地
方
における修験者と権現舞
神田より子
一方、個々の修験者によって担われ、演じられてきた獅子舞だけではなく、一山 を構え修験集落を形成してきた地域でも、獅子舞は重要な儀礼と宗教活動の一翼を 担っていた。それは一山を形成してきた修験集落が、他の仏教寺院と同じように、 法会の後や、任位・任官など僧侶や長官の昇進や就任儀礼の場に、賓客の来臨を得 て行われる延年、それに連なる舞楽や田楽ともつながる総合芸能の姿を伝えていた からでもある。すなわち獅子舞は山伏神楽・番楽だけではなく、延年や舞楽とも関 わりがあったことが見えてきた。このことは修験者が関わる場の広がりをも示して いることになる。そうした場を想定して、今後は修験者が関わってきた儀礼や芸能 を再考する必要が見えてきた。 (1︶ 松尾恒一﹃延年の芸能史的研究﹄岩田書院 一九九七 二四三ー二六五頁、 神田より子 ﹁修験道の儀礼と芸能−延年を中心にー﹂﹃山岳修験﹄三一号 日 本山岳修験学会 二〇〇三 一ー二〇頁国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月
はじめに
東北地方では中世期以降、修験者が地域の人々の依頼に応じて数多く の宗教儀礼を担ってきた。一年の災いを祓い、幸いを招く目的で、年の 初めに祈祷を行ない、牛玉宝印をはじめさまざまな神札を配札してきた。 中でも南北朝以降の青森県、秋田県、岩手県、山形県の特定地域では、 修 験者が自分たちの霞場や旦那場において獅子頭を廻し、祈祷を行うこ とが宗教活動の大きな分野を占めてきた。そして近世期になって修験者 が 地 域に定着するようになると、宗教活動をさらに広く理解し、受け入 れ てもらうために、獅子を廻す傍ら芸能が演じられた。これらの地域に 広 がる芸能の中でも旧南部藩領に属していた岩手県地域の中で修験者が 中心となって演じてきた神楽がある。これを本田安次は山伏神楽と名付 ︵1︶ けたが、これらの地域でそれに相当する集合名称が存在しなかったこと から、これは便利な名称として一人歩きした。しかし秋田県、山形県地 域 では修験者が主に担ってきた芸能は、地元で比較的古くから使われて きた番楽の名称がそのまま用いられてきた。また本田の著作に取り上げ られなかったが、旧南部藩領の青森県下北半島地域に伝わる能舞も修験 の手によって伝えられた芸能であった。 本論は修験が伝えたとされる権現舞や獅子舞の変遷、そして修験者が 権 現舞・獅子舞を通して地域とどのように関わってきたのかを考察し、 その上で地域の資料の中から修験者と芸能の関わりを再構成することを 目的とする。⑦
獅
子
舞・権現舞の研究史
今回対象にするのは、修験者が祈祷の際に神霊の依り代あるいは神霊 の 顕 わ れとして用いる聖なる獅子頭である。それ故、この獅子頭を扱う のは修験者あるいは近世期に修験者と行動をともにしていた歴史を持つ 芸能者やそれに近い宗教芸能者であること、また獅子頭が地域の人々か ら崇拝対象とみなされてきた、あるいは今も信仰の対象となっているも のに限定する。そうした観点から見てみると、旧南部藩領では権現様と 称する獅子頭を言う場合が多いが、秋田、山形など獅子頭を祈祷の際に 使ったり、芸能全体を獅子舞と称している地域では、修験者が関与した ものであっても権現舞の名称を用いることはなかった。そこで﹁権現﹂ あるいは﹁権現舞﹂の名称を定義し、それに準じた内容を持つ獅子頭と 獅 子舞を取り上げることとしたい。 権 現は、仏菩薩が衆生を救うために日本の神に姿を変えてこの世に現 れたとする平安時代以降の本地垂 説が基本になっている。修験道では 熊野権現や蔵王権現が知られているが、東北地方ではそれらに羽黒権現 の 信 仰も加わって権現信仰が広まった。 熊野権現に限らず、本地垂 と神仏習合思想の東北地方の一典型とし て、﹁権現様﹂と称する獅子頭を携えた修験者による地域への宗教活動 が 活 発に行なわれるようになったと考えられる。ここでは熊野信仰や羽 黒 信 仰 の布教の手段として、東北の修験者は、熊野権現の神霊の現われ として獅子頭を用いた、ということを前提として話を進めてみたい。 そこで権現舞の研究史の基本ともいえる本田安次著﹃山伏神楽・番楽﹄ から、これまでの東北地方における獅子舞、権現舞を押さえておこう。 本田はこの大著の解説でもある﹁御神楽と舞曲と﹂の中で以下のように 述べている。﹁その名を山伏神楽、獅子舞、権現舞、番楽、ひやま等と 呼ばれている、一群の古風な舞曲が、北は下北半島から南は最上郡に至 る陸奥、陸中、羽後、羽前の奥地に広く分布している。これが主として 山伏神楽の名で呼ばれているのは、その東側の陸中陸奥で、もとは主と して山伏たちが携わった神楽の要素を多分に含む楽舞がその通称になった。火伏せや悪魔祓いの祈祷に、その奉ずる権現の獅子をまわしつつ、 毎年、隔年もしくは三年目毎等にめぐったもので、まわり神楽、通り神 楽、あるいは門打ちなどと称した。番楽は主として羽前羽後で、古くは やはり修験の徒が携わったらしい。番楽を獅子舞とも呼ぶのは、獅子の ︵2︶ 舞が重く見られている故︵以下略︶﹂。また獅子舞、権現舞に関して本田 は﹁早池峰神楽﹂の中で、﹁獅子を権現とあがめ、この獅子を祈祷のた めに舞わす神人達の持っていた芸能であったらしく、それは例えば、﹁祇 園の社家記録︵八坂神社叢書︶康永二年︵=二四二︶十月十九日の条に 今日御祈師子舞之。恒例春舞之処。依閉門延引。近日開門之間舞之︵中 略︶。猿楽三番仕之。師子者如例於庭上舞之。猿楽之時。召上禮堂云々。 白書師子猿楽。於堂上沙汰無先例﹂と見えるような獅子猿楽が、山伏の ︵3︶ 祈 祷 の方便に仕組みなおされた﹂と述べている。 獅子舞だけではなく、猿楽三番も演じられていたところに、獅子舞と 神楽の結びつきから﹁山伏の祈祷の方便に組み直されたもの﹂との意図 を読み取ることができよう。山伏神楽・番楽の中でも、芸能そのものの 代名詞のように使われている獅子舞・権現舞は、この地方の特徴であり、 それが重要視されていたと述べる。そしてその源流として祇園の社家の 間で行なわれていた師子猿楽が山伏の祈祷のやり方に通じているとする。 山路興造は、本田の用いた一三四二年の記録よりも古く、承安二年 ( 一 一 七 二︶には祇園御霊会の神輿途御に師子舞が供奉した﹃百錬抄﹄ の 記 録 がある。このことから、師子舞の座は芸能者であると同時に、祇 園社の信仰を奉じた宗教者でもあること、師子頭は普段は祇園社に納め られていたが、師子頭の権利は家に相伝されていたことを挙げた。山路 は これらは直接的には山伏神楽や番楽の源流ではないとした上で、京都 祇園社を本所とした師子舞の座は歴史的にはその本質は芸能の座であっ たとした。一方山伏神楽や番楽を持ち伝えたのは山岳信仰を奉じた修験 という宗教者であり、彼らは本質的には芸能者ではないとして、その間 を埋める資料がほしいという。さらに観応元年︵一三五〇︶には秋田城 之助泰長が熊野修験であった遍照院に、霞ともいえる獅子の舞場権と熊 野牛玉札の配布権を認める寄進状を与えていたことなどから、東北地方 では南北朝期に在地の熊野修験達が自分たちの霞で獅子頭をまわし、旦 那に牛玉札を配札していた事が伺える。