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言語・辞書の「鏡」に見る日本・中国の国情・心性・文化の諸相と異同(序説1)

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論 説

言語・辞書の「鏡」に見る日本・中国の

国情・心性・文化の諸相と異同(序説 1)

夏        剛

筆者は日・中間の文化・社会等の様々な異同(相違と共通・類似)を探究して来たが、2013 年度の学外研究では長年の蓄積の集大成の一環として、「中国語の奥義・日本語の機微―両 言語及び両国文化の表現様式・思考回路の比較」に取り組んだ。其の結果、当該主題の下で関 連しつつも別々の視座・切り口・材料乃至論説の体裁を用いて、独立する 3 つの系列論考の原 稿(合計約 60 万字)を書き上げた。11 年半振りの貴重な専念期間(前回は半年)を与えてく れた勤務先及び社会への還元として、期間中から成果の確定分を先ず本誌で公表を始めた。其々 連載の形を取る系列論考の最初の部分として、「中、日之间及各自内部的 语啜・语通 、“语缘・ 语环 诸相纵论(1)」(中国語使用。題の日本語訳=「日中間及び両国内部の言語の相関・相 違と相生・相克の位相・諸相」)を第 26 巻 2 号に、「中国的な 鮮烈 と日本的な 円やか ―両国の言語・文化の特質の一端(1)」を同 4 号に掲載した(13 年 10 月、14 年 3 月刊)。 続いて集中的に推敲・加筆中の 3 作目を順次発表して行く予定であるが、本論考は可成異色な 実験作なので独創的な方法や意欲的な追求に就いて説明して置きたい。 筆者は「中国、中華民族、中国人の国家観念・民族意識・ 国民自覚 」(共著『ナショナル・ アイデンティティ論の現在―現代世界を読み解くために』[晃洋書房、2003 年]第 6 章)を 初め、両国の権威有る国語辞書に見る概念・表現等の異同を分析する手法を使って来た。一方、 「 儒商・徳治 の道―理・礼・力・利を軸とする中国政治の伝統文化(1 ∼ 3)」(本誌 14 巻 4 号、15 巻 1 号、同 2 号[02 年 3 月、6 月、10 月])等、中国政治や国際関係に就いても指導 原理や要人の言説・素質等を巡る論考を多く発表している。両言語・文化の特質の一端を提示 する「中国的な 鮮烈 と日本的な 円やか 」は、専ら国語辞書の説明・典拠等から字・義の 異同や言葉の源流及び相互影響を突き止めて、学問的な検証と客観的な解釈に由って両者の姿 を浮彫にし本質を掘り下げるものであるが、本論考では言葉の使用頻度や今に生きる用例にも 光を当てて、国語辞書を一種の鏡にして伝統、世相や時代精神を捉え、其処から言葉に対する 逆照射・再検討を試みる。又、「中国的な 鮮烈 と日本的な 円やか 」の冒頭に掲げた 2 人

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の華人識者の見解に即して、言語の研究、文化の比較と共に社会考察・時事評論・政治談義に も大きな比重を置くことにした。 其の「日本人には個人の自立が足りない」(陳 美 齢)と「中国人は実は博奕ち政治が大好き」 (邱永漢)から、両言語の意思表示・自己主張の流儀や中国の政治大国・「商人国家」の側面を 改めて考えさせられた。本論考では契機と為る上記論考の最初の 10 段落を変則的に導入部と し、同一起点から違う角度・論旨・趣向で展開しより多彩な発見と新しい境地を目指したい。 其の部分に続く本論考の最初部分の「莫談国事」(国事を談ずる莫れ)を捩って言えば、国政 や時事に殆ど触れない「中国的な 鮮烈 と日本的な 円やか 」の学究的な思弁に対して、本 論考では逆に「国事莫不談」(天下国家の事は語らないものが無い)という姿勢を取る。政治・ 世事に対する中国の知識人の態度は古来、「両耳不聞窓外事、一心只読聖賢書」(窓外の事には 両 耳を塞ぎ、只一心に聖賢の書を読む)と、「風声、雨声、読書声、声声入耳 / 家事、国事、 天下事、事事関心」(風の声、雨の声、読書の声、様々な声が耳に入り / 家の事、国の事、天 下の事、色々な事に心を寄せる)という二極が有る(前者は明・清に流行した処世訓・格言集 『増広賢文』[全称『増広昔時賢文』、編者未詳]の語録、後者は明末の東林党[在野の学者や 志を得ない官僚等が参加し、当局に批判的な政治集団]の指導者顧憲成が選んで東林書院に書 いた対聯)。上記論考と本論考は同一筆者が類似の主題で同じ導入部から入り同時期に執筆し たので、政治に絡めるか否かで完全に違う路線で独り歩きして了うこと自体も研究の対象に為 り得る。本論考では藤原定家『明月記』の「紅旗征戎非二吾事一」(紅旗征 戎 吾事に非ず)とは 反対に、「紅旗・征戎」(此処では 20 世紀の世界で頻発した革命・戦争に転義)を「亦吾事(な り)」と見做し、日本語で同音の「聖賢」「政権」が代表する雅・俗の両方の事々に悉く関心を 寄せる。「持不同政見者」(異端[反体制]の政治的な見解の持主)と取られる危険を覚悟した 言及は、謀らずも中国的な「政治・博奕好き」の見本を自ら提供する結果に成るかも知れない。 因みに、「政見」は日本語では政治を行う上での見解の意であるが、中国語では一般人も含め ての政治的な主張・見解を意味する。 上記論考で取り上げた陳美齢の提言は、とんでもないアイデアを実現させるには海外の文化 や考え方を学ぶ必要が有り、其の為に外国語の学習を勧めたいと言うが、本論考では日本語を 使いながら非日本的な着想で途轍も無く奇抜な新機軸を心掛けている。三浦しをんの小説『舟 を編む』(光文社、2011 年)及び同名映画(翌年)の内外での受賞(12―14 年)、 実 録 『ケ ンボー先生と山田先生∼辞書に人生を捧げた二人の男』の上映(NHK 衛 B 星放 S 送プレミアム、 13 年 4 月 29 日)・受賞と翌年の書籍化(佐々木健一著『辞書になった男 ケンボー先生と山田 先生』、文藝春秋)等で、国語辞書の面白さ・奥深さ・人間臭さが日本で注目を浴びる様に成っ た。国語は人間の思想・情念形成の育ての親であり、国語辞書は永遠の国語教師であると思う 筆者は、本論考では辞書の内容乃至編者の価値観、時代・社会・文化の背景等に焦点を合せて、

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茫洋たる「言海」で舟を浮かべる感覚で辞書を縦横無尽に漫遊し(文字通り言葉の海を形容す る「言海」は、新村出編『広辞苑』第 6 版(岩波書店、2008 年)の当該項目の語釈の通り、「標 準的辞書として永く権威を維持」して来た同名の国語辞書[大槻文彦編、1 巻。文部省の命を 受け 1875 年起稿、86 年成った後、89―91 年刊〈4 分冊〉]に引っ掛ける)、言葉から関連の言 葉や事象へと渡って「意識の流れ」風の連想・推論を広げて行く。芋蔓式に現れて来る素材や 事象が次々と問題を提起し予定の道筋から逸れたりするが、辞書で隣接する等の言葉の連環や 両国の「語縁」に導かれた重層的な縦走は知的な快感を伴う。本論考の論説・論証・論評と考証・ 考察・推考は多角の視点、多数の対象、多様な意義に因り、自ずから四方八方へ飛散し「行雲 流水」の推移とも言えぬ奇想天外な躍動を呈する処が多い。 各段落内及び各段落間に於いては、随処「点→線→面→塊」の発展的な構造を用いている。 直前の文脈に繋がる言葉から両言語の比較や関連する言葉・事象へと展開した 1 つの段落は、 1 個の立体的な「塊」を為しながらも全体の中では 1 つの「点」に過ぎない。一定量を持つ意 味上の段落群は又「線」と成り、縦横へ延伸する「面」に膨らみ、論考全体の「塊」を築き上 げて行く。中国哲学の源頭なる『易経』の卦・爻の下の「繋辞」(書き綴る解釈の辞)の字面 と重なる様に、辞書の言葉は論考の流れや日・中の対比、言語・社会の相関を繋ぐ構成要素と 為っている。「承上啓下」(上を受けて下を導く。「承上起下」とも)という文章作法に沿った 心算であるが、日本語に無い此の成語の前半に通じる「承前」と日本語で同音の「悄然」に引っ 掛ければ、地を這う人間やうねうねと曲がっている河流のひっそりした蛇行の様な展開と見事 に符合する。其々多義を持つ「悄然」「蛇行」は中国語から日本語に入っており、『広辞苑』の 「悄然②」(語釈=「ものさびしいさま。ひっそりしたさま」)の挙例「太平記三七 ―として声 なし 」は、『日本国語大辞典』第 2 版(日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編 集部編、全 14 巻、小学館、2000―02 年刊)の同項目の①(=「雰囲気がものさびしいさま。 ものしずかなさま」)の漢籍典拠「*長恨歌伝 〔前略〕悄然無声 」と共通する。中国語の「蛇 行」の使用例には、[明]徐弘祖『徐霞客遊記・遊黄山日記後』の「従流石蛇行而上」(流石に沿っ て上へと蛇行す)も有るが、此の「流石」(水に押し流されて谷間に落ちた石)は日本語では 音読の 2 字漢語に成れなかった。『日本国語大辞典』の「さすが【流石・遉・有繋】」は品詞か ら語義まで此の「流石」とは接点が無い。漢字表記の「有繋」は巡り巡って「繋辞」とも繋が りが有るが、辞書から採った「流石」の合間を縫う本論考の「蛇行」は日本では流石に変哲過 ぎるであろう。 20 世紀日本の最高の文芸評論家として誉れ高い小林秀雄は 1938 年 3 月、『文芸春秋』特派の 従軍記者として日本軍の占領下に在る上海・杭州・南京・蘇州を訪れた。6 月同誌に発表した「蘇 州」1)の中で彼は「蘇州第一の名園」の評判を聞いた獅子林を槍玉に上げ、呆れて物も言えな い様な所謂「馬鹿々々しさ」を痛烈な罵倒調で完膚無きまで貶めている。曰く、「廃園」と化

