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わたしと哲学 : 白鴎大学の四十年を振り返って

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Academic year: 2021

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わたしと哲学

︱︱白鷗大学の四十年を振り返って

 

 

 

﹁一隅を照らす、これすなわち国宝なり。 ﹂︵最澄︶ 本 学 最 後 の 授 業、 基 礎 ゼ ミ ナ ー ル を 終 え て 研 究 室 の 机 で ひ と 息 つ い て い る と、 ﹁ 先 生、 昨 日 の 最 終 授 業 で 渡 し そ び れ たので⋮。前期と後期の基礎ゼミナールほんとうにありがとうございました﹂と、照れくさそうにK君が小さな花束を わたしの研究室の扉からそっと差し入れてくれた。真っ赤なガーベラの花束。自分で買ったのだろうか。それともお母 さんに買ってもらったのだろうか。まさか彼女ではないだろう。どちらにしても、なけなしの小遣いをはたいてくれた にちがいない。ありがとう! そして、ようやくわたしに昨日の最終講義の様子が蘇ってきた。 ⋮ わ た し は 四 十 年 の 長 き に わ た り 本 学 で 哲 学 や 倫 理 学 を 講 義 し て き ま し た。 い や、 そ れ 以 外 に も 教 養 テ ー マ 講 義、 メ デ ィ ア と 倫 理、 ゼ ミ ナ ー ル、 そ れ に ド イ ツ 語 や 英 語 な ど も 担 当 し て き ま し た。 当 初、 ﹁ 最 終 講 義 ﹂ な ど は 自 分 の 柄 に 合 わないとお断りしようと思いましたが、四十年という年月の重さを考えますと、やはり何か語っておく義務があるので はないかと考え直し、最終講義を引き受けることにしました。しかも、わたしは本学で﹁小山市民開放講座﹂を最初に

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始めた四人の教員の一人でしたし、それが縁で、一九九四年から市民の皆様や学生の有志と毎週夜遅くまで﹁市民ゼミ ナール﹂をわたしの研究で開催しましたし、そのあとも益田先生や学生の有志と一緒に﹁ハイデガー講読会﹂を毎週木 曜 日 に 開 催 し て き ま し た。 さ ら に、 法 学 部 で は 清 水 正 義 先 生、 三 浦 顕 一 郎 先 生、 そ の 他 の 先 生 方 と﹁ 両 大 戦 間 の 世 界 研 究 会 ﹂ を 立 ち 上 げ、 不 定 期 で は あ り ま し た が、 計 十 一 回 の 研 究 会 を 重 ね、 ﹃ 第 一 次 世 界 大 戦 と 現 代 ﹄ ① と い う 立 派 な 本 も 出 版 で き ま し た。 本 日 も、 そ う し た 折 々 に 出 会 っ た 皆 さ ん が 出 席 さ れ て お ら れ ま す。 そ の よ う な 訳 で、 つ た な い 話 に な り ま す が、 自 分 が こ れ ま で 本 学 で 歩 ん で き た 道 を ふ り 返 り な が ら、 自 分 が 体 験 し た こ と、 自 分 な り に 考 え て い る こ と な ど に つ い て 物 語 っ て み た い と 思 い ま す。 ﹁ 物 語 ﹂ は、 ご 存 知 の よ う に、 英 語 で stor y で す。 こ れ か ら の 話 は my stor y 、皆さんから見ますと、 his stor y 、つまり単なる histor y ︵歴史︶にすぎないと聴き流して貰えると嬉しいです。 学生の元気な声に励まされ! 黒板を前に、そして黒板を後にする、ただこれだけがわたしの人生にすぎないと西田幾多郎は大学を退職する最終講 義で語っていますが、自分にはそのような気のきいた言葉が思いつきませんし、黒板にしがみつくほど真摯に、熱心に 哲学に打ち込んだ記憶もありません。 振り返りますと、初めて白鷗大学︱︱当時は、白鷗女子短期大学でしたが︱︱を訪れたのは一九八〇年でした。その とき、上岡條二先生︵現理事長︶に連れられて一緒に旧短大の五号館の屋上に上りました。上岡先生はそのとき思川の 方 向 を 眺 め な が ら、 ﹁ こ こ に 将 来 四 年 生 大 学 が で き る 予 定 で す ﹂ と 話 さ れ ま し た が、 わ た し の 眼 に は、 残 念 な が ら、 一 面 の 桑 畑 と 雑 草、 そ し て 砂 利 を 乗 せ て 砂 煙 を 上 げ る ダ ン プ カ ー の 姿 し か 見 え ま せ ん で し た。 マ ル ベ リ ー ホ ー ル は ま だ 建っていません。五号館以外には短期大学本館、体育館、それに小さな建物がいくつかポツンポツンと点在していただ

