• 検索結果がありません。

視線と対象 : 三項関係による知覚論の再構築

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "視線と対象 : 三項関係による知覚論の再構築"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

視線と対象 : 三項関係による知覚論の再構築

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

80

ページ

1-11

別言語のタイトル

Gaze and Object: theory of perception

reconstructed by the triadic relation

(2)

  

視線と対象

     ─   三項関係による知覚論の再構築   ─

  

  

  

 

  

はじめに

自分のまわりにある対象がどのような性質をもっているかを知覚する ことは、 人間にとってきわめて重要なことである。では、 対象の性質は、 いったいどうやって知覚されているのであろうか。哲学および心理学に おける従来の知覚論は、知覚の問題をつねに対象と知覚者のあいだの二 項関係として理解しようとしてきた。しかし、対象の性質は、他者を介 した三項関係の中で知覚されている場合がある。例えば、 道具の性質 (何 をするものなのか)は、他者が実際に道具を使用するのを見ることをと おして知覚されていると考えられる。このようなケースは、従来の知覚 論においては、主要な問題とされてこなかった。なぜなら、対象の性質 の知覚は、基本的に二項関係において理解すべきものであり、三項関係 はむしろ特殊なケースとみなされてきたからである。しかし、三項関係 は決して特殊ではない。それどころか、対象の性質の知覚は、つねに三 項関係にもとづいて成立しており、二項関係は見かけ上のものにすぎな い、 と さ え 考 え ら れ る の で あ る。 他 者 の「 視 線( gaze )」 の は た ら き に 着目することによって、この点を主張したのが以下の論考である。

  

 

視線の意味

対象の性質が三項関係の中で知覚される事例として、アフォーダンス の知覚を考えてみよう。アフォーダンスとは、人間が対象にはたらきか け る こ と に よ っ て 顕 現 す る よ う な 性 質 で あ る。 例 え ば、 「 缶 切 り 」 の ア フォーダンスは缶のふたを開けることである。このような性質はたんに 「 缶 切 り 」 を 観 察 し た だ け で は 知 覚 さ れ る こ と が で き な い。 実 際 に こ の 道具を使用することで、はじめて知覚されるような性質である。このよ うな性質が三項関係の中で知覚されるということは、ようするに他者が 「 缶 切 り 」 を 使 用 す る の を 見 る こ と に よ っ て、 そ の 使 い 方 を 知 る と い う ことである。 このような場合、他者の「視線」が本質的な役割を果たしている、と い う 点 に 注 目 し な け れ ば な ら な い。 具 体 的 に い え ば、 誰 か が「 缶 切 り 」 を 使 用 し て い る の を 見 て も、 そ こ に「 視 線 」 が 感 知 さ れ て い な け れ ば、 言い換えれば、 「ジョイント ・ アテンション」 (一) が成立していなければ、 「 缶 切 り 」 の 性 質 は 知 覚 さ れ な い と 考 え ら れ る の で あ る。 こ の 意 味 で、 対象に向けられた他者の「視線」は、三項関係において対象の性質が知 覚されるための不可欠の条件であると考えられるのである。この点は神 経 科 学 の 分 野 に お い て す で に 実 証 さ れ て い る ( 二 ) 。 こ の 点 が 確 認 さ れ た とすると、次のように問いかけることができるであろう。 他者が対象にはたらきかける場合にあてはまることは、私が対象には

(3)

柴    田    健    志 二 た ら き か け る 場 合 に も、 同 様 に あ て は ま る と 考 え ら れ な い で あ ろ う か。 すなわち、他者が対象にはたらきかけるのを知覚するのではなく、自分 で対象にはたらきかける場合にも、そのはたらきかけによって対象のア フォーダンスが顕現する条件は、私が他者の「視線」を感知しているこ とにあるのではないか、と。 この問いは、私と対象との二項関係における知覚の構造を三項関係に 置き換えて理解する、という形で展開できる。私と対象との見かけの二 項関係は、暗黙に他者の「視線」を想定した三項関係としてとらえ直す ことができるのである。この主張を展開するにあたって重要な点は、な ぜ そ の よ う に 考 え な け れ ば な ら な い か を 明 示 的 に 議 論 す る こ と で あ る。 したがって、論文の後半部分(3および4)はすべてこの議論に費やさ れている。論文の前半部分(1および2)では、あらゆる知覚は三項関 係という構造をもつという視点そのものが成立する可能性をまず議論し なければならない。 対象の性質は、他者を介した三項関係において知覚される以外に、対 象と知覚者という二項関係において知覚されることがある。いや、通常 は、 二 項 関 係 の ほ う が 標 準 的 な ケ ー ス と み な さ れ て い る。 「 缶 切 り 」 の 性質は、 自分でそれを使ってみれば分かるからである。ここからみれば、 三項関係はむしろ偶然的なケースである。つまり、本来は二項関係にお いて知覚しうるものが、三項関係においても知覚されうるというにすぎ ない。 しかし、私の考えによれば、事実はまったく逆である。見かけの二項 関係は、じつはすべて暗黙の三項関係という構造をもっているはずであ る、と考えられるからである。たしかに、ほとんどの場合、対象の性質 が見かけの上では二項関係において知覚されているということは事実で ある。哲学および心理学の知覚論において、二項関係が標準的なものと して受入れられてきた理由もここにある。しかし、見かけ上は二項関係 において対象の性質が知覚されている場合にも、他者の「視線」だけは つ ね に 感 知 さ れ て い る、 と 考 え る こ と は 可 能 で あ る。 「 視 線 」 と は、 他 者がその場に現前していなくても感知されうるものである、と考えられ るからである。見かけの二項関係はすべて暗黙の三項関係であると主要 しうる理由はここにある。つまり、他者は「視線」という形で私の知覚 に介入している、と考えることが、この主張のポイントとなっている。 「 視 線 」 に こ の よ う な 役 割 を 認 め た 上 で、 私 の 主 張 し た い 考 え を ま と めると、それは次のように表現することができる。対象の性質は、他者 の「視線」の下で、はじめて私に顕現する、と。私自身が対象の性質を 見出した場合にも、 対象に向けられた他者の「視線」は、 そこにかかわっ ていなければならないのである。 問題は、他者が実際には対象にはたらきかけておらず、また他者の身 体そのものも現前していない場合でも、その「視線」だけは感知されう るという主張が妥当性をもっているかどうかである。この点を明確にす るために、まず次のように考えてみよう。他者の「視線」は、その行為 とは分離して感知されうるものである。この点は、やはり神経科学の分 野 に お い て 実 証 さ れ て い る (三) 。 こ こ か ら 一 歩 進 め て、 「 視 線 」 は ま た、 そ れ が 帰 属 す る 他 者 の 身 体 が 現 前 し て い な く て も、 私 に 感 知 さ れ う る、 と考えることができないであろうか (四) 。 もしこの論理が認められれば、二項関係から三項関係への置換えは成 立するであろう。他者の行為が対象の性質を私に顕現させる (三項関係)

