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仏教福祉学の成立を求めて―社会福祉(学)の視点から仏教福祉を考える―

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(1)

上   田  

仏教福祉学の成立 を求めて

社会福祉 (学) の視点から仏教福祉を考える ー

I   は じ め に 二 八 二 「仏教社会事業」 の理論的 ・ 実践的性格探求の試みは, 戦後に始 まっ たわけで はな く われ われはかの大正デモ ク ラ シー期 にその萌芽的所産 を認める こ と がで きる。 だが総括的にいっ て戦前のこ の分野の研究 は, 「仏教 と社会事業 との関係について, 一 には社会事業 を以て, 布教の方便 と みなす見方 と, 今一 は両者の間に必然的の関係がある と い う 見方」(l) に分かれ て, 個別的 ・ 没交渉的に積み重ね られて いた と いえる。 第 2次大戦末期およ び戦後の空 白の 時代 を経て, いつの間にか 「仏教社会事業」 が 「仏教福祉」 と い う現代的な呼称に改められ て, 再登場 し て きた こ の分野の研究が年 を追 う 毎 に活発化 して きた こ と, 研究討議の場 と し て逸速 く 設 け られた 「 日本仏教社会福祉学会」 が未 だ会員200人程度の小規模組織 なが ら, 学術会議の公認学会 と して一応着実な努力 を重ねている こ と は, 喜ばしいこ とである。 だが, 研究業績や学会発表の量的増大に も拘 わらず肝心 の仏教福祉の学問的性質 をめ ぐる 論議 は依然 と して低調 を極め, 学 と して の仏教福祉が, 社会科学 と して の社会福祉学の一部 門 と して客観的存在価値が認めら れるのか, 或 は仏教の現代化 と い う命題を担いつつ, 応用 仏教学 と して , 又は仏教学, 宗教学の一部門と して の理論的要請 を満たす に至るのかについ ての解答はまだ生 まれていない。 主 と して仏教, 仏教学の研究者 と社会福祉の研究に従事す る者 によ っ て構成 さ れて いる仏教福祉学会での論議がかみ合わず, 未だ学問分類論の段階で 低迷 し続 けて いる こ と の責任 は, 当然 こ の分野 に関心 を持 ち研究 を重ねる者全貝が負わねば な ら ないが, 私 も社会福祉の学問的世界 を彷徨する者の一人 と して, その責任 を痛感 してい る。 しか し な がら周知の と お り, 戦後の福祉国家の成立 と発展, 福祉国家政策の変容 と転換 の過程で , 社会福祉の主体 と客体 な ら びに社会福祉の方法 の総て に亙 っ て大 きな変化が見ら れる よ う にな ったにも拘わらず, 実践の指針たるべ き学問 と しての社会福祉の体系化は世界 的 に見て も未 だ完成の域 に達 し て い な い し, と り わけ我 が国の研究水準 は著 じ く 遅れが目 立 っ て い る 。 学問的に正 しい意味での社会福祉学が成立 していない現状の中で, 仏教社会福祉学 と呼ぶ 領域 を学問 と して成立 させる こ と は至難の業で ある と考え られる。 だが今の私は仏教福祉の

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同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 学問的体系化 を求める研究の積み重ねが, 将来のこ の国の社会福祉学の成立の上で不可欠の 条件整備 と な り, 更に進んで仏教福祉学が こ の国の伝統 と風土 に根 ざ し た社会福祉学の根幹 となる可能性 を秘める と考えている し, 今後も しばら く の間は仏教学, 社会福祉 (学) の研 究者がそれぞれの主体的立場 は尊重 しつつ, 相互排他性を払拭 し, 巨視的融合化 を意図 した 研究がさ ら に継続 される こ と を期待 している。 い まの と こ ろ こ の課題追求に当たっ ての相互 接近の努力が, どち らかと いえば仏教学会の先学の間に強いこ と に対 して は深 く 敬意を表 し て お き た い。 仏教学 と社会福祉の学問的研究 との間には, 研究水準に雲泥の差がある。 仏教学 ( と りわ け文献学) については, 「二世紀近 く も世界的に拡大する仏教学が, 高 く そびえる。 その成 果は多数の諸資料 を解明 して確定 し, ただ一語にも, 鋭利な知能 と莫大なエ ネルギ イが注が れて きた。」(2) と い われる のに対 し て, 社会福祉 の理論研究が組織的 にすすめ ら れる よ う に なっ たのは, 世界的に見て も今世紀 に入っ てか らで あ り, さ ら に 「歴史的にみる と専門社会 事業は二つの方向 をた どっ て発展 して きた。 一つ はよ り満足すべ き人間関係 を志向する個人 の適応 と発達で あ り, 他方 は個人がそ れによ っ て機能 して いる社会制度の改革で ある」(3) と 見られる ご と く , わが国の社会福祉研究 も いわゆる方法論 ・技術論の立場 と, 政策論 ・ 制度 論の立場 に大別さ れて お り, 今後 は双方が現実 に根差 した調査研究 を充実 させる と 共に, 相 互の特性 を尊重 しつつ知的連携 を どう 強化 して い く かが課題 と な っている。 仏教学 に比 し学問と して は揺藍期 にある社会福祉研究の世界で はある が, 仏教 と社会福祉 との関連につ いて論ずる発表が, 最近で は 「印度学仏教学会」 「 日本仏教学会」 等 の仏教学 関係学会において よ り も, 「日本仏教社会福祉学会」 や 「 日本社会福祉学会」 で多 く 行われ る よ う にな っ ている。 こ れを仏教福祉への関心の高 ま り と評価す る こ と は良い と し て も, 私 見によ れば福祉関係のこ の二つの学会 における こ れまでの仏教 と社会福祉 に関する発表が総 じて, 学問的な意味で は論争に値 しないよ う な独断と偏見か, ど う考えて も経験談か, 思い 付 きに過 ぎない内容が学会報告 と して堂々と語られた場合が多かったよ う に思える。 い う ま で も な く 特定 の領域が学問 と して成立する ためには, 一定の固有で独 自の科学的基礎の上に 構築 さ れねばなら ない し, 多元的な諸要素, 諸条件, 諸領域の集合的, 統計的な編成だけで は, その要請 に応 える こ と はで きる筈がない。 社会福祉の理論研究が揺藍期 にあ り, 社会福祉学会は存在するが社会福祉学の体系化には さ ら に長 い研究の積み重ねを必要 とす るが, 研究の現在の到達段階において も, す で に慈善 と, 慈恵 と, 感化 ・救済 と, 社会事業 と の概念的区別 は明 らかに さ れて お り, 現在 も混用 さ れている社会事業, 社会福祉事業, 社会福祉, そ して福祉 といっ た用語のそれぞれの歴史性 についての分析も進んでお り, す く な く と も社会事業 と社会福祉 との区別は世界的に見れば 形式的 にで はな く , 実体的内容 を盛 っ て 区別 さ れる よ う にな っ て いる。 例 え ば英語圏で は 二 八 一