さらに秋田県湯沢市山田の八幡 神社には永和二年︵一三七六︶銘の獅子頭が残り、当地には元天台宗の 安楽寺などがあることから、南北朝期に獅子頭を奉じた修験集団が存在 ︵4︶ した可能性もあるとした。 神田はこの山路の論を引用しつつ、祇園の座と山伏神楽の構造的な近 似 性は、獅子舞や権現舞の成立には、こうした先行芸能との関わりを考 えないわけにはゆかないとした上で、修験者も年齢階梯に伴い、延年や 田楽などの芸能を体得する必要があったこと、東北地方で中世期に栄え た有力寺院には、延年、舞楽、田楽が残っている場合もあり、直接の伝 播関係は確定できないが、舞楽に伴う獅子舞と、山伏神楽・番楽に伴う ︵5︶ 獅 子舞の交流関係の再考が必要であると述べた。また山路がいう﹁祇園 の獅子舞の座は歴史的にはその本質は芸能の座であり、山伏神楽や番楽 を伝えた修験者は宗教者であって本質的には芸能者ではない﹂とする表 現は、何を持って本質をとらえるのかは疑問がある。宗教と芸能の関わ りは宗教者と芸能者の置かれた立場における関係性の中で論じられるべ きで、これを本質論ととらえると、その構造が見えなくなってしまうの ではないだろうか。
②
近
世以前の東北地方の状況
( 一 )東北地方の修験の状況 修 験 者 が 伝えてきた権現舞、獅子舞を考えるために、まず東北地方に国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 おける熊野信仰、羽黒信仰の伝播、 きを押さえておきたい。 そして熊野や羽黒の先達、御師の動 ︵1︶熊野信仰と修験 豊田武によれば、東北地方では奈良時代以降、慈覚大師の開基とされ る寺院は数多い。これは東北開拓に伴って天台宗の僧侶がその法流を広 めた結果、修験道の発展へとつながっていった。中世期には熊野信仰の 伝 播に伴い、地方の豪族が熊野権現を勧請した。これは当時流行してい た熊野詣でが地方に広がった結果と考えられる。鎌倉時代には、藤原一 族 が 平泉の中尊寺の鎮守社として正治二年︵一二〇〇︶新熊野神社の建 立、出羽の慈恩寺には後白河天皇の勅宣により保元元年︵一一五六︶と 伝えられる今熊野十二所権現が勧請された。頼朝の東北遠征が契機とな り、鎌倉武士の東北移住が始まると、熊野の神の勧請はとりわけ盛んに なった。鎌倉街道沿いに早くから開けた名取郡の高舘の熊野三社は保安 四年︵=二三︶建立と伝えられ、名取りの巫女の話で有名である。津 軽 の岩館郷では曽我氏が勧請した熊野堂は、坂上田村麻呂と結びつけて 語られる。会津の新宮氏が建てた熊野新宮は八幡太郎義家の勧請と伝え る。出羽の平鹿郡横手郷の熊野新宮は観応元年︵一三五〇︶に秋田城之 助 源泰長が、吉田、飯詰、八幡の三力庄を寄進し、さらに雄勝、平鹿、 山乏三郡の牛玉獅子舞椋領を寄せた。 こうした熊野信仰の伝播を可能にしたのは熊野先達の活躍であった。 平安末期にはすでに熊野の御師と奥州の豪族との間で師檀関係が生まれ て いたらしく、那智の実報院︵﹁米良文書﹂︶と尊勝院︵﹁塩崎八百主文書﹂︶、 ︵6︶ 郭 の 坊 ( 「 塩 崎 流寿院、潮崎稜威主文書﹂︶に東北の豪族との関わりが見 えてくる。そうした中でも奥羽の葛西氏、津軽の安東氏、出羽の小野寺 氏などが旦那として記録され、熊野先達が御師と密接な関係を持って彼 らを熊野参詣に案内した。先達は熊野堂付近に居住していた者もいたが、 南北朝期以降、各地に大名領国が形成されると、次第に各地にその寺院 ︵7︶ を構え、それぞれ縄張りを定めるようになった。 新 城美恵子によれば、中世後期における陸奥の国の熊野先達は熊野社 とその社領を拠点とした者が目立ち、次いで一宮および神社が続く。旧 仏 教系寺院を別当寺とした修験霊場が盛んだったにもかかわらず、これ らとの結びつきは少なく、地名を冠した坊や房名と、神社の別当坊と思 わ れる者が著しい。これは平安末期以来東北における熊野堂の建立が盛 んなことと、霊山が南北朝期に南朝に与して灰儘に帰したことなどによ る。その結果、この時期を境に霊山に拠った修験が周辺に散在し、武士 層と直接交渉を持つようになり、一族単位で檀那を掌握していったため ︵8︶ と推測している。さらに応永年間︵一三九四ー一四九八︶から陸奥国田 村 庄 の 熊 野先達と密接な関わりを持っていた京都の坂東屋富松という商 人は、このころから進められていた聖護院系修験の組織化とも関わりを ︵9︶ 持っていた。 森 毅によれば、奥州では他国とは熊野先達のあり方が異なっていた。 その一は奥州に居住せず他所から随時下向する者がいたことで、郭之坊 や 実 報院の御師と緊密な関係を持っていた長床の修験者や三山に常駐し た者もあった。第二は奥州在住の者のことで、中でも奥州持渡津先達の 一 族は、仁治元年︵一二四〇︶から永徳二年︵一三八二︶にかけて各地 で 勢 威をふるい、遠田郡︵宮城県︶を本拠に奥羽山脈を中心線として津 軽、糠部、羽後雄勝、遠田に教線を張っていた。また先に新城が言及し た商人坂東屋は、大永五年︵一五二五︶聖護院役者と連署で糠部郡戸来 相 模 村多門院の祖﹁さか見﹂に対して、糠部郡中檀那の先達許状を与え、聖 ︵10︶ 護院との緊密な関係の中で奥州北部にまで勢威を揮っていた。 鎌 倉末期から南北朝期にかけて、皇族や貴族が荘園の寄進を行い、そ れに伴い熊野権現を勧請した。そして戦国末期から安土桃山期にかけて は各地の土豪や武士、熊野先達や比丘尼などの遊行の宗教者が熊野神社
︵H︶ を勧請している。熊野信仰の東北への伝播は、一四世紀半ばには出羽国 北部の農民層の間に熊野信仰が根付いており、その組織化が進行してい たことが、東北地方各地に残る熊野関係資料から見えてきた。また一六 世 紀になると、秋田県内の熊野信仰は時の中世武士団の信仰と大きな関 ︵12︶ わりを持つようになる。 これらの研究の成果は、近世以前の特に南北朝期の前後に、北東北の 地に熊野の先達や京都の商人が進出していた事を明らかにした。さらに 東 北各地の熊野先達が檀那を連れて熊野詣でをした様子が見えてきた。 ︵2︶羽黒信仰と修験 羽黒山は平安のはじめ頃から霊場と崇められ、熊野信仰の影響によっ て、有力な修験の道場となり、鎌倉時代になると勢力は拡大してゆく。 とくに南北朝期の羽黒山の勢力を知る上で興味深いのは以下の二点であ る。 まず第一点は東北地方における熊野信仰と羽黒信仰の交流についてで ある。熊野や羽黒の本地仏を調査した政次浩によれば、出羽三山信仰は 熊 野信仰に基づき出羽国で平安時代末期︵一二世紀︶頃までに創出され、 出羽国の歴史的、地理的環境に適応させたものという。それはまず宮城 県名取市の高舘熊野那智神社には一四六体中一四三体の御正躰が聖観音 であり、それ以外の熊野信仰ゆかりの社寺にも那智大社の本地仏である 千手観音ではなく、出羽羽黒山の本地仏である聖観音が多いという事実 である。