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『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア

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(1)(論 文). 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. キーワード. 『こころの華』 『大八洲学会雑誌』 短歌 メディア 郵便. 一. 歌はやがて人の心の花なり 佐々木信綱 . 二. 松 岡 秀 明. 明治期にメディアは大きく変容した。歌にかかわるメディアも例外ではない。歌はどのような場でたちあらわれ、どのように流通するようになったの. はじめに . 一. だろうか。本稿の目的は、『こころの華』 (明治三十一年[一八九八]創刊)第一巻の構成および内容を検討するするとともに、先行する歌にかかわる雑. Vol.16 No.1 November 2011. 誌と比較することでこの問題の一端を考えてみることである。 国際経営・文化研究 . — 106 —.

(2) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 二. 明治期の『こころの華』には、落合直文や与謝野鉄幹といった新派の歌人、そして正岡子規、伊藤左千夫、長塚節ら根岸派の歌人も投稿している。また、. 井上哲次郎、坪内逍遥、幸田露伴、土井晩翠、森鴎外らが評論や小説を寄稿している。このような特徴を考えると、小泉苳三が言うように『こころの華』. 三. は「歌壇の総合雑誌」という性格を有してだけでなく(小泉 一九五五、二〇八頁)、杉本邦子が指摘するように歌壇のみならず文壇に寄与するところが. 四. 大きかったと考えることができる(杉本 一九九九、一〇三頁) 。しかしながら、創刊当佐々木時の『こころの華』(文壇の総合誌へと向かう方向性の萌 芽は認められるものの、独特な性格を持つものである。. 『こころの華』創刊号を紙面の構成順に概観する。次に、創刊号を主として創刊当時の『こころの華』の特徴を分 本稿は次のような構成を採る。まず、. 析する。第三に、明治十九年(一八八六)に創刊された『大八洲学会誌』およびその後継誌である『大八洲雑誌』 (明治二十五年四月、第七〇号をもって. 五. — 105 —. 『大八洲雑誌』と改題)を検討し、創刊当時の『こころの華』との連続性と不連続性に考察をくわえる。そのことによって創刊当時の『こころの華』の特 徴をよりはっきり と 浮 き 彫 り に す る 。. 一 『こころの華 』 創 刊 号 の 概 観. 『こころの華』は、こ 佐々木信綱が主宰する竹柏会は、明治二十九年十月『いささ川』を創刊するが、三十一年一月発行の第七号をもって廃刊とする。. の『いささ川』を継承する形で創刊され、その第一号は明治三十一年(一八九八)二月十一日、すなわち紀元節に定価十銭で発行された。表三の奥付には、. 編集者として石榑辻五郎(千亦の本名 明治二[一八六九] 昭和十七[一九四二])の名があり、その住所は「東京都赤坂区青山北町二丁目三十二番地」. 『いささ川』の地の白に黒で誌名を印刷した簡素なそれと比較すると、かなり豪華である。. 。花に胡蝶を配した多色刷りの表紙は、先行誌の 表紙は、図案は美術学校教授の川崎千虎、表題は大口旅師が貫之の字を模したものである(六十四頁). 振られているが、それ以降頁数は通しで振られている。以下、表紙から順に内容を概観する。. 、 〈文学史料〉 、 〈文苑〉 、 〈漫録〉 、 〈詞海〉 、 〈雑報〉 、 〈学園〉から構成されている。 〈発行の詞〉は、独自の頁数が 紙面は、〈附録〉、〈発行の詞〉、〈講演〉. とある。発行者は井原豊作、発行所はこゝろの華発行所で、その住所は石榑の住所と等しい。. −.

