• 検索結果がありません。

哲学館事件研究の今日的視点について 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "哲学館事件研究の今日的視点について 利用統計を見る"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

哲学館事件研究の今日的視点について

著者名(日)

西村 誠

雑誌名

東洋大学史紀要

6

ページ

1-24

発行年

1988

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002575/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

講 演 1

哲学館事件研究の今日的視点につ

一、 N学館事件との出会い 二、哲学館事件についてのこれまでの叙述 三、哲学館事件研究の視点      一、哲学館事件との出会い  私は昭和三十八年に本学に赴任したのですが、

西

実はここへ来る前に勤めていたある私立学校︵名前をいっても

  一

 1

(3)

いいのですが、いま有名になったトットちゃんの学校ともよく似たいわゆる﹁新教育﹂系の学校︶の創立三十年 史というものの編纂にたずさわったことがあります。  まあ、三十年史ですから大したことはなくて、創立のときからの事情を知っているような現存者もたくさんい たものですから、それを尋ね歩いては聞き書きをしたのですね。  この学校は、成城学園という、これも有名な、あとで話に出てくる澤柳政太郎という人が大正時代に創った学 園から分かれてできたものですが、その発生の契機になったのは、昭和八年にこの成城でおきた﹁成城騒動﹂と いわれる学園紛争です。これは澤柳さんの亡きあと学園の経営をめぐってトラブルが生じ、教職員、父母などが 二派、三派に分かれて対立する中で、行政当局も干与し、小原国芳という主事が追われる事件です。  このような﹁騒動﹂は、二十年や三十年では、まだ関係者の間にしこりがあって、その学校の内部ではなかな かその真相を客観的に究明できないのですね。しかし、それを少し外から見たり、何十年という歴史の経過を経 て、客観的にとらえ直すと次第にその本質が浮かび上がってくる。これを学園史の中でどう取扱うかというのは 面白い部分ですね。それから、この騒動というものは、もちろんそれぞれの学校に固有の内部的事情から発生し ているものですけれども、一面からいえば、この国の、たとえば私立学校の共通のある体質、あるいはそれがお かれている時代環境というようなものとかかわりがあるように思います。その辺のところを大きくとらえてみる ことも、学園史研究では大切なことと思いますが。  少し話がそれてしまいましたが、ここでは、ただ、あとに出てくる澤柳政太郎とのかかわりをいいたかったま

一2一

(4)

でです。ともかく、こうして私は学校史の中で、事件とか、騒動とかいう部分は面白いと思ったんですね。  東洋大学に来ることになりまして、ここもなかなか騒動がいろいろあったところだというようなことを聞いて いたものですから、どんなことがあったのかなと思いながら、当時はまだ八十周年の前で、その前の五十年史な どを見ておりましたら、たまたま﹁哲学館事件﹂というところに目がとまったわけです。  もちろん、哲学館事件は、﹁騒動﹂ではありませんね。騒々しい論争が行われたとしても、それは外部でのこ とであって、哲学館それ自体は一糸乱れず結束して事態への対応にあたった。全く外的にもたらされた﹁事件﹂ です。  とにかく、私はこれまで哲学館事件について、何も知りませんでしたので、当時、こんな政治権力と大学との 典型的な確執があり、その中でこんなに堂々と当局を向こうに廻して論陣を張った人がいたこと、そしてこの問 題をめぐってあれだけの社会的反響があったことなどに注目したわけです。そして、とりわけこの事件が、私が 関係している教員養成の問題にかかわりがあることに着目して、それについて少し調べ、あとで拙い論文にまと めて紀要に出しました。ちょうど八十周年のときでしたので、何か意味があるかと思って。︵西村誠﹁戦前中等 教員養成と私立学校−哲学館事件にふれてl﹂﹃東洋大学紀要﹄文学部篇、第21集・昭和四十三年︶  しかし、それだけのことで、それ以来とくに、このことについて研究を深めたわけではないのですが、まあ、 講義などの中で、学生に時々この話をしたりはしているわけです。  今回、ご依頼でこのような話をすることになったのですが、実は、よく知られている古い知識ばかりで、お役

一3一

(5)

に立つこともないのですが、 ぎたいと思っております。 少しばかりその後目にとまりましたものや、私の考えなどをご紹介して、責をふさ

二、哲学館事件についてのこれまでの叙述

 ご承知のように、哲学館事件については、これまでに、内外でたくさんの叙述や言及、そして研究がなされて います。︵私は不勉強で多くは知りませんが。︶  まず、内部のものとしては、﹃東洋大学創立五十年史﹄とか﹃同八十年史﹄があります。  ﹃五十年史﹄︵昭和十五年発行︶では、その本文四七〇頁ほどのなかで、七頁を哲学館事件にあてており、ほ かに沿革史の中で教員免許に関する特典取消の経緯等についてふれています。ここでは、学校沿革史上に生起し た一大事件として、その経過を簡潔に述べていますが、主として哲学館の対応を中心とし、外部での論争等につ いては詳しい叙述はしていません。  これに対して﹃八十年史﹄︵昭和四十二年発行︶は、本文九二〇頁ほどの中で約三十頁をあて、日清戦争後、 明治三十年代の時代背景や思想状況の中でこの事件を位置づけ、論争の経過や世論の概要を紹介しています。し かし、両者とも、客観的な叙述をめざす大学史として、とくにこの事件の歴史的な意義づけというようなことは していません。

