<寄稿>関西学院における大学紛争の歴史 : 関学
革新評議会を中心に
著者
木村 浩造
雑誌名
関西学院史紀要
号
26
ページ
171-197
発行年
2020-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00028597
関西学院における大学紛争の歴史
―関学革新評議会を中心に―
木村
浩造
一 九 六 八 年 か ら 約 二 年 間、 関 西 学 院 大 学 に お い て、 東 大 を は じ め と し て 全 国 で 始 ま っ た 大 学 紛 争 が 大 き な 傷 跡 を 残 し ま し た。 ノ ン ポ リ と 言 わ れ た 多 く の 一 般 学 生 は、 全 共 闘 に よ る 校 舎 の バ リ ケ ー ド 封 鎖 で 学 校 が 休 校 と な り、 授 業 も 試 験 も 無 く そ れ ぞ れ 好 き な 時 間 を 費 や し て い た よ う で す。 一 方 で、 何 と か 大 学 紛 争 を 終 結 さ せ よ う と 活 動 し た グ ル ー プ が い た こ と は あ ま り 知 ら れ て い ま せ ん が、 紛 争 解 決 に 取 り 組 ん だ グ ル ー プ( 関 学 革 新 評 議 会 ) の 責 任 者 の 一 人 と し て、 関 西 学 院 の 歴 史 の 一 端 を 整 理 し た い と 思 い ま す。 も う 一 人 は、 中 学 部 か ら の 同 期 生 で 関 学 を 愛 す る 平 松 一 夫 君 (現理事長、元関西学院大学学長)です。 当 時 の 新 聞 記 事 や 資 料 で 記 憶 を 呼 び 覚 ま し、 私 の 見 聞 き 体 験 し た 事 実 な ど を 中 心 に 整 理 し ま す が、一部で記憶間違いや偏る部分がありましたらご容赦下さい。1.私の関学時代 平松君については改めて紹介する必要は無いと思いますが、 大学紛争は二人の中で大きな思い 出です。紛争の歴史を整理すると同時に、 私がどんな関学生であったかという歴史もご紹介した いと思います。 私 は、 一 九 六 〇 年 に 関 西 学 院 中 学 部 に 入 学 し、 高 等 部 と 大 学( 商 学 部 / 笹 森 ゼ ミ ) を 含 め て 一〇年間関西学院で学びました。故矢内正一中学部長(元関西学院理事長)の薫陶を受け、 勉学 と ス ポ ー ツ の 両 立 を 目 指 す べ く 努 力 を 続 け、 中 学 か ら 大 学 ま で 陸 上 競 技 部 で 主 将 を 務 め ま し た。 高等部三年時には、 四〇〇Mで兵庫県高校新記録を樹立し、 岐阜国体に兵庫県代表として参加し て四〇〇M決勝で七位となりました。 大 学 時 代 は、 四 年 で 卒 業 し て 五 年 連 続 関 西 制 覇 を し た、 数 少 な い と い う か 唯 一 の 学 生 か も 知 れ ま せ ん。 と い う の も、 一 年 生 か ら 四 年 生 ま で 関 西 制 覇 を し ま し た が、 体 育 会 の 覇 業 交 歓 が 一 一 月 三 日 に 開 催 さ れ、 そ の 日 以 降 は 翌 年 の 実 績 と な っ て い た の で、 一 一 月 八 日 か ら 開 催 さ れ た 西 日 本 学 生 選 手 権 の 四 〇 〇 M で 優 勝 し、 五 年 連 続 制 覇 と な っ た 次 第 で す。 こ れ と は 別 に、 ほ と ん ど の 人 が 知 ら な い 歴 史 も あ り ま した。 実 は、 当 時 の ア メ リ カ ン フ ッ ト ボ ー ル 部 の 武 田 監 督 か ら ア メ リ カ ン フ ッ ト ボ ー ル の ラ ン ニ ン グ コ ー チ を 依 頼 さ れ、 (王子公園陸上競技場にて) 【提供:神戸新聞社】
中学部からタッチフットボールに親しんでいたこともあり、ボールを投げたり受けたりするのは それなりに出来たので、一一月末開催の「甲子園ボウル」に、相手(日大)の全く知らない秘密 兵器として出場する準備をしていました。試合開始と同時にサイドラインを思い切り走り、ロン グパスを受けるというのが一つのフォーメーションでした。無警戒の中うまく受けられたら一気 に タ ッ チ ダ ウ ン に つ な が る 可 能 性 が あ り、 ダ メ で も 敵 の 作 戦 を 紛 ら わ せ ら れ る 秘 密 作 戦 で し た。 当 時、 五 〇 M は 六 秒 〇、 一 〇 〇 M は 一 一 秒 〇 で 走 っ て お り、 防 具 を 付 け て も そ れ な り の ス ピ ー ド で走る体力はあったと思います。目立つように白いスパイクを新調してもらって履く予定でした。 し か し、 五 年 連 続 関 西 制 覇 を し た 西 日 本 学 生 選 手 権 の 最 終 種 目 で 肉 離 れ を し て し ま っ た た め、 残念ながら「甲子園ボウル」への出場は出来ませんでした。当時の、武田元監督と二人の秘密と して、関学が甲子園ボウルに出るたびに思い出す、いつまでも忘れられない青春時代の一つの歴 史となっています。 少し長くなりましたが、こうした関学生がいたのも一つの歴史で、紛争解決に取り組んだ一因 です。 2. 「学費値上げ反対運動」が始まる (参考:「関西学院百年史」 ) 一九六七年秋ごろから、学校側の学費値上げの動きが本格化するにともない、中央講堂での説 明会などが開始されました。説明会には、一般学生として参加していましたが、昼から始まった 説明会が、 夜遅くまでかかるのには参った記憶があります。中央講堂での学生集会では、 ヘルメッ トや竹槍での武装姿もなく、学校側と学生代表との議論が戦わされていました。この頃は、多く
