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唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 ─大宰府およびその管内の動向をめぐって─ 利用統計を見る

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全文

(1)

唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 ─大宰府およ

びその管内の動向をめぐって─

著者

森 公章

著者別名

MORI KIMIYUKI

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 史学科篇

45

ページ

1-51

発行年

2020-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00012125/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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一 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 はじめに   私は先に実質的には最後の遣唐使派遣となった承和度遣唐使以降の入唐僧、十世紀以降の入宋巡礼僧のあり方を検討 し、藤原良房以下の代々の摂関家の人々が後援者となって関与していたことを整理し、また外交権の所在という観点か ら外交政策の様相や古代日本の対外関係の行方などを考究してき た (( ( 。こうした通時的考察の中で、摂関家や高級貴族層 内部での外交権やそれに随伴する唐物などの入手をめぐる方策にはさらに探究すべき課題が存することが感じられると ころである。   十 一 世 紀 後 半 ま で は 小 野 宮 流 の 勢 威 も 有 力 で あ り( 図 1) 、 摂 関 家 と し て 確 立 す る 九 条 流、 就 中 御 堂 流 へ の 対 抗 心、 切磋琢磨が続いており、来日外国商人との交流や唐物等の入手でも様々な局面に登場することにな る (( ( 。小野宮流はそも そ も 忠 平 の 長 男 実 頼 を 祖 と し て お り、 『 本 朝 文 粋 』 巻 七 天 暦 元 年( 九 四 七 ) 閏 七 月 二 十 七 日「 為 二 慎 公 一 越 王 一 〈 加 二 金 送 文 一 〉」 に よ る と、 実 頼 は「 既 恐 二 於 境 外 一 何 留 二 於 掌 中 一 」、 即 ち「 人 臣 無 二 外 之 交 一 」 の 原 則 に 留 意

唐物・南島産品と小野宮流・御堂流

─大宰府およびその管内の動向をめぐって─

   

 

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二 しながらも、呉越商人蒋袞(蒋承勲)が 齎した物品を受納し、左大臣として外交 に携わっている。これは職員令太政官条 の左大臣の職掌の箇所に記された集解古 記の「朝聘」の注釈とも関わり、日本で は律令制成立以前、また律令体制下にも 執政者が外交に関与する「大臣外交」の あり方を引き継ぐ行為と目され る (( ( 。   但 し、 同 巻 七 天 暦 七 年 七 月「 為 二 右 丞 相 一 二 太 唐 呉 越 公 一 状 」 に よ れ ば、 兄 実頼が上位にいるにもかかわらず、九条 流の祖となる弟師輔は、やはり「抑人臣 之 道、 交 不 レ 出 レ 境 」 と 述 べ な が ら も、 右大臣として呉越商人蒋承勲から献上品 を受領しており、またこの時には入呉越 僧日延を派遣するのに尽力したようであ る。したがってここでは左・右大臣の外 交 権 行 使 の 拮 抗 が 窺 わ れ る と こ ろ で あ …忠平 実頼 敦敏 佐理* (備考) 《 》は養子、人名の右肩の*は大宰府官長就任者を示す。()左降。 師輔 兼家 道隆 伊周(* 師尹 済時 通任 師成* 隆家* 教通 頼宗 能信 能長 茂子…白河天皇生母 頼忠 公任 定頼 経家 公定 公通 斉敏 懐平 経通 経季 季仲* 懐季 《実資》 《資平》 資房 資宗 実季 実成 公成 実季〔閑院流〕 《資頼》 公房 通輔 公章 《資高》 資仲* 顕実 資信 《経任》 《資房》 《経季》 道長 頼通 師実 師通 忠実 高遠 《資高》 経仲…源経房*の子になる 実資 資平 経平* 通俊 《定通》 資頼 経子…覚行法親王生母 資高 睦子 経任 顕家* 基実 図 1  小野宮流・御堂流の略系図

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三 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 り、さらには国政上の権能においても同様の状況が推定される。では、九条流が摂関家として確立していく中では、こ の相克は如何であろうか。   以下、小稿では小野宮流の対外関係への関与のあり方、特に外交の窓口となる大宰府とその管内での勢力扶植や来日 宋商人との交流、また外交機構の掌握などを整理しながら、外務への関わりの中で小野宮流がどのように消長していく のかを検討したい。その際に唐物や南島産品な ど (( ( 、当該期に競望された物品獲得のルートやそのための人的関係にも留 意して、小野宮流、また御堂流の活動を考えることにする。 一   小野宮家と高田牧   小野宮流の祖実頼は外戚としての地歩を築くことができなかったが、女を入内させ、皇位を継承する皇子が誕生した 弟の帥輔が早くに死去したため、長らく筆頭公卿の地位にあり、冷泉朝には関白太政大臣となった。但し、実頼は『大 鏡』巻六・昔物語に「小野宮殿《実頼》も一の人と申せど、よそ人にならせたまひて、若く花やかなる御をぢたち《伊 尹・ 兼 家 》 に ま か せ 奉 ら せ た ま ひ 」 と 評 さ れ て お り、 『 源 語 秘 訣 』 所 引『 清 慎 記 』 逸 文 康 保 四( 九 六 七 ) 七 月 二 十 二 日 条には 「外戚不善之輩、 競成 二昇進之望 一 」、「明日除目、 一昨右大将 《藤原師尹》 与 二藤納言《伊尹》 議定畢之由伝承云々。 揚 名 関 白 早 可 レ 止 一 者 也 」 と い う 憤 懣 が 述 べ ら れ て い る。 そ の 後、 師 輔 の 子 兼 通・ 兼 家 の 兄 弟 争 い が あ り、 実 頼 の子頼忠が円融・花山朝に関白を務めた。頼忠も『大鏡』に「よそ人」と評されているが、兼家の外孫一条天皇即位時 まで十年間も政務を主導し、この間甥の佐理は参議になり、また甥で実頼の養子になっていた実資は円融朝に蔵人頭に なるなどしており、次代の小野宮流の展開の基盤を築くことができてい る (( ( 。

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四   実頼、頼忠は故実に通じてお り、実頼については上掲の『清 慎公記』が逸文として残ってい るが、まとまった形ではな い (( ( 。 当該期はまた、中国では五代十 国の混乱期で、宋との通交も本 格化しておらず、対外関係では 「はじめに」 で触れた蒋承勲 (蒋 袞)の来航への対応があるくら いで、高麗との間にも目立った 通交はなかっ た (( ( 。したがって史 料の残存、外務への関与という 点 で、 小 野 宮 家 に 関 す る 考 察 は、藤原道長執政期に並立し、 『 小 右 記 』 を 記 し た 藤 原 実 資 の 時代から始めることになる。   『 小 右 記 』 を 繙 く と、 実 資 が 右 大 臣 に 昇 任 す る 治 安 元 年 表 1  高田牧・大宰府管内からの藤原実資への貢上 01長和 2 年 7 月25日:藤原蔵規*…大宰使府生若倭部亮範に付して唐物を進上 02長和 2 年 7 月26日:藤原明範…勝岡に付して唐物を進上 03長和 2 年 7 月29日:高田牧より絹30疋を進上 04長和 2 年 8 月 7 日:高田牧司宗像妙忠*…豹皮・贄・八木等を進上 05治安 3 年 7 月16日:高田牧より年貢を進上/牧司宗像妙忠*…別に唐物等を進上 06治安 3 年10月21日:高田枚より臨時に雑物を進上/牧司宗像妙忠*…年穀上分を進上 07万寿 2 年 2 月14日:宗像妙忠*…雑物を進上/香椎宮司武行…唐綾を進上/大隅掾為 頼…檳榔200把を進上 08万寿 2 年 7 月24日:「住大隅」延嘉朝臣が絹10疋、為頼が絹15疋・牛鞦色皮10枚を 相撲人秦吉高に付して進上 09万寿 2 年 8 月 7 日:高田牧より年貢を進上/牧司宗像妙忠*…別進物あり 10万寿 2 年10月26日:藤原俊忠…大弐藤原惟憲の使として絹・檳榔を進上 11万寿 3 年 8 月 7 日:《相撲人県為永・秦吉高に高田牧駒下文を給付》 12万寿 4 年 4 月28日:高田牧雑物解文を進上 13万寿 4 年 7 月22日:為頼…相撲人秦吉高に付して絹・色革・営貝を進上/肥前守惟 宗貴重…相撲人県為永に付して斑猪皮・色革を進上 14万寿 4 年 8 月 7 日:《相撲人秦吉高に付して馬 1 疋を「住大隅」為頼に給付》 15万寿 4 年12月 8 日:肥前守惟宗貴重…唐物・檳榔・温石鍋を進上 16長元 1 年 8 月26日:高田牧より米・贄等を進上 17長元 1 年 9 月 7 日:《前帥藤原隆家の消息により、夜久貝30余を遣す》 18長元 2 年 3 月 2 日:薩摩守巨勢文任…使脚に付して絹・唐物等を進上/香椎宮司武 …薬物・檳榔子を進上/高田牧司宗像妙忠*…雑物、また唐物 を進上し、宋人周文裔の書状を送付 19長元 2 年 8 月 2 日:「住大隅国」藤原良孝…色革・赤木・檳榔・夜久貝を進上 20長元 2 年 8 月 3 日:薩摩守巨勢文任…紫草を進上 21長元 4 年 1 月13日:大宰大監平季基…雑物を進上 22長元 5 年11月19日:高田牧より桑直絹50疋解文を進上 23長元 5 年11月20日:高田牧より桑直絹50疋を進上 24長元 5 年12月 7 日:高田牧の新任司武行*…絹110疋を進上 (備考)出典は『小右記』同日条、人名の右肩の*は高田牧司を示す。