(3) 〈発刊の辞〉 )の間に、表も裏も二段組みとなっている橙色の頁がある。表上段には、「本誌発行につき賛成の諸君左の如し」とあ 表二(目次)と 一 頁 (. り、二十一名の名前がいろは順で記されており、高崎正風、落合直文、小杉榲邨、佐々木信綱、下田歌子、平田盛胤、本居豊穎、鈴木重嶺らの名がみえる。. この裏の上段には「こころの華課題投稿規則」が、下段には「特別広告」と銘打って歌文同攻会の広告が掲載されているが、これらについては後にふ れる。. こ の 橙 色 の ペ ー ジ を 捲 る と、『 こ ゝ ろ の 華 』 創 刊 号 の 巻 頭 の 頁 と な る。 こ こ か ら は 一 段 組 み で あ る。 二 頁 半 ほ ど の〈 発 刊 の 詞 〉 の 最 後 に は、「 明 治 三十一年二月/(以下、/は改行を示す)編者しるす」とある。. 、坂正臣「歌語の雅俗」 、佐々木信綱「我らの希望と 先述のように次の頁から新たに頁番号が振られ、まず〈論説〉が現われる。高崎正風「歌の眼目」. Vol.16 No.1 November 2011. 六. 三. — 104 —. 疑問」、白かしのや主人(大口鯛二の号) 「句法の変遷」 、懐山「海氏両大利器」が収められている。文の長さは、それぞれ二頁から四頁程度である。. 、 〈文学史料〉は、伊能穎則の「楫取魚彦伝」である。続く〈文苑〉は、 「明治三十一年一 次の〈講演〉は、大口旅師(大口鯛二の別号)の「贈答の歌」. 月歌御会始御題詠進」としての題の「新年雪」とともに、四十四名の歌が山階宮大勲位晃親王から皇后宮職(ぐうしょく、ぐうしき)御用係鶴久子まで. 官位の順に掲載されている。それに続き、坂正臣、佐々木信綱らの歌文がみえる。この構成には、天皇を頂点とするヒエラルキーが反映されている。. 〈 」 な ど あ わ せ て 四 つ の 文 が 収 め ら れ て い る。 〈 詞 海 〉 は、 「歌 漫 録 〉 か ら は 二 段 組 み と な り、 佐 々 木 信 綱 寄 と あ る「 賀 茂 真 淵 翁 撰 古 今 集 百 首( 上 ). 四十一首、長歌一首、新体誌六首、文章三篇」を収める。歌は一人一首が掲載し、作者のなかには信綱の弟佐々木昌綱(後に印東昌綱(明治一〇[一八七七]. 昭和十九[一九四四])、編集者石榑千亦の名がみえている。 〈雑報〉は、表紙の解説、附録、御歌会の兼題等々文字通りさまざまな記事九つを収める。. 掉尾を飾るのは〈学園〉と題された兼題詠歌である。創刊号の題は「雪中鶯」で、佐々木信綱の撰になる六十三首が掲載されている。 「天地人」上位三. 国際経営・文化研究 . 投稿の締切りは二月二十日であった。つまり『こころの華』は創刊号から全国規模で流通していたと考えられる。そしてこのことは、郵便制度がしっか. 日本橋区、上総、札幌、出雲、讃岐、伊予、摂津、丹波、美濃、下総、阿波、長崎、尾張、等々。第二号は明治三十一年三月十一日に発行されている。. いる。第二号からは出詠し掲載された者全員の住所が記されている。天から順に列挙すると、次のごとくである。信濃国上伊那郡、岐阜県岐阜市、東京. 首が選ばれ、三首あわせて評が付されている。この上位三名のみ住所が記されているが、名古屋市、尾張国西春日井郡清洲町、東京都小石川区となって. . −.

(4) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. りと機能していたからなしえたことなのである。. 二 いくつかの特徴 (一)いわゆる旧 派 の 影 響 力 の 大 き さ. 四. 「本誌発行につき賛成諸君左の如し」には、坂正臣、 創刊当時、『こころの華』にはいわゆる旧派の歌人たちが大きくかかわっていた。先述のように、 高崎正風、大口鯛二、小杉榲邨、平田盛胤、本居豊穎、鈴木重嶺ら旧派の重鎮が名を連ねている。. 以下、第一巻の場合、巻数は省略する. からは樅の木先生という号を用いている) 。さらに、創刊. なかでも、坂正臣、大口鯛二、小杉榲邨、本居豊穎、高崎正風は積極的に『こころの華』にかかわっている。鈴屋派の坂正臣は創刊当時の『こころの華』 で「学園」の課題文の撰者をしている(第一巻第八号. ここにあげた四人の旧派の歌人のなかで、しかし、 『こころの華』創刊号で最も重要な役割を担っていたのは高崎正風である。高崎は当時御歌所長を務. 高崎が歌会始の「新年御題に応じ詠進せられたる懐紙を模し之を優美なる石版にとりたるもの」である(六十四頁) 。ちなみに、 「文苑」にも掲載されて. には、最初に「附録」として「高崎御歌所自筆詠新年雪懐紙」と記されている。創刊号の「雑報」の「本誌付録」と題された記事によれば、この付録は、. めており、男爵であった。信綱は、明治十五年(一八八二)十一歳のときから正風に師事していた(佐々木 一九五九 二十三~二十六頁)。表二の目次. . 候(全十五名)となった(同前 五〇~五一頁)。彼らは明治三十一年の歌会始に参加しており、それぞれの歌は「文苑」に収められている。 . 第七号で発布された御歌所官制によって、本居豊穎と坂正臣が寄人(全七名)となっている。一方、二十三年にすでに御歌所に入っていた大口鯛二は参. 解説する「万歳」と題された文を書いている。そして、本居豊穎は〈文苑〉に「新年の詞」を草している。この三人のうち、明治三十年十月宮内省達甲. 首を寄せている。一方、鈴屋派の小杉榲邨は〈文苑〉に、歌四首旋頭歌二首と「新年梅」という題の文を寄せ、〈漫録〉には古今の事例を引きつつ万歳を. 一九五五 五十三頁)、「白かしのや主人」の別号で、やはり〈論説〉に「句法の変遷」を、大口旅師の別号で〈講演〉に「贈答の歌」と〈文苑〉に歌五 . 号 の〈 論 説 〉 に「 歌 語 の 俗 雅 」 を 書 き、 〈 文 苑 〉 に 歌 二 首 を 載 せ る。 小 泉 に よ れ ば「 元 来 江 戸 派 で あ る が 桂 園 派 の 歌 風 に 近 づ い た 」 大 口 鯛 二 は( 小 泉 . −. いるその歌は、「あたらしき年のみつぎともゝしきのおほうちやまにふれる白雪」である(二十九頁) 。また、高崎は『こころの華』に歌論等を寄稿する. — 103 —. −.

