戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点とその実態に関するスケッチ 利用統計を見る
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(2) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻 P75∼83. 戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点と その実態に関するスケッチ Some Problems and Situation Concerning English Teacher Training System in Secondary School Education before the World War Ⅱ 古 家 貴 雄 Takao FURUYA 1.はじめに この数年に亘り,戦前の中等教育における英語の教員養成の状況について研究を行ってきた。この 研究の問題意識としては,次のようなことがあった。現代に至っても尚,日本の中等学校の英語教員 が教員免許資格を得るために要求される単位は,英語学や英文学など,または英語コミュニケーショ ンなど,教科の内容に関わるものが多数を占めており,教授や指導技術に関するもの,例えば英語科 教育学関係の知見に関する科目の数は少ないという現状があり,こうした教師像でいうとリベラリズ ム優勢,プロフェッショナリズム劣勢の傾向が戦前からどのような教員養成システムの過程や教師に 関する在り方や考え方によって形成されてきたのかということである。本稿では,この問題意識を原 点として現れてきた研究上の問題点について挙げ,研究によって明らかになったことを遡上に,戦前 の中等学校の英語教員養成について総合的に考えてみたい。最後に研究上の今後の課題についても述 べてみたい。 ではまず,戦前の中等教育における英語の教員養成について,研究の原点となった諸問題について いくつか提示する。それは次の12個の問題であった。 ①戦前の中等学校の英語教員がどのような制度と資格要件によって養成されてきたのか(これは英 語教員,というより中等学校全体の養成システムに関わる),②戦前の中等学校の英語教員はどういう 教員養成機関で育成され,その教員養成機関ではどのような教師が養成され,またどのような学校教 育機関(主に中学校だが)に輩出されていったのか,③戦前の中等学校の英語教員の資質や気質や配 属学校が養成教育機関によって異なっていたのか,あるいはどのように異なっていたのか。また当時 の中等学校の教員すべてにおいて,養成機関の輩出率はどのように異なっていたのか(これにはおそ らく留学帰りの無資格者の者も含まれるであろう),④戦前当時の中等学校の英語教師全体の問題とは どのようなところにあったのか,⑤戦前の中等学校の英語教員における専門的力量はどのように形成 され,またどのような力量が重要視されていたのか(教員養成機関全体の傾向と機関別の傾向のそれ ぞれについて),⑥その中でも特に,教授技術についての力はどのように養成されていたのか。ここで いう教授技術とは,教授法の授業と教育実習の実施とを意味する,⑦高等師範学校における教授法と 教育実習の状況はどのようであったか,⑧高等師範学校以外における教員養成機関においては,教授 法や教育実習は教育課程上まったく存在しなかったのか,⑨東京・広島両高等師範学校で養成された 卒業生はどのような教授技術の力量を付けて輩出され,どのように戦前・戦後の日本の中等学校に影 響を与えたのか,⑩東京高等師範学校附属中学校はどのような特徴を持った学校であったのか,⑪東京・ 広島両高等師範学校の英語スタッフと英語研究会は戦前の日本の英語教育界にどのような影響力を持 つに至ったのか,⑫戦前の中等学校の教員養成はプロフェッショナリズムとリベラリズムの教師像の. ─ 75 ─.