すなわち近世以前は羽黒山、月山、そして庄内平野側からは鳥 海山、内陸の村山盆地側からは葉山が出羽三山として熊野三山と比定さ れたのだ。そして熊野信仰の影響を受けながらそれぞれ本地仏を、羽黒 山が聖観音、月山が阿弥陀如来、鳥海山および葉山が薬師如来とみなさ れた。羽黒山の本地仏が那智の千手観音ではなく左手に未敷蓮華を持ち、 右手を蓮華に添える姿の聖観音なのは、比叡山延暦寺横川根本中堂の本 尊像と一致する。根本中堂は天台宗第三代座主を務めた慈覚大師円仁が 創建した堂宇であること。東北地方には慈覚大師開基とする寺社が多く あり、中でも出羽国は円仁の弟子で天台第四代座主となった安慧との関 わりがことのほか深い。東北地方の人々に対し熊野信仰が持ちえた強い 訴求力は、観音、薬師、阿弥陀という現世と来世の二世の幸せを請け負 う本地仏の組み合わせに由来する。このように円仁とゆかりの深い出羽 の 地で、平安末期から熊野信仰と、その変容とも言える出羽三山信仰が ︵13︶ 混 在していたのだ。 その二は宮城県栗原郡二迫鶯沢の白鶯山源沢寺に残る羽黒山から出さ れた以下の文書である。康暦二年︵二二八〇︶に当時の羽黒一山の目題 職だった真田四郎左衛門宛の中奥閉伊郡の智識状が残り、そこには在地 の先達木仏の名前も見える。また応永二五年︵一四一八︶には、前述の 鶯沢の先達木仏以下、数名の者が霞の割り当てを受けている。この中に は﹁鳥屋のみこ﹂という巫女にも霞が宛てられ、羽黒系の巫女に宛てた 霞 の 珍しい記録として興味深い。また︵岩手県︶東磐井郡薄衣村の羽黒 派 大泉院に残る康暦二年︵一三八〇︶の文書には、惣先達であった澤之 芸 の守に対して五條袈裟、直綴衣にて入峰を許すというもの、応永二〇 年︵一四二二︶には澤ノきのかミに対して六カ所の霞を渡すとするもの、 慶長九年︵一六〇四︶には安芸之守に対して羽黒山大先達の華蔵坊から 神号を授与するもの。会津東山村湯本の羽黒神社には弘長三年︵一二六 ︵14︶ 三︶銘の神体鏡があった。中世期の資料が少ないとされる羽黒修験の動 向だが、以上のことからだけでも東北地方における活躍は想像できよう。 このように東北地方でも一二世紀には熊野堂が建立され、一三∼一五 世紀には熊野や羽黒の先達が各地で檀那を訪れ、また在地においても有 力な先達が広範囲にわたって檀那を有し、南北朝期以降は東北北部にま で 教 線を延ばし、在地の有力な武士層を取り込んでゆき、彼らは先達に 連 れられて熊野参詣もしていたのだ。そして大事なことは南北朝期に南
国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 朝に与していた霊山が灰儘に帰した時期を境に、霊山に依拠していた修 験 者 が周辺に散在するようになり、地域の武士層と直接交流を持つよう になり、修験者は有力武士層を一族単位で檀那とするようになっていっ たことである。こうした動きが東北地方の獅子のあり方にどのような影 響を与えたのかを、次に見てゆくことにしよう。 (二︶獅子の分布 ︵1︶太平洋側 修 験道の東北地方への浸透を背景として、獅子舞や権現舞を考えてみ たい。東北の各地には一四世紀から一六世紀にかけての獅子頭が十数体 現存しており、獅子の歯の摩耗を示す頭もあり、歯打ちをしていた事が 伺える。この時代に獅子舞に伴って神楽が演じられたという証拠はない。 南部藩領内では近世期も元禄以降になると、権現獅子廻しに伴って神楽 ︵15︶ も演じられたであろう記録が見られるようになってくる。ここでは神楽 や番楽とは一応切り離して獅子の近世以前のあり方を見てゆくことにし たい。そこでまずいつ頃から獅子頭がどういう地域に残っていたのかを 確 認してゆこう。 ︵16︶ ﹃岩手の獅子頭︵権現さま︶﹄の調査によれば、紀銘のある権現様は岩 手県内には六二頭残っている。このうち近世期以前の獅子頭は一〇頭あ り、以下の通りである。 1 2 3 4 5 6 南北朝期︵一四世紀︶ 文明=年︵一四七九︶ 文明一七年︵一四八五︶ 明応八年︵一四九九︶ 大永三年︵一五六六︶ 永禄九年︵一五六六︶ 宮古市黒森神社の権現様 久慈市丹内神社の権現様 宮古市黒森神社の権現様 二 戸 市 大宮神社の権現様 山田町熊野神社の権現様 大 槌町羽黒新山社の権現様 7 8 文禄四年︵一五九五︶ 文禄︵年号はなし︶ 9 慶長三年︵一五九八︶ 10 慶長三年︵一五九八︶ 大 迫町︵現花巻市︶早池峰神社の権現様 二 戸 市竹内神社の権現様︵筆者注︰文禄 年間は一五九二∼九六︶ 花巻市胡四王神社の権現様 紫 波郡都南町︵現盛岡市︶板橋神社の権 現 様 1の宮古市黒森神社の権現様は木造、麻布貼、漆塗で歯が上下ともに 摩耗した南北朝︵=一三=ー九一︶頃の作と推定されている。同神社は 太 平洋に面した黒森山に鎮座し、近世期までは黒森権現社と称した。山 麓には中世期には安泰寺︵伝 天台宗︶、その後近世期には赤龍寺︵真 言宗︶が建立され、幕末まで存在した。また平成九年の発掘で奈良時代 (八 世紀︶と推定される密教の法具︵錫杖、三鈷鏡、鐘鈴︶が出土し、 古い時代から地域の信仰の拠点だったことが推測できる。また黒森権現 社は黒森観音、黒森薬師とも呼ばれ、神仏習合の山でもあった。前述の 二体の獅子頭以外にも近世初頭以降総数で二〇頭の権現獅子頭が存在す (17︶ る。 ︵2︶日本海側 秋田県には﹁秋田藩家蔵文書﹂中に以下の記録がある。 ﹁秋田城之助泰長書 証 文 雄 勝 平 鹿山乏︵注・仙北︶ 三郡御牛王獅子舞可為御椋領也。条々 観 応 元年︵二二五〇︶八月十五日 源 泰長 明江山遍照院坊中﹂ ︵18︶ これは秋田に獅子舞が現れる初出という。秋田城之助泰長が、熊野修 験 であった遍照院に、神札の配札権と獅子舞の舞場権を許可した霞場に
あたる。この資料は後世に作成されたという疑いもあるというが、高橋 は雄勝・平鹿・仙北の三郡を含み、この当時出羽の地に獅子舞の椋の存 ︵19︶ 在を追求する必要があると述べ、今後の考察の必要性を説く。 また湯沢市山田の八幡神社には永和二年︵一三七六︶銘の獅子頭が現 存する。この獅子は鉾と懸け仏が付くので躍りではなく神幸様式による ︵20︶ ︵21︶ 飾り獅子という。しかし旧暦八月には悪魔祓いとして家々を廻っていた とする報告もある。そしてこの獅子が鉾と懸け仏が付くからという理由 で単なる神幸様式といえるのかは、以下の資料が示すように断定はでき ない。それは近世期になるが宝暦二年︵一七五二︶の﹃出羽国大社考巻 之二﹄には、後述のように、鳥海山麓の吹浦修験は﹁御鉾獅子頭を渡す﹂ と称して、年に数回地域の霞の範囲を廻り、家々の祈祷をして歩いてい た のだ。今は大物忌神社を奉じるが、延喜式には神宮寺も掲載された神 仏習合の地で、正平一三年︵一三五六︶には両所大菩薩に対する北畠顕 伸の寄進状が残り、明治の神仏分離令までは永正三年︵一五〇六︶銘の ︵22︶ 薬師如来、暦応三年︵一三三八︶銘の阿弥陀如来が安置されていた。確 たる証拠がないので断定はできないが、吹浦の例からも、鉾が付くこと が単に神事の折の神幸様式の獅子頭であるとは言い切れない。 