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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又)

鎌倉北条氏列伝(一)北条時政

   

   

   

出自について

  鎌倉北条氏の家紋は「 三 みつ 鱗 うろこ 」( 次頁写真の北条時政像の 烏 え 帽 ぼ 子 し に付いている家紋 )であるが、 その家紋にまつわる逸話 が、 『太平記』 ( 巻第五「時政参籠榎島事」 )に見えている。その逸話とは次の様なものである、 すなはち 北 ほう 条 じょう 時 とき 政 まさ が子 孫繁栄を祈り、 江 えのしま 島 神社( 神奈川県藤沢市 )に 参 さん 籠 ろう した所、満願成就の日に弁財天が現れ、前世の善根( 法師として法 華 経 供 養 を 行 っ た こ と ) に よ り、 七 代 に 渡 り、 「 日 本 の 主 」 と な る 事 を 告 げ る と、 大 蛇 に 姿 を 変 え、 三 つ の 鱗 だ け を 遺 して海中に消え入ったという( 時 とき 宗 むね の嫡男 貞 さだ 時 とき が七世代目で、 八世代目の 高 たか 時 とき のとき幕府は滅亡する )。そこで時政は、 そ の 三 つ の 鱗 を 家 紋 と し た と い う 話 で あ る 。 鎌 倉 時 代 の 初 め に 文 もん 覚 がく に 命 じ て 江 島 に 弁 財 天 を 勧 かん 請 じょう さ せ た の は 娘 の 政 まさ 子 こ で あるとも言うし、 時政自身もその菩提寺 願 がん 成 じょう 就 じゅ 院 いん の浄土庭園に弁財天を 奉 ほう 祀 し した事から考えると( 池の中島に「 池 いけのしま 島 神社」として祀っている )、時政の弁財天信仰を知る誰かがこの説話を創作したのかもしれない。   右の三鱗伝説は、時政の子孫の繁栄を龍神が約束したというものであった。その子孫の家系については史料も残っ ておりわかっているのだが、 時政より前の世代の事については実はよくわかっていない。 『 吾 あ 妻 づま 鏡 かがみ 』 治 じ 承 しょう 四( 一一八

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 〇 ) 年 四 月 二 十 七 日 条 に「 上 こうづけのすけ 野 介 平 たいらの 直 なお 方 かた の 五 代 の 孫、 北 条 四 郎 時 政 主 ぬし は 当 国( 伊 豆 ) の 豪 傑 な り 」 と 記 さ れ て い る こ と や、 比 較 的 信 頼 の お け る 中 なか 条 じょう 家 文 書 「 桓 かん 武 む 平 氏 諸 流 系 図」 を は じ め 、 北 条 氏 諸 系 図 が 北 条 氏 を 直 方 系( 直 方 と は、 鎮 ちん 守 じゅ 府 ふ 将 しょう 軍 ぐん 平 たいらの 貞 さだ 盛 もり の 二 男 維 これ 将 まさ の 孫 で あ る ) と し て い る こ と か ら、 当 時 か ら か く 信 じ ら れていたようではある。しかし、野口実氏は、時政の 父祖が東国と関わりがあったことを示すのは系図上だ けの話であり、北条氏が 伊 い 豆 ず に土着するのも十二世紀 に入ってからの可能性もあるとされ、強引に直方系に 結 び つ け ら れ た 可 能 性 を 指 摘 し て お ら れ る( そ の 祖 父 時 とき 家 いえ が 養 子 に 入 っ た と す る 説 が 有 力 ? )。 ま た 氏 は、 伊 い 勢 せ ・ い 賀 が 方 面に縁故があることから、時政の出自は実は伊勢平氏であったのではないかとも推測されている。なぜ時政が直方の 子 孫 と さ れ た の か と い え ば 、 そ れ は 頼 より 朝 とも と 東 国 の 豪 族 達 が 、 河 かわ 内 ち 源 げん 氏 じ の 嫡 流 頼 より 義 よし の 東 国 滞 在 期 ( 十 一 世 紀 半 ば ) を 東 国 の 黄 金 時 代 と 考 え て い た か ら で あ ろ う。 頼 義 は、 相 さ が み の か み 模 守 ・ む さ し の か み 蔵 守 ・ 下 しもつけのかみ 野 守 な ど を 歴 任 し、 東 国 武 士 の 多 く を 被 ひ 官 かん 化 し、河内源氏の東国進出を決定づけた。北条氏にとって重要だったのは、その頼義の 岳 がく 父 ふ が平直方であったという点 で あ る。 源 頼 義 は、 直 方 か ら 譲 ら れ た 鎌 倉 の 屋 敷 を 本 拠 と し、 同 地 に 源 氏 の 氏 うじ 神 がみ = 石 いわ 清 し 水 みず 八 幡 宮( 頼 朝 の 代 に 鶴 つるがおか 岡 八 幡 宮 へ 発 展 す る ) を 勧 請 し 東 国 支 配 を 固 め た と い う 輝 か し い 歴 史 が あ る 。 つ ま り 頼 朝 が 源 氏 の 東 国 支 配 の 淵 えん 源 げん を 先 祖 頼 北条時政像(願成就院所蔵)

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 義に求めた様に、時政は、頼義の岳父直方と自分をオーバーラッ プさせることで、自らの政治的な立場を主張したのである。頼義 と頼朝、直方と時政、直方女と政子、 義 よし 家 いえ と 頼 より 家 いえ を等置させ、北 条氏と河内源氏との縁を説明したという野口氏の説明には説得力 がある。   もし仮に、 時政が本当に直方の子孫であったとしても、 時政は、 ただの田舎侍ではなく、 都の情勢に明るい 在 ざい 庁 ちよう 官 かん 人 にん ( 国衙行政の 実 務 に 従 事 し た 地 方 官 僚 ) で あ った 。 時 政 の 本 拠 地 は 伊 豆 国 田 た 方 がた 郡 北条鄕で、狭小な所領であり、頼朝挙兵時に参じた関東の有力豪 族 三 み 浦 うら 、 千 ち 葉 ば 、 上 か ず さ 総 氏などと比較するとかなり見劣りがする。し かし、北条氏の居館は、伊豆の 国 こく 府 ふ にも近く、当時のメインルー トである 下 しも 田 た 街 かい 道 どう 添いで、しかも裏手には 狩 か 野 の 川も流れており、 物資運搬の為に水運を利用もすることも容易であった。また狩野 川を渡り、 駿 す る が 河 方面を西に向えば、三 ・ 五キロ程で駿河湾に出られ、海路も利用出来た。室町期に 堀 ほり 越 こし 公 く 方 ぼう が関東支 配の為に東下した際に足止めをくい、 この北条館跡地に重なるように 御 ご 所 しょ を置いたのも、 ここが交通の 要 よう 衝 しょう であった ことを物語っていよう。時政がこの様な交通至便な地に屋敷を構えることが出来たのも、彼が在庁官人であったから であった。北条氏館の遺構は、十二世紀中頃から十三世紀前葉までのもので、十二世紀中頃に北条氏が土着した可能 直方、時政両者と河内源氏との関係 直方 女子 頼義 時政 政子 頼朝 実朝 頼家 義家