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けで、道路は未舗装、雨の日には長靴でも履かないと歩けないほどで、まだ短期大学を囲む塀も正門もなく、本館の目 の前を砂利道が走っていました。 昨年末、たまたま大行寺校舎に用事があり、取り壊された短大の建物の跡地を感慨深げに眺めていたところ、遠くか ら、 ﹁ 的 場 先 生、 何 を し て い る の で す か。 こ ん な と こ ろ で!﹂ と 若 い 教 育 学 部 の 体 操 の 先 生 に 元 気 な 大 き な 声 を か け ら れました。わたしの教師生活四〇年は、桑畑と雑草と砂利を眺めることから始まり、大学の大きな建物が建ち並び、そ して思い出深い短大の建物が忽然と消えた、ということになりましょうか。 いや、若い先生に元気な大きな声をかけられたと言いましたが、若い短大生の﹁先生!﹂という、希望に満ちた大き な元気な声にはじまり、そして今も元気な学生、若い先生、若い事務局員、そして市民の皆さんに元気な温かい声をか けられてきた〝充実した四十年〟であった、という方がむしろ適切でありましょう。 はじめて教壇に立ったとき 今も新鮮に思い出します。一九八〇年、わたしが三十歳のときに、はじめて本学の教壇に立ちました。教室は五〇一 教 室、 科 目 名 は﹁ 哲 学 ﹂、 半 期 科 目 で し た。 は じ め て 女 子 学 生 の 前 に 立 っ た わ け で す か ら、 わ た し は 足 が 震 え ま し た。 黒板に文字を書いたあと、学生の方に目を向けるのがとても怖かった記憶があります。教室一杯の女子学生がわたしに 熱 い 眼 差 し を 向 け て い る の で す か ら。 恩 師 上 妻 精 先 生 か ら は、 ﹁ 結 婚 指 輪 を ち ゃ ん と し て 授 業 を し な さ い ﹂、 ﹁ 特 定 の 女 子学生を見つめてはいけない﹂とあらかじめ厳しく指導されました。 当時、短大には幼児教育科二部が併設されていて、授業は夜間でした。昼間の講義が十四時三十分に終わるので夜間 の講義開始の十八時までは結構時間があります。時間がありましたので、食堂で若い女子学生と楽しい歓談の時間を過