(3) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. どちらが,各教員養成機関において主流を成していたのか。特に英語教員においては,どれが主流で, 望ましい教師像としてどのようなものが戦前に確立され,また変遷してきたのか,等である。 これから以上の12個の問題についてそれぞれ,明らかになったことについて論じてみたい。 2.戦前の中等学校の教員資格・要件と中等教員養成機関における教員供給率 戦前においては,明治時代の初期からいくつかの法律によって中等学校の教員になるための資格や要 件が整えられていくが,基本的には文部省(政府)より免許状が与えられることによって教員として 認められた。つまり,基本的に1884年以来,免許状主義を採った。1884年に「中学校師範学校教員免 許規定」が制定され,そこから文部省検定試験が法制化された。また,1900年の「教員免許令」第2 条の「特別の規程ある場合を除くの外教員免許状に依り免許状を有する者にあらざれば教員たること を得ず」によって免許状主義が完成されたと言って良い。ここでは高等師範学校などの目的学校にお いては全課程を終了することで教員免許状が与えられた他,あとは文部省主催の検定試験,すなわち 文検によって免許状が与えられた。また,1907年に「師範学校中学校高等女学校教員検定試験」とい う規定が発布され, 「同規程によれば,教員検定は試験検定と無試験検定とに分ち,受験者の学力,性行, 身体に就きこれを行い,試験検定は毎年づくなくとも一回,無試験検定は随時之を行うものとし,検定 を為すべき学科目中,外国語は英語,独語,仏語,シナ語の四部に分つものとした」 (桜井,1935) 。と いうわけで,ここに至って教員検定が試験検定と無試験検定とに分けられ, 国公立の大学や専門学校(指 定学校),それと私立大学,専門学校(許可学校)において中等学校の教員免許の取得が認められるよ うになった。ただし,許可学校が認可されるためには文部省による厳しい条件が課せられ監査もあった。 当時,東洋大学などは条件が厳しすぎて,一度許可学校として認可されたものを辞退したケースもあっ た(哲学事件)。 次に,英語だけでなく,全体的な戦前の中等学校の教員の養成機関の種類とそれぞれの教員供給率(輩 出率)については,まず,養成機関の種類としては次の3つがあった。それは, ①目的学校 (高等師範学校, 臨時教員養成所)で,国家によって設置・管理され、無試験によって教員資格が授与された,②帝国 大学,私立大学,公立・私立専門学校(私立大学の高等師範部はこれに属す)などの高等教育機関(無 試験検定によって教員資格が授与された),③国家による試験検定によって教員資格を取得したもの(取 得率10%ほど。難関)であった。また,以上の3つを含む教員の供給機関とその割合は以下の表の如 くである(桜井,1935:28)。 表1 機関別教員輩出の数と割合(%) (昭和4年調べ) 高等師範学校 教員養成所 大学卒業者 その他の無資格検定 検定試験合格者 無資格者 目的学校 無試験検定 検定試験 無資格. 師範学校 963 243 372 478. 中学校 1643 972 2252 3903 . 高等女学校 2205 1141 1188 5139. 453 269. 2627 2289 . 2346 2805. 7163 13332 5426 5363. 22. 9% 42. 6% 17. 3% 17. 1%. ─ 76 ─.
(4) 戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点とその実態に関するスケッチ. (古家貴雄). この表を見る限り,無試験検定による中等学校への教員供給の割合が最も多かったことが分かる。 特に私立大学や専門学校の供給率がある時期から急に高くなった。その理由として「日清戦争後急速 に拡大をはじめた中学校および1900年段階から府県立の設置速度を早めた高等女学校の急増があった」 (寺崎, 1983:350)ためと言われている。また昭和初期には結構,教員の免許無資格者がいた。この中に は英語教員が多く含まれていたであろうことは容易に想像がつく。英語の力量だけで採用された者が 多かったであろうと思われるからである。 3.戦前の中等学校の教師の資質・気質と英語教師の問題点 戦前の中等学校の教員の養成機関別の資質や気質,そして養成機関別輩出率について,英語教員に ついては,まだはっきりしたことが明らかになっていない。ただし,教員全体,あるいは他教科では, 明らかにしている研究も存在する。その例をいくつか挙げたい。 まずは,教員の養成機関別の気質について,高等師範学校出身の教師像,また,文部省による教員免 許授受の許可学校である私立大学の附属高等師範学校の教師像についての研究がある。