一4一

(6)

 八十年史より少し前、昭和三十七年に、中島徳蔵先生学徳顕彰会から出されました、﹃中島徳蔵先生﹄は、全 体四一〇頁ほどの中で一〇三頁を哲学館事件にあてております。この本の後半は多くの関係者の思い出などで、 実際の本文にあたる中島先生の伝記部分は二六〇頁ほどですから、その比重は非常に大きいものです。これは中 島という人の生涯の中で、哲学館事件がいかに大きな位置を占めたかを物語っていますが、ちょうどこの本が出 た頃、この事件に対する歴史的関心が高まっていたことにも応えて、事件の内容や資料を詳しく紹介した面もあ ったのではないかと思います。その内容のほとんどは、あとに述べる清水清明篇﹃哲学館事件と倫理問題﹄から とられているようですが、しかし、この本は、今日最も詳しく事件の概要を知り、またその主役の中島徳蔵とい う人の行跡や、その後の哲学館、東洋大学とのかかわりで事件をみる上で貴重だと思います。  つぎは、このたび百周年記念論文集編纂委員会から出されました﹃井上円了の教育理念﹄。この本は、小冊子 でありますけれど、ひとり円了のことだけでなく、東洋大学建学一〇〇年の歩みを実に要領よく、わかりやすく まとめておられるのに感心しております。とくに、それぞれの時代背景や、日本の高等教育、とくに私立学校の 全般の発展とかみ合わせて、井上円了と哲学館、東洋大学の歩みを活写しておられるのは見事だと思いました。  そして、この本でも、最後の座談会を除き一八〇頁の六分の一強にあたる三〇頁余が哲学館事件にあてられて いるのは、井上円了・東洋大学にとっても、また日本の大学、私立学校の歴史にとっても、この事件が広く大き な歴史的意義をもつことを重視されてのことだと思います。また、このたびは、新発堀の資料によって、事件の 外交上の問題への発展などにもふれ、また当時の事件への反響についても広く雑誌、新聞などの記事にあたられ

一5一

(7)

事件に対する一般の関心の推移を分析しておられます。これにより、哲学館事件の研究は一段と進んだことが感 じられます。  実は、もし、この本が、私がこの講演をおひき受けする前に出ていたら、私はこれを絶対にお断わりしたでし ょう。乏しい私の知識では、もはやこれ以上いうべきことはないのですから。  このように内部での研究は進んでいますが、外部ではどうでしょうか。私はこれについても多くは知らないの ですけれど、私の目にふれたものをご紹介しておきます。  戦前のものでは、何といっても、事件当時に出ました清水清明篇﹃哲学館事件と倫理問題﹄︵正篇及び続篇、 明治三十六年︶は事件経過を示す資料と当時のこれに関する主要な論説を収録したもので、今日でも事件の全貌 を伝えるほとんど唯一の資料となっているものです。そして、同じ年度に二冊までこのような本が出版されたこ と自体、当時のこの事件に対する一般の関心の高さをうかがわせるものです。しかし、これからもれたもの、ま たこのあとに出たものなど、さらに精査されるべきでしょう。  ほかに、戦前のものとしては、昭和十八年に出された、藤原喜代蔵の﹃明治大正昭和教育思想学説人物史﹄と いうかなりよく知られた本がありますが、これの第二巻、﹁国民的自覚時代の教育問題﹂という章に、﹁哲学館事 件﹂という項があり、事件の経過と反響をかなり詳しく︵A5版一二頁ほど︶述べています。その内容は、やは り、前記﹁哲学館事件と倫理問題﹂によったものと思われます。昭和十八年という時点のものとしては、よくこ れだけ書いたと思いますが、この中で著者は、その章の標題にもみるように、事件の性格を否定的に扱っていて、

一6一

(8)

それは、﹁国家主義と個人主義の衝突﹂という時代の波の中で生じた﹁在来の日本の道徳と西洋流の個人主義倫 理の衝突現象﹂であったなどといっています。また、.自由主義的な政党の弊害が、学園にまで波及した形跡L があるなどとも述べています。まあ、これは戦前とくに昭和期になってからのとらえ方を代表しているといって よいでしょう。  そういえば、戦前のものは多く﹁衝突﹂というような表現を用いており︵たとえば﹃五十年史﹄では﹁旧道徳 と新倫理説との一大衝突﹂︶戦後のものになりますと、つぎの家永さんらのように、たとえば学問の自由に対す る﹁侵害﹂というような表現がなされています。  戦後のものとしては、やはりこの家永三郎氏の﹃大学の自由の歴史﹄︵昭和三十七年︶あたりが代表的なもの と思います。これは短かい言及なのですけれども、﹁明治三十五年に生じた哲学館事件は、文部省が教員養成に 対する監督権を発動することにより惹起されたもの﹂であり、.教育統制を通じて学問の自由を直接に侵害した 典型的な事例﹂として扱っております。この本は、当時の国の大学政策の動きや著者自身が関与している教科書 検定問題、それから今日も論じられている教員養成制度の問題などを背景として書かれたもので、哲学館事件に 対するこのような着目も、そこからなされたものと思います。  昭和四十年に、サンデー毎日に連載された松本清張の﹁小説東京帝国大学﹂はよく知られています。帝国大学 をめぐる学界と政界の癒着と確執をモチーフとしたこの歴史小説はその発端を哲学館事件においています。これ も家永さんとほぼ同じ観点に立つものですがこれは、文学のかたちで表現されたものですから、ここに書かれて