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H

福祉の概念について

仏教福祉学の成立 を求めて

social

     work と soeialwelfare, social

  servicesの相違 は明 ら かで あ り, 漢字圏で も台湾 ・ 香港 で はそれぞれの訳語 を社会工作, 社会福利 と し ている ため概念把握上の混乱 は殆 ど見 られな い。 だが 日本 ・ 韓国において は伝統的に社会事業, 社会福祉 と いっ た訳語 を採用 して きたた め, 現在 で も社会福祉 と い う 用語 に盛 ら れる内容が狭義か ら広義, 或 は最広義 に まで及び, 概念把握 の上で混乱 を招 いて いる。 まず狭義の概念 と して の社会福祉 は, 社会事業 ・ 社会福 祉事業 と まっ た く 同義語 と して使われている。 広義ない し最広義の社会福祉は, 社会事業の ほか社会政策 ・ 社会保障か らすす んで教育, 住宅, 公衆衛生, 犯罪関係対策な どの公共一般 施策から , さ ら に福祉国家政策の拡大につれて社会生活 を営む人間の内的, 外的生活諸条件 に密着する総ての社会的施策の総称 と して使われている場合が多 く な ってお り, 社会福祉の 包括範囲の拡大は今後 も止 まる こ と は無いであ ろ う 。 しか も社会福祉 と い う 用語が市民用語 と して一般化 さ れて以来, 社会福祉 を簡略化 して福祉 と呼ぶこ と も通例にな って いる。 仏教福祉学が学問と して成立する ためには, 例外的な学問体系づ けが許 さ れる筈がない。 当然その領域上の位置付 けは, 仏教学で はな く , 社会福祉学の一分野 と なる。 し かも単なる 分野 と し てで はな く , わが国の社会福祉学の基幹 と なる こ とが要請 さ れて いる と考 え ら れる。 だが, 前述の とお り社会福祉学が独 自の社会科学 と して 自立す る まで に至 っ て い ない現状で は, 仏教福祉学探求の道は極めて険 しい。 その道は, 仏教 と社会福祉事象を安易 に結合 させ る道で も ない し, 仏教 と福祉 を同一視 し た短絡的な融通の道で もないで あろ う 。 二 八 〇 仏教福祉学探求の旅路の第一歩 は, 福祉 と い う用語の整理 と概念の把握から始めら れねば な ら ない。 「福祉」 はす で に 「成長」 に代 わる社会 目標 と して広 く 国民のコ ンセ ンサ ス を得 ている よ う に見え る し, 超高齢化社会に入 って以来, 在宅福祉, 地域福祉, 住民福祉等の用 語が, 概 ね政策主導型の目標 を織 り込んで地域社会 に浸透 しつつある。 また, 勤労者福祉 と か消費者福祉 とい っ た用語から, さ ら に広 く 共通の生活基盤の充実 を求めて, 「生活者福祉」 ある いは 「生活福祉」 と い っ た言葉が一部 に使 われ始めて いる し, 西欧社会で は公害対策か ら, よ り積極的に生活環境の保全 を意図 した 「環境福祉」 と い う市民用語が一般化 して いる。 経済価値優先の社会で, 社会的な豊か さ を求める市民の願望の高 ま り を反映 して, 福祉は 日常用語 にな って お り, 福祉 を用いる連語の激増に比例 して, 福祉 を冠 した書籍の氾濫は止 まる と こ ろ を知 ら ない よ う にな っ て きて いる。 それにも拘 わらず 「福祉 と は何か」 について 真正面か ら取 り組 んだ文献 は依然 と して少ない。 そ こ で まず, 「福祉」 と い う 言葉 を 日常生活 にお いて使用 さ れる 「国語辞典」 で ど う 説明 しているかを見る と, 概ね, 福祉= 幸い, 幸福, しあわせ (幸せ, 仕合せ) とお きかえられ

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わい。 しあわせ。 と な っ て いる のが通例で ある。 そ こ で, 諸橋轍次の 『大漢和辞典』 を引い て見て も, 福祉 = さ いはい。 仕合せ。 幸福。 祥福。 禎祥。 と い う 意味で ある と さ れ, こ の場 同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 て いる のが通例で ある。 だが, 1989年発行の講談社 『日本語大辞典』 で は, ① さ いわい。 幸福。   happiness ②人々が幸福で安定 した暮 ら しがで きる環境。 またその実現のための施策。   welfare用例 ・ 社会-と解説 さ れてお り, 若干の進歩 を示 し ている。 また, 一般の 「漢和辞典」 で も, 福祉 = さ い 合の祥福は, めでたいこ と。 さ いはい。 幸福。 嘉福。 福祉。 福祥。 と, 禎祥は, めで たい しー        -る し。 祥禎。 と説明 されて い-る。 つ ま り諸橋 において も, 福祉は, 基本的には, 幸い。 しあ わせ。 幸福。 にお きかえ られている に過ぎないこ とが解る。 と こ ろで福祉 とい う用語は, 諸橋にある如 く 極めて歴史の古い言葉であるが, ( 〔韓詩外伝, 三〕 福祉帰乎王公。 〔易林, 大有〕 賜我福祉寿算無極。) いつの頃からであろ う か welfare或 は wohlfahrtの訳語 に も な っ て いる。 そ こ で welfareについて 「英和辞典」 を引いて見よ う。 まず研究社 『新英和中辞典』 (第 5版 ・ 1985年) では, ①福祉, 福利 ; 幸福 : social~ 社会福祉/ for   the~ of   the   public    公共福祉 のため に/ ltis for   your    own~ thatl

     tellyouthis. あなた自身のためにこ れだけは言 ってお きます。 ②福祉 [厚生] 事業。 ③ 《米》 生活保護 (〈英〉 social   security): go   lbe】on~ 生活保護 を受 けるよ う になる 〔受けている〕。 と, かな り実用的な説明が加 え ら れて いる。 また, 小学館 『ラ ン ダムハ ウス英和大辞典』 の 説明は,

①幸福。 安寧。 繁栄。 福利。 福祉 (weII- being): - the

  physicaI

  or

     moralwelfareofsociety

社会の物質的または精神的繁栄。 - childs(socia1) welfare児童 (社会) 福祉。 ②= welfare   work.   on    welfare (貧困のため政府又は私的機関か ら金銭上の援助 を受けて, 生活保護 を受けて : - Thirty   percent   of    them areon   welfare彼 ら の30% は生活保護 を受 け て い る。) IME.   from   phrase    welfare- ゛

we11, FAREI - syn. 1,

  success, weal, benefit,

profit. と な っ ている。 「英和辞典」 に比べて 「国語辞典」 のなかで依然 と して 「福祉 = 幸福」 と いっ た説明が多いが, だから といって 「幸福= 福祉」 と は説明されて はいないのは奇妙である と も言え よ う 。 しか し我々は市民用語 と しての福祉 と幸福 と い う言葉が, 既に使い分 けられて いる点 に改めて注 目し な ければな ら な い。 例え ば, 若い二人が結婚 した とする, 幸せそ う な二人を祝福する。 幸福な家庭 を築いた二 人が, 幸せな 日々を送っ て, 夫婦共白髪の生活を楽 しんで いる姿 を見て, こ の老夫婦の生涯 -が 「福祉で あ っ た」 と は誰 も言わない し, 宝 く じ -が当た っ たから とか, 病気-がなお っ たから 二 七 九

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仏教福祉学 の成立 を求 めて

と い って 「福祉だ った」 と は誰 も言わない。 このよ う な場合の幸福, 幸せは, happinessであっー

て welfareで はない。 福祉 は或る種の 「充足状態」 で はあるが, 純粋に私的な事柄で, しか も どち らかとい う と, 運 とかチ ャ ンスが作用する こ とが多い幸福を意味 しないこ と を, 市民 が承知 し て使い分けて いる こ と を確認すべ きであ る。

再 び welfareの語義 ・ 語源 に戻 る が, こ の用語 は weH と fareの合成語で あ る。

  we11 は

satisfactorily, successfully, fittingly, properly, reasonably な どの意 で あ り, fareは, state

  of

thingsで あ る か ら, welfareは 「申 し分のな い状態」 「満足で きる状態」 を意味す る。 しか も

英語 の well は 0 1d

  High

   Germanの woh1を語源 と する が故 に, welfareは wohlfahrt と 同義で

ある。 こ の ド イ ツ語の意味 について, 竹中勝男は次のよ う に説明 し ている。 「福祉或 は社会福祉は社会理念 と して, 人間の生活に望 まれる安定, 調和, 生活内容の充実, 人格の発展の如 き Glackseligkeitの理想的状態で ある。 (注) この福祉を社会福祉の意義で最 も早 く から慣用 しているのは ドイ ツの wohlfahrt, wohlfahrtspflege で あ ろ う 。   Fr. K ruge, E tymologisches    W 6rterbuch der   Deutschen Spraehe. (Berlin   u .

  Leipzig, 1924) S. 122, 343, 494 に依る と, gutの副詞である woh1(英 語の we11) はwollen (願 う, 望む) と いう動詞の語基から来た もので, 「望 まれる, 願 わ し き」 (nach

  wunsch) 状態 を意味 し, fahrenはvarn, faranから来た語で一つの場所 から他 に移 る, 旅する の義で あ り, 既 に16世紀の初期から wohlfartは人間の福祉生活 を意味す る慣用語にな っ て居 た。 ……」(4)

こ のよ う に福祉, 社会福祉, welfare, wohlfart は, 市民生活 に望 まれる一定の満足で きる 状態で あ る が, 福祉への期待 ・ 願望が 日常生活にかかわる限 り それは物的可能性の裏付けの

な い架空 の願望で はあ り得 な い。

  welfareの we11はその意味で weal, benefit, profit と 同義 と な り, かか る望 ま し き状態 の出現 を まっ て human   wellbeingが達成 さ れる と考 え ら れる の で ある。 こ のこ と は福祉 と い う 用語 を構成する 「福」 と 「祉」 につ いて も言 える。 さ きの諸 橋 『大漢和辞典』 によ れば, 福は, ① さいはい。 ② さいはいする。 で はあるが, さ らに, ③ とみ。 〔祥名 ・ 祥言語〕 福, 富也。 ④みち足 りる。 〔廣雅 ・ 祥詰〕 福, 盈也。 ⑤そなはる。 福, 備也。 祉 も, さ いはい。 神よ り授かる幸福であるが, 同時に, ( 〔説文〕 〔虞注〕 に拠 って) 祉は 福 と同義である と説明さ れている。 また, 『康煕字典』 には, 「祉之言止也福所止不移也 〔徐日〕」 と いう説明もある。 つ ま り, 福 も祉 も富で あ り, 盈で あ り, 備である から, 福祉 は当然 「物質的に充足 し た状 態」 を意味する と考えて も良いこ と になる し, 人間が社会生活 を営 む上で は物的充足 を意味 する一定の福祉の実現 を まっ て, 始めて不安や心配のない幸福 にひたる こ とがで きる よ う に なる ので はある まいかと考え られる。 認識主観 と しての幸福は各人各様である と して も, 社 二 七 八