鶴岡市にある羽前金峰山の総鎮守であった六所堂には正平六年︵一三 ︵23︶ 五一︶と、永享二年︵一四三〇︶の銘のある獅子頭があり、これをどう 捉えるかが問題となる。六所神社には計六頭の獅子頭が残り、延享三年 ( 一 七 四六︶の文書には﹁毎年二月一日より三日まで祭礼に出て村々を ︵24> 獅 子 相 廻り申し候﹂と記されている。前記の銘のある時代にこの獅子頭 がどのように使われたなどの詳細は不明だが、後述するように近世期以 降昭和末期頃まで六所堂を預かっていた太夫が周辺の村々を獅子の祈祷 ︵25︶ をして歩いていた。また南陽市宮内熊野大社には嘉吉三年︵一四四三︶ に熊野神社が炎上した際に御正躰や太刀と並んで、獅子頭も救出された とする記録がある。この獅子は今も神社の例祭には重要な役割を持ち、 か つ て の 六 供衆という社僧の獅子冠屋敷が頭取としてこの役を担ってい (26︶ る。 以 上断片的な記録からだけだが、中世期も南北朝期以降になると、獅 子 頭 の 記 録も見られるようになる。前述のように霊山に依拠していた修 験者が周辺に散在し、地域の武士層と直接交流を持ち、修験者は有力武 士層を檀那とすることで、熊野や羽黒への先達をするだけではなく、檀 那 の家々の安泰と繁栄を保証するべく、牛玉宝印、神札の配札に加えて、 獅子頭による悪魔祓いの祈祷をして歩くようなる。
③近世以降の各地の動向
以 上 のことをふまえて、ここからは近世以降の各地の動向を見てゆく ことにしたい。近世期に修験者とかかわる芸能の中でも獅子舞、および 権現舞がどのような状況下で修験者とかかわってきたのかを見てゆく。 そこで近世期における藩別の資料を引用しながら、﹁権現舞﹂または﹁獅 子舞﹂がどのような場面でどのように表現されてきたのかを検討する。 また﹁番楽﹂が分布する地域における番楽︵広い意味での神楽︶と獅子 舞の関わりも検討してみたい。 ( 一 )旧南部藩領に見る獅子舞・権現廻し はじめは下北半島の東通村に根拠を置いて近世期に活躍していた目名 不 動 院に伝わる文書から見てゆこう。ここでは獅子舞あるいは権現廻し と、神楽という表現が分けて述べられている。どういう場面で獅子舞︵権 現舞︶なのか、神楽なのかに注目してみた。 ︵27︶ (1︶﹃奥州南部北郡田名部目名村不動院﹄文書より 同文書の解説文では、菅江真澄﹃奥のてぶり﹄︵寛政六年国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 正月一三日︶の項を引用している。コ三日、大畑では目名の優婆塞が、 三年に一度行われる獅子舞と言う神楽をして、熊野神社のお札を掲げ、 笛太鼓で難したて、門ごとに巡って歩く。新築の家を祝うために、獅子 舞がむれ入って祝う。﹂さらに解説によれば、﹁東通村目名の神明宮の神 主を勤める菊池家は、かつては熊野神社を祭る不動院と称する熊野系の 山伏だった。﹃霞証文並菊池先祖由緒下書控﹄によると、菊池家は三代 目まで俗別当で、四代目から修験となり、五代目不動院の弘治元年二 五 五五︶から死亡年月日が記されてある。享保七年︵一七二二︶に亡く なった一一代目三光院のときに羽黒派から本山派に変わった。 また横浜八幡宮に残る文書には、﹁かつて熊野権現獅子頭を持ってい たのは、目名の不動院と横浜の大光院だけだった。田名部の吉祥坊も 持っていたが、元禄三年︵一六九〇︶に岩屋村に売ってしまった。その 後田名部では獅子頭再建を本山派惣録自光坊に願い出て、明和六年二 七 六九︶に許可が出た。﹂ 目名の不動院から横浜大光院所持の能面一八面を田名部五ヶ院に貸し て ほしいとの依頼文書がある。この能面は大光院の祖先の大通院︵一六 四六∼七三︶が求めたもので、貸したくなかったが、断るわけにはゆか ず、結局貸し出した。﹂ 以 下 では同文書の中から獅子舞に関わる資料を抜き出してみた。 資料一 南部藩惣録自光坊︵下北地域の年行事でもあった︶から、目名不動院 宛てに出された法頭役を勤める為の霞場証文の覚えである。 「 宝 永年中︵一七〇四∼=︶、神事、祭礼、湯立、神楽、遷 宮御祈祷の法頭役相勤﹂ 資料二 延享元年︵一七四四︶に書かれた﹁田名部輪中惣鎮守目名村熊野山大 権現宮縁記別当世代由緒書である。年中行事の中に神楽と獅子頭巡幸が 記されてある部分を抜粋した。 ﹁正月 七日 歳玉神事諄詞四季唱神楽 五月 五日 神楽諄詞四季唱 六月二〇日 神楽諄詞四季唱 九月一九日 神楽諄詞四季唱 三年一度輪中氏子廻獅子頭神事相巡来候、ー、、﹂ 資料三 明和六年 抽﹂ ( 一 七 六九︶に自光坊から不動院宛てに出された﹁獅子舞書 「田名部獅子舞旧例之通相廻り申度候段任旦家寄依通可申者也﹂ 資料四 嘉永二年 状 之事﹂ ( 一 八四九︶に自光坊から不動院宛てに出された﹁権現廻免 「田名部権現再拝之儀者、 専ーー、﹂ 資料五 ﹁浮説﹂と称する年代不明の触れ。 測 できる。 旧例之通師旦和合ヲ以村々罷通 多分自光坊から出された文書と推 「其方支配修験の者共所持致居候獅子頭を俗二権現与唱、 村方祈祷之為ー、、、 在々 修 験道茂手広き義太神楽相廻し候カワラ者同様二獅子頭相廻 し、、、、、﹂ このように目名不動院文書から見えてくるのは、宝永年中以降、不動 院が行ってきた宗教活動としては、熊野大権現宮で行われる神事、祭礼 などでは湯立て、神楽を行い、四季の祭にも神楽を行っている。そして
霞 の村々を廻村して歩く際には、獅子舞、権現廻しと称している。とく に資料四は自光坊から出された文書で、獅子舞の廻村にも年行事の許可 が 必要だったことが見えてくる。 ︵28︶ ︵2︶﹃五戸多門院文書﹄ ここでは青森県五戸多門院家所蔵の関係文書を考察したい。多門院家 は 近 世期に五戸地方の年行事職を勤めた家柄で、本山派修験であった。 多門院は前述した京都の坂東屋富松が聖護院と連署で先達許状を出して いた。南部藩惣録自光坊の配下にあった上記の目名不動院︵三光院とも 言う︶と、五戸多門院配下の横浜三光院は霞場が近接していた為、相互 に交流が深かった。ここでは目名不動院、横浜大光院、及びその周辺の 修 験者と、獅子頭による霞場を巡る記録を見てゆく。 資料一 = 依御院主様御勇健二可被成様尊座珍重大悦二奉存候、御 両 役 様方御勇康二可被為成御座珍重奉存候 一 御任申上候、愛之宝蔵院預り社堂大破之処、氏子共勤及兼 候故、同僧より野辺地領触頭大光院之獅子舞御代官様二大光院 え願出候処、御同院も早速承知被致、大光院え野辺地領之御同 行も二三人大光院召連、愛元宝蔵院被参候処こて宝蔵院願出ニ ハ不仕、愛元御代官井御下役・御町検断所えハ大光院之願出致 候ハ・、[]之役人之申分二、宝蔵院御役人中え願有之申出 候処、検断所井御役人衆共に被申候二は、触頭龍蔵院を以御代 官渋民忠右衛門様え願出候ハ可然と御役人衆も被申候二付、私 より宝蔵院え及相談二候てハ三光院えも聞合、又は同役えも聞 合候ハ・可然と同院聞得候所、同院申出二は、三光院疾と相談 致所ハ、三光院も和合之趣こて、三光院より御同行迄大光院え かしくれ御程之事故、円蔵院えは同役こても聞合不申共不苦候 趣申事故、御代官え願出候処早速宝鏡院被仰付、獅子舞相廻候 処、在々こて何角混乱等も有之事故、若御本山え同役井三宝院 より何ケ躰之六ケ敷き事申上候ては私之[]法二相成可申哉、 此 所 奉任上候、三光院獅子は廻ハ西、北廻ハ六七月頃、借又東 通ハ三月より四月之内、田名部町ハ正月十二三日通二廻り申候 故、三光院之御決杯も有之間敷故之事も夫故三光院宝鏡院御相 談二奉存御為念如斯申上候 以上 寛政二年戌ノ三月 龍蔵院 円蔵院 自光坊 御役僧中﹂ この資料は、宝蔵院の社堂が大破した為、大光院の獅子を借りて勧進 として獅子舞をする話である。 