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ベルクソン『創造的進化』における直観と生(いのち)の理論 -記憶力の形而上学的基礎づけ-

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Academic year: 2021

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(1)−. いのち. ﹃創造的進化﹄における直観と生の理論. 記憶力の形而上学的基礎付け. ベルクソン − ヽ. 隆. ﹁張り拡ってs︺賢帝n賢帝﹂. 宮崎. LaきかOri2d2−aくi22こ、inどi江Ondans加害∼ミ訂3C訃≠3.Cqd2謬rgsOn︰ −2fOnd2m2n︷m舎aphysiqu2d2−amかmOir2. ﹁張りが緩むsed瞥en争e﹂ごとくに. ゆく︵EC﹀NO♪NO00﹀N念︸etC.︶。そこに在るのは自動的な運動のみである。この運. で、ゼンマイの. クソンの生物進化説 は 人 格 的 な. 動は熱力学の第二法則の方向と合致するだろう︵c昌C︶N畠・↓竜S︶。物質の ﹁物. ベルクソンは﹃物質と記憶﹄の復習から﹃創造的進化﹄の筆を起こす。ベル. る。﹁われわれの現存e首s︷ence﹂とその﹁認識﹂が人格的記憶力において説明. 質性mat賢巴itm﹂︵EC−NO巴たる下降運動とは、一方で位置エネルギーが放出さ. の提示をもって始められ. される。﹁われわれが最もよく認識している﹂のは﹁われわれの現存﹂である。. れる際の自動的な落下︵EC︶望?↓︶を、他方でその際の﹁張り緩み﹂あるいは﹁弛. ﹁記憶力日和mOヒd.﹂. 外部対象は、概念上われわれには﹁外面的で表層的e象rie弓etS烏e註cie二だ. 緩re−許h巾ment﹂による﹁崩壊sedm許訂﹂を表現している︵EC唇;唇蔑も怠︶。. ︵1︶. と思われる。これに対して﹁われわれは、われわれ自身を内面的に、深層にお. 本質として持続し、自らの律動旦Fmeを前者︹=下降運動︺に埋め込む。こ. いて巨獣e弓eme呈も言昏ndmment知覚する﹂︵ECヒ。こうした内面の意識にお 上昇運動のほうは、﹁成熟m旨邑mや創造という内面的な働きに対応しており、 いてわれわれには自らの魂の状態の絶え間ない変化が、持続の流れが与えられ. するという大きな環を描いている。生の ﹁精神性. とき﹁努力﹂︵同C−0000︸−N00一帖O00︸N余−etC一︶を表現している。他方でその際、﹁張り. Sp賢どa−itm﹂︵EC−NO巴たる上昇運動は、一方で落下するものを持ち上げるがご. ﹁自己創造﹂. の律動は前者から切り離されえない﹂。この基本構想は、生が物質と出会い、. ﹁下降. 持続を介して. る。そしてこの持続 は 人 格 的 記 憶 力 に 支 え ら れ て い る 。 これに対してベルクソン進化説の基本構想は以下のごとくである︵ECヒ︶。 一回かぎりの﹁原初の衝動−︶ぎp已siOn5.Ea−e﹂︵EC桓苛蜃運c誌ひ塑あるいは. の運動がもたらされる。この上昇運動が物質性という. いのち ﹁推力pOuSS紆﹂によって﹁生の本源的躍動−︺巴呂○愚Fe二という﹁上昇. mO已紆﹂. の運動と出会い、そうやって生命体たる生物が発現する︵cご票︶。. 緩﹂もうとする物質は﹁張り緊められtensiOn﹂︵cごHC、皆−﹀室﹀NO∽b宗﹀望箪. ﹁縮約﹂して﹁組織化systmm已is已iOn﹂される。﹁生の本源的躍動﹂とは、い. 物−ecO雇を邑とは文字通り、物質からなる物体−ecO雇と生−aま∩との一. 出しつつ物質に. である。こうして、下降運動を持ち上げることで﹁遅れ﹂︵EC桓S・00︸NS︶を創. r訂−話d︶弓旨e. を具えた生ける持続は ﹁縮約﹂ のお. 種の混合である。あるいは生のおかげで、物質が真に一定の﹁個物性・個体性. かげで発生する。かくして﹁本源的躍動﹂たる生物進化の﹁深層の原因cause. 実在性においては、生は魂論的な秩序に属す﹁aまe est en. ﹁律動﹂ を課す。﹁律動﹂. 5.diくi旨a−itごを具えた有機体たる物体となる。無機物の個物性あるいは独立. ︵EC︶−N︶。下降運動そのものは、準備の整った巻物を巻き出すだけ. ︵2︶. prO訂nde﹂︵EC㍉タcご豊は、その本質において﹁持続﹂し、それゆえ﹁本体の. 的である﹂. 性のほうはわれわれの知覚の産物にすぎず、﹁われわれの知覚に相関的・相対. 上昇運動が﹁創造の端緒となる原理ぎcipedecr賢iOn﹂苗c︶N讃︶である。生 わば自動的に落下しつつ張り緩む物質の ﹁抵抗﹂ に対する張り緊めの ﹁努力﹂. descente﹂. し.

(2) 89. いのち ベルクソ ン ﹃ 創 造 的 進 化 ﹄ に お け る 直 観 と 生 の 理 論. 二. 力を有しているかぎり、生の進展の運動は自らの後ろに﹁形態﹂を残してゆく. とができるのは、組み立てている当人が生物だからにすぎない。逆に持続が効. れば、そうした組み立ては当の生の本質を取り逃がす。時間を忍び込ませるこ. び込ませる以外にないだろう。しかるに、持続の効力をもたらすのが生だとす. なら、時間をあたかも既存のものとして、当の組み立ての外部からこつそり忍. た諸要素から組み立て直すことはできない。そのように組み立て直そうとする. であれ、時間を、持続の効力︵EC︸−の﹀∽や∽宜・ヂ岩−︼etC.︶を無視して、並置され. 反対の方向である︵EC≒送達害︶。生については、生物の進化であれ生物の成長. したがってベルクソンの主張する生物進化は、内面の持続をもたらす生の上 いのち 昇運動を中心に展開する。生=物の生の側面であり、実証科学的な進化説とは. わば混合からなる。もはや物質性なき﹁純粋意識﹂︵﹃時間と自由﹄︶の持続で ヽヽ はない。しかし、当の形而上学な混合が経験されるのは、私の生ける身体たる. 監m邑s﹂︵蔓︶NON︶として提示されていた。持続はこの ﹁二つの始原﹂ のい. 質と記憶力mati曙e. ては﹁純粋知覚p讐epti8p弓e﹂と﹁純粋記憶力mぎ。許p弓e﹂とが、﹁物. 力は、﹃創造的進化﹄においてその形而上学的な基礎を得る。この前著におい. 拠である。﹃物質と記憶ゝか楓芯記亀ゝ恕ヨQ冨﹄において提示された人格的記憶. 格的な記憶力と生の記憶力とを媒介する。第一の面は第二の面の形而上学的根. の身体において持続する意識がもたらされることになる。生命体の記憶力が人. 体の記憶力によって、さらには、その本源たる生の記憶力によって、われわれ. 隆. ことだろう︵ECゝの驚これが生物進化の途上に見出される様々な有機体の形態. の垣間見る始原﹂、すなわち、われわれの形而上学的経験に与えられる始原﹁を. 宮崎. る。われわれの生ける身体が媒介となる。生ける身体において﹁生命体の記憶. であり、いわゆる生物の種が形成される。生物は﹁創造的﹂に進化する。こう いのち した持続をもたらす働きを仮に﹁生の記憶力﹂ と呼ぶなら、生の記憶力は人. もって、⋮⋮その始原の背後の暗がりに張り拡がる曲線自体の形態を﹂、すな. 力﹂とでも呼ぶべきかたちで﹁生の記憶力﹂が作動していることだろう。生命. 格的な記憶力と﹁類似﹂している︵EC︸−ダN∽﹀当盲c.︶。では、生の記憶力は人格. わち、﹁二つの始原﹂.の混合一般を﹁再構成する﹂ほかない︵夏も票︶。ベルク. psycF旨恥ique﹂ ︵ E C ︸ N 琵 ﹀ ︺ ∽ 篭. 的な記憶力といかなる点で類似しているのか。あるいは、両者はいかなる点に. ソン形而上学の一般理論は単なる仮設に留まっていた。﹃物質と記憶﹄におい. ﹁私の現在﹂においてのみである。われわれの生ける身体において﹁われわれ. とを支える形而上学な﹁二つの始原−es. おいて同一であり、いかなる点において異なるのか。小論は、主宜認識の理論. ては、形而上学な認識は﹁私の身体﹂のうちにいわば閉じ込められていたわけ. etmぎ05.﹂. の側から、この間い に 答 え る た め の 手 掛 り を 探 る 試 み で あ る 。. よれば、進化上の諸事実は﹁生を、あるいは意識そのものに、あるいは何か意. みなされるⅥ私の認識に与えられる記憶力は、私の生ける身体において作動し. と、﹁純粋記憶力﹂. である。これに対して﹃創造的進化﹄においては、﹁純粋知覚﹂ は﹁物質性﹂. 識に類似するものに結び付ける考えを示唆している﹂︵EC﹀−筈︶。生物進化のこ. ているだけではない。生物進化のなかで生の記憶力が生ける私の身体たる生命. この二つの問いは、実はまったく同一だというわけではない。ベルクソンに. の﹁示唆﹂は次のことを意味しているだろう。第一に生が﹁意識そのもの﹂に. 体において人格的記憶力として発現しているなら、形而上学始原はもはや単に. は﹁精神性﹂と規定し直され、両者は生命体発生の始原と. 結び付くとすれば、それは意識が生の一つの発現形態だからである。第二に生. ﹁再構成﹂されるのではない︵c︻EC︼−票︶。さらに、こうした形而上学始原への. 開けは、私の身体と他の生命体との生の繋がりをも示唆する︵EC−−遥︶。﹁生の. が﹁何か意識に類似するもの﹂に結び付くとすれば、そのおかげで、意識から 生を理解することができる。少なくともわれわれの意識については、自ら認識. 躍動は純粋な一性でも、純粋な多性でもない﹂︵EC︸袈−︶わけだが、或る意味で. ができる。少なくとも、﹁微生物の群体﹂や個体的な生命体の. ﹁社会﹂ は可能. ﹁生の躍動﹂が﹁唯一の身体に刻み込まれる﹂ということさえ考えてみること. 可能なのだから。第一の面において、われわれの意識は生物進化の一つの帰結 ないし途上において捉えられる。したがって﹁生の記憶力﹂と﹁人格的記憶力﹂ という二つの項の結節点には、われわれの身体という有機体が、生命体が存す.