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ご し ま し た。 ﹁ 喫 茶 店 で ア ル バ イ ト し て い ま す。 遊 び に 来 て 下 さ い ﹂、 ﹁ 彼 氏 の こ と 相 談 し た い ﹂、 ﹁ 四 年 制 大 学 に 行 き た かったけど、浪人できませんでした﹂ 、﹁就活で悩んでいます﹂など初々しい恋愛相談、人生相談など四方山話に花を咲 か せ ま し た。 ﹁ 教 師 冥 利 に 尽 き る と は こ の こ と だ よ ﹂ と 恩 師 上 妻 先 生 が よ く 仰 っ て、 研 究 室 の 扉 を 開 け 放 っ て 学 生 と 大 きな声で歓談されていましたが、わたしもそのとき、先生の真似をさせて貰っている、真に〝哲学する〟とはじつはこ んなことをいうのではないだろうか、とそんな充実感に満たされました。 その年の六月十日にわたしの長女・温子が生まれました。千グラムの極小未熟児で、妻の帰郷先の山形県では県内三 番目に小さな未熟児でした。障害が残るかも知れない、と県立病院の先生に脅されました。わたしは授業どころではあ りません。そんなとき、たまたま経営学科一年生に、自治医科大学の看護師をしながら本学に在籍している女子学生が い て、 わ た し の 相 談 に い ろ い ろ と 乗 っ て く れ ま し た。 わ た し は そ れ で 随 分 と 元 気 づ け ら れ ま し た。 そ の 学 生 の 名 前 は ﹁小泉清子﹂ ︵仮名︶といいました。いろいろと話をしているうちに、彼女の出身高等学校がわたしの妻の実家のすぐそ ばの高校で、しかも実家の前の道が彼女の通学路だったというのです。なんという奇遇でしょう。今回の﹁最終講義﹂ に当たって彼女に感謝の言葉を伝えたいと思い、大学の同窓会にも手伝ってもらい連絡してみましたが、残念ながら、 探し当てられませんでした。 よし、潮時だ! わたしが本学の専任講師になったのは一九八二年四月です。わたしが学生と歓談する様子を、亡くなられた前の理事 長 が ご 覧 に な っ て い た ら し く、 ﹁ 得 が た い 先 生 だ!﹂ と わ た し に 声 を か け て 下 さ っ た の で す。 現 上 岡 條 二 理 事 長 も わ た しの就職には骨を折って下さいました。ありがたいことです。じつは、専任教員になる前の二年間、就職相談室で学生

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の相談相手になって欲しいと週二回通っていました。子どもができて大変だろうと、お気遣いされたのだと思います。 事務仕事ですが、わたしにとっては学生と話ができますし、事務の方々とも仲良くすることができましたので、楽しい 思い出の一頁でもあります。専任教員になってもいないのに、おかしなことですが、短期大学の新聞﹁白鷗新聞﹂を年 二回編集発行までしましたし、事務の方々と一緒に箱根に一泊旅行にも行きました。とても楽しい経験でした。あの頃 は、学生、教職員の距離はとても近かったと思います。ちょうどこの年、わたしの大学院の指導教授はドイツに一年間 滞在して不在でした。そのためか、大学院の研究室の空気は何かぎこちなく、何かバラバラの状態でした。そんな有り 様ですから、わたしの気持ちはおのずと白鷗女子短期大学の方に傾きました。第一、若い学生の笑顔や元気な声には逆 ら え ま せ ん。 ﹁ 自 分 に は 子 ど も が 産 ま れ た し、 家 庭 も し っ か り と 維 持 し な け れ ば な ら な い。 年 齢 も 三 十 二 歳、 よ し、 潮 時 だ。 こ の 学 校 で 頑 張 ろ う。 ﹂ そ ん な 思 い で 白 鷗 女 子 短 期 大 学 に 専 任 講 師 と し て 就 職 し、 住 居 も 小 山 市 に 決 め ま し た。 もちろん、この決断は良かったといまでも思っています。 わたしの哲学への関心 わたしの白鷗大学就職当時の話はそこまでにして、哲学への関心についてお話ししましょう。 わ た し は ハ イ デ ガ ー を 中 心 に ヘ ー ゲ ル や ニ ー チ ェ や デ ィ ル タ イ と い っ た ド イ ツ 哲 学 を 中 心 に 研 究 し て い ま す 。 い わ ゆ る ド イ ツ 観 念 論 哲 学 で す 。 難 解 で も あ り ま す 。 そ う し た 関 心 か ら 、 ド イ ツ に は 短 期 長 期 を 合 わ せ て 三 度 留 学 し ま し た 。 わ た し は 東 京 の 主 要 大 学 の 研 究 者 に 声 を か け て ﹁ ハ イ デ ガ ー 研 究 会 ﹂ を 立 ち 上 げ ま し た 。 そ の 縁 も あ っ て か 、 実 存 思 想 協 会 の 理 事 ・ 理 事 長 ま で つ と め ま し た 。 そ ん な お 堅 い 、 わ た し の 専 門 に 関 す る お 話 は 別 の 機 会 に す る と し て 、 こ こ で は 学 生 や 市 民 の 皆 さ ん か ら 教 わ っ た 〝 哲 学 す る こ と 〟 の 面 白 さ に つ い て 、 感 謝 の 思 い を 込 め な が ら お 話 し し よ う と 思 い ま す 。