それによると例 えば,高等師範学校出身の教師像として,山田(2002)は,人間的魅力に欠け,強い学閥主義,権威 主義で,偏狭で,キャリア特性として保守的攻撃性という教師像があった,と述べている。それに対し, 太田(2006)は早稲田大学高等師範部出身の教師像として,「高師出身者たちが望むとされる地位達成 を忌み嫌い, 「自主独立」 「自由」の精神を持った教師像が描かれている」 (太田,2006:181)と述べてい る。なお,太田は,昭和5年時,早稲田の高等師範部の卒業生の配属学校は,高等女学校と実業学校 とで43%,一方,高等師範学校の配属学校は女学校と実業学校とで23%。高等師範学校の卒業者は師 範学校と中学校で77%の配属を占めていた,としている。因みに,青山学院の高等師範学校については, 英語の教員供給が多かった。 次に,他教科の各教員養成機関別教員輩出率についての研究では,明治期から昭和にかけての理科 において,師範学校教員は,第一ルートである高等師範学校の出身者が多く,中学校は第二のルート である大学卒業者の占める割合が高い。高等女学校については,師範学校や中学校のような顕著な割 合の違いはない(磯崎,1999:5-6)。なお,谷口(1988)は,(大学進学の準備期間として)中学校の教 科内容がアカデミックなものが重視されていたため,リベラリズムの学問内容の大学生の教員採用が 多かったのではないか,としている。次に,全中学校1418校2771人の教師の内訳を昭和10年現在で述 べた数学については,文理大29名,高等師範学校・女子高等師範学校737名,帝国大学301名,臨時教 員養成所591名,物理学校375名,検定試験421名,その他421名(国枝,1935)となっていて,この数 字から見ると高等師範学校出身者の占有率が大きいことが分かる。さらに,手工科について明治19年 から昭和16年に掛けて中等学校の教員となった916名の中での数は,高等師範学校(理化学科・図画手 工科)288名,東京美術学校605名,臨時教員養成所23名(疋田,2004)であった。これによれば,手 工科の場合は公立の専門学校の占有率が高く,また,目的学校も重要な位置を占めていたことが分かる。 以上のように,教科によって養成機関別教員輩出率は異なることが分かる。英語については,私公 立の大学卒業者の数が多く,また,他の教科に比べて無資格者の数も多いような気がする。 そして,戦前当時の中等学校の英語教師全体の問題点については,数ある文献の中から主なものを 2つ取り上げるとすると,まずは明治42(1909)年4月発刊の『英語教育』2巻3号の菊池大麓の英 文記事(Some remarks about middle school teachers)があり,それによると,その当時,中学校の成果が. 上がらないこと,それには教師の責任もある。熱心さがうすれていく傾向がある。もっと自ら研修せ ねばならぬ。良く教えるものは良く学ぶ人である。教育家として自覚し意識を高めることが必要である, と説いている。. ─ 77 ─.
(5) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. もう1つは,やはり同じ号の記事より長岡拡による「中学英語教授改良私見」があり,それによると, 新教授法の効果のあがらぬのは教授法が悪いのではなく教師の責任であり,初学年はオーラルを主と すべきであるとしている。また長岡は,教師の資格能力を向上させるために主任教師の監督指導,夏 季講習会,教師の海外派遣などを提案している。この記事を読む限り,長岡は当時として,かなり先 駆的教員だったのではないか。中等学校では当時,文部省の作った日本語での教科書が出版されたば かりで,正則的な授業を行っていた教師は少なかったと思われる。正則的な授業とは基本的に日本語 は介入せず英語で行う授業のことである。 4.戦前の中等学校の英語教員の専門的力量形成のための教育課程 戦前の中等学校の教員養成機関の英語教員の状況に興味を持った原点は,最初に述べたように,英 語教員の専門的力量を2つに,つまり英語の教科内容に関わる力量,具体的には英語の運用能力,英 米文学に関する能力,文法などの英語の語学に関する能力と英語の授業や指導技術に関わる英語教授 法などの実践的力量に分けた場合,後者の実践的な専門的力量が戦前の養成機関でどのように育成さ れていたのかを探ることであった。その問いに関する答えとして,養成カリキュラムにおいては,帝 大英文科,私立大高等師範部などは,英文学や英語学などを中心としたアカデミックな教科内容が中 心であり,教授法と実習はカリキュラムとして用意されていなかった。