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エジプトと日本における政治語彙の造語 : ネーション概念の言語的な考察とその対応語

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(1)エジプトと目本における政治語彙の造語 一ネーション概念の言語的な考察とその対応語一 アーデル アミン サ」レ. 【キーワード1. ウンマ、ミッラー、シャアブ、国体、臣民、国民、政治言 語学、言語共同体、文化の二重構造、モハンマド・アリー. はじめに:政治言語研究の重要性  1990年代に入ってから現代に至るまで継続している湾岸戦争は、テクノ ロジーの粋を結集した「現代戦争」としての特色を備える一方で、マスコ. ミを利用した「報道戦争」としての性格を強く持つものであった。そこで 操作的に使用された「ウンマ・ジハード・正義・平和」などの言葉は世界 中に広がり、この戦争のee 一一ワードともなった。この現象は、「言葉の持. つ政治的性格」をはっきりと表したものといえる。親アメリカ・反アメリ. カのマスコミが「正義Jという表現をスローガンとして使用したとき、一 体何が「本当の正義」なのか。それは誰がどのようにして判定するのか。 ここにこそ、言語の意味をめぐる問題の複雑さがあることを我々は目の当 たりにした。.  人間は、時に「ことば」によって支配される。それは、言葉の持つ性格、 言葉の持っ意味が一一面的でないことによる。S.ハヤカワによれぱ「言語は、. 言語として機能するために意味を持たなくてはならない。それに意味は『そ. こに』あるというようなものではない。それは人の内部で起こる意味的反 応である」。1ここにおいて、言葉によって支配を受けた人間が、その支配. から自らを解放するために、言葉の「周辺」的意味を明らかにすることが 必要となってくる。だが、それは容易なことではない。なぜならば、人間 は有史以来、人々を支配するためにことばを操作してきたからである。そ れはもちろん個人的なレベルだけではなく、国家や政府といったあらゆる 政治組織においても、日々その「パワー」.を感じざるを得ない。西欧、特. にドイツにおいては、このような観点の研究が盛んである。クラウス・ミ. 一33一.

(2) ユー 堰[は、このような∫政治と言語」との関係を探求した著名な研究書. を書き残している。2.  目本においても明治政府は、政治的な世界において「四民」・「臣民」・ 「國家」・「國語」「国体」などを武器として「魔術」的に使用してきた。. その背景には「天皇制国家」を正当化させる目的があったことは言うまで もない。一方、オスマン帝国によるエジプトも含んだムスリムの現実政治 においても、言葉の使用によってアラブ諸国の殆どの地域が合併され、そ の維持もまた軍隊と宗教用語を使用することの上に成り立っていた。 「ム. スリム・カリフ」や「イスラーム・ウンマ」という概念を使用することに よって、エジプトなどのアラブ・ムスリムを3世紀近くも支配した3のであ る。.  言葉は自然の流れで変わるとよく言われるが、政治的な言葉は、殆どが そうではない。必ず、人間が動かす政治、あるいは権力側の意図的な宣伝 といった政治状況に応じて、言葉が変化を受け、人間の思考を転換させる のである。湾岸戦争の際、使用された「聖なる戦いに行く」を意味する“ガ. ズワ”という言葉は、イラク国内、あるいは親イラク諸国のマスコミの中 でよく流された。預言者ムハンマドが述べる「聖なる戦いに行く」を意味 する“ガズワ”には「略奪」という意味とともに「正義」という意味があ る。これに対して、当時エジプトなどの反イラク諸国では{アメリカと同 様に‘‘ガズワ”をまったく使わず、「イヘティラール(侵略)」を通用させた。. また、過去数年の韓国による反目運動の契機の1つである歴史教科書問題、 つまり日本語の「侵略」と「進出」という「椀曲語法(euphemism)」の使い 分けも、これに当たるものである。.  政治の世界において、言葉の持っ“椀曲語法”及び「周辺的意味」が人 間同士を引き離し、民族間の障壁を生み、最悪の場合には戦争にいたる。. 例えば、冷戦時代、ロシアは政治原則としての民主主義をアメリカが理解 するのとは違った意味で理解していた。また21世紀に入ってからも、アメ リカが中東へ戦争によって「デモクラシー」概念をもたらし、’新たな政治 体制を形成しようとしている。だが、「デモクラシー」概念の意味内容は、. アラブ文化のそれに対応する「現地のもの」とは異なっているため、現在 中東地域全体が政治的に不安定な状況に巻き込まれてしまっている。  さらに、現在イギリスにおける社会主義とヒトラー時代のドイツにおける. 一一一. @34−一.

(3) 社会主義とは異なっている。そして我々がよくロにする「自由」、この意 味は、ある政治状況に応じて人により様々に変化する。要するに政治的な 言葉は、ほとんどの場合、真実の響きを持たず、それらの用語の持つ周辺 的な意味が、人々の知情に影響を与え、良くも悪くも人々を導くことにな る。政治家の演説などを耳にすると、このことは明らかであろう。このよ うに言葉の政治に果たす役割が非常に重要な課題であることは言うまでも ない。.  しかしながら、日本とエジプトの言語学者および政治学者が、「政治に おける言語の重要性」という課題をそれほど重視しているとは思われない。. それ故、政治とことばの関係にっいて書かれた論文は未だ少ない。とはい え、わずかではあるが、日本においては東京大学名誉教授である石田雄の 90年代の著作や、カイロ大学のイブラヒーム・アニースの研究がその典型 である。また田中克彦は、彼の著書の題名からも分かるように、自ら政治 学と言語学を結び付け、 「民族」・「国家」・「言語」という3っの要素を. 1つの研究領域として開拓した。同氏が、近代日本における標準漢語化政策 について論じながら、 「言語操作の研究は、日本ではまだ殆ど着手されて いない」4と指摘している。.  19世紀以来、イスラーム圏の政治的言語は、西欧的行動・制度・思想の 衝撃の下に変化してきたものが多い。この変容は決して完成されることな く、たとえ1つの言葉であっても、社会的・文化的そして政治的背景に応じ. て異なる意味を持つようになった。それゆえ、とりわけイスラーム圏外と の接触の場合など、時には非常に重大な失敗とギャップを引き起こし得る。. とはいえ、もし我々がイスラーム的過表の理解とイスラームの現在のより 先鋭的な知覚を達成し得ることができたならば、一段深い部分に、すなわ ちムスリム世界における政治的言語のより厳密な改革の研究にまで達する だろうe.  日本の場合は、常に漢宇で外来思想・概念をあらわしてきた。 「国家・. 国民・自由・福祉」などがその例である。ここに日本における「国家」の 問題性が発生してきた。表意文宇によってのみ表されるこの「国家」とい う概念をどう捉えて良いのか。これは極めて言語的・政治的な問題ともい える。日本のみならず、非ヨーロッパ諸国における近代国家の形成期に使 用される政治語彙は、その成り立ちが説明され、選ばれるまでの生成・発. 一一一. @35−r.