(4)

視線と対象 三 ために、他者の「視線」が不可欠であるとすれば、私の行為が対象の性 質を私に顕現させる(二項関係)ためにも、じつは他者の「視線」が不 可欠である (暗黙の三項関係) と考えることができるからである。無論、 すでに指摘したとおり、この考えに対しては、なぜそんなふうに考えな ければならないか、という問いかけがありうる。きわめて基本的かつ的 確な問いかけである。他者の「視線」は、他者の行為が意味をもつため にだけ不可欠である、と考えることも可能だからである。くり返しにな るが、この問いかけに対する回答は論文の後半部分に譲ることにする。 以 下 で は、 ア フ ォ ー ダ ン ス の 知 覚 論 を 題 材 に し て、 二 項 関 係 を 三 項 関 係 に 置 き 換 え る と い う 着 想 を さ ら に 敷 衍 し て 示 し て み る こ と に す る。 ジェームズ・ギブソンのアフォーダンスの理論を発達心理学に適用して 成功を収めたエレノア・ギブソンの理論が検討の対象になる。ジェーム ズ・ギブソンではなく、あえてエレノア・ギブソンのほうを取り上げる 理由は、それが知覚の発達理論であるがゆえに、他者の模倣という三項 関係を争点にしうるからである。アフォーダンスとは、人間のはたらき かけによって顕現する対象の性質を指し、したがって二項関係と三項関 係(私がはたらきかける場合と他者がはたらきかけるのを私が見る場合) を同時に含んでいる。ところが、エレノア・ギブソンは二項関係を理論 の中心に置いている。したがって、模倣という三項関係は重視されてい ない。この点に着目することによって、二項関係を三項関係に置き換え る議論を、より具体的な文脈で敷衍してみなければならない。 ただし、知覚の三項関係モデルは、アフォーダンスにのみ妥当するも のではない。むしろ、対象の性質が知覚される構造は、すべて三項関係 になっている、 というのが私の主張である。アフォーダンスへの言及は、 あくまでも典型的な事例としての言及であるにすぎない。

  

 

知覚の構造

他 者 の は た ら き か け に よ っ て 顕 現 す る 対 象 の 性 質 の 典 型 的 な も の は、 道 具 の 性 能 で あ る。 「 缶 切 り 」 や「 栓 抜 き 」 の 性 能 は、 誰 か が そ れ を 適 切に使用しているのを見なければ、普通は知覚されることができないで あ ろ う。 実 際、 「 缶 切 り 」 や「 栓 抜 き 」 の 使 い 方 は、 そ ん な ふ う に し て 学習されている。これらの道具の性能は、初心者が独力で検出すること が困難なものである。言い換えると、二項関係においては容易に知覚さ れることができないものである。 しかしながら、このような主張には次のような反論が予想される。確 かに、 道具の性能は、 他者が実際にそれらを使用するのを見ることによっ て容易に検出されうるが、そのような性質にしても、本来は二項関係に おいて検出可能なものであって、他者を介して知覚されるべき必然性は な い、 と。 実 際、 エ レ ノ ア・ ギ ブ ソ ン は そ の よ う な 立 場 を と っ て い る。 エレノア・ギブソンは、アフォーダンスの知覚に他者が関わることがあ るという点は認めた上で、それが本質的なものであるという点を否定す る。彼女にとって、対象のアフォーダンスは二項関係において検出可能 な も の な の で あ る (五) 。 事 実、 エ レ ノ ア・ ギ ブ ソ ン は、 知 覚 の 発 達 に お け る 模 倣 の 重 要 性 を 示 し た メ ル ツ ォ フ の 一 連 の 実 験 の 意 義 を 認 め る が、 他者の行為を見ることは、アフォーダンスそのものを知覚することであ るよりも、むしろアフォーダンスの知覚を促進するものであるにすぎな