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Ⅲ  

従来の仏教福祉論について

同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 会的に見れば福祉 は人間の幸福 に と っ て前提的基礎条件 をなす と みて も良いので はなかろ う か。 だが, 「福祉願望の基準 は必然的 に国民の生産力や政治 ・ 経済機構の如 ぎ 存在 によ っ て限界付 け ら れる ので ある。」 し, 福祉 への社会的意志 は, 当該社会で の実現可能性 によ っ て規定 さ れる。 「即 ち社会的歴史的な現実 を離れて福祉の社会的擁護 と増進の願望が社会 に よ っ て無限の彼方 にお しすすめ ら れる も ので はな い。 社会福祉 はこ の意味で パ ト ス的存在で な く , 存在 によ っ て規制 さ れ, 経済 ・ 社会機構の現実の理性によ っ て制約 さ れる ロ ゴス的存 在で あ り, それゆえにこ そ社会科学の対象と して その理論的現実的構造が把握 さ れ, それに 対す る政策理論の展開が可能 と なる ので ある。」(5)

以上のように, 説明が必ずしも十分であるとは言えないが, 我々が仏教福祉学を構想する

上で, あ らかじ め留意 しておかねばな ら ない こ と は, 福祉 ない し社会福祉 を, 感受的 ・情意 的にで はな く , 理性的 ・ 法則的な論理 と して把握する こ と である。 二 七 七 仏教学者 と社会福祉の研究者の積年の考究によ って, 今 日で は仏教 と社会福祉 に関する文 献は, かな り大量 に出回る よ う にな っ て いる 。 個 々の文献 にそ れぞれ主張の相違がある こ と は勿論で あるが, 総 じ て仏教学者による仏教福祉論は, 仏教的実践, お よ びその基本原理 と して の 「慈悲」 に焦点 を合わせ, こ れまで の人間の歴史 と社会 を規制 して きた支配的諸制度 につ いて は殆 ど沈黙の ま ま, 慈悲の観念 と実践 を超歴史的に理解 して, そのま ま現代人に自 己転換の必要 を説いている よ う に, 私には受 けと れる。 例 えば, 中村元の次の説明は, 超歴史的仏教福祉論の代表例で ある と言 え よ う 。 「も と も と社会政策 と か慈善事業 とかい う よ う な こ と は, 本来東洋において先ず盛んに行 われて いたので あ っ て, 西洋において は年代的にはる かに遅れて現れたので ある。 こ のこ と は史実の証す る と こ ろで あ り, また史家の確認す る と こ ろ で ある。 社会政策的施設につ いて はイ ン ドのバ ラモ ン教古法典のう ちに若干言及 さ れている。……イム教による社会政策, すなわち貧民 を救済 し, 病人の療養を行い, さ ら に獣畜 をさ え憐れむと い う よ う な事業は, その後のイ ン ドで は一つの伝統 と な っ て長い間行われて いた。」(6) 「社会事業或は慈善事業 と い う こ と は, も と も と ギ リ シ ア哲学 と は本質的な連関を もたな い し, またキ リ ス ト教 と いえ ど も, そ の興起 よ り も はる かに遅れて かかる事業 に着手 した ので ある から, し たが って西洋において は, イ ン ド にお ける がご と く 最古代か ら一つの精 神的社会的な伝統 と な っ て いなかっ たので あるO」(7) 「仏教が 日本に渡来す る と と も に, 聖徳太子 によ っ て大規模 に社会事業が展開せ られ, そ

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仏教福祉学 の成立 を求めて の後断続の波はあったが, 奈良時代 ・ 平安時代 を通 じ て相当顕著に行われ, 鎌倉時代 には 興正菩薩叡尊, 忍性菩薩良観房 な どの献身的 な活動 のあ っ た こ と は, 周知の事実で あ (8) る 。」 「 慈悲 と い う こ と ばで表現 さ れて いる実践的行為乃至実践思想」(9) を便宜的 ・ 恣意的に, 慈善事業, 社会事業, 社会政策 とい う社会科学的用語を使っ て説明 さ れた以上の解説は, 社 会福祉 についての一般的常識を も っ て して も理解 に苦 し む。 社会政策 と慈善事業は同義なの か, 社会政策 は束洋に始 まるのか, 社会事業 と慈善事業はど う違 う のか, 聖徳太子が大規模 な社会事業 を展開 したか, こ れら は史実の証する と こ ろ であるのか, 等の疑問が残る。 中村 に限らず同様の例は, 今なお著名な仏教学者の福祉に関する発言に頻繁に見る こ とが で きる。 道端良秀が 「仏教は菩薩道な り」 の立場から ま とめた 『中国仏教 と社会福祉事業』 には, 次のよ う な記述がある。 「中国仏教 と社会福祉事業 と い う こ と は, 中国仏教が中国社会 に在 って, どのよ う に社会 福祉のために活躍 したか, とい う こ と を述べよ う とする もので ある。 こ こで社会福祉事業 と い う 文字 を使 っ たが, こ れは社会事業 と い っ て も同 じ こ とで ある が, 今 日一般 に用いら れて いる のが社会福祉 とい う言葉で ある から, それに従っ たまでで あっ て, 何 ら社会事業 と い う の と , た い し て かわっ て い る わけで はな い。 しか し言葉 と して社会の福祉事業 と い う こ と は, 社会事業の意味 をはっ き り させて く れ る よ う で ある し, また と く に仏教の社会事業において は, この言葉がよ り よ く その意義を あ ら わ して く れる よ う で ある から, あ えて こ の言葉 を使用 した ので ある。 仏教の社会福祉事業は, 仏教のある と こ ろそ こ に仏教社会福祉事業がある, と いっ て も よい もので, 仏教 と社会事業は一つで ある と いって よい。」(1° 「仏教のある と こ ろ, 広義における社会福祉事業あ り, と いわねばな らぬ。 しか も仏教は 慈悲の宗教で あ り, 大乗の菩薩行なので ある こ と を思 えば, 仏教の社会教化から, 自分の 肉身を も与 えて, 飢餓人を救お う とする, 仏教徒の捨身の行まで, こ と ご と く 社会福祉の 事業で ない ものはない, と いって よい。」㈲ 「社会事業」 と 「社会福祉事業」 と い う 用語の間には, な んら本質的区別が無い こ と は, 道端の言 う 通 りで ある。 それで は 「仏教の社会事業」 よ り も 「仏教の社会福祉事業」 の方が, 何故 に 「よ り よ く その意義 をあ らわ して く れる よ う で ある」 のかについて の説明は見 られな い し, 一般社会の使用例 に留意 さ れる よ う にみえて も, 仏教が慈悲の宗教であ り, 大乗の菩 薩行で ある か ら, 仏教 と社会事業が同一で あ り, しかも仏教の社会教化 も捨身行 も社会福祉 事業で ある と さ れる氏の説明は, 学問的常識に適 う と言える だろ う か。 しかも教養書 と して 書かれた本書で は, 「慈悲」 「布施」 「福 田」 「四恩」 「放生」 等の仏教思想が, 社会救済の指 導原理で あ り, 社会福祉 の理念で ある と説明 さ れ, 「言 う まで も な く 仏教経典 は, それ をつ 二 七 六

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同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 らぬ く 根本精神が, 人間救済で あ り, 仏陀の慈悲心で あ っ たか ら, いずれの経典 もその目的 は, 社会福祉の理念 に外れる ものはあ り得 なか っ た。」(laと断定 して お ら れる ので ある。 三枝充悳は近著 「仏教入門」 において, 仏教 に顕著な種々の特質のう ちで, 特 に重要な特 徴点を17項 目に分けて解説 して いる が, その16項に次の提示がある。 「イ ン ド仏教, と く に大乗仏教 には, すでに学者 (た と えば中村元 『イ ン ド人の思惟方法』) によ って指摘 さ れている諸特徴が数多 く みられ, 否定的性格, 時間およ び歴史的意識の欠 如, 空想性, 羅列主義, 極端に馳せる傾向な どが, 顕著にあ ら われる。 そのほか, 各地の