(4) 展の過程が考察されるべきであろう。語源に発し、歴史的な変遷はもちろ ん、近代に至るまでの「国家・ネーション」概念の定義は、時と場所によ って異なるのである。例えば、現在、我々が使用している「国家」なる言 葉は、近代以降の国民国家を前提としているのだが、そもそも国家とは何 をもってこの「概念」をもつのか。この疑問を解く方法は、言語学的な意 味の変遷を追う作業と、政治的な背景を重ね合わせる作業を必要とする。. しかし2つの作業だけでは、国家の概念が定義され、上述の課題に答えた とは言い難い。なぜなら国家には、多様な文化を持ちかつ多様な形態を取 る人々の集団が存在するからである。今日では、「テロ」の対策を議題に 世界のリーダーたちが首脳会議をしばしば開き、それを定義しようと試み ている。しかし結果的には“テロ”の定義にっいての合意が得られないま ま、アメリカが独断的な解釈に基づいてアフガニスタンやイラク戦争の支 持を訴えてきた。.  このような語彙の「政治的な性格」は、専門用語でいうと“contested concepts(合意を得られない概念)”のことである。言葉が政治の本質を構成. するために大きな役割を果たすという事実は否定できない。従って、 「平. 和・正義・国際・民族・平等」などの基礎政治語彙が、この政治的性格を 持ち、場合によっては政治の本質の「誤解」と「混乱」をもたらすことが 少なくない。.  グローバル化が世界中に飛躍的に進む中で、今日政治意識の混乱の所以 でもある政治用語の曖昧な定義を根源から考え直すべきである。近代化さ れてきた我々の文化に一方的に受容されたこれらの政治語彙・概念などは、. 現地の伝統概念との調和の失敗の結果、我々の文化が欧米的な概念に支配 され、私たちの文化を失いっっあるという事実を否定できない。もはや伝 統的な文化の遺産でもある「現地の」諸概念と「外の」それに相当する概 念とを互いに比較検討し、各々の文化を支配する政治性格で覆われた言葉 の通用可能な中間的な解釈を定着させる時期ではないだろうか。その際、 ナショナリズム(;現地の伝統文化)と世界のグローバル化(=外の欧米化主. 義)の和解基準を作ることを前提とした交流を進めるべきではないか、と筆 者は恩う。.  さて」971年に発表されたエジプトの憲法では、「“シャアブ・ミスル(エ. ジプト国民)”は、“ウンマ・アラビア(アラブ人民)”の一部であり、そ. 一36一.

(5) の包括的統一のために努力する」と書いてある。これをみると、fシャア ブ」とiウンマ」は、同意義で使用されているが、教科書・メディア・書 物などにおいて殆んど区別されず、用いられている。本稿ではイスラーム の古典用語「ウンマ・ミッラ」そして新造語の「シャアブ」が、世俗的な 結合体を意味するに至るまでの過程を、西欧に生まれた「ネーション」概 念の導入を通して検討する。なお、問題を分かりやすくするためにも、日本 における「ネーション」の対応語と比較して、それによる「政治文化の二重‡鞄 とは何か、を考察する。. 1,近代化前後の帰属意識とその対応語 1.エジプトの場合  イスラーム古典用語である「ウンマ・ミッラ」の政治的性格を見ると、. いずれの場合もイスラームにおける「共同体」が、宗教を基盤に、シャリ ーア(イスラーム法)によって支配されていたことはご承知の通りである。. そして人は皆そのシャリーアにおいて異類のものではなく、そのシャリー アを実行させるために共同しながら、存在するのであった。エジプトはイ スラーム化以来、オスマン帝国時代の末まで、人々をも含んだムスリムの 全ては、一っの「枠」として存在し、皆「ミッラ共同体」として自分たち のまとまりを意識したのであった。だがこの「枠」の中にエジプトの人々 が皆自己の運命を決めずに大きな共同体の一部として存在していたのであ り、その存在がまさに宗教に基づく同胞心的な存在にほかならない。.  オスマン帝国の封建制度下、エジプトの内的な結合体という意識があっ たかといえば、そうではない。つまり、エジプトという地方に住んでいる 人は、一つの民族として認識したのではなく、そこでは、ミッラという大 きな枠の中での意識が働いていたのである。オスマン帝国の支配におかれ たエジプトては、宗教的帰属意識が非常に高まり、現実には、オスマン帝 国の“millet”制度の下でも、宗教的な意味での結合体が固定化されていた。. 言語・人種・歴史・生活意識などの全く異なった要素、即ち、エジプト人、. トルコ人、ペルシャ人、クルド人等を「共同体」として統合していた。イ. 一37一.

(6) スラーム世界における近代的「ネーション」の統一体の違いがここにある。. つまり、当時はまだご民族的な結合要素は意識されておらず、それどころ か、国家・民族などの世俗的、ナショナリスティックな概念を表現する政 治語彙は、公用語として定められたトルコ語でも、宗教言語のアラビア語 でも、依然として見られていなかった。エジプトなどのアラブ地域のほと んどは、三世紀もの間オスマン帝国下で閉鎖的に支配されていた。しかし そこでの被支配者は、権力を享受した支配者とまったく関係がないほどに 独自の伝統的制度下で動いていた。地方での社会単位は村であり、都市で はギルドであった。これらの単位は、税金と人々の行動の責任を負う者で あり、また、支配者と被支配者の唯一の接点を取り持ったシャイフ(首長). によってまとめられた。支配者と被支配者の関係は最小限に制限されてい たのである。この封建時代に行われた強制徴収制度及び職能的組織の存在 は、地方と都市の間の分裂を一層拡大した。何世紀も続いた農村に関わる 強制徴収は、地方の農民が互いにその地域における真の絆を生みだすこと を妨げていた。’都会では職能集団を通じて、帰属意識の分裂が進んだ。さ らに、産業労働者、学識者(ウラマー)農業従事者、職人などの様々な「社. 会階級(タバカート)」の分裂が拡大した。1個人は、自己の属する集団に 対する帰属意識をより強く持つことになった。そこでは、農民の子は農民、. 職人の子は職人になることが決められており、農民の子が、兵士になるこ. とは決してできなかった6このような政治状況の下では当時、エジプト地 域の人民の内的結合と’いう意識と近代的・ネーション主義的な意識とその 実体はまったく生まれる余地はなく、人民の内的な結合の自覚という民族. 意識は生まれずk支配的なのは、種族や封建政治による政策であったこと がいえるだろう。トルコは、.こうした帰属意識の欠如を最大限利用すると. 共に、この帰属意識が芽生えないように様i々な策略をめぐらした。そして. その代わりにs宗教に基づくfミッラ」を絆として利用し、専制的撞力を もってエジプトも貴めたアラブの喉元を押さえ付け、その財麗と能力を支 配したS。だが卑一ションという実俸を成立させる前提がないわけではな かった。. 1798年フランスのナポレオンは.醜閏}1 #;たってエジプ陸僅略した. が、それは西洋の近代文窮とエジプトとの初めての擾触であうて.エジヲ トの数世紀にもわたる孤立に終韮符を打ち、エジプトを力が支配する国際. 一一. カ一.

(7) 政治の舞台に容赦なく引き込んだ。このことはオスマン体制の基盤の失墜 をもたらし、エジプトのナショナリズムも開花しはじめ、西洋の力(=文 明)が意識された。エジプトの近代化を推進したムハンマド・アリ時代は、. 彼がエジプトの総督ワーリーとしてスルタンに任命された1805年に始まっ た。.  この歴史背景にっいて別な書にご参照されたいが、当時のエジプトでは 様々な政治・経済・文化の展開が見られ、「国」に対する帰属意識と民族 的絆が生じるような環境が醸成された。この実体を目撃した、政治的なイ スラーム復興運動の指導者、アフガーニーが述べるように、 「エジプトの. 人々が皆知り合うようになり、東西南北の人々が交渉を持つに至った。そ れからは『くに』を同じくする『民族的同胞意識』が強まってきた。その 前までは皆それぞれ分裂し遠ざかっていたため、同じ国内でも違った『く に』に属する者同士のようであった…」6。ムハンマド・アリはトルコの支 配からエジプトを離れさせ、自治を獲得する過程を通して、西洋の近代的 な資本主義に基づく国民国家の典型を手本に形成しようとした。近代国家. の形成にはヨーUッパの世俗的な思想の摂取が必要で不可欠だと政治側は 考えた。オスマン帝国の支配におかれたユジプトの啓蒙家は、自国が「国 民国家」として独立できる前提として、イスラームと全く違う背景に生ま れた「ネーション」概念などの思想を導入せざるをえなかった。この中で、. 後に論ずる「ミッラ=ウンマ」という新しい概念が提起されたe. 2.日本の場合  日本人は、アジア大陸から隔てられた日本列島に、2000年近く生活をして. きており、その間、日本は井上清がいうようにr同一の言葉と風習文化を 発展させ、古代の種族的結合は、そのまま中世にも近世にもひきっづき拡 大し、それがとるに足るほどの多くの他の種族的要素を加えたり、あるい は、日本人が大量に他の地方に移住して別の民族に発展するということが なくそのまま近代民族にすべりこんでいった」。7こうした運命的要素から 日本人は歴史的な形成体であり、大昔から日本人は「民族的統一」を持っ ていたと考えられている。日本は太古から天皇を中心とすることによって のみ、民族的結合を保ってきたとする政治的宣伝が、近代以降は意図的に. 一39−一.