(5)

柴    田    健    志 四 いとしている (六) 。 じ つ は 私 も、 「 缶 切 り 」 や「 栓 抜 き 」 の 性 能 を 知 覚 す る た め に は、 他 者がそれらを使用しているのを実際に見ることは、それほど重要なこと ではないと考えている。他者がこれらの道具を実際に使用していること ではなく、むしろ他者の「視線」がそれらに向けられていることの方が 重要であると考えられるからである。 とはいえ、べつに私は、誰かが実際に「缶切り」や「栓抜き」を使っ て見せなくても、ただそれらの対象に「視線」を向けるだけで、その性 能が知覚されると主張しているのではない。 そんなことは不可能である。 私は「視線」にそのような魔術的な力を認めているわけではない。他者 が「視線」を向けることによって、未知の性質がただちに顕現するはず はないのである。 私はただ、他者の「視線」が感知されていれば、実際に道具にはたら きかけるのが他者である必要はない、と主張したいだけである。他者が はたらきかけなくても、自分ではたらきかければよいのである。すでに その道具のアフォーダンスを知っている他の誰かがそれを使用するのを 見た方が、自分で一から始めるよりも早いというだけのことで、どうし ても他者から学ばねばならぬという必然性はない。つまり、アフォーダ ンスが検出されるためには、他者の「視線」は不可欠であるが、対象に はたらきかけるのが他者である必要はない、 というのが私の主張である。 そこで、対象の性質は、対象への他者のはたらきかけを見ることなし に、知覚者が対象との二項関係において検出しうるという点だけに着目 す れ ば、 エ レ ノ ア・ ギ ブ ソ ン の 主 張 と 私 の 主 張 に は 大 差 な い。 し か し、 基本的なところではまったく異なる。私にとって、対象の性質を知覚す るために、他者のはたらきかけが必要とされないということは、他者の 「視線」があれば十分であるという意味である。これに対し、エレノア ・ ギブソンにとって、 他者のはたらきかけが必要とされないということは、 端的に他者は必要ないということを意味するのである。 対象の性質が知覚されるにあたって、他者の「視線」がどのような役 割を果たしているかという点に関する私の提案は以上のようなものであ る。私は、三項関係において対象の性質が知覚される条件は、対象に向 け ら れ た 他 者 の「 視 線 」 で あ る と い う 主 張 を 一 歩 進 め、 他 者 の「 視 線 」 が感知されていれば、実際に対象にはたらきかけるのは、他者でも自己 でもありうると考えたのである。この考えにしたがえば、対象の性質が 二項関係において検出され、知覚されているように見える場合にも、他 者の「視線」だけは感知されていることになる。 この考えをもう少しだけ前に進めてみよう。 エレノア ・ ギブソンにとっ て、 私 が 対 象 の ア フ ォ ー ダ ン ス を 検 出 す る に あ た っ て、 他 者 の「 視 線 」 などは何の役割も果たしていない。それは、知覚の理論には余分なもの である。確かに、対象のアフォーダンスを検出する作業は、対象との二 項関係における試行錯誤によって検出される場合も多い。しかし、そこ に他者の「視線」は本当に含まれていないのであろうか。現実に他者が その対象に「視線」を向けていない場合でも、他者の「視線」が想定さ れた上で対象が知覚されていると考えられないであろうか。無論、私は そう考えている。どのような対象の知覚にも、他者の「視線」が暗黙に 前提されており、したがって対象はつねに他者の「視線」の下で知覚さ れている、と考えられるのである。言い換えれば、私の対象知覚を成立 させる構造として、他者の「視線」を理解することができるのである。

(6)

視線と対象 五 こ の よ う な 理 解 に た て ば、 私 が 対 象 に は た ら き か け る こ と に よ っ て、 何らかの性質を検出することができるのは、他者の「視線」が暗黙に想 定された三項関係の中においてであるということになる。もし三項関係 という構造の中で知覚がなされていないなら、対象の性質は検出できな いと考えられるのである。ここからみると、エレノア・ギブソンが知覚 のモデルとしている二項関係(知覚者と対象)は、見かけ上のものにす ぎないと考えられるのである。 以上のように、他者が現前しない場合にも、その「視線」は感知され て お り、 私 が 対 象 の 性 質 を 知 覚 す る 条 件 に な っ て い る、 と 考 え ら れ る。 では、なぜそんなふうに考えなければならないのであろうか。この問い かけに回答してみなければならない。

  

 