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五 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 ( 一 〇 二 一 ) 以 前 に は 筑 前 国 の 高 田 牧 か ら、 大 臣 就 任 後 で は 西 海 道 の 諸 国 司 等 か ら も 唐 物 や 南 島 産 品 が 届 け ら れ る 様 子 が 看 取 さ れ る( 表 1) 。 か つ て は こ れ を 庄 園 を 拠 点 と す る 密 貿 易 と 位 置 づ け る 説 が 有 力 で あ り (( ( 、 現 在 で も こ う し た 視 角 を支持する見解も呈されている が (( ( 、近年では牧司に起用された大宰府の府官や筑前国宗像郡の譜第郡領氏族である宗像 氏出身の牧司の人々が、牧の貢進物進上とともに志送したものと解するのが至当であって、十二世紀までは大宰府によ る管理貿易体制は健在であったから、庄園内密貿易説は成立しないと見るのが有力説になってい る (10 ( 。私もこの近年の有 力説を支持したいと考えるが、そうすると、小野宮家における高田牧の意味合いは如何なるものであろうか、またその 経営の特色などはどうであったのか。 a─1『三代実録』仁和元年(八八五)十月二十日条 先 レ是、大唐商賈人着大宰府。是日下知府司、禁王臣家使及管内吏民私以貴直買他物 a─2『三代格』巻十九延喜三年(九〇三)八月一日官符 応 レ 諸 使 越 レ 関 私 買 二 物 一 事。 右、 左 大 臣 宣、 頃 年 如 レ聞、 唐 人 商 船 来 着 之 時、 諸 院 諸 宮 諸 王 臣 家 等、 官 使 未 レ 之 前 遣 レ使 争 買、 又 内 富 豪 之 輩 心 愛 二 物 一 踊 レ 貿 易。 因 レ 貨 物 價 直 定 准 不 レ 平、 是 則 関 司 不 レ 過 一 府 吏 簡 二 略 検 察 一 所 レ 也。 律 曰、 官 司 未 二 易 一 前 私 共 二 人 一 易 者 准 盗 論、 罪 止 徒 三 年。 令 云、 官 司 未 二 易 一 前 不 レ 下 私 共 二 諸 蕃 一 易 上 為 レ 人 糺 獲 者、 二 二 其 物 一 、一 分 賞 二 人 一 、一 分 没 官。 若 官 司 於 二 所 部 一 獲 者、 皆 没 官 者。 府 司 須 下 法 条 一 慎 中 検 校 上 而 寛 縦 不 レ行、 令 二 狎 侮 一 宜 下 下 知、 公 家 未 二 易 一 間 厳 加 二 遏 一 勿 中 乖 違 上 若猶犯 レ制者、没物科罪、曾不寛宥   高田牧の所在は不明であるが、牧司宗像妙忠を始めとする宗像氏一族が深く関与していたと目される。宗像氏は宗像 三女神を奉斎する宗像社の大宮司を務めており、府官にも人材を輩出し、平安末〜鎌倉初には宋商人である博多綱首と

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六 婚姻関係を結び、その所生子が大宮司になる事例があり( 『訂正宗像大宮司系譜』の氏忠、氏仲) 、日宋貿易にも様々な 形で参画していたものと考えられ る (11 ( 。a─2の「 内富豪之輩」とはこうした人々を指すのであろう。そもそも宗像氏 は七世紀後半に胸形君徳善が女尼子娘を大海人皇子(天武天皇)に納れ、その所生子高市皇子は皇位継承はできなかっ たが、最年長の男子として壬申の乱で活躍、持統朝には「後皇子尊」と称され太政大臣として政務を補佐するなど、皇 族の重鎮であった。高市皇子─長屋王─安宿王と続く北宮王家は奈良時代を通じて有力な王族であり、長屋王家木簡に は宗像郡大領からの荷札が存するなど、宗像氏も北宮王家との関係を維持していたようである。しかし、安宿王が橘奈 良麻呂の変で佐渡に配流され、その後赦免されて高階真人として臣籍降下した段階では、平安初期の地方豪族政策の変 化 に 対 応 す る た め に も、 宗 像 氏 は 藤 原 北 家 台 頭 の 基 礎 を 築 く 藤 原 冬 嗣 に 接 近 し て い く こ と に な る( 『 土 右 記 』 延 久 元 年 〔一〇六九〕五月十八日 条 (12 ( )。   宗像神は冬嗣に 「我必護 二汝一家 と告げたといい、 冬嗣の東一条第に勧請された。この 「坐太政大臣東一条第」 、「故 太 政 大 臣 一 条 隅 神 」 に は 筑 前 国 の 本 社 と は 別 途 神 階 が 授 与 さ れ た こ と が 国 史 に 散 見 す る と こ ろ で あ る。 『 大 鏡 』 巻 二 太 政 大 臣 忠 平 条 に は、 「 つ ね に こ の 三 人 の 大 臣 達《 実 頼・ 師 輔・ 師 尹 》 の ま い ら せ 給 れ う に、 小 一 条 の 南、 勘 解 由 の 小 路 には石だゝみをぞせられたりしが、まだ侍ぞかし。宗像の明神おはしませば、洞院小代の辻子よりおりさせ給しに、あ めなどのふるひのれうとぞうけたまはりし。 (中略)この貞信公には宗像の明神うつゝにものなど申給けり。 『われより は御くらゐたかくゐさせたまへるなむ、くるしき』と申給ければ、いと不便なる御ことゝて、神の御くらゐ申あげさせ たまへる也」とあり、特に忠平の宗像神への信奉は篤かったと伝えられている。ここにはまた、実頼らの信奉も描かれ ており、この宗像神への信仰と、筑前国の本社を奉祀する宗像氏とのつながりがどのようなものであったかは不詳であ るが、政治的・経済的な関係も取り結ばれていたのではないかと推測される。

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七 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流   『 大 鏡 』 に は「 か の 殿《 実 資 》 は、 い み じ き こ も り 徳 人 に ぞ お は し ま す。 故 小 野 の 宮《 実 頼 》 の そ こ ば く の 宝 物、 庄 園は、皆この殿にこそあらめ」と記されているが、高田牧はどのようにして実資に相続されたのであろうか。その経緯 に触れつつ、高田牧の性格や位置づけを考えてみたい。 b─1『小右記』永祚元年(九八九)八月一日条 今日太相国 《頼忠》 五七日、 有 二種々御諷誦云々。僧□装束、 俗直衣御装束、 野釼、 御牛。蔵人所及所々誦□ 〔経〕 云々。 有 二行香云々。摂政殿《兼家》被牛云々。此牛従鎮西高田牧交易進牛也。薨給明日牽進也。 (下略) b─2『小右記』永祚元年九月十日 参 二故三条殿《頼忠》 、勘解由長官《佐理》 ・ 頭中将《公任》会合。均 二分故小野宮殿《実頼》御領庄園 ・ 牧等 一、以《布 瑠 》 以 孝 宿 祢 一 レ 書 也。 故 殿《 実 頼 》 家 司 多 以 死 去、 季 明 朝 臣・ 美 明 朝 臣 僅 遺、 而 或 病、 或 城 外、 仍 不 レ 座 一 深 更分散。 b─3『小右記』永祚元年十月十六日条 (上略)晩頭参 二故太殿《頼忠》 。勘解由長官・頭中将等会合。分 二行故殿御領処訖。深更各々分散。 b─4『小右記』永祚元年十一月二日条 参内、小選退出。右大臣《藤原為光》 ・内大臣《藤原道隆》 ・源中納言《保光または伊陟》 ・左兵衛督《源時中》 ・大蔵卿 《藤原時光》 ・ 修理権大夫 《藤原安親》 ・ 右大弁 《藤原在国》 参入。故太殿 《頼忠》 御庄園 ・ 牧等被 レ奉故督殿《斉敏》 。 其 庄 等 今 日 右 兵 衛 督《 高 遠 》 被 二 分 給 一也。 余 可 レ廿 処 許 一 然 而 有 レ 不 レ 処 一 由 合〔 令 ヵ〕 レ 了 隨 又 不 レ関。今日議只被筑前高田牧一処 一 。(下略)   b─1は高田牧の初出史料であるが、この年六月二十六日に藤原頼忠が薨去しており、b─1はその五七日の様子を