の 学 生 の 中 で、 ま じ め に 値 上 げ の 是 非 に つ い て 論 じ あ っ て い た よ う に 思 い ま す。 「 大 衆 団 交 」 と いう言葉を、この時初めて聞きました。 そして、学校側の対応の悪さなどから、学費値上げ阻止を掲げてスト権確立の動きが活発化し て行きました。学費値上げ阻止運動としてストライキ権投票があり、多くの学部でスト権が確立 されることになり、バリケード封鎖による無期限ストに突入していきました。身近にバリケード 封鎖を見るのは初めてで、 当時、 学校側と学生代表と言われる人達の動きは、 あまり分からなかっ たのが現実です。そうした中、われわれ体育会学生は、多大な不便を感じながらも、日々の練習 だけは継続していました。 年が明けた一九六八年一月には、一時ストライキに投票した学生も、バリケード封鎖に対する 違和感が大きくなり、 ストをしていた学部も、 スト反対を決議して封鎖解除を進めようとしました。 まず、私の所属していた商学部がスト中止を学生会で決議し、他の学部も順次スト中止の決議 をすることになり、バリケード封鎖が解除されていきました。その後、学校側が、バリケード封 鎖をした学生の処分を決定したことから、新たに「処分撤回闘争」として再燃することになりま した。 3.卒業式当日の学院本部封鎖と初の機動隊導入(大学紛争拡大の兆し) 一九六八年三月二八日の卒業式当日の午後、正門を入って左手にあった「学院本部」が、全共 闘により封鎖占拠され、小宮学院長他数名が軟禁されるという事態が発生しましたが、本格的な 武力による紛争の始まりではなかったと思います。私は大学二年生の終わりを迎える時で、練習
を 終 え て 急 い で 駆 け 付 け、 建 物 を バ リ ケ ー ド 封 鎖 す る 全 共 闘 学 生 達 と 対 峙 し ま し た。 石 や レ ン ガ が 飛 ん で く る 非 常 に 危 険 な 状 態 で、 果 敢 な 体 育 会 系 学 生 や 一 般 学 生 が ベ ニ ヤ 板 で 防 戦 し ま し た が、 そ れ 以 上 の 手 立 て も 無 く に ら み 合 い が 続 き ま し た。 私 は、 前 列 で ベ ニ ヤ 板 を 支 え て い ま し た が、 途 中 で 交 代 し た 直 後 に、 私 が 支 え て い た 場 所 に 居 た 学 生 の 顔 面 に レ ン ガ が 飛 ん で き て、 前 歯 を 折 ら れ る こ と に な っ た の は、 申 し 訳 な い で す が 不 幸 中 の 幸 い で は な か っ た か と 思 います。 こ う し た 紛 争 状 況 は 初 め て の 経 験 で も あ り、 原 始 的 な 戦 争 の は じ ま り を 感 じ ま し た。 封 鎖 は 長 時 間 に わ た っ て 硬 直 状 態 が 続 き、 素 手 で 何 の 道 具 も 持 た な い無力な学生達で、 武装した全共闘学生達を退去させ封鎖解除をすることは出来ず、 学院の要請 によって初の機動隊導入がなされ、 無事封鎖が解除されました。この騒動より、 午後から予定さ れていた卒業式は中止となりました。 全国各地で起きていた大学の武力紛争が、 自分たちの身近で実際に起きることに驚き、 今後に 少し不安な感じを抱いたように思います。 卒業生の中の一部の人達が全共闘に対峙する小競り合いも見られましたが、 大きな問題にはな (占拠された学院本部前で対応する一般学生)
らなかったようでした。 封 鎖 解 除 後 は、 全 共 闘 組 織 メ ン バ ー が 逮 捕 さ れ た こ と な ど も あ っ て か、 大 き な ト ラ ブ ル は 起 き ず、 全 共 闘 学 生 に よ る 小 規 模 な デ モ が 校 内 で 行 わ れ る 程 度 で、 多 く の 一 般 学 生 は、 通 常 と 大 き く 変 わ ら な い 学 生 生 活 を 送 っ て い る よ う で し た。 た だ、 学 生 の 紛 争 を 阻 止 す る た め か 学 生 活 動 費 が 凍 結 さ れ、 体 育 会 活 動 の 資 金 提 供 が さ れ ず、 練 習 環 境 の 悪 さ を 含 め 不 自 由 な 学 生 生 活 と な り ま し た。 試 合 参 加 や 遠 征 な ど も 全 て 自 己 負 担 と な り、 下 宿 生 な ど の 負 担 は 大 変 で し た が、 O B の 方 々 の支援金が支えとなっていたようです。 私 は、 例 年 通 り の 試 合 に 参 加 し、 五 月 に 開 催 さ れ た 関 西 学 生 選 手 権( 関 西 I C ) で は、 四 〇 〇 M に お い て 大 会 新 記 録 で 優 勝 す る な ど、 経 済 的 な 面 や 練 習 環 境 な ど に 不 便 を 感 じ な が ら も、 秋 ま で 試 合 を 順 調 に 消 化 す る こ と が 出 来 ま し た。 一 方、 全 共 闘 で は 逮 捕 者 の 解 放 を 含 め て 闘 争 準 備 が 進んでいたようでした。 4.大学紛争が本格化( 「六項目要求」 ) 一 九 六 〇 年 代 後 半 か ら、 全 国 的 に 左 翼 系 学 生 集 団 を 中 心 と し た 大 学 紛 争 が 勃 発 し 始 め て い ま し たが、 各大学で紛争の要因となったテーマは違っていたようです。 関西学院の場合は 「学費値上げ」 が 主 た る 紛 争 要 因 で し た が、 紛 争 中 に 全 共 闘 の 幹 部 に 聞 い た 話 で は、 学 生 を 扇 動 し て 運 動 に 参 加 さ せ る た め の テ ー マ で あ り、 彼 ら 組 織 の 本 来 の 活 動 目 的 で は な か っ た よ う で す。 ち な み に、 東 大 紛 争 の 要 因 は、 大 学 に 退 学 処 分 さ れ た 学 生 の「 処 分 の 白 紙 撤 回 」 で し た。 全 共 闘 組 織 の 本 来 目 的 は「 革 命 」 で あ り、 バ リ ケ ー ド 封 鎖 さ れ た 校 舎 の 壁 の 落 書 き に は 革 命 の 文 字 が 多 く 書 か れ て お り、