(5) 予定で、「其他の意見を示さるゝ筈なれば其歌学社会に益すること蓋し甚少にあらざるべし」と説かれており(同前) 、高崎の権威および影響力の大きさ が伝わってくる。. 、 〈漫録〉に「星岡歌話」 (講演) 、第三号〈文苑〉に「従一位近衛忠𠘑公歌集序」、第十号の〈文苑〉に一 事実高崎は、第二号の〈文苑〉に「芳園集序」. 首、および第二巻第二号〈硯海〉(第二巻第一号からの新たなセクション)に三首、第二巻第六巻には〈筆陣〉 (第一巻の〈論説〉は、第二巻からこのタ イトルに変更され た ) に 「 歌 の 暗 号 」 、 〈硯海〉に歌一首、第二巻第八号に〈筆陣〉に「歌の要点」を発表している。. 七. 『こころの華』を旧派の雑誌と考え、それを批判したものもあったようだ。第三号〈雑報〉の こうした高崎らの活躍、さらに紙面の構成(後述)に、. 「辯妄」には、『こころの華』が「宮内省派の機関などゝ旧派的にいふもの」という説が紹介されていることはこのことの証左となろう。 「辯妄」の執筆者. 一九五五. 、反御歌所を表明するとともに古今論者を批判していた(同 二一四頁) 。懐山という筆 二〇七頁). ひとくちに旧派といっても、彼らが歌の伝統を墨守することを主張しているばかりではない。坂正臣は先述の「歌語の雅俗」で、いたずらに過去の歌. る(十一頁)。また、竹の里人の論説、すなわち子規が新聞日本誌上に二月十二日から連載された「歌よみに与ふる書」について、論評を加えている。 . の詞を用いる必要はないとし、「漢語もよみいるべし。洋語もとりつかふべし」と主張しているのである(六頁) 。. 五. 『こころの華』は必ずしも宮内省派の機関」や「旧派的」なものではない。しかし、御歌所にかかわる重鎮 したがって、内容をつぶさに読んでみれば、. Vol.16 No.1 November 2011. が多く執筆している事実から読者が短絡的に判断してしまうと、旧派的ということになるのである。. 国際経営・文化研究 . — 102 —. (無記名)は、それは誤りであると反駁する。. 本誌は苟くも歌文の研究を以て世にでたり決して一局部について云々するものにあらず故によしとたもへば如何なるものと雖も之に賛成するを憚らず. 海上氏にも竹の里人にも左袒すべき点には左袒するなりあしとたもへば又いかなるものと雖も反対すると妨げず(第三号 六十三頁下 六十四頁上) 。 . . )を指す。海上はすでに明治二十二年四月に短命に終わったものの『わかむらさき』 海上氏とは、海上胤平(文政十二[一八二九] 大正五[一九一六]. −. 名の執筆者は「海氏両利器」で、三句切れをよしとする桂園派を攻撃する「歌界の壮士」であるとされる「海上氏の論も固陋といふべし」と批判してい. と い う 雑 誌 を 創 刊 し た 人 物 で あ り( 小 泉. −.

(6) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア ヒエラルキー. (二)上 下関係の 明 確 さ. 六. 旧派の影響力の大きさは、創刊当時の『こころの華』に示されているヒエラルキーとつながっている。皇室にかかわるものからみていこう。第一節で. みたように、 「文苑」には明治三十一年一月の歌御会始に出詠した四十四名の歌が位階の順に掲載されている。また、 「雑報」には、明治三十一年度の御歌. 会の兼題が一月から十二月までと紀元節および天長節の十四が記されている。一方、第一巻第四号表二の次の頁は青であり次のような文言が認められる。 本誌は 畏くも 天皇陛下 皇后陛下 皇太子陛下 御覧を賜ふの栄を得たり 右謹みて愛読者諸君に告ぐ これは第九号まで 続 く 。. 『こころの華』にかかわる人も、歌や文が一段組みの頁に掲載されるか二段組み掲載されるかで、上下関係が示唆されていると考えられる。しかし注目 . したいのは、のちに見る保守派の歌人たちが拠った『大八洲学会雑誌』に見られる官位の明示の仕方よりは官位にこだわりが認められないことである。. (三)歌の大衆化 と い う 方 向 性 「特別広告」に掲げられている「歌文同攻会趣旨」には、次のような文言が認められる。 . 八. 神代よりうけしわが固有の文学も、年所を経るにしたがひ、自ら浮華に流れ其実に乏しからむとす。 (中略)一には斯道のために微力を奮ひ、一には 同攻者の交誼 を 厚 ふ せ ん む と す. — 101 —.