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八 伝えたもので、これによると、高田牧が交易進上した牛は頼忠の下に齎されていたこと、即ち頼忠が高田牧を管理して い た こ と が 看 取 さ れ る。 そ し て、 b ─ 2 ・ 3 で は 頼 忠 の 死 去 を 契 機 に、 実 頼 の 庄 園・ 牧 等 の 分 配 が 議 題 に な り、 実 頼 の 子供は三人とも死去していたので、孫世代のそれぞれの代表者である佐理・公任・実資の三人(図1)が会集して、均 分相続という形で処置されたことがわかる。b─4の「故太殿」は実頼に比定する説と頼忠とする説がある が (13 ( 、b─3 の 「故太殿」 は頼忠でまちがいなく (b─2の 「故三条殿」 も同じ) 、b─2 ・ 3では実頼のことは 「故殿」 と表記され、 『 小 右 記 』 で も 実 頼 の 日 記( 清 慎 公 記 ) を「 故 殿 御 日 記 」 と 称 し て い る の で、 b ─ 4 の「 故 太 殿 」 は 頼 忠 を 指 す と 解 し たい。何よりも実頼の遺領分配のことはb─3で終了していたので、ここに実頼の庄園・牧のことが出てくるのは不審 とせねばならない。   したがってb─4は頼忠の庄園・牧等の相続が議題であり、そこには頼忠から故斉敏に配分されるべきものが存した ようである。実資は祖父実頼の養子になっており、小野宮を継承していたので、故斉敏分はこの家系の長子である高遠 に給付されている。頼忠の遺領分配に際しては、公卿らが参集しており、時に参議であった佐理・実資は関係者であっ たためか、この議定には参席していない(右大弁藤原在(有)国は公卿ではなかった〔翌年に参議になる〕が、書記役 の 大 弁 と し て 参 加 か )。 当 該 期 に は 庄 園 公 領 制 は ま だ 成 立 し て お ら ず、 律 令 税 制 に 大 き な 改 変 を 加 え な が ら も、 受 領 に よる中央進上物によって国家財政は維持されており、貴族・寺社も封戸収入を基盤としてい た (14 ( 。庄園整理令も所謂延喜 の 庄 園 整 理 令( 『 三 代 格 』 巻 十 九 延 喜 二 年 三 月 十 三 日 官 符「 応 レ 勅 旨 開 田 并 諸 院 諸 宮 及 五 位 以 上 買 二 百 姓 田 地 舎 宅 一 占 中 閑 地 荒 田 上 事 」、 巻 十 延 喜 二 年 三 月 十 二 日 官 符「 応 レ 臨 時 御 厨 諸 院 諸 宮 王 臣 家 厨 一 事 」) が 発 令 さ れ て い た だけであり、 そこには「但元来相伝為 二庄家券契分明、 無 レ国務 一 者不 レ此限」という留保条件が示されていた。   そこで、 b─4の審議に関しては、 特に高田牧について、 「高田牧は完全に小野宮の私的資産であったわけではなく、

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九 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 官牧に対する権門得分取得であり、その相伝が、陣定にて承認された」とする理解が呈されてい る (15 ( 。当該期の相続でこ うした議定が行われる例は他に知られず、長らく国政の中枢を担った小野宮流ならではのことと思われるが、この時点 での庄園のあり方を考慮すると、こうした審議が必要とされる場面をさらに探究することが求められよう。頼忠の死去 によって実頼の遺領配分が実施されたことともども、この点は後考に俟つとして、b─4によると、斉敏への分配の殆 どは高遠の有に帰しており、実資も二十箇所くらいの分配のうちいくつかは高遠に回し、この日の議定対象の中では高 田牧だけを入手したと記されている。高田牧は実頼→頼忠→実資と伝領されたことになり、実資としては是非とも入手 したい所領であったものと目される。   では、実資にとって高田牧を保有する意味、また筑前国に所領を持つ意義はどこにあったのであろうか。上述のよう に、高田牧司となった宗像氏一族や府官有力者とのつながりにより唐物を入手することができる利点は勿論のこととし て、それ以外では如何であろうか。表2によると、藤原道長執政期直前には小野宮流の佐理が大弐であったが、宇佐神 人との紛擾により、停任を余儀なくされている。これは府官長がこうした事由で罷免になる初例であり、以降、表2に 「 停 任 」 と 記 し た 人 々 は い ず れ も 宇 佐 八 幡 宮・ 弥 勒 寺 な ど の 管 内 有 力 寺 社 あ る い は 管 内 国 司 と の 闘 乱 に よ り 退 任 に 追 い 込 ま れ た 事 例 で( 後 代 に は 日 吉 神 人 な ど と の 対 立 例 も 出 現 )、 そ う し た 事 態 が 頻 出 す る こ と に な る (16 ( 。 表 2 を 見 る と、 道 長執政期には道長の家司クラスの人々や道長の妻倫子・明子と関係の深い宇多源氏・醍醐源氏の者が府官長に就任して いることが多い。 c─1『小右記』寛弘二年(一〇〇五)四月七日条 (上略) 前筑前守 《藤原》 高規朝臣申 二上大弐 《藤原高遠》 許 一之書状云、 帥 《平惟仲》 去月十五日申時薨 〈貫首座 〔秦ヵ〕 定 重 宅 者 〉。 宇 佐 宮 降 レ 歟。 最 可 レ畏。 僉 議 間 頗 有 二 斑 脱 ヵ〕 駁 一 定 後 日 可 レ験。 高 田 牧 雑 人 悉 追 二 壹 岐 嶋 一 是 帥

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一〇 表 2  藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧 正暦 2 ・ 1 ・27任:大弐藤原佐理*〜長徳 1 ・10・18停任 長徳 1 ・10・28任:大弐藤原有国#〜長保 2 (長徳 2 ・ 4 ・24任:権帥藤原伊周*〜長徳 3 ・ 4 ・ 8 ) 長保 3 ・ 1 ・24任:権帥平惟仲#〜寛弘 1 ・12・28停任 寛弘 1 ・12・28任:大弐藤原高遠*〜寛弘 6 ・ 8 ・14停任 寛弘 7 ・ 2 ・16任:大弐平親信#〜長和 3 ・11辞任 長和 3 ・11・ 7 任:権帥藤原隆家*〜寛仁 3 ・12辞任 寛仁 3 ・12・21任:権帥藤原行成#〜寛仁 4 ・11辞任 寛仁 4 ・11・29任:権帥源経房#〜治安 3 ・11・ 2 薨 治安 3 ・12・15任:藤原惟憲#〜長元 2 ・ 5 ・ 4 応召 長元 2 ・ 1 ・24任:権帥源道方#〜長元 6 ・12辞任 長元 6 ・12・30任:権帥藤原実成〜長暦 1 ・10停任(→ 2 ・ 1 :除名) 長暦 1 ・ 8 ・ 9 任:権帥藤原隆家*〜長久 2 長久 3 ・ 1 ・29任:権帥藤原重尹〜永承 1 ・ 2 ・26停任 永承 1 ・ 2 ・26任:権帥藤原経通*〜永承 5 ・ 5 辞任 永承 5 ・ 9 ・17任:大弐源資通〜天喜 2 ・11・28辞任 天喜 2 ・12・ 6 任:大弐高階成章#〜康平 1 ・ 2 ・16薨 康平 1 ・ 4 ・25任:権帥藤原経輔〜康平 6 ・ 2 ・27停任 康平 6 ・ 2 ・27任:大弐藤原師成〜治暦 3 ・ 2 ・12辞任 治暦 3 ・ 7 ・ 1 任:大弐藤原顕家*#〜延久 3 ・ 3 辞任 延久 3 ・ 4 ・ 9 任:大弐藤原良基〜承保 2 ・④・19薨 承保 2 ・ 6 ・13見:大弐藤原経平*&〜承暦 3 カ 承暦 4 ・ 1 ・28任:権帥藤原資仲*&〜応徳 1 ・ 4 辞任 応徳 1 ・ 6 ・23任:大弐藤原実政〜寛治 2 ・?辞(→11・28:伊豆配流) 寛治 2 ・ 8 ・29任:権帥藤原伊房〜寛治 6 ・ 7 ・18入洛 寛治 6 ・ 9 ・ 7 任:大弐藤原長房〜嘉保 1 ・?入洛 嘉保 1 ・ 6 ・12任:権帥源経信〜承徳 1 ・①・ 6 薨 承徳 1 ・ 3 ・24任:権帥大江匡房&〜康保 4 ・ 1 得替 康保 4 ・ 1 ・23任:権帥藤原保実&〜 3 ・ 4 薨 康保 4 ・ 6 ・23任:権帥藤原季仲*&〜長治 2 ・11・ 1 停任 嘉承 1 ・ 3 ・11任:権帥大江匡房&〜天永 1 天永 2 ・ 1 ・23任:大弐藤原顕季&〜永久 3 永久 4 ・ 1 ・30任:権帥源基綱〜永久 5 ・11・30薨 永久 5 ・12・30任:権帥源重資〜保安 2 ・⑤辞任 保安 2 ・ 6 ・26任:大弐藤原俊忠〜保安 4 ・ 7 ・ 9 薨 保安 4 ・12・20任:大弐藤原長実&〜大治 3 ・ 1 ・24得替 大治 3 ・ 1 ・24任:大弐藤原経忠〜長承 1 カ 長承 2 ・ 1 ・29任:権帥藤原長実&〜 8 ・19薨 長承 3 ・ 2 ・22任:大弐藤原実光〜保延 5 ・ 1 得替 保延 5 ・ 1 ・24任:権帥藤原顕頼&〜永治 1 ・12・ 2 辞任 永治 1 ・12・ 2 任:大弐平実親〜天養 1 ・ 1 ・24辞任 天養 1 カ:大弐藤原重家&〜久安 4 カ 久安 5 ・ 3 ・18任:大弐藤原清隆&→ 8 ・ 2 :権帥〜仁平 3 ・⑫・23辞任 仁平 3 ・⑫・23任:権帥藤原忠基〜保元 1 ・ 7 薨