資料二︵全文は註︵28︶を参照︶ ﹁当年は熊野大権現神楽舞之御祈祷順番﹂とする内容であるが、以下 のアンダーラインの部分が興味深い。 「内々こて一両年より野辺地袋町若者共手作獅子前立申て、正 月遊ひ二舞之まね仕、米餅米もらい候、右銭を金剛院へ壱貫弐 貫文と呉れ候由承知仕候得共、不存体仕置申候、右手作獅子を 宜敷大工二きざませ、表通御尊院様願上、又は御上様願上候て 獅 子舞二廻心得と相見申候、何分田名部在ハ村々沢山、若者共 正月遊び村々廻舞之まね仕候得共、其村々の別当共か・わり不 申候、目名村・田名部両所斗御座候、野辺地井七戸在・五戸在 相 廻 候 心得之由、内訳之者より野辺地表二て承申候、︵以下略︶ 四月十二日 大光院 多門院尊様 上﹂ これは、前述の目名不動院文書の解説と共通する内容で、﹁当年は熊 野 大 権 現神楽舞之御祈祷順番﹂であるという。後半のアンダーラインの
国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 部 分は、地域の若者たちと修験者、あるいは修験者同士の獅子舞を巡っ て の 混 乱 が 記されていて、興味深い内容となっている。 資料三 「口 上覚 一 此の度修験道為御披二獅子舞執行被仰付、重畳難有仕合二 奉存候、右為御請け書申上 候 已上 子 七月 三 戸田子村 同梅内村 同相内村 五 戸町 又 重 村 中市村 西 越 村 漆 水 村 七 崎 村 沢田村 野 辺 地 横 浜 村 同 子七月 多門院御房 前書之通同行共奉申上候、 子七月 五戸年行事 自光坊御房﹂ これは獅子舞執行の口上書で、 して、 の 惣 録 であった自光坊に提出している。 大法院 慈慶院 大学院 実法院 正光院 法正院 常楽院 長円坊 善学院 文殊院 大 光院 組 合中 此旨御序之砲宜被仰上被下度奉頼候 多門院 巳 上 三戸から野辺地に至る修験者達が連署 それに年行事である多門院が添え状を付け、南部藩における修験 資料四 資料五 「乍恐御請奉申上候事 此 度 社 風神楽之内獅子舞御免被仰付、難有御請奉申上候 文政十三年七月 五戸 実法院 ︵判︶ 多門院 御房﹂ 以 上 ﹁乍恐御請奉申上候事 此度社風神楽之内獅子舞御免被仰付、難有御請奉申上候 已上 文政十三年七月 添水村 長圓坊 ︵判︶ 多門院 御房﹂ 資料四と五は同様の内容だが、﹁社風神楽の内獅子舞﹂という表現が ある。多門院配下の修験者達が提出している書類だから修験が中心とな り、あるいは組織をして演じていた権現舞であり、神楽だったはずのも の である。それが﹁社風神楽の獅子舞﹂と称するようになったのは、藩 主 の神道好みが背景にあった。南部藩三六代藩主南部利敬は、寛政三年 ( 一 七九一︶に吉田家が江戸に関東役所を設けた時期頃にその影響を受け、 文化九年︵一八一二︶には自ら吉田家に入門し、神祇道の伝授を受け、 文化一〇年︵一八一三︶には領内に﹁修験道相止め、神祇道を信仰すべ し﹂という達しを出した。南部藩では神仏分離令や修験道廃止令が前倒 しにやってきたようなもので、領内の多くの修験寺院は神道化した。 もつともこれは文政三年︵一八二〇︶に利敬の死後、後継の藩主により ︵29︶ 暫時元に戻されることになった。 ︵3︶黒森権現廻村の騒動記 岩手県宮古市黒森神楽は宝暦年間︵一七五一ー六四︶以降、陸中沿岸 地方の修験者から数多くの訴訟が起こされ、記録が残っている。それは 黒 森神楽が現在に至るまで黒森権現社別当の霞の範囲を超えて、北上山
系の東側の陸中沿岸地方の、北は入戸藩との境、南は伊達藩との境まで 南部藩領域を権現獅子頭を携えて神楽の廻村に歩いていたためであった。 この騒動の前史として、元禄元年︵一六入八︶に起こった修験安楽院 を巡る騒動の中で、安楽院が全面的に敗訴となり、それとの関連で黒森 別当は藩から﹁権現廻しのこと妨害なきこと﹂︵資料四参照︶というお 墨付きを得た。そしてこれを盾に上記の騒動も含め、これ以降さまざま な訴訟に勝ち抜いてゆくことになる。 そこで以下では陸中沿岸地方に起こった黒森権現の廻村に関わる騒動 を取り上げ、権現の廻村と神楽についての資料を検討してみたい。 資料一から三は、八木沢村、赤前村、長沢村の旧修験家に伝わるもの で、黒森別当の権現廻村に対して反対運動の先頭に立った修験者の側の 文書である。資料四と五は黒森別当側の文書で、資料六は南部藩の役所 ︵30︶ の 文書である。 資料一 宮古市八木沢﹁入木沢時雄家文書﹂より ﹁宝暦九年︵一七五九︶二月二二日、黒森権現廻村の騒動につ きお尋ねあり、お答え書き﹂ 資料二 宮古市赤前﹁米沢久夫家文書﹂より ﹁宝暦八年︵一七五八︶六月一三日、黒森権現廻村の騒動力﹂ ﹁宝暦一二年︵一七六二︶一二月一八日、黒森権現廻村騒動の こと﹂ 資料三 宮古市長沢﹁佐々木賢次郎家文書﹂より ﹁宝暦九年︵一七五九︶九月、山口村黒森別当権現廻しについて、 霞内百姓お答﹂ 資料四 宮古市黒森﹁川原田行雄家文書﹂川原田家は黒森権現社の俗別当だっ た。 ﹁御本紙 壱通 南部信濃守 小 五郎﹂ 元禄元年力 ﹁︵年代なし︶=月二七日、安楽院騒動の結果、権現廻しのこ と妨害なきこと﹂ 南部藩内では、修験安楽院を巡る騒動があり、採決の結果、安楽院は ︵31︶ 元 禄 元年︵一六八八︶一一月二七日に全面的に敗訴となった。この騒動 には黒森別当小五郎も関わっており、その結果がこの資料四の文書であ る。この資料から、元禄元年当時黒森神楽がすでに廻村していたことが 知れる。この辺りの訴訟に関しては以下の記録がある。 資料五 ﹁宝暦八年 宮古黒森山 三閉伊村所附帳 獅子舞廻し方 寅 ノ三月﹂︵宮古市中沢与一家文書︶ ﹁乍恐奉願上候事 拙 者 預 黒 森 権現、往古より三閉伊南北隔年為御祈祷権現奉守相 廻、拙者別当職相蒙只今迄隔年無相違相廻罷在候、然所去年十 月、前例之通北通相廻候処、宮古御代官所赤前村真祥院鰯下之 山伏共、罷通筋於処々致難渋候へ共、右申上候通、往古より拙 代迄無相違相廻り候事故、右之筋山伏共為申知罷通、殊二南北 三閉伊之者共往古より帰依仕候事故、権現奉守罷通候儀は兼て 承知仕居候故、其醐は権現御宿等迄於三閉伊前々より相定居候 様二御座候所、去々年十月右申上候通於所々山伏共指支申候事 故、権現御宿等迄指支有之候様罷成候、往古より無相違罷通候 趣山伏共為申知候得共、不得止事致難渋、同所代官所之内中嶋