(7) ここには、歌の現状と未来にかんする危機感を見て取ることができる。同様の意識は、文末に「編者しるす」とある〈発刊の詞〉により鮮明に示される、 それは、次のように書き起こされている。 こころの華は、ふかくみ国風の文をきはめ、歌をひとめむと、おほけなくも、我らのおこししなり。. 続けて〈発刊の辞〉は、「文も歌も進むべき勢なく、油尽きたる燈火の如く、漸く衰へて漸く消えむのみ」とする説を紹介し、それに対する反論を展開す るという構成をと っ て い る 。. 国には自ら国の姿あり、国の魂あり、わが姿とわが魂とを、いひあらはすは、わが国人ならざるべからず(一頁) 。. われらは、わが国の万代をうたふと共に、この文の万代にさかえむことを祈る。そはわが国の姿をとゝのへ、わが国の魂をうしなはぬことにつとめ むとする人のしをりなればなり(二頁) 。. 明治期の日本は、さまざまな制度を欧米から輸入することによって、急速に近代化していった。日本の言葉によって日本という国の魂をあらわすのは 日本人でなければならないという主張は、当時の状況に即したものである。. 「歌」と「文」である。ここで、看過してならないのは俳句に対する対抗心である。明治期の俳句のメディア さて、『こころの華』が問題とするのは、. を論じた秋尾敏の『子規の近代』によれば、明治に入ってからの俳句にかかわる出版物は明治二十二年(一八八九)をピークとして、明治期に二千冊ち. かく刊行されている。(秋尾 一九九九)であれば、 『こころの華』第二号〈雑報〉の「平民の歌」という文に次のようなくだりがあることは、注目して. 0. 0. 0. 高崎正風は、創刊号に寄せた「歌の眼目」の冒頭で紀貫之の「心におもふことを見るもの聞くものにつけていひいだせるなり」という『土佐日記』の. 平民文学として俳句のみに身を委ねるを要せむ(六八頁) 。. 大に歌ひ大に詠じて明治の大御代における諸種の方面よりこの国粋を発揮し人心の琴線にふるゝもの続出するに至らんことを希ふいかでか世に所謂. おく必要がある。. . 七. 一節を引用してい る 。 高 崎 は 続 け て 、 「おもひとは上天使より下庶人にいたるまで」 (傍点高崎)生きている人間が持つさまざまな感情であるとする。 (一. Vol.16 No.1 November 2011. 頁)。すなわち、身分の高貴にかかわりなく人間は感情を持ち、それを歌として表現することができる、という主張である。 国際経営・文化研究 . — 100 —.

(8) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 八. 歌の普及という点で注目すべきは、規則の最初にある「一 こゝろの華課題の歌文は何人と雖も投稿する事を得」という文言である。誰でも短歌や文. 章を投稿できるのというのである。現代の結社が発行している結社誌は、会員、すなわち一定期間の会費を収めた者が短歌を投稿する権利を持つのが一. 般的であり、『こころの華』はこの点で現代の結社誌と異なっている。また、後述するようにたとえば『こころの華』に先行する『大八洲学会雑誌』を発. 行していた大八洲学会も会員制となっており、歌にかかわる団体がどのくらいの割合で会員制をとっていたかは現在まで続く結社のプロトタイプがいつ 成立したかにかかわる興味深い問題で、今後調査したいと考えている。 以上を勘案すれば、小泉の次のような指摘が理解されるのである。. 竹柏園は弘綱・信綱二代にわたつて、国民詩としての和歌の一般性のうへに立ちその普及に努めるところがあつたのである。このことは近代和歌史 上にとどめられるべきことである。 (小泉 一九五五、二〇五頁) 。. 三 うたにかかわる先行メディア. 『こころの華』の創刊号巻末は、橙色の広告の頁となるが、その前に二頁の〈雑報〉がある。さまざまな記事が掲載されている〈雑報〉は、当時を知る うえで重要な情報源である。たとえば、次のような記事がある。. 「和歌をむねとせる雑誌」には「筆の花」 「敷島」 「詞林」 「大八州雑誌」 「うた」地方にては「浜萩」 「国風」「歌文学」 「やまと歌」 「さちのひかり」等 なるべしこれらの諸雑誌ともにいよ〳〵斯道の為に力をつくされんことを祈る(六十四頁). (柳城社、林陸夫、前田頼實主幹が名古屋市( 『こゝろの華』第二号、 ここに見える雑誌のいくつかを検証してみたい。まず、地方では『さちのひかり』. 六九頁に依る)、『歌文学』が鳥取県東伯軍上小鴨村、 『国風』が伊勢国鈴鹿郡椿村、 『はま萩』が伊勢国鈴鹿郡関町で刊行されている。本稿執筆時点で刊. 行している場所が判明したのはこの四誌だけだが、大都市ばかりか町や村でも出版が行われていることは注目に値する。郵送されていたこれらの雑誌が. では、東京で刊行されていた雑誌はどうか。ここにあげられている雑誌のなかから、主として東京とその近郊で読まれていたと考えられる『筆の花』. 一定の期間存続していたということは、郵便制度が十全に機能していなければありえなかったと思われる。 . — 99 —.

