「磁都」景徳鎮の産業・生活事情 : 景徳鎮・上海
の視察訪問と比較考察をふまえて
著者
十名 直喜
雑誌名
研究年報
号
15
ページ
25-82
発行年
2002-12-30
URL
http://doi.org/10.15012/00000858
Copyright (c) 2002 十名直喜「磁都」景徳鎮の産業・ 生活事情
‐
一―景徳鎮・ 上海の視 察訪 間 と比較考察 をふ まえて
一
十
名
直
喜
目次 1. ιまじめ に2.磁
都 。景徳鎮 の歴 史的位 置2.1.江
西省の 自然・ 文化風土 と景徳鎮2.2.現
代景徳鎮 の陶磁 に対 す る評価2.3.景
徳鎮 のや き もの生産 システム 2.4.「 磁都 」景徳鎮 にみ る歴 史的生命 力3.現
代景徳鎮 の経済・ 産業3.1.輸
出指 向型経済 の発展3.2.総
合的 な陶磁 器産業 システムヘ の展 開3.3.機
械・ 電子・ 科学 な ど新興工業 の台頭3.4.豊
か な農業 と国際文化交流 4。 景徳鎮 を訪 ねて4.1.景
徳鎮 市の街並 み と暮 ら し4.2.陶
磁 器 に関わ る企業・ 研究教 育機 関 。名所 旧跡5.景
徳鎮 か ら上海 ヘ5.1.上
海 か らみ た景徳鎮5.2.上
海 市民の生活事情5.3.上
海 に見 る消費大 国の予兆 とその先導役5.4.上
海 の新興 ソフ トメーカー にみ る経営 と熱気6.お
わ りに1.は
じめ に
chinaと いえば磁器 (porcelainの 日常語)を
指す ように, 3千
年のや きもの の歴史 をもつ中国は,世
界の「や きものの故郷」 ともいわれ る。その中国にお26
名古屋学院大学研究年報 いて,「 磁都」 と呼 ばれ るのが景徳鎮 で あ る。2千
年 のや き もの の歴 史 を もち,1千
年 にわ た りや き もの の メ ッカ と して世 界 各地 に生 産 品 を輸 出 し続 け て き た。 一 方,景
徳鎮 市 と友好提 携 関係 を もつ瀬 戸市 は,陶
磁 器製品全般 を指 す 「せ と もの」とい う言葉 の発祥 の地 で あ り,「 陶都」と呼 ばれ る ように1,300年のや き ものの歴 史 を もち「 日本のや き ものの故郷」 で あ る。奈良時代 の 中頃,
日本 で初 め て高火度焼 成の施釉陶 を開発 して以 降,多
少 の浮沈 はあ りなが らも,
日 本 のや き もの の 中心 で あった。 景徳鎮 と瀬 戸 のや き もの産 業 には,共
通 す る特徴 も少 な くないが,特
に原料 と分業 システムが注 目され る。 中国の磁器 を生 み出 した素晴 ら しい磁 土,カ
オ リンの 名 は,景
徳 鎮 の郊 外 にあ る高 嶺 山(の磁 土)が な まった もの といわれ る。 景徳鎮 の カオ リンに匹敵 す る とみ られ るのが,木
節粘 土 と蛙 目粘 土 とい う瀬 戸 が産 出す る良質の2大
陶土 で あ る。 中国 と くに景徳 鎮 で は徹 底 した分 業 システ ムが歴 史的 に発達 したが,近
代瀬 戸 にお いて も地 域 全体 に精 度 の高 い分 業形 態 が歯車 の ようにかみ合 うや き もの産業 の社会的分業 システムが特徴 をな した。 瀬 戸商工 会議 所 の主催 に よる景徳鎮 視 察交流 団の一 員 と して,筆 者 は2002年
5月 に景徳鎮 お よび上 海 を視 察訪間す る機 会 に恵 まれ た。専 門的 な知識 は もと よ り事前準備 も殆 どない まま参加 したが,「 百間 は一 見 に如 かず」とい うか実 に 興 味深 い視 察体験 を味 わ うこ とがで きた。景徳鎮 で は,陶
磁 器産業関係者 との 交流,大
学 や企 業,名
所 旧跡 な どの 見学 を通 して,前
近 代 と現代 が混 交 しなが ら発展す るダイナ ミズム を肌 で感 じる。 また,中
国の最 新 都 市,上
海 で は景徳 鎮 との労働,生
活,街
並 みの あ ま りの落差 に新 鮮 な驚 きを禁 じえず,む
しろ両 都 市 の比較観察 を通 して現代 中国の多様 な側 面 に接 す る機 会 とな った。上海 を は じめ現代 中国 に関す る情報 はあふれ てい るが,現
代 の景徳鎮 を分析 した資料 は意外 と見 当た らない。帰国 して数 ヶ月経 過 して記憶 も薄 れ る中,こ
の こ とに 気 付 いたの は夏休 み に入 ってか らで あ る。小論 は,当
時 の見学 メモや現地 で見 つ けた資料,帰
国後 に入手 で きた資料 を もとに して,現
代 の景徳 鎮 につ いてや き ものや生活,街
並 みの視点 か ら,
また上 海 との比較視 点 か らま とめ た もので あ る。遠 寧 内蒙古 自 青 海 江 蘇 河 南 浙 江 ヽ ■層γノ 湖 南 貴 州 │.ィ 四 川 │1威 都 広 西壮族自治区 ■ ■ を 江 西 広 束 図
1
中国の主 な窯跡 と現在 の窯 出所:陳舜 臣 『景徳鎮の旅― 中国や きもの紀 行―』 講談社文庫,1991年 電嘉[I事2螢観 i"2.磁
都・ 景 徳鎮 の歴 史 的位 置
2.1。 江 西 省の 自然 。文化風土 と景徳鎮 や きものの まち景徳鎮 市 は,江
西省 の北東部 にあ る(図 1)。 江西省 の面積 は,16万
平 方 キ ロメー トル で 日本 の4割
以上 にあた る。中国の行政 単位 は,省
の下 にい くつかの地 区が あ り,そ
の下 に市や県が あ るが,大
きな市 は地 区 と同格 で あ る。江西省 には省都 の南 昌市 をは じめ8つ
の市が あ り,景
徳鎮 もその うちの 一 つ で あ る。 江 西省 と問 けば,景
徳鎮 のや き もの の他 に,む
しろ詩 文や革命 な どを思 い浮28
名古屋学院大学研究年報 かべ るか もしれ ない。 江西省 の北部,郡
陽湖 と長江 (揚子 江)の
交 わ るあた り に,直
山 とい う名山が あ る。直 山の麓 にあ る九江市一帯 に,詩
人陶淵 明の故郷 が あ る。陶淵 明以降,あ
またの文 人が直 山に来 て詩 文 をつ くったが,そ
の なか で もと くに有名 なのが李 白 と自居易の二 人で あ る。 江 西省 の西南 にあ る井 岡山は,中
国の革命拠 点 と して知 られ る。1927年
8月 1日,朱
徳 や 周恩来 たちに よって指導 され た3万
の革命軍が,わ
ずか3時
間 で 南 昌 を 占領 し,南
昌市 に革 命委 員 会が成立 した。 この蜂起 軍 は北伐 の途 中,国
民 党 の激 しい攻撃 を うけ,その一 部 は井 岡山に合流 す る。中国の人民解放軍 は, この8月 1日 を建 軍記念 日に して い る。 江西 南 昌は,17世
紀 の天才 画 人,八
大 山人の生 まれ た場所 で もあ る。彼 はあ ざや か な個性 の持 ち主 で,そ
れ を絵画 に表現 した。 中国の芸術 史上 で も稀 有の 人物 を,江
西 の風 土 が生 んだ といわれ る0。 江西 省 の最 北端 に接 す る安徽 省 の最 南端 の徽州地 区 は,黄
山の南 にあ り,優
れ た画 人 を輩 出 した風雅 の地 と して知 られ る。東 山魁 夷 も訪 れて描 いた黄 山は, 古 来,中
国絵 画 の重要 なテーマ の一 つ にな って い る(2)。 景徳 鎮 がや き もの の まち とな ったの は,高
嶺 とい う山 と昌江 とい う河の おか げで あ る。 市街 を流 れ る昌江 を北へ遡 る と高嶺 山が あ る。 そ こには無尽蔵 の良 質 原料 が あ り,つ
くられ た製 品 は河 に よって邸陽湖 を経 由 し長江 とい う大動脈 につ なが る0。 景徳 鎮 とい う地 名 の 由来 は,景
徳 とい う宋代 の元 号 (1004-7年)か
らきてい る。 それ まで昌南 とい う地 名であ ったが,北
宋3代
目皇 帝真 宋 (968-1022年) 時代 の景徳 年間 に,朝
廷 へ献納 す る磁 器の底 に「景徳年製」 の4字
をいれ る よ うに命ぜ られ たの が始 ま りといわれ る。景徳 とい う名 は,許