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した同市の多くの庭園と同様、岩は其の肌と同じ厭な色合いのセメントで繋ぎ合せて色々奇妙 な形を拵え上げており、「セメントの継目が目立たぬ様に特にセメント色の岩を選んだものか、 と思ってみたが、そこまで気を配ってはこんな馬鹿げたものが出来る道理がない、してみると この辺にはこんなやくざな石しか転がっていないと見える。〔中略〕又僕等の子供の時分にあっ た勧工場の様に、一ったん這入ると直ぐには出られない様な仕掛けになっている。可成りの広 さはあるが、それを出来るだけ長い事かかって歩かせる様に、一本道の石を畳んだ小徑を曲り くねらせている。つい眼の先きにある小高い岩山に登るにも、中腰になって潜らねばならない 洞穴を、向うに連れて行かれたり、こっちに連れ戻されたりした揚句、ぽっかりと頂上に押し 出されるというあんばいで、実際洞穴の中で地雷火でも仕掛けたくなった。」更に、「俗悪な岩」 で作られた庭は「何やら工夫はしきりにやっている」が、「その大真面目に違いないという処 がどうも僕の理解の範囲を越える」、と言う。勧工場は明治・大正時代に複数の商店が 1 つの 建物の中に種々の商品を陳列し販売する処であり、百貨店の発達に因って衰えたので死語と 成って久しい。其の込み入った施設に見立てて獅子林の「迷宮」を揶揄するのは小林流の辛辣 さが好く出るが、大正初頭から 100 年経った目下の商店の商品陳列に絡んだ比喩で「大真面目」 さを弁護したい。 『読売新聞』2014 年 2 月 27 日(大阪本社版)投書版(12 版)の「今日のノート」欄に、「あ りえない光景」と題する文(文化・生活部次長藤井泰介)が有り、独逸の写真家アンドレアス・ グルスキーの作品「99㌣」の印象が綴られている。曰く、日本で言うと 100 円ショップの店内 を高い位置から見下ろした巨大な写真(縦 207㌢、横 325㌢)では、画面を横切る 10 列程の棚、 店の奥まで無数の商品が並び、正面に立つと視野一杯に作品が広がり脚立の上から店を見る様 だが、全体を見て細部に目を凝らすと何処か違和感が有る。「じわじわと分かってきた。商品 が鮮明に見えすぎるのだ。一番奥にある商品のロゴが読めるほど、ぴたりとピントが合ってい る。/ 私たちは通常、関心を持ったものにのみ、目の焦点を合わせる。『99㌣』は、無数の商品 に同時に等しく関心を持ちながら、俯瞰した際の景色。それは不可能だから、心がざわついた のだろう。」店の奥だけ、次は其の前という風に分割撮影した写真をデジタル処理した作品は、 「ありふれているようで、ありえない光景をつくる狙いを想像しつつ、小さな謎解きまで楽し める」と言う。鮮明に撮影された高解像度の写真よりも真に逼る超現実主義の絵画と同工異曲 の創意であるが、現実に基づき且つ現実を超越した様な有り得ない光景は「清明上河図」にも 別の形で見られる。清明節で賑わう首都䈠京(開封)の風物を現した[北宋]張択端筆の画巻 (北京故宮博物館蔵)は、横 528.7、縦 24.8㌢の絹本に 500 余りの人や数多くの動物、各種の車・ 船・家屋を描いた逸品である。(画面上の人物の数は諸説が有り、『世界美術大全集・東洋編  第 5 巻 五代・北宋・遼・西夏』[責任編集=小川裕充・弓場紀知、小学館、1998 年]の「作 品解説」には、「画中に描かれたさまざまな職業の人々は、一説には 810 名を超えるといわれ、

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行動も変化に富んでいる」と有る[「    伝 張択端 清明上河図巻」[竹浪遠]2)]が、 本稿では『中国百科大辞典』[中国百科大辞典編撰委員会編、王伯恭主編、全 9 巻、中国大百 科全書出版社、1999 年]の当該項目に拠り、敢えて控え目な方を取る。)広大な空間の中の人 間模様を墨画淡彩で微に入り細に亘って表した精密さは驚嘆させられるが、同一画面に複数の 視点を持つ中国画の伝統的な「散点透視」が其れを可能にした側面も大きい。中国語で「焦点 透視」と言う西洋の遠近法に対して視点の移動、転換、合成の自由度が高いが、論理・形式上 の整合や均衡を気にせず目視の有りの儘より心眼の「我が儘」を重んじる処は、遠近を問わず 店内の夥しい商品に万遍無く写真機の焦点を当てた風変りの野心作とも通じよう。獅子林の「勧 工場」風も反自然・反秩序に由る創造の主体性や自己実現の最大化の所産と見做せ、洗練され た形で小さく纏まることに物足り無さを覚える貪欲も見て取れる。 「これは精煉された味いも素朴な味いもなくただ馬鹿々々しいなりに完全なのだ。僕にはわ からぬ何か明瞭な企図を隠して完全なのである。するとこの庭の享楽者の精神が、馬鹿々々し く而も完全だ、と見ねばならぬ」、と小林秀雄は「蘇州」で「聯想を走らせている」が、馬鹿 にされた「完全」志向と「享楽者の精神」は、中国文学者井波律子が指摘した「中国的大快楽 主義」「物量主義」「欲望の自己増殖」3)を連想させる。本論考も継目が目立たぬ様に繋ぎ合せ た岩の堆積の観が有り「馬鹿げた」の印象を免れ難いが、明瞭でもなく隠すわけも無い企図は 関心の対象を網羅的に挙げ疑義を解決することに他ならない。西洋絵画の遠近法と通常の写真 の「決定的な瞬間 / 場面を切り取る」発想・技法で進めるなら、固定化した視座に囚われて視 野内の多くの関連材料に対する追究を断念しなければ成らない。広く渡り歩いて探し求める意 から沢山の書物等を読み漁ることに譬える「渉猟」の字・義から、日本語の「漁師」「猟師」 の同音の妙味と此の文脈での「渉・猟」の示唆に気付かされる。「同じ川に 2 度入ることは出 来ない」と古代希臘の哲学者へラクレイトスは言い、西洋の諺に「二兎を追う者は一兎をも得 ず」(If you run after two hares, you will catch neither. 中国語訳=「逐二兎者不得其一」)と 有るが、何れも「焦点透視」の限界や全方位的な捕捉及び一網打尽の困難さを言い得ている。 斯うした両全の「両難」(ジレンマを表す中国語)及び解決策を提示した先哲の名言として、「子 在川上曰: 逝者如斯夫!不舍昼夜。」(子、川の上に在りて曰く、「逝く者は斯くの如きか。 昼夜を舍めず」)が思い当る。『論語・子罕』に見える此の語録は「光陰似箭」(光陰矢の如し) の儚さの感慨として知られるが、「転瞬即逝」(瞬く間に過ぎ去る)故に執着して行く進取精神 の提唱という解釈も有力である。「逝者」は既に去ったものと此れから赴くものという両義が 有るが、「不舍」は「舍不得」(離れ難い。忍び難い。勿体無い)と結び付ければ、「昼夜不舍」(昼 夜離れず)や「䌐而不舍」(彫刻の手作業を完成まで止めない。粘り強く事を行り続ける譬え) の執念も読み取れる。「極楽の夢を楽しむには、あのセメント製の奇岩怪石が、抜き差しなら ぬものとはならないか」、という「蘇州」の直感は女色・鴉片等の享受に耽る物質的な欲望・ 47 ∼ 50