(9) と、全国的に流通していた『大八洲雑誌』を取り上げてみたい。. 『筆の花』は、東京の花雨吟社が発行していた和綴本の月刊誌である。明治二十一年三月発行の創刊号(第一集)巻末近くには東京で開催されていた歌 . 会が紹介されている。この記事は、『筆の花』が東京とその近郊の読者を想定していたと考える論拠である。歌会、主催者等々を整理すると以下のように. 翠園. 花雨吟社. 名 称. 佐々木弘綱. 鈴木重嶺. 水原史郎. 主宰者. 神田区小川町. 牛込区神楽町. 神田区中猿楽町. 住 所. 毎月十一日. 記載なし 発納会. 毎月八日. 開催日. 日本橋浜町相模屋 あるいは 自宅. 自宅. 麹町区万亀樓 その他 神田区今川小路玉川堂. 自宅. 開催場所. なる。. 竹柏園. 毎月十八日. 日本橋区浜町. 日本橋区蛎殻町. 毎月十三日. 麹町区万亀樓 その他 自宅. 網野延平. 新橋区浜町. 毎月二十五日. 自宅(松岡註:発会と納会しか記載がなく、それほど活発ではないと思われる). 蓬園. 鶴久子. 小石川区水道町. 記載なし. 川村女校(会主宅と同じ). 自宅. 鶴氏 中島歌子. 下屋区練堀町. 毎月十一日. 自宅. 毎月二十日. 萩の舎 大野定子. 麻布区芝森本町. 毎月二十一日. 四谷区仲町. 不二園 川村重子. 赤坂区氷川町. 自宅. 加藤安彦. 川村女校 服部磯子. 記載なし. 松園. 服部氏. 麻布区永坂町. すけのぶ. 九. 伊藤祐命. Vol.16 No.1 November 2011. 柳園. 国際経営・文化研究 . — 98 —.

(10) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 既にこれほど多くの歌会が東京都心で開かれていたのである。さらに「会約」には、 一 本社毎月一回小集し課題の吟詠を披講し且即詠互撰競点以て各自の才調を闘はしむ. 十. とあり、『筆の花』が結社的な性格を持ち独自の歌会を開催していたことが分かる。二頁オには明治二十一年一月歌会の記録がある。題は「炉辺迎新」. で、正二位の藤波教忠から始まり従五位の鈴木重嶺(この歌人は、 『筆の花』の賛助会友でもある)までの七名の歌が載っている。また二頁ウには佐々木 弘綱作の けたものゝ炭さしそへて鶯のはつねの年をむかへつる哉. が見える。弘綱は、特定の雑誌だけに限って歌を寄せていたのではなかったのであろう。六ウには、 「甲部即詠互撰高点歌 掲載ノ順は点数二従フ」題は 「七福神之内」であり、五人の歌が載っている。ちなみに最高点は、鈴木重嶺の 四の緒の琴もてあそふ此神は宝をさへやひきあつむらん である。. 『筆の花』は郵送も受け付けていたのである。花雨吟社の しかし一方で、『筆の花』には歌会という地域的な限定を超えようとする意欲も感じられる。 「会約」には、次のように記されている。. 一 遠地出詠物の為別に乙部競争点を儲く課題の詠と共に寄贈あらば会日匿名にて来会者の各評に付し其高点なる者数首を筆の花に掲載す. 郵便を積極的に活用していた『大八洲雑誌』に目を転じよう。 『大八洲雑誌』は全国規模で流通し、後述するように明治二〇年代半ばには購読する会員. 『筆の花』がどれほどの読者を獲得していたかは詳らかにしないが、詠草を郵送するシステムも併用していたことは時代の趨勢を感じさせる。 . が二五〇〇名を超えていた雑誌である。この『大八洲雑誌』は、先述の『こころの華』創刊号の「和歌をむねとせる雑誌」にあげられている雑誌のなか でも、は大きな影 響 力 を 持 っ て い た 。. 『こころの華』第一巻と同時期の『大八洲雑誌』をみてみよう。明治三十一年(一八九八)一月十六日発行の『大八洲雑誌』巻之一三九は、 〈本文〉 、 まず、. 〈記事〉、〈広告〉の三つのカテゴリーから構成され、それぞれに頁が振られている。表紙を開くと、表二に目次が現われる。頁番号が振られていない次の. — 97 —.