可 を うけたか,あ
るい は下賜 され た もの とみ られ る(4)。2.2.現
代 景徳鎮 の陶磁 に対 す る評価景徳鎮の現代陶磁に対する評価には
,概
して厳 しいものが少な くない。その
きわめつけとして
,加
藤卓男の次のような評価がみ られる
(5)。「先年
,私
は景徳
鎮 を訪れてびっくりした。美術館の最後の部屋に現代陶磁が並んでいたが
,見
るに堪 えない作品のオ ンパ レー ドだった。梅の一枝 を描 いて も
,微
に入 り細 を うがって描かれているが,絵
が巧妙す ぎて,絵
画 としてみ るべ きか どうかが判 然せず,
どっちつかずになっている。」 三杉隆敏 も1983年
の景徳鎮訪間記で,辛 らつな批評 を放 っている0。「ここで 非常に自慢 して案内 して見せ て くれ るのは細密画風の絵付 け,脱
胎 とよぶ薄作 り,あたか も象牙細工の ような透か し彫 りの龍頭船 など技法の極地ではあるが, 芸術的にはなん ら認め るべ きものではなかった。」 技術 と芸術の問題 「遠 い昔 にどうして,こ
の ような現代人の 日か ら見て も素晴 らしい造型の作 品が生れたのであろ うか」。世界各地の古窯址 を発掘 して きた加藤卓男 は,こ う したFli巻 (不思議 な感慨)に
とらわれ,そ
れ を解 きほ ぐす鍵 は「技術 と芸術の間 題」にあるとの見解 に至 る(7)。 その視点 はまた,景
徳鎮 にみ る過去 と現在の落差 を解 きほ ぐす鍵 に もなるに違 いない。 芸術 は,本
質的 に美的価値の創造 を目的 とす る。や きもの をつ くる場合,そ
の材質,形
状,文
様,焼
成な どについて,
まず構想 を練 ることか ら始 まる。技 術 は,こ
の発想 。構想 を支援 して,
どの ような芸術的価値 を生み出すか といっ た際の下働 き的な役割 を果 たす。工芸 とは技術のイメージ化であ り,
よき技術 な くして よい工芸制作 はで きない。工芸 に とっては,技
術の練磨が何 より大切 である。 近代以前 においては,技
術 と芸術 は不可分の一体関係 にあったが,近
代化の プ ロセスで両者の分離が進行す る。 日進月歩の科学・技術 に基づ く現代の工業 システムでは,進
歩がすべてである。 ところが,保
守的・個性的な性格 を持つ 芸術 は,本
質的に手工業的であ り,工
業 システム との乖離 は広が る一方にある。 2.3。 景徳鎮のや きもの生産 システム 徹底 した分業 システム 中国のや きもの生産の特徴 として,
まず徹底 した分業主義 をあげることがで きる。餐石 を切 り出す人,そ
れを粉砕す る人,泥
状 にす る人,輸
送す る人,型
をつ くる人,ロ
クロをまわす人,胎
土 を削 る人,燃
料の本 を切 る人,そ
れ を乾30 名古屋学院大学研究年報 燥 させ る人
,窯
の火加減 をみ る人,絵
付 をす る人,検
査 をす る人,梱
包 す る人, 顔料 をつ くる人,釉
薬 を調 合 す る人 な ど,キ
リが な いほ ど分業化 されてい る。 例 えば,明
朝 の16世
紀 中期 に,景
徳 鎮 で は「23作
」 とい う分 業制 度 が あ って, 宮廷 用 の最 高のや き もの を焼 く官窯の御器廠 では,389人
が23の
工 程 に配置 さ れ て い た こ とが記 されてい る(8)。 材料 の土作 りにあた る人はそれだ けで一生 を送 る。 ロクロを挽 く人は,毎
日 ロクロを挽 いてい る。 目をつむ って もほ とん ど同 じ形,寸
法 の ものが作 れ る と い った正確 さが あ る。絵付匠 は同 じ絵 を朝 か ら晩 まで描 いてい るので,
自然 と 現 れ る リズム感 が あ る。 窯 を焚 く人 は窯の 中の 火色 を見,火
の はぜ具合 で温度 を知 り,窯
の 中の熱 をコンピュー タで制御 して い るかの ように心得 て,火
の色 と と もに一生 を送 った。 景徳鎮 で は,
日本 の ようにあ る巨匠の作 品だ とい うだ けで,べ
らぼ うに高 く な る とい うこ とはない。や き もの は細分化 され た作業 の合作 で,一
つ のや き も のが誰の作 品で あ るか厳 密 にはいえないか らで あ る。「合作」とい う観 念が骨の 髄 まで こび りつ いて い る(9)。 職 人の移動 もあ り,優
秀 な人 を集 め るこ と も可 能 で あ った。 沈懐 清 の 『窯民 行』とい う詩 に,「 景徳 は佳 餐 を産む 器 を産 む も手 を産 まず 工 匠 は八方 よ り 来 た り」 とあ る。 つ くり手 は,八
方 よ り景徳 鎮 にや って くるの で あ る。彫塑 師 は福建省 か ら,窯
の火加減 をみ る人 は (景徳 鎮 か ら百 キ ロほ ど西 の)都
昌県 か ら,型
をつ くる職 人 は (南昌市 の 南約60キ
ロ)豊
城 県 か らの 出身者 が 多か っ た(1°)。 この徹底 した分 業主義,そ して作業 内での強 い団結が,「景 徳鎮 をひ き じめ て きた」 といわれ る。清の乾 隆 帝 (1736-95年)末
期 か ら,景
徳鎮 で罷工 (ス ト ライキ)が
始 まるが,画
工 や 梱包作業 員の リー ダー はすべ て虐殺 され,ス
トラ イキは鎮 圧 され た。 それ以来,梱
包 の 人は 白い作業 衣 を着 けて仕事 をす る よ う にな った とい う。 虐殺 された指導者 を悼 み,喪
服 の代 わ りにその ような作業 衣 を使 うようにな ったが,同
士 愛の強 さが うかが われ る。 内部 だ けでな く,梱
包 部 門 の人 は輸 送 部 門 の 人 たち と極 め て近 いつ なが りを もつ な ど,横
との連 帯意 識 も強烈 な ものが あ った。大 平天 国戦 争(1850-64年)に 参 加 した陶工 軍 が,無
類 の強 さをみせ たの は
,そ
の ような団結の 力が戦場 に発揮 され たため ともみ ら れ る(H)。 徹 底 した分 業 に基づ く大量 生 産 シス テムの思想 は,20世
紀 初頭 の米 国 を想起 させ る ものが あ る。 官窯制度 中国 で良 いや き ものが作 られ た背景 には,官
窯 の制度 もあげ られ る。 宋時代 にな る と,朝
廷 が直轄 す る窯がで き,宮
廷使 用品 を献上 す るこ とも始 ま り,開
封 (北宋 の都)や
杭州 (南宋の都)で
は,良
い土 と熟練 した陶工 を官窯 に集め て質の高 い青磁 を焼 くようにな った。景徳 年 間 (1004-7年)に
,宋
朝 は江西省 の饒 州 窯 とよばれていた窯 に宮廷使用品 を焼 くように命 じた。それ以後,こ の 窯 は 「景徳鎮 窯」 を名乗 り,元
,明
,清
時代 と官 窯 が ここに置 かれ,世
界 に誇 る中国磁 器 の最 高級 品が生産 され るようにな った(12)。 2.4。「磁 都」景徳鎮 にみ る歴 史的生命 力 中国の陶磁 器 は,長
い歴 史 を もち広 い地域 の 各地 で焼 かれたが,何
れ の窯 に も盛 衰が あ る。例 えば,宋
時代 に河北 省の 定窯 で焼 かれ た 自磁 は,中
国陶磁 史 上,最
高 の もの一 つ で あ った といわれ る。 また,宋
時代 か ら元,そ
して明時代 の初期 へ,ち
ょうど12世
紀 か ら16世
紀 の 中期 まで青磁 ばか り焼 いていた浙江 省 の龍 泉 窯 も,国
内の み な らず 中近 東 か らイ ン ド,東
南 ア ジア,朝
鮮 半 島,
日 本 に天 文学 的 な輸 出 を していた。 その他 に もいろいろな窯が あ り,あ
る時期, 非 常 に よいや きもの を産 出す る も,い
つ しか衰退 し,廃
業 にな って しま う もの が 多い。 景徳鎮 は歴 史上,戦
乱 で なん どか窯基 をこ とご と く破壊 され たが,そ
の たび ご とに甦 って きた。 明末 の「三藩 の乱」で (1674年),
また清末 の大平天 国戦 争 で は1853年