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 性をにおわせる。その遺構からの遺物としては、 青 せい 磁 じ ・ はく 磁 じ ・ 青 せい 白 はく 磁 じ ・ 陶器類などの貿易 陶 とう 磁 じ や、儀礼 ・ 儀式に用い る 京 都 系 か わ ら け( 土 器 ) 等 が 大 量 に 出 土 し て い る。 京 都 系 か わ ら け は、 京 都 ・ 鎌 倉 と の 文 化 交 流 が 盛 ん な 地 域 で 出 土するものであるが、北条氏館跡からの出土品は、時期的に見て鎌倉や他の東国先進地域に先行しており、時政が挙 兵以前から都との交流が密であり、在庁官人の立場を利用して富を蓄積していたことが窺える。頼朝政権が安定期に 入 っ た 文 ぶん 治 じ 二( 一 一 八 六 ) 年 頃、 時 政 は、 菩 提 寺 願 成 就 院 を 館 に 隣 接 し て 建 立 し、 奈 な 良 ら 仏 ぶっ 師 し 運 うん 慶 けい に 本 尊 と す る 仏 像 三 体( 阿 あ 弥 み 陀 だ 三 さん 尊 ぞん 、 不 ふ 動 どう 明 みょう 王 おう 、 毘 び 沙 しゃ 門 もん 天 てん ) の 造 立 を 依 頼 し て い る。 願 成 就 院 は、 宇 う 治 じ の 平 びょう 等 どう 院 いん 、 平 ひら 泉 いずみ の 毛 もう 越 つう 寺 じ 、 鎌 倉 の 永 よう 福 ふく 寺 じ に比するような立派な 臨 りん 池 ち 伽 が 藍 らん 寺院であり、時政の財力を示すものである。奈良仏師への仏像造立の依頼は、 頼朝の菩提寺として鎌倉に建立された 勝 しょう 長 ちょう 寿 じゅ 院 いん の「 丈 じょう 六 ろく 阿弥陀如来像」の像造を 成 せい 朝 ちょう に依頼したのが最初で、 次が この願成就院であったが、奈良仏師の関東下向も北条氏の人脈を通じて要請された可能性が高い。運慶は、願成就院 の 仏 像 を 完 成 さ せ る と 、 続 け て 幕 府 の 重 臣 和 わ 田 だ 義 よし 盛 もり の 菩 提 寺 浄 じょう 楽 らく 寺 じ の 阿 弥 陀 三 尊 像 ・ 不 動 明 王 像 ・ 毘 沙 門 天 像 の 造 像 に 向 っ て い る( 仏 像 の 構 成 が 願 成 就 院 と 同 じ で あ る 点 に 注 意 )。 恐 ら く 和 田 義 盛 か ら 懇 願 さ れ た 時 政 が、 続 け て 運 慶 に 依 頼したのであろう。   時政が都に太いパイプを持っていたことについてはその他にもいくつか徴証が得られる。時政の甥 時 とき 定 さだ も時政の任 官 前 か ら 京 きょう 官 かん ( 儀 ぎ 仗 じょう ・ 左 さ 兵 ひょう 衛 えの 尉 じょう ・ 左 さ 衛 え 門 もんの 尉 じょう ) を 歴 任 し て い た こ と が わ か っ て い る し、 時 政 自 身 も 池 いけの 禅 ぜん 尼 に の 姪 に あ たる中流貴族出身の女性( 牧ノ方 )を後妻に迎える環境をもっていた。牧ノ方の父 牧 まき 宗 むね 親 ちか は、 平 たいらの 忠 ただ 盛 もり ( 清盛の父 )の 正室池禅尼の弟であり、 平 たいらの 頼 より 盛 もり 領駿河国 大 おお 岡 おかの 牧 まき ( 沼津市 )を知行していた。大岡牧は、 三島の西隣で北条からも近 く、やはり流通の要所であり、都の文化が開花していた場所であった。時政は大岡牧を介して人や文物の一層の交流

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) を 図 っ た で は な い だ ろ う か。 ま た 鶴 岡 八 幡 宮 の 供 ぐ 僧 そう を 選 任 す る 際 に は 山 さん 門 もん 派( 比 叡 山 ) の 僧 を 時 政 が 推 薦 し て お り、 時 政 に 独 自 の 人 脈 が あ っ た こ と が わ か る。 そ し て 何 よ り 注 目 さ れ る の は、 文 治 元( 一 一 八 五 ) 年 に 時 政 が、 い わ ゆ る 守 しゅ 護 ご ・ じ 頭 とう 設置の 勅 ちょっ 許 きょ を得るために上京し、 単身で朝廷側と 折 せっ 衝 しょう した事実である。この交渉は、 いうまでもなく今後 の頼朝政権の行方を決定づける大事なものであった。朝廷側の窓口となっている院の近臣 吉 よし 田 だ 経 つね 房 ふさ は、かつての時政 の 上 官( 伊 豆 国 国 こく 司 し ) で あ り、 時 政 が 経 房 の 人 と な り を 理 解 し て い た こ と が 選 任 さ れ た 理 由 か も し れ な い が、 時 政 が 朝廷の内部事情に精通していたからこそ、 物 もの 怖 お じせずに公家達と渡り合うことができたのであろう。

鎌倉幕府草創期の時政

  長女政子と頼朝との縁組みによって、北条一門に繁栄がもたらされたことは周知の事実であるが、この縁組みは時 政にとって 一 いつてき 擲 乾 けん 坤 こん を賭したものであった。時政自身も 伊 い 東 とう 祐 すけ 親 ちか の娘を前妻に迎えている様に、本来であれば、伊東 氏や 狩 か 野 のう 氏等の近隣の有力豪族の子弟と婚姻させ、在地勢力の結集を図るのが無難な選択であった。実は相模国の三 浦 義 よし 村 むら も 伊 東 裕 親 の 娘 ( つ ま り 時 政 前 妻 の 姉 妹 と な る 娘 ) を 妻 と し て い た と い う 説 も あ り 、 こ の 地 域 で の 婚 姻 ネ ッ ト ワ ー クが窺えよう。しかし時政は敢えて平氏から監視を命ぜられていた流人の源頼朝を政子の婿に選んだのである。おそ ら く 平 氏 全 盛 期 で あ れ ば、 平 氏 一 族 や そ の 家 人 を 婿 に 選 ん で 平 氏 政 権 の 一 翼 を 担 う 立 場 を 鮮 明 に し た は ず で あ る( た と え ば『 源 げん 平 ぺい 盛 せい 衰 すい 記 き 』 で は、 当 初 時 政 が 伊 豆 国 目 もく 代 だい 山 やま 木 ぎ 兼 かね 隆 たか を 婿 に 選 ん だ と す る が、 山 木 の 伊 豆 国 下 向 は 治 承 三 年 の こ と で あ り 時 期 が 合 わ な い )。 反 平 氏 の 立 場 を 表 明 す る こ と は 大 変 な リ ス ク を 負 っ た の で あ る。 伊 東 祐 親 が 我 が 娘 と 頼 朝 と の 仲 を 知 り 、 そ の 関 係 を 強 引 に 引 き 裂 い た の も 、 当 時 の 駿 河 か ら 北 伊 豆、 西 相 模 に か け て の 勢 力 関 係 を 考 え れ ば 当 然 で あ っ

