ 与 安 国 書 云、 ﹁ 時 人 惟 聞 尚 書 二 十 八 篇、 取 象 二 十 八 宿、 謂 為 信 然、 不 知 其 有 百 篇 也。 ﹂ 然 則 漢 初 惟 有 二 十 八 篇、 無 泰 誓 矣。 後 得 偽 泰 誓 三 篇、 諸 儒 多 疑 之。 ﹂︵ 同 巻 十 一、 泰 誓 疏、三一九頁︶ ︵ 12︶   同巻二・堯典疏、二四頁。 ︵ 13︶   ﹁ 其 百 篇 次 第、 於 序 孔 鄭 不 同。 孔 以 湯 誓 在 夏 社 前、 於 百 篇 為 第 二 十 六。 鄭 以 為 在 臣 扈 後、 第 二 十 九。 孔 以 咸 有 一 徳 次 太 甲 後、 第 四 十。 鄭 以 為 在 湯 誥 後、 第 三 十 二。 孔 以 蔡 仲 之 命 次 君 奭 後、 第 八 十 三。 鄭 以 為 在 費 誓 前、 第 九 十 六。 孔 以 周 官 在 立 政 後、 第 八 十 八。 鄭 以 為 在 立 政 前、 第 八 十 六。 孔 以 費 誓 在 文 侯 之 命 後、 第 九 十 九。 鄭 以 為 在 呂 刑 前、 第 九 十 七。 不 同 者 孔 依 壁 内 篇 次 及 序 為 文、 鄭 依 賈 氏 所 奏 別 録 為 次、 孔未入学官、 以此不同。考論次第、 孔義是也﹂ ︵同巻二、 堯 典、 ﹁ 堯 典 ﹂ 疏、 二 三 頁 ︶ と あ る。 た だ し、 こ れ に 従 っ て 100篇 の 順 序 を 改 め る と、 咸 有 一 徳 は﹁ 第 三 十 二 ﹂ で は な く 第 三 十 三 と な り、 以 下 の 篇 も 一 つ ず つ 乱 れ る。 そ こ で、 本 文 に 引 い た﹁ 所 増 益 二 十 四 篇 者、 則 鄭 注 書 序、 ⋮⋮ 咸 有 一 徳 十 七、 典 宝 十 八、 伊 訓 十 九、 ⋮⋮﹂ と い う 発 言 に 従 っ て調整する必要がある。 ︵ 14︶   ﹁ 伏 生 二 十 八 篇、 太 誓 後 得、 故 二 十 九 ﹂︵ ﹃ 古 文 尚 書 攷 ﹄ 巻上、五七頁︶という。 ︵ 15︶   ﹁ 閻 氏 云、 ﹁ 偽 大 誓、 無 孟 子 諸 書 所 引 用 ﹂、 是 指 謂 西 漢 之 大 誓 也。 案 西 漢 之 大 誓、 博 士 習 之、 孔 壁 所 出、 与 之 符 同、 是 孔 子 所 定 之 旧 文 也。 自 東 晋 別 有 偽 大 誓 三 篇、 唐 宋 以 来 諸 人 反 以 西 漢 之 大 誓 為 偽。 閻 氏 既 知 東 晋 之 大 誓 是 偽 作、 何 并 疑 西 漢 之 大 誓 亦 偽 邪。 此 其 謬 也。 ﹂︵ 同 巻 上﹁ 附 閻 氏 若 璩 尚 書古文疏證﹂第六条、六九頁︶ ︵ 16︶   同巻上﹁弁尚書分篇之謬﹂ 、六七頁。 ︵ 17︶   ﹁窃疑古時有堯典無舜典、 有夏書無虞書、 而堯典亦夏書也。 孟 子 引﹁ 二 十 有 八 載、 放 勳 乃 殂 落 ﹂、 而 謂 之 堯 典、 則 序 之 別 為 舜 典 者 非 矣。 ⋮⋮﹁ 帝 曰 来 禹 汝 亦 昌 言 ﹂、 承 上 文 皐 陶 所 陳、 一 時 之 言 也。 ﹁ 王 出 在 応 門 之 内 ﹂、 承 上 文﹁ 諸 侯 出 廟 門 俟 ﹂、 一 時 之 事 也。 序 分 為 両 篇 者、 妄 也。 ﹂︵ 栾 保 羣・ 呂 宗力校点 ﹃日知録集釈﹄ 巻二 ﹁古文尚書﹂ 、上海古籍出版社、