に清軍が景徳鎮 を退去 す る時,窯 基 を破壊 した。窯 を残 してお くと, その操業 に よって大平天 国軍が軍費 を稼 ぐ恐 れが あ ったか らであ る。 しか し, 窯 な どはその気 に さえなれ ば い くらで も築 くこ とが で きる。問題 は「時代 」,「人 心 」 で あ る とい う。時代 が上昇 の時 にあ り,人
心 が奮 い立 ってい る時,回
復 の ス ピー ドは早 ぃ(13)。 こ う して景徳鎮 は,多
少 の変化や断絶 が あった にせ よ,宋
時代 の 自磁,元
時32 名古屋学院大学研究年報 代 の染 付
,明
時代 の色絵 (中国 で は五彩 と呼 び カ ラフル な もの)と
続 く。 さ ら に,清
朝 で は,そ
れ までの あ らゆ る種類 の技法 を駆使 し,
さ らには粉彩,琺
瑯 彩 や銅 紅釉 系 の新 しい技 法 を発展 させ た。以 降,20世
紀 に至 って も,や
き もの 生 産 は少 しも衰 えず国 内だ けで な く海外の需要 に も応 え続 けて い る。世 界的 に み て も,こ
の ようにや きものの町 と して1,000年
にわた り連 綿 と窯の 火 を消す こ と もな く,
しか も世 界 各地 に生産 品 を輸 出 し続 けてい る窯 は,景
徳 鎮 の他 に は見 当た らない とみ られ る(14)。 中国の磁 器 が世 界 の貴 重 品 と して喜 ばれ たの は,初
め て カオ リン とい う磁 土 を見つ け,そ れ を 1,300℃ とい う高熱 で焼 成 した こ とに よる。カオ リンとい う名 称 は,景 徳鎮 の郊外 の高 嶺 山で この磁 土が見つ か りその 名が な まった こ とに由 来す る。「 白 きこ と玉 の如 し,明
る きこ と鏡 の如 し,薄
きこ と紙 の如 し,そ
の声 碧 の如 し」(15)と ぃわれ た景徳鎮 の磁 器 は,「 水,土
が陶磁 器 に適 してい る」自然 条件が技術や 人材,市
場 な ど と結 びつ くなかで可能 とな った もの で あ る。 今 も その 良質 の磁 土 が採 掘 で きる とい う豊 か な資 源 こそ,今
な お世 界 の磁 器 セ ン ターで あ り続 け られ る理 由の一つ に他 な らない。3.現
代景徳鎮 の経済・ 産業
3.1.輸
出指向型経済の発展 景徳鎮 は,面
積5,248平
方 キ ロメー トル,人
口142.3万
人 (1991年は132万
人)の
江 西省直轄都 市で,あ
る。1940年
代 後 半 の景徳鎮 は,手
工 芸 的 な陶磁 器 産業 だ けの町 で あった。 しか し,1949年
以 降の数十年 間 にわた る発展 に よ り, 陶磁 器 産業 を中心 とす る幅広 い産業 システム を有す る新 しい型の都 市 に変貌 し て い る。 近 年 におけ る開放改革政策 は,景 徳鎮 の経済 力 を強 め発展 を促 して きた。1991 年 には,市
のGNPは
2兆
860億
元,国
民収 入1兆 8,010億
元,工
業・農業 生 産 額3兆
7,290億
元 に達 し,1978年
に比べ てそれ ぞれ2.35,2.82,2.42倍
に伸 び て い る。陶磁器産業 は,現
在 の 多様 な産業構 造形 成 において主導 的 な役割 を発 揮 し,新
規 の機 械 ・ 電子・ 化学・ エ ネル ギー・ 建 築材料 産業 を よ く発達 した適正規模 産業への展開 を促 して い る。陶磁器生産 につ いては
,
日用品な ど伝統的 な製品 に加 えて,衛
生 。工 業・ 電子用陶磁 器生産 を急速 に発展 させ,幅
広 い陶 磁 器産業 複合体 を形成 して内外市場へ の供給 を保証 してい る。景徳鎮 は,I`句磁 器製 品だ けで な くその他産 業生 産物 も輸 出す るユ ニ ー クな輸 出志 向型経済構 造を育ててきた。各産業に占める輸出利益は,陶 磁器
1/3,電子製品 1/4,食 品
(お茶が主体
)3/5に達する。近年では
,私
営企業や外資企業
,外
資提携企業が急速
に発展 してきている
o6)。3.2.総
合 的 な陶磁器産業 システムヘの展開1949年
に新 しい発展の スター トを切 った景徳鎮 の陶磁 器産業 は,1950年
代 に お け る技術 革命 と80年
代 に始 まった市 の経済 改革 に よ り,生
産 や経営,哲
学 に 影響 を受 け新 分 野 を開拓 して,
日用 品か ら建 築 。衛生,特
殊工 業 用 に至 る総 合 的 な陶磁 器産業 システムヘ と発展 して きた。 景徳鎮 には,約
150の
大 。中・ 小規模 にわた る陶磁 器工場 が あ る。磁 器生産 が大 半 で あ るが,原
料探 査や鉱 山採 掘,陶
磁 器機械,耐
火物,材
料化 学 な ど多 岐 にわ た り,約
3千
人 に及ぶ様 々な科 学・ 技術専 門家 と多 くの陶磁 器熟練技 能 者 が活躍 して い る。「景徳鎮陶餐学院」 は,中
国唯一 の陶磁 器専 門大学 で あ る。 中国軽工 業部陶餐研究所 は,陶
磁 器研 究や標準検査,情
報 資料 での傑 出 した能 力で知 られ る。 さ らには,江
西 省陶資研究所,景
徳鎮 古 陶餐研 究所 も擁 し,景
徳鎮 は中国の 「 シ リコ ンバ レー」 と もいわれ る。 第6, 7次
5ヵ 年計 画の間,陶
磁 器 の技術革新 は,海
外 の最 新 設備 を輸 入 し 先進技術 を吸収 して進 め られ,陶
磁 器生産 設備 を完成 させ輸 出 を拡大 す る。1
次 エ ネル ギー供給 と大 気汚染 防止 を図 るため に,
コー クス・ ガ スエ場 が設置 さ れ た。 今 日,景
徳鎮 の輸 出用陶磁 器 は,13種
類 で200以
上 の系列, 1千
以上 の型,3千
以上 のペ イ ンテ ィングか ら成 り,国
内 は もとよ り120カ国以上 に輸 出 され て い る。1979∼91年
の 間 に,国
際賞 で は金 賞25,銀
賞6,銅
賞3,国
家賞 で は 金賞8,銀
賞4,銅
賞3な
ど多 くの賞 を獲得 してい る。高 品質,高
価格 水準 か つ広範 囲の販売 は,中
国陶磁 器 産業 にお け る景徳鎮 の主導 的地位 を強化 して き34 名古屋学院大学研究年報 た。 建 築 。衛生 。工業 用陶磁器 は
,景
徳鎮 の陶磁 器産 業構 造 にお け る重要 な構 成 部分 で あ る。1991年
におけ るタイル生 産量 は499万
平 方 メー トル で,陶
磁 器 の 高 電圧生 産 は4,874ト ンで あ る。 さ らに,衛
生,紡
織,鋳
型磁 器 製品の生産 は, よ り高 い比率 にな ってい る。 この生産能 力は,中
国の衛生 家具工 場 の主要建 設 計 画 が達 成 され る と一 層 強 力 にな る とみ られ る。科 学,技
術,社
会 の 発展 に伴 い,景 徳鎮 の陶磁 器産業 は伝統的 な生産手法 を突破 して新時代 に突 入 してい る。 この古 い磁都 において,構
造・ 圧 電・ 媒体・ 高頻 度 用や その他 の特 殊 用 を合 む 陶磁 器製 品 は,電
子工 学や航 空・薬 品分 野 に応 用 されてい る(17)。3.3.機
械 。電 子・ 化 学 な ど新興 工業 の台頭 景徳鎮 は,陶
磁 器産業 をさらに発展 させ つつ新工業領域 を開拓 し,江
西省 に お け る総合的 な工業基地 にな ってい る。 機 械 工 業 が飛躍 的 に発展 したの は,昌
河飛 行機工 場 が 巨大 なヘ リコプ ターや ミニバ ス,
リム ジ ンの生 産 を開始 した時 で あ る。 それ らの輸 送車 は,今
や ベ ス トセ ラー商品で あ る。新 しく台頭 して きた華意 電器総公 司 は,年
産30万
台の冷 蔵 庫,10万
台の エ ア コ ンを生 産 す る。 その製 品 は,省
お よび軽工 業部 か ら表彰 を受 け,香
港 や マ カオ,東
南 ア ジア諸 国 を含 む 内外 市場 で よ く売 れ て い る。景 徳鎮 でつ くられ る船 外機,避
雷機,本
工 電機,印
刷機械 は,国