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) た。 そ の 伊 東 氏 は 平 氏 に 追 随 し て い た し、 駿 河 国 は 平 たいらの 宗 むね 盛 もり の 知 ち 行 ぎょう 国 こく で 目 代 橘 たちばなの 遠 とお 茂 もち が 勢 力 を 誇 っ て い た。 ま た 西 相模の有力豪族 波 は 多 た 野 の 義 よし 常 つね や 大 おお 庭 ば 景 かげ 親 ちか 等も平氏の家人としての立場を鮮明としていたからである。しかし時政は、独 自のネットワークを駆使することにより平氏政権の雲行きが怪しくなり始めてきたことを知っていたのである。おそ ら く 牧 氏 を 通 じ て、 平 氏 の 内 部 情 報 を 入 手 し て い た の で あ ろ う。 ち ょ う ど こ の 頃( 治 承 元 年 ) 都 で は 平 氏 打 倒 を も く ろ む 院 の 近 臣 達 の 謀 議( 鹿 しし ヶ が 谷 たに 事 件 ) が 発 覚 す る な ど、 平 氏 の 専 横 に 対 す る 不 満 が 高 ま っ て き て い た。 治 ち 天 てん の 君 で あ る 後 ご 白 しら 河 かわ 院 いん と 平 たいらの 清 きよ 盛 もり と の 関 係 も 冷 え 切 っ て 一 触 即 発 の 状 態 で あ っ た。 ま た 東 国 に 目 を 転 じ て も、 南 関 東 に は か つ て の 義 よし 朝 とも ( 頼 朝 の 父 ) の 家 け 人 にん で、 源 氏 の 再 興 を 願 い、 頼 朝 に コ ン タ ク ト を と る 有 力 豪 族 や、 平 氏 政 権 に 不 満 を も つ 豪 族 達も少なからずおり、 もし、 これらの勢力を結集することが出来れば、 奥 おう 州 しゅう 平泉の藤原氏のように、 東国に独自の勢 力を築くこともできると時政は考え始めたのであろう。仮に全国的な規模で打倒平氏の旗が揚がれば、その血筋から 言っても頼朝がその盟主となり得る存在であるという確信も時政にはあったはずである。だがその為には、 甲 か 斐 い 源氏 や北関東の河内源氏庶流( 足 あし 利 かが ・ にっ 田 た )の協力が不可欠である事も時政は十分承知していたはずである。   そ の 後 の 情 勢 は 時 政 の 予 測 し て い た 通 り に 進 ん だ。 治 承 三( 一 一 七 九 ) 年 十 一 月、 平 清 盛 が つ い に ク ー デ タ ー を 起 こすと後白河院を幽閉してしまった。これによって畿内の有力寺社は挙って反平氏運動を勃発させ、都では後白河院 の第二皇子 以 もち 仁 ひとおう 王 が 東 とう 海 かい ・ 東 とう 山 さん ・ ほく 陸 りく 道 どう の武士達を糾合し平氏を倒そうとしていた。このとき以仁王が挙兵を促す為 に諸国へ発した 令 りょう 旨 じ は伊豆国にももたらされている。   時政は、まずは伊豆国内で頼朝の挙兵に賛同する豪族達を結束させると共に、相模国の三浦氏や上総国の上総氏、 下総国の千葉氏といった関東一円の有力豪族にも挙兵を促したはずである。関東にもたらせた以仁王の令旨は、時政

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) にとってまさに値千金の「 錦 にしき の 御 み 旗 はた 」となったのである。   ところが、時政にとって誤算だったのは、以仁王の乱が未然にあっけなく鎮圧されてしまったことである。しかも 危機感を抱いた平氏は、以仁王に呼応した反乱分子を尽く追討するという方針を直ちに下した。この決定にもとづい て、平氏方人となっている東国の源氏に対しても出兵命令が下された。そして頼朝のもとへも、相模国の豪族大庭景 親率いる追討軍が下されることとなった。時政にとっては、まだ兵力も整わぬ準備段階で、追討軍を迎え討たねばな ら ぬ こ と は 大 誤 算 で あ っ た が、 追 い 込 ま れ た 頼 朝 軍 は、 治 承 四( 一 一 八 〇 ) 年 八 月、 つ い に 伊 豆 国 目 代 山 木 兼 隆 邸 に 夜 よ 討 うち ( 夜 襲 ) を し か け た。 本 来 で あ れ ば 源 氏 の 旗 揚 げ と し て 初 戦 は 華 々 し く あ り た い と 考 え た は ず で あ る。 だ が 余 り に 兵 力 が 少 な か った 為 に 夜 討 と い う 形 で し か ス タ ー ト 出 来 な か った の で あ る 。 そ の 後、 頼 朝 軍 は 相 模 国 方 面 へ 向 か い 、 三浦氏や和田氏の軍勢と合流しようと試みるが、大場景親率いる追討軍に行方を 阻 はば まれ 石 いし 橋 ばし 山 やま の戦いで 惨 ざん 敗 ぱい する。こ のとき時政は嫡男 宗 むね 時 とき を戦死させてしまう。戦場から抜け出た時政 ・ よし 時 とき 親子は、箱根山中で頼朝と参会すると直ち に甲斐源氏のもとへ援軍要請の為に向かおうとしたが、頼朝の安全の確保が優先すると考えた時政は引き返すと、頼 朝に同道し、 真 まな 鶴 づる 岬 みさき から海路 安 あ 房 わの 国 くに に渡る。海上で三浦の軍勢と合流し兵力を整えた頼朝軍は、 その後、 上総氏や千 葉氏の軍勢とも合流しながら上総国、下総国へと進軍し勢力を膨らませてゆく。頼朝軍が上総国へ進軍するのを見届 けると、前途の不安を解消させた時政は再び甲斐国へ進発している。時政が危険を顧みず、何度も甲斐国へ赴かんと したのも平氏方の東征軍を迎え討つ為には、甲斐源氏の協力が不可欠であることを確信していたからであろう。その 後、頼朝軍はさらに 武 むさしの 蔵 国 くに ・ 相 さがみの 模 国 くに へと進み、彼らの 故 こ 地 ち 、鎌倉へ入り、南関東を一応支配下におさめる。   一方、時政はその後、甲斐源氏と行動を共にした。甲斐源氏の率いる甲斐国 ・ 信濃国の軍勢は駿河国へ南下し、 鉢 はち

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 田 た 合 戦 で 平 氏 方 の 駿 河 国 目 代 橘 遠 茂 の 率 い る 駿 河 ・ 遠 とおとうみ 江 連 合 軍 を 撃 破 す る 。 平 氏 が 期 待 し て い た 現 地 の 主 力 部 隊 を 壊 滅させた上で、平氏の東征軍を迎え撃つ準備をしたのである。その後、西進してきた頼朝軍に合流すると東征軍を 富 ふ 士 じ 川 がわ で 向 い 撃 ち 、 こ れ を 敗 走 さ せ る 。 こ の 一 戦 で 平 氏 軍 が 大 敗 し た こ と で 戦 況 は 大 き く 変 化 す る 。 こ れ ま で 状 況 を 伺っ ていた 近 おうみの 江 国 くに 、 美 み 濃 のの 国 くに 、 尾 おわりの 張 国 くに の諸源氏も一斉に蜂起したのである。頼朝は、遠江国 ・ 駿河国の守りを甲斐源氏に任 せることで、関東一円の平定に専念することが出来るようになった。甲斐源氏との同盟関係はやはり頼朝にとってな くてはならないものだったのである。   頼朝軍は、 相模石橋山での敗戦の後、 伊豆国から安房国へ渡り、 上総国、 下総国、 武蔵国、 相模国へと進軍したが、 これは大敗を 喫 きっ した為にやむなく選択されたルートであったわけではなく、挙兵前から計画されていた侵攻ルートで あったと思われる。北関東で威を張る同じ河内源氏の諸氏( 木 き 曾 そ 、 新田、 足利 )が頼朝に同調するかどうかわからない 段階では、三浦 ・ 上総 ・ 千葉の軍勢を加えながら南関東を進軍することが一番リスクが少なかった。西の守りを甲斐 源氏に任せ、このルートで関東を制圧するという計略を立てたのはやはり時政であったに違いない。   頼朝は時政だけではなく、 京 きょう 下 くだ りの 大 おお 江 え 広 ひろ 元 もと や 三 み 善 よし 康 やす 信 のぶ を側近として、 後白河院と折衝を進め院の動向を伺ってい た。そんな中、東国に留まる頼朝を尻目に平氏を西走させ北陸道から入京したのは頼朝の従兄弟、木曾 義 よし 仲 なか の軍勢で あ った 。 し か し 粗 暴 な 振 る 舞 に よ って 義 仲 が 後 白 河 院 の 信 頼 を 失 う と 頼 朝 に 対 す る 期 待 が 高 ま って い った 。 寿 じゅ 永 えい 二 ( 一 一 八 三 ) 年 十 月 つ い に 頼 朝 は 本 位 に 復 す る こ と に 成 功 す る ( つ ま り 罪 人 で は な く な る )。 そ し て い わ ゆ る 寿 永 二 年 十 月 宣 せん 旨 じ によって、東海 ・ 東山 ・ 東海道地域の国衙在庁に対する軍事指揮権を認められる。頼朝軍は十月宣旨を掲げて上京 し、まずは義仲を討伐すると、さらに平氏追討宣旨を得て、一ノ 谷 たに 、 屋 や 島 しま 、 壇 だん ノ浦の合戦と転戦しついに平氏を滅ぼ