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一一 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 所行也。下官宇佐定間、 依 レ用意為云々。極奇恠也。 (下略) c─2『小右記』寛弘二年五月十三日条 故 帥 納 言 称 レ 岐 嶋 荒 馬 一 追 二 高 田 牧 々 子 十 三 人 一 牧 司 等 陳 二 レ 堪 由 一 重 差 二 遣 彼 雑 色 長 宇 自 可 春 利 一 令 レ 壹 岐 嶋 一 間、牧司等為 二春利取内財 ・ 雑物 ・ 馬并年貢絹十四疋 一之由、 請 二 郡 証 判 一 日 言 上。 然 間 帥 薨。 其 後 件 使 春 利 参 上 云 々。 令 二 伺 一 之 間 不 レ 知 二 在 所 一 或 云、 罷 二 下 近 江 国 一 云 々。 取 二 国 荷 〔 符 ヵ〕 一 児 一 差 二 家 下 人 一 両 一 去 十 四 日 下 遣。 今 朝 捕 得将来、下 二給厩。令過状并日記、申雑物弁文 d『小右記』長和三年(一〇一四)六月二十五日条 入 夜 清 賢 師 従 二 西 一 来 談 二 事 一 持 下 治 二 児 病 中 生 虫 一 薬 上 予乞 下遣来大宋国之医僧許〈号恵清〉 。清賢師者為 二按察納言 《 藤 原 隆 家 》 使 一 令 レ 二 砂 金 十 両 一 遣 二 医 師 所 一 令 レ 二 易 治 眼 之 薬 一 送 二 二 種 一 者。 件 清 大 徳 仰 二 高 田 牧 司 蔵 規 朝 臣 一 以 二 隼 船 一労送也。又仰宗像大宮司妙忠、聊令労。   高田牧の帰属がb─4の公卿らの審議で承認されたことは上述の 通りであり、高田牧は小野宮流が排他的に独占し難い要素、即ち朝 廷 の 賦 課 に も 応 じ る べ き 存 在 で あ っ た こ と が 窺 わ れ る。 c ─ 1 ・ 2 保元 1 ・ 9 ・17任:大弐藤原忠能〜保元 3 ・ 3 ・ 6 薨 保元 3 ・ 3 ・13任:藤原季行〜 8 ・10停任 保元 3 ・ 8 ・10任:大弐平清盛&〜永暦 1 ・12・30辞任 永暦 1 ・12・30任:大弐藤原成範〜応保 2 ・ 4 ・ 7 辞任 応保 2 ・ 4 ・ 7 任:権帥藤原顕時&〜長寛 2 ・ 1 ・ 1 辞任 長寛 1 ・ 2 ・ 8 任:兼大弐藤原永範〜仁安 1 ・ 7 ・15兼任停任 仁安 1 ・ 7 ・15任:大弐平頼盛&〜仁安 3 ・11・28解却 仁安 3 ・12・13任:大弐藤原信隆〜承安 1 ・12・ 8 止 承安 1 ・12・ 8 任:大弐藤原重家&〜安元 2 ・ 6 ・17出家 安元 2 ・12・ 5 任:大弐藤原親房(→改名:親信)〜治承 3 ・11・17解官 治承 3 ・11・19任:兼権帥藤原隆季〜寿永 1 ・ 3 ・26辞任 寿永 1 ・ 3 ・26任:大弐藤原実清&〜寿永 2 ・11・28解官 元暦 1 ・ 3 ・27還任:大弐藤原実清&〜12・21出家 《文治 1 ・ 7 ・28:源頼朝の使中原久経・藤原周平が鎮西の事を沙汰する》 文治 1 ・10・11任:兼権帥藤原経房&〜建久 1 ・ 1 ・24辞任 《文治 2 ・12・10:藤原(天野)遠景を鎮西九国奉行人とする》 (備考)人名の後の記号は次の通り。*=小野宮流またはそれに近い立場の人物、#=摂関家に 近侍する者またはそれに近い立場の人物、&=院近臣。

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一二 は大宰権帥平惟仲による行為で、牧子十三人を壱岐島に追い渡して荒馬の捕獲に従事させたことが非難されている。惟 仲は雑色長宇自可春利に命じてこの追渡を行わせたが、惟仲が宇佐宮との争いで釐務停止になり、この年に死去したこ と、惟仲の次には実資の兄にあたる藤原高遠が大宰大弐として赴任したことなどによって、この状況は回復されたもの と考えられ、c─2では実資は近江国に遁走した春利を国符を持った健児と小野宮家の下人に捕獲させ、厩への拘禁を 行っ て (17 ( 、過状と日記の進上や雑物弁文を申上させたところである。   平惟仲は道長の家司受領であり、小野宮流の佐理の後は藤原有国、平惟仲と、道長の関係者が二代続き、次に小野宮 流の高遠が府官長に就任したことになる。c─1では平惟仲が貫首秦定重の家で死去した旨が記されているが、この定 重 は 府 官 の 有 力 者 で、 寛 弘 六 年 に 高 遠 が 筑 後 守 菅 野 文 信 と 対 立 し て 釐 務 停 止 に な っ た 際 に も、 『 御 堂 関 白 記 』 同 年 九 月 十 九 日 条 に「 遣 二 宰 一 二 印 符 官 レ 一 藤 原 憲 通・ 同 保 相・ 秦 定 重・ 散 位 平 政 知 等 召 符、 又 止 二 弐 理 務 一符、 又 文 信 愁 状 内 廿 箇 条 定 符 等 也 」 と 見 え て お り、 代 々 の 府 官 長 を 支 え る 府 官 の 筆 頭 者 の 地 位 に あ っ た。 『 今 昔 物 語 集 』 巻 二 十 六 第 十六話「鎮西貞重従者、 於 レ淀買得玉話」 、『宇治拾遺物語』下─一八〇(巻十四ノ六) 「珠ノ価、 無 レ量事」には定(貞) 重 の 活 動 の 一 端 が 描 か れ て お り、 そ こ で は 定 重 は「 勢 徳 ノ 者 」 で、 「 ノ 輔 ノ 任 畢 テ 上 ケ ル ニ、 送 リ テ 京 上 ス ト テ、 宇治殿ニ参ラセム料、亦、私ニ知リタル人ニモ志サント、唐人ノ物ヲ六七千疋許借テケリ」と記されている。即ち、彼 は府官長クラスの人々だけでなく、藤原頼通や諸公卿など中央の人々とも広くつながりを有し、また宋商人から借財が 可能な程に密接な関係を築いていたのである。   定重の孫は筥崎大夫則重で、彼も『水左記』永保元年(一〇八一)十月二十五日条(後掲史料y)に宋商人来着時の 大宰府の勾当官として活躍していたことが知られ、博多近辺の筥崎を拠点に府官かつ交易に従事する存在として地歩を 維持していたのであろう。定重の子、則重の父は、通字と活動時期から見て、秦時重と考えられ、時重は平氏政権下に