内で先進 レベ ル にあ り市場 競争 力 を持 ってい る。 電子工 業 は,急
速 に発展 して 中国の生 産基 地 を形 成 して い る。 ほ とん ど全 て の部 品 (電気抵抗 器 と完成機 器 を除 く)を
生 産 し,そ
の生産 。販売・ 利益額 は 江西 省の26%,25%,30%を
占め,1,560種
類 に及ぶ軍 需 。民 需用計 器 や カセ ッ トレコー ダー,
コ ンピュー タ,電
子時計,行
政 通信機器,ワ
イア レス計 測機 器 な どを含 んで い る。 国家先瑞科学研究や重点軍事工程 に部 品 を供 給で きるため に,多
くの製造 メ ー カ は国 内市場 で主要 な地 位 を占め,党
中央 委 員 会や 国務 院, 中央 軍事 委 員会 か ら推 薦 を受 けて い る。その一部 は輸 出 され,毎 年1千
万米$以
上 の利益 を稼 ぐ。 適正規模 にあ る化学工 業 は,多
様 な種類 の生 産物 を供 給 して い る。薬 品工 業は
,化
学 製剤や総 合漢 方薬,畜
用薬 品,生
物性 薬 品 な ど110種
類 以上 の薬 品 を 供 給 す る。化学 原料 の工 場 で は,硫
酸 や苛性 ソー ダ,サ
ル フ ァ剤,ガ
ス,
コー クス,カ ル シウムカーバ イ ド,短
塩 化 ビニ ール繊 維,PVCな
ど28種
類 以上 が生 産 され る。化学工場 にお け る転写紙,液
状 金,顔
料 の生 産 で は,全
国総生 産量 の25%,30%,35%を
占め て い る。 また,化
学 肥料 や ゴム,林
産 化学 品 も生 産 して い る。その他,食
品,衣
服,包装,採
鉱 な どの工 業 も急速 に発展 して い る(18)。3.4.豊
か な農業 と国際文化 交流 景徳 鎮 は,気
候 温 和 で,適
度 な雨量,肥
沃 な田野,豊
か な森林 に恵 まれ た亜 熱 帯地 帯 にあ り,そ
の有利 な地 理環境 は,農
業経済 の発展 を もた ら して きた。 農業 に従事す る人 口は88.44万
人,耕
地 は96万
畝 あ る。主要 穀物 は米 で,年
産450万
トン,そ
の 他 に綿花,油
莱,
ピーナ ッツ,サ
トウキ ビ,野
菜,ラ
ミー な どを産 出す る。地 域 の45%を
占め る森林 の面積 は530万
畝 で,そ
の うち 119 万畝 は人工林 で あ る。毎年,3-4万
立 方 メー トル の木材 が国 に供 出 され る。副産 物 と して は,茸
類 や ロ ジ ン,桐
油,生
漆 な どが あ る。牧 畜業 は養 豚 が主 で, 2
つ の養 豚場 が大量 の痩せ 豚 肉 を輸 出 してい る。水産養殖場 は84千
畝 に上 る。大 量 の桃,梨
,オ
レンジ,栗
が果樹 園で作 られ,数
千 エ ー カーの桑畑 を持 つ養 蚕 業 は拡 大 して い る。都 市近郊 に位 置 す る とい う地 理 的 な有利 さ と豊 か な地 域 資 源 は,町
村 か らの労働 力 と結 びつ いて,郷
鎮企 業 の急速 な発展 を可能 に した。 彼 らは8万
人以上 を数 え,陶
磁 器や採鉱,建
築材 料,本
材 加工,電
子機械,衣
服 な ど30以
上 の産業 に従事 してい る。 茶,高
品質米,痩
せ 型豚 肉,茸
類,米
製 ワイ ンな どの農産物 を輸 出 して い る。 「浮紅」茶 は,中
国最上 の茶 と評価 され,毎
年2千
トン輸 出 されてい る。20世
紀 初 めのパ ナマ 国際博 覧会 で金 賞 を獲 得 し,近
年 に も外 国貿 易部,商
業 部 お よ び省か ら多 くの優秀 賞 を受賞 して い る。緑 茶 もすば らしい。「浮璃仙芝 」と名付 け られ た緑 茶 は,1991年
に (茶の生産 で有 名 な都 市)杭
州 で 開催 され た国 際茶 文化祭 で,中
国 の有 名茶 に推 薦 され た。「浮紅 」茶 の輸 出 を拡大 す るため に,
日 本企 業 との合弁会社 「洪源茶葉有 限公司」 をつ くり,1992年
5月 か ら100%輸
出向 け に生 産 して い る(19)。36 名古屋学院大学研究年報 景徳 鎮 は
,中
国 の都 市 の 中で も国際文化 交流 で は第一 の実績 を もつ。 景徳鎮 でつ くられ た陶磁 器 は,数
百年 間 にわた り,「 シル クロー ド」を経 由 して世 界 中 を巡 って きた。 中華 人民共和 国の建 設以来,
と りわ け改革 開放政策以 降,景
徳 鎮 の外 国貿易 は 目覚 し く発展 し,陶
磁 器輸 出の増 加以外 に も,茶
,薬
用 原料, 家庭 電化 製品,衣
料 な どは今や 国際市場 を 占有 し始 め て い る。1991年
の外貨獲 得 は8千
万米 ドル に達 した。景徳 鎮 は現在,100以
上 の国 。地 域 と協 力関係 にあ り,江
西省 にお け る世 界へ の重要 な窓 口にな ってい る。 重要 な輸 出品 と しての 陶磁 器 製 品 は,最
近10年
間 に3千
万米 ドル の利益 を稼 ぎ,中
国の陶磁 器経営 に お け る主導 的 な地位 を確 保 して い る。 日用 お よび装飾用 の磁 器製 品の他 に,重
要 な輸 出品 には電子 製 品 お よび茶 が あ る。茶 は年産2千
トンで そのす ば ら しい 品質,独
特 の芳 香,美
しい色 は世 界的 に有 名で あ る。近年,景
徳鎮 で は先進技 術,設
備,緊
欠原料 の輸 入が増 加 して い る。 開放政 策 の もと,景
徳 鎮 は,陶
磁 器へ の高 い評価 を利 用 して他の諸国 との文 化 交流 を一 層活 発化 してい る。景徳鎮 か らの派遣 団 は,11「界 中 を訪 問 して,磁
器 製 品の展示や磁 器生 産技 術 の実演 を行 い,陶
磁 器 に関す る国際的 な学術 会議 を開催 し,さ
らには外 国企業パ ー トナー と相互 訪 問 して い る。1990年
以来,景
徳 鎮 で は陶磁 器祭 りが毎 年 行 われ,他
の諸国 との文化・経済 。技術 の協調 関係 を強 め て い る(20)。 4。景徳鎮 を訪 ねて
4.1.景
徳鎮 市 の街 並 み と暮 ら し 4。 1。1.破
壊 か らの復興 陳舜 臣 に よる と,景
徳 鎮 に は「遺 跡 らい しい もの はほ とん どない」 とい う。19世
紀 後 半の大平 天 国戦 争 の時,景
徳 鎮 の まち は破 壊 し尽 くされ た か らで あ る。戦 闘 に よる破壊 で はな く,景
徳鎮 の労働 者 が大 平 天 国 に加担 したの に対 す る,清
朝 政 府 の報復 的 な破壊 だ った といわれ て い る(21)。 荒廃 した景徳鎮 は,官
窯 よ り先 に民 窯 が復興 す る。 アヘ ン戦 争後 に締 結 した南 京条 約 に よ り,上
海 が 開港 され,そ
この居留地 に住 む外国商 人 らが貿易品 と して景徳鎮 のや きもの を求めたか らである。その注文は きまったように,「康熙 。苑正・乾隆期の ような もの」で
,景
徳鎮の復興 は清の全盛期の佛古か ら始 まったのである。 清初の復興期の景徳鎮 も,明
朝 の万暦以前 にみ られ る技法の再興が最大の課 題 であった。それが,康
熙 。発正・乾隆 とい う清の全盛期 には,そ
の課題 を達 成 したばか りか,そ
れ以上の成果 をあげたのである。景徳鎮 は技術至上主義で あった。技術は精巧の極地 を求め る。 こうした,ま
す ます精巧 を求め るとい う 清の全盛期の姿勢 は,今
日まで受 け継がれているようである(22)。 4。1.2.1980年
前後の景徳鎮1976年
に景徳鎮 を訪れた瀬戸市の友好訪中団によると,「市民の生活ぶ りは, 戦後間 もな くの 日本の様子 を見 るよう」だ った とい う。 その2年
後の1978年
に景徳鎮 を訪れた陳舜臣は,古びた街並みの状況の 目を 凝 らす。「昌江 と高嶺の間を縫 うように して,自 動車 は景徳鎮の まちに入 りまし た。・……古びているけれ ども,生
活の息吹の感 じられ る家並みが続 きます。車 窓か らみ ると,そ