諸仏教も, 各民族の思惟方法の反映が指摘される。グ

キ リ ス ト教や他の宗教 に比べて, 仏教 の世界で は, 社会が歴史的質的にた えず変化 を遂げ ている こ と, 社会事象はすべてが緊密につながって いる こ と, したがっ て個々の部分に割 り 切 って で はな く , ある全体的な見方, 考 え方が必要 と なる こ と について の認識 を持たない こ と を, む し ろ誇 り に して いる かに見 える傾向があ り はし ないだ ろ う か。 奴隷制社会や封建制社会における恩恵的慈善 と, 近代社会の発展段階の社会的対応 と して 順次登場 して きた社会事業, 社会政策や社会福祉を, 仏教的実践の原理 と しての慈悲に基づ く 救済行為 を同一視する姿勢から は, 学 と して の仏教福祉 は生 まれる筈がない。 また, 仏教 学 ( と く に文献学) の盛況に比例 してか, 多 く の経典の中から ご く 一部の語句を便宜的に取 り上げ, やはり慈悲心= 社会福祉の理念 と いっ た視点か ら, 仏教福祉 を論ずる発表が近年特 に目立つ よ う にな っ て きている。 だが, 他の基軸宗教 と異 な り, 仏教の諸経典類 はあ ま り に も厖大 な数量 にのぼ り, しか も 「八万四千の法門」 で あ り, 対機説法, 随機説法, 応病与薬 が, 伝統的な教説方法で ある と 言われて いる。 例 え ば 『大正新脩大蔵経』 全100巻が一体何 億字から成るのかは知 ら ないが, 印度 ・ 支那撰述部55巻のはじ め32巻 ( イ ン ド またはその周

辺の言語から翻訳された部分) だけでも, およそ四千万字という計算があるヅしたがって,

経典の字句 を恣意的にと りあげて仏教的救済用語 と社会福祉 と の関係 を客観的に説明する こ と は, およ そ不可能で ある と も考え られよ う。 従来の仏教福祉論が, 主 と して慈悲の倫理的性格 とパ ト ス的福祉 との結合 を意図する よ う な形で展開 さ れて きた と は言 っ て も, 慈悲の側面 と して の物質的な現世利益 に注 目した説明 が無かっ たわけで はない。 例 え ば中村元 は, イ ン ド仏教の政治道徳論で ある 『宝行王正論』 な どを根拠 に, 次のよ う に強調 して いる。 「われわれ人間の現実生存 について考察する に, 人間の行為 は, 質料的物質的な ものには たら きかける こ と によ って成立する。 物質的側面から乖離 した精神現象なる ものはあ り え ない。 し たがっ て慈悲行或 は利他行な る ものは, 自己の身体 を労 して他人の物質的諸条件 の改良に努力する とい う こ とのう ちに, まず具現 される。 こ の点から見る と, 物質的諸条

件の改良のつとめをはなれて仏教なるものはありえない丿そこで慈悲の理想に基づいて

二 七 五

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仏教福祉学の成立 を求めて 利他行 に努めた こ れまで の仏教者, 仏教信者 をすべて社会事業家 と みなす考 え方が生 まれ る よ う に も な る。 一般的な例で は, 阿育王 (B. C. 273~ 232頃) や慧遠 (334~ 416) や聖徳太子 (574~ 622) 等がパイ オニア的社会事業家である と紹介さ れ, 道昭 (629~ 700) , 行基 (688~ 749) , 空也 (903~ 972) , 重源 (1121~ 1206) , 叡尊 (1201~ 1290) , 忍性 (1217~ 1303) , 一遍 (1239~ 1289) 等 を, 代表的な僧侶の社会事業家 とみなす説明が, 今なお跡を断たない。 しかも この 種の説明が仏教学者 にと どま らず, 社会科学的認識に乏 しい社会福祉の研究者の間に も見 ら れる のが現実で ある から, 若干その実例 を検討 し て見よ う。 戦後における仏教福祉研究の先覚的指導者の一人で ある守谷茂 は, 大著 『仏教社会事業の 研究』 (本文302頁) において, 「仏教社会事業に尽 く した人々」 の第一人者 と して, 聖徳太 子 を挙げ, その思想 ・ 人間像 と, 慈善救済に関する事蹟の追究に, 64頁を割いてお られるが, 守谷 も また太子の慈善救済の代表例 と して, 四天王寺の四個院建立 を重視 して いる。 太子の 四天王寺四個院 (敬田院, 施薬院, 悲田院, 療病院) 創建説の是非について, 守谷は慎重に, 久米邦武, 辻善之助, 花山信勝等, 先学の否定的見解 を参照 さ れなが ら, な をかつ 「直ちに 四個院が揃 っ て いた こ と を肯定す る わけで はない…, 敬田院は四天王寺の金堂で ある から当 然当初の計画 に包含 さ れ, 推古天皇元年の創建当時完成 さ れていたで あろ う が, 他の三個院 につ いて も直 ち に敬 田院同断 と はいいかねる」㈲が 「創建当時は充分完備 して い なかっ たに せよ, 太子の仏教精神 と あわせて内治外交上の必要から して, 三個院 またはこ れが内容に通 ずる施設があ っ た と みる こ と がで きよ う 。」(1力と推断 して いる。 太子の四天王寺四個院建立の説話は, 『日本書紀』 『古事紀』 「上宮聖徳法王帝説」 には無 く , 太子親撰であるかどう かが疑問視さ れている 「四天王寺御手印縁起」 (1007年, 寺内で発見) や, 平安後期 に編纂 された 「扶桑略記」 による もので, かって私 も こ れに触れた こ とがある

で敬田院の外の「三個院は国家の大基にして, 教法の最要なり」 (『聖徳太子伝歴』) といっ

た発想が, 仏教の国家的受容後 まも ない当時, 天皇家の骨肉の反 目と, 外戚蘇我氏 と物部氏 の覇権 をめぐ る争いの渦中にあっ た20歳の太子にあっ たか どう かが, まず疑問視 さ れる。 太 子が高麗僧, 百済僧 に師事 し て, 『三経義疏』 の著述 に専念する よ う になるのは (著作の真 偽は別 と して) , 30歳を過ぎてからの話であ り, そ もそ も仏教思想に基づ く 「三個院または これが内容に通ずる施設」 が, 推古天皇元年 (593) 当時の隋, 高麗, 百済に存在 していた のか も問題 と な る。 中国で は, 儒教思想に基づ く 常平倉 ・ 社倉 ・ 義倉等の貧農救済施策は古 く から展開さ れて いた のに対 し て, 老幼孤病等の社会的弱者の組織的救済はかな り お く れた よ う で あ り, 星斌 夫は, 「 こ の種の判然たる施設の出現は唐代 に待たなければな ら ない…。 それは, 唐の中期, 玄宗の開元五年 (717) にに宋環 らの上奏によっ て はじめられた悲田坊に見 られる」 と述べ 二 七 四

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同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号

ている? 中国では南北朝時代から, 福田思想による慈善施設を私的に設けた仏教寺院が存在

したで あろ う が, 悲田坊, 福 田院, 居養院, 養済院等, 「三個院 また はその内容 に通ずる施設」 が公に設置 さ れる よ う になる のは, 太子没後の唐宋の時代 にな っ て からで あ る と 見て 良いで あろ う 。 また, 8 世紀以降の聖徳太子信仰 に大 き く 寄与 し た淡海三船の r唐大和上東征伝』 (779) には, 開元21年 (733) に満46歳であった鑑真 (688~ 763) が, 「設無遮大會, 開悲 -田而救済貧病, 啓敬田而供養三賓。」 と記 されている こ と も, 太子の四個院創建説を否定す _     _ る上で の参考と なろ う 。 さ ら に, 『三国史記』 『三国遺事』 によ って も, 太子の時代に新羅, 高句麗, 百済の三国で 「三個院」 または相当の施設が設置 された と い う 記事 は見当た ら ない。 ちなみに 「聖徳王」 「聖徳法王」 と も唱え られた太子 につ いての事蹟 と, 「三国史記」 の新羅 の33代, 聖徳王 (在位702~ 737) に関 しての記録には類似点が多 く , 35代景徳王が ( 四天王 -        -寺成典 に の寺の修理 ・営繕その他を掌る官司) を監四天王府 と改めた‥・」 と も記 しており, -こ れら 固有名詞 をめ ぐ る客観的な比較研究が今後必要 と なろ う 。 太子信仰 を支えて きた牽強付会の説話が, 観世音菩薩の化身 と し て, 理想的為政者 と して の聖徳太子像を形成 してい く につれて, 戦前の社会事業研究者の一部に, 太子を仏教社会事 業のパ イ オニア と みなす考 え方が生 まれる のは, ある意味で当然で あ っ た。例 えば山口正は, 聖徳太子によ っ て 日本仏教が確立 し, そ こ に仏教社会事業が基礎づ け ら れた と見てお り, 太 子によ る四天王寺四個院の建立が事実な ら, 「わが国最初の仏教社会事業施設である」 と言っ て いる 。 し か し その山口で さ え引 き続 いて, 「佛教の救済施設はこ の後百数十年間, 杏 と して何等傅へ られる と こ ろがない。 しかるに 奈良朝にいた り佛教信仰の益々盛 と なる につれて, 社會事業 も大に行 はれる にいた り, 元 正天皇は養老七年 (723) 奈良の興福寺に施薬院, 悲田院を建て, 封戸五十戸, 水田百町, 稲十三萬束を施入せ られたのをはじめ と し, 聖武天皇の天平二年 (730) には皇后宮職に 施薬院を置き, 孝謙天皇は東大寺大佛殿に薬物を備へて病者の救済に充て られる等, 皇室 にお かせ られて は佛教の篤 き信仰 に も とづ いて救済施設 を設け ら れ, また保護奨働 さ れて いる 。 こ と に施薬院について は官制 まで設け られ, 江戸時代 まで績いて いる。 か う し た佛 教の慈善救済事業は, 奈良朝から平安朝を通 じて皇室 をはじ め と し上層階級や僧侶によっ て多 く行 はれたので ある。」゛) と記述 している。 さ ら に山口は次のよ う な注 目すべ き発言を も遺 して いる。 「従来, 社會事業の歴史に興味 を もっ ものは, 社會事業の沿革 と いへば直ちに聖徳太子を 聯想 し聖徳太子 と いへばす ぐに四院の事業を想起する ほどに, 四院の施設 は太子の社會事 業と結びっ けられて いる。 しか し ながら これは明治以前の社會事業 を もっ て, 消極的救貧 的の救護施設 と のみ理解す る のによ る ので あ っ て, 更に積極的教化的方面のある こ と を看 取す るな らば, そ こ に聖徳太子の社會事業における功績 は, 単 に四院の施設に止 らず他に 二 七 三