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一三 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 大蔵(原田)種直が大宰少弐に任用される際に、 「秦時重〈康平六年(一〇六三)十一月任少二〔弐〕 〉」と( 『吉記』養 和 元 年〔 一 一 八 一 〕 四 月 十 日 条 )、 刀 伊 の 入 寇 の 際 に 活 躍 し た 平 致 行・ 藤 原 蔵 規 に 次 い で、 府 官 か ら 少 弐 に な っ た 三 例 目の人物として掲げられている。したがってこの定(貞)重─時重─則重は府官として代々の府官長に奉仕するととも に、中央貴族ともつながりを持ち、唐物の入手などに応じ得るような宋人との人脈を構築していたとまとめることがで きよう。こうした府官との関係形成は小野宮家にとっても重要であり、dでは藤原蔵規を高田牧司として、この蔵規が 準備した隼船によって円滑な海上航行、唐物の入手と速やかなる京上が可能になったのである。 e─1『御堂関白記』寛弘五年(一〇〇八)五月十六日条 (上略)又定 下陸奥黄金并重忠後家申為種材重忠事等 上 。(下略) e─2『小右記』寛弘五年十一月十六日条 種 材 朝 臣、 今 日 令 レ 左 衛 門 府 射 場 一 自 二 宰 使 一 非 違 使 官 人 請 取 云 々。 道 官 人 云、 肱 禁 可 二 禁 一 々。 然 而 依 二 左 相 府 気 色 一 二 禁 法 一 々。 維 衡・ 致 頼 朝 臣 不 二 禁 一 何 况 於 二 種 材 所 レ 不 一 明。 専 不 レ 禁 一 歟。 肱 禁 事 別 当 頗有 二其気色云々。件事再三申達。 e─3『小右記』寛弘五年十二月三十日条 資 平 云、 種 材 朝 臣・ 朝 兼 宿 禰 原 免。 広 業 朝 臣 召 二 検 非 違 使 一者。 朝 兼 原 免 未 レ 故 一 世 以 可 レ 之 事 也。 未 レ 路 所 一レ言。 後 日 左 武 衛〈 別 当 〉 云、 両 人 申 二 故 一 為 レ レ 出 レ 場 一 者、 令 レ 色 一 二 恩 免 一次〔 歟 ヵ〕 。 是 左 府 之御用意也。   eは藤原純友の乱平定に活躍した大蔵春実の孫で、大宰府管内における大蔵氏流武士団の祖となる大蔵種材に関わる 事 件 で あ る。 彼 は 大 宰 大 弐 藤 原 高 遠 が 寛 弘 二 年( 一 〇 〇 五 ) 六 月 に 着 任 し た 時 に、 「 監 種 材 朝 臣、 山 つ ら に、 か し ら し

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一四 ろくてありしをみて、 かみさひてやまへにみゆるをきな草いとゝゆきつむはるそかひなき」 と、 歌の贈答を交わした (『大 弐高遠集』 )のが史料上の初見であるが、 時に五十歳代と目され、 秦定重と同様に、 府官として代々の府官長に奉仕し、 大宰府周辺で地歩を築いていたのであろ う (18 ( 。この事件は種材の子満高が大隅守菅野重忠を殺害したことに端を発するも ので、 満高は源良国と変名して、 長らく行方を隠すことになるから( 『紀略』寛弘四年七月一日条、 長元四年〔一〇三一〕 三 月 十 四 日 条 )、 種 材 が 京 上 を 命 じ ら れ、 左 衛 門 府 射 場 に 召 候 さ れ る 仕 儀 に な っ た も の で あ る( e ─ 1 で は 種 材 が 重 忠 が 殺 害 し た と あ る の で、 関 与 が 推 定 さ れ る も の の、 直 接 の 下 手 人 で は な い で あ ろ う )。 こ れ は 上 述 の 高 遠 の 釐 務 停 止 に 至る菅野一族との紛擾の端緒となる出来事と思われ、府官層の人々の活動を窺わせる。   e ─ 2 ・ 3 に よ る と、 小 野 宮 流 の 藤 原 高 遠 は 種 材 の 京 上 を 承 諾 し、 時 の 検 非 違 使 別 当 は や は り 小 野 宮 流 の 藤 原 懐 平 で あ り、 懐 平 は 種 材 を 肱 禁 し よ う と し た が、 左 大 臣 藤 原 道 長 の 反 対 に よ り、 「 不 レ 二 禁 法 一 と な っ た と い う。 さ ら に 病 を理由に射場召候も解かれ、結局は原免になっており、これは「左府之御用意也」と評されているので、種材もまた、 中央の最高権力者である摂関家と密接な関係を有していたことが看取され る (19 ( 。e─3に種材とともに見える朝兼は土師 宿 禰 朝 兼 で、 『 小 右 記 』 寛 弘 五 年 七 月 二 十 日・ 八 月 八 日 条 に よ る と、 長 門 守 藤 原 良 道 か ら、 「 為 二 朝 兼 宿 祢 一 圍 レ 館 并 被 レ害郎等之由」 、「為 下住阿武郡之朝兼宿祢并男鋳銭司判官為基等圍陵、兼被害郎等三人之事」が 訴えられていることがわかり、五位を有する身ではあったが、右大臣藤原顕光以下の定によって召問されていた。   『大間成文抄』第四には長保元年(九九九)秋に「大宰少監正六位上土師宿禰朝兼〈常住寺修理料〉 」と見え、実は朝 兼も府官の肩書を有していたことがある。長門国阿武郡は長登銅山(美祢郡)の東隣りに所在し、海上交通で博多方面 と連絡可能であり、 朝兼は府官となることで、 唐物の入手などを企図したのかもしれない。そして、 寛仁二年(一〇一八) に は 長 門 守 高 階 業 敏 が 鋳 銭 司 判 官 土 師 為 元 の 愁 訴 に よ り 解 却 さ れ る 出 来 事 が 起 き て い る が( 『 小 右 記 』 同 年 十 二 月 七 日

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一五 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 条 )、 「 為 元、 是 大 殿 毎 年 献 二 牛 一 也 」 と い い、 「 業 敏 者 故 業 遠 朝 臣 子、 業 遠 者 大 殿 無 双 者 也。 死 後 被 レ退 子 官 一 、万 人 有 レ 所 レ 歟。 但 先 年 為 元 父 朝 兼、 為 二 守 良 道 一 常 事 一 仍 被 レ 左 衛 門 府 一 欲 二 訊 一 間、 業 遠 横 申 免 了。 彼間天下云、 如 レ公事 国々司抱 レ膝仰天。今依彼報及子息歟。為元者故朝兼子、 業敏者故業遠子」と解説 ・ 論評が加えられるところである。   以上を要するに、摂関家はこうした地方支配の中核となるような家系の者とも密接な関係を築いていたのであり、彼 らからの貢納品を得ることができた。入宋僧寂照の弟子念救が一時帰国し、藤原道長の宋・天台山への施送文などを携 え て、 再 度 渡 海 す る 際 に は (20 ( 、 入 京 し て い た 神 埼 御 庄 司 豊 島 方 人 と と も に 大 宰 府 に 下 向 し て い る が( 『 御 堂 関 白 記 』 長 和 四 年〔 一 〇 一 五 〕 七 月 十 五 日 条 )、 方( 才 ) 人 は 府 官 と し て も 知 ら れ る 人 物 で、 こ れ 以 前 の 正 暦 元 年( 九 九 〇 ) に は 宋 商 人 周 文 徳 が 源 信 に 宛 て た 書 状 を「 則 大 府 貫 首 豊 島 才 人、 附 二 上 一 封 一 奉 上 先 了 」 と あ る か ら( 『 往 生 要 集 』 下 所 収 正 暦 二 年 二 月 十 一 日 付 周 文 徳 書 状 )、 宋 商 人 と の 連 絡 役 を 務 め る こ と が 期 待 さ れ た の で あ ろ う。 d に よ る と、 府 官 で 高 田牧司であった藤原蔵規が隼船を提供したとあり、この労送には宗像妙忠も助力したという。刀伊の入寇の際に、大宰 府側では刀伊人追撃のために船を準備しようとしたが、その時点では充分な数が集まっておらず、進発の可否を協議し た と こ ろ、 大 蔵 種 材 は「 種 材 齢 過 二 七 旬 一 身 為 二 臣 之 後 一 待 レ 兵 船 一 間 恐 賊 徒 早 逃。 弃 レ 忘 レ身、 一 人 先 欲 二 進 向 一 」 と 揚 言 し た の で、 進 発 が 決 定 し た と さ れ る( 『 小 右 記 』 寛 仁 三 年〔 一 〇 一 九 〕 六 月 二 十 九 日 条 )。 「 追 二 打 刀 伊 一 官 軍 等 皆 府 無 レ 武 者 等 」 と あ り( 五 月 二 十 四 日 条 )、 こ う し た 府 官 の 人 々 は 武 者 と し て 武 力 を 有 し、 ま た 兵 船 な ど の 移 動 手 段 も 独 自 に 調 達 し 得 た と 考 え ら れ 、そ こ に d の 平 時 に お け る 隼 船 に よ る 迎 送 を 可 能 に し た 背 景 が 看 取 さ れ る 。   ちなみに、府官層は摂関家のみを本主と仰いだ訳ではない、宗像氏は高田牧の所在や宗像神への信仰との関係で小野 宮流とつながりを有していた。藤原蔵規は小野宮流との関係を形成しているが、その子則隆、孫正高は藤原隆家の郎等