れ も傾 きなが ら,互
いに肩 を寄せ合 っている感 じです。 日用 雑貨の店,漬
物の甕で間 口がいっぱいの店,布
靴 を売 る店,
自転車修理の看板 も見 られ ます。・……さきほどか ら,車
窓に黒 い煙が見え,
ようや くや きものの まちに来た とい う気が しは じめてい ました。」(23) また,1983年
に景徳鎮 を初めて訪れた三杉隆敏 は,当
時の街並みの様相 を次 の ように記 している(24)。「広 い町 には人があふれ,材
料の磁土 を運んでいた り , 一輪車の手押 し車 に山 と積 んだや きもの を押す人,
また道 ばたの露店市にや き ものがず らりと並んだ場所 もある。そ して,町
の中心部,幅
広 い道の両側 は レ ンガ積 みの高いコンク リー ト塀で囲 まれた工場が続 くとい う町であった。高い 煙突の先か ら上 る黒 い煙 は見 え……働 いている作業員の数 はかな り多いが,工
場の内部 は,
日本の窯業工場 と比べ るともっと機械化す る余地 のあ る もので あった。」 4。1.3.2002年
の景徳鎮2002年
5月,瀬
戸商工会議 所創立55周
年 を記 念 しての景徳 鎮 市視 察 交流 団38 名古屋学院大学研究年報 図
2
景徳鎮 市の 目抜 き通 り 出所 :米 本敬治氏の撮影 (2002年 5月) に加 わ って中心 市 内 に足 をふみ いれ たが,
まさに様 変わ りの様相 であ る。市 全 域 の広 さは5,200平
方 キ ロ,総人 口は150万
人,盆地 にな って い る中心 市域 124 平 方 キ ロの 人 口は48万
人で,市
民 の生 活 ぶ りには大 きな格差 もみ られ る。市の 中心部 には現代 的 な ビルが立 ち並 び,
日抜 き通 りで は ワ ゴ ン車や乗用車 が走行 す る間 を 自転車 が走 りぬ け る。 リヤ カーや三輪 車,今
に もエ ンス トしそ うなポ ンコツ トラ ック も見か け る(図 2)。 しか し,一
歩横 道 に入 る と,今
に も朽 ち果 て そ うな,人
が住 んで い るようには見 えない民家 な どが並 ぶ。 レンガ積 みの家図
3
レンガ積 みの建物の 日立つ景徳鎮市の古 い街並 み ‖l所:米本敬治氏の撮影 (2002年 5月) が 多 く,瓦
屋根 の家 も今 に も崩れ落 ちそ うな重ね方で あ る(図 3)。 幸 い,こ
の 地 方 は地震 が ほ とん どな く,60年
前 に建 て られ た家 もあ る とい う。 龍 珠 閣 の最 上 階(5階
)は
展望 台 にな って いて,眺
望 が 素晴 ら しい。 四方 八 方 か ら市 内 を見下 ろす と,新
旧の アパ ー トな どがモザ イクの ように混在 してい る。清代 を思 わせ る ような古 び た民家 も並 ぶ (図 4)。 1日いアパ ー トは大 変貧 素 で窓 もほ とん どな く薄 暗 い感 じがす る。 中央 が庭 にな っていて,四
方 を建 物 が 囲む。現 地 のガ イ ド通訳 に よる と,今
も住 んでいて犯罪 はほ とん どない。昔 か ら住 んでお り地域 的 なつ なが りもあ ってス ラム街 にはなっていなぃ(25)。 龍珠 閣 の最 上 階か ら10数
本 の高 い煙 突 が見 え るが,その うちの2∼
3本
か ら 煙 が上 って いた。石 炭焚 きの トンネル 窯 の煙 突 で,か
つ ては800本
を数 えたが, 今 で は17本
になってい る。環境 対策 のため,2002年
12月 末 まで に全てな くし, ガス窯 に切 り替 え る計 画で あ る(26)。 来 年 にな る と,景
徳鎮 市 内で製陶工 場 の煙 突 が み られ な くな り,街
の様相 も一段 と変 わ りそ うで あ る。 工 場 での労働時 間 は,夏
7.5時
間,そ
の他8時
間で あ る。昼休 み は,夏
3時
間,その他2時
間 とゆ った りと休 憩 を とって い る。中国 で は昼 寝 の習慣 が あ り, 半時 間 か ら1時
間 ほ ど昼寝 をす るが,上
海 で は競 争が激 し くな りほ とん どみ ら れ な ぃ(27)。40 名古屋学院大学研究年報 図
4
龍珠 閣3階か ら見 た景徳鎮市街 お よび古 い家並み 出所 :愛 知 県陶磁 器工業協 同組合 『景徳鎮視 察訪 問報 告 書 ―瀬戸市 。景徳鎮市友好提携記念交流事業一』1997年 目抜 き通 りで は,ワ
ゴ ン車や乗用車 が走 ってい る間 を 自転車 が走 り抜 け,
ま た リヤ カーや二輪車 を引 く姿や ポ ンコツの トラ ックな ど も走 るな ど,そ
の交通 風 景 は多彩 で,昔
懐 か しい子 ど もの 頃 か ら今 日に至 る 日本 の数十年 間の縮 図 を み る感 が`す る。 許 愛 民景徳鎮 市長 は,景
徳鎮 陶 餐学 院の出身 (陶磁 器材料専攻)で
陶芸 家 で もあ る。許 市長 に よる と,同
市 で は10年
程 前 か ら新 しい まちがで き始 め,と く に この5∼
6年
間 に大 き く変貌 した との こ とで あ る。都 市改造の ピッチは実 に 手早 いが,こ
れ は行政側 の思 い通 りに進 め るこ とがで きるか らで あ る。 ス ラム図
5
昔 なが らの雰囲気が漂 う景徳鎮 市の 人民商店街 出所:米本敬治氏の撮影 化 した街 の住民 との立 ち退 き交渉 に lヶ 月ほ どか けた後,早
けれ ば3ヶ月,遅
くと も6ヶ月以 内 に取 り崩 す とい ったペ ー スで進 行 す る。住 民側 に とって も, 新 たな高層住 宅 に移 れ る利 点 もあ り,む
しろ歓迎 ムー ドとい う。「 さ らに都 市の 改築 に手 を入 れ たい。 こ こ数年 でが ら りと変 わ るはず。新 しい まち をつ くり, 人民政府 をそ こに移 したい」 とい う。 許 市 長 に よる と,景
徳鎮 市 の これか らの 目標 は,陶
磁 器産業文化 の伝統 を守 るこ と,経
済 の 中心地 区 にな るこ と,観
光 を整備 す るこ との3点
で あ る。上 記 の新都 市計画 も,中
国 内陸部 の経 済 中心地 区 をめ ざす 方策 の一 つ に位 置づ け ら れ る。 高度技術 開発区 を建 設 してお り,こ
こに国 内外の企業誘致 を図 る一 方, 景徳鎮 市 の西方 に は約30平
方 キ ロメー トル の新 都 市 の 開発 を計 画 してお り,来 年 にはで きあが る予 定 で あ る(28)。 景徳 鎮 で は,住
民 人 口の約 半分 が陶磁 器産 業 に関わ ってい る。一般 的 な家庭 の 月収 は5百
元(8千
円),公
務 員 は1千
元(1万 6千
円)程
度 で,陶
磁 器 関係 の技 術者 が最 も恵 まれてい る。 しか し,景
気 に左右 され る民 間企 業 の従 業 員 に 比べ て,公
務 員 の暮 ら しが最 も安 定 して い る とい う。 人民広場 はかつ て汚 か っ たが,今
で は噴水 もで きて市民の憩 いの場 にな ってい る。近 くの 人民 市場街(図 5)な どで買 い物 をす る と,ア
イス ク リー ム は1元
(16円),ケ
ンタ ッキーの コー名古屋学院大学研究年報 42
呂
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彎。
﹂員
強
1
啜 ロ 一 一 轟 需 L 会 ■ ﹁ ′て 知
ヒー は
4元
(64円),革
靴 は65元
(1,040円)だ
った(29)。2002年
5月 初 め には , 初 の フ ァー ス トワー ド店 と して ケ ンタ ッキー フ ライ ドチ キ ンが 開店 し,若
者 ら で結構 な賑 わい をみせ ていた。4.2.陶
磁器 に関わ る企 業 。大学 。名所 旧跡 「磁都」 と呼 ばれ陶磁 器の聖地 ともみな され る景徳鎮 は,陶
磁 器 に関わ る代 表 的 な企 業,研
究教 育機 関,歴
史観 光 名所 な どを擁 す る世 界的 に有 名な歴 史文 化 都 市 で あ る(図 6)。 景徳鎮 陶餐学 院 は,中