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快感を皮肉るものであるが、『論語』の冒頭から孔子が繰り返して力説した学問を究める悦び への追求に於いても、あの紆余曲折な小徑や地下の洞穴を通る様な「雌伏→至福」の過程が欠 かせない。「書山有路勤為徑、学海無涯苦作舟」(書の山に路有り勤[勉]を徑と為し、学の海 は涯無く[刻]苦を舟と作す)という韓愈の名句を思い起せば、中国庭園に多い複雑な造りの 完全嗜好は「苦尽甘来」(苦境が終り楽な状況が生れて来ること)を思わせる志向も感じ取れ て来る。 「繁華な街中に、厳めしい鉄門のある見上げるばかりの土塀を廻らし、池を掘り、岩を畳み、 洞を通じ、橋を渡し、亭を作り、廻廊を廻らし、ただもう呆れ返った不様である。〔中略〕龍 安寺の庭を知っている僕等には、言葉もないのである。」国際連合教育科学文化機関が 1978 年 から認定して来た世界文化遺産には、龍安寺を含む 17(奇しくも俳句の字数と一致)の「古都 京都の文化財」は 94 年に登録されたが、獅子林も入る 9 つ(1 桁数中の最大につき中国人好み) の「蘇州古典園林」も登録されている(97 年に拙政園・留園・網師園・環秀山荘が登録、2000 年には滄浪亭・獅子林・芸園・耦園・退園が追加登録)。上記評論では「留園、西園、可園、 遂園、拙政園、滄浪亭」も「廃園」と断じられたが、「蘇州 4 大庭園」(建造時代の順では宋の 滄浪亭、元の獅子林、明の拙政園、清の留園)は全て否定されたわけである。『広辞苑』では「廃 園・廃苑」(中国語でも同音の feiyuan、但し「園」と「苑」は其々第 2 声と第 3 声)の定義は 「荒れすたれた庭園」であるが、「蘇州」の中で「どれも大同小異である」と言う庭園群に対す る此の形容は、「別して荒れたという趣もなく、ただ下らぬものが下らなく腐って壊れている さま」を意味する。獅子林は「修理保存が、ほぼ完全に近い、つまりその馬鹿々々しさもよく わかる」と酷評されたが、修繕・保全が一層進んでいる今や寧ろ日本的な趣味との懸隔が更に 大きく成るかも知れない。日本の古典から仏蘭西文学、西欧の音楽・絵画等に造詣が深い小林 秀雄の高邁な審美眼には、彼我の雲泥の差(中国語では「雲泥之別」「雲泥之差」)が映った様 である。 『広辞苑』の「雲泥の差」の項では「[後漢書矯慎伝]」が出典とされ、「天地 霄 壤 の差」「月 鼈の差」が類義語として挙げられている。『日本国語大辞典』の「雲泥」の項の子見出し「う ん−でい の=差(さ)[=差別〈さべつ・しゃべつ〉・=相違〈そうい〉・=変〈か〉わり・= 違〈ちが〉い・=懸隔〈けんかく〉・=隔〈へだ〉て]」では、「*どちりいなきりしたん (一五九二年版)(1592)」を初めとする 8 点の和文典拠が有るが、漢籍出典は皆無である。『漢 語大詞典』(羅竹風主編、全 13 巻、[上海]漢語大詞典出版社 1986―94 年刊)では、「雲泥之別」 と「雲泥之差」(空見出し、用例は前項に収録)の其々の唯一の用例は、「銭鐘書《囲城》八」 と「郭沫若《石鼓文研究・古拓二種之比較》」から採ったものである。2 点は其々 1947 年に上 海晨光出版公司より、39 年に商務印書館(重慶)より刊行されたもので、成立時期及び「知日 派」郭の率先した使用から日本語由来の成語であろうと推測できる。「雲泥」の項では「《後漢

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書・逸民伝・矯慎》: 〔前略〕乗雲行泥〔下略〕 」を語源とし、「南朝梁荀済《贈陰梁州》詩: 雲泥已殊路,暄涼詎同節。〕 」を初出典拠としている(本稿に於ける中国の辞書・文献の引 用は日本語の漢字を用いるが、句読点・符号等の表記に関しては、日本語との混同で理解を妨 げかねない為に原文に従う)。此の単語は『日本国語大辞典』では、「①雲と泥。違いのはなは だしいことのたとえ。雲壌(うんじょう)。霄壤(しょうじょう)。②(―する)はなはだしく 違うこと」の両義と為り、①には「*杜甫−送韋書記赴安西詩 夫子䰒通貴、雲泥相望懸 」 が付いており、②は和文出典(3 点)のみ有るが、「*三国伝記(1407―46 頃か)八・一二 自 余の僧は仏果菩提の為に戒を持が故に其の志遥に雲泥せり 」を初めとする動詞の使い方は、 中国の辞書で動詞と表記する単語を名詞とすることが多い日本の辞書にしては珍しい。「雲泥」 は中国語では動詞と成り得ないので奇異な印象が付き纏うが、「雲」と「泥」を其々他者への 尊称と自分の謙称に使う中国語の用法(『漢語大詞典』の「雲泥」の項では、呉沃尭著、上海 広智書局 1906―10 年刊長篇小説『二十年目睹之怪現状』[20 年目睹の怪現状]の用例が示され ている)も、日本語に無い独自性が両言語の特質の分析・比較の好材料に為る。 『広辞苑』の「雲泥」の項目は、「天にある雲と地にある泥。転じて、隔たりのはなはだしい たとえ。平家四 源平いづれ勝劣なかりしかども、今は―交りを隔てて、主従の礼にも猶劣れり 」 と為っている。『日本国語大辞典』の同項目の①の和文出典では、「*平家(13C 前)四・源氏揃」 の此の件は 3 点目に当る(上記引用の前に「朝敵をも平げ、宿望を遂げし事は、」と有り、文 中の「なかりしかども」は「無かりしか共」、「交り」は「まじはり」に作る)。初出の「*菅 家文草(900 頃)二・山家晩秋 雲泥不地高卑、風月只期天久遠 」も、次の「*明衡 往来(11C 中か)中末 如㽻仰参会可㽻承二委旨一也。雲泥交隔二覲一不二容易一 」も、時代が遥か に早いにも関らず『広辞苑』の挙例には成らなかった。『平家物語』の知名度の高さと現代に 於ける漢詩文の馴染度の低さが理由として考えられるが、千年前の日本の文人や政治家等が其 れ程自主的・自在に純漢語の詩文を作っていた事には、隔世の感(中国語=「恍如 / 有如隔世」) と言うより「隔千年紀」(造語)の感を禁じ得ない。最初から和製ではない此の単語は②でも『広 辞苑』の項でも和文出典しか引いてないが、『現代漢語詞典』第 6 版(中国社会科学院語言研 究所詞典編輯室編、[北京]商務印書館、2012 年)の未採録と照合すれば、日本語の一種の偏 愛が見えて来る。『現代漢語詞典』で唯一立項されたのは「雲泥之別」であり、語釈は「相差 像天空的雲和地下的泥,形容極大的差別」(空の雲と地上の泥の様に隔たっている。極めて大 きな違いの譬え)と言う。『日本国語大辞典』の「雲泥の差[差別 / 相違 / 変わり / 違い / 懸隔 / 隔て]」の挙例中の「雲泥の」の後の単語の表記は、「差別(シャベツ)→ヘダテヂャ→懸隔→ 変り→違(チガ)ひ→懸隔(ケンカク)→相違(サウヰ)→差」という推移を経て「差」に落 ち着いたが、『現代漢語詞典』の語釈中にも有る最初の「差別」から両言語では其々 1 字が正 統とされ、中国語で主と為る「別」は日本語では遂に「雲泥」と結合しなかった。