(3) 88. は﹁本能﹂. な﹁枠組ca旨e﹂は、その実践的な価値によって人間という種において一致す. るわとしても、カントの主張するような超越論的な感性や知性、﹁悟性の一般的 の働き方をわれ. である︵ECも当・筈︶。これに対して、第二の面は第一の面の認識論的根拠とな る。たとえば﹁美感 的 直 観 5 . t u i t i O n e S 旨 賢 琶 e ﹂. のうちに閉じ込められた知性の主張にすぎない。﹁空間﹂もア・プリオリな﹁出. れに教え、ひいては﹁相互浸透作用cOmp訂賢鼠Onr打iprOqueたる生、無際限 枠組﹂たる純粋悟性概念などは許容されない︵ECト琵﹀NO∽−∽宗・電それは自ら. に連続する創造たる生の固有な領域にわれわれを導き入れるだろう﹂. ﹁空間﹂という形式、概念としての. ベルクソンは﹃創造的進化﹄において、幾つかの概念の発生を辿っている。な. としても、等質的な空間の﹁観念﹂はおそらく持ち合わせていない︵EC﹀−雲・電. ﹁互いに不可 空間も生物進化の過程で発生してくる。動物は、﹁延長する事物を知覚する﹂. ではない︵EC態苧旨寛. 来上がった形式﹂. は相互に規定し合う。認識論と生命論は. いのち. ︵EC︸−遥色。かくして、﹁認識の理論−a旨賢已ede−acO冒aissぢCe﹂と﹁生の理. である︵EC﹀星。. 論−a昏mO計de − a く i e ﹂ 分﹂. 小論ではまず﹃創造的進化﹄における﹁認識の理論﹂と﹁生の理論﹂との関. である. かでも、知性本来の対象は﹁関係﹂. そのものに関わる︵EC︼−金・誓︶。空間とそこに浮遊する諸項の諸関係から世界. 知の純化とも言いうる知性的認識そのものは、﹁形式﹂ たる概念的な﹁枠組﹂. であり、それゆえ﹁一般的な枠組﹂. 係を概観し、しかる後、認識論の側を起点に、生の記憶力と人格的な記憶力と. 創造的進化概観. ︵EC︸−金・篭知性は物質性の方向に沿って進展する︵EC︸−00づ00︼−軍営薫製作. −. の関 係 を 概 括 的 に 検 討 し て み た い 。. 一認識の理論と生の理論. 実証主義的な進化諸説が生命を解明していると借称しても、実際に痍究してい. ︵EC−−ひ♪−謡・包。したがって、生物進化を知性的に探究することはできない。. 識論の観点に立つなら、生は人間知性の認識能力から漏れ落ちる. 休﹂. 学を土台にする数学的な物理学はその極限である︵EC︶NO∽、∽筈︶。そうした﹁解. られたものの﹁解体d打OmpOSer﹂ の過程であり、概念としての空間たる幾何. 物質の傾向の限界概念を、物質の物質性を表現している。下降運動は張り緊め. を説明しよういう物理学の企ては、人間の実践的な知性能力の理想型であり、. るのは、生のではなくて、生=物の、しかもその物質的な側面にすぎない. ない。物質的世界それ自体のほうは、事実上は完全な解体に到らないからであ. 小論の二つの問いは、否定的には以下のように言い換えることができる。認. ︵EC−∽﹀−の∽︸−芝﹀−岩・00︶。知性のこうした欠陥は、生の理論の観点に立つならお. る。いかに. ﹁張り緩む﹂. としても、やはり物質は ﹁持続﹂. する. の産物を組み合わせて元のものを﹁再構築recOmpOSer﹂することはでき. のずと明らかになる。ベルクソンは生物進化における知性の発生を提示し、い. ︵EC−−怠︶−琵・票︶−等疫蔓邑。知性を人間身体に定位させるだけでもわかるこ. 与えない。逆に言うなら、物質にせよ、生命体にせよ、﹁現存﹂するものすべ. である︵EC﹀NON︶。したがって、数学的物理学は﹁現存﹂する物質の近似値しか. ︵ECu⊆・−﹀−00↓﹀NON−宗00︶。﹁物質という現存﹂ は張り緩む方向に傾いているのみ. とだが、知性は生物が物質を利用しっつ生きて生活してゆこうという方向にあ. ては一定程度﹁張り緊め﹂られている。完全に張り緩んだ物質は、現存するこ. わば知性を受肉せしめることによってその限界を指摘する. り、それに必要な能力にほかならない。知性の認識は思弁的ではなくて実践的. しかるに従来の進化説は、ダーウィンやド・フリースの変異説も、アイマー. と下降運動との混合からなる。. ﹁概念﹂、単なる知性の産物なのである。すべての ﹁現存﹂ は上昇運動. となき ﹁製作 こうした製作. ﹁解体し再構築する能力﹂百c︸−岸−当︶、無機的な道具の. である。知性とは、その発生源から見るなら、日常の認識を起点にしており ︵EC裏年箪. 許冒icatiOn﹂を宗とする実践的な認識能力である︵EC﹀−岸転宅. の定向進化説やいわゆる新ラマルク派の獲得形質遺伝説も甫c﹀試・麗L雷・↓箪. 三. の能力が近代産業を産み出した苗c七︶−∽平台︶。﹁人間知性は行為の必要に対し. 隆. そしてスペンサーの説も︵c昌C︸メー00平岩?草すべて知性の所産にすぎない。 宮崎. て相関的■相対的﹂である市c−−琵﹀−の∽︶C誌○?宅諸々の﹁概念﹂たる知性的 いのち. ベルクソン ﹃ 創 造 的 進 化 ﹄ に お け る 直 観 と 生 の 理 論.