国 で唯一 の陶磁 器専 門大 学 で あ る。 長 い陶磁 器生 産 の歴 史 を もつ ゆ えに,陶
磁 器 に関 わ る興味深 い名所 旧跡 を多彩 に提供 してい る。有 名な湖 田古窯跡 の他 に,郊
外 には高嶺 村 が あ り,山
や 水 に 囲 まれ美 しい 自然観 光 名所 で,観
光 客 の関心 が高 い。英 語 名 で はカオ リン とよ ばれ る最 良の磁 土,高
嶺 土 にちなんで 名付 け られ た高嶺 村 は,多
くの陶磁 器考 古 学者や鑑 定家 を引 き付 けてい る。陶餐歴 史博 覧区域 にあ る古 窯餐廠 と呼 ばれ る窯場 で は,磁
器生 産 の伝統 的 な職 人技 を見せ るが,そ
の魅 力 に と│)つかれ そ れ を真似 して昔 の ロクロでの磁 器づ くりに挑戦 す る訪 問者が 多い とい う。陶餐 歴 史博物館 には陶餐実物 が陳列 され景徳鎮 の陶磁 器産業 史が示 されてお り,明
清朝 の手入 れ の行 き届 いた風格 あ る建 築群 が あ る。 景徳 鎮 陶 餐館 は, 3千
点 を 超 え る陶磁珍 品 を収蔵 し,芸
術宮殿 の荘厳 さを漂 わ して い る。 かつ ての官 窯で あ る龍珠 閣 は,郊
外 の珠 山の頂上 にあ り,典
型的 な古代 中国の建築文化 がみ ら れ る(30)。 筆 者 ら2002年
5月 の視察 団 は,2日
弱 の 間 に数 ヶ所 の大 学,企
業,I日跡 を見 学 した。 これ らは,景
徳鎮 のや き もの に関す るご く一部 に しか過 ぎな い。 しか も,専
門知識 や準備,見
学時 間 の何 れ も不足 して,あ
ま り理解 で きない まま足 早 に通 り過 ぎた感 が強 い。幸 い に もその後,1997年
5月 に訪 れ た愛知 県陶磁 器 工 業組 合主催 の景徳鎮 視 察団の報 告書 が入手 で き,1978年
に訪 れ た陳舜 臣の 『中国や き もの紀 行 景徳鎮 』 に も巡 り合 う。 それ らを比較 参照 して,今
回の 観 察 。理解不足 を補 いつつ,筆
を進 め た。 また今 回,ほ
とん ど見学 で きなか っ たが1997,78年
に何 らかの見学記録 が あ るス ポ ッ トにつ いては,節
を改めて と りあげ,景
徳鎮 のや き もの に関 わ る諸機 関,す
なわ ち大学や研 究所,企
業,1日44
名古屋学院大学研究年報跡などをできるだけ広 く紹介する。
4。2.1.2002年
視 察 の大 学・ 企 業・ 名所 旧跡 景徳鎮 陶甕学院 景 徳鎮 陶餐学 院 (秦錫麟 学 院 長)は ,中
国 で唯一 の陶磁 器 専 門大 学 で あ る。 山東省,河
北省 な ど代表 的陶産地 の指導者 の70%は ,同
学 院 の 出身者 との こ と で あ る。1909年
に陶餐学堂 と して設立 され,1958年
に国立大学 にな る。1966年
に始 まった文化 大 革 命 で,陶
資 学 院 は閉鎖 され,再
び 開校 に こ ぎつ け たの は1974年
の こ とで あ る(31)。 最 近,陶
餐学 院 は全面 的 に改編 され,
日常用 か ら芸術,建
築,衛
生,電
子, 工 業 用,特
殊陶磁 器 な どに至 る まで,陶
磁 器 に関す るほ とん ど全て に またが る 最 先端 の陶餐専門大学 と して生 まれ変 わ った。7つ
の学 院 (設計 。芸術,材
料 科 学・工 程,機
械 電子,工
商管 理,成
人教 育,科
学技 術,情
報工 程)と
4つ
の 学 部 (熱工程,外
国語,社
会科 学,体
育)か
らな る。学院 と学部 の違 いにつ い て は,学
院 の方 が学部 よ り規模 が大 きい。 ア メ リカ,韓
国 な ど18の
大 学 と姉妹提携 を結 び,米
欧,カ
ナ ダ,日
本,ア
フ リカな どか ら留学生 をた くさん受 け入れ るな ど国際交流 を活発 に行 って い る。 学 生 は全国 か ら募 集 して いて, 1∼ 4年
生6千
人,研
究生2千
人の計8千
人か ら成 るが,「2005年
には12千
人規模 に したい」 と秦錫麟学 院長 はい う(32)。 景徳鎮 陶甕股扮有 限公 司4工
場 が あ り,従
業 員 は1,100人 (内,デ
ザ イナー は20人
)を抱 え,景
徳 鎮 を代表 す るメーカーの一 つで あ る。海外 か らの注文品 も生産 してお り,2001年
10月に開催 され たAPEC会
議 の時 の昼 食用 お よび 夕 食 用 の食 器 は こ こで生 産 され た。 江沢 民主席 が来 た時 に使 用 した食器や,中
南海 (国宴 の 開催 され る場 所)会
議 で使 用 され た食器 も展示 され て い る。 景徳鎮 離 塑蓋廠 離塑 餐廠 は,人
形や 動植物 な ど置物 を専門 につ くる工場 で あ る。間 口は広 く ないが,奥
行 きは深 く,広
い工場 で,1978年
には約 1,200人が働 いていた。 さ まざ まな置物 がつ くられてい るが,文
化大 革命 の時代 には,製
作種類 が 限定 さ図
7
景徳鎮彫塑餐廠の展示製品 出所:米本敬治氏の撮影 (2002年 5月) れ て いた とい う。輸 出用 につ くられ る ものが 多 く,需
要者 の大部 分 は海外 に住 む華僑 との こ とで あ る。一番人気が あ るの は,子
ど もに囲 まれて あ ぐらをか い て い る布 袋 さん とい う。彫塑師 はむか しか ら福建 省の出身が 多か ったそ うで あ る(33)。 最 初 に15分
間,ビ
デ オでの説明 を受 けた後,そ こで紹介 されてい る作 品 を2 階の展示 室 (図7)で
見学 した。2001年
5月 末 には江沢民 主席 も同企廠 を見学 した とい う。前 」1場長 で あ り中国工芸美術大師 (人間国宝)の
劉 延長 に面 会 で きた。 展示 室 には 手作業 を主体 と した手の込んだ製品が 多 く,伝
説や 民 話,神
話 を基 に素材 が選 ばれ てい る。透 か し彫 りな どが精巧 で,天
女 と花,寿
老 人, 動物 な どの芸 術 的 な もの,現
代 的 な もの と して は革 命期 の 出来事 を主体 に老農 兵 の闘 う姿像 な どがみ られ る。工場 内 は,
きめ細 かい手仕事 には若 い従業員 が た くさん従事 してい るが,手
のかか る もの は年配者が時 間 をか けてつ くってい る。成形 は,石
膏 型 を使 った手 お こ し式 で,両
方の型 に土 を押 し込 み左右 の型 を合 わせ て形 を作 る方法 で あ る。 その後 で,部
品 (一部 手捻 り)を
接 着 し,細
部 はへ らで彫 刻 して い く。一部 の製 品 には レー ス も使 用 され て い る(図 8)。 全 体 と して,非
常 に手 間 のか か る作 業 で あ る(34)。46 名古屋学院大学研究年報
図
8
景徳鎮彫型企litの作業工程①作業場の風景
②型おこし成形工程
③磁器 レース成形工程
④ヘラ仕上工程
⑤部品付け仕1l li程
48 名古屋学院大学研究年報 図
9
景徳鎮 古窯餐廠 の手づ 〈り工程 ①上練 り工程 ②手ロクロエ場 ③乾燥場 出所:愛知県陶磁器工業協同組合,前
掲書 陶盗歴 史博 覧区 および古窯 甕廠 景徳 鎮 市 の南 西 の茶畑 に囲 まれ た楓樹 山地 区 にあ り,や
き もの とお茶の販売 で昔儲 けた金持 たちの建物 を現 存保 存 してい る。 明,清
時代 の景徳 鎮 の代表 的 な家や工場 を復元 した もので,一
部 は本物 を移転 して い る。清代庭 園式邸 宅 を 模 した建 築物 の 人 口を入 る と,正
面 の奥 に陶 餐博 物館,右
手 には古窯餐廠 (窯 場)が
あ る。博物館 には周辺 か ら発掘 され た明や清時代 の古陶磁 や製造工程 を④水拭き工程
⑤削 り工程
50 名古屋学院大学研究年報
⑦裏印貼 り工程
⑧施利II:程
⑩焼成品 ⑪染付工程 説明す る陶板 な どが展示 されている。 古窯餐廠 は
,清