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『広辞苑』で更に設けられた「雲泥万里」の項の語釈と典拠は、「天地の差のように隔たりの はなはだしいこと。浄、嫗山姥こもちや まうば 娘をころりと落したと。首をころりと落すとは― 」である。 『日本国語大辞典』の同項目の和文のみの出処(5 点)中の 3 点目が、此の「*浄瑠璃−嫗山姥 (1712 頃)二 娘をころりと落したと。首をころりと落すとはうんでいばんりと恥じむる 」で ある。其の前の「*和漢朗詠(1018 頃)下・慶賀」と「*太平記(14C 後)三九・大内介降参 事」は、用例中の「〔前略〕雲泥万里眼今窮まんぬ」と「〔前略〕雲泥(デイ)万里の隔其中に 有りと云つべし」は、見出しの漢字を使っているのに『広辞苑』では採録されていない。仮名 表記の方が挙例と為るのは『広辞苑』の脱漢字の傾向に似合わなくもないが、「雲泥万里」の 項内に矢印(中国語で「箭頭[号]」と言う)→で関連を示す「うんでん−ばんてん」の項(語 釈=「雲泥万里うんでい ばんり の訛。うってんばってん」)も、仮名表記の見出しと為っている。使用例 の「浮世風呂二 おらん所の気位とは、―の違えよ 」)は、『日本国語大辞典』の項(品詞= 連 即ち連体詞)の初出「*浮世風呂(1809―13)四・下 おらがわけえ時代の行作とは、 雲泥万里(ウッテンバッテンのちげえだァ) 」と同一文献であるが、出典の漢字表示は見出 しに成らず、2 点目(最後)の「*当世書生気質(1885―86)〈坪内逍遥〉一〇 僕と彼とを同 視するのは月とスッポン、ウッテンバッテン 」では已に漢字を止めている。「雲泥万里」の項 目の  の説明では、「中国の古典に、四字熟語の成句として存したかは不詳。日本では、中世、 近世を通して広く用いられていたらしく、元禄一二年(一六九九)の『諺草−宇』に 雲泥万 里(ウンデイバンリ)〈略〉雲天万里と云は誤 とあり、他に、 うんてんばんてん うんでん ばんり うってんばってん など種々の転訛形がみられる。」(〈略〉は原文の儘。本稿筆者に 由る引用中の省略は〔前略〕〔中略〕〔下略〕で表示する。)「雲泥の差(別)」の初出より 600 年近く現れた「雲泥万里」は此れ程発達して来たが、『漢語大詞典』には此の成語は無く「雲 泥異路」が有る。「宋陳亮《与辛幼安殿撰書》」の典拠を初出とする此の項の語釈は、「像天上 的雲和地上的雲。比喩地位相差懸殊」(天に在る雲と地に在る雲の様。地位の差が甚だしい譬え) であるが、日本語の「雲泥」の初出の『菅家文草』に有る「地高卑」と繋がっている。 1987 年 6 月 4 日、柳谷謙介外務事務次官は鄧小平(中共中央顧問委員会主任)を「雲の上の 人に成った」と評したが、中国側の猛反発を受けて渋々失礼を認め舌禍の責任を取る形で 18 日に辞意を表明した。『広辞苑』の「雲の上」の語釈は「①雲のある高い所。天上。②禁中。 雲居くも い 」で、後者に出典の「古今和歌集雑 ―まで聞え継がなむ 」が付いている。権力の「奥 の院」(最高所)に居る偉い人が実情を把握し切れていないという本意に照らしても、「高高在 上」(『現代漢語詞典』の語釈=「形容領導者不深入実際,脱離群衆」[指導者が実情に密着せ ず、大衆から遊離することを形容して言う])に近い意味と理解した方が順当であるが、老年 痴呆症問題を取り上げた有吉佐和子の長篇小説『恍惚の人』(新潮社、1972 年)の影響からか、 鄧は其の指摘を「老糊塗」(老い惚れ)への揶揄と取り違えて了い両国関係に緊張が走った。4) 語誌

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まさか「雲の上」を「雲上」と同義の「雲上頭」(「上頭」は「上」の他「上役」の意も有る) と訳して、「雲」と「暈」の同音(yun、其々第 2 声、第 1 声)から「暈頭」(頭がくらくらする) に聞えた、という様な複雑怪奇な誤解が生じたことは想像し難いが、「雲の上」の高位の意を 片方に含む「雲泥異路」の中の「異路」は其の齟齬への理解に役立つ。『広辞苑』にも『現代 漢語詞典』にも無い此の単語は、『日本国語大辞典』では語釈の「 名 違ったみち。別のみち」 と和文出典(2 点)の後に、漢籍「*史記−太史公自序 直所二従言一之異路、有二省不省一耳 」 も引かれている。文中の「言・路」は両言語共通の「言路」から中国語の「思路」「心路」を 連想させ、言説・思考・心性の道筋の型の相違を考えさせる手掛りに成る。 「言路」は『日本国語大辞典』では、「 名 上の者に対して、臣下が意見を述べるためのみち。 進言するみち」と説明されている。和文用例の初出「*随筆・折たく柴の記(1716 頃)中 世 の言路を塞(ふさ)がん事、もっともしかるべからず 」は、「*後漢書−袁紹伝 操欲奪 時明一、杜中絶言路上 」の用法と呼応する。3 点中の 2 点目「*文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉 六・一〇 言路を開き人物を登用するの時節なれば 」は、『広辞苑』の同項目の「臣下が、上 に対して進言するみち。 ―を開く 」に投影されている。中国語の「開言路」に当る此の例示 は今も好く使われている様な印象を与えるが、同辞書の定義では「臣下」は「君主に仕える者。 臣。けらい」、「君主」は「世襲による国家の統治者。王。天子。皇帝」なので、「(19)55 年体 制」(保守・革新の二大政党[自民・社会]制)発足の年の第 1 版刊行の時点には、日本では 臣下が君主に仕える様な時代錯誤の仕組みは已に無くなっていた。戦前の日本や古今の他の君 主国の場合を想定した挙例ならともなく、戦後にも天皇からの拝命を受ける含みの有る「大臣」 の官職名は旧態依然として残っており、1952 年明仁親王の立太子礼の際に天皇に「臣茂」と自 称した尊皇家の首相も居たものの、国政に関れない天皇が政を執る高官(「大臣①」の語釈) の進言を受けることは忌まれている。「天皇」の「①皇帝・天子の敬称。②明治憲法では、大 日本帝国の元首。日本国憲法では、日本国および日本国民統合の象徴とされ、国家的儀礼とし ての国事行為のみを行い、国政に関する権能は持たない。男系の男子がこの地位を継承する。 古くは すめらみこと すめろき すべらぎ などと呼んだ」に対して、『新明解国語辞典』 第 7 版(山田忠雄・酒井憲二・柴田武・倉持保男・山田明雄・上野善道・井島正博・笹原宏之編、 三省堂、2012 年)の同項目は、「日本国および日本国民の統合の象徴として位置づけられる地 位(にある人)。〔俗に、その世界で非常に勢力のある人の意にも用いられる。⇒法王〕」と実 情に即して定義している。『日本国語大辞典』では「 名 ( てんおう の連声[れんじょう]) ①一国を統治する天子、国王、皇帝などに相当する呼称。すめらみこと。みかど。②(近代日 本における天皇)旧憲法では国家の元首とされ、統治権を総攬(そうらん)し、絶対的な地位 を有し神聖不可侵とされた。新憲法では日本国および日本国民統合の象徴とされ、国事に関す る行為だけを行ない、その地位は主権者である国民の総意に基づくとされる。皇室典範の定め