国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 村ト申所罷通候節、善行院ト申候山伏罷通候支申候儀二付、此 所は罷通候へ共家別二は相廻兼、余村へ相廻罷帰候、依之奉願 上候儀恐多奉存候得共、拙者儀は右三閉伊南北壱箇年置家別権 現 奉守、得志之助成罷仕候、然処右申上候通御座候得は、此以 後相廻候節従 御上様御書付二ても頂戴不仕候へては、此御節 こも御座候間、猶又難渋申掛、古来より相廻候処指支可仕ト奉 存候二付、恐多奉存候得共以御慈悲ノ御了簡以後罷通候節山伏 共難渋不仕候様二成共右御書付成共被下置候様奉願上候、願之 通 被成下候ハ・難有仕合奉存候、右之趣宜被仰上被下度奉願上 候 以上 三月 黒森別当 小 重 郎 判 永 福寺 方丈様︵以下略 注︵29︶を参照︶﹂ ︵32︶ 資料六 ﹁黒森権現書留﹂︵盛岡市中央公民館蔵︶ 以 下は黒森別当に対し地域修験者四三人の連判状の訴えである。 「
宮古代官領山口村黒森権現別当
小十郎出入二付本文願書
御尋答書井霞旦那場主印形
書 付 諸目録書留覚外四拾
三 人 連判状横書こて壱通添﹂
「乍恐以口上書を御答申上候事 一 宮古御代官所之内山口村黒森別当、権現廻往古より拙僧霞 場 之内相通申候義無御座候、尤国懸ケ権現廻二相 出候由申 立 願出候二付及挨拶候得は、樽等持参達て無心申事故、拙僧霞 場 之内崎山村壱ケ村より外ハ相通不 申候、尤旧例と御座候 得て霞場不残、此末新法二相通申義成兼候、此段宜被仰上被下 度奉頼上候以上 宝 暦 八年寅四月 田代村 大宝院 印 閉伊年行事 寿 量 坊御房﹂ これは田代村大宝院の答えだが、訴状には四三人それぞれの答えの文 章が添付されている。ここで地域の修験者達が黒森権現別当に対して問 題にしているのは、神楽ではなく、権現廻しであるということだ。その 違 いは、地域に残る村々の神楽の廻村の記録と比較してみるとわかる。 そのあたりを以下の資料から見てゆこう。 ︵4︶閉伊地方の神楽の記録 ここに掲載するのは在地の修験者や神楽衆が使っていた資料﹁神楽廻 村帳﹂である。 資料一﹁延享三年神楽振廻覚帳丙寅十一月十一日 末前村金四
郎﹂ ︵33︶ ﹁田老町末前 西野家文書﹂ 丙延享三年末前村
神楽振廻覚帳 寅 十一月十一日 金四郎 (横帳︶= 百文 ︵精米力︶ 精 五升 一 四百文 同七升 そは壱升 大舛二て 一 弐百文 したみ五升 末前 同 同 これは黒森神楽の廻村の記録ではなく、田老村大正院、 の霞場を廻村していた末前村金四郎の記録である。 ここでは﹁権現﹂の名称ではなく、﹁神楽振廻覚帳﹂と記されている。 廻﹂しているのは獅子頭なのだが、神楽の名称が使われている。 ︵34︶ 資料二 ﹁佐々木賢次郎家文書﹂ この資料は﹁元治元年︵一八六四︶=月一七日、新山、稲荷、織僧 三 社 祈祭帳﹂である。神楽宿を舞い立つ儀礼、門獅子がみえる。この資 料の中には﹁榊葉﹂など神楽の演目が見えることから、多分新築の家で 頼まれたのであろう。そしてこれらの資料から権現舞だけではなく、﹁神 楽廻村帳﹂だとわかる。 半三郎殿 御内儀より 金右衛門殿 御内儀より 右同断 市左衛門殿 御内儀より︵以下略︶﹂ 田代村大宝院 資料に見るように、 ﹁振
織稲新
僧荷山
元治元年 三 社祈祭帳 十一月十七日 「 百 文圏
別当 御屋敷 資料三 拾 三文門獅子 御墓 御新山 一 二百文 拾 三 文 一 百 文 一 百 文 一 五十文 一 三 拾文 舞人 十一月十七日 〆六百文 田鎖伝兵衛様 鍛冶屋神 大川斉宮殿 花 館義兵衛様 船越民弥様 源内殿 一 喜太郎 一 榊葉 一三拾文 重弥殿 一五拾文 勝見殿 ︵以下省略︶﹂ ︵35︶ 「山田町豊間根芳賀泰雄家文書﹂ 「 文 化十三年八月五日 一筆致啓上候、残暑甚敷候得共、各様弥御堅固珍重奉存候 一 去年御断申候通其御村三ケ村霞場威徳院無調法之儀数多有 之 隠 居申付、霞場取上ケ置候二付、拙僧名代として其御村林泉 坊え当分預ケ置、霞旦用相勤候様申付置候処、此度社風神楽・ 獅 子舞・祈祭之義奉願上候処、御慈悲之御憐慰を以願之通被仰 付、一統難有仕合奉存候、依之村数旦家軒数書上候様御領内中 被 仰付、三閉伊ハ拙僧不残書上差上候、其御村三ケ村之義ハ大国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 徳寺大徳院、同林泉坊両人え預ケ置候旨御上様え書上相済候間、 当年より獅子舞・祈祭之義、外霞旦用之儀両人より相勤可申間、 不相替御添心被下、御ケ条之通諸事両人内え被仰聞相勤候様被 成可被下、何分頼上候、右御断可得御意如此御座候 以上 文化十三年子八月五日 三閉伊年行事 寿松院 豊間根村肝煎 同村老名 同 同 同 同 同 同 同 同 石峠村 勘五郎 様 作 兵 衛 様 六 兵 衛 様 助六 様 平 右 衛門様 喜右衛門様 甚助 様 与兵衛 様 三 之 丞 様 左 太 六 様 市左衛門様 尚以湯立之義ハ兼て稠敷御差留被仰付置候間、決て御頼合 被成候事御相可被下候 已上﹂ この資料は、﹁文化一三年︵一入一六︶八月五日、不調法により三ヶ 村 の霞場取り上げ、年行事名代として預けの神楽、獅子舞、祈祭願いの 通り仰せ附けられる。但し湯立ては厳禁のこと、村役に通知﹂するとい う内容で、ここにも﹁社風神楽﹂と記載され、前述の多門院文書にもあ る通り、この時代には南部藩では神道風の社風神楽と称していたのだ。 ︵36︶ 資料四﹁山田町豊間根 芳賀泰雄家文書﹂ この資料は﹁白山妙利大権現祈祭帳﹂と称するが、神楽の廻村覚帳で ある。 白 安 政 五年 山 妙理大権現祈祭帳 午十一月廿五日 資料五 =百文 豊間根富蔵 一百文 肝入 文平 一百文 舞入 豊間根新蔵 一弐貫弐百文 榊葉 伊之助 十一月廿五日 〆三貫弐百文 新蔵宿 一百文 舞立 一百文 同人 ︵以下省略︶﹂ ︵37︶ 「山田町豊間根 芳賀泰雄家文書﹂ ︵年代不詳︶十二月 「 一 一 覚 寺社奉行・町奉行被召放 寺社奉行・町奉行兼帯被 十二月 仰付 年寄役僧乙部村 宝明院御房 浅右衛門 安村順左衛門 寿松院 役所
役僧豊間根村 同役牛伏村 役僧加ひ岩泉村 同見習牛伏村 同派 (中略︶ 近年両派修験宗、 成学院御房 了珠院御房 弥勒院御房 成 就院御房 惣 支 配衆中 一 権現舞子乱二相成、心得違こて神職之 方えも隠密二相交り加舞致 候様こも相聞得、修験宗法道相 背不玲之至二候、修験宗は不及申二、俗舞子共二以来右 様 心得違二ては役僧井前々より預置候霞旦那場主井其舞子之師 匠を以急度吟味、其御筋 え奉願上、心得違乱之者申付方有 之候、以来年々修験舞子井俗舞子師匠弟子名前共二帳 面二 相調、心得違無之ため急度為差出可被申候 以上 (以 下略︶ ﹂ 以 上 見 てきたように、黒森権現社の別当が獅子頭を権現獅子と称して 廻 村している場合は、そのほとんどが﹁獅子舞﹂あるいは﹁権現廻し﹂ という表現を用いている。このことは獅子頭を用いての祈祷にその重き を置いていて、そのことが黒森別当にとっても、或いは黒森別当に対し て訴訟を挑んだ三閉伊地方の修験者にとっても重要だったことの表れな の であろう。