時代の皇室 に納め るための陶磁器 を焼 く御用工場 を再現 した ものである。古工芸品,作
業場,古
窯室な どが完璧 な姿で保存 されている。伝 統 を守 り,技
術の保存 とその手法 を観光客に も見学 させ ている。 ここでは,水
簸,
ロクロ,削
り,絵
付など一貫で作業 している(図 9)。 初期段階では大変重 要な土練 りは,若
い青年の手でみご とに行われ る。楠で作 ったlm程
の大 きな ロクロを使 って,長
い棒で左日 し (日本では右回 し)に
回転 させ なが ら成形す る。成形 された素地 は,独
特 のカ ンナで削 られ,陰
千 しして絵付 を待つ。胎土52 名古屋学院大学研究年報 図
10
柴窯の建物 と焼 成用の薪 ―景徳鎮古窯餐廠 ― 紫窯の建物 焼成用の薪 出所 :愛 知県陶磁器工業協同組合,前
掲書 が非 常 に薄 く,透
か して見 る と内側 か ら絵柄 が見 え る「薄胎磁 」 とい う自磁 を 削 る。10代
か ら釉薬掛 けを続 けてい る職 人の,釉を掛 け る動 きには無駄 が ない。 若 い女性 が絵付 を してい るが,下
書 き もな く直接 素地 にす ばや く絵付 を してい く。 団員 (技能士)も
舌 を巻 くほ どの見事 さで あ る(35)。 薪 に よる窯場,柴
窯 は 景徳鎮 に現在2つ
しか残 っていないが,そ
の1つ
が ここにあ る(図10)。 これ ら は,中
国建 築 史上 にお いて も稀 に見 る古工 業建築 で あ る との こ とで あ る。広 い敷地 内には売店 も
3∼
4ヶ 所 あ り,出
来上が った製品を見学者 に売 り込んでい る。古陶磁の写 しである「傍古品」 も売 られている。 龍珠閣 中幸北路の西側の小高い台地 に立つ3重
の塔で,明
。清時代の官窯跡 に1990 年 に再建 された ものである。塔 内は5階
建 てになっていて, 1∼ 2階
は周辺か ら出土 した磁器が展示 され, 3階
は発掘情景がパ ネル展示 されている。磁器類 は,割
って埋め られていた もの を掘 り出 し丹念 に再構成 してつな ぎ合わせ復元 した ものである。小 さな破片をつな ぎ合わせ てい く作業 は膨大である。龍の形 が 多いが,皇
室の使 っていた紋が龍であったか らとみ られ る。龍 は,中
国のや きものの代表的な ものの一つである。贈答・購入者の階層 によって3種
類 に分 けられ る。その違 いは足の指 と爪の本数で,皇
室用は5本
,官
僚用は4本
,民
間用 は3本
という。 元の龍 は,後
の明のそれに比べて,イ
キがいい といわれて きた。描かれた龍 は,た
いてい4爪
か3爪
である。元では,龍
鳳の模様 は皇帝にのみ許 された。 しか し,そ
の「龍」 とは5爪
2角
の もの と解 され, 4爪
や3爪
の龍 は禁制 に該 当 しない とされた(36)。 景徳鎮陶甕館 景徳鎮陶餐館 は,市
街 を見下ろす小高い場所 にある2階
建て(一部3階
建て) の建物で,1954年
に建設 された。 ホテル (景徳鎮合資賓館)か
ら池のそばを降 りて間 もな くの所 にあ り,瀬
戸市 と景徳鎮市 との友好提携調 印 (1996年 10月) が行われた場所で もある。中型の陶磁器博物館で,古
代か ら近代 まで景徳鎮で つ くられた陶磁器が展示 されている。時代 ご とに系統立てて陳列 されていて非 常にわか りやすい。 陶餐館 は2部
に分かれている。1部
はいわば陶餐歴史博物館, 2部
は現在の 景徳鎮のす ぐれた作品 を示 している。第 1∼3室 (1部
)に
は,景
徳鎮の歴 史 が生み出 した品々が陳列 されている。第1室
には新石器時代か ら元代 までの, 縄文土器や古越州青餐,唐
代の三彩,宋
代の黒釉 。青花・影青,元
代の青花 。 釉裏紅,第
2室
には明代の青花 。釉裏紅・五彩が,第
3室
には清代の種 々の品 が並んでいる。54 名古屋学院大学研究年報 陳舜 臣が 『中国や き もの紀 行 景徳鎮 の旅』 で語 るの は
,景
徳鎮 の磁 器 の1 千年 にわた る壮 大 な歴 史であ り,こ
の陶餐館 を主要 な舞台 に した もので あ る。 年代 順 に配列 され た第1∼3室
展示 品 に沿 っての詳細 な叙述 の 中か ら,各
時代 の特徴 を と りあげてみたい。 北 宋の景徳鎮 は,す
ば ら しい青 自磁 を生 み出 したが,陶
盗館 に もす ば ら しい 影青 が展示 され て い る(37)。 宋磁 の世 界の あ とに,染
付 とい う意表 外の新機軸 が 現 れ た。元 の染付 は雄 渾 な筆致 で,
ぎっ しりと模様 がつ け られて い る。 それ に 比 べ て,明
の 宣徳 にな る と,模
様 は整 理 され て空 間がず っ と増 え,筆
致 は流 麗 で あ り,宋
か ら元 にか けての変化 が よ くわか る。 空間が増 えたの は,一
つ には その胎土が元代 よ りも自 く美 しくな ったこ とに もよる とみ られ る(38)。 五 彩 す な わ ち赤絵 の登場 に よ り,展
示 品 は明 あた りか ら華や か にな る。 赤絵 の本格 的 な 登 場 は,成
化年 間(1465-87年)か らで,美
しいブル ーの染付 の時代 か ら,多
彩 な赤絵時代 を迎 え る(39)。 時代,人
心 が 高揚 す る時,衰
微 す る時,つ
くりだ され る作 品 に まともに反映 され る。乾 隆(1736-95年 )以降の清朝 衰退期 には,景
徳 鎮 のや き もの は悪 くな り,む
しろ卑 しくな った(40)。 第4∼ 7室
(2部
)に
は,現
代 陶餐部門の製品 (薄胎 餐 。青花)が
展示 され て い る。館 内には各種 の書物や陶磁 器の販売 もしてお り,こ
こで購 入 した2冊
は小論 をま とめ る上 で貴重 な手がか りとなった。4.2.2.1997年
の視察記録 にみ る研 究所 。企業 。名所 旧跡1997年
5月 の景徳鎮視 察訪 間 は,96年
10月 に調 印 され た瀬 戸市 と景徳鎮 市 の友好提携 記念事業 と して行 われ た もので あ る。愛知県陶磁 器工 業協 同組合 が 中心 とな り,陶
業 界 同十 の交流,や
き ものの技術 と情報 を得 るため に企 画 され た もので,訪
問団のメ ンバ ー も,陶
磁 器製造業実務者 を中心 にア ドバ イザ ー(技 術・デザ イ ン)を
加 えて構 成 されてい る。約20ヶ所 にわ た る研 究所,企
業,名
所 旧跡 を精 力的 に訪問 しての記録(41)は,近
年 にお け る景徳鎮 の陶磁器産業・技 術 をみ る うえで貴重 な資料 で あ る。その資料 に基づ き,2002年
の景徳鎮視察訪 間で は見学 。交流 で きなか ったス ポ ッ トを中心 に紹介 したい。中国軽工兌会 陶甕研 究所 市 内 中心部 にあって
,敷
地 面積96千
m2,建
物面積34千
m2,固
定資産1千
万 元 の規模 を誇 る。1954年
設t以
来,指
導 的 な役割 を果 た し,そ
の優 れ た技術 陣 容 と先進 的 な設備 条件 に よって,科 学技 術面 で景 徳鎮 の発展 を リー ドして きた。 職 員数 は284人
で,内
60%弱
が技術専門員で あ る。 中国軽工 兌会 陶餐研 究所 は,中
国軽工業 部 直属 の唯一 の陶盗研 究所 で あ り, 科 学技術 と工 芸美術 の総合的 な研究機構 を有 し,全
国陶盗産 業 の科 学技 術 セ ン ター にな って い る。研 究所 には,23の
科 学研 究 室 とlo数
室 の画室や彫塑 室が あ る。 高級職称 を持つ の は35名,そ
の 内2人
は中国工芸美術大師(人間 国宝的 な 存在)に
選 ばれ てお り,中
級役称64名,初
級役称67名い る。研究所 が所有す る機 器類 は330台
余で,そ
の 内,国
家統 官最 新精 密機 器 が13台あ り,図
書館 に は国 内。国外の専門図書 を3万
冊 以上 所蔵 して い る。設立 以来,研