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仏教福祉学の成立 を求めて 極めて重要な教化的方面の存する こ と を知るので ある。 それはいふ まで も な く 推古天皇十 二年の憲法十七條である。」如 既述の通 り史実 を客観的に見る こ と によ って, 太子 と 四天王寺及びその三院 と の直接 的関 係が断たれる と すれば, 消極的な意味でのわが国社会事業の先駆者 と して太子 を位置づ ける こ とす ら問題 と な り, さ らに山口の説 く よ う な積極的教化的側面を重視する とすれば, 多岐 に亙る神話的虚構 にいろ どられた聖徳太子像 をその まま仏教教化のシ ンボルと して提示する ので はな く , 神秘性, 呪術性 を排除 し た聖徳太子の人間像 を, 価値観選択の自由を持つ市民 に示 して, その主体的判断に委ねる ので な ければ, 真の仏教教化 にはな らないで あろ う し, またそ の上で な ければ, 現代の仏教福祉の理論研究 に役立て る こ と もで きな いで あ ろ う 。 仏教学者による, 仏教社会事業家についての発言にも教え られる こ とが多いが, 例えば渡 辺照宏は, 『日本の仏教』 (岩波新書, 1958年) において, さ きに列記 しておいたよ う な 「僧 侶の代表的な社会事業家」 の行跡 を簡単に紹介 した上で, 「仏教の社会事業家にはだいたい において二通 りある こ と がわかる。 第一には理論的 にも実践的に も仏教の奥深い真理 を追求 し, 高い理想 を求めて 自己の向上 を 目ざ し た人々で , いわば本格的僧侶で ある。 第二はすべ て 自己の欲望 を拠棄 し まっ た く 己 を空 し く して民衆の中に没入 し た聖, 上人た ち であ る。」叫 と説 き, 第二 の類型 を重視 して, 「自己の解脱のた めに高遠 な理想 を探求す る 人々が民衆の こ と を忘れているので はないかと考えている人」 が多 く , 日本仏教史の研究者の中にもその よ う な誤解がある と して, 鎌倉時代 に戒律の実践 と普及 に貢献 した叡尊, 忍性 は, 同時に 「自 利他円満」 「上求菩堤下化衆生」 の仏教の理想に適 った偉大 な社会事業家で あっ た と無条件 的に賛美 し て お ら れる。 しか し, 渡辺の前記の著書 と ほぽ同時期 に出版 さ れた歴史学者和島芳男による 『叡尊 ・ 忍 性』 (1959年) は, 「戒律 と い う ものは, 本来出家の修道生活の規律 で はある が, それはまた在家の 日常生活 の準則 と して も適用 さ れ, そ こ に一層の価値 を発揮 し た も ので あっ た。 また慈善救済は, もち ろ ん施主一人の自己満足 に終るべ き もので な く , 社会大衆の福祉 に直結 して こ そ始め てそ の意義 を主張で きる ものなので ある。 歴史が民衆の手 に解放さ れ, いわゆる王侯将相 も民衆によ って形づ く られた社会的基盤の上に立つ存在 と して見なお さ れつつある今 日, 多 く の英雄偉人にも ま して直接に民衆の生活に触れ, かれらの現実そのもののなかに安心 立命の境地 を切 り開かせよ う と した叡尊 ・ 忍性師弟二代の宗教活動の歴史は, 当然世人の 注 目を要求す る権利がある。」叫 と した確固たる 目的意識 と歴史意識 を も っ て書かれてお り, 社会的救済 を意味す る種々の用 語の混用 も な く , 二大律僧の活動が詳述 さ れている ため, 仏教福祉研究の上で は不可欠の価 値 ある文献 と な っ ている。 し かも著者 は二人の救済活動の単 なる羅列 に終る こ と な く , 例 え 二 七 二

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同朋学園佛教文化研 究所紀要第十三号 ば次のよ う に主客双方の立場 に立っ て, その真相 を洞察する こ と も忘れて はいないのである。 「忍性が関東下向以来 まず御家人層 の有力者 の外護 を得, ついで執権一族 を動か して 師の 叡尊の鎌倉下 り を実現する な ど, し き り に権勢に近づいたのは, む しろ世俗的勢力を背景 と して一層大規模 に慈善救済事業 を推進する方が西大寺流の宗旨を天下 に宣明する近道 と 考えたのであろ う 。」叫 「戒律の実践 と し ての慈善救済に して も, そ れはまず功徳のための作善で あるが故に, 施 主に与える ものの法悦が無 く , こ れを受ける側にも真実報謝の念 う す く , しかも両者 はし ばし ばたがいに反発 し た。 忍性の経営の才 を以て して も, その慈善救済施設を, 宗門の伝 統 と と も に長 く 後世に と どめる こ とがで きな かっ たの も, 戒行 にまつ わる かのよ う な功利 主義にわずらわさ れたためであろ う 。 こ う して西大寺流は, 叡尊 ・ 忍性二代にわたる戒律 の超人的実践 にも かかわらず, 真実の救済教 と して の倫理 を確立す る に至 ら なかっ た。」圃 和島の以上の解説から我々が学ぶこ と は多い と言える。 このよ う な仏教的慈善 ・慈善事業 は対象者の物的困窮 を救 う こ とが第一義的な 目的で は無 く , あ く まで その魂の救済を主要 目 的 と して きた。 だが この種の利他行が概 ね与 え る側 の主観的動機 に基づ いて行われ, そ れを 受け取る民衆に与える影響についての合理的思慮を欠いた場合が多かっ たため, 結果的には 対象者の依存心, 卑屈感 を増大せ しめ, 民衆相互間の扶助意識 ・ 連帯意識の弱体化 に奉仕 し, 民衆の心の支え と し ての仏教倫理の確立 にも至 ら なかっ た と見るべ きで あろ う 。 「仏教福祉」 につ いて語る場合 には, 歴史の上で の仏教的慈善や慈恵 を, 無条件的に美談 と して賛美する ので はな く , 慈善, 慈恵が対象者の人間的人格について考慮する こ とな く , 対象者 を と り ま く社会的諸制度について は無関心のまま, 従って貧困を広 く 社会問題 と して 把握する こ とな く行 われた こ とから, 今 日の社会事業, 社会福祉 と は本質的に異な っている こ と ぐ らいの常識 を持 っ て語 るべ きで ある。 こ の点で も う 一度注 目すべ きは渡辺照宏の説明 で あ る。 渡辺は, 前述のよ う に 日本仏教者の第一類お よ び第二類の分類 に, 「法然や日蓮の よ う に, 個人な り国家な りが どう し た ら救われるか と い う 当面の現実問題 を考慮 し, 今現在 の人々が ま さ に必要 とす る ものを提供 し よ う と企て た仏教者 を第三類 と名づ け」 こ の 「第三 の類型の人々, た と えば法然, 親鸞, 日蓮たち のよ う な新興宗教 の僧侶た ち はだいたい主観 的観念的遊戯にふけって いただけで, 実質的には何 ら民衆の生活 を助 ける こ と な く , む しろ 信者の仕送 り によ っ て生活 を支え ら れて いた場合が多い」叫 と して, 「仏教の社会事業家」 で はない と したばかり か, 「仏家には教の殊劣 (勝劣) を対論する こ と な く , 法の浅深をえら ばず, ただ し修行の真偽 を し るべ し」 と の道元の言葉 を引用 して, 「わずかに信者の仕送 り によ って余命を さ さ えながら, 口先だけの指導 を していた親鸞や 日蓮が仏教者の典型で ある と は少な く と も私 には納得で きない。」吻 と まで酷評 して いる。 確かに従来の仏教社会事業の歴史の上で, 法然, 親鸞, 日蓮が登場す る例 はまれで はあっ 二 七 一