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75 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 二〇〇六年、一一九│一二一頁︶ ︵ 18︶   ﹁ 堯 典 曰、 ﹃ 二 十 有 八 載、 放 勛 乃 徂 落、 百 姓 如 喪 考 妣。 三 年、 四 海 遏 密 八 音。 ﹄﹂ ︵﹃ 孟 子 ﹄ 万 章 上、 廖 名 春・ 劉 佑 平 整 理﹃孟子注疏﹄ 、北京大学出版社、二〇〇〇年、二九七頁︶ ︵ 19︶   ﹁堯妻之二女、 観其徳於二女。舜飭下二女於 媯 汭 、如婦礼。 堯 善 之、 乃 使 舜 慎 和 五 典、 五 典 能 従。 乃 遍 入 百 官、 百 官 時 序。 賓 於 四 門、 四 門 穆 穆、 諸 侯 遠 方 賓 客 皆 敬。 堯 使 舜 入 山 林 川 沢、 暴 風 雷 雨、 舜 行 不 迷。 堯 以 為 聖、 召 舜 曰、 ﹁ 女 謀 事 至 而 言 可 績、 三 年 矣。 女 登 帝 位。 ﹂ 舜 譲 於 徳 不 懌。 ﹂︵ 点 校 本 二 十 四 史 修 訂 本﹃ 史 記 ﹄ 巻 一・ 五 帝 本 紀、 中 華 書 局、 二〇一三年、二六頁︶ ︵ 20︶   ﹁ 鄭 玄 曰、 ﹁ 五 典、 五 教 也。 蓋 試 以 司 徒 之 職。 ﹂﹂ ︵ 同、 二 七頁︶ ︵ 21︶   ﹁ 王 肅 云、 ﹁ 堯 得 舜 任 之、 事 無 不 統、 自﹁ 慎 五 典 ﹂ 以 下 是也。 ﹂︵ ﹃尚書正義﹄巻三・舜典疏、六四頁︶ ︵ 22︶   ﹁ 馬・ 鄭・ 王 所 拠 書 序、 此 篇 名 為 棄 稷。 棄 稷 一 人、 不 宜 言 名 又 言 官、 是 彼 誤 耳。 又 合 此 篇 於 皐 陶 謨、 謂 其 別 有 棄 稷 之 篇、 皆 由 不 見 古 文、 妄 為 説 耳。 ﹂︵ 同 巻 五・ 益 稷 疏、 一 三 四頁︶ ︵ 23︶   ﹁馬 ・ 鄭 ・ 王本此篇自﹁高祖寡命﹂已上内於顧命之篇、 ﹁王 若 曰 ﹂ 已 下 始 為 康 王 之 誥、 諸 侯 告 王、 王 報 誥 諸 侯、 而 使 告 報異篇、失其義也。 ﹂︵同巻一九・康王之誥疏、六〇八頁︶ ︵ 24︶   ﹃日知録集釈﹄巻二﹁古文尚書﹂ 、一二一頁。 ︵ 25︶   ﹃古文尚書攷﹄巻上、 ﹁鄭氏述古文逸書二十四篇﹂ 、五八頁。 ︵ 26︶   同巻上、 ﹁証孔子逸書九条﹂第九条、六二頁。 ︵ 27︶   ﹁漢初不得此篇、 有偽作其書以代之者。漢書律歴志云、 ﹁康 王 十 二 年 六 月 戊 辰 朔、 三 日 庚 午、 故 畢 命 豊 刑 曰、 ﹁ 惟 十 有 二 年 六 月 庚 午 朏、 王 命 作 策 書 豊 刑。 ﹂ 此 偽 作 者 伝 聞 旧 語、 得 其 年 月、 不 得 以 下 之 辞、 妄 言 作 豊 刑 耳、 亦 不 知 豊 刑 之 言 何 所 道 也。 鄭 玄 云、 ﹁ 今 其 逸 篇 有 冊 命 霍 侯 之 事、 不 同 与 此 序 相 応 非 也。 ﹂ 鄭 玄 所 見 又 似 異 於 豊 刑、 皆 妄 作 也。 ﹂︵ ﹃ 尚 書 正義﹄巻一九・畢命疏、六一四頁︶ ︵ 28︶   ﹁ 凡 十 有 六 字、 今 古 文 皆 無、 不 知 歆 従 何 処 得 之 而 載 於 此。 既 而 思 書 大 伝 有 九 共・ 帝 告 篇 之 文、 安 知 非 安 国 所 得 壁 中 書 整 篇 外、 零 章 剰 句 如 伏 生 所 伝 者 乎。 歆 去 安 国 未 遠、 流 伝 定 真、 而所載康王年月日復関於暦法、 故不忍棄之。 ﹂︵黄懐信 ・ 呂 翊 欣 校 点﹃ 尚 書 古 文 疏 証 ﹄ 巻 五 上・ 第 六 八 条、 上 海 古 籍 出版社、二〇一〇年、二二〇頁︶ ︵ 29︶  ﹃古文尚書攷﹄巻上、 ﹁弁正義四条﹂第四条、六〇頁。 ︵ 30︶   ﹃ 漢 書 ﹄ 巻 八 十 八・ 儒 林 伝、 中 華 書 局、 一 九 六 二 年、 三 六〇七頁。 ︵ 31︶   ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 二 十 七・ 杜 林 伝、 中 華 書 局、 一 九 六 五 年、 九三六│九三七頁。 ︵ 32︶   同巻七十九上・儒林伝、二五六六頁。 ︵ 33︶   ﹃尚書正義﹄巻二・堯典疏、二五頁。 ︵ 34︶   杜 林 本 に 関 す る 記 述 は、 袁 宏﹃ 後 漢 紀 ﹄ 巻 八・ 光 武 帝 二 十四年︵張烈点校﹃両漢紀﹄ 、中華書局、 一四四│一四五頁︶ や 劉 珍﹃ 東 観 漢 記 ﹄ 巻 一 四・ 杜 林 伝︵ 呉 樹 平﹃ 東 観 漢 記 校 注 ﹄、 中 華 書 局、 五 二 七 頁 ︶ に も 見 え る が、 ﹁ 互 相 攷 証 ﹂ へ の言及はない。

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76 ︵ 35︶   ﹃ 隋 書 ﹄ 巻 三 十 二・ 経 籍 志、 中 華 書 局、 一 九 七 三 年、 九 一五頁。 ︵ 36︶   ﹃ 後 漢 書 補 注 ﹄ 巻 一 八、 ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄ 第 二 七 〇 冊、 六 〇八頁。 ︵ 37︶   呉 澄 の 見 解 は﹃ 書 纂 言 ﹄︵ ﹃ 通 志 堂 経 解 ﹄ 第 一 四 冊、 大 通 書 局、 一 九 七 八 年、 八 二 八 七 ︱ 八 二 九 〇 頁 ︶ に 見 え る。 呉 棫 の 見 解 は 蔡 沈﹃ 書 集 伝 ﹄︵ 厳 文 儒 校 点﹃ 朱 子 全 書 外 編 ﹄ 第 一 冊、 華 東 師 範 大 学 出 版 社、 二 〇 一 〇 年、 四 頁 ︶ に 見 え る。 朱 熹 の 見 解 は 白 寿 彝 輯 点﹁ 朱 熹 弁 偽 書 語 ﹂︵ 顧 頡 剛 主 編﹃ 古 籍 考 弁 叢 刊 ﹄ 第 一 集、 中 華 書 局、 一 九 五 五 年 ︶ に 見 える。趙孟 頫 の見解は ﹁書今古文集注序﹂ ︵銭偉彊点校 ﹃趙 孟 頫 集 ﹄ 巻 六、 浙 江 古 籍 出 版 社、 二 〇 一 二 年、 一 六 九 頁 ︶ に見える。 ︵ 38︶   徐 小 蠻・ 顧 美 華 点 校﹃ 直 斎 書 録 解 題 ﹄ 巻 二・ 書 類﹁ 尚 書 十 二 巻、 尚 書 注 十 三 巻 ﹂ 解 題、 上 海 古 籍 出 版 社、 一 九 八 七 年、二六頁。 ︵ 39︶   ﹁ 今 観 安 国 伝 之 数 世、 至 孔 僖 世 伝 古 文 尚 書、 則 其 子 孫 之 伝 者 也。 都 尉 朝・ 庸 譚・ 尹 敏・ 蓋 豫・ 周 防・ 丁 鴻・ 楊 倫・ 杜 林・ 賈 逵・ 馬 融・ 鄭 玄、 則 其 弟 子 之 相 伝 者 也。 雖 不 得 立 之 学 官、 而 其 家 伝 及 弟 子 之 相 伝、 正 為 先 漢 之 偽 古 文、 而 非 晋 人 始 出 之 古 文 明 矣。 ﹂︵ ﹃ 尚 書 考 異 ﹄ 巻 一、 後 漢 書 儒 林 伝、 姜 広 輝 点 校﹃ 尚 書 考 異 尚 書 譜 ﹄ 上 海 古 籍 出 版 社 、 二 〇 一 四年、八七頁︶ ︵ 40︶   ﹁孔鄭之古文、 既如此其乖異矣。 乃説者必欲信梅所献之孔、 而不信鄭所受之孔、 遂以鄭所受之孔為張霸之徒偽撰。 ﹂︵ ﹃尚 書古文疏証﹄巻一、第三条、九頁︶ ︵ 41︶   ﹁ 尚 書 百 篇 序、 原 自 為 一 篇、 不 分 寘 各 篇 之 首。 其 分 寘 各 篇 之 首 者、 自 孔 安 国 伝 始 也。 鄭 康 成 注 書 序、 尚 自 為 一 篇、 唐 世 尚 存、 孔 頴 達 尚 書 疏 備 載 之。 所 云 尚 書 亡 逸 篇 数、 迥 与 孔 伝 不 合。 孔 則 増 多 於 伏 生 者 二 十 五 篇、 鄭 則 増 多 於 伏 生 者 十六篇。