(8) とられてきた。つまり、日本伝説に由来する「万世一系」観に基づき、「天. 皇」がその時々の政治的形態の中心に組み込まれ、そのことによって天皇 を中心とした統一的国家としての歴史を持っていたと考えられてきた.し かし、この考えは、古来より目本人が自らを日本人として意識し、そのよ うな帰属意識を元に近代的な「ネーション」を形成してきたことを意味す るのだろうか。井上清は以下のように述べている。.  「紀元5∼6世紀ころには、すでに日本列島の中央部から西南部(九州の 中央以南は除く)の地方には、現代日本人の祖先たる人種が住み、基本的 には共通の言語を持ち、ほぼ同じような生活様式や文化をもって生活して いた。そしてその地域と住民は天皇家を頭首とする奴隷主貴族らのゆるい. 連合政権の下に統治され、やがて7世紀の大化改新を経て、天皇は日本の 唯一の最高の支配者となり…政治的権力と神的権威とが未分化の一体の権 力及び権威の下に、日本列島の大部分をその領土『大八州国』 『やまと』 あるいは『日本』として、その住民を『日本人』と.して政治的に統一して いった」8。.  しかし実際は「目本人民の少なからぬ部分を占めていた奴隷にとって、支. 配者は天皇でもなければ国司でもない。ただ直接彼を所有する主人がある だけ」9であった。っまり、日本という国家的統一は成立したが、その中に 住むほとんどの「民衆」には国に属しているという意識はなかった。そし て、このような状況は、政治が武家の手に渡って以降も続いた。.  一般的に「天下統一」が達成されたと考えられている江戸時代においても. 同様のことがいえる。幕藩体制は、基本的に幕府と藩とによって、構成さ れていた10。また、「天下統一」の下でr天皇観」について、「天皇が征夷 大将軍を任命する形式があった」11というように、その時代ごとの政治的正. 当性の拠り所であったことは事実であるが「天皇は将軍からよろしいと言 われなければ天皇になれなかった112のも事実であった。「身分制はほんら い、分業関係・階級関係として形成してきた人民の諸区分を政治的に編成 して、分断的人民支配の制度としたものであった」路その内容の最も重要な ことは「身分制の支配が人民の間に、身分制意識ともいうべき意識を値え つけるに至ったことである。それは、一っには、他の身分にたいする区別・. 差別の意識であり、二つには、本来、階層的な諸関係にあるものを身分的 な関係とうけとるような意識であった。このような身分制意識が人民の間. 一一. S0−一.

(9) にほぼ定着するに至ったのは、18世紀始め頃ではないかと考えられる」14徳. 川幕藩体制における社会意識がいかなるものかを解明するにあたって、丸 山真男は以下のように論じている。.  「兵農分離を徹底的に押進めた結果として成立した徳川封建制に於ては、. 治者と被治者の世界が確然と牢画されてゐた。治者たる武士階級は一切の 政治的権利を独占したのはもとより、社会的乃至文化的にも自己の生活様 式を庶民のそれから判然と区別し、さうした身分の閉鎖性をぱあらゆる法 的手段によつて擁護すべくっとめた。…農工商の庶民はひたすら武士に奉 仕し武士を養ふ為にのみ生存を許容されてゐた。…農民はもつばら貢祖を 納めるための存在であつた。…農民に政治的義務として、その政治的義務 感に訴へて課さられるのではない…商人は周知のごとく被治者の中でも最 下位の価値秩序が指定されてゐた。」15  結局、 「徳川封建社会は二つの部分に戴然と亀裂し、一方武士階級は庶. 民に対してもつぱら政治的主体としての一切の政治的責任を自己の双肩に 担ひ、反之全人口の九割以上を占める庶民はもっぱら政治的統制の客体と して所与の秩序に受動的『由らしめ』られてゐたのである。かく治者と被 治者とが社会的に固定してゐる処に於て、如何にして一一体的な『国民』の 存在を語りえない」16のである。これは丸山真男の極端な説であるが、目本 における政治的な統一というのは、 「ネーション」のように成立したもの. ではなく、人々のその生活を支える内的な結合とは別物と考えられた。近 代化以前、封建社会の基本的な身分による分裂は、武士と庶民の間の分裂. であった。それぞれの階級の内部における階級的な身分序列の固定性が 「ネーション」的な意識の成長を妨害したのである。. 3. 「並置語」にみる日本の政治語彙  日本の国民国家が形成される過程において「ネーション」に当たる政治 語彙として「士民」や「臣民」や「皇民」や「国家」などがあげられ、こ れらの語彙は「並置語法」という構造に成り立っている。ここでいう「並 置語」とは、本質的に対立しあう語義から構成された語であり、その構造 は、「意味論の観点からすれば『及び』の関係を表す。『及び』の関係を 接続詞ぬきで無造作にくっつけた並置は日本語にはめずらしくない」17ので. 一41一.

(10) ある。本稿の対象である「士民」や「臣民」を実例として以下に考察する。. 3.1武家時代における「士民」の代置に「臣民」の造語  明治初期、 「臣民・国民・人民」が、日本人全体を統一体としてとらえる際の言. 葉として定着する以前には、「士民」「四民」が圧倒的に使用された。「士 民」とは、それまでの支配層と被支配層、すなわち、 「士」と「民」、武. 士と庶民、あるいは士族と平民という2つの違った身分を一つにまとめて 表現するために成立した言葉であった。この言葉は、明治初期までよく使 われていた。たとえば、水戸学を代表する会沢正志斎の『新論』の中で「士 民倶に、富めぱ、すなはち商責もまた随つてその利を受く。」18江戸時代の 封建制度の厳しい社会身分の差を物語っていた「士民」は、 「武士対庶民. といふ封建社会の基本的身分による分裂に付随して、武士階級乃至庶民階 級の夫々内部に於ける階級的な身分的区別とその固定性が国民的統一意識 の生長を妨げてゐた」。19この観点から言えぱ、「士民」が不平等なイメー ジを持ち、近代国家を目指す際には不適切な用語であり、その概念の性質 に関して、「明治の初期、日本人全体を指すのに『士民』という表現が見 られたが、この並置法にはまだ封建制のにおいがまっわりっいていた。す なわち、支配層をあらわす『士』と、被支配層の『民』」20という対立的な 関係がある。.  「臣民」の場合は、「臣(オミ)」は、家来が主君に対して自らをへりく. だっていう言葉であり、その政治的な意義は「大身(オホミ)ノ約、君二 仕フル人身ヲ敬シティヘルナリト云 (一)君二使フル人。臣。臣下。ケラ イ。」2エであった。.  他方、.「民」の語源は、ヘボンによると、 「tami、タミ、.民」は、 「ta; field and mi;person」即ち、 「田」十「身」22であった。従って、 「臣」は. 「君」を代表して「民」を治める官僚を指していたのに対し、 「民」は被. 治者であった人々を指すときにいう言葉であり、両者は明確に区別され、 いずれも政治的な意義をもった語であった23。「臣民」という言葉は、恐ら. く、国学者、例えば水戸学の思想的影響の下に明治初期に政治語彙として 採用されるようになったのであろう。事実、 「臣民」がその後、 i士民」. と「四民」に代わる言葉として日本人全体を指す言葉になった。そしてこ. 一42一.