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により皇統に属する男系の男子がこの地位を継承する」と説明され、①に漢籍典拠「*旧唐書 −高宗紀・下 皇帝、称二天皇一 」も引かれているが、日本最大規模の此の国語辞書の網羅的 な語義採録も不敬な俗の比喩を外している。『広辞苑』は第 1 版の「自序」の落款「京都 新村 出」の様に「在野精神」の形象が強いが、此の扱いを見ても分る様に『新明解国語辞典』と比 べて寧ろ正統派の部類に入るのである。 故に本論考では日本で最も売れている小型国語辞典の『新明解国語辞典』よりも、刊行元の 岩波書店の名声も相俟って被引用度の高い『広辞苑』を主な参照系にしているが、『現代漢語 詞典』が其れと対を成すのは中国政府の「智庫」(シンクタンク)の所産の為であり、1956 年 に国務院(内閣)の指示で編纂を始めた経緯も「準官製」の性質を規定している。其の「言路」 の語釈は「 向政府或領導提出批評或建議的途径」(《名》政府或いは指導者に対して批判或い は提案をする経路)で、「広開~ | 網絡為群衆提供了一条暢通的~」(「言路を広く開く」「ネッ トは大衆の為に便利な手段を提供している」)という用例も付いている。『漢語大詞典』の❶「旧 指人臣向朝廷進言的途径」(古く、人臣が朝廷に進言する経路を指した)では、初出典拠「漢 陳琳《為袁紹檄豫州》: 操欲迷奪時明,杜絶言路。」の次の「*宋蘇軾《司馬温公神道碑》」 に「開言路」が出ている。『現代漢語辞典』と同じ語釈の❷の 2 点の出典は、「魯迅《准風月談・ 商定 文豪: 筆頭也是尖的,也要鑽。言路的窄,現在也如活路一様,所以只好対於文芸雑誌 広告的誇大,前去刺一下。」(魯迅『准風月談・「商家製」文豪』:「筆先は尖っている物だから、 隙を衝かねば成らない。言路も今や、活路と同様に狭い。故に、文芸雑誌の誇大広告に対して、 一突きして行るしか無い。」)、「鄧小平《新時期的統一戦線和人民政協的任務》: 我們要広開言 路,広開才路。」(鄧小平『新時期の統一戦線と人民政治協商会議の任務』:「私たちは言路を 広く開き、賢路を広く開かなければ成らない」)である。同辞書で明記されない文献の発表時 期は其々 33 年 11 月 11 日(上海『申報』「自由談」)、79 年 6 月 15 日(中国人民政治協商会議 第 5 期全国委員会第 2 回会議に於ける開会の辞)である。「白在景」の筆名を使った魯迅の其 の文章は「自由談」の短評欄名とは裏腹に、「言路的窄,現在也如活路一様,所以」に強調を 表す傍点[・](中国語=「着重号」。縦書きでは字の右、横書きの場合は日本語と逆に字の下に) を付け、此の部分と「只好」の間に「(以上十五字,刊出時作 別的地方鑽不進 )」(「以上の 15 字は、[新聞]掲載の時 別の場所には潜れない 」と為っていた)と有る。雑文集『准風月 談』([上海]興中書局、34 年)で披露された其の裏話は言論の不自由を窺わせるが、「改革・ 開放元年」の鄧小平の呼び掛けも其れまでの長年の言路閉塞の裏返しに他ならない。78 年 12 月の党中央第 11 期第 3 回総会で改革・開放が決断されたのは「第二の開国」と言えるが、58 年に初稿が完成した『現代漢語詞典』の第 1 版が此の年に漸く上梓に漕ぎ着けたのは、毛沢東 時代の度重なる失政で言説及び人材活用の道が封殺され続けたという要因が大きい。『現代漢 語詞典』にも『漢語大詞典』にも無い「才路」の訳「賢路」は両言語共通のもので、『現代漢 名

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語詞典』では「〈書〉 指賢能的人被任用的機会:広開~」(〈文章語〉 名 道徳・才能の有る 人が任用される機会を指す。「賢路を広く開く」)、『広辞苑』では「賢者の昇進する路」と説明 され、熟語「賢路を塞ぐ」の項(=「賢者の昇進する邪魔となるのも顧みず、不徳不才の者が 官職にとどまっていること」)も有る。『日本国語大辞典』の「賢路」と「けんろ を=塞(ふさ) ぐ[=妨(ふせ)ぐ]」の項には、其々「*杜甫−行此昭陵 直詞寧戮辱、賢路不崎嶇 」と 「*潘岳−河陽県作詩 在㽻疾妨二賢路一、再升二上宰朝一 」が引いてあるが、成句を子見出しと して立項した処は中国語よりも漢籍を重宝することが多い日本語らしい。 『現代漢語詞典』の語釈中の「賢能」は同辞書で、「❶ 有道徳,有才能:~之士。❷ 指 有道徳、有才能的人:另挙~」(❶ 形 道徳が有り、才能が有る。「賢能の士」。❷ 名 道 徳が有り才能が有る人を指す。「別に賢能を推挙する」)と説明されているが、『広辞苑』『日本 国語大辞典』の語釈は に「賢くて才能あること。また、その人」である。『広辞苑』の「か しこ・い【賢い】」の項目は、「 形  かしこ・し(ク)( 畏かし こ し の転義)①おそろしいほど 明察の力がある。源桐壺 ―・き相人 ②才知・思慮・分別などがきわだっている。源藤袴 さ すがに―・くあやまちすまじくなどして 。 ―・い判断 ―・い子 ③(生き物や事物の)性状・ 性能がすぐれている。すばらしい。大和 磐手の郡より奉れる御鷹よになく―・かりければ 。 落窪一 ―・き物をも買ひてけるかな。この箱の様に、今の世の蒔絵こそ更にかくせぬ ④抜 け目がない。巧妙である。利口だ。源箒木 また並ぶ人なくあるべきやうなど―・く教へ立つ るかなと思ひ給へて 。 ―・く立ち回る ⑤尊貴である。たいそう大事である。源若菜上 ―・ き筋と聞ゆれど 。源若紫 うちに奉らむと―・ういつき侍りしを →かしこきあたり。⑥(め ぐりあわせなどが)望ましい状態である。よい具合である。源若菜上 風吹かず、―・き日な りと興じて ⑦(連用形を副詞的に用いて)非常に。はなはだしく。土佐 これかれ―・くな げく 」という多義を記しているが、典籍及び現代の用法が此れ程多く挙げられているだけに 道徳の要素の欠落が腑に落ちない。『日本国語大辞典』の「かしこ・い【畏・恐・賢】」の①∼ ⑦の諸語義では、「③他からあがめ敬われる程にすぐれているさま。また、それに対する尊敬、 賛美の気持を表わす」の中に、「 国柄、血筋、身分などがすぐれている。尊い。徳が高い。 尊敬すべきだ」と有る。次の「 才能、知能、思慮、分別などの点ですぐれている」の典拠(8 点)の初出は、「*書紀(720)天武元年六月(北野本訓) 其れ近江の朝には左右大臣、及び、 智謀(カシコキ)群臣共に議を定む 」である。『広辞苑』②と違う 2 ヵ所の『源氏物語』の使 用例も有るが、当初「智謀」で表記された此の語義は の「高徳」より、「高得点」(「高徳」 に引っ掛けた和製漢語)を以て定着し今に至っている。因みに、『現代漢語詞典』に無い「高徳」 は『広辞苑』で「すぐれて徳の高いこと。 ―の僧 」と説明されているが、『日本国語大辞典』 の「 名 すぐれて高い徳。また、その徳のある人」の性質・持主の両義は、『漢語大詞典』の 「❶徳行崇高;崇高的徳行。❷指有崇高徳行的人」(❶徳行が崇高であること。崇高な徳行。❷ 名 形 名 文 イ ロ イ