一7一

(9)

あることがすべて史実であるとみるわけにはいきません。しかし、哲学館事件を当時のさまざまな事件と関連づ けて捉え、より大きな社会史、思想史の流れの中に位置づけた点、この作家の鋭い構想力に敬服しないわけには いきません。  この昭和三十年代後半から四十年前後は、当時の大学問題、大学管理法問題などとの関連で、哲学館事件に対 しても改めて歴史的な照明があてられた時期であったといえるでしょう。いま触れたもののほかにも、これに言 及したものとして、伊ヶ崎暁生氏の﹃大学の自治の歴史﹄︵昭和四十年︶、中内敏夫氏の﹁哲学館事件の倫理的構 造﹂︵明治図書、雑誌﹃道徳教育﹄五九ー六一号、昭和四十一年︶などがあります。  その後のものについて、私はあまり見ていないのですが、昭和四十七年に出された本山幸彦編﹃明治教育世論 の研究、下﹄︵福村出版︶に、日清戦争後の第三期︵明治三十二年以降︶とされる時期において、教科書国定化 問題などによって国家イデオロギー︵﹁国体主義﹂︶の教育内容︵とくに道徳教育︶への侵透を背景として惹き起 こされた事件としての哲学館事件をとりあげ、これに対する教育世論の大勢が、教育の自由や学問の独立の問題 よりも専ら文部省の措置の当否に向けられていた、との指摘があります。このように、時代の社会世論とのかか わりで、事件が投げかけたものをとらえ返してみることも意義あることと思います。  ところで、その後の研究で、ひとつ注目すべき事実が浮かび上がっております。これは、国立教育研究所の佐 藤秀夫氏がある本に書かれていることなのですが︵﹁近代日本における政治と教育﹂有斐閣選書﹃教育学を学ぶ﹄ 初版、昭和五十二年︶、次のようなことです。

一8一

(10)

﹁一九〇一年ごろ議会の野党系議員から文部省内におかれた修身教科書調査委員会の起草員中島徳蔵が教育勅語 撤回を画策している旨の非難が出され、文部省を辞した中島は翌年哲学館での彼の倫理学講義に不敬の内容があ るとして、一時いっさいの教職から追われることになった︵哲学館事件︶﹂︵同書二五〇頁︶と。  この中島徳蔵の教育勅語撤回策云々ということはこれまで知られていなかったことでして、私はかねがねこの 佐藤先生の記述は気になっておりました。それでこの度、著者にその資料の所在などをお尋ねしてみました。す ると、それは帝国議会の議事録に出ているとのこと。私もさっそくそれを調べてみたのですが︵安倍磯雄篇﹃帝 国議会教育議事総覧﹄︶、なるほどそれらしいものがありました。明治二十九年二月︵三月?︶十九日衆議員通常 会議に提出された︵安部井盤根という議員名で︶﹁勅語に関する質問﹂というものですね。私も前に調べたとき、 一       9 哲学館事件にふれた質問が別の箇所︵第十八議会︶に出ていることはみていたのですが、この勅語に関すること は見落していました。  その質問の趣旨はこうなんですね。近来、数種の雑誌や新聞︵﹃日本主義﹄とか﹃太陽﹄﹃教育時論﹄などとい う雑誌、それから﹃富士新聞﹄など。このうち﹁教育時論﹂は当時のしっかりした教育誌ですが︶に、文部省内 の修身教科書編輯起草委員に﹁中島某﹂なる者がいて、この者が﹁教育勅語撤回﹂の意見をもち、これを公言し、 その案を高等教育会議に提出しようとした、というようなことが書かれてあるがそれは事実か。もし事実とすれ ば、神聖なる天皇聖諭に対し許すべからざる不敬の挙であって、本人はもちろん、このような不逞の徒を修身教 科書編輯起草員に任じた文部大臣の責任も重大である⋮⋮と。これに対する政府答辮は、﹁事実全く無根﹂とし

(11)