よって,これら,中等教育の 養成機関の指定学校や許可学校においては,主に英語の教科内容に関する科目だけを履修することで 英語の教員免許が与えられていたことになる。ただし,文部省の検定試験に関しては二次の口頭試問 で,英語教授方法,文法指導について試験官より質問され,それに対して説明を施すということがあっ たようである(茂住,2009)。また,教授法と実習の授業が基本的にはなかった帝大に関しても,昭和 19年に東京帝大において市河三喜によって英語教授法の講義があったことが『英語青年』に載っている。 ただし,市河は英語学の教員である。よって教授法というよりも英語学に近い内容であったのではない か。その他,私立の大学の高等師範部について教授法や実習がなかったのか疑問の点がある。通説では, 高等師範学校以外,基本的に教授法の授業と実習はなかったとされている。 一方,教員養成の目的学校であった高等師範学校には,教授法の授業と教育実習があった。ただし, これら教授技術の力量を養成する科目だけでなく,同様に英語の教科内容に関わる英文学や英語学な どのアカデミックな教科もかなり充実していた。それは帝大に匹敵する程であった。その証明として, 戦後にはなるが昭和23年度入学生1年次の時間割をここで示すことにする(福原,1978:291)。 表2 東京高等師範学校第三部英語部の昭和23年度の1学年の1週間の時間割 時限 月 火 水 木 金 土. 1. 2. 時限 月 火 水 木 金 土. 5 聖書. 6 教育史. 英米事情 体育 ドイツ語 授業はなし. 英文購読 体育 ドイツ語. 自然科学 英文購読 英文購読 英文購読 英文購読. 3 オーラル 心理学 英文学史 英文購読 英文購読 7 社会学. 4 実用英語 英作文 カリキュラム 英文購読 英文購読 8 自然科学. ─ 78 ─.
(6) 戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点とその実態に関するスケッチ. (古家貴雄). なお,ここで挙げられている英文講読のテキストは, 「オセロ」 , 「デイビッドコッパーズフィールド」 , 「ジキル博士とハイド氏」, 「高慢と偏見」, 「リリカルボラッド」などである。 しかしながら,私立大学の高等師範部(青山,日大,早稲田)と東京高等師範学校の英語関係学科 カリキュラム構成を比較した大田(2010)の研究によると,全教育課程において倫理・修身関係の授 業が最も多かったのは青山学院であり,全授業の約1割を占めていたという。青山では基督教倫理の占 める時間が大きかった。さらに,教育学・心理学の科目群では東京高等師範の割合が最も高く1割を超 えていた。一方で教科の英語については,日大,早稲田は6割超えで東京高等師範は50%程度であった。 外国語・人文/社会/自然の教養科目については私大高騰師範部が25%ほどで,高等師範学校は30% を超えていた。太田の研究を見る限り,やはり,一方で帝大並みの英語に関する専門科目の開講を誇っ ていたとしても,高等師範学校は教育関係の科目にかなりウエイトを置いていたことが分かる。 繰り返しになるが,教授技術の教科がカリキュラム上用意されていたのは,高等師範学校のみであっ たが,それらの教授法や教育実習の授業は,最終学年に配当されていた。例えば,昭和14年度版の『東 京文理科大学・東京高等師範学校一覧』によると,文科第三部(英語部)においては,第四学年で教 授法が週2時間配当され,教育実習(授業練習)は第三学期,31.5時間すべてに配当されている。 それでは次に,高等師範学校における教授法と教育実習の状況について述べる。まず,教授法につ いては,東京高等師範学校については,附属中の主任教諭が師範学校に1ヶ月余り,教授法の種類を 説明しにやって来たことがわかっている。また外国人教師(Hornby)が昭和戦前後期に模擬授業を生 徒に行わせる演習をやっていたらしい。あるいはまた,広島高等師範学校では昭和中期から当校教授 の定宗数松が「英語教育史」の授業を学生に行っていたという記録が残っている。なお松村(1981)は, この授業は昭和9年から開始されたのではとしている 次に教育実習については,文字通り,英語教師としての実践力,授業力のほとんどがこの教育実習 において養われたと考えられる。特に東京高等師範学校附属中学校の実習は大変組織的で,また英語 は岡倉由三郎の方針で,中学校では口頭教授法(オーラルメソッド(新教授法) )が行われていた。よっ て,実習生は英語で授業を行わないとならなかった。 なお,組織的な教育実習という点では,広島高等師範学校の教育演習はまさにそれで(廣島高等師範 學校附属中學校,1930:164),以下のような多様なプログラムが構想されていた。