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仏教福祉学 の成立 を求めて たが, 例 え ば親鸞が社会的救済の必要 を無視 したわけで はな い こ と について, 守谷茂 も次の よ う に述べ て い る。 「要す る に親鸞は, 社会的救済 を否認 し た り無用視 し たわけで はな く , 宗教的な機の深信 を追求す る こ と を強調する ため, 法の深信に全体 をかけた こ と にな ったので あ り, た と え それが浄土の教義 に則 った もの と はいえ, 社会的救済に対 して, 頂門の一針 を与え得たこ と は看過す る こ と ので きな い も ので ある 。」゛ だが, そ れまでの民衆不在の護国仏教か ら, 庶民生活中心 の正法仏教の確立 を 目指 し た鎌 倉期 の仏教者の典型 と し ての親鸞 を描 いた作家の野間宏 は, 守谷 よ り も さ ら に深 く 次のよ う に洞察 して いる。 「私 は空海伝説 に見 ら れる よ う な, 弘法大師が歩いた と い われるい たる と こ ろ に残 さ れて いる, た と えば弘法大師が水に不足 して困っている農民のためにその手 にする杖の一突 き で こ ん こ ん と涌 きで る泉 をつ く り だ した と い う よ う な形の ものが親鸞には全然ない と こ ろ にこ そ, 親鸞の社会的実践の新 し さ がある と考えている。 円仁 ある いは空海な どに見 られ る, また さ ら にさ かのぽっ て古代仏教に多 く 見 られる仏教普及 に土木治水事業, 医薬事業 な どが付属 している こ と について は, そ れら をただ仏教普及の手段 と し て利用 したな どと い う ふ う に簡単に言い捨て る こ と もで きない し, またそれが権力支配の姿 を覆いか く すが ために行 われたな どと単純 に言い切 る こ と もで きない と考 え ら れる が, しか し そ こ には仏 教 そ の も のがその原理 から越 え な ければな ら な い国家的原理 を越え る こ と ので き なか っ た 姿がある と見 ないわけにはいかないので ある。 親鸞はこ のよ う な こ れまで の旧仏教のあ り かた一切 を否定 し たのであ り, 医薬事業, 救 貧事業, 治水工事 など も, これ まで に行われた方法によ っ てすすめ られる限 り, 彼 と と も に生 きる 人々の飢 え と心の乾 きは決 して お さ まる こ と はな い と い う こ と を知 りつ く し てい たので ある。 そ してそ れが親鸞の浄土念仏の往相で あ り, 還相 なのである。 そ して また こ の新 しい念仏の往相 ・ 還相の考えそ のものがこの親鸞の大衆のただ 中で生 きる 日々を導 き だ して それ を社会的実践た ら し めた…」四 従来の 「仏教福祉論」 を批判 し, 「仏教社会事業 に尽 く し た人々」 につ いて の再評価 を試 みる上で , 我 々はこ のよ う な野間の考 え方 に学ぶ と こ ろ が大 きい と思 われる。 日本仏教 は, 当初から支配者階級 と結 びつ き, その庇護 を受 けて発達 した し, 仏教者によ る救貧事業が頻 繁に繰 り返 さ れて きたも のの, 彼 らの中に, 一方で貧困を作 り出す仕組みがあって, 救貧事 業が成 り立つ こ と についての認識が殆 どなかっ たからで ある。 二 七 〇

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Ⅳ  

福祉国家 と その変遷について

同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 二 六 九 19世紀末から20世紀初頭 にかけて, 貧困者の生活実態について の科学的調査が進み, 貧困 が社会的 ・ 経済的原因に基づ く もので ある こ と が客観的に証明 さ れる に及んで, 当時の社会 連帯思想に大 き く 支え ら れなが ら, なおかつ前近代的な主観的 ・ 非合理的伝統 を払拭 し きれ なかっ た慈善事業が, 慈善組織協会やセ ツルメ ン ト の活動の歴史に見 ら れる よ う に, 科学的 慈善事業へ と移 り変わ り, さ ら に 「社会貧」 の認識 を織 り込んで科学的 ・ 合理的な近代的社 会事業が展開さ れる よ う になっ たので ある。 欧米に比べてやや遅れた と はいえ, ほぼ1920年 代には成立 していた我国の社会事業 も貧困な ら びに貧困に起因する生活上の諸問題を社会問 題 と し て把握 し, その社会的対応 と して展開 さ れて きた こ と について は, 先の先進国の場合 と大筋 にお いて変わ り は無い。 第二次大戦後の経済成長 にと もな う福祉政策の拡大につれて, 「社会事業 は, 単なる生活 困窮の救済, 治療, 回復 と い う こ と から, 対象者の生活上の積極的福祉 を増進す る こ と を 目 ざすよ う になっ た。 そ して, 事業の対象範囲 ・ 制度の規模, 社会福祉施設の種別や数, 従事 者の数な どが飛躍的に拡大 して, 最近のほぼ30年来, 名実 と も に社会福祉 または社会福祉事 業 と よ びう る も のにな っ たので ある。」叫 しか も こ の社会福祉 ・ 社会福祉事業 と よ ばれる分野 が, 戦後の福祉国家政策の中核 を形成する重要 な部門 と し て制度的に実施 さ れて いる こ と に ついて の基礎的理解 を固めて お く こ と, さ ら に今 日の福祉国家は初期の公的福祉 中心主義か ら変化 して, 社会福祉の供給主体の多元化 を強 く 求める大 きな転換期に入っている こ と につ いての理解 を深めてお く こ とが, 仏教福祉 を現代的に把握する上で の前提 と なる。 一般的に言 っ て, 福祉国家 と は 「国民の福祉増進 と確保 を重要 な国家 目標 と し て掲 げ, 完 全雇用 と社会保障, 社会福祉等の政策 を実現す る 国家 をい う」叫) と さ れて い るが, 福祉国家 とい う 言葉 は, 人間が追求 して やまないよ り望 ま しい理想社会 を連想 さ せる ためか, 福祉国 家の名 を冠 した多様なユー ト ピア論が展開さ れてお り, 仮 に極端に超越的な 「福祉国家論」 を排除 した と して も, 対象 とする福祉国家の歴史的起源を どこ に設定するかは極めて困難で ある。 まず, 「福祉国家 Welfare   State」 と い う 用語 はイ ギ リ ス で生 まれて い る 。 語源 と し て は, 古 く エ リザベス朝時代の common   wea1で ある と か19世紀 ド イ ツの wohlfahrtstaatで ある とか 言われているが, 今 日的な意味での福祉国家 と 同義で はない。 最初の使用例 と して有名なの は, ロ ン ド ンのカ ンタベ リ ー寺院の大僧正で あ ったテ ンプルの演説で ある。   1941年の彼の演 説集 『市民 と聖職者』 の中に, ナチ スの 「戦争国家 Warfare   State」 と対照 させて, 戦後の イ ギ リ スは平和で安定 し た 「Welfare  

State」 でなければならないとあるツまた近年に改訂さ

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仏教福祉学 の成立 を求めて

れた ブ リ ッ グスの 「イ ギリ ス社会史 (第 2版) 』 による と, 福祉国家とい う用語を広めたのは, テ ン プル僧正 よ り も E. H カーのほ う が早かっ た と述べている。 カ ーは, 1940年の 「タ イ ムス」 の社説の中で 19世紀の「夜警国家 Night