前述した目名村不動院文書でも、五戸多門院文書でも、そ の文書の中心は権現獅子頭に関する訴えが主であった。このことは、修 験 者たちが依拠してきた神社︵権現社︶の神霊を獅子頭に降臨させ、神々 の 象 徴として獅子頭を振り廻し、祈祷をして歩くことが、彼らの宗教活 動 の 重 要な一環だったのであり、それはひいては大きな収入源でもあつ たからだ。かつて資料四も含めて﹁神楽の経済学−陸中沿岸地方の神楽 資料からー﹂という論文を書き、豊間根村威徳院家の神楽資料を分析し ︵38︶ たことがあった。その結果修験威徳院は、別当として獅子頭を用いた門 打ちの収入の三分の二を得て、神楽の花銭は権現様分として別当は二人 分を取り、その残りを一〇人程度の神楽衆で分配していた。全体から見 ると別当の取り分は三分の二にも当たり、まさしく搾取状態だった。し かしこれが搾取でないのは、獅子頭を権現様と称して霞場を宗教活動を する権利を認められていたのが修験者だったからだ。だからこそ陸中沿 岸 地方の修験者は黒森権現社別当に対して数多くの訴訟を行った。それ は 彼らの宗教的な活動の場を守ることだけではなく、経済活動とも結び つ いた死活問題だったからだ。 (二︶番楽伝承地域と修験者 秋田県でも山形県でも番楽のことを獅子舞と称する地域は多い。本田 安次氏も﹁番楽を獅子舞とも呼ぶのは、獅子の舞が重く見られている故 ︵39︶ であり、、、﹂と述べている。と言うことは今まで述べてきた権現舞と称 している獅子舞分布地帯と同じように、獅子舞による祈祷を重く見る故 の名称であると、番楽地帯にも言えるのだろうか。以下では番楽地帯に つ い て 獅 子舞と修験者の関わりについて述べてゆきたい。 ︵1︶番楽と獅子舞 番楽と称する芸能は秋田・山形両県にまたがる鳥海山麓、秋田太平山 および仙北方面、秋田西北部の八郎潟周辺に分布している。山形県遊佐 町 の鳥海山麓にある熊野堂の杉沢比山は、昭和五年に折ロ信夫、小寺融 吉そして本田安次が訪れ、早池峰山麓の岳神楽とともに本田の大著﹃山 伏神楽・番楽﹄を書くきっかけとなった。 番楽の名称は﹃佐竹南家御日記﹄の元禄八年︵一六九五︶八月二七日 ︵40︶ の条に、﹁ばんがく御上覧被遊候﹂とあり、一七世紀後半には﹁ばんがく﹂ が藩主の上覧に供せらという状況にあったことがわかる。また同一四年
国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 ( 一 七 〇 二 六月二六日の条に、﹁三浦庄左衛門罷出申上候ハ御伊勢別堂 申立候毎年之通今日於御伊世堂二湯立仕候弥一両日中より前度之通同町 ︵41︶ 市町共二し・廻し申度候其成申上候由申二付雨谷主水二申渡候事﹂とあ り、伊勢堂の別当が湯立ての後で、町中で獅子を廻し歩いていた。ここ に出てくる﹁ばんがく﹂と、﹁しし廻し﹂が同じグループなのかは不明 だが、この﹁しし廻し﹂は権現舞と共通した祈祷儀礼の要素があると言 えるだろう。 菅江真澄が文化五年︵一八〇九︶に八郎潟東岸の村里を巡遊した折の ひなのあそび 日記﹃夷舎奴安装碑﹄に﹁又番楽舞といふものありて、修験者のもはら しけり。ほふり、みやつ︵こ11脱︶も舞ける里もありけり。陸奥の胆沢、 ヌカノブ 磐井、桃生に在りては神楽といひ、糠部の郡にては能舞といひ、この飽 ブキョク 田にては舞曲ともはらいへり︵以下略︶﹂とあり、当時番楽や盆踊りが 盛 ん だ った当地の様子を詳しく書きとどめており、その中でも番楽は修 ︵42︶ 験者がもたらしたものだとしている。 現在の番楽からは山伏神楽ほどに獅子舞の宗教的優位性は見えてこな い。しかし前述の本田が挙げた事例と同じように、高山茂も鳥海山麓矢 ︵43︶ 嶋修験一八坊と獅子舞の関わりの深さを述べている。そこで以下では鳥 海山麓一帯の状況を関係資料から見てみたい。 ︵2︶鳥海山麓修験と獅子舞 鳥海山麓には秋田県側に矢島、院内、滝沢、小滝、山形県側に吹浦、 蕨岡の修験集落があり、それぞれ宗教活動とそれに伴う芸能活動を行 なってきた。修験者と獅子舞の関わりは深いが、後に述べる矢島以外で は直接番楽と結びついているとは限らないために、なかなか見えにくく なっていることも事実である。そこでまず近世期における政治、宗教政 策の動きを押さえた上で、これらの地域の状況を近世初期の幕府の修験 道各派に対する政策から見てみよう。これは鳥海山麓の修験のあり方を も規定していたからである。 幕府は慶長一入年︵一六=二︶に当山本山各別、対真言宗入峰役銭禁 止 の 二 つを柱とした修験法度を出し、修験道界を本山派・当山派に二分 させ双方筋目支配の形をとらせて競合させようとした。これに脅威を感 じた羽黒山の天宥は羽黒一山を天台宗に改宗して輪王寺末として羽黒派 ︵44︶ の 独 立を勝ち取り、羽黒山上に東照宮を勧請した。 こうした政策が施工された結果、羽黒は配下の修験の統制に乗り出す ようになる。それまで矢島も含めて鳥海山麓の修験集落は、近世初期に 羽 黒山が天台宗に帰入して羽黒派の独立を勝ち取るまで、羽黒山との緩 や かな関係を保ち、修行方式や年中行事にはその影響が強く見られた。 鳥海山麓の修験者はこの後羽黒に抵抗してそれぞれ独自の道を歩むよう になり、蕨岡、小滝、矢島の各登山口の修験者は当山派醍醐三宝院末と なった。 このころ醍醐三宝院は当山十二正大先達衆に対抗して、諸国山伏を直 接支配し、補任、諸方式、諸法度の制定、公事の沙汰などもすべて江戸 鳳閣寺で行なうようになる。また当時当山派には別派として伊勢方、熊 野方、地客方という三派があったが、このうちの地客方というのは、地 方の国峰、国先達に所属して、そこから補任状を受けて昇進する修験を 指していたが、享和二年︵一入〇二︶以降は、出羽国の鳥海山と金峰山 の当山派修験に対しては三宝院門跡の永免許を受けて、独自に配下の修 ︵45︶ 験に補任状を出すことができた。 か つ て鳥海山麓の修験集落だった山形県遊佐町蕨岡、同吹浦、秋田県 由利本庄市矢島、にかほ市小滝地区では、獅子頭を擁して春と夏に周辺 の 霞 の集落を廻っていたし、今も吹浦は広い範囲を、蕨岡と小滝もそれ ︵46︶ ほど広い範囲ではないが、廻村している。この獅子舞は﹁御頭舞﹂、﹁御 宝 頭舞﹂、﹁十二段の舞﹂などと称し、神霊の降臨した象徴として、今も 祭 礼 や 春 祈 祷 の 際には祈りの対象となり、獅子頭を扱う人々も、そこに