(11) の言葉は、明治22年の大日本帝国憲法で公式に「ネーション」の対応語と して採用され、戦後まで政府の政治語彙として好まれた。 r臣民」という. 言葉は、君主国において君主に支配されるものとしての人々という意味を もつが、これは日本の旧憲法下において、天皇及び皇族を除いた人々を意 味した24。しかし、なぜこのような言葉が「ネーション」の対応語として意 図的に使われたのか。.  国学者らが君主を除いて、日本人全体を表現するのに一つの言葉を使わず、. 主に貴族や士族を「臣」に対応させ、その他の者については「民」を使い たいという意志が働いたという事情がそこにあったと思われる。例えば、 このことは『新論』の中でも書いてある。.   「神聖建国の大体は臣すでにほぼこれを言へり」25   「上、その事に任じて、民、上に聴かば、すなはち君を敬すること_」26.  武家政治以前の「臣民」という言葉が政治的な意図を果たすため復活さ せられたと思われる。それには、第一に、徳川幕府時代の政治的社会的制 度の排除と、第二には、天皇及び皇族を中心とした新しい政治体制を確立. させられることである。即ち、「君」を代表して眠」を治める官僚を意 味していた「臣」と、被治者であった人々を指していた「民」を組み合わ せることによって、新たな社会制度を指示する概念を構築しようとしたの であった。これら国学者の思想背景をよくあらわすものとして明治政府下 の『教育勅語』の中で「臣民」という言葉が好んで用いられたことがあげ られる。 「朕国家ノ隆昌卜臣民ノ慶福トヲ収テ中心ノ欣榮トシ朕力租宗二 承クルノ大穫二依リ現在及将来ノ臣民二封シ」27というようにも「臣民」が 支配的に用いられた。’. 3.2「国民」の成立過程1欧米語・日本語の辞書の役割  明治IO年代に辞書などに、欧米語の「ネーション」の訳語として「人民」 「国民」という言葉が認められたが、これらの言葉は本来、どのように使 用されていたのか。 「国民」の語源を考えてみると、この言葉は「国」十 「民」という二つの語から構成されている。ここで「人民」との違いを考 えるとき重要なのは、 「國」というのが何を意味していたのかということ. 一43一.

(12) である。この漢字は、 「地平線『一』の上に『口』、即ち匿割りをして其. の上に『支』を加えたもので、一定の土地を犬取って守ると云ふ意義であ る。此の『或』の宇が國の始めの字であったが、此の宇が今の意義に用ゐ られるようになって『或』に『口』が加えられて、今の『國』の宇が出来 た。」29そして政治用語としては、「日本の行政上の一区画をなした土地の 称。129として用いられていた。『目本国語大辞典』によれば、 「くに」は. 一つの区域をなした土地を指した30。他方、この「国」という言葉は明治維 新以前は、大名などの領主が治める藩などの領地を指していたのであって、. それ以上のまとまりを呼ぶ時には使われていなかった。近代以前、江戸時 代の日本領土は、66の国に別れていて約260の藩があった。それと同様に、. 何十の違った「国民」に分けられていたということである。だからこの意 味で「国民」といえば、領主に仕える被統治者を指すことになる。 「国民」. は、以外に古くみられ、15世紀以前にもあったようである。例えば、 「十 訓抄.10.山林房覚遊不射一失逃事『抑季春国民たりながら、国司を射奉る事、. 罪科すでに違勅の者也』131と言う例などもでている。江戸時代には、「国. 民」は、大名の支配領域および支配機構として藩が成立した結果、土豪武 士を指すのに用いられた。例えぱ、 「大和國春日興福寺領内で末社の神主 をつとめていた地侍」32、 「秀頼公御上洛候て是非又諸侍国民入悦入侯」33. などがある。すなわち、「国民」の指し示す範囲がさらに狭まり、その政 治的な用法もなくなり、使用頻度も減少した。.  E本は、19世紀になると、 「ネーション」に相当する語彙は「臣民」と 「人民・国民」が次第に流行して行く。前者は、全く新造語で当時の政治 文化のあり方を正当化するために造案された新語である。これにっいて、. 後に述べるが近代日本において、「ネーション」の対応語として様々な語 彙の中から「国民・人民」が有力な候補としてあがった。この過程を、当 時の有力な辞書の例からみることにする。.  “Nation”という言葉をとりあげてそれに日本語の訳語をつけた最も古い. 辞書の一っは、1930年にバタビアで出瓶された“ENGLISH AND JAPANESE. AND 5APA村ESE AND ENGLIS}匡VOCABULARY”という辞書である。その 著者W.H.M・dh・rstは、クニKf・・−ni・A・n・tien,…untry34.  People Ta−miタミ3s Common people Tada−bito タゴ ビト36. というように日本語の言葉を翻訳した。ここで注目したいことは、「国民・. 一44一.

(13) 人民」という言葉が少なくとも近代的な意味で同版に現れていないという ことである。また、文久11年に、 「nation、ネーション 人民国俗」ヨ7があ. げられる。しかし、19世紀の60年代頃から「国民・人民」が、しばしば、 辞書に登場してくる。たとえば、1862年にL60n Pqg6sが出した“DICTIONARY JAPONAIS−FRANCAIS”の中で、 「cocumin,コクミン(cuino tami、クニノ タミ),people, habitants du royaume,3sと解釈した。これはf国民」の用. 法としての近代的解釈を初めてうちだしたもので、2っの意味で進歩的であ った。第一に「国民」を辞書にのせた点、第二に、それを「ネーション」 に近い意味、即ち、“people”や「三E国の住民」に訳した点であるe.  l867年に出版されたヘボンの『和英語林集成』辞書の解釈が、日本近代思. 想家の意識及び彼らの書物の中での西洋近代思想から受けた用語に大きな 影響を与えたと考えられる。.  当時、ヘボンの辞書の重要性とは、日本の日常生活の中で実際に存在し ていた語彙を拾って記録したこと、英語の言葉を日本語に訳す際、いかな る言葉が適切であるのかという判断を下したことである。例えば、同辞書 の1867年の初版では、nation, Kuni, kokU39また、 Kuni,くに,國、(koku),. n.Country, state, kingdom40をあてはめ、第二版では、 nationを日本語に訳. したとき、その中で既に政治用語として新たに用いられるようになった国 民と人民を掲載した。 nation, n. Jim−min, koku−min、.             41 nationality, n. Kuni, koku. ヘボンは、西欧語のnationの近代的な意味とそれが持つ概念を意識しなが ら、特に「人民」「国民」をそれに相応しい単語として選んだと思われる。. 彼は「国民・国語・国」を近代的な用語としてこの辞書に載せたのである が同書の第3版の中で、「ネーション」を「国民」に限定して、「人民」を peopleにあてはめた。   Koku−minコクミン 国民 n. the people ofthe country;the nation42.   Jimmin ジンミン 人民 People, Syn. tami, hitobito43. 聖書の翻訳家たるヘボンが「国民」を「ネーシヨン」の解釈として、また 「人民」をpeople として認めたことは、大きな転換であったといえる。と. いうのは、後に取り上げる福沢諭吉などがこれらの辞書から影響を受け、. 一45一.