学費値上げはサブテーマであったようです。 紛争に多くの学生を参加させて紛争を拡大するためには、 多くの学生が反対しやすいテーマが 必要で、 関学が学費値上げを打ち出したことで紛争テーマとされただけのようで、 純粋に値上げ 反対に賛同したまじめな学生達が付いて行って大きな運動となったものと思われます。 一九六八年一二月頃から、 学費値上げ反対に加え、 学生の処分撤回を求める全共闘の活動とし て「大衆団交」を求める声が大きくなり、学校側との交渉が進んでいたようでした。 その頃、全共闘から学校側に提示されたのが、いわゆる「六項目要求」というものでした。 ① 四 三、 四 四 年 連 続 学 費 値 上 げ の 白 紙 撤 回。 ② 不 当 処 分 の 撤 回。 ③ 機 動 隊 導 入、 操 作 協 力 の 自 己 批 判。 ④ 文 学 部 学 科 制 改 変 白 紙 撤 回。 ⑤ 学 館 の 学 生 自 主管理。⑥以上を大衆団交で、文書で確認せよ。 5.第5別館の封鎖、全学集会 冬 休 み 明 け の 新 学 期 が 始 ま る 前 日 の 一 九 六 九 年 一 月 七 日、 全 共 闘 が 突 如 第 五 別 館 を バ リ ケ ー ド 封 鎖 し、 関 学 で も 本 格 的 な 学 園 紛 争 が 始 ま る こ と に な り ま し た。 一 方 的 な 第 五 別 館 封 鎖 に 反 対 す る 学 生 は、 連 日 の ご と く 中 央 芝 生 で 封 鎖 反 対 集 会 を 開 い た が、 大 多 数 の 学 生 は 事 態 の 重 大さを十分認識していなかったようです。 当 初、 封 鎖 反 対 集 会 の 中 心 と な っ て 演 説 し て い た の は、 (スピーカーを持つ私と、演説する渡辺君)
文 化 総 部 の 渡 辺 君 で あ っ た と 思 い ま す。 私 が 協 力 し て 集 会 の サ ポ ー ト を す る よ う な 即 席 の 体 制 で あ り、 組 織 と い っ た も の は あ り ま せ ん で し た。 こ の 頃 か ら、 全 共 闘 の ヘ ル メ ッ ト 姿 が 目 立 つ よ う に な り、 紛 争 の 拡 大 が 始 ま っ た 感 が あ り ました。 一 般 に「 ア ジ 演 説 」 と 呼 ば れ る 扇 動 的 演 説 に、 多 く の 比 較 的 ま じ め な 学 生 が 踊 ら さ れ た 感 が あ り ま す 。 特 に 、 顕 著 で あ っ た の が 、 一 九 六 九 年 一 月 二 四 日 、 学 院 主 催 の 学 費 値 上 げ 説 明 会 が 中 央 芝 生 で 開 催 さ れ ま し た が 、 学 院 側 の 説 明 が 不 十 分 で あ っ た こ と も あ り 、 中 央 芝 生 を 埋 め 尽 く し た 四 、〇 〇 〇 人 近 い 学 生 達 に 学 院 当 局 に 対 す る 不 信 感 が 一 気 に 高 ま り 、 全 共 闘 の ア ジ 演 説 に 呼 応 す る 学 生 の デ モ が 中央芝生で大きなうねりとなってしまいました。説明会が始まる前は、 大した人数でなかったデ モが一気に膨れ上がってしまい、 この日が大学紛争拡大の分岐点になったように思われます。全 共闘と学院に反感を持った学生の動きが活発になり、 純粋な学生たちも紛争に参加するようにな りました。 学院側の硬直的な対応が新たな問題となり、大学運営の在り方も問題となりました。 先生方は、 武装した学生運動家達に囲まれて、 うまく対応する訓練は受けておられず、 不得手 な分野であったので気の毒でした。 (中央芝生を埋め尽くした学生達、この後混乱に)
全共闘にも多くのセクトが存在し、 「学費値上げ」がまとめるための共通テーマでした。赤 ・ 青 ・ 黒などヘルメットの色で組織が区別され、後に赤軍という異常集団による過激な行動やセクト間 対立の内ゲバなどが、世間の注目を集めることになりました。 6.全共闘が暴力で入学試験阻止 中 央 芝 生 で の 全 学 集 会 が 失 敗 に 終 わ っ た 後、 多 く の 学 部 が バ リ ケ ー ド 封 鎖 さ れ る こ と に な っ てしまい、 二月七日から予定されていた入学試験の実施が危ぶまれるようになりました。そこで、 体 育 館 を 試 験 場 と し て 利 用 す る こ と で 入 学 試 験 を 実 施 す る ことになり、机や椅子があわただしく設置されました。 前 日 に は、 警 戒 の 中 を か い く ぐ る よ う に、 全 共 闘 が 火 炎 ビ ン で 襲 撃 す る 事 件 が あ り ま し た が、 入 り 口 の ガ ラ ス が 割 れ た 程 度 で、 試 験 実 施 の 大 き な 障 害 に は な り ま せ ん で し た。 入 試 当 日 は、 機 動 隊 導 入 を 阻 止 し よ う と す る 全 共 闘 系 学 生 達 が 体 育 館 前 に 座 り 込 み、 入 試 実 現 を さ せ よ う と す る 良 識 派 の 学 生 が グ ラ ウ ン ド か ら 見 守 る こ と と な り ま し た が、 最 終 的 に は「 機 動 隊 に 守 ら れ た 入 学 試 験 」 と し て 禍 根 を 残 す こ と に な り ま し た。 関 学 受 験 を 希 望 し て 勉 強 し て い た 受 験 生 に と っ て は、 苦 く て 忘 れ ら れ な い 思 い 出 に な っ た こ と だ と思います。 (体育館前に座り込む全共闘系学生と阻止する機動隊)
入学試験の終了後、機動隊に追われて法学部に逃げ込んだ学生全共闘を排除したが、校舎内は 廃墟と化し、鉄パイプや石と灯油缶が山積みにされ、教授室なども破壊の限りで見るも無残な状 況でした。引き続き、封鎖されていた第五別館の解除が、投石・放火・火炎ビン投下などにより 必死で抵抗する全共闘を、機動隊の大変な努力でなされました。封鎖解除のために二日間にわた る攻防は終結しましたが、女学生?を含む全共闘のメンバーは、こうした暴力的経験が人生でど ういう意味を持つのか。投石や火炎瓶で危害を加えたのは、若気の至りでは済まされないのでは ないかと思います。また、籠城はしなかったが暴力闘争に参加した学生の多くは、今は反省して、 普通の生活をしているものと思われます。 7. 「関学革新評議会」の誕生 第五別館が封鎖され、大学紛争が本格化の兆しを見せ始めたことで、関西学院のOBを含め内 外 で 心 配 す る 人 達 も 増 え て 行 き ま し た 。 特 に 、 同 窓 の 方 々 の 心 配 の 声 が 聞 こ え る よ う に な り ま し た 。 そ う し た 中 、 関 西 学 院 中 学 部 時 代 の 恩 師 か ら 電 話 連 絡 が 入 り 、「 大 学 紛 争 解 決 に 尽 力 し て も ら え ないか」 との要請がありました。中学部三年で陸上競技部主将と生徒会の運動総部長を務 め、大学になっても陸上競技を続けていて、大学の体育会に所属していた人脈から、私に連絡が あったのではないかと思います。 中学部の恩師からの要請でもあり、学校あってのクラブ活動であるとも考えていたので、当時 の中学部生徒会役員を中心に組織化を図ろうと、急ぎ連絡の付く人に電話をして招集を掛けまし た。うまく連絡が取れなかったことや、個人的理由などもあって、最終的に、故矢内正一先生の