  W atchman

   State」 と対比 して20世紀の「W elfareState」

の必要性を説いているツ

福祉国家の基盤 をなす諸理念には多 く の異なっ た起源がある こ と について ロブ ソ ンは, 「フ ラ ンス革命から は自由, 博愛の理念が, ベ ンサム とその弟子た ちの功利主義の哲学からは最 大多数の最大幸福の概念が, ビスマ ルク とベバリ ッ ジから は社会保険 と社会保障の観念が, フ ェ ビア ン社会主義者から は基幹産業 と基礎的サー ビスの公有の原則が きて いる。 さ ら に トーネイ から新た な観念に立 っ た平等の強調 と社会活動の推進力 と しての利欲の否定が きて いる 。 ケ イ ンズや救貧法委員会の少数派報告から は, 景気循環の抑制 と大量失業の回避 を必 要 と する諸原則が, ウェ ッ ブ夫妻から は貧困の原 因を除去 し社会の底辺 を浄化す る も ろ も ろ の提案が きて いる。 ほかにも多 く の思想家た ちが続々 と独 自の考え方 を打 ち出 して, 福祉国 家の概念 を補強 して きた。」 と述べ, さ らに多数の人名をあげている。 基底に数多 く の理念 をふまえて出発 した福祉国家で はあるが, 福祉国家の内容 を構成する 政策やプ ロ グ ラ ムは, 基礎 に立つべ き明確 な政治哲学 も し く は社会哲学 ない し はイ デ オ ロ ギー を欠いた ま ま現在 に至 っ て いる。 こ のこ と は 日本 だけで な く , 一般 に福祉国家 と みら れ る他 の国々において も 同 じ こ とが言 える 。 と もあ れ, 第 2 次大戦中のイ ギ リ スで生 まれた福 祉国家 と い う 用語は, 戦後のイ ギ リ ス社会の様相 を一変 させる こ と に役立 った社会 ・ 経済政 策の変革 を簡潔に表現す る もの と し て広 く 使 われる よ う にな っ たが, その変革は次の 3 つ に 分ける こ と がで きる。 (1) 社会保障, 国民保健サー ビス, 教育, 住宅, 雇用対策及 び老人, 障害者, 要保護児童 の福祉サービス を含む (広義の) 社会福祉の実施 と範囲の拡大 (2) 大量の失業 を未然 に防止する ための完全雇用政策の維持 (3) 基幹産業, 基礎的 ・独 占的サー ビスの公有化 以上の 3 つ は, 当時の福祉国家の構成要素で もあっ た。 このよ う な公的部門の拡大や積極 的な財政支出 を と も な う福祉国家の知的証明 と し て は, ケ イ ンズの r一般理論』 やベバ リ ッ ジの 2 つの報告書 ( 『社会保険及び関連サー ビス』 『自由社会における完全雇用』) を挙げる こ と がで きる し, 同時 に フ ェ ビア ン主義者の理論から も見いだす こ と がで きる。 我 々は, 1948年 7 月15日 「揺篭から墓場 まで」 の社会保障制度の完全実施に踏み切 っ た イ ギリ ス を福祉国家の典型 と して, 長 く 憧憬の目で見て きた し, 1950年代及び60年代の政治評 論家や福祉研究者は, 福祉国家をイ ギ リ ス独特の制度 と して受 け止めて きたふ しがある。 社 会福祉政策の本質解明に貢献 した T. H. マ ーシ ャルで さ え, 「イ ギ リ スの福祉国家はユニー クな もので ある。 何故な ら, それが極めてユニーク な状況の中で (戦時 と平和国家への転換 二 六 八

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同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 期におけるユニークな経験から導かれた機会と, 歴史の力の爆発の産物 と して) 誕生 したか らで ある。」゛ と断言 している。 だがその後各国の比較研究が進み, ほぽ1970年頃からは, 福 祉国家を イ ギリ ス独 自の体制 と見る研究者 は本国のイ ギ リ スで も影 をひそめる よ う にな り, 今日で は福祉国家の範囲, 規模, 目的及び機構の組み合わせについて多様な意見がある中で, 「福祉国家はすべての資本主義社会に共通する事象で ある」 と した ウェ ダーバ ン等の見解が

一般に承認されているツ

も っ と も, こ れまで の福祉国家の構成要素から見て, 福祉国家を資本主義で も社会主義で もない中間体制である とか, 両者の混合体制である と受け とめた主張が多かったのは事実で ある 。 例 え ばD. L. ホ フ マ ンは福祉国家 を 「一方 にお ける 共産主義 と, 他方 における無制約

の個人主義という2つの極の間の妥協である」 と言っているし? T. H.マーシャルは福祉国

家を 「社会主義の注入によって緩和されたある種の資本主義国家」 とみているツまたオラン

ダのピエ・ ソエネスも福祉国家を 「半社会主義と半自由主義との混合体」 とみなしているツ

こ こで世界の主要国の社会保障費の国内総生産 (G. D. P) に対する割合 を見てみる と, 1986年において, スエ ーデ ンは30. 1% , 西 ド イ ツ22. 7% , イ ギ リ ス18. 8% で ある のに対 し て,

アメ リカは13.0% , 日本は僅かに11.3% であったツノーマン・ジョンソンも 『転換期の福祉

国家』 の中で G. D. P に占める社会保障費の比率 を挙げて各国の比較分析 を行 っ てお り, 社 会保障支出額のみの単純比較は困難で ある と し なが ら も, 総合的に見て, スエ ーデ ンが福祉

国家の最先進国であり, アメリカと日本は後進国であると述べているツ)

福祉国家 とみな さ れてい る こ れら の国々で は自由市場経済を基盤 と し て, 今 日で は生産手 段の大部分 を私有 に委ねて いる点で, 基本的には資本主義体制に属する と言えるが, 完全雇 用政策や社会保障や税制による平等主義的所得再分配政策 を進めて いる点で は, 社会主義経 済の要素 を も含んでお り, 資本主義から社会主義への移行の過程が, 又 は資本主義 と社会主 義の混合経済機構が福祉国家で ある と受け止められた時期 もあ ったが, 現段階の福祉国家が 依然 と して資本主義社会で ある こ と に変わ り はない。 このよ う な段階の資本主義 を 「福祉資 本主義 Welfare   Capitalism」 と呼ぶ学者が多 く な って いる し, 福祉資本主義 とい う用語は, 競争又は交換の価値 と実際 と, 報酬又は贈与の価値 と実際の結合 を意味 した適切な表現で あ る と ジ ョ ー ンズは述べている。1985年に彼女 はこ の 2 つの要素のバ ラ ンスの取 り方 によっ て, 福祉国家には国によ っ てかな り の相違があ り, 重点 を資本主義 にお いた福祉資本主義 を一方 -の極 と し, 重点を福祉 においた福祉資本主義を他方玖極 とよズご 走り 連続体 を構成で きる と,__ -考えたので ある。 彼女 は資本主義体制の維持強化 を意図 しつつ社会優先の福祉国家政策を と る国 と し て, 高い社会支出 を行 う 西 ド イ ツから低い社会支出のア メ リ カ まで を こ のカ テ ゴ リーに入れ, 資本主義 をたかだか必要悪 と見て, 公然 と非市場的又 は反市場的価値基準を導 入 し て, 個人第一の立場か ら資源の再分配 を優先 させ る福祉国家 と して, 社会支出の高低 に 二 六 七

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仏教福祉学の成立 を求めて

従ってスエーデンやイギリスを並べているツ

この分類 に従 う な ら ば, 現在の 日本は重点を資本主義の維持存続においた福祉資本主義国 家群の最後尾に位置付 けられる こ と になる。 私はスエーデ ンやイ ギ リ ス を福祉資本主義国と ー する彼女の見解 には賛成 し な いが, 一般市場経済 と社会的市場 と の結合関係, と り わけ最近 の福祉の企業化 を検討する上で は, こ の 「福祉資本主義」 に関する研究 と分析がよ り重要に なる と考 え て いる。 世界的に見て, 初期の福祉 国家の理論 を支えたのがケ イ ンズ と ベバ リ ッ ジの理論で あ っ た こ と, 現実の政治において はイ デ オロ ギーの上で対立す る保守政党 と社会民主主義政党が福 祉国家拡張政策の面で は, 基本的 に合意基盤 を形成 して いた こ と, つ ま り 「戦後福祉国家体 制は政治的な コ ンセ ンサス と, 経済的なケ イ ンズ主義的混合経済 と を 2つの柱 とする体制 と

して成立したのだ」 と言えるツ

だが, 1970年代 に入る と福祉国家は早 く も危機 を迎え る よ う になる。 成長期 の福祉国家を 支 え た ケ イ ンズ主義的= 社会民主主義的思想 は, 一連の新 自由主義又 は新保主義の思想 (ニ ュー ・ ライ ト, サ ッチ ャーリ ズム, レーガノ ミ ックス, サプライサイ ド経済学) や, 急 進的左派の攻撃 に さ ら さ れる よ う にな り, 種々の反福祉国家論が展開 さ れる よ う になる。 日 本の場合, 「福祉元年」 と呼ばれた1973年の後半 にはオイ ル ・ シ ョ ッ ク と 共に盛んに政策主 導の 「福祉の見直 し」 が叫ばれる よ う にな ったので ある。 日本の福祉行政の年次報告書であ る 「厚生 白書」 は, 1960年代 を通 じ て 「福祉国家の建設」 や 「高度福祉国家の実現」 を う た っ て い たが, 70年代 に入 る と 「安定 した国民生活 を 目指す高福祉社会」 「よ り良い福祉社会」 と か 「活力ある福祉社会」 と いっ た表現 を頻繁に使用す る よ う にな り, 福祉国家 と い う 用語 は殆 ど影 を ひそめる よ う にな る。   1977年の r厚生 白書』 は, 70年代前半の社会保障の前進, 特 に73年度の医療保険 ・ 年金制度改善 を理由と して 「現在の社会保障は制度の内容, 水準 と も国際的に遜色のない ものにな っ ている」 と して, 今後は 「 日本に適合 し た福祉社会の形成」