性質の実在性

私がどのような対象を見るときにも、私は他者の「視線」を介してそ れを見る。ただし、そのために他者が現前している必要はない。他者の 「視線」 は、 知覚が成立するための暗黙の構造として要求されるのである。 こ の よ う に、 従 来 の 知 覚 論 が 想 定 し て き た 対 象 と 知 覚 者 の 二 項 関 係 は、 じつは他者の「視線」によって支えられた暗黙の三項関係である。これ が私の提案したい主張である。では、なぜそのように考えなければなら ないのであろうか。 この主張の意味を明確にするための手がかりは、知覚される対象の性 質が、通常は実在的なものとして知覚されているという点にある。対象 の性質が実在的であるということは、それが私の想像などではなく、対 象 そ の も の が 持 っ て い る と 認 め ら れ る 性 質 で あ る、 と い う 意 味 で あ る。 例えば、鉛筆にはそれを使って文字を書くことができるという性質があ る。これは鉛筆の実在的な性質である。では、鉛筆を使えば知らない文 字でも書くことができるであろうか。もちろん、そんなことは不可能で ある。鉛筆はそのような性質を持っていないからである。しかし、そう いう性質を鉛筆に持たせることは、想像の中でなら可能である。 このように、ある対象の実在的な性質と、その対象についての主観的 な想像とは、つねに区別されているが、その区別がどのようにしてなさ れているかは、ほとんど注意されていない。しかし、実際にはそれらを 区別しているものが存在するはずである。私の考えによれば、それが他 者の「視線」である。他者の「視線」の下で知覚された性質だけが実在 的 な 性 質 と し て 認 定 さ れ う る の で あ る。 た だ し、 他 者 の「 視 線 」 と は、 自 分 と 同 じ よ う に 対 象 を 見 る 存 在 と し て で は な く、 む し ろ 反 対 に、 自 分とは異なった視点から対象を見る存在を示しているがゆえに有効であ る、と考えられるのである。 私は、私以外の視点の存在に気づきながら、決して自分でその視点か ら対象を見ることはできない。なぜなら、他者の視点とは、私の視点と は異なる視点であり、したがってもし私が他者の視点に立つことができ ると想定するなら、その視点はすでに私の視点にすぎず、もはや他者の 視点とはいえないからである。つまり、他者の「視線」を感知するとい うことは、自分には決して見ることのできない仕方で対象を見ることが できる視点の存在を認識するということを意味している。 で は、 こ の 認 識 は、 い っ た い 何 を 意 味 す る の で あ ろ う か。 こ の 認 識 は、対象に対する私の視点を否定するような仕方で与えられるものであ

(7)

柴    田    健    志 六 る。それゆえに、私がたんに自分の視点からおこなう主観的な想像では なく、むしろ想像を超えた実在的な性質が存在するという点を、私に示 すのである。対象へのはたらきかけが意味を持つのは、この点が認識さ れる限りにおいてでなければならない。対象に対する主観的な視点の否 定によって、対象へのはたらきかけが実在的な性質の検出作業という意 味を持つことになるのである。私の主観は、対象がどのような性質を示 すかをあらかじめ予測することはできない。しかし、それが予測できな いのは、未知の対象だからというわけではない。むしろ、その対象が他 者の「視線」の下に置かれることによって、私の視点からは決して見る ことのできない面を持つことが認識されるからである。 無論、他者にとっては私の「視線」が同じ機能をもつであろう。各々 にとっての他者の「視線」の機能は、自分の視点を否定することによっ て、実在的な性質の存在を示すことにあると考えられるのである。その ような性質は、各々が自己の視点を否定することによって到達すべき性 質として考えられるのである。 対象の性質の知覚とは、他者の「視線」に支えられた三項関係である と考えなければならない理由についての、私の考察は以上のとおりであ る。考察のポイントをひとことでいえば、 対象は、 それが他者の「視線」 の下に置かれない限り、知覚者に対して実在的な性質を持つものとして 認知されえず、したがって想像的な性質と実在的な性質の区別が消滅す るであろう、という点にある。二項関係においては、対象の性質の実在 性 は、 本 来 は 問 題 に で き な い は ず な の で あ る。 と こ ろ が、 事 実 と し て、 対象の性質ということがいわれるときには、明示的にではなくとも、つ ねに実在的な性質という意味でそういわれている。このことは、対象の 性質が二項関係において知られうるという考えを、現実に否定している と考えられるのである (七) 。 ところで、 対象の実在的な性質をいかにして認識するかという問題は、 デカルト以来の近世哲学における知覚の理論の重要問題であった。そこ で、以下ではデカルトおよびライプニッツの知覚の理論をとりあげ、三 項関係モデルを使ってそれらを読み直してみよう。 私の考えによれば、デカルトおよびライプニッツの知覚論は、どちら も三項関係モデルに書き直すことができるものである。しかしまた、そ れらは三項関係モデルとしてはじつは十分ではない。では、このことは 何を意味するのか。この点を問いつめていくことによって、今述べた三 項関係モデルの特徴をより明確なものにすることが、以下の哲学史的考 察のねらいである。

  

 

哲学史的考察

知覚の三項関係モデルは次の二つの主張から構成されている。 (1)   他者の「視線」が対象の実在的な性質の存在を示唆する。 (2)   対象の実在的な性質は、想像的性質と異なり、対象へのはたらき かけによって顕現する性質である。 重 要 な こ と は、 こ の 両 者 を ひ と つ の 論 理 の 中 で 主 張 す る こ と で あ る。

(8)