(11) 頁には、伊藤圭介翁揮毫の詩画が刷られている。後述する〈記事〉のカテゴリーの先頭に現われる「巻首の摺り物」と題された一文によれば、この「巻 九. 首の摺り物」は、会員のなかで最も年長の伊藤圭介(九十六歳)の手になる。. 本年九十六歳の高齢に達つせられたるも猶钁鑠として壮者の如くなるはいとも目出度ことなりされば本会は会員諸君も翁に因みて共に幾久しく栄え 給へとの心より特に其の揮毫を乞ひて擦り物となし本誌の巻首に加へたり(記事一頁). 巻頭に権威ある者の書を据えるという方法である。先にみたように、 『こころの華』もこの手法を採っており、当時の誌面構成のひとつのパターンであっ たと思われる。 〈論説〉 、 〈考証〉 、 〈漫録〉 、 〈文苑〉 、 〈記事〉に分けられる。 「巻首の摺り物」に続く「本文」は七十二頁からなり、. — 96 —. 〈文苑〉には、「文章 数編/和歌 数十首/兼題撰歌 数百首」が掲載されている。. 一〇. 「雑誌延刊の理由」 、 「会費未納者へ雑誌配送に付ての注意」と続くが、これらは現代の 「記事」は六頁で、先に示した「巻首の摺り物」を初めとして、. 結社誌にも見られる記事である。次の三項目からなる記事「本月より雑誌改良のことにつき前号の誌上に載せたる告示の如し」の内容は、興味深いもの である。. 『こころの華』のそれと類似していることがわかる。 『こころの華』は、先行する『大八洲雑誌』を範とした 以上、『大八洲雑誌』の構成をみてきたが、. 一方、この号では読者に対して、論説、考証、漫録を寄稿することを促している。そして、その理由として「従来附録兼題の詠歌大かりしが為め」と. 可能が考えられる 。 . している。逆に考えれば、それだけ出詠数が多かったことになる。 「本文」の四十七頁から七十二頁までの二十六頁が〈文苑〉に充てられており、歌を送 るものが多く編集者もいささか困惑していた様子がうかがわれる。. しかし、この雑誌は歌に特化した雑誌として創刊されたのではない。それでは、この雑誌はどのような経緯で発行されるにいたったのか。創刊号に立. 十一. 明 治 二 十 七[ 一 八 九 四 ] ) 、 小 杉 榲 邨( 天 保 五[ 一 八 三 四 ] −. 大 正 二[ 一 九 一 三 ] ) 、 国 学 者 久 米 幹 文( 文 政 十 一[ 一 八 二 八 ]. Vol.16 No.1 November 2011. −. ち戻ってみよう。『大八洲雑誌』は、明治十九年(一八八六)八月十日に創刊された『大八洲学会雑誌』をその前身とする。宣長の曾孫である本居豊穎 ( 天 保 五[ 一 八 三 四 ]. 国際経営・文化研究 . −.

(12) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 明治四十三[一九一〇])の三人が会主となって創設した会である。顔ぶれをみれば会の保守的な性格は明らかである。. 十二. 先の三人の会主および五人の幹事の連名で、巻頭に「大八洲学会創立之趣意」が掲載されている。この文には、日本の「三千年の久しき制度の沿革」. を知るには学術が必要だが、学術は不振である。そこで「大八洲学会を開設し、盛んにこの額を四方に普及せんと欲す」と記されている(一頁)。これに. 関連して、会主の一人久米幹文の演説筆記「大八洲学会の微意」に、次のように論じる。日本では「中古より、漢学仏学のみ行なはれて、自国の書をよ. める人」(二〇頁)が非常に少なく、 「他国のが国のみなづみて、自国の額を勉る者」が少ない(同前) 。この結果、将来「つひに人も書もうせはて」とい. う事態にいたる(二十一頁)。この危機意識にもとづいて、大八洲学会は設立されたのである。そして、この学会は郵便を積極的に活用して、多くの人々 とつながろうとし た 。 創刊号の表二には「大八洲学会規則概略」が示されているが、その第一条は次のようなものである。. 本会ハ通信を以て、互に質問答弁し、神典、歴史、辞章、散文/語格、農、工、商業、芸術、産物、地理、風俗等の古今沿革を亮知するを目的とす、. 、すなわち『大八州学会雑誌』によって行なわれることが第六条に明記されている。先に 通信とは毎月十日に会が発行して郵送する雑誌(一号三十銭) 引いた久米幹文の「大八洲学会の微意」には、次のようにある。. 今は全国の人自由に交通して、何事もおもふがまゝなれば、吾学の道をおしひろめんとするにも、ふるき株をまよらんやはとて、この大八洲学会を. まうけたり、さてな一はいふもさらなり、沖縄県の人も、北海道の人も、ともに心をあはせ、郵信をもておのおもひのこすをなく問答講究して、互 に長短あひおぎなふ時は、いかにめでたからざらむ、 (十九〜二〇頁) ここには、新たな情報通信の手段としての郵便を積極的に活用していこうとする姿勢が明確に示されている。. 「篤志にして清貧の者ハ入会 大八洲学会は、次のようにメンバーを決めていた。第三条によれば、入会金五十銭を支払えば誰でも入会できる。ただし、 金を要せず」と追記されており、真摯な人物を積極的に会員にしようとする意志が感じられる。. また、添削の制度も完備していた。この背景には、芸術は師から弟子へ伝えられるという認識がある。久米幹文は、次のように述べている。. 凡そはかなき歌文書画などの芸術も、おのづから師伝口授などありて、修業をつむにあらねばその境に入りがたし、(二十一頁). — 95 —.