①主事講話で,これ は学校の施設概要の説明,実習の心得の説明が中心であった,②講話で,各教科の施設教授の方針主義 及び実際についての説明がされた,③模範授業,④普通授業,⑤合同批判授業,⑥他学科参観等である。 また,広島高等師範学校の教育実習の目的は,「真に中学校の課程を知悉し,自己の学習せる所を実地 に活用する機会を得て自己の研究の精査を自覚」 (同:162)することであった。ここには見習い修業的 実習像はなく,研究的視点を重視する実習の位置づけになっていることが分かる。また,単に実習が 授業訓練の位置づけではなく,中等学校における教員としてのすべての仕事を包括した訓練内容になっ ていたことが分かる。 5.高等師範学校附属中学校の本校(高等師範学校)の英語教員養成への影響 戦前の中等学校の教員養成機関における英語教員の教授技術などの実践的な力量形成の実態把握を 考えた場合,先から述べているように,目的学校である高等師範学校への言及を避けることはできな い。教授法や教育実習がカリキュラム構成の中に存在していたのはこの学校のみであったからである。 さらに,教授法と教育実習に関して特に重要な役割を果たす存在としては,高等師範学校本校という よりはその附属中学校が重要な役割を果たした。その理由として,特に東京高等師範学校においては, 教授法の授業を附属中学校の教員が担当していたことや教育実習においては,オーラル中心の授業を. ─ 79 ─.
(7) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 行うことが実習生に求められており,彼らの実践的な力量形成に重要な役割を果たしていたからであ る。そこで,まず,高等師範学校の附属中学校についてその特徴その他に言及してみたい。 最初に,東京高等師範学校附属中学校の基本的情報について記す。昭和10年(1935年)10月に発刊 された『英語の研究と教授』4巻7号によると,この学校の所在地は東京都文京区大塚であり,創立 は明治21年9月で,当時英語科教員は,専任教員5名,非常勤1名。外国人教師1名が在籍した。学級数 は15学級で,平均授業受け持ち時間は1週間当たり17時間半であった。教授方針として,「本校では了 解発表二方面の力が母国語の場合に準ずるような相当の比例を保って養われることを主眼とする。従っ て,視覚による方面の学習のみならず,出来得る限り多くの英語を聴き,また話す機会を生徒に与え るように努める。読本を以って英語教授の中心とし,解釈,文法,作文等の各分科が相互に連絡を保ち, 相助けて進むように努める」 (英語教育研究会(編) ,1935:253) ,とのことであった。現在の4技能の 統合的な英語教授がその当時から行われていたことになる。当時の附属中学校の先進性について教員ス タッフの1人である寺西(1963:44)が, 「初歩の英語教授に発音の大切なことは分かり切ったことなの であるが,当時は今日とは違って英語を聞いたり話したりする機会を持ちそうな日本人は極く限られた 範囲の人々に過ぎなかった。従って英語教育の目標は自然読書力の養成という一点に絞られ勝ちであっ たし,中学校では上級学校への入学試験と関連して自然訳読教授が教室での主要な,そして時には唯 一の作業になり勝ちであった。そのような状況下にあっては,当時私達が附属中学校でやっていた所 謂新教授法ですら既に十二分に革新的であり,尖端的であり,現実に即しない理想的過ぎる教授法で あると一般には思われていたのである」と述べている。したがって, 東京高等師範学校の卒業生は全員, 先端的な新教授法の実践を会得して,全国の中学校に散らばって行ったことになる。なお,ここで東 京高等師範学校附属学校のオーラルを中心とした新教授法が導入されていたことが述べられているが, 附属中学校にこのような新教授法が導入され,以後本校の伝統となった経緯について説明したい。 明治の初期から中ごろにかけて,英語教授法については,正則教授法と変則教授法が混じっている状 況であった。前者は外国人教師が英語の教科書を使って英語で授業を行う方法(いまの contents-based approach)で,後者は発音を無視した訳読法,講読教授法であった。しかし,その変則教授法への批判. が起こったのが明治30年代で,外山正一の『英語教授法』という書籍からであった。当時の中学校の 英語が役立たない理由は,教師の学力不足と教科書及び教授法の不適切さを挙げている。ここで彼が力 を入れるべきと主張したのが,教員養成教育と現職教育の改善であった。またこの本は,当時の文部 省発刊の教科書「文部省正則英語読本」の解説をも含んでいた。