が必要であると述べているツ

こ の 「 日本型福祉社会」 の政府構想が明確な形で う ち 出 さ れたのは, 1979年の 「新経済社 会 7 ヵ年計画」 で あっ た。 「欧米先進国にキ ャ ッチ ア ッ プ した我国経済社会の今後の方向 と しては, 先進国に範 を求 め続 ける ので はな く , こ のよ う な新 しい国家社会 を背景 と して, 個人の 自助努力 と, 家庭 や近隣, 地域社会等の連帯 を基礎 と しつつ, 効率の良い政府が, 適正な公的福祉 を重点的 に保障す る と い う, 自由経済社会の もつ創造的活力 を原動力 と した, 我 が国独 自の道 を選 択創出する, いわば日本型 と も いう べ き新 し い福祉社会の実現 を目指す もので な ければな

らない。」 と 『計画』 は述べているツ

「 日本型福祉社会」 の定義 と も みら れる こ の表現 から, 我々は1970年代 の終 わ り に 日本の 二 六 六

(18)

V  

社会福祉の多元化に

つ い て 同朋学園佛教文化研究所紀要第十三号 政策路線が, 欧米型の高福祉 ・ 高負担の福祉国家 を指導 し たケ イ ンズ, ベバ リ ッ ジ主義から 離れて, 民間市場経済の活力に依存 し, 「小 さ な効率的な政府」 を 目標 とする新保守主義な い し新 自由主義に移行 した こ と を知る こ とがで きる。 それから の10年, 我々は社会保険費の 自己負担の増額や営利福祉事業の台頭 な ど, こ の国の福祉国家政策の大幅な後退 を経験 して きた ので あるが, 福祉国家 と は何 か, 福祉国家が どん なに変わって きたか, 特 に最近の福祉 国家政策の中核 をなす社会福祉供給部門の多元化がどう進んで いるか, それが地域社会の連 帯や, 家族の結合, 個人の自立の強化に役立つよ う な仕組みになっているか どう かを検討す る こ とが, これからの仏教福祉 を考える上で の必要条件 と なる であろ う。 こ れまで の社会福祉供給 シス テムは, 中央や地方の政府機関によ る公的部門と, 公的援助 と民 間の寄付金 を財源 に社会福祉法人その他の団体が運営する民間部門から成 り立つ と考え るのが一般的で あった。 だが70年代以降の福祉国家観の変遷, 自由放任主義の再評価の影響 を受 けて, 今 日で は社会福祉の推進は公的福祉 を中軸 に行 われるので はな く , それに家族や 近隣 による イ ンフ ォーマ ルな部門, ボラ ンテ ィ アや自主的組織 によ る ボ ラ ン タ リ ー な部門, 更に民間企業によ る一般市場 を通 じ ての営利サー ビス の部門を加えて, それぞれのメ リ ッ ト を活か した 「公民 ミ ッ クス体制」 で進められるべ きだ とする考 え方が, アメ リ カ やイギ リ ス において支配的 と な り, 日本 も こ れに追随 して いる。 果 し て こ のよ う な福祉供給 システ ムの 多元化が, 社会福祉の増進に無条件でつながるかどう か, 各部門ご と に簡単に検討 してみよ う 。 二 六 五 洋の東西 を問わず, 在宅の要保護者の実際的保護の大部分は, こ れまで, 国家, 民間福祉 団体 や私企業によ らず して, 家族, 親戚, 友人や近隣の手 によ って行 われて きた。 こ のよ う な 日常の私的な, 非公式的な援助の仕組みが, 今 日で はこ と さ ら にイ ンフ ォーマ ルなケア ・ シ ステ ムと呼ばれる よ う にな って いる。 ジ ョ ンソ ンも 「イ ンフ ォーマ ル部門と は, 通常の意味 で は親族, 友人及び隣人による保護や介護 を指 し ている」㈲ と して, こ の部門を地域社会に よる介護 (community

   care) と, 家族による介護 (familycare) に分けて説明 しているが, 全体の福祉への寄与度が極めて高い こ と は認めつつ活動の本来的な性格から, その質的量的 把握が困難である点 を強調 して いる。 エ イ ブ ラ ムはコ ミ ュ ニテ ィ ・ ケ ア を 「一般社会人が,

日々, 家庭や職場で, 他人を援助し, 支持し, 保護すること丿 と定義しているが, c

on

l。

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仏教福祉学の成立を求めて munity   care    につ いての内外の理解 は必ず し も ま と まっ ている わけで はない。 1960年代 のイ ギ リ スで は, それは, 地域社会で働 く 福祉公務貝 によ る あ ま り実のない介護サー ビス を意味 す る と考 え ら れて きた し, 「すべて の年齢, 障害 を含 む援助対象の収容 ・ 在宅保護の統合化」 を主眼 と した, 1968年のシーボーム報告 (Seebohm   Report) が 「地域に根ざ した家族本位の サー ビス」 で ある こ と を強調 した後 も, 施設保護の対象 を在宅保護の対象に切 り替えて行 く 方法で ある と受けとめ られ, 各国政府が人道的な立場 と経費縮減の立場から, こ れを支持す る姿勢 を と っ たのである。 日本 にお いて も, シーボー ム報告 の影響 を いち 速 く 受 け止 める動 きがあ り community careは福祉政策の新概念 と し て広 まっ た。   1969年の東京都社会福祉審議会の答 申 『東京都 における コ ミ ュニテ ィ ・ ケ アの進展 について』 で は, 「コ ミ ュ ニテ ィ において在宅の対象者 に対 して , そ のコ ミ ュ ニテ ィ における社会福祉機関 ・ 施設 によ り, 社会福祉 に関心 を持つ地 域住民の参加 を得て行われる社会福祉の方法で ある」 と定義 さ れ, 1971年の中央社会福祉審 議会の答 申 「コ ミ ュニ テ ィ 形成 と社会福祉」 で は, 「社会福祉 の対象 を収容施設 において保 護するだけでな く, 地域社会すなわち居宅において保護を行い, その対象者の能力のよ り一 層の維持発展 を図ろ う とす る もので ある」 と定義 さ れて いる。 だがその後20年 を経 た現在で も, 「概念 と してのコ ミ ュニテ ィ ・ ケ アは統一 さ れる に至っ てお らず, 次の 3つの主張に分かれる。 1) 住民の連帯性 と共同性に支え られた地域社会を 形成 し, 社会福祉増進の主要な役割を負わせる ものである。 2) 福祉ニーズの多様化に対応 しよ う とする新 しい意味での在宅福祉サービス を指す。 3) 地域社会で関連諸機関 ・ 施設の 有機的連携 を図 り, 有効適切 な福祉サー ビス を確保する。」卿 さ ら に こ こ で留意 し て おかねばな ら な い こ と は, community と い う 用語が 「地域社会」 と 訳 さ れて いて もその範囲が漠然 と して いる こ と, ヨ コ割 り の人間関係 に根ざ し, 共通の価値 と共属の感情 に支え ら れた 自治的社会単位 と して の conlnlunityが, 現実の日本に存在する か, 社会変動 に伴 う職住分離が進み, 政府の定住社会構想が全 く 成果 をあげず, む しろ通勤 圏の拡大 と か居住空洞化現象が進んで, 地域社会そ のものが崩壊の危険 を孕 むよ う にな っ て いる 時期 に, 基本的な地域生活環境 の整備 ・ 保全手段 を と る こ と な く colnnlunity   careの定 着 を求める こ と は至難の業で あろ う。 と こ ろ で conlnlunity   Care   と呼 ぼ う と在宅福祉 と 呼ぼ う と, 対象者 の 日常援助活動 の担い 手の圧倒的大部分は, その家族である。 しかも 「妻が夫 を介護 し, 母親が障害の子 を看 と り, 娘が年老 いた親や障害の兄弟 を介護する。 近所の婦人や女性ボ ラ ンテ ィ アがそれを助 けてい る」 のが実際の姿で あ る か ら, フ ィ ンチ と グ ロー ブ ズは, community   care= family   care   = care     bywomen

というダブル方程式を提示している(ご

言 う まで も な く , 家族 を第一次的な福祉追求集団 と規定 し, 家族 を生活保障の原細胞 と み -一 六 四

参照

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