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) したのである。   文 治 元( 一 一 八 五 ) 年 に な る と 頼 朝 の 権 力 が 増 大 す る こ と を 恐 れ た 後 白 河 院 は、 頼 朝 の 代 官 と し て 在 京 し て い た 弟 の 義 よし 経 つね や叔父 行 ゆき 家 いえ を 籠 ろう 絡 らく し、兄頼朝に対し反乱を起こさせる。頼朝は自ら大軍を率いて西上しようとしたが、義経が 都から落ち延びたことを聞くと、北条時政に千余騎の兵をつけて上京させる。頼朝は、時政を単なる軍事司令官とし て派遣したわけではなく、頼朝の代官として朝廷との交渉に当たらせる為に派遣したのである。頼朝追討宣旨を下し た責任を朝廷に追及し、優位な立場から強力な権限の付与を朝廷に要求するのが時政の使命であった。いわゆる「守 護( 惣 そう 追 つい 捕 ぶ 使 し ) ・ 地 頭 」 の 勅 許 を 得 る こ と が そ の 目 的 で あ っ た。 諸 国 に「 守 護 ・ 地 頭 」 を 置 く 構 想 は 早 い 段 階 か ら あ っ た は ず で あ る が( 『 吾 妻 鏡 』 は 大 江 広 元 の 発 想 で あ る と い う )、 勅 許 を 得 る 機 会 を 頼 朝 側 は 窺 っ て い た の で あ る。 朝 廷 が 頼朝追討宣旨を下した今こそがその好機であった。東国からでは後白河院をはじめとする朝廷の出方がわからないの で、時政に全権を委任してこれにあたらせたのであろう。時政は経房を窓口として後白河院と交渉を開始するが、後 白河院が弱腰とみた時政は、義経の 追 つい 捕 ぶ と治安維持を名目として、 五 ご 畿 き 内 ない ・ 山 さん 陰 いん 道 どう ・ なん 海 かい 道 どう ・西 さい 海 かい 道 どう に惣追捕使と 国 くに 地 じ 頭 とう を置くことを認めさせたばかりか、その活動を助ける為に、 荘 しょう 園 えん ・ 公 く 領 りょう を問わず、 反 たん 別 べつ 五 ご 升 しょう の 兵 ひょう 粮 ろう 米 まい を徴収す る権限までも認めさせてしまったのである。この後、 時をおかずに頼朝が 議 ぎ 奏 そう 公 く 卿 ぎょう の任命等、 朝廷人事の刷新を書状 で申し入れているのも、朝廷側の弱気な対応を肌で感じた時政からの報告を受けて実行されたことであった。   ところで時政は京都守護として都とその周辺地域の治安維持にも当っていた。時政は、都で群盗十八人を 捕 ほ 縛 ばく する と 検 け 非 び 違 い 使 し 庁 ちょう に 引 き 渡 さ ず、 直 ち に 六 ろく 条 じょう 河 が 原 わら で 首 を 刎 は ね て い る。 こ れ を 武 断 的 な 行 為 と 評 価 す る む き も あ ろ う が、 むしろ逆に検断行為を苦手とする時政だからこそこのような処分を敢えて行ったのではあるまいか。治安が乱れてい

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) る 都 に お い て 厳 し す ぎ る 公 開 処 刑 を 行 な い 、 人々を 震 え 上 が ら せ る こ と で 犯 罪 抑 止 を も く ろ ん だ の で あ ろ う 。 時 政 は 、 公家達に対しては、 「 公 く 平 びょう を思い私を忘るる」 ( 『玉葉』 )という態度で接したのである。   朝 廷 と わ た り あ い、 守 護 ・ 地 頭 の 勅 許 を 獲 得 し た 時 政 の 名 声 は 高 ま っ た は ず で あ る。 と こ ろ が、 翌 文 治 二( 一 一 八 六 ) 年 に 京 都 守 護 の 役 割 を 終 え て、 鎌 倉 に 戻 っ て か ら の 時 政 の 行 動 は 目 立 た な く な る。 朝 廷 と の 交 渉 も 時 政 に 替 わ っ て 一 いち 条 じょう 能 よし 保 やす ( 頼 朝 の 同 母 妹 の 夫 ) が 担 当 す る こ と に な っ た。 頼 朝 と 時 政 の 間 に は、 す き ま 風 が 吹 き は じ め て い た の で あ る。 文 治 五( 一 一 八 九 ) 年 に 頼 朝 は 最 後 の 仕 上 げ に 奥 州 藤 原 氏 を 討 滅 し 日 本 全 土 を 平 定 す る。 そ し て 頼 朝 は、 権 ごん 大 だい 納 な 言 ごん 、 右 う 近 この 衛 え 大 たい 将 しょう 、 征 せい 夷 い 大 たい 将 しょう 軍 ぐん と順調に昇進をとげ、それに見合うよう政務を行なう為の 政 まん 所 どころ の組織を整備してゆ く。 す で に 以 前 か ら 侍 さむらい 所 どころ ( 御 家 人 を 統 括 ) と 問 もん 注 ちゆう 所 じよ ( 訴 訟 を 管 轄 ) は 設 置 さ れ て い た の で、 こ れ に よ っ て 鎌 倉 幕 府 の屋台骨が完成していった。しかしそれらの役所の長官職に時政の名はなかった。また頼朝が自らのブレーンに選ん だのも源氏一門であり、 時政ではなかった。頼朝は、 源氏一門を「 門 もん 葉 よう 」として五位の位階に推挙し、 将軍家 知 ち 行 ぎょう 国 こく の 国 こく 守 しゅ にしていった。一方、平姓の時政は、 「 侍 さむらい 」身分に留められ、国守になることも許されなかった。頼朝と時政 の確執について、都における時政の独断専行的振る舞いが頼朝の不興を買ったという見方もあるが、おそらくそうで はあるまい。剛胆で抜け目のない時政に対し、頼朝が警戒感を強めたというのが真相であろう。   時政は、荒々しい 板 ばん 東 どう 武 む 者 しゃ とは性格を異にしており、挙兵前から頼朝の参謀的な役割を担ってきた。それは挙兵以 来、協力関係を得なければならない武将や公家達を婿に迎え、婚姻ネットワークを広げているその手法からも窺えよ う。 前 妻 と の 間 に 生 ま れ た 女 子 を、 頼 朝 の 弟 阿 あ 野 の 全 ぜん 成 じょう 、 源 氏 門 葉 の 足 あし 利 かが 義 よし 兼 かね 、 秩 父 一 族 を 代 表 す る 畠 はたけ 山 やま 重 しげ 忠 ただ に 嫁 が せ、 牧ノ方との間に生まれた女子を公家の 三 さん 条 じょう 実 さね 宣 のぶ 、 坊 ぼう 門 もん 忠 ただ 清 きよ 、 源氏門葉の 平 ひら 賀 が 朝 とも 雅 まさ 、 御家人の 稲 いな 毛 げ 重 しげ 成 なり 、 宇 う 都 つの 宮 みや 頼 より