究 成果 は 400 項 目以上 にのぼ り,科学技 術 と工 芸 芸術 の国際交流 も,日本,朝 鮮 をは じめ1lヶ 国 と行 って い る。 本館2階
の広 い展示室 には,中
国工 芸 美術大 師や 高級 美術 師 の作 品が展示 さ れ て い る。 中で も, 2人
の 中国工 芸美術大師 (王錫 良,張
松 茂)の
作 品 は,優
れ た技巧 と優美 な風格 で早 くか ら内外 に聞 こえてお り,人
々 に よ く知 られてい る。王錫 良大 師の餐板 画「黄 山」は,「 連 な る山々が高 くそび え,雲
が た なび く 優 美 な境 地 を描 き,技
巧 を弄せ ず して黄 山の特 色 を よ く表 して い る」。また,張
松 茂 大 師 の作 品 は,「極 め てユ ニ ー クな芸 術風格 で,一
般 の粉彩 常用 の画法 か ら 抜 け出て墨線 句勒 を用 いて い る。 その描 く梅 石 は雄 渾玲龍 と して お り,中
国画 の筆意 を具 え また装飾 効果 もお さめて い る」 と,研
究所 は絶 賛 す る。 江 西 省陶甕研 究所 江西 省陶盗研 究所 は,1954年
に開設 され た。この研究所の正式 名称 は,「江西 省 陶餐工 業科 学芸 術研 究所」 で,技
術 の研 究 と芸術 の研 究 を兼 ね てい る。 文化 大 革 命時代 の1968年
に解散 を命 じられ,再 開 したの は72年
の こ とで あ る。1978 年 の資料 で は190人
(技術 関係68人
,美
術 関係28人
,残
りは作業者 お よび研 修 生)の
人が働 いてい る。解決 困難 な問題 の研究や新技術 の開発,技
術情 報 の 収 集 。発信 セ ンターの他 に,伝
統技法 の次世代 へ継承 も,こ
の研究所 の大 きな56 名古屋学院大学研究年報 役割 で あ る。美術 関係者
28人
とい うの は,す
ぐれ た伝統 の持 ち主 で あ る(42)。 鮮 や か な緑 に包 まれ た3階
建 ての建物 が,河
西省陶餐研究所 で あ る。 その2 階 は,各
部屋 ご とに仕切 られ, 1人
1部
屋 にな って い る。原型,成
形,下
絵, 上 絵 な どに分 かれて,各
部屋 で別 々に研究や作業 に従事 してお り,視
察 団の 中 の技 能士や 実務者 の質 問 に も丁寧 に応 えていた。建物 の1階
は,研
究員が制作 した作 品が展示 され てい る。劉刷 天所長 に よる と,研
究所 で活躍 してい る若 い 研 究員 たちの 中には,
日本 に留学 して学 んだ人が 多 くいて,所
長 自身,
日本 を3回
訪 問 し研究施 設や メーカー を見学 した とい う。 三 宝石 甕砂鉱 山 および水簸工場 景徳鎮 市 よ リバ スで約 40∼50分
,町
を出て清流 の河沿 いに山道 を走 る。小 さ な村 を幾つか過 ぎる と,川 沿 いに藁葺 きの水簸場 が一定 の間隔 を置 いて現 れ る。 水 車 を利 用 して,ゆ
っ くりとカオ リンを粉砕 してい る。一瞬,時
間が止 まった よ うな感覚 に襲 われ る。麓の村 の生活 も,村
を悠 々 と流 れ る水量 豊か な川 も, 今 の 日本 で は考 え られ ないほ どゆ っ くりしたス ピー ドで過 ぎてい く。 そ う した 窓越 しの風景 に見入 ってい る うちに,鉱
山 にた ど りつ く。バ ス を降 りて,鉱
山 の 人 口へ と,か
な りきつ い勾配 を急 ぐ。 数分 で採掘場 の入 口に着 く。 入 日の鉄格子 の扉 は,閉
め られ た ままで あ る。 この鉱 山は国営 で あ るが,従
業 員 に給 料が払 えな くて最近,休
業 し閉鎖 中 との こ とで あ る。採掘 の坑 道 は地 下 へ500m掘
り進 ん で お り,採
掘 した餐石 は ト ロ ッコに乗せ,専
用 の大 型 ウ イ ンチで行 き上 げ る。 水簸工場 は,帰
路 の途 中にあ る。上 述の,藁
葺 き小屋 の水簸場 で ある。老 人 が一 人ハ ンマーで餐石 を割 ってい る。それ を40年
間続 けて い る とい う。大 きな 餐石 をハ ンマ ー で1個
ず つ小 さ く割 りなが ら,良 質の ものだ け選別 してい くが, 手先 の動 きは素早 く正確 で あ る。川 に沿 った土場 には石 で組 んだ 臼が あ り,水
車 を使 った杵 でゆ っ くりと掲 き粉砕 す る。非 常 に細 か い粉末状 に磨 り潰 され る。 片 隅 には 2∼3m四
方 の水簸 の漕 が あ り,段
差 をつ けた3漕
式 にな って い る。も う一 方の片隅 には,藁
葺 き屋根 用 の藁 の東が大量 に積 んで あ る。藁葺 きにす る の は,鉄
粉 防止 の ためで あ る。 山 を下 った村 の 中には,大
きな水簸工場が あ る。瓦 葺屋根 の工 場 に入 ってい図
11
景徳鎮 宇宙餐廠 の工場 。作業風景 ①工場内:天枠で 素地を運ぶ作業員 ②巨大な煙突 ③70m3の トンネル窯 出所 :愛 知県陶磁 器工 業協 同組合,前
掲書58 ④生素地の皿 ⑤型乾燥機 ⑥ベル トコンベアーの前で 従事する久r‐作業員 名古屋学院大学研究年報 ‘ 量 質
⑦施釉li程
⑧ L絵転写貼│,工程
60 名古屋学院大学研究年報 くと
,電
動式 ダ ンバ ーが40基
ほ どあ り,猛
ス ピー ドで掲 いてい る。上述 の老 人 一 人の水簸場 とは,様
変 わ りの光景 で あ る。工程 は同 じで あ るが,働
く人 は若 い男女 で,ほ
とん どが手作業 であ る。 景徳鎮 宇 宙甕廠 輸 出用食器 主体 の国営大 手 メーカーで,1958年
に設立 され,従
業 員 は 1,800 人,工
場敷 地 は24千
m2で
あ る。生産 品 目は輸 出用洋食器,日 用食器,テ
ィー・ コー ヒーセ ッ ト等 で,輸
出先 は主 と してア メ リカで あ る。生 産 は月200万
個, 月商 は 4.5∼5千
万 円位 で,従
業 員 の就労 は完 全週体 2日 制 で あ る。 敷地 内 には大 きな工 場 が立 ち並 び,そ
の一 角 に直径 7∼8m,高
さ60m位
の 巨大 な煙 突 が3本
建 って い る。 竹の天袢 を担 いで素地 を黙 々 と運ぶ従業員が工 場 の間 を行 き交 う。 成形工 場 は,
自動 ロクロ,ベ
ル トコンベ ア をは じめ近代 設 備 が揃 ってお り,働
く従業員 はほ とん どが若 い女性 で あ る。焼 成窯 は,重
油焚 きで70m3が
3基
あ る。絵付工場 で は,プ
レー トに転写貼 りを してい る。日本 で はゼ ラチ ン貼 りで あ るが,ア
ル コール貼 りで作業 は非 常 に素早 い ものの,
よ く み る と転写がずれていた り重 な った りしてい る。 出荷場 で は,大
勢 の女性 た ち が検 品 し品揃 えを して い る。積 み上 げたプ レー トを見 る と,ひ
ず み は一 日でわ か る ものが 多い (図 11)。 事 務所の2階
にあ るサ ンプルル ームで,洋
食器 メーカーの団員 いわ く。「私 の 会社 で 10∼20年
前 に製造 して いたの と全 く同 じものが並 ん で い る.′」。 生産 や 問題 点 につ いて は,労
働 者 と技 術者,知
識 層の3グ
ル ープ で共 同研究や協議 を して進 めてい る。一番大 きな課題 は,製
品 の歩留 ま りで あ り,欠
点 はひずみ, 変形 な どで あ る とい う。 景徳鎮 建 国甕廠 数年前 まで は従 業員2千
名位 の大 規模工場 で,釉
裏紅,辰
砂 の製品 を主 に生 産 して い た。1997年
現在 は,製
造 を止 めて お り,在
庫 品の販 売 の み行 って い る ようで あ る。建物 の2階
にあ る展示場 に案 内 され,展
示 製 品 を見学 した。形状, 色,柄
な ど今一 つ団員の興味 を引かなか った ようで あ る。 江 西 省陶甕工業公 司 製造 品 目は染 付 製 品 で,特
に古宮博物館 の レプ リカ (複製 品)が
主体 で あ る。①寺院を思わせる明青園資廠の建物 図