(14) 「国体」概念を再定義した過程に「ネーション」概念を導入し「国民」に 対応させたと考えられる。.  日本の場合、古・中世紀に、日本人は「本朝・神国・天下」に帰属してい. たと論じても、本稿で取り扱った政治語彙の分析からいえぱ、当時、存在 していた日本の「全体」とは、西洋に生まれた「ネーション」的な存在で はなく、またその「全体」の内的結合の認識というナショナリズム主義的 意識がなかったといえよう。今まで分析した政治語彙にもあるように、や. はり当時の日本人は「全体1の中で個人として自分を認識していたのでは なく、ただ身分的な所属をもって、認識していたのである。この所属意識 は封建時代を通して続き、国民の政治tw−一一体意識にまでは昇華せず、それ. が直ちに国民的統一へ導くものではなかった。このことに関して井上清が 興味深い意見を述べている。.    f社会的生産がいっそう発展し、人民が奴隷制をやぶり、人民の生活   における結合が、村落の枠をやぶり、あるいは血縁的せまさをやぶるに   つれて、古代専制権力の基礎は分解し、中央権力は弱まりしたがってそ.   の権力への全国人民の生活的Lばりっけが弱まるにつれて、外見上の統   一の下にかくされていた未統一、人民の社会的結合の分散性の真実の姿   が現れてくるのである。その分鐡した社会を基礎に、政治的には封建領   主が全国土と人民を無数の領地領民に分割領有して支配するが、そこに   いたって、全国的な人民の民族的結合はまだなかったことがはっきりす   る。…全人民の内的結合の自覚という民族の意識も、萌芽としてうまれ   つつある…その時代でも,支配的なのは種族的意識や封建権力権威の下   に統轄せられた…特」.  以上、rネーシヨン」に対応する語彙の成立にいたる過程を検討してき たが、言語的なレベルだけでは、それらの概念が一般の人々に意識される ことはありえない。この言葉が概念化し、定着するまで、どのような思想 的な背景があったのか、具体的に日本啓蒙思想家を代表する福沢諭吉とそ. れに当たるエジプト最初の啓蒙家リファーア:タフタtsウィを主に議論 をすすめていく。. 一46一.

(15) 1.ネーション概念の受容と、ウンマ及び国体概念の再定義:   R.タフターウィと福沢諭吉を中心に. 1.エジプトの場合 1.1イスラーム古典用語の利用  フランスの政治思想は、相対的に国境が明確な国家の中での諸問題につ いてのみ関心があった。他方、当時のエジプト地域は理論的にも公式的に もオスマン帝国に従属していた。しかし19世紀のオスマン帝国の中ではこ. れら階層間の公正さが欠如し、内的腐敗が進んでいたeこうした中でエジ プドでは世俗的な概念、とりわけ「ステート・ネーション」などの導入が 不可欠だと感じられ、「ワタン(国家)」と「ウンマ(国民)」概念を新 たに提起されたのである。本稿で取り上げている、タフターウィと同世代 のフサインニマルサフィなどのエジプ出身ムスリム啓蒙家は、オスマン帝 国の支配する地域を宗教的に結び付ける理論的根拠に立脚するのではなく、 宗教的な帰属意識に代えて、 「ワタン1概念と関連する「国民的同胞心」 及び「愛国心」を提示した。  ワタンという言葉は、 「国家」の訳語であるが、本来の意味は、 「居住. の場」、牛や羊の囲いという意味にすぎなかった。その定義は、本来「人 が住んだり安らぎを得たりするところであり、また家畜が戻る場所という 意味を持っている」45。イブン・ハルドウーンは、アサビーヤ(部族的連帯) などの造語を作りだし、 「ワタン」もその一例である。 「王国が、多様の. アサビーヤ(部族的連帯)、あるいは部族のあるワタン(国々)を有する 揚合、その王国を統治しにくい46。」.  西欧との文化的接触を受けたタフターウィは、「ステート」に近い語彙 を考え、ワタンを採用したeさらにアズハル大学で『アル・ムカディマー』. の講義を行ったマルサフィも後に検討するが「ネーション・ステート」の 意味を意識しながら選んだのであろう。しかしどういう過程を経て上記の 「ワタン」という語彙が世俗的でナショナリスティックな意味を持ち得た. のだろうか。これは二つの段階にわたって、概念化されたと思われる。先 ず“patrie(祖国)”の導入、次は「ワタン」が「国家」に対応するように なっていく。. 一47一.

(16)  タフターウィにおけるワタンの概念は様々である。彼は、ワタンを人間 が生まれ育った地域としての意味でよく使っている。彼の重要な著作『マ ナヒジュアルアルバーブ』の中では、 「人間が青少年期を過ごした場所」 であり、 「人間が生まれ育ちそこから巣立っ、そして家族の集いの場であ. る巣」である。このような意味では、例えば、ベドウィンにとっては、そ の砂漠がワタンであり、都市生活者にとっては彼らが生まれ育った地域が 一つのワタンである。つまりタフターウィはワタンという言葉を、最初の 段階ではナショナリズムという枠組みの中では使わなかった。彼は、人間 が生また育った地域への愛について語ったが、そうしたすべての小さな地 域が「国民国家」でなければならないという意味はない。.  この段階ではフランス語の“patrie”の定義を下敷きにしていた。具体的. には、フランス国歌などを初めてアラビア語に訳して紹介した時、祖国を. ワタンと対応させ、「起て、祖国(ワタン)の子らよJとし、「ホプ ア ル ワタン」を「愛国心」の訳語とした。国民が主体となり「ワタン」を 自分のものとして愛するということであるから、愛国心は実質的にネーシ ョン主義的な思想と連動している。”このような思想は彼のネーション概念. における基本的な原理ともいえる。また、同氏は「愛国心」についての多 くの詩を作り、1885年には、『エジプト愛国詩文集』を編纂した。.  1882年以降、エジプトが半植民地化された「国家」を「ワタン」に訳さ れ、 「国民国家」の議論が大きな展開を迎えた。タフターウィの同時代の. マルサフィは国家を「ワタン アーム」と呼び、これが「国民が定着して いる一定の地域である」と論じた。そしてこのようなワタンは、 「四面を. 国境によって区切られた一定の地域を線引きによってそれぞれを区別する ために国号がっけられる。例えば、エジプトとかヒジャズのように」と「国 家」概念を厳密に定義した47。同氏によると、「国民」がその中にあるとこ ろのワタンの定義は、一般的な定義であると述べ、 「ステート」と「ネー. ション」の区別をせずに、「ネーション・ステート」という議論まで言及 した。そして言語の違いによって世界を「ワタン」に分ける必要があると 強調している。このように「国家」の訳語としてのワタンにおける世俗的. 概念の定義は、一九世紀ヨーaッパにおいて知られていた意味でのワタン という概念は留学知識人の内で形成されはじめた。ここで重要な論点とな るのは、啓蒙家が、 「ワタン」の構成員としての「ネーション」を表現し. 一48−一.