(13) 巻頭の「大八洲学会創立之趣意」には、 「また作歌、文章も添削を請ふ時は、加朱して返達すべし」とあり(二頁) 、規則概略の第五条には、次のように 書かれている。. 会員質問添削を乞ふときハ質問ハ、十條以下、長歌ハ五首以下、短歌ハ二十首以下、文章ハ三編以下を以て、各一回とす、その各種一回ごとに、手 数料金十銭を添て送付あれ、但会員より発する質問添削の郵便税ハ、往復とも自弁たるべし、 この文言には、郵便制度の確立によって組織が成立していることが明確に示されている。. 先にみたように入会金が五十銭、雑誌一冊が三十銭に対して、添削料は十銭である。第八条によれば、雑誌料と添削の手数料として「郵便小為替或ハ. 壱円銭の郵券を以て送付あるも妨けなし」一方、会員はこの会が出版する書籍(後述)を定価の三割引きで購入できるという次の特典がある(規則概略 第七条)。. ではどのような人が歌を寄せているのか。創刊号の三十七頁から四十頁までに長歌和歌合わせて二十一首が、歌が作者名と官位あるいは住所とともに. 掲載されている。住所や官位なしで名前のみが付されて歌が掲載されているのが心の花の佐々木信綱、そしてその父信綱である(三十八頁)。 大八洲学会のなりたるを悦ひて 佐々木弘綱 日にそへてしけりやそはむうこきなき大和島根のふみの林は 同 同 信綱 あきらけき御代の光りをひかりにてまはひの道やひらけ行らん 作者の住所を列記してみると次のようになる。. 阿波通町、陸前松山、阿波高田、播磨姫路、美濃駒塚、阿波沖浜、佐渡北方、阿波寺島、同西横町、越後小向、阿波棚野、岩代二本松、相模、伊豆三島…。. 十三. 創刊号からなぜ全国から詠草が送られているのだろうか。推測の域を出ないが、各地の歌の先達が、 『大八州学会雑誌』という雑誌が創刊されるから歌を 寄せるよう弟子たちに促した可能性があろう。. Vol.16 No.1 November 2011. 大八洲学会は、会員数については、巻之五(明治十九年十一月十日発行)に次のような記載を見出すことができる。 国際経営・文化研究 . — 94 —.

(14) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 特別会員甲部 華族 池田鑑子君 酒井文子君 松平乗承君 細川利義君. 十四. 此他通常会員七月号附録を以て広告以後凡そ三百五十余名の入会ありこれを総計すれば新旧八百数十名となる(六十三頁). ここから、華族は特別なカテゴリーの会員となっていることが分かり、組織内のヒエラルキーを見て取ることができる。しかし、いま論じている事象に. とって重要なのは、会員数がすでに八〇〇を超えていることである。すなわち、この段階で『大八州学会雑誌』は全国規模で多数の会員を抱える団体と. な っ て い た の で あ る。 ち な み に、 明 治 二 十 五 年( 一 八 九 二 ) 九 月 一 日 に 創 刊 さ れ た 歌 の 雑 誌『 歌 林 』 の〈 雑 報 〉 第 一 頁 に は、 「大八洲学会々員目下 二千六百余りの諸君あり」と記されており、大八洲学会はその後の会員数を増やしていったことが知られる。. 四 結論. 以上、創刊当時の『こころの華』とそれに先行する二つの雑誌を見てきた。これら三つの雑誌の連続性と不連続性を検討することで創刊当時の『ここ ろの華』の特徴を 検 討 し て み た い 。. 『筆の花』には、『大八洲学会雑誌』や『こころの華』に認められるような歌についての危機意識は認められない。歌会を重視しているが、郵便を活用 . しようという姿勢も持っていた。一方、創刊当時の『大八洲学会雑誌』には、歌のみならず日本の伝統が失われつつあることに対する危機意識が明確に. 現われている。そしてそれゆえに郵便を積極的に活用して、日本全国の人々とコミュニケーションをとり、様々な論議を行なおうという意欲が感じられ. る。時を経るにつれ、歌の投稿雑誌という性格が強くなっていくが、しかし出発点には右に指摘していたような気概が認められる。一方、その論調は天. それに対して、創刊当時の『こころの華』に文や歌を寄せている者の顔ぶれを見た限りでは、守旧派の雑誌のように見える。しかし、第二節で示した. 皇制を絶対として伝統を重んじるというもので、伝統をひろく人々に伝え学ばせようという啓蒙的な姿勢である。 . ようにその内容は、旧派と考えられている者が新派のような主張をしていることもあり、新派/旧派という二元論に拘泥するのは適切ではない。旧派を 一方の極、新派を一方の極とする連続性を想定する方が分析には妥当であろう。. — 93 —.