視線と対象 七 な ぜ な ら、 ( 1) の 主 張 の み で は、 他 者 の「 視 線 」 が 示 唆 す る 実 在 的 な 性質をいかにして検出するかという方法が欠落しており、その点で十分 な理論とは認められない。また(2)の主張のみでは、対象へのはたら きかけが、なぜその実在的性質を顕現させる方法として認められるかが 不明になってしまうからである。 (一)デカルト 哲 学 史 上、 ( 1) の 主 張 は、 ま ず デ カ ル ト の 哲 学 の 中 に 見 出 す こ と が で き る。 デ カ ル ト の い う「 欺 く 神 」 こ そ、 「 私 」 と は 異 な っ た 視 点 か ら 世 界 を 見 る 他 者 の「 視 線 」 に ほ か な ら な い。 「 欺 く 神 」 の 存 在 を 想 定 す る こ と に よ っ て、 外 的 世 界 の 知 覚 に お い て、 「 私 」 が 欺 か れ て い る( 誤 謬 を 犯 し て い る ) か も し れ な い 可 能 性 を デ カ ル ト は 指 摘 す る (八) 。 つ ま り、 「神」という他者の「視線」によって、 「私」の視点が否定され、 「私」 にはまだ顕現していないような、世界の実在的な性質の存在が認められ ているのである。そのような実在的な性質を探求するにあたって、デカ ルトは「想像」を否定している。主観的な想像による性質とは異なった 性質が問題だからである。 『第二省察』 における 「蜜蝋」 の分析において、 「 こ の 蜜 蝋 が 何 で あ る か を、 私 は、 決 し て 想 像 す る( imaginari ) の で は な く、 も っ ぱ ら 精 神 に よ っ て と ら え る の で あ る 」 (九) と、 デ カ ル ト は 述 べている。 このように、デカルトにおいては、他者の「視線」を媒介にして、世 界ないし対象の実在的な性質の探求の必要性が訴えられる、という論理 が見出される。しかし、デカルトはこの論理を、対象へのはたらきかけ によって実在的な性質を検出する方法へと展開させなかった。デカルト の と っ た 方 向 は、 「 私 」 が「 明 晰 か つ 判 明 」 に 認 識 す る 性 質 が 対 象 の 実 在的な性質である、というものであった。それは、意識の内部で想像的 な性質と実在的な性質を区別できる、という考えにもとづいている。 しかし、このようにして見出された実在的な性質は、本当に現実的な 意味を持つことができるであろうか。対象へのはたらきかけなしに、た んに意識の内部での操作によって見出された性質を対象が現実に持って い る 性 質 と し て 認 め て よ い で あ ろ う か。 こ の よ う な 問 い か け に、 デ カ ル ト は も ち ろ ん 気 づ い て い た と 思 わ れ る。 な ぜ な ら デ カ ル ト は、 「 実 在 的」という言葉を、あえて「存在することが可能である」という意味に 解して用いているからである。それは、 「神によってつくられうる( fieri   posse )」 (十) と表現されている。 「つくられうる」 のであって、 現実に 「つ くられた」というのではない。つまり、デカルトは、現実性の概念を含 まない実在性の概念を作り出すことで、この問いかけに答えているので ある。 結局、デカルトにおいて、他者の「視線」の存在が、知覚者を実在的 な性質の探求に向かわせるという明瞭な論理は、対象へのはたらきかけ の論理へは展開せず、意識の内部で「明晰かつ判明」な性質を析出する という点に止まったのである。しかし、 他者の「視線」が示唆するのは、 「 私 」 の 視 点 か ら は 決 し て 見 る こ と の で き な い も の の 存 在 で は な い で あ ろうか。とすれば、意識の内部、言い換えれば自己の視点の裡でそのよ うな性質を探求するというデカルト的認識の論理は、まだ不徹底な部分 を残していると考えることができる。

(9)