薫陶を受けていた当時の中学部生徒会副会長の平松一夫君が賛同して、一緒に紛争解決に取り組 むことになりました。 私が、体育会が武力行動に走らないように抑えまとめる、平松君が文書活動と学校側との調整 を行うことで役割を分担し、二人で事務局として組織化を図りました。二人の人脈を通じた同志 集めを進めましたが、平松君の所属する「会計研究会」から、三木康彦君や佐渡照彦君などの優 秀なメンバーに参加してもらえました。また、 体育会からは賛同する同志として、 多くのメンバー が参加してくれました。 そして、私や平松君が組織代表になるわけにはいかないと思い、対外的な代表として、紛争時 は体調不良で練習を休んでいた陸上競技部の同期生大前宏一君に就任を依頼しました。大前宏一 君は、全国インターハイ一〇〇Mの優勝者で、陸上界では著名な人材でもあり、弁も立つことか ら適任だと判断しました。組織名は、大学そのもののイノベーション(革新)も課題となってい たので、少し硬い「関学革新評議会」とし、組織代表の議長として大前宏一君が就任し、本格的 組織活動を開始することになりました。 本 格 的 な 活 動 開 始 と 相 前 後 し て、 一 年 上 の 体 育 会 系 学 生 を 中 心 に 組 織 さ れ た「 ブ ル ー リ ボ ン 」 などとも一緒に、紛争の本格化を心配する関西学院同窓会/専務理事であった小原完三さんの自 宅で会合を数回開き、情勢分析や対応策を検討しました。 「ブルーリボン」はどちらかというと、 武力で紛争を解決しようとする人達が多く、暴力を否定する我々「関学革新評議会」とは、意見 対 立 を す る こ と も あ り ま し た。 上 級 生 を 抑 え る の は 大 変 で、 「 暴 力 で や っ つ け た と し て も、 そ れ は マ ス タ ー ベ ー シ ョ ン( 自 己 満 足 ) に 過 ぎ ず、 本 当 の 解 決 に は な ら な い 」 と 言 う と、 「 お 前 は 民
青か、表に出ろ!」などと、まるで内ゲバのような一触即発の場面も思い出されます。 ま た、 紛 争 拡 大 を 懸 念 さ れ た 先 輩 諸 兄 か ら の 支 援 も 受 け ら れ る よ う に な り、 一 番 あ り が た か っ た の は、 活 動 拠 点 も 無 い こ と を 知 っ た レ ス リ ン グ 部 O B の 薩 摩 卯 三 郎 先 輩 が、 経 営 す る「 う ど ん す き 美 々 卯 」 の「 仁 川 寮 」 を 使 う よ う 取 り 計 ら っ て い た だ き ま し た。 仁 川 駅 か ら 近 く、 学 校 に も 適 当 な 距 離 に あ っ た の で 大 い に 助 か り ま し た。 ま た、 週 に 一 回 程 度 の 頻 度 で、 美 々 卯 で の 仕 入 れ に 合 わ せ て、 我 々 の 食 材 と し て 野 菜 な ど を ト ラ ッ ク で 運 ん で い た だ き ま し た。 布 団 な ど の 寝 具 も 完 備 さ れ て い た の で 本 格 的 な 合 宿 生 活 と な り ま し た。 み ん な で 楽 し く 食 材 を 料 理 す る こ と も あ り、 あ る 意 味 で 楽 し い 学 生 生 活 で も あ っ た よ う に 思 い ま す。 薩 摩 先 輩 の 意 向 を 受 け て、 レ ス リ ン グ 部 員 の 多 く が 参 加、 商 学 部 生 の 多 か っ た 水 泳 部 員 も 参 加 し て く れ ま し た。 そ の 他、 賛 同 す る 他 組 織 や仲間も増えて、学院正常化に取り組むことになりました。 ア メ リ カ ン フ ッ ト ボ ー ル 部 は 、 部 と し て の 参 加 は し な い と 決 議 を し て い た よ う で す が 、 そ の 他 の 部 は 個 人 の 自 由 参 加 が 原 則 で あ っ た よ う で す 。 私 の 所 属 し て い た 陸 上 競 技 部 で は 、 上 級 生 に 全 共 闘 の 武 闘 派 隊 長 の よ う な 先 輩 が い た り 、 そ れ ぞ れ に 考 え を 押 し 付 け る よ う な こ と は せ ず 、 私 は 正 常 化 活 動 に 専 念 す る 旨 を 部 員 に 伝 え 、 キ ャ プ テ ン 代 行 に 部 の 活 動 を 委 託 し ま し た 。 一 般 の 部 員 に は 申 し 訳 な い 気 も あ り ま し た が 、 陸 上 競 技 だ け が 学 生 生 活 で は 無 い と 割 り 切 り ま し た 。 体 育 会 の 中 で も 左 傾 化 す る 学 生 も い た よ う で す が 、 そ ん な に 多 く で は な か っ た よ う に 思 い ま す 。 体 育 会 は 組 織 と し て 動 く こ と は せ ず 、 あ く ま で 有 志 の 活 動 と し て 進 め る こ と を 、 体 育 会 本 部 ( 川 上 本 部 長 、橋 爪 副 本 部 長 ) と 合 意 し 、体 育 会 メ ン バ ー も 含 む 学 院 の 健 全 化 を 願 う 有 志 の 会 と し ま した。 こうした経緯もあり、体育会としての声明文を出しました。 (全文を掲載)