(4) 87. 宮崎. 隆. 四. の全体像において植物と動物は補完的な関係にある︵c昌Cヒ?芦Nひヤ巴。さら. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論. に動物においても、節足動物と脊椎動物との間に補完関係が存する甫c忠霊︶。. ︵4︶. 機械的な説明にせよ目的的な説明にせよ、いずれも出来上がった﹁形態﹂を起. しかるにベルクソンによれば、生物の進化過程において発生するこうした分. ったことだろう︵EC﹀−讃・の︸−∽包。. 一つの線状の進化であるなら、おそらく生を探究するには知性だけで十分であ. が分岐を辿ることなく、ちょうどアリストテレスを参考にして思いつくような. にもある種の意識を認める︵EC−−蓬etロー・N﹀C誌篭逆に言うなら、もし進化. て、あるいは少なくとも実践的意識に従って行為する。ベルクソンはアメーバ. 前者が主に﹁本能﹂に従って行為するのに対して、後者は主に﹁知性﹂に従っ. 点に論を進めているからである︵EC≠≦宗N?岸岸定・ご筆算.︶。有機体 の﹁形態﹂とは本来、一旦持ち上げられた物質が再び下降する際、源初の衝動 のうち﹁いまだ存続しているもの﹂にほかならない︵EC−N念﹀∽票・竜古典ギリ シア以来、﹁形態﹂の類別によって博物学が営まれてきたわけだが︵c昌C﹀相当・草. たにすぎない。したがってまた、死せる諸概念や科学的な諸要素を、化学物質. 従来の進化説はそうした﹁形態﹂を解体・再構築しっつ、時間軸に沿って並べ ︵5︶. の残淳を事後的に説明すること. ︵たとえばロNAの由種の塩基︶をいかに組み合わせても生けるものは再現で. きない 。 で き る こ と は せ い ぜ い 、 ﹁ 生 の 躍 動 ﹂. 命体を再構築する試みは、瞬間を集めて持続を再構築するも同断である。ベル. らの説は同じ穴の洛として却下される。上昇運動の解体の産物たる形態から生. 定の形而上学を自覚なしに選択七た結果である︵EC七竜−−岸∽岸etc︶。これ. るのはむしろ分岐以前のものの残存である。分岐して進化した以上、それぞれ. 物的な側面なりを主張しようというわけではない。そうではなくて、問題にな. 過程が何らかのかたちで残されて機能している。人間の植物的な側面なり、動. に試行錯誤した帰結である。したがって、われわれの身体のうちにも、進化の. 岐はすべて、﹁生の衝動﹂が物質の抵抗に対して﹁努力﹂するなかでいわば様々. クソンはかくして、﹁形態﹂ではなくて、﹁機能﹂に着目する。外部から観察さ. の生命体が分岐後に挟を分った他の生命体の能力を保有することはない。しか. のみである︵c蒜C迦口実そうした説明は、日常的で実践的な知覚の要求する特. れる物質的な形態によって機能を説明するのではなく、生命体の生ける機能の. し、そうした残存は何か分岐以前のものを現していることだろう。人間身体の. の発端となっていることだろう。動物は基本的には無機物を有機化する機能を. こうとする。この面では、動物の運動機能の発現たる行為は、すでに下降運動. 有機化されたエネルギーを、行為をもって爆発的に消費し、生きて生活してゆ. るという機能を主に担っているのに対して、感覚=運動系を中心とする動物は、. 動物とが分岐する。植物が太陽エネルギーを有機化して固定し、それを蓄積す. 植物と動物とが分岐し、次いで動物の間では節足動物︵ことに膜麺類︶と脊椎. 体は動物の系列に属す。ベルクソンに従って進化の過程を瞥見するなら、まず. 物進化の文脈のうちに置き戻し、その欠陥の所以を指摘する。人間という生命. 知性の機能についても、ベルクソンは知性の受肉している人間の生命体を生. それでも人間には、直観と知性という﹁意識的現働性の二形態de房許mesde. ある。未発達なる﹁本能﹂たる﹁直観﹂は、定義上、十分に発達していない。. を、本能へと開花する膏のような能力を有してもいる。﹁直観int已tiOn﹂で. は不可能な探究である。しかし人間は、本能という方向に分岐する以前の能力. ればならない。なるほど人間は節足動物の本能を保有していない以上、直接に. ︵EC七ご扇−00宅したがって、生を探究するには、むしろ本能を分析しなけ. ︵EC︸−謡・宅 ﹁生の方向に﹂向かつているのはむしろ本能だと解される. 補完し合う関係にある。生を探究する際の知性の欠陥はこの対立と同根である. の本能をそれとして保有することはできない。本能と知性は対立し合い、かつ. めを期待することはできない。人間は知性の方向に進化しすぎており、膜趨類. 側から見るなら、膜麺類は本能の方向に進化しすぎており、意識の十分な目覚. ︵6︶. 側から、その帰結として形態の発生する過程を辿ろうと試みる。. 具えておらず、他の動物を描食するにせよ、そのエネルギー源は植物に行き着. ︵8︶. く。動物は帰するところ、植物を介して太陽エネルギーを摂取している。しか. −打ti象mcOnSCie邑e﹂︵EC−Nの﹂︸C誌き・N︶が具わっている。. ︵7︶. し逆に、植物はエネルギーを爆発的に使用することができない。その点で、生.

(5) 86. 行する﹂︵EC−−霊︶。逆に言うなら、ベルクソンの生の理論は、その分析が直観. 類似する直観においてこそ生の記憶力と持続がわれわれに与えられる。本能に ヽヽヽヽヽ おいて﹁生は、意識一般と同じようにcO巨ロe、記憶力と同じようにcOロme進. は形而上学的な基礎を得るだろう。他方で、認識論の側から言うなら、本能と. この進化の過程のうちに直観を置き戻すことに成功するなら、人間の認識能力. 足動物・昆虫︶は本能という認識能力へと進化し、本能はますます有用に成る。. かつ知性を祐完する能力として﹁直観﹂に至りつく。一方で、動物︵ことに節. 以上のようにしてベルクソンは、進化説の観点に立ちつつ、知性に対立し、. 岐以前の本能の蕾だとすれば、それはまた知性の蕾でもある. なる。したがって本源の直観には第三の喪失面が推察される。本源の直観が分. が知性と本能とに尽くされるなら、それは両者の単なる複合体であったことに. 喪失した側面もある。それは知性の取り分である。しかしながら、もし直観. 対に第二に、本能の側から見るなら、本能へと発達するなかで本源の直観が. 同一ではなく、しかも直観が進化して有用性を増すなら主に本能となる。反. 観が喪失した第一の側面である。人間の直観は膜麺類などに見られる本能と. 立する直観は本能の方向に発達している。知性へと発達するなかで本源の直. は本能とも対立する。したがって第一に、知性の側から見るなら、自らに対. ︵c蒜C−−∽?﹂−−畠・∽−−g・−﹀−霊−−宗︶∽のヤひー∽票︶。一方で人間にあっては、﹁本能. から離れればそれだけ、形而上学の一般理論に、単なる仮設に近づく。﹃物質 の認識を、そ. が、拡張され純化されて直観となるとしても﹂、本能は知性的対象の ﹁光輝く. 核のまわりに漠たる雲霧を形成する﹂にすぎない︵EC﹀−﹂篭他方で進化の過程. を提示していた。﹁われわれは、源初の純粋性を具えた. 姿で直観を回復し、 実 在 す る 本 体 と の. において﹁直観は本能へと切り詰められる﹂︵ECL票︶。本源の直観は本能の膏. ﹁内面の認 識 ﹂. 取戻すことになる﹂︵岩眉蜃辱c宗琴タNO竜この場合﹁本体の実在性−ar倉已蒜﹂. のごとくであり、豊かな潜在性を具えているが、しかし物質の抵抗に対して努. ︹無媒介の︺接触cOn︷aRa扁C−er註を. とは﹁運動性−amObi−i誌﹂にほかならず、﹃物質と記憶﹄においては、﹁持続﹂. た側面がかならずしも知性の取り分となるわけではない。本源の直観は、本能. 力するなかで開花する際、その何某かを喪失する。しかし、この切り詰められ. ︵9︶. の何たるかを教えてくれることだろう。. であれ知性であれ、進化するなかで変形されてしまう。おそらく、進化して有. の何たる か を 、 ﹁ 生 の 躍 動 ﹂. の進行﹂. 二. 直観、本能、知性. −. 知性の貸借表を作ってみよう。. 用性を増すことで喪失する側面であろう。認識の理論の側から、直観、本能、. になる。 直観、本能、知性の三者の関係については、簡単な整理が必要だろう。直観 は、起源においては、本能と知性へと分岐する以前の機能だと解される。知性. 未発達な直観を覆い隠す。したがってわれわれ人間においては、認識論上、﹁意. 意識である。それに応じて﹁無意識﹂は﹁無なる意識.cOnSCi袋Ceき詳﹂と﹁無. 一方で﹁意識﹂概念を生の理論の側から提示する。その際の﹁意識﹂は実践的. 膜麺類の本能の機能を説明するために﹃創造的進化﹄においてベルクソンは、. 識的現働性の二形態﹂は対立する。それゆえベルクソンは、進化の過程で﹁直. 化された意識cOnSCience§さ詳﹂に区別される。植物は文字どおり意識が﹁無. なり﹂と推定される。これに対して節足動物の場合、﹁意識はそこに存在して. ︹人間という︺種の. 合には﹁程度﹂が想像 さ れ う る 。 ﹁ そ こ に は 、 わ れ わ れ の. 五. いたのだが、中和化されている﹂甫c−−怠・巴。本能が無意識であるとしても、. 隆. 精神構造における偶然性の関与がある﹂︵EC−N豊。してみると同じ議論を直観. 宮崎. そこに認識や再現表象を想定することは許される。ベルクソンは﹁無意識的認 ベルクソン ﹃ 創 造 的 進 化 ﹄ に お け る 直 観 と 生 の 理 論. いのち. と本能との間にも立てることができるだろう。すなわち、こうした本源の直観. 観的な人間性﹂に辿り着く可能性を主張する︵ECuNのご畠︶。知性と直観との割. への進化の過程において、知性は直観を前提としつつも、その有用性のゆえに. 認識論上の類似と相違. かくしてベルクソンは生を探究すべく﹁直観の哲学﹂︵ECuN霊︶を提唱すること. おいて作動している記憶力も直観という意識に現出する。直観的な認識が﹁生. は﹁運動性﹂をもって説明を得る。﹁私の現在﹂という﹁時間契機mOment﹂に. ぅした. と記憶﹄第四章にお い て す で に ベ ル ク ソ ン は 、 ﹁ 無 媒 介 の 直 観 ﹂. 「.