柴    田    健    志 八 (二)ライプニッツ これに対し、デカルトに対する批判から出発したライプニッツの認識 の論理には、対象へのはたらきかけによってこそ、その実在的な性質が 検出されうるという(2)の論点が含まれている。ライプニッツは、 『実 在的現象を想像的現象から区別する様式について』と題された短い論考 において、まさにこの区別が対象へのはたらきかけを含む一連の探求に よってなされる、と論じる。 ライプニッツによれば、現象が夢のような想像的なものでなく、実在 的なものであることを示す標識は、主に三点ある (十一) 。 (イ)現象が生き生きしていること( vividum ) (ロ)現象が多様であること( mutiplex ) (ハ)現象が整合的であること( congruum ) この中で最も重要な標識は(ロ)現象の多様性であると、ライプニッ ツはいう。では、現象が多様であるということは、ライプニッツにとっ ていったい何を意味するのであろうか。 ライプニッツによれば、 「現象は、 そ れ が 変 化 に 富 み、 し か も 多 く の 試 験( tentamen ) や 新 し く 敷 設 さ れ た 観 察( observatio ) に 適 っ て い る と き、 多 様 で あ る 」 (十二) 。 と こ ろ で、 対象となる現象を構成する諸部分に対し「試験」をおこなうということ は、それにはたらきかけることによって、性質を顕現させるということ である。また、一定の条件下に現象を発生させるという仕方ではたらき かけ、 その結果を 「観察」 することも、 同様の趣旨に解することができる。 そ し て ラ イ プ ニ ッ ツ は、 こ れ ら の「 試 験 」 お よ び「 観 察 」 が、 「 想 像 的 な現象」 と 「実在的な現象」 を区別する方法であるという。なぜなら、 「こ のような長い観察は、きわめて意図的になされるものであり、かつ選択 的に設定された一連のものであるときには、夢の中にも、記憶や想像が もたらす像の中にも、ふつうは生じない」 (十三) からである。 このように、ライプニッツは現象へのはたらきかけによって顕現する 性質を実在的なものとみなす論理を持っていた。では、想像的な性質と は異なる実在的な性質が存在するということ自体は、いったいどうやっ て認識されると、 ライプニッツは考えたのであろうか。無論、 神の 「視線」 によってである。注目すべき点は、 この論考の中で、 ライプニッツがはっ きりとデカルトのいう 「欺く神」 の想定を拒否しているという点である。 しかし、この点を拒否するということは、ライプニッツにおいては、神 の存在がもはや自己の視点を否定する契機とはならない、ということを 示している。つまり、自己の視点から見出される性質を超えた性質を探 求すべき動機に関する論理が、ライプニッツの認識の論理には欠落して いる。ということは、ライプニッツの方法によって、かりに「想像的な 現象」と「実在的な現象」との区別がつけられたとしても、その区別は 本来の意味を持ちえないであろう。つまり、想像的な現象を超えて、実 在的な現象を発見した、という意味を持ちえないであろう。ライプニッ ツにおいても他者の「視線」が設定されてはいるが、それが自己の視点 を想像的なものにすぎないとして否定する契機となるような論理は組み 立てられていないのである。ライプニッツは、この点に気づいていたと 思われる。それゆえに、 このような方法で見出される現象の実在性は 「蓋 然的」であり、実在的な現象もじつは「判明かつ整合的な夢」かもしれ ないと述べているのである (十四) 。 このように、 ライプニッツは、 実在的な現象を探求する方法の核心に、 対象へのはたらきかけを設定する知覚の論理を構築していたが、その方

(10)

視線と対象 九 法が、決して人間を欺かない神によって支えられる形而上学の中に置入 れられていたために、 神の 「視線」 が私の視点の否定をもたらさなかった。 そしてそれゆえに、対象の性質を「試験」と「観察」にもとづいて検出 するという方法に対して、実在的な性質の検出方法という意味を、十全 な形では与えることができなかったのである。 デカルトおよびライプニッツの知覚論を、三項関係モデルを使って読 み直すことからえられる結論は、どちらの知覚論も実在的な性質の探求 の理論としては不十分なものである、ということである。デカルトの知 覚論も、ライプニッツの知覚論も、三項関係における知覚を成立させる 二つの条件を同時に満たすことができない。 デカルトおよびライプニッツの知覚論が、三項関係モデルからみると いずれも不十分なものであるという点は、他者の「視線」が「神」とい う 存 在 に 設 定 さ れ て い る 点 と 明 ら か に 関 連 し て い る。 「 神 」 の「 視 線 」 から感知されるのは、人間の知覚が決して及ばないような実在的な世界 の存在である。デカルトにおいてもライプニッツにおいても、実在的な 世界の秘密は、ひとり神だけが握っている。したがって、人間による対 象へのはたらきかけは、 実在的な性質の検出作業としては認められない。 神の視点から見れば、対象へのはたらきかけそのものが、人間的視点の 中でなされているものにすぎないということになるからである。 デカルトにとってもライプニッツにとっても、神の視点は決して動か すことのできない前提であった。この前提の下で、デカルトは、対象へ のはたらきかけという方法を断念し、自己の意識において「明晰かつ判 明」 に認識される性質は実在的であると認められるという点を、 神によっ て い っ き に 保 証 し よ う と し た (十五) 。 こ れ に 対 し て ラ イ プ ニ ッ ツ は、 対 象 へのはたらきかけという方法は温存するが、その方法によって知ること ができるのは、人間の視点に相対的な現象にすぎないと考えざるをえな か っ た。 た だ し、 「 試 験 」 と「 観 察 」 を 経 た 現 象 は「 よ く 基 礎 づ け ら れ た 現 象( phenomena  bene  fundata )」 (十六) で あ り、 そ の 限 り で、 た ん な る夢や想像からは区別できると主張したのである。 さて、ここから三項関係モデルを見直すと、いったい何が見えてくる であろうか。この点を結論として述べることで、 論考をまとめてみよう。

  

おわりに

三 項 関 係 モ デ ル に お け る 他 者 の「 視 線 」 は、 「 神 」 の「 視 線 」 と は 異 なる。他者の「視線」とは、私が自己の視点を否定する契機である。し かし、 他者の視点にとっては、 私の「視線」がまったく同様の意味をもっ ている。つまり、どのような視点も他の「視線」によって否定されうる のである。いかなる視点も、実在的な性質の知覚を独占することはでき ない。三項関係モデルを成立させる条件は、このような構造である。つ まり、 三項関係を成立させるには、 ただ自己の視点が他者の 「視線」 によっ て否定されるというだけでは、じつは十分ではなかったのである。デカ ルトおよびライプニッツの知覚論を検討して見えてきたのはこの点であ る。自己の視点が否定されるだけではなく、自己の視点を否定する他者 の視点もまた否定されるものであるという構造がなければならない。こ の構造の下でのみ、いかなる視点も、対象の実在的な性質に触れること

(11)