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一六 になっていることが知られる (『春記』 長久元年 〔一〇四〇〕 四月十七 ・ 二十七日条) 。これは隆家の二度目の権帥在任 (長 暦元年〔一〇三七〕〜長久二年)の時の出来事であるものの、隆家は今回は赴任していなかったと考えられるので、こ の系統の人々との関係は一度目の刀伊の入寇時の在任期間、即ち蔵規の段階から結ばれていたのではないかと推定され る (21 ( 。 し た が っ て d の 段 階 で は 摂 関 家 だ け で な く( 御 堂 流 も ま だ「 家 」 と し て 安 定 し て い た 訳 で は な い )、 小 野 宮 流 な ど も府官との関係形成に努めていたのであり、その際に高田牧の存在は大きな核として有用であったと思われる。ただ、 摂関家との関係を選択した大蔵氏流がその後も長く大宰府周辺を拠点に、西海道に広く展開したのに対して、藤原蔵規 の後裔は大宰府を離れて、肥後国に土着、菊池氏として定着することにな る (22 ( 。勿論、菊池氏の人々も大蔵氏流などとも 婚姻関係を有し、大宰府とのつながりを維持していくのであるが、あるいは本主の選択がその後の一族の展開過程に影 響したのではないかと考えられ、その意味でも当該期は一つの歴史の分岐点であったと言えよう。 二   平季基事件   前章では小野宮流の藤原実資が筑前国高田牧を拠点に府官層の人々とつながりを形成し、表1に看取されるような唐 物の貢上を得ていたことを見た。長和二年(一〇一三)の事例は周文裔Ⅰの来航に関するもので、実資の下には藤原蔵 規から雄黄二分二銖・甘松香十両・荒鬱金香十両・金青五両・紫草三枚、藤原明範(刀伊の入寇時点では前少監)から は甘松(香)四両・荒鬱金(香)三両・金青三両などが届けられており、高田牧司宗形信遠が進上した豹皮一枚も唐物 で あ っ た の か も し れ な い( 『 小 右 記 』 同 年 七 月 二 十 五 ・ 二 十 六 日、 八 月 七 日 条 )。 一 方、 こ の 時 に は 朝 廷 へ の 唐 物 進 覧 が 行われ、皇太后宮(藤原彰子) ・中宮(藤原妍子) ・皇后(藤原娍子) ・東宮(敦成親王〔後一条天皇〕 )などとともに、

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一七 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 藤原道長にも分賜がなされており、その額は錦八疋 ・ 綾二十三疋 ・ 丁子百両 ・ 麝香五臍 ・ 紺青百両 ・ 甘松(香)三斤と、 実資が入手したものとは質・量ともに桁違いであった( 『御堂関白記』同年二月四日条) 。これは朝廷の先買権(関市令 官司条)に基づいて、優品をまず献上・入手したものであ り (23 ( 、天皇を中心とする権力中枢部にいる者のみが余慶に与る ことができたのである。当時の大宰大弐は道長に近侍する平親信であり、道長はこうした府官長を介しても唐物を入手 することができたと考えられ る (24 ( 。 f『小右記』万寿二年(一〇二五)十月二十六日条 ( 上 略 )《 藤 原 》 俊 忠 朝 臣 為 二 弐《 藤 原 惟 憲 》 使 一 持 二 彼 事〔 書 ヵ〕 状 一 中 云、 絹 百 疋・ 檳 榔 二 百 把 進 上 之。 至 二 榔 一、依前日消息之。涓〔絹ヵ〕者、頼隆真人云、可五節舞姫者、仍所献者。   fは大宰大弐藤原惟憲から実資の下に進上物があったことを記すもので、ここでは檳榔二百把の貢上に注目したい。 表1によると、この年には大隅掾為頼という者からも檳榔二百把を得ている。檳榔は南島産品で、奈良時代には檳榔扇 が珍重され、 『延喜式』には大宰府からの交易物に檳榔蓑の貢進が記されているが(民部上、 内蔵寮 ・ 斎院司 ・ 監物など) 、 fの時期では檳榔毛車と称される牛車の装飾に必要で、 これは「太上皇已下四位已上通用、 (非 ナ)参議不 レ榻」 (『西 宮記』巻十七 ・ 車)とあり、上級貴族の乗用に不可欠であった。そこには「近代無 二乗用之人」との分註も見えるが、 院 政 期 の 故 実 を 記 し た 久 我( 源 ) 通 方 撰『 餝 抄 』 下・ 車 に は「 執 柄 家 々 礼 之 人 用 二 檳 榔 毛 一 檳 榔、 前 関 白《 近 衛 》 領 鎮 西 志 摩 戸 庄 土 産 云 々。 仍 所 望 用 レ 云 々〉 。 当 家 用 レ菅。 〈 但 檳 榔 毛 尋 得 之 時 用 レ之、 又 無 レ 云 々〉 」 と あ り、 後 代 に も 珍重されていることが知られる。当代においても、 『小右記』長和三年(一〇一四)十二月二十五日条には、 「又命云、 檳 榔 太 難 レ得。 諸 卿 云、 用 二 車 一 如。 汝 未 レ 関 二 儀 一 何 者。 答 云、 上 古 檳 榔 毛 車 毎 年 不 二 調 一 隨 二 壊 一 替、 有 二何事乎、 依 二毎年改張 自為 二得物。至唐車甘心申」とあり、 藤原道長でさえも入手し難い場合もあっ

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一八 た (25 ( 。   こ れ よ り 先 の 治 安 元 年( 一 〇 二 一 ) 七 月 二 十 五 日 に 実 資 は 念 願 の 右 大 臣 に 昇 任 し て い る( 『 公 卿 補 任 』) 。 当 時 は 道 長 は 大 殿・ 太 閤 と し て 健 在 で あ っ た が( 万 寿 四 年 十 二 月 四 日 死 去 )、 政 務 の 中 心 は 関 白 左 大 臣 頼 通 が 担 い、 実 資 は 故 実 に 通じた存在として、頼通の信頼も厚く、存在感が大きくなっていた。こうした中で『小右記』長元二年(一〇二九)三 月 二 日 条 に は、 周 文 裔 Ⅲ 来 航 の 際 に 宗 像 妙 忠 を 介 し て 実 資 宛 の 書 状・ 進 物 が 届 け ら れ る こ と が あ っ た。 文 裔 は「 抑 従 二 弱冠 一今衰邁 一 、伏聞 二殿下徳声政誉 一 、其来久矣。然而貴賤有 レ殊、 違 レ名無路、 雖 レ奉仕之願 一 、未 レ犬馬之数 蓋 恐 二 威 之 貴 一 徒 送 二 廻 之 春 秋 一 也。 已 往 之 咎 追 悔 何 益。 但 於 二比〔 此 ヵ〕 度 一 二 旧 望 一 と 称 し て い る が、 こ れは実資が大臣になり、頼通を支える存在として重要度が増したためであって、合せて太政官への書状進呈を委託して い る。 実 資 は 進 物 を 返 却 し た の で、 文 裔 の 子 良 史 か ら は「 父 船 頭 所 レ 二 右 大 殿 一 物 被 二 下 一 者、 早 交〔 受 〕 領 了。 雖 レ本意 一 、亦近代希有事也、 不 二亦盛乎。所謂何代無賢、 其斯之矣」 との評言を得ることができた (八月二日 条 (26 ( )。   表1によると、こうした状況と符合するように、上述の大隅掾為頼からの貢進など、実資の下には西海道、特に南九 州の国守やこの某為頼 (「住大隅」 とあり、 土着者か) のような在地有力者からの志送がなされていたことが看取される。 それらの人々のうち、表1─ 18・ 20の薩摩守巨勢文任はかつて小野宮家の家政に携わっていたことが知られ( 『小右記』 治安元年三月六 ・ 七日条) 、それ以前にも少外記として大納言・右大弁の実資に対して様々な報告や勘申・文書送付を行 う存在として散見するので、そうした関係から実資に近侍するようになったのであろ う (27 ( 。表1─ 13・ 15の肥前守惟宗貴 重は文章生 ・ 式部録から左少史 ・ 左大史になった人物で、長和年間には下総守に転じてい た (28 ( 。その下総守の受領功過定、 加 階 申 請 に 際 し て、 実 資 は「 貴 重 三 个 年 辞 退、 済 二 二 个 年 一 在 任 四 个 年 済 二 二 个 年 事 一 申 下 請 可 レ 賞 一 符 一 在 任 三 个 年 済 二 个 年 一 可 レ 功 一 」、 「 貴 重 事 余 所 レ 也 」 と 述 べ て お り( 寛 仁 三 年 正 月 二 十 三 日 条 )、 貴 重 は