⋮⋮鄭所注古文篇数、 上与馬融合、 又上与賈逵合、 又 上 与 劉 歆 合。 歆 嘗 校 秘 書、 得 古 文 十 六 篇、 伝 問 民 間、 則 有 安 国 之 再 伝 弟 子 膠 東 庸 生 者、 学 与 此 同。 逵 父 実 為 安 国 之 六 伝 弟 子、 逵 受 父 業、 数 為 帝 言 古 文 尚 書 与 経 伝・ 爾 雅 詁 訓 相 応、 故 古 文 遂 行。 此 皆 載 在 史 冊、 確 然 可 信 者 也。 ﹂︵ 同 巻一、第三条、七│八頁︶ ︵ 42︶   ﹁ 東 漢 杜 林 於 西 州 得 漆 書 古 文 尚 書 一 巻、 常 宝 愛 之。 ⋮⋮ 林同郡賈逹為之作訓、 馬融作伝、 康成注解、 古文之説大備。 康 成 雖 云 受 之 張 恭 祖、 然 其 書 賛 曰、 ﹁ 我 先 師 棘 子 下 生 安 国、 亦 好 此 学 ﹂、 則 其 淵 源 於 安 国 明 矣。 ﹂︵ 同 巻 二、 第 十 七 条、 五六│五七頁︶ ︵ 43︶   ﹃後漢書﹄巻七十九上・儒林伝、二五六〇頁。 ︵ 44︶   ﹁ 孔 僖 所 受 之 安 国 者、 竟 無 其 伝、 而 杜 林・ 賈 逵・ 馬 融・ 鄭 玄、 則 不 見 安 国 之 伝、 而 為 之 作 訓、 作 伝、 作 注 解。 此 則 孔鄭之学又当為二、 而無可考矣。 ﹂︵ ﹃日知録集釈﹄巻二﹁古 文尚書﹂ 、一一四頁︶ ︵ 45︶   ﹁ 東 漢 之 初、 扶 風 杜 林 得 漆 書 于 西 州、 以 授 徐 巡・ 衛 宏、 於 是 賈 逵 作 訓、 馬 融 作 伝、 鄭 康 成 注 解、 余 若 尹 敏・ 孫 期・ 丁 鴻・ 劉 祐・ 張 楷・ 孔 喬・ 周 磐、 類 従 漆 書 之 学、 初 不 本 于 安国。⋮⋮漆書古文、 雖不詳其篇数、 而馬鄭所注実依是書、

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77 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 陸 氏 釈 文、 采 馬 氏 注 甚 多、 然 惟 今 文 曁 小 序 有 注、 亦 無 一 語 及増多篇文、 是賈馬鄭諸家未覩孔氏古文者也。 ﹂︵﹃曝書亭集﹄ 巻 五 十 八﹁ 尚 書 古 文 弁 ﹂、 ﹃ 四 部 叢 刊 初 編 縮 本 ﹄ 第 九 〇 冊、 台湾商務印書館、一九六五年、四四九頁︶ ︵ 46︶   吉田純 ﹁閻若 璩 の尚書学﹂ ︵﹃清朝考証学の群像﹄ 、創文社、 二〇〇六年︶ ︵ 47︶   ﹁ 賈 逵 字 景 伯、 扶 風 平 陵 人 也。 ⋮⋮ 父 、 従 劉 歆 受 左 氏 春 秋、 兼 習 国 語・ 周 官、 又 受 古 文 尚 書 於 塗 惲、 学 毛 詩 於 謝 曼卿、 作左氏条例二十一篇。 ﹂︵ ﹃後漢書﹄巻三十六、 賈逵伝、 一二三四頁︶ ︵ 48︶   ﹁ 其 書 与 安 国 本 同 異、 皆 不 能 考。 但 鄭 玄 嘗 為 孔 書 序 賛、 而 賈 逵 父 、 受 書 于 塗 惲、 逵 伝 其 父 業、 是 両 家 之 書、 二 君 皆 見 之。 二 君 初 未 証 其 異 同、 則 孔 杜 当 非 二 本 矣。 ﹂︵ ﹃ 憺 園 文 集 ﹄ 巻 十 八﹁ 古 文 尚 書 考 ﹂、 ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄ 第 一 四 一 二 冊、五四四頁︶ ︵ 49︶   ﹁ 至 若 安 国 之 学、 以 授 都 尉 朝、 朝 以 授 庸 生、 庸 生 授 胡 常、 胡 常 授 徐 敖 及 王 璜・ 塗 惲。 王 莽 時 諸 学 皆 立。 于 是 尚 書 有 今 文 ・ 古文之異。東漢書賈受古文尚書于塗惲、以授其子逵。 