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 綱 つな 等に嫁がせている。平氏方の動向のみならず後白河院の動静を注視しながら、関東を平定し、果ては守護地頭の勅 許まで勝ち取るその手並みは実に見事であった。頼朝は、時政の 政治手腕を見ながら、若い頼家が 老 ろう 獪 かい な外祖父時政の操り人形に なってしまのではないかという危機感を徐々に募らせていったは ずである。源氏一門を将軍家のブレーンとし、頼家の身の周りを 頼朝の乳母の家である比企氏の一族関係者で固め、さらには忠臣 梶 かじ 原 わら 景 かげ 時 とき を頼家の 乳 め の と 母 父 ぶ に加えているのも時政を警戒してのこと であった( 頼朝は武勇で名高い甲斐源氏の 加 か 々 が 美 み 遠 とお 光 みつ を頼家の 後 こう 見 けん 役 に し よ う と 考 え て い た ふ し も あ る )。 頼 朝 の 乳 母 比 企 尼 に は 、 養 子 比 企 能 よし 員 かず をはじめ、婿として源氏門葉の平賀 義 よし 信 のぶ や 安 あ 達 だち 盛 もり 長 なが などが おり、その一族は武蔵国北部に勢力を誇っていた。比企一族は北 条氏とわたりあえる有力豪族だったのである。頼朝は、頼家の妻 も比企能員の娘( 若 わか 狭 さの 局 つぼね )から選んでいる。   また頼朝が、時政の子 江 え 間 ま 義時を特にこの頃から重用し始める のも実は時政を 牽 けん 制 せい する意味があったはずである。時政は前妻と の間に、宗時、義時、 時 とき 房 ふさ の三人の男子をもうけていた。長子の 宗時が嫡子であったが、石橋山の戦いで戦死していた。その後文 比企氏系図 比企遠宗 惟宗広言 島津忠久 女子 (丹後内侍) 女子 (源範頼室) 女子 (笠原親王妻) 女子 (中山為重妻) 女子 (糟屋有季妻) 女子 (若狭局) 安達盛長 女子 (頼家乳母) 河越重頼 伊東祐清 北条時政女 平賀朝雅 余一兵衛尉 三郎宗員 五郎 四郎時員 女子 平賀義信 能員 比企尼 比企氏系図

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 治 五( 一 一 八 九 ) 年、 後 妻 牧 ノ 方 と 間 に 政 まさ 範 のり が 誕 生 す る と、 時 政 は こ の 政 範 を 新 た な 嫡 子 と す る。 政 範 の 異 母 兄 義 時 は、 分家江間氏の当主となったのである。 『吾妻鏡』に載せるエピソードなどをみても義時は、 これまでも父時政と対 立する事が多かったようであるが、父が自分を差し置き、年若い政範を嫡子としたことに 憤 ふん 懣 まん やるせない感情をもっ た は ず で あ る 。 そ こ に 目 を つ け た 頼 朝 は 江 間 義 時 を 自 ら の 側 近 ( = 「 家 いえのこ 子 」 ) と し て 彼 を 遇 し た の で あ る 。 こ の 様 に 理 解 す れ ば 、 頼 朝 が 義 時 の 妻 に 比 企 朝 とも 宗 むね ( 能 員 の 父 掃 かもんの 部 允 じょう 遠 宗 の 弟? ) の 娘 を 配 し た 意 味 も わ か って こ よ う 。 頼 朝 み ず か らが義時の長子泰時の 烏 え 帽 ぼ 子 し 親 おや となり、三浦氏との縁組みを決めたのも、江間家を取り立てようとする頼朝の狙いが あったはずである。   頼朝との確執が深まった時政は、文治年間頃に頼朝から与えられたと思われる伊豆国 ・ 駿河国守護職をもとに在地 での勢力拡大を図る。駿河国守護職は、甲斐源氏の反逆により時政に転がりこんできたものであるが、これも時政が 暗躍した疑いが強い。時政は、頼朝と正面からぶつかる事を避け、頼朝の動向を窺っていたのであろう。   建 けん 長 ちょう 六( 一 二 五 四 ) 年 に 橘 たちばなの 成 なり 季 すえ が 著 し た 説 話 集『 古 こ 今 こん 著 ちょ 聞 もん 集 じゅう 』 に は、 伊 豆 の 北 条 館 近 く の 守 もり 山 やま で 時 政 が 頼 朝 と 共 に 狩 り を 催 し た 際 に 交 わ し た と さ れ る 連 歌 が 載 せ ら れ て い る( 巻 第 五、 和 歌 第 六 )。 時 政 の 上 の 句 は 次 の よ う な も の であった。 もる山のいちごさかしく 成 なり にけり   時政は、頼朝を「守山のいちご」に 喩 たと えて、自らが 庇 ひ 護 ご したからこんなに立派になったのだと歌ったのに対し、頼 朝は、次の様に下の句を続けた。 むばらがいかにうれしかるらむ

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又)   頼朝は時政への感謝を示さずに、 「むばら」と「乳母等」とをかけ、 成長した自分を見て、 乳母たちが大変喜んでく れている、とはぐらかしている。この連歌が交わされた時期は不明であるが、頼朝と時政との心の隔たりを示すもの として興味深い。   頼朝と時政との関係に溝が生じるなか、 建 けん 久 きゅう 四( 一一九三 )年に頼朝が富士野の 大 おお 巻 まき 狩 が りを催した際に伊豆国の 曾 そ 我 が 十郎 ・ 五郎兄弟が、父 河 かわ 津 づ 裕 すけ 泰 やす の 敵 かたき として 工 く 藤 どう 裕 すけ 経 つね を殺害するという有名な事件が起こる。父祖の間の相続問題に からむもので、 単なる仇討ちならば、 ここで問題とすべきことではないが、 工藤裕経を討ち取った後、 二人の兄弟は、 頼 朝 の 陣 営 に 切 り 込 み、 頼 朝 の 殺 害 ま で も 企 て て い る の で あ る( 勿 論 未 遂 に 終 わ る )。 と こ ろ が 彼 ら に 頼 朝 を 討 た ね ば ならぬ積極的理由はない。実は曾我兄弟は、時政にとって前妻の甥に当たり 烏 え 帽 ぼ 子 し 子 ご でもあった。二人は常日頃から 時政の館に出入りを許されており、時政から庇護されていたのである。 三 み 浦 うら 周 ひろ 行 ゆき 氏は、この事件の黒幕が北条時政で あったと 看 かん 破 ぱ しておられるが、確かに曾我兄弟が、時政からそそのかされ、頼朝殺害を企てたと考えた方が合点がゆ く。この巻狩の準備も、伊豆 ・ 駿河両国の守護である時政が行っていたものであった。この事件の直後に頼朝の弟 範 のり 頼 より が陰謀を企てたとして殺害されていることからすると、時政は、鎌倉殿の首を据え代えてしまおうと画策したのか もしれない。もしそうであるとすれば、この時点で既に時政は、鎌倉殿の 傀 かい 儡 らい 化を企てていたことになる。

頼家

・ 実朝将軍期の時政

  頼 朝 が 建 久 十( 一 一 九 九 ) 年 正 月 に 逝 せい 去 きょ す る と、 時 政 は 年 若 い 十 八 歳 の 二 代 将 軍 頼 家 に 容 赦 な く 牙 を む け る よ う に なる。頼家は父頼朝が敷いたレールに乗り将軍親裁を行おうとするが、時政はそれを許さなかった。正月に父の遺跡