我々、関学体育会は、思想の違いを超越し、ともにスポーツ活動をする組 織である。 この見解に従って、「六項目要求闘争」は、体育会の組織としては、関与す べき問題ではなく、各体育会会員は一学生として主体的に現在の問題に参加 し、各学部自治会に於いて自己の意思を表明する立場をとって来たのである。 しかし、その後一月二十四日の全学集会以来、学院当局の不誠意無策さと 全共闘の独断的行動が紛争の拡大を招き、ついに機動隊導入へ、さらに機動 隊による実力封鎖解除と事態が泥沼化した。そして、二月十五日以来の学院 の一方的臨時休校処置と全共闘による再封鎖となり、大半の学生が学校にも 出て来ず、解決のメドがつかない状態である。 その間、体育会は、学院当局より何ら指示されたこともなく、体育会とし て動員をかけて組織で動いたこともないにもかかわらず、他大学体育会の既 成概念から非常な誤解を招いている。 これは、我々体育会々員の如何とするところである。 そこで、この泥沼化した現状を無視して体育会は有り得ないという見解か ら、二月二十二日の幹部会議で、現在の紛争を再検討し、主体的行動を起こ そうという趣旨の 「関学革新評議会」を幹部会議のメンバーを中心に発足さ せることを決議した。しかし、この「関学革新評議会」は、体育会の付属組 織ではない。 したがって、これは体育会会員を強制するものではなく、できるだけ多く の学生諸君の共通意見反映の場として発足したものである。 すべての学友諸君は、「関学革新評議会」に積極的に参加されることを希望 します。
声 明 文
-体育会幹部会議-こうした決定は、全国の大学で紛争が拡大する中、まったく独自な関西学院らしいものと思わ れます。 当時、全国の大学で規模の大小は別にして大学紛争が蔓延しており、全共闘と体育会学生との 武力衝突も多く見られました。大学側の経理不正が問題となって、全国最大規模の闘争となった のが日本大学で、全国的に名をはせた秋田明大全共闘議長が、日大を含む大学闘争を指揮してい ました。そして、日大紛争を抑え込んで解決の力になったのが日大体育会で、その縁から学校運 営に入り込み、現在も牛耳っているように思われます。アメフト暴行事件で見られた体育会系O Bを中心とした体質と力関係がその頃から続いているのは見事(?)なものです。早稲田大学も、 大学紛争がありましたが、左傾化する学生が少なかったようで、当初から体育会学生が、全共闘 活動が大きくならないように抑えていた感があります。 私を仁川寮まで訪ね、関東から学生を送り込むと申し入れて来たのが、早稲田の右翼学生組織 「 日 本 学 生 同 盟 」 副 委 員 長 で し た。 関 学 体 育 会 は 暴 力 を 否 定、 学 校 側 と の 話 し 合 い で 紛 争 解 決 を 目指していたので、即時お帰りいただきました。平松君も私も中学部時代に故矢内先生の薫陶を 受けていたこともあり、当時作成された文章に関西学院精神が多く盛り込まれており、他大学と は一線を画していました。 8. 「一般学生立ち上がろう運動」を展開 一部の左翼系学生が学校を拠点に革命を目的とした破壊活動を尽くし、一部の右翼系学生が武 力排除をするような構図は、本来の学校のあるべき姿ではなく、大多数の一般学生が立ち上がっ
て行動を起こすべきであると、一般学生も参加して紛争解決を進めるべきと訴える集会を何度も 主催しました。しかし、集会の都度、全共闘の諸君は顔を隠しヘルメットと鉄パイプで武装した 闘争スタイルで集会の邪魔をするようになりました。我々は一切武装することも無く集会に参加 していましたが、全共闘が集会に暴れ込むようになると危険なので、腹に週刊誌と新聞紙をさら しで固定して対応する時もありました。仁川寮を出る際、腹にさらしを巻くなど、ヤクザ映画さ ながらの光景もありましたが、懐かしい思い出です。 また、私が体育会の部室があった業者食堂(現・学生サービスセンター)の二階窓から、全共 闘の動きを見ていた際に、ヘルメット学生と目が合い、彼らが一斉に私に向かって来たので、一 目散に現場から離れた記憶もあります。相手が誰だったか分かりませんが、私が体育会を動かし ている人間と思っていたのでしょう。武力を振るわないように抑えていた人間なのに、勘違いも いいところです。 入学試験は機動隊に守られて何とか無事終了しましたが、入学試験が終わり、機動隊が引き上 げた後は、再び全共闘が学部封鎖や同窓会会館までも封鎖するなど、暴力闘争の状態は変わりま せんでした。 関学革新評議会としては、泥沼化した紛争に少しでも希望を与えたいとの思いから、一般学生 を中心とした集会を開催して、学校改革などの考え方を主張する活動を地道に進めることとしま した。 三月九日、第一回目の「一般学生立ち上がろう」集会を体育館前運動場で開催しました。のぼ りやプラカードを作って集会・デモなどの経験も無く、横幕やプラカードは私が書いたりしまし
たが、全共闘諸君とは全く違う字体で、上品なものでした。この集会に、全共闘が武装スタイル で取り囲み威圧行動を行いましたが、大きな武力衝突とはなりませんでした。 三 月 一 三 日 に、 第 二 回 目 の 集 会 を 同 じ 場 所 で 開 催 し ま し た が、 広 く 社 会 に 訴 え る こ と も 必 要 と考えて、同時進行の形で、大阪駅前で午後四時から「四八時間ハンガーストライキ」を実施し、 学校に出て来ない多くの一般学生に訴えました。ハンガーストライキ実施に当たっては、阪神百 貨店前の芝生の中に毛布を敷いて座り込み、通行の邪魔にならないように配慮することで、大阪 府警の了承をもらいました。四八時間の断食はレスリング部員を中心に行い、ハンスト終了後は、 阪神百貨店の中の「美々卯」で、うどんすきを食べさせることで頑張ってもらいました。芝生に 「一般学生立ち上がろう」 「関学革新評議会」と書いた横幕を立ててビラ配りもしました。うれし かったのは、関西主婦連の比嘉会長を含め数名のお母さんが、趣旨に賛同して一緒に座り込んで くれたことです。警察も見回りに来ましたが、整然と行動していたことと趣旨に賛同してもらっ ていたので、好意的な対応をしてもらえました。当時の新聞にも大きく取り上げられ、お母さん たちからも「関学生らしいね」と高い評価もいただききました。こうしたことも、関学の紛争が 他大学とは大きく違い、現在でも当時のことが懐かしく感じられるのかも知れません。 三月一七日に、第三回目の集会を開催しましたが、集会の中に武装集団が殴り込みをかけて来 たので、素手の我々は対抗することもままならず、ケガ人を出さないようにするのが一番と一目 散に逃げることになってしまいました。素手では何もできない軟弱武装学生から逃げるのは、い い気がしませんでした。 「逃げるが勝ち」とは言えないけれど、非常に残念な思いをしました。 三月二三日は、関学革新評議会と他の正常化を望む有志 ・ 団体と「全関学人正常化総決起大会」