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崇高な徳行を備えた人を指す)に合致する。漢籍典拠「*徐陵−広州刺史鷗陽顔徳政碑 衡山 誕二其高徳一,湘水降二其清輝一 」は、❶の初出『魏書・釈老志』の文の後に「南朝陳徐陵《広 州刺史欧陽奛徳政碑》」の表記で出ている。 「徳行」は『現代漢語詞典』では「 道徳和品行」( 名 道徳と品行)と説明され、「先生的 文章,~都為世人所推重」(先生の文章・徳行は共に世の中の人々から高く評価されている) という例文も付いている。「推重」は「 重視某人的思想、才能、行為、著作、発明等,給以 很高的評価」(《動》ある人の思想・才能・行為・著作・発明等を重視し、非常に高い評価を与 える)と定義され、例文に「非常~他的為人」(彼の人と為りを非常に高く評価する)と有る。 『広辞苑』の語釈が「重んじて人にすすめること」と為る「推重」は『日本国語大辞典』では、「 名 すぐれたものとして、とうとび重んずること。推尊」と中国の辞書に近い解釈が為され、「* 宋書−賈音伝」の出典も付けられている。『漢語大辞典』の語釈中の高い評価の対象で思想と 才能が 1 番、2 番と為り、次の著作、発明も思想(及び才能)、才能の表現・所産と言って能い ので、日本語の「賢能」の「賢い・才能」に対する其の「道徳、才能」の要素・順位に合致する。 『漢語大辞典』の同単語の「❶有徳行有才能。❷有徳行有才能的人」(❶徳行が有り才能が有る。 ❷徳行が有り才能が有る人)も同じであるが、同辞書の「高徳」の語釈でも使われた「徳行」 は日本語にも入っている。『広辞苑』には「道徳にかなったよいおこない。 君子の― 」とい う用例付きの項が有り、『日本国語大辞典』の説明は「 名 道徳にかなった正しい行ない。道 徳的な行為。とくぎょう」で、「*易経−習坎卦 君子以常二徳行一、習二教事一 」が漢籍典拠と して引用されている。『漢語大辞典』の同項目では「道徳品行」の意の出典の 7 点中の最初の 2 点は、「《易・節》: 君子以制数度,議徳行。 孔頴達疏: 徳行謂人才堪任之優劣。」である。 同じ言葉の「引経拠典」(経典を引き論の 拠 とする)は同じ書物からでも篇章や語句が違うの は、『広辞苑』と『日本国語大辞典』の「賢い」に限らず両国の辞書の間には好く見られる。『漢 語大辞典』で『易経・節象』の 1 節が選ばれたのは関連の疏との対も一因であろうが、唐太宗 李世民(626―49 年在位)の命を受け『五経正義』を編纂した彼の経学者に由る疏は、此の文 脈では「疏」の学問的な方法及び自然・社会の事象・営為等の多義で示唆を与える。 此の字は『広辞苑』の項目では「( 疎 の本字。呉音はショ)」と説明され、4 つの語義の中 で此れに当るのは「③注釈。注に対してさらに注を加えたもの。しょ。 三経義―ぎし ょ 」である。 『現代漢語詞典』の「疏(疎)」の項目の多義(合計 10)中の該当箇所の❾は、「古書的比 注 更詳細的注解; 注 的注:《十三経注~》」(古代の書物に於ける、「注」よりも詳細な注解。「注」 に対する注。「『十三経注疏』」)と言う。『広辞苑』の「注」は「(「註」とも書く)」という説明 が有り、語釈・挙例は「①書きしるすこと。②本文の間に書き入れて、その意義を説明すること。 そのような説明。 ―を付ける 」と為っている。『日本国語大辞典』の「注・註」の語釈「《名》 本文の意味を補足したりくわしく説明したりするために書き入れること。また、その文句。注 名 動

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解」は、本文の間や意義の説明に限定しない点で形態や目的が多様な実情により近いが、「* 晋書−向秀伝」の典拠を引いた此の項目は 1 義のみで『広辞苑』の①の意が無い。『現代漢語 詞典』の「注2(註)」では此の語義も含まれているが、「❶ 用文字来解釈字句。❷ 解釈字 句的文字。❸記載;登記」(❶《動》文字で字句を解釈する。❷《名》字句を解釈する文字。 ❸記載[する]。登録[する])と言う様に、動詞が先導し名詞でもある注解の意の後に置かれ るものである。『広辞苑』と比べて字句、文字の「字」の要素が強調されているが、『日本国語 大辞典』の「注・註」一体に対して「註」は異体扱いとされている。2 字 「主張」「主義」 等の「主」を含む処は注解の自主性を象徴する様にも映るが、言偏(中国語=「言字旁」)よ り三水偏(同=「三点水」)の方が正字と為るのも興味深い。「註」の併記が無い『現代漢語詞典』 の「注1」の 4 語義の中で、「❶灌入」(❶注入する[こと])及び「❷(精神、力量)集中」(❷ [精神・気力]を集中する[こと])が此れに関連して来る。挙例(各 2 点、4 点)中の「~射」 と「~視 | ~意 | ~目」は日本語と一緒であるが、前者と後者の其々の最後の「大雨如~」(注 ぐ様な大雨)と「貫∼」(①傾注する。集中する。②一貫している。繋がっている)は、中国 語独特の表現として中国的な注解作業の「注入・貫流」の性格を掴む手掛りに成る。「注2(註) ❶」の最初の挙例「批~」は、「❶ 加批語和注解。❷ 指批評和注解的文字」(❶ 動 評 語や注解を付ける。❷ 名 批評や注解の文を指す)の両義(❷は例文[1 点]付き)である。 其の中の「批語」(語釈=「 ❶対文章、作業等的評語。❷批示公文的話」[《名》❶文章・宿 題等に対する評語。❷公文書に対する書面訓示])、又「批示」(書面訓示[をする]。両義の語釈・ 挙例[各 1 点]は略す)も「批注」と共に日本語には無い。中国語で批判の意も有る「批評」 や両言語共通の「批判」の「批」と「注」との関連は、中国古来の注解の実践と理念に顕れた 批判精神の一端の表徴として注目に値する。 掲載誌の規定に由って本稿が分類されている「論説」は『日本国語大辞典』では、「 名 物 事の理非を論じ、主張を述べ、また解説すること。また、その文章。特に、現代では新聞の社 説など時事問題について論じ述べたものをいう。論説文」と定義されている。漢籍典拠「*王 褒−得賢臣頌 千載壱合、論説無疑 」の前に載っている和文使用例では、「*妙一本仮名書 き法華経(鎌倉中)五・提婆達多品第十二」を初めとする 5 点の中、4 点目「*随筆・胆大小 心録(1808)四」までは何れも動詞として使われたものである。日本語では動詞由来の単語で も名詞の用法が優勢に成り辞書で名詞と規定され勝ちであるが、「動→名」の変遷には「一動 不如一静」(一動は一静に如かず)の価値判断が読み取れる。『現代漢語詞典』に項が無い此の 中国の成語は『漢語大詞典』で、「本謂動不如静。後亦作多一事不如少一事解」(本は、動は静 に如かぬことを謂う。後に亦、一事を多くするは一事を省くに如かずの意とも解せる)と説明 されている。典拠(5 点)の初出「宋張端義《貴耳集》巻上: 孝宗幸天竺及霊隠,有輝僧相随。 見飛来峰,問輝曰: 既是飛来,如何不飛去? 対曰: 一動不如一静。 」は、杭州行幸中の皇 動 名 動 名 名

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帝の当地名所に関する下問と御伴した僧侶の当意即妙の答えである。「既に是飛び来たれば、 如何でか飛び去らざる」という諧謔な質問は、霊隠寺の門前に在り石仏彫刻が数多く有る小高 い峰の「飛来」の名称の非対称性を衝いたが、対えた解説は伝説に整合性を与える機智と共に 処世の哲学を示唆する禅味が滲み出ている。蘇軾「遊霊隠寺得来詩復用前韻」に「溪山処処皆 可盧,最愛霊隠飛来孤」(溪山処々皆盧む可き、霊隠飛来孤が最愛す)と有り、此の句で激賞 された彼の「野外彫刻美術館」たる絶景の風流な名は、印度の高僧(後に霊鷲・霊隠両寺の開祖) 慧理が 326 年に訪れて来た時、天竺(中・日に於ける印度の古称)の霊鷲山との酷似に驚き、 どう行って飛んで来たのかと訊いた事に由来している。日本に入った中国の夥しい言葉も域外 からの「飛来峰」及び彫刻群の様な景色を呈するが、日本で其の儘で定着するか和風・「和色」 (造語、日本的な色彩の意)に染まって変容し、更に其の一部が中国へ飛んで行ったことは、「飛 来→飛去」の双方向交流に為ると言えよう。 「一動不如一静」の転義「多一事不如少一事」は、一事を余計にするより一事を控えた方が 好いという勧めであり、「好事も無きに如かず」(出典=『碧厳録』[中国宋代の圜悟克勤が、 雪 竇 重 顕の選んだ 100 則の頌古に垂示・評唱・著語を加えた仏書]の「好事不如無」)や、 同じく『広辞苑』に有る熟語(和製)「触らぬ神は祟り無し」とも通じる。類似の「事 勿 主義」 (『広辞苑』の見出し語=「事勿れ主義」)は『日本国語大辞典』で、「 名 問題や周囲との摩 擦を避けて、ひたすら平穏無事を願う消極的な考え方」と説明されているが、出典(3 点)中 の「*今年竹(1919―27)〈里見弴〉たちぎき・四」の「ことなかれ主義」も、2 点目の「*卍 (1928―30)〈谷崎潤一郎〉二八」の「事勿れ主義」も、「事勿」(=「 名 [形動]平穏無事で、 何の事件も起こらないようにの意。また、そのようなさま」)の唯一の出処「*ブルジョア(1930) 〈芹沢光治良〉四」の「事勿(コトナカ)れ」より早い。『広辞苑』で立項されない此の単語よ り「―主義」が先に出たのは興味深いが、中国語で「事勿主義」と同音・同声調の「事務主義」 (shìwùzhǔyì)も否定的な意味である。『現代漢語詞典』の語釈は「没有計劃,不分軽重、主次, 不注意方針、政策和政治思想教育,而只埋頭於日常瑣砕事務的工作作風」(計画が無く、軽重・ 本末を弁えず、方針・政策と政治思想の教育に留意せず、只日常の瑣末な事務に没頭する仕事 の流儀)と言うが、共産党が批判の的として使って来た此の言葉は政治の要素の為に日本語に は 1 語の対応が無い。両言語の間の転換で変形の度合が高く翻訳が難しい程、個々の言葉の特 性や文化背景乃至物心両面の国情の違いが大きいわけである。『中国語大辞典』(大東文化大学 中国語大辞典編纂室編、編集主幹香坂順一、角川書店、1994 年)では、「日常の事務だけに没 頭する仕事の気風。千篇せん ぺん一律のやり方。杓子しゃくし定規」と訳され、『東方中日辞典』(東方書店 +北京・商務印書館共同編集、相原茂・荒川清秀・大川完三郎主編、東方書店、2004 年)では、 「[名]〈貶〉事務一点張り。事務主義」という「貶義詞」(貶し詞)を示す訳に為っているが、 何れも現代中国の独特の政治重視という要点を表し切れない日本語の限界が感じられる。原語