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わたしが短期大学に就職した経緯については先ほどお話しした通りです。専任教員になってみますと、なんと英語の 教師として英語科に配属されました。正直、不本意でした。英語には︵正直︶まったく興味がありませんし、九州の田 舎の出身︵関係者には失礼!︶ですから、英語の発音はめちゃくちゃです。当然ながら、ドイツ語とは疎遠になりまし たし、哲学とも、残念ながら、お別れです。これには困惑しました。ところが、運が良いことに、英語講読の演習を担 当することになりました。向井千代子教授のお心遣いだったと感謝しています。演習なら受講者は少人数ですし、学生 とも親しくなりましたから、夏休みに思い切って尾瀬で三泊四日の夏合宿を行いました。宿泊先は、今でも覚えていま す﹁樹根巣﹂というペンションで、参加者は女子学生十人でした。哲学の本を読んだり、尾瀬の木道を歩いたりしまし た。これはとても楽しく、大学院時代とはまったく違った哲学の学びを教えられました。面白い!そう思ったものです から、夏合宿を毎夏の恒例の行事にして、ここで哲学書を読むことにしました。わたしには毎年夏休みが待ち遠しくて なりませんでした。尾瀬の他、長野県の戸隠、開田高原、埼玉県の長瀞、福島県の猪苗代と合宿先を変えながら、毎年 夏合宿を行いました。わたしが都内の大学で哲学を教えはじめますと、成蹊大学、早稲田大学、お茶の水女子大学、東 京大学の学生達も参加し、静岡大学の教員も参加し、盛大な合宿になりました。この合宿からは後に研究者になった学 生も出てきました。 市民ゼミナーールのこと そんなときに、市民大学開放講座が始まりました。短期大学の夜間の講義に小山市民が参加する、というのです。小 山市民という大人の前で哲学の話をする。経験豊かな、市民の皆さんの前で哲学の講義をする。初めての経験ですし、 最初のその試みに若いわたしが指名されました。小山市としても最初の試みですから、当時の船田章小山市長もわたし

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の 講 義﹁ 哲 学 ﹂ に 熱 心 に 耳 を 傾 け て く れ ま し た。 ﹁ 愛 と 理 性、 こ れ が 小 山 市 に は 必 要 だ ﹂ と 市 長 が い わ れ た こ と を 今 で もよく覚えています。この言葉は白鷗女子短期大学の校歌にも出てくる言葉で、わたしも好きな言葉です。市民の皆さ んと一緒に哲学を学び、一緒に話し合う。夏合宿の面白さを実感していたときだけに、市民の皆さんの反応をじかに知 る喜びにはまた別の面白さを感じました。最近﹁哲学カフェ﹂などという言葉をよく耳にしますが、わたしは当時そん な気の利いた言葉は知りませんでしたが、いち早く学生や市民の皆さんと〝哲学すること〟の喜びは実感していました し、充実感も感じていました。 そんなときに、小山市民の高昌さん、麻生さん、外島さん、小久保さんから﹁授業とは別に、わたしたちと一緒に哲 学 書 を 読 ん で い た だ け ま せ ん か?﹂ と 声 を か け ら れ ま し た。 い や、 正 し く は、 わ た し が 皆 さ ん に、 ﹁ 一 緒 に 哲 学 の 本 を 読みませんか﹂と手紙を書いたのだと思います。講義でニーチェについて話をしたところ、皆さんの反応が良く、わた しもとても楽しかったものですから、一緒に哲学書を読みたいと思いましたし、市民の皆さんも学生時代に感動した哲 学書をもう一度読み直してみたいと思われたのだと思います。ちょうど夏合宿の面白さを知ったところでしたし、大人 の 方 々 と 哲 学 に つ い て 語 り 合 い た い と 思 っ て い た と こ ろ で し た か ら、 ﹁ よ し や り ま し ょ う ﹂ と ま ず ハ イ デ ガ ー の 文 学 論 ﹁ 乏 し き 時 代 の 詩 人 ﹂ を 読 み、 学 生 時 代 に 影 響 を 受 け た と い う 小 山 市 職 員 小 久 保 さ ん の リ ク エ ス ト に 応 え て マ ル ク ス の ﹃経済学哲学草稿﹄ 、そしてニーチェやマルクスに決定的な影響を与えたヘーゲルの﹃精神現象学﹄を読みました。さす が に、 ﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ は 大 部 で 難 解 で す か ら、 ﹁ わ た し に は 無 理 で す ﹂ と お 断 り し た と こ ろ、 ﹁ 先 生 は お 話 し が 上 手 で す から、大丈夫です﹂と皆さんに押し切られてしまいました。短大の授業が終わった夕方、研究室に毎週集まり、お茶を 飲み、世間話を交えながら、哲学談義に花が咲きました。春休み夏休みも、できる限り、続行した記憶があります。お