を 開 催、 約 一 五 〇 〇 名 の 学 生・ 教 職 員・ O B が 結 集 し て 熱 心 に 正 常 化 に 向 け た 討 論 が 行 わ れ ま し た。 し か し、 大 学 解 体 を 叫 ぶ 全 共 闘 の 武 装 集 団 が、 投 石 と 鉄 パ イ プ を 振 り か ざ し て 妨 害 し ま した。 素手の参加者は抵抗も出来ず、 投石から逃げるしかなかっ た の が 実 情 で し た。 そ し て、 残 念 な こ と に ハ ン ド ボ ー ル 部 の 一 年 生 が 投 石 に よ り 片 目 を 損 傷 す る と い う 大 事 故 が 発 生 し て し ま い ま し た。 私 は、 集 会 の 責 任 者 と し て 警 察 の 聴 取 を 受 け て い ま したが、平松君達は病院に駆けつけてくれました。 (武装して隊列を組んで威嚇行動をとる全共闘) (残された投げれない大きな石)
また、関学周辺住民の方々に、ヘルメットとタオルで顔を隠し、竹やりで武装した学生達が街 中を走りまわり、 石を投げるなど、 大いなる危険を感じさせ、 ご迷惑を掛けることになってしまっ たことは、誠に申し訳ないことでした。 投石した学生は覚えているのだろうか? どうしているのか?私は主催者の一人として、本当 に残念な思いでした。 関学を卒業後に、失明した川上君がハンドボールを続けて、関西ハンドボールの選抜選手に選 ばれたと聞いたときは、本当に救われた気持ちでした。よく頑張ったと思います。 バ リ ケ ー ド 封 鎖 さ れ た 校 舎 や 建 物 に は「 暴 力 革 命 」 や「 安 保 粉 砕 」 な ど の 落 書 き が 多 く、 「 学 費値上げ反対」 や学校改革要求などは、 実質的に関係なかったのです。こうした全共闘運動に関っ た普通の学生が、投石などの破壊行為をしたことは、紛争なので仕方がないでは済まされないこ と だ と 思 い ま す。 全 共 闘 リ ー ダ ー は 革 命 思 想 を 持 ち、 「 暴 力 革 命 」 を 標 榜 し て い た の で、 自 分 の 思想を実現するための活動ですが、彼らのアジ演説に付いていった普通の学生にとって、大学紛 争とは何だったのか?流れに任されて善悪の判断がつかなくなっていたのか? 法学部のバリケード封鎖を解除後、教授室などの破壊状況がひどかったので、商学部は破壊さ れないようにすべきと、無防備で単身バリケードに入り、当時の浜根反帝学評委員長に、一切教 授室を破壊しないよう厳重勧告したこともあり、封鎖解除時は全く手付かず状態でした。 こうした「学院正常化に向けた集会」と同時に、学生や教職員向けの文書活動も実施していま した。当時の提言文やチラシ類も多く残っていますが、その多くが平松君の手によるもので、チ ラシは手書きの輪転機刷りがほとんどで、 平松君の苦労は大変なものでした。 そうしたものに、 「一
般 学 生 立 ち 上 が れ!」 と 同 時 に、 「 教 授 会 信 念 を 持 て!」 な ど、 学 校 側 に 対 す る 訴 え も し て い ました。OBからの支援やカンパを中心に活動し、OBの方々の母校を愛する気持ちが我々の活 動の原点であったかと思います。 学校のあるべき姿にも触れ、開かれた大学として民主化を求める提言もしていました。学校側 も、紛争解決に向けて、良識的な学生の意見も聞きたいとのことで、当時の小寺学長と平松君と 私の三者会談も実施しましたが、学校運営の改革など学校側の前向きな取り組みを要請しました。 保存されている当時の作成文書の見出しを抽出しましたが、我々の取り組みの基本姿勢が良く分 かってもらえるかと思います。 関学革新協議会は、準備段階で多くの同志を集めて、正式には二月二三日に発足させることに な り、 そ れ 以 降 は、 集 会 で の 配 布 用 も 含 め て 多 く の 資 料 を 作 成 す る こ と に な り ま し た。 ( 以 下 に 記載) 〇3/5 一般学生立ち上がろう !! 関学革新評議会よりアピール 〇3/8 教授会へ訴える! 関学革新評議会 〇3/ 13 立て!一般学生 ―崩壊寸前の関学の中で私たちは― 〇3/ 13 全関学人 一般学生の皆様に 関学革新評議会、学園民主化委員会 〇3/ 13 一般学生立ち上がろう !! 大学紛争に愛校心と理性の声を結集させよ 〇3/ 23 全ての関学人 ―3・ 23全関学人決起集会― 関学革新評議会よりアピール 〇3/ 23 五項目提案 ―3・ 23全関学人決起集会― 〇3/ 27 声明文 3・ 23集会を振り返って 関学革新評議会
〇3/ 27 全教職員に訴える 教授会への要望 関学革新評議会 〇3/ 27 意味ある正常化のために 関学革新評議会 ※ 3 / 29 希 望 に 満 ち た 学 院 建 設 の た め に ― 私 達 の 考 え を こ こ に 述 べ る ― 関 学 革 新 評 議 会 〇4/ 16 関学再建のためにご理解とご支援を! 関学を愛し関学を守る 関学革新評議会 〇4/ 17 紛争の解決と意味ある正常化を 関学革新評議会 〇4/ 26 関学の現状を憂うる皆様へ 関学を愛する会、関学革新評議会 〇 4 / 26 全 共 闘 の 暴 走 を 許 す な! 一 般 学 生 立 ち 上 が れ! 教 授 会 信 念 を 持 て! 関 学 革 新 評議会 〇4/ 30 関学革新評議会 活動報告 (平松君の概要報告) 〇5/3 ―紛争の解決と意味ある正常化を― 関学紛争の経過 関学革新評議会 〇 5 / 8 ― 紛 争 の 解 決 に フ レ ッ シ ュ マ ン の 力 を 関 学 革 新 評 議 会 ( 文 学 部 オ リ エ ン テ ー シ ョ ン) 〇 5 / 20 「 F R E S H M A N 関 学 生 の 諸 君 へ 」( 小 冊 子) 関学革新評議会、法学部自主連合 〇 6 / 1 「 光 輝 く 前 進 の た め に 」( 小 冊 子 ) 学 院 を 愛し学院を守る 関学革新評議会 〇6/1 全 学 集 会 に 積 極 的 参 加 を ! 関 学 革 新 評 議 会