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の 4 字の儘にした上で諸特徴の説明を附記した方が一番親切な訳し方かも知れないが、「注解」 の字面通り理解へと導く注の必要性は外国語・異文化に接する場合には特に高い。 「事勿主義」は両国共通の処世術である故に中国語での対応は幾通りも有り、其の中の「不 求有功,但求無過」(功績を求めず、過誤無きを願うのみ)は「好事不如無」と似通う。同じ「事・ 無」を含む 5 字熟語には「無事是貴人」と「無事之( 是 とも)名馬」も有るが、中国の仏 書『臨済録』(唐の鎮州臨済慧照禅師の法語集)に見える前者と同じく、其れに想を得て作家 で馬主の菊池寛が競馬関係者の為に揮毫した後者も見事な逆説である。臨済が衆に示して云っ た「無事是貴人」は下に「但莫造作,祇是平常」(但造作する莫れ、只是平常なれ)と続き、 作為で悟りを求めず自然体に徹した者こそが仏の教えを会得できる貴い人だという主張であ る。菊池寛は随筆「無事之名馬」(日本競馬会機関誌『優駿』、1941 年 6 月号、同じ頁の小見出 しは「無事これ名馬」)で、「少しぐらゐ素質の秀でてゐるといふことより、常に無事であつて くれることが望ましい」と書き、実力が若干劣っていても故障無く常に活躍し続ける競走馬は 名馬に該当すると説いている。5)折しも午年に当る 2014 年の 1 月 4 日、安倍晋三首相は就任後 3 度目の「お国入り」で地元山口県長門市を訪れた際に、後援会主催の新年会で本年還暦に成 る自身の干支に因んで、障害を力強く、ひらりと越えて行く駿馬の様に困難に挑んで行く決意 を語った。6)夜 7 時からの NHK テレビ報道番組「ニュース 7」の此のトップ・ニュースの字 幕は、「駿馬(しゅんめ)のように強く」の括弧付きの振り仮名で鍵詞の難読度を示しているが、 支持者から健康と長期政権への祈願を込めた馬のブロンズが首相に贈られたことは、馬から強 勢・疾走・跳躍・挑戦・進取を連想する両国共通の観念の体現に他ならない。同月 29 日に李 克強総理は中共中央・国務院共催の春節団拝会(旧暦元旦祝賀会)で、「改革要 一馬当先 」(改 革には「一馬当先」[率先して事に当る]が必要だ)と力説した。『週刊エコノミスト』(毎日 新聞社)3 月 11 日号の記事「消えた リコノミクス   深改 路線の大いなる不安」(金子秀 敏[毎日新聞専門編集委員])では、「午年にちなんで 一馬当先 (全軍の先頭で突撃する馬 となる)と改革推進の決意を披露している」と伝えた。7)戦の見立ては狭義の嫌いが有る反面「先 軍国家」朝鮮と類似した国情に合致する処も有り、日本語の「先頭・戦闘」の同音(中国語で は其々違う xiāntóu、zhàndòu)の妙も感じる。誌名の「エコノミスト」は『広辞苑』で「経 済学者。経済専門家」と定義されている(中国語では誌名の場合は「経済人」)が、直ぐ前の 項「エコノミクス【economics】」の語釈「経済学」は中国語と同じである。12 年 12 月に発足 した安倍政権の経済政策は同年 10 月から「アベノミクス」と呼ばれて来たが、1980 年代の「レー ガノミクス」(米国のレーガン政権の自由主義経済政策)に因んで、「エコノミクス」と掛け合 せて 06 年第 1 次安倍内閣の時に語られ始めた此の造語8)は、中国では「安倍経済学」と訳さ れ「克強経済学」(日本語訳=「リコノミクス」)の追随を誘発した。安倍と 3 ヵ月後に首相に 就任した李の午年到来の際の馬に譬えた壮語は同工異曲の妙が有るが、2 人の経済政策の通称

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の構成要素を含む名の雑誌での「一馬当先」の上記訳には引っ掛かる。「1 匹の馬が先頭に当る」 の意の原語は動詞が名詞を修飾する構文に直されているが、同じ先駆精神の表現でも中国語の 動詞優位と日本語の名詞中心との違いが見て取れる。『現代漢語詞典』の「一馬当先」の語釈は、 「作戦時策馬衝鋒在前,形容領先或帯頭」(戦の時に鞭で馬を走らせて先頭で突撃する。先頭に 立つことや引率することを形容して言う)であるが、「全軍の先頭で突撃する」の正しさを裏 付けていながら力点は動詞及び関連の連用修飾語に在る。 此の 4 字熟語は『漢語大詞典』では、「策馬走在最前列。多形容領先,帯頭」(馬を御して最 前列を行く。多く、先頭に立つことや引率することを形容して言う)と説明されている。初出 典拠「《水滸伝》第九六回: 〔喬道清〕即便勒兵列陣,一馬当先,雷震等将簇擁左右。」の様に、 軍陣中の率先を表す場合でも突撃とは限らず寧ろ引率(和製漢語)の意味が原義に近い。次の 「徐特立《記念 五四 対青年的希望》: 四十年前,我国青年一馬当先,向帝国主義和封建勢 力展開了英勇的搏闘。」は、唐突にも元末∼明初の施耐庵が著した長篇名作から 6 世紀も後の 1959 年の文献である。中国現代史の起点と為る「5.4 運動」を記念し青年に対する希望を綴っ た此の文章の筆者は、毛沢東や田漢(国歌『義勇軍行進曲』を作詞した作家)の師として名高 い教育家である。延安時代から党内「5 老」(5 人の高齢の革命家)の 1 員として長らく尊崇さ れ続けた彼は、該博な学識や高潔な品格と共に毛と同じ湖南人らしい激越な性格を持ち合せて いた。1907 年(30 歳)清朝の軟弱外交への義憤から自分の小指を切断し其の血で抗議文を書 いた事は、此の文中の並列を表す助詞「和」の字面とは裏腹の「英勇」を体現した壮挙である。 「英勇」は『現代漢語詞典』で「 勇敢出衆」( 形 抜きん出て勇敢な様)と説明され、「~殺 敵 | ~的戦士」(「勇敢に敵を撲滅する」「英雄的な戦士」)という用例も有る。日本語では其の 一定の使用頻度と対照的に『広辞苑』には入っておらず、『日本国語大辞典』の項の和文用例 も「*近世紀聞(1875―81)〈染崎延房〉三・三 特(すぐ)り切たる英勇(エイユウ)のみ 僅かに五十人ばかり 」しか無い。語釈「 名 武術にすぐれていて、勇敢であること。また、 その人。英武」は形容詞の機能を含まず、漢籍典拠「*南史−梁武帝紀 爰命二英勇一、因㽻機 騁鋭 」も『漢語大詞典』では、❷「勇敢出衆的人」(抜きん出て勇敢な人)の出典(2 点) の最初である(其の「《南史・梁紀上・武帝》: 公爰命英勇,因機騁鋭。 」は篇章名等の表記 が少し違う)。「❶勇敢出衆」の 4 点中の初出『新五代史・楚世家・馬殷』は『南史』より数百 年遅いが、名詞から派生した形容詞の意味は『現代漢語詞典』の唯一の語釈・用法に成っている。 日本語では名詞としてのみ曾て存在し今や単語自体が死語と化して了ったが、『日本国語大辞 典』で此の単語を挟む両側の「䑮輸」(勝ち負け。勝負)と「英雄」は、義・字に見える「英勇」 の英雄主義・敢闘精神の本質と此れを好む中国人気質を物語っている。 上記用例中の「英勇的」(英勇な)で修飾された「搏闘」は『現代漢語詞典』では、「 ❶徒 手或用刀、棒等激烈地対打。❷比喩激烈地闘争」(《動》❶素手或いは刃物・棍棒等で激しく打 形 動