教科書の不適切さについては,言語 材料の意図的な選択と配列がないこと,日英語両方の相違が無視されていること,日本人生徒の学習 上の困難点への配慮が欠けていることを主張している(伊藤,1976)。また,同時期にドイツに留学し て改革的教授法の洗礼を受けた岡倉由三郎は口頭教授を主とする新教授法を提唱し,読みを重視する ものの,訳読ではなく,直読直解法を重視し,そのため,入門期に口頭練習を重視する考えを主張した。 この考えを後年,当時東京高等師範学校の教授であった岡倉は附属中に導入し,この新教授法が附属 中学校の教授法の伝統になっていくわけである。 6.東京・広島両高等師範学校,両校の附属中学校の日本の英語教育への影響 以上述べてきたように,戦前の英語教員に関する実践的な力量形成への影響という点で養成の目的 学校である高等師範学校が大きな意味を持っていたことが分かる。同時に,その附属学校が実習にお いて大きな役割を果たしていたことも分かった。本章では,2つの高等師範学校とその附属中学校とが, もっと言うと,それらの養成を経て卒業した学生やまた彼らを養成したそれらの学校の教員スタッフ が日本の英語教育界にどのような影響を及ぼしたかについて触れたい。当然,重要な影響を与えたわ. ─ 80 ─.
(8) 戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点とその実態に関するスケッチ. (古家貴雄). けである。 まず,広島高等師範学校での教育の結果,卒業生が日本の英語教育の発展にどのような影響を与え たか,については文献上はあまりはっきりしたことが言えない。ただし,東京高等師範学校の卒業生 に関しては,主として口頭による英語教授法,新教授法の実践を全国に広めたという点で大きな影響 力を及ぼした。代表的な実践は昭和10年代の「福島プラン」 (福島中)と「湘南プラン」 (湘南中)であっ た。その他新教授法を導入していた中学校は田中(2012)によると青森中,函館中,神戸第三中,人 吉中などであるが,特に青森中には東京高師の卒業生が13名,函館中には7名と多くの教員が赴任して いた。ただし,これらの中学校で5年間すべてにおいて新教授法が行われていたかといえばそうでは なく,特に入門期がこの教授法で行われ,4,5年生には入試の読解力を付ける目的もあり,訳読法が 行われていた。 次に,東京・広島両高等師範学校の英語スタッフと英語研究会の戦前の日本の英語教育界への影響 について,まず,東京高等師範学校の英語科スタッフについては文部科学省主催の夏期講習会の講師 の常連であった。日清戦争以後,日本の中学校の数が急速に増え,文部省としては,現場の中学校英 語教師の質の向上と英語教授法の改良のために1901年(明治34年)から毎年,文部省夏季英語講習会 を開催した。その会の初期は外国人教師が講師に招かれ講演をしたが,次第に岡倉由三郎など,東京 高等師範学校の教員が主講師を務めるようになった。また最初の内は全国の旧制高校などを会場に回っ ていたが,後,東京(明治38年)や広島(大正元年の広島英語科講習会)でも開かれるようになった。 その場合,講師の多くは当地の高等師範学校の教員であった。また一方,松村(1983)によると,広 島高等師範学校においては明治後期に校友会の一部として教育研究会が開設され,さらに教科目研究 会も設置された。またその中に各教科の教授に関する原理と実際を研究する研究会があり,「外国語科 研究会」も設置された。 また,東京・広島両高等師範学校附属中学校では,中等教育研究会なる研究会組織が昭和7年に立 ち上がった。東京においては『中等教育研究』という雑誌が発刊され,そこに実践に関する論考が発 表された。また広島では,昭和13年に『中等教育に於ける各科教授法の新研究』(京極書店)という書 籍が発刊され,その中には英語科について, 「英語入門授業について」や「英文法の取扱と英作文の指導」 といった論考が収められた。なお,それに遡ること,明治41年には広島高等師範学校附属中学校に「英 語部会」が発足し,英語科要目の編纂や教科書編纂,教授法研究などが進められた。 また戦時中の昭和18年から編集された文部省による一種検定教科書の『英語』の編集には,当時の 東京高等師範学校附属中学校のスタッフ,中学校用には青木常雄,松川昇太郎,牧野徹夫,福田陸太郎 が,女学校用には寺西武夫,星山三郎,加藤市太郎という面々が当たり,教科書の内容としては,戦 時色の濃いものもあったのだが,教授法の観点からは入門期のオーラル・ワークに配慮した Preparatory Course の設置や難から易への言語材料配列,語彙の精選,さらには題材の有機的連結や挿絵の効果的. 利用等,優れた教材であったとの評価があり(伊村,2003),ここに附属中スタッフの英語教育界での 活躍の一端が窺える。 いずれにせよ,高等師範学校や附属中学校にきちんとした研究組織がその初期から立ち上がり,教 材や教授法の研究を行い,そこのスタッフが文部省の夏期講座の講師になったり,附属中のスタッフ は昭和4年以降,文理科大学に入学し,さらにキャリアを高等師範学校教授に上げていくケースが多かっ た。いずれにしても日本の英語教育をリードする存在であった。 7.戦前の中等学校の教員養成において重視された教師像とその変遷 本論考の結論として,戦前の中等学校の教員養成におけるプロフェッショナリズムとリベラリズム. ─ 81 ─.