※ 学 生 向 け の 提 言 を 作 成、 全 学 生 約 一 二、 〇 〇 〇 名 に 郵 送 し ま し た が、 郵 送 の 封 筒 書 き は、 体 育 会 各 部 に 封 筒 書 き 要 員 の 派 遣 協 力 を 要 請、 各 部 か ら 数 名 が 指 定 時 間 に 仁 川 寮 に 集 ま っ て く れ、 不 慣 れ な 宛 名 書 き を し て く れ ま し た。 全 国 の 大 学 で も、 紛 争 解 決 に 向 け た 体 育 会 系 学 生 の こ う し た 献 身 的 行 動 は、 他 大 学 で は 見 ら れ な か っ た か と 思 い ま す。 そ し て、 大 阪 駅 前 で の 四 八 時 間 ハ ン ガ ー ス ト ラ イ キ に よ る、 多 く の 一 般 学 生 に 対 す る 呼 び か け な ど 徹 底 し た 非 暴 力 活 動 は、OB諸兄からの評価も良く、関西学院精神を発揮した活動を最後まで継続しました。 9.正常化に向けた動き 三月二三日の集会で、 全共闘の投石によりハンドボール部一年生の川上君が失明するという大 惨 事 が 起 き、 治 療 費 支 援 資 金 を 集 め る た め 写 真 集『 苦 悩! ― 関 学 紛 争 の 報 告 ―』 を 発 刊 し、 各 地の同窓会に出かけてOBの方々のカンパを集める努力もしました。 主に平松君と三木君が実施 し ま し た が、 学 校 を 愛 す る 気 持 ち は、 先 生 た ち と 比 較 できないくらいの思いがあるとの報告もありました。 全 共 闘 に 付 い て い た 普 通 の 学 生 達 も、 彼 ら の 暴 力 行 為 に は 賛 同 で き な い こ と も あ り、 徐 々 に 人 数 が 減 っ て い っ た よ う で し た。 関 学 革 新 評 議 会 と し て の 集 会 開 催 に 限 度 が あ り、 学 校 側 が 前 面 に 出 て 正 常 化 に 取 り 組 む よ う に 要 請 し ま し た。 大 学 側 も、 小 寺 学 長 を 中 心 に 大 学 改 革 に 取 り 組 み だ し、 「 廃 校 か 否 か 」 と の ア ン ケ ー
ト を、 全 学 生・ 職 員 に 対 し 発 送 し、 大 学 改 革 に 向 け て 何 よ り も 一 般 学 生 の 意 見 を 聞 く こ と か ら 始めるということで、学校側に対する平松君の根回しなどの成果ではないかと思います。 五 月 に、 扇 町 プ ー ル で の 全 学 集 会 を 企 画 し ま し た が、 全 共 闘 に 阻 止 さ れ 実 施 に は 至 り ま せ ん で し た。 し か し、 こ の こ ろ か ら 学 生 は も ち ろ ん 教 職 員 に も 正 常 化 に 臨 む 思 い と 行 動 が 本 格 的 に なりました。 六 月 九 日、 王 子 公 園 陸 上 競 技 場 で 改 革 結 集 集 会 の 開 催 が 決 定、 大 多 数 の 学 生 や 教 職 員 が 参 加 し て 開 催 さ れ ま し た が、 全 共 闘 の 乱 入 に よ り 一 時 妨 害 行 為 が あ っ た よ う で す が、 ス タ ン ド を 埋 め 尽 く し て い た 一 万 名 近 い 学 生 に よ る 包 囲 で 退 去 せ ざ る を 得 な か っ た よ う で す。 集 会 は、 全 共 闘 の 退 去 後 に 全 学 集 会 として無事開催されました。 大 学 側 の 改 革 に 取 り 組 む 提 案 も 拍 手 で 確 認 さ れ、 校 歌 斉 唱 の う ち に 改 革 結 集 集 会 が 終 わ り、 紛 争 終 結 の め ど が 立 つ ことになりました。 し か し、 残 念 な こ と に 六 月 九 日 に 開 催 さ れ た 全 学 集 会 に、 私 が 参 加 出 来 な か っ た こ と が 心 残 り で す。 同 じ 六 月 九 日 に、 無 試 験 で 入 社 を 誘 わ れ て い た 住 友 金 属 工 業 ㈱( 当 時、 現 日 本 製 鉄 ㈱ ) の 社 長 面 接 が あ り、 当 時 の 日 向 方 斎 社 長 と の 面 接 に お い て、 同 日 神 戸 で 大 学 紛 争 の 終 結 に 向 け た 全 学 集 会 が 開 催 さ れ て い て、 参 加 し た か っ た が 面 接 の た め 参 加 出 来 (挨拶する小寺学長とスタンドを埋める学生達)
ないことの無念さを申し上げた。その後、社長と二人で学園紛争や学校の在り方などについて話 が弾み、集団面接で一緒に参加していた他の学生は、ほとんど話が出来ずに集団面接終了時間が 来てしまいました。 入社して四年後に、 京都で開催された鋼管特約店全国総会でお会いした際、 『木 村君、元気でやっているかね』と、名前を呼んで声を掛けていただいた時は大感激でした。入社 前の面接における対応が印象深かったのでしょう。 神戸の改革結集集会で、上ケ原キャンパスの回復と大学の正常化の決意が表明され、正常化に 向けた決議がなされたことで、正常化に向けた手立てが着々と進みました。まず、キャンパスの 解放を進めるため学長命で占拠学生に対し退去命令が出されました。 六 月 一 三 日 早 朝 か ら 機 動 隊 に よ り、 大 き な バ リ ケ ー ド 封 鎖 が 解 除 さ れ、 正 門 や そ の 他 封 鎖 さ れていた門は解放され、キャンパスへの全面的な復帰がなされました。学内の校舎は荒れ放題で、 机 や 椅 子 が 散 乱 し、 校 舎 は 落 書 き だ ら け で、 「 革 命 」 や「 死 守 」 な ど、 彼 ら の 本 音 が 書 き な ぐ ら れていました。キャンパスの回復に向けた活動には、我々も含め多くの学生が参加し、それぞれ の学部の封鎖解除や清掃に汗を流すことになりましたが、六月の新緑の中、心地よい汗だったと 思います。学校周辺地域の方たちも、回復されるキャンバスを眺め、少し安心した雰囲気でした。 関西学院の美しい校舎にバリケードや落書きは全く不似合いでした。関学革新評議会メンバーも 積極的に学内の整理に参加、当時の図書館の時計台正面の落書きは、時計裏の部屋から外に出て 屋根に上り、ふき取り作業を実施しました。 翌一四日は、中央芝生でキャンパス解放集会が開かれ、約五〇〇〇名の学生が参加し、久し振 り の キ ャ ン パ ス を 懐 か し む と 同 時 に、 各 学 部 の 清 掃 作 業 が、 教 職 員 も 一 緒 に 進 め ら れ ま し た が、