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ち合う。❷激しく闘争することの譬えに言う)の両義で、其々例文「用刺刀跟敵人~」(銃剣 で敵と白兵戦を交える)、「与暴風雪~ | 新旧思想的大~」(「暴風雨と格闘する」「新・旧思想 の大激戦)が付いている。『広辞苑』の同項目は「互いにうちあうこと」の説明のみ有り、『日 本国語大辞典』では語釈「 名 互いに打ち合ってたたかうこと。組み打ちすること。格闘」 と共に、『漢語大詞典』の初出典籍と同じ「*新唐書−李載義伝 好与豪傑游、力挽彊搏闘 」 が引いてあるが、唯一の和文用例「*厭世詩家と女性(1892)〈北村透谷〉 好しや苦戦搏闘(ハ クトウ)するとても、遂には弓折れ箭(や)尽くるの悲運を招くに至るこそ 」は、日本語に 於ける晩生及び其の後の未熟を思わせ理由への探求の興味をそそる。「搏」を用いる日・中の 単語の異同として「搏動・拍動」も挙げられるが、『広辞苑』には此の 2 語を見出し語とし「心 臓の行う律動的な収縮運動」と定義する項が有り、『日本国語大辞典』では「拍動」と「搏動」 は「搏闘」の下の段に別々の項目として隣り合い、前者は「臓器の律動的な収縮運動。周期的 な現象が多い。主に内臓筋など自働性をもつ臓器に見られる。心臓拍動など」の意で、後者は 「脈打つこと」の語釈に和文出処 3 点が付されている。最初の「*形影夜話(1810)上 如此 搏動する脈、〔下略〕 」では動詞として使われたが、「*即興詩人(1901)〈森鴎外訳〉蘇生祭 全 羅馬の生活の脈は今此辻に搏動するかと思はる 」を経て、「*蝗(1964)〈田村泰次郎〉〔前略〕 彼女の心臓はその搏動はやめたにちがいない 」では名詞の用法に成った。日本語の規則かの 様に動詞で始まる言葉も同辞書の此の項の品詞と為る名詞へと傾くわけであるが、此の和製漢 語は『現代漢語詞典』では動詞と規定されている。語釈の「有節奏地跳動(多指心臓或血脈)」 (節奏を以て鼓動する[多く、心臓或いは血脈の律動を指す])では動詞であり、例文の「心臓 起搏器能模擬心臓的自然~,改善病人的病情」(心臓ペース・メーカーは心臓の自然な搏動を 模擬し、患者の症状を改善することが出来る)では名詞であるが、両品詞の併記をせず動詞を 基本とする処が中国の辞書らしい。 「脈搏」の「 ❶心臓収縮時,由於輸出血液的衝撃引起的動脈的跳動。医生可根拠脈搏来診 断疾病。❷比喩社会、生活等発展、変化的情況或趨勢」( 名 ❶心臓が収縮する時、血液を送 り出す衝撃に由って引き起す動脈の搏動。医者は脈搏に拠って病気を診断できる。❷社会・生 活等が発展・変化する状況或いは趨勢に譬える)は、流石に両義とも動詞ではあるまいが、挙 例「時代的~ | 把握生活的~」(「時代の脈搏」「生活の脈搏を把握する」)の後者では動詞と連 用している。学究的な『日本国語大辞典』では語源等に関する補助的な説明以外は用法を例示 しないが、実用性の高い『広辞苑』では然様の例は随処有り名詞の項に動詞との連用も好く提 示されるが、中国の国語辞書は国民の平均的な習得度の相対的な低さに合せて実践の手引の使 命を負い、故に関連単語との連用の挙例乃至 文 単位の例文が多く施されている処に特徴が 見られる。此れは中国語の動詞優位・述語重視の傾向とは鶏と卵のとの間の様な相互因果関係 も有ろうが、上記❶の中の「動脈的跳動」(動脈の搏動)から「動脈・静脈」の対置概念を引

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き合いに出すと、此の 2 つの和製漢語が含む「動・静」は其々中・日両言語の有り様の形容に 適合し得よう。時代・生活に見立てる比喩的な意味や他動詞「把握」との連用を示す『現代漢 語詞典』の「脈搏」に対して、『広辞苑』の「脈搏・脈拍」の項目は 1 義の語釈だけで、「心臓 が律動的に血圧を圧し出すことによって起こる動脈中の圧力の変動。その数は心臓拍動数に等 しく、普通一分間に七〇ぐらい。病気その他によって数・強さ・規則性が変動するので、診断 の指標となる。脈」と為っている。「医生可根拠脈搏来診断疾病」(「可」は可能を表す助動詞、 「根拠」「診断」は動詞)と「診断の指標となる」は、中国的な人間主導の「為す→出来る」型 と日本的な状態主体の「なる→である」型の発想を窺わせる。 『日本国語大辞典』では何故か「拍動」と「搏動」の様な別項化をせず、日本語ならではの「脈 搏・脈拍」併記の見出し語を用いる(中国語では其々 bó、pāi と読む「搏」「拍」は一緒に成 るわけが無いし、和製漢語「拍動」「脈拍」は元々入っていない)が、語釈は「 名 心臓の拍 動につれて起こる動脈内の圧力変動が末梢動脈に伝わったもの。成人で、一分間に六〇∼七〇 回打つのが標準。比喩的にも用いる。パルス。プルス。脈」で、 に「搏」と書く和文用例(3 点)の初出「*七新薬(1862)六 脈搏は毫も変することなく、〔下略〕 」も、次の「*暁鐘(1901) 〈土井晩翠〉万里長城の歌 嗚呼 永劫の脈搏 はいづれの時か絶果てむ 」(原文の「嗚呼『永 劫の脈搏』〔下略〕」の中の引用符『』は、此処で「」が「」中の   と変った為   に変更)も、 『現代漢語詞典』の❶❷に当る即物的、比喩的な意味とも中国語での出現より早い(『漢語大詞 典』の❶「動脈的搏動。〔下略〕」[的=の]と❷「借喩一種動態或情態」[転じて、ある動態或 いは情態を指す]の出典[2 点、3 点]中、其々の初出「洪深《戯的念調与詩的朗誦》」と「聞 一多《可怕的冷静》」は、文献の成立年代を記さない同辞書の方針に因り未詳の儘であるが、 両者の生年[1894、99 年]を見ても和文使用例の先行が判る)。身体に関する和製漢語は中国 語では社会・生活等に譬える語義が日本語以上に発達して来たが、「天下之本在国,国之本在 家,家之本在身」(天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在る)という『孟子・ 離婁章句上』の命題に即して言えば、中国的な「人本主義」乃至「身本主義」(造語)の D N A 伝子も何処と無く感じられて来る。 『日本国語大辞典』の「脈搏」の 1 分間の通常の回数に関する記述は、年齢層と数値の幅 に『広辞苑』より詳細で専門性が高い様な印象を与えるが、日本人間ドック学会等が 2014 年 4 月に中間発表した健康診断の新たな基準値と各専門学会の規定との差に見られる様に、権威 有る専門機構の間にも権威有る国語辞書の場合と同じく見解の相違が間々有る。今回の策定で 特に話題に成ったのは血圧の正常値範囲が 147/94 に引き上げられ事であるが、『広辞苑』の「高 血圧症」の語釈では最も権威有る世界保健機関の規定を援引して、「WHO の基準では収縮期 水銀柱 140   以上、または拡張期血圧 90   以上」と述べている。『現代漢語詞典』では「高 血圧」の語釈は、「成人的動脈血圧持続超過 18.7/12 千帕(140/90 毫米汞柱)時叫作高血圧」(成 ミ リ メ ー ト ル ミ リ メ ー ト ル

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