(9) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. の教師像と各教員養成機関で重視された教師像の関係とその変遷について,ここまでの議論である程 度明らかになったことを述べたい。 まず,教育史的に見て,初等教員養成の師範学校は閉鎖型で,教科内容よりもむしろ教授法が重視 される養成傾向になるが,中等学校の教員養成はむしろ,開放型で,教授法よりも教科内容重視の傾 向があることが分かる。つまりリベラリスト優勢の教員養成である。その中で,高等師範学校などの 目的学校は教授法と実習がカリキュラムに唯一組み込まれている中等学校用教員養成機関であり,プ ロフェッショナリズムが重視されているかに見える。しかし同時に教科内容についても訓練が厳しく, 帝大と遜色ない内容だったとも言われている。よって,日本の戦前の中等学校の教員養成はリベラリ ズム優勢と言ってよく,アメリカのように両教師像の融合が20世紀前半にあって,教員養成が大学段 階に昇格していく,ということが日本で起こるのは戦後にならないとなかった。しかし,日本の教員 養成は戦後,大学に昇格することで,逆にプロフェッショナリズムよりもリベラリズム色が強くなっ たともいえると思う。その伝統が現在にも基本的には継続し,プロフェッショナル的側面が免許要件 でかなり軽視され続けているからである。結論として,戦前の中等学校の教員養成は基本的にリベラ リズム優勢であり,英語の場合もその例に漏れないのではないか。ただし,他教科との比較はできて いない状況である。 8.おわりに これまでの議論で,戦前の日本の英語教員の教員養成について,特に教授技術を含むその実践的な力 量形成において養成の目的学校である高等師範学校の存在意義は際立つものと思われる。最後に,戦 前の高等師範学校の日本の英語教育における教育的な意義を挙げ, 本論の総括としたい。まず①として, 当然ではあるが,教職的な教養の充実ということがある。特に東京高等師範学校については,附属学 校における実習の充実ぶりが目を引き,オーラル中心の新教授法によって実習生の熱心な教育に当たっ ていた状況がある。広島高等師範学校に関しては,教育実習そのもののシステムが素晴らしく,教師 という職業の総合的な養成を意図しての形態を取っていた。②として,英語の専門教科的教養の充実 ということがある。これについては帝大のそれと遜色がなかったという事実がある。③に,教職開発 のサポート体制の充実がある。具体的には,高等師範学校スタッフの英語教員のための各種研修会や 講習会の担当や附属中スタッフによる教科研究会の設立や研究雑誌の発刊などの事業がある。④とし て,高等師範学校並びに附属学校のスタッフの人格的・専門的素養の素晴らしさ,ということがある。 彼らには広領域の学問的知識や素養が備わっており,教職への熱意や専門職としての自覚があったと 言われている。最後の⑤に,高等師範学校からの卒業生の日本の英語教授法改革への影響がある。ま ず,高等師範学校のスタッフが英語の教授法改革を提案,書籍による世間への発信を行い,その改革を 附属学校に導入し,そこで行われる口頭技能を主とした英語教授法を身に付けた卒業生が現場に下り, さらに日本の英語教育の教授法改革に貢献していく,という循環の構図が見出せる。いずれにしても, 今後両高等師範学校の教育実態をさらに追求していく必要性と意義を感じている。 なお,今後の本テーマに関する研究課題としては,①英語の専門科目に関する高等師範学校以外の学 校のカリキュラム状況の解明がまだ不十分であること,②高等師範学校の英語教授法と教育実習の詳 しい状況について,東京はともかく,廣島高等師範学校の状況がまだ解明が十分ではないこと,資料 の量の問題が特にある。さらに,③東京・廣島高等師範学校のスタッフに関する情報,あるいは,卒 業生が学校現場に出て,どのような実践をし,当地の教育現場でリーダーになって活躍をする状況は どのようであったかを述べた資料の発掘もまだ不十分である。最終的に研究のまとめをどう持ってい くかが重要な課題となっているが,高等師範学校の英語の教員養成が日本の英語教育界にどういう影. ─ 82 ─.