学院のシンボルであったヒマラヤ杉が無残にも切り倒されていました。当日、学校改革の方針を 説明した小寺学長から、新しいヒマラヤ杉を植えるとの提案もなされました。翌一五日も、日曜 日を返上して清掃作業を行い、校内でミニ集会が開かれて、キャンパスには讃美歌が流され、関 西学院らしさが取り戻され、一応終結をみる形となり、やっと新生関西学院のスタートを切るこ とが出来ました。 しかし、全てがスムーズに行ったわけではなく、その後も全共闘の残党たちが、校内に入り込 みトラブルとなったことで、機動隊が排除するようなこともありました。その後も授業妨害や一 部校舎の封鎖をするなど、 全共闘は小規模な活動を継続していました。我々の活動も、 写真集「苦 悩!」販売によるカンパ活動が残っていましたが、ほぼ後片づけに入っていました。 そ う し た 中、 七 月 一 一 日 に、 封 鎖 と 教 授 軟 禁 つ る し 上 げ と い う 出 来 事 が 起 き ま し た。 関 学 革 新 評 議 会 は、 「 左 翼 暴 力 団 !! 城 崎 学 長 代 行 代 理 を 軟 禁 し て つ る し 上 げ る! 左 翼 の 横 暴 を 許 す な !!」というビラを配布しましたが、これが最後のビラになったようです。 また、七月一八日、敬愛する故矢内正一先生が、関西学院の理事長に就任されるなど、正常化 に向けた活動は着実に進められて行きました。 10.大学紛争の個人的影響と終焉 陸上競技者にとって、重要な冬季練習がほとんど出来なかったため、四年生の最終シーズンは 散々な成績でスタートすることになりました。例年は楽勝だった兵庫県大学選手権も、ギリギリ の 勝 利 と な り、 議 長 で あ っ た 大 前 宏 一 君 も、 「 ノ レ ン を 守 っ た 議 長 」 の 見 出 し で、 地 元 新 聞 に と
りあげられました。 私は、前年度は大会新記録で優勝した関西学生選手権四〇〇Mで、新聞予想に反して予選落ち するなど、見るも無残な成績でした。学校あってのクラブ活動とは言え、無残な成績のまま終わ るわけにはいかないと思い、本来は冬季に実施する体力強化練習を夏休みに行い、秋のシーズン に備えました。努力のかいもあって、前年の記録まで戻すことが出来、関西実業団対学生大会で 優勝したことで、太平洋沿岸五ケ国大阪大会の日本代表にも選ばれ、黒人選手に勝つことも出来 ました。紛争が無かったらもっといい成績を残せたかも知れませんが、陸上競技では体験できな い学生生活を送れたことは大きな糧になりました。 一〇年間お世話になった関西学院で、故矢内正一先生の教えを少しでも実現出来たことは、社 会 人 と な っ て 以 降 も、 自 信 を 持 っ て 語 れ る こ と と 思 っ て い ま す。 「 汝 の 運 命 の 星 は、 汝 の 胸 中 に あり」との教えは、最後まであきらめずに努力することの大切さを、スポーツの中で体験学習し たように思います。 11.本当の大学紛争の終焉 一九七〇年四月に住友金属工業㈱に入社し、約三年間の和歌山製鉄所での実習と現場勤務を終 えた後、一九七三年八月に淀屋橋の大阪本社に転勤して間もない頃、神戸地方検察局からの電話 がありました。電話を取った補助者が怪訝そうな顔をする中、何の用かと尋ねると、関西学院の 大学紛争の際に、関学革新評議会主催のデモで負傷者を出した事件の裁判があり、デモの申請者 となっていた私に、検察側の証人として証言してもらいたいとの要請でした。実質的に四年以上
前の出来事での呼び出しにびっくりしました。とりあえず、上司に事情を説明し、了承を得て裁 判に出ることを了解しました。 指定された日時に、神戸地方裁判所に行きましたが、控室の前で、被告となっている全共闘の 武闘隊長のような立場であった「K」氏とばったり出くわしました。紛争時は対立関係にありま し た が、 時 間 の 経 過 で そ う し た こ と は あ ま り 気 に な ら ず、 「 裁 判 後 の 生 活 は ど う す る の か 」 と 聞 くと、 「裁判が終わったら故郷に帰って結婚する予定」とのことでした。 裁判では、デモ当日の状況やその間に居た場所などの質問がありましたが、当時のロッキード 裁判で「記憶にございません」という言葉が出ていましたが、私も全く同じような状況で、混乱 する中での記憶も定かでなく「記憶にありません」と答えることが多かったように思います。裁 判の最後に、 「彼は裁判が終われば結婚するらしいので、裁判を早く終わってやって下さい。 」と 裁 判 長 に 要 請 し た ら、 「 そ れ は 私 が 決 め る こ と で す 」 と 一 蹴 さ れ た の を 覚 え て い ま す。 そ の 後、 裁判の結果がどうなったかは、 残念ながら聞いていないのが心残りです。 「K」 氏がその後どうなっ たかもわかりません。ただ、投獄された全共闘学生を支えていた組織があるようで、いまだに同 志が集まる機会を持っているとの情報がありました。 我々は、学生時代の熱い思い出として残っているだけで、風化してしまうのは仕方の無いもの か…。 この裁判が、私の中では関西学院における大学紛争の終焉かと思っています。 以上
関西学院における大学紛争の歴史を、当時の資料や新聞記事を参考に整理してみました。 五〇年以上前の短い期間の出来事ですが、 本当にいろいろあったように思われます。時系列的 に私の勘違いがあるかも知れません。また、 参加した同志の個人名については。多くのメンバー が出入りしていたので、 書き漏れがあれば失礼になるので最小限に留めました。若き頃の多くの 同志諸君、ご容赦下さい。 最 後 に、 平 松 一 夫 君 が、 本 年 度 か ら 関 西 学 院 理 事 長 に 就 任 し ま し た。 体 調 が 思 わ し く な い 中、 関西学院の発展を最優先するという思いが強いようで、 健康に留意して頑張っていただきたいも のです。出来る限りの応援はしたいと思います。 大 学 紛 争 か ら 半 世 紀 を 経 て、 関 西 学 院 の 正 常 化 を 目 指 し て 当 時 み ん な で 議 論 し た、 学 生 も 参 加 す る 開 か れ た 大 学 な ど、 未 来 に 夢 の あ る 関 西 学 院 に し て く れ る こ と を、 大 いに期待し、私の筆を置くことにします。 (二〇一九 ・ 七 ・ 一 七二歳の誕生日) 注 記 : 写 真 は、 関 学 革 新 評 議 会 発 行 の 写 真 集 「 苦 悩 」 を、 筆 者 が 撮 影 し て 掲 載 し て い ます。鮮明度が悪いのはご容赦下さい。 (2013年関学高等部同窓会にて)