柴    田    健    志 一〇 ができる、と考えられるのである。複数の視点が相互に他を否定する契 機となって存在しており、 かつそれらの視点を超越する視点(神の視点) が存在しないという条件で、三項関係モデルは成立するのである。対象 へのはたらきかけによって顕現する性質を、実在的なものとみなしうる 根拠は、視点の相互性に存するのである。    注 (一)   ジ ョ イ ン ト・ ア テ ン シ ョ ン と は、 他 者 の「 視 線 」 が 対 象 に 向 け ら れ て い る こ と を 感 知 し た 主 体 が、 同 じ 対 象 に 注 意 を 向 け る と い う 事 象 を 指 す。 (二)   Castiello,  2003 (三)   Pierno  et  al.,  2006;  2008 (四)   こ の 点 は、 発 達 心 理 学 の 分 野 に お い て な さ れ た 実 験 を も と に 主 張 す る こ と が で き る。 で き る だ け 簡 潔 に ま と め る と、 次 の よ う に な る。 模 倣 に か ん す る メ ル ツ ォ フ の 実 験 で は、 被 験 者 で あ る 幼 児 が、 実 験 者 に よ る 玩 具 の 操 作 を 見 た 後、 一 定 の 時 間 を 経 て 模 倣 が で き る と い う 点 が 示 さ れ て い る。 9 ヶ 月 の 幼 児 で は 2 4 時 間 後 の 模 倣 が 可 能 で あ り、 1 4 ヶ 月 の 幼 児 で は 1 週 間 後 の 模 倣 が 可 能 で あ っ た( Meltzoff,  1985;   1988a;  1988b )。 1 4 ヶ 月 で は、 9 2 % が 模 倣 に 成 功 し て い る。 心 理 学 的 に は、 こ の 実 験 結 果 は「 長 期 記 憶 」 の 発 達 と い う 観 点 か ら 解 釈 さ れ て い る が、 別 の 観 点 か ら 解 釈 す る こ と も で き る。 メ ル ツ ォ フ も 指 摘 す るように、 玩具の性質が知覚されていなければ、 模倣は不可能である。 で は、 玩 具 の 性 質( ど ん な ふ う に 扱 い う る か ) は ど う や っ て 知 覚 さ れ て い る の で あ ろ う か。 明 ら か に、 実 験 者 が 玩 具 を 操 作 す る こ と に よ っ て、 そ の 性 質 は 顕 現 し、 知 覚 さ れ て い る、 と 考 え ら れ る。 で は 1 4 ヶ 月 の 幼 児 が、 は た し て そ の 性 質 を 記 憶 し て い た と 考 え ら れ る で あ ろ う か。 む し ろ、 玩 具 の 性 質 は、 模 倣 の 場 面 で あ ら た め て 知 覚 さ れ て い る と 考 え ら れ な い で あ ろ う か。 無 論、 模 倣 の 場 面 で は 実 験 者 は 玩 具 を 操 作 し て い な い。 し か し、 そ の「 視 線 」 が 感 知 さ れ て い れ ば、 対 象 の 性 質 は 知 覚 さ れ う る。 「 視 線 」 が 感 知 さ れ る た め に、 そ れ が 帰 属 す る 身 体 の 現 前 は か な ら ず し も 要 求 さ れ な い の で あ る。 記 憶 の は た ら き は、 むしろ実験者の不在を認識させることにあり、 この認識が逆に「視線」 を感知させる、と考えることができる。 (五)   エ レ ノ ア・ ギ ブ ソ ン は、 知 覚 研 究 に お け る「 生 態 学 的 ア プ ロ ー チ 」 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 知 覚 は、 有 機 体 と そ の 環 境 と の 相 互 関係 ( reciprocal  relation )という観点から理解されなければならない」 。 Gibson  &  Pick,  2000,  p.158.   ここでいう「相互関係」を二項関係と言い 換 え れ ば、 「 生 態 学 的 ア プ ロ ー チ 」 か ら 三 項 関 係 が 除 か れ て い る こ と は明白である。 (六)   ibid.,  p.71 (七)   通 常 の 知 覚 に は つ ね に 他 者 の 存 在 が 含 意 さ れ て お り、 見 か け の 二 項 関 係 は 暗 黙 の 三 項 関 係 に な っ て い る。 で は、 知 覚 者( 意 識 ) と 事 物 が、 文 字 通 り の 二 項 関 係 に 置 か れ た と し た ら、 い っ た い ど う い う こ と に な る の で あ ろ う か。 そ の 場 合 に は、 知 覚 者( 意 識 ) と 事 物 は も は や 区 別 さ れ な い は ず で あ る。 ジ ル・ ド ゥ ル ー ズ は『 ミ シ ェ ル・ ト ゥ ル ニ エ と 他 者 な き 世 界 』 に お い て、 そ こ に ど の よ う な 世 界 が 現 出 す る か を 考 察 し て い る。 「 他 者 な き 世 界 」 と は、 文 字 通 り の 二 項 関 係 が 成 立 し た 世 界 で あ る。 そ の よ う な 世 界 に お い て は、 「 意 識 は 対 象 を 照 ら す 光 で は なくなり、 事物それ自体が放つ純粋な燐光となる」 。Del euze,  196 9,  p.362     このように、 二項関係においては、 知覚者(意識)は事物と癒合し、 い わ ば 事 物 そ れ 自 体 が 意 識 を 持 つ こ と に な る。 こ の よ う な 癒 合 状 態 を 解 消 し、 事 物 か ら 意 識 を 分 離 す る こ と が 他 者 の 機 能 で あ る と 考 え ら れ る。 こ の 点 に つ い て の 私 の 説 明 は 次 の よ う な も の で あ る。 注( 一 ) で 言 及 し た「 ジ ョ イ ン ト・ ア テ ン シ ョ ン 」 の 段 階 に 入 る と、 幼 児 は 大 人