是 賈 逵 之 為 古 文 尚 書、 原 本 于 安 国 者、 歴 歴 可 攷 也。 東 漢 書 又 称、 扶 風 杜 林 得 古 文 尚 書、 同 郡 賈 逵 為 之 作 訓、 豈 中 更 寇 乱 逵 已 失 其 伝 耶。 要 使 杜 林 所 得、 若 与 所 受 于 塗 惲 者 大 有 違 舛、 逵 豈 不 能 弁 其 真 偽 耶。 逵 既 為 之 作 訓、 則 其 書 必 不 甚 異 于 孔 書、 明 矣。 逵 之 所 訓 不 甚 異 于 孔 書、 則 史 称 馬 融 之 伝・ 鄭 康 成 之 注 解、 皆 因 逵 而 作 者、 亦 豈 有 甚 異 耶。 ⋮⋮ 意 孔 氏 之 書、 雖 有 伝 授 而 不 列 于 学 宮、 一 時 繕 写 者 少、 王 璜・ 塗 惲 雖 貴 顕 于 王 莽 之 時、 而 歴 年 迫 促、 未 能 流 通、 四 方 兵 起、 遂 至 散 佚。 故 杜 林 所 得 之 漆 書、 或 即 孔 氏 所 定 上 之 書 府 者、 散 佚 之 余、 総 帰 錯 乱。 ⋮⋮ 伝 至 其 孫 小 同、 家 学 未 墜、 与 鄭 冲 同 事 高 貴 郷 公、 倶 以 親 授 尚 書、 得 被 寵 賜、 則 鄭 冲 之 学 不 甚 異 于 小 同、 又 明 矣。 孔 穎 達 述 古 晋 書 云、 鄭 冲 以 古 文 尚 書 授 蘇 愉、 愉 授 梁 栁、 栁 授 臧 曹、 曹 授 梅 賾、 賾 奏 上 其 書、 而 施 行 焉。 ﹂︵ ﹃ 読 尚 書 略 記 ﹄﹁ 尚 書 今 古 文 攷 ﹂、 ﹃ 四 庫 全 書 存 目 叢 書﹄経部、第五五冊、二〇七│二〇八頁︶ ︵ 50︶   管 見 の 限 り で は あ る が、 閻 若 璩 は﹃ 尚 書 古 文 疏 証 ﹄ の 中 で﹃ 尚 書 ﹄ に 関 す る か 否 か を 問 わ ず、 五 度 ほ ど 万 斯 同 の 見 解 を 引 く が、 そ の す べ て を 退 け て い る︵ 巻 六 上、 第 八 十 八 条、 四〇一頁。同巻八、 第百二十条、 六四三頁、 六四五頁、 六 四 六 頁、 六 四 八 頁 ︶。 一 方、 万 斯 同 も﹁ 古 文 尚 書 弁 ﹂ 三 篇 を 著 し た 際 に、 具 体 名 こ そ 上 げ な い が、 ﹁ 尚 書 疏 証 を 為 る 者 ﹂ に 対 し て、 ﹁ 古 文 ﹂ は 排 除 し 得 ぬ と 言 い 負 か し た と 述 べ て い る︵ 万 斯 同﹃ 群 書 疑 弁 ﹄ 巻 一﹁ 古 文 尚 書 弁 二 ﹂、 方 祖 猷 主 編﹃ 万 斯 同 全 集 ﹄ 第 八 冊、 寧 波 出 版 社、 二 〇 一 三 年、三二二頁︶ 。 ︵ 51︶   ﹁ 古 文 出 自 孔 壁 中、 孔 安 国 為 之 伝、 凡 五 十 九 篇。 其 後、 都尉朝 ・ 庸生 ・ 胡常 ・ 徐敖 ・ 王璜 ・ 塗惲 ・ 桑欽、遞相伝授、 以 至 東 漢 之 賈 ・ 賈 逵・ 尹 敏・ 蓋 予・ 周 防・ 丁 鴻・ 楊 倫・ 周 磐・ 劉 祐・ 張 楷・ 孔 昱・ 孫 期、 皆 伝 其 学。 而 先 聖 裔 孫 孔 僖 伝 言、 孔 氏 世 伝 古 文 尚 書。 此 其 授 受 源 流 厯 厯 可 拠、 孰 敢 議 其 偽。 即 至 魏 晋 之 時、 鄭 沖 伝 蘇 愉、 愉 伝 梁 柳、 柳 外 弟 皇 甫謐得之、 以伝臧曹、 曹伝梅賾。此見于史伝、 彰明較著者、