(6) 85. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論 宮崎. 隆. 六. である。意識に現れているのは、将に遂行せんとしている行いであり、将に来. 識−acO冒aiss買eぎcOnSCiente﹂︵EC七草cご怠忘−︶を認める。他方で人間に. た、 らんとしている行為、将来の行為である。現働性は潜勢的なままである。﹁意 おける二つの認識を取り出す。美感的直観と習慣的行為である。習慣的行為も. 識は躊跨を意味する﹂︵EC忘篭そしてこうした将来が、行為の遂行される空 それ自体としては﹁無化された意識﹂ である。 植物は﹁感情﹂を有することなく、その意識は﹁無なり﹂と思われる。﹁無間として表象される︵c昌C−NO竜諸々の意識対象の在り処も行為に相対的であ. り、存在論的に相対的である。さて、少なくとも第一の意味での可能性が開か なる意識﹂は意識の非存在を意味する。これに対して、われわれは動物におい. れ﹁ て無 いない場合、すなわち、選択肢が一つしかない場合、定義上、意識に対象 て、程度の相違はあるにせよ、﹁感情﹂を推定することができる。﹁本能﹂の. は現れない。かくして﹁現実の行為が唯一の可能的な行為である場合︰⋮\意 意識﹂は﹁無化された意識﹂である。すなわち、﹁意識﹂は﹁行為﹂と釣り合. られている。いわゆる意識は知性の取り分である。これに対して本能において、. 識は無と成る﹂︵ECヒ篭﹁意識﹂は﹁無化﹂されて、発現しない。﹁本能﹂は うために相殺されて、その発現が妨げられる。われわれの経験に照らすなら、 ﹁われわれが習慣的な行為を自動的に遂行する﹂場合、この意味において﹁こ 無の意味で﹁無意識﹂である。知性は、本能と反対に、﹁意識へと方向づけ﹂ ︵10︶ 意識は絶対的たりうる﹂︵EC忘篭逆に通常は、行為の対象は﹁再現表象﹂と. 唯つ 一可能な対象の﹁再現表象と認識はそれでも現存する﹂︵EC−−串cご昌。当 して意識に現れる。それはまた﹁行いの再現表象reprmsent乱。nde−宮te﹂に. ヽヽ. 有無のみを基準として知性と本能とを区別するなら、両者の根本的な区別. 知性との間には﹁程度の相違﹂しかない︵EC忘果それゆえ、なるほど意識の. の唯一の行為に対する﹁障害の衝撃の下、意識がほとばしり出ることもありう いての実践的意識でもある。意識が実践的たるかぎり、意識に現れる﹁対象﹂ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ るだろう﹂︵EC﹀−邑。かくしてベルクソンによれば、意識に関しては、本能と るいは潜勢的現働性ac︷iくitmくぎue−−eの地帯に内在する光であり、こうした地. は﹁行い﹂に呼応している。﹁意識とは、可能的な様々な行為acti。nSpOSSib−esあ. ヽヽヽヽヽヽ. 帯が、生ける存在の実際に遂行する行為を取り囲んでいる﹂︵EC−−歩cご恵篭. 為の関数として捉えられたおかげで、もはや﹁認識と行為は、同じ一つの能力. 失われる危険がある︵EC忘卑しかし﹁無化﹂された実践的意識が生命体の行 この場合、﹁可能的﹂あるいは﹁潜勢的﹂という言葉は二つのことを意味して いる︵c昌C彗・篭第一に諸々の意識対象は様々な可能的な習慣的行いの再現. の二つの相貌にほかならず﹂︵EC忘−︶、知性と本能の認識を比較検討する地平 表象である。湯春はそれを手に取る行いを表現している。当の手の型と湯春と. 化される﹂当の所以により、﹁行い﹂とびたり一致するのだから︵EC﹀−邑。知. が開かれる。 は雌ネジと雄ネジの関係にある。行いは、当の生命体が生きて生活してゆこう 実践的意識が相殺されても、行為が遂行される以上、﹁本能﹂もある意味で 認識である。無意識的な行為的認識である。再現表象は、意識がまさしく﹁無 とする際の、その時々の﹁目的○官t﹂であり、湯呑のごとき事物は﹁手に取. って飲む﹂という当の目的を表現する﹁対象○官1﹂である︵c昌C忘果した. がって、諸々の事物は行うことの可能な﹁選択chO首﹂を、その選択肢を表. 認識﹂︵EC王邑にほかならない。こうして今度は、両者の認識﹁対象﹂は、﹁深. 性的認識がいわば﹁思惟される認識﹂であるのに対して、それは﹁演ぜられる 現している。意識は選択を為すべく発生する。意識において﹁同等に可能な多 くの行為が素描されている﹂。﹁意識は選択を意味する﹂︵EC︸−会︶。実践的意識. は、正確に獲物の中枢神経の在り処を刺し、殺すことなく動けないようにする﹂. 層において区別﹂︵EC︸−余︶される。たとえば、﹁麻痺をおこさせる或る膜麺類 において、対象はすでに行為すべく知覚されている。意識的知覚において﹁行 為に手掛りを与える相貌﹂︵EC−−の∽︶が切り出される。諸々の意識対象は行為に. 甫C忘竜本能的な行為は、すべてを﹁知っているがごどく﹂である。知性が ︵〓− 相対的・相関的であり、それゆえ意識主体に対して認識論的に相対的である。. 第二に、そのように選択が可能なのは、当の行為が未だ遂行されていないから﹁無機的な道具を製作し、利用する能力﹂︵ECヒ邑であるのに対して、本能は.

(7) 84. ﹁有機的な道具を使用し、それを形成cOnSぎ5.しさえする能力﹂. と﹁形成﹂. である. の能力で. 苗c.−A︻﹀Cご∽亡。本能にとつて当の﹁道具﹂は﹁それを使用する身体の一部を なしている﹂︵EC− − 会 ︶ 。 本 能 は 、 有 機 体 に 関 す る ﹁ 使 用 ﹂. ある 。 本能による有機的な道具の﹁使用﹂は、有機体の自己使用であり、本能が行 為として現勢的に自らの現働性を発揮する側面である。われわれ人間に即して 言うなら、使用されるのは、身体の外部に置かれた道具ではなくて、われわれ. 動なまま並置される諸単位をもって運動を再構築しようとするに至る. ︵EC.−ひ?の︸∽ON宜。知性は想像力に訴えることができるにせよ、固体的な対象. の同時的な並置は、行為の選択肢の複数性を起源とするだろう。かくして直観. の善が知性的な開花に向かう方向において、われわれは目的の ﹁行いacte﹂. ︵12︶. を一連の行為から切り離し、同時に行為対象が事物として独立する. ︵cご川C︸N当﹀N諾・P㌍A、蔓︶余︸NO♪N−り︶NN?丹etc.︶。われわれの外部に存する. ﹁独立した﹂事物の、人為的な個体性の発生である。. これに対して、本能は行為的な﹁内面の認識cO冒aiss賀Ce旨賢e弓e﹂ であ. る百c︸−g︶。行為的認識は有機的な道具の﹁使用﹂に等しい。蜜蜂を例に取る. の身体それ自身である。われわれの身体の行使も本能に根ざしている。本能が ﹁使用﹂する有機的な道具は、形態的に﹁限りなく複雑な細部﹂を具え、その. なら、一つの巣の集団は ﹁単一の有機体﹂. 象・目的旦etのための、ある限定された道具の使用﹂を意味している︵EC﹀−舎−. くしては道具は変容してゆかない﹂からである。本能とは﹁ある限定された対. に行う。その代わり、当の道具の構造は﹁ほとんど変化しない﹂。﹁種の変容な. ない﹂甫c︸−のd。﹁本能の大部分は、有機的組織そのものの働きの延長、ある. 気づける力訂rceと溶け合っている。あるいは、当の力の延長以外のものでは. て﹂. として互いに結びついている。これは ﹁比喩﹂ ではく、﹁本体の実在性におい. であり、各々の蜜蜂はその ﹁細胞﹂. ﹁機能﹂はおどろくほど単純である︵EC︸−た︶。この道具は為すべきことを完全. C〓誓︶−∽−︶。意識が﹁無化される﹂所以である。これに対して、製作を目差す. いはそればかりかその完成である﹂。本能は﹁幼虫の蛸や昆虫︹‖成虫︺ への変. 態﹂といった一種の成長の運動の延長であり、そうした﹁有機的働き﹂が昆虫. のことである。﹁蜜蜂を生気づけている本能は、︹各々の蜜蜂の︺細胞を生. 知性は対象を、それがたとえ有機物だとしても、﹁それを形相・形態づけた 5.許冒er生には お 構 い な し に 、 生 気 の な い 対 象 ○ 官 t s. の運動へと発展する︵EC﹀−会・亡。かくして本能による﹁有機的な道具﹂. で為される行為的認識である。有機体の本能的認識は、細胞が他の細胞に対し. Fe旨sとして扱う﹂. ︵EC﹀−筐︶。だからこそ知性は、道具の形態も用途も意のままにすることができ. 用﹂とは、有機的な生命体によって﹁有機的な仕方○扁aniquemen二︵EC﹀−票︶. は、その﹁流動性− a 苧 i d i t m ﹂. て有する知と同様である。﹁一つの種が他の種について、或る特定の点に関し. の﹁使. る︵EC﹀−缶−−S︶。しかしそれゆえ﹁実在する本体のうちに在る流動的なもの﹂. 象とするがゆえに、﹁生けるものにおける本来的に生命的なもの﹂を取り逃が. て所有する本能的認識は、⋮⋮生の統一性自体にその根がある﹂。それは﹁自. のゆえに、知性の手を逃れる。知性は固体を対. す︵EC−−∽丹cご票︶。知性は、論理学に代表されるような諸項間の、﹁諸固体間. 己自身に共感する一つの全体毎tO邑s︸ヨp邑i琶e巴ui・mぎe﹂︵EC−−霊︶である。. ﹁本能は共感である﹂︵EC﹀−∃︶。一つの集団における生命体どうしは、一つの. の諸々の関係﹂︵EC−−琵︶を自らに適した対象とする。知性は対象を諸固体に解. 体し、諸固体の関係として再構築しようと目論む。ベルクソンによれば、﹁運. 全体として. し合っている。この意味で本能は、﹁自ちを外化して. 動そのもの﹂ないし﹁運動性﹂が﹁本体の実在性そのもの﹂である。しかるに、. S﹀ext賢○訃er﹂物質の利用に努める知性とは反対に、﹁自己自身に対して内面. ﹁共感﹂. 選択を行うわれわれ人間知性にとつて実践的に重要なのは﹁動体﹂の至りつく. 的﹂. 七. である︵EC−−霊・盟。しかもこうした﹁内面の認識﹂たる﹁共感﹂は、同種. 先で あ り 、 動 体 の 軌 跡 に お け る ﹁ 位 置 ﹂. の集団内でのみ働いているわけではない。たとえば﹁穴蜂とその獲物との間に. である。﹁われわれの遂行する行為に. おいて﹂も、重要なのは運動の﹁行き着く先たる目標but、ないしその意義﹂、. 隆. 共感﹂を思い描くことができる。こうした本能的認識は、獲物の ﹁急所感情. 宮崎. あるいは﹁不動の実行計画図﹂である。こうした不動性を起点する知性は、不. いのち. ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論.