(17) た際、イスラームの古典的な表現を利用したことである。っまり、ミッラ・. ウンマなどをネーション概念の対応語として採用し、目新しい意味で定義 しようとした。. 1.2ウンマ概念の再定義  当時のヨーロッパ知識人が考えたように、タフターウィは一つのワタン の構成員の間には構造的・本能的結合要素があるとみていた。それは、言 語、居住地域、習慣、性質、利害、権利、義務、さらに宗教を共有してい ることから生まれるのである。「アブナアルフタン(国の民)は常に言語を. 共通にし、そして一人の支配者の下にあり、そして一つのシャリーアと一 つの政治制度に従っている」また、別なところではミッラとは「政治習慣 上、一っの言葉を話し、性質を同じくし、利害を共通にし、一つの国家、 ひとつの支配にほぼ従い、一つの国に住む人の総集団を表すジンス(種族). の様な意味である。それは、アハリー・ラーイヤ・アブナアルフタンと も呼ばれて」48いると定義した。.  ここで注目すべきことは、この定義が1872年にされたことであり、上記. の二つの定義において、ワタンの構成員「アブナアルフタン」と「ミッ ラ」の構成員は同じく一っの言語を話し、常に言語において統一されてい ることである。これはヨーロッパで起こったナショナリズム運動からの強 い影響である。 「フランス革命以来、言語と一国の国民との結びつかれた ことは、重要な政治理念と化した。.  オイゲン・レムベルグは二巻にわたってナショナリズムについての著書 の中で、フランス革命以降成立した近代ヨーロッパ諸国は何よりも、言語 上の社会共伺体として自己意識に目覚めたのだと述べている」49。タフター ウィはこのようなヨーロッパの動きにそって、ムスリム学者として、初め て宗教の共通性を言語の共通性に置き換えて、ワタンとミッラを定義した。. それは、イスラームに基づくウンマという想像上の共同体イメージに対し て大きな転換を起こしたといえる。では、彼はオスマン帝国支配下にある それぞれの地域で、それぞれの言語に基づく国民国家を形成し、分離する ということを意図していたのであろうか。マルサフィは、世俗的なネーシ ヨン概念をイスラーム古典用語「ウンマ」に対応させた。同氏のいう「ウ. 一49一.

(18) ンマ」とは「人kの集合体である。総体的に人々を寄せ集める。その主た る要因は、順に言語、地域、宗教である…」50。.  マルサフィの論述を概要すると、ウンマは一っの集合体であって、一っ の基本的な支柱によって結合され、共同体として人々を寄せ集める。その 結合要素は、様々なのだが、その中で一番重要なものとして三つの要因が ある。即ち、pa−一言語)、地域、そして宗教である。従って、ウンマの概. 念は広がり、様々な形態のウンマが可能となる。しかし、マルサフィの提 供したウンマのうち、どれが優れて優先的であるかを比較しながら、決定 的な判断を下した。これは、言語である。同氏は、言語に基づくウンマは 「政治組織、国王、そして国家組織から重視されていなかった」と主張し. た。しかしウンマに基づく言語の場合、その言語的な統一性も必要である べきだと考えた。さらに、ウンマが一定の地域に限られるこのようなウン マの明確な定義は、イスラーム世界史上初めてであることに注目するべき である。.  宗教に関してだが、マルサフィの定義では、あまり重要な要素ではなか った。しかし残る疑問点として、 「ウンマ」が一つの宗教のみに基づいて. の一っのウンマを持つか否かということである。彼の「ワタン1概念の定 義に基づいて、エジプトは一つの「ワタン」として成立できると指摘した が、アラブ全体の場合について、マルサフィの知識の中では、アラビア語 を話す人は一つのウンマになれるかどうか、ということは明らかにしてい ないのである。しかし、 「四面の国境」、 「単一言語」、 「国号が付けら. れる」などの国家主義的な要素は彼の祖国エジプトに対して適用しやすい。. つまり当時、「国民国家」として現代のように成立されていなかったシリ ア、エジプト、イラクなどのような地域の、トルコからの政治的分離を意 図したのではないか。では、19世紀前半、エジプト啓蒙家は、なぜネーシ ョン概念を導入し、イスラ「ムの古典概念「ウンマ、ミッラ」を再定義し たのか。. 1.3世俗的な「ウンマ」の導入と、その政治的な意図  ネーション概念の導入と「ウンマ=ミッラ」概念の再定義の裏に政治的 な意図があった。それは、 「ネーション」の結合要素(二独立)と構成要. 一50一.

(19) 素(国家の構成員としてのムスリムと非ムスリムの関係)という二つの課 題の議論が起こされたことであり、あらゆる目標がその議論の中に含まれ た。これについて以下に検討してみる。.  エジプトにおいて、ネーション概念の成立に必要な言語、人種、地理、. 生活様式上の共通性が、ある程度揃っていた。ゆえ、これらの要素が基盤 に「エジプト地域」から一一つの「国民国家」ができると考えられた。これ. は、直ちに「独立J問題と関連つかれた。  エジプトは7世紀の半ば頃から、19世紀の末までイスラームの枠内の一部. として存在したために独立したことはなかった。エジプトのムスリム啓蒙 家には「独立」という話題にまで及ぶことができず、当時の著書のなかで 「独立」という用語はほとんど見られない。なぜならば、オスマン帝国の. 「ミッラJ制度によって「宗教同胞心」が支配的でトルコから独立すると いう論を発表した場合、イスラームに対する違反となり、政治的権力を持 ったウラマー(国学者にあたるもの)に否定されてしまうからだ。エジプ トの啓蒙思想家は「独立」いう概念を発展させ得なかった。しかし、その 目的については新たなウンマとワタン概念の中に含まれていたと筆者は考 えている。というのは、上述したように、タフターウィの政治領域におけ るワタン概念の定義は「祖国」を導入することから出発した。そして、彼 は、郷土愛を、成熟した「ステート」に発展させた。彼の見解においては、. アルトマンが述べて、いるように「政治的共同体の構成要素として領土と 言語に対してイスラームが一番優位を占めている」51のではなく、タフター ウィの頭の中では徐々にワタン概念の定義が政治的・ナショナリスティッ クな意味をもたらしてきたのであるe当時のヨー一ロッパ思想家と同様、彼. は単一ワタンの構成員の間には共通の言語、土地、習慣、文化、性格、権 利と義務によって結び付いていると述べた。このような客観的な結合要素 の方を宗教よりも優先させたのである。そこからは、単一言語、はっきり とした領土、文化の共通性をもっているエジプト全体から一つの「国家」. を構成させ、そしてエジプトという一つの地域に住するすべてのエジプト. 人を中心として単一「国民国家1を造ることができるというイデオロギー が考えられる。タフターウィは、確かにエジプトのカウミーヤ(ナショナ リティ)に関して特別の執着を持っていたようである。自らの著書の中で、. エジプトへの愛、古代ファラオへの誇りをよく述べている。タフターウi、. 一51一.

(20) 次いでマルサフィは、宗教に基づく共同体と世俗的な結合要素による統一 体という二っを区別できると考えた最初のムスリム思想家であった。それ はムスリム・アラブ思想において重要な転換である、なぜならそれは、エ ジプト地域がオスマン帝国から分離することになるからである。しかしマ ルサフィの場合、この近代的な国家の結合要素、特に「地理によるウンマ」 をエジプトに以下のように直接に適用した。 「例えば、エジプトとかヒジ. ャズのように。そして「ウンマスリ(エジプト国民国家)」や「ウンマヒ ジャズィヤ」に言われるこのように、西洋接触の元で導入されたネーショ ン概念に含まれたナショナリスティックな結合要素は、近代における最大 の政治的課題とされる「エジプト国民国家」成立というイデオロギーのみ ならず、トルコからのエジプトあるいは、アラブ地域の全体の分離独立を 考えていたと考えられる。これは、あくまでアラビア語による「言語共同 体」イデオロギーの実践的な議論といえよう。. 2.日本の場合:福沢による“NATIONALITY”の受容と   国体概念の再定義  日本の近代用語が作られた背景には、日本は明治維新に西洋文化と接触し. たいたため、多くの政治・社会に関する語彙が、早い時期から西欧の近代 的な語彙に対応して用いられたという歴史的事実が存在する。 「ネーショ ン・福祉・自由・社会・個人」などの新造語も1860年代から作られ始めた.. 西欧との接触と同時に、日本語と西欧諸言語という「言語接触」も、明治 以前から始まっていたのである。福沢諭吉のような欧化化主義者は、一人 の啓蒙思想家として、西欧の言語を学ぶことができた。彼の政治的な概念 は、伝統的政治倫理からかなり離れたものであった。福沢は、日本におけ る近代用語の形成史上重要な、維新後の文物や思想などを表すのに適切な 新語の創造と文章上での使用・普及の点でも、大きく貢献している。この ことから「目本近代語彙の成立および普及はその思想を福沢から最も多く 受けている」52といっても過言ではない。問題になったのは、日本の「権力 側」が自分の支配を正当化させるために政治語彙を意識的に使ったという ことである。それは日本の政治用語を形成する過程に大きな影響を及ぼし. たe権力側の言語操作が、政治体制への影響を優先させたものであったの. 一52一.