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) を継いでから僅か三ヶ月後、頼家は直接訴訟を裁断することを禁じられてしまったのである。今後は、北条時政、江 間義時、大江広元、三善康信、 中 なか 原 はら 親 ちか 能 よし 、 三 み 浦 うら 義 よし 澄 ずみ 、 八 はっ 田 た 知 とも 家 いえ 、和田義盛、比企能員、安達盛長、 足 あ 立 だち 遠 とお 元 もと 、梶原景 時、 二 に 階 かい 堂 どう 行 ゆき 政 まさ 等の御家人十三名で合議を加え、その結果を将軍家に奏上することになったのである。この制度を勘 案したのが時政であったことはほぼ間違いない。注目されるのはこのメンバー構成である。まず第一に気がつくこと は、源氏「門葉」が一人もいないという事である。重臣幕閣の中に「門葉」がいないというのは、頼朝の「門葉」重 視の方針を否定するものであった。また、 幕府の政務機関の長官 ・ 次官( 大江広元、 二階堂行政、 三善康信、 梶原景時、 和 田 義 盛 ) や 親 頼 家 派( 比 企 能 員、 梶 原 景 時、 安 達 盛 長 ) を バ ラ ン ス 良 く 配 し て い る と い う 点 も 見 逃 せ な い。 時 政 は、 「門 葉」 偏 重 を は じ め と す る 頼 朝 晩 年 の 独 裁 政 治 の 弊 害 を 訴 え 、「侍」 層 の 結 束 ( = 共 和 体 制 の 樹 立 ) を 提 唱 し た の で あ ろう。権謀術数に長じた時政は、比企一族までもこの運動に巻き込むことよって、十三人合議制という新たな政治体 制 を 樹 立 さ せ た の で あ る( こ の 十 三 人 の 中 に 義 時 の 名 が あ る と い う 事 実 は 看 過 出 来 な い。 胸 底 を 見 透 か さ れ な い 様 に 周 到 に 人 選 が な さ れ た は ず な の に、 時 政 の 他 に 義 時 の 名 が あ る と い う こ と は や は り、 義 時 が 庶 子 家 の 当 主 で あ っ た こ と の 徴 証 と な り う る と 思 わ れ る )。 た だ し 血 気 盛 ん な 頼 家 は、 こ れ を 肯 がへ ん じ た わ け で は な く、 小 お 笠 がさ 原 わら 長 なが 経 つね 、 比 企 宗 むね 員 かず 、 比 ひ 企 き 時 とき 員 かず 、 中 なか 野 の 能 よし 成 なり 等を近習として側におき、彼らに特権を与えることで、 宿 しゅく 老 ろう 達に対抗しようとしたのである。   時 政 は、 翌 正 治 二( 一 一 二 〇 ) 年 正 月 一 日、 埦 お う は ん 飯 沙 汰 人 を 勤 め る こ と で、 つ い に 幕 閣 の ト ッ プ に 上 り つ め た こ と を 内外に示した。年始めに行われる歳首の埦飯は、鎌倉殿と御家人達との主従関係を再確認するものであり、御家人の 地 位 ラ ン キ ン グ 一 位 か ら 三 位 ま で の 三 人 が、 一 日 か ら 三 日 ま で の 沙 汰 人( 主 催 者 ) を 順 次 勤 め た。 頼 朝 期 に お い て は 千葉、足利、三浦、小山、宇都宮といった東国の豪族領主層が埦飯沙汰人を勤め、時政にはチャンスがなかったが、

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 新体制に移行すると、元日の埦飯沙汰人を勤めるまでにその政治的地位を高めていたのである。彼の実力は、この年 の四月に従五位下遠江守に昇進し、源氏「門葉」と同格になっていることからも窺えよう。時政は、力を蓄えながら 対立する頼家を徐々に追い詰めてゆく。頼家の第一の郎党と呼ばれる梶原景時を計略により追い落としたのはその序 曲であった。景時の不正を糾弾する御家人六十六人の連署からなる弾劾文を作成させ、景時をまず鎌倉から追放し、 駿河で一族共に殺害したのである。若い頼家には、時政の周到な狙いが読めなかったのであろう。   ただし、 頼家も時政をはじめとする宿老達の言いなりになっていたわけではく、 宿老達に 掣 せい 肘 ちゆう を加えるべく、 頼朝 以来の恩賞地の面積で五百町を越えるものを没収し、近臣たちに分与する計画を立てた。頼家はその準備の為に日本 全国の土地台帳たる 大 おお 田 た 文 ぶみ を使って調査まで開始したのである。これが宿老達の勢力削減と鎌倉殿の権力強化の方策 であることは明らかであった。しかしこの恩賞地没収策は、時政のみならず他の宿老達からも猛反発に遭い断念せざ るを得なくなる。御家人領の保護は、鎌倉殿にまず求められることであったので、御家人達から鎌倉殿としての適性 を問題視する声すら上がったはずである。時政は、このような御家人達の不満を拾いながら、専制指向の頼家を批判 したはずである。   時政は、 頼家を鎌倉殿の地位から引きずり下ろし、 娘の 阿 あ 波 わの 局 つぼね が乳母である弟の 実 さね 朝 とも を擁立せんと暗躍し始める。 こ の 動 き を 察 し た 頼 家 は、 実 朝 の 乳 母 夫 で あ る 阿 野 全 成( 頼 朝 の 弟 ) を 謀 叛 の と が で 誅 殺 し て し ま う。 頼 家 側 は、 全 成の妻である阿波局も追捕しようとするが、姉政子が身を挺してこれを拒んだ為、事なきを得る。幼い実朝の乳母夫 には時政が新たに就任し、頼家と時政との関係はますます険悪なものとなっていく。   建 仁 三( 一 二 〇 三 ) 年 七 月 に 頼 家 が 病 に 倒 れ る と、 時 政 は そ の 機 会 を 逃 さ な か っ た。 頼 家 が 危 篤 に 陥 おちい っ た と し て、

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 将軍家の遺跡についての評議を開催し、強引にその相続方法を取り決めてしまったのである。それは比企能員の娘、 若狭局を母とする六歳になる頼家の嫡男 一 いち 幡 まん に家督を継がせ、日本国惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を相続させ るが、十一歳の実朝にも関西三十八ヶ国の地頭職を相続させるというものであった。鎌倉殿の権力基盤を二つに分割 し て し ま う か く の 如 き 相 続 方 法 が 現 実 的 な も の で あ る と は 時 政 も 考 え て は い な か った は ず で あ る 。 時 政 の 真 の 狙 い は 、 一幡が家督を継承した後、これを外祖父として後見しようと考えていた比企能員を挑発することにあった。姻族の多 い 比 企 一 族 に 対 し て は、 時 政 も 簡 単 に は 手 を 出 せ な か っ た が、 策 略 を め ぐ ら し 比 企 派 の 有 力 御 家 人 安 達 景 盛( 比 企 尼 の 孫 ) を 自 ら の 陣 営 に 引 き 入 れ る こ と に 成 功 し た 時 政 は 、 つ い に 比 企 一 族 の 追 い 落 と し に か か った の で あ る ( 『吾 妻 鏡』 に は、 頼 家 と 安 達 景 盛 が 女 性 問 題 で そ の 関 係 を 冷 え 切 ら せ、 政 子 が 仲 裁 に 入 っ た 話 を 載 せ る が、 こ の 事 件 の 背 後 に は 時 政 が い たはずである )。この揺さぶりにより、 たとえ挙兵までには至らなくとも親頼家派が何らかの行動を起こすことを時政 は見越していたのである。それを口実として比企一族を核とする頼家派を一掃してしまおうというのが時政の狙いで あった。時政の術中にはまった比企一族は、軍勢を整える前に謀叛のかどで討伐される。比企氏の一族は一幡のいた 小御所に籠もって応戦したが、多勢に無勢で同年九月二日、一幡とともに皆殺しにされてしまう。頼家は、九月五日 に一幡および比企能員の死を知り、時政誅殺を命ずるが時すでに遅く、逆に捕らえられ、そのおよそ一ヶ月後には伊 豆修善寺に幽閉されてしまう。頼家の動きは時政側につつぬけであった。頼家を監視する為に時政は、政所別当の大 江広元と頼家近習の一人中野能成をも籠絡しておいたのである。とくに大江広元を自らの陣営に引き入れることに成 功した点は大きかった。広元は当時、将軍家の家政機関を束ねる立場にあり、その言動には影響力があった。時政と 政子は、広元を執拗に説き伏せ、実朝の擁立を認めさせたのである。時政は、頼家に気づかれない様に京へ使者を派