(12)

視線と対象 一一 が 注 意 を 向 け る 事 物 に 関 心 を 示 す よ う に な る だ け で な く、 自 分 が 関 心 を も つ 事 物 に 大 人 の 注 意 を 向 け さ せ よ う と す る。 そ れ が 幼 児 の「 指 差 し 」 と い わ れ る 行 為 の 意 味 で あ る。 「 指 差 し 」 と は「 指 示 」 に ほ か な ら な い。 つ ま り、 事 物 を「 対 象 」 と し て「 指 示 」 す る た め の 条 件 は、 じ つ は 他 者 の 存 在 な の で あ る。 「 指 示 」 に よ っ て、 事 物 は 意 識 に と っ て の「 対 象 」 と な る。 そ こ で は じ め て「 対 象 」 の 性 質 は い か に し て 知 覚 さ れ う る か が 問 題 に さ れ る の で あ る。 以 上 か ら 示 さ れ る の は、 二 項 関 係 を 文 字 通 り に 主 張 し た 場 合 に は、 対 象 の 実 在 的 な 性 質 が 問 題 に で き な い と い う だ け で な く、 そ も そ も 事 物 を「 対 象 」 と し て 知 覚 す る と い う こ と 自 体 が 成 立 し な い 可 能 性 が あ る と い う こ と で あ る。 し た が っ て、 「 対 象 」 の 性 質 が 問 題 に な っ て い る 場 合 に は、 つ ね に 三 項 関 係 が 成立していると考えることができる。 (八)   「 誰 だ か 知 ら な い、 き わ め て 有 能 で、 き わ め て 狡 猾 な 欺 き 手 が お り、 策をこらしていつも私を欺いている」 。 Descartes,  1996,  vol.VII,  p.25 (九)   ibid.,  p.31 (十)   「 私 は、 私 が 明 晰 か つ 判 明 に 理 解 す る す べ て の も の が、 私 が 理 解 す る と お り に、 神 に よ っ て つ く ら れ う る、 と い う こ と を 知 っ て い る 」。 ibid.,  p.78 (十一)  Leibniz,  1996,  Band  7,  p.319 (十二)  ibid. (十三)  ibid.,  p.320 (十四)  ibid.,  p.320;  321 (十五)   「 欺 く 神 」 の 想 定 は、 最 終 的 に は 解 除 さ れ、 神 は 欺 瞞 者 で は な い と さ れる。 Descartes,  1996,  vol.VII,  p.52 (十六)  Leibniz,  1996,  Band  2,  p.435    文献 Castiello,  Umberto,  2003,   “Understanding  Other  People ’s  Action:  Intention   and  Attention,

” Journal of Experimental Psychology,

 vol.29

 no.2

Deleuze,

 Gilles,

 1969,

 Logique du Sens, Minuit

Descartes,  1996,  Adam  &  Tannery  Ed.,  Œuvres de Descartes,  Vrin Gibson,  Eleanor  J.  &  Pick,  Anne  D.,  2000,  An Ecological Approach to

Perceptual Learning and Development,

 Oxford Leibniz,  1996,  Gerhardt  Ed.,  Die Philosophischen Schriften,  Georg  Olms   Verlag Meltzoff,  Andrew  N.,  1985,   “Immediate  and  Deferred  Imitation  in  Fourteen-  and  Twenty-Four-Month-Old  Infants, ” Child Development,  56 Meltzoff,  Andrew  N.,  1988a,   “Infant  Imitation  After  a  1-Week  Delay:  Long-Term  Memory  For  Novel  Acts  and  Multiple  Stimuli, ” Developmental Psychology,  vol.24  no.4 Meltzoff,  Andrew  N.,  1988b,   “Infant  Imitation  and  Memory:  Nine-Month-Olds   in  Immediate  and  Deferred  Tests, ” Child Development,  59 Pierno,  Andrea  C.  et  al.,  2006,   “When  Gaze  Turns  into  Grasp, ” Journal of Cognitive Neuroscience,  18:12   Pierno,  Andrea  C.  et  al.,  2008,   “Motor  Ontology  in  Representing  Gaze-Object   Relations, ” Neuroscience Letters,  430

(13)

参照

関連したドキュメント

この見方とは異なり,飯田隆は,「絵とその絵

物語などを読む際には、「構造と内容の把握」、「精査・解釈」に関する指導事項の系統を

不変量 意味論 何らかの構造を保存する関手を与えること..

 

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

女 子 に 対す る 差 別の 撤 廃に 関 する 宣 言に 掲 げ ら れてい る諸 原則 を実 施す るこ と及 びこ のた めに女 子に対 する あら ゆる 形態 の差

非難の本性理論はこのような現象と非難を区別するとともに,非難の様々な様態を説明