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一九 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 ま た、 実 資 の 新 造 寝 殿 へ の 移 徙 の 行 事 に も 参 加 し て い た こ と が 知 ら れ る の で( 同 年 十 二 月 二 十 一 日 条 )、 や は り 実 資 に 近侍する存在であったことがわかる。   惟宗貴重の志送品のうち、色皮・檳榔は表1では大隅・薩摩からの志送品と共通し、色皮は日向久湯評(児湯郡)か らの牛皮進上( 『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報』十七─三九頁)や隼人の牛皮・鹿皮貢上例( 『日本書紀』持統三 年正月壬戌条) などを参照すると、 その地域の特産品のように思われ る (29 ( 。ただ、 『肥前国風土記』 松浦郡値嘉郷条には 「彼 白 水 郎、 富 二 馬 牛 一 」、 「 此 島 白 水 郎、 容 貌 似 二 人 一 恒 好 二 射 一 其 言 語、 異 二 人 一 」 と あ り、 値 嘉 島 に は 檳 榔 も 生息していると記されているので、これらの物品を肥前国で入手し得た可能性もない訳ではない。また表1─ 14の温石 鍋は南海交易にも携わった宋商人の煮炊き具を起源とすると目される滑石製石鍋で、対外交易の中継地としても重要な 西 彼 杵 半 島 が 生 産 地 に な っ て い た (30 ( 。 上 述 の 値 嘉 島 は「 唐 人 等 必 先 到 二 島 一 多 採 二 薬 一 加 二 物 一 不 レ 令 下 二 間 人 民 一其物□。又其海浜多奇石、或鍛練得銀、或琢磨似玉。唐人等好取其石、不土人 一 」( 『三代実録』貞 観十八年〔八七六〕三月九日条)とあり、南路による遣唐使の進発地以来の便地で、唐・宋商人の寄港地にもなってい たから、肥前国のこのような歴史的背景を反映する志送品と見ることができよう。 g─1『小右記』長徳三年(九九七)十月一日条 (上略)一献之間、左近陣官高声之曰、大宰飛駅到来云、高麗人虜 二掠対馬 ・ 壹岐島 一、又着肥前国虜領云々。 (中 略)丞相復 レ座云、 奄美島者焼 二亡海夫等宅 奪 二取財物。又執載男女於舟将去、 尚浮 二海上犯之由云々。 (中略) 左 大 臣 参 上 令 レ奏、 良 久 之 後 復 レ座、 下 二 大 宰 府 言 上 解 文 等 一 筑 前・ 筑 後・ 薩 摩・ 壹 岐・ 対 馬、 或 殺 害 或 放 火、 奪 二 人物 一 、多浮 二海上。又為当国人処々合戦之間、 奄美人中 レ矢亦有其数。但当国人多被奪取 一 、已及 二三百人 府 解 文 云、 先 年 奄 美 島 人 来、 奪 二 大 隅 国 人 民 四 百 人 一 同 以 将 去。 其 時 不 二 上 一 今 慣 二 彼 例 一 自 致 二 犯 一歟。

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二〇 徴 二 人 兵 一 警 二 固 要 害 一 令 二 追 捕 一 也。 若 有 二 其 勤 一 者 可 レ レ 加 二 賞 一者。 又 高 麗 同 艤 二 兵 船 五 百 艘 一 向 二 本 国 一 欲 レ奸者。誠雖浮言、依云々所言上也者。 (下略) g─2『権記』長徳三年十月一日条 (上略)大弐藤原朝臣同付 二此使送書状云、南蛮賊徒到肥前 ・ 肥後 ・ 薩摩等国 一、劫人物奪侵犯之由、逐日申来、 仍言 二上解文者、事是非常也。 (下略) g─3『日本紀略』長徳三年十一月二日条 大宰府飛駅使来、申 下獲南蛮 余人 一之由 g─4『日本紀略』長徳四年九月十四日条 大宰府言 下上下知貴駕島進南蛮 g─5『日本紀略』長保元年(九九九)八月十九日条 大宰府言 下上追討南蛮賊 g─6『左経記』寛仁四年(一〇二〇)閏十二月二十九日条 ( 上 略 ) 南 蛮 賊 徒 到 二 薩 摩 国 一 虜 二 人 民 等 一 由 也。 即 参 二 左 府 一 申 二 事 由 一 次 参 二 白 殿 一 令 レ 二 府 解 一 次 為 二 使 一御寺、申此由。仰云、改年之後慥可追討之由、可 二 官符於太宰府 一 h『百錬抄』康平元年(一〇五八)閏十二月二十七日条 諸卿定 二申大隅国流来唐人、守道利殺害罪名事   藤原道長執政期は宋商人の来航が本格化し、日宋通交が確立していく時期であった。それとともに、g─1〜6の如 き奄美・沖縄諸島方面への関心が惹起されており、g─4の貴駕島を拠点に大宰府による統制が図られている。当該地

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二一 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 域は日宋貿易で宋商人が日本で入手する硫黄の産地として重要であり、 後代の史料ではあるが、 反平家の「鹿ヶ谷事件」 の 後 日 談 を 描 い た『 延 慶 本 平 家 物 語 』 第 一 末「 廿 八 成 経 康 頼 俊 寛 等 油 黄 嶋 被 流 事 」 に は、 「 さ れ と も 少 将 の 舅、 平 宰 相 の領、肥前国加世庄と云所あり。彼こより折節に付如形の衣食を被訪ければ、康頼も俊寛もそれにかかりてそ日を送り け る 」、 第 二 本「 十 八 有 王 丸 油 黄 島 へ 尋 行 事 」 に「 山 の 峯 に 上 て 硫 黄 を 取 て 商 人 の 舟 の よ り た る に 是 を あ き な ひ と か く はくゝみてあかしくらしける程」などと見えており、 肥前は有明海 ・ 五島列島を介した日宋通交の拠点であるとともに、 薩摩方から貴駕(賀)島に向かう硫黄商人の往来、 「硫黄の道」 (サルファーロード)や南島産品獲得の要衝になってい たと考えられ る (31 ( 。   g─1では奄美からの襲来者に関連して、高麗兵船到来の風聞が伝えられており、これは当時の日麗関係からは全く の妄想とは言えないところもある が (32 ( 、奄美人の広範な襲撃地域をふまえると、そこには奄美から対馬までの海上の道と 船を掌握する交易従事者が参加していた可能性も指摘されており、複雑な人脈が交錯する国際交易の展開の中で、大宰 府 管 内 で は「 奄 美 島 者 」 と 高 麗 へ の 警 戒 が 存 し た こ と を 反 映 し て い る と い う 見 解 も 呈 さ れ て い る (33 ( 。 g ─ 1 ・ 2 で は 襲 来 地の情報が交錯しているが、g─2には肥前も含まれており、肥前は上掲史料に平家の庄園が存したことが見え、また 薩摩平氏は肥前平氏とのつながりが強いことなど、南九州との関係が濃密 で (34 ( 、上述の滑石製石鍋の南島地域での出土と 硫黄・南島産品の交易との相関も看取されるところであ る (35 ( 。以上を要するに、実資は小野宮家と関係の深い中下級官人 を西海道の国司に送り込み、彼らからの志送により唐物や南島産品を入手する方途を築こうとしたのであり、その他に 筑 前 守 高 階 成 順( 『 小 右 記 』 万 寿 二 年 七 月 十 三 日 条 )、 筑 後 守 藤 原 盛 光( 長 元 四 年 三 月 十 四 日 条 )、 肥 後 守 藤 原 致 光( 治 安三年正月十日条) ・高階成章(長元元年七月二十六日条)などが実資に罷申を行っていることが知られ、 「大宰府と大 宰府管内諸国との関係を考える場合に、大宰府官人や諸国の受領たちが、中央の貴族の誰と人的なネットワークを結ん