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 遣 し、 「 頼 家 が 病 死 し、 嫡 子 一 幡 も 討 た れ た の で、 実 朝 を 征 夷 大 将 軍 に 任 命 し て も ら い た い 」 と 申 し 入 れ て お り( 『 猪 いの 熊 くま 関 かん 白 ぱく 記 き 』 )、このクーデターが周到に計画されたものであったことを知るのである。   時政は、比企氏の乱を経て、政治の表舞台に登場する。同年九月十日、実朝を政子邸から自邸の名越邸に迎え入れ て時政はこれを後見した。同年九月十五日、実朝を従五位下征夷大将軍とする宣旨が鎌倉にもたらされ、同年十月九 日 に は 将 軍 家 政 所 の 吉 きつ 書 しよ 始 はじめ が 行 わ れ た 。 時 政 は 大 江 広 元 と 並 ん で 晴 れ て 政 所 別 当 の ポ ス ト に 就 任 し た 。 時 政 に と って は 初 め て の 政 務 機 関 の 長 へ の 就 任 で あ っ た。 い ち お う 二 人 の 長 官( 別 当 ) が 並 び 立 つ 形 で あ っ た が、 重 要 な こ と は 時 政 一 人 が 署 名 す る 幕 府 文 書( 「 関 東 下 くだし 文 ぶみ 」「 関 東 下 げ 知 ち 状 じょう 」「 関 東 御 み 教 ぎょう 書 しょ 」 ) に よ っ て 下 達 さ れ て お り、 権 力 の 所 在 は 明 ら かであった。   時政は遠江国の国守、伊豆 ・ 駿河両国の守護職をつとめていたが、さらに比企氏姻族の 島 しま 津 づ 忠 ただ 久 ひさ から薩摩国守護職 を 取 り 上 げ て、 己 の も の と し て い た。 ま た 武 蔵 国 の 有 力 豪 族 で あ っ た 比 企 氏 を 滅 亡 さ せ た こ と で、 関 東 御 ご 分 ぶん 国 こく ( 鎌 倉 殿 が 知 行 国 主 ) の 一 つ で あ る 武 蔵 国 の 経 営 に も 時 政 は 関 心 を 持 ち 始 め て い た 。 そ の 事 は 同 年 十 月 二 十 七 日 に 、 実 朝 が 武 蔵国の御家人達に対して、時政にふたごごろを抱くことのないよう、侍所別当の和田義盛を通じて命じていることか らも窺えよう。知行国主の政務機関の長官として国務に携わろうとしたのか、あるいは京都守護として在京していた 当 国 国 守 平 賀 朝 雅 の 国 衙 行 政 権 を 代 行 し た も の な の か は わ か ら な い が 、 時 政 が 武 蔵 国 に 触 手 を 伸 ば し た 事 は 疑 い な い 。   し か し、 武 蔵 国 に は 特 殊 な 事 情 が あ っ た。 武 蔵 国 に は、 留 る 守 す 所 どころ を 統 括 す る 惣 そう 検 けん 校 ぎよう 職 しき と い う 役 職 が 置 か れ て い た。 管国内の武士団を直接掌握していたのは国守ではなく惣検校職であった。したがって国守が国務を遂行する為には惣 検校の協力が不可欠であった。国守平賀朝雅のもと、 惣検校職を勤めたのは、 秩父氏の家督、 畠 はたけ 山 やま 重 しげ 忠 ただ であった。こ

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) の二人は共に時政の娘婿であったが、主導権をめぐり対 立することが多かったのではなかろうか。   時政は、比企氏を滅ぼした余勢をもって一気に武蔵国 を勢力下におこうと考えたが、それには人心を掌握して いる惣検校職の畠山重忠の存在が邪魔となったのであろ う。 元 げん 久 きゅう 二( 一二〇五 )年六月時政は、 国守平賀朝雅と の不和を口実に畠山重忠 ・ 重 しげ 保 やす 父子を誅滅してしまう。 ところが、畠山氏を追討したことによって時政は急転直 下、奈落の底へ突き落とされることになる。得意の絶頂 にあった時政にしてみれば、まさかこの事件によって、 足下をすくわれることになるとは夢にも思わなかったは ずである。しかもその首謀者は、前妻の子、政子と義時 であったのである。   長女政子は、常日頃からも時政の後妻牧ノ方との折り 合いが悪く、しかも我が子実朝を後見役である時政夫婦 に取り上げられてしまっていたので、時政夫妻に対して不満を募らせていた。そんな中、実朝の婚姻問題が、政子と 牧ノ方の関係を一層悪化させることになった。実朝の嫁選びについて政子は、同腹の妹を母とする足利 義 よし 兼 かね の娘を推 北条時政の主たる妻子 前妻* 時政 宗時 政範 女子(三条実宣室) 女子(稲毛重成室) 女子(平賀朝雅室) 女子(宇都宮頼綱室) 女子(坊門忠清室) 義時 時房 政子 阿波局(阿野全成室、源実朝乳母) 女子(足利義兼室) 女子(畠山重忠室) 牧ノ方 * 牧ノ方以前の妻は前妻として一括した。伊東裕親女以外で 知られているのは、時房の母、足立遠元の女である。

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 挙 し、 こ れ に ほ ぼ 決 定 し て い た の で あ る が、 後 妻 牧 ノ 方 の 横 や り が 入 っ た こ と に よ り、 元 久 元( 一 二 〇 四 ) 年 八 月、 前大納言 坊 ぼう 門 もん 信 のぶ 清 きよ の娘に突如変更されたしまったのである。牧ノ方は自分と縁故のある坊門家の娘こそ相応しいと時 政を説き伏せたのであろう( この娘は娘婿である坊門 忠 ただ 清 きよ の妹である )。坊門信清は、 時の治天の君、 後 ご 鳥 と 羽 ば 院 いん の実母 七 しち 条 じょう 院 いん の 弟 で、 二 人 の 女 子 を 後 鳥 羽 の 後 こう 宮 きゅう に い れ、 さ ら に 二 人 の 女 子 を 順 じゅん 徳 とく の後宮に入れる程の実力者であったから、 時政自身が、 坊門家との 縁 組 み の 方 が 利 が あ る と 考 え た 結 果 か も し れ な い が 、 政 子 に し て み れ ば 、 前妻の子供達に対する時政の非情な仕打ちと映ったに違いない。   弟の義時も同じような不満を募らせていた。前述した様に、時政は後 妻牧ノ方との間に生まれた政範を嫡子として溺愛し、前妻の子義時を遠 ざけてきた。時政 ・ 義時親子の両者の間に如何なる確執があったのかは 不明であるが、後妻の存在が大きかったことは間違いなかろう。幸い頼 朝が、時政を牽制する為に義時を側近としたので、御家人としての面目 を得ることはできたが、父時政には、庶子家の当主としてしか扱われな かった。それでも義時は父の命に従い、その後も行動を共にしてきたの であるが、ついに義時の堪忍袋の緒が切れるときがやってくる。元久元 ( 一 二 〇 四 ) 年 十 一 月、 宗 家 嫡 子 の 政 範 が、 在 京 中 に 頓 とん 死 し す る。 こ れ に よって自分に宗家嫡子の座が回ってくると思っていた矢先、時政は予想 北条時政の墓(願成就院)