(21) に対し、啓蒙思想家は、もともとの西洋の概念と自らの政治的語彙の差異 を最小限にしようと努めた。.  日本の近代政治文化の本質を構成した最も重要な役割を果たしたのは、. 「国体」という政治語彙であった。この言葉によってf天皇制国家」が正 当化されたことはいうまでもない。日本啓蒙家、持に加藤弘之と福沢諭吉 などは「国家観」ないし「ネーション論」を論じた際、「国体」を重視し 議論を進めた。筆者は自ら「国体」という政治語彙と日本の近代的な「ネ ーション観」との関係を見いだし、以下にも福沢諭吉がどのように「ネー ション概念」と「国体」概念を結び付けたか、を明らかにしたいところで ある(原稿制限のため福沢の理論のみを分析する)e. 福沢が国体を論ずるにあたって念頭においたことの1っは、ヨーロッパ文 明を摂取することであり、もう一つは、不平等条約を列強に強いられた日 本の政治的状況を改善することであった。この際、特に福沢が批判しなけ ればならなかったのは、国学者が古来の伝統を持ち出し、天皇の正当性を 主張した論である。 「人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名. 分の然らしむるものなりとの説あれども、大義・名分とは真実無妄の正理な らん。真実無妄の理は人間の須奥も離る可からざるものなり」53と単に「超 歴史的」54な大義名分論だけでは、近代的国民国家の政治の正当性を維持す. るのは不充分であると述べた。そして結論として「故に云く、皇学者流の 国体論は、今の人心を維持して其品行を高尚の域に導くの具と為すに足ら ざるなり」55と批判している。天皇と人民の間のコミュニュケーション手段 としての「交際」が行われていないことを福沢は指摘した。このように、. 従来の漢学者・国学者などが論じている「家産国家」あるいは「天皇制国 家」に対して、それが権力側(「上」)から(「下」へ)の支配という発 想しかなく、その構成員の政治的な参加が考慮されていないことを福沢諭 吉は批判したのだった。. 福沢は、従来の国学者などの国体論では、自由と平等の原理に基づく近代. 国民国家を作り出せないと考えていた。そこでは、日本の「国体」が、ヨ ーロッパ文明とは矛盾しないと断言したのである。 「西洋の文明は我が国. 体を固くして兼て我皇統に光を増す可き無二の一物なれば、之を取るに於 て何ぞ騰躇することをせんや。断じて西洋の文明を取る可きなり」56ヨーロ ツパ文明の摂取という問題を取り扱う際、福沢は、欧米語でいう“nationality”. 一53一.

(22) という言葉を「国体」に解釈することによって彼独自の国体論を展開した。.    「∼国体とは何物を指すや?世間の議論は姑く欄き、先ず余輩の知る.  所を以て之を説かん。体は合体の義なり、また体裁の義なり。物を集め   て之を全ふし他の物と区別すべき形を云ふなり。故に国体とは、「一種.  族」の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自ら  互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自ら互に力を尽くすこと他国  人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自ら支配し他の政府の制御   を受けるを好まず、禍福共に自ら担当して独立する者を云ふなり。西洋   の語に『ナショナリチ』と名のるもの是なり∼此国体の情の起こる由縁   を尋るに、人種の同じきに由る者あり、宗旨の同じきに由るものあり、.  或は言語に由り、或は地理に由り、其趣一様ならざれども、最も有力な   る源因と名く可きものは一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を   同ふする者、即是なり。或は此諸件に拘はらずして国体を全ふするもの   もなきに非ず57」.  ここで提供された「国体」とは、ヨーロッパの言葉でいう“nationality” に相当するものとして福沢が考えたわけであり、このような「国体」とは、. 一般に伝わっているように日本の独特な思想ではなく、普遍的な概念であ り、いかなる国にも条件つきで「国体」があると考えていたのである.「凡. そ世界中に国を立るものあれば亦各其体あり。支那には支那の国体あり、 印度には印度の国体あり。西洋諸国、何れも一一種の国体を具へて自ら之を 保護せざるはなし。」58  ヨ・−mッパ文開とは矛盾しない「国体」、という福沢の概念は明らかにJ.S.. ミル59の“nationality”の概i念の定義を手本としているが、普遍的なものと. して“nationality”に「国体jをあてたのは、恐らく福沢独自の解釈であろ. う。他方『文明論之概略』が書かれる少し前の明治7年に、『国体新論』を 著わした加藤弘之の「国体」とは、別な論文で検討しているように「国家」 の民権論を中心にし、 「国家の在るべき姿」という意味に近いものであっ た。以降、 「国体」が政治語彙として正当化され、頻繁に現れ始めたよう である。例えば、1885年の『英和饗解宇典』の中では、{National character・. 昆情・民性・国体}60このように福沢は、イデオロギー的にも国学者などの いうところの「国体(=家産国家)」と異なる全く新たな定義を提供した。. この「国体」概念においては、丸山真男が「『一種族の人民相集いて憂楽. 一54一.

(23) を共にし、云々』は、ネーションです。」61というように、少なくとも上記 の引用においては、 「ナショナリチ・国体・ネーション」の概念を福沢は. 明確に使い分けていたとは思われない。福沢による「国体」の定義は、国 学者の「国体」に対し、国家が持つべき統一性、国家のあり方としての「国. 体」の義と、国家の最も重要な基盤になっている「一種族(=「ネーショ ン」)というの意味で「国体」を用いたと思われる。.  また、福沢は、上下に分断された日本社会における権力の偏重という現象. を執拗に論じながら日本の社会には自由がないことを強調した。日本にお ける多様な種族の間に西洋のように自由を認めて一っの、 f物を集めて之. を全ふしJしたネーションとしてまとまる必要があるとみた。このような 状況では「金体」となった入民、とりわけ、 「国民」が「報国心」、 「愛. 国心」をもって戦争にのぞむと福沢は論ずる。では、福沢が「治者側==政. 府Jと「被治者側=人民」を交替可能で平等な国民と考えていたかと言え ぱそうではない。彼は権力の偏重を指摘しながらも、その転換方法は論じ. てはいないのであるeつまり、福沢は日本における「全体」概念の特殊性 を「政府」と「人民」の明確な区別の中で定義づけ、日本の国民のあり方 を考えたわけである。しかし、日本の「全体」が「ネーション」となるた めに、彼は、先ず「国」の成立を前提条件として考えた。 「国家」という. 言葉は、 「日本型文化」の反映であるだけでなく、またその後の日本人の 発想を枠づけている。福沢が「国家」という言葉を使わず、 「国」を使用. したのは、何を意味していたのであろうか?、これは本論と関わる論点で あるため後に考察する。.  さらに、福沢の「ネーシヨン」概念の論旨を進めると、彼の「国家論」. において、二つの点を見いだすことができる。一つは、彼の特殊な性格を 持った「国」という抽象的な概念が、「政府」と区別されている点であり、 もう一つは、 「国」 (国家)とは「政府」と「人民」とから構成され、両. 者それぞれが、彼のいうところの独特な言葉r職分」によって区別されて いる点である。 「元来人民と政府との間柄はもと同一体にて其職分を区別 し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ず此法を守る可しと、 固く約束したるものなり」62と、「政府」と「人民」を結び付け、「契約論」 を論じた。また、 「政府は国民の名代にて、国民の思ふ所に従ひ事を為す. ものなり。…政府は既に国民の総名代となりて事を為す可き権を得たるも. 一55一.