神霊の顕れを見ている点に共通の要素がある。それだけではなく、小滝 とその周辺地域には小滝と横岡の二つの番楽がある。蕨岡修験三三坊の 内二坊は杉沢にあり、ここには杉沢比山番楽がある。吹浦地域にはかつ て女鹿日山があり、神仏分離令の際には、吹浦神宮寺の仏像が女鹿の松 葉寺に避難した歴史を持つほど密接な関係があった。以下ではそのあた りのことを獅子舞とも絡めてみてゆくことにしよう。 鳥海山麓矢島修験と獅子舞 ■海山の登山口の一つである由利本荘市矢島町八森は、大江義久の築 いたところで、文禄年中︵一五九二ー九六︶は仁賀保氏、元和寛永年中 ( 一六一五−四〇︶は打越氏、寛永一七年︵一六四〇︶以降は生駒氏の 居住地だった。この生駒氏の御殿に参向して奉仕した荒沢、興屋、二階 集落の三頭の獅子を御用獅子と称し、明治までは毎年盆の一四日に殿中 に上った。またこの辺り一帯の獅子舞はいずれも本海流を名乗り、本海 ︵47︶ 行人が伝えたとする伝承を持つ。 荒 沢に残る明治二年に記したという﹁獅子舞之事並本海行流系譜﹂の ︵狙︶ 中の﹁本海流系譜﹂によれば、以下の通りである。 「愛古来ヨリ荒沢村工獅子舞之初リ云者、元亀天正之頃大和国ヨリ 本海坊ト云行人来テ敬習スト云エリ︵中略︶ 全矢島御領内獅子舞大祖也伍五穀成就虫日和祭トシテ鳥海山学頭二 而御祈祷有りテ同処工相詰番楽相勤、御堺小板戸川迄参り候ハ己二 御用獅子ト被仰付候無相違久例モ於アラ澤村ニヲイテハ鳥海山開キ タモウトテ善鬼後鬼ト云有り右正末ノ神力尊ヒ隣国二至マテ矢島荒 沢 村 本海番楽ト云テ今二広マレリ︵以下略︶﹂ 時代が確定しないが、大和から来たという本海行人によって伝えられ た獅子舞が、全矢島領内の獅子舞の祖であり、鳥海山の学頭による祈祷 の際にも番楽を勤めたという。矢島の学頭は、鳥海山麓の登山口に位置 し、近世期には一八坊を擁した当山派醍醐寺三宝院に属した福王寺の事 である。矢島修験は春秋二度の入峰があり,春には四〇日、秋には三〇 日の籠りの修行をし、坊号院号寺号を得ていた。本海番楽は寛永年間二 六 二四︶、醍醐寺三宝院の遊僧本海行人が矢島入りして、獅子舞︵番楽︶ ︵49︶ を伝えた。寛永三年︵一六二六︶七月の本海伝書の写しがあるという。 矢島修験一八坊は旧矢島町、旧鳥海町に散在し、その多くが番楽や獅子 舞を伝えている。前述の荒沢番楽のある荒沢には光明院があり、天池番 楽のある笹子には万生院︵幡性院とも︶があり、祭りには獅子舞を奉納 する。上笹子の常学院に伝わる獅子は例祭と各家の祈祷を行なう。この 獅 子 は 天明七年︵一七八七︶の﹃十八坊由緒之事﹄に﹁領分中御獅子廻 し御免﹂と記され、藩主の参勤の折の旅の安全祈願と、城内での祈祷の 獅 子舞を許され、それにより領分中の獅子舞を許されるなどの処遇を得 ︵50︶ て いた。小川の多宝院には明暦四年︵一六五八︶銘の獅子頭が残る。 本 海番楽および本海流と称する獅子舞が矢島領内の広い範囲に分布し て い た のは、一つには福王寺を学頭とする矢島修験が矢島口、百宅口、 猿 倉 口 の 複数の登山口を管理していたこと、学頭以下の修験者が矢島領 ︵51︶ 内に広く散在し、修験集落を形成していなかったことなどがあげられる。 その結果、修験者が各自の霞の村中で獅子を用いての祈祷をし、それぞ れ の 村 の 人 々を募って番楽を行い得たのであろう。その中でも本海行人 直伝とされる獅子舞、あるいは藩主との関わりの伝承を持つ獅子舞は特 別 の 位 置を与えられていたのだ。さらに修験者のいない村では獅子舞を 司る獅子別当があったり、村の中で獅子の行事があると獅子の世話をし ︵52︶ たり、獅子宿を勤める家柄もあった。 仁賀保町︵現にかほ市︶院内の七高神社には明暦三年︵一六五七︶銘 ︵53︶ の 獅 子 頭 が 伝 わる。ここは鳥海山院内修験一八坊を統括した七高山極楽
国立歴史民俗博物館研究報告 第142集2008年3月 ︵M︶ 寺がある。また獅子舞の記録はないが、由利本荘市滝沢も鳥海山登山口 の一つで、滝沢院主の滝洞寺と由利町に散在する一三坊は承応元年二 ︵55︶ 六 五二︶には羽黒山末寺であった。 鳥 海山小滝修験と獅子舞 秋田県にかほ市小滝は鳥海山北麓に位置し、平安時代の作と伝えられ る聖観音立像と蔵王権現像を有し、近世期には当山派醍醐寺三宝院末 だ った。そして院主の龍山寺は醍醐三宝院から補任を受け、小滝村内の 四力院と、小滝村外の七力院は寛政期︵一七八九ー一八〇一︶までは三 宝院と近江国飯道寺梅本院から、文政期︵一八一八ー三〇︶頃からは後 ︵56︶ 述する鳥海山蕨岡修験から補任状を得ていた。後述する吹浦大物忌神社 の 社 人 だ った進藤重紀著﹃出羽国風土略記﹄の小滝村﹁蔵王権現﹂の項 には、﹁小滝村に有り、三月一八日の祭礼には田楽があり、衆徒がいて、 その院堂を龍山寺といい、蔵王権現に獅子頭があり、古来より正月中、 ︵57︶ 仁賀保を巡行する﹂とあり、小滝の獅子舞も宝暦年中には仁賀保郷の 村々を巡行していたことが知れる。現存する獅子頭で古いものは延宝八 年︵一六八〇︶淵名刑部作の銘がある。明治・大正・昭和初期に至って も﹁御宝頭巡幸﹂あるいは﹁十二段の舞﹂と称して、新暦一月六日から 二 一日までは仁賀保町、金浦町、旧暦正月二日から一三日までは象潟町 ︵58︶ (以 上は現にかほ市︶のほぼ全域を巡幸していた。この際に小滝番楽が 演じられたのかを示す資料は残っていない。しかし後述するように、番 楽に用いられたと思われる古面が残る。現在小滝番楽が演じられるのは チ ョウクライロ舞が演じられる金峰神社の祭礼の宵宮と、盆の二二日で ある。今は祭礼が村の行事となっているので、小滝集落を四つに分けて 各年番地域で番楽の宿を決め、宵宮には宿で番楽が演じられる。小滝で は一年の半分を番楽の季節、後の半分をチョウクライロの季節と分けて、 地 域 の 人たちが番楽と延年の両方を担っている。舞楽の陵王と納曽利の 面は一六世紀の室町時代末とされ、番楽の翁面、番楽面は万治二年二 六 五九︶の銘を持つ。 近世期にはチョークライロ舞に関わる費用は村からは一切支出されて ︵59︶ おらず、これは修験だけの祭りであり、修験者の年齢の各階梯に伴って 演じてきたものと思われる。すなわち修験の年齢階梯に伴う芸能として の チ ョークライロ舞と、修験の宗教活動の主たるものの一つとしての御 宝 頭 巡幸、そして村人が中心となって演じてきた番楽というように、芸 能の棲み分けがなされていたとも考えられる。小滝集落が文献に登場す るのは、天正一八年︵一五九〇︶の仁賀保兵庫宛の豊臣秀吉の朱印状で、 この時期以降仁賀保氏領、慶長七年︵一六〇二︶以降は最上氏領の宿坊 ︵60︶ 集落としての性格を持ちながら存続してきた。佐藤久冶は﹃米良文書﹄ 中の﹁那智山願文﹂にある﹁嘉吉元年︵一四四一︶の由利の修験宰相公 良春が、比内徳子︵北秋田郡比内の独鈷︶の浅利遠江入道旧阿弥と子息 二位殿隆慶の熊野詣の先達をしている﹂ことを取り上げ、この修験宰相 ︵61︶ 公良春のいた由利も小滝ではないかと想定し、小滝の古い時代からの宗 教臭を嗅ぎとっている。 鳥海山麓吹浦衆徒と獅子舞 山形県側の鳥海山登山口の一つだった遊佐町吹浦字布倉の地は、明治 初年まで大物忌神と月山神の二神をまつる大物忌神社と神宮寺からなっ て いた。延喜式に記載され、古代には国内に戦乱や異変があるとその前 兆として噴火や石鐵が降るなどして神意を表わしたとされ、そのたびに 神階が上がるなど、早くから中央にも知られた存在だった。承久二年二 二 二〇︶には﹁関東御教書﹂の発布を受けてもいた。近世期までは両所 の宮神宮寺を中心とした衆徒二五坊、社家三家、巫女家一家を擁した宗 教集落だった。吹浦は近世初期まで羽黒山と緩やかな関係を持つ羽黒派 修 験といえる存在だった。しかし前述のように羽黒山が天台宗に帰入し、