(8) 83. 宮崎. 隆. ■\. ノ. ルとて、選手にとっては穴蜂の獲物の急所に似て、リフティングしていて落と. われわれの有機的な身体の行為に呼応する現働性となっている。サッカーボー. であろう。乗りこなしている自転車は、もはや目的化した独立の対象ではなく、. いて捉えるのではなく、その行為だけを切り出すなら、本能的認識に類似する. であって、こうした感情なら、外的な知覚なしに、 し当の行為を第二の意味での﹁可能性﹂において、その﹁潜勢的現働性﹂にお. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論 sentぎe已de≦ h ぎ b i F t ご. ﹁ただ穴蜂と青虫とが対崎することから帰結しうる﹂。その際、両者はもはや 二つの有機体ではなく、一つの有機体の﹁二つの現働性a象象ms﹂と解され. すことはない。しかるに身体の行使を完全に欠いては、人間は無機的な道具を. る︵EC七宅本能的な行為的認識において獲物は一つの固体として認識されて. いるわけではない。選択肢が成立していない以上、本能的な認識にとって対象. の障壁を低めて、︹雀の︺内に張った意図旨enti。nを改めて把捉しょうと目差. の舟面に身を置き戻し、直観の努力によって自身と題材との間に介在する空間. 物﹂である︵c蒜C﹀N金︶。これに対して、﹁垂術家は、一種の共感によって対象. の方向にあり、知覚対象は行為の﹁可能性﹂の第一の意味において独立した﹁事. 常の知覚﹂と異なる︵EC︶−謡︶。日常的な意識的知覚は知性的意識へ向かう進化. おいては、たとえば﹁美感的直観﹂がそれである。この直観はわれわれの﹁通. 一に穴蜂の﹁共感﹂は﹁生きられた直観﹂にほかならない。われわれの経験に. 虫の意識において生じているはずのものを何某か経験している﹂︵EC﹀−宗︶。第. という現象のなかで﹁われわれは自らにおいて、︰∵・本能によって行為する昆. ができる。ベルクソンによれば、こうした﹁感情﹂、﹁共感﹂あるいは﹁反感﹂. われわれ人間という生命体の経験に照らすなら、二種の経験を指摘すること. にこそ、逆に意識は﹁無化﹂されてしまう。行為的認識は、意識化されずに外. て事物性が未成立であり、その面で認識論的に絶対的である。しかしそれゆえ. るほど行為的認識は、現働性の認識であるがゆえに事物の独立性が、したがっ. 反省することはなく、利害関心を離脱することはできない︵EC恵Neニー邑。な. 能のほうは、自らを意識するような自覚的な認識には至らない。本能が自らを. ︵c昌C曽○︶。知性による自己認識は認識論的に相対的である。これに対して本. のごとくに自らに独自の. 知性の反省はむしろ、反省される自己を外的な一対象に賠める。知性は傍観者. け、自己自身に対して自らを外在化する生﹂︵EC﹀−毘︶の営みとなってしまう。. ︵EC恵空岳轟芯昼察知性の反省とて、帰するところ、﹁外部に眼差しを向. を指示する﹂. 自身一種の事物﹂であり、われわれの知覚における事物と等価である。﹁事物. 省﹂によって自らを対象とすることができる。しかし語あるいは言語も﹁それ. を拡大し、言語の助けによって有用性の頸木から解放されうる。それゆえ﹁反. は両者の間で異なる。第一に意識との関係において、知性は﹁関係﹂の一般性. ことはできない。本源の直観の第三の喪失面である。ただし﹁外在化﹂の意味. いう側面は知性と同様であり、生きて生活すべく行為がなされる以上、避ける. に、外在化して︹行為の︺歩みとなる﹂︵EC−−皐−票︶。こうした﹁外在化﹂と. しかし二つの問題が残る。本能の行為的認識は﹁内面化して意識にはならず. 霧﹂が形成されている所以である。. 製作し使用することもできない。知性的対象の﹁光輝く核のまわりに漠たる雲. は唯一であり、意識対象として目的化されていないからである。その場合、再 現表象は独立化され事物化された﹁行い﹂を、いわば雌ネジを含んでいない 苗C竜○︶。かくして本能の認識は、再現表象を対象とするとはいえ、認識論的. な相対性を一面では脱却している。あるいはむしろ、認識論的な相対性の発生 する以前の行為的認識である。もはや第一の意味での行いの﹁可能性﹂を含ん でいない。知性の側から見れば、直観が知性へと開花するなかで喪失した第一 の側面である。知性と本能とは﹁根源的に異なる二種の認識﹂︵EC忘塑である。. 本能においては、いわゆる外的物質までも、その内面から認識されていること. す﹂︵EC↑遥︶。事物の独立性なき直観的認識である。こうした認識の対象は﹁一. だろ う 。. と多﹂といった知性的枠組を超えている。有機的な生の﹁現働性﹂の関係であ. 在化され、いわば行為のうちに吸収される。そればかりか第二に、本能の側か. ﹁枠組﹂ を自己という対象にあてがうことになる. という実践的な要求から解放されることはない. る。第二にまた、われわれの習慣的行為も、それ自体は行為的認識である。も.