(10) 戦前の中等教育における英語教員養成に関わる問題点とその実態に関するスケッチ. (古家貴雄). 響を与えたのかを,唯一実践的力量を形成された学校を卒業した人材の活躍の状況から検証するとい う方向に進むことが必要となる。 引用文献 磯崎哲夫(1999) 『中等理科教師の力量形成の方策に関する比較教育史的研究』 (科学研究費補助金奨励研究(A) 課題番号:09780142) 伊村元道(2003) 『日本の英語教育200年』 大修館書店. 伊藤健三(1976) 「英語教育の歴史」 中島文雄(監修) 『新英語教育論』pp.16−35, 大修館書店. 太田拓紀(2006) 「戦前期私学出身者の中等教員社会における位置と教師像―早稲田大学高等師範部出身者の 事例―」 『教育社会学研究』第78集,pp.169-189. 太田拓紀(2010) 「大正後期・昭和初期の私学における中等教員養成システム―4私学のカリキュラムと担当 教員の分析―」 『論業:玉川大学教育学部紀要』8号,pp.7-18. 国枝元治(1935) 「中等學校數學教員出身別調査」 『數學教育』5号,pp.1-4, 數學研究會編. 桜井役(1935) 『英語教育に關する文部法規』研究社. 田中沙弥(2012) 「東京高等師範学校出身者による新教授法実践の広がり―『英語の研究と教授』の分析を通 じて―」 『広島の教育史学』第3号,pp.1-26,広島大学教育学部日本東洋史研究室. 谷口琢男(1988) 『日本中等教育改革史研究序説』第一法規. 寺崎昌男(1983)「教師養成理念と制度の歴史的考察」『教師教育の課題―すぐれた教師を育てるために』 pp.344-355, 明治図書出版. 寺西武夫(1963) 『英語教師の手記』 吾妻書房. 東京英語教育会(編) (1935) 『英語の研究と教授』第4巻7号,興文社. 疋田祥人(2004) 『戦前日本の手工科担当師範学校教員養成における東京高等師範学校図画手工専修科の役割 と意義』東京学芸大学連合学校教育学研究科・博士論文(全150頁) . 廣島高等師範學校附属中學校(1930)『廣島高等師範學校附属中學校 二十五年史』廣島高等師範學校附属中 學校. 福原麟太郎(監修) (1978) 『ある英文教室の100年』大修館書店. 松村幹男(1981) 「広島における英語教育史の研究」 『英学史研究』第13号,pp.29-40. 松村幹男(1983)「大正前期における英語教授法研究―広島高師及び同附中の場合―」 『英学史研究』第15号, pp.1-14. 茂住實男(2009) 「文検英語科で問われた英語の教授法」 『拓殖大学 語学研究』103号,pp.1−20,拓殖大学 言語文化研究所. 山田浩之(2002) 『教師の歴史社会学―戦前における中等教員の階層構造―』晃洋書房.. ─ 83 ─.
(11) ─ 84 ─.
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