ていますが、佐藤氏によれば、それは無根ではなくて、この頃、権力上層部内で教育勅語の改訂論議があり︵例 えば日清戦争後の新時代に対応して、西園寺文相の勅語改訂意見などよく知られている︶、文部省内でも改訂計 画があって、中島もそれに何らかの役割を果たしたらしい。これについて氏は、別の論文︵佐藤秀夫﹁天皇制公 教育形成史序説﹂﹃季刊現代史﹄八号昭和五十一年︶でふれ、またこれに関する資料を近く公刊されるというこ とでした。そして、当時、文部省としては、これに対する追及をかわすためにも、哲学館事件をひき起さざるを 得なかったのだと推測しておられます。  私も、それについて、ちょっと調べてみたのですが、たしかに中島徳蔵は、哲学館事件が起る、前々年の明治 三十一、一年、当時すでに進められていた︵国定︶修身教科書編纂の準備のための文部省の修身教科書調査委員会 ︵委員長加藤弘之以下十名、この中には井上円了も含まれる︶の下におかれた三名の起草委員の一人に委嘱され ているのですが、三十四年五月にこれを﹁解嘱﹂されているのですね。︵小学校修身書﹃編纂始末﹄  海後宗 臣・吉田熊次﹁教育勅語換発以後における小学校修身教授の変遷﹂国民精神文化研究所﹃国民精神文化研究﹄第 二年第八冊、昭和十年︶そして、その後任に委嘱されたのが吉田熊次です。中島徳蔵伝では単にこれを﹁辞任﹂ としていますが、その解嘱の理由は何であったのか。それと事件との困果関係など当然気になるところですが、 当の中島は、事件当時はもちろん、後々までもこのことには一切言及していません。また、井上円了その他︵井 上哲次郎なども︶もこの調査委員だったわけですが、このことには触れていません。やっと戦後になって吉田熊 次氏がそれについて書かれているという。それほどこの勅語改訂の問題は、当時タブーだったのだと思います。 10

(12)

 ただ、中島が事件後に学生たちに送った﹁哲学館生徒に与うる書﹂の中で、.余は、文部省が其私情の為に敢 て哲学館と余に向って冤罪を被らしめたりと信ずるものに非らずLというような表現があります。これは、決し て文部省だけを責めるのではなく、自分の教授法にも至らないところがあったことをいまなお疑うものであると、 学生に向かって謙虚に述べたくだりですが、何か象徴的な意味を含んでいるように思われます。  また、この事件は、﹁学問の自由﹂とか学説の当否の問題ではなく、.一授業者の不注意﹂に対する単なる﹁行 政処分に過ぎぬ﹂といった井上哲次郎の評言︵、哲学館事件に対する断案L﹃教育時論﹄︶も、事柄の性格の↓面 をいいあてているような気がします。

三、哲学館事件研究の視点

一ll  少し深入りしてしまいましたが、哲学館事件については、このように、これまでに多くの叙述があり先行研究 もなされています。  それによって、事件の背景などについても新しい事実がわかり、事件の歴史的意義についての解釈も次第に深 められてきているように思います。  私はそれらをふまえて、さらに今日の時点で、哲学館事件を研究してゆく視点を、きわめて常識的ではありま すが、主として教育史、教育政策史の観点から二∼三あげてみたいと思います。

(13)

 第一に、わが国における天皇制教学体制成立過程での思想、イデオロギーの統制の問題として。  さきの、佐藤秀夫氏が論じていられるように、そしてご承知のように、わが国では、政治社会体制の一定の近 代化︵帝国憲法体制︶に並行して、皇室を中心とする家族国家観を基軸とした国民の価値観の統制が、教育︵と くに公教育︶を通じて強硬におし進められた。その支柱となったものが、明治二十三年︵一八九〇年︶に換発さ れた﹁教育勅語﹂です。  しかし、この両者の矛盾は、日清・日露の両戦争を経る間に、資本制生産の発展や条約改正のような国際問題 などの新たな状況の変化によって拡大し、国民の間に多様な価値観も現われてきた。それに対して、権力上層部 でも何らかの再調整が問われていたのではないか。しかし、結局は、勅語の価値規範を絶対化し、天皇制教学体 制を拡大し︵教科書国定など︶、国民の価値観を一元的に統制してゆく方向へ向かっていった。その過程の中で のスケープゴートの一つとして、哲学館や中島徳蔵がやり玉にあがったのではないか。  少し、はね上った表現になってしまいましたが、そんな感じがいたします。  もちろん、中島徳蔵という人は、自ら﹁勅語の撤回﹂を主張するような、そんな反体制的な言辞を弄するよう な人だったとは思われない。もし、誤解されるような発言があったとしても、私は思うのですが、小学校用の修 身教科書の起草委員であってみれば、あの難解な勅語の趣旨にもとずいて、児童用の教科書を書くということは、 いかにも困難なことに思われたに違いない。そういう立場から勅語を見たときに、これはもうすこし何とかなら ないかくらいのことはいったのではないか。あるいは、勅語をもう少し児童や教育現場でわかりやすいものに改 12

(14)