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互 い 若 か っ た の で し ょ う。 そ の う ち、 学 生 も 参 加 し て く れ ま し た。 小 谷 君、 新 井 君、 宮 地 君、 新 山 君、 植 竹 君 そ の ほ か、数おおくの学生諸君!そのおおくは、留年を重ねて友人がいない学生とか、進路に悩んでいる学生とか、他の大学 にほんとうは行きたかった学生とか、そんな︱︱〝問題を抱えた〟︱︱学生たちばかりでしたが、市民の皆さんの温か い声に励まされ、元気づけられたりして皆無事に社会に巣立っていきました。こんな哲学の在り方もあるのだ、とわた しは市民の皆さんに、そして学生諸君に教えられました。わたしは恩師の影響もあり、難しいドイツ語の哲学書をコツ コ ツ と 読 み 込 ん で い く の が 哲 学 研 究 だ と 思 っ て い ま し た し、 大 学 の 哲 学 研 究 者 と い う も の は そ の よ う に し て 論 文 を 書 き、業績を上げていくのだと信じていましたが、図らずも、市民の皆さんに、いや学生に、歓談しながら哲学すること の面白さというものを教えられました。 哲学、自由な対話の場 哲学というと、日本では西田幾多郎や田辺元などの、いわゆる京都学派の影響が強いのか、どうしても深刻な顔で人 生を論じたり、難解な言葉を口にしたり、自殺をするのではないかとハラハラされたり︱︱したがって、いつも元気な 的場先生は哲学をやっているとはとても思われませんが︱︱して、とっつきにくい学問のように思われますが、しかし そもそも古代ギリシアのソクラテスは若者との対話を楽しんでいますし、プラトンの著作はすべて対話でできています し、アリストテレスも学生と散歩しながら哲学しています。そんなことを考えると、わたしが市民の皆さんや女子学生 に 教 え ら れ た 哲 学 の 喜 び は け っ し て 間 違 っ て い な い し、 邪 道 で も な い こ と に な り ま す。 い や、 そ れ ど こ ろ か、 哲 学 の 〝本道〟ではないか、と思っています。 哲学とは、哲学するとは、大人が、自由で対等な市民が、同じく対等な立場で話を楽しみながら真理を求め合うこと

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である。わたしは今、確信を持って、そんな風に考えていますし、そんな思いで本学の講義もゼミナールもやってきま した。大学に自由な対話の喜びを!と大きな声で叫びたいところです。 市民の皆さんと始めた市民ゼミナールは現在も﹁ハイデガー講読会﹂と︵いかめしく︶名前を変えて存続し、毎週木 曜日の午後四時半から七時くらいまで、皆さんに教えていただいたとおりに、お茶を飲み世間話を交えながら、ハイデ ガーの一九二八年の講義﹁現象学の根本問題﹂を益田勇一先生、学生の佐藤君、榊原さん、亀山君、田名網君、市民の 八木さん、横山さんと一緒に大学本館八階のラーニング・コモンズで開催しています。ただし、いまはドイツ語原文を 読み合っていますが。この講読会は退職後もずっとずっと続けていきたい、と思っています。それから、法学部の教員 有志で作った﹁両大戦の世界研究会﹂はこれからもぜひ続けていきたいという頼もしいお言葉を先日三浦顕一郎先生か らいただきました。 これからやりたいこと ﹁先生、退職したら、二三年後に死にますよ。用心してね﹂と都内の大学で仲良くしているアメリカ人から言われま し た。 あ と ど れ だ け 生 き る の で し ょ う。 ど ん な 仕 事 が で き る の で し ょ う。 わ た し は 自 分 が 老 い た こ と を 感 じ て い ま す し、意欲が薄れてきていることを感じます。正直、恐ろしいことです。恩師上妻先生は六十五歳の〝若さ〟で亡くなり ました。大学時代、大学院時代に教わった諸先生は皆鬼籍にはいっています。そんなことを考えていたところに、講読 会に毎回参加して下さっている横山岩男さんの著作中に﹁老いの豊かさ﹂②という言葉を見つけました。その言葉はキ ラリと光っていました。わたしは嬉しくなりました。 老いに豊かさがあるとすれば、いや絶対に老いは豊かなのですから、わたしは次のような、やり残した仕事を成し遂