(9) 82. るための外部が存在しないであろうから。行為的認識は、たとえ獲物に関する. ら見るならむしろ﹁外在化﹂さえ不可能である。本能にとつては﹁外在化﹂す. 本源の直観の認識を生の理論のうちに置き戻さなければならない。. 題になる。本能や直観について言うなら、有機体の﹁形成﹂という側面である。. ﹁生と意識は上昇︹運動︺そのものである﹂︵EC﹀岩00︶。かくして生の理論が問. 生命体の記憶力と人格的記憶力tl−t−生の理論における自己創造へ. 質。二、諸々の形態。三、諸々の行い﹂ が列挙されている。三種の運動とは、. ﹃創造的進化﹄第四章において、﹁三種の運動﹂が指摘され、﹁一、諸々の性. 三. 認識であっても、一つの有機体における﹁内面の認識﹂に等しい。さりとて行 為的認識の﹁外在化﹂は、単なる知性の用語であってはならない。ベルクソン の生の理論によれば、有機体は一定の﹁個体性﹂を有している。すでに述べた ように、無機物の個体性・独立性はわれわれの認識に相対的である。これに対 して、﹁有機体は⋮⋮様々な部分についての一定の組織化を表しており、諸々. ﹁質的運動mOu<ementSq邑igi静﹂、﹁進化・成長運動mO亡Vemen︻s賢○−uti許﹂. 、〓、 そして﹁張り拡がる運動mOu≦ロentSeXtenSi許﹂である。この三種の運動は﹁深. の断片がひとたび離脱すると、その断片において同じ組織化は自らを再生する 傾向を有する﹂︵ECトー⊥篤行為的認識が﹁外在化﹂されるなら、こうした個. 層において異なる﹂︵EC︸∽○︺︶。﹁性質﹂、﹁形態﹂、﹁行い﹂ はいずれもこうした. 運動の表層の外面的な帰結である︵EC︸旨﹂﹀∽−甲色。﹁質的連動﹂ はたとえば色. 体性 の 観 点 が 必 要 で あ る 。 本能と知性の凝生を問題にした後、ベルクソンが﹃創造的進化﹄第二章の末. である︵EC︸−謡︶。第二に生の理論においてベルクソンは、意識と行為との関係. 能、自らの対象について反省しそれを無際限に広げてゆくことのできる本能﹂. われわれを導く直観﹂、﹁利害関係を脱却するに至り、自らについて意識する本. 組なき知性、言ってみれば知性的本能である。すなわち﹁生の内面そのものに. 起される。自覚を伴う行為的認識である。自覚的・意識的な本能、あるいは枠. そこにおける位置移動は、知性的に再構築された一つの考えにすぎないが、有. る運動﹂は、表層では行為に帰結する。すでに述べた理由により、等質空間と. と体細胞とを貫く﹁運動﹂だと言ってもよいだろう。深層における﹁張り拡が. 生物進化において. とつて、それは﹁進化賢○−u︵iOn﹂ の運動をも意味している︵EC︸︺≡et∽○篭. ﹁形態﹂は表層に残されたその残揮である︵EC−駕篭しかしまたベルクソンに. をもたらす運動であり、表層のわれわれの日常経験において﹁感覚性質﹂とし. をもう一度逆転させる。意識が行為の関数なのではなくて、行為が意識の関数. 機体の﹁使用﹂は﹁行い﹂に到りつく。したがってわれわれは、一つの生命体. 尾で二つの検討課題を提示するのは、こうした問題のゆえだと解される。第一. である、と。﹁意識が結果ではなくて、原因である﹂と解する途を指摘する. において、この三種の運動の表層化した帰結をベルクソンの提示する順序に並. ての色と成る。﹁進化・成長運動﹂はここでは、有機体の成長を意味しており、. 甫c︶−筈︶。生物進化を、﹁意識の広大な流れが物質に浸透する﹂︵EC︶−00N︶過程. べて理解することができる。すなわち、外界からの影響で﹁感覚性質﹂がもた. に認識論上、意識化された﹁美感的直観﹂とも言うべき、本源の﹁直観﹂が提. とみなすことになる。そしてこの二つの検討課題は、小論冒頭に引用したよう. らされ、﹁形態﹂. に到る。しかし深層においては. の持続が効力を発揮している。そして﹁質的運動﹂と﹁張. に応じて当の個体は﹁行い﹂. ﹁形態﹂ の変化が見られる。﹁進化・成長運動﹂ は生殖細胞. に、生物進化の﹁示唆﹂百c︶−筈︶するところである。なるほど第三章冒頭にお. 隆. 九. ﹁質的運動﹂と﹁張り拡がる運動﹂については、ベルクソンはすでに﹃物質. おいて形而上学経験が成立している。. て通底し、いわば同本源的な二つの方向を形作っている。しかも当の身構えに. り拡がる運動﹂は、﹁私の現在﹂たる﹁身構え邑ぎde﹂ の ﹁運動性﹂におい. いて大文字で記されるこの﹁︵意識一般cOnSCienceeng賢賢aこ﹂という命名はい 、ずれも﹁運動性﹂ ﹁いっそう適切な語のないがゆえ﹂苗c︶−讐童謡︶であり、その命名に固執する. なら、認識論の側からの類似にべルクソンは頼っているように見える。しかし、 ﹁認識の問題は⋮⋮形而上学の問題と一つになっており、いずれもその際、経. 宮崎. 験の管轄に属す﹂市c︶−遥︶。ベルクソンにとって意識の本質は記憶力であり、. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論.

(10) 81. 、〓︶. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論 宮崎. と記憶﹄において分析ずみである。﹃創造的進化﹄の記述も経えて簡単に復習. 隆. 一〇. ことにほかならない。かくして、﹁質的運動﹂と重り拡がる運動﹂は同本源. 的であり、それぞれが過去と将来という別の方向を取る。感覚面において縮約 しておこう。ベルクソン形而上学によれば、﹁私の現在﹂とは、将に行為を遂. である︵c︻蔓恵︶。意識は物質の抵抗のなかで自らの﹁努力﹂を内面的に意識. された運動が﹂身構えにおいて行為へと爆発する端緒となる。身体の行使であ 行せんとしている私の生ける身体の、生命体の身構えを意味しており、﹁或る 一定の持続の厚み﹂を具えて流れている。当の身構えにおいて﹁純粋知覚﹂る が。それだけではない。﹃物質と記憶﹄によれば、﹁私の現在とは、私が有する ﹁純粋記憶力﹂によって﹁張り緊め﹂られて﹁運動性﹂が発生する。本源の私 記の身体の意識に存する﹂︵亘﹀−邑。物質性を具えた物質、﹁張り緩﹂んで﹁弛 緩﹂しょぅとする物質に対する本源の記憶力による﹁縮約﹂は意識の﹁努力﹂ 憶力のもたらす﹁縮約﹂によって、単調な震動にすぎない物質に﹁律動﹂が課 され、生ける時間が発生する︵呂M−−岸−票・↓﹀NN﹂態∽etEC︶∽00︶。こうした身. する。﹁外在化﹂することなき自己についての意識、形而上学経験である。存 構えそのものは、知覚に反映されことになる可能的な行為そのものであるがゆ 在論的絶対性を具えたこの意識においては、本質上、可能的行いの反映たる﹁事 えに、知覚世界の外部に存する。実在する本体をなす運動性は、内面の深層に. 物﹂の独立性など成立のしようがない。実際、意識の﹁努力﹂は情感として自 在って、表層の実践的意識に現出することはない。この本体の運動性そのもの. らに現出する。単調に持続する物質の運動を縮約する際、運動性の感覚面にお は、身構えにおいて発生する以上、﹁外在化﹂しえない。本源の記憶力は生命. ける努力は、それが感覚面におけるかぎり、運動に到ることなき無力な努力を 体においてのみ発動しうる。記憶力は﹁生命体の記憶力﹂となってはじめて実. してこの情感的な意識が内面、の﹁直観﹂にほかならない。身体の行使は直観的. 強いられるからである。あらゆる情感現象の基底に存する﹁痛苦﹂である。そ 効性を具える。そうやって﹁私の﹂身体と成る。有機体たる個体性の成立であ る。しかるに、私の身体という生命体における現在は、表層においては感覚=. に認識されている。しかるに、一方で﹃物質と記憶﹄によれば、そのように物 運動的であり、それを帰結する運動性の﹁持続の厚み﹂は二つの面からなる。. 質の諸作用を﹁内面で押し留め﹂ているのはわれわれの身体であり︵書き麗︶、 その感覚面が﹁無媒介の過去﹂、運動面は﹁無媒介の将来﹂である。脊椎動物. の感覚神経と運動神経との間の分化は、運動性の感覚面と運動面との区別を感 象 覚面の﹁努力﹂は、生ける身体において、当の身体の自己への関係として実 のことにほかならない。﹁張り拡がる運動﹂. 感じ のほうは以下のによ うている当のもの﹂︵呂革㍍邑である。他方で﹃創造的進化﹄によれば、. いのち. 効無 化している。われわれの生ける身体とは﹁それが流れているとわれわれが直 徴している。﹃創造的進化﹄に謂う﹁質的運動﹂とは、深層においてはこの﹁ 媒介 の 過 去 ﹂. そのように物質の﹁落下を遅らせ﹂︵EC︶N彗︶ているのが生であり、この面で に考えられる。身構えにおいて﹁張り緊め﹂られた運動性が再び﹁張り緩﹂ん. は、植物によるエネルギーの蓄積も同じ働きの発現である。してみると、内面 で、行為として一挙に爆発して行いに到る。その際、表層においてはたとえば の意識とは、生ける身体の自己関係をもたらす﹁努力﹂であり、かつ、当の自 筋肉におけるグリコーゲンの消費として現れる︵EC﹀−N?寛われわれにあって 己関係のなかで内面的に自らに現出している。 通常、行為とは、深層の身構えにおける内面の運動性が表層化して、外部に物 ところでこうした現在における本源の努力は、人間においては、一つの方向 質的に発現することである。そのようにして﹁張り緊め﹂られた運動性は義 の方向を辿ると、われわれは個人的な人格的記憶を. 得る。われわれが日常的に想起するのはこの種の記憶であり、再現されて表象. を取る。﹁無媒介の過去﹂ り拡がる運動﹂と成る。ただし私の現在において﹁張り緊め﹂られている物質. ︵15︶ は、それが﹁張り緊め﹂られているかぎりにおいて感覚性質の基盤をなしてい. にほかならない。﹁過去の記憶力﹂と呼ばれる人格的記憶力はこの一回性を具. となる。﹁純粋記憶﹂である。日付を伴って個別的・個物的に想起される記憶 る以上、﹁張り拡がる運動﹂はその本源たる身構えの運動性においても見出さ れる︵c昌C曽∽︶。﹁張り拡がる運動﹂は、深層においては﹁無媒介の将来﹂の.