訂する意見などを述べたのではないか。これは、私の推測にすぎませんが。︵この部分加筆、西村︶  しかしまた、この中島、それから井上円了、また丁酉倫理学会などのこれに関する思想状況は、もう少し詳細 に検討してみる必要があると思います。  ﹃中島徳蔵先生﹄の中に、かれが、哲学館事件以前の明治三十三年一月、第一回丁酉倫理学会学術演説会でな した﹁天上天下唯我独尊﹂という演説の内容が載せられています。それはたしかに、ずいぶん元気のよい調子の 演説で、その中で、権力者としての国家の権威に盲従せず、独立自由でしかも社会的な﹁我﹂の尊厳を説いてお ります。  もうひとつ、これは事件のあとで︵明治三十九年︶、加藤弘之と共編で出した可明治女大学﹄という中等︵女︶ 学校用の修身教科書︵文部省検定済︶です。︵大正期には﹃大正女大学﹄として改定版︶これは、ざっと見たと ころ、当時の女子用修身書としても、むしろ保守的な感じのするもので、跡見花躍女子がたいへん感銘して、中 島さんを講師に迎えたというのも、さもありなんというくらいのものです。ただ、この書の序文︵これは加藤弘 之が書いていますが︶に、本書は忠君愛国を国民の大理想とする教育勅語の趣旨に違背するものではないが、 ﹁本書を一貫する主義主張は、公共主義にして、一個の利己主義である﹂などと記しております。  ところで、この勅語をめぐる微妙な価値観のズレ中で、われわれの学祖井上円了が、これについて、どのよう な考えをもっていたかということは、↓つの問題として考えられると思います。  すでに円了研究の方で、﹁修身教会﹂運動などをめぐって、このあたりの研究も進められているようですが、 13

(15)

﹃井上円了の教育思想﹄の中にも、円了は勅語を広義に解釈していて﹁忠孝⋮⋮﹂というような徳目のほかに、 博愛、独立、自営、立身、出世、自由などを加え﹁欧米諸邦の道徳を参照し⋮⋮開国の国民として守るべき諸般 の心得﹂として説いていたということです。︵これについて針生清人﹁井上円了の思想口﹂、殉東洋大学史紀要第 五号﹄一九八七年、参照︶このような円了の勅語解釈は当時どのような位置にあったのでしょうか。このあたり も問われてよいような気がいたします。  事件研究の第二の視点として、私はやはり当時の高等教育を中心とした学制改革、とくに私学政策とのかかわ りを重視したいと思います。  これもご承知のように、哲学館事件については、事件当時、これは文部当局の私立学校撲滅策の表われである とする批判が行われました。︵﹁私立学校撲滅の手段﹂萬朝報など︶帝国議会でも、これについての質問等がな されています。︵第十八議会衆院、根本正ほか︶  つまり、政府は、明治中期以降の高等教育政策でも︵直接には明治三十六年の専門学校令︶官学優先の施策を とり、私学の育成を等閑にしているばかりか、私立学校令︵明治三十二年︶その他によって、これに厳しい統制 を加えている。一方、この私学に、教員免許︵無試験検定︶など、いわゆる﹁私学の特権﹂を与えているが、こ れを名として、私学への干渉を強め、私学独自の存立を脅かしている。その顕著な表われが、このたびの哲学館 事件であると。  日本の私学を含む中・高等教育の制度は明治中期以降に次第に整備されてゆくのですが、その時期は、同時に、 14

(16)

私学がたくさん発生した時期です。英語学校、法律学校、宗教学校、などが数多く発生します。早稲田とか法政 とか中央などの法律系の学校は、哲学館の数年前にできています。  それらの中には、民権運動やキリスト教とかかわりのある学校もあり、政府としては、そういうものを抑制し 統制し、しかし︸方では、官立の補充機関レCて活用もしていきたい。そういうことから、法制的な整備を進め ていきます。  注目されるのは、この私学政策の推進にも重要な役割を果たしたと目される文部省の高級官僚が、哲学館に深 く関与していることです。私はその中で、岡田良平と澤柳政太郎に注目したいと思います。この二人は、ともに 東京大学文科大学哲学科出身で、井上円了の後輩にあたります。  岡田は明治二十年卒︵井ヒはト八年︶、澤柳は二十一年、二人はともに文部省に︵澤柳は明治二十一年から、 岡田は一古同教授などを経て明治二十−六年から︶入ります。  澤柳は一時、ある事件のために文部省を離れ三十一年に普通学務局長に帰任、以降九年問この職にあって、さ きの私立学校令等、重要な法制の起案に参画します。岡田は以後一貫して、事務官僚の道を歩み、三十三年には 実業学務局長、三十四年菊地大麓文相の時には事実上文部次官に相当する総務局長官に就任します。哲学館事件 が起った頃、沢柳は外遊中で岡田が普通学務局長を兼ねていました。岡田は、大正五年に文部大臣となり臨時教 育会議などを推進します。澤柳は、明治四十年に文部次官になりますが大臣にはならず、その後は一橋高商、東 北、京都帝大総長などを歴任したあと在野となり、大正六年に成城小学校を開くわけです。 一 15  

(17)