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78 安 得 謂 梅 賾 始 伝。 倘 古 文 始 出 于 賾、 則 両 漢 所 伝 者 何 書 耶。 鄭 沖 以 下 相 伝 者 何 書 耶。 説 者 見 鄭 玄 之 釈 諸 経、 杜 預 之 釈 左 伝、 凡 遇 古 文 尚 書、 皆 注 曰﹁ 逸 書 ﹂、 因 詆 為 偽。 不 知 古 文 不 立 学 宮、 人 間 誦 習 者 原 少、 玄 生 於 漢 末、 兵 戈 雲 擾、 宜 有 所未見。預在晋初、 時方尚清談、 経籍道息、 而古文止鄭沖 ・ 蘇 愉 伝 之、 亦 宜 其 未 見、 無 足 怪 也。 ﹂︵ 同 巻 一﹁ 古 文 尚 書 弁 一﹂ 、三二一頁︶ ︵ 52︶   ﹁ 及 安 国 献 書、 武 帝 命 安 国 作 伝。 伝 畢、 将 上 之、 而 巫 蠱 事発、 遂不得上。自天漢末献書、 至征和元年巫蠱起凡四年、 而古文未行。安国随卒、 竟不得立於学官。 ﹂︵﹃古文尚書冤詞﹄ 巻 二﹁ 百 篇 ﹂、 黄 懐 信・ 呂 翊 欣 校 点﹃ 尚 書 古 文 疏 証 ﹄、 上 海 古籍出版社、七六八頁︶ ︵ 53︶   ﹁古文経文、 歴有方所、 其在官書、 則科斗原文、 見蔵秘府。 而 在 私 学、 則 安 国 所 写 隸 本、 親 授 都 尉 朝、 以 伝 至 桑 欽、 授 受 分 明、 並 無 断 絶。 ⋮⋮ 越 至 東 京、 則 孔 僖 為 安 国 之 孫、 世 世 守 之、 而 丁 鴻・ 楊 倫 且 集 弟 子 千 人 於 大 沢 中 肄 習 之。 至 魏 晋之間、則自王肅 ・ 皇甫謐外、由鄭沖 ・ 蘇愉 ・ 梁柳 ・ 臧曹、 皆 一 一 相 嬗 以 遞。 至 梅 賾、 未 嘗 有 頃 刻 之 間・ 毫 釐 之 隙 也。 乃古文蔵内府者、 則永嘉乱後、 其書並存、 而特以無伝之故、 梅 賾 乃 上 孔 氏 伝、 以 補 尚 書 諸 伝 之 闕。 是 梅 氏 所 上 者 安 国 之 伝、 非 古 文 之 経 也。 ﹂︵ 同 巻 三﹁ 古 文 之 冤 始 於 朱 氏 ﹂、 七 八 三頁︶ ︵ 54︶   ﹁ 若 賈 馬 鄭 三 人、 則 原 非 孔 学、 雖 賈 逵 父 賈 曾 受 書 塗 惲、 是 古 文 正 派、 而 其 後 逵 与 馬 鄭、 則 皆 受 杜 林 漆 書 之 学。 雖 名 為古文、 而実与孔壁古文不同、 一是漆書、 一是壁経也。 ﹂︵同、 七八五頁︶ ︵ 55︶   ﹁窃謂鄭氏注漆書時、 原自完備。故孔鄭並行、 雖稍有参錯、 不 大 懸 絶。 而 隋 代 儒 臣、 猶 得 見 鄭 注 九 巻、 載 之 経 籍。 延 至 唐 初、 当 有 墨 守 今 文 者、 又 去 其 半、 而 穎 達 未 之 知 也。 且 穎 達誤認鄭氏所注名為古文、 而並不曉杜氏有漆書、 鄭氏所注、 是 杜 氏 漆 書 之 本、 因 妄 疑 此 二 十 四 篇、 鄭 注 無 有。 ﹂︵ 同、 七 八七頁︶ ︵ 56︶   ﹃晩書訂疑﹄巻首、 ﹃続修四庫全書﹄第四四冊、二頁。 ︵ 57︶   尾 﨑﹁ 程 廷 祚 の 後 半 生 に お け る 学 問 ﹂︵ ﹁ 集 刊 東 洋 学 ﹂ 第 一一一号、二〇一四年、二二頁︶を参照されたい。 ︵ 58︶   焦 循 は﹁ 呉 中 恵 氏、 為 近 代 名 儒、 其 周 易 述 一 書、 循 最 不 満 之、 大 約 其 学 拘 於 漢 経 師、 而 不 復 知 有 聖 人 之 書 ﹂︵ ﹃ 里 堂 札 記・ 乙 丑 手 札 ﹄﹁ 答 王 伯 申 太 史 ﹂、 劉 建 臻 点 校﹃ 焦 循 詩 文 集 ﹄、 広 陵 書 社、 二 〇 〇 九 年、 六 三 八 頁 ︶ と い い、 王 引 之 は﹁ 恵 定 宇 先 生、 考 古 雖 勤、 而 識 不 高、 心 不 細、 見 異 於 今 者 則 従 之、 大 都 不 論 是 非 ﹂︵ ﹃ 王 文 簡 公 文 集 ﹄ 巻 四﹁ 与 焦 理 堂 先 生 書 ﹂、 羅 振 玉 輯﹃ 高 郵 王 氏 遺 書 ﹄、 江 蘇 古 籍 出 版 社、 二〇〇〇年、二〇五頁︶と述べている。