(24) のなれば、政府の為す事は即ち国民の為す事にて、国民は必ず政府の法に 従はざる可らず。是亦国民と政府との約束なり。故に国民の政府に従ふは 政府の作りし法に従ふに非ず、自ら作りし法に従ふなり。」63と述べている ように、政府の権利として軍隊を出動させ、各国との条約を結ぶのも政府 の権利である。人民は「既に一国の家元にて国を護るための入用を払うは 固より其職分なれば、この入用を出すに付き決して不平の顔色見はす可ら ず」64と論じている。ここで「国民と政府との約束」という発言から言えば、. 支配者と被支配者の間の民主的な関係である。彼は、欧米の近代的な「民 主主義国家」の理念をそのまま日本の「国家」モデルとして、現実の政府 と人民との関係にあてはめようと考えたのであろうか。このf政府」と「人. 民」という対立的な「上下」関係から分かるように、両者の間には統治に 関する契約が成立しうるという認識が示された。従って、福沢の重要な思. 想は人民の「卑屈な気風jを一掃して、文明精神を鼓舞することに向けら れたのであり、このような国民精神の変革を最大の課題となったのでる。. 皿:日本とエジプトにおける言語接触による「文化の二重構造」. 1. 「国」と「アブナアルワタン」という新造語  日本とエジプトが西洋との接触を受けた背景に、日本啓蒙家が儒学など の伝統的な倫理の殆どを破壊し、西洋の文明を取り入れようとしたのに対 して、エジプト・ムスリム啓蒙家が伝統的な原理から殆ど離反できず、イ スラームに基づく平等、入権原理、自由論理の復興という目的のもとで、. 世俗的な概念と伝統的な概念とを調和しようとしたことがあった。こうし た考え方の違いは、まさに両国に導入されたネーション概念とその表現形 体を決定している。.  しかしその一方で重視しなければならないのは、19世紀以降、世界中で 行われた西洋から非西洋への諸概念の受容過程で生じた政治語彙の「二面. 性」という共遜の現象であるeすなわち、非西洋の国々の言語もしくは各 国の言語が観念的な言葉を引き出している土着の文化の言語は、西洋の多 くの言語が分かち合っているような政治鵠な言葉とは全く違う意味をもつ。. 一56一.

(25) これが、非西洋における政治的経験によって形成されてきたことはいうま でもない。イスラーム政治文化の象徴でもあった「ウンマ」の再定義と、. 現地の言語文化に創案された世俗的な語彙「シャアブJ、あるいは日本の 実際政治における「臣民」と啓蒙家の用いる文脈上の「国民」との対立関 係という現象が生じている。このようなエジプトと日本の政治語彙の「二 面性」は、非西欧諸国における近代化の過程で発生した普遍的で共通する 文化的な問題として捉えることが出来る。還元すれば、 「『ネーション』 『民族』など、それぞれの言語で表されるそれぞれの概念は等価ではない。. それらは相互に訳語として誕生したとしても、それぞれの言語の置かれた 歴史的背景を含むこうした概念は、決してコピーのように過不足なく写し とられる中性のものではない。すべての歴史的概念がそうであるように、 まず定義があって現実が生まれるのではない…」65と田中克彦がいうように、. 西欧の概念が一方的に受容されたといわれているが、その具体的な言語表 現は、各地の歴史的な文脈によって様々な変容を受けざるをえなかった。 この間題を踏まえて、以下に実例として、福沢諭吉による「国」と「国家」 の使いわけ及びタフターウィの“’abna’al−watan”という造語案に注目した いとおもう。. 2.日本の場合  日本語の政治語箕がっくられた背景には、日本の近代化が「継続的」で あったために、数多くの政治・社会に関する語彙が早い時期から西欧の近 代的な意味に対応して用いられるようになったことが挙げられる。「自由・ 社会・個人」などの新造語も1860年代から作られ始めた。 「国民」若しく. は「人民」などの言葉が1870年代に日本の日常生活の中で成立し認められ てきたことは、日本の啓蒙家が西洋の言語を学ぶことができ、彼らの政治 的な概念が伝統的政治倫理からかなり離れている状態にあったためである、 という点が特徴といえる。つまりアラビア語の近代政治語彙のように、「伝. 絢に縛られなかったためである。しかし次に問題になったのは、日本の 「権力側」が自分の支配を正当化させるために特定の語彙を武器として意. 識的に使ったということである。それが日本の政治文化を形成する過程に 大きな影響を及ぼした。この点において、言語操作を行う日本の「権力側」. 一一. T7一.

(26) は、エジプトにおける文化的概念を支配しているイスラームにあたる位置 にあると考えられる。言い換えれば、その権力側の言語操作が政治体制の 利益を優先させたものであったのに対し、啓蒙家は、もともと西欧の概念 と自らの政治的な語彙の差異を最小限にしようと努めた。例えば、福沢は 「ネーション」を多様な語糞で表現したが、彼の場合には、「なるべく世 俗の用語に近い信号を作ることによって解決しよう」66とし、「人民・国民」 の他、「一種族の人民」あるいは「全体なるものを知らざるなり」67などの. 言葉を作り出した。福沢は、このように明治政府による言語操作をあくま. で避けようとし、政治語彙としての掴民」が成立する過程に、ふさわし い枠組みである「国」・「国家」の使い分けまで充分に考えたのである。. 3.福沢における「国・国家」概念の使い分け  国家論者でよく知られている加藤博之を初め、ほとんどの啓蒙家は,’state’. の対応語として「国家」を、明治6年以降発行された『名六雑誌』69にみる ように、全編に渡って使用した。それに対して、当時福沢による「国家」 の使用は驚くほど少なく、 「国」の方を好んで使用した。しかし、なぜ福 沢は「国」という用語にこだわったのだろうか。.  近代化以前に使われていた国家の意味は、現代のそれと相当異なってい る。 「国家」とは西欧観念でいうと一定の領土を有し、そこに住む人々で. 構成され、1つの統治組織を持っ社会集団の意味に用いられる。しかし近代 化以前から、「現地の」内容を組み立てた「国家」が多様な意味で存在してい. た。そのうち、 「くに」 「こっか」あるいはf国家(くにいえ)」は、単. に藩の領土を指す言葉であった。藩と国の基本的な違いは、単位的に藩よ りも大きな地位を国が占めていることである。 「くに」は1つの区域をなす. 土地を指していた。近代的な「国家観」とは、家族・血縁関係の拡大共同 社会としての国家であり、天皇がその家長ということになる。明治に入っ. ては、国家という言葉にf家」がっいているため「天皇は国父、国は国民 のイエという、閉鎖・権威型の共同体感覚でっかわれることに」69なる。明 治以降、ステートの対応語として定着した国家は、当時の日本型文化を反 映したものであり.またその後の日本人の発想をワクづけてきたのである。 福沢は、このような「国家」の語源から、近代以前の「国家」では、 「ス. 一一一. T8−一.

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