 この二人は、哲学館の創立初期から講師としてこれに関与し、澤柳は普通心理学を、岡田は高等心理学を講じ て、その講義録も残されているようです。大正期には両者ともに東洋大学の顧問となり、とくに岡田は、大正十 二年、いわゆる境野学長退任事件のときには、大学の顧問代表として事件処理の調停にあたり、文部大臣処分に よる境野学長退任のあと、第五代学長に就任しています。  このように、この二人は官学出身の教育行政官でありながら、陰に陽に哲学館ー東洋大学とかかわりをもって いる。  このうち、澤柳政太郎が駆け出しの頃に書いた有名な論文に﹁公私学校比較論﹂というものがあります。これ は、明治二十三年、彼が文部省に入って間もなく、二十六歳のときに書いた、かれのいわば処女論文ですが、こ れは単行本となって﹁哲学書院﹂から出版されています。当時、澤柳は哲学館の講師をしており、この哲学書院 は井上円了が哲学会雑誌や数々の著書を出版するために作った出版社ですね。  この公私学校比較論は、当時政党その他で、国家財政の上からも学校はなるべくこれを私立に委ね、官公立の 学校は極力これを廃止すべきだという論が行われているのに対して、彼は断然反対して、近年、私立学校は数多 く設立され、発達してきているけれども、その現状は、教育組織の上で、なお﹁頗る不完全.不整備の点﹂が多 く、とても公立学校の比ではないとし、官立東京高等女学校を除き、すべての官公立学校はこれを軽々に廃止す べきではないと論じたものです。  この﹁生徒に対する観察﹂︵学習管理のルーズさ︶﹁学科編成の不完全さ﹂﹁教員︵多くは非常勤︶の無責任﹂

一16一

(18)

﹁施設・設備の不十分さ﹂﹁学校管理の不徹底﹂など、いちいち具体的に論じた部分は、今日でも耳の痛い指摘ば かりです。私ははじめ、これは澤柳が、当時講師をしていた哲学館や東京専門学校︵早稲田大学の前身︶での直 接体験をもとにして書いたものかと思ったのですが、そうでもなさそうで、私立学校といっても高等教育の学校 というより、むしろ中等以下の学校の現状を調査して書いたもののようです。  澤柳は、このような私立学校の教育組織の不完全さは、多くその財政基盤の脆99さによるものであると指摘し ながら、それを国家が助成すべきだという論は向かわず、それ故に、国は、官公立学校の経営に力を入れるべき だと論じています。  このような、私立学校に対する厳しい官僚の目が背景にあって、その後の私立学校に対するさまざまな施策が とられていくわけです。  しかし、澤柳自身は、後年述懐して、自分は文部省にいた間に、ずい分私立学校に対して厳しいことをいって 私立学校側からは﹁澤柳は私立学校撲滅を図っている﹂などといわれたものだが、自分は私学を愛し、私学を育 てたいと思ったからこそ、私学に対して厳しい要求をもち、理想を持ったのだといっています。その澤柳が、後 年、官を離れ一私立学校を経営することになったのも、このような考え方が底流にあったからでしょう。  澤柳は後年まで、しばしば哲学館や東洋大学の卒業式、入学式などにも招かれ、その教職員、学生を励まして います︵﹁東洋大学の使命﹂大正十年など︶。  もちろん、哲学館はこの初期の澤柳の指弾に当るような学校ではなかった。創立当初、施設・設備こそ十分で

一17一

(19)

はなかったにしても、当時一流の講師陣を集め、高適な気宇をもって教育経営にあたったことが大学史に書かれ ています。その財政基盤も、館主自ら全国を巡講し、寄附によってこれを賄った。全く官に依存せず、しかも官 学に孫色のない、独特の個性をもった哲学の学館をうち立てたわけです。  しかしながら、この哲学館も、やがては国家の教育政策の中に組込まれざるを得なかった。明治三十年代に入 る頃から、内部的にも学科制度を改訂して、教育学部等をおき、中等教員無試験検定などの基準に適合させるよ うにした。そして、そのことから、哲学館事件の禍も招くことになったわけです。  一般にこの時期、相当強烈な建学の精神をもって建学された私学が、その経営上からもどうしても一定の統制 に服し、その体制に組みこまれることによって、私学としての個性にかなりの変質を余儀なくされています。こ うして、わが国の私学の多くが官公立学校の補充機関︵﹁私立官学﹂的性格  梅根悟氏の用語︶となっていっ た。その過程で、それぞれの私立学校について、その対応のあり方がふり返られる必要があると思います。  果たして哲学館の場合はどうだったのだろうか。館主の井上円了は、そのキャリアからいっても実力からいっ ても、澤柳や岡田といった官僚よりはるかにスケールの大きい人物でしたし、その中で、哲学館事件にひるむこ となく、新たに大学設立の構想を持ち、独立自主の学園をつくる。非常に気宇壮大な構想をもって次の歩を進め たことが、大学史の中には書かれております。  経済学部の佐々木先生が、このことをこそ、今日われわれは、あらためて想起しなければならないと訴えてお られます。

一18一

(20)