(11) 80. えた記憶に関わる。 し か し. ﹁無媒介の過去﹂. が. ﹁純粋記憶﹂. と成るには、﹁決. ﹁無媒介の過去﹂. なるほど﹃創造的進化﹄の言うように、﹁神経系は⋮⋮分業から生まれる。神. の分化にすぎない︵EC−−−亡。したがって、アメーバも身構える. ︹新たな︺機能を創造するわけではない﹂。反射運動と随意運動も﹁原. 経系が. の発 生 す る 必 要 が あ る 。 実 際 、 現 在 の 一 部 た る. 定的な過去﹂ 基的な現働性﹂. の有用性を失い、実践的に無力. が、実践的な要求に屈すかと、﹁純粋﹂な過去となる。﹁記憶﹂が﹁純粋﹂なの ﹁現在﹂. ︵c︻EC︸N琵︶。そこに﹁無化された﹂意識を認めることはできるだろう。しかし、. が行為に対する. は、﹁無媒介の過去 ﹂. が発生する。その際、連. と直観が行為に吸収されてしまうのは、運動性が感覚面と運動面とに二面化し. メーバに﹁躊曙﹂することがあっても、複数の選択肢はないだろう。してみる. 当の意識そのものは、ちょうど﹁美感的直観﹂と同様、行為的認識である。ア. から切り離されて、﹁決定的な過去﹂. の一部. になって忘却されるからである。もし無用な過去がわれわれの実践的意識に現. ﹁私の現在﹂. 出するなら、有用な行為はむしろ阻害されてしまう。﹁無媒介の過去﹂ が. に対してわれわれ人間は、﹁迫りくる危険を逃れようと半−意志的、半−自動. ていないがゆえである。本源の﹁直観は本能へと切り詰められ﹂ ている。これ. 現在はもはや、﹁出 来 つ つ あ る も の c e q u i s e 詳 t ﹂. 的に運動を実行する際、われわれ自身において、何か本源的な真の現働性を経. 化される。. 成り、一回性の出来事と化している。性質が物質の運動を﹁締約﹂することに. 験する﹂︵ECu∽の竿。このような﹁反射=反応rmactiOn﹂ たる﹁本源的現働性﹂. ﹁事実﹂. ょって発生するなら、それをさらに凝集してわれわれは独立した﹁状態訟at﹂. が、われわれにあっては、身構えにおいて内面の直観に与えられうる。遂行す. の一部は、個物化されて. にしてしまう︵EC逸書︶。知覚対象が事物と化しているのと同様である。しかし. べき行為が唯一つであっても、身構えにおける縮約の努力は意識に現出しうる。. ﹁無媒介の過去﹂. こうした事実化をもたらすのは、表層の実践的利害関心にすぎない。深層にお. 第二にこう言い換えてもよい。すなわち、原生生物には感覚性質がほとんど発. 続的な持続たる. いては﹁無媒介の過去﹂はあくまで持続する。かくして人格的記憶力は、決定. 生しない、と。その所以が今度は物質から高等脊椎動物に至る連続性を示して. ではなくて、すでに事実と. 的な過去の発生とともに二つの層に二重化し、第一の基層においては本源の記. もいる。感覚性質を発生せしめる﹁縮約﹂は程度を許容し、動物の種の相違に. 応じて異なる。﹃創造的進化﹄によれば、﹁自然においては、エーテルT物質︺. 憶力が作動し続ける。個別的・個物的な﹁純粋記憶﹂は第二の表層の記憶にす ﹁性格c胃aCt賢e﹂あ. である。性格は記憶の個物性を具えてい の振動に同調しほぼ同じ音高で震動する諸存在から、その無数の振動を不動化. ぎない。実際、第一 の 層 に も 記 憶 が 存 す る 。 わ れ わ れ の るいは﹁個人的な人 格 p e r s O m a l i t m ﹂. して極めて短い単一の知覚と化す諸存在に至るまで、連続する進展があるはず ヽヽ である。前者はほとんど運動のみを感じ、後者は性質を知覚する。前者は諸々. ない。﹁われわれが生きた経験の全体﹂︵呂眉−のN︶である。しかも性格の﹁意識 への現前は完全﹂︵E M − − の ∽ ︶ で あ り 、 こ の. の事態. ﹁魂論的事実は常に一緒に、分割さ. れざる一つの全体として無媒介の意識に与えられる﹂︵要﹀−00笥性格は﹁私. は反応して行為し、その行為能力の張り緊めはおそらく、知覚能力の集中に比. の程度は高く、感覚面が運動面から区別されると同時に、個体性の程度も. 高い。原生生物においてはその程度は低く、物質の単調な持続に近い。物質と. 約﹂. 例する﹂︵EC﹀岩−−C∋き忘裟−N畠・g︶当00︶。人間という生命体においては﹁締. ︹=周囲の環境︺ の歯車にほぼ巻き込まれるがままになっている。他方. の現在﹂の一面たる﹁無媒介の過去﹂に属し、かつ、本源の直観に与えられる。 しかし人間という高等脊椎動物と他の動物とは大きく異なる。第一に節足動. ﹁痛苦﹂を説明するための﹁予備的な指摘﹂としてアメー. 物や原生生物には本源の直観を期待することはできないだろう。﹃物質と記憶﹄. ︵16︶. では、内面の直観の. バが例に取られている。アメーバにおいては、感覚神経と運動神経とが分化し. いえども、その物質性にもかかわらず、それが﹁現存﹂するかぎり、完全に﹁張 いのち を喪失してしまっているわけではないのであった。逆に生といえど り緊め﹂. ー一. ていないがゆえに、感覚面と運動面との区別がないと推定される。それゆえア. 隆. も、﹁生けるものーes YiくN邑s﹂たる生=物の ﹁媒介なくしては進化・成長しえ 宮崎. メーバにおいては﹁痛苦﹂も内面の﹁直観﹂もほとんど発生していないだろう。 いのち ベルクソ ン ﹃ 創 造 的 進 化 ﹄ に お け る 直 観 と 生 の 理 論.