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 外の行動に出る。子の義時ではなく、孫である義時の次男朝時を宗家に迎えようとしたのである。朝時は泰時の弟で はあったが、正室である比企朝宗の娘を母とする第一子であったので、本来であれば義時の嫡子として跡を継ぐべき 身だった。しかし時政によって画策された比企氏の乱の為、義時は、心ならずも比企氏の娘を離縁せざるを得なくな り、その子朝時も廃嫡せざるを得なかったのである。ところがその要因を作った時政が、その朝時を宗家に迎えよう というのだから、義時もこれには我慢がならなかったはずである。時政にしてみれば比企氏の乱の戦後処理により、 比 企 朝 宗 の 遺 領 や 守 護 職( 加 か 賀 が ・ 能 の 登 と ・ 越 えっ 中 ちゅう ) 等 を 引 き 継 い で い る 朝 時 こ そ、 宗 家 を 継 が せ る の に 相 ふ さ わ 応 し い と 考 え た のであろう。義時は、姉政子と連携をとりながら、父時政を失脚させる機会を窺うことにした。   そんな折、時政が人望のある畠山重忠の誅殺を企んでいることを知る。畠山重忠の妻は、政子の妹であり、時政は またしても前妻の子供達を犠牲にしようとしていたのである。政子と義時は、これぞ好機と立ち上がる。義時は常の 如く父の命に従い畠山氏討伐軍に加わったが、鎌倉に帰ると、この謀叛が牧ノ方の娘婿 稲 いな 毛 げ 重 しげ 成 なり の捏造であったこと を声高に主張し、兵を進め稲毛一族を討ち取ってしまう。またそれと同時に、平賀朝雅の讒言を真に受けた牧ノ方が 黒幕であるとの風聞を流すことも義時は忘れなかった。ついに時政―牧ノ方陣営の切り崩しにかかったのである。そ してそのおよそ一ヶ月後の閏七月十九日、娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようという牧ノ方の陰謀が露見したとし て、義時は有無も言わさず時政夫婦のもとから実朝の身柄を奪いとってしまう。この鮮やかなクーデターにより、時 政は失脚する。義時は都にいる平賀朝雅を誅殺したのをはじめ、牧ノ方のもう一人の娘婿、 宇 う 都 つの 宮 みや 頼 より 綱 つな の「謀叛」を 追求するなど、牧ノ方与党を表舞台から引きずり下ろし、幕府政治は政子―義時体制に移行することになる。藤原 定 てい 家 か は そ の 日 記『 明 めい 月 げつ 記 き 』( 閏 七 月 二 十 六 日 条 ) に「 時 政 の 嫡 男 義 時 が 時 政 に 背 き、 将 軍 実 朝 の 母 子 と 同 心 し て、 継 母 の

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 党を滅ぼした」とほぼその真相を記している。   クーデター当日に出家に追い込まれた時政は、翌二十日、伊豆国北条への隠居を強いられた。義時、政子の見事な 手 並 み に、 時 政 は ほ く そ 笑 ん で い た か も し れ な い。 建 けん 保 ぽう 三( 一 二 一 五 ) 年 一 月、 隠 いん 棲 せい 先 の 北 条 の 地 で 時 政 は 七 十 八 歳 の生涯を終える。 参考文献 池谷初恵『鎌倉幕府草創の地―伊豆韮山の中世遺跡群―』 (新泉社、二〇一〇年) 石井   進『日本の歴史7   鎌倉幕府』 [文庫版] (中央公論社、一九七四年)   同      「比企一族と信濃、そして北陸道」 (『石井進著作集第五巻』所収、岩波書店、二〇〇五年) 今井雅晴「北条時政の信仰(上) (下) 」( 『仏教史研究』第 29巻第2号 ・ 第 30巻第1号、一九六一 ・ 一九六二年) 小野眞一『裏方将軍 北条時政』 (叢文社、二〇〇〇年) 岡田精一「武蔵国留守所検校職に就いて―北条執権政治体制成立史の一齣―」 (『学習院史学』第 11号、一九七四年) 河合正治「北条時政」 (安田元久篇『鎌倉将軍執権列伝』所収、秋田書店、一九七四年) 菊池紳一「北条時政発給文書について―その立場と権限―」 (『学習院史学』第 19号、一九八二年) 佐藤進一『増補鎌倉幕府守護制度の研究―諸国守護沿革考証編―』 (東京大学出版会、一九七一年)   同      『日本の中世国家』 (岩波書店、一九八三年) 白 根 靖 大「 中 条 家 文 書 所 収「 桓 武 平 氏 諸 流 系 図 」 の 基 礎 的 研 究 」( 入 間 田 宣 夫 編『 東 北 中 世 史 の 研 究   下 巻 』 所 収、 高 志 書 院、 二 〇 〇 五 年) 杉橋隆夫「富士川合戦の前提―甲斐路『鉢田』合戦考―」 (『立命館文学』第五〇九号、一九八八年)   同      「 牧 ノ 方 の 出 身 と 政 治 的 位 置 ― 池 禅 尼 と 頼 朝 と ―」 ( 上 横 手 雅 敬 監 修『 古 代 ・ 中 世 の 政 治 と 文 化 』 所 収、 思 文 閣 出 版、 一 九 九 四 年) 関   幸彦『日本氏リブレット人〇二九   北条時政と北条政子』 (山川出版社、二〇〇九年)

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鎌倉北条氏列伝(一)北条時政(長又) 永井   晋『鎌倉幕府の転換点―『吾妻鏡』を読み直す―』 (日本放送出版協会、二〇〇〇年) 野口   実「伊豆北条氏の周辺―時政を評価するための覚書―」 (京都女子大学宗教 ・ 文化研究所『研究紀要』第 20号、二〇〇七年)   同      「北条時政の上洛」 ((京都女子大学宗教 ・ 文化研究所『研究紀要』第 25号、二〇一二年)   同      「「京 武 者」 の 東 国 進 出 と そ の 本 拠 地 に つ い て ―大 井 ・ 品 川 氏 と 北 条 氏 を 中 心 に ―」 (京 都 女 子 大 学 宗 教 ・ 文 化 研 究 所 『研 究 紀 要』 第 19号、二〇〇六年) 原   茂光「伊豆韮山「北条氏邸跡」発掘調査の成果と課題」 (『日本史研究』四一三、一九九七年) 細川重男 ・ 本郷和人「北条得宗家成立試論」 (『東京大学史料編纂所研究紀要』第十一号、二〇〇一年) 三浦周公『新編 歴史と人物』 [文庫版] (岩波書店、一九九〇年) 村井章介『中世の国家と在地社会』 (校倉書房、二〇〇五年) 森   幸夫「伊豆守吉田経房と在庁官人北条時政」 (『季刊ぐんしょ』再刊第8号、一九九〇年) 安田元久『武蔵の武士団―その成立と故地をさぐる』 (有隣堂書店、一九八四年)

参照

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