 しかし、そういう観点から見ます一面と、逆に、やはり哲学館といえども、一私学として、こういう強固な国 家の政策の中で対応していかざるをえなかったという側面、このへんのところは、大学史の中でもある程度客観 的にみつめることが必要だと思います。  私も研究不足で何ともいえないのですが、井上円了が壮大な決意を持ってスタートした哲学館大学部が出来て から間もなく、円了自身は明治三十九年一月、健康上の理由で哲学館を退陣する。もう哲学館で自分のなすべき ことは済んだ、自分の後半生はもう少し別の分野で、個人として社会啓蒙活動にあたるというようなことで退陣 します。  その井上の退陣の意味も、いま述べてきたような背景のなかで、より客観的にとらえていく必要があるのでは ないかと思います︵このような点についても、このたび出された﹃井上円了の教育思想﹄は適切な洞察をしてお られますけれども︶。  第三には、私立大学における教員養成の問題です。これは少し専門的になりますが、かつて哲学館がその先鞭 をつけた、そして、それが哲学館事件のひき金になった、そのいわゆる中等学校教員無試験検定の﹁特典﹂につ いてです。  これは正確には、無試験検定許可学校制といわれるものです。戦前の中等教員養成と供給は、高等師範学校な どによる養成制度によるほか検定試験による免許制がとられてきたのですが、一部官立学校等をとくに指定して、 これらの学校の卒業生︵たとえば帝国大学など︶には検定試験を免除して無試験で教員免許を与える方式︵これ

一19一

(21)

を指定学校制という︶がとられていました。これを、特に願出て許可をうけた公私立学校にも適用することにし たのが、この許可学校制です。この許可学校となるためには、例えば学科課程を高等師範学校などに準じたもの にするなど、種々の要件の具備が必要だったのですが、さらに初期の頃には、卒業試験について文部大臣の監督 をうけることが規定され、文部大臣は検定委員やその他の吏員を派遣してそれに立会わせ、試験問題や答案を査 閲し、問題や試験の方法が不適当と認められるときは、これを変更させることができる。そして、これらの条項 に違反した場合には、その学校に対する無試験検定の許可を﹁将来に向って﹂取消すことができるとなっていま した。  これは非常に苛酷なもので、学校によってはそのような条件には従いかねるとして、許可学校の認可を辞退す るところもあったくらいです。  このような中で、哲学館事件が発生したわけですが、それは、文部省がこの制度を利用して中島や哲学館に圧 力をかけたともとれるけれども、もともとこのような制度自体にも問題があったわけです。  この許可学校制度は、その後、それを認可される学校が多くなるにつれて、卒業試験等に対する直接の監督は 行われなくなり、逆にそのルーズさが指摘されて、しばしばこの制度の改廃が論議されます。そしてこれに反対 したのは私立学校の側で、この制度の廃止は、私学の死活にかかわるとして陰にこれが維持されてゆくわけです。  東洋大学も、やがてこの認可を復活し、戦前において修身、国語、漢文など相当数の教職者を送り出し、これ が大学のひとつの伝統となっておりました。

一20一

(22)

 私は、この戦前の無試験検定許可学校制は、事実上戦後の開放制教員養成制度へ移行する道を開いたものとみ ております。ただ戦後の場合は検定制度は原則としてなくなり︵その後一部復活︶、一般の大学︵私立も含む︶ に解放されそれぞれの大学の自・王性にもとずく教員養成制度となったものです。いまこれが、あれこれと論議さ れ、免許法の改正も進められておりますが、そのような中で、戦前の教員養成がふり返られるよすがとしても、 哲学館事件はさらに研究され銘記されるべきことと思われます。︵この項について前掲、西村誠﹁戦前中等教員 養成と私立学校﹂参照︶  以下、時間がなくなりました。さらに研究されるべきことは、この事件の前後をめぐる人脈的・学説史的︵P︶ 研究ともいうべきものです。  井上円了−中島徳蔵といった人物の周辺にどのような人脈や思想的、学問的な影響関係があったのか。哲学館 の多彩な講師陣やその出自、東京大学文科大学の出身者が圧倒的に多いようですが、それと学館の性格との関係。 また、これをめぐる人脈、官界・政界などとの関係も含めて。さきに、文部官僚としての岡田や澤柳の存在にふ れましたが、当時思想界・哲学界の大御所井上哲次郎の存在も気になります。これらは、哲学館事件に限らず、 その後の東洋大学の学風形成とのかかわりで究明される必要があると思います。  私に関係のある教育学の分野でいえば、あの中島徳蔵のあとをうけて修身教科書起草委員となった吉田熊次 ︵当時東大助教授で後に井上哲次郎とも姻威関係となる︶氏をはじめ、その後東大教育学科の鍾々たるスタッフ 21

(23)