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二二 でいたのかという点を、分析の視角に今後は加える必要があるのではないか」と指摘される所以であ る (36 ( 。   これらの国司クラスの人々とともに、表1では西海道の相撲人や上述の「住大隅」為頼、また「住大隅」延嘉朝臣、 「 住 大 隅 国 」 藤 原 良 孝 な ど、 在 地 豪 族 と の 関 係 構 築 も 重 要 で あ っ た こ と が 窺 わ れ る。 在 地 有 力 豪 族 で も あ る 相 撲 人 が 実 資に物実を献上した事例はないが、彼らは相撲の供節のために京上する際に、府官や関係国司から実資への志送品を付 託されており、また右近衛大将として右方の相撲人を統括する実資と緊密な関係を保持することは、彼らの在地での勢 威 に も 有 効 に 作 用 し た も の と 考 え ら れ る (37 ( 。 一 方、 『 小 右 記 』 万 寿 三 年( 一 〇 二 六 ) 八 月 七 日 条 に は「 相 撲 人 為 永・ 吉 高 等 給 二 田 牧 駒 下 文 一 為 永 三 疋、 吉 為( 高 ) 二 疋 〉」 と あ り、 実 資 の 方 も 高 田 牧 か ら 馬 を 賜 与 す る な ど、 彼 ら の 奉 仕 に 応 え て い る (38 ( 。 そ う し た 相 撲 人 と 並 ん で、 万 寿 四 年 八 月 七 日 条 に は「 馬 一 疋〈 鹿 毛、 先 日 為 政 所 レ 進 〉 付 二 相 撲 人 吉 高 一 遣 下 隅 一 為 頼 上 依 レ 也 」 と あ り、 相 撲 人 の 京 上 に 付 託 し て 志 送 を 行 う 地 方 在 住 の 人 々 に も 馬 が 賜 与 さ れ ている。では、この為頼などはどのような人々であったのであろうか。 i『小右記』治安三年(一〇二三)正月十一日条 故宮御給大隅掾任料絹三十疋内廿疋預 二   〔音 サ 〕院司阿闍梨清臺 一 j─1『小右記』長元二年(一〇二九)八月二日条 住 二大隅国良孝朝臣進色革六十枚・小手革六枚・赤木二切・檳榔三百把・夜〔久 フ〕貝五十口 一 。(下略) j─2『小右記』長元二年八月二十一日条 ( 上 略 ) 太 政 官 符 大 宰 府。 応 下 附 二使 者 一 進 上 監 従 五 位 下 平 朝 臣 季 基 并 男 散 位 従 五 位 下 兼 光 及 兼 助 等 事。 使 右 衛 門 案 主 笠 孝 良、 従 二 人、 火 長 一 人。 右、 右 大 臣 宣、 奉 レ勅、 大 隅 国 言 下 件 季 基 等 焼 二 国 庁・ 守 館・ 官 舎・ 民 烟 并 散 位 藤 原 良 孝 住 宅 一 及 掠 二 財 物 一 殺 二 雑 人 一 由 上 仍 令 二 糺 一 宜 下 二 彼 府 一 下 二 管 内 一 附 二使 者 一 其 身 一者。

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二三 唐物・南島産品と小野宮流・御堂流 府 宜 二 知、 依 レ 行 一レ之。 使 者 往 還 之 間 依 レ 給 二食・ 馬 一 路 次 之 国 亦 宜 レ此。 符 到 奉 行。 右 大 弁 源 朝 臣。 左 大 史 小 槻宿祢。長元二年八月七日。 j─3『小右記』長元二年九月五日条 ( 上 略 ) 又 仰 云、 召 二 基 等 一 官 符 不 レ レ 引 二 隅 国 解 一歟。 依 二 大 宰 府 解 文 一 二 召 上 由 一 何 者。 令 レ 下 可 二 直 一 由 上 了、 即 仰 下。 件 事 一 日 有 二 々 一 前 大 弐 惟 憲 卿 責 二 取 季 基 絹 三 千 余 疋 一 即 優 免、 漏 二 解 一 只 載 二 光 一 其 後 大 隅 国 司 守 重 注 二 細 一 上。 即 任 二 隅 国 司 言 上 一 以 二 季 基 等 一 二 官 符 一 給 二 宰 府 一 今 惟 憲 申 二 白 一 云、 大 隅 国 司 所 レ申已是越訴、 不 レ用、 還可 レ罪云々。余聞此事 昨日示 二遣頭弁。其趣者、 件事経〔雖ヵ〕 レ大弐 隨 則 差 二 府 官 并 目 代 等 一 令 レ 兼 光 等 一 其 事 未 レ 之 間 任 秩 已 満、 参 上 後 不 レ 愁 一 仍 言 二 公 家 一 不 レ レ 謂 二 訴 一 始 已 愁 二 府 一了、 惟 憲 指 レ意、 偏 為 レ 季 基 一 不 レ 隅 国 解 一 由 所 レ 白 一也。 引 二 解 一 官 符 者 不 レ 可 レ 基 一 仍 左 右 構 二 略 詞 一 所 二 迷 一歟。 頭 弁 申 二 趣 一了、 関 白 甘 心、 不 レ 基 一 レ 作 二 符 一 由 定 仰 之。 但 依 二 府 解 一 可 レ 作 下 召 二 上 季 基 等 一 之 由 上 者、 太 宰 府 解 文 不 レ 載 二 季 基 一 今 有 二 此 旨 一 更 作 載 有 二 何 事 一 乎。 唯 不 レ 旨 一 人 可 レ 解 一 季 基 上 府 解 与 二 解 一 異。 仍 任 二後( 彼 ) 国 解 一 符 于 太 宰 府 一 今 有 二 此 定 一 不 レ 基 一 宜 歟。 惟 憲 卿 本 意 相 違 歟。 惟 憲 貪 欲 者 也。 執 二 関 白 家 事 一 由 仰 二 家 中 所 々 一 云 々。 為 二 問之人 一太淡薄歟。 (下略) j─4『紀略』長元三年正月二十三日条 召 二大宰大監平季基左衛門陣。依御物忌也。 j─5建暦三年(一二一三)四月僧智恵申状案( 『鎌倉遺文』二〇〇二号) ( 上 略 ) 彼 薗 者 寺 僧 之 領 志 弖 年 序 既 積 矣、 所 以 御 庄 建 立 主 平 大 監 季 基 朝 臣 之 御 子 息 平 五 大 夫 兼 輔 朝 臣 之 時、 従 二 宰 符

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二四 (府) 一越竹林房 弖 、所 二譲与給薗也。 (下略) k『小右記』長元四年正月十三日条 (上略)季基進 二雑物〈唐錦一疋・唐綾二疋・絹二百疋・総鞦色革百枚・紫草五十枚〉 。(下略)   為 頼 は 氏 姓 不 明 で は あ る が、 大 隅 掾 で あ る こ と が 知 ら れ( 表 1 ─ 07)、 i が そ の 任 官 に 関 わ る 記 事 と 目 さ れ る、 こ れ は実資が、かつて太皇太后大夫として奉仕した昌子内親王の御給を利用して、その墓所である岩倉観音院の費用を捻出 しようとしたものであった。このような年官による任用国司の肩書獲得は地方有力者には在地での勢威維持のために求 められるものであり、さらに任官後もその中央有力者とのつながりを継続する契機になったという点が重要であるとさ れ る (39 ( 。勿論、中央有力者、この場合は実資にとっても、こうした関係構築の機会として重視すべきものであった。この 某為頼は相撲人秦吉高を介して実資に志送品を貢上しており、在地有力者かつ武力保有者である相撲人とも密接な関係 を有していたことが窺われ る (40 ( 。為頼に関してはこのような在地での人的つながりのあり方が知られるが、氏姓不明であ り、 在 地 で の 位 置 づ け は こ れ 以 上 究 明 す る こ と が で き な い。 そ こ で、 も う 一 人、 「 住 大 隅 国 」 が 冠 せ ら れ る 藤 原 良 孝 の 動向を検討することにしたい。   良孝もj─1で実資に南島産品などを志送している。その直後に起きたのがj─2〜4の平季基による大隅国府襲撃 事件である。これは鎮西平氏(図2)の祖となる大宰大監平季基 が (41 ( 、国庁・守の館や官舎を焼亡するというもので、合 せて散位藤原良孝の住宅も焼かれたとあるので、良孝は国府周辺に居住する在庁官人あるいは任用国司クラスの人物と 推定される。この良孝の人物像に関しては、寛仁元年(一〇一七)正月に内裏に侵入した盗賊を射殺して勅禄に与った 滝 口 藤 原 至 高( 良 孝 ) に 比 定 す る 説 も あ る が( 『 御 堂 関 白 記 』 同 年 正 月 二 十 二 ・ 二 十 四 日 条 (42 ( )、 彼 は「 摂 政 隨 身 」 と も 記 されており( 『紀略』正月二十三日条) 、そのような者が大隅に下向する理由は充分に説明できていないと思われる。j

図 4  万之瀬川下流域概念図

参照

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