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79 恵棟『古文尚書攷』とその学術史上の位置について(尾﨑) 恵棟版尚書百篇篇目篇次分類表 A B C D E 百篇篇目 孔穎達正義本 鄭玄注解本 孔安国本 伏生本 全 81 種 100 篇 全 47 種 58 篇 46 巻 全 45 種 58 篇 45 巻 全 45 種 58 篇 45 巻 全 29 篇 書序 : 書中に分割配置 書序 : 別巻 書序 : 別巻 書序 : なし 百篇篇次 重複部分 増多部分 百篇篇次 注解部分 増多部分 重複部分 増多部分 28種 33 篇 19 種 25 篇 29種 34 篇 16 種 24 篇 29 種 34 篇 16 種 24 篇 堯典 虞書 001 01-01【01】 虞夏書 001 01【01】 01【01】 01 舜典 002 01-02【02】 002 01【02】 01【02】 汨作 003 003 02【03】 02【03】 九共(一) 004 004 03-01【04】 03-01【04】 九共(二) 005 005 03-02【04】 03-02【04】 九共(三) 006 006 03-03【04】 03-03【04】 九共(四) 007 007 03-04【04】 03-04【04】 九共(五) 008 008 03-05【04】 03-05【04】 九共(六) 009 009 03-06【04】 03-06【04】 九共(七) 010 010 03-07【04】 03-07【04】 九共(八) 011 011 03-08【04】 03-08【04】 九共(九) 012 012 03-09【04】 03-09【04】 膏飫 013 013 大禹謨 014 01【03】 014 04【05】 04【05】 皋陶謨/咎繇謨 015 02-01【03】 015 02【06】 02【06】 02 益稷/棄稷 016 02-02【03】 016 05【07】 05【07】 禹貢 夏書 017 03【04】 017 03【08】 03【08】 03 甘誓 018 04【05】 018 04【09】 04【09】 04 五子之歌 019 02【06】 019 06【10】 06【10】 胤征/嗣征 020 03【07】 020 07【11】 07【11】 帝告 021 商書 021 釐沃 022 022 湯征 023 023 汝鳩 024 024 汝方 025 025 湯誓 商書 026 05【08】 029 05【12】 05【12】 05 夏社 027 026 疑至 028 027 臣扈 029 028 典宝 030 033 10【15】 10【15】 仲虺之誥 031 04【09】 030 湯誥 032 05【10】 031 08【13】 08【13】 明居 033 034 伊訓 034 06【11】 035 11【16】 11【16】 肆命 035 036 12【17】 12【17】 徂后 036 037 太甲上 037 07-01【12】 038 太甲中 038 07-02【12】 039 太甲下 039 07-03【12】 040 咸有一徳 040 08【13】 032 09【14】 09【14】 沃丁 041 041 咸乂(一) 042 042 咸乂(二) 043 043 咸乂(三) 044 044 咸乂(四) 045 045 伊陟 046 046 原命 047 047 13【18】 13【18】 仲丁 048 048 河亶甲 049 049 祖乙 050 050