が講師等として名を連ねています。  以上、何か、直接哲学館事件に関係しないことまで思いつくままにお話ししてしまいました。時間がなくなり ましたが、最後に、この哲学館事件も含めて東洋大学百年の歴史の中のあれこれの出来事が、現在の東洋大学、 その教職員、学生にとってどのような意味をもつかということが問われなければならないと思います。  さきほど出されました﹃井上円了の教育思想﹄の序文にも、亡くなりました飯島宗享先生が﹁歴史はそのつど 現在が作る﹂と書かれていますように、﹁過去の知られた事実への現在の意味付与﹂が必要だと思います。そし てまさにその意味でこそ、﹁哲学館事件﹂も語られるべきだと思います。  気になりますことは、今の学生たちが、歴史にあまり興味を示さないということです。いまさっきやりました 授業の中でも︵私は授業の中でも時々東洋大学の歴史とか哲学館事件とかにも触れる方なのですけれど︶、全学 生に配布されてひと月以上たっているこの﹃井上円了の教育理念﹄を読んでみた人と聞いてみたのですが、二 ∼三十人の中で通読した者は一人もいませんでした。ところどころ読んだという者がやっと二∼三人。あとは全 く読んでいないという。どうして読まないんだと聞いてみると、﹁まあ、だいぶ古い話のようだから﹂という返 事が返って来ました。たしかに百年といえば、彼らにとって気の遠くなるような古い時代のことで、われわれ自 身にとってさえそうなのですから無理もないと思うのですが、この彼らにもアピールするのにはどうしたらよい のか。  わたしはやはり今日の状況と結びつけて、自由な価値感をもち、私学に学び、教員にもなろうとしている学生

一22一

(24)

たちの中で、現代の教育や社会をめぐる諸情勢の中で、哲学館事件を考えてゆくような方向で、 りつづけてゆくしかないと思っております。  どうも、まとまらない話ですが、こんなところで失礼します。 これについて語 ︵文学部教授︶ ︵注記︶この講演は﹁東洋大学史研究会第三回例会﹂︵昭和六二年十二月十日︶に於て行なわれたものである。 付記Hl以上、当日講演のテープをもとに、若干加筆再構成したものである。不用意な話で、事実関係や  論理に飛躍した部分のあること、また、当日配布した資料の説明を中心にしたため、資料なしではニュア  ンスの伝わらない部分もあるがお許しいただきたい。 付記ロー本稿の校正刷りに目を通している頃︵昭和六十三年二月︶、筆者がふと目をとめた奈良教育大学  教授上沼八郎著﹃実録はっさい先生﹄︵協同出版、昭和六十三年一月刊︶に、哲学館事件に関連した記述  があるのを見出した。  ﹁はっさい︵発才︶先生﹂は、現在、NHK朝のテレビ番組で放映中の連続ドラマであるが、本書はそこ  に登場する﹁はっさい先生﹂︵これは実在の三人の女教師の混成︶と、その協役であるこの女教師の勤務  校の校長︵﹁伴平九郎﹂︶のモデルと目される人物に関する教育史的﹁実録﹂を考証したものである。そし       ただす  て、その主内容は、むしろ伴校長のモデルである旧制大阪府立高津中学校長三沢糾の伝記になっている。

一23一

(25)

本書によると、この三沢糾という人物は、明治三十七年東京帝大哲学科を杢業後、アメリカ留学を経て、 主として関西の中等学校長︵一時は旧制台北高校長も︶を歴任し、前記高津中学校では、一気に三名もの 当時︵大正末年︶異例の女教論を採用するなど、リベラルな教育方針をもち.東の伊藤︵長七ー東京府立 五中校長︶西の三沢﹂と称されたユニークな教育者であった由。 この三沢糾が、東大哲学科在学中に哲学館事件に関与するのである。つまり、旧制︵熊本︶矛五高等学校 出身の三沢は、熊本バンドの海老名弾正に私淑するクリスチャンで、その海老名の主宰する本郷教会の活 動を通して親交のあった、同じ東大哲学科学生の小山東助らとともに、﹁哲学館事件二関シテ学会ノ識者  ただ 二言ス﹂という公開質問状を、二度にわたって当時の言論界、学会に投じ波紋を起すのである。 さらに、三沢らは、文部省に当時普通学務局長であった沢柳政太郎を訪ねて、文部当局の措置に抗議する などのことをしたらしい。しかし、この際の先輩沢柳の﹁理解ある﹂態度に心服し、その後、沢柳とも精 神的なつながりをもったという。そして、後年、三沢はその沢柳を創立者とする成城学園に︵沢柳の没 後︶迎えられて、例の成城事件に巻きこまれる。三沢はそこで反小原派に擁立されて校長となり、不本意 に小原派と対決するような恰好になって、結局は紛争のこじれの中で憤死︵辞任︶するのである。 これは、他事ではあるが、本稿の筋書きからすれば見逃せない﹁実録﹂であるので、参考までに付記する ことにした。

24一

参照

関連したドキュメント

グローバル化がさらに加速する昨今、英語教育は大きな転換期を迎えています。2020 年度 より、小学校 3

8月9日, 10日にオープンキャンパスを開催 し, 本学類の企画に千名近い高校生が参 加しました。在学生が大学生活や学類で

当日は,同学校代表の中村浩二教 授(自然科学研究科)及び大久保英哲

にしたいか考える機会が設けられているものである。 「②とさっ子タウン」 (小学校 4 年 生~中学校 3 年生) 、 「④なごや★こども City」 (小学校 5 年生~高校 3 年生)

プログラムに参加したどの生徒も週末になると大

学校に行けない子どもたちの学習をどう保障す

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

15 校地面積、校舎面積の「専用」の欄には、当該大学が専用で使用する面積を記入してください。「共用」の欄には、当該大学が