(12) 79. いのち ベルクソン﹃創造的進化﹄における直観と生の理論 宮崎. 隆. ない﹂︵EC態璧あるいは﹁生は一つの有機体に釘づけにされており﹂、物質. 一二. 識が物質に対する﹁努力﹂によって持続を、生ける身体を発生せしめているか. ぎり、人格的記憶力も、その本源的現働性において、生の躍動と同じ﹁創造﹂. の力を示している。 生物進化における創造の面についてはこう考えることができる。生物の﹁形. を欠いた﹁純粋意識﹂としては現存しえない︵EC﹀N余︶。かくして、物質から高. 態﹂あるいは﹁有機的組織﹂には二義あり、両者は﹁まったく別の起源﹂を有. 等脊椎動物に至る﹁現存﹂するものすべてについて、﹁縮約﹂の程度に応じて 一種の階層関係が成立する︵c≡ら阜㌍卒廓亘芯・g︶。生の側から見れば、生命体. ︵17︶. における縮約の努力が在る。本能による有機体の﹁使用﹂である。﹁胚に内属. する︵EC態竜一方は知性や実証科学が対象とする﹁形態﹂であり、われわれ. のゆえにもはや知性的概念ではないし、﹁形態﹂ の日常の知覚対象の独立性と類似性から発生する。知覚対象が習慣的行為の. する努力﹂︵EC恵︶、あるいは細胞の努力と言ってもよいだろう。もっとも﹁細. の意味は、その﹁努力﹂. 反映である以上、反復される同一の行いの対象は互いに類似する。知覚対象は. 胞﹂ としての﹁細胞﹂でもない。縮約する内面の﹁機能﹂としての﹁細胞﹂である。. すでに﹁類化g監ra−isatiOn﹂されている。知性はこれを解体・再構築して分. 析する。他方の起源は﹁自然の働き﹂であり、﹁不可分の現働呂aCte首乙i象ib−ニ. 反対の極たる物質性とは、こうした﹁張り緊め﹂の努力の﹁中断旨巾mp︷iOn﹂ ︵EC竜N︸NO岩鼻etcしにほかならない。しかるに第三に、人間にあっては、締. ﹁縮約﹂. に似ていることは異なる。しかるに生物の﹁形態﹂を問題にする際、こうした. である。有機体は一定の個体性を具える。こちらも、種において﹁類化﹂され 約の努力に程度の相違が認められる。ベルクソンは右の階層関係の主張に続け の程度を提示する。﹃物質と記憶﹄において る。様々な犬が互いに似ていることと、様々な湯春が、あるいは結晶体が互い て、 人 間 に お け る 性 格 の. 二種の﹁類化﹂が混同されてしまう︵EC﹀NN甲ご∽︶。ベルクソンはそれゆえ、﹁形. 分析ずみの﹁行為の人hO−呂︼eduactiOn﹂︵EC﹀︺≡象MM﹀−召︶である。﹁われわ. れの精神生活﹂には多様な﹁音調﹂があり、それは﹁われわれの個人的な人格. 態創造−escrma︷iOnSde許me﹂︵EC態○︶の特徴を取り出す。﹁われわれが形態創. 造を内側から把捉し、それを生きる﹂場合である。﹁形態を発生せしめる現働. 的努力の可変的な程度﹂に応じている。﹁記憶力には、張り緊めと生の力に応 じて相継ぐ異なった程度 が 存 す る ﹂ ︵ M M ﹀ − 0 0 箪 E C ︶ N O 吋 篭. われの直観に与えられる﹁本源的現働性﹂は、生物進化上の膏とは違って、身. た性格に働きかける。働いているのは一種の想起である。そして第三に、われ. の個体間の相違をもたらしている﹁縮約﹂は、人格的記憶力によって蓄積され. 働いているのは、運動性をもたらす本源の記憶力である。これに対して、人間. 物種の相違をもたらす﹁縮約﹂は、張り緩もうとする物質に直に働きかける。. ける﹁縮約﹂の相違は個体間の相違である。別の角度から言うなら、諸々の生. 間の﹁縮約﹂の努力は種に応じて相違するのであって、人間どうしの性格にお. れは十分に開花していないだろう。それどころか第二に、﹁現存﹂するものの. おいては、犬においてさえも期待できない︵EC︶−空㍉EM︼00竜少なくとも、そ. るべきであり﹂、﹁本能は、生が物質を有機化する働きをまさしく引き継いでい. 違いはない。﹁胚の生そのものの途上で遂行される多くの歩みは、本能に帰す. であった。さらに有機体を﹁組織化﹂する力に関しては、成長と進化との間に. らの有機体である。有機体の本能は当の有機体たる道具を﹁形成﹂しもするの. が当の現働性を固定させるのは画布の上である。これに対して本能の画布は自. 本源の直観は美感的直観が自覚にもたらされたものなのだから。なるほど画家. うのも、一方で﹁美感的直観﹂と﹁本能﹂の行為的認識は通底しており、かつ、. 家﹂の創造は、もはや単に創造的進化に﹁類似﹂しているだけではない。とい. する場合と﹁同様cOmme﹂である百c−望−︶。しかしわれわれにとつて﹁垂術. s﹀旨ヨmpre﹂際のことである︵EC態○︶。こうした構成は峯術家が作品を創造. い。それは﹁創造の流れが或る時間契機においてmOヨentanmment中断される. 性の単なる停止﹂が特定の形態を具えた﹁物質を構成すること﹂にほかならな. 体﹁機構の産出を通して分岐してゆくことはない﹂︵EC態卑しかし、直観が. なるほど、第一に、表層の個人的な人格的記憶はおそらく人間以外の生物に. 生ける身体における自己関係を打ち立てる意識の自己顕現であり、かつ当の意.

(13) 78. れの生の諸々の時間契機をもたらす垂術家﹂であり、作品に対する峯術家の関. 直観を、行為的認識をここに再び見出すことができる。﹁われわれは、われわ. な突然の付加によっ て 成 長 す る c r O 琴 e ﹂. 係に等しい、と。垂術作品を事前に予想することは、作品が仕上がるまえに仕. る﹂︵ECゝ票・罵生の秩序に属する一つの本体の実在性が、このように﹁様々. のごとき象徴的な再現表象は、むしろ知性的な秩序に移し変えられたその﹁裏. 上げることだから矛盾である。たとえば﹁画家の才能は、彼の産み出す諸々の. なら、原子や分子の並置された配列. 面﹂にすぎない︵EC﹀N舎﹀C詰○︶。この意味で本能も美感的直観も、﹁本体の実在. 作品の他ならぬ影響のもとで、自らを形態化しse許ヨゴerたり変形したりして、 において作用する持続d竜野r註訂mentagissβte﹂︵EC﹀N皇“cごの︶として︵意識︶. 念と一つに溶け合う﹂︵EC﹀N畠︶。生殖細胞と体細胞との区別も本質的な区別で. 同時に、われわれ個人の人格pe︻岩呂eを変容する﹂。それは﹁自己による自己. は、われわれが与えたばかりの新しい形態であって、われわれから発出すると. と通底する。持続は効力を具えている。﹁創造の観念は成長accrOissememtの観 いずれにせよ自らを変容する。それと同様に、われわれの︹魂の︺状態の各々. はない︵cご川C−−丹−∞︶。﹁遺伝は、単に形質を伝えるだけではない。それはまた. の創造であるcr賢iOndesOip胃SOi﹂︵EC︶電創造する﹁自己﹂と創造される. ﹁この躍動が生た. 躍動をも伝え、その 躍 動 の 威 力 で 形 質 が 変 化 す る ﹂ 。 そ し て. せて区別することはできる。しかし萎術家の作品は、美感的直観においては﹁内. ﹁自己﹂という二つの﹁自己﹂を、垂術家の働きとその作品との関係に対応さ. あくまでも﹁縮約﹂によって﹁律動﹂を課して持続を発生せしめる働きであり、. 面的に認識﹂されるがゆえに、外側から物質として見られた作品、知性によっ. ることそのことーavita−itmmmme﹂である︵EC︸N㌶︶。本体の実在性においては、. その裏面では、知性に対して、解体・再構築可能な形態が与えられる。﹁崩壊. て解体・再構築されうるような﹁形態﹂. の休止が加えられて新たになる旋律のごとくである。創造される﹁自己﹂は新. ではない。一つの音が、あるいは一つ. してゆく一つの本体の実在性をとおして出来つつある一つの本体の実在性﹂ ︵EC−N畠︶、物 質 的 な 落 下 方 向 の. たな性格の形態である。われわれが外的・内的な諸々の理由から行いに到るの. ﹁崩壊﹂運動を利用しっつ為される、精神的な. 上昇方向の∴縮約﹂運動である。二つの運動、二つの流れの綜合によって、﹁一. は、性格のこうした形態に応じてのことである。その意味で、人生上の問題は. るとすれば、当の理由が性格によって全面的に占められるからである。たとえ. つの生きる仕方mO旨sくi克ndiが帰結する。それこそが有機組織なのである﹂. 事物と創造する事物﹂との帝離はない。成長は﹁自己創造﹂となる苗c︸N金︶。. ば外的な理由から、性格に応じて身体の身構えが変化することもある。実際、. ﹁各人が内側から解決すべき﹂問題となる︵EC﹀d。純粋に﹁自由な行為﹂があ. 物質の領界の成長︵EC−N畠︶であろうと、一つの有機体の成長であろうと、ある. 一方でわれわれ人間には﹁縮約﹂ の努力の程度は相違するのであった。他方で. ︵EC−帖g︶C誌3︶。独立した事物など存在しない以上、﹁創造されることになる. いは性格の成長であ ろ う と 、 い ず れ も ﹁ 自 己 創 造 ﹂ を 意 味 し て い る 。. ︵EC−5・00︶N≡︸N∽00ーN会㌦tCし。しかし性格における持続の効力にも程度がある。. 生ける身体の運動性のなかで感覚面から運動面へと及ぼされる効力が最小の. のであった。したがって、性格という記憶に関する蓄積と想起の環においては、. 人格的な記憶の第一の基層においては、人格的記憶力も本源の記憶力の発現な. 性格という記憶は身構えにいわば帰還し、﹁欲望し、意志し、行為する﹂とい. 効力である。次いで、魂の状態の変化が﹁生成して十分に増大すると、身体に. において顕著に現れる. ぅ仕方で閉じる百cも。一つの環が考えられる。性格として蓄積された記憶は、. 一つの新たな身構えが刻印され、注意は新たな方向に張り向く﹂︵EC㍍︶。﹁私. ﹁自由な行為a象On−ibre﹂. 帰するところ身構えに変化をもたらす。なるほどこれは、一種の想起による効. の現在﹂において一体をなしていた感覚面と運動面とがいわば切り離され、﹁新. 性格の効力は、た と え ば. 果であり、﹁本能﹂による有機体の﹁使用﹂とは異なるように見える。節足動. たな身構え﹂. 一三. に、別の運動面に繋ぎ直される。いわば第二の衆の効力である。. 物やアメーバに身構えの変化をもたらす感覚面はほとんど、現在の運動性に閉. 隆. その際、先ほどまでの感覚面は過ぎ去ったもの、﹁出来上がったもの﹂として、 宮崎. じ込められているであろう。しかしわれわれは、垂術家の創造における美感的 いのち. ベルクソ ン ﹃ 創 造 的 進 化 ﹄ に お け る 直 観 と 生 の 理 論.

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