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げたいと思います。 市民や学生の皆さんから教えられた講読会の面白さについて少々歴史を遡って調べたいとすこし思っています。哲学 にせよ、哲学史にせよ、わが国では個人の哲学思想ばかりが研究され関心をもたれますが、哲学のサークル、勉強会、 読書会がじつは哲学にとって重要だったのではないかと考えています。テーマは〝哲学サークルと哲学〟ということに な り ま し ょ う か。 江 戸 時 代 の 寺 子 屋 な ど は そ ん な 色 彩 が 強 か っ た の で は な い か と 見 て い ま す。 わ た し の 住 ん で い る 上 尾 市 の 氷 川 桑 神 社 に も、 天 明 八 年︵ 一 七 八 八 年 ︶、 江 戸 の 昌 平 黌 の 学 職 雲 室 ③ を 呼 ん で 儒 学 や 詩 作 や 画 作 を 楽 し ん だ 学 舎・聚正義塾︵しゅうせいぎじゅく︶の石碑があります。 ハイデガーは学生時代から研究していますので、ハイデガーについて、特にディルタイとの関係からまとまった仕事 を仕上げたいと思っています。これについてはちょこちょこ論文を発表してきましたので、これらを体系的に纏めたい と思っています。 ハンス・リップスという哲学者が気がかりです。彼の著作の翻訳と、彼についての論文を書きたいです。 と は い え、 ﹁ 青 年 老 い や す く、 学 な り が た し ﹂ を 痛 感 し て い ま す。 そ し て 同 時 に、 自 分 の 非 才 と、 自 分 の 怠 惰 を た だ 嘆くばかり。しかし、 ﹁老いの豊かさ﹂ 、この言葉に誘われて、退職後もすこしあがいてみたいと思っています。 ⋮ たしか、昨日そんな話を最終講義でしたように覚えている。 いつものように研究室の扉に鍵をかけ、エレベーターで八階から二階に下り、事務局前のメールボックスを確認し、 身 分 証 明 証 を か ざ し て﹁ 帰 宅 ﹂ を 打 刻 し、 ひ と り 階 段 を 下 り よ う と し た と こ ろ、 ﹁ 先 生、 今 日 も 素 敵 な お 花 を お 持 ち で

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すね。昨日はほんとうにたくさんの方々が出席されてましたね。卒業生や一般の方々もたくさん来られてました。うら やましいかぎりです﹂ 。そんな声を守衛さんにかけられた。 いや、ほんとうにありがたいことです。 注釈 ①的場哲朗︹編著︺ ﹃第一次世界大戦と現代﹄白鷗大学法政策研究所叢書7、丸善プラネット株式会社、2016年。 ②横山岩男﹃作歌初心   横山岩男評論集﹄国民文学叢書第583篇、新星書房、2019年、 14ページ。 ③ 雲 室︵ 一 七 五 三 ︱ 一 八 二 七 ︶ は 山 水 画 を 得 意 と し た 江 戸 時 代 中 期 の 画 家 で、 そ の 知 識 を 買 わ れ 一 七 八 一 年 江 戸 幕 府 直 轄 の 学 校 昌 平 黌 で 儒 学を講じた。一七九二年、昌平黌を辞職し、江戸の光明寺の住職を務めながら余暇に儒学の講義、詩作、画作などを続けたという。

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