(15) 次に、誌面構成について考えてみたい。ある雑誌を創刊しようとするとき、編集者は先行する同じ領域の雑誌があればそれを参照しその構成を考える. と思われる。『こころの華』と、先行する『大八洲雑誌』の誌面構成には連続性が認められるが、この誌面構成が当時の歌にかかわる雑誌に一般的であっ たかは今後検討し た い 。. いずれにせよ、創刊当時の『こころの華』は『大八洲雑誌』と近い誌面構成をとるが、その内容は明治三十年代の雑誌として、歌の大きな変容期に立 ち会っているもの な の で あ る 。. 文献 秋尾敏 一九九九 『子規の近代』東京:新曜社 小泉苳三 一九五五 『近代短歌史』東京:白楊社 佐々木信綱 一九五九 『作歌八十二年』東京:毎日新聞社 杉本邦子 一九九九 『明治の文芸雑誌』東京:明治書院. 注 一 佐々木信綱は、明治三十七年(一九〇四)以降佐佐木信綱という表記を用いており、本稿では「佐々木」を用いる。 . 二 創刊当時の該当雑誌は、表紙は「古ゝ路乃華」 、目次や表三には「こゝろの華」と記されている。本稿では、以下「こころの華」を用いる。 . 三 当時「歌壇」という言葉はまだ使われていなかったようである。『こころの華』では、「歌学社会」(第一号 六十四頁上)、「歌人社会」(同 六十五頁上)。 . 四 本稿における検討の対象を第一巻に限定したのは、以下のような理由に拠る。明治三十三年四月の『明星』の創刊を契機として、その後はいわゆる新派が影響力を増していく。そ. Vol.16 No.1 November 2011. 十五. れにともなって、 『こころの華』もその内容を大きく変容させていく。しかし、『こころの華』の内容はそれまでにも創刊号からその内容を漸次変わってきており、それについては 別稿で論ずるためである。. 国際経営・文化研究 . — 92 —.

(16) 『こころの華』第一巻と歌にかかわる当時のメディア. 十六. 五 『いささ川』 (第五〜七号披見)いずれの号も、表四すなわち裏表紙に、明治二十九年十月三日 内務省許可 明治三十年三月十七日 逓信省認可 とある。ヴォリュームは、第五. 号七四頁+広告二頁、第六号八十頁+広告二頁、第七号一一〇頁+広告八頁で、高崎正風、与謝野鉄幹、佐々木弘綱、佐々木信綱らが寄稿している。ちなみに鉄幹は、第七号に「鎌 倉遊草のうちに」と題して いまさらに誰の夢をかおどろかすかまくら山のいりあひの鐘. 天明二[一七八二])は江戸中期の賀茂真淵門下の国学者。本姓伊能。. こゝも誰が花のやしきのあとならむ苗代水にかはづなくなり の二首を発表している(十八頁) 。 六 楫取魚彦(かとりなひこ 享保八[一七二三]. 七 「旧派」という言葉の初出ははっきりしていない。しかし、この記述をみると、すくなくとも明治三十一年(一八九八)には用いられていたことが判明する。なお、 『こころの華』 創刊号には「宮内省派」 「平民一派」 、 「桂園一派」という言葉も見えている(六十五頁)。. 八 『こゝろの華』創刊号の「雑報」(六五頁)によれば、この会は石榑千亦、井原義矩が明治三十年(一八六八)八月に「我国今日歌文界の弊風を一洗せんとて起したるもの」である。 . 石榑と井原は「竹柏園の社友」 (七頁)で、本稿本文に示したようにそれぞれ『こゝろの華』の編集者と発行者であり、歌文同攻会が竹柏園と密接な関係にあることが伺われる。. ちなみに、この会の会費は月三十銭で、歌二題で毎月一回集会を行なうとともに、月二回文章二編、歌四題の課題を出している。明治三十一年二月分の課題は、文章が「わが父母」 「初めて鶯をきく」で、歌が「海上霞」 「幼稚園」となっている。. 九 伊藤圭介(享和三[一八〇三]〜明治三十四[一九〇一])は、日本で最初に理学博士号を授けられた植物学者。小石川植物園に出仕を 明治十四年(一八八一)、東京大学理学 . 』名古屋:古屋大学附属図書館、二〇〇一年)収集の諸論考を参照されたい。. 部員外教授となった。 「雄しべ」 「雌しべ」 「花粉」という言葉をつくったのは伊藤である。伊藤については、名古屋大学附属図書館編『江戸から明治の自然科学を拓いた人 伊藤 圭介没後壱〇〇年記念シンポジウム. まつおか ひであき: 淑徳大学 国際コミュニケーション学部 人間環境学科 教授. (受理 平成二十三年九月二十六日). −. — 91 —. −. 一〇 ただし、山村僻地で会からの通知が届くのが遅れたため滞納になった場合は勘案するとある。. −.

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