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80 盤庚上/般庚上 051 06-01【14】 051 06-01【19】 06-01【19】 06 盤庚中/般庚中 052 06-02【14】 052 06-02【19】 06-02【19】 盤庚下/般庚下 053 06-03【14】 053 06-03【19】 06-03【19】 説命上 054 09-01【15】 054 説命中 055 09-02【15】 055 説命下 056 09-03【15】 056 高宗肜日 057 07【16】 057 07【20】 07【20】 07 高宗之訓 058 058 西伯戡黎/ 西伯𢦟黎 059 08【17】 059 08【21】 08【21】 08 微子 060 09【18】 060 09【22】 09【22】 09 泰誓上/大誓上 周書 061 10-01【19】 周書 061 10-01【23】 10-01【23】 10 :後得 泰誓中/大誓中 062 10-02【19】 062 10-02【23】 10-02【23】 泰誓下/大誓下 063 10-03【19】 063 10-03【23】 10-03【23】 牧誓 064 10【20】 064 11【24】 11【24】 11 武成 065 11【21】 065 14【25】 14【25】 洪範 066 11【22】 066 12【26】 12【26】 12 分器 067 067 旅獒 068 12【23】 068 15【27】 15【27】 旅巣命 069 069 金滕 070 12【24】 070 13【28】 13【28】 13 大誥 071 13【25】 071 14【29】 14【29】 14 微子之命 072 13【26】 072 帰禾 073 073 嘉禾 074 074 康誥 075 14【27】 075 15【30】 15【30】 15 酒誥 076 15【27】 076 16【31】 16【31】 16 梓材 077 16【27】 077 17【32】 17【32】 17 召誥 078 17【28】 078 18【33】 18【33】 18 洛誥/雒誥 079 18【29】 079 19【34】 19【34】 19 多士 080 19【30】 080 20【35】 20【35】 20 無逸/毋逸 081 20【31】 081 21【36】 21【36】 21 君奭 082 21【32】 082 22【37】 22【37】 22 蔡仲之命 083 14【33】 096 成王政 084 083 将蒲姑 085 084 多方 086 22【34】 085 23【38】 23【38】 23 立政 087 23【35】 087 24【39】 24【39】 24 周官 088 15【36】 086 賄肅慎之命 089 088 亳姑 090 089 君陳 091 16【37】 090 顧命 092 24-01【38】 091 25-01【40】 25-01【40】 25 康王之誥 093 24-02【39】 092 25-02【40】 25-02【40】 畢命 094 17【40】 093 16【41】 16【41】 君牙 095 18【41】 094 冏命/臩命 096 19【42】 095 呂刑 097 25【43】 098 27【43】 27【43】 26 文侯之命 098 26【44】 099 28【44】 28【44】 27 費誓/粊誓 099 27【45】 097 26【42】 26【42】 28 秦誓 100 28【46】 100 29【45】 29【45】 29 ※「百篇篇目」の表記は正義に拠る。ただし、恵棟『古文尚書攷』での表記が異な る場合は、「正義の表記